しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

August 2022

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 以前このブログに書いた車のサブスク「KINTO」。私が申し込んだのは6月15日だったのですが,予想に反して,8月9日に早くも車が来ました。「KINTO」は車の納入が早いのだそうです。
 車に限らないのですが,半導体の不足とかで,現在,工業製品の製造が遅れに遅れています。私は,8月1日にカメラの交換レンズを修理に出したのですが,修理が終わるのが早くて1か月先という連絡を受けました。カメラなども,カタログにはあっても市場には出回っていないとかいいます。
 車の話に戻します。現在,多くの車は,6か月から8か月待ちということです。ランドクルーザーに至っては4年待ちなのだそうです。私は,6月のはじめまで,車を買おうとなどとは夢にも思っていなかったのですが,6月の定期点検で,次の車検ではいろいろと部品を交換するところがあるし,タイヤも買えた方がいいと言われてびっくりしました。それまでは,まだ,当分乗るつもりだったけれど,考えてみれは,もう8年以上も乗っているのだからそろそろ替えどきかな,と急に思い立ったのです。
 しかし,こんな状況だと,6か月前の点検でいろいろ不備が見つかって買い替えを決心しても,次の車検に間に合わないのでは,困る人が続出していることでしょう。私もまた,おそらく「KINTO」なるものを知らなければ,新車の購入は車検に間に合わなかったかもしれません。これもまた,いつものようにツイていました。また,新車が買えないので中古車が売れるそうで,中古車の値段が高騰していて,私の乗っていた車も,想像以上の高い値段で売ることができました。

 さて,今日の話題は「KINTO」のことではなく,車の装備のことです。
 車ほど,買い替えたときに,その技術の進歩に驚かされるものはありません。どんどんと新しい技術が導入されます。今回もまた,これまで乗っていた車とは絶世の感がありました。
 そのひとつは安全装置,そして,もうひとつは,スマホとの連携です。
 なかでも,スマホとの連携は助かります。
 ここ数年,海外で車を借りると,日本車でもすでに当たり前だったスマホとの連携でしたが,どうして日本で装備されていないのか不思議でした。風の噂では,連携ができてしまうとカーナビ業界が困るので,忖度してるから,とか…。その真実は知りません。しかし,時流には逆らえず,日本でもやっと登場しました。スマホを接続すると,スマホにインストールした地図で車のディスプレイに表示されてカーナビができるようになったのです。また,アプリを使えば,家から車のロックやランプの消し忘れも確認できるようになりました。

 ということなのですが,私がはじめに感じたのは,そうした新しい機能を実際に使おうとしたとき,あまりに説明書が不親切なことでした。車好きにの人には当たり前なのかもしれませんが,私のような車にほとんど興味のない人には,説明書を読んでも,なかなか理解ができません。それは,たとえば,SDL やら AppleCarplay やら AndroidAuto などといった製品名が羅列してあっても,そのどれを使えばいいのか,どれを使えば何ができるのか,などがよくわからなかったからです。
 いろいろと調べてみて,iPhone のユーザーは AppleCarplay を使えばいいということがわかったのですが,こんな説明で,多くの人が使いこなせるものなのでしょうか。それとも,私がよほどアホということなのでしょうか。
 これまで,車の分厚い説明書など必要なとき以外は読んだこともありませんが,今回,とてもわかりにくいものだということを再認識しました。以前書いた道路標示もそうですが,この国では,どうでもいいような情報は山ほどあっても,必要な情報がないのです。もっとなんとかならないものでしょうか。それにしても,巷に普及しているスマホもそうだけど,こうしたコネクテッドカーもまた,進化途中です。各会社がそれぞれ独自に展開しはじめたそうですが,キャシュレス決済やポイントカードなどと同じように複雑怪奇で,皆それを使いこなしているのが不思議です。
 そんな私でしたが,さまざまな格闘の末,今では完全に理解し,有効に活用して楽しんでいます。

◇◇◇
今日の写真はアメリカの交差点です。アメリカの交差点は,車線ごとに信号があって,とても見やすく走りやすいです。
何車線もあるのに小さな信号がぽつんとある日本とは大違い。事故防止のためにと,やたらと交差点の形状の変更や変則信号を交差点ごとに思いつきで別の方法でやっている日本も見習ってほしいものです。


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 小諸には小山敬三美術館とアトリエを一部移築した建物もありました。小山敬三は,小諸市に生まれた西洋画家で,浅間山や白鷺城をモチーフとした作品群が代表作として知られています。
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 小山敬三は1897年(明治30年)に,江戸時代から味噌・醤油の醸造業を営む裕福な商家でうまれ,1987年(昭和62年)に亡くなりました。画家を目指していましたが,父が反対し,やむなく慶應義塾大学理財学科に進学します。しかし、画家になるために慶應義塾大学を中退,洋画家の藤島武二に師事しました。
 1920年(大正9年)にフランスに留学,1928年(昭和3年)に日本に帰国し, 茅ヶ崎にアトリエを建てて数々の作品を制作しました。
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 小山敬三の作品を見ていて,私は,地元の荻須高徳という西洋画家を思い浮かべました。
 荻須高徳の地元である現在稲沢市には,現在,美術館があって,館内にはアトリエも再現されています。
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 荻須高徳は1901年(明治34年)に地主の子として生まれ,1986年(昭和61年)に亡くなりました。東京美術学校(現在の東京藝術大学)に入学し,1926年(大正15年)に卒業と同時に渡仏[しました。1939年(昭和14年)に戦況悪化のため一時帰国を余儀なくされましたが,1948年(昭和23年)に再びフランスに渡り,亡くなるまで滞在しました。
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 小山敬三と荻須高徳はほとんど同時期の画家であり,同じころにフランスにいたことになるのですが,このふたりの画家に接点があったのかどうかは,調べてもよくわかりませんでした。

 また,稲沢市のお隣の一宮市には,三岸節子記念美術館があり,ここもまたアトリエが再現されています。
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 三岸節子は1905年(明治38年)現在の一宮市)に織物工場を営む裕福な家生まれ, 1999年(平成11年)に亡くなりました。 1921年(大正10年)年に上京し,洋画家・岡田三郎助のもとで洋画を学び,1924年(大正13年)に洋画家・三岸好太郎と結婚しますが,1934年(昭和9年)に夫と死別します。1954年(昭和29年)にははじめて渡欧し,それ以降はヨーロッパに赴いて風景画を多数手がけました。1989年(平成元年)に84歳で帰国し,以後は神奈川県大磯町の自宅兼アトリエにて制作を続けました。
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 明治時代の名士は,画家に限らず,作家も学者もそうですが,裕福な家に生まれ,恵まれた環境の中で,もともと才能のあってその能力を開花した人が多く,いわば,育ちがいい,という点で,独特な雰囲気があります。それは,否定的な話ではなく,現在のような過当な競争社会,利益優先の社会とは違って,ゆとりというか,大きさを感じます。
 こうした美術館などで時間を過ごすと,何か自分も少し賢くなった気がするのが不思議です。
 この時代,留学を経験すると,絵画の場合も音楽の場合も,日本の文化と西洋の文化のはざまで壁にあたってしまう,というのが常でした。小山敬三もまた同様で,これを,日本の城を描くことで克服したといいます。城やダムといった巨大な建物が多く描かれています。中でも「浅間山」や「白鷺城」は、小山敬三の二大モチーフとして知られています。小山敬三の画風として特長的なのは、独特な構図とダイナミックな輪郭線、そして油彩の良さを最大限に引き出した独自の色彩表現です。「寡黙な色彩」と評されるように、画面からは圧倒的な密度と重さが感じ取れます。

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 小諸といって私が思うのは千曲川。千曲川といって思うのは島崎藤村の「小諸なる古城のほとり」です。
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 小諸なる古城のほとり
 雲白く遊子悲しむ
 緑なすはこべは萌えず
 若草も藉くによしなし
 しろがねの衾の岡辺
 日に溶けて淡雪流る
  ・
 暮れ行けば浅間も見えず
 歌哀し佐久の草笛
 千曲川いざよふ波の
 岸近き宿にのぼりつ
 濁り酒濁れる飲みて
 草枕しばし慰む
  ・・
 小諸の古い城跡のほとりで
 雲は白く旅人は哀しい気持ちでたたずんでいる
 緑に色づいたハコベはまだ伸びておらず
 若草の上に座ることはできないほど
 目の前の山の背に雪が銀色に光っているが
 陽に溶けて淡き雪も溶け流れている
  ・
 日暮れになれば浅間山も見えず
 草笛の音が切なく聞こえる
 千曲川の
 岸に近い宿屋で
 ひとり濁り酒を飲みながら
 旅愁を慰めることよ
  ・・・・・・

 上田から小諸に向かって進んでいくと,やがて,千曲川が見えてきて感動しました。また,小諸の懐古園の高台からも千曲川が眺められました。
  ・・・・・・
 島崎藤村は,1872年(明治5年)に馬籠に生まれました。1881年(明治14年)に上京し泰明小学校に入学。1887年(明治20年)に明治明治学院大学に入学しました。卒業後,明治女学校の教師として赴任しますが。恋愛感情に苦しみ,退職します。
 1893年(明治26年)に雑誌「文学界」の創刊に参加,「若菜集」「一葉舟」「夏草」「落梅集」などの詩集を刊行して,浪漫派詩人としての地位を確立していきました。 
 1899年(明治32年)には小諸町の小諸義塾に国語と英語の教師として赴任し,翌年「旅情」(小諸なる古城のほとり)を文芸雑誌「明星」創刊号に発表,また「千曲川のスケッチ」を書き記しはじめました。
  ・・・・・・
 懐古園の中に藤村記念館がありました。
 藤村記念館には,小諸時代を中心とした作品,資料,遺品が多数展示されていて,とても興味深いものでした。藤村記念館は,1952年(昭和27年),小諸義塾及び女子学習舎の関係者で組織された藤村会と小諸町が設立を決定し,1957年(昭和32年)に竣工し,翌年に開館したものです。

 なお,千曲川は長野県での呼称で,新潟県に入ると信濃川となり新潟市で日本海に注ぎます。総じて信濃川と称し,日本で一番長い川ですが,これは小学校で習います。
 千曲川の名前の由来については,川が千の数ほど曲がっている様子から,狭窄部が連続し両岸が崖状の地形を呈していて「チク(崖)マ(袋状の湿地)の川」というから,大昔・高天原に住む神々の間で大きな戦いがあってこの時に流された血潮があたり一面隈なく流れたことにより「血隈川」というから,などという諸説があるそうです。
 また,懐古園には富士見展望台があって,そこから何とか富士山を見ることができました。

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 いつものように,見るでもなく見ないでもなく,テレビで流れるMLB中継。驚くのは,ロサンゼルス・エンゼルスが,前日までフロリダ州セントピーターズバーグでゲームをしていたのに,その翌日はカナダのトロントでゲームをしているということです。MLBの移動はまさに熾烈を極めます。
 フロリダ州セントピーターズバーグとカナダのトロントは距離にして約2,100キロメートル,車で移動するとアメリカを縦断して20時間,飛行機だと2時間44分で,この距離は,札幌市と鹿児島市に相当します。前日のゲームが延長戦だったらどうなっていたことでしょう。
 ということで,前回書いたように,現在,MLBでカナダにある唯一のチーム,トロント・ブルージェイズのズのホームであるロジャーズセンター(Rogers Centre)は,オークランドアラメダカウンティコロシアム,トロピカーナフィールドの次に位置する,メジャーリーグファンの選ぶワースト3のスタジアムだといわれています。
 しかし,テレビ画面を見る限り,かなり豪華なスタジアムであり,観客の入りも悪くなく,また,雰囲気もとてもよいところです。

 私は,1997年にここに行ったことがあります。当時はスカイドーム(Sky Dome)といいました。
 ロジャーズセンターは,世界初の可動式屋根付き多目的スタジアムで,当初は市民からの公募でスカイドームと命名されたのですが,カナダの大手通信企業ロジャーズコミュニケーションズによる買収に伴って2005年からロジャーズセンターに名称が変更されました。
 ロジャーズセンターの特徴は,ホテルが併設されていることで,ホテルの部屋からゲームを観戦することができます。この日のゲームも,部屋から観戦している日本人が写っていました。
 また,隣には高さが553.33メートル(1815.39フィート)の CNタワー(Canadian National Tower)があります。CNタワーは通信と観光用の塔で,開業から2007年までの32年間,世界で最も高い塔でした。
 今考えると夢のような贅沢な旅ですが,私がトロントに行ったときは,まったくMLBのことなどわかっておらず,単に,私と一緒ならこころ強いと,プリンスエドワード島とナイアガラの滝とニューヨークの旅に行こうと誘われて,のこのことついて行っただけのことでした。そして,ナイアガラの滝のツアーの拠点がトロントでした。トロントで1泊したのですが,MLBのゲームを見ることができると聞いて観戦に出かけたわけです。しかし,途中で飽きてしまい,スタジアムを出てCNタワーに登ったのですが,その展望台からスタジアムを一望できたことが最大の思い出です。
 トロントは映画でニューヨークのシーンを撮るときにその代わりにロケ地となる都会であり,ともても落ち着いたところであり,魅力に富んでいて,印象もよいのですが,私は,このときに行ったことですっかり満足していて,再び行ってみたいと思ったことがありませんでした。なぜだろう?

