しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

September 2022

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 今日は,フラグスタッフにあるローウェル天文台について紹介しましょう。
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 フラグスタッフ(Flagstaff)はアリゾナ州北部に位置する小さな都市で,人口は約5万人です。コロラド高原の南西端に位置し,標高が2,000メートルを超えます。このように,フラッグスタッフは高地に位置し,かつ,乾燥しています。冬を除いては概ね温暖で,青空が広がる日が多いところですが,冬の寒さは厳しいものです。標高が高いために,同じ州の標高330メートルのフェニックスに比べて夏の最高気温は10度以上も低く,摂氏27度ほどです。しかし,乾燥しているため,夜になると夏でも摂氏10度ほどまで下がって冷え込みます。また,冬は日中こそ摂氏4度から摂氏5度ほどであるものの,夜になると氷点下10度を下回ることもあります。
 7月や8月には夕立がよく起きます。年間降雨量は約570ミリメートル,降雪量は270センチメートルほどです。
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 1855年,エドワード・フィッツジェラルド・ベール(Edward Fitzgerald Beale)は,ニューメキシコ州リオグランデからカリフォルニア州フォートテホンへの道を調査していましたが,その道中でこの場所の東端にキャンプを張りました。エドワード・フィッツジェラルド・ベールとその部下は,すぐ側に立っていた松の木から枝を折って取り除き,星条旗を掲げるための旗竿としました。
 市の名まえであるフラグスタッフは1876年にアメリカ合衆国独立100周年を記念して立てられた旗竿に由来しますが,フラッグスタッフに最初の移民が住みついたのは1876年のことです。
 1880年代に入ると市は成長をはじめ,鉄道産業が栄えました。こうして,1886年ごろには、フラッグスタッフはアルバカーキと西海岸との間では最も大きな都市になりました。

 ローウェル天文台(Lowell Observatory)は,パーシヴァル・ローウェル(Percival Lowell)によって,1894年に標高の高さと視界のよさからフラグスタッフに設立された天文台です。
 私も見ることができた歴史的記念物に指定されている口径61センチメートル屈折望遠鏡は今も現役で,一般公開されています。61cm屈折望遠鏡は,1896年に20,000ドルの費用をかけて,アルヴァン・クラークによってボストンで製造され,アリゾナまで列車で運ばれたものです。
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 1900年代のはじめ,ウィリアム・ヘンリー・ピッカリング(William Henry Pickering)とパーシヴァル・ローウェル(Percival Lowell)は,天王星の軌道における摂動の分析からその存在が予測され発見された海王星と同じように,海王星の軌道もまた他の未発見の惑星「惑星X」によって乱されていると推測し,そのような惑星が存在する可能性のある天球座標をいくつか提唱しました。
 1905年,ローウェル天文台ではこの「惑星X」を捜索するプロジェクトを開始,プロジェクトはパーシヴァル・ローウェルが1916年に死去するまでの11年間続けられましたが,見つけることはできませんでした。
 ローウェルの死後の1929年,プロジェクトが再開されることになって,当時の天文台長であったヴェスト・スライファー(Vesto Melvin Slipher)がクライド・トンボーにこの仕事を預けました。クライド・トンボーは,ローウェル天文台の口径33センチメートルの天体写真儀で空の同じ区域の写真を数週間の間隔を空けて2枚撮影し,その画像の間で動いている天体を探すという方法で捜索を行いました。そして,撮影した膨大な写真を丹念に精査した結果,ついに,1930年2月18日,同年の1月23日と1月29日に撮影された写真乾板の間で動いていると思われる天体を見つけました。これが冥王星です。

 私はフラグスタッフというところにぜひ行ってみたかったことと,できればローウェル天文台を見てみたいとずっと思っていたのですが,2019年,やっとその念願がかないました。これもまた,今ではかなり幸運なことでした。それは,1年遅れていたら行くことができなかったからです。
 行くまでは,いろいろ調べても,ローウェル天文台がどのように公開されているのか,行けば見学できるものなのか,まったく見当がつかなかったのですが,気軽に中に入って,思う存分見学し,夜は天体観測会にも講演にも参加できるものでした。ここは,市民のための天文台でした。
 私は,冥王星を発見した望遠鏡に,何と,触れることまでできたのが,今では夢のような出来事です。
 星好きにはたまらない素朴な田舎町であるフラグスタッフは,私が住んでみたいアメリカの数少ない町のひとつです。


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 若いころの私はオペラに無知でしたが,一度見て,こりゃ最高の芸術だ,と思いました。それ以来,オペラを知らずして何も語れないという確信ができました。
 オペラは高尚だと思っている人も多いのですが,そんなことはまったくなくて,これは娯楽です。ストーリーもそれほど複雑ではなく,むしろ,音楽を楽しむものです。とりわけ,モーツアルトのオペラは音楽が子気味よく,何かをしながらバックミュージックとして楽しむこともできて,思考をさまたげません。
 しかし,単にオペラといってもいろいろな種類があるので,ここでは,モーツアルトのオペラを例にそれらをまとめてみたいと思います。なお,以下の作品名に傑作とかいたのは,モーツアルトの5大オペラといわれるものです。

●オペラセリア(opera seria)
 18世紀のイタリアで作られたオペラで,厳粛なオペラ,正歌劇ともいわれます。内容は高貴で英雄や王を扱ったものが主流でした。
 スター歌手のためのオペラという要素が強く, アリアを歌っては拍手を浴びるというスタイルでした。当時,花形歌手にはカストラートの存在があって,オペラセリアの主人公の英雄たちの声はカストラートが歌って喝采を浴びていました。現在上演する際には,カストラートがやっていたであろうパートは女性のメゾソプラノやアルトが男性役をやるか,または男性のバリトンがやることが多くなっています。
 モーツァルトの作品としては,「ポントの王ミトリダーテ」(Mitridate, re di Ponto),「クレタの王イドメネオ」(Idomeneo, re di Creta),「皇帝ティートの慈悲」(La clemenza di Tito)があります。
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●オペラブッファ(opera buffa)
 イタリアの喜劇風オペラで,喜歌劇などといわれます。もともとはオペラセリアの幕間劇として作られた短いオペラなので,内容も庶民的なものが多く,軽いので、気楽に見に行くことができます。現在のオペラの公演の主流です。
 モーツァルトはオペラブッファの頂点のひとりで,「みてくれの馬鹿娘」(La finta semplice),「だまされた花婿」(Lo sposo deluso),そして,傑作「フィガロの結婚」(Le nozze di Figaro)と「コジ・ファン・トゥッテ」(Così fan tutte)があります。
 なお,オペラブッファの最後はヴェルディ最後のオペラ「ファルスタッフ」(Falstaff)だといわれています。
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●「ジングシュピール」(singspiel)
 ドイツ語による歌芝居や大衆演劇のひとつの形式を指していて,今日のミュージカルに似ています。地の台詞のやり取りや音楽にかぶさる演技,アンサンブル,俗謡・俚謡・バラッドの引用,さらには民謡調で有節形式によるアリアが特徴です。
 ジングシュピールの筋書きの多くはコミカルあるいはロマンティックで,魔術や空想上の生き物が登場したり,勧善懲悪のコミカルな誇張が含まれたりします。
 モーツァルトの作品としては「バスティアンとバスティエンヌ」(Bastien und Bastienne),「ツァイーデ」(Zaide),「劇場支配人」(Der Schauspieldirektor),そして,傑作「後宮からの誘拐」(Die Entführung aus dem Serail)と「魔笛」(Die Zauberflöte)があります。
 ベートーヴェンの「フィデリオ」(Fidelio)やウェーバーの「魔弾の射手」(Der Freischütz)もジングシュピールの発展したものと見なされます。
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●ドラマ・ジョコーソ(dramma giocoso)
 18世紀中期に流行したオペラのひとつの形式で,音楽のためのおどけたドラマを意味します。
 モーツアルトの作品には「にせの女庭師」(La finta giardiniera),「カイロの鵞鳥」(L'oca del Cairo),そして,傑作「ドン・ジョヴァンニ」(Don Giovanni)があります。

 それ以外には,マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」(Cavalleria Rusticana)やプッチーニの「トスカ」(Tosca)などに代表されるストーリー性の強いヴェリズモオペラ,ワーグナーのはじめた音楽と劇を融合させた楽劇,娯楽性がより高く 歌と音楽が軽妙でストーリーもわかりやすいヨハン・シュトラウスの「こうもり」(Die Fledermaus),オッフェンバッハの「地獄のオルフェ(天国と地獄)」(Orphée aux Enfers)などに代表されるオペレッタ,さらには,ムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥノフ」(Бори́с Годуно́в)やチャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」(Евгений Онегин)などのロシアのオペラ,ビゼーの「カルメン」(Carmen)に代表される独特の美しい旋律で聴かせるフランスのオペラがあります。
 このように,モーツアルトのオペラだけでも,さまざまものがあって,とても楽しめます。
 なお,今日の写真は,私がモーツアルトの最高傑作「フィガロの結婚」をサンフランシスコで観たときのものです。

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 テレビのドラマも,クラシック音楽も,共に,よく理解できないものに出会ったとき,それを見ること,聴くことにどんな意義があるのだろう,と思ってしまうのは私だけでしょうか。
 テレビのドラマは,はじめはどんなドラマなのだろうと見はじめるものの,おもしろくないと感じてしまったときが縁の切れ目です。そして,一旦,縁が切れると戻ってくることはほとんどありません。要するに,底の浅いドラマはおもしろくなければどうにもならないのです。
 その一方で,クラシック音楽は,はじめて聴く曲は,ほとんどの場合,よくわかりません。そのときいつも思うのは,そのよさがさっぱりわからないのに,これを聴くことに耐えて,一体どんな意義があるのだろう,ということです。ところが,じわじわとよさわかってくる。そうすると,それを聴くことで幸せを感じるようになって,そうなったころには,聴くことにどんな意義があるのだろう,とは,決して思わなくなるのです。おもしろい,という感覚を超越して,こころに染みるようになるからです。
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 そんなクラシック音楽でも,それを聴くことに専念しているときばかりではありません。ときには,何がしかの作業をしながら,ということも少なくないのですが,そうしたとき,その作業の思考の妨げになってしまうような曲も少なくありません。 
 以前,音楽評論家の吉田秀和さんが奥さんを失くしたとき,何もする気力がなくなってしまいました。そうしたとき,クラシック音楽を聴くことすらおっくうになったのに,バッハだけはおっくうでなかった,というようなことを書いていたことがあります。そうした面からいえば,私の場合は,それはバッハではなくブラームスです。私は,バッハは難しすぎて理解ができません。

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 ヨハネス・ブラームス(Johannes Brahms)は1833年にハンブルクに生まれ1897年にウィーンに没した,19世紀ドイツの作曲家です。J・S・バッハ(Johann Sebastian Bach),ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)と共に,ドイツ音楽における三大Bとも称されます。
 ブラームスの作品はベートーヴェンの音楽に大きな影響を受け,きわめてロマンティックで,力強くたくましく,また,やさしくて心がほっとするなどさまざまな性格をもっています。
 音楽はきわめて入念に仕上げられ,ゴシック建築のように精緻であり高い完成度を示しています。
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 ブラームスの音楽の特徴は,激しい情熱を内包しながらも気品を失わない美しい旋律とリズム,そして,厳格な作曲技法で裏打ちされた作品の完成度です。この職人芸的な作品は,一般に,地味,あるいは,渋いといわれます。

 私は,ブラームスが残した多くの傑作の中でも,その特徴が最大限に表現されている交響曲第4番がもっとも好きです。
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 ブラームス最後の交響曲である第4番は,1884年51歳のとき,避暑地ミュルツツーシュラーク(Mürzzuschlag)で夏を過ごしたときに作曲に取りかかり,この年に前半の2楽章を完成,翌1885年に残りの2楽章を完成させました。ブラームス自身が交響曲第4番を「自作で一番好きな曲」であり「最高傑作」であると語ったといわれています。
 第4楽章は,シャコンヌ(chaconne),あるいはパッサカリア(passacalia)とよばれる変奏曲になっています。シャコンヌ/パッサカリアはバロック期の様式で,ブラームスはバッハの「カンタータ第150番」のシャコンヌからインスピレーションを受けてこの楽章で使いました。
 変奏は30にも及ぶ壮大なもので,管楽器で示される冒頭8小節の主題が次々と変奏されていきます。
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 私は,スコアを購入し,この複雑な変奏曲をスコアを見ながら聴いて理解しようと努めました。すると,しだいに,難解な方程式を解いていくように,きらきらと輝く魅力を感じることができるようになってきて,ついに,この楽章を聴くたびに,深い感動に包まれるまでになりました。
 しかし,それでも,この変奏曲は,音楽にのめり込んで,他のことが手につかなくなる,というのとは違い,ある意味,空気のような,水のような,そんな自然な感じに包まれて,こころが休まる不思議な気持ちになります。
 一般に,地味,あるいは,渋いといわれるブラームスの音楽ですが,私には,精神状態が安定する,そして,周りの空気がやさしく感じられる,そんな気持ちを与えてくれるすばらしいものです。

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 NHKBS1のMLB中継を見ながら,放送している都市の思い出を書いています。今回はミネソタ州ミネアポリス(Minneapolis)です。
 私がミネアポリスに行ったのは2012年のことでした。
 そのころの私は,アメリカ50州制覇をしたいと思いはじめたころで,その手はじめにとノースダコタ州へ行きました。まず,サウスダコタ州に着いて,ノースダコタ州をドライブして,その後,ノースダコタ州の州都であるビスマルクから空路,ミネアポリスに行きました。そして,ミネアポリスを観光して,ミネアポリスから帰国便に乗りました。
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 私は,すでに書いたように,2004年にモンタナ州ビュート郊外で交通事故にあって左足を骨折してアメリカの病院に入院しました。1週間後,日本の病院に転院するために,看護師同伴で帰国するときに寄ったのがミネアポリスの空港でした。そのため,ミネアポリスは,私には甘酸っぱいところでしたが,今度は自力でミネアポリスの空港にやってきて,懐かしさとともに当時のことをよき思い出として振り返ったわけです。

