しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

November 2022

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 これまで幾度となく断捨離と書いてはいたものの,実際は新たに何かを買わない,ということをしていたくらいのものでした。しかし,このたび,正真正銘の断捨離をすることになりました。ことの発端は引っ越しです。
 家は買うものではなく借りるもの,という思想の私ですが,38年住んでいた賃貸マンションも,私とともにガタが来ていたので,近くによい「出モノ」があったのを機会に思いつき,衝動的に引っ越すことになりました。引っ越し先は今住んでいるところから徒歩1分の分譲賃貸マンションです。
 これまで引っ越しに二の足を踏んでいたのは,ひとえに,私が長年にしてため込んできた膨大な量の本やら写真をどうするのか,ということでした。それが,突然の引っ越しの決定で,ついに,何とかしなくてはならなくなったというわけです。

 そこで悟ったのは,60歳を過ぎた今引っ越すということは最高の選択であり贅沢な決断だということでした。もう10年若かったらそうはいきませんが,この齢になると,過去への執着心も,未来への可能性もまったくなくなったので,何もかもを捨てられるということです。そこで「命以外は皆捨てる」というほどの決意で断捨離をすることにしました。
 私の生きてきた時代は,デジタル化以前だったので,たとえば,新聞のスクラップだの,写真のフィルムだのといったものが山ほど保存されて手元にあります。また,今のように個人情報が叫ばれていなかったので,名簿の類がたくさんあります。また,さまざまなものが今より豪華で,重いのです。
 そうしたものの数々が押入れの奥深く眠っていて,それらを取り出していくと,まあ,あるわあるわ,果てしなく,いろいろなものが出てきます。

 考えて見れば,アルバムなんて,本人以外は何の想い入れもないものです。たとえどこかに置きっぱなしにしておいても,だれも持っていかないでしょう。所詮,それだけのものだと気づきました,それらは,もう少し若ければ感慨深いものなのでしょうが,今や,昔の写真を見ても,そこに写っているのが自分だという認識すら薄れてしまい,また,その写真から何かを思い出そうとしても,それもほとんど記憶にないのです。
 また,CDで音楽を聴かなくても,今や,インターネット上にほぼすべてのものを探し出すことができます。また,本の類は,一度読んだきりでそれ以降手に取ったこともないものがほとんどです。そうしたものは保存しておいても,この先もまた見ることはないでしょう。

 ということで,これからは,将来だけを考えて暮らすことにして,過去はすべて捨て去るのがいいと決めました。そしてまた,この先は,何も形として残さないほうがいいとつくづく思いました。
 それにしても,長年,こうしたものを貯め込んでしまうと,引っ越しは大変です。


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 これまで鎌倉将軍について書いてきましたが,今日は執権についてまとめておきます。