 さて,話をロジャーズセンターに戻します。どうしてロジャーズセンターがワースト3なのでしょうか。その理由は
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 MLBで3番目に大きいボールパークが特長だが,これが見事なまでにアダとなって大き過ぎる!, やたらと広い人工芝が不安な気持ちにさせる!
  ・・・・・・
 要するに「醜い大きなコンクリートの円盤にニセの芝が植えられている」ということだそうです。
 これが私の調べた情報ですが,まず,私には「3番目に大きい」というのがよくわかりません。1番目と2番目がどこなのかもわかりませんでしたし,大きさというのも,インフィールドのことではないく,それよりも,建物全体がバカに大きいこととファールグランドが広すぎることだと思います。その理由は,外野後方にあるホテルが仇になっているのです。すごい圧迫感です。
 今風のボールパークは,外野後方が広く空いていて,そこから外の美しい街並みを見ることができることと,ファールグランドがぎりぎりまで狭いことが特徴で,このふたつを完全に逸しているのです。このふたつの欠点は,オークランドアラメダカウンティコロシアムにも当てはまることです。また,もうひとつの不人気の原因である人工芝,これは,トロピカーナフィールドにもいえることです。ロジャーズセンターは,天然芝に張り替えるという話を聞いたことがあったので期待したのですが,どうやらそれは誤報で,今もまだ人工芝のままのようです。
 これらの負の要素は,巨人や中日をはじめとする日本の多くの球団の本拠地が当てはまるわけで,それが,私がまったく日本のプロ野球に興味がないという原因のひとつとなっています。

 ただし,やる気の感じられないトロピカーナフィールドとは違い,2022年,トロント・ブルージェイズは,2億3000万ドル(約311億円)を投じてロジャーズセンターを大改築する計画を発表しました。人工芝を天然芝に変える予定はないものの,両翼のブルペンを高くし,外野の壁の幅と高さを調整し,外野席は一部増築するとともにバーやテラスを追加,この改築を機に,クラブハウスやウェイトルーム,トレーニングエリアといった選手用施設の改修と拡張も行うといいます。
 しかし,冬が寒く,天然芝に変えても管理するのがたいへんだといったハンディもあり,ホテルを壊すわけにもいかないから,この大改装で欠点が克服されるわけでないのですが,これが精一杯のところなのでしょう。
 なお,この日のゲームでは,ロサンゼルス・エンジェルスの大谷翔平選手とトロント・ブルージェイズの菊池雄星投手の対決があって,現地のアナウンサーが「日本では大騒ぎでしょうね」という放送をしていました。

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 上田の次に行ったのが小諸です。上田より,私は小諸に行ってみたかったのですが,この小諸については後日書くことにして,今回は寅さんです。
 どうしてか?
 それは,小諸に黄金の寅さん像があったからです。帰ってから調べると,小諸は寅さんのロケ地で,1988年の12月に公開された第40作「男はつらいよ 寅次郎サラダ記念日」の舞台でした。家に帰って見てみました。現在「男はつらいよ」は全作品FODで見ることができます。

 あらすじは
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 信州小諸駅前で知り合った鈴木光枝さん演じるお婆さんの家に泊まり,昔語りを聞く寅さんでした。翌朝,三田佳子さんの演じる医師・原田真知子が,お婆さんを病院に入院させるためにやってきます。重病のお婆さんは,寅さんの説得でなんとか入院し,真知子は寅さんを御礼にと家に招待します。
 やがて,くるまやに帰った寅さんは,満男の大学受験の下見ということで,三田寛子さんの演じる真知子の姪・由紀を早稲田大学に訪ねます。さらに,真知子も息子に会うために東京へやってきて,寅さんにとって幸福な日々が続くのですが…。
 俵万智さんのベストセラー短歌集「サラダ記念日」を原作にした短歌文学の香り豊かな作品です。
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 この作品では,寅次郎が早稲田大学で講義を受ける場面があるなど「サラダ記念日」の世界を反映した内容となっていて,他の作品とは少し趣が異なっています。
 期待した小諸での風景はほとんどなくて,むしろ,早稲田大学でのロケが多く,それもまたいいもので,私には印象に残りました。この映画の時代はちょうど私が大学生のころで,当時の大学の様子,そして,学生たちの姿がとても懐かしく思い出されたからです。撮影では,実際の早大生がエキストラとして出演しているそうですが,今の大学生に比べてずっと大人っぽい感じです。
 この作品には,俵万智さんの歌が随所に使われています。
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 寅さんが早稲田の杜にあらわれて やさしくなった午後の教室
 愛人でいいのと歌う歌手がいて 言ってくれるじゃないのと思う
 寅さんが「この味いいね」と言ったから 師走六日はサラダ記念日
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 なお,小諸には「寅さん会館」もあったのですが,残念ながらこの日はお休みでした。
 これもまた,家に帰ってから調べてみると,1995年に開館した「寅さん会館」は映画にまつわる写真や資料など約1,700点を所蔵,また,寅さんを演じた渥美清さんの国民栄誉賞の盾なども展示し好評を得ていたのですが,2013年に閉館してしまったようです。つまり,お休みだったのは私が行った日だけではなく,ずっとお休みだったわけです。
  ・・
 その昔1960年ごろから,渥美清さんは,小諸市の名士・井出勢可さんと意気投合した仲だったそうです。ある日,地域活性化のために小諸市を映画の舞台にできないかと渥美清さんに相談し,その思いが実ったのが「男はつらいよ 寅次郎サラダ記念日」でした。
 ロケ誘致の成功後,井出勢可さんは私財をつぎ込み「渥美清こもろ寅さん会館」を完成させます。最盛期は10万人以上が訪れていたのですが,2004年に市長が代わったことで補助金がなくなったり,2011年には井出勢可さんが脳梗塞で倒れたりと,徐々に運営が難しくなっていき,それが原因で閉館してしまったということです。
 再開を前提に施設を小諸市に譲ったのですが,小諸市は再開をする予定はないということです。これは,渥美清さんが「第2のふるさと」といった小諸市のむごい仕打ちではありませんか。
 奇しくも今日8月27日は「寅さん」の日。1969年のこの日に映画「男はつらいよ」の第1作が公開されました。

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 2019年2月に,次のようなニュースがありました。
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 アメリカの公式サイト「MLB.com」が「名前は確実に知っているはずたが,ブリュワーズのユニホームを着ていたことは覚えていないだろう」として,ミルウォーキー・ブリュワーズでプレーしたにも関わらずその印象が薄い選手を特集して,日本人からは野茂英雄投手が選ばれました。
 野茂英雄投手は,1999年にブリュワーズに加入すると,シーズン途中の5月にメジャー昇格し,12勝8敗の成績を挙げ,先発ローテーションのひとりとして活躍しました。しかし,翌年にはデトロイト・タイガースに移籍したことでブリュワーズ在籍はわずか1シーズンでした。
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 ミルウォーキー・ブリュワーズに所属したときの野茂英雄投手は,MLBで壁にぶつかって低迷し,それまで所属していたロサンゼルス・ドジャースからニューヨーク・メッツに移籍し,さらに,シカゴ・カブスで契約したもののメジャーに入ることすらできなかったころでした。
 結果として,ミルウォーキー・ブリュワーズで復活を遂げて,再び活躍をはじめたのですが,私がミルウォーキーに行って,ミルウォーキー・ブリュワーズのゲームを見たのは,その1年前,1998年のことでした。
 現在,ミルウォーキー・ブリュワーズは,新しいアメリカンファミリーフィールド(American Family Field)でプレーしていますが,私が見たのは,カウンティスタジアム(Milwaukee County Stadium)という古いスタジアムでした。
 それがまあ,レジェントというにははばかられるほど老朽化したところで,町工場みたいな感じでした。なんだか,とても悲しくなりました。もし,日本からあこがれてメジャーリーグに入ったとしても,これでは都落ちだ,と思いました。そんな印象をもったところに,私が行った翌年,野茂英雄投手が入団したということが私にはとても衝撃的でした。
 華やかで豪華なボールパークばかりだと思われるMLBにも,以前は,こんなスタジアムでプレーしているチームもありました。

 さて,この日もまた,暇にまかせて,いつものように,見るでもなく見ないでもなく,MLB中継を英語にしてつけていたら,フロリダ州のタンパベイからゲームを放送していました。そこで思い出したのが,カウンティスタジアムであり,また,このタンパベイ・レイズのホームであるトロピカーナフィールド(Tropicana Field)です。今日の話題は,先に書いたミルウォーキー・ブリュワーズではなく,タンパベイ・レイズなのですが,このタンパベイ・レイズのホームは,ミルウォーキー・ブリュワーズとは違って,今でも,カウンティスタジアムのような,そんな,さえないスタジアムです。
 まだ,アメリカのことをほとんど知らなかった1998年のアメリカ旅行で,私が行ってゲームを見たのは,ミルウォーキー・ブリュワーズだけでなく,シカゴ・カブス,アトランタ・ブレーブス,そして,タンパベイ・レイズのホームタウンでした。当時,タンパベイ・レイズはできたばかりで,タンパベイ・デビルレイズというチーム名でした。私は,道に迷いながらトロイカーナフィールドに着いて,チケットを買おうと歩いていたら,チケットが余ったからあげるよ,と言われて,タダで見たことがあります。そのころは,スタジアム内にもショップがほとんどなく,まったくやる気が感じられないところという印象だけが残りました。
 2000年のはじめ,多くの新しく豪華なボールパークが建設されましたが,トロピカーナフィールドは,依然として現役のままなのです。
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 トロピカーナフィールドは,1990年,フロリダサンコーストドーム(Florida Suncoast Dome)の名称で開場しました。その後,1998年に Tropicana Products 社のネーミングライツによりトロピカーナフィールドとなり,デビルレイズの誕生に伴い,野球専用球場に生まれ変わりました。その際,選手の負担を考慮して最新式の人工芝を導入し,ダイヤモンドを除く内野部分はアンツーカー(人口土)へと改装されました。
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 ということなのですが,チームが新設されたときに,新しいボールパークを作るのではなく,従来からあったスタジアムを急ごしらえにMLB専用に改装しただけというわけです。先日書いたオークランド・アスレチックスのオークランドアラメダカウンティコロシアム(Oakland Alameda County Coliseum)に続く,メジャーリーグファンの選ぶワースト2のスタジアムですが,その理由は,MLB唯一の密閉式ドーム型スタジアムであり,映えない人工芝であり,悪い照明・酷いフィールドであり,ということで,私も同意します。スタジアムに魅力がないのでお客さんも入らず,ポストシーズンのチケットでさえ売れ残ります。

 トロピカーナフィールドの場所はセントピーターズバーグにあるのですが,その隣のタンパの方がベースボール人気があって,チームはタンパに移転したいのですが,2018年に発表された移転計画では,スタジアムの建設が900億円という巨額に膨れ上がり,予算オーバーでとん挫しました。そこで,翌年,苦肉の策として考え出されたのが,セントピーターズバーグとカナダのモントリオールの2都市フランチャイズ制でした。夏の暑い時期はフロリダを去って,涼しいカナダのモントリオールでゲームをしようというわけです。
 しかし,そもそも,以前モントリオールに存在したモントリオール・エクスポスが,そのホームであったオリンピックスタジアムが古く魅力がないこともあって,あまりに不人気だったためにワシントンに移転して,現在はワシントン・ナショナルズに変わってしまったことから見ても,そんな計画,うまくいくわけがないのです。モントリオールでも,オリンピックスタジアムは老朽化しているから,やはり,新しいスタジアムを作る必要があるのですが,そのお金もないのです。
 このように,このタンパベイ・レイズの最大の問題は,移転計画が決まらない,ということです。ここに書いたように,さまざまな計画が上がっては消えてしまい,当分,結論が出そうにもありません。仕方なく,トロピカーナフィールドを2027年まで使い続けるということです。
 フロリダという地は,金持ちが老後に住み,しかも,ものすごい発展を遂げているところです。チームが強いのに,これではもったいない話です。どうしてこんなことになるのでしょう。不思議な話です。
 今日もまた,NHKBS1では,このトロピカーナフィールドからの中継があるので,スタジアムに注目してご覧ください。また,ロサンゼルス・エンジェルスは,この次は,カナダのトロントに移動して,トロント・ブルージェイズと対戦しますが,実は,トロント・ブルージェイズのホームであるロジャーズセンターも,オークランドアラメダカウンティコロシアム,トロピカーナフィールドの次に位置する,メジャーリーグファンの選ぶワースト3のスタジアムなのです。


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 さえない2022年の夏でした。いつも天気が悪く,暑く,コロナ禍は終わらず,政治はむちゃくちゃ。そんな長い夏,車が新しくなったので慣らし運転をしたかったことと,県民割が8月末までであることと,しばらくどこにも遠出していなかったことなどが理由で,8月21日と22日,1泊2日で,再び木曽駒高原へ行きました。
 前回木曽駒高原へ行ったのが7月1日,2日だったので,あれからもう2か月近くになるのが夢のようです。海外旅行ができないこの夏,一体,その間,私は何をしていたのでしょう? そうだ,思い出しました。大阪でフェルメールを見て,十津川温泉へ行ったのです。あれは楽しかった…。

 話を戻します。
 前回は安曇野に寄ったのですが,今回は,前回行くことができなかった上田と小諸に足をのばすことにしました。
 長野県は,若いころに毎冬スキーでさまざまなところに行ったので,地名だけはよく知っていました。栂池,岩岳,白馬八方尾根,これらはJR大糸線にそったスキー場で,松本から北に安曇野を越えて,新潟県の糸魚川市に至る山麓です。黒姫,妙高,赤倉は,長野市から北に,新潟県上越市に至る山麓です。その東側が志賀高原,野沢温泉のある湯田中温泉郷です。
 当時は,スキーがやりたいだけで,現地まではほとんどが深夜バスだったので寝ていて何も覚えておらず,今さらながら,地図で見るとこんなに遠かったのかと驚きます。
 また,蓼科高原,霧ヶ峰,美ヶ原,軽井沢,浅間山,さらには,八ヶ岳,清里,小淵沢などは,子供のころに,避暑として,また,夏の林間学校で行ったことがあるので,それらの場所も珍しいとも思わなかったので,今,あえて行くこともありませんでした。

 しかし,これまでの私は,安曇野,小諸,上田,松代,さらに,立山・黒部,といったところには行ったことがなかったのです。盲点になっていました。そこで,今になって,それらの場所がどんなところなのか興味が湧いてきました。そんなわけで,その中で,前回は安曇野に行ったので,今回は,上田と小諸に行くことにしたわけです。
 前回行った安曇野はいいところだったけれど,もっとのどかなところだと思っていたので少し残念でした。考えてみれは,そもそも日本です。私が思い描くようなのどかで悠久の大地が広がる平原などあるわけがありません。
 そこで,今回の上田と小諸ということになるのですが,正直いって,観光客と車ばかりなのに落胆しました。この日が夏休みの日曜日だったということのあるのでしょうが,ここもまた,というか,安曇野以上に,しっかり,日本の観光地でした。
 それはそれとして,ともかく,私は,念願だった上田と小諸がどんなところなのかはわかったので,好奇心は満たされて,目的は達成できました。

 まずは,上田に行きました。経路は,名古屋から国道19号線を走り,途中,国道361号線で伊那谷に出て,そこから伊那路を北上しました。有料道路はほとんと利用しませんでした。
 上田市の千曲川右岸の旧市街は戦国時代に真田氏が築いた上田城を中心とする城下町で,ここが観光の名所です。また,千曲川左岸の塩田は鎌倉時代の執権北条氏の一族塩田北条氏の所領で,多くの文化遺産が残されていて「信州の鎌倉」といわれます。さらに,上田市街地から北に向かうと真田氏発祥の地とされる真田郷があります。
 そんな上田市ですが,何といっても,上田で有名なのは,真田幸村です。
  ・・・・・・
 戦国時代の1583年(天正11年),真田幸村の父・真田昌幸が尼ヶ淵城を改修して上田城としました。
 1585年(天正13年)には,徳川家康がさしむけた真田討伐の大軍をむかえ打ちこれを撃退せしめました。また,1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いのときに,真田昌幸と真田幸村が徳川秀忠が率いる大軍を完全に阻止し,そのため秀忠が関ヶ原の戦期を失うに至ったことで名高いわけです。
 関ヶ原の戦いののちは,真田昌幸は次男である真田信繁とともに紀州高野山に幽閉され,のち,九度山に移されます。上田は,徳川家康の女婿となっていた真田昌幸の長男・真田信之が藩主になりました。
 1611年(慶長16年)に真田昌幸は死去しましたが,その翌年から起こった大坂の陣で豊臣方に招かれた真田幸村は,徳川家康の本陣まで攻め込んだ活躍で「日本一の兵」と評されるなど戦国最強の武将とされ,今でも多くの人に愛され続けているわけです。
 さて,上田では,1622年(元和8年)に真田信之が松代に移り,その後は仙石氏が3代85年,1706年(宝永3年)からは松平氏が7代164年間,この地を納めました。
  ・・・・・・
 ということなのですが,現在は,上田城は往年の堅固な平城というイメージとは程遠く,単なる公園でした。また,真田郷にも行って見ましたが,道路が狭く,走るのも大変でした。
 もともと私は,真田幸村にはまったく興味がないので,行ってはみたものの何の感想ももちあわせていません。