 さて,ミネアポリスは,その西側に同じくらいのセントポールという都会があって,このふたつの都市をふたごの意味でツインシティーズといいます。そこで,ミネアポリスにホームをもつMLBのチームがミネソタ・ツインズです。
 スタジアムはターゲットフィールド(Target Field)です。
 2009年までは,ヒューバート・H・ハンフリー・メトロドーム(Hubert H. Humphrey Metrodome)をホームとして使用していました。このドームを手本にしてつくられたのが東京ドームです。屋根の開かないドーム,かつ,人工芝という不人気スタジアムでしたが,老朽化,屋根が墜落するという事故まで起きて,新スタジアムを建設することになりました。
 ターゲットフィールドは,天然芝の屋外球場で,これによって,人工芝を使用しているのは,私がすでに酷評したトロント・ブルージェイズのロジャーズ・センターとタンパベイ・レイズのトロピカーナ・フィールドのみとなっています。

  ターゲットフィールドがあるのは,ミネアポリスのダウンタウンから気軽に歩いていくことができる場所にあって,私はびっくりしました。銀座からJRの有楽町駅にいくような感じで,これほどアクセスのよいスタジアムを私は知りません。
 スタジアムの外壁は,ミネソタ州の各地で見ることができる少し黄色掛かった深みのある石灰岩「カスタストーン」(Kasota limestone)が使用されています。また,屋根はミネソタ州の大自然に浮かぶ雲をイメージしています。
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 ミネアポリスとセントポールは公共交通機関で便利に移動できるし,治安も悪くないし,ミネアポリスの空港はミネアポリスのダウンタウンまで電車で簡単にアクセスできます。また,空港の近くにはモールオブアメリカという商業施設もあり,さらに,東京からミネアポリスには直行便もあるので,日本からとても簡単に行くことができます。そこで,日本から行く学生さんのホームステイ先ともなっているのですが,問題は,冬がとても寒いということだそうです。私は夏にしか行ったことがないので実感がありません。
 また,ミネアポリスにはミシシッピ川で唯一の自然の滝 セント アンソニー滝(Saint Anthony Falls)があり,1800年代後半から1900年代後半までこの滝の水力を動力とした大きなミル工場がいくつもあったので,「ミルシティ」(Mill City)ともよばれます。「ミルディストリクト」は,現在は歴史地区となっていて,製粉工場や倉庫の建物がその姿を保存したままリノベーションされ,ミネアポリスきっての観光スポットとして多くの観光客が足を運ぶ地区となっています。

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 2022年9月22日にNHKBSPで放送された「コズミック フロント」は「相対論vs量子論・事象の地平線と“異次元のダンス”」というテーマでした。少し古い話題ですが,おそらく再放送ではないと思います。私には久しぶりに興味深い内容でした。
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 「この世界は全てホログラムのような幻影だ」という信じがたい宇宙像が,物理学者たちの間で議論されている。ブラックホール研究に端を発した理論物理学の大激論に迫る。
 論争の発端は,車いすの天才・ホーキング博士が提示した「ブラックホール情報パラドックス」。ブラックホールに飲みこまれた物質の「情報」は永遠に失われるというホーキングの説を認めると,物理学の根本原理が揺らぐとして強く反論したのがサスキンド博士だ。理論物理学のふたりの巨頭が繰り広げた大論争は20年に及び,この宇宙を記述するための新たな理論「超弦理論」の研究が大きく進展した。果たして宇宙は全て幻なのか!?
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 以前にも「宇宙が“真空崩壊”!?宇宙の未来をパパに習ってみた」で登場された京都大学教授の橋本幸士さんが,進路に迷う大学生に扮した山口まゆさんを聞き手に,この話題について解説するというものでした。

 まず,ここでは,ホーキング博士は有名なので,もうひとりの物理学者であるサスキンド博士を紹介します。
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 サスキンド博士(Leonard Susskind)は1940年生まれのアメリカの物理学者で,素粒子物理学における超弦理論の創始者のひとり。
 1966年から1970年までイェシーバー大学の助教授で,1970年,南部陽一郎博士,ホルガー・ニールセン博士(Holger Bech Nielsen)とは独立にハドロンに関する弦理論を提唱。その後,イスラエルのテルアビブ大学を経て,アメリカに戻り,イェシーバー大学(Yeshiva University)で物理学教授となり,1979年より2000年までスタンフォード大学(Stanford University)の教授。2007年からカナダ・ウォータールー(Waterloo)のペリメータ理論物理研究所(Perimeter Institute for Theoretical Physics = PI)に務める。
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という経歴です。

 ブラックホールに落ち込んだ物質が本質的にもつ情報は,はたして宇宙から失われるのか失われないのかという論争があって,ホーキング博士をはじめとする一般相対性理論の研究者が多くが情報が失われると考え,サスキンド博士をはじめとする量子論(超弦理論)の研究者は失われないと考えました。この論争を「ブラックホール戦争」とよびます。
 「ブラックホール戦争」は,1976年,ホーキング博士が,ブラックホールに投げ込んだ情報は,ブラックホールの蒸発によって,外の世界から永久に失われると主張したことにはじまりました。サスキンド博士は,そんなことはありえないと考え,20年に渡る論争になりました。
 量子論には,情報の保存則があって,系が伝える情報を失うことはないとされるので,ホーキング博士の主張は,量子論を否定するものとされたのです。そして,量子論と一般相対性理論によるブラックホールの地平面と情報に関する矛盾は解決できないように思えました。
 サスキンド博士は,この矛盾に対して,1993年のサンタバーバラ会議で「ブラックホール相補性」(Black hole complementarity)という解釈を提唱しました。それは
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 According to the external observer, infalling information heats up the stretched horizon, which then reradiates it as Hawking radiation, with the entire evolution being unitary.
 However, according to an infalling observer, nothing special happens at the event horizon itself, and both the observer and the information will hit the singularity. 
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 外部の観察者によると,情報が入り込むと,引き伸ばされた地平線が加熱され,ホーキング放射として再放射され,進化全体が単一化される。
 しかし,落下する観測者によると,事象の地平線自体では特別なことは何も起こらず,観測者と情報の両方が特異点にぶつかる。
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というものです。このふたつの見方は,それぞれの観察者にとって共に真実であって,これらを「相補的」であると見なすことができるというのです。つまり,異なる観察者から見ればまったく異なる事象が,どちらも物理的に真実であるとするのです。
 1994年に
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 The holographic principle is a supposed property of quantum gravity that states that the description of a volume of space can be thought of as encoded on a lower-dimensional boundary to the region.
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 ホログラフィック原理は弦理論の教義であり、量子重力の仮定された特性であり、空間のボリュームの記述は、領域への低次元境界でエンコードされていると考えることができる。
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という超弦理論をもとにした「ホログラフィック原理」(holographic principle)が提唱され,これをもとに,情報がブラックホールの地平面の向こうで失われることはないことが証明され,サスキンド博士の主張が証明されました。
 2004年の記者会見でホーキングは考えを変えて「ブラックホール戦争」の敗戦を認めました。

 とまあ,こういう内容だったのですが,わかったようなわからないような…,要するに私には難しすぎるのです。番組を見ていて途中で寝てしまったので,改めて録画を見直しました。そもそも,物理学を数式を使わずに説明するということが無理な話です。それは,さまざまな現象を数式を使って矛盾のないように表わす,ということが物理学だからです。
 ここで行われた「ブラックホール戦争」というのは,量子論と一般相対性理論がそれぞれ全く別の学問として数式化した理論だったので,導き出された結論が違っていたことから,どちらの理論が正しいかという論争が起きたということです。そこで,それらをアウフヘーベン(aufheben=すり合わせ)するために新たなアイデアである「ホログラフィック原理」を導入してみたら,一般相対性理論におけるブラックホールの解釈が未熟だった,それを敗北と表現したというわけです。
 このように,物理学は,事象を数式によって書き表そうというものですが,そこに矛盾が生じたとき,新たな理論を作って,その矛盾を解決する,という作業をしている,「それだけのこと」です。ただし,「それだけのこと」といっても,新たな理論というアイデアを考えることも,それを高等な数学で記述するすることも,ともに難しく,だれでもできることではないのです。そしてまた,導き出された数式を理解することも,それはもはや解釈の問題なので,困難が待ちうけているのです。
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 この番組では,進路に迷う大学生が橋本幸士先生の説明を聞いて,私も大学院へ進学して学問をしたいという決意をするというのがオチでした。
 しかし,先に書いたように,こうした理論を学ぶのは,非常にたいへんなことなので,才能がある人には楽しいでしょうが,それでも人生のすべての時間をそれに捧げるほどのストイックさが必要です。しかも,教授への道はせまく,職を得ることができなければポスドクとして冷遇されてしまいます。だから,そうした研究者になるのは,世の中にはたくさんの楽しいことや知りたいこと,そして,やりたいことがあるけれど,それらのすべてを捨ててでも,よりも学問のほうがおもしろい,と感じることができる,そして,経済的にも余裕のある。そうした選ばれた人だけに許される特権なのでしょう。
 この女性にそうした覚悟があるのかな。私にはムリだな。

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 「パンとコーヒーで朝食を」。前回はパンの話だったので,今回はコーヒーです。
 私はまったくグルメでないので,コーヒーの味などまったくわかりません。家で朝食をとるときは,単に適当な豆を買ってきて,コーヒーメーカーでつくるだけです。
 ですが,海外旅行をして,食事をするときは,日本とは違い,コーヒーの種類を知っていたほうが注文が楽だったりします。しかし,私は事前に勉強しないので,現地で聞いて覚えました。そして,そんな適当な知識だけでオーダーして,自己満足に浸っているのです。

 アメリカでは,コーヒーは水のようなものなので,単にコーヒーといって注文するだけですが,そこに出てくるのは,日本でいうところのアメリカンコーヒーになります。しかし,ハワイでは,有名なコナコーヒーというブランドがあるので,ホテルに置いてあるものも,このコナコーヒーだったりするのですが,実際,ハワイ島のカイルアコナの南側に多くのコーヒー農園があります。このコナコーヒー,日本で見かけるとすごく値段が高くて驚きますが,一説によれば,単に労働者の賃金が高いから,という話を聞いたことがあります。
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 はじめてニュージーランドに行って,カフェに入ったとき,いろいろなコーヒーのメニューがあって驚きました。何を注文すればいいのかわからなかったので,聞いてみたのですが,私が気に入ったのは,フラットホワイト(flatwhite)というものでした。そこで,それ以来面倒なので,ニュージーランドやオーストラリアに行ったときは,いつもこのコーヒーを注文することにしています。
 フラットホワイトというのは,エスプレッソとミルクを合わせたもので,いわば,濃いカフェラテですが,ミルクはきめの細かいものを使用し,量が少ないので,エスプレッソの強みが出ます。表面にさまざまな絵が描かれて提供されます。
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 オーストリアでは,日本でウィーナーコーヒーというくらいですから,やはりこだわりがあって,私のお気に入りは,メランジェ(Melange)です。「大きなカップに淹(い)れたエスプレッソにスチームドミルクとミルクの泡を乗せたもの」で,1830年にウィーンではじめて提供されたそうです。
 なお,ウィーナーコーヒーというのは,ミルクの泡でなくホイップクリームを乗せたもので,ウィーンでは,ウィーナーメランジェというそうです。
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 なお,最後の写真は,フィンランドでオーロラを見たときに,サーミ人の家の中でご馳走になったカフェオストです。カフェオストは,豊かな独自の文化を築いてきた北欧少数民族サーミ人が生んだアレンジコーヒーのことで,「オスト」はスウェーデン語でチーズを意味しているので,カフェオストというのは,チーズ入りコーヒーのことです。
 熱々のコーヒーにチーズを入れるのですが,あまり溶けないチーズを使用するために,カフェオストはチーズの食感を楽しみながら味わうコーヒーだといわれています。

 このように,その場所独自の興味深いコーヒーを味わうのもまた,旅の楽しみだったりするのです。
 名所・旧跡を訪ねることもおもしろいのですが,地元の人が行くようなカフェでくつろぐのは,それ以上にこころ休まるときが過ごせます。

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 やっと秋らしくなってきました。とはいえ,相変らず晴れ上がることもなく,次々に台風がやってきます。満足に星を見たのはいつのことでしょうか? 今のこの国の姿のようです。
 さて,日本の秋といえば紅葉ですが,紅葉は晩秋のことで,早秋はコスモスとヒガンバナと,そして,トンボです。しかし,トンボを見ることも少なくなってしまいました。
 トンボといえば,日本を「秋津洲」といいます。「秋津洲」とはトンボのことです。私は,このような季節に奈良,特に,飛鳥地方のようなところを散策することが昔から好きでした。そして,古に想いを馳せるのです。現実逃避です。
  ・・・・・・
 山常庭 村山有等
 取與呂布 天乃香具山 騰立
 國見乎為者
 國原波 煙立龍
 海原波 加萬目立多都
 怜憾國曽
 蜻嶋 八間跡能國者
  ・
 やまとには むらやまあれど
 とりよろふ 天の香具山 登り立ち
 国見をすれば
 国原は けぶり立つ立つ
 海原は かまめ立つ立つ
 うまし国そ
 あきづしま 大和の国は
  ・
 大和にはたくさんの山々があって
 中でも立派に足り整っている天の香具山に登って
 国の中を見渡すと
 国の広い所には煙があちらこちらに立っている
 池には水鳥があちこち飛び立っている
 美しくてよい国
 この秋津洲大和の国は
   「万葉集」巻1・2 舒明天皇
  ・・・・・・

 「秋津洲大和の国は」というのは,日本はトンボの国だと詠っているわけですが,これにはいわれがあります。
  ・・・・・・
 卅有一年夏四月乙酉朔 皇輿巡幸
 因登腋上嗛間丘而廻望國狀曰
 妍哉乎 國之獲矣
 妍哉 此云鞅奈珥夜
 雖内木錦之眞迮國 猶如蜻蛉之臀呫焉
 由是 始有秋津洲之號也
  ・
 神武天皇は即位して31年4月国内を見て回りました
 腋上(わきがみ)の嗛間丘(ほほまのおか)に登り国を見渡して言いました
 妍哉(あなにや)国を獲つること(なんと素晴らしい国を獲たことか)
 内木綿(うつゆふ)の真迮(まさ)き国といえども(狭い国ではあるが)
 なお蜻蛉(あきつ=とんぼ)の臀占(となめ=交尾)せる如くあるかな
 これが日本の国号を「秋津洲(あきつしま)」といういわれです
   「日本書記」巻3
  ・・・・・・
 つまり,神武天皇は,日本はトンボが交尾をする姿に似ていると言った,というわけです。

