しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

May 2022

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2日目,2022年5月18日水曜日。
若いころ,スキーに夢中になったことがあって,長野県や新潟県では飽き足らず,北海道にも何度か行きました。
そのころに知ったのが「蔵王の樹氷」で,一度は行ってみたいと思っていたのですが,果たして蔵王は遠く,しかも,蔵王という漠然としたところがどこなのかあまりよくわかりませんでした。知っていたのは,宮城蔵王と山形蔵王があるということくらいでした。で,これまで行くことはありませんでした。
今回山形に行くことになっても,やはり,蔵王は遠い世界で,まさか蔵王まで足をのばすとは思っていませんでした。
昨日,山形駅の観光案内所で,「蔵王,近いですよ」と言われて驚きました。山形市からは30分程度で行くことができるのです。そして,蔵王というのはひとつの山ではなく,蔵王連峰全体のことだと知りました。
  ・・
さて,2日目と3日目,どちらの日に南と北,どちらに行こうかずっと迷っていました。
明日2日目の予報では,とても天気がよいということと,帰りの「おいしい山形空港」が山形市より北にあることで,2日目は蔵王を含めて南に行って,3日目は空港に近いから北に行くことに決定しました。
ということで,2日目の早朝6時前にホテルを出て,まず,蔵王に向かいました。

ところで,私が宿泊している東横インですが,サービスで朝食がついています。今回のホテルでは朝6時30分からでした。
これまでにも数多く日本各地の東横インに泊まっていますが,概して,この朝食,混み合うのです。そして,まったくもって楽しくなく,むしろストレスが溜まるのです。
東横インの欠点は,エレベータが1基しかないので急いでいる朝に限ってなかなか階下に降りられないことと,決して広くない食堂での朝食です。私はかねてから,東横インの朝食は有料にして,必要のない人は安価にすべきだと思うのですが,それはそれとして,たかが数百円…。
そんなわけで,このごろは,東横インで朝食は食べないことにしました。それくらいなら近くの吉野家にでも寄って朝食を食べたほうがずっと快適なのです。
今回は,ホテルを出発する時間が午前6時前なので,昨晩買っておいた朝食を部屋で食べました。

私は,まだほとんど車の走っていない早朝,山形市から国道13号線を南に走って,まもなく蔵王エコーラインに入りました。
蔵王エコーラインは山形県と宮城県を結ぶ道路で,昭和37年に開通。全長40キロメートルで,この道が蔵王連峰最高峰にあるお釜を通るということでした。また,お釜を見るには,蔵王刈田リフトに登るか,蔵王エコーラインから蔵王ハイラインという有料道路に入る必要があることをパンフレットで知りました。
まあ,行ってみればどんなところかわかるでしょう。その程度のいい加減さでした。
  ・・・・・・
蔵王連峰は,東北地方の中央を南北に連なる奥羽山脈の中にあって,宮城県と山形県の両県南部の県境に位置する連峰で,奥羽山脈で繰り返された火山活動によって形成された複合火山群です。
蔵王連峰は山々の集まりの総称で,蔵王山という単独峰があるわけではありません。
蔵王連峰の中で,宮城県側の部分が「宮城蔵王」,山形県側の部分が「山形蔵王」ともよばれます。また,お釜などがある部分を中央蔵王とし,ここに1,841メートルの熊野岳と1,758メートルの刈田岳があります。
蔵王山の名称は蔵王権現がこの山に祀られた事に由来します。
  ・・・・・・

道路は次第に標高を高くしていって,走りながら,私はこれまでに行ったアメリカのいくつかの国立公園を思い出していました。モンタナ州のグレーシャー国立公園もこんな感じだったなあ,コロラド州のロッキー山脈国立公園はもっと雄大だったなあ,などと…。
しかし,根本的に何かが違う。
それが何なのか考えていました。そして,思いあたりました。
アメリカには国立公園法があって,こうした場所はどこも厳格に自然が守られていて,民間の売店やら食堂やらはまったくないのです。ゴミを捨てることもゆるされません。それに比べて,日本では,民間のレストランやら何やらがあって,それもまた,あるだけならともなく,潰れて廃墟になっていたりして,日夜,自然破壊にいとまがありません。
まったくもって,こうしたことが日本の自然に汚点を残しているんだなあ,と痛感しました。
それはそれとして,雄大な景色は,日本の景観としてはそれなりにすばらしく,一応,私は満足しました。というか,このご時世,満足せざるをえません。

お釜に接続するリフトの乗り場あたりは,まだ雪がたくさんありました。まだ時間が早く,リフトは動いていなかったので,お釜を見ることをほぼあきらめました。
リフト乗り場を通り過ぎたところからが宮城県です。
このあたりで引き返そうと思ったころ,有料道路の蔵王ハイラインの入口がありました。
まだ朝早く,有料道路のゲートは無人で,でも,閉鎖されていることもなく,結局,お金は払おうにも払えず,つまり,必要ありませんでした。ここから蔵王ハイラインを走ると,お釜まで行くことができるらしいのです。
やがて駐車場に到着しました。
私ひとりかと思ったら,すでに結構な車が停まっていました。これから登山とか縦走をする人たちのようでした。この景色,なんとなく,ハワイ・マウイ島のハレアカラ山頂に至るビジターセンターの駐車場を思い出しました。蔵王の方が標高が1,200メートルも低いですが…。
車から出ると,とても寒く,防寒具を必要としました。昨日登った立石寺は暑くて大変だったし,今日は寒くて大変です。昨日とは気温差30度もありました。寒さの中を少し歩くと,お釜を見ることができるビュースポットに到着しました。
お昼間ならすごい人なのだろうと思いました。大自然と親しくするには,ほとんど人のいない早朝6時までが勝負です。
  ・・・・・・
お釜は,蔵王連峰の刈田岳,熊野岳,五色岳に囲まれた火口湖で,周囲が約1キロメートル,直径が325メートル,水深が27メートルです。エメラルドグリーンの湖面は季節や気候,太陽光線の角度によって色を変えるので「五色湖」とよばれています。
  ・・・・・・
ということで,長年の夢だった蔵王も,お釜も,期せずして,この旅で来ることができたのでした。

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山形旅行について書いていたのですが,興味がふくらんで横道に逸れてきました。それは,山形の歴史をこれまでほとんど知らなかったことに加えて,幕末のこの地方の複雑さや置かれた立場,そして,多くの悲劇を知ることになったからです。
そこで,今回,幕末の山形の各藩のことをまとめておくことにします。
これこそが,旅をすることの意義のひとつだと思うからです。

●庄内藩=鶴岡市・鶴ケ丘城:酒井家17万石【幕府側】
 1868年(慶応3年),上山藩などとともに江戸薩摩藩邸への討ち入りを命ぜられて実行,戊辰戦争の口火を切るとともに,この焼き打ちが新政府軍による徳川家武力討伐の口実や,奥羽鎮撫総督による庄内藩攻撃の口実ともなりました。
 戊辰戦争で,松平権十郎を中心とする派閥が新政府軍を攻撃し藩論を幕府側の佐幕派へ統一し,会津藩とともに奥羽越列藩同盟の中心勢力のひとつとなりました。さらに,会津藩と庄内藩との間で会庄同盟が締結され,新政府軍と対峙することを誓いました。戊辰戦争では,新政府軍に与した新庄藩や久保田藩領内へ侵攻を開始,新庄城などを落としました。
 庄内藩は酒田の豪商・本間家の莫大な献金を元に最新式兵器を購入し軍事力強化に努め,各地の国境において新政府軍を退け連戦連勝でした。さらに北進し,久保田城へと迫りますが,新政府軍が最新兵器で武装した佐賀藩兵を援軍として投入したために戦線は膠着状態となりましたが,米沢藩が降伏したため,軍の撤退を決意。さらに,会津藩が降伏したことを受けて庄内藩も恭順しました。
 1868年(明治元年)領地を没収されますが,本間家を中心に藩上士・商人・地主などが明治政府に多額の献金をして,1870年(明治3年)酒井家は念願の庄内領へ復帰しました。
 庄内藩が比較的軽い処分で済んだのは,西郷隆盛の意向があったといわれ,この後,庄内地方では西郷隆盛が敬愛され明治初期には薩摩藩へ留学生を出すまでに至りました。
  ・・
●新庄藩=新庄市・新庄城:戸沢家6万石【幕府側⇒新政府側⇒幕府側⇒新政府側】
 1867年(慶応3年)の薩摩藩邸焼討に派兵しました。
 戊辰戦争では,新政府軍と共に庄内藩領内へ攻め込みますが,逆に迎撃され惨敗しました。
 奥羽越列藩同盟が締結されるとこれに参加,庄内藩に協力して新政府軍を圧倒しましたが,秋田久保田藩が新政府軍へ寝返ったことを機に,奥羽越列同盟から離脱しました。
 新政府軍を国境で防いでいた庄内藩はこの離脱に激怒し,新庄藩に攻撃を加え城を攻め落としました。城下町の大半が焼失し,藩主・戸沢正実は秋田久保田藩へ落ち延びました。
 廃藩置県で新庄藩は廃藩となり新庄県となり,同年,山形県に編入されました。
  ・・
●天童藩=天童市・天童城:織田家2万石【新政府側⇒幕府側】
 1868年(明治元年),藩主・織田信学は新政府から上洛の命を受けますが織田信学は病床にあったために,嫡男の織田信敏が代理として参内しました。このとき,新政府から奥羽鎮撫使先導に任じられ,天童藩重臣の吉田大八が奥羽鎮撫副総督・澤為量を先導として庄内藩と戦いましたが大敗を喫し,天童城下は庄内藩により焼き払われました。
 奥羽越列藩同盟が結成されると天童藩も同盟軍として参戦せざるを得なくなり,吉田大八は切腹させられました。新政府軍が会津藩を降伏させて侵攻してくると天童藩は降伏。廃藩置県により天童藩は天童県となり,同年,山形県に編入されました。
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●山形藩=山形市・山形城:水野家5万石【新政府側⇒幕府側】
 奥羽越列藩同盟に加わりましたが,米沢藩,仙台藩が降伏すると山形藩も1868年(慶応4年)に新政府軍に降伏しました。
 藩主・水野忠弘が13歳と若年だったため,26歳の家老・水野三郎右衛門元宣が一切の責任を負って処刑されました。以後,新政府軍直轄の天領となったため,山形藩は廃藩となりました。
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●上山藩=上山市・上山城:松平家3万石【幕府側】
 戊辰戦争が始まると奥羽越列藩同盟に参加,また,北越戦争にも巻き込まれ派遣しましたが,米沢藩が新政府に恭順すると軍を引き上げ降伏恭順しました。
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●米沢藩=米沢市・米沢城:上杉家14万7千石【幕府側⇒新政府側】
 保科正之の旧恩があるとして幕府側となり,藩主・上杉斉憲,嗣子・上杉茂憲は京都警衛の功績により知行高は19万石近くまで増加しました。
 戊辰戦争がいよいよ東山道に波及しはじめると,米沢藩は新政府軍と会津藩の間に立って仲介に努めますが,その行動が新政府側から疑いの目を向けられると奥羽越列藩同盟の盟主となり,新政府軍に敵対しましたが,苦戦し,東山道先鋒総督府から恭順を薦める書状によって,米沢藩は降伏。その後は新政府軍の先鋒となりました。

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山形市の市街地,アメリカならいわゆるダウンタウンですが,そこを歩いていたときに目に留まったのは,水野三郎右衛門元宣の像でした。この像の説明を読んでいて山形市の歴史に興味をもったので調べてみました。
山形市の歴史は次のようでした。
  ・・・・・・
1356年(延文元年)に斯波兼頼が羽州探題として入部し,その子孫が最上郡の名称をとって最上氏を名乗るようになりました。
1601年(慶長6年)に最上家11代目当主の最上義光が山形を拠点に最上・村山地方を統一し,現在の基礎となる山形城と城下町の町割を整備しました。ときに57万石とも,実質は100万石ともいわれる藩でした。
1622年(元和8年)最上義俊のとき,最上騒動とよばれるお家騒動で改易となり,旧領には新庄藩,上山藩,本荘藩,鶴岡藩など様々な藩が立藩され,山形藩はこのときわずか20万石となりました。鳥居忠政が山形藩主となりましたが世継ぎがいなかったりと,それ以後は藩主が定着せず,幕末まで,保科家,松平家など複数の領主の入れ変わりが続きました。
1767年(明和4年)に秋元家涼朝が入部し,以降,秋元家が4代78年間と最も長く在封しましたが転封されました。
1845年(弘化2年),天保の改革に失敗した水野忠邦が失脚したことによって、子の水野忠精が山形藩に左遷され,版籍奉還まで水野家が続くことになりました。最終的には,山形藩は5万石の小藩でした。
  ・・・・・・
このように,山形藩は領主が頻繁に入れ替わり,また,領地も歴代領主の飛び地領などが入り組んで石高が減少するなど,大藩のような城下町的な文化は育ちませんでした。

また,水野三郎右衛門元宣については,つぎのように書かれてありました。
  ・・・・・・
水野三郎右衛門元宣は1843年(天保14年)浜松に生まれ,4歳のときに水野忠精の国替えにより山形に移住しました。
やがて戊辰戦争が勃発し,藩主は山形を離れて京都や江戸で軟禁され,弱冠26歳であった家老・水野三郎右衛門元宣が指揮をとり,山形藩の保全を守り切りました。
最初は新政府側として庄内藩と戦いましたが,その一方で,京都に拘束されていた藩主・水野忠精は老中だったので,山形藩は「山形藩は本当に新政府側か? 寝返るのではないか?」と常に疑いの目で見られていました。新政府軍の攻撃がはじまったとき,仙台藩や米沢藩などの大藩の間にあって,山形藩は苦渋の決断で,新政府側から寝返って奥羽越列藩同盟に加盟することになりました。
奥羽越列藩同盟は,はじめは優勢でしたが,離脱した各藩が次々に新政府軍に降参。ついに山形藩も降参しました。
戦争後、新政府から反逆首謀者を問われた際,水野三郎右衛門元宣は「山形藩の責任はすべて自分ひとりにあり」との嘆願書を提出。その結果,水野三郎右衛門元宣が首謀者として罪人となりました。
  ・・・・・・
このような犠牲の上で山形藩を守った水野三郎右衛門元宣の功績が,山形市を県庁所在地としたということです。