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「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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 「クリムト,エゴン・シーレとウィーン黄金時代」(Klimt & Schiele: Eros and Psyche)というドキュメンタリー映画を Amazon Prime Videoで見ました。
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 19世紀末のウィーンを代表する画家であるグスタフ・クリムト(Gustav Klimt)とその弟子エゴン・シーレ(Egon Schiele)の魅力に迫るドキュメンタリーです。
 グスタフ・クリムトとその弟子エゴン・シーレが生きた19世紀末に花開いたサロン文化と愛と官能性に満ちた彼らの絵画の魅力を豊富な映像と資料から詳らかにしています。
 「時代には芸術を,芸術には自由を」(Der Zeit ihre Kunst, der Kunst ihre Freiheit.)
 これは,グスタフ・クリムトを中心に結成された芸術家グループである「分離派」が1898年に建設した展示施設・分離派会館の入り口に金文字で掲げたモットーです。
 グスタフ・クリムトとエゴン・シーレは人間の不安や恐れ,エロスを描いた新しい手法を通じて,それまでの絵画とは異なる革新的な作品を次々と生み出していきました。
 彼らの異端なテーマは,精神医学者ジークムント・フロイト(Sigmund Freud)が辿り着いた精神分析の誕生と時を同じくして世に現れました。
 そのころ,女性たちはコルセットを脱ぎ捨て,自立を主張しはじめます。封建的なウィーンで抑えられていた人々の衝動が一気に爆発したかのように社会秩序を揺り動かし,自我の本質への対峙がはじまったのです。
  ・・・・・・

 私は,クラシック音楽をこよなく愛しているのですが,楽器はまったく弾けません。また,絵画はわかりません。高校で世界史を習わなかったために,世界史もまた,全く知らず,興味もありませんでした。
 クラシック音楽が好きでも,ヨーロッパに行こうとは思っていませんでしたが,NHK Eテレで放送された語学番組「旅するドイツ語」でウィーンが取り上げられていたのがきっかけでにわかに行く気になったのです。ところが,行ってみて,その魅力にすっかりはまってしまいました。さらに,絵画にも,そしてまた,世界史にも目覚めてしまったのです。
 2回の旅で,精力的に歩き回ったので,おおよそのところはすべて行くことができたし,グスタフ・クリムトやエゴン・シーレの作品も数多く見ることができました。
 ウィーンは,音楽や美術,そして,世界史に興味がある人には,最高に魅力のある街だったのです。それとともに,それまで,ほとんどそうしたものに素養がなかった自分を恥じるとともに,これまで知らなかったことをとても残念に思いました。
 今でも後悔しているのは,フロイト博物館に行っていないことです。それは,そのころはまだ無知で,どうしてフロイト? フロイトがどうしてウィーンと関係があるの? と思ってしまったからです。

 高校生のころ,学校でずいぶんと勉強させられたのに,漢文を学んでも中国史なんて無縁の存在だったのと同様に,美術を学んでも,ほどんど美術史も絵画の見方も教えられませんでした。まして,世界史がカリキュラムになかったなんて絶望的で,世界の歴史で,ウィーンがこれほど重要な場所だなって,全く知りませんでした。教師たちは文化知らなさすぎでした。生徒に何を学ばせたかったのだろう。
 だから,今にして気づいたことは,一体自分は何を学んできたのだろう,ということです。大学入試問題の数学なんて,英語の文法問題なんてくそくらえ。一体,高校時代,あれほどの時間をかけて自分は何をしていたのだろう。今必要な知識はなにひとつとして学んでいなかった…。
 それにしても,ウィーンの魅力を味わうには,もはや時間がいくらあっても足りません。ウィーンは京都以上に奥深いのです。それでもまた,もし行くことが可能になったのなら,この先も何度でも行ってみたいと思うのです。

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 「2リア(リアズ),3ランド(ランズ)」の想い。
 オーストラリアの次は,オーストリアです。オーストリアで「オーストリアにはカンガルーはいません」Tシャツがお土産に売られているように,この国は,かなり,オーストラリアを意識しているのが滑稽でもあり,気の毒でもあります。
 子供のころ,私にはオーストリアというのはヨーロッパの小国だという印象がありました。しかし,世界史で,この国は第1次世界大戦までは強大な国家だったのを知って驚きました。そしてまた,日本以上に歴史と文化のある国でした。

 ところで,今でも何度もテレビで放映される映画「男はつらいよ」。この映画の第41作「男はつらいよ 寅次郎心の旅路」が先日放送されていたのですが,映画の舞台は,何とオーストリア・ウィーンでした。
  ・・・・・・
 舞台をウィーン,マドンナとして竹下景子さんを起用した「男はつらいよ 寅次郎心の旅路」は,1989年夏に公開されました。ウィーンが舞台になったのは,当時のウィーン市長ヘルムート・ツィルク(Helmut Zilk)が招致したことによります。ヘルムート・ツィルクは1986年に訪日した際,飛行機の機上で「男はつらいよ」シリーズの作品を見て,ウィーン市民の気質や市郊外の風景が作品の世界と似ていると感じたといいます。
 みちのくのローカル線の列車で知り合った心身衰弱のサラリーマン・坂口の望みでウィーンに行くことになった車寅次郎は現地でツアーガイドの久美子と偶然知り合います。車寅次郎は一緒に日本へ帰ることを勧め,久美子は帰国することに。しかし,いよいよ帰国というときに,恋人だったヘルマンと再会。その瞬間,寅次郎は失恋し,ヘルマンに対して、久美子を幸せにするよう約束させ、帰国の途についたのでした。
  ・・・・・・

 若いころ,私は,「男はつらいよ」を見にいくのを楽しみにしていたのですが,今回放送されたものは見た記憶がありません。まさか,寅さんがウィーンに行っていたとは…。この映画が上演された当時の私はウィーンに興味がなかったので,記憶に残らなかっただけで,ひょっとしたら見ているのかもしれません。
  ・・
 私は,2018年と2019年の2度,オーストリアに行ったことがあります。そして,すっかりその魅力に夢中になってしまいました。今では,再び行きたい国ナンバーワンです。
 この映画を見ると,すでに30年以上前とはいえ,ウィーンの街の様子は,少しも変わっていないのに驚きます。2018年に行ったときに国立歌劇場(Wiener Staatsoper)でオペラを見たのですが,国立歌劇場は第2次世界大戦で大きなダメージを受けたのにもかかわらず,外見は昔のままに再建され,しかし,それぞれの座席には液晶パネルが設置されていて,そこにさまざまな言語で字幕表示され,幕間のカフェの注文もできるようになっていました。このように,伝統を大切にしながらも,日本よりも優れた最新設備が取り入れられていることに驚きました。
 それと同じように,市内を走る地下鉄は,子供連れの人がベビーカーのまま乗り込むことができて,しかも,ベビーカーをもったまま座ることができるように入口付近には座席が用意されているといったように,日本とはまったく違う,人が快適に生きるための工夫が至る所にある,とても過ごしやすい街であったのに,私は,感銘を受けました。
 ウィーン,今では,私が世界で最も好きな街のひとつです。

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 2008年のリーマンショックに2020年のコロナ禍。日本は大したことがないと,はじめのうちは対岸の火事のように高をくくり,日本は優秀だ,外国とは違うぞと,こころの中で何の根拠もない自信と自己満足にふけっていても,結局,いつも世界から遅れをとる日本。金融緩和においても,その幕引きができない日本。
 半世紀以上生きてきて,いつもそんな様だから,私は,もう,あきらめしかないけれど,この後に及んで,FXで円を売ってドルを買って大損した人が相次いでいる,などということが新聞に書かれてあるのには笑えました。こんな高値な相場でドルを買うなんて,短気で勝負する投資家ならともなく,ありえません。全財産を円からドルに変えてしまった人もいるみたいです。こうして,いつもいつも,知識もないのに金儲けをしようとする庶民は大損をくり返すわけです。これもまた,自分の意思で行動できない日本人の姿です。
  ・・
 おそらく,1ドル140円までいく,という報道に煽られて,139円あたりでドルを売ったんじゃなくて買ってしまった人は,あと10年も待っていれば,何がしかの「事件」が起きて,そんな相場にならないとも限らないから,それまでずっと持ち続ければ損しないと思うけど,今の時点で少しでも円高になると,今度は不安になってあせって損切りするわけです。
 以前,リーマンショックのころに1ドル80円くらいの極端な円高になって,1ドル95円あたりでドルを買ってしまったと絶望的になっていた人がいたのですが,今まで持っていれば大儲けできたのに,きっと,その人もそのころに損切りしてしまったことでしょう。

 ということで,こんなことは長く生きていればわかることなのですが,おそらく,学生時代から,問題集をやるのが勉強だと思って生きてきて,偏差値と学歴が人の価値を決める物差しのすべて,だったような人は,今になって,雑誌やらファイナンシャルプラナーやらのいうことを聞いて投資をはじめて,こんな罠にはまるのでしょう。
 少子化で,大学の入学も推薦枠で入った学生が半数以上を占めるようになったそうです。すると今度は,これでろくに勉強もしないで大学に入る学生が増えるから,さらに日本は地盤沈下だという書き込みを見かけます。そうした書き込みをする人もまた,ドリル学習を勉強と勘違いしている,悪しき日本の教育の犠牲者です。今の日本の優秀だとされる人たちの有り様をみれば,優秀という意味がわかろうというものです。机上の「検討」ばかりで現実が伴っていないのです。
 その昔,ゆとり教育というのがあって,その時代に学生だった人たちを「ゆとり世代」と揶揄していますが,それもまた,ゆとりとは勉強をしないこと,という勘違いから来ています。ゆとりというのは,その時間を自学に有効活用しよう,ということだったのです。しかし,有効活用ができなかったことが,そもそもの原因です。
 すると今度は手のひらを返して,めちゃめちゃの詰め込み教育をはじめましたが,ほとんどの生徒は消化不良です。小学生に英語やコンピュータのプログラムを教えようとしても,これまで指導者を育てる施策もしないでおいて,だれがそれを教えるのでしょう。それどころか,労働環境が劣悪なのでそっぽを向かれ,教員不足が深刻です。
  ・・
 マスコミもまた,何かのきっかけでニュースになると騒いでも,それは,売れるから。喉元すぎれば何とやら。騒がなくなれば,その後の報道はどこかに行ってしまうわけです。巷で騒いでいる人もまた,人それぞれ何がしかの思惑があるからです。コロナ禍だって,本当に困っている人もいる反面,それを利用してずいぶんと儲けた人がいるそうだし。自分の意見を,さも学説のように語る医者がごろごろいるではありませんか。
 ということで,何もかも,自分の意思をもたず考えず,大衆と同じように群れて行動する人だけが大損するように,この世はできているのです。


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 暇にまかせて,いつものように,見るでもなく見ないでもなく,NHKBS1で放送されているMLB中継を英語にしてつけていたら,デトロイトからのゲームでした。そこで,デトロイトについて,なぜか懐かしく思い出しました。
 私がデトロイトに行ったのは2002年のことだから,早いもので,もう20年前のことになります。デトロイトに行った目的は,いつものとおり,デトロイト・タイガースのホームでMLBを見ることでした。そのついでに,美術館や歴史博物館,さらにはモータウンなどの観光もしてみましたが,この町は,危険というより寂れた感が一杯でした。
 このときの私は,アメリカ合衆国50州制覇とMLB全30チームのホームゲームを見る目的を達成しようと,セントルイス,インディアナポリス,シンシナチ,ピッツバーグ,クリーブランドといった,およそ日本人が観光するのとは無縁のアメリカの中部をドライブしていました。そこで最後に寄ったのが,帰国便に乗る空港のあるデトロイトでした。

 デトロイトはセントレア・中部国際空港から直行便があるのですが,空港はデトロイトのダウンタウンからは遠く,ダウンタウンを目的にする人もまた,ほとんどいないように思います。
 日本では「デトロイト=車の町」といった印象ですが,実際は工場は郊外にあって,ダウンタウンは相当に危険な都会でした。
 まず,ミシガン州に入った途端にインタ―ステイツの制限速度が70マイルに格上げされ,それと反比例するように道路がガタガタになったのに驚きました。そして,ダウンタウンに近づくにつれて,どんどん雰囲気が「ヤバく」なっていきました。私が見たのはナイトゲームだったのですが,駐車代をケチって遠くに停めたが失敗でした。
 終了後,車を停めた場所まで歩いていったときに,よく命があったものだ,と今では思います。深夜に歩くような町ではありませんでした。

 さて,20年前のデトロイトはそんな感じでした。よくもまあ,こんなになるまで放っておいて何もしなかったものだ,というのが私の正直な印象でした。デトロイトは2013年に財政破綻をしたという報道まではよく耳にしたのですが,その後の様子がわかりません。調べてみても,実際の姿がよくわならないのです。
 私が行った当時は,ナイトゲームのとき,スタンドから見える遠くのビルにはまったく明かりがついていなかったのですが,テレビのMLB中継を見る限り,スタジアムの周りの町の様子は,私が行ったときよりは色とりどりになっていて,明るくなったダウンタウンがうかがわれました。このように,ダウンタウンは再開発で活気をとりもどしたというようなことが書かれているものもあります。
 しかし,治安は? として調べてみると,デトロイトの日本領事館の情報では
  ・・・・・・
 デトロイトは,近年,カムバック・シティとして目覚ましい復興を遂げています。ダウンタウンやミッドタウンを中心に若者たちによるパブリックアートや音楽が盛んとなり,アメリカ国内でも注目度の高い都市となりつつあります。
 その一方で,FBIが発表した2016年中の犯罪統計では人口10万人あたりの凶悪犯罪件数でワーストとなるなど,治安が比較的回復してきた近年でも最も危険な都市のひとつであることに変わりはありません。
  ・・・・・・
とありますが,この情報さえ6年も前のことです。今でも依然として同じ状況なのでしょうか。
 これ以上のことは実際に行ってみないとわかりません。
 なお,私が行ったのは20年も昔のことで,今のようにデジカメもなく,フィルムで写した写真をスキャナーで加工した少しの写真しかないのが残念です。いろいろなところに出かけるには,人生は短かすぎます。

 さて,ここからはおまけです。
 現在のデトロイト・タイガースのホームグランドはコメリカパーク(Comerica Park)ですが,このボールパークは,2000年にダウンタウンの再開発を目的として作られたものです。私が訪れたのは,ちょうどできて2年目でした。ちょっと安っぽいなあ,というのが,私の印象でした。
 それまでは,タイガースタジアム(Tiger Stadium)で,ダウンタウンから少し西に行ったところにあって,私は,このとき,その横を通りすぎました。使われなくなって2年経っていましたが,当時はまだ健在でした。その4年後の2006年に取り壊され,現在では,当時の遺構が一部残された the Corner Ballpark になったということです。
 実は,私は,このタイガースタジアムで,ぜひ,一度ゲームが見たかったのです。このボールパークは1911年生まれというとても古いもので,古きよき,そして,自動車産業が栄えたころの強かったデトロイト・タイガースの象徴でした。今も使われていれば,ボストンのフェンウェイパーク(Fenway Park),シカゴのリグレーフィールド(Wrigley Field)のように,ここまで古いとむしろトレンディだったのです。タイガースタジアムは,グランドの形はほぼ四角形で,センターまでが異常に遠く,また,スタンドの屋根は柱があって見にくいし,といったように,不便極まりない,私が好きな場末感ただようすてきなボールパークだったようです。