 腋上の嗛間丘というのは,奈良県御所市にある標高229メートルの国見山で,この国見山での出来事が日本書紀における神武天皇の最後の業績記載ということだそうです。日本書紀によると,初代神武天皇は,辛酉(かのととり)の年,紀元前660年に即位し,76年後の紀元前585年に127歳で没していますが,これは作り話。この辛酉にあたる年には大変革が起こるという「辛酉革命説」が,紀元前660年2月11日に神武天皇が即位したという根拠となっているのです。日本書紀の年代は,数式を用いて復元すると中国史書の倭国に関する記録ときちんと対応するといいます。
 どこの国にもこうした「神話」があって,その土地に住む人の矜持となっている,というか,されているわけですが,島国日本もまた,昔から,海の西にある大国に恐れおののきながら,こうした矜持をもとに国を作っていったのです。そして,それは今も相変わらずです。
 それはそうとして,めっきり早くなった秋の夕暮れどきに,飛鳥地方にある小高い丘に登って「国見」をしながら,古に想いをめぐらすのもまた,秋の楽しみのひとつです。


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 2018年の旅で,念願だったパロマ天文台を訪れたのですが,私が訪れたちょうどその日,天文台構内の駐車場の工事をしていて,中に入れませんでした。
 今にして思えばそのときの私は何にとりつかれていたのか,その翌年2019年にも再びそこに行くことにしたのがすごいことです。京都や東京だって,そう簡単に何度も行くことができるわけではありませんが,その当時は,ロサンゼルスなんて,私には精神的にそれくらいの距離でしかなかったのです。
 コロナ禍が起きていなければ,今もそんな感じで旅を続けていたのでしょう。しかし,今では遠い遠いところです。

 2019年は,パロマ天文台だけでなく,後に紹介することになるフラグスタッフのローウェル天文台をはじめ,バリンジャー隕石孔,さらには,大谷翔平選手まで見ることができましたが,これらのことは,2018年にパロマ天文台の中に入れなかったことで成し遂げられた奇跡なのです。まさに塞翁が馬でした。
 が,幸運はそれだけではなく,パロマ天文台を訪れたこの日が土曜日で,私が見たかったパロマ天文台の200インチ反射望遠鏡は,通常はガラス越しにしか見ることができないのですが,ドームの中に入って見学できるツアーに参加することができました。これもまた,もし2018年にパロマ天文台に入れたとしたらできなかったことでした。

 ロサンゼルスからパロマ天文台までは120マイル,約200キロメートルあります。
 ロサンゼルスで宿泊したモーテルから国道91を走り,アナハイムを過ぎて,さらに東に進んでいってインターステイツ15に入ります。そして,インターステイツ15を南東に進んでいって,テメクラ(Temecula)という町でインターステイツ15を降り,州道76に入る,という経路で走っていきます。テメクラからは一般道で,わずか36マイル,約60キロメートルの州道76は山道となるので1時間程度もかかり,リンコン(Rincon)という数件の家がある小さな町からさらに山道を走っていくと,やっと,パロマ天文台の口径500センチメートル反射望遠鏡の巨大なドームが見えてきます。

 門を通り過ぎて天文台の構内の道路を入っていくと,その先に広い駐車場があって,車を停めると右手にビジターセンターがあります。このビジターセンターもまた,土曜日と日曜日だけ開いているということでした。
 見学ツアーでは,まず,ドームの入口の前で望遠鏡の歴史のレクチャーがあってから,いよいよドームに入ります。ドームの1階部分では反射鏡の再メッキができる工場があって,それらの装置の説明ののち,端にある階段を上って,ついに,望遠鏡のある2階に登り,巨大望遠鏡と対面となります。 
 ドームはものすごく巨大で,外観もピカピカ,今も現役の口径500センチメートル反射望遠鏡はしっかりと整備されていて,ドーム内もきちんと整理整頓がされていました。


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 私は,星を見ること以上に天文台に興味がありましたが,それは,子供のころに買ってもらった「原色現代科学大事典」の第1巻「天文」に載っていた世界中の天文台を実際にこの目で見てみたいというのが動機でした。
 そうした望遠鏡は,ウィスコンシン州のヤーキス天文台にある口径102センチメートルの屈折望遠鏡,サンノゼ郊外のハミルトン山にあるリック天文台の口径91センチメートル屈折望遠鏡,サンディエゴ郊外のパロマ山にあるパロマ天文台の口径500センチメートル反射望遠鏡と口径122センチメートルシュミット望遠鏡,ロサンゼルス郊外のウィルソン山にあるウィルソン天文台の口径152センチメートルヘール望遠鏡と口径254センチメートルフッカー望遠鏡,アリゾナ州フラグスタッフにあるローウェル天文台の口径33センチメートル屈折写真儀などでした。
 しかし,ウィルソン山,パロマ山という名前だけは知っていても,それがどこなのかは全く認識がありませんでした。

 その後,知識も増して,そうした望遠鏡の多くが今は時代遅れのものとなっていることは知ったのですが,子供のころの夢はそんなこととは関係ありません。
 そこで,私はこのような望遠鏡が現在公開されているのならぜひ見てみたいものだという想いがどんどん強くなってきて,ついに出かけることにしました。
 しかし,一般の観光地とは違って,わざわざ行っても見られるものかどうかわかりません。ホームページを見ても,どんな様子なのか要領を得ません。行かなくてはことが進まないので,とにかく行ってみようと,2018年と2019年に天文台を見るためにカリフォルニア州に旅に出たのですが,今では,本当に行ってきてよかったと,強く思います。
 これもまた,もし,行っていなければ,今ごろはものすごく後悔していたことでしょう。

 実際は,2018年に行ったときは,もっとも期待したパロマ天文台は見ることができず,逆にあまり期待していなかったウィルソン天文台は偶然にも特別公開の日にあたって,そのすべてを見ることができたのは不幸中の幸いでした。
 2018年には行くことができなかったパロマ天文台は,その翌年にまた出かけて,ついに,念願のパロマ天文台にも行くことができて,しかも,見学ツアーに参加することができて,私は,長年の夢をすべて実現したのです。
 ここでもまた,私の強運が発揮されました。

  ・・・・・・
 1917年11月に完成したウィルソン天文台の口径254センチメートルフッカー望遠鏡でエドウィン・ハッブル(Edwin Hubble)は,星雲が実際には我々の天の川銀河の外にある銀河であると結論,さらに,ハッブルと助手のミルトン・ヒューメイソン(Milton L. Humason)は,宇宙が膨張していることを示す赤方偏移の存在を発見しました。
 この望遠鏡は世界最大のものとして君臨していましたが,1948年にパロマー山に口径500センチメートル反射望遠鏡を完成したことでその座を明け渡すことになりました。1986年に口径254センチメートル反射望遠鏡は一度は運用を終了しましたが,1992年に再び使用が開始されました。フッカー望遠鏡は20世紀を代表する傑出した科学装置なのです。
  ・・・・・・
 パロマ天文台については次回。


◇◇◇


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 海外旅行をしたときの楽しみのひとつは朝食です。
 朝食の定番はパンとコーヒー。朝食をとるためにカフェに入ったとき,どんなコーヒーを注文するのかは,その国の文化を知らないと,結構難しいものですが,コーヒーだけでなく,朝食で食べるパンもまた,こだわる必要があります。私はグルメでないので,日ごろは食パンを食べているのですが,それでも,ときには趣を変えてみたくなります。そこで,今日はパンのお話です。

 そんなときは,まずはクロワッサンです。
 フランス発祥のクロワッサン(croissant)は,バターをパン生地に折りこんで焼き上げたもので,フランス語で三日月を意味します。サクサクした食感が特徴的で,ときに,生クリームやカスタードクリーム、ジャムなどの詰め物をしたものも多く見られますが,今日の写真のような感じで野菜やハムをはさむのもまた,趣があります。
  ・・
 次に,我が愛するフィンランドでよく食されるシナモンロール(cinnamon roll)です。
 シナモンロールは,イースト入りのパン生地を大きめの長方形に伸ばし,表面にバターを薄く塗り,シナモン,砂糖をまんべんなくふりかけて,ロール状に巻き,それを輪切りにして切り口を上にしてオーブンで焼いたものです。
 スウェーデンで発明されたと考えられていて,焼き上がったものに,北欧では一般的なニブシュガーという胡麻粒状の砂糖,フロストシュガーなどをトッピングすることもあります。
 一番大きいシナモンロールはフィンランドのコルヴァプースティ(korvapuusti)で,直径が20センチメートル,重さは200グラムもあります。
 このごろは日本でも次第に普及していますが,フィンランドなどで食べるようなものがなかなかないので寂しいです。
  ・・
 その次は,オーストリア。
 ハプスブルク帝国のグルメの土壌に育まれたオーストリアの食文化の中でも,ウィーンで最も定番のパンはやはりセンメル(Semmel)です。
 ウィーンでセンメルとよばれるパンは,丸い形に星の模様が付いた白パンを指します。ホテルやカフェの朝食では必ず出てくる、最も定番のパンです。センメルとはラテン語で最上級の小麦粉を意味する「simila」が語源で,ライ麦や大麦などが原料の黒パンが主流だったで真っ白な小麦粉で作られるふわふわカリカリのセンメルは,昔は特別なものでした。日本の白米のようなものでしょうか。
 美貌で知られた皇后エリザベートがウィーンのプラーター公園に出かけた折にセンメルを食べて非常に気に入り,宮廷に1日2回運ばせていたというエピソードがあります。

 というわけで,特にすることもない静かであわただしくない早朝,クラシック音楽を聴きながら,こうしたパンとコーヒーで優雅な時間を過ごすことこそ,最上の幸せというものです。

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 ふとした理由でFODをサブスクしました。
 ふとした理由というのは,先日「コンフィデンシャルマンSP英雄編」の映画が公開されたのですが,映画館に行く気にならず,ネットで見られないかと調べていたら,FODで見ることができるというブログを読んだことからでした。現在は見ることができるのですが,私が契約したときは,そのブログの情報は誤りで,見ることはできませんでした。
 結局,私は「コンフィデンシャルマンSP英雄編」は,がらがらの映画館の最後尾席で見ました。しかし,せっかくサブスクしたのだからと,キャンセルするまえにFODを利用することを考えていたら,過去のドラマや映画を数多く見ることができることがわかって,結構便利なので,現在もまだ解約しないでいます。
 ちなみに,現在私がサブスクしているのは,このFODとAMAZONのPrimeVideoです。一時,ABEMAも契約したことがありますが,将棋と大相撲の中継は無料で十分だし,サブスクしてもそれで見られるのはキャンブルとエロばかりだったので嫌気がさしてやめました。

 さて,今日の話題は,FODで見ることができる番組ではなく,それに付随したFODで多くの雑誌を読むことができるサービスについてです。
 ずいぶん前は,喫茶店に入る目的は,「週刊現代」とか「週刊ポスト」のような雑誌や,購読をしていない新聞を読むことでした。今でも喫茶店にはそんな老人がいるようです。また,ときどき,そのような雑誌を書店で立ち読みすることもありました。さらには,「将棋世界」や「アサヒカメラ」というカメラ雑誌,さらにこのブログによく書く「月刊天文ガイド」などの天文雑誌は購読までして読んでいたこともありました。
 しかし,今は,多くの情報はウェブで手に入るし,おどろおどろしい見出しが所狭しと並ぶだけの興味本位の週刊誌や,所詮は広告でしかない月刊誌など,民放の情報番組と同じく,私は嫌悪感しかもたないので,手に取ることもなくなりましたが,FODのサービスでは,そうした雑誌以外にも多くを読むことができるのです。週刊誌などはもともと読まないのでどうでもいいのですが,そこで目にしたのは,これまでなら手に取ることもなかったようなさまざな趣味の雑誌,たとえば,「つり人」「BIKEJIN(培倶人)」「田舎暮らし」「BE-PAL」などです。そこで,特に興味があったわけでもないのですが,リストアップされていたこれらの雑誌を好奇心で読んでみました。
 しかし,読んでいるうちに,次第に寂しくなってきました。
 その理由は,所詮,この国で,こうした趣味に打ち込もうと思ったところで,それを楽しむ場所などほとんどないではないか,ということでした。それは,私が星見を楽しんでいて実感することと同じなのです。

 先日出かけた木曽駒高原から開田高原あたりで,オートバイに乗ってツーリングを楽しんでいる人やキャンピングカーで旅をしている人を多く見かけました。また,川では釣りをしている人たちもいました。おそらく,こうした雑誌の読者はそのような人たちなのでしょう。しかし,私が楽しんでいる星見もそうですが,実際のところ,この国は,そうした趣味を十分に楽しむ場所などないのです。そう感じるのは,私がこれまでアメリカやオーストラリアの雄大な大自然の中でこうした本物の楽しみを満喫している人を知ってしまったからです。
 それでも,この国で何とか居場所を見つけてかろうじて楽しんでいる人たちは,おそらく,そういう外国の姿を知らないか,あるいは,憧れをもっているかでしょう。それは,高級料理を知らない人が焼き芋を食べて世界で一番おいしい食べ物だと思うようなことと同じで,つまり,知らないほうがよいこともあるのです。

 一時「ひとりキャンプ」なるものが流行りました。今も流行っているのかな?
 アウトドア関連の雑誌の特集には,満天の星の下でキャンプをしているような,そんな写真が掲載されているので,そういう写真に憧れて,いろんな道具を買い込む人がいるわけですが,その多くは一度使っただけであとは家で眠っていると聞きます。それはもっともな話で,それを活躍させるところが日本にはほとんどないからです。
 もともと,そうした雑誌のグラビアというのはイメージだけで,道具を買ってもらえばそれでいいわけです。つまりカタログです。そういえば,私の住む街にスポーツジムができたとき見学に行ってみたことがあるのですが,結局,スポーツジムもまた,運動をするというより,服やら靴やらといった道具を売ることに熱心でした。週末の列車にも,普段着で十分なのに,わざわざ雑誌に載っているようなもので着飾ったハイカーを見かけます。しかし,結局,それだけのもので,たとえば,カメラだって,買っただけで使っていないという人が半数以上なのだそうです。
 この国でアウトドアを楽しむなどというのは,雑誌のグラビア写真同様,虚構なのです。車だって,実際,こころ置きなく走ることができる道路もありません。1度でもアメリカのインタ―ステイツを走ってみれば,そのむなしさがわかることでしょう。結局,イメージに踊らされ,ムダなお金を使って,それで,暇つぶしをしているだけなのです。私は,それがとても悲しいのですが,そんなことを知って冷めてしまうと,散財しなくなるのです。だって,モノを買ったところで活躍させることもできませんから。