では,ここからは,前回書いた「県名と県庁所在地名が同じ県とそうでない県があるのはなぜか?」の話題の続きです。
明治新政府が廃藩置県を行ったとき,新政府側(=官軍)に属した藩と幕府側(=賊軍)に属した藩をひとめでわかるようにと,新政府側は県名と県庁所在地名を一致させ,幕府側は不一致としたという説があるのですが,山形県は幕府側だったのにもかかわらず,県名と県庁所在の地名が一致しているのです。
それは,山形県最大の城下町であった米沢を故意に県庁所在地名から外すことで県勢を分散させようとしたというのが理由だそうです。
また,「ブラタモリ」で,日本の中心といわれた山形県の海側にある酒田市がなぜ県庁所在地でないのか?  という話題が2018年9月29日の放送でありました。
酒田はかつて「西の堺,北の酒田」とまで称された町でした。酒田は最上川の水運の集積地であり,山形県の内陸部が主産地の紅花の主要輸出地でした。さらに,酒井のあった庄内藩は天領の米を守る任務をもっていました。
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幕末,新政府側の薩摩と長州は東北諸藩を征討する目的で奥羽鎮撫使を派遣し,天領米を接収しようとして庄内藩との戦いに発展しましたが,そのときに新政府軍の奥羽鎮撫使先導代理のを務めたのが天童藩の家老であった吉田大八守隆でした。結局,庄内藩は賊軍として朝敵となり,その結果,県庁所在地になることができなかったというのです。
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なお,幕府側であった福島県の県庁所在地がなぜ福島市なのか? このことはここでは書きませんが,これもまた調べてみるとさまざまな説があって興味深いものです。

調べれば調べるほど興味深くなってきました。そしてまた,こうした歴史を知れば知るほど,日本は陰険な国だと実感します。
私は,幕末,東北地方の多くの悲劇をこれまで知らなかったわが身を恥じました。
歴史は「勝てば官軍」で,こうした真実が隠れてしまいます。学校でもほとんど学びませんし,NHK大河ドラマの幕末もまた「勝てば官軍」側からのものがほとんどです。そして,坂本龍馬の活躍だけがいつも目立つわけです。
幕府側から描いたNHK大河ドラマとしては,新選組を主題とした2004年の「新選組!」が印象に残っています。また,奥羽越列藩同盟を描いたものとしては,2013年の「八重の桜」で会津が舞台となったことがあったのですが,当時の私は興味がなく見ませんでした。
そんななかでも,私が強く記憶に残っているのは1977年に放送された「花神」です。この作品では,当時33歳の高橋英樹さんが演じた奥羽北越同盟を画した越後・長岡藩の河井継之助の悲劇的な最期が描かれていました。

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私が山形に行くというと,多くの人がどうして? と聞くのです。それは,私の住む愛知県からそれほど山形県というのはなじみがないからなのです。行ったという人もほとんど知りません。
  ・・
さて,ここで少し話が逸れます。
山形県の県庁所在地は山形市,現在の人口は約25万人です。
実は,日本海側にある府県で、海側に県庁所在地がないのは京都府を除き山形県のみなのです。 
県名と県庁所在地名が同じ県とそうでない県があるのはなぜか? という疑問を子供のころに思ったことがあるのですが,それ以来忘れていました。今回調べてみると,その理由は明治政府の意地悪だということがわかりました。
1871年(明治4年),明治新政府が廃藩置県を行ったとき,新政府側(=官軍)に属した藩と幕府側(=賊軍)に属した藩をひとめでわかるようにと,新政府側は県名と県庁所在地名を一致させ,幕府側は不一致としたという説があるのです。それが真実ならきわめて日本らしい陰険さでしょう。
しかし,山形県は福島県とともに,幕府側だったのにもかかわらず,県名と県庁所在の地名が一致しているのです。
…このことの続きは次回。

さて,天童市から南に,私は車で山形市に向かっています。
やがて山形市の市街地が見えてきました。駅前は新しそうでした。それは,山形新幹線ができたときに整備されたからでしょう。
私の宿泊先である東横インは山形駅の西側にあって,その途中に山形城があったので寄ってみました。四国地方とは違って,東北地方は幕末の動乱のときに新政府側でなかったので,根絶やしにされ,どこもほとんど城郭は残っていないのですが,山形城もまた同じでした。
城跡を少し散策をして,車に戻り,ホテルに行きました。
車を停め,チェックインを済ませ,市内歩きがてら夕食をとることにしました。
  ・・
山形駅に観光案内所があったので,そこでいろいろと情報を集め,明日からの予定を決めることにしました。なにせ,行きたかった立石寺も天童市もすでに行ったので,このあと何をするかまったくわからなかったからです。
親切な係の人がいろいろと教えてくれました。
そこでわかったのは,県内,どこも思ったほど遠くないということでした。南の方は,蔵王はすぐそこだし,米沢市も遠くない,しかも,その途中に上山市もある。北西に行けば,最上川の舟下りもできるし,羽黒山まで足をのばすこともできるということでした。
幸い,というか,私は晴れ男なので,明日からの2日間はもちろん天気がよく,そのふたつの地域をどの順で行くか,ということだけが課題として残りました。最後に山形市内の様子を聞いて,観光案内所を出ました。

山形市の繁華街は駅の東側ということだったので,駅を越えて,そこまで歩きました。
それなりの都会の繁華街で,とてもいいところでした。夕方は散歩に最適です。
しかし,問題は,適当な食事をするところがないということでした。あったのはおそば屋さんとラーメン屋,そして,飲み屋ばかりでした。そういえば,山形県はラーメンの消費量が日本一らしいと聞きました。おそばはお昼に食べたので,また,という気にはなりませんでした。また,私は酒は強いのですが,旅先で酒を飲む習慣はありません。
ということで,適当な食事をするところもなく引き返し,ついに,駅の構内にあったラーメン屋で中華料理を食べることになってしまったのでした。
私が泊まる東横インの道路を隔てた向こう側にマックスバリューがありました。この最強のスーパーマーケットがあったのが幸いでした。そこで,ホテルに戻る前に,飲み物と明日の朝食をマックスバリューで買いました。

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人間将棋は天童市の「天童桜まつり」で毎年4月に催されるイベントです。
将棋を戦国時代の戦に見立てて,戦国時代の兵士や腰元に扮した人間が巨大な将棋の駒となって将棋盤を模した「戦場」で相手の軍と戦うものです。戦の指揮はゲストとして招待されたプロ棋士や女流棋士が務めます。 
江戸時代,将棋駒の生産で知られた天童藩ですが,近年は将棋駒の約95パーセントががこの地域で生産されていることから,将棋による町おこしの一環として,その目玉イベント人間将棋が行われるようになりました。
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人間将棋は毎年春に行われるので,春に忙しい棋士は出場できません。
藤井聡太竜王が順位戦A級になったことで,来年の春には,名人戦の挑戦,そして,名人位獲得となれば,この先名人戦の行われる春は日程の都合がつかなくなる,ということで,今年2022年4月17日に行われた人間将棋では,最後の機会かも,ということで藤井聡太竜王が対局者として出演することになったそうです。
そこで,これまでは誰しも見ることができたのですが,観戦者が殺到するといけないからと,予約制となりました。
観覧者600人の応募枠に1万人超の応募が殺到したということです。私も勢いで応募をしたのですが,当然,落選しました。当選するとは思わなかったのですが,応募しなかったことで後悔したくないという理由で応募してみたのです。
しかし,もし当選したとしても,応募したころは,どうやって天童に行くのかもまったく知りませんでした。当選したらどうしようと思っていました。
実際は,先に書いたように,名古屋から山形まではFDAでわずか50分,また,空港から会場までも近く,日帰りが十分可能でした。今回,私が人間将棋の1か月後に天童に行ったのは,落選したからではなく,その前から行くことを計画していたからです。

立石寺に行ったあと,再び天童を通って宿泊する山形市のホテルまで行くことにしました。
その折に,将棋まつりの会場に寄ってみました。
将棋まつりが行われる場所は,天童市の南の舞鶴山山頂に整備されたところということでした。思ったよりけわしい舗装された山道を車で登ると,広い駐車場,そして,その向こうに開けた場所があって,そこに人間将棋のための将棋盤と観覧できるような階段状の高台がありました。
舞鶴山は,昔,天童古城があったところで,今は山全体が公園として整備されていました。
人間将棋が行われるころは一面桜が咲き誇ります。今度はぜひ,そのころに来てみたいと思いました。
  ・・
山を下りて,天童の町に車を停めて,少し歩いてみました。
天童の町は,歩道に詰将棋が書かれてあったり,橋に将棋の駒をかたどったモニュメントがあったりしました。
私が思うに,いくら将棋がブームとはいえ,将棋人口は知れています。そして,何があるかといっても,将棋駒作成の実演をやっているお店があったり,天童駅前に将棋資料館があったり,土産物として将棋駒があるくらいのものなので,将棋による町おこしには限界があるように感じました。この町は,天童温泉としても有名なので,それも加えて,もう少しなんらかの工夫があるといいなあ,と感じました。

再び車に戻って,山形市に向かうその途中に,天童織田の里歴史館があったので寄ってみました。
この建物は1879年(明治12年),東村山郡役所として作られた洋風建築で,現在は資料館となっています。また,この辺りは美しい町並みが続いていて,とても魅力があるところでした。
今年の将棋まつりをニコニコ動画で見て知ったのですが,天童藩は織田家2万石です。私の住む愛知県からこんなに遠いのに,織田信長ゆかりの町だということが驚きであり,不思議な縁を感じました。
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織田信長が1582年(天正10年)の本能寺の変で自害しのち,次男の織田信雄が織田家の跡を継ぎました。織田家は現在の群馬県にあった小幡藩や,現在の山形県にあった高畠藩を治めたのち,1831年(天保2年)に,高畠藩主だった織田信美が天童に入り,織田家の天童藩が成立しました。
織田信美は,わずか2万石の天童藩の財政再建には苦労し,うまくいかなかったそうですが,当時流行していた将棋の駒を武士達に作ることを推奨し,これが現在の「将棋の町・天童」の基礎となりました。
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立石寺もまた,日本の観光地,温泉街のようなものと同じでした。
私は「おいしい山形空港」から天童市を通り立石寺にたどり着きましたが,立石寺はJR仙山線の山寺駅から簡単にアクセスできます。地図で見るとよくわかるのですが,山形市の緯度は仙台市と同じほどです。福島市からY字のようにして,北西に行くと山形市があり,北東に行くと仙台市があります。そして,仙台市と山形市が仙山線で結ばれているのです。
そこで,東京から立石寺に行くには,山形新幹線で山形まで行ってそこで仙山線に乗り替えて山寺駅へ行くこともできますが,東北新幹線で仙台まで行ってそこで仙山線に乗り替えて山寺駅へ行く方法もあります。電車なら,山寺駅から門前町までは5分ほど歩くと着きます。
山寺駅には改札を入らなくても行くことができる展望台があって,そこに登ると立石寺の五大堂や開山堂が眺められということだったので行ってみたのですが,それがどこかわかりませんでした。すると,地元の人が親切に教えてくれました。山形の人はみなとても親切です。

さて,車でやってきた私は,先に立石寺に登ってから,下山して車を停めたところにあったおそば屋さんで板そばを食べました。
板そばは山形名物ということです。
板そばは,昔,大きな長い板や木箱にそばを盛りつけ,農作等の共同作業や集会後に振舞ったのが由来とされていて,本来は,大きな木箱に盛られた山形風田舎そばを分けあって食べられていたそうです。
これは,一緒に食べた人との,仕事や人間関係のご縁が,水がこぼれ落ちる「ざる」ではなく,早く「板」につきますように,そしてまた,細く長くそばに居られますように,といった縁起を担いで振舞われたというように,縁起のいい締めの食べ物とされているそうです。
山形そばは二八そばで,私が普段食べているざるそばとは少し違いました。山形そばは,少し固く太く,そこで,噛めば噛むほど味が出ます。つゆは薄めの味つけでそば全体をそばつゆに漬けて食べるということです。

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立石寺はどこにもあるような,いわゆる日本の観光地でした。
麓の門前町にあった駐車場はどこも500円だったので,適当に車を停めて,まずは山頂までの登山です。車を停めたところにあったおそば屋さんで地図をもらい,簡単な説明を聞きました。
奥の院まで行って,そこからさらに歩くと五大堂というところがあって,そこからの見晴らしが一番だといわれました。

まずは門前町をずっと歩いていって,登山口に着きました。
この日はツアー旅行客や修学旅行生で一杯でした。私が着いたのは午前11時過ぎでした。多くの観光客や修学旅行生はもっと早く来るようで,幸い,ほとんどの人はすでに降りるところだったら,すれ違いになりました。私が降りてきたお昼を過ぎには,もう,ほとんど人はいなくなりました。
登山口から少し登るとあったのが根本中堂でした。
根本中堂は1356年(延文元年)の再建だそうで,堂内には比叡山延暦寺から移されたという法灯が千年以上にわたって燃え続けていました。
そこから登山がはじまります。
山門をくぐると,この先は極楽という浄土口です。その場所に姥堂がありました。かつては,ここで参拝者は身を清め,白装束に着替えたのだそうです。
その先にあったのがせみ塚。松尾芭蕉が誰しもが知るあの句をしたためた短冊を納め,石塚を立てたと伝えられる場所です。そこから急坂になって,見上げると1848年(嘉永元年)に再建された仁王門がありました。さらに石段を上り詰めると,奥の院,大仏堂に到着です。大仏殿の本尊は5メートルほどの金色の阿弥陀如来像です。