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 NHKBSPで放送された映画「夢を生きた男/ザ・ベーブ」(The Babe)を見ました。
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 「夢を生きた男/ザ・ベーブ」は,1992年の映画で,ベーブ・ルースの生涯を映画化したものです。
 1902年に7歳で少年矯正施設に送られ,そこで野球をはじめてから,プロ野球選手となって1935年に引退するまでを描いています。
  ・・・・・・
 将棋の藤井聡太五冠の活躍で再び注目された加藤一二三九段のように,大谷翔平選手の活躍で再び脚光を浴びるベーブ・ルースです。
 この映画は,べーブ・ルース(George Herman "Babe" Ruth, Jr.)が両親と離れ離れになつた生い立ちから,プロ野球選手として大成し,多くの功績と晩年までの豪快な人柄を,ボストン・レッドソックスがベーブ・ルースを手放した経緯,ホームランを2本打つとを約束した少年がその後に元気になつたこと,予告ホームラン,最後は現役,あるいは,メジャーの監督にこだわりアトランタ・ブレーブスに売り飛ばされたことなど多くのエピソードを交えて綴られていて,とても興味深いものでした。

 この時代,今とは違って,ニューヨーク・ヤンキースは弱小チームでしたが,べーブ・ルースの活躍によって徐々に発展してゆく様,また,当時のユニフォームやグローブ,スタジアムなど,私の知りたいことが忠実に描かれていて,アメリカへの憧れがまた復活しました。
 こうした映画を見ると,当時のベースボールは,お行儀が悪い,ベーブ・ルースは人間的にはダメなどと上から目線で偉そうな感想を語る,もとから恵まれた家庭に生まれぬるま湯社会に育った日本の若者がいますが,元来,ベースボールに限らず,アメリカ社会というのは,昔も今もこんなものです。移民国家のアメリカでは,みんなゼロから実力で這い上がってきたのです。その生存競争には厳格なルールがあり,そのルールに従って,スポーツも政治も経済も,そのすべてが知恵比べ。つまり,ゲームであって,強いものが勝ち。日本のような,精神論に裏打ちされただけの,権力者によるルール無視さえまかり通る,家柄やら伝統やら忖度やらが支配する社会とはまったく違うのです。
 また,だからこそ,アメリカ人は,こうした成功物語が好きで,「42〜世界を変えた男〜」(42),「Ray/レイ」(Ray),「ボヘミアン・ラプソディ」(Bohemian Rhapsody),「ドリーム」(Hidden Figures)など,多くの映画があって,事を成しえた人たちを称えるのですが,そのエンドロールに,ヒーローの偉業とその後がつづられるのが,いつものパターンです。これもまた,「妬み社会」の日本とは異なるものです。

 ベーブ・ルースを演じたのはジョン・グッドマン(John Goodman)ですが,こうした映画のどれも,よくもまあ,ホンモノに雰囲気が似た人物を探し出すものだなあと,いつも感心させられます。
 ベーブ・ルースが終盤の引退を決意したときのさりげない演技とロッカー・ルームを去る最後のカットが,成功者であるがゆえの人生の哀愁を漂わせていて,実に感動的でした。
  ・・
 今日の写真は,私が見てきた「ルースが建てた家」ヤンキースタジアムのとなりに新設された新しいヤンキースタジアムとそのスタジアムの中の博物館にあるべーブルースの遺品,そして,ニューヨーク州クーパーズタウンにあるアメリカ野球殿堂博物館(National Baseball Hall of Fame and Museum = HOF)にあるベーブ・ルースのプレートです。
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 I won't be happy until we have every boy in America between the ages of six and sixteen wearing a glove and swinging a bat.
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 オーストラリアやアメリカの悠久たる大地を走っていて,時折民家を見かけると,こういうところに住んでいる人は,いったいどんな生活をしているのだろう,と想像することがあります。
 日本でも「ポツンと一軒家」とかいう番組があって,ウェブページの番組の紹介には
  ・・・・・・
 日本各地の人里離れた場所に,なぜだかポツンと存在する一軒家。そこには,どんな人物が,どんな理由で暮らしているのか⁉ 衛星写真だけを手がかりに,その地へと赴き,地元の方々からの情報を元に,一軒家の実態を徹底調査しながら,人里離れた場所にいる人物の人生にも迫っていく。
  ・・・・・・
とあります。
 私は,外国を知らなかった若いころ,星が見える場所がないかな,とずいぶんとそういう場所を走りました。だから,日本の山の中は結構詳しいのですが,「ポツンと一軒家」に出てくるようなところがいかに不便なところであっても,たかが日本,知れています。車で1時間も走れば都会に行けます。唯一の問題といえば,車が通れないほどの道路しか通っていないことがままある,ということくらいでしょうか。
 それに対して,アメリカやオーストラリアの郊外は,本当にどうしようもないほどの場所です。都会に出るには半日ほどかかったりすることもあるし,周りにだれも住んでおらず,一体,何を楽しみに生きているのだろうか,と思ってしまいます。

 その反対に,日本の異常なほどの狭さ。たとえば東京。
 どこもかしこも人ばかり。しかし,東京に住んでいると,他には住めないという人がいるそうです。それは,欲しいものがあれば簡単に手に入るし,楽しみも多いからだそうです。しかし,考え方を変えると,欲しいものって何だろう,楽しみって何だろう,となるわけです。そんな考えが膨らむと,当然だと思っていた価値観すら揺らいできます。
 結局のところ,今の私には,若いころ当然だと思っていた価値観のどこが当然だったのかわからないのです。ともかく,人混みの嫌いな今の私は,大都市に住みたくありません。
  ・・
 今日の写真は,1番目がブリスベンを見下ろす丘から写したもの,2番目がオーストラリアによくある小さな地方都市,3番目と4番目が郊外の田園風景です。どこも日本にはない風景です。
 そして,私がオーストラリアでこれまでに最も思い出に残っているのが5番目の写真。
 これは,深夜のオーストラリア大陸を,急遽帰国するためにブリスベンまで5時間以上走ったときのものです。明かりひとつない大地をこうして走っていくと,見えるのは満天の星だけ。そして,何時間も走り続けていってやっと町の明かりを見つけたときのホッとした気持ち…。

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 以前,ちょうどアメリカの独立記念日にミズーリ州ニューオリンズにいたことがあって,パレードを見ましたが,それぞれのグループが順番に出てきてマーチングバンドをやっていました。また,サンフランシスコのプライドパレードにも遭遇したことがあるのですが,地元の企業が順番に行進をするものでした。
 山形市の花笠まつり,盛岡市のさんさおどりなどの日本の夏祭りもまた,およそ同じようなもので,人の考えることはどこの国でも同じだなあと私は思います。

 しかし,郡上おどりは少し趣が違います。それは,地元企業の協賛というよりも,住んでいる人たちが自然発生的にやっているように見えるからです。おそらく,山里の小さな町でのお祭りは,企業のような経済効果がないからでしょう。この素朴さとともに,三味線と笛と太鼓の音に合わせて唄う郡上音頭がたまらなくいいものです。これは魔性です。
 先に書いた,阿波おどりと五山の送り火とは違って,私は,郡上おどりを見に,あるいは,踊りに,わざわさ行ったことがないのです。それは,郡上に親類がいたこともあって,子供のころに家族旅行で郡上に行って,ちょうど徹夜踊りの日に出会っていたことで,郡上おどりにはすでに慣れ親しんでいて,好奇心が湧かなかったからです。
 親類がいるということで当然ではあるのですが,私の母親が亡くなったときに戸籍謄本(はらこせき)をとろうとさかのぼっていたら,郡上に行きつきました。つまり,私にはもともと郡上の血が流れているのです。
 私は人混みと暑さがだめなので,今や,郡上おどりの時期に行くことはありませんが,混み合うこの季節を避けて,私は,静かな郡上という山里の町を歩くのが好きなのです。

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 亡者おどりの異名のある秋田県羽後町(うごまち)の西馬音内(にしもない)の盆おどり,徳島市の阿波おどりと並んで,「日本三大盆おどり」に数えられている郡上おどりは,中世の「念仏踊り」や「風流踊」の流れを汲むと考えられています。
 郡上おどりは,江戸時代,初代藩主・遠藤慶隆が領民親睦のため奨励したのが発祥とも,江戸時代中期の藩主・青山氏の時代に百姓一揆後の四民融和をはかるため奨励したのが発祥とも伝えられているそうです。いずれにしても,日本らしい,民衆を群れさせて踊ることで日ごろのうさを発散させ,その一体感から仲間意識を高めて同調意識を煽るという,お上の畏き施策から奨励されたのです。
 しかし,それが高じると,逆に,民衆の結束が反権力となって爆発するので,今度はお上がそれを迫害するのです。ということで,1874年(明治7年)には明治政府によって禁止令が出されたことがありますが,したたかな日本人はそんなことにはへこたれず,まつりは存続し,1923年(大正12年)には郡上踊り保存会が発足しました。
 第2次世界大戦中も国威高揚とかなんやかやと理屈をつけて軍部を説得し,まつりは続けられ,1945年(昭和20年)8月15日の終戦の日にも開催されました。しかし,病魔にだけは勝てず,2020年と2021年は,コロナ禍で中止となりましたが,2022年の今年,3年ぶりにまつりは復活しました。
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 今日は8月17日。8月も残すはあと2週間という日です。
 学生のころ,じわじわと夏休みが終わりに近づく足跡が聞こえはじめるこの日,毎年,私は決意をしたのです。さあ,今日から日常に戻るぞ,と。
 私の通っていた高校はいい意味でほったらかしだったので,記憶は定かでないのですが,確か,夏休みの宿題なんてなかったように思います。私にはそれがよかった。つまり,わかっていることをやってもそれは時間のムダでしかなかったからです。ただし,両親は学問には無知で,男が料理などするもんではないと叱るような父親と見栄をはって人より勝つことしか価値観のない母親でした。また,相談できるような親しい指導者もいなかったから,自主的にこういう勉強をすると将来役立つぞ,というようなことを導く人がいなかったことだけは残念でした。だから,我流で,どうでもいいことばかりをしていました。
 よく,高学歴の学生は親の年収の高い子が多い,教育にかけるお金があるから,ということが報道されますが,それは,塾通いにかけるお金があるということよりも,何を学べばいいかということを親が知っている,あるいは,すぐれた指導者が知人にいるといった環境の面が強いように思います。たとえば,クラシック音楽が自然に流れている家に育っていれば,ピアノを習いたくなるという,そんな感じです。

 ほったらかしで宿題のなかった高校に対して,小学校や中学校では,まがりなりにも夏休みの宿題というのがありました。それが配られるのは7月の夏休みに入る前だったので,夏休みになるころには,くだらないドリルの類はすべて終わっていました。知っていることを書くだけのドリルなんて時間のムダ以外の何ものでもありませんでした。夏休みの宿題は先にやる派か学校がはじまる直前にやる派か,などというアンケートがあったりするのですが,私は,もちろん先にやる派でした。
 また,自由研究もありました。しかし,自由研究といったところで,その方法を習ったこともないし,親もそういうことは無縁だったから,無理でした。たとえば,ヒマワリやトウモロコシを育てようにも肥料が必要だということも知らなかったからひょろひょろだったし,トウモロコシは実が5粒くらいしかつかなかったし,単にアサガオの咲いた花の数を毎日カウントしても,日なたと日陰と比べるとか,そういった手段がなければ研究にはなりません。そんなやり方もわからないのでは意味がありません。9月,学校がはじまると,ご両親のご指導よろしくすばらしい自由研究をお持ちになるご子息に隠れ,私は,死んだ虫を集めた標本とか,一度も回ったことがない回り灯篭とか,本を丸写しにしたレポートをこそっと提出するのでした。そんなことしているくらいなら,たとえば,科学館などで,なにがしかの子供向けの工作講座を履修するとか,キャンプに行って野外生活をして食事ひとつ作るのがどれほど大変なのかを経験するとか,そんな時間の過ごし方をしたほうがずっと役立ったのに,と大人になってから思いました。
 そんなわけで,私が,8月17日という日に,今日から日常に戻るぞ,と決意したというのは,さあ,遊ぶのをやめて,そろそろ夏休みの宿題をやるぞ,ということではなく,あと2週間で嫌いな学校がはじまるぞ,という決意表明の日だったわけです。

 私の若いころはそんな具合だったのですが,どうも,近ごろは違っているみたいです。それは学校に限らず,社会もまた同じで,何らからのノルマを与えられて,それをこなすことを勉強とか仕事にしているような感じです。何もかも与えられたことをこなすだけ,つまり,1億総幼児化です。すると,そこから何が生まれるかというと,それはやらされ感満載の「責任の逃れのやったふり」です。
 学生の場合は,自分から何を学ぶかなどということを考える暇もなく課せられた大量の宿題をこなすために,与えられた問題集の答えを丸写しして提出するわけです。要するに,単なる写経です。そんな意味のない作業をすることを「勉強」と称するのです。そうした学生時代を過ごした若者が社会に出ると,今度は,報告書ばかりをでっちあげるわけです。また,そうした学生が教師になると,同じことを生徒に強いるわけです。
 そんな世の中では,手段が目的となります。たとえば,このコロナ禍で,マスクをするという行為はどれだけ効果があるかは知らねど,感染予防のひとつの手段といわれているのにすぎないわけであって,マスクをすることが目的ではないのですが,それが感染予防の手段ではなく,目的になってしまうわけです。だから,だれもいない田舎のあぜ道をマスクをして犬の散歩をしたり,ひとり車を運転しながらマスクをしている,というバカげたことをするわけです。他人の目を気にしているだけなのです。飲食店の意味のないアクリルパティーションもまた同様です。そうでもしないと補助金が出ないからです。そんな「感染対策」を講じても,感染者数は世界一です。
 それと同じように,学生は,大学に合格するのは学問を続けるための手段であるのに,大学に入ることが目的となるのです。政治家は,選挙で勝つというのが,最大の目的となるわけだから,そこには政治家の矜持もなく,どんな支持者かも関係なく票をくれるのなら尻尾をふるのです。

 このように,手段が目的となってしまっているこの国の風潮を突き詰めていくと,最終的には,人が生きる目的が何なのかがわからなくなってきます。
 果たして,人は,死んだときに偉大な葬式をしてもらうために忖度して生きているのでしょうか。国から勲章をもらうために地位や名誉を手にいれようと生きているのでしょうか。あるいは,財産をたくさん残すために仕事漬けで生きているのでしょうか。
 そんなことを考えていくと,主権があるのは国民なのに,未だに江戸時代のようにお上に従順であることを美徳とする人,主体性もなく,他人の目を気にするだけの同調圧力とやらにむしばまれ,しかし,他人の目がないと急に傍若無人で道徳心のかけらもなくなる人などが群れているこの国で生きていくことの難しさもわかろうというものです。
 これもまた,民主主義を勝ち取った国の人々と,第2次世界大戦の敗戦によって他国から民主主義を与えられ,未だにそれを消化できていない国の人々の違いでしょうか。権力者に阿っても一番先に裏切られるのにねえ。世間知らずだよ。このごろの,テレビで放送されるアメリカのMLBのゲーム中継やヨーロッパの夏の音楽祭での観客の様子を見ていると,しみじみそう思います。欧米とは別の星にいるみたい。