 少子高齢化に対して何の対策もせず,国民からお金を巻き上げるだけ巻き上げて,それをムダ遣いすることだけが仕事と勘違いしている政治。そんな末期的なこの国で生きのびるには,早く幻想から目覚めて,老後に備えることが大切なのです。今後,年金も少なくなり,医療費も増えるとなれば,60歳で1億円くらいはないと,安心した老後はおくれません。
 しかし,日々管理の大変な芝のある広い家に住み,ランドクルーザーとSUVとヨットをもち,毎週末キャンプに出かけ,MLBとNFLの応援に忙しく過ごし,老後はキャンピングカーを手に入れてアメリカ中を走るのが夢,というような国とは違い,この国では,立派な道具を揃えてもアウトドアをする場所もなく,高級車を買っても走る道路すらないから,少しでも早くそれを知って雑誌の洗脳から冷めて散在することのあほらしささえ知れば,お金も要らないから,老後に備えて貯蓄をすることは可能です。逆に,そうしなければ,悲惨な老後が待っています。


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 わずか2年前だというのに,自分が書いたこのブログの文章を読んでも,以前とはずいぶんと考えていることが違うことに気づきます。この2年で,旅をすることの捉え方がかなり変わりました。そして,気負いがなくなり自然体になったようです。
 これだけ円が安くなって,しかも,航空便も以前のようには就航していないとあっては,まだ,海外に出かけるのは当分先のことでしょうから,ここしばらくは日本国内を旅しようと思っているわけですが,それもまたいいものです。
 私が行きたいのは自然あふれる人の少ないところですが,その一方で,今回のように,コンサートや美術展などで東京や大阪に行くことも少なくありません。とはいえ,私は,若い人たちのように,多くの人が集まる繁華街にはもはや何の興味もないのですが,都会にも,これまで知らなかったおもしろいところが結構あるので,そうしたところを探しては,ゆったりとした時間を過ごすのも楽しいものです。

 YouTube を見ると,若い人が,なるべく安価に移動する方法とか,行くことが困難なところにこうして行ったというようなおもしろい番組が数多くあって,私も興味深く見るのですが,それとともに,若いなあア,という感想をもつのです。それは,そうしたことの多くはすでに私も以前にやったことがあるからです。
 しかし,若い人と同じことをする齢ではないので,今は,なるべくゆったりと優雅に移動をするというのが私の最優先となっています。混雑する公共交通機関や,やたらと時間がかかるものは,今の私には無理です。
 ここ数年,海外に行ったときは,少し余分にお金を出して,飛行機の座席をグレードアップしていたのですが,それと同じように,新幹線もまたグリーン車を利用するようになりました。そうしたちょっとの贅沢でかなり快適な旅ができるのです。
 また,旅先での食事は,中途半端にぜいたくをすることや,あるいは,定評があるレストランでも並んで入るなどというのは,私には少しも楽しくありません。ということで,もっとも楽しみなのは駅弁です。

 昔は,駅弁は,単に腹ごしらえをするためのものにすぎず,消極的な理由から利用することも少なくありませんでした。また,列車には食堂車が併設されていたことが多く,それを利用するのが旅の楽しみのひとつでした。しかし,今は,食堂車もほとんどなくなってしまいました。というか,ほぼ絶滅してしまい,時折,食堂車を連結した観光用の特別仕立ての列車が走っているだけで,通常の列車に食堂車が連結されているものはありません。それどころか,車内販売すらないことが多く,うっかり駅で買い忘れると,何も食べずに数時間を過ごさなければならないので要注意です。
 そんな現状ですが,乗車前に駅で買う駅弁は,それを補填してあまりあります。選ぶのに苦労するほど多くの種類があったり,魅力に富んでいます。今回の東京日帰り旅行もまた,品川から乗車した帰りの新幹線グリーン車の車内で窓から夜景を見ながら駅弁を味わうことができたのが,至福な時間となりました。

 この秋から,私は正常モードに戻ります。
 とはいえ,以前のように,ふた月に1度くらいの割合で海外旅行に出かけるわけにはいきませんが,ひと月に1度くらいのペースで,飛行機を利用して遠出をしたり,東京や大阪でコンサートや美術展を見る,ということを楽しみにしていきたいと,いろんな計画を立てているのです。
 とりあえずは,NHK交響楽団の定期会員に復活したので,それを機会に毎月東京へ行って,その折にさまざまなところに足をのばすことや,日本の離島や,東北,四国などのひなびた温泉を旅することなどからはじめようと思っていますが,それ以外にもやりたいことがいっぱい浮かんできます。
 旅はいいものです。


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 これまで書いてきたように,午前中は金美館通りを通って旧吉原遊郭跡を経由して浅草へ行き,午後はNHK交響楽団第1962回定期公演を聴き,あとは品川駅から新幹線に乗って帰宅するだけでした。 
 時間が少しあったので,旧東海道の品川宿のあったところを歩いてみることにしました。
 私は,ときどき,旧東海道をきままに歩いていて,そのことはこのブログに書いていますが,日本橋の始点から,品川宿,川崎宿,神奈川宿と続くあたりはまったく知りません。
 街道歩きを楽しみとする多くのブログがあるのですが,私はそんなストイックな性格ではないので,あくまでその時の気分で下調べもせず,単に,ああ,ここが旧東海道か,とその雰囲気に浸ってそれで満足しているだけです。

 何度東京に行っても,これまで東京都内の旧東海道を歩くということに想いがいかなかったのが不思議ですし,うかつでした。
 そこで,Google Maps で探してみると,旧東海道は,品川駅から少し海岸線に,つまり,JR京浜東北線の西側に続いていることがわかったので,品川駅から私の乗る新幹線の出発時間に間に合うように,旧東海道を南に向かって歩いてみることにしました。楽しかったら,今度来るときは,もう少し真剣に歩いてみようと思いました。
  ・・
 品川宿あったところはきれいに整備された商店街になっていました。この国の地方都市の多くは,巨大モールができたために,従来の商店街はどこもさびれてしまっていて,通称,シャッター街となっているところが多く,寂しくなるのですが,東京だけは,いまも,商店街が健在です。それは,土地がないので,巨大モールができないことや,公共交通機関が発達しているので,車に乗るより,列車などで移動する人が多く,商店街の需要があること,そして,そうした商店街がきれいで,歩いていて楽しいことなどが理由だと思います。

 今は海が埋め立てられてしまっているので,歌川広重が描いた品川宿の面影はなくなっていますが,それでも,本陣跡などの遺構が存在していて小さな公園になっていました。
 そういえば,以前「ブラタモリ」でこの品川宿がとりあげられていたのを思い出しました。
  ・・・・・・
 「品川冨士」ともよばれる品川神社の冨士塚からスタートして番組の前半は,かつて宿場町だった北品川エリアで,旧東海道沿いや「小泉長屋」とよばれる昔ながらの住宅地を散策し,後半は船に乗り,天王洲アイル,芝浦,レインボーブリッジなどの運河を散策した。
  ・・・・・・
というものでした。
 私はあまり時間がなかったことと,あまりに暑かったことで,今回は,品川宿本陣跡までしか行くことができなかったのですが,こりゃおもしろいと思いました。
 渋谷も新宿も池袋もまったく興味ないけれど,こんな東京,というか,江戸,といったほうがふさわしいところなら,ゆっくりと歩いてみたいものです。次回はぜひ川崎宿まで足をのばしてみようと思いました。

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 金美館通りの正確な場所を知らなかったのですが,品川駅から行くには,おそらく,JR山手線に乗って鶯谷駅で降りて,東に向かって歩いていけばいいだろうと適当に見当をつけて,ホームに降りたのですが,間違えて京浜東北線乗ってしまったので,途中の御徒町駅でホームの反対側に奇しくも同時に停まった山手線に急いで乗り換えて,無事,鶯谷に着きました。
 御徒町駅とは違い,品川駅では山手線下りと京浜東北線上りが同じホームの両側から出るのです。わかりにくい。
 鶯谷駅から南に行けば国立博物館から上野恩賜公園に向かうことができて,以前,上野恩賜公園の美術館を巡ったときに鶯谷駅からJR山手線に乗って帰ったことがあるのですが,北側はホテル街でした。そんな雑踏としたディープな駅前に松屋があって空いていたので,まず,そこで昼食に牛丼を食べました。
 店を出て,金美館通りを目指しました。迷いながらも,金美館通りに出ました。名前だけ知っているところに出ると何かよくわからねどなつかしさを感じるものです。それは,名前だけ知っていて会ったことない人に会うときに感じるものと共通します。
 ということだったのですが、金美館通りは,東京の下町によくある過ごしやすそうなところでした。

 金美館通りをずっと歩いていくと,やがて,通りの名前としては終点まで来ましたが,さらに道は続いていました。そこで,そのまま進んでいくと,なにやらすごく情緒のある雰囲気の街が見えてきました。赤く塗られた電柱や柳の木が江戸情緒一杯でしたが,そこが吉原遊郭の跡でした。
 今は吉原という地名はなく,千束4丁目です。吉原遊郭は時代劇によく登場するところですが,名前は知っていても,東京に住んでいなければ,それがどこにあるのか知らない人が多く、私もまたそうでした。ここがまさにその場所でした。
 まずあったのが吉原神社でした。
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 吉原神社は,かつて吉原遊郭にお祀りされていた五つの稲荷神社と遊郭に隣接する吉原弁財天を合祀した神社です。5つの稲荷神社とは,玄徳(よしとく)稲荷社,明石(あかし)稲荷社,開運(かいうん)稲荷社,榎本(えのもと)稲荷社,九郎助(くろすけ)稲荷社のことで,倉稲魂命(うがのみたまのみこと)を御祭神としています。吉原神社は,現在も幸せを祈る女性への御利益がよく知られています。
  ・・・・・・

 吉原神社を左手に,仲之町通りを進んでいくと,これもまた,なにやら派手な看板がたくさん見えてきました。
  ・・・・・・
 吉原遊郭の中央通りを仲之町通りといいます。これから先3本の道路がクロスします。それらは手前から京町通り,揚屋通り・角町通り,江戸町通りで,このあたりに吉原遊郭が形成されていたそうです。その先,仲之町通りは大きくカーブして,そこが,吉原遊郭の入口でした。現在は左右に「吉原大門」の柱がありますが,かつてここに吉原の鏑木門がありました。また,現在交番のあるところが当時は「四郎兵衛番屋」で吉原自警団と町奉行所の同心などが詰めて警護に当たっていたそうです。
 江戸時代,吉原の出入り口はここだけで,周りは堀で囲まれ遊女の逃亡を防いでいたそうです。
 大門に一番近い江戸町通りを左に行った突き当りは足元から急な下り坂になっていて,吉原をぐるっと囲んでいた「お歯黒どぶ」の跡があります。江戸時代,ここに跳ね橋があって,遊女が死んだ場合などここから遺体が運び出されたといいます。江戸時代の遊女は平均寿命が30歳以下だったそうです。
  ・・・・・・
 江戸時代はそんなでしたが,現在は140軒あまりという日本最大の風俗店の立ち並ぶ街になっていて,私が歩いた午前12時前の時間はお店の開店前らしく,そこに勤める女性が乗ってきたタクシーやお店に入っていく女性を大勢見かけました。

 私は午後1時には渋谷駅に着こうと思っていたので,歴史探訪もそこそこに,ここからどうしたら渋谷駅に早く行くことができるだろうかと考えたのですが,おそらく最も便利なのは浅草駅です。浅草駅から地下鉄銀座線に乗れば渋谷駅まで直通で行くことができるのです。ということで,暑い中、へこたれながら,かつ,汗だくになりながら浅草駅を目指しました。
 吉原遊郭跡の風俗街を抜けると雰囲気が一変して,小料理店やらが軒を構えるようになって,東京の下町・浅草らしくなってきました。今はインバウンドがないので,外国人でいっぱいということはないだろうと高を括り,2年前にニュースで見たさびれた浅草仲見世を想像しながら歩いていくと,それがまあ,予想に反して,歩く場所すらないほどの人混みで,すっかりいやになりました。
 旧吉原遊郭跡といい,大混雑の浅草といい,「田舎のネズミ」である私には東京はおそろしいところだと再認識しました。こんなところに長居をしたくないので、ともかく、地下鉄に乗り込んで渋谷を目指しました。冷房の効いた地下鉄がなんと心地よかったこと。でも,数年前の銀座線ってもっと古臭い車両だったのに…。

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 NHK交響楽団1962回定期公演を聴くために東京に日帰り旅行をしました。定期公演のことはすでに書きました。
 定期公演は午後1時開場,午後2時開演でした。 私が品川駅に着いたのが午前10時過ぎで,品川駅で下車したのは,品川のキヤノンギャラリーで開催されている「キヤノンフォトコレクション:木村伊兵衛写真展」を見るためでしたが,日曜日が休館ということで行くことができませんでした。
 渋谷駅からNHKホールまでは結構な距離があるので,定期公演に間に合うためには午後1時くらいには渋谷駅に着こうと思っていたのですが,では,これから3時間程度の中途半端な時間をどう過ごすかが問題でした。
 東京もまた,ほとんど行きつくしたし,私は,若者が集うようなところに行く気もないので, 今,私が東京で行きたいところは,ちょっとばかりマイブームになっている「男はつらいよフーテンの寅さん」の舞台である葛飾・柴又くらいのものでした。葛飾・柴又もすでに行ったことはあるのですが,ここにある「葛飾柴又寅さん記念館/山田洋次ミュージアム」には入ったことがないので,ここが目的なのです。しかし,この日は品川から葛飾・柴又行って,目的地で見学をして渋谷に戻るには時間が足りません。葛飾・柴又は遠いのです。というか,東京は公共交通は発達していても,意外と広くどこへいくにも結構時間がかかるのです。

