しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

June 2022

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 NHKで放送している「世界ふれあい街歩き」という番組で「スコットランド移民の理想郷ダニーデン〜ニュージーランド」が取り上げられていました。この番組は2016年に放送されたものの再放送でした。番組の紹介は
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 ニュージーランド南島のダニーデンはスコットランドからの移民が建設した街。独自のタータンチェックを持ち,祖国の伝統と生活スタイルを大切にしながら楽しむ人々と出会う。
  ニュージーランド南島のダニーデンは,19世紀にスコットランドから渡ってきた移民が建設した街。今も街角にはバグパイプの音色が流れ,朝食には麦のおかゆポリッジ(oatmeal)を食べ,開拓の歴史を反映した独自のタータンチェックを誇りにするなど祖国の伝統と生活スタイルを大切にする人々と出会う。
 街のもうひとつの自慢は世界一急な坂道。まるでジャンプ台のような急坂を息を切らしながら駆け上がったり,家族の思い出を作る人々と出会う。
  ・・・・・・
です。

 ダニーデン(Dunedin)。私は,ニュージーランドの南島はほとんどの場所に行った気になっていたので,当然,ダニーデンも行ったことあると思い込んでいました。それにしては,記憶にない街の名前だな? と思って調べてみたのですが,実際は行っていませんでした。
 この番組にも出てきましたが,ダニーデンで私が惹かれたのはボルドウィンストリート(Baldwin St.)でした。ギネスブックにも登録されたという世界で最も角度がきつい坂道は,なんとしても登ってみたいと思いました。
 また,番組では,ダニーデンからタクシーでクイーンズタウンまで出かけたのですが,要するに,ダニーデンだけでは番組が成り立たなかったということでしょう。
 私は,ニュージーランドに2016年,2018年,いずれも秋,つまり,現地は春,に2回行ったことがあって,ともに,とてもいい思い出がたくさんあります。
 ニュージーランドは日本の田舎の緩い感じに似たとても親切な人たちが多い国です。はじめて行ったときに,クライストチャーチから海岸線に沿ってずいぶんと南まで行った記憶があるのですが,実際はオアマル(Oamaru)止まりでした。
 オアマルにブルーペンギンコロニー(Blue Penguin Colonie)があって,それを目当てに行ってみたのですが,どうやらシーズンオフだったらしく,私のためにわざわざ巣箱を出してくれました。
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 しかし,今考えると,2度も行ったのにも関わらず,私の頭には星空… というのが最優先だったので,それ以外の場所をこころおきなく旅してこなかったなあ,と残念に思います。そして,すっかり忘れていたニュージーランドのよさを,この番組を見て再発見し,目覚めてしまったのです。

 ということで,今ごろになって,3度目はない,と思っていたニュージーランドに,また,行きたくなりました。
 当時のことをいろいろと思い出してみると,生まれてはじめてニュージーランドに行ったときが,最も印象深いものでした。そして,そのときに数日滞在したクライストチャーチのことを懐かしく思い出しました。
 「世界ふれあい街歩き」を見ていて,いい所だな,とは思っても,だからといって,行ってみたいなあと思うところはあまりありません。しかし,今回のダニーデンは数少ない行ってみたくなったところだったのです。
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 コロナ禍で,しばらく海外旅行ができなかったのですが,このところ,また,次第に旅行ができるようになってきたようです。しかし,私は,コロナ禍以前,あれほど行っていた海外旅行なのに,行く意欲がどんどんなくなってきていて,もういいや,あるいは,自分はこの先どこに行きたいのだろう,と自問自答を繰り返すようになってきました。そして,本当に行きたいと思う場所ができたら,そのときは行ってみよう,そう思うようになりました。
 果たして,それがいつのことか,あるいは,そんな気持ちになる日はもう来ないのか…。
 この番組に出会ったのは,そんな折のことでした。
 本気で行くことを考えてみようかな。

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 これまで私はふるさと納税に興味があるわけでもなかったし,仕組みもよく知りませんでした。調べてみると,ネット上には次のような説明がありました。
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 ふるさと納税は,本来は住んでいる自治体に納めるはずの税金を,任意の自治体に寄付することで,住民税や所得税が控除される仕組みです。控除を受けられる上限は納税額によっても異なりますが,控除される金額は寄付金から2,000円を引いた金額と決められています。
 ふるさと納税の大きなメリットのひとつは,返礼品を受け取れることでしょう。
 各自治体では,寄付金額の3割以内に相当する返礼品を用意しています。つまり,6万円を寄付した場合,5万8,000円の税額控除を受けられるうえ,1万8,000円分の返礼品をもらえるのです。また,利用者にとっては,返礼品を選ぶ際に各地域の特産品や情報を知れるため,その地域に対して親近感を抱き応援するきっかけにもなるでしょう。
 ふるさと納税を利用することで,地域の名産品とともに旅行気分を味わってみてはいかがでしょうか。
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 そこで,試してみることにしました。私が狙ったのはさくらんぼ「佐藤錦」です。
 つまり,私がふるさと納税に興味をもった理由は,これもまた,先日行った山形旅行だったわけです。
 ふるさと納税は,それぞれの自治体のホームページで行ってもいいのですが,「ふるなび」というポータルサイトがあったので,これを利用しました。私が調べていた今から1か月ほど前は,ちょうど旬だったさくらんぼが一杯並んでいました。そこで,山形市にふるさと納税をしてみたわけです。
  ・・
 3週間ほどして,ついに念願のさくらんぼが届きました。
 これまでさくらんぼにはまったく関心もなかったのに,どうしても食してみたかった「佐藤錦」。スーパーマーケットに行くと,結構な値段で並んでいたのですが,それを買わず,到着まで待っていた甲斐があったというものです。それにしても,私が山形に行ったときが名産品であるさくらんぼのちょうど旬の時期だったこともまた偶然のことでした。
 生まれてはじめてハワイ,それもハワイ島に行ったときは,フラダンスフェスティバル「メリーモナーク」(Merrie Monarch Festival)の真っ最中だったし,久しぶりにサンフランシスコに行ったときは「プライドパレード」(Pride parade)が行われていました。また,はじめてニュージーランドに行ったときは島中ルピナス(Lupinus)の花が咲いていました。
 私が旅に出るとき,そんなことはまったく考えてもいないのですが,ちょうど,なんらかのベストシーズンの時期や特別なイベントに遭遇するのも,いつものとおりの強運。不思議なことです。

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☆☆☆☆☆☆
 梅雨明けだそうです。というより,今年は梅雨そのものがあったのでしょうか?
 前回も書いたように,惑星直列のせいか? 地球自体がいろいろとおかしいような気がします。いよいよ終末か! という気がしないでもないのですが。

 という悪い冗談はともかくとして,昼間は暑いので,早朝散歩を楽しんでいます。一向に晴れないので,星見に遠出する気もないのですが,散歩をするだけなら問題ありません。
 6月27日の朝も,午前4時まえに散歩に出かけようと外に出てみると,たくさん雲がありましたが,東の空には雲が切れていて金星と月齢27.6の薄い月がきれいでした。こうなると予定変更です。さっそくカメラと三脚を取りに行って再び行動開始です。
 とはいえ,どんな画角で写せるのか事前に下調べもしていないのでさっぱりわからず,広角から望遠まで,おまけに魚眼レンズも持参することにしました。
 今にも月を雲が隠してしまいそうだったので焦りましたが,なんとか写すことができました。

 雲がまったくないのなら,それなりに空の暗いところまで行って,7惑星をすべて収めた写真を写す気力も湧こうというものですが,こんな天気ではそんな気持ちにもならず,しかし,考えてみれば,雲がほどほどに空を覆っているのもまた風流です。
 前回にくらべて月齢がずいぶんと増して,惑星の間を移動していたのですが,その間,まったく晴れなかったので,ずっと何も見ることができませんでした。
 それにしても,惑星がすべて明け方の空に見えるというのは今日の最後の写真のような位置関係だからです。この図はステラナビゲーターからとったものです。

 さて,まだほとんどの人が目覚めていないこの時間,結構興味深いことが起きています。
 まず,これは毎晩のことではないようですが,新幹線の架線に,工事用の長い列車が通りました。さらに,月と金星の横を飛行機雲が流れていきました。望遠レンズで見てみるとジェット機でしたが,これは不思議なことです。こんな時間に旅客機が通るというのはどういうことなのでしょう。さすがに国内線ではないと思うので,海外からの帰国便でしょうか。方角的にはセントレア・中部国際空港に向かっているようでした。家に戻ってしらべても,この時間に到着する便はないので,おそらく貨物便なのでしょう。

 いずれにしても,深夜に車を走らせても,これまでは頭の中は星見でいっぱいだったので気づかなかったのですが,この時間,結構知らないことがたくさんあって,それなりにおもしろいものだと,近ごろ思うようになりました。
 おそらく,この夏は異常な猛暑になることでしょうから,しばらくは昼夜逆転で過ごすとしましょうか。

太陽系


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 以前書いたことがありますが,私がノースダコタ州に憧れたのは,アメリカ50州すべてに行こうと思っていたある人が,最後に残ったがノースダコタ州だったというような文章を書いていたのを読んだことが理由でした。そのころの私はまだアメリカ50州制覇は考えていなかったのですが,そんなに行きにくいところなら,ぜひ行ってみたいと思いました。
 私は,まず,サウスダコタ州に行って,さまざまな場所を観光してから,国道85号線を北に一路,ノースダコタ州を目指しました。サウスダコタ州がすばらしいところだとはその時点では思ってもいませんでしたが,行ってみて本当によかったと今では思います。
 そして,サウスダコタ州のラピッドシティで車を借りて,ノースダコタ州へ向かいました。
 そのときの写真が今日の1番目から3番目のものですが,これは本当にすごいものでした。写真ではわかりませんが,こんな景色が延々とずっと続いていたのです。アメリカでほかにいろいろな道を走りましたが,こんなすごい道はここが一番でした。
 こころゆくまでまっすぐな道を走ってみたい。
 そんな夢を実現するのに最高なのは,何といってもノースダコタ州でした。
 もちろん信号などなく,すれ違う車もほとんどありませんでした。
 そして,ノースダコタ州に達したとき,出迎えてくれたのは,一面に咲くひまわりでした。
 
 ノースダコタ州の中央部を東西にインターステイツ94が横断しています。これが今日の4番目から6番目の写真です。
 アメリカのインタ―ステイツは,都会では最低3車線,多いところでは7車線,8車線とあるのですが,さすがにノースダコタ州はまだ2車線でした。ここを夜にも走ったのですが,周りは真っ暗でした。
 アメリカは東西を貫くインタ―ステイツは,10,20,30,……,というように偶数番号が振られていて,最も北を走るのがインタ―ステイツ90です。インターステイツ90は,西はワシントン州シアトルから東に,アイダホ州,モンタナ州と進むのですが,モンタナ州のビリングスから南東に進路をとって,サウスダコタ州,ミネソタ州と進み,最終的にはニューヨークに達します。
 ということで,インターステイツ90はなぜかノースダコタ州を避けるように走っているのです。そこで,モンタナ州のビリングスでインターステイツ90とわかれてインタ―ステイツ94がノースダコタ州に向かうのです。インターステイツ94は,ノースダコタ州を越えると,やがて,ウィスコンシン州で,再びインターステイツ90と合流します。


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 新型コロナウィルスワクチン3回目の接種からちょうど5か月,2022年6月24日に4回目の接種をしました。
 私は,感染している人を見たことがないし,身近にも感染した人がいないし,ワクチンが効くのか効かないのか,効いているのか効いていないのか,実際のところ,よくわからないのですが,ともかく,統計的には接種が進むにしたがって感染者や重症者が減っているから効いているのでしょう。
 私は副反応がまったくないから,別に何回接種しても問題がないのですが,これまで副反応のひどかった人は,むしろ,感染してもひどくならないのなら接種をするほうが辛いからと,二の足を踏んでいるいることも少なくないと思われます。陽性になっても症状もなく1週間すれば完治ならインフルエンザよりも大したことないし…,という感じでしょう。
  ・・
 今回もまた,3回目と同じく,県営名古屋空港でのモデルナの集団接種にしました。私はかかりつけ医もないし,LINEで予約が簡単だからです。驚いたことに,接種会場に着いてみると,スタッフのほうがはるかに多く,ワクチンを接種しに来ていたのは4,5人でした。こういうのを閑古鳥が鳴いているというのでしょう。
 接種が済んで15分ほど待っている間に待合室で流れていたのが,ワクチン接種が大切だという内容のビデオでした。税金使って作ったのだからかけているのでしょうが,ワクチンを接種した人に接種しましょう,というビデオを見せていったいどうするのかな,と思いました。
 それは別として,どうして,病院などの待合室ではどこもテレビが置いてあって,しょーもない番組が流れているのでしょうか。何の娯楽もない昔ならともかくも,いつもこういうものを半ば強制的に見せられるのが私にはよくわかりません。番組の内容によっては,患者さんを不安にするだけです。私はテレビの情報番組とやらが苦手です。見たくないのです。嫌煙権ならぬ,嫌像権はないのでしょうか。

 ところで,私は,これまで,インフルエンザの予防接種をしたことがありませんが,インフルエンザどころか,風邪すらひいたことがありません。
 インフルエンザの予防接種を受けたことがないのは,単に,注射がいやというのが理由です。エッ?
 話は飛躍するようですが,私は,これまで沖縄に行ったことがないのです。その理由は,沖縄は陸続きでなく,飛行機に乗らなければ行くことができないから,なのです。それと同じです。
 であるのに,実際は,私は,注射などどおってことないのです。採血とき,注射針が腕に刺さるのをじっと見ることすらできます。全く大丈夫なのです。飛行機もまた全く平気で,北海道どころか,海外にも頻繁に出かるし,むしろ,飛行機は大好きなのです。
 本当のところ,インフルエンザの予防接種を受けないのは,おそらく,インフルエンザの予防接種ををなめているからだと思います。さらに,インフルエンザの予防接種は効かない,と,それが誤解か六階かはしらねど,私が確信しているからです。また,沖縄だけ飛行機で行くことに二の足を踏んでいるのは,子供のころはじめて日本が島国だと知ったとき,沖縄は陸続きでないから行くには飛行機に乗らなければならないと言われて怖くなった,という記憶があるからです。もし,それが沖縄でなく北海道と言わていたら北海道だったのでしょう。それに輪をかけたのが,そのころ,はじめて飛行機に乗った父親がその体験談を怖そうに話していた,ということにあります。つまり,これがトラウマというものです。