●初代執権・北条時政 1203年から1205年
 初代将軍であった源頼朝の妻・北条政子の父。もともと伊豆の小土豪で,伊豆に配流されていた源頼朝を看視する任を与えられていました。
 北条政子と源頼朝が結婚したのち,源頼朝と共に平家打倒のために立ち上がり,将軍の外戚として鎌倉幕府の中で勢力を伸ばしていきました。しかし、晩年に企てた陰謀が露見。鎌倉を追放され,伊豆で生涯を閉じました。78歳。
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●2代執権・北条義時 1205年から1224年
 初代執権・北条時政の次男で、源頼朝の妻である北条政子の弟。
 源頼朝に信頼され,側近でした。源頼朝の死後,北条時政を失脚させ,1205年(元久2年)2代執権として幕府の実権を握りました。承久の乱のあと京都に六波羅探題を設置し,弟の北条時房と嫡男の北条泰時を置き,北条家の権力を盤石にする礎を築きました。
 1224年(元仁元年)死亡。62歳。毒殺とも。
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●3代執権・北条泰時 1224年から1242年
 2代執権・北条義時の子。
 1221年(承久3年)の承久の乱では,叔父・北条時房と共に幕府軍の指揮を執って後鳥羽上皇軍を打ち破り,京都に入り,そのまま六波羅探題として北条時房と京都の監視にあたりましたが,父・北条義時の急死により鎌倉に戻り,1224年(元仁元年)北条政子の後押しにより3代執権に就任。
 連署,評定衆,御成敗式目を設置し,執権政治を確立しました。
 1242年(仁治3年)死亡。60歳。
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●4代執権・北条経時 1242年から1246年
 3代執権・北条泰時の孫。
 父・北条時氏は28歳で病死したので,1242年(仁治3年)祖父の死後,19歳で執権職を引き継ぎました。評定衆を3つの組にわけ,出勤日を決めることで,訴訟の迅速化を図りました。
 1246年(寛元4年)在任期間約4年で病死。23歳。
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●5代執権・北条時頼 1246年から1256年
 4代執権・北条経時の弟。兄の病状が悪化したので 1246年(寛元4年)20歳で執権職を引き継ぎました。
 前将軍として権勢を揮っていた4代将軍・藤原頼経を京都に追放,有力な反対派を次々と制圧・追放するなど,剛腕政治家として北条家の全盛時代を築き,引付衆の設置をはじめとして善政を敷きました。
 30歳のとき疫病にかかり出家。家督はわずか6歳の子・北条時宗に,執権職は北条長時に譲りましたが,病気を克服すると,前執権として再び実権を掌握。1263年(弘長3年)亡くなりました。37歳。
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●6代執権・北条長時 1256年から1264年
 1247年(宝治元年)に六波羅探題北方を務めていた父・北条重時の跡を継ぎますが,1256年(建長8年)に5代執権・北条時頼から北条時宗が成長するまでの中継ぎとして,6代執権となりました。
 1264年(文永元年)に病気のため執権職を叔父・北条政村に譲りました。35歳の若さで逝去。
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●7代執権・北条政村 1264年から1268年
 2代執権・北条義時の五男。6代執権・北条長時の叔父。
 1264年(文永元年)60歳で北条時宗の中継ぎとして7代執権となりました。
 1268年(文永5年)に朝鮮・高麗王の使者が九州大宰府を訪れ,蒙古との緊張が高まるなか,18歳になった北条時宗と執権を交代して連署に就任し,北条時宗の補佐をします。
 1273年(文永10年)亡くなりました。69歳。
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●8代執権・北条時宗 1268年から1284年
 5代執権である北条時頼の次男。
 1268年(文永5年)に18歳で8代執権となりました。2度に亘って蒙古軍を撃退し,蒙古襲来に備えてすべての武士を支配下に置き,幕府の権限を拡大していきました。
 1284年(弘安7年)に亡くなりました。34歳。
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●9代執権・北条貞時 1284年から1301年
 北条時宗の子。
 1284年(弘安7年)父の死により14歳で執権に就任。
 北条貞時と外戚の安達泰盛は対立関係にあり,北条貞時は平頼綱と協力して、安達泰盛と一族を討伐しました(=霜月騒動)。
  北条貞時は得宗家主導の専制政治を推進するため幕政改革に乗り出しました。
 1297年(永仁5年)「永仁の徳政令」を発令。
 1301年(正安3年)に北条師時に執権職を譲り,実権を握ったまま1311年(応長元年)亡くなりました。40歳。
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●10代執権・北条師時 1301年から1311年
 8代執権・北条時宗の弟・北条宗政の息子。
 9代執権・北条貞時の子・北条高時が成人するまでの中継ぎとして、執権職を譲られましたが,実権はありませんでした。1311年(応長元年)9代執権・北条貞時が亡くなる1か月前に亡くなりました。37歳。
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●11代執権・北条宗宣 1311年から1312年
 1311年(応長元年)10代執権・北条師時の死後,9代執権・北条貞時に任命されて執権となりました。2代執権・北条義時の弟・北条時房の子孫。
 実権は長崎高綱が握っていました。
 1年後の1312年(正和元年)病死。54歳。
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●12代執権・北条煕時(ほうじょうひろとき) 1312年から1315年
 7代執権・北条政村のひ孫。11代執権・北条宗宣の死亡後執権となり約3年在任。
 長崎高綱らに対抗しつつ幕政に取り組みましたが,1315年(正和4年)病に倒れ執権を辞任。出家して死亡しました。37歳。
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●13代執権・北条基時 1315年から 1316年
 6代執権・北条長時の父・北条重時のひ孫。
 12代執権・北条煕時の死後,北条高時が14歳になるまでと期間を区切って執権に就任し,翌年,北条高時が14歳になると執権職を辞しました。
 1333年(元弘3年/正慶2年)幕府滅亡の際に新田義貞の軍勢から鎌倉を守りましたが自刃。48歳。
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●14代執権・北条高時 1316年から1326年
 9代執権・北条貞時の子。
 長崎高綱が権力を掌握していました。 田楽踊りや闘犬にうつつを抜かす酔っ払い(=うつけ)と評価されました。
 在任中に後醍醐天皇による親政が行われたり,醍醐天皇らが討幕を企てた政変(=正中の変)が起きました。
 1326年(正中3年)に出家し,執権職を北条貞顕へ譲渡。
 1333年(元弘3年/正慶2年)東勝寺にて自刃。30歳。
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●15代執権・北条貞顕 1326年から
 3代執権・北条泰時,7代執権・北条政村の弟・北条実泰の子孫。
 1326年(正中3年)出家した北条高時のあと15代執権に就任。
 北条高時の母や北条高時の弟・北条泰家の反対で,すぐに執権職を辞して出家したので,在任期間はわずか10日間でした。
 1333年(元弘3年/正慶2年)東勝寺にて自刃。56歳。
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●16代執権・北条守時 1326年から1333年
 6代執権・北条長時から直系のひ孫。
 1327年(嘉暦2年)15代執権・北条貞顕の辞職後に執権に就任。
 北条守時の妹は足利高氏の正室。
 後醍醐天皇討伐に向かった足利高氏は,一転して幕府に対し謀反を起こします。北条守時は激戦を繰り広げましたが最期は自刃して果てました。38歳。
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●17代執権・北条貞将 1333年
 15代執権・北条貞顕の子。
 「太平記」によると鎌倉幕府最後の執権でしたが,事実は定かではありません。
 1333年(元弘3年/正慶2年)新田義貞の軍勢に敗れ死亡。31歳。