 ということだったのですが,ふと,あることを思いつきました。 それは,私が近ごろ見つけて以来,暇つぶしに時々見ているVTubeの「金美館通りの藤村さん」。これは元風俗嬢だったという女性がその業界の本音やら内情を語るというものですが、私のような暇な不良老人の知らない世界を知りたいという好奇心を満足させてくれます。そこで気になっていた「金美館通り」という変わった名前ですが,ここはかつて藤村さんが実際に住んでいたというところの地名だということを知って,ぜひ,そこに行ってみたいということでした。こんなところ,何かのついででもなければ行くこともないし,わざわざ行く気にならないとその機会もないから,こりゃ絶好だと思いました。
  ・・・・・・
 入谷にある金美館通りは,かつて,根岸や鶯谷方面から吉原へ行く道として栄えた通りです。
 金美館通りの名前の由来は,大正時代,美須鐄(みすこう)さんという人が個人商店として発足した金美館という映画館があったことに由来します。入谷は,上野に近い街で建物においては高層ビルも少なく,雰囲気的にレトロさと穏やかさをもつ人情味のあふれる場所です。
 普段は,都会の喧騒の中に身を置くことの多い人々も休日はゆったり過ごしたい人は多いでしょう。 アロマや動物,公園や他愛もない会話などを楽しみ,何気なく自然にあるものに触れ,こころ許せる時間と空間がこの金美館通りやその周辺に存在しています。
 大正ロマンあふれる景観の喫茶店や女性パティシエが作る温かく優しい味わいのケーキ屋,駄菓子屋を連想させる煎餅屋などがあり,思わず東京にいることを忘れそうになります。 また,入谷は特に昔の建物と現代風の建物が入り混じっているところなので,歴史と伝統を守り続けつつオシャレな近代的さが融合されているすてきなところです。
 ちなみに,入谷は上野との距離も近く駅の距離で言えば,徒歩でこと足りるほどの距離しか離れていません。住むには魅力的な街です。
  ・・・・・・
という紹介がネットにありました。

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☆☆☆☆☆☆
 今年2022年の中秋の名月は9月10日でした。
 今年はずっと天気が悪く,この晩も月が見られるかどうかわからなかったのですが,雲間に美しい月が輝きました。とはいえ,この暑さでは,例年のように秋らしい雰囲気はまるでなく,虫の音も聞こえず,まったくもって情緒がありませんでした。
  ・・
 中秋の名月は,旧暦8月15日の月のことをいいます。「十五夜」「芋名月」ともよびます。
 平安時代に「お月見」「望月」という月を見る風習が中国から日本の貴族社会に入ってきて「月見の宴」が催されるようになりました。室町時代に入ると,遊宴は簡素になっていき,やがて月を拝みお供えをする風習となりました。そして,江戸時代には家庭で供え物が行われるようになりました。
 毎年このブログに書いているように,日本では,旧暦の9月13日,今年の10月8日が「後の月」。この晩は「十三夜」「栗名月」というお月見を行う習慣もあって,このどちらか片方の月見しかしないとき,それを「片見月」といって忌み嫌います。さて,今年の「十三夜」は晴れるでしょうか。
 さて,もともとは「十五夜」というのは旧暦の8月15日の月だけではなく,毎月15日の月のことをいうのですが,その中でも旧暦8月の「十五夜」を中秋の名月というわけです。旧暦は月の満ち欠けを基準とした数え方ですが,月齢と一致しているわけではありません。満月は太陽,地球,月の位置関係で決まり, 月の公転軌道が楕円なので,新月から満月までにかかる日数は13.9日から15.6日と大きく変化するからです。そこで,「十五夜」は満月とは限りません。しかし,今年は正真正銘,満月となります。

 中秋の名月といえば,月見団子とススキ。月見団子を供えることで収穫に感謝し,ススキは,古くから魔除けの効果があるといわれているので,悪霊を追い払う役割を果たします。
  しかし,古人は
  ・・・・・・
 春のはじめより,かぐや姫,月のおもしろう出でたるを見て,常よりももの思ひたるさまなり。
 ある人の月の顔を見るは,忌むこと,と制しけれども…
    「竹取物語」
  ・・・・・・
 とあるように, 月見の宴とはいえ,月自体を見るという行為自体は「不吉な行為」だったようです。
 また
  ・・・・・・
 おほかたは月をも愛でじこれぞこの
 つもれば人の老いとなるもの
   「古今和歌集」879 在原業平
  ・・・・・・
とも詠われていて,月が積もれば年をとって老いてしまう,というのです。
 やがて時代も下ると
  ・・・・・・
 いかばかりうれしからまし秋の夜の
 月すむ空に雲なかりせば
  ・
 どんなにか嬉しいだろう 秋の夜の
 月が澄んだ空に雲がなかったら
   「山家集」西行
  ・・・・・・
と,雲ひとつない夜空の月を存分に眺めたいと,ただ一途に月への恋慕を詠うようになるのです。
 
 「十五夜」の翌日は「十六夜」。今年の「十六夜」は明るい木星が月の左脇に寄り添い,とてもきれいでした。
  ・・・・・・
 君や来むわれや行かむのいさよひに
 真木の板戸もささず寝にけり
  ・
 あなたが来るだろうか 私の方から行こうか
 そうためらっているうちに十六夜の月が出て
 真木の板戸を閉ざさずに寝むってしまったよ
   「古今和歌集」690 詠み人知らず
  ・・・・・・
 「十六夜」の月の出は「十五夜」よりも遅く,それを,当時の人々は「十五夜」に遠慮してためらっているように思い,「いざよふ」といえば「ためらう」ことを表しているのです。

 「十六夜」というと「十六夜日記」を思い出します。「十六夜日記」は,藤原為家の側室・阿仏尼によって記された紀行文日記です。
 女性が京都から鎌倉への道中の紀行を書くといった,他の女流日記とは大きく趣きを異としているもので,鎌倉時代の所領紛争の実相を当事者の側から伝える資料としても貴重です。この日記が成立したころ,この日記に名前はついていなくて,単に「阿仏日記」とよばれていましたが,のち,日記が10月16日にはじまっていることを由来として後世「十六夜日記」と名づけられたもので,月見の「十六夜」とは関係がないようです。


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 新たにNHK交響楽団の首席指揮者に就任したファビオ・ルイージ(Fabio Luisi)さんは,イタリア・ジェノバで1959年に生まれたということなので,私より若いですが,前任者のパーヴォ・ヤルヴィさん(Paavo Järvi)が1962年生まれなので,それより年上ということになります。
 イタリアの指揮者といっても,あまり,イタリアという感じは私にはしません。近ごろの指揮者はどの人もレパートリーが広く,そのどれもすばらしいので,あとは,個性の違いという感じがします。私には,前回来日したときに指揮したブルックナーの交響曲第4番がすばらしかったのでそのイメージが強いですが,これからどんな曲目を取り上げるのかとても楽しみにしています。

 今回のヴェルディ「レクイエム」,私が知っているのは「怒りの日」(Dies irae)の旋律くらいです。これは,かつて,薬師丸ひろ子さんが主演した「Wの悲劇」で効果的に流れたものです。それ以外は,これまできちんと聴いたことがありません。
 このようなキリスト教の音楽は私には難解で,そのよさがよくわかりません。それでも3大レクイエムのほかのふたつである,モーツアルトの「レクイエム」のような音楽性だけでも楽しめる曲や,フォーレの「レクイエム」のようなこころに染みるものとは違い,これでもかこれでもかと音の洪水が押し寄せてきて,それがはじめて聴く私にはいつ終わるとも,どこで盛り上がるのかもわからないので,辛いものでした。
 この曲はヴェルディの尊敬するイタリアの文豪アレッサンドロ・マンゾーニ(Alessandro Francesco Tommaso Antonio Manzoni)を追悼する目的で作曲され,アレッサンドロ・マンゾーニの1周忌にミラノのサン・マルコ教会で初演されたものです。アレッサンドロ・マンゾーニは,高雅なことばでキリスト教徒としての心情を歌った詩「聖なる讃歌」(Inni sacri)や,歴史小説「いいなづけ」(I promessi sposi)を書いた人だそうですが,それもまた私はまったく知らないので,これではどうにもなりません。
 このような大曲を予習もせずいきなり聴くこと自体が無謀で,正直いってとまどうだけでした。あとで調べてみると,「あまりにイタリア・オペラ的」「ドラマ性が強すぎる」「劇場的であり教会に相応しくない」といった評価があるそうです。さらには,「絶叫するばかりのコーラス」「怒号の連続」「正常な神経の持主がこの詩句と同時に受け入れることのできるメロディーはどこにも聴かれなかった」などという酷評も存在しますが,私がそれを読んで納得したりしているのです。この曲が理解できる人ごめんなさい。
 「この作品は,それまでの多くのレクイエムのいかなる価値観とも別のもので,人間の死と運命という主題を感動的で普遍的な方法で扱った音楽として感じるべきだ」ともあったので,それを感じることができるまで聴きこんでみるべきだとも思うのですが,そこまで執着するほどの情熱が起きないのが残念です。

 と,これは,演奏の出来不出来ではなく,私の不徳の致すところですが,このような大曲に接することができただけでも幸せな時間でした。そしてまた,この曲を取り上げたファビオ・ルイージさんの矜持を強く感じました。
 さらに,それよりなにより,広いステージにも関わらず,オーケストラと合唱団とソリストの人たちで一杯になったその美しさ,そして,このような大規模な曲を再び聴くことができるようになっただけで,私は感動しました。そして,来てよかったと思いました。
  ・・
 なお,今回のコンサートから,カーテンコールは写真を写すことができるということで,私が選んだステージ全体が見渡せる極上の席は,さらに満ち足りた気持ちにしてくれました。
 さあ,次の演奏会は,待望のヘルベルト・ブロムシュテッドさんのマーラー・交響曲第9番です。今からとても楽しみです。

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 2022年9月11日,NHK交響楽団第1962回定期公演をNHKホールで聴きました。私がNHK交響楽団の定期公演を聴いたのは2020年2月以来のことでした。
  ・・
 コロナ禍とは関係なく,NHKホールは2020年の夏から改修工事で,2年間NHK交響楽団の定期公演を行わず,その代わり,池袋の東京芸術劇場コンサートホールを使用することになっていました。私のように,NHKホールの定期公演の座席をもっていた人は,その間NHKホールの座席が維持され,NHKホールでの公演のない間は,中断しても,あるいは,東京芸術劇場コンサートホールで新たな座席を確保してもいいということでした。私は,中断を決めました。
 ところが,奇しくもコロナ禍となってしまい,2020年の4月から6月までの定期公演は中止となり,この3つの公演のチケット代が返金となりました。また,2020年の秋からの定期公演は1年間中止となりました。

 やがて,NHKホールの改修工事が終わり,予告通り今年の定期公演の案内がきました。再び定期会員を続けようかどうしようか迷ったのですが,Aプログラムは9月が首席指揮者となったファビオ・ルイージさん(Fabio Luisi)指揮のヴェルディ「レクイエム」,10月が御年95歳の桂冠名誉指揮者ヘルベルト・ブルムシュテッドさん(Herbert Blomstedt)のマーラー・交響曲第9番,そして,11月が今私がもっとも聴きたい指揮者である井上道義さんお得意のショスタコービッチ・交響曲第10番とあったので,この3回のコンサートにだけはぜひ行きたいと思って,奮発してS席を確保しました。

 ということで,今回,久しぶりに東京へ出かけることにしたのですが,以前のように,深夜バスで往復するなどということはもう体力的にもする気がなく,日帰りで新幹線のグリーン車をとりました。
  ・・
 コンサートは午後2時からでしたが,午前10時ころに品川駅に着いて,それまでの時間,品川のキヤノンギャラリーで開催されている「キヤノンフォトコレクション:木村伊兵衛写真展」を見るつもりでした。
 そのこともあって,前回,木村伊兵衛さんについてこのブログに書いたのですが,あいにく日曜日がお休みであることを失念していて,木村伊兵衛写真展を見ることができませんでした。そこで,急遽,別のところに行くことにして,コンサートまでの時間を潰したのですが,そのことはまた後日書きます。
  ・・
 12時過ぎまで浅草にいた私は,地下鉄銀座線で渋谷に向かいました。2年ぶりの東京でしたが,渋谷の変貌に驚きました。地下鉄銀座線の渋谷駅が以前とは完全に変わてしまっていて,こうなると,私は「田舎のネズミ」状態で,さっぱりわからなくなって,道に迷いました。
 私は,この2年の間,人の少ない地方にけっこう出かけたのですが,どこに行っても日本の退廃ぶりが目につきました。それに対して,東京はどうでしょう。どこもかも,いつも工事をして,どんどんと新しくなっていきます。政治家もマスコミも,こんな姿の東京を基準にそれが日本だと思っているようです。これでは東京以外に住んでいる人たちは浮かばれません。それが今回私が東京に行ったときに感じたことでした。


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 プロのカメラマンは写真を写してそれをなりわいとしているのだから,ここで書く対象ではありません。また,趣味なんて人それぞれがそれぞれの流儀で楽しめばいいので,何だっていいので,私がとやかくいうことではありません。
 そんな話ではなく,私が書きたいのは,同じ世界でも,別の見方があるよ,というお話です。

 私は,何でもカメラの性能のせいにする写真愛好家に抵抗があります。そんなことにこだわり続けると,日々,新しい製品が出るたびにそれを買い続けなければならなくなります。
 おせっかいな話ですが,わずかしかない休日に,車よりも高いような望遠レンズをつけて,全財産をカバンに詰め込んで公園に行って野鳥を撮っていた人をこれまでにもずいぶんと見かけたのですが,カメラがミラーレス一眼に代わって,カメラのマウントも変わった今,それまで使っていた機材を今どうしているのだろう,と心配してしまいます。すべて二束三文で売りはらって,また新たに機材を購入したのでしょうか?