 私が接種した6月24日までで4回目の接種を終えた人は201,332人です。20万人もいる! と思うでしょうが,それでも全体のわずか0.16パーセントです。
 日本の人口は約125,830,000人なので,感染者10,000人といったって「1万人にひとり以下」,つまり,わずか0.01パーセント以下でしかないのです。なお,年末ジャンボ宝くじで7憶円が当たる確率は0.000005パーセントなのだそうです。こんな確率では勝負する気にもならないので私は宝くじは買いませんが,それを夢見て買う人がいるのがとても不思議です。こんな確率はキャッシュカードを落としたときに4ケタの暗証番号が見破られる確率よりずっとずっと低いです。ロト6も同様です。
 それはそうと,果たして,5回目の接種はあるのでしょうか? 私は別に何回受けてもかまわないけれど。

◇◇◇


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 アメリカの国道の正式名称は 「United States numbered highways=U.S. Routes / U.S. Highways」ですが,ここでは国道とします。国道は,インターステイツと同じように,南北方向に走る道路には東から西へ順に奇数,東西方向に走る道路には北から南へ偶数の番号がふられています。
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 国道1(U.S. Route1)は,東海岸部の大都市を南北に結ぶ主要な路線で,全長2,390マイル,3,846 キロメートルあって,南北に伸びたアメリカの国道の中でもっとも長大です。
 アメリカ合衆国本土最南端に位置するキーウェストを起点にして,フロリダ州のマイアミ,ジャクソンビル,ノースカロライナ州のローリー,バージニア州のリッチモンド,ワシントンD.C.,メリーランド州のボルチモア,ペンシルベニア州のフィラデルフィア,ニューヨーク州のニューヨーク,コネチカット州のニューヘブン,ロードアイランド州のプロビデンス,マサチューセッツ州のボストン,メイン州のポートランドを経てカナダとの国境沿いのフォート・ケートまで続いています。
 また,マイアミからメイン州ハウルトンまではインターステイツ95が国道1に併走しています。

 数年前まで,私はアメリカ50州制覇を目指していました。その最後の2州であったノースカロライナ州とサウスカロライナ州を訪れたときに,そのついでに,フロリダ州の最南端キーウェストから,北に,フィラデルフィアまで走ったのですが,そのとき,あるところではインターステイツ95を,そして,気が向けば国道1を走りました。
 また,2013年にはボストンから北にメイン州までいったので,国道1およびインターステイツ95の通るところはそのほとんどを走ったことになります。
 また,かつて,1998年,はじめてアメリカをドライブしたとき,マイアミからフロリダ半島を半周したのですが,そのときに国道1を走ってキーウェストまで足をのばしました。

 さて,そんな国道1ですが,その中でも最も印象に残っているのは,今日の写真にあるアメリカ最南端のキーウェストにつながる海上の道セブンマイルブリッジです。
 若いころ,こんなところに行けるとは夢にも思っていなかったのですが,私は,1998年と2016年,なんと2回も行ってしまいました。フロリダ半島の先端を海の中7マイル,11.2キロメートルにわたってセブンマイルブリッジという橋がつながっていて,よくCMにも出てきます。
 キーウェストにはアメリカ最南端のポールがあり,また,国道1の終点であり起点であるので。BIGINとENDの表示があります。また,キーウェスト島には,かつてヘミングウェイが住んでいた家があって,今も公開されています。ここに住むネコの指が6本あるというので有名です。

◇◇◇
Double rainbow.

夕方,見事な虹が見えました。
もう,梅雨明けかな。

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 この国は老人ばかりなので,本も雑誌も,はたまた,得体のしれない健康食品も,そのほとんどが老人向けのものばかりです。町にも老人が溢れています。
 そんななか,ひときわ目につくのが,この「80歳の壁」という本です。
  ・・・・・・
 人生100年時代だが,健康寿命の平均は男性72歳,女性75歳。80歳を目前に寝たきりや要介護になる人は多い。
 「80歳の壁」は高く厚いが,壁を超える最強の方法がある。それは,嫌なことを我慢せず,好きなことだけすること。
 「食べたいものを食べる」「血圧・血糖値は下げなくていい」「ガンは切らない」「おむつを味方にする」「ボケることは怖くない」等々,思わず膝を打つヒントが満載。
 70代とはまるで違って,ひとつひとつの選択が命に直結する80歳からの人生。ラクして壁を超えて寿命をのばす「正解」を教えます!
  ・・・・・・
というのが,本の紹介です。
 私がこのブログでいろいろ書いても話題にもならないけれど,というか,話題になっても困るけど,著名な和田秀樹さんが書けばベストセラーになるのです。
 和田秀樹さんは1960年大阪府生まれなので,私より若干お若い。東京大学医学部を卒業した精神科医です。

 それにしても,80歳過ぎて,この本を読んでまだ元気に生きようという意欲がある人はすごいです。
 私の両親はともに90歳前後まで生きたので,80歳以降の10年余りの時間をどう過ごしていたかはおおよそわかります。それを見てきて思うのは,その齢になれば,日々,過去も未来も考えず,そのときそのときをこころ静かに楽しく生活することだ,ということに尽きます。そして,何が起きても,それは神様の思し召しと思って受け入れることです。
 結局それに尽きるのです。こうした本は,どれも「それだけのこと」を,延々と書き連ねているだけのものです。
  ・・
 そもそも,いつも書いているように,地球上に生命が存在する意義などまったくありません。
 偶然に偶然を重ねた化学反応の結果できてしまった,「それだけのこと」です。これを宗教家は「生かされている」などと大げさにいいます。しかし,そこに生を受けて,自分がやどってしまった以上は,それが存在する限り,楽しく時間を過ごすこと,「それだけのこと」なのです。
 まあ,「80歳の壁」などと題すれば,それを乗り越えることがたいへんだと感じてしまうでしょう。確かに前回書いたように,「35歳の壁」「50歳の壁」「65歳の壁」はあります。しかし,80歳は壁ではなく,出口。その先は,いたるところ,得体の知れない生物の住む沼地やらどこに野獣が潜んでいるかわからない荒れ地だらけの悠久なる大平原が広がっている,「それだけのこと」だと私は思いますけれど…。で,どこかで足を取られて,それで終わりです。

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 歳を重ねてみてわかったことは,老化というのは,坂道を下るようにやってくるのではなく,階段のようにやってくるということです。そして,それは15年ごとなのです。15年ごとというのは,若さの頂点である20歳を起点として,35歳,50歳,65歳,80歳で,その間の15年は,さほど変わらず,この年齢を境にして,突然変化を感じるのです。と,経験者の私は確信します。

 まず,35歳。
 20歳から35歳までの,ときめきと試行錯誤の自分探しの年齢を過ぎると,突然老けます。別の言い方をすると,貫禄が出ます。いい面では精神的に落ち着くので「若気の至り」のようなことがなくなり,周囲から見られる面も変わります。そして,仕事に責任がのしかかり,忙しくなります。その一方で,スポーツ選手など体力勝負の場合は,限界期が訪れます。女優さんも「35歳の壁」といわれて,若さで勝負ができなくなり,演技力がないと,ここで仕事がめっきる減るらしいです。
 これまではそういうわけだったのですが,それ以上に問題なのは,情報化社会の現在では,スポーツ選手でなくとも,科学技術で働く人にとっても,やはり「35歳の壁」というのがのしかかっていることです。以前なら,年齢を重ねるにつれて収入も増えていったのですが,能力給となれば,スポーツ選手と同じように,この年を過ぎると,能力が落ちていきます。そこで,老後を安泰に過ごすためには,若い時期の収入を老後の資金としてなんらかの形で確保し,保全する必要があるということです。
 将来,年金も目減りし,退職金もあてにできない今日の若い人が,この時期に浪費などしていてはいかんのです。
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 次が50歳です。
 35歳から50歳までは,仕事も家庭も,人生で最も多忙な時期となることでしょう。そして,気がつくと,あっという間に50歳を迎えるのです。そして,この50歳というのが,もっとも大変な時期なのです。この時期を経験しただれもが,それを「魔の50歳」とよびます。それは,自分が病気,あるいは,親が病気,または,子供に何か問題が起きる,リストラされる,などなど,それまで順調であったさまざなまものに何がしかのアクシデントが発生するからです。私のまわりに人たちも,この時期を順風満帆に越した人はいません。まさに「魔の50歳」です。
 「魔の50歳」の嵐吹く5年ほどをなんとか無事に切り抜けることができた人には,再び輝ける安定期が訪れます。この時期が人生で最も充実した期間だといえるでしょう。このかけがえのないすばらしい10年をどう過ごすかが,この後にやってくる老後を決めるといっても過言でありません。
 強調したいのは,50歳から65歳までの生き方としてとにかく最悪なのは,仕事で管理職などになってしまうことです。それなのに,50歳をまえに「偉くなりたい病」という熱病にかかってしまう,かわいそうな人が何と多いことか。自分に自信がない人ほど高級品や地位や名誉を欲するように,「偉くなりたい病」にかかるのは自分に自信がない証拠です。
  ・・
 さて,そうこうするうちに65歳がやってきます。
 それまでの15年を仕事だけで費やした人と,やりたいことをやった人で,ここで大きな差がでます。
 そして,ここで,急に衰えを感じます。外見が変わらなくとも,疲れやすくなったり,物忘れがひどくなったりと,そうしたことを急激に感じるようになります。この時期に自らの老いを受け入れて,これまでとは考え方のレベルを変えて,新しい生き方を見つけるかどうかが,その後のカギとなることでしょう。
 そのころに必要なこころの寄りどころになるのは,安定した老後をすごすための貯えとともに,それまでの人生で後悔がないことです。仕事にかまけて気がつけば65歳。さあ,これから遊ぶぞ,といっても,もう遅いのです。特に,仕事しか生きがいのなかった人はここで破滅します。
 それでも,従来のように,60歳が定年のころはまだよかったのです。65歳まで5年という時間がありました。しかし,現在のように定年が65歳になってしまっては,悲劇でしかありません。その原因はすべて少子高齢化で,「1億総活躍」というまやかしで65歳まで働かされるのですが,65歳でリタイヤすれば,老後はまさに老後となり,何かしたいことがある人には完全に手遅れとなるのです。
 健康年齢はほぼ70歳から75歳まで。運よくその年齢まで生き延びても,その後の低空飛行を安定した気流の中で過ごせるかどうかは,おそらく,65歳までの生き方にかかっているのでしょう。私はまだ経験していないのでわかりませんが…。
  ・・
 そして,80歳。人生の最終章です。
 この年齢のことは,また,別に書きましょう。


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 日本では,多くの高等学校の2年生か3年生で,類型選択といって,文系と理系にわかれるようですが,今や,そのことすら,私は時代遅れのような気がします。そもそも,数学ができないから文系とか,英語ができるから文系とかいった考え方自体が間違っているように思います。
 私は,「1+1=2」を真理とし正しいものだというのが理系的な考え方で,「1+1=3」を詭弁を弄してでも相手に正しいと納得させるのが文系的な考え方だと思っています。だから,商売では,お客さんに買ってもらえるように,短所は言わずあくまで長所だけを魅力的に説明して,それが是であろうと非であろうと,「それでよろしいですか?」と言ってお客さんが納得して契約が取れればそれでいいわけです。いわば,NHKのドラマ「正直不動産」のようなものです。
  ・・
 それは余談として,現在,異常なまでの円安状態が続いています。さすがに130円はないと私は思っていましたが,予想が外れました。
 果たして,日銀の総裁は日本を破滅させるつもりなのでしょうか。
 この円安は,要するに,日本を安売りバーゲンセールしているようなものですが,それは,円という通貨が,これまでは銀座の高級店で売っていたのに,下町の安売りショップで売るように鞍替えしたと思えばいいでしょう。
 その昔,海外に出かけると,いろいろなものがとても安いのに驚きました。日本の円は高級なブランドだったのです。しかし,今はその反対です。この円安で,アメリカへ行けば,ハンバーガーが2,000円以上もします。学費も高く,留学もできなくなりました。外国人が日本で働いて円で賃金をもらったところで,円の価値が激減しているから,仕送りにも困ることでしょう。
 その反対に,海外から日本にやってくれば,これほど愉快なことはないでしょう。おそらく,この先,コロナ禍が収まると,再び,海外から大勢の観光客が来るのでしょうが,日本は何でもめちゃ安です。

 私は,一般論として,ずっと,円安がけしからん,諸悪の根源だと書いています。
 しかし,話は矛盾しますが,私個人としては,この円安で,ずいぶんと儲けることができました。
 今と違って,投資のことがあまりわからなかった若いころに,1ドルが117円という「高値」の相場で300万円も買ってしまったアメリカドルや,これまた1ドル94円以上という「高値」で300万円も買ってしまったオーストラリアドルがあって,長年その処遇に困っていたのですが,それらもまた,すべて大きな利益を出して売り抜けることができました。円安,大感謝です。
  ・・
 現在の相場はとてもわかりやすいです。チャートを見ると,見事に乱高下をしています。こんな相場なら,どうやっても,また,何をやっても儲かります。ただし,雑誌などに,今こそ仕込みの時期とかいう,無責任な記事が載っていて,盛んに投資の素人を煽っていますが,今,ドルや株を買うなどというのは,短期で売り抜けるのならともかく,かなり無謀な話です。予想もしなかったような何らかの「事件」が起きた瞬間に,突然トレンドが変わって,売る猶予もないうちに,ナイアガラの滝のように相場が急落して,買ったものがすべて置き去りにされてしまうかもしれないからです。リーマンショックをはじめとして,私は,そんな現実をこれまで何度も見てきました。
 今は,1ドル135円なんて聞きなれましたが,こんな相場でドルを買えば,数年のちには,何と高値で買ってしまったかと,置き去りにされたアメリカドルにため息をつくかもしれません。そして,それを取り返すのには10年の月日が必要となることでしょう。
 しかし,買うのでなく,アメリカドルを135円で売りから入れば,133円あたりまで毎日のように乱高下するから,どうやったって利益が出ます。買いではなく売りなので,置き去りにされるリスクもほとんどありません。しかし,アメリカドルよりも,むしろ,95円と92円あたりを行き来しているオーストラリアドルの方がもっと安全にもうけることができるかもしれません。