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前回の続きです。

●7代将軍・惟康親王(1266年から1289年)【元寇,霜月騒動が起きる】
 6代将軍・宗尊親王の子で,1266年(文永3年)の将軍就任時はわずか3歳でした。
  「親王」とは皇族の中でもいつか天皇になる資格がある位の高い男子を指し,親王になるには朝廷から「親王宣言」を受ける必要があって,それ以外は単に「王」とよばれました。この時点で惟康親王は朝廷から親王宣言を受けていないため,正式には惟康王です。1270年(文永7年)朝廷は惟康親王を臣籍降下させ,源姓を与えたので、名目上は再び源氏将軍に戻ってしまいました。
 このころ,モンゴル帝国第5皇帝のフビライ・ハンは,朝鮮半島を制圧し,次のターゲットを日本に定めて,1260年代後半から何度も日本に使いを送ってきました。7代執権・北条政村や連署・北条時宗らはその要求を無視することに決定します。そんな中,突然,北条政村が執権を降り,18歳の北条時宗が8代目の執権に就任します。北条時宗はフビライ・ハンの使いをすべて無視し,国内の防御態勢の強化を進めます。
 フビライ・ハンは,1274年(文永11年)ついに日本侵攻を開始します。日本軍は大苦戦しましたが,博多湾に暴風雨が吹き荒れたことで勝利を収めます。7年後の1281年(弘安4年)に2度目の日本侵攻を行いますが,このときも夜半に突如暴風雨が荒れ狂い,日本は侵略を免れました(=文永・弘安の役/元寇)。
 このころ,幕府内でも激しい権力争いが起こっていました。
 北条氏に次ぐナンバー2の座にいたのは安達泰盛で,その娘は北条時宗の后でした。
 幕府の政策は御内人とよばれる集団が合議で決定していて,御内人のトップは平頼綱。平頼綱は安達泰盛が目障りな存在で,安達氏の抹殺に動きはじめます。
 1284年(弘安7年)に北条時宗が没すると,北条貞時が14歳で9代執権に就任します。 翌年,平頼綱は安達泰盛が謀反を起こそうとしていると9代執権の北条貞時に密告。何も知らない北条貞時は安達泰盛の討伐を命令し,平頼綱は安達泰盛をはじめ一族全員を殺してしまいました(=霜月騒動)。
 元寇の期間を源惟康として過ごした7代将軍は,1287年(弘安10年)24歳になって朝廷からようやく親王宣言を受け,晴れて宮将軍の惟康親王とよばれるようになりました。
 しかし,その2年後の1289年(正応2年),北条氏の謀略で,惟康親王は将軍職を解かれます。都に戻った惟康親王は,鎌倉将軍としては63歳まで長生きし,亡くなったのは鎌倉幕府が滅びるほんの数年前1326年(嘉暦元年)のことでした。
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●8代将軍・久明親王(1289年から1308年)【平禅門の乱,嘉元の乱が起きる】
 8代将軍・久明親王は89代後深草天皇の第6皇子で92代・伏見天皇の弟。
 1246年(寛元4年)88代後嵯峨天皇は上皇となって院政を開始するため,在位4年で子の後深草天皇に譲位します。ところが,譲位したあとで後嵯峨天皇は6歳下の弟・恒仁親王の方がかわいくなり,1259年(正元元年)後深草天皇に無理やり譲位させて90代亀山天皇を誕生させます。 このとき後深草上皇は17歳,亀山天皇は11歳でした。これがきっかけとなって,後深草上皇派(=持明院統)と亀山天皇派(=大覚寺統)というふたつの派閥が誕生しました。
 1274年(文永11年)90代亀山天皇は我が子の91代後宇多天皇に譲位。これを不服とした後深草上皇は幕府に何とかしてほしいと陳情しましたが,8代執権・北条時宗は「交互に天皇を出しなさい」と命じ,それ以後約半世紀にわたって互いの派閥からほぼ交互に天皇が即位することになりました(=両統迭立)。1289年(正応2年)7代将軍・惟康親王が都に送り返されたあと,朝廷から押し出されるように鎌倉幕府8代将軍になったのが14歳の久明親王でした。
 朝廷の混乱をよそに,久明親王は穏やかな日々を過ごしていましたが,平和な日々は長く続かず,1308年(延慶元年)久明親王は31歳となり,そろそろ次の将軍へと世代交代を図るために北条氏によって将軍職を解かれ,都に送り返されました。