 私が若いころに雑誌「アサヒカメラ」に毎月スナップ写真を連載していた名人・木村伊兵衛さんは,ライカと単焦点レンズをつけて,自分で露出を決め焦点を合わせ,いつ写したかわからないほどそっと1枚だけシャッターを切って傑作をものにしていたといいます。
 それは,1キログラム以上もある巨大なカメラに大きなズームレンズをつけて,1秒に何コマも連射して,焦点も露出も,さらには構図もカメラ任せ。そんな作業から,やれこのカメラは自動焦点が遅いだとか,露出が甘いだとか難癖をつけ,そうして写した何千枚ともなる写真からうまく写ったものを選び出す,というものとは真逆な世界です。
 結局,そんなものだったら,写真を写しているというより,札束が空を舞っているのと同じようなこと。つまり,写真を写す愉しみというより,メカをいじっては難癖つけていることが楽しい,ということになるのではないかと思ってしまいます。

 今は,売れなくなって,カメラ雑誌のほとんどは廃刊に追い込まれたけれど,今も残るわずかな月刊誌の記事では,毎月,相も変わらず,数社のカメラをずらりと並べて,やれ,どのカメラがもっとも味のよい写真が写せるだの,焦点が最も合うだの,といった記事を,懲りもせず掲載しています。かつて,同じような趣味だったオーディオは,すでに,ほんのわずかな愛好家だけのものとなりましたが,カメラも同じ道をたどっているようです。
 私が不思議に思うのは,多くの人が,いまや,カメラからスマホに持ち替えてしまい,それで十分に満ち足りた写真を写しているのに,カメラ雑誌には,スマホを並べて,どのスマホの写真が一番うまく写せるだの,焦点が合うだのといった記事がないのだろう,ということです。つまり,写した写真の価値は,カメラ雑誌が掲載しているようなスペックとは関係がないというとです。
 
 そんなわけで,写真の楽しみ方はさまざまだけれど,私は,かつて木村伊兵衛さんがやっていたように,小さなカメラを1台肩にかけて,そっとシャッターを切って写真を楽しむ,というのが,もっとも粋な姿なのではないかと今も思っているということです。

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 NHKBS1のMLB中継を見ながら,放送している都市の思い出を書いていますが,今回はテキサス州ヒューストンです。
 私がヒューストンに行ったのは2003年だから,もう20年近く昔のことになります。早いものです。ヒューストンといえばアポロ計画で宇宙船と交信を行った基地があることで,我々世代はなじみがある地名です。当然,ここにはNASAがあって,私も見学しました。また,テキサスはステーキのおいしい町。ということで,今最も記憶に残っているのは,ここで巨大なステーキを食べたことです。
 あるレストランの前で,私はこの店に入ろうかどうか考えていました。そこに,今,その店から出てきた男の人が,ここはおいしいぞ,今から紹介してやる,と言って,再び店に入って,私を紹介したのです。こうなれば入るしかないのですが。
 確かに巨大なステーキは美味でした。きっと今ならすごく高いと思うのでしょうが,そのころは日本よりアメリカの方がずっと物価が安く,そんなことは思いませんでした。

 さて,テキサスには,ヒューストン・アストロズとテキサス・レンジャーズというふたつのチームがあります。この旅で,私はそのふたつのチームのスタジアムに足を運び,ともに見ることができました。その中で,今日はヒューストン・アストロズのお話です。
  ・・
 テキサスは暑いことと虫が多いことで,屋外でのゲームには向いていません。私が行ったころは,テキサス・レンジャーズは屋外のスタジアムでゲームをしていましたが,さすがに不評で,現在は屋根つきのスタジアムに移転したようです。
 ヒューストン・アストロズのほうは,当初から屋根つきのスタジアムでした。
 現在は2代目のミニッツメイドパーク(Minute Maid Park)ですが,はじめは,1965年に建設された世界初の屋根つき「アストロドーム」をホームとしていました。
 子供のころ,アメリカでは野球場にも屋根があると聞いて,アメリカはすごい,と思った反面,フライが天井にぶつかるのではないのかな,と心配したことがあります。アストロドームは,当時ヒューストン・アストロズのオーナーだったロイ・ホフハインツ(Roy Hofheinz)は,古代の地中海世界にあった7つの驚異的建造物を指す「世界7不思議」を意識して「世界8番目の不思議」と形容するほど画期的なものでしたが,実際は,球場所有者のハリス郡に支払う高額の使用料が「世界9番目の不思議」と揶揄されたそうです。
 屋根の高さは,ベーブ・ルースが打ったとされる史上もっとも高いフライより高い208フィート,約63.4メートルになったそうです。しかし,天然芝が育たず,人工芝を世界ではじめて使用しました。さすがに老朽化には勝てず,また,天然芝屋外型球場への回帰が進んでいたことで,1999年のシーズンを最後として新しく作られた開閉式屋根を備え天然芝のミニッツメイドパークへ移転しました。

 ミニッツメイドパークは比較的小さくて,しかも屋根が閉まっていると反響が大きくて,その盛り上がりがすごいものでした。
 私が行ったのは,移転後3年目のことで,そのころは,タルの丘(Tal's Hill)といって,センターフェンス手前に傾斜30度の坂がありました。名前の由来は球団社長を務めたタル・スミスからきていました。この丘にはフラッグ・ポールが立っていたのですが,これではまるで草野球。インフィールドにこんなものがあっては危なくて,選手には不評でした。カルロス・ベルトラン(Carlos Ivan Beltrán)がFAになった際に「これを取り除かないとアストロズとは契約しない」と発言したといいます。ついに,2016年のシーズン後に撤去されました。
 また,ボールパークが駅の跡地であることにちなんで,外野左中間上方27.4メートルのところに蒸気機関車があって,ヒューストン・アストロズの選手がホームランを打ったときには汽笛を鳴らしながら約243.8メートルの線路を走ります。私も走るのを見ました。走り終わったらしずしずともとの位置にバックします。さらに,左中間に突き出たバルコニー風の立ち見エリアにはガソリンポンプがあって,ヒューストン・アストロズの選手が開場以来このスタジアムで放ったホームランの合計が表示されています。
 私が見たゲームは終了後も観客が席を立たないのでどうしてかと聞くと花火のショーがあるということでした。花火は日本とは違ってグランドに設置されたコンピュータ制御の無人の打ち上げ機から次々と発射されました。これにも驚きましたが,私が巨大な室内で花火を見たのは,このときだけでした。

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Harvest Moon 2022.

薄い雲が趣を添えました。
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 前回書いたように,マウナケアに憧れてはじめてハワイ島に行ったころは,まだ,南半球の星空は知らなかったので,ハワイが最も星見に適したところだと思っていました。
 ハワイ島もよかったけれど,観光客が星見をするには場所の少なく人も多かったので,もっと星見に適したところがないかと調べていて,マウイ島にハレアカラという夢のような場所を見つけました。そこでハワイ島に行った翌年に行ってみることにしました。
 ハレアカラはマウナケアとは違って,山頂まで舗装されていて,きわめて楽に登ることができました。日が暮れるとほとんどの人は下山するので,人もいなくなります。おそらくハワイの中で,一般人が星見をするのに最も適な場所ですが,何せ,ここは異国,ひとりで深夜の山の上で星見をするにはちょっと二の足を踏みます。ということで,私は,いいところだなあと思っても,1,2時間程度,満天の星を楽しんだだけでした。しかし,その数年後に再び行ったマウイ島でハレアカラのふもとの町クラに泊まったときにゲストハウスのベランダから見た星もすばらしいものでした。つまり,ふもとの町でも,十分に星を見ることができます。

 さて,今回は天文台の話です。
 このハレアカラにも天文台群があります。しかし,ここは完全に一般とは遮断されていて見学はできないので,遠くからドームを眺めるだけなのが残念ですが,いかにも研究施設という感じがします。前回書いたハワイ島のマウナケアより標高が1,000メートルほど低いのが難点ということですが,それでも富士山程度。何の何の,ここは最高のコンディションでしょう。
 ハレアカラにある施設を調べてみました。ウェブページから引用します。
  ・・・・・・
 驚くほどの透明度,乾燥した空気,そして静けさと,限られた光害のため,ハレアカラの頂上は世界で最も有数の天体観測の場所です。ここでは,ハワイ大学,アメリカ空軍などが運営する天体物理学の複合施設である「ハレアカラ天文台」があって,ここで行われている研究に世界中から多くの専門家が参加しています。また,空軍が運用する望遠鏡の中には,天体ではなく人工衛星の研究に携わっているものもあります。
 天文台は一般に公開されていませんが,ハレアカラアマチュア天文学者グループが主催する公開イベントがあります。
 以下,天文台にある望遠鏡についての紹介です。
●ミーズ天文台 (Mees Observatory)
 ひとつの赤道儀に多くの機器が取り付けられている独特なものです。
● アトラス (ATLAS)
 ハワイ大学によって開発され,NASAが資金提供する小惑星衝突早期警報システムです。
 100マイル,160キロメートル離れたふたつの望遠鏡で構成されていて,毎晩空全体を自動的にスキャンして接近天体を探します。
● パンスターズ PS1 and PS2(PAN-STARRS PS1 and PS2)
  単一鏡の試作望遠鏡PS1は2007年の8月に設置されました。さらに,現在はPS2がPS1の隣のドームに建設されています。多くの彗星を発見した望遠鏡として有名です。
●LCOフォークス天文台(LCO Faulkes Observatory)
 フォークス望遠鏡はラスクンブレス天文台グローバル望遠鏡ネットワーク(LCOGTN)の教育用です。
●TLRS-4レーザー測距システム(TLRS-4 Laser Ranging System)
 ハレアカラでの初期世代のレーザー測距実験であるLUREによって生成された衛星レーザー測距(SLR)データの時系列を維持するものです。
●東北 T60 and T40(Tohoku T60 and T40)
 日本の東北大学ハレアカラ天文台は惑星の外気圏・磁気圏からの微弱な放射を継続的に監視することを目的として、2006年3月に設置されたものです。
● 黄道光天文台(Zodiacal Light Observatory)
 黄道光天文台には次のふたつの機器があります。
 0.5メートルのコロナグラフです。この望遠鏡は多くの太陽および冠状実験に使用されます。
 デイ・ナイトシーイングモニター(DNSM)は,差分画像の動きを測定します。
●高度な電気光学システム(Advanced Elwctro-Optical System = AEOS)
 3.67メートルのAEOS望遠鏡は空軍で最大かつ最先端の望遠鏡システムです。
 ハワイ大学では,この望遠鏡で高解像度の可視および赤外線分光器と分光偏光計設備機器を操作しています。
●マウイ宇宙監視サイト(Maui Space Surveillance Site = MSSS)
 マウイ宇宙監視サイトは,アメリカ空軍フィリップス研究所の資産である空軍マウイ光学ステーション(Maui Optical Station = AMOS)の組織です。
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 以前,アメリカの国立公園の紹介をしたので,今回からは天文台をとりあげます。天文台はアメリカに限らず,日本もオーストラリアも見学したところがあるので,順に紹介していくことにします。
 星に興味のない人に天文台を見学に行くというと,星を見にいくと思う人が多く,望遠鏡を見にいくというと,そのどこがおもしろいのかと聞かれるのですが,それも当然です。それは,車に興味のある人がクラシックカーの博物館に行くのと同じようなものでしょうか。
 とはいえ,どんな望遠鏡でも見たいわけではなく,子供のころに図鑑で見たものを中心として,そのころに憧れた,いったいどんな山奥にあるのだろう,とか,どんなに大きいのだろう,とかそういった好奇心からくるものです。
  ・・
 私がそうした興味をもつようになった原点の本が3冊あります。
 1冊目は学研から発行された「原色現代科学大辞典」の第1巻「宇宙」に載っていた世界中の天文台,2冊目はこのブログにもたびたび登場する「月刊天文ガイド別冊・日本の天文台」,そして,3冊目は出口修至さんの書いた「アメリカ天文紀行・ふたたびキットピークへ」です。
 こうした本に書かれてあった天文台に一度でいいから行ってみたいものだとずっと思っていたわけです。

 では,はじめます。
 話は矛盾しますが,上記にあげた本にはかかれていないハワイ島マウナケアの天文台から,まずは紹介します。
 私は,ハワイというのは日本人観光客ばかり,という先入観から,あまり気が進みませんでした。それでも行ったのは,アメリカ合衆国50州制覇の目的を達成するためだったのですが,せっかく行くならということで目指したのがオアフ島ではなくハワイ島でした。それはハワイ島にはすばる望遠鏡をはじめとする多くの天文台がマウナケアの山頂にあるからでした。
  ・・
 ハワイ諸島の中で一般の人が行くことができるのは6島ですが,そのうち最も東側のある大きな島がハワイ島です。
 この島の中央にそびえるのが標高4,200メートルのマウナケア。実際,私は,この場所にお昼間と早朝日の出前の2度行きました。マウナケアの山頂には,世界最大級の天文台が13基あります。この望遠鏡のあるあたりは,ハワイ島のどこからでも見ることができるように思われるのですが,実は,ハワイ島でも地図の①で示したワイメアからと②で示したヒロからだけ山頂の天文台のドームを見ることができるのです。

 マウナケアにある望遠鏡のひとつが,日本の誇る口径8.2メートル,世界最大級のすばる望遠鏡です。しかし,すばる望遠鏡のドームを外から見ることはできても,事前にアポイントを取らないとその内部の望遠鏡自体を見ることは簡単にはかないません。
 私も,すばる望遠鏡の本体を見ることはできなかったのですが,すばる望遠鏡のドームは,見てきました。その代わり,お昼間に行ったとき,そのお隣にあるケック望遠鏡はこの目で見ることができましたし,ビジターセンターにも行くことができました。明け方に行ったときは,マウナケアの山頂にある多くの望遠鏡が,ゴーゴーと音を立てて観測をしている姿に感動しました。また,雲海から昇る朝日の美しかったこと。
  ・・
 すばる望遠鏡の最大の発見は「すばるディープフィールド」といって,くじら座のあたり,何もなさそうな場所を写したときに見つかった銀河団です。この銀河団は距離が100億光年,約90,00,000,000,000,000,000,000キロメートル(900垓キロメートル)の向こうです。宇宙の年齢は138億年といいますから,宇宙ができてわずか38億年経ったときの姿を見ているということになります。