 ということで,ずっと長い間,現状で持っている外貨は,売りも買いもせず,スワップを増やすだけを楽しみにしていた私のFX口座でしたが,暇つぶしに,久しぶりに少し相場に手を出してみました。それは,数百アメリカドルを空売りして,すぐに決済してみようということでした。実際にやってみたら,あっという間に儲かりました。
 私は自分で数万円程度の利益を設定して,設定した利益が出たら,さらに儲かるとかは考えずにすぐに決済をすることに決めていたから,リスクもなく儲けることができたのですが,これもまた,FX初心者は,これだけ儲かるのだから,もっと金額を増やしてやってみようとか,まだ決済をするには早いとか,そういう熱病に侵されて,結局破滅してしまうことになるのでしょう。リーマンショックのとき,そのようにしてFXで財産をなくした人を少なからず知っています。
  ・・
 こうして少し暇つぶしをしてみて,私は,昔知ったある感覚を思い出しました。それは,相場などに手を出すより,働いたほうが精神的にずっといい,ということです。
 結局,投資は,利益を生んでいるときは,もっと儲かるのではないかという欲に駆られて売りどきを逸するし,その反対に,少しの含み損でも出ると,心配ばかりが先に立って不安になり,日々相場ばかりを気にして,仕事に手がつかなくなるのです。すると,わずかばかりの利益というメリットよりも,精神的に病むようになるというデメリットのほうが大きいのです。つまり,素人の投資は割の合うものではないのです。

 それにしても,今回の円安,陰では批判していても,忖度ばかりで日銀の総裁に進言する人もおらず,ずっと引きずったままです。どうして,この国はいつもいつもそんなことをくり返しているのでしょうか。
 1970年代のオイルショックのときも,1990年代のバブル経済の崩壊のときも,2008年のリーマンショックのときも,そしてまた,現在も,日本の経済政策は,引き際ということができないのです。同じ失敗を何度も繰り返しているだけです。そして,そのたびに日本が劣化していくのです。
 政治が日銀が失敗に何も学ばないことや方針を変更できないのは,落としどころを考えずに,一度決めたらその施策を後先考えず推し進めること,そして,失敗をしても責任をとらなくてもいいという,日本流の「やさしさ」,というより「甘え」からくるものなのでしょう。
  ・・
 コロナ禍が深刻なとき,「気の緩み」とかいう上から目線のことばが流行りました。人出が増えると「気の緩み」と言われました。それは私の大嫌いなことばでした。こうした風潮を起こすことで,今なお,屋外でもマスクをはずさないような,熱中症にかかるリスクだけで何のメリットもないのに他人の目を気にするだけで自分で考えない多くの庶民は行動を遠慮し,その結果,多くの店はつぶれ,人々の精神が病みました。これぞ,第2次世界大戦で何も学ばなかった日本人そのものもです。
 「気の緩み」。そういうことを言っていた学者とかそれを記事にしたマスコミはどうかしていますが,これこそが,いわゆる「上級国民」には忖度し,庶民には上から目線,といった,この国の根源であるいじめ体質そのものでした。
 しかし,今,最も緩んでいるのは金融です。こんな政策を将来も考えずにまだ推し進めていることこそが「気の緩み」そのものです。コロナ禍で盛んに「気の緩み」といった主張をしていた人は,今こそ,忖度などやめて,盛んに,金融政策を「気の緩み」と書くべきでしょう。


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「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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 今回のブログは車が話題なので,それにちなんで,写真はアメリカのトヨタディーラーです。

 モノには執着心も想い入れもない私は,見栄でモノを買うこともないのですが,どうしても手に入れなければならないモノは,あくまでも機能重視であり,必要十分で,かつ,安価であればよく,そして,一旦買えば,できるだけ長く使い続けます。
 車もまた同じで,安全に故障なく動けばいいと思っています。そもそも,日本では,一般道は道路が狭くいつも混み合い信号だらけだし,高速道路はまれに3車線あれどほとんどが2車線でさらには1車線だったりして高速道路ともよべない情けない姿なのに,そんな道路を意味もなくすごいスピードで飛ばしていったり煽ることを生きがいとしているような,車の運転の基本すらできないマナーの悪い人が多くいたりします。こんな国で車に凝っている人を気の毒に思います。一度,アメリカやオーストラリアで走ってごらん,と言いたくなります。
 アメリカやオーストラリアで車を借りるときは,1日に1,000キロメートル以上を安全に走行するためにSUVに乗る私も,日本では,車なんて自転車と同じだと思っているので,乗っている車は2年落ちの中古車。買ってからかれこれ6年目となりますが,今も大切に使っていて,買い替える気持ちはまったくありませんでした。しかし,先日,いつものように定期点検に出したとき,次の車検にはタイヤを交換したり,ほかにもいくつかの修理が必要であると言われて,さすがにこりゃ,そろそろ替え時だと観念しました。

 次に車を買い替えるときもまた,前回と同じようにお値打ちな中古車でいいやと思っていたので,家に帰ってネットで探してみると,意外にも,私が思っていたようなお値打ちな中古車がまったくありませんでした。5年落ちでも200万円。これには驚きました。
 現在,世界的な半導体不足で,さまざな工業製品の生産が遅れています。車もまた同様だそうで,新車を買おうとすると,何か月も待つ必要があり,それでは間に合わない人が中古車に目を向けるので,中古車市場が値上がりをしていて,さらに,在庫もあまりないということです。
  ・・
 まだ車検には半年あるので,今新車を注文すればなんとか車検には間に合うのでしょうが,いくらお金があったとしても,たかが車に何百万円ものお金を一挙に出す気持ちにはなりません。そんなわけで,どうしたものかと思案をしていて目に留まったのが「KINTO」という車のサブスクでした。
 「KINTO」というのは,毎月,数万円の定額とボーナス時の増分を支払うだけで,自動車税も車検代も消耗品代も,さらには,任意保険までが込々になっているので,あとはガソリン代だけで車に乗れるというものだそうです。レンタカーみたいです。
 そこで「KINTO」について調べてみました。
 さまざまな口コミを読むと,安くないとか,いや,お値打ちだとか,いろいろな意見が書かれてあったので,実際に計算をしてみました。はじめに全額を出して車を購入してそのあとに必要になるさまざなま諸経費やら税金やら自動車税やらをこれまでに私が払った実績をもとにして調べていくと「KINTO」で支払うのと新車を買うのとは同じくらいのものだということがわかりました。むしろ若干「KINTO」 のほうが安いくらいでした。
 おそらく,会社の本音としては,一度に全額払うお金がない人に車を買ってもらうように仕向けたくて作ったものだと思います。だから「KINTO」が決してものすごくお値打ちというわけではないのですが,私は,そんな損得は別として,車検やら任意保険やら自動車税やらといったわずらわしさがまったくないということが魅力的に思えました。毎年やってくる3万円以上の自動車税を払わなくてもいいというのはかなり痛快ですし,うっとおしい任意保険の契約も不要です。これだけでもうれしい。

 車に限らず,私は,常々,モノを買うという行為はお金のない人がすることであって,本当の金持ちはモノは買うのではなく借りるものだとずっと思ってきました。もし,私が大金持ちだったら,家は買わず,ホテル住まいを選びます。買うことと借りることの根本的な違いは,買えばメンテナンスは買った側の責任であり,借りれば貸す側の責任だということです。これが大きい。
 とにかく,人が最も幸せなのは自由ということであって,その妨げになるのは,地位と名誉だけでなく,モノを所有しているということです。持っていて困らないのは知恵とお金だけ,というのが私の究極的な考え方です。ならば,そんな私の哲学に「KINTO」というシステムは理想的だな。
  ・・
 と,はじめはその程度のことを思ったのですが,よくよく考えてみると,もっと別の発想を思いつきました。それは,たとえば,300万円で車を買うとしたとき,はじめにお金を全額支払って車を手に入れれば,お金はその時点で車という実体となってしまい,その先は実体,つまり車が劣化するにしたがってどんどんと価値がなくなってしまうということになります。しかし,総額300万円の車を「KINTO」で7年間,毎年44万円程度を均等に支払って使うのならば,契約したときに300万円というお金は全額お金のまま手元に存在するので,そのお金を生かす他の道が存在するということです。
 それは,たとえば投資です。
 ちなみに,私は,40年以上,たまに投資で遊んでいるのですが,損をしたことは一度もありません。あるいは,投資に自信がない人でも,今,金利が安いといっても私がやっているあおぞら銀行のBANK支店のように0.2パーセント程度のものは存在していて,それを使って貯金をすれば,7年で確実に4万円以上は増えるのです。または,途中解約はできませんが10年満期で金利0.5パーセントというソニー銀行の円定期plusなら10年で15万円ほど増えるから,もともと15万円割安とも考えられます。
 しかし,新車を購入するより「KINTO」のほうが損だの得だのという話題はネット上を賑わしていても,私がここで書いているように,300万円をモノに変えずお金で持っていれば,それを運用したり別の用途に使えると書かれたものを見たことはありません。投資という面だけでなく,毎月数万円定額を支払うお金が必要だと思うだけでも,そのお金を工面するために少しだけ無駄遣いをしない気持ちが生まれる,これもまた大きいのです。さらに「KINTO」はクレジットカード払いなので,ポイントも増えます。

 モノを買うというのは,借金までしてすることではありません。しかし,それを手に入れるお金があったとしても,お金というのは,一旦モノという実体に変えてしまうと元には戻らないし,買ったモノも価値が下がっていきます。だから,支払うお金があったとしても,それは小出しにして一挙に支払わず,なるべくモノには変えず,お金のまま運用するほうが使い道があるというものです。また,あるいは,毎月出費の必要なお金があるというのは無駄遣いをしなくなる,という利点も生まれるのでしょう。

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☆☆☆☆☆☆
 6月14日の朝日新聞「語る・人生の贈りもの」というコラムに,囲碁棋士の小林光一さんが「3時に起床して囲碁の研究をしている」とありました。
  ・・・・・・
 3時に起きてます。昔から早寝早起きだったけど,さらに起きるのが早くなってね。
  ・・・・・・
 だそうですが,私も同じようなもの。歳をとると寝るのも体力がいるのです。そこで,早起きになった私は,早朝に星を見るのはまったく苦ではないのです。しかし,特に6月は夜明けが早く,午前4時にはもう明るくなるので,星を見るために早起きするとなると,午前4時ではすでに遅いので,若い人には困難な話です。

 そんな季節ですが,現在,明け方の空には,水星,金星,火星,木星,土星,天王星,海王星まで揃っています。これを「惑星直列」とかいうそうです。さらに,ここ数日は月までも参加です。
 しかし,あいにくの梅雨空なので,一向に晴れません。
 6月19日は午前3時30分に起床しました。今日も曇りだろう,とは思ったのですが,せっかく起きたのだからと窓を開けると,意外にも月や金星が明るく輝いていました。そこで,カメラを三脚に固定して,魚眼レンズを取りつけて,サンダル履きで近くの田んぼのあぜ道まで出かけました。寒くないので楽です。そして午前3時46分に写したのが,今日の1番目の写真です。
 こういった現象は,写真で見るより,実際に空を眺めたほうがずっと感動するものです。

 ところで,もう,6年以上も前のことになりますが,当時もまた「惑星直列」が話題となりました。そのときのバカげたニュースは次のものでした。
  ・・・・・・
【緊急警告】
 1月20日,5つの惑星が一直線に並ぶ「惑星直列」(The Parade of Planets)が起きる!  地球が無重力になり,自然災害も多発か!?
  ・・
 しかし実際のところ,地球が無重力状態となる現象は起きませんでした。
 ちなみに,過去に水星から海王星までの太陽系の全惑星が絡む「惑星直列」が起きた年の出来事を調べてみると,989年の新潟焼山の大噴火,1666年のロンドン大火,1982年の北海道浦河沖地震やフォークランド紛争など,世界を震撼させるような事件や災害が起きていることは確かです。
  ・・・・・・
 ということだったのですが,であるなら,このところの新型コロナウィルスの世界的な蔓延も,ロシアによるウクライナ侵攻も,異常な円安も,半導体の不足も,ジェネリック薬品の品薄も,みな「惑星直列」が原因なのでしょうか?

 ところで,この,2016年に起きた「惑星直列」は1月末から2月はじめのことだったのですが,このときに写した写真も載せておきます。3番目が2016年1月31日で5番目が2016年2月8日,ともに朝6時ごろです。このときは冬だったので,空が明るくなるのは遅く,さほど早起きしなくてもよかったのですが,最も寒いときでした。当時はすごい現象を写したと思っていたのですが,このときの「惑星直列」は現在とは違って,天王星と海王星は参加していなかったことを,改めて今回調べて知りました。
 ならば,今回のほうがずっとすごいです。でも,晴れないので,「惑星直列」は話題にもなりません。いや,それとも,世の中に星を見ているような余裕がないからでしょうか?