 しかし,久明親王は都に送られたあとも幕府との関係は良好で,1328年(嘉暦3年)に久明親王が亡くなったとき,幕府は鎌倉で盛大な法要を行っています。
 霜月騒動で安達泰盛を討伐した平頼綱でしたが,1293年(永仁元年)仲が悪かった自身の子の密告によって,9台執権・北条貞時の軍に討たれてしまいました(=平禅門の乱)。
 1301年(正安3年),鎌倉上空にハレー彗星が飛来したことを不吉な予兆とみて,9台執権・北条貞時は執権の座を従兄弟の北条師時に譲り出家。しかし,北条貞時は出家後も政治の実権は握ったままでした。
 1305年(嘉元3年),北条氏ナンバー2の7代執権であった北条時村が何者かに射殺されますが,北条貞時の従兄弟であった北条宗方が連署の座を狙って起こした犯行であることが判明。 その結果,北条宗方も誅殺されました(=嘉元の乱)。
 こうした騒動により,9代執権だった北条貞時の権力が強化されました。
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●9代将軍・守邦親王(1308年から1333年)【正中の変が起きる。鎌倉幕府が滅亡する】
 8代将軍・久明親王の子。
 1301年(正安3年)9代執権・北条貞時は,執権の座を従兄弟の北条師時に譲り,10代執権になりますが,そのあとも政治を動かし続けました。1311年(応長元年)に10代執権・北条師時が死亡。このとき,北条貞時の子・北条高時はまだ7歳だったので,つなぎとして,北条宗宣が11代執権に就任。 同年,北条熈時が12代執権,1315年(正和4年)には北条基時が13代執権というように,執権の座は短期間でたらい回しにされました。
 そんな中で力を伸ばしてきたのが北条得宗の執事(=内管領)の長崎高綱でした。
 長崎高綱は北条高時の後見を託されてから,その子・長崎高資とともに幕府内での権力を増し始めます。 つまり,この頃の鎌倉幕府は,長崎父子が北条氏を支配し,北条氏が将軍を支配するという二重構造になっていました。
 1316年(正和5年)北条高時が12歳で14代執権に就任。しかし,この頃には執権に実質的な権力はありませんでした。病弱だった北条高時が1326年(嘉暦元年)に出家すると,次の執権をめぐって長崎父子と安達氏が対立。長崎父子は一門の北条貞顕を15代執権に選任しますが,反対論が噴出したため,北条貞顕はわずか10日で執権を辞退。そして北条守時が16代の,そして,最後の執権に就任しました。
 時代が進むと,大覚寺統の中でも権力争いが勃発し始めました。
 1318年(文保2年)に大覚寺統の後醍醐天皇が96代天皇に即位したとき,幕府は同じ大覚寺統でありながら,94代後二乗天皇の子・邦良親王を立太子に決定。 これによって後醍醐天皇の皇子が天皇になる道が絶たれ,納得できない後醍醐天皇は,1324年(正中元年),邦良親王に近い多治見国長らを殺害しました(=正中の変)。
 1327年(嘉暦2年)に邦良親王が亡くなると,後醍醐天皇は自分の皇子を立太子にするよう幕府に要請しますが幕府は拒否し,後醍醐天皇に天皇を辞するよう求めてきました。幕府によって皇位が左右されるという状況に耐え切れず,後醍醐天皇は倒幕を決意します。
 1331年(元弘元年),後醍醐天皇は近隣の武士達に六波羅探題を攻撃せよと命令。そして都を脱出して笠置山の山頂に陣を敷き,諸国の武将に決起を促します。幕府は75,000の大軍で笠置山を包囲。後醍醐天皇は捕まって,隠岐島に流されました。
 しかし,後醍醐天皇の呼びかけに応じた勢力が全国で挙兵。 そのひとりが楠木正成です。
 楠木正成は奇襲によって幕府軍を翻弄し,全国の悪党達も次々と挙兵,後醍醐天皇も隠岐を脱出し,倒幕軍が勢いづきました。後醍醐天皇軍を討つため,北条高時は足利高氏を都に遣わします。しかし,最初から後醍醐天皇と通じていた足利高氏は,都に到着すると六波羅探題を攻め落とします。一方,新田義貞も挙兵し,1333年(元弘3年)北条高時をはじめ幕府の要人は全員が自害し,約150年続いた鎌倉幕府は滅亡しました。
 9代将軍・守邦親王は,鎌倉幕府が滅んだ日に将軍職を辞して出家し,3か月後に他界しました。32歳でした。