さて,ここから右手に少し下ったところにあるのが,写真にある有名なお堂なのですが,それは本殿ではなく開山堂とその左の小さな納経堂でした。しかし,多くの本に載る立石寺の写真だけからは,この開山堂こそが本殿のように誤解をしてしまうわけです。私は謎が解けた気持ちでした。
そして,開山堂からさらに細い道を通って着いたのが五大堂でした。五大堂は五大明王を安置し天下泰平を祈る道場として建てられたという舞台式のお堂で,この舞台からの眼下の眺めが絶景でした。
というわけで,私が憧れて,やっと行くことができた立石寺もまた,行ってみなくては本当の姿はわからないのでした。
登るのがたいへんかな,と来るまえは心配したのですが,それはまったくの杞憂に終わりました。

ところで,この立石寺,有名なトリビアがあります。
実は,立石寺の山頂から麓まで,40年前には滑り台があったそうです。行きはたいへんでも帰りは楽に滑り台で,とかいう発想で作られたもので,奥の院から山麓までムシロのようなものをお尻の下に敷いて下りることができたということです。しかし,けが人続出で死者まで出て,すぐに閉鎖になってしまったといいます。
その滑り台の残骸が今も残っているということで,それを探した人のブログがあります。
私が先日行った京都愛宕山のケーブルカーの廃墟といい,日本人はこういう,神仏に手を合わせればあとは傍若無人,あほなことをしては自然を破壊することが得意な民族なのです。

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 大相撲夏場所が終わりました。
 今場所はテレビ観戦でした。そこで,今日のはじめから3枚の写真は昨年の名古屋場所で写したものです。
  ・・
 大嫌いだった白鵬が土俵を去ったので,再び大相撲中継を見るようになりました。とはいえ,解説が北の富士さん以外のときは,私は,英語モードに切り替えて見ています。そのほうが快適だからです。
 今場所はものすごくおもしろい場所でした。幕内上位はほとんど実力の差がなく,どの取組もどちらが勝つのかわからなかったし,しかも,どの力士もそれなりに個性があって好感がもてるので,どちらも応援したくなるからです。まるで学生相撲選手権みたいでした。
 実際は,体調が万全ならば横綱照ノ富士が抜きん出ているのでしょうが,私はアンチ実力者です。なので,照ノ富士が先場所は全休,今場所は序盤で3敗したからこそ楽しめました。照ノ富士が白鵬みたいなら,私はまた見るのをやめます。

 と,ここまでは前置きで,朝日新聞の5月21日のbe版「今こそ!見たい」に歴代横綱の読者によるランキングが載っていました。今日はそのお話です。
 こうしたランキングは読者の年齢によって知っている横綱も違うので,一概に評価はできませんが,それは別としてなかなか興味深い記事でした。
  ・・
 私が子供のころ,横綱といえば大鵬と柏戸でしたが,大鵬は強すぎました。で,おもしろくありませんでした。しかし,当時,父親は双葉山のほうが絶対に強かったと言っていました。私はそんなものかと思いましたが,双葉山は私の子供のころは時津風理事長で,時津風部屋の名古屋の宿舎で歩いている姿を見たことはあれど,相撲を取っている姿は映像でしか見ていないので実感がわきませんでした。また,柏戸は勝っても負けても土俵から落ちていくのでケガで休場ばかりでした。
 大相撲というのは単にスポーツというだけでなく,いかにも日本らしき価値観である「品格」やらがその存在の意義だということなので,その「品格」やらが実際は何なのかはわからねど,そうした「品格」やらも考慮してのランキングなのでしょう。ということで,私もまた,そうした側面から考えてみます。つまり,強ければいいってもんじゃない,というわけです。
 記事によれば,ランキングの第1位が千代の富士,第2位が大鵬,第3位が北の湖でした。それに関して,やくみつるさんの感想が載っていて「やや意外」と書かれてありました。しかしまあ,やくみつるさんがいかに相撲好きとはいえ,私より若いから,3歳のころから父親に連れられて大相撲を見にいっていた私が知るような,大鵬,柏戸の全盛期なんてほとんど知らないでしょう。「柏戸のつま先立ち」と書かれてありましたが,やくみつるさんの抱く大鵬や柏戸の姿はビデオでその取組風景を見ただけだろうに,と私は思いました。

 千代の富士が第1位なのは,体が小さいのにもかかわらず強かったから,ということでしょう。名古屋場所の宿舎が私の家の近くだったので,私は,北の富士が横綱だったとき,そして,千代の富士がまだ関取りにもなっていないころから目の前で見ています。小さな相撲取りで,横綱になるような器には思えませんでした。それが突然覚醒しちゃったのです。
 強い力士はきらいな私ですが,それだから千代の富士は大好きでした。とはいえ,どういうわけか,というより,解説で人気なので,強くもなかったのに第10位に入ってしまった千代の富士の師匠の北の富士が私は最も好きだった横綱です。「品格」という感じではないですが,これほどかっこいい横綱はほかにいませんでした。特に土俵入りは最高にかっこよかったのですが,その完璧な映像がどこを探してもみつからないのが残念です。その一方で,相撲自体はほどほどに弱く,初日に負けるともうあとはガタガタでまったくダメでした。しかし,その反対に,調子に乗ったときのここ1番はめっぽう強く… といった,人間味あふれ,ムラっ気だらけだったところも最高でした。
 近年は,稀勢の里も大好きでした。もし,白鵬がいなかったら,おそらく稀勢の里はあと5年早く横綱になっていたことでしょう。これが相撲協会にとって不幸でした。
  ・・
 ところで,現在は,この先,だれが横綱になるのか全く先が読めないのですが,私は,千代の富士に似ているといわれる若隆景に大いに期待してます。もっとも横綱らしい横綱になる感じがします。多くの相撲ファンもそう願っていますよ。また,琴ノ若が琴桜になるのも期待しています。
 でも,豊昇龍かなあ? ならば朝昇龍を思い出す。それは絶対にいやだなあ。

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  ・・・・・・
山形領に立石寺と云山寺あり。
慈覚大師の開基にして,殊清閑の地也。
一見すべきよし,人々のすゝむるに依て,尾花沢よりとつて返し,其間七里ばかり也。
日いまだ暮ず。
麓の坊に宿かり置て,山上の堂にのぼる。
岩に巌を重て山とし,松柏年旧,土石老て苔滑に,岩上の院々扉を閉て物の音きこえず。
岸をめぐり,岩を這て,仏閣を拝し,佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ。
  閑かさや岩にしみ入る蝉の声
   「奥の細道」松尾芭蕉
  ・・
山形に立石寺という山寺がある。
慈覚大師の創建した寺で,とりわけ清く静かな地である。
一度見るほうがよいと人々が勧めるので,尾花沢から逆戻りした。その間は七里ぐらいの距離であった。
日がまだ暮れていなかった。
麓の宿坊に宿を借りて,山上の堂に登る。
岩に岩を重ねて山となっており,松や柏などが樹齢を重ねて,土石も古びて苔が滑らかに,岩山の上の支院は扉を閉じていて物音が聞こえない。
断崖を巡り,岩をはい,寺院を参詣すると,景観はひっそりとしていて心が澄んでいくことがわかる。
  ・・・・・・

このだれしもが知っている立石寺ですが,教科書や参考書などに載っているが,今日の1番目の写真です。そこで,立石寺のイメージができあがるわけです。
私もこの写真をみて憧れました。
とほうもない岩山を登るとこの写真のようなお堂があって,それこそが立石寺だと。
私はずっとそう思い込んでいました。そこで,なんとか体力があるうちに一度は登ってみたいものだと長年思っていました。
そんなわけで,この春,京都の愛宕山とともに立石寺に行くことにしたのですが,すでにこのブログに書いたように,愛宕山はとても大変だったので,はたして立石寺に登ることができるかどうか心配になりました。しかし,さらに調べると,愛宕山に比べれば,立石寺はわけないようだったので,安心してむかうことにしたのです。

  ・・・・・・
立石寺は山形市にある天台宗の仏教寺院です。山寺の通称で知られていますが,詳しくは宝珠山阿所川院立石寺といいます。本尊は薬師如来です。
寺伝では860年(貞観2年)に清和天皇の勅命で慈覚大師が開山したとされています。
  ・・・・・・
1689年(元禄2年)に松尾芭蕉が旅の途中で訪れたことで,あまりに有名です。現在この寺が栄えているのも,松尾芭蕉の功績が非常に大きいのでしょう。
私も,そうでなければ今回行くことはなかったに違いありません。

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小さな「おいしい山形空港」でした。まるで,アメリカの小さな町の空港のよう。
私にはモンタナ州ビュートの空港ほどに思えましたが,多くの人はビュートなんていっても知らないだろうから,これではたとえになっていませんな。しかも,山形県自体もまた,私の大好きなモンタナ州みたいなところでした。
私は,こうして空港でレンタカーを借りて自由気ままに旅をするのはアメリカでは慣れているのですが,日本ではまれなので,どうしてもアメリカと比べてしまいます。
人混みの嫌いな私にはストレスのないすばらしい旅になりそうな予感がしました。
空港内にレンタカー会社のカウンタがありました。私が借りたのはオリックスレンタカーでした。理由は安かったことで,たいして期待もしていなかったのですが,ほぼ新車でした。新型コロナワクチン3回接種だと1,000円分のQUOカードがもらえました。ワクチン接種証明がはじめて役立ちました。
いよいよ出発です。

私がこの旅で行きたかったのは天童市と立石寺だったので,まずはそのふたつの場所をめざすことにしました。また,今回2泊するのは山形駅近くの東横インだったのですが,これもまた安かったから選んだだけのことで,私は,その位置関係すら知りませんでした。まあ,「おいしい山形空港」を使うのだから,山形市のホテルなら便利だろうと,それだけでした。
ところが,「おいしい山形空港」から山形市までは意外と遠く,その間に天童市と立石寺があるのには驚きました。ということで,まず,天童市に行くことにしましたが,天童市の町中にはすぐに到着しました。
天童市内を走っていると,いろんなところで将棋の駒の形をした看板があったりして,将棋が町おこしをしている様がよくわかりました。
とにかく,どこかに車を停めなければならないのですが,天童市将棋資料館という道路標示を目当てに適当に走っていくと,JR天童駅に着きました。天童市将棋資料館はJR天童駅にあるのでした。
駅の右手に駐車場があって,1時間無料だったので,そこに車を停めました。

ホームページには次のようにあります。
  ・・・・・・
天童市将棋資料館は,全国の将棋の9割以上を生産する将棋のまち天童のシンボルとして1992年にオープンしました。小さな将棋駒には大きな歴史とロマンと伝統と技術が息づいています。伝統の技と将棋のルーツ,将棋の歴史,天童がなぜ将棋駒のまちになったのか,人間将棋の開催,タイトル戦の歴史を学ぶことができる資料館です。
天童将棋駒は平成8年国の伝統的工芸品の指定を受けています。
  ・・・・・・
日本のこういった博物館は,アメリカのそれとは違って,概して期待はずれに終わるものですが,天童市将棋資料館はなかなかのものでした。

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1日目,2022年5月17日火曜日。
2年ぶりに飛行機に乗りました。行先は「おいしい山形空港」です。
私の行きたいところリストの残りも少なくなってきたのですが,その中で現在最も行きたいと思っていたのが山形県。その目的のひとつは山寺といわれる立石寺,そして,もうひとつは将棋のふるさと天童市でした。
数年前までは旅は日常茶飯事だったのですが,しばらく遠ざかっていたら,そうした感覚を忘れてしまったようで,いろいろと戸惑いました。しかも,海外の旅行は慣れていたけれど,国内の旅行は逆に不慣れでよくわからないことも多く,ガイドブックを見ても距離感がつかめないので,日程が決まりません。そこで,何をするかは行ってから考えることにして,とりあえず2泊3日と決めて,レンタカーと宿泊するホテルを予約しました。

これまで山形県は行ったことがありませんでした。また,どうやって行くかもわかりませんでした。
はじめは自宅から車で行こうとも思ったのですが,さすがに遠すぎてやめました。列車を使うには東京を経由しなければならず,かなり時間もお金もかかります。
調べて行くと,FDAという格安航空が県営名古屋空港から「おいしい山形空港」まで運行していることがわかりました。しかもかなり安かったので,それを利用することにしました。
セントレア・中部国際空港ができて以来,それまでの名古屋国際空港からほとんどすべての航空会社は移ってしまいました。そして,名古屋国際空港は県営名古屋空港と名前を変えました。しかし,セントレアまでは結構遠く,国際線ならともかく,国内線を利用するだけなら,県営名古屋空港のほうがずっと便利です。しかも,空港はすいていて,駐車場も余裕があります。
現在はFDAだけが県営名古屋空港から,私の利用する山形をはじめとして,青森,花巻,新潟,出雲,高知,福岡,熊本といった,名古屋から列車では不便なところに運行しています。なかなかいい行先を設定しています。私が日本国内で旅したいところ,リピートしたいところは,東北地方と四国地方。なので,FDAは最高です。これから贔屓にします。