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西教寺は,標高843メートルの比叡山の南東山麓に大きな寺域を持つ天台真盛宗の総本山です。
聖徳太子が創建し,のちに天智天皇から西教寺の勅願を賜わり,平安時代には,延暦寺中興の祖良源が,続いて横川の源信が庵を結んで修行道場としたと伝えられている古刹です。
その後荒廃していましたが,室町時代末期に真盛が入寺して再興しました。
真盛は,戒律の厳守と称名念仏の励行を唱え,以来,西教寺は戒律と念仏の道場となりました。
荘厳な風格を誇る本堂や伏見城の遺構を移したという客殿,内部には狩野派による人物や花鳥襖絵などがあります。また,庫裏南側,客殿西側,書院南側,書院北側にれぞれに趣が異なる庭園があって見ごたえがあります。
  ・・・・・・

私は,西教寺もまた,以前訪れたことがありますが,ほとんど記憶がなかったので,今回,堅田の浮御堂とともに行ってみました。私の目当ては一昨年の大河ドラマ「麒麟がくる」でも紹介された明知一族の墓でした。
  ・・
1571年(元亀2年)織田信長による延暦寺焼き討ちで災禍を被った西教寺,その復興に貢献したのが明智光秀でした。明智光秀は焼き討ち直後に坂本城の城主となり,西教寺の檀徒になりました。
総門は坂本城城門を移築したもので,また,かつて,鐘楼堂の鐘は陣鐘を使用していました。
1582年(天正10年)にこの世を去った明智光秀は,西教寺に正室の熙子や明智一族の墓とともに祠られています。

熙子の墓の左側に,松尾芭蕉の句碑があります。
  ・・・・・・
 月さびよ明智が妻の咄せむ
 寂しい月明りのもとですが明智光秀の妻の昔話をしてあげましょう。
  ・・・・・・
高さ140センチメートル,幅80センチメートルの自然石からなるこの句碑の筆跡は作家の中島道子さんです。
松尾芭蕉46歳のときの「真蹟懐紙」に
  ・・・・・・
将軍明智が貧のむかし,連歌会いとなみかねて,侘びはべれば,その妻ひそかに髪を切りて,会の料に供ふ。明智いみじくあはれがりて「いで君,五十日のうちに輿にものせん」と言ひて,やがて言ひけむやうになりぬとぞ。
  ・・・・・・
また,「俳諧勧進牒」に
  ・・・・・・
伊勢の国又幻が宅へとどめられ侍る比,その妻,男の心にひとしく,もの毎にまめやかに見えければ,旅の心を安くし侍りぬ。彼の日向守の妻,髪を切りて席をまうけられし心ばせ,今更申し出でて
  ・・・・・・
とあり,そのあとに,この句がかかれてあります。
伊勢の神職で蕉門の又幻は神職間の勢力争いに敗れ,この頃,貧窮のどん底にありました。
松尾芭蕉は「奥の細道」の旅を終えて伊勢の遷宮参詣の折りに又幻宅に止宿しました。貧しさにもかかわらず又幻夫婦の暖かいもてなしを受けた松尾芭蕉が感激して贈ったのがこの句です。
引用したのは,明智光秀の若き日,妻熙子が長い黒髪を切り,売った費用で立派な連歌会を営み夫の面目を保ったという逸話からです。この句で,あなたのその心掛けは必ず報いられる日が来ますよ,と又玄の妻を讃えたものです。

1973年のNHK大河ドラマ「国盗り物語」では,中野良子さんが明智光秀の妻,このときは熙子ではなく槙(まき)を演じ,病気で薬を買うこともできない貧しい夫のために黒髪を売って朝鮮人参を手に入れるという設定のシーンがありました。
また,2020年の「麒麟がくる」では,妻熙子が亡くなる第39回の番組の最後の「紀行」で西教寺が紹介されていました。

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浮御堂はいろいろな書物にその写真が載っているので,行ったことはなくとも知らない人はほとんどいないことでしょう。琵琶湖に突き出たお堂が写真映えするのです。浮御堂のある場所は,琵琶湖の西岸,琵琶湖大橋を越えて南に行った堅田というところです。しかし,道が狭く,お堂にたどり着くまでがけっこうたいへんです。
私は,かなり以前に一度訪れたことがありますが,ほとんど記憶がなかったので,今回,大津市にある義仲寺の松尾芭蕉の墓に行ったとき,浮御堂まで足をのばしてみました。
浮御堂は,臨済宗大徳寺派海門山満月寺にある仏堂です。近江八景の「堅田の落雁」に描かれていることで有名になりました。
  ・・・・・・
  峰あまた こへて越路に まづ近き 堅田になびき おつるかりがね
  ・・・・・・

1934年(昭和9年)に室戸台風で倒壊してしまったので,現在の浮御堂は,1937年(昭和12年)に再建されたものですが
  ・・・・・・
10世紀ごろのこと。
源信(恵心僧都)が比叡山横川から琵琶湖を眺めると,毎夜,その光明の赫々たるを怪しんで,網でこれを掬いとらせると,それは1寸8分,約5センチの小さな黄金の阿弥陀仏像でした。そこで,魚類殺生供養のためにと,ひとまわり大きな阿弥陀仏像1体を造り,その体内にこれを納め,さらに,1,000体の阿弥陀仏像をも奉安し,創建したとあります。
一時荒廃しましたが,江戸時代,第115代桜町天皇によって能舞台をたまわり再興しました。
  ・・・・・・
1934年(昭和9年)に室戸台風で倒壊してしまったので,現在の浮御堂は,1937年(昭和12年)に再建されたものです。

ここもまた,松尾芭蕉ゆかりの地です。
1691年(元禄4年),48歳の松尾芭蕉は近江の門人たちに俳諧を教えながら,義仲寺境内の「無名庵」で暮らしていました。
中秋の名月が美しい夜,門人たちが無名庵に集まり,句会を催しました。
句会に集まった向井去来,野沢凡兆をはじめとする門人たちとともに,その翌日,松尾芭蕉は琵琶湖に漕ぎ出ます。やがて,海に張り出した小さなお堂が見えてきました。それが浮御堂でした。
浮御堂のほとりに舟を止め,浮御堂に渡ります。
住職が浮御堂に渡ってきて,お堂の錠を開きました。
錠を開くと,お堂の中に十六夜の月の光が差し込みました。
  ・・・・・・
 錠あけて 月さし入れよ 浮御堂 やすやすと出でて いざよふ月の雲
  ・・・・・・
松尾芭蕉が亡くなったのはこの3年後のことでした。
そして,未完だった「奥の細道」は,松尾芭蕉没後の1702年(元禄15年),京都・井筒屋から刊行されました。

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堅田


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先日,NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の紀行で紹介されたことがある義仲寺へ行ってきました。
ずいぶん前にも1度行ったことがあるのですが,ほどんど記憶から飛んでいました。
義仲寺のある場所は大津市ですが,道が狭く,わかりにくく,カーナビを使っても迷いました。やっと到着したのに,今度は車を置く場所すらありませんでした。再びさまよった挙句,ずいぶんと遠くにコインパーキングを見つけて駐車して,そこから歩きました。
義仲寺は小さな寺でしたが,テレビの影響は強く,訪れる人が少なからずいました。
  ・・・・・・
大津市は,木曾義仲が源頼朝軍と戦い,討ち死にした地です。
義仲寺(ぎちゅうじ)は,木曾義仲を弔うために建てられました。 義仲寺の本堂には,聖観世音菩薩が祭られていて,その隣に木曾義仲の木像が安置されています。
義仲寺は,木曾義仲の死後,愛妾であった巴御前が木曾義仲の墓所近くに草庵を結び「われは名もなき女性」と称し,日々供養したことにはじまると伝えられます。
戦国時代に荒廃しましたが,1553年(天文22年)ごろ,近江守護の六角義賢によって再興されました。義仲寺の墓は,もともとは今のようなものではなく,室町時代の終わりに近江国守の佐々木六角がこの地を見て 「源家大将軍の御墳墓荒るるにまかすべからず」と再建したものです。
また,木曾義仲の墓の横には巴御前の供養塔があります。
  ・・
なお,義仲寺の木曾義仲の墓は首から下の胴塚で, 首塚は京都の八坂神社近くの法観寺にあります。法観寺は八坂塔として知られている臨済宗建仁寺派の寺院です。八坂塔は1440年(永享12年)に室町幕府第6代将軍足利義教によって再建されたもので,他の伽藍は応仁の乱で全て焼失し,五重塔だけが残りました。
義仲寺は,江戸時代になり再び荒廃しましたが,17世紀末貞享年間に,浄土宗の僧・松寿により木曾義仲の塚の上に新たに宝篋印塔の義仲の墓を建立し,小庵も建立して義仲庵と名づけて再建が行われ,1692年(元禄5年)に寺名を義仲寺に改めました。
  ・・・・・・

ということなのですが,私の目的は,松尾芭蕉の墓でした。
木曾義仲の生涯に熱い思いを寄せていた松尾芭蕉が,「奥の細道」の旅の途中で,木曾義仲について詠んだ句があります。
  ・・・・・・
  義仲の 寝覚めの山か 月悲し
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この句は「奥の細道」にはなく,松尾芭蕉が,1689年(元禄2年)8月14日,等哉を同道して木の芽峠から敦賀に入り出雲屋という旅宿に泊まったとき,その夜に15句詠んだと伝えられている「芭蕉翁月一夜十五句」に収めらているものです。
松尾芭蕉は,40歳のときにはじめて大津を訪問し,それから亡くなるまでの10年間に8回も大津に足を運び,必ず義仲寺に泊まりました。義仲寺にはこじんまりとした資料館があって,そこに数々の芭蕉の遺留品が残っていて,見学することができました。その中で,私が最も興味をもったのが杖でした。この杖は松尾芭蕉が実際に使用していた「椿の杖」です。椿は強い木で松尾芭蕉は旅をする時この杖を使ったということです。
1694年(元禄7年)に大阪で亡くなった芭蕉は 「骸は木曾塚に送るべし」と遺言し,義仲寺に着きました。亡くなった松尾芭蕉は,遺言に従い,木曾義仲の墓の隣に埋葬され,今もなお木曾義仲に寄り添っています。義仲寺の境内の一番奥にある茅葺の建物が翁堂で,ここに芭蕉がお祀りされています。
正面奥に芭蕉の坐像があり,その周りに36人の門人の肖像画があるそうです。
  ・・
義仲寺は蕉門俳諧の人々によって護持されていましたが,その後またも荒廃してしまいましたが,1769年(明和6年)に京都の俳僧蝶夢法師が数十年の歳月をかけてようやく中興しました。
さらに,1896年(明治29年)に琵琶湖大水害で被害を受たり,太平洋戦争後に再び荒廃壊滅の危機に瀕したりしました。しかし,一個人の篤志家に寄進で,1965年(昭和40年),園城寺の三門跡のひとつ円満院となっていた義仲寺は円満院から買い取られ独立・再興し,単立の寺院となりました。

 なお,大津市は,近江八景のひとつ「矢橋の帰帆」で知られています。
 江戸時代,東海道で京へ上るとき,瀬田の唐橋を経由するより,草津市の琵琶湖畔・矢橋から白い帆をかけて船で大津の石場港へ至るほうが短くてすむことから旅人に重宝されました。これが現在の近江大橋につながります。「矢橋帰帆」は,この矢橋港から帰港の途につく帆船を中心に描いたものです。
  ・・・・・・
  真帆ひきて 八橋に帰る 船は今 打出の浜を あとの追風
  ・・・・・・

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矢橋


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山形への旅から帰って,すっかり「奥の細道」にはまってしまった私は,久しぶりに大垣市にある「奥の細道」むすびの地を訪ねました。
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露通も此みなとまで出むかひて,みのゝ国へと伴ふ。
駒にたすけられて大垣の庄に入ば,曾良も伊勢より来り合,越人も馬をとばせて,如行が家に入集る。
前川子・荊口父子,其外したしき人々日夜とぶらひて,蘇生のものにあふがごとく,且悦び,且いたはる。
旅の物うさもいまだやまざるに,長月六日になれば,伊勢の遷宮おがまんと,又舟にのりて,
   蛤のふたみにわかれ行秋ぞ
   「奥の細道」松尾芭蕉
  ・・
露通が敦賀の港まで出迎えに来てくれて,美濃の国へと同行する。
馬の背に乗せられて大垣の庄に入れば,曾良は伊勢より来,越人も馬を飛ばせて,如行の家に集まっている。
前川・荊口父子,その他親しい人々が日夜見舞ってくれて,まるで生き返った人に再会するかのように,喜んだり,労わってくれたり。
旅の疲れはまだ残っているものの,9月6日,伊勢神宮遷宮に参ろうと,ふたたび舟に乗る。
  ・・・・・・
これは「奥の細道」のむすびのところです。
芭蕉は,敦賀まで出迎えに来た路通を同道して大垣に入ります。
敦賀から大垣までは結構な距離があり,琵琶湖の西岸を通ったのか,東岸を通ったのか…。おそらく,東岸を通ったのでしょう。
最後の句の「ふたみ」はハマグリの「双身」と「二見ヶ浦」をかけたものです。また,「奥の細道」の旅立ちの歌「行く春や鳥なき魚の目は泪」と対をなしています。

大垣市の「奥の細道」むすびの地は大垣船町川湊というところにあります。松尾芭蕉は,1689年(元禄2年)の秋,ここで「奥の細道」の旅を終えました。
とてもいいところで,私のお気に入りの場所です。春には桜が満開となりますが,今は静かで落ち着いています。歌碑があって,赤く塗られた住吉橋からの景色がすばらしいです。
たもとに奥の細道むすびの地記念館があります。
この建物に中に,芭蕉舘という常設展示室があって,「奥の細道」を旅路ごとに区切って関連する資料と映像で詳しく紹介されています。この展示室もまた,とてもすばらしいものです。

ところで,大垣市の名物といえば,水まんじゅうです。
JR 大垣駅前にある老舗金蝶園総本家のホームページには次のように紹介されています。
  ・・・・・・
古くから大垣は良質な地下水が豊富な事から,水の都と言われています。この名水によって明治時代のはじめに生まれたのが,大垣名物「水まんじゅう」です。
冷たい地下水に漬けて冷やすよう,葛に水に強いわらび粉を混ぜ,柔らかく炊き上げた生地を陶器のお猪口に流して固めたものです。
あっさりとした餡の甘さとつるりとした食感が特長で,店頭の水槽の中,お猪口に入った水まんじゅうが冷やされる姿は水の都大垣の夏の風物詩となっています。
  ・・・・・・
私も土産に買って帰りました。

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 梅雨入り前の数日。考えてみれば,私は,この季節が一番好きかもしれません。暑くも寒くもなく,遅い日暮れのあと,アジサイ,ホタルなど,とても味わい深い自然と接することができます。しかし,まもなく,蒸し暑い嫌な季節がやってくることだけが気がかりです。
 私の家の近くにはアジサイ寺があって,毎年,美しい花を咲かせて,楽しむことができます。今年も行ってみました。

 アジサイというのは,藍色の花が集まるという意味の「集真藍」(あづさあい)が変化したものといわれています。また,学名のハイドランジア(Hydrangea)は,アジサイが根から非常に水をよく吸うことから,ギリシア語のハイドロ(水)とアンジェイオン(容器)を意味していて,これは「水の器」という意味になります。漢字では紫陽花とかきます。
 アジサイの原産は日本で,古い時代から自生していたようですが,それは,現在,ガクアジサイとよばれる品種でした。歴史的には,長い間,そのすばらしさが忘れ去られてしまっていたという不思議な植物ですが,それは,アジサイは開花してから花の色が変わっていくことが移り気あるいは不道徳であると考えられたから,という説があるそうです。実際,アジサイの花の色は,土壌の酸性度によって移り変わります。酸性土壌では青,アルカリ性土壌では赤というから,これはリトマス紙とは反対です。

 奈良時代,「万葉集」ではアジサイが詠まれたのはわずか2首ですが,このころは,アジサイは「味狭藍」「安治佐為」と記述されていました。
  ・・・・・・
 事不問 木尚味狭藍 諸弟等之 練乃村戸二 所詐来 
 言問わぬ 木すら紫陽花 諸弟らが 練の村戸にあざむかえけり
 言葉を言わない木でさえアジサイの花のように(色が)変わる あなたの練達な心にだまされてしまいました
   第4・0773 大伴家持
  ・・・・・・
 大伴家持が坂上大嬢に贈った歌のひとつで,坂上大嬢の「心変り」をアジサイの花の色の変化と合わせて詠んだものでしょう。
 諸弟,練の村戸が何かがはっきりしていないので,解釈のむずかしい歌だといわれています。
  ・・・・・・
 安治佐為能 夜敝佐久其等久 夜都与尓乎 伊麻世和我勢故 美都々思努波牟
 紫陽花の 八重咲くごとく 八つ代にを いませ我が背子 見つつ偲はむ
 八重に花くアジサイみたいにいついつまでもお元気でお過ごしください 花を眺めてあなたを思い出しましょう
   第20・4448 橘諸兄
  ・・・・・・
 宴席で宴の主人である多治比国人の長寿を祝い詠んだ歌とされています。八重はたくさんという意味で,たくさんめでたいという意味になります。「千代に八千代に」と同じです。