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 若い頃はほとんど見なかったテレビドラマでしたが,ここ数年,暇つぶしに少しだけ凝ったことがあって,これまでいろいろなものを見ました。そのことは,数回,このブログにも書きました。しかし,どれも似たものばかりで,一部のものを除けば大したものもなく,今はすっかり飽きました。そこで,今見ているのは「エルピス」と「鎌倉殿の13人」だけになりました。「エルピス」はまだはじまったばかりですが,佳境に入った「鎌倉殿の13人」はとてもおもしろいドラマです。もうすぐ最終回なので,それがいまから残念です。
 NHK大河ドラマで,鎌倉時代はこれまで何度か放送されているのですが,今回の「鎌倉殿の13人」を見るまで,私はすべて落伍してしまい,鎌倉時代について知る機会が失われていました。私は鎌倉時代にそれほど興味もありませんでした。人間関係も複雑すぎました。今回も「鎌倉時代? つまらなそう」と期待せず何となく見はじめたのですが,それがそれが予想に反して,とても興味深くハマってしまいました。さすがの三谷幸喜さんです。そして,やっと,この時代について,私は深く知ることができました。
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 それにしても,鎌倉幕府の成立のころがこれほど血にまみれた時代だとは思いませんでした。延々と権力闘争をしていただけのように思われます。それは,今の政治もまた同じようなものですが…。これが日本人の血なのでしょうか。
 残念なことに,「鎌倉殿の13人」は承久の乱で終わってしまうようですが,鎌倉時代に興味をもった私は,その後はどうなっていくのだろうと調べてみたら,その先も相変わらず,鎌倉時代の血なまぐささがずっと続くのです。しかし,学校ではそのほとんどを習っていないか,断片的な事件の名前を暗記しただけで,そうした時代の様子をほとんど知りませんでした。
 そこで,私が調べた鎌倉時代の権力闘争を,学校の日本史の教科書には名前すら載っていないような,源頼朝,源頼家,源実朝以降の鎌倉幕府の将軍と,影の権力者である北条執権をもとに書いていくことにします。