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 前回「夏といって私が思うのは,京都・五山の送り火と郡上おどりと徳島の阿波おどりです。これぞ,日本の夏です」と書きましたが,8月16日は,京都・五山の送り火です。
 今年は,このお盆の伝統行事も3年ぶりに通常開催されるそうです。私は,数年前まで,毎年のように五山の送り火を見るために,この日に京都へ行きました。
  ・・
 現在は,「大文字」「松ケ崎妙法」「船形万灯籠」「左大文字」「鳥居形松明」の五山で炎が上がり,お精霊さんとよばれる死者の霊をあの世へ送り届けるとされますが,五山の送り火の起源は,平安時代とも江戸時代ともいわれています。盂蘭盆会や施餓鬼の行事として行われていたと古文書にあり,江戸時代前期から中期まではそんな性格で,大文字,妙法,船形,加えて,「い」「一」「竹の先に鈴」「蛇」「長刀」なども,所々の山,原野で灯されていたといいます。

 1994年のNHK大河ドラマ「花の乱」は,室町幕府第8代将軍・足利義政の妻である日野富子の生涯と応仁の乱,および,その前後の状況を描いたものでした。視聴率は,当時,大河ドラマ歴代ワースト1位だったそうで,人気のない作品のようですが,私は,ちょうど,京都に惹きつけられていたときだったので,とても興味深く見ました。このように,私がちょうど興味をもったころに,それに関する何がしかの番組が放送されることが結構あって,それもまた,運がいいと思っています。
 このドラマは,今放送されるのなら,もっと評価されるだろうといわれています。それは,ドラマの凝った演出やストーリーの展開などが,その時代の大河ドラマの概念と異なっていたからです。

 それはともかく,私が最も印象に残っているのが,ドラマの結末,応仁の乱で破壊された京の町に,その所業を懺悔するかのように,はじめて五山の送り火が灯るシーンです。それは,まったく史実とは異なることでしょうが,私は,それがとても象徴的に思えました。
 いつの時代も些細なことが原因で,日々,人は苦悩にあえいでいるのですが,自然災害と病魔と戦火だけは,そうした些細なスケールとはまったく違う大きさで,世界を一変させてしまいます。室町時代は今以上に社会が混乱していて,応仁の乱によって都が焼きつくされてしまいました。京都に住む人は,今でも「さきの戦」というと応仁の乱を指しているのです。だから,私は,五山の送り火は,古人が京の町に散々悪事を行った,そして,そうした悪事によって死んでいった人たちへのわび状だと,私には思えます。

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 今日は終戦記念日。日本が太平洋戦争で無条件降伏,つまり,敗北してから77年です。敗戦を終戦と言い換え,撤退を転進と言い換える日本です。相撲でも将棋でも,敗者が潔く負けを認めるのが日本人の美学だとか言っている人がいますが,なんのなんの。
 さて,今から50年前の9月29日,日中国交正常化が行われました。当時の田中角栄首相が中国に行って周恩来首相と会見してなされたものです。ずいぶん前のことでほとんど覚えていないので,確かこのときだったか,そうでなかったか,正確ではないのですが,田中角栄首相が周恩来首相に来日を要請して,その返答が「日本の桜が見てみたい」。そこで,翌日の新聞の見出しが「来春に来日」だったように記憶しています。結局,周恩来首相は来日しませんでしたが,代わりにパンダが上野動物園に来ました。
 ここで書きたいのは,日中国交正常化の話ではなく,周恩来首相のことでもなく,当時高校生だった私が驚いたのが「桜が見てみたい」が「春に行くよ」というように解釈される大人の社会ということです。そして,何だそれは,そんな解釈,私には理解ができない,大人の社会はド難しいところだ,と思った,ということです。それが今でも強く心に残っているのです。

 それからも相変わらず成長せず,齢だけ大人になって,さらに,大人社会の醜さにこころもからだもねじ曲がったことで「不良老人」と化してしまった私ですが,今でも,はやり,大人の社会はド難しいところだ,という印象は変わりません。むしろ,わかったのは,そういった,私がド難しいと感じたことは,すべてド難しいのではなく屁理屈をこねているにすぎないということです。要するにド難しくて私が理解できないのではなく,屁理屈が普通の凡人にはわからないというだけのことなのです。いろいろと頭のいい,というか,ずる賢い人たちが詭弁を弄して,解釈を都合のいいように変えてしまう。そして,私のような素直で? 頭の悪い人間を煙にまいているのです。たとえば,白を黒と言いくるめるようなふうにして。それは,子供が叱られたときに理屈をこねて言いわけをする,それと同程度のものです。
 たとえば,憲法第20条。憲法第53条。あるいは,憲法第99条。
 そもそも,後ろめたいことがあるから改正したいのでしょう。

 私は,自分が好むと好まざるとに関わらず,吉田拓郎さんじゃないけれど,これまで長い間人間というものを生きてみて,その結果,結局,決まりなんて,権力者が自分の都合のいいように解釈して,好き放題にやっているだけじゃないか,と確信するようになってきました。
 つまり,法律は一般市民を支配するが,権力者は法律を支配する。これが法治国家なのでしょう。
  ・・・・・・
 ひとりの人間を殺せば殺人者。 何百万人もの人間を殺せば征服者。すべてを殺せば神。
  ・・
 Kill one man, and you are a murderer. Kill millions of men, and you are a conqueror. Kill them all, and you are a god.
   Jean Rostand
  ・・・・・・
 まあ,それが創造主がつくった最大の失敗作である人間の社会というものなんだろうけれど。


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 私は,子供のころ,学校へ行くのが好きでなかったから,夏休みは出校することなどほとんどないのが快適で,たまにあった出校日なんて嫌で嫌でたまりませんでした。私には行く意味がわからない出校日など作らなくても,潔く,8月31日まで休みにすればいいのに,と思いました。そんなわけで,高校のころは,幸いなことに,私の通った学校は補習などは全くありませんでしたが,たった1日だけあった出校日もさぼって行きませんでした。アメリカでは,3か月,出校日すらない長期の休みがあると聞いて,うらやましくて仕方ありませんでした。
 とはいえ,家にいても,日本の夏は,テレビをつけると終戦記念日の何とか特集と高校野球ばかり。このふたつもまた,暑さを助長するようで,嫌いでした。私が子供のころは,ブカツといえば,しごき。高校野球も例外でなく,テレビの画面では,甲子園のグランドで,監督が選手を小突いていたりして,野球とは何と野蛮なものか,と思いました。そして,窓を開ければ,セミの鳴き声。お盆のころを過ぎると,セミの鳴き声が,アブラゼミからツクツクボウシに代わり,そうなると,秋の足跡が聞こえてくるようで,また学校に行く日が来るのかと切なくなりました。

 そんな若き日々もとうの昔に過ぎ去り,今は,夏といって私が思うのは,京都・五山の送り火と郡上おどりと徳島の阿波おどりです。これぞ,日本の夏です。
 コロナ禍で四苦八苦していたこれらの行事もまた,3年ぶりに復活だそうです。
 その中で,今日の話題は徳島の阿波おどりです。阿波おどりは,今年は,8月12日から8月15日に開催されて,徳島市内をおどりが埋め尽くします。
 今の私は,人が群れるのと暑いのがまったくだめなので,もう,見にいくことはありませんが,数年前は,この阿波おどりをひと目みたいものだと,わざわざ徳島まで出かけたものでした。
 記憶に残るのは,第一に,めちゃくちゃ暑かったということです。見ているだけでも暑いのに,この暑さの中,衣装を着けて踊るなんて,尋常ではないと,見ていただけの私は思ってしまうのですが,やっている人たちはこころから踊ることが好きなのでしょう。第二に,阿波おどりは,有名連という,とてもおどりが上手な集団と,にわか連という,完全にしろうとの集団があって,有名連以外は,見るには値しなかったということです。「踊る阿呆に見る阿呆」というように,阿波おどりは見るのではなく参加するものだそうですが,見る専門の私としては,上手な踊り以外は,ちょっと耐え難いものでした。

 何が違うかといえば,踊り以上に鳴り物の存在です。
 有名連は鳴り物が上手,そして,にわか連に至っては,鳴り物は単なる景気づけでした。
  ・・・・・・
●鉦(かね)
 鉦が金属音を鳴らして阿波踊りのリズムをリードします。
 阿波おどりにはじめて使われた楽器といわれていてよく耳に響きます。叩くバチは撞木(しゅもく)とよばれ,棒に鹿の角の切れ端がついています。
● 笛
 笛は「篠笛」とよばれる楽器で,阿波おどりのメロディーを奏でる主役です。「ぞめき」の入り乱れる中にふと聴こえる澄んだ笛の音はとても心地よく,日本の風情を感じさせてくれるものです。
●三味線
 歯切れのよい音色が特徴的な三味線は,目でも耳でも楽しませてくれます。阿波おどりでは,絶妙な音色を奏でる重要な楽器です。
 主に細棹や中棹の三味線が用いられ,三味線の調子は使用する笛の調子に合わせて,六本調子三下がりで調律されます。
●大太鼓
 ドドンガドンという腹の底に響き渡るような豪快な太鼓の音がお囃子のベースの役割を務めます。
 阿波おどりの迫力と躍動感を表現しています。平胴太鼓とよばれる約10キログラムの和太鼓を肩から胸の前に抱えるように持ち,使用します。
●締太鼓
 和太鼓を肩から吊り下げて叩き,甲高くかわいたような音を出します。裏打ちによって「ンタンタ」という軽快なリズムを生み出すことで,踊り子や周りのお客様の心を浮き立たせてくれるので,リズムに合わせて自然と身体が踊り出します。
●鼓
 お囃子のアクセントとなる鼓には,打ち方によって音色が変化する小鼓と突き抜けるような甲高い音が鳴る大鼓があります。
  ・・・・・・
 これらの中で,笛と三味線の音こそが阿波おどりの醍醐味です。有名連ではこれが粋なのです。そうした粋な鳴り物がないと,阿波おどりは,単に,ドンドンと異常に大きな太鼓の音とカンカラという甲高い鐘の音だけが響く中で,踊っているというよりも単に騒いでいるだけのようになってしまい,不快でした。
 これが,私が阿波おどりを見たときの正直な感想です。
 今日の写真は,私が写した有名連の優雅で美しい姿です。


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 前回は,悪徳な権力を正義の味方が退治する,という「クラス」,つまりパターンの過去のドラマを紹介しました。しかし,現実に目をやれば,ドラマ以上の悪徳な権力がはびこっているこの国です。ドラマの方がずっとマシです。
 さて,今回は,別の「クラス」,つまりパターンである,この国に生きるさまざなま世代や職業の人たちの現実を描いたものを紹介します。老人の介護で家族が葛藤をする姿,女性が社会で生きにくい姿,才能のある者が変人扱いを受ける姿など,こちらもまた,日本という国の置かれた日本人の幸せあり方の葛藤をそのまま描こうとするものです。これじゃあ,少子高齢化は解決しないなあ,とドラマを見るたびに思います。この国で生きていても幸せじゃないもの。

●「俺の家の話」
 2021年の冬ドラマ。宮藤官九郎さん脚本というだけで,何が描かれるか期待されます。
 長瀬智也さんが演じるのは,ブリザード寿というリングネームをもつ現役プロレスラーの観山寿一ですが,父親に反発して,家出中。一方,西田敏行さんが演じる父親の観山寿三郎は,27世観山流宗家にして重要無形文化財「能楽」保持者ですが,要介護となり,戸田恵梨香さんが演じるしたたかな介護ヘルパーの志田さくらと婚約して遺産もすべてさくらに譲ると宣言します。
 観山寿一はプロレスラーを引退し,父親の介護を手伝うことになるのですが,介護と遺産相続を巡る激しいバトルが繰り広げらます。
 能の世界という身近でない舞台設定に,身近で切実な介護という話が絡み,見ていると切実な思いになりますが,とても内容が深い,娯楽だけでなく社会性のあるドラマです。
  ・・
●「不機嫌なジーン」
 少し古いドラマです。主人公は今は亡き竹内結子さん演じる動物行動学者のタマゴ・蒼井仁子。
 「男性=オス」はゼッタイ浮気をする生き物であるが「それはオスが悪いんじゃなくてオスの遺伝子(=ジーン)が自らを複製していくために指令を出して人間を操っているのだから仕方ない」のが生物学の通説だといいます。そんな蒼井仁子が,日々、恋に研究にと四苦八苦のラブストーリーです。
 舞台は大学の研究室で,ドラマ「ガリレオ」もそうですが,私は大学の理系の研究室を舞台とするものは好きなので,このドラマは見ていて楽しいです。しかし,ドラマで描かれる主人公・蒼井仁子は不機嫌というより,いつも悲しげです。女は社会で苦労するより家庭に入ったほうが幸せ,みたいな描かれかたをしているのがつらいです。
  ・・
●「デート~恋とはどんなものかしら~」
 いつのころからか「人生に恋愛は不要だ」と考えるようになった「恋愛力ゼロで恋愛不適合者」の女と男が,それぞれのやむにやまれぬ事情から結婚を目指すことになり,日々つたないデートを積み重ねていく,横浜を舞台にしたロマンチック・ラブコメディー。
 主演は,東大卒で内閣府の研究所で働く藪下依子を演じる杏さんと,自身を「高等遊民」と称する谷口巧を演じる長谷川博己さん。
 物語の展開は見るまでもなくわかりそうなものですが,その過程を楽しむものでしょう。
 このドラマによって「高等遊民」という言葉が有名になったそうですが,私がこのブログで「私は「高等遊民」になりたい」をかいたのは,このドラマとは関係がなかったのですが,奇しくも同じころだったようです。

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 On Tuesday, Ohtani accomplished yet another feat on the diamond that puts him in a class previously only occupied by The Bambino.
 Against the Athletics on Tuesday night, Ohtani pitched six scoreless innings, allowing just four hits and three walks. He struck out five batters on 91 pitches in the Angels’ 5–1 win, moving his record as a starter to 10–7 on the season.
 Ohtani also hit a solo home run during the game, his 25th of the year.
 That puts him at double-digits in both homers and pitching wins for the first time, after he won nine games in 2021. The only other player to reach those milestones in a single season: Early in his career, Ruth was a similarly impressive two-way player, posting win totals of 18, 23, 24 and 13 from 1915 to 1918, before slowing down his play on that side.
 In 1918, he hit a then-career-high 11 home runs, making him the first player to hit double-digits in both wins and homers.
 Now Ohtani has matched him and is set to blow Ruth’s numbers as a full-time two-way player out of the water.
  ・・
 MLBロサンゼルス・エンゼルスの大谷翔平投手が,オークランド・アスレチックスとのゲームで先発して,6回4安打5三振無失点で今季10勝目を挙げました。また,指名打者としては日本人メジャー通算700号となる25号アーチを打ちました。これは,1918年ボストン・レッドソックスに在籍したベーブ・ルース以来,104年ぶりに「2桁勝利と2桁本塁打」を達成したことになります。
  ・・・・・・
というビッグニュースがありました。これで晴れて大谷翔平投手は「バンビーノ・クラブ」のメンバーです。