 平安時代になると,アジサイは「安治左井」と記されています。また,「安豆佐為」との記述もあります。「アジサイ」または「アズサイ」と発音していたのでしょう。
  ・・・・・・
 あかねさす 昼はこちたし あぢさゐの 花のよひらに 蓬ひ見てしがな
 茜がさすような人目に触れる昼間は嫌のです
 アジサイの花びらが4枚(よひら)であるように宵になったらお逢いしたいものです
   「古今和歌六帖」第6・3912 詠み人知らず
  ・・

  ・・・・・・
 しかし,「源氏物語」「枕草子」「古今和歌集」にはアジサイの記述はありません。こうして,これ以後,長い間,忘れ去られてしまったのです。

 小さな花が集まって球状に見える手まり咲きのアジサイの記録は,安土桃山時代に入ってからみられるようになりました。画家による最も古いアジサイ画は狩野永徳の描いた「松と紫陽花図」で,京都の南禅寺に所蔵されています。
 江戸時代末期になると,ドイツ人医師のシーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold)が国籍を偽っていた罪で国外退去処分となり,母国オランダへ帰国します。帰国後,「日本植物誌」(Flora Japonica)を著し,その中でアジサイ属の花14種を新種として紹介し,ヨーロッパで人気を博し,品種改良が盛んになり,アジサイが日本に逆輸入されました。
 逆輸入されたアジサイの中に「Hydrangea Otakusa」という名前の花があります。
 それは,シーボルトが日本に滞在していたときの愛人の名前を「お滝さん」(楠本滝)といい,そこからとられた名前なのです。私は,かつて,大学でそのことを習いました。
 その「お滝さん」の娘さんがシーボルト・イネ。
 1977年のNHK大河ドラマ「花神」では,浅丘ルリ子さんが演じたシーボルト・イネと,中村梅之助が演じた村田蔵六,のちの大村益次郎の微妙な関係が描かれていました。


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「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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アラスカ州のアンカレッジやニュージーランドのクイーンズタウン,ハワイ州モロカイ島の空港のような,小さな「おいしい山形空港」に着きました。レンタカーを返却して,後は帰るだけです。帰りの便は午後4時20分発でした。
2020年7月に北海道に行ってから2年ほどこうした旅をしていなかっただけなのに,とても新鮮でした。そして,旅の楽しさを思い出しました。
それにしても,日本は狭いです。「おいしい山形空港」を離陸したと思ったらあっという間に県営名古屋空港に着いてしまいました。名古屋と山形の飛行時間は,ハワイ州オアフ島のホノルルからハワイ島のコナまでとさして変わりません。コーヒーとともに,帰りは行きと違って,パンではなくケーキが出ました。
そんなわけで,私にとれば,飛行機を利用した国内旅行なんてちょっとそこまで,という感じで,旅行のうちにも入らないのですが,それでも,山形は別世界,期待以上のところでした。
県営名古屋空港も空いていて利用しやすかったし,FDAは快適でした。
また,気軽に何度も来てみたいと思ったことでした。

飛行機も北海道以来,久しぶりでした。
日本の国内線は,行きは後部座席,帰りは前のほうが快適だということが利用してみてわかりました。それは,行きは,混雑防止のために後部座席から搭乗案内がされることや後部座席のほうが空いていること,帰りは,早く降りられることが理由です。なんか話が矛盾しているように思うでしょうが,利用してみるとこの理由の意味がわかることでしょう。
また,わずか1時間程度なので,窓際のほうが景色が見られるのでいいのですが,気をつけないといけないのは主翼の横に座ると,せっかく窓際の席であっても景色がみられないということです。
  ・・
帰りは,期待に反して,ずっと曇りでした。
さすが晴れ男。私が滞在していた間はずっと天気がよく,帰るころになると曇ってきたわけです。もし,この旅が天気に恵まれていなかったら,私の印象はずいぶんと違っていたことでしょう。
ということで,北アルプスを見たいと思っていたのに,帰りの機内からは残念ながらずっと雲しか見ることができませんでした。
やがて,少しずつ雲が切れて,眼下に地上が見えてきました。ここはどこなのだろうと思いました。
すると,雪を被った標高の高い山が…。
それは御嶽山に違いないと思いました。そして家に帰ってから確かめると,やはり御嶽山でした。
行きは会津磐梯山が見え,帰りは御嶽山を見ることができました。
こうして,とても楽しい2泊3日の旅は終わりました。
次はどこに行こか? 外国人が日本にやってくる前の今こそ,落ち着いた旅をする絶好の機会です。

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山形と聞くと誰しもが思うのが佐藤錦というブランドのさくらんぼです。
山形空港のあたりは,ほんとうにさくらんぼ畑ばかりなのに驚きました。
さくらんぼ,とても高価なのです。さくらんぼ1個がリンゴ1個ほどの値段がします。
  ・・・・・・
「おうとう」からもぎとられた果実が「さくらんぼ」。
「おうとう」はバラ科サクラ属の果樹で,日本に渡来したのは1868年,山形県へは1876年に入りました。全国で試作されましたが,山形県以外ではほとんどが失敗しました。山形県でうまくいったのは,霜害と台風被害が少なかったことが理由でした。
その後「さくらんぼ」栽培は山形県内で普及し,現在は,全国生産量の約7割を占めるようになりました。
  ・・
「さくらんぼ」の中で,味も人気もナンバーワンの品種が「佐藤錦」です。
佐藤錦の生みの親は,東根市の篤農家・佐藤栄助さんでした。それまでは,「日の出」「珊瑚」「若紫」などの「さくらんぼ」を栽培していたのですが,収穫しても日持ちが悪くて,腐らせたり出荷の途中で傷んでしまったりと悩みが多いものでした。
1912年,佐藤栄助さんは,日持ちはよくないが味のいい「黄玉」と酸味は多いが固くて日持ちのいい「ナポレオン」をかけ合わせました。それが実を結びました。
こうして育った果実から,選び抜いて種をとり…,を繰り返すことで,16年もの苦労で,最終的に1本にしぼられた原木。これこそが最高品種でした。
山形生まれの比類なきこの品種を命名する際,はじめは「出羽錦」という案でしたが,「発見者の名前を入れた佐藤錦がいい」ということになったそうです。
「佐藤錦」の特長は,見た目がきれいな鮮紅色で光沢があり,甘みが多く,食味が良好であるということで,重さは1粒7グラムから8グラムですが,近年は12グラムから13グラムの大玉も多く出まわっているということです。
  ・・・・・・

最上川の舟下りを終え,昼食をとりました。これで,今回の旅も終わりです。
途中,新庄市,尾花沢市,東根市,天童市などを経由しながら,山形空港に向けて走りました。
山形は思っていたよりずっとすばらしいところでした。また,わずか2泊3日の旅なので,来るまでは,立石寺と天童市へ行くことができればいいと思っていたのですが,山形県のほぼすべての場所に行くことができました。
  ・・
唯一の心残りは「さくらんぼ」を食べることができなかったことでした。
「さくらんぼ」の旬は6月。まだ,少し早かったのです。そして,私は,この「さくらんぼ」にときめいてしまって,片時もわすれられなくなってしまったのです。
家に帰ってから「さくらんぼ」に関する多くのニュースを耳にするようになりました。それは,私が気にしているから耳に入るのか,はたまた,今がその季節なのか…。
そんなわけで,私は,さくらんぼを目当てに,山形市にふるさと納税をしてしまったのでした。

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私が乗った最上川舟下りの出発は午前10時50分でした。
予約なしで個人で行って,その場でチケットを買えば乗ることができるようでした。こんな時期でなければもっと混み合うのでしょうが,人が集まるだけ船が出るような感じでした。
私が最上川舟下りの乗り場である戸沢藩船番所着いたころは,学生で一杯でした。おそらく修学旅行なのでしょう。彼らは早々に集合して,チャーターされた船に乗船して出発していきました。
また,私が乗る時間には,団体ツアー客がいたので,やだな,と思いましたが,彼らもまた一般客とは別のチャーター船だったので,まったく問題はありませんでした。
個人旅行で最もいやなのは,こうした場合に団体客と一緒にされることです。
  ・・
私は,この最上川舟下りで,アラスカのフェアバンクスで乗った外輪船クルーズを思い出していました。アラスカの外輪船クルーズの方がはるかにスケールが大きいのですが,まあ,雰囲気だけは似ていました。

あまり期待もしていなかったのですが,さすがに人気アトラクションでした。船頭さんの案内がすばらしく,楽しいものでした。
途中で下車することはなく,船から景色を楽しみます。
見どころは次のようなものでした。
  ・・・・・・
●馬爪岩は義経の馬を休憩させてくつわを洗ったとされる場所で,岩には馬の足跡が…。
●弁慶のつぶ手石は弁慶があやしい人影めがけて投げた石がめり込んで残っています。
●仙人堂は義経の従者であった海尊(かいそん)が一行と別れたあと山伏修行ののちに仙人になったとされますが,その海尊を祀る神社です。
●白糸の滝は白糸のように一筋に落ちていく高さ123メートルの美しい滝です。義経の妻であった北の方が「最上川瀬々岩波堰き止めよ 寄らぞ通る白糸の滝」と詠んだといわれています。
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最上川の北岸は橋も道もなく,今はまったくの無人だということでした。まだ日本にもそんな場所があるのです。
最上川は穏やかでしたが,途中,何か所か,水の流れが早いところがあって,波が白くなっていました。しかし,狭く岩だらけの急流を迫力満点で進む京都の保津川下りとはまったく違うものでした。

舟下りがおわり,川の駅「最上峡くさなぎ」で下車,ここで,しばらくお土産タイムがあって,帰りは戸沢藩船番所まで路線バスに乗るというシステムでした。
最上川舟下り義経ロマン観光のものは,こうしたこともなく,同じ場所に戻るということなので便利ですが,コースがかなり短いものです。
この季節は新緑が美しく,また,幸い,天気がよかったので,十分に楽しむことができました。おそらく,もう少し早い季節なら桜が,また,秋には紅葉が,そして,冬であれば雪景色が美しいだろうと思いました。
  ・・
川の駅「最上峡くさなぎ」でバスを待つ間,さくらんぼ味のソフトクリームを食べました。
戸沢藩船番所まで戻って,ちょうどお昼。ここにあった「芭蕉庵」というおそば屋さんでざるそばを食べました。今度は板そばではありませんでした。

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山形に来るまでどうなっているのかわからなかった最上川の舟下りでしたが,実際は,最上峡芭蕉ライン観光と最上川舟下り義経ロマン観光の2社が運航していて,どちらも直接乗り場へ行けば利用できるということがわかりました。
最上峡芭蕉ライン観光は,戸沢藩船番所というドライブインのようなところから出発して,川の駅「最上峡くさなぎ」までの約12キロメートル1時間の船旅を楽しむものでした。また,最上川舟下り義経ロマン観光は,JR高屋駅前にある乗船所を起点として,途中,対岸にある仙人堂に上陸して立ち寄るのが目玉で,こちらもまた約1時間の周遊ののち,同じ場所に戻るというものでした。
どちらにしようかまよいましたが,結局,最上峡芭蕉ライン観光のものを利用することにしました。こちらの方が距離が長いし,ホームページが充実していて会社が大きいように思えたからです。

私は,早朝の参詣を終え,羽黒山から降りて,最上川舟下りの乗り場のある戸沢藩船番所に向かいました。途中はのどかな田舎道でした。やがて,最上川に沿った堤防道路に出ました。
最上川は,米沢市の吾妻山付近に源を発し,酒田市で日本海に注ぐわけだから,西に向かって流れています。しかし,お恥ずかしい話ですが,堤防道路を走るまでは,最上川の上流と下流がどちらなのかわかっていませんでした。
少し道を迷いながら上流方向の戸沢藩船番所に着いたのは,まだ午前9時30分ごろのことで,午前10時50分発の舟下りには十分間に合う時間でした。さっそくチケットを購入しました。
まだ乗船までは時間がたっぷりあったので,先ほど走った最上川の堤防道路を下流に向かって再び走ってみることにしました。20分くらい走っていくと,集落のある小さな町が見えてきました。その一角に松尾芭蕉の像があって,そのあたりが博物館のようになっていたので,降りてみました。
そこは清河というところでした。清川とも書きます。というか,地名は清川でした。

  ・・・・・・
清河の地は,出羽三山へと至る「いのりの道」のスタート地点で,ここで上陸して,人々は出羽三山へと旅を続けました。江戸時代には交通の要所であるこの地に関所があったとされ,現在も「舟つなぎの榎」や井戸跡が残っています。
  ・・・・・・
という説明がありましたが,これではわからないので,補足が必要のようです。
その昔,最上川流域に道はなく,本合海(もとあいかい)という,新庄の西にあたる河岸から清河までは最上川を運行する舟だけが唯一の交通手段でした。そこで,清河に上陸というのは,新庄のほうからやって来た人々が舟で最上川を下り,ここ清河で降りたということです。
松尾芭蕉もまた,曾良とともに,立石寺から最上川沿いの大石田に逗留したあと,羽州街道を北上し,猿羽根峠を越え,本合海から清河まで最上川を舟で下りました。
かつて,清河は最上川舟運で栄えた宿場町でした。
江戸時代にこの地にあった関所跡が観光の拠点として整備されていて,「舟つなぎの榎」や井戸跡が残っています。松尾芭蕉の像があったのも,この場所でした。
清河は,また,源義経の伝説や,戊辰戦争と明治維新の魁といわれる清河八郎を輩出した所として,源義経一行が一夜を明かした御諸皇子神社や,戊辰戦争で庄内藩と新政府軍が戦った古戦場「御殿林」などの遺構が残っていました。
残念ながら,観光をする時間がなかったので,関所跡で松尾芭蕉を偲んだのち,この小さな町を車で一周しただけで最上川舟下りの乗り場である戸沢藩船番所へ引き返しました。