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 「会議は踊る」(Der Kongreß tanzt)は,1814年のウィーン会議を時代背景にした1931年のオペレッタ映画です。題名は,オーストリアのリーニュ侯爵シャルル・ジョセフ(Charles-Joseph Lamoral Francois Alexis de Ligne)のことばといわれる「会議は踊る,されど進まず」(Le congrès danse beaucoup, mais il ne marche pas.)からきているもので,長引く会議の隙を縫ったロシア皇帝・アレクサンドル1世(Aleksandr I)とウィーンの街娘・手袋店の売り子クリステルとの夢のような逢瀬を描いています。
  ・・・・・・
 1814年,ウィーンでは欧州の首脳が集まり重大な会議が開かれようとしていました。クリステルは,パレード中に花束を投げロシア皇帝アレクサンダーに直撃させてしまいます。兵士に捕まったクリステルはアレクサンドル1世の口添えで助かり,ふたりは互いに惹かれ合うようになります。自分の思惑通り会議を進めたいオーストリア宰相メッテルニヒ(Klemens Wenzel Lothar Nepomuk von Metternich-Winneburg zu Beilstein)は,クリステルを利用してアレクサンドル1世を排除しようと目論むのですが…。
  ・・・・・・

 ウィーン会議は,1814年から1815年にかけて,オーストリアの首都ウィーンのシェーンブルン宮殿(Schloss Schönbrunn)で開催された国際会議です。会議の主催国であるオーストリアは,参加国の代表同士の親睦を深めて会議をスムーズに進めようと,舞踏会や宴会を開きました。しかし,舞踏会が大盛り上がりをみせる一方で,本来の主旨である「話し合い」はまったく進みませんでした。
 このような状態を揶揄して,ウィーン会議は「会議は踊る,されど進まず」ということばで表現されたのです。ウィーン会議の参加国間には領土問題など,簡単には解決が難しく,かつ激しい利害の対立が存在しました。そのため、オーストリアは国同士の関係性をよりよいものにしようと工夫を凝らしましたが,このような強い対立関係にある「ステークホルダー」(利害関係)の間では,親睦を深めることが必ずしもスムーズな会議運営には直結しなかったのです。
 しかし,1815年3月にナポレオンがエルバ島を脱出したとの報が入ると,危機感を抱いた各国の間で妥協が成立し,1815年6月9日にウィーン議定書が締結されました。
 このウィーン議定書により出現したヨーロッパにおける国際秩序が「ウィーン体制」です。

 私は高校で世界史を習わなかったので,ウィーン会議を知りませんでした。
 はじめてウィーンに行ったとき,シェーンブルン宮殿の現地ツアーに参加しましたが,そこで一緒になった人が,シェーンブルン宮殿に入ったときに思わず言ったことばが,「ここが「会議は踊る」の場所なのか」ということでした。私はそれを聞いて,なんじゃそれは? と思ったと同時に,負けた,とも思いました。
 帰国して世界史をはじめて勉強してみて,ああ,こういうことだったのか,と納得しましたが,このように,同じ場所に行っても,その場所についての歴史を知っているか知らないかで,ずいぶんと感動が違うのです。
 それは,どこに行っても同じことです。たとえば,奈良県明日香村の小さな飛鳥川のほとりを歩いていても,また,ウィーン郊外のハイリゲンシュタットの小川に沿った散策道をたどっていても,飛鳥川を詠った万葉集を知っているかどうか,ハイリゲンシュタットの散策道はかつてベートーヴェンが散歩をしたところでこの小川こそが交響曲第6番「田園」を作曲したときにインスピレーションを受けた場所だと知っているかどうか,で,ずいぶんと感動が異なるのです。
  ・・・・・・
 明日香川 明日文将渡 石走 遠心者 不思鴨
 明日香川 明日も渡らむ 石橋の 遠き心は 思ほえぬかも
 明日香川を明日は渡って逢いに行きましょう 私の心はずっとあなたのことを思っていますよ
   「万葉集」巻11・2701 詠み人知らず
  ・・・・・・
 そんなわけで,世界史や美術や音楽を知らずしてウィーンを訪れても,おそらく,それを知っている人の感動のそのほとんどは味わえないのです。

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 昨年2021年12月11日の朝日新聞読書欄で紹介された道尾秀介さんの小説「N」。大矢博子さんの文章から,はじめの部分を引用します。
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 連作短編集,という形式の小説がある。収録された短編の登場人物や舞台などが共通しており,通して読むと長編になるものをいう。各編の中に終盤へ向けての布石や伏線が仕込まれるので収録順に読むのが前提だ。
 ところがその前提を大きく覆す作品が登場した。道尾秀介の「N」である。なんと,収録された6章をどの順序で読んでも長編になる-しかも順序によって物語が〈変わる〉というのだから驚くまいことか。
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 この文章を読んで,興味をもたない人があるのだろうか? 私もそれ以来ずっと気になっていたのですが,やっと読むことができました。
 6章の小説は, まず,冒頭部分だけが掲載されていて,興味をもったものから読むことができるという趣向です。それらの小説は,無関係に思われるのですが,それが少しずつリンクしていて,どれから読むかによって印象がまったく違うというのです。
 凝ったことに,紙の書籍は1章ごとに天地が逆に製本されています。

 ということで,この小説は,多くの人が興味を示したようで,ウェブ上にもたくさんの感想が載っていました。しかし,どうしてでしょうか。そのどれも,およそ同じような表向きの紹介文が書かれてあるだけで,細かな分析や解説は,ネタバレであろうとなかろうと,皆目,そうした類のものが見当たらないのです。
 私も,納得のいかないところは読み返してみたり,何度もページを戻したりして,苦労して読んだのですが,ここで細かく分析できるほどの理解ができませんでした。おそらく,作者はかなり手が込んだたくらみや意図があるのでしょうが,難解すぎて,また,複雑すぎて,それを味わえない私を情けなく思いました。また,自分の理解不足を棚に上げて書くことではないのでしょうが,それぞれの小説が,少し書き方が荒いというかわかりにくいので,戸惑ってばかりでした。こうした趣向があるからこそ,どの章から読んでも話がつながるわけですが,別の章を読んだときに出てきたはずの伏線を私は忘れてしまっているのです。
 しかし,一度読んでしまった後で,再びじっくりと読んでみたとしても,あるいは,今度は,別の順番で読んでみたとしても,それでは,すでに他の話を知ってしまっているから,作者の狙いは果たせなのです。
 ということで,正直言って,残念ながら,私には,宣伝文句ほどのものは味わえませんでした。
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 むしろ,こういう趣向で書こうとするのなら,ひとつの事件を,それに携わった人それぞれの立場で別の小説として書いていく,というようなもののほうがずっとおもしろかったのに,と思ったことでした。

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 こうして,私は,信州への小旅行を終えて自宅に戻ってきました。さて,これからどうしよう?
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 2020年のころは,コロナ禍が落ちついたらインバウンドが再びはじまる前に日本一周旅行をしようと思っていました。しかし,2年前,Go To Travel 政策で,コロナ禍が落ち着く以前にすでに旅が再開されはじめるという現実を知って以来,私の思っていたことは所詮夢だとわかりました。投資と同じように,世間はせっかちだったのです。
 それでも,今はまだ,インバウンドは起きていないし,地域割りなどで場所を選べば安価に旅ができるので,とてもいい時期です。
 私は,もともと人混みは嫌いだし,人の少ないところにしか行かないし,飛行機の利用以外はほぼ車だし,ということで,世間の諸事情とはあまり関係ありません。また,後日書くことになると思いますが,この秋から月に1回程度東京へ行くことを予定しているのですが,このときに使う新幹線はグリーン車と決めています。

 コロナ禍であろうとなかろうと,海外旅行での出国や入国が楽になろうとそうでなかろうと,そんなこととは別に,異常な円安で海外での滞在費と飛行機の燃料代が高くなってしまったことと,ウクライナ情勢のためにシベリア上空を飛行できなくなったことでヨーロッパに行くのに倍近い時間がかかることで,当分は海外に行くことができません。それに,ぜひ行きたいと長年思っていたところは,すべて行きつくしました。
 そこで,しばらくは日本を旅することに決めました。これまでにも,国内の旅はこころでするものだと書いているように,私にとって,ほとんどの名所・旧跡は,とりあえず一度見ておけばそれで十分で,日本国内で,落ち着いて楽しい時間を過ごせるのは,なるべく人の少ないところしかないと確信しました。そんなわけで,今は,Google Maps からそうした名もなき場所の小さな温泉宿を探してはそこに行こうと思いを巡らすのが最も楽しい時間なのです。
 狙っているのは,北海道は別格として,東北,紀伊半島,四国,そして,佐渡,石垣島のような離島です。ただし,日本は,夏はどこへ行っても暑いこと,秋は台風の心配があること,冬は雪,そして,春は黄砂と,なかかなよい季節がないのが最大の欠点です。幸い私は晴れ男なので,これまでどこに行っても天気に恵まれたのでよかったのですが,天気が悪いと楽しさが半減してしまいます。
 まあ,当分,そんなことを考えながら,少しでも楽しい旅ができるようにいろんな計画を立てているのです。


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 打ち上げの中継を楽しみにしていた,アメリカ航空宇宙局(NASA)の宇宙船「オリオン」を搭載した新型ロケット「SLS」(Space Launch System)の打ち上げが,燃料漏れによって延期されているようです。早く修理が終わるといいのですが。
 今回の打ち上げは,人類を再び月面着陸させる「アルテミス計画」(Artemis Program)のはじまりを告げるものです。50年以上前に人類を月に送った「アポロ計画」とは雲泥の差で,計画も複雑化し,多くの国や機関が参加し,また,頻繁に予定が見直されるので,私は,なかなか計画の全貌がわかりません。そこで,調べてみることにしました。

 「アルテミス計画」は,当初の計画では,2024年までに「最初の女性と次に男性を」月面の南極付近に着陸させ,2028年までに月面基地の建設を開始するというNASAのプロジェクトですが,すでに2年以上の遅れが生じています。
 2004年,当時のブッシュ大統領は,2020年までに有人月面ミッション「コンステレーション計画」(Constellation Program)を実施する方針を示しましたが,オバマ政権で失速しました。
 2017年,トランプ大統領が宇宙政策指令第1号に署名し,有人月面探査とそれに続く火星探査の実施を決定しました。これが現在の「アルテミス計画」です。アルテミスという名前は,ギリシャ神話に登場する月の女神でアポロの双子です。
 「アルテミス計画」は,単一的な着陸ではなく,人類が月面に滞在するのに必要な環境やシステムを整えて持続的な探査と,将来の火星へのアクセスのハードルを下げることが目的とされていて,国際協力の上で実行されます。

 早期の「アルテミス計画」は3つのミッションからなります。
●「アルテミスⅠ」
 新型ロケット「SLS」と宇宙船「オリオン」を地球から月まで往来させる無人飛行試験を実施します。これが今回のものです。このミッションでは,最大42日間の想定で,13のキューブサットを放出します。
●「アルテミスⅡ」
 新型ロケット「SLS」と宇宙船「オリオン」を使用した有人飛行試験を実施します。4人のミッションクルーが乗った宇宙船「オリオン」は,地球を周回する軌道上で様々なテストを行ってから自由帰還軌道に投入され,月を周回した後に地球に帰還する予定です。
 打ち上げは2024年の予定で,ミッションは10日間の想定です。
●「アルテミスⅢ」
 2025年以降に予定されているこのミッションで,有人月面着陸を行うことになります。
 ミッションに先立って,有人着陸システム(Human Landing System = HLS)を軌道に投入する支援ミッションが行われます。この支援ミッションの後,月面に降り立つ初の女性と有色人種の宇宙飛行士を含む4人のクルーをのせたオリオン宇宙船が月に送られ,有人着陸システムとドッキング。その後,ふたりのクルーが有人着陸システムに移動し,降下して月の南極付近に着陸します。
 着陸クルーは6.5日間を月面上で過ごし,少なくとも2回の船外活動を行います。その後,月面から離陸して,月の周回軌道で待機しているオリオン宇宙船とドッキングし,地球に帰還することになります。

 ところで,国際宇宙ステーション(ISS)の運用が2030年まで延長されたのですが,ウクライナ情勢などの影響で,ロシアが2024年でそのプロジェクトから脱退すると宣言したようです。
 そこで,今後の運用にさまざまな問題が出てくることが予想されています。
 さまざまな問題とは,ロシアが撤退した場合,これまでロシアが担当してきた国際宇宙ステーションの地上落下を防ぐための軌道制御どうやって肩代わりするか,また,スペースシャトルの退役後,ロシアのソユーズを使用して宇宙飛行士を国際宇宙ステーションに送ってきたのですが,これを運用がはじまったばかりのスペースX社(Space Exploration Technologies Corp.)が開発したファルコン9ロケットに搭載されたクルードラゴン宇宙船が肩代わりする必要があるのですが,クルードラゴンの運用はまだはじまったばかりだというようなことです。

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 先日,このブログに「「やり足りない」はすてきなこと」と題して書いたように,私は,これまで,どこかに出かけると,要領よく,その土地の見どころをすべて網羅して見学してしまっていたのですが,こんなことをしていると,リピートをしたときに行くところがなくなってしまうという欠点があることを,このごろ身にしみるようになりました。旅以外でも,思っていたことをやり遂げてしまうと,もはややることがなくなり,その結果,暇になってしまったり,飽きてしまったり,はたまた,時間つぶしのためにやらなくてもいいことに手を出すという愚を繰り返していたことを思い知るようになりました。そこで,このごろは,何事も万事「適当」に,かつ,ほどほどにしたほうが「その次」があると悟りました。
 と,ここまで書いていて,「適当」ということばで我にかえりました。
 今日の話題は「適当」ということばについてです,実は,私は,「適当」ということばの意味をずっとよくわかっていなかったのです。