 このゲームをテレビの中継で見ていたのですが,オークランドというサンフランシスコの近郊で行われていたこともあって,大勢の日本人観光客が観戦していました。ゲームの内容は他に譲って,私が思い出したのが,はじめてMLBを見たときのことです。
 私がはじめてMLBのゲームを見たのは,今から40年以上前のことです。はじめてのアメリカ旅行はサンフランシスコとロサンゼルスを巡るツアー旅行で,当時の金額で298,000円也でした。このときに,オプショナルツアーとして,ロサンゼルスのドジャースタジアムでの観戦があったので,それに参加したのです。
 今では,MLBなんて,ネットでチケットを購入したり,直接窓口で購入したり,現地にある合法的なチケットショップで購入したり,あるいは,ニューヨークでは,地下鉄の改札口で売っていたダフ屋から買ったりと,自由気ままな私ですが,当時は,そんなことは到底無理でした。
 オプショナルツアーはすごく高価で,実際の値段が当時の相場で1,000円程度のチケットが食事と送り迎えつきで10,000円以上もしました。食事といっても,単なるパックの助六寿司でした。海外旅行は,移動手段がない,言葉が通じないという,いわば「2重苦」の人たちは,足元をみられるのです。こうした経験で,世間知らずだった若き日の私は,世の中を知りました。
 テレビでこのゲームを見ていたときに画面に映ったスタンドにずらりと横に並んでいた日本人の観光客は,おそらく,そうした観光ツアーに参加した人たちだったのでしょう。私の若き日がダブりました。しかし,いくらツアーが高かろうと集団で群れようと,こういった歴史的なゲームに遭遇した人はそれでも幸運です。とはいえ,MLB30チーム中でも,ワースト1だか2だかに値するオークランド・アスレチックスのボールパークではじめてのMLB観戦を体験して,これが本場のベースボールか! -それでも日本の球場よりは立派なのですが- と,それでMLBを知ったと思うのか,そして,感動したのかどうか。でも,どうせ見るなら,これぞアメリカ,というような最新式のボールパークを体験しないことには,本当のことはわからないのになあと,私は,複雑な気持ちになりました。

 ところで,今日の2番目と3番目の写真は,メリーランド州ボルチモアにあるべーブ・ルースの生家です。2016年に行ってきました。
  ・・・・・・
 ベーブ・ルースことジョージ・ハーマン・ルース・ジュニア(George Herman "Babe" Ruth, Jr.)は,1895年に,メリーランド州ボルチモア市ピッグタウンエモリー通り216番地(216 Emory Street in the Pigtown section of Baltimore, Maryland)に生まれ,1948年に亡くなりました。1914年から1935年まで通算22シーズン活躍しました。 童顔であったことから「バンビーノ 」(The Bambino)「ベーブ」(Babe)とよばれました。
 ドイツ系移民であった両親のジョージ・ハーマン・シニア (George Herman Sr.)とケイト (Kate) は酒場を自営し,その2階で暮らしていました。母は病弱で,ベーブ・ルースが15歳のときに結核で亡くなり,父は酒場の仕事で忙しく,両親から適切な教育を受ける機会のなかったことから,腕白坊主へと成長し,学校をサボっては通りをうろつき,町の不良たちと喧嘩に明け暮れ,商店の品物を万引きしたり酒を飲んだり煙草を吸ったりするなど,様々な非行に手を染めた悪童でした。
  ・・・・・・
 現在,ボルチモアにホームをもつのが,ボルチモア・オリオールズで,オリオールパークアットカムデンヤーズ(Oriole Park at Camden Yards)がホームグランドです。このボルチモアという都会は,治安がかなり悪いことで知られていて,私もずいぶんと友人のアメリカ人に行くのをとめられましたが,ボールパークから歩いて5分もかからないところにホテルをとって,万全を期して行ってきました。ボールパークはかなり豪華でした。それが今日の4番目と5番目の写真で,若き日のべーブルースの銅像もありました。
 が,一歩外に出ると,別世界。特に,ゲーム終了後がヤバかった…。これぞアメリカでした。しかし,せっかくアメリカに行ってMLBを体験するのなら,こういうところでMLBを堪能するといいのでは…。

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 「2リア(リアズ),3ランド(ランズ)」の想い。
 今回からは,ニュージーランドから空路3時間,オーストラリアです。
 ニュージーランドとオーストリアは隣同士のイメージですが,ずいぶんと離れています。日本とフィリピンくらいの距離です。
 オーストラリアは不思議な国です。シドニーやブリスベンという都会は日本のどの都会よりも美しく,かつ,近代的で,また,空港も非常に豪華ですが,その一方で,一旦,郊外に出ると,悠久な大地が広がっています。そのどちらも,日本では体験できないものです。

 オーストラリアの面積は7,692,000平方キロメートルで日本の約20倍もありますが,人口は約2,400万人と日本の6分の1。つまり,人口は,日本の120分の1ということになります。ちなみに,オーストラリアと面積で同程度のように思われる国であるカナダ,アメリカ,中国。広さはこの順ですが,いずれも約1,000,000平方キロメートル弱とオーストラリアよりは大きいのですが,人口はアメリカが約32,000万人とオーストラリアの10倍以上,カナダが3,500万人なのでオーストラリアと同程度,また,中国は140,000万人とオーストラリアの50倍もあります。
  ・・
 そこで,オーストラリアとカナダが同じような規模ということになるわけです。そこで,たとえば,ワーキングホリデーなどで候補にあがるのが,ともに英語であることと,治安もいいので,このふたつの国のうちどちらにしょうか? ということになるのです。
 私はどちらの国にも行ったことがあります。
 カナダの方がずっと風景は美しく,アメリカに近いからさまざまな刺激が強いように,私は思うのですが,年間の気候から考えると,冬の厳しいカナダに比べればオーストラリアのほうが過ごしやすいということになります。
 また,オーストラリアは日本と違って,地震もなく,これはお隣のニュージーランドと全くちがいます。そして,台風などの心配もないので,天災が少ない国です。しいていえば,雨が少なく,川も少ないので,水不足が懸念材料です。
 私はこれまでカナダを旅したことは2度ほどあるのですが,特にまた行きたいと思ったことがないのです。印象もよいのですが,その理由は自分でもよくわかりません。一方,オーストラリアに憧れるのは南半球の星空です。オーストラリアは素朴で,旅行をしていて楽しいのですが,星空の魅力がなければ,さほど行きたいとは思いません。これもまた,自分でも不思議なことです。

 今日の写真は,シドニーの国際空港です。
 この空港,ものすごく巨大です。そして豪華です。おまけに,国際線と国内線のターミナルがずいぶん離れていて,利便性ということから考えると少し疑問です。
 アメリカなら国際線のターミナルと国内線のターミナルは鉄道などで結ばれているのですが,シドニーでは,バスで連絡しています。その連絡バスですが,現在は無料ですが,以前は有料で,それが不評だったそうです。それでも,成田空港のように,第1ターミナル,第2ターミナル,第3ターミナルはビルのデザインも違い,また,連絡しているのはバスで,しかも,途中に信号があるという,これもまた日本らしい無計画さであるというのとは比べものになりません。
 このように,オーストラリアは豪華であったり素朴であったりと,さまざな顔を持っているのですが,ともかく,とてもおおらかな国,それが私が抱くイメージです。


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 元首相が暗殺されて「民主主義を踏みにじるもの」といわれましたが,こういうときだけ「民主主義」をもちだすことに私は違和感を覚えます。この国の根底にあるのは,民主主義でも法治国家でもなく,江戸時代に代表される,権力者,つまり,お上への忖度とお上の定めた思召すままの掟です。
 それでも,私が子供のころは,小学校の児童会選挙や中学校・高等学校の生徒会選挙など,学校で民主主義を学ぶ機会がたくさんありました。ところが,次第にそれもなくなり,生徒会長も選挙で決めるのでなくなり,民主主義を学習する機会も減りました。民主主義教育の崩壊です。そうして育った若者は,お上が決めたことに従うことがいい子の条件で,自分の意見を言ってはいけないと思い込んでいます。学校で学ぶのは,調査書の点数を気にして先生に忖度することだけです。
 今や,国会も名ばかりだし,丁寧な説明をと言うだけで,実際丁寧に説明したことなど一度もないし,選挙といっても,選挙制度自体が欠陥だらけ。比例代表制は落選した議員を当選させるための隠れ蓑。そんな制度で選ばれた権力者の取り巻きと仲良しグループが法律を勝手に拡大解釈して,何事もこそこそと決めています。これを民主主義というのでしょうか。
 今度は,その元首相を国葬にするとか。それもまた,民主主義の手続きで決めたことでなく,一部の人が決めて強硬する。このようななし崩しこそが「民主主義を踏みにじるもの」だと私は思うけど…。

 さて,今日のお話は,これまでにもこのブログに書いたことがある「お願いします」ということばについてです。「お願いします」ということばは英訳できないということからもわかるように,きわめて日本らしいあいまいなことばです。
 私が老化防止を目的で聞いているのがラジオNHK第2放送のドイツ語講座「まいにちドイツ語」。この講座の応用編の冒頭で,ドイツ人の講師が自己紹介したときの最後に,片言の日本語で「よろしくお願いします」というのですが,私はそれに違和感を覚えるのです。おそらく,日本語ではそう挨拶するんだよ,と習ったからそう言っているだけなのでしょうが,これを聞いて,私は,一体この人は聴取者に何をお願いしているのだろう? と考えてしまうのです。
 私のようなものが担当するけど辛抱して聴いてね,なのか,最後まで聴いてね,なのか,無作法があったら許してね,なのか,はたまた,私を好きになってね,なのか…。
 そういえば,テレビドラマ「時効警察はじめました」のタイトルコールの最後にナレーションを務める由紀さおりさんが決まり文句として「よろしくお願いします」といいます。これもまた,意味がわかりません。
 単なる挨拶だから,そんなこと考えなくてよろしい,という声が聞こえてきます。
 と,ここまでは前置きで,私がいいたいのは,この国で頻繁に使われている「お願いします」ということばにかくされたおそろしいたくらみについてです。

 法治国家で,人の行動を制限するときは,しかるべき手続きを得て作られる法律で定められるべきものです。であるのに,法律で定めるという行為をしないで,「お願いします」といってなし崩しに定めてしまうのが日本という国です。「お願い」されたことは,しなければならないことなのか,したい人だけがすればいいのか,あるいは,そうでないのか? 
 実は,「お願い」されたことは従わないととんでもない目にあうのです。
 最も悪どいのは,「お願い」してもしてくれないときに,二の矢として,やらなければ名前を公表するぞ,とか,なんらかの損失を被るぞ,とか,じわじわとそのような制裁をしていくことです。そうお役人が先導するわけです。つまり,その根底にあるのは,いじめ国家の体質そのものです。
  ・・
 たとえば,マイナンバーカード。
 それほど強制したいのなら,きちんと法律で決めて,はじめから紙媒体の書類などを郵送せず,免許証のようなカードを配布すればよかったものを,そっと,いや,こそっとはじめておいて,今になって牙をむき,マイナポイントとかいって多額の税金を使った特典を用意して,半ば強制的に実施しようとするわけです。しかも,表向きはしてもしなくても自由であるふりをして,裏では,どの市町がマイナンバーカードの普及率が高いかといった圧力を地方行政にかけているという話です。
 さらに,今度は健康保険証と紐づけて,これを使わないと損するぞ,医療費が高くなるぞ,といいはじめるのです。
 つまり,「お願い」という名の強制。しかも,いじめ。

 まあ,そんなことははじめっからわかっているし,それは私がもう何も期待していない日本の本質だといってしまえばそれだけのことですが…。
 これが,この国の標榜する「民主主義」らしいのです。

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 昨年冬に紀伊半島に行ったときは,谷瀬の吊り橋を渡ったころに雪が降りそうになって,慌てて帰宅するために近道しようと走ったのが,何と酷道425号線でした。
 何はともあれ,海外旅行に行くことができなくなった,かつ,行き飽きた私は,こうして紀伊半島を旅行することに目覚めたのですが,帰宅してからはじめて紀伊半島のガイドブックを買って改めて見てみると,行っていない不思議そうなところが多々あることを知り,次に行くときはぜひそんなところに,と思いました。その筆頭が今回行くことができた瀞峡でした。
  ・・
 前回も今回も,熊野本宮大社は,何度も行き来したけれど通り過ぎただけでした。それは,今から20年ほど前に行ったことがあったからですが,次回は,もう一度行ってみたいものです。よく名前だけは聞く有名な熊野古道,私は,なぜか興味がなく,これまで歩いたことがありませんでした。少し前まではどこにあるのかさえも知りませんでした。紀伊半島に行ってみて,やっとそれがどこのことなのかわかってきたのですが,前回行ったときは寒すぎ,今回は暑すぎ,という言い訳で,歩く気にはなりませんでした。そのうちに,きちんと計画して歩いてみたいものです。
 私は,子供ころ,地図を見るのが大好きでしたが,そのとき,三重県と奈良県の県境に和歌山県の飛び地があることを知って以来,どんなところなのかずっと気になっていました。それは北山村ということで,今回ぜひ行ってみようと思ったのですが,結局,瀞峡までは行ったものの,その後,国道168号線を経由して帰ったので,行くことができませんでした。
 また,前回,入園料が高いなあという理由で行かなかった白浜のアドベンチャーワールド。これもまた,帰宅してからずいぶんと魅力的なところだと知って,行ってみたくなったのですが,それもまだ果たしていません。

 というようように,紀伊半島は,まだ,私には行っていないところが多くあって,依然,謎に包まれているのですが,こうしてまだ「やり足りていない」ことが多々あることこそが,ふさわしいのではないか,と今では思うわけです。それは,容易にはリピートできない海外でもあるまいし,日本国内で行っていないところが多いというのは,また行きたくなるということで,だから,また行けるということにつながるからです。
 紀伊半島以外に,私が,今,行きたいと思っているのは,徳島県のかづら橋と佐渡島です。こうして,行っていないところが残っているほうが,張り合いがあるのです。
  ・・
 私は,数年前に,それまでずっと憧れだったハワイもアメリカもフィンランドも,行きたかったところはほぼ行ってしまったので,あえてまた行きたいと思わなくなってしまいました。そんなころにコロナ禍になって,行きたくても行けなくなったわけですが,今にしてみると,それはそれでよかったのです。しかし,日本国内でも行きたいところがないとすれば,本当にこの先,どこにも行く気がなくなってしまいます。
 だから「やり足りない」ということはとてもすてきなことです。旅は,目こぼしするほうがいいのです。


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 地図を見る限り,こんなところに人が住んでいるのか,道路があるのか,と長年思っていた紀伊半島でした。しかし,実際に走ってみて身にしみたことがあります。
 それは,とにかくいい加減にしてよ,と叫びたくなるほど,日本の道路に対する情報がひどいということです。アメリカなら地図だけを見て走れますが,日本では道路地図だけでは走れません。私がひどいというのは道路の状態よりも,地図で見ても,実際に走ってみなければその道路の様子がわからないということです。

 まず,高速道が有料なのか無料なのかがわからない,ということがあげられます。しかも,高速道といいながら片側1車線のところも多くありますし,山形県のように,高速道と一般道でほとんどその移動時間が変わらないから高速道を作る意味がわからないというところもあります。
 紀伊半島にも海岸沿いに次第に高速道が作られてきましたが,紀勢自動車道はまだ計画どおりつながっておらず,そのためか,東側は紀伊長島から南,西側は南紀田辺から南が無料区間なのだそうですが,そんなことわかるか! という感じです。また,東名阪道は無料で,西名阪道は有料です。これは知っていましたが,これだって,知らない人はわからないでしょう。
 アメリカでは有料なのか無料なのかは地図に示されている道路の色が違うので,すぐわかります。