  ・・・・・・
最上川のらんと,大石田と云所に日和を待。
爰に古き俳諧の種こぼれて,忘れぬ花のむかしをしたひ, 蘆角一声の心をやはらげ,此道にさぐりあしゝて,新古ふた道にふみまよふといへども,みちしるべする人しなければと,わりなき一巻残しぬ。
このたびの風流,爰に至れり。
最上川は,みちのくより出て,山形を水上とす。ごてん・はやぶさなど云おそろしき難所有。板敷山の北を流て,果は酒田の海に入。左右山覆ひ,茂みの中に船を下す。
是に稲つみたるをや,いな船といふならし。
白糸の 滝は青葉の隙々に落て,仙人堂,岸に臨て立。水みなぎつて舟あやうし 。
  五月雨をあつめて早し最上川
   「奥の細道」松尾芭蕉
  ・・
最上川を舟で下ろうと大石田というところで日和を待った。
「ここには古くから俳諧が伝えられていて,いまも俳諧隆盛の昔を慕って「蘆角一声」の田舎の風流を楽しんで,今日まで,この俳諧の道を手探りで来たけれど,新しい句風に進むか古い工夫を守るか教えてくれる先達もいないから」と言うので,断り切れず俳諧一巻を残した。
この旅はこんな風流にまで至ってしまったのである。
最上川は,米沢を源流とし,山形を上流とする。碁点や隼などという恐ろしい難所のある川だ。板敷山の北を流れて,最後は酒田の海に入る。
川の左右が山に覆われているので,まるで茂みの中を舟下りするようなことになる。
この舟に稲を積んだのを稲舟というらしい。
白糸の滝は青葉の木々の間に落ち,仙人堂は河岸に隣接して立っている。水を満々とたたえて舟は危うい。
  ・・・・・・
この紀行文の中にある「蘆角一声」ですが,蘆角(ろかく)というのは葦の葉でつくった笛で,「一声」はそれを鳴らすことなので,そういう侘しいところでささやかに風流を楽しんでいると表しているように感じます。田舎者のたしなみ,みたいな謙遜した雰囲気です。
  ・・
「舟あやうし」とあるので,今はのどかに見える舟旅も,この時代は結構危険なものであったようです。
有名な話ですが,この松尾芭蕉の句の初案は「あつめて涼し」だったのですが,推敲ののち「あつめて早し」と替えられたということです。実際に乗ってみて,最上川の涼しさよりも流れの早さを実感した松尾芭蕉は「あつめて早し」と表したくなったのでしょう。
また,エンジンのなかった当時,川船は下るときは流れに任せればよかったのですが,上るときは帆を立てて,何か月もかけてゆっくりと引き返したのだそうです。

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私は,意図したわけでもないのですが,松尾芭蕉が「奥の細道」で訪れたところを追って旅をしているようです。
羽黒山にも,松尾芭蕉の像と句碑がありました。
  ・・・・・・
六月三日,羽黒山に登る。
図司左吉と云者を尋て,別当代会覚阿闍梨に謁す。
南谷の別院に舎して,憐愍の情こまやかにあるじせらる。
四日,本坊にをゐて俳諧興行。
  有難や雪をかほらす南谷
五日,権現に詣。当山開闢能除大師は,いづれの代の人と云事を知らず。
延喜式に「羽州里山の神社」と有。
書写,「黒」の字を「里山」となせるにや。
「羽州黒山」を中略して「羽黒山」と云にや。
出羽といへるは,「鳥の毛羽を此国の貢に献る」と風土記に侍とやらん。
月山,湯殿を合て三山とす。
当寺武江東叡に属して,天台止観の月明らかに,円頓融通の法の灯かゝげそひて,僧坊棟をならべ,修験行法を励し,霊山霊地の験効,人貴且恐る。繁栄長にして,めで度御山と謂つべし。
   涼しさやほの三か月の羽黒山
   「奥の細道」松尾芭蕉
  ・・
陰暦六月三日、羽黒山に登る。
図司左吉を訪ね,彼を通じて羽黒山別当代会覚阿闍梨に会うことができた。
南谷別院を宿舎として与えられるなど,別当代の好意,その情こまやかに温かくもてなしてくれた。
四日,別当代の本坊において俳諧興行。
五日,羽黒神社に参詣した。
この神社を開いた能除大師については,何時の時代の人かさえ分からない。
延喜式には「羽州里山の神社」という記述がある。
書き写すときに,「黒」という字を「里山」と書き誤ったのではないか。
羽黒山というのは,羽州の黒山の「州」の字を省略して羽黒山というのではないだろうか。
出羽というのは,「鳥の毛羽を此国の貢物に献る」と風土記に書いてあるというから,そこから名づけられたものであろう。
羽黒山に月山と湯殿山を加えて出羽三山という。
この寺は,江戸の東叡山寛永寺に属し,天台宗の摩訶止観の教義は月明かりのように暗闇を照らし,円満にして偏らず,速やかに成仏するという「円頓融通」の法灯を掲げて発展し,僧坊は軒を並べて林立。
修行が盛んで,霊場としての霊験はあらたか。
よって人々の畏れと尊崇を集めている。
その繁栄は永遠で,実にめでたい御山というべきである。
  ・・・・・・
ここでは,羽黒山の部分だけを載せましたが,松尾芭蕉は,私の行くことができなかった月山にも登っています。この時代の人たちの健脚さには驚かされます。また,松尾芭蕉が生きていたころ,この場所の風景はどんなものだったのだろうかと想像します。

松尾芭蕉は,1644年(寛永21年)に伊賀上野の下級武士の次男として生まれました。本名は松尾甚七郎といいました。1682年(延宝10年)深川のほとりの草庵に転居したとき,芭蕉の株を贈られたことから松尾芭蕉と名乗るようになったといいます。
芭蕉が俳人として最後の旅に出て編んだのが「奥の細道」で,これは平安時代の歌人西行法師の足跡をたどった枕歌巡りの旅でした。
「奥の細道」のルートは,江戸から宮城県の松島,岩手県の一関,山形県の鶴岡を経て,日本海側を進み,福井県の敦賀から岐阜県の大垣までの全行程2,400キロメートル,150日間の旅でした。
  ・・
このうち,東北地方を巡ったのが,松島から平泉,鶴岡にかけてのルートです。
現在の暦で7月上旬に山形県の尾花沢を訪れて,立石寺へ行き,大石田から最上川を下り,出羽三山に7日間滞在。ここで祓川や五重塔,羽黒権現,そして,残雪残る月山に登頂し月山権現にも参拝しました。
そこで,私がこの旅で立石寺,出羽三山,最上川と巡ったのは,まさに,松尾芭蕉の足跡をたどった枕歌巡りの旅となったわけです。

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羽黒山の五重塔から駐車場に戻ってきたのが午前7時すぎでした。
山頂に至る有料道路は午前8時からということだったので,まだ,ずいぶん時間がありましたが,ダメ元で行ってみると,すでに係の人がいて,「登れますか?」というと「いいよ」ということだったので,料金を払って,有料道路に入りました。
やがて,山頂近くの広い駐車場に着きましたが,当然のこと,まだ私以外にだれもいませんでした。
2日前に行った立石寺もそうなのですが,普通はすごい観光客なのだそうです。しかも,コロナ禍以前ならインバウンドで外国人観光客だらけだったことでしょう。
  ・・
静まり返った境内でした。
私は,車で登ってしまったのですが,少しは参道を徒歩で登ってきた気持ちになろうと,参道の石段を少し降りて,再び登ってみました。出迎えてくれたのは朱の鳥居でした。
この場所には,もともとは江戸講中より寄進された青銅の鳥居があったのですが,第2次世界大戦で供出されてしまい,その跡に,庄内の生徒や学童の寄付によって新たに建立された鳥居ということでした。また,鳥居の手前の坂を十五童坂といって,坂の左には一山の貫主の住んだ執行寺跡,右に本社のかぎを取り扱った鍮取役という一生不犯の清僧修験の住んだ能林院が在ったということです。

  ・・・・・・
参道脇には杉並木が広がっています。これは江戸時代初期に羽黒山中興の祖と言われた天宥法印が植林したものだそうです。植林した杉は樹齢が300年以上で,幹径が1メートルを越えるものが184本,総数では445本あるとされます。
  ・・
羽黒山の山頂にある三神合祭殿は,古くは大堂,本堂,本殿,本社などとも称されていて,羽黒修験の根本道場でもありました。その内陣は三戸前の扉にわかれていて,正面中央に月読命,右に伊氏波神,左に大山祇命,大己貴命,少彦名命を祀るものです。
三神合祭殿は807年(大同2年)の建立以来,度々造替を行ないました。
再度の炎上に,1813年(文化10年)荘厳院覚諄を別当に任じて再建に当たらせ,1818年(文政元年)年に完成したものが現在のものです。建設当時は赤松脂塗でしたが,開山1,380年記年奉賛事業の一環として塗替修復工事が行われて,現在の朱塗りとなったということです。
三神合祭殿は合祭殿造りで,高さ28メートル,桁行24.2メートル,梁間17メートルで,内部は総朱塗りで,屋根の厚さが2.1メートルもある萱葺きの豪壮な建物です。
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月山と湯殿山は冬季の参拝や祭典を執行することができないので,この時期は,三山の年中恒例,また,臨時の祭典は,すべて羽黒山頂の三神合祭殿で行われるということです。

三神合祭殿の右手に鐘楼堂がありました。
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鐘楼堂は1618年(元和4年),最上源五郎家信が寄進したもので,五重塔に次ぐ古さを誇っているそうです。境内は豪雪地帯であるにもかかわらず,柱が基礎石から直接立ち上がっている古式を継承しているために,柱の下部は何度か改修されています。
鐘楼堂に釣り下がる梵鐘は「建治の大鐘」とよばれ,鎌倉時代の蒙古襲来の際,羽黒の龍神に祈祷を捧げたところ神風が吹き元軍を撤退させる事ができた事から,執権北条時宗が寄進したものとされるというから,すごい話です。「建治の大鐘」は1275年(建治元年)に鋳造されたもので,口径1.68メートル,高さ2.86メートルで,東大寺,金剛峯寺に次ぐ大きさです。
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また,私はこの場所に皇族の墓があって驚きました。蜂子(はちのこ)皇子の墓でした。
蜂子皇子が出羽三山を開いたというから,このほうがもっとすごい話です。このことについて,次のように伝わっています。
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蜂子皇子は562年(欽明天皇23年),崇峻天皇の第3皇子として生まれました。
592年(崇峻天皇5年),蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺します。崇峻天皇は,臣下により暗殺されたと正史に明記されている唯一の天皇です。
危機を感じた蜂子皇子は聖徳太子の助けをかりて脱出し,日本海を北上し出羽国由良八乙女浦に辿り着きました。
蜂子皇子が八乙女浦の絶景にこころ打たれていると美しい歌声が聞こえてきたので,近寄ってみると大きな洞窟が現れ,8人の女性が舞を舞っていました。蜂子皇子は,そのうちの恵姫と美凰の案内によって上陸を果たし,その洞窟で身を隠しながら修行を行い,霊力を身につけました。
やがて,蜂子皇子は霊山を目指し登拝を試みたのですが,山が険しく道を見失ってしまいました。そのとき,観音菩薩に念じると,突然,八咫烏が出現し,導かれて山頂に登りつくと,観音像が現れました。その霊験を聞きつけた出羽国の国司が羽黒山寂光寺を開き,観音像を本尊とした観音堂を造営しました。
蜂子皇子は,修行を重ね,今度は月山に登拝すると,阿弥陀如来が出現したので,月山を霊地と悟り,暮礼山月山寺を開山しました。さらに,月山から東に下ると,温泉が湧き出る霊地に大日如来が出現し,ここに湯殿山神社を創建しました。
蜂子皇子は641年(舒明天皇13年),享年80歳でこの世を去りました。
  ・・・・・・

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3日目,2022年5月19日木曜日。
最終日になりました。
しばらく旅行らしい旅行をしていなかったのですが,次第に感覚が戻ってきました。やはり,旅はいいものです。
この旅では,来る前は予想もしていなかったほどいろいろなところに行くことができました。最終日は,羽黒山と最上川の舟下りです。まさか羽黒山に行くとは,最上川の舟下りをするとは思ってもいかなったので,大慌てで計画を立てました。
最上川の舟下りは午前10時50分と午前12時50分の2便ありました。乗船時間は約1時間です。午後4時20分の飛行機で帰らなければならないので,午前10時50分のものに乗船することにしました。予約をせず直接行って乗ることができるものなのかなあ,と心配したのですが,ホームページやパンフレットによれば大丈夫そうでした。
舟下りの乗船時間に間に合うように,早朝,まずは羽黒山へ行かなければなりません。
羽黒山は標高が414メートルです。思ったほど高くありませんでした。山頂までは石段が246段あって,片道1時間半ほどらしいということでした。以前行ったことがある兵庫県の黒井城が標高356メートルだったので,それと同じような感じかな,と思いました。
そこで,歩いて往復しようとも思ったのですが,時間が微妙でした。
幸いなことに,羽黒山には有料道路があって,これを使うとわけなく山頂まで行くことを知っておどろきました。この有料道路が利用できるのは午前8時からとありました。これなら何とかなりそうでした。ただし,羽黒山の登山道の途中に有名な国宝の五重塔があって,有料道路を使ってしまうと行くことができないので,これは別に徒歩で登らないと行くことができないとありました。
わからないことだらけだったのですが,ともかく行ってみることにしました。

この日もまた,早朝,昨日買っておいた朝食を部屋でとって,午前6時前には早々にホテルをチェックアウトしました。
山形市内を抜け,昨日と同じ国道112号線を走るルートで月山を通り過ぎ,酒田市を経由して羽黒山に向かいました。日本の道路はカーナビにはなじみません。道路が予想以上に狭かったり,走りにくかったしても容赦ないし,進路を工夫しないと,毎回信号で止められます。AIもまだまだです。さらに難儀したのは山形県の道路の案内標識です。案内標識示す進路が交差点の寸前にあるので,解読しているうちに案内標識が示す交差点を通り過ぎてしまうのです。
狭い道も多く,また,曲がらなければならない交差点を間違えたりして少し迷いましたが,目の前に巨大な鳥居が見えてきたときはホッとしました。この鳥居はかなりの威厳があって,さすがに有名な神社だけあると感心しました。この威圧感に多くの人は参っちゃうわけです。
さらに行くと町中になって,宿坊がたくさんありました。いわばここが門前町でしょう。この一角をすぎると,羽黒山の入口である随神門に着きました。近くに無料の駐車場があったので車を停めました。
朝早く,というより,早すぎて,まだ車は1台も停まっていませんでした。