定刻の午前9時15分に6割程度の乗客を乗せて旅立った飛行機は曇り空をずっと飛行しました。途中,飲み物とパンが出ました。わずか50分のフライト,「おいしい山形空港」に着陸する少し前雲が切れて,眼下に会津磐梯山と猪苗代湖がきれいに見えました。いつものごとくとてもついています。
やがて着陸しました。
山形の空港は,名称を「おいしい山形空港」といいます。名前の由来はホームページに次のように書かれてありました。
  ・・・・・・
我が県は四季の変化があざやかで,冬の雪はやがて豊かな湧き水となって肥沃な土壌を潤し,年間・昼夜の温度差が大きいことで,米をはじめとする農産物の栽培に適した条件を備えた地として広く知られております。
(中略)
「おいしい」という言葉には「味がよい」という意味だけではなく,「好ましい」「見事だ」という意味があります。「食,景色,祭り,温泉などすべてがおいしい」そんな思いを込めて愛称を「おいしい山形空港」に決定しました。
  ・・・・・・
なかなかいいセンスです。すてきな名前です。

FDAは「フジドリームエアラインズ」(Fuji Dream Airlines Co., Ltd.)が会社名です。
2007年,静岡市の地場物流関連企業「鈴与」が単独で参入して,2009年から運航を開始したということです。
今回はじめて利用しましたが,スタッフも親切だし,とても感じのよい航空会社でした。
私がこれまで利用した格安航空会社はスカイマークとジェットスターでした。スカイマークは今回のFDA同様とても感じがよくこれからも機会があれば利用したいと思っているのですが,ジェットスターにはいい思い出がありません。やたらと遅れるし何やかやと別料金が発生するしサービスは悪いしスタッフの対応も悪いし,私は使いたくない航空会社です。
それにしても,FDAを利用して名古屋から山形に行くのが,新幹線で名古屋から東京へ行くより運賃は安く所要時間が短いのにはおどろきました。
今まで,山形がこんなに身近なところだったとは知りませんでした。これもFDAのおかげです。

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 生まれたときからずっと名古屋市に住み,名古屋城を見慣れていた私は,地元の尾張徳川家は,あまりに身近で,その歴史的遺構を訪ねる気もありませんでした。
 それでも,もし,名古屋城が第2次世界大戦で戦火に遭っていなかったら違ったかもしれませんが,鉄筋コンクリートの天守閣をみたところで,感動もありませんでした。
 そしてまた,尾張徳川家の菩提寺である建中寺も,普段から目にしているので,わざわざ境内に入ったこともなく,郊外にある定光寺もJR中央線で通っても,行くこともありませんでした。
 そこで,一度は,ということで訪ねてみました。
 
 徳川家康の9男徳川義直は1607年(慶長12年),父徳川家康の命で尾張国の大名となり,名古屋城を居城としました。61万9500石の石高を領し徳川将軍家に連なる御三家の筆頭で,最高の格式を誇っていました。
 徳川義直は学問を好み,儒教に傾倒して文治政策を推し進めたそうです。
 徳川義直は,1650年(慶安3年)に江戸で没しますが,生前,とても鷹狩りが好きで,特に定光寺の裏山が好きだったので,その場所に墓を作ることを遺言し,定光寺東北の山上に造営されました。
 廟域は周囲に瓦葺土塀を巡らせ,正面中央に正門である竜の門を開き,石敷の参道正面に焼香殿を,焼香殿の東に宝蔵を配し,宝蔵の東には殉死者の墓所を設けてあります。
 定光寺は名前だけは有名ですが,訪れる人も少ないようで,ひっそりとしていますし,それほど管理が行き届いているとも思えませんでした。

 定光寺は臨済宗のお寺で,徳川家の宗派浄土宗ではありません。
 徳川義直の葬儀が行われたのは相応寺で,徳川義直の母である相応院(お亀の方)の菩提寺でした。しかし,尾張徳川家の菩提寺とすることは出来ないので,尾張藩第2代藩主徳川光友が,1651年(慶安4年)に建中寺を創建しました。
 建中寺は,尾張徳川家先祖代々の菩提寺として,また尾張藩すべての人々のこころのよりどころとするために,境内地約五万坪,約165,000平方メートルの敷地に建立し,弘経寺の成譽廓呑上人を招請して開山しまた。
  江戸時代は別格本山として,塔頭寺院と末寺を有していましたが,大政奉還によって1872年(明治5年)に別格本山から知恩院の末寺へと降格させて今日に至っています。
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 「まいにちドイツ語」は週の3日,月曜日から水曜日は初級編,そして,木曜日と金曜日は応用編となっています。初級編はそれなりにわかるので,なんとかうまい勉強法がないのかな,と考えたのは応用編の方です。
 勉強不足の私が語るのはおこがましいのですが,この講座は,まるで工夫が足りない,つまり,30年も昔のような講義内容なのです。自分で辞書をひいたり書いたりして予習や復習をしなさい,ということだとはわかっているのですが,今の時代,もっと効率のよいやり方があるに違いない,と私は思うわけです。
 失礼を承知でいえば,この応用編,大学を退官したような先生が,それぞれの先生に内容もやり方もすべてお任せ定食で,お好きなように3か月を担当しているだけに思えるのです。そこで,すでにドイツ語がある程度できる人にはそれでもいいのでしょうが,私のような,苦手なできの悪い生徒には,まったくもって効率の悪いものと化しているのです。
 そりゃ,わからない単語をすべて調べて,まず予習して,聴き終えたら復習をして,ということなら当然意義があるのでしょうが,そうした私の高校生時代の英語と変わらぬ方法は,現代には似合いません。これでは30年前の方法です。大学の語学系の授業は今もこのようなものなのでしょうか?

 そもそも,今は,私のiPhoneに入っているTranlatorというアプリで本文をカシャと写せば,すべて訳してくれちゃいます。そんな時代なのですが,私は,まず,テキストをデジタル化するために入力することにしました。日頃使っているテキストは,デジタル版もありますが,書き込むのに便利なので紙ベースのものをつかっています。そのうちデジタル版のデータに電子ペンで書きこむように変えるかもしれません。
 そんなわけで,相変わらず原始的な方法でテキストのデータを直接タイピングしているのですが,そうしている理由のひとつは,こうしてタイピングをすることでスペリングを覚えるのに役立つからです。そこで必要だったのは,キーボードをドイツ語化することでしたが,ここでわかったおもしろいことは,英語とドイツ語のキーボードは「Y」と「Z」が反対だということでした。これは使用頻度の違いからくるものだそうです。さらに,「ü」「ö」「ä」「ß」といった文字を打つためにキー配列が変わっているということでした。これだけでも勉強になりました。
 そして,次に,デジタル化したテキストの本文をGoogle翻訳を使って英訳しました。ドイツ語から日本語よりもドイツ語から英語のほうが理解しやすいからです。そして,ドイツ語の文章から動詞を赤色に塗ることにしました。
 今のところ,はじめたのはその程度の方法ですが,こうした工夫をして思ったのは,語学の学習もまた,今の時代にふさわしいやり方に変えることが必要だなあ,ということです。


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 私が日々,勝手に忙しくしているもうひとつの原因はドイツ語です。とはいえ,やっているのは,月々580円の紙ベースのテキストを購入してNHKラジオ第2放送の「まいにちドイツ語」を聞いているだけですが…。
 テキストはデジタル版もありますが,私があえて紙ベースのものを購入するのは気軽に書き込めるからです。しかし,使い終わったものが結構スペースをとり,しかも処分する気にもならないので不便なこともあります。
 番組名のように,毎日となると継続するだけでも結構大変ですが,私は,継続することだけは得意です。それより問題なのは,いくら継続しても一向にモノにならないことです。
 現在は,決められた時間に聴かなくても,ネットラジオで聴けるので便利になったのですが,これもまた,私の性分で,1日に1回分を聴けばいいのに,まとめて1週間を1度に聴いてしまうのです。これではダメです。
 そこで,こういうものは,少しずつ,無理なくやることが大切だと今更ながら気づきました。で,反省して,1日に1回分だけを聴くように変えました。

 テキストに「読者のページ」というのがあって,聴いている人が寄せた便りが載っています。それを読むと,多くの人が定年後の楽しみとして聴いているようです。
 本来は,大学生が聴くべきだと思うのですが,今どきの学生はそうではないようです。
 まあ,私のような不良老人の楽しみとしては,高額の若返りサプリなどを購入するよりずっと安価で,かつ,充実した時間が過ごせるので,そうした人が多いのでしょう。
  ・・
 はじめは,まったくマスターする気もなく,単なるボケ防止ではじめたわけです。ドイツ語を選んだ理由は,オーストリアを旅行したときにドイツ語の必要性を感じたことなのですが,再びドイツ語圏に出かることがあったときに,今日の写真のようなチケットに書かれたドイツ語が不自由なく理解できればいいなあ,という程度の動機でした。しかし,このようなご時世になってしまったので,この先,また,ドイツ語圏に旅することができるかどうかもわからなくなってしまいました。

 そんなこんなで,今更やっていても活用する機会はないのでしょうが,これもまた,私の性格が災いして,はじめたからには,なんとか少しはモノにしようと思いはじめてしまったのが,まったくもって,自分の首を絞める結果となっているのです。
 前回書いた数独,そして,春からずっと凝っているプログラム言語のPythonですが,こうしたものはなぜか得意で,わからなければわかるまでいろいろと調べたり,時間をかけて覚えたりということが苦にならないのですが,語学となると,もともと私は語学の才能はまったくないということが自分でわかっているし,単語を覚えるとか,繰り返し練習するとか,知らない単語や用法を辞書で調べたりもしないので,それができない原因だということを,この齢になって思い知りました。
 そこで,今の時代に私に合った語学の勉強方法を,自分なりに考えてみることにしました。


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 善光寺が7年に1度の御開帳をしているということなので,どういうものなのか好奇心が湧いて,5月14日の早朝に行ってきました。
 善光寺というと,長野市元善町にある無宗派の単立仏教寺院が有名ですが,私が行ってきたのはそこではなく,善光寺東海別院。稲沢市祖父江町にある正式名称双蓮山善光寺,通称尾張善光寺です。
  ・・
 長野市の善光寺にはこれまで何度か行ったことがありますが,御開帳のときではありませんでした。
 長野市の善光寺の本尊は日本最古と伝わる「善光寺式阿弥陀三尊」で,伝わった654年(白雉5年)より絶対秘仏ということです。天竺の月蓋長者が鋳写したものとされ,百済の聖王を経て献呈されたか,難波の津に漂着されたものとされるそうです。日本に来るも廃仏派の物部氏によって捨てられ,本田善光に拾われて小山善光寺から信濃の元善光寺に,次いで現在地に遷座したと伝えられているといいます。
 絶対秘仏でだれも見ることはできないために,7年に1度の御開帳には,金銅阿弥陀如来及両脇侍立像(前立本尊)が絶対秘仏の本尊の分身として公開されます。
  ・・
 ところで,本尊は絶対秘仏で今までに誰も見たことがなければこれからも誰も見ることはないということは,過去も未来も誰も見ることができないもの,ということなので,ならば,「本尊は実は存在しない」という説もあるそうです。
 三種の神器もそうですが,日本という国に住む人はこういう権威主義好きですなあ。

 さて,私の行った善光寺東海別院は
  ・・・・・・
 1582年(天正10年),織田信長,織田信雄によって善光寺本尊の如来が岐阜より尾張甚目寺へ御遷座の途中に祖父江付近に立ち寄られたと記録にあり,その場所に,1909年(明治42年),蓮田であった境内地に1本の茎からふたつの花が咲くという奇瑞を縁として, 開基旭住上人が信州善光寺本坊大勧進より善光寺如来さまを勧請して善光寺東海別院を創立したもの
  ・・・・・・
だそうです。本堂は善光寺特有の撞木造りで総欅造りの大伽藍,信州善光寺の本堂の約3分の2の大きさということです。
  ・・
 もともと御開帳は同時に行われていなかったようですが,2003年(平成15年)の春に,長野市の善光寺,飯田市の元善光寺,甲府市の甲斐善光寺,稲沢市の善光寺東海別院で同時に四善光寺御開帳が行われ,2009年(平成21年)の春には,加えて岐阜善光寺と関善光寺が加わり,六善光寺御開帳となったものです。そして,その次の御開帳が2015年(平成27年)の春でした。
 今回の御開帳は,昨年2021年(令和3年)の春に行われるはずでしたが,コロナ禍の影響で1年延期され,2022年(令和4年)の4月3日から6月29日の88日間開催されています。
 御開帳では善光寺東海別院の本尊は日ごろは見ることができないほんものを拝観することができます。
 ということで,だれが考えたか,商売上手で,長野市の善光寺といういわばお墨つきを得て,しかも,六善光寺御開帳という一大イベントとなっているので,こんな田舎の,普段は人影まばらな善光寺東海別院にも,どこから来るのやら,連日大型バスが列を連ね,いつもなら車のほとんど停まっていない無料の広い駐車場に活気がもどるわけです。この時期だけ有料にする,というアメリカ流の毒されたこころをもっていないことが救いです。

 私が行ったのは,雨上がりの早朝,午前9時前で,この時間ならまだだれもいないだろうと思ったのですが,さにあらず,すでに観光バスが1台停まっていて,多くの人が本堂にひしめいていました。
 それにしても,ほとんどの人は,御開帳で見ることができる本尊を鑑賞するでもなく,それよりも,通常は初詣と毎月8日の縁日のみに授けられるというご印文を授かろうとお年寄りたちが列を作っていました。これもまた,まあ,日本らしい姿でした。