 ネット上の辞書にはつぎのようにありました。
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 適当とは,ほどよいことや,条件や目的にうまく当てはまること,いい加減であるさまのことである。適当の「適」はぴったり当てはまる,ふさわしいという意味である。また,「当」はあてはまる,あてはめるという意味である。英語では suitable と表わすことが多い。適切に,十分になどの意味がある adequately と表すこともある。
  ・・・・・・
 さらに調べてみました。
 私の「尊敬する」岩波の国語辞典には,「①ちょうどよく合うこと②いい加減」のふたつの意味が載っていました。また,「新解さん」として有名な三省堂の新明解国語辞典には,「①いま求められている条件・目的に合致すると思われる様子②一応つじつまが合うようにして当面の事態を収拾する様子」とありました。
 岩波の国語辞典の②にあった「いい加減」というのは,よく考えてみると,「【いい】加減」と「いい【加減】」,つまり,【いい】を強調するのと【加減】を強調するのとでは,ニュアンスがまったく違うように思います。岩波の国語辞典に載っていた②の意味は,「いい【加減】」のほうで,これは三省堂の新明解国語辞典の②と同じです。また,「【いい】加減」ならば,岩波の国語辞典に載っていた①の意味であり,三省堂の新明解国語辞典でも①が当てはまるように思います。
 要するに,「適当」というのは,①suitable②adequately のふたつの意味があるということですが,私がずっと思っていた「適当」は,②のほう,つまり,「いい【加減】」のほうの意味で,それは,たとえば,「まあ,適当にやっておけばいいよ」みたいな感じで使うものでした。

 ところで,数学では,よく,「適当な数字を代入して」と書かれてあります。これは,「いい【加減】」に数字を代入するということではなく,「【いい】加減」,つまり,適切(と思われる)数字を代入するということなのです。まさに岩波の国語辞典や三省堂の新明解国語辞典の①の意味としての使い方です。であるのに,そんなことも知らずに,私は,長年,ずっと「いい【加減】」の意味だと思っていたのですが,ある日,突然,自分の思っていた意味がまったく違っていたということに気づいて,本当に驚きました。つまり,数学での「適当な数字を代入して」というのは,最も適するであろうと思う数字を代入して,ということだったのです。
 そんなわけで,このごろ,特に小さなころに覚えたことばの中には,意味を取り違えて,思わぬ勘違いをしているものが少なくないのかもしれないなあ,と思うようになりました。それは,たとえば,「気の置けない人」のようなものもそうです。こんなとき,それを話した相手が正しい意味を知らず,自分とはまったく異なる意味に捉えて,思わぬ誤解を生む,ということもなきにしも非ずです。とはいっても,たとえ相手が間違った意味に捉えていても,そんなことはわかりません。
 ことばはコミュニケーションの手段なのだから,誤解を生むようなことばは使わないに越したことはありません。その反対に,これを逆用して,詭弁を弄して,やたらと回りくどく話を逸らしたり勝手な解釈をして,それこそ「適当」に言い逃れるをするというのが,頭のおよろしいエライ方々の作戦だったりします。
 とかく,ことばは難しものです。 

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山形市からやってきたふるさと納税の返礼品。
巨大なアールスメロンです。
熟したので食しました。
おいしかった。

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 1泊2日の旅。
 1日目は,上田,小諸と観光して,宿泊先であるいつもの木曽駒高原へ行って,ゲストハウスで楽しい夕食と朝食をとりました。残念だったのは晴れなかったことで,星空をほとんど見ることができませんでした。
 さて,2日目は,木曽谷でなく伊那谷を通って帰ることにしていました。これまで,伊那谷を通る中央高速道路は何度も走ったことがあるのですが,走っただけで,伊那谷はほとんど知りませんでした。一度は,と思っていても,その機会がこれまでなく,そろそろ,本当に,一度は,というのを今実現しないともう行くこともないと思うようになったので,今回は,伊那谷を通る一般道である国道153号線を走ることにしたのです。

 昨日のように,朝,木曽駒高原から国道19号線を少し北上して右折,木曾山脈を貫く国道361号線を多くのトンネルをくぐりながら越して,伊那谷に行きました。そして,国道153号線に出て,南に走っていきます。
 高遠,駒ケ根,松川,飯田までは中央高速道路のインターチェンジにその名があるので親しみのある地名ですが,その南の阿智村,平谷村,根羽村,売木村あたりのことがわかりません。
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 私の持っているガイドブック「信州」にも載っていません。このあたりも確かに長野県なので すが,ガイドブックはこの場所を信州と認めていないようです。
 また,昔,愛知県の三河地方の山の中に星がきれいなところがないかと探したことがあったのですが,そのとき,東栄町,茶臼山といったあたりまでは行っても,その北側まで行くことはありませんでした。
 また,近ごろは,阿智村が「星空日本一」といって売り出しているのですが,私は,そうした一般向けの観光地に行く気はないのです。

 伊那谷は木曽谷とは違って,飯田市までは日本離れした,というか北海道のような,というか,そうした高原ムード満載のところだったのですが,やがて飯田市の市街地に到着すると,思った以上の都会で,道路も広く,車も多く,私は,げんなりしました。私がめざしているのは,こんな場所ではないのです。
 国道153号線はのろのろと車の多い飯田の市街地を越えると,急に山が深くなりました。そうして走っていくと,やがて,阿智村に着きました。阿智村もまた,思ったより家が多く,ここが本当に星空がきれいなところなのかなあ,と思いました。阿智村の街中を越えて再び山の中に入ると,治部坂高原スキー場がありました。どうやらここが「星空日本一」の場所らしいのですが,今年の夏のように,ほとんど晴れないようでは開店休業といったことろでしょう。
 ニュージーランドのテカポ湖とは違い,あまりに天気の悪い日本では星空を観光資源にしても,なかなか根づかないことでしょう,私のまわりにも阿智村に星を見にいったという人は少なくないのですが,晴れていて星空を堪能した,という人はほとんどいません。

 私の密かな目的地は売木村でした。それは,この村が山村留学の場所として知っていたことと,この村こそ星がきれいだと聞いていたので,昔から気になっていたからです。しかし,売木村は国道153号線沿いにはないので,平谷村で左折して,さらに国道418号線を進むことになりました。
 国道418号線のくねくね道を越えると,やがて売木村が見えてきました。
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 売木村は信州最南端の村のひとつで,愛知県最高峰の茶臼山北麓に位置します。4つの峠に囲まれた小さな盆地は「ふるさとの原風景」という表現がぴったりののどかさなところで,村の面積の88パーセントを森林が占め,人口は約500人の,まさにうるおう木の村です。
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 というのがこの村のアピールですが,私は,この村,とても気に入りました。まさに,私が探していた日本の原風景でした。
 一応,ここも長野県なので,朝,木曽駒のゲストハウスでもらった2,000円分の県民割のお土産券を使って,道の駅で昼食をとることができました。もし私がもっと若かったら,この村の移住・定住促進にのっかって住んでみたいほどのところでした。温泉や宿泊施設がいくつかあるようなので,そのうち,ぜひ,この村に滞在してみようと考えています。私は,観光地よりも,今は,こうしたところに魅力を感じるのです。

 すっかり売木村に魅入られましたがそろそろお別れです。
 売木村から,さらに,国道153号線を通り,愛知県に入って,稲武町を経由して帰宅しました。
 稲武町の道の駅には多くの観光客や車が停まっていて,夢から醒めました。
 伊那谷には,飯田から南に国道152号線,さらに,南アルプスの西側山麓を走る国道151号線があるので,次回はぜひ,それらの道を走ってみようと思います。
 コロナ禍でも起きなかったら,おそらくこの夏も海外のどこかに行っていて,こんなところを走ることはなかったことでしょう。これもまた,まさに塞翁が馬です。どこへ行っても,旅はいいものです。

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 上田を出て小諸に向かうとき,ちょうどお昼になりました。
 信州でお昼といえば定番はおそはでしょう。ということで,手ごろで,おいしそうで,かつ,空いているおそば屋さんを探しながら走っていくと,小諸に着いてしまいました。
 懐古園の駐車場のわきにおいしそうなおそば屋さんがあったので,迷わず入りました。前回,安曇野に行ったときは,ワサビ園の中にもおそば屋さんがあったのですがとても混雑していて,私は,その前に空いていたおそば屋に入ったのが正解でした。
 後で知ったことには,懐古園の中にもおそば屋さんがあって,そちらのほうが空いていたので,今回はその反対になってしまいました。おそばはおいしかったのですが,おそば屋やさんはごった返していて,それだけが残念でした。
 私は,コロナ禍とは一切関係なく,常に,混雑するところは嫌いです。どんなにおいしかろうと,並んでまでして食べる気にはなりません。

 懐古園の駐車場もまた混雑していました。なにせ,この日は夏休みでもあり日曜日でもありました。
 すでにこの時点で嫌になったのですが,何と意外ななことに,懐古園の中は空いていました。一体,あの,ごった返していた観光客はどこに行ってしまったのでしょう。不思議な話でした。
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 小諸城は1487年(長享元年)に大井光忠によって築城されました。戦国時代は武田信玄の東信州経営のための縄張りとされ,現在残っている城跡の元になったのは,武田信玄の軍師であった山本勘助の縄張りだと言い伝えられています,
 安土桃山時代から江戸時代にかけて近世城郭に改修され,現在のような構えとなったのは仙石秀久の改修によるものです。
 明治維新後,城跡は,1880年(明治13年)に旧小諸藩士らが払い下げを受けて取得し,1926年(大正15年)に,当時の小諸町が園地の拡張を行い,史跡の自然景観を活用した公園としました。
 現在は市営公園小諸城址懐古園として整備,公開されています。園内には小山敬三美術館,小諸市立郷土博物館,藤村記念館などがあります。また,懐古園の入口は旧三の門を利用していて,徳川家16代徳川家達の筆による「懐古園」の扁額が掲げられています。
 懐古園の敷地の多くは宗教法人の懐古園保存会が小諸市に賃貸することで賃借料を得ていることで,このことが,宗教上の問題となっている,という指摘があるそうです。
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 私は,岡山の後楽園のようなところを思い浮かべていたのですが,懐古園は私が想像していたような感じとは少し違いました。
 懐古園はコスプレが流行っているみたいで,ウェブページや twitter にもそれが奨励されているかのような記述があります。この日もまた,入口によくわからないコスプレの人たちがいました。博物館,美術館,藤村記念館といった施設とはちょっと異なる趣で,何をターゲットにしているのかよくわかない話だと思いました。
 私は,落ち着いた場所を望んでいたのですが,懐古園自体は静かで,人も少なかったので,その点はとてもよかったです。しかし,猛暑で,これには参りました。
 一休みして何か飲み物でもと園内を歩いていて,私が見つけたのが,さびれた茶店でした。そこにあったのはかき氷。このお店のかき氷は昔懐かしい手動の氷かき器で作られるもので,これには感動しました。私が注文したのは宇治金時。お皿の底にはおいしい小豆が詰まっていました。
 インバウンドの去った今こそ,日本らしい日本を静かに味わう旅をするチャンスです。今は静かな懐古園も,おそらく数年前なら,海外からの観光客でごった返していたことでしょう。

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 朝日新聞の朝刊に連載していた多和田葉子の小説「白鶴亮翅」がよくわからないまま終わり,今村翔吾さんの小説「人よ,花よ,」がはじまりました。
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 「人よ,花よ,」は南北朝時代の武将・楠木正成の長男・楠木正行を主人公に,若者たちの生き様を描く歴史小説です。
 湊川の戦いで討ち死にした楠木正成と,四條畷の戦いに挑んだ楠木正行は,ともに大軍を相手に最期を迎えました。「楠木正成は自分の意思で戦に身を投じたけれど,楠木正行は幼いときから戦の渦中にいて,ある程度は自分の未来や人生が決定づけられていた」といいます。この小説では,できるかぎり楠木正行の気持ちをひもといて,葛藤も含めて描いてみたい。
  ・・・・・・
といった紹介がありました。

 歴史小説は,その時代のことを知らないとわからないので,ここで復習をしてみました。
  ・・
 1333年(元弘3年),鎌倉幕府が滅亡し,1334年(建武元年)に,御醍醐天皇による建武の新政がはじまります。しかし,1335年(建武2年)に起きた中先代の乱を機に足利尊氏が新政権に反旗をひるがえし,その翌年,京都を制圧し,北朝の光明天皇を立てます。御醍醐天皇は南朝として吉野に逃れ,ここに南北朝の動乱がはじまります。この際,摂津国湊川で,九州から東上して来た足利尊氏・足利直義兄弟らの軍とこれを迎え撃った後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成の軍との間で行われた合戦が湊川の戦いです。
 楠木正行は生年や幼少期の実態は不明で,後村上天皇が即位した翌年の1340年(延元5年/暦応3年)から史上に現れ,南朝の河内守護として河内国を統治しました。
 1344年(興国5年/康永3年),北畠親房が吉野行宮に帰還し、准大臣として南朝運営の実権を握ると,楠木正行は,好むと好まざるとに関わらず幕府との戦いの矢面に立つことになります。1347年(正平2年/貞和3年)に兵を起こした楠木正行は,北朝・室町幕府の細川顕氏や山名時氏らの大軍を立て続けに破るなど,すべての合戦に完勝しますが,1348年(正平3年/貞和4年),四條畷の戦いにおいて,幕府の総力に近い兵を動員した高師直と戦い,北四条で力尽き,26人の将校と共に戦死しました。この後,高師直と足利直義との間の政治権力の均衡が崩れ,室町幕府最大の内部抗争である観応の擾乱が発生することになるのです。
 「人よ,花よ,」はこの時代を描こうとするもののようです。

 NHKの大河ドラマ「太平記」は,1991年(平成3年)に放送されました。鎌倉時代末期から南北朝時代の動乱期を,足利尊氏を主人公に描いた物語です。
 このころ,南北朝をテレビドラマで取り上げるのは,元寇ととももタブーとされていたので,はじめての試みとして,私は,興味をもって見ました。足利尊氏の生涯は,よくもまあ,これだけ戦いに明け暮れたものだという印象をもちましたが,それは,今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も同じです。
 ところで,「太平記」では,楠木正成を演じたのが武田鉄矢さんです。そこで,私は,楠木正成というと,武田鉄矢さんの顔が浮かんでしまうのです。「人よ,花よ,」を読んでいても,そんな感じになってしまうので,どうもいけません。また,「太平記」には楠木正行も登場したのですが,私にはまったく記憶がありません。
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 今のところはまだ,この小説ははじまったばかりですが,読みやすいので,毎日楽しみにしています。日本人は昔も今も変わらないものだなあ,というのが,これまで読んだ感想です。
 歴史小説は,作者の意図がしっかりしていないとかったるくなってしまうので,今後,どうなっていくか,といったところです。私としては,武将の姿以上に,この時代に生きた庶民の苦悩を描いてほしいものだと思っています。

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