歩いて随神門まで行くと案内板があって,五重塔は徒歩10分とありました。思った以上の近いことがわかったので,まずは五重塔に徒歩で行ってくることにしました。何事も案ずるより産むがやすしです。
随神門をくぐると石段になったのですが,この石段,登るのかと思いきや,なんと降るのです。この坂を継子坂というそうです。随神門から五重塔までは降り,その先が登りになるわけでした。
  ・・
継子坂を降り終えたところに,祓川が流れていました。かつては,この祓川で身を沈めて清めてから出羽三山に詣でたということです。祓川には赤い橋がかかっていて,橋の上から須賀の滝を見ることができました。須賀の滝というのは江戸時代に作られた人工の滝だそうです。
やがて,五重塔が見えてきました。深い森のなかにそれはありました。
  ・・・・・・
羽黒山の五重塔は,平安時代中期の930年代(承平年間),平将門の創建と伝えられています。
現存する五重塔は,1372年(応安5年)に羽黒山の別当職大宝寺政氏が再建したと伝えられます。
総高約29.2メートルで,屋根は杮葺き,様式は純和様の素木の塔です。
近世までは,塔内に聖観音,軍荼利明王,妙見菩薩を安置していましたが,神仏分離以後は大国主命を祭神として祀り,出羽三山神社の末社「千憑社」となっています。
・・・・・・

また,五重塔の近くに爺杉がありました。
このスギの巨木は,根周り10.5メートル,幹囲8.25メートル,高さ43メートルで,推定樹齢1,000年以上といわれていて,羽黒山で最大にして最古の巨木ということでした。かつて,付近に婆杉があったということですが,1902年(明治35年)の暴風で倒れたと案内板には書かれてありました。
実際は,暴風で倒れたときには,どちらが爺でどちらが婆か定まらず,残った方を「親杉」とよぶことにして決着をつけたそうですが,国指定の天然記念物としては「羽黒山の爺杉」の名称で登録されているということです。
私は,数年前に行ったカリフォルニア州のセコイア国立公園で見た「シャーマンの木」というセコイアの巨木を思い出していました。
早朝だったので,このあたりには私のほかには誰もおらず,荘厳な雰囲気を満喫しました。

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明日はまず羽黒山に行って,その後で,最上川の船下りをすることにしていました。
山形県には出羽三山といわれる聖地があります。そこがどのようになっているのか,私はほとんど知りませんでした。想像していたのは,険しい山が三つあって,そのどれもよほどの覚悟がなければ登ることができないということでした。
昨日,山形駅の観光案内所で「出羽三山のうちで月山と湯殿山は雪が深いのでまだ登れず,羽黒山だけが参詣できる」と聞きました。羽黒山がもっとも北にあるのにどうしてだろうとそのときは思ったのですが,それは羽黒山の標高がもっとも低いからでした。
また,羽黒山の参詣は1時間もあれば,と言われたのには驚きました。半日はかかると思っていたからです。ならばということで,羽黒山に行くことにしたのですが,明日は,閉鎖されていようといまいと,湯殿山や月山の方に行く時間はありません。

5月に旅行をすると日が沈むのが遅いので,この日は上山の観光を終えても,まだずいぶんと時間がありました。そこで,このあと,明日は行く時間がない月山のほうまで足をのばすことにしました。登ることができないのは承知の上で,単に,出羽三山の月山や湯殿山のあたりがどうなっているのかが知りたくて行って見ようと思ったわけです。
  ・・・・・・
出羽三山とは,月山,羽黒山,湯殿山の総称で,開山から1,400年の歴史を誇る山岳信仰の霊場のことをいいます。
三山にはそれぞれ役割があり,月山で死後の極楽浄土を,羽黒山で現世の幸せを,そして,湯殿山で功徳を積み再びこの世に生まれるという意味をもちます。
  ・・・・・・

上山から方向を西に変えて,国道112号線を南から月山を目指しました。
山形県にも高速道路が走っているのですが,「一般道を走っても,信号もほとんどないので,高速道路を使う意味がないからだれも使っていないよ」。この旅に出かける前,そんなことを聞いたのを思い出したのですが,確かにそうでした。当然,私も一般道をひた走ることになりました。
遠くにめざす雪を被った月山を見ながら山の中を通る国道を走っていくと,やがて,左手に月山湖というダム湖が現れました。
さらに行くと,右手に折れる有料道路がありました。道路は開通していましたが,しかし,ここもまた,料金所は無人でした。
それを登ると,月山の八合目まで行くことができるということでした。
思ったより狭く,すれ違うのがやっという狭くカーブが多い道路がずっと続いていたのですが,登っていくのは私の車だけで,その反対に多くの車が降りてきてすれ違いました。どうしてだろうと思いながらさらに走っていくと,やがて,八合目の広い駐車場に着きました。駐車場は多くの車が停まっていましたが,帰る車が多く駐車するスペースもけっこうあったので,車を停めました。
あたりは,旅館が立ち並んでいて,昔よく行った新潟県や長野県のスキー場のある温泉町のような感じでした。
月山の八合目は,スキー場だったのです。まだ雪がたくさんありました。そこで,多くのスキーヤーが楽しんで,帰り支度をしていたわけです。スキーをする目的もないのにここに来てしまったのは私くらいのものでした。
後で知ったのは,雪が解けるのはまだ1か月後。7月になると,この場所から,往復で6時間ほどかけて標高1,984メートルの月山の山頂にある月山神社に登ることができる,ということでした。
先日行った京都の愛宕神社と同じようなものだと思いました。こりゃ,もし雪がなかったとしても私には無理だ,と納得しました。

登ってはみたものの何もすることもないので,早々に下山することにしました。
国道112号線にもどったのですが,さらに,湯殿山はどうなっているのだろう,と思って,先に進んでみることにしました。
しばらく走っていくと,右手に,湯殿山方向にいく道路がありました。その狭い道路をしばらく走っていくと,広い場所に出て,そこが湯殿山に登る有料道路の入口になっていたたのですが,当然のこと,閉鎖されていたので,納得してそこで引き上げました。有料道路は6月1日から登ることができるということでした。
湯殿山の標高は1,504メートルで,湯殿山神社はその中腹の標高1,100メートルのところにあります。
有料道路を登った先に駐車場があって,そこから連絡専用バスに乗り替えて大鳥居のある神社の参籠所まで行くことができるということです。湯殿山は俗世間と切り離された御山なのでそこでお祓いを受けなくては参拝できないということすが,そこから本宮まではわずか徒歩5分ということでした。雪がないときなら,湯殿山は月山にくらべて容易に行くことができるでしょう。
こうして,出羽三山のうち,明日行くことになる羽黒山以外の,月山と湯殿山がどのようなところなのかがわかって納得した私は,山形市のホテルに引き上げました。
昨日夕食を食べるところをさがすのに苦労した私は,この日は,スーパーマーケットでパック寿司を購入することにしました。山形市内のイオンモールでパック寿司の夕食と明日の朝食を買いました。以前,アラスカ州のフェアバンクスに行ったとき,同じようにスーパーマーケットでお寿司を買って夕食にしたのを思い出しました。
ホテルに戻ってお寿司を食べようと思ったら,しょうゆが入っていないのに気づきました。単に入れ忘れたのか,それとも,山形の人はお寿司に醤油をつけないのか…。
ホテルの部屋の窓から見た山形市の夕景がきれいでした。

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私が「かみのやま」に寄ったのは,斎藤茂吉記念館に行きたかったこととともに,上山には天守閣があると聞いたからでした。昨日,山形駅の観光案内所で「東北地方には四国地方と違って天守閣がないですね」という話をしたら,「上山にはありますよ」と言われたのが事の発端です。
しかし,これは完全な誤解でした。
  ・・・・・・
上山は羽州街道の要衝で,温泉宿場町として早くから繁栄を遂げていました。もともとは最上家が支配し,戦国時代には伊達家と最上家がこの地をめぐって争いました。1600年(慶長5年)には,上杉景勝の家臣直江兼続が2万5,000を数える大軍でわずか1,000の兵が守る上山城に大敗を喫しました。
しかし,最上家は家督争いが絶えず,1622年(元和8年)に改易され,上山には松平重忠が4万石で入り、上山藩を立藩しました。
しかし4年後に摂津三田藩へ転封となり,その後は,蒲生忠知,土岐頼行,土岐頼殷,金森頼旹と続き,ついに,松平信通が入ることで,藩主家が安定しました。
幕末になると幕府に重用され,戊辰戦争がはじまると奥羽越列藩同盟に参加しましたが,米沢藩が新政府に恭順すると恭順し,版籍奉還を迎えました。
  ・・・・・・

上山藩は,ダイコンの漬物である「沢庵漬け」で名を知れた沢庵宗彭と関りがあります。
紫衣事件は江戸時代初期における江戸幕府の朝廷に対する圧迫と統制を示す朝幕間の対立事件です。
紫衣とは紫色の法衣や袈裟のことで,朝廷が賜る僧,尼の尊さを表す物でした。これに対して,江戸幕府は,朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じたのですが,後水尾天皇が従来の慣例通り幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えたことが事件の発端です。
幕府の逆鱗に触れて,大徳寺住職であった沢庵宗彭は出羽国上山に流罪となりました。57歳のことでした。
配流先である上山藩主の土岐頼行は,沢庵の権力に与しない生き方と「心さえ潔白であれば身の苦しみなど何ともない」とする姿にうたれ,厚く遇しました。沢庵はその草庵を春雨庵と名づけ、こよなく愛したといわれています。

上山城は,本丸西側に西内堀が残り,この他,土塁や石垣の一部と庭園が現存しているだけでした。
天守閣というのは,二の丸跡に望楼型の模擬天守が建てられたもののことで,これが資料館となっていたわけです。
ただし,城のあった裏手には数件の武家屋敷が今も残り,城下のいい雰囲気を醸し出していました。
また,城跡の近くには,上山藩の藩校であった「明新館」の跡地に碑が建っていました。
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上山藩の藩校は1809年(文化6年),上山藩7代藩主松平信行によって開かれ,当初は広福寺の境内に学問所を設け「天輔館」と称していました。そこでは,伊藤仁斎,萩生祖来なども藩士の教育に当たっていました。1840年(天保11年),8代藩主松平信宝はさらなる学問所の充実を図り,現在の跡地である場所に移して単独の建物として藩校を造営しこれを「明新館」と名づけました。
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米沢市から山形市に戻る途中で,私は,上山市にあった斎藤茂吉記念館に寄ることにしました。
私は,斎藤茂吉の次男である作家・北杜夫に若いころから興味があって,ずいぶん多くの作品を読みました。そして,斎藤茂吉を知りました。
しかし,どうして山形県の上山に? ということがわかりませんでした。
私は昔,斎藤茂吉は山形出身だとこのブログに書いたことがあるのです。それをすっかり忘れていたのは,その当時,山形というところにまったく想い入れがなかったことにあるのでしょう。
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斎藤茂吉は1882年(明治15年)に,守谷伝右衛門熊次郎の三男として,山形県南村山郡金瓶村,現在の上山市金瓶に生まれ,1953年(昭和28年)に亡くなった歌人であり精神科医でした。
守谷家は経済面の余裕がなく,守谷茂吉は,東京・浅草で跡継ぎのなかった同郷の精神科医・斎藤紀一の家に養子にいき,斎藤茂吉となったわけです。
斎藤茂吉が精神科医として青山脳病院の院長を務めたことは,北杜夫の小説「楡家の人々」に描かれています。
長男は精神科医の斎藤茂太さんです。
妻の斎藤輝子さんの晩年は,オペラで世界中を駆け回った人として数々のエッセイを残したので有名でした。私も強く記憶に残っています。
  ・・・・・・
ということで,斎藤茂吉が生まれたのが上山市だったのです。

  ・・・・・・
上山市にある斎藤茂吉記念館は,開館当時は大久保傳藏元山形市長の個人コレクションを中心に茂吉の遺族らから寄贈品も受け展示を行いました。その後,収蔵資料の充実が図られ,現在は斎藤茂吉が残した業績に関連する資料や斎藤茂吉の生活を伝える書画などを展示しています。
2003年に斎藤茂吉没後50周年記念として展示設備を新たにし,2018年には開館50周年を記念してリニューアルオープンしました。
斎藤茂吉記念館は,明治天皇が東北巡幸に際に小休止したことに因む「みゆき公園」に位置し,公園内には斎藤茂吉が箱根山荘勉強部屋とよんだ箱根の別荘の離れが移築されているほか,歌碑,明治天皇が小休所した環翠亭が復元されています。
  ・・・・・・
このような博物館や美術館は各地にありますが,できたときはすばらしくとも,維持に困っている様がうかがわれるところも少なくありません。これもまた,日本らしいというか…。
しかし,斎藤家はかなりのお金持ちらしく,この記念館が今も美しく維持されているのは,おそらく,斎藤家のバックアップがあるからでしょう。

国道13号線を南から北に走っていくと,上山市街を越えたあたりの交差点で斎藤茂吉記念館の道路標示がありました。標示にしたがって左折してしばらく走ると,広い駐車場に着きました。
車を停めてさて行こうと思ったら,あいにく水曜日は休館でした。
いろいろツキにめぐまれることが多い私ですが,たまにはこういうことがあります。しかし,おそらく,私は,近いうちにまたここに来ることになりそうです。いつもそんな塩梅で,結局は行くことになるのです。
休館ではありましたが,建物の外観や建物のある「みゆき公園」にあった箱根の別荘の離れや,歌碑,明治天皇が小休所した環翠亭は見ることができました。
また,「みゆき公園」は高台にあるので,遠くの景色を眺めることができました。
斎藤茂吉記念館はすばらしい環境の場所にありました。
斎藤茂吉記念館はJR奥羽本線の「茂吉記念館前駅」の近くで,鉄道でも簡単にアクセスできます。

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かつて,19世紀のイギリス人女性旅行家イザベラ・バード(Isabella Lucy Bird)は,美しく壮大な自然と豊かな大地の実りから,山形県南部地方を「東洋のアルカディア」と讃えたそうです。
雄大な山々に囲まれて空は広く,さくらんぼ畑の緑は美しく,私は,山形県にアメリカのモンタナ州を思い出しました。日本にもこんなところがあるのか,と思いました。