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 NHKBS1でMLB中継が放送されていると,いつも私は英語モードにして見ているというか,つけっぱなしにしています。それは,アメリカの空気に触れたいためです。
 日本語の放送なんて聴きたくない。だからABEMAのMLB中継は見ない。NHKBS1のMLB中継の途中に入るニュースなんて迷惑なだけ。
 そんな私のMLB中継ですが,5月14日は,ロサンゼルス・エンゼルスがオークランドに遠征してきたので,珍しくオークランド・アスレチックス(Oakland Athletics)のホームであるオークランドアラメダカウンティコロシアム(Oakland Alameda County Coliseum)からでした。
  ・・・・・・
 オークランドアラメダカウンティコロシアムはカリフォルニア州オークランドにあるのですが,オークランドはサンフランシスコの隣町で,バート(BART=Bay Area Rapid Transit)という近距離列車でサンフランシスコから直通で行くことができます。
  ・・
 オークランド・アスレチックスはアメリカンリーグ西地区所属です。アメリカンリーグ創設時から存在し,ワールドシリーズ制覇9回・リーグ優勝15回を有する古豪チームです。
 1893年にペンシルベニア州フィラデルフィアで発足し,1955年にミズーリ州カンザスシティに移転。そして,1968年に現在の本拠地であるカリフォルニア州オークランドに移転しました。
  ・・・・・・

 アメリカ西海岸にあるMLBのチーム,シアトル・マリナーズ,ロサンゼルス・ドジャース,ロサンゼルス・エンジェルスなどには以前より多くの日本人選手が所属していますが,オークランド・アスレチックスには2005年の藪恵壹選手,2010年の岩村明憲選手,2011年の松井秀喜選手,2013年の岡島秀樹選手が所属したのみであり,しかも,成績が下降したころにトレードされてきたという選手ばかりで,サンフランシスコというとても日本ではなじみのある都会の近郊にあるにもかかわらず,オークランド・アスレチックスはあまり知られていないチームです。
 また,オークランドアラメダカウンティコロシアムは老朽化がはげしく,かつ,2020年までNFLのオークランド・レイダース(Raiders)との兼用で,外野に巨大なスタンドがあったり,ファールグランドが異常に広いといったようにベースボール観戦にはまったく適していないことや,さらに,ボールパークのある周辺の治安が悪いなどの理由で,まったく魅力がありません。
 そこで,2011年にシリコンバレーの東にあるフリーモントに移転し,新しいスタジアムを建設する予定でしたが,地域住民の反対などで中止となるなど,経営面で苦戦をしいられています。
 やっと,2018年になって,2023年にオークランドとサンフランシスコを結ぶベイブリッジ近郊のウォーターフロント地区に建設を予定している新しいボールパークに移転するという発表がありました。とはいえ,またうまくいかないのではという懸念があるのですが,2022年2月の報道によると,計画は1歩ずつ前進しているということなので,順調に進めば,現在のボールパークはこれで見納めです。
 この計画が実現すれば,MLB全体で,新しいボールパークの建設計画がうまくいっていないのはタンパベイ・レイズのみとなります。

 私は,2015年,サンフランシスコに行ったときに,ぜひ行きたかったサンフランシスコ・ジャイアンツのホームである,現在の名前をオラクルパーク(Oracle Park)という,パシフィックベルパーク(Pacific Bell Park)とともに,オークランドアラメダカウンティコロシアムに行ってみました。こちらは特に行きたいところではなかったのですが,MLB30チームのボールパークをすべて制覇しようという目的のために行ってみたわけです。
 確かに,周辺の治安はよさそうになく,しかも,ナイトゲームでは,ゲームが長引くと帰りの列車がなくなるという話だったので,早々に引き上げました。ボールパーク自体も,日本によくあるコンクリートむき出しの古い建物で,最新式のパシフィックベルパークとは天と地の差がありました。
 しかし,というか,だからというか,ファンサービスは抜群で,チケット売り場をはじめとして,チームの職員の親切さはMLBのなかでもとびぬけてよくて,私は感動しました。

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「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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 こころゆくまでまっすぐな道を走ってみたい。
 そんな夢を実現するのに最高なのは,何といってもニューメキシコ州です。
  ・・・・・・
 ニューメキシコ州(New Mexico)は南西部にある州で,北はコロラド州,東にはオクラホマ州とテキサス州,西はアリゾナ州,南はテキサス州およびメキシコとの国境に接しています。面積はアメリカで5番目に大きいのですが,人口は36番目と,ほとんど人が住んでいません。その美しい景観から「魅惑の土地」(Land of Enchantment)と称されます。
  ・・・・・・

 今日の写真はロズウェル(Rosewell)からサンタフェ(SantaFe)に行ったときに走った国道285ですが,あたり一面何もなく,360度地平線が見られました。こんな景色は日本では絶対に見ることができません。
  ニューメキシコ州は年間340日も陽光に恵まれるというところで,自然災害もきわめて少ない州です。雨が少なく乾燥しています。私が走ったときはちょうど満月で,早朝,北に向かって進む私の車の窓から,右手,東の空から太陽が昇り,左手,西の空には満月が沈むという姿を見ることができました。

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国際宇宙ステーション

5月14日午後8時9分。
薄雲でしたが,北西から天頂を通り南東に,
非常に明るい国際宇宙ステーションが通過しました。

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 今年のゴールデンウィークはハワイがブームだったそうです。この2年辛抱していた人たちがどっと出かけたようです。そして,実際に行ってみて,ハワイの物価の高さに驚いたということです。
 現在,アメリカは物価高で困っているということで,いろいろなものが異常に値上がりしています。しかし,それだけでなく,異常な円安が輪をかけているのです。そこで,ハンバーガーを食べようとしても,日本円にして2,000円も必要だったとか。
 こんなめちゃくちゃになっているそもそもの原因は日銀の金融政策にあります。
 少子高齢化で,国の構造自体が変わってしまっているのにもかからわず,昔のままの政策をする政治,そして,火に油を注ぐという金融政策が,もう,取り返しのつかないところまで来ているということです。

 ついに,国内でも,いろいろなものが値上がりをはじめました。こうなると,右に習えというこの国は,これまでは値上げをしたくてもできなかったさまざな製品が,やはり右に習えとばかりに,調子にのって値上げをはじめました。
 しかし,この国の多くの国民は,高齢者なのです。賃金を上げようとも,もともと労働者は少なく,それでは値上げに太刀打ちできません。おのずから,安いものを探し,なければ買わなということになっていくので,調子に乗って値上げをしたところで売れなくなるだけです。
  ・・
 マスコミもまた,よくわからない記事で,人々の不安を煽っています。
 たとえば,コロナ感染者数のグラフがそうです。,新型コロナウィルスといっても,その種類が変化していて同じものではないのにもかかわらず,それらを同じ数値としてグラフ化しているのは,まったく意味のないことです。それと同じように,さまざまな国の賃金格差も,外貨のレートやその国の物価を考慮しなければ,それを比べること自体に無理があるのです。
 このように,データは,何事も,慎重であるべきなのに,安易なものが多すぎるのです。

 とにかく,事実なのは,今,海外旅行はコロナ禍以前とはまったく異なるということです。
 これほど高価になっては,もはや,海外旅行など行けるものではありません。残念なことですが。

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 ついに,欲しいものがなくなってしまいました。ショッピングモールを歩いていても,まったく欲しいものがないのです。そして,何かを買うという行為が,めんどうで,かつ,いけないことをするような気持ちになるのです。さらに,何かを買っている人を見ると,気の毒な気さえするのです。
 いったいどういうことでしょう。
  ・・
 昔から,私があきるほど眺めていたのが,天体望遠鏡とカメラのカタログでしたが,それがどうでしょう。このごろは,そうしたものですら,まったく興味を失ってしまい,欲しいとも思わなくなってしまいました。さらに,そういうものの愛好家の人たちが盛んに書いているブログやらコメントを読むことすらうっとおしく感じるようになってしまいました。

 もともと,身の回りのものは少なければ少ないほうがいいと思う私は,車は動けばいい,服は他人が不快でなく丈夫で長持ちすればいい,家は雨風が凌げればいい,などなど,ほとんど執着心がなかったのですが,それ以上になってきました。
 だれしも,お金のない若いころは,欲しいもはたくさんあれど手に入らない,という状況でしょう。やがて,そうしたものが手に入るようになると,今度は,手に入れた瞬間からよりよいものが欲しくなる… ということをくり返す。だと思うのですが,私は,よりよいものを欲しいと思わなくなってしまったということなのです。
 これは,単に齢のせいでしょうか? ならば,寂しいですが,もうひとつの理由は,自分が今持っているもので十分満足だと思う自分がいるということでもあります。
 先に書いたように,若いころは,新しい製品が出るたびにそれを欲しいと思い,すでに自分が持っているものが物足りなくなったものですが,だからといって,新しいものに買い替えたところで,また,数年すれば,同じことを繰り返すだけでした。これでは限がないのです。
 しかし,そんな経験を積むと,それを追い求めて行ったところで,何があるでもないということが身に染みてしまったのです。であるならば,今持っているもので,どれだけのことができるかを追い求めたとしても,そこからえられる精神的な満足度は新しいものを買うことと同じだと気づいたのです。

 そんなわけで,お金はものに代えるのではなく体験に代えるほうが価値が高い,そこで,旅で使うに限ると思うようになったです。旅でお金を使って後悔したという人を私は知りませんから。
 しかし,今のように海外旅行もできないとあっては,お金の使い道がないという結果になってしまうのです。現在のような状況では,手元にある,わずか数千円の商品券さえ,使い道がないので,ずっとカバンの底でお昼寝をしている,ということになっています。
 これこそが「いんちき富裕層」の面目躍如,というものなのでしょうか。

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 浮世絵に俳句と,日本好きだったミロでした。
 ミロが生まれた1893年のバルセロナは,1888年に開かれた万国博覧会の開催をきっかけとした日本美術ブームの真っ只中でした。また,ミロの周囲には俳句の魅力に取り憑かれた詩人たちがいたとうことで,ミロは自然と日本への想いを募らせたということです。
 しかし,わたしがミロの絵画でショスタコービッチを連想したというのは,絵画にスペイン内戦と第2次世界大戦の影響が感じられるからでしょうか。

 今回の展覧会では,いくつかの作品が撮影可ということでした。西洋の美術館は一般に撮影可なので,私は日本の美術館で撮影ができないことのほうがむしろ不自然な感じがしています。
 撮影可であった作品は,まず,1番目の「アンリク・クリストフル・リカルの肖像」。1917年に制作されたこの絵画には,背後に浮世絵があります。
 2番目のものは「カタツムリ,女,花,星」。1934年の作品です。そして,3番目のものが「ゴシック聖堂でオルガン演奏を聞いている踊り子」。これは1945年の作品ですが,私がミロらしいと思っていた作品がこのふたつの絵画のようなものです。
 解説には次のようにあります。
  ・・・・・・
 「絵を描くことと」と「文字を書くこと」を同じように捉え,絵画と文字の融合を追求した作品
  ・・・・・・
 私は,こうした作品に文字を意識したことはなく,むしろ,その色彩に惹かれました。たとえば,日常,どこかにこれらの作品が展示されていたら,とてもすがすがしく引き締まる気持ちになれます。
 以前,私が世田谷美術館で見た「ミロ展」で展示されれていた作品の多くは,このようなものだったように記憶します。

 今回の展覧会では,それに加えて,書道を連想させるようなものや,花瓶や巻物をなど,日本を意識したものがたくさんありました。
 先日見た「ゴッホ展」もそうですが,この時代のヨーロッパで,それほど日本の影響が強かったことが,私にはとても不思議なことに思えます。それは,まだ見ぬ異質な文化に対する単なる好奇心なのか,それとも,何が自分たちがもっていない技法などがあって,そこから得るところがあるのか。
  ・・
 第2次世界大戦後,ミロはさらに日本の文化にのめり込み,やきものの技術を学んだアルティガスのもとで陶芸に熱中し,日本風の作品を作るようになりました。
 1966年には念願の初来日を果たし,京都や奈良,信楽,名古屋と飛び回り,詩人で美術評論家の瀧口修造と対面しました。
 ミロの制作の原点であったカタルーニャの農村モンロッチのアトリエや,晩年を過ごしたマジョルカ島のアトリエに飾られていた日本の品々が,ミロの創作意欲を刺激したといいます。

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IMG_3919IMG_3917IMG_3914s 愛知県美術館で「ミロ展 -日本を夢みて」が開催されています。
 連休が終わって静けさを取り戻した2022年5月10日の午後,きっと空いているだろうと期待して足を運びました。会場は予約制ではなかったのですが,混雑しておらず,とてもいい時間が過ごせました。
 私は,ミロの絵画を,2002年の夏,というから,もう20年も前になるのですが,世田谷美術館で開催された「ミロ展」で見てすごく気に入ったので,今回の展覧会をとても楽しみにしていました。

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 ミロ,ジョアン・ミロ(Joan Miró i Ferrà)は1893年に生まれ, 1983年に亡くなった画家で,ガウディやダリと同じく,スペイン・カタルーニャ地方の出身です。
 1911年,18歳のころから画家を目ざすようになり,バルセロナの美術学校に入学,やがて,1919年にパリに出て,絵画を制作するようになりました。
 ミロはパリでシュルレアリスム(surréalisme/surrealism)の運動に参加したのですが,人物,鳥などを激しくデフォルメした有機的な形態,原色を基調にした激しい色使い,あふれる生命感などは「現実離れした奇抜で幻想的な芸術」という他のシュルレアリストの作風とは全く異なっているといいます。
 第2次世界大戦ののちは,絵画だけでなく,陶器や彫刻の制作もはじめました。
 19世紀後半にヨーロッパでは日本趣味,いわゆるジャポニズム( Japonism)が流行しました。その影響もあって,ミロも日本文化に憧れと夢をもっていました。70歳を過ぎてその念願がかない,1966年に日本で展覧会が行われたときと,1970年の日本万国博覧会で陶板壁画を制作するために,2度の来日を果たしました。
  ・・・・・・