 次に,国道といいながら,その国道が走りやすい道路なのか,通称「酷道」といわれているものなのかすらわからないということです。国道だから安心して走れる,と思うと,とんでもないことになる場合があります。また,走ってる道路に「国道〇〇号線」とか「県道〇〇号線」といった標示さえなかったりすることが少なくないし,行先を示す道路標示も,また,一貫した決まりがないので,途中で道に迷ってしまいます。カーナビもあてになりません。
 私が前回走ってから「日本3大酷道」のひとつだと知った通称「シニゴー」国道425号線をはじめとして,紀伊半島には「国道425号線よりはましだ」とネットに書かれていた国道480号線,さらには,急勾配・急カーブが続く国道308号線などもあるそうですが,これもまた,そんなこと知るか! です。
 ちなみに,「日本三大酷道」とは,国道425号線のほかに,徳島県を走る通称「ヨサク」として親しまれて? いる国道439号,岐阜県の木曽川沿いを走る国道418号があるそうです。こうした道路は,地図を見てもそんなことは書いていないから,よほどの通でなければ,地元民はどんな悪路か知っていても,走り慣れていない人にはそれがわからないというように,道路の状況に対する情報が完全に不足しているのです。道がつながっているというのと,安全に走ることができるというのはまったく違います。
 意味のない標語やら看板やらは山ほどあるのに,いつも肝心なことが完全に抜けています。まるで事故を誘発しているかのようです。これが日本という国の実態です。急ぎの電話をかけたら案内放送が延々とはじまった,みたいな感じです。
 まあ,私は,長年この国で生きてきて,もはや,日本には何も期待していないけれど,道路の場合,選択を誤れば命の危険さえあるのだから,こりゃないぜ! といつも思います。

 その一方で,国道の全面的改良を! といった看板が至る所にあります。そのおかげか,あるいは,議員の力なのか,一部の区間だけ,突然,道路が改良されて,川の上を高架で貫いていたり,長い橋がかけられていたりとものすごいお金をかけて,必要以上の改良がなされていて驚くことも少なくありません。また,作られたばかりのトンネルが山の中を延々と貫いていたりします。それらもまた,異常なほどの金のかけ方です。しかも,ほどんど車は通っていません。そこまでせずとも,というほどのオーバースペックです。いわば「昔のままのところは軽トラで,新しいところはジェット機」みたいなもので,普通の乗用車レベルの道路がないのです。しかも,途中だけデラックスでも,そこに行くための道路がチープでは仕方がありません。
 いったいどうなっているのでしょう。
 こんな建設をしていては,いくらお金があっても足りません。教育や大学の研究費が世界の中でも低い水準であるその理由がわかるというものです。しかも,整備が必要な道路は山ほどあるから,こんな具合に果てしなく作っていっても,この先,それらを維持していくことができるのでしょうか? 今架かっている橋の70パーセントは老朽化といわれていますし,この先も将来にわたって延々と少子高齢化が続くので,国の成長など期待できません。
 日本を走っていると,いつも,何か,絶望的な気持ちになります。
 これでは,奥さんが,日々,キャベツ1個の値段にこだわって5円でも10円でも節約している端から,旦那さんが,50万円のカメラや500万円の車を毎年買い替えているようなものです。


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 今日は立秋。
 朝日新聞の「天声人語」,新聞紙上には題名はありませんが,ウェブページ「アサヒコム」に掲載されているものにはあります。そのウェブページに「百日紅には申し訳ないが」と題した8月1日の「天声人語」は本当にひどく,私はこれを読んで不快になりました。
 冒頭
  ・・・・・・
 咲きはじめたころの百日紅(さるすべり)は,色の鮮やかさに目を奪われた。しかし猛暑や酷暑といわれるこの時分になると,あの赤色や濃いピンク色が暑苦しく思えてしまう。がんばって長いこと咲いている花には申し訳ないのだが
  ・・・・・・
からはじまって,この「天声人語」は,白を身にまとう人を見ると涼しく想い,床屋ですっきりした髪になっていく女の子の様子で涼を感じるといった内容に展開し,その一方で,セミの鳴き声が暑さを助長し,赤い色が気持ちがなえさせる,とあります。
 要するに,人は,物理的な気温だけでなく,視覚や聴覚で涼を感じたり,その反対に,暑さを増幅してしまうことがある,というようなことを書きたいのでしょうが,百日紅を愛する私が読むと,この文章は耐え難いものです。
 そんなテーマで書きたいのなら,今日,立秋の日に
  ・・・・・・
 8月7日。暦の上では立秋だが,まだ,暑さが和らぐ気配もない。こうしたとき,今より涼しかったとはいえ,クーラーもなかった昔の人は,視覚や聴覚からも涼をとる工夫をした
  ・・・・・・
とでもいった文章を書けばいいのであって,何も,この暑さに腹を立てて百日紅を敵に回す必要などないではないか,と私は思わず腹立たしくなりました。こうした文章もまた,体を暑くさせるのです。

 今日の写真は,ずいぶん前の8月16日,ちょうど五山の送り火の日に私が京都で写したものですが,この写真にある百日紅を見て,人は暑さを感じるでしょうか? 百日紅に失礼です。
 百日紅は,鎌倉時代に渡ってきた花で,夏の花の代表格といいます。鎌倉時代には「さるなめり」とか「なめら木」といったらしく,また,幹をさすると木全体が揺れるので「さすり木」の別名もあるといいます。
  ・・・・・・
 あしひきの山のかけぢのさるなめり
 すべらかにても世を渡らばや
   「夫木和歌抄」藤原為家
  ・・・・・・
 「百日紅」は,字のごとく,花が100日も咲き続けることからきているのですが,実際は咲き続けるのではなく,一度咲いて散った枝先からまた芽が出て花をつけるというのが本当の姿です。
  ・・
 私が今も思い出すのは,すっかりその魅力取りつかれて,毎月のように京都に足繁く通っていた今から30年ほど前のこと。夏の暑い日に行った山科の毘沙門堂で美しく咲いていた百日紅の花を見て,ああ,あまり花のない夏でもこうして美しくけなげに咲く花もあるんだんあ,と思ったことです。

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 すでに書いたように,私が奈良県の十津川温泉に宿泊したのは,割引があったからです。
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 奈良県の県内旅行を割引支援するのが「【全国版】いまなら2022プラス」。実施時期は7月1日から翌年の2月28日で,その内容は,最大50パーセントの割引(交通付宿泊は上限8,000円,宿泊は上限5,000円)と地域クーポンが平日最大3,000円分,ただし,県外在住者の休日宿泊に限り最大2,000円分です。
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 ということで,わが愛する奈良県は,何度でも旅をしたくなるところとなりました。

 さて,私は平日に旅行をしたので,宿泊が5,000円引きになった上に,地域クーポンを3,000円分もらいました。長野県に行ったときも同じでしたが,この地域クーポン券を使うのには頭が要ります。そのひとつはどの店で使えるのかがよくわからないことです。ネットで調べると小さな文字で書かれた一覧表が出てくるのですが,地名が書かれてあっても,その土地に住んでいない旅行者にはそれがどこなのかさっぱりわかりません。もうひとつは,宿泊した翌日,チェックアウトのときにもらっても,その有効期限は1日限りであり,しかも,その県でしか使えないので,県をまたいでしまえば,無駄になってしまうことです。

 長野県に行ったときは,私は,岐阜県を通って帰ることにしていたので,県境を越える前に使おうとお店を探すのに苦労しました。
 今回もまた,はじめは,瀞峡から新宮へ出て,三重県を通って帰るつもりだったのですが,そうすると,地域クーポンが無駄になってしまうので,奈良県を北上することにしたわけです。
  ・・
 まず,昼食に使おうと思いましたが,どの店で使えるのかがわかりません。十津川村観光案内所があったので入っていって聞いてみると,ここで使えるという話でした。
 観光案内所の2階に食堂があったので,まず,そこで地域クーポンを使って昼食としておそばを食べました。食事のあと,1階にお土産売り場があったので,残りはそこで使うことにしましたが,要らないお土産を買うのもためらわれました。私は土産を買う習慣がありません。で,私が買ったのは,なんとノースランドレッドメロンでした。
 子供のころ,メロンはかなり贅沢なくだものでした。今はどうなのでしょう? テレビドラマ「ドクターX」で「メロンです」などというセリフがあるから,今でも高級品なのでしょうか。私は,今までメロンを1個買った経験がないので,これを機にメロンを買ってみることにしました。奈良県の地域クーポンで北海道のメロンを買って帰るなんて,なんとすばらしいことか,と自画自賛しました。

 帰宅して2,3日部屋に置いていたら,いい香りがしてきました。メロンがちょうど食べごろになったのです。食べてみると,それがまあ,おいしかったこと。
 というわけで,すっかりメロンにはまってしまった私は,山形県に行ったときに魅力的だったさくらんぼ「佐藤錦」を買わずに手に入れようと,山形市にふるさと納税をしたことを思い出して,メロンの種類は違いますが,今度は,返礼品のアールスメロンを楽しみに,再び,山形市にふるさと納税をしたのでした。
 私が奈良に行ってもっとも得をしたのは,やはり,今回も山形市だったようです。

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 十津川温泉に泊まる以外は何の計画もなく,天気予報も雨だったし,何となくあらぎ島と瀞峡へ行けたらいいなあ,と思っていたのに,2日ともよい天気になって,瀞峡での川舟観光までできてしまうという望外な結果に大満足して,これで帰ることにしました。
 はじめは新宮に出て,そこから国道42号線を北上するつもりでしたが,お土産代としてもらった金券3,000円が奈良県内でしか使えないことで,今回は国道168号線を北に,奈良から東名阪道で帰ることにしました。その途中で十津川村観光協会の2階にあるレストランで昼食をとりました。このことはまた次回。

 国道168号線をずっと北上していくと,大塔町あたりが峠となって,天文台もありました。それを過ぎると次第に民家も多くなってきました。そして,五條市に入るあたりから車が増えて交差点は信号機ばかりとなり,渋滞気味になりました。
 やはり私は都会は嫌いです。
 そのまま天理市まで行って東名阪道に入ろうと思っていたのですが,大和三山が見えるようになったころ,昔夢中だった奈良時代以前の日本史への好奇心がよみがえってきました。そこで,せっかく来たのだからどこかに寄ってみようと少し考えて,箸墓古墳と纒向遺跡に寄ることに決めました。
 というわけで,今日は,紀伊半島の旅とはうって変わって,古代史のお話になります。

  ・・・・・・
 邪馬台国の女王・卑弥呼の墓という説もあり,私がそれを信じている箸墓古墳は,最初の巨大古墳として知られ,第7代孝霊天皇と妃の意富夜麻登玖邇阿礼比売命(おほやまとくにあれひめのみこと)との間に生まれた皇女・倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の大市墓として管理されています。
 箸墓古墳は3世紀はじめごろに出現した当時国内最大の集落跡である纒向遺跡にある全長約276メートルの巨大な前方後円墳です。
  ・・ 
 巻向遺跡の巻向という名前は発掘調査で旧纒向村の多くの大字にそって遺構が確認されたので命名されたものです。本来,巻向というのは,このあたりに宮があったとされる第11代垂仁天皇の「纒向珠城宮」,第12代景行天皇の「纒向日代宮」にちなんで名づけられたものです。纏向遺跡は纒向川の扇状地に広がる東西約2キロメートル,南北約1.5キロメートルの広大な遺跡です。
 纒向遺跡は3世紀はじめに突如として大集落が形成されました。
 農業を営まない集落であることや他地域から運び込まれた土器が多いこと,特殊な掘立柱建物が存在し高床式住居や平地式住居で居住域が構成された可能性があることなどから,日本最初の「都市」の機能を持つ初期ヤマト政権の中心地であった可能性が考えられていましたが,2010年に卑弥呼の宮殿跡との説もある大型建物跡のそばで見つかった祭祀に使ったとされる桃の種が西暦135年から230年の間の卑弥呼の時代であることが判明し,桃は卑弥呼が行った祭祀に使われたものではないかという指摘がされ,そのため,邪馬台国の遺構ではないか,といわれるようになりました。
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 「魏志倭人伝」という魏の国の歴史書に記述されているだけの卑弥呼や邪馬台国。もし,魏志倭人伝がなかったとしたら,これらの古墳や遺跡はどんな解釈がされていたのでしょう。そもそも,その時代に書かれた,しかも他国の様子の記述だけでこれだけの議論がなされているのは,単に学問的な話だけではなくロマンがあるからでしょう。
 歴史学者でもない私は,真実であろうとなかろうとそんなことはどっちでもいいわけで,それよりも,箸墓古墳が卑弥呼の墓で巻向遺跡が邪馬台国だと思ったほうが楽しいので,自分勝手にそうだと固く信じて,想像を膨らませています。
 ということで,この場所に寄ってみたのですが,そんなことを考えているうちに,若いころの興味がもどってきました。涼しい季節になったら,この地を目的に,また,来てみたいなあと思いました。

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 日本一長い吊り橋として有名な十津川村の谷瀬の吊り橋は,昨年12月に十津川村を通ったときに渡りました。
 今回,瀞峡の川舟を楽しんでいて見つけたのが山彦橋という吊り橋でした。谷瀬の吊り橋よりはずっと短いのですが,雰囲気のよい場所にあります。奈良県側から対岸の三重県側に渡り,再び引き返します。
 何事も奥が深いというか,極めるには大変というか,今日の話題である山彦橋という吊り橋のことを調べようとウェブページを見ていたら,日本中の至る所の吊り橋を渡るのを楽しみにしている吊り橋マニアの人が作っているブログを見つけました。いろいろな楽しみがあるものだと思いました。
 私は,別段吊り橋マニアでもないのですが,そこに楽しそうなことがあればチャレンジすることを旨としているので,今回も,こんなすてきな吊り橋を見てしまっては,渡ってみたくなるというものです。

 山彦橋は新しく,だから,とても安全そうだったのですが,2015年3月に架け直されたものでした。それは,瀞ホテルのとなりにある吊り橋と同じく2011年の水害で壊れてしまったからです。
 なお,調べていてわかったことですが,昨年の今ごろは,この吊り橋は渡ることができませんでした。それは,スズメバチの巣が確認させて,実際に刺された人が数人いたことで,安全のために通行禁止となっていたからです。
 せっかく渡りにきて通行禁止ではがっかりしますが,今年は幸い大丈夫でした。数日前までの雨という天気予報が一転して晴れ。当然,私は,吊り橋を意気揚々と渡ることができました。

 山彦橋を渡っていたとき,私がかねてからぜひ挑戦してみたいと思っている祖谷のかずら橋を思い出しました。
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 四国にある大歩危渓谷・祖谷にかかるかずら橋は,冬場の厳寒な山野で採取した自生の「シラクチカズラ」を編み連ねて創られています。以前は大切な生活路として祖谷川各所に架けられていたそうですが,現存するのは西祖谷山村の「祖谷のかずら橋」と東祖谷の「奥祖谷二重かずら橋」だけです。かずら橋は,祖谷に巡行した弘法大師が困っている村人のために作ったという説や,追っ手から逃れる平家の落人が楽に切り落とせるようシラクチカズラで作ったという説などがあるそうです。
 「祖谷のかずら橋」は日本3奇橋のひとつとして知られていて,長さは45メートル,幅2メートルで,水面上14メートルです。また,「奥祖谷二重かずら橋」は祖谷のかずら橋からさらに山間に車で約1時間ほど行ったところにあり,男橋と女橋の二本の橋の総称です。男橋は昔の生活道にかけられた橋を復元したもので,女橋は男橋よりも小さく,上流側にかけられています。ただし,「奥祖谷二重かずら橋」へ行くには,日本三大酷道のひとつである国道439号を走る必要があります。
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 人が少ない今こそ,ぜひ行って,渡ってみたいと思っているのですが…。