今回の旅は,わずか2泊3日の日程で,どういうところかもわからず,とにかく行ってみようとやって来ただけだったので,温泉にも宿泊せず,おいしいものを食べる予定もありませんでした。
それでも,少しは当地のグルメを,ということで,今日の昼食に米沢らーめんを食べました。
  ・・・・・・
米沢らーめんは,大正時代,中国人の屋台でのらーめん売りがはじまりでした。大正末期には上海軒,米々軒,朝日軒などが開業しました。現在「米沢らーめん」を提供する飲食店は,米沢市内に100軒以上あるということです。米沢らーめんスープの基本は鶏ガラと煮干しで,毎日食べても飽きのこない,あっさりとした後味のよいスープといいます。麺は「多加水」とよばれる製法で,小麦粉を捏ねるとき通常より多くの水を加えながら練り上げたストレートに切り出した麺に「手揉み」をかけ,ちぢれ細麺ができあがります。
  ・・
また,有名な米沢牛は,明治のはじめ,米沢の洋学舎に赴任した英語教師のC・H・ダラス(Charles Henry Dallas)によって日本中に知られることとなったもので,1年中寒暖の差が大きい気象条件と澄んだ空気,きれいな水が特上の霜降り肉を作るということです。
  ・・・・・・
米沢牛を食べるほどお金もないので,私は,米沢らーめんとともに米沢牛コロッケで我慢しました。

さあ,これで米沢市の観光もおわり,北に向かって,上山市を経由して,宿泊している山形市に戻ることにしました。
その途中,変わった建物を見ました。
それは,1910年(明治43年)3月,東京,大阪,京都,名古屋,熊本,仙台に続いて,全国7番目の高等工業学校として開設された米沢高等工業学校の建物でした。1944年(昭和19年)4月に米沢工業専門学校と改称され,さらに1949年(昭和24年)5月の学制改革で山形大学工学部に改組されました。
この建物はルネッサンス様式の木造二階建で,現在は国指定重要文化財ということです。
明治時代の建物の多くは,とてもモダンなものが多いと思います。

せっかくなので,JR米沢駅を通って帰ることにしました。
しかし,JR米沢駅は米沢市街からかなり遠いところにありました。その理由はよくわかりませんが,鉄道がひかれたころ,市街地を通ることに反対したのではないかな? と思いました。
列車で米沢観光をするには,JR米沢駅を降りても名所まで歩いて行くには不便でしょう。
JR米沢駅に乗り入れている路線は,奥羽本線と米坂線です。奥羽本線に関しては,ミニ新幹線である山形新幹線の停車駅となっています。
建物はかなりモダンでした。先に見た旧米沢高等工業学校本館を模したものということです。

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上杉家廟所を出て,次に米沢城跡に行きました。ここが米沢市の観光のメインとなっているところです。
米沢には「偉人」とよばれる人がたくさん輩出しています。

●伊達政宗
 米沢はかつては伊達家の領地でした。伊達政宗は米沢城に生まれ,24歳で豊臣秀吉の命により仙台岩出山城に移封されるまでの青年期を米沢で過ごしました。松岬公園内に「伊達政宗生誕の地」の碑があります。
  ・・
●直江兼続
 直江兼続は米沢藩初代藩主・上杉景勝に生涯に渡って仕え,米沢の城下町を作り上げた武将です。
 直江兼続は1560年(永禄3年)現在の新潟県南魚沼郡六日町で坂戸城主長尾政景の家臣樋口惣右衛門兼豊の長男として生まれました。
 聡明さが上杉謙信の実姉である仙桃院の目にとまり,上杉景勝の小姓としてつかえることになりました。そして,上杉謙信の養子となった上杉景勝に従って直江兼続も春日山城に入りました。
 1578年(天正6年),上杉謙信が亡くなると跡目争いが起きましたが,直江兼続がその才気を発揮し見事勝利し,上杉景勝が上杉家の家督を相続しました。
 豊臣政権時代に上杉景勝は五大老になり,直江兼続は軍師として活躍しました。
 1598年(慶長3年),豊臣秀吉が死去すると石田三成と懇意にあった直江兼続は徳川家康との対立を決意しました。1600年(慶長5年),徳川家康は会津征伐のために動きはじめましたが,石田三成が家康打倒の兵をあげたので,徳川家康は急遽兵を西に向かわせました。このとき直江兼続は,徳川家康軍を追撃することを上杉景勝に進言します。上杉景勝は「謙信公の義の教えをもってすれば上杉家に退却する敵を追い討ちする戦法はない」と許しませんでした。この決断が上杉家を救うことになります。
 関が原の戦いは東軍が勝利しました。
 直江兼続は上杉家存続のために和議の交渉をし,見事な戦略で上杉家存続が許されました。それは,会津征伐の際に上杉景勝が家康軍を追撃しなかったことよるともいわれています。しかし,上杉家は会津120万石から出羽米沢30万石へ減移封となりました。
 直江兼続は早急に町づくりに取り掛かり,短時間のうちに骨格を作り上げました。
 また,町づくりとともに,鉄砲製造にも着手します。この鉄砲は「大阪冬の陣」で大活躍しました。  1614年(慶長19年),直江兼続は上杉軍を引き連れて「大阪冬の陣」に参戦し,武功を挙げます。そして,天下は徳川幕府のもと本当に安泰な時代を迎えました。
 1619年(元和5年)直江兼続は60年の生涯を閉じました。
  ・・
●上杉鷹山
 「なせば成るなさねば成らぬ何事も,成らぬは人のなさぬ成りけり」で有名な上杉冶憲は米沢藩9代藩主です。
 1751年(寛延4年)に高鍋藩主の秋月種美の次男として生まれ,1760年(宝暦10年)に米沢藩8代藩主上杉重定の娘幸姫の婿養子となりました。
 17歳で家督を相続したとき,米沢藩は莫大な借財をかかえていました。上杉鷹山は、1767年(明和4年)に大倹約令を発令し,並行して農業開発を実施しました。また,特産品であった青苧を使い,武士の婦子女に内職として機織りを習得させたり,桑の栽培と養蚕を奨励することで絹織物を米沢織として全国的に知らせました。さらに,1776年(安永5年)には,藩校「興譲館」を創設し,学問は単なる考証や漢文を読めることではなく現実の政治や経済に役立つ「実学」でなければならないとしました。
 1785年(天明5年)家督を上杉冶広に譲り隠居しましたが,その後も「寛三の改革」や,農業用水「黒井堰」の完成,玉川の水を白川に引水するという大工事などを行い,1822年(文政5年)72歳でこの世を去りました。

こうした人たちの遺構がここには数多くありました,また,米沢城のあったあたりには,多くの旧跡もありました。
●上杉神社
 上杉神社は1876年(明治9年)に上杉謙信,上杉鷹山を祭神として,米沢城本丸跡に建立されました。1902年(明治35年)に別格官幣社(国に尽力した人物を祀る神社)に指定されると,祭神は上杉謙信のみとなり,上杉鷹山は松岬神社に祀られました。
 1919年(大正8年)の米沢大火で類焼しましたが,1923年(大正12年)に現在の神社が完成しました。境内には上杉氏ゆかりの文化財を多数収蔵する稽照殿があります。
  ・・
●松岬神社
 1902年(明治35年)に上杉鷹山が分祀された神社で, 敷地は,上杉景勝の御殿であった場所です。
 1923年(大正12年)には上杉景勝が合祀され,1938年(昭和13年),新たに直江兼続を配祀しました。境内には上杉鷹山の伝国の辞の石碑があります。

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米沢市に到着しました。
道路標示に上杉家廟所とあったので,まず,そこに向かうことにしました。
上杉家廟所は,米沢市にある米沢藩歴代藩主の墓所です。
  ・・・・・・
上杉謙信が現在の新潟県である越後春日山城で没すると,その遺骸は漆を塗り甲冑を着せて埋葬されました。後継者の上杉景勝は豊臣秀吉の臣下となり,会津へ移動。それに伴い,上杉謙信の霊柩も越後から会津に移され安置されました。
1601年(慶長6年)の関ヶ原の戦いで西軍に属した上杉景勝ですが,上杉家は取り潰しを免れ,上杉家は米沢藩30万石に移動を命じられ,上杉謙信の霊柩も再び移動しました。上杉景勝は米沢城本丸に御堂を建立し,謙信の霊柩をそこに安置しました。
1623年(元和9年)に上杉景勝が他界すると,現在の上杉家廟所のある米沢城址の北西に位置に埋葬され,それ以後12代藩主までがここに埋葬されました。なお,1664年(寛文4年)米沢藩は15万石まで減封されてしまいました。
明治政府の廃城令に伴い米沢城が解体されるとともに,上杉謙信の霊柩も移動することになって,そのときに現在の廟所に移されました。現在は上杉謙信霊廟を中央にして,その左右に歴代藩主の霊廟が立ち並んでいます。
2代上杉景勝から8代上杉重定までは火葬での埋葬が行われ,御堂は入母屋造りとなっていますが,9代治憲から12代斉定までは土葬となり,御堂が宝形造りと変わりました。
また,明治以後に死去した13代上杉斉憲からは東京都港区白金の興禅寺に墓所があります。
  ・・・・・・

入口で拝観料を払って,まず,小さな博物館に行きました。ここで,この廟所の歴史を知りました。そして,廟所に行きました。
これまで,日本各地の少なからぬ藩士の廟所に行ったことがありますが,これほど厳かで,かつ立派なところを見たのははじめてでした。
静かな時間が流れていきました。
  ・・
日本はどこも江戸時代の藩が現在の地方の基礎となっています。
江戸幕府というのは,徳川家ファーストで,徳川家の存続こそがすべて。そこで,日本各地の藩主は,徳川家の都合だけで,その地方に縁もゆかりもない人材が落下傘のように降り立ったわけです。そんなわけだから,藩主は,能力がないと,あるいは,人望がないと,与えられた領地を支配するのにたいそう苦労しました。たとえば,土佐藩の山内一豊は,それまでの土地の権力者を根絶やしにしました。
今,地方に行くと,江戸時代にその土地の藩主が慕われていたかどうかがとてもよくわかるのです。
たとえば,熊本に行くと,今でも慕われているのは細川家でなく加藤清正です。また,山形藩のように藩主が頻繁に変わったところでは,文化が育たず,おらが国の領主様には誇りがもてず,その一方で,この米沢藩のように,最後まで上杉家が続いたところでは,領主様の上杉家は今でもその土地の誇りとなっているわけです。
私は旅で訪れると,まず,そういったことから,その土地の領主様の能力が今の姿に反映されているのを,そして,その土地の領主様の評判を測るのを,とてもおもしろく感じています。

このことは,今でも,専門性をリスペクトしないこの国の,官庁や学校の人事にも同じことがいえます。
各省の大臣は,重要な省以外は,当選何回という基準で論功行賞のように選ばれているだけで,ときに,縁もゆかりもない人,そして,その省の仕事をまったく知らないような素人が抜擢されるわけです。であるから,そんな大臣など,単なるお飾りとして,自分の言葉で語ることもできず,お役人が作った文章を国会で読み上げているだけです。要するに「裸の王様」。そうまでして大臣になりたいのかなあ,はずかしいなあ,と私は思ってしまいます。
学校の校長もまた同じようなものです。4月,その学校とは縁もゆかりもないような人が突然人事異動で赴任してくると「今度は誰が来たんだ」と教員たちは陰でこそこそ。ひややかに見ているわけです。で,おとなしくしているのならともかくも,偉ぶってこれまでの伝統をぶち壊すようなことをして学校を引っ掻き回すだけの人も少なくないのです。
未だにそんなことをしていても,お互いが不幸になっているだけで,組織には何の利ももたらさない。今や,そんな旧時代的な,江戸時代の殿様の国替えのようなことをしている場合ではないのですが…。

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「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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山形県の観光パンフレットで見つけたのが白川湖の水没林でした。
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1か月限定! 神秘的な春景色
 -4月中旬から5月中旬の雪解け時期に見られる-
春の満水時,白川湖で見られる不思議な景色。
朝霧に包まれた早朝や,新緑が湖面に映り込む無風時は一層幻想的。
カヌーやSUP も楽しめる。
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とありました。ちなみにSUPとは「Stand Up Paddleboard」のことです。
しかし,この白川湖というものがどこにあるのかがわかりません。
こういったパンフレットの最も悪いことは,地図がないことです。あるいは,地図があっても,そこに行くにはどのくらい時間がかかるか,そして,現地に駐車場があるのかがわからないということです。それでは行くことができるのかどうか,想像がつきません。
調べてみると,私がめざしている米沢市から西に険しそうな山の中をずいぶん走るらしいことがわかりました。また,地図には,白川湖というより白川ダムという記述だったので,白川湖というのはダム湖なのでしょう。
この日は絶好の天気。行きたいなあ,と思ったのですが,果たして,この時期にまだ見られるかどうかもわかりませんでした。で,あきらめていました。

蔵王から降りて国道13号線に戻ったとき,まだ時間がかなり早かったので,ダメ元で行って見ることにしました。
私は,国道13号線を走りながら,このとき,なぜか,ロサンゼルスからパロマ山天文台に行ったときのことを思い出していました。アメリカに比べて道路は狭く,人も車も多くと,ずいぶん違うのでしょうが,主要道路から山に向かって道を変えて,すると急にカントリーらしく… という感じが似ていたからです。
日本らしくない,オーストラリアの田舎を走っているかのような優雅なカントリーロードは,ほとんど車も走っていなかったので,予想以上に早く白川ダムに着きました。
湖面にはまったく波がなく,山々が反射して,ものすごく美しい姿が見えました。
しかし,ダム湖は水が満ち,このどこに水没林など見られるのだろう,と思いました。
私は,白川湖のほとりの道を北から南に向かって走っていくことにしました。
やがて,白川湖の南まで来ました。そこにあったのは,日本にしてはものすごく広い桃源郷のような白川ダム湖岸公園でした。そこにはオートキャンプ場も併設されていました。このあたりで湖面をみると,確かに水没林が見られるのでした。
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白川ダムは山形県西置賜郡飯豊町の最上川水系・置賜白川(おきたましらかわ)に建設された直轄初の高さ66メートル,総貯水容量50,000,000トンのロックフィルダムです。置賜白川及び最上川の治水と山形県置賜地方への利水,そして,山形県企業局による公営水力発電を目的とした特定多目的ダムです。
ダムによって形成された人造湖は白川湖と命名されました。
白川湖周辺は公園となっていて,四季折々に様々な風景を見せます。公園が作られたのは,1994年(平成6年),当時の建設省が「地域に開かれたダム事業」をダム管理の主要業務のひとつとして定めた開放事業によるものでした。この公園は,イベントの定期開催などが功を奏して,年間35万人の観光客が訪れ,県南地域の観光地として成長しました。
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天気がよかったこともあり,想像以上にすばらしいところでした。
少し,時期が遅かったのですが,水没林を見ることができました。

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