 私が以前見た2002年の展覧会は「1918から1945・絵画の詩人ミロ誕生への軌跡」と題したもので
  ・・・・・・
 本展では,これまで日本では充分に紹介されてこなかった巨匠ミロの芸術的葛藤の足跡を例証する1918年から1945年にかけての戦前期の作品に焦点を絞り,戦後のミロとは少なからず異なる「知られざるミロ」に迫ります。
  ・・・・・・
と紹介されていました。
 私は,このときに展示されていた多くのミロの絵画を見て圧倒され,その魅力のとりこになったのですが,なぜか,ミロの絵画にロシアの作曲家ショスタコービッチをイメージしました。スペインの画家というより,ロシアの画家だと思い込んだくらいでした。
  ・・
 私はそのときのイメージがとても強く,そこで見たものが「ミロらしい作品」だと思っていたのですが,今回の展覧会では「日本を夢みて」というテーマの通り,日本に関係する作品が多く,2002年の展覧会が第2次世界大戦以前のものだったのとは大いに異なっていたので,それまでに私の抱いていたミロの作品のイメージとはずいぶんと異なるものでした。


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 私は,南から北,つまり,京から江戸の方向に向かって車で旧中山道を走ってきたのですが,高宮宿に差しかかる前にあったのが無賃橋でした。堤は桜が満開でした。無賃橋の正式名称は高宮橋といいます。
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 琵琶湖に注ぐ犬上川には,中山道の諸宿場が整備されてからも長らく橋が架られていませんでした。
 1767年(明和4年)に高宮宿の庄屋・問屋有志が彦根藩に申請し仮設橋を架けましたが,幾度もの大雨で橋が度々流されていました。この状況を危惧した彦根藩は,1832年(天保2年)に近隣の豪商である小林吟右衛門,馬場利左衛門,藤野四郎兵衛らに命じ,石造りの橋をかけました。さらに,翌年の1833年(天保3年)には高宮宿の有志が彦根藩より高宮橋株を買取り,無料で通行ができるようになりました。
 この経緯から,橋のたもとに「無賃橋」の標石が建てられ,無賃橋とよばれるようになったそうです。
  ・・・・・・

 橋を渡ると高宮宿に入ります。
 高宮宿は旧中山道64番目の宿場で,宿内家数は835軒,うち本陣1軒,脇本陣2軒,旅籠23軒で宿内人口は約3,500人でした。
 本陣は小林太左衛門家,脇本陣は塩谷家が担っていました。
 橋を越えたあたりから眺められる高宮宿は,当時の面影を残していて,なかなかの風情でした。
 高宮宿は,中山道の宿場町としては埼玉県の本庄宿に次ぐ大きな宿場として繁栄しました。また,多賀大社の参道沿いの門前町として多くの参拝者が利用しました。
 宿場の中央には多賀大社の一の鳥居がランドマークとなっていました。この高さ11メートルの大鳥居は寛永112年に着工されたものです。また,高さ6メートルの常夜燈も建立されました。
 多賀大社は式内社で,旧社格は官幣大社,現在は神社本庁の別表神社です。古くから「お多賀さん」として親しまれ,神仏習合の中世期には「多賀大明神」として信仰を集めました。お守りとしてしゃもじを授ける「お多賀杓子」という慣わしがあり,「お玉杓子」や「オタマジャクシ」の名の由来とされているそうです。

 特産品の麻織物は,高宮布として近江商人を介して日本各地に流通し,彦根藩から将軍家への献上品にもなっていました。宿場には高宮布を扱う問屋などの業者が何軒も軒を連ね,高宮神宮参道と向かい合っている加藤家住宅は,かつて「布惣」の屋号で高宮布を扱う麻布商で,高宮布を収めた5つの蔵が今も残り,往時の様子がしのばれます。
 また,街道沿いにある円照寺は古刹として知られ,大坂の陣の際には徳川家康が立ち寄り腰掛けたと伝わる「家康公腰懸石」がありました。
  ・・
 1684年(貞享元年)には松尾芭蕉が高宮宿を訪れ小林家で宿泊し,句を残しました。
  ・・・・・・
  たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子
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 小林家では芭蕉の為に紙で作った衣服を贈り,帰った後に塚を築きその衣服を納めて「紙子塚」としたと伝えられています。

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 2022年春のテレビドラマの予想と期待について3月27日に書いたので,今回は,それらを見た感想を書きます。まず,そのときのブログに書いたものからです。

●「 元彼の遺言状」
 綾瀬はるかさん主演のミステリー。
 思ったほどではなかったなあ,というのが第1印象でした。脚本が悪いです。整理整頓ができていないので,ごっちゃごっちゃになってしまいます。いい素材を使いながら,それを生かし切っていない料理みたいです。特に,第1話と第2話がだめでした。
 大泉洋さんの演じる篠田敬太郎に何か裏があるということらしいので,この先の展開に少し期待しているのですが,どうせまた裏切られるかな,という懸念のほう強いです。
 その大泉洋さんですが,「鎌倉殿の13人」の源頼朝同様,無邪気な善人面していながら,実はかなり癖のある悪人という役がはまりです。
 身近にもいるでしょう。味方だと思っていたら実はとんだ食わせ物だったという人。
  ・・
●「インビジブル」
 高橋一生さん演じる強烈な正義感を持つ刑事・志村貴文と,柴咲コウさん演じる犯罪コーディネーター「インビジブル」。
 柴咲コウさんのこれまでとはあまりに違う姿にはじめは驚きましたが,とてもいいです。何をやっても同じイメージになってしまう綾瀬はるかさんとは対照的です。
 このドラマは好きです。とてもおもしろいです。「インビジブル」が刑事たちを手玉にとっているのが権力が嫌いな私には痛快です。
 同じようなものはアメリカのドラマによくあって,それに比べればかなり安っぽいのが,まあ,日本らしいといえば日本らしいのですが,いずれにしても,現実離れしているのがとても愉快です。所詮,ドラマなんて暇つぶし。現実離れしていて,空想的でいいのです。
  ・・
●「 パンドラの果実 〜科学犯罪捜査ファイル〜」
 ずいぶん期待したのですが,このドラマは最悪でした。
 天才科学者という役を演じる岸井ゆきとかいう女優さんは完全なミスキャストです。この女性は,とても天才科学者というキャラではないです。
 さらにこのドラマがだめなのは,ドラマで出てくる最新の科学技術とやらが安っぽすぎることです。
 ということで,第1話で失望し,もう1回は,と第2話を見たところでやめました。その後は知りません。

 ブログに書いたドラマはこれだけだったのですが,そのときには書かなかったおもしろいドラマを見つけました。

●「吉祥寺ルーザーズ」
 吉祥寺にある謎めいたシェアハウスに引っ越して来た「人生の負け組」の6人が織りなすシチュエーション・コメディドラマ。ということですが,この設定で,配役が適切ならば,どうやったっておもしろくできそうです。実際,おもしろいです。
 私は第4話でこのドラマを知って,過去のものが見られるかをネットで探したら第1話と第3話はTVerにあったのですが,第2話だけParaviでないと見ることができませんでした。「まずは2週間無料」だそうですが,そこまでして見ることもないので,第2話は見ていません。
  ・・
●「持続可能な恋ですか? 〜父と娘の結婚行進曲〜」
 「誰かと共に生きること」を一生懸命に考える娘と「第二の人生」へと向かう父の奮闘を描くオリジナルラブストーリー。ということで,上野樹里さん演じるヨガインストラクターに,松重豊さん演じる「生活能力ゼロ」の辞書編纂者が父娘で「ダブル婚活」を。という内容です。
 これは第1話から見ています。
 私には「のだめ」の印象が強い上野樹里さんですが,あれからずいぶんと齢をとりましたが,ときどき,そのころの片鱗が垣間見えるのが愛嬌というか,ほどよく感じのよいドラマになっています。であるのですが,ちょっとまどろっこしいというか,脇を占める男たちがだらしないのが私にはなじめません。
  ・・
●「正直不動産」
 「嘘もいとわないセールストーク」で成績1位を維持し続ける不動産営業マンが,突然,たたりで嘘がつけなくなってしまい,契約寸前の案件まで次々と台なしに。しかし,そのことで,逆に好感がもたれて,すべてがうまく収まる。という軽いおとぎ話です。
 たわいもなく,しかし,最後はハッピーエンド,という安心感があります。
 このドラマも第3話から知ったのですが,NHK+で第1話からすべて見ることができました。
 営業マン永瀬財地を演じる山下智久さんの演技がいまいちでわざとらしくてたいしたことないけれど,新人営業マンの月下咲良を演じる福原遥さんの笑顔が好感がもてるので救われます。
  ・・ 
●「クロステイル 〜探偵教室〜」
 行方不明になった父親を探すためにジョーカー探偵学校に入学した男性が,地道な調査の連続に幻滅しそうになりながらも課題や実習などの経験を重ねていくうちに人間の心に寄り添う探偵という仕事にやりがいを見出していくさまを描く。という非現実的でたわいもないドラマです。
 鈴鹿央士さんが演じる探偵学校の生徒である飛田匡はいい人過ぎて,私はちょっとイライラしますが,それがこのドラマの核であり,まあ,全体的に軽く,アニメそのままの展開は,暇つぶしにはいいかな,という程度のものです。第1話から,なぜか毎回見ています。

 以上なのですが,実は,これらのドラマよりも,スーパー!ドラマTVで放送されているアメリカの法律テレビドラマシリーズ「グッド・ファイト」(The Good Fight)のシーズン4と大河ドラマ「鎌倉殿の13人」,このふたつのドラマが秀逸です。格が違います。

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 「することも欲しいものもない幸せ」と書いたことがあります。曰く
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 朝起きたときに「何もすることがない」という生活が理想だと憧れていたのですが,そんな理想の生活ができるようになってきました。さらにには「何も欲しいものがない」という状態こそがもっとも幸せだとも思っていたのですが,これもまさに実現しつつあります。
  ・・・・・・
 ところがどうでしょう。今更ながら,私はかなりの愚かものです。
 「何もすることがない」とは「何もしなければならないことがない」ということで,それは,朝起きて,その日に「やりたいと思ったことが何の束縛もなく自由にできる」ことが最も幸福だということです。と自分で書いておきながら,自分で自分の首を絞める,そして,自らノルマを課してしまっているのです。で,私は,勝手に多忙な日々を送ることになっているわけです。ひどい話です。
 その原因のひとつは「数独」です。

 はじめは暇つぶしでした。
 朝日新聞の土曜日に配達されるbe版に載る数独の問題に取り組んでいました。おそらく,数独を解くのにも,何らかの法則とか,メソッドがあるのでしょうが,そんなものを知ってしまったらおもしろくないので,自分の力で解いていました。
 ちょうどそのころ,土曜日だけでなく,朝日新聞の朝刊に,そして,同じ問題がウェブサイトに毎日載るようになりました。おそらく,今新聞を読む人の多くは暇な老人ばかりなので,そうした読者を対象としたのでしょう。暇な老人のひとりである私もそれを解きはじめたのですが,私が,何事も全部きちんとやらないと気が済まないという性分だということをすっかり失念していたのです。ラジオ講座などでも毎日が続かないという人が多いのですが,私はその逆なのです。
 ということで,毎朝,これを解かねば1日がはじまらなくなってしまったのです。
 難易度は星ひとつから5つまで。私は,★,★★程度のものは5分から10分ほどでできるので負担にはなりません。また,★★★は,簡単なものと難しいものが混在していますが,それでも,長くても20分もあれば大丈夫です。しかし,★★★★やさらには★★★★★となるともういけません。最低30分は費やすことになります。
 これまで解けなかったという問題はないのですが,難しくなればなるほど時間がかかるし,絶対に解こうとのめり込んでしまうのです。
 
 これもまた,以前書いたように,Pythonで問題を解くプログラムを作ったので,これを使えば,瞬間にすべて答えは出るのですが,それはプログラムの勉強で作っただけのことで,これを使って答えが出ても仕方がないので,つねに自力です。
 どんどんと解く力が増しているとはいえ,こんなものに多くの時間を費やして,どんなメリットがあるのやら…。
 病院の待合室や電車のなかで暇つぶしでやっている老人を見かけます。以前は,そんなもので時間つぶしをする人たちを冷ややかな目で見ていたのですが,このところ,何の利もないのに早朝から毎日数独とにらめっこしている私がいるのです。やはり,どこかおかしいです。
 これが自分で自分を忙しくしている原因のひとつなのです。

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 名古屋・栄。一応は都会の繁華街。
 私は,学生時代,自宅通学でしたが,学校が家から結構遠く,小学生のころから大学卒業まで,毎日,栄で乗り換えをしていたので,そこが特別なところという意識はありませんでした。その後,社会人となって,まれにそうした場所に行くと,わざわざやってきたというような着飾った人が歩いているので,どうしてそんな恰好で来るのかと驚いたものです。私は相変わらずの普段着でした。
  ・・
 今は欲しいものがあれば通販で買うことができるし,郊外の大型店のほうが駐車するのも簡単だし,このごろは公共交通機関も利用しないし,また,グルメでもないので,めったに繁華街に行くこともなくなりました。
 ときどき出かける東京や大阪。駅のある繁華街は,名古屋の繁華街と比べれば豪華に見えるけれど,人がうじゃうじゃいて,こんなに多くの人がいるんだと思うだけで,全く好きにはなれません。さらに,品川駅など,通勤の人の洪水です。こんなところを経由して毎日通勤している人が私はお気の毒でなりません。幸せの80パーセントは失くしているように感じてしまいます。