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 日本のドラマは,オブジェクト指向のプログラミングにたとえると,いくつかの「クラス」があって,ドラマは,それぞれの「クラス」をもとに「オブジェクト」を生成しただけのものに思えます。
 わかりやすくいうと,いくつかの基本のパターン(=クラス)があって,そこに毎回少しだけ異なる登場人物とストーリーという実態を入れた(=オブジェクト)だけ。だから,自分の好きな基本パターンに沿ったドラマを見れば,いつもストーリーは同じだから,安心して見ることができて,難しくもなく,いい時間つぶしの娯楽になります。
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 私は,これまであまり日本のドラマを見ていなかったので,こういった,ドラマ好きの人には当たり前のことを知りませんでした。「不良老人」の私が暇をもてあまし,FOD や AmazonPrime といったサブスクを契約したら,そこに過去のドラマがたくさんあったので,これまで見ていなかったことを幸いに,それらを新鮮な気持ちで見ることができるのです。
 現在見ることができる過去のドラマの多くは,今後,劇場版として映画化され,公開されるので,その宣伝で見ることができるのだと思いますが,それは承知で,まんまとその戦略にのせられています。

 日本のドラマのひとつの「クラス」,つまりパターンは,悪徳代議士とか悪徳弁護士とか悪徳医者がいて,正義の味方である何某かが主人公となり,それらを懲らしめる,というものです。アメリカのドラマの多くが,政府や裁判所や警察や病院というものが正義で,そこに働く人たちが主人公となって,悪。すなわち法を犯す犯罪者を懲らしめるという筋書きであるのとは対照的です。大学生は,こうしたテーマで卒論を書くとおもしろいかもしれません。
 日本では,権力者は実はとんだ悪人という想定です。そのようなドラマの設定が,実際にもありそう,と思うのが,まさにこの国のあり様なのです。しかし,現実には,ドラマのような正義の味方がいないから,多くの人はいじめや圧力に遭っても,我慢し,耐え,あるいは,私のように仕事を辞めるといったことになるわけで,だからこそ,こうしたドラマを見て,日ごろの憂さをはらしているのでしょう。
 現実はドラマとは違う,という人もいますが,それは世間知らず。ドラマ以上の現実をいやというほど経験した「不良老人」の私は,私の人生にも,ドラマに出てくるような正義の味方がいたらよかったのに,といつも思うのです。
 しかし,もっと深く考えると,というか,長く生きてみると,結局,人は,権力や地位や名誉を手に入れても,それが勝ちではなく負け。ということを知りました。私が経験した当時の「悪徳」な輩たちが,今,どういう人生をおくっているのかな? と考えるだけで,私は愉快になってきます。実際の社会に正義の味方がいなくても,現実がドラマ以上に「悪徳」を裁くのです。
 そんなドラマの中から,私が気に入ったものをいくつか紹介しましょう。

●「イチケイのカラス」
 2021年の春ドラマ。刑事裁判官を主人公とする,めずらしいものです。
 このドラマでは,竹野内さんが演じる東京地方裁判所第3支部第1刑事部(イチケイ)の刑事裁判官・入間みちおが正義の味方として,つねに「職権を発動します」といって,真実を明らかにするために再調査をするという,自由奔放で型破りな裁判を展開します。この,ゆるい空気ととぼけた雰囲気の根底にある「正義」に私は憧れます。その一方で,黒木華さんが演じる東大法学部卒の世間知らずの堅物新人裁判官・坂間千鶴が,入間みちおの影響を受けて,次第に柔らかく,人間らしく,やさしくなっていくのが,粋な味付けとなっています。
 アメリカには裁判官(判事)を主人公とするドラマ「オール・ライズ 判事ローラ・カーマイケル」(All Rise)という私の好きなドラマがありますが,それと比べると日本とアメリカの裁判の在り方の違いがわかって,それもまた興味深いのですが,共に,心温まる結末となるという類似点があり,いつも救われます。
 2023年冬に映画が公開されます。
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●「七人の秘書」
 中園ミホさん脚本の痛快「秘書」ドラマです。
 「名乗るほどの者ではございません」というのが合言葉で,木村文乃さん,広瀬アリスさん, 菜々緒さん,シム・ウンギョンさん,大島優子さん, 室井滋さん,そして,江口洋介さんが演じる「七人の影の軍団」が,理不尽な目に遭う社会の弱者を救い出すべく,のさばる上級国民に鉄槌を下すというものです。
 銀行の常務秘書を務める主人公・望月千代を演じる木村文乃さんがすてきです。
 このドラマは,「ドクターX」と同じようなものですが,「ドクターX」ほどワンパターンでなく,また,「七人の秘書」たちが「ドクターX」の大門未知子ほど強くないのがいいです。また,「ドクターX」で名医紹介所の所長を演じる岸部一徳さんが,「七人の秘書」では悪徳大臣を演じて,最後に「七人の秘書」たちにぎゃふんといわされるのが痛快です。
 2022年秋に映画が公開されます。
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●「アンナチュラル」
 1話完結の法医学ミステリーで,石原さとみさんが日本に170名ほどしか登録がない「法医解剖医」の三澄ミコトを演じます。
 ドラマの舞台は,死因究明専門のスペシャリストが集まる「不自然死究明研究所=UDIラボ」。そこに運び込まれる「不自然な死=アンナチュラル・デス」の怪しい死体から,「不自然な死は許さない」と,亡くなった人だけでなく,今を生きる人々を救い,未来への希望を見出すために死因を究明します。
 医療ものにいつも出てくる権威とか既得権に,勇敢に戦う姿がスカッとしますが,いつも思うのは,現実の医学界というのは,いつもドラマで揶揄されるような,偉い人が権威主義で威張り散らしていて金に執着する,そんなひどいところなのでしょうか。


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 今日は船からの眺めを紹介しましょう。
 船が通っている場所は「瀞八丁」というのですが,「瀞八丁」というのは,山,岩,水,いづれも郡を抜いた美しさが,口八丁,手八丁の語から引用されたものらしいということです。八というのは,多いということです。
 また,瀞峡の「瀞」は,古文書では「泥」という漢字をあてて書かれていましたが,1968年(明治元年)に,水溜まりの最も深い処を意味する「瀞」と改められました。溜,漂,淵,瀞という順に深くなるのだそうです。日本語は難しいです。船頭さんの話では,瀞峡は深いところで20メートルほどあるそうです。
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 熊野本宮大社,熊野速玉大社,熊野那智大社の三社を熊野三山といいます。これもまた,山形県の羽黒三山に似ています。日本人の考えることはどこでも一緒です。
 熊野三山は和歌山県の南東部にそれぞれ20キロメートルから40キロメートルの距離を隔てて位置していて,熊野古道の中辺路によって結ばれています。これら三社は個別の自然崇拝に起源があるのですが,三社の主祭神を相互に勧請し熊野三所権現として信仰されるようになりました。

 海抜1,100メートルの高峰に,周囲4丈,樹齢3,000年の老杉に囲まれたのが,第10代崇神天皇が創建した熊野三山の奥の宮である玉置神社で,その御手洗池こそが瀞峡であるといわれています。
 瀞峡は,今から7,000年ほど前の太古,いくつもの大滝があったのが次第に後退消滅し,滝壺の連続して出来たものだそうです。現在も,今日の1番目の写真のように,岩と岩の割れ目から水が落ち,次第に浸食をしていて,将来,新たな渓谷になるのだそうですが,おそらく,そのころには人間はいないでしょう。
  ・・
 瀞峡からは,吊り橋である山彦橋,ライオンの顔の形をした獅子岩,ふたつの寄りそう巨石からなる夫婦岩,川に落ちたように見える墜落岩,首に縄をかけた狛犬岩,カメの形をした亀岩,そして,母子滝などが見られました。
 また,岩面には川さつきや岩千鳥などの花が咲いています。
 四季折々,美しい姿を見せますが,何といっても,今の新緑のころが最も美しいということです。

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 2日目のこれまでの行程を振りかえってみましょう。
 紀伊半島はアクセスが容易でないだけに,日本なりに秘境といわれる場所があるものです。
 私は昨年の12月に,何も知らずに紀伊半島にはじめて来て,国道,いや,酷道425号線などというどうしようもない道を走ったものだから,この瀞峡に行くにも,また,そうした道路を走る必要があるのでは,と恐れていました。
 十津川村から国道168号線を南に進み,熊野本宮大社を越え,熊野川に沿っていくと,西からつながる国道311号線と合流し,しばらく国道168号線と国道311号線の共用区間を瀞峡へと進みます。ここまではよかったのです。
 やがて,熊野川と北山川が合流する地点で,国道168号線と国道311号線は分岐します。
 国道168号線はそこから南へ,新宮市へ向けてつながっていています。前回,私は新宮市からこの道を逆に十津川村に向けて走って来たことになります。また,国道168号線は国道311号線と分岐した後,少し行ったところにドライブインがあって,そこが,かつて就航していたというウォータージェット船の乗り場だったようです。一方,国道311号線は瀞峡の方向へ,北山川沿いを進み,最終的には熊野市までつながっています。

 私は瀞峡をめざしていたので,この日は,国道311号線に進路を変え,熊野川にかかる橋を渡って北に進むことになりました。
 国道311号線をしばらく行くと,今度は,国道169号線との分岐点がありました。まっすぐ行くと国道311号線で,左に折れると国道169号線です。実は,瀞峡に行くには,国道169号線を進まなければならなかったのですが,私の頼っていた Google Maps が示したのが,そのまま国道311号線を進むと,再び北山川を渡る橋があって,その橋を渡ったところに左折する道があるので,そこを進むようにとあったのです。これが失敗の原因でした。私は,この道をしばらく進んだのですが,そこは私の目的とする場所でなかったので引き返したことは,前回書きました。
 再び国道311号線に戻りました。
 国道311号線は,そのまま東に進んでも当然瀞峡には行けませんが,最終的には熊野市までつながっています。私が戻ってきた地点から国道311号線を少し東に行ったところに集落があって,集落の中の道を左折して狭い道路を進むと丸山千枚田へ行くことができるのでした。このこともまた,すでに書きました。そこで,私が丸山千枚田に寄ってから,再び国道311号線を引き返し,瀞峡という道路標示を見つけて右折したのが国道169号線だったというわけです。
 なお,この国道169号線は,かつては酷道だったようですが,今は改良工事が進んでいるということです。国道169号線は瀞峡を過ぎると,和歌山県の飛び地と三重県の県境である北山川沿いに進み,その後,北に進路を変えて,私が昨年走った酷道425号線を跨ぎ,さらにさらに北上して,奈良県吉野町を越え,橿原市に達するというすごい道です。

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 瀞峡(どろきょう)は,和歌山県・三重県・奈良県を流れる熊野川水系の北山川にある峡谷で,吉野熊野国立公園の一部です。瀞峡は,大台ヶ原周辺から流れを発した川が滝を形成し,侵食作用によって滝つぼが後退して形成されたものです。瀞峡の「瀞」は「深い淀み」を意味します。
 上流から,奥瀞,上瀞,下瀞とよばれていて,下瀞が,瀞八丁の名で知られる,巨岩,奇岩,断崖が続く圧倒的な渓谷なのです。 
 北山川は,1965年(昭和40年)ころに車道ができるまで人々の交通手段として利用されてきました。瀞峡は美しい景観ながら古くは訪れる人は少なく,1884年(明治17年)ごろに紀伊地方の外からの来訪者が現れるまでは地元の人にだけ愛される場所でした。訪れる人が少なかったのはアクセスのし難さが理由でした。
 かつて,この周辺地域の人々の暮らしは,瀞峡を含む北山川に深く根ざしていました。
 海から深く入った森林で伐採された材木は「団平船」とよばれる帆船や材木を組んで作られる筏の形で北山川を下り,港へと運ばれました。今年の5月に行った山形県の最上川と同じような感じです。
 また,瀞ホテルは,こうした筏師たちのための宿でした。
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 瀞峡は,1920年(大正9年)にプロペラ船が導入され,昭和に入り国立公園に指定されます。1965年(昭和40年)にプロペラ船に変わってウォータージェット船が就航すると徐々にアクセスは改善し,観光客が増えていきました。
 ウォータージェット船は熊野観光開発が開設したものですが,2011年の紀伊半島での水害で北山川への流入土砂が増加したことで航路維持の負担が大きくなっていたところ,作業員の高齢化や人手不足,そして,新型コロナウイルスの流行が決定的なダメージとなって,ついに2021年に運休となりました。
 今日の2番目の写真にあるように,現在,瀞峡の南側は土砂が堆積していて,この先は渓谷でなくなります。
 なお,2011年の水害では,瀞ホテルの高さまで水に漬かり,さらに,和歌山県(飛び地)と瀞ホテルのある奈良県にまたがってかかっていた吊り橋が壊れてしまい,今もそのままです。
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 現在,運航している観光船は次のふたつです。
 そのひとつは「瀞峡めぐり川舟」。これは私が乗り場まで行ってみたものですが,私が船で観光しているときにすれ違ったから,この日も運航していたわです。そして,もうひとつが私が予約なしに乗ることができた「川舟観光かわせみ」でした。ともに本来は予約制です。
 なお,かつて運航していたウォータージェット船は運賃が4,000円ほどだったそうですが,「瀞峡めぐり川舟」は3,000円,「川舟観光かわせみ」は2,000円です。
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 これらの情報は私が帰宅してから調べてわかったことです。これでやっと謎が解けましたが,そんなことはまったく知らずやってきて,しかも,川舟観光をしてしまったわけだから,我ながらその強運に驚きます。
 瀞峡観光は,ウォータージェット船が運休になる前の情報が未だにウェブ上に多く存在しているし,ここ数年前のガイドブックの情報もまったくあてになりません。そこで,何を調べても,それが現状なのかどうかさえ,さっぱりわからないのです。
 その一方で,もし,私がコロナ禍以前にこの地を観光していたら,インバウンドでやってきた多くの外国人観光客がウォータージェット船で今はのどかな瀞峡の河川敷にどっと押しかけて,うんざりして二度とくるものか,と思っていたかもしれません。今は静まりかえって秘境感満載の瀞峡ですが,そこにに多くの観光客が溢れている様を考えるだけでもいやになります。
 ほとんど観光客いない現在だからこそ,私が理想とするのどかな秘境観光を堪能できたことになるのですが,現実問題,観光業者はたいへんなことでしょう。
 いずれにせよ,現在,この場所にアクセスするには,自家用車がなければ不可能に近く,また,時節柄,営業しているのかいないのかさえ行ってみないことには不明なのです。そこで,予約もせず,何も知らなかった私が,こうして川舟に乗ることができて,満足のいく瀞峡観光ができたことは,まさに奇跡的なことでした。

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