 そんな私ですが,先日,用があって,久しぶりに名古屋の繁華街・栄に行きました。
 地下街も改装をしてきれいになったということだし,地上では,ランドマークであるテレビ塔が本来の役目を終えてホテルに改造され,また,そのまわりの公園は一新されて芝生広場に変わったようです。
 芝生広場に変わったのはそれほど昔でもないのですが,できたころは,確か「芝生は犬の散歩禁止」と書かれてあったように思うのですが,今は,剥がれかけた芝生の上を犬が飛び跳ねていました。このように,できたころは全面に張り巡らされた芝生は,早くもあわれな状態となり,芝が剥がれ,土が露出し,痛々しい姿をさらけ出していました。スプリンクラーもないし手入れをしている様子もないから無理もないことだと思いました。はじめから維持するという思想が抜けおちているのです。
 アメリカの公園はどこも美しい芝生があってとてもきれいですが,夕方になれば水がまかれるし,絶えず手入れをしています。それに比べて,日本では芝生は風土が合わないと言い訳をするだけで,なかなか根づかないようです。しかし,それは,風土が合わないというより,手入れをする予算をけちって十分な管理をしていないことがそもそもの原因だろうと私は思います。だから,作ったときだけきれいでもすぐに台なしになってしまうのです。この国は,作るときだけ大事で予算を組んでも,それを維持するためのお金を十分に出さないことが問題なのだと思います。これもまた,実にやったふりだけの日本らしいことです。維持できないようなものならはじめっからそのように作らなければいいのに,と思います。

 地下街に降りてみました。
 一部は改装されていましたがそれはすべての場所ではなく,昔のままのところは,私が通学をしていたころと変わらぬ姿があって,昭和の時代に舞いもどったような気がしました。なにより不思議だったのは,今も現金しか使えないお店やら,ずっと昔のままの喫茶店やらばかりだったことで,ちょっと信じられない感じでした。
 次に,三越に寄ってみました。デパートなど,先日,名古屋駅の高島屋へ「写真展・星野道夫」を見にいっただけで,栄の三越など何年ぶりでしょう。
 このデパートという前時代的な商業施設は,休日だというのにお客さんも少なく,来店している人の多くも,昭和時代の価値観のままの初老の人がほとんどでした。店員さんのユニフォームだけが,こりゃ値引きできないはずだ,と思うくらい金がかかっていました。お客さんもまた,きっとピンピンの1万円札をブランドのお札入れから出してでお買い物をなさるのでしょう。
 巷ではAIだの国際化だのといわれているのですが,こういう姿を見ると,私は,ショックを受けるというよりも,むしろ,昭和時代にタイムスリップしたテーマパークのような感じさえしました。映画を見ているようでした。

 そこで考えたのですが,今や,都会の繁華街なんて無用の長物。存在価値はありません。あるとすれば,人と会ったり暇をつぶしたり,そういう場所としてです。
 ならば,それを逆手にとって,近代化とは縁を切り,そんなものは郊外の大型モールに任せて,繁華街全体は,今から50年ほど昔の姿を再現した一大アミューズメントエリアでにでも改装してしまったらどうでしょう。そして,地上には市電を走らせたりするのです。
 もちろん,お店は現金しか使えないようにして,機械化もできるだけ避けて,喫茶店もセルフサービスはやめて店員さんがオーダーを取りに来るようにするのです。また,デパートのエレベータも,当時エレベータガールとよばれた白い手袋をはめた女性がいて,屋上には遊園地があって,食堂には国旗を立てたお子様ランチがあったりして。ただし,禁煙だけは今のままで。
 むしろそのほうが,今の,中途半端な,新しいのか古いのかよくわからない,そしてあか抜けない姿よりもずっと魅力があると思うのですが。ならば,わざわざ繁華街にでかける意味もあるというものです。
 年寄りばかりのこの国では,近代化だけが便利でしあわせ,というわけでもありませんし。

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 すでに冬は過ぎ,6月の夏至をめざして,夜がどんどん短くなっています。
 この季節,明け方の東の空に,土星,火星,海王星,木星,金星と5つの惑星が並んでいて見事です。この中でもひときわ明るい木星と金星の距離が日に日に近づいたり,また,離れていったりと,毎日見ても見飽きるものではありません。
 なのに,これらが見られるのは,早朝4時過ぎであり,5時ではすでに空が明るくなってしまうのです。
 また,夕方の西の空には,この5つの惑星から取り残された孤高の水星が,4月29日に東方最大離角となり,これもまた,最大高度でみることができます。そして,そこに,月が仲間入りしたりと,まことに美しいのです。
  ・・
 幸い,私の住むところからは,西の空も東の空も,ずいぶんと低いところまで見ることができるので,その点は,ビルや家々に隠れてこんなにすばらしい夜空を見ることができない都会に住む人が気の毒なくらいです。
 ということで,私は勝手に忙しくしていて,早朝からカメラと三脚を持参して田んぼのあぜ道で写真を写して楽しんでいます。

 ところが,きわめて残念だったのは,木星と金星が0.2度という月の大きさの4分の1もの大接近をした5月1日の早朝,そして,月齢1.6の月が水星の真下にあるという5月2日の夕方,ともに曇ってしまって,まったく見ることができなかったということでした。
 ただし,5月2日の夕方は,かろうして月齢1.6の月だけ,一瞬みることができました。
 すでに,5月1日のブログに4月30日の明け方の5つの惑星を写した写真と,5月4日のブログに5月3日の夕方の月と水星を写した写真を載せたので,今日は,その前後に写したものを載せておくことにしました。
 1番目の写真は5月2日の明け方に写したもの,これは薄曇りがあります。また,2番目の写真はすでにブログに載せた5月3日の別の写真,そして,3番目の写真はそのときの月齢2.6の月を拡大したものです。また,4番目の写真は,5月2日の夕方にかろうして見えた月齢1.6の月をなんと手持ちで写したものです。
 また,1月後の5月の終わりから6月のはじめにかけて惑星や月が同じような条件になるので,それを楽しみに待つことにします。

 ところで,ただひとつ残された惑星である天王星は今どこにいるのでしょうか?
 実は,天王星は,ちょうど太陽のうしろにあって,しばらくはまったく見ることができなのです。
 今はそんな天王星なのですが,今年は,2022年11月8日に皆既月食があって,皆既月食中に天王星食が見られる,という珍しい現象があります。つまり,皆既中の月が天王星を隠すのです。これを楽しみにしたいと思います。

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 私は毎朝の習慣で朝ドラを見る,ということもなく,普段は見ていないのですが,何かのきっかけで見て,それがいいと,ときどきはまります。だから,ひょっとして,食わず嫌いというか,よかったのにまったく見なかったものもあるかもしれませんが,おそらく漏れはないと思います。
 これまで私がはまったものは,「ちゅらさん」「おひさま」「ひよっこ」「カムカムエヴリバディ」の4作でした。それに加えて,「あまちゃん」や「エール」もよかったな。

●「ちゅらさん」
 「ちゅらさん」は2001年度上半期に放送されました。
 沖縄県の小浜島と東京を舞台に,国仲涼子さんが主演の古波蔵恵里の人間的な成長物語を描いたものです。
 何といってもこの作品は「ガジュマルの木の下で」が最高だったのですが,私が気に入っていたのはメルヘン小説家で毒舌で皮肉屋という,菅野美穂さんが演じた城ノ内真理亜でした。私は,ああいうキャラ好きなのです。
  ・・
●「おひさま」
 「おひさま」は2011年状半期に放送されました。 
 信州・安曇野市と松本市を舞台に,激動の昭和時代を生きた井上真央さんが演じる須藤陽子の半生を描いた物語でした。
 最終回,年老いた主人公とその友達が昔話に華を咲かせるシーンが印象に残っていますが,この物語は,そもそもがすべて昔話,という設定だったような気がします。
 いつか安曇野へ行っておそばを食べたいとずっと思っているのですが,まだ果たせていません。
  ・・
●「ひよっこ」
 「ひよっこ」は2017年度上半期に放送されました。
 有村架純さんが演じた谷田部みね子が出稼ぎに行って戻らぬ父を探しに上京し,成長するというストーリーでした。
  和久井映見さんが演じた永井愛子がいい味をだしていました。

 こうして書いてみると,どの作品も共通点があるように思います。みな,決して裕福でない家に生まれた女性が,生まれた家を出て,自分探しをし,その時代に格闘し翻弄されながら成長して,幸せをつかむ,というような感じのものです。調べてみると,私は知らなかったのですが,「ちゅらさん」「おひさま」「ひよっこ」すべて岡田惠和さんの脚本でした。脚本家が同じだからそれも当然ですか。
 そして,今年の「カムカムエヴリバディ」。これは藤本有紀さんの脚本です。
 さて,今年のゴールデンウィーク。私は人混みが嫌いなので,多くの人がお休みのときは外出しません。特にゴールデンウイークはだめです。気候のよいこの季節はどこに行っても人と車しかありません。そもそも,毎日が日曜日の私にとってはこの時期は最悪です。出かけるなら,その次の週です。
 ということで,ゴールデンウィークは家にいるのですが,そこで楽しかったのは,何といっても「カムカムエヴリバディ」の総集編に加えて,「ちゅらさん」の総集編も見ることができたことでした。
 齢をとって涙腺の弱くなった私は,両方の番組が放送された5月4日は,ずっと,涙涙でした。

 「カムカムエヴリバディ」は,内容が濃く,テンポが早かったので,たった3時間の総集編でそれをまとめるのは困難でした。本編を見ていた人は復習になったと思うのですが,これだけを見た人が,このドラマのよさと感動のどれだけを味わえたのだろうかと思うと,少し残念でした。
 私がこの総集編を見て改めて思ったのは,日本の1925年からの約100年という時代のさまざまな出来事と,その時代のもっていた雰囲気でした。安子さんの青春だった昭和初期から第2次世界大戦ごろまでは,暗く,切なく,救いがなく,安子さんの子供のるいさんの昭和30年代から40年代は,明るく,夢と希望があり,そして,るいさんの子供のひなたさんの平成時代は,慢性的な平和社会でありながら,祭りのあとのむなしさというか,右肩下がりの何か夢破れたはかなさを感じます。
 私は,るいさんの時代に生きてきてよかったと感じました。
 さて,この先の100年はいったいどんな時代が訪れるのでしょう。100年後に同じようなドラマが作られるのなら見てみたい。

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 昨日5月3日は憲法記念日でした。
 日本は,まことに法律というもの自体がなじまない国です。憲法ですら,この国ではじめて発布された大日本帝国憲法が1889年(明治22年),つまり明治になってからで,アメリカ合衆国の憲法が施行された1789年よりはるかに遅いのです。それまで,この国の最高法規は,なんとその昔757年(天平宝字元年)に施行された養老律令であって,時代の変遷によって,その中には現実にまったくそぐわないところが多々あっても,それは事実上無視し,改正もせず,都合のよいとところだけはそのまま使い続けました。
 今の日本国憲法も同じようなもので,アメリカ合衆国の憲法が実情に合わせてたびたび改正されたのとは対照的です。表向きは従うふりをしつつ,何事も自分の都合のよいように解釈する,そして,総括もせず反省もせず責任も問わず,これが日本という国です。この国では改正というものはなじみません。それは,決まりを尊重するのではなく,変えれば変えたで,またそこに抜け穴を探していいように解釈するだけだからです。

 憲法第9条がよく話題になりますが,私がこだわりたいのは,むしろ第99条です。
  ・・・・・・
第99条
天皇又は摂政及び国務大臣,国会議員,裁判官その他の公務員は,この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。
  ・・・・・・
 だから,国務大臣,国会議員は,憲法改正など軽々しく言っちゃいかんわなあ。
 しかし,100歩譲って,下手に改正などしようとすれば,今度は,その手段だけでも,もめにもめることでしょう。で,いざとなれば,民主主義の手続きもへったくれもなく強硬突破を試みるわけです。これもまた,歴史が証明しています。
 そもそも,改正するにしても,極右から極左まで,今,何が問題かという認識が違い,だから,何を変えるかという思惑が人それぞれ違い過ぎるのです。だから,本質は「お上」を拝み奉る江戸時代のまま,真の民主主義すら根づいていないこの国では,民主主義的な手続きやら議論すらまともにできないわけで,それこそが,名ばかり法治国家に住む,善かれ悪しかれ,それが日本人というものです。
 たとえば,学校の校則を考えてもわかるように,法律にあろうがなかろうが,合法だろうが違法だろうが,みんな勝手に自分たちの集団で明文化した決まりや暗黙のルールをこしらえて,それで自らの首を絞めながら,かつ,他人を干渉しながら生きているのです。村の掟のようなものです。
 こうしたことが,有史以来,この国では脈々と営まれているわけですが,日本人の最も問題なのは,日本人がどういうものかを日本人自身が知らなさすぎることです。

 閑話休題。
 さて,五畿七道は古代日本の律令制,つまり,養老律令で定められた地方の行政区画です。そのうち七道とは,東海道,東山道,北陸道,山陽道,山陰道,南海道,西海道を指します。七道は,所属する国の国府を順に結ぶ駅路の名称でもあったので,同じ名称の幹線官道で結ばれていました。
 江戸時代の中山道は,七道のなかの東山道に準じて存在していたようです。そこで,私がここで巡った琵琶湖西岸の宿場は,江戸時代以前の東山道の駅家でもありました。駅家には往来する人馬の休息,宿泊施設を置き,駅鈴を持っている官人や公文書を伝達する駅使が到着すると乗り継ぎの駅馬や案内の駅子を提供しました。
 それにしても,このような広い範囲にわたって,古代から道が存在していたというのもすごいものだと思います。

 愛知川は「えちがわ」とよびます。愛知川宿は旧中山道,江戸から65番目の宿場です。宿内家数199軒で,うち本陣1軒,脇本陣2軒,旅籠28軒,宿内人口は約1,000人でした。
 最初に書いたように,元は東山道の駅家で,「太平記」にも記載があります。
 愛知川宿は宿場町であると同時に近江商人の町でもありました。また,江戸期には,伊勢から多賀大社への参詣のため通行した春日局をはじめとして,多くの人が往来しました。
 象が通ったという記録もあり,これは清の商人が徳川吉宗に献上するためであったといわれていますし,幕末には,皇女和宮が14代将軍徳川家茂に嫁ぐときに行列が愛知川宿に宿泊しました。愛知川宿を通行した和宮の行列は6,750余人であったといわれています。

 現在に残る愛知川宿は,その町の両側に派手な冠木門があって「中山道愛知川宿」と記されています。それが,この冠木門をつくったこの土地の人のセンスがうかがわれて最も興味深いものでした。また,交差点向こうのポケットパークには木曽街道六十九次愛知川という歌川広重のパネルが展示されていて,宿場のプライドが感じられました。交差点を渡ったすぐ先の日本生命の営業所が当時の本陣でした。派手な冠木門で大いに期待したのですが,さにあらず,特に見るべきところもあるやなしやで,私はそのまま通り過ぎました。
 愛知川宿を越えて,さらに北に走っていくと,大きな建物があってびっくりしました。一度は通り過ぎたのですが,興味をもったので引き返してみると,そこは「旧豊郷小学校」とかかれた場所でした。1937年(昭和12年)伊藤忠兵衛商店の専務であった古川鉄次郎が寄贈した小学校校舎で,当時としては極めて珍しいコンクリート造りだったそうです。解体の危機に見舞われましたが,リニューアルされて,現在は図書館などに生まれ変わったということです。

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◇◇◇
月と水星

5月3日午後7時30分。
西の空に,月齢2.7の月と水星が見えました。
さらに,プレアデス星団とヒヤデス星団も。
美しい夕暮れでした。

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 今日の写真は,私が頂いた将棋の免状です。日付は昭和55年となっていますから1980年,今から40年以上も前のものですが,当時は竜王戦という棋戦はなく,したがって,竜王という称号もなかったから,この免状に署名されているのは,日本将棋連盟会長だった15世名人の大山康晴と名人だった中原誠,となっています。
 免状に該当する段位を取得していても,免状は申請したときに手に入れることができるので,どの棋士の署名が入るかは申請したときによります。現在は,日本将棋連盟会長である佐藤康光九段と渡辺明名人,藤井聡太竜王ということですが,藤井聡太という署名入りの免状に人気があって申請する人が多いので,その発行数がかなり増えているということです。
 その当時,私は,後に日本将棋連盟会長になった米長邦雄永世棋聖の「名人・米長邦雄」という署名が入った免状が欲しくてしばらく申請をせず,名人になるのをこころ待ちにしていたのですが,何度挑戦してもなかなか実現しないのであきらめて申請をしたのです。「名人・米長邦雄」がやっと実現したのは1993年で,実に13年後のことでした。私は,それまで待つことができなかったわけです。しかし,米長邦雄永世棋聖は,日本将棋連盟会長になってからの品のなさと辣腕で嫌いになったし,15世名人の大山康晴と16世名人になった中原誠という二大巨匠の名前の入った免状こそ品格があってすばらしいもので,今にして,これでよかったと思っています。とても気に入っています。
 もう間もなくすれば,「竜王名人・藤井聡太」という署名の入った免状が誕生することでしょう。そうしたら私もまた免状を申請しようかと思ったりします。
 それにしても,免状に多くの署名を書かなければならない会長,竜王,名人という立場は大変です。将棋の研究のかなりの時間が割かれるのではないでしょうか。これでは,棋士というより書道家です。

 さて,タイトル獲得通算99期という羽生善治九段ですが,名人18期の大山康晴15世名人や名人15期の中原誠16世名人と比べると,名人を獲得していた時期は9期とそれほど長くはありません。また,大山康晴15世名人や中原誠16世名人のころにはなかった竜王も獲得していた時期は7期と意外に短いものです。竜王と名人になると,免状に署名するという仕事が加わるのでたいへんです。私は,羽生善治九段は署名というお仕事が面倒だったのではないかなどと,うがった見方をしてしまいます。
 その羽生善治九段が,ついにA級から降級してしまいました。今年度はB級1組で,来年度のA級復帰をめざし,捲土重来を期すということで期待しているのですが,このごろの戦績を考えると,さらに降級してしまうのではという危惧もあります。B級1組は甘くありません。
 大相撲には,かつて北の湖という大横綱がいました。北の湖が強かったころに少年時代を過ごした人は,その強さを今も語るのですが,私は,晩年の,なかなか勝てなくなったその痛々しい姿のほうが印象が強いのです。それは,大鵬という大横綱が,その引退直前まで最強だったので,それと比べてしまうからです。
 将棋の世界でも,私は,亡くなるまで現役A級だった,憎いほど強く,毅然と若手に立ちふさがった大山康晴15世名人の印象があまり強いので,大きな業績を残したとはいえ,羽生善治九段の現在の苦戦する姿に一抹の寂しさを感じています。

 羽生世代といって,羽生善治九段とほぼ同年代で強かった棋士が大勢います。その中でも,現在の日本将棋連盟会長である佐藤康光九段は,今もA級の座を保っていますが,おそらくそれは,羽生善治九段と佐藤康光九段の将棋の質の違いからくるものだと思っています。
 晩年まで大山康晴15世名人が強かったのは,常に新鮮味のない振り飛車で戦い,変わり映えなくファンにはおもしろくなかったのですが,本人はそんなことは意に返さず,若いころに鍛えた妖力を武器に,中終盤のねじり合いで若手を負かすことを心底から楽しんでいたからのように思います。当時の若手は緻密な序盤研究に熱を上げていましたが,そんなことでは妖力には勝てませんでした。また,佐藤康光九段が現在もA級の座を維持しているのも,他者がまねのできない独特の序盤戦術で,圧倒的に定跡形の知識の勝る若手を煙に巻き,大山康晴15世名人と同じように,中終盤のねじり合いで勝負をしているからでしょう。
 それに比べて,羽生善治九段は,昔も今も,羽生流というような独自の新戦法や戦術を編み出すでもなく,その時代,その時代に流行する将棋を後追いして,そこにわずかな差を求めて勝とうとしているような感じです。現在も,相掛りの最新形を採用したりしています。しかし,それでは,アナログ感覚の同世代の棋士とは対等以上に戦えても,コンピュータを駆使した研究量の違う若い棋士にはかないません。局後の感想戦などを見ていても,形勢判断が今の若手のAIに基づいたものとは根本的に異なっていて,羽生善治九段がよしとする形勢がAIでは不利だったり,その反対に,不利だと思った手が最善手だったりして,しかも,そのことを指摘されても納得できないという表情になることが多々あります。それが終盤のミスの原因である気がします。どうも,2018年の第11回朝日杯将棋オープン戦で藤井聡太当時六段に負けたときから感覚がおかしくなってしまった感じです。
  ・・
 かつて,名人の座を明け渡し,タイトルから無縁となった中原誠16世名人は,それ以後,それまでの定跡形の将棋を力戦調のものに完全に変えてしまったのですが,それは,将棋は好きでも,定跡どおりの将棋を指すことに飽きちゃった,そして,勝ち負けにこだわらくなったからだろうと私は思いました。現在の羽生善治九段の心境はわかりませんけれど,少し言葉は悪いのですが,現在の,おじさんが若者言葉を使って,その輪の中に入ろう,というような感じの将棋から決別して,若いころに鍛錬した,ガッチガチの矢倉とか角道を止める対抗形の振り飛車といった,羽生善治九段が昔執筆した「羽生の頭脳」に書いたころの将棋を指した方がいいように私は感じていますけれど。
 今の羽生善治九段の将棋は,考えるのを楽しんでいるような藤井聡太竜王とは違って,楽しそうに指しているようには見えません。「観る将」の私は,観戦していて,次にどんな驚きの手が出てくるのかというワクワク感よりも,また間違えるのでは,と心配になって息が詰まります。それが残念です。

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 旧中山道の間の宿である鏡の宿,そして,近江八幡に寄り道をして,その後,私は南から北に向かって走っています。
 国道8号線を離れ,枡形道から近江鉄道万葉あかね線の武佐駅の横にある踏切を越えると,そこから旧中山道の武佐宿がはじまります。 
 しばらく行くと,「愛宕山常夜灯」が街道際に立っていて,そこは昔の高札場跡でした。
 普段,車で走っていると見逃すのですが,そうした車の多く通る広い道に並行するように旧街道があって,そこは,何十年も変わらない家並みが続いていることがよくあります。
 ヨーロッパのように,もともと道というのは馬車が通るように作られたのとは違い,人が歩くように作られた日本では,人が歩くほどの幅の道を車が通るには狭く,すれ違うのがやっという広さですが,私は,日本人には,この程度の広さの道幅がもっとも落ち着くのだといつも思います。

 武佐は「むさ」と読みます。
 旧中山道の江戸から数えて66番目の宿場で,宿内家数は183軒あって,そのうち本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠23軒で,人口は500人程度だったようです。
 武佐宿は近江商人の発祥の地として知られていて,今も古い商家が残り,なかなか情緒あるところでした。
 また,武佐宿は伊勢へ通じる八風街道の追分であったことから, 海産物,布,紙など物資の往来で賑わったといいます。
 歩いてみると,武佐宿設立当時から営業しているという「旧旅籠中村屋さんがあって,今も料理旅館を営んでいます。創業は慶長年間で,その歴史は400年以上というからすごものです。
 その斜め向かいの郵便局がかつて下川家本陣があった場所で,今は「本陣門」だけが残されています。また,武佐宿は本陣と脇本陣が150メートルも離れています。
 本陣跡の先にある十字路左側には「いせ みな口 ひの 八日市 道」と刻まれた「八風街道道標」が建てられています。
  ・・
 武佐は松平周防家が藩主であった武蔵国川越藩の飛び領地だったので,この地に陣屋を置き領土の管理を行っていたということで,「松平周防守陣屋跡」もありました。
  ・・・・・・
 松平周防家は川越藩最後の大名家で,本姓は松井氏で本国は三河国の徳川譜代大名でした。
 徳川家康の家臣となった松井忠次が功を得て松平姓を拝領し,松井松平家と称します。また,周防守の官名を拝領して世襲したので,松平周防守家とも称しました。
 初代松平周防守となる「松井忠次」は,徳川家康の三河平定,諏訪原城攻めなどでの功を得て「松平周防守康親」の名を拝領し,二代目の松平康重は徳川家康江戸入封時に武蔵騎西に二万石で入り大名となります。その後,常陸笠間,丹波篠山,和泉岸和田,播磨山﨑などに転封され,さらに,石見浜田で180年近く統治し,1836年十代目康爵のときに陸奥棚倉へ転封となり,1866年十三代目康英のときに武蔵川越へ転封となり幕末を迎えました。市村正親さんは家臣の子孫だそうです。
  ・・・・・・

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 2020年4月29日,NHKBSPで「ワールド・トラックロード 〜俺の助手席に乗らないか〜」という番組が放送されました。アメリカの長距離トラックのドライバーの日常を描いたものです。
 NHKBSPでは「ぐっさんのトラック旅」という番組を何度か放送していましたが,私は,狭い日本の,たった2車線か3車線しかない,また,車で混み合う高速道路を走るようなものより,雄大なアメリカのインターステイツをコンボイで走る番組が見たいと思っていて,そのことをこのブログに書いたこともあります。
 私が思っていたのは少し違うけれど,そんな番組が放送されると知って,楽しみにしていました。

  ・・・・・・
 世界のトラック野郎が見る景色を「主観」で楽しむ新感覚ロードドキュメンタリー。運送の仕事を擬似体験しながら,高さ2.5メートルの車窓に広がる壮大な景色を堪能する。
  ・・・・・・
と紹介されていたので,今回のアメリカだけでなく,この先,他の国のものも紹介されるのでしょう。しかし,何といってもアメリカです。
 この番組でトラックが走ったアイダホ州,オレゴン州,ワシントン州,ユタ州,ネバダ州などは,すべて,私はこれまで何度も走ったことがあるところなので,見慣れた景色でした。そして,とても懐かしくなりました。それとともに,ここ2年以上行くことができないアメリカを思い出しました。
  ・・
 そもそも私が海外旅行をするようになったきっかけは,アメリカのどこまでも続く1本の道を自分で運転したいというのが動機でした。そして,幸運にも,その夢は,これまでにずいぶんと実現しましたが,それが,今はできないのです。
 番組に出てきていたトラックのドライバーはアラスカ州は行ったことがないということでしたが,私は,アラスカ州も含めて,アメリカのすべての州を走りました。

 こうしたアメリカの景色を見たことがない人がこの番組を見たら,どんな感想をもつのでしょう。多くの人には,アメリカといえば,ニューヨークであり,サンフランシスコであり,ロサンゼルスであり,ホノルルでしょう。しかし,そのようなガイドブックにあるアメリカは,日本に来て,東京と京都しか知らないで帰る外国人と同じようなものです。アメリカの本当の姿は,こうした,どこまでも続くインタ―ステイツや大平原の中を走るカントリーロードにあるのです。
 また,走っている時間よりも信号や渋滞で止まっている時間の方が長いような,この狭い日本で,見栄をはって高級車に乗っているのとはまったく違う世界が,アメリカにはあります。
 日本とはスケールの違うアメリカでトラックを運転するという仕事には,私の想像がつかないような苦労があると思いますが,こうした景色を日々体験できる喜びは,日本に限らず,アメリカでも,人のうじゃうじゃいる都会で,日々,人間関係に苦労し,仕事に追われ評価されるような生き方をしていては決して手に入るものではないでしょう。
 見ていて,また,私も,アメリカの大平原を走りたくなってきました。
 この番組で,やっぱり,私はこうした旅がしたかったんだよ,という夢がよみがえりました。

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◇◇◇
5惑星

4月30日早朝4時。
東の空に,5惑星が見えました。
特に,金星と木星が接近して
ひときわ明るく輝いていました。

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