●4代将軍・藤原頼経(1226年から1244年)【宮騒動,三浦氏の乱が起きる】
 1219年(健保7年)3代将軍・源実朝の暗殺後,北条氏は次の将軍は親王を迎えたいと希望しましたが,後鳥羽上皇は拒否。 妥協案として,源頼朝の妹・坊門姫の曾孫にあたる2歳の藤原頼経が鎌倉に迎え入れられ,元服まで,北条政子が尼将軍として後見しました。
 1224年(元仁元年)2代執権・北条義時が死去し,その子・北条泰時が3代執権に就任しました。
 1225年(嘉禄元年)大江広元,北条政子が亡くなり,9歳で藤原頼経が元服し,翌年,4代将軍になりました。
 3代執権・北条泰時は三浦義村など11人による「評定衆」を設置。また,北条本家を「得宗」と称し,この先,執権は基本的に得宗家からしか出せないことを決定。さらに,1232年(貞永元年)51条に及ぶ「御成敗式目」を作成するなど,鎌倉幕府の基礎を固めましたが,このころから,4代将軍・藤原頼経は,3代執権・北条泰時の弟・北条朝時を中心とする反得宗集団が接近して,その勢力に取り込まれていきます。
 1242年(仁治3年)3代執権・北条泰時が59歳で死去。北条泰時の子・北条時氏はすでに他界していたために孫の北条経時が4代目の執権に就任しました。
 1244年(寛元2年)反得宗勢力と結びついた4代将軍・4藤原頼経の勢力を早めに摘んでしまおうという北条得宗側の方策で藤原頼経は将軍職を解任され,5代将軍に藤原頼経の子・藤原頼嗣が就任します。藤原頼経は将軍職を解かれたあとも「大殿」として元将軍の権威を保ち続けましたが,1245年(寛元3年)には出家させられてしまいます。
 4代執権・北条経時にはふたりの子がいましたが,まだ若いため,1246年(寛元4年)に執権の座を弟の北条時頼に譲って出家しますが,直後に北条経時が死去すると,北条氏の中でも得宗になれなかった北条泰時の甥・名越光時が,藤原頼経と組んで執権の座を奪うための挙兵を計画します。しかし,事前に4代将軍・北条時頼に知られ計画は失敗し,名越光時は出家させられた上で流刑に処されました(=宮騒動)。これ以上藤原頼経を鎌倉に置いておくのは危険だと判断した北条時頼は,藤原頼経を都へと送り返しました。
 この宮騒動の背後には三浦泰村がいたと噂されていました。
 1247年(宝治元年)に鎌倉に怪異現象が頻発。人々は、これは北条氏と三浦泰村との間で合戦が起きる予兆に違いないと大パニックになります。この騒ぎを収めるため,5代執権・北条時頼は三浦泰村に対して敵意がないことを示しますが,そんな北条時頼の弱腰を快く思っていなかったのが北条時頼の外祖父・安達景盛でした。安達景盛は北条時頼の意向を無視して三浦泰村宅を襲撃します。巻き込まれる形になった北条時頼も挙兵せざるを得ず,大騒動に発展。周囲から火をかけられて逃げ場を失った三浦泰村は一族とともに自刃して果てました(=宝治合戦/三浦氏の乱)。
 4代将軍・藤原頼経はそのあとも鎌倉復帰を画策し続けましたが,1256年(康元元年)に死去しました。
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●5代将軍・藤原頼嗣(1244年から1252年)
 4代将軍・藤原頼経の子。6歳で元服し,5代将軍となりましたが,将軍在任期間はわずか8年でした。
 宝治合戦ののち,北条氏と敵対する力を持つ御家人はいなくなりましたが,4代将軍・藤原頼経の影響力をこのまま幕府に残しておくのは危険だと判断した5代将軍・北条時頼は,5代将軍・藤原頼嗣までも更迭することを決意し,新たに親王を将軍として招くことにしました。
 1252年(建長4年),6代将軍となる宗尊親王が鎌倉に到着した翌日,まだ14歳の藤原頼嗣は将軍としての仕事を何もできないまま都に戻されました。
 4年後の1256年(康元元年)に父の藤原頼経が死去し,そのわずかあとに日本全国で赤疱瘡(はしかが大流行し,それがもとで藤原頼嗣もこの世を去りました。
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●6代将軍・宗尊親王(1252年から1266年)
 第88代後嵯峨天皇の子。いよいよ念願の宮将軍の登場となります。
 1252年(建長4年)6代将軍となった宮将軍・宗尊親王が鎌倉に入って4年が経過した1256年(建長8年),日本全国で赤疱瘡(はしか)が大流行し,6代将軍・宗尊親王や5代執権・北条時頼,のちに6代執権となる北条長時の子まで発症しました。また,5代執権・北条時頼は今度は赤痢(せきり)を発症し,執権の座を降りて出家を決意しますが,のちに8代執権・北条時宗となる子の正寿はこのときまだ5歳で執権を任せるには幼すぎました。そこで,北条時頼は,六波羅探題関から北条長時を呼び戻して執権に任命します。
 6代将軍・宗尊親王は政治に介入しようとはせず、和歌に親しみながら穏やかな日々を送りました。
 しかし,1263年(弘長3年)に5代執権・北条時頼,1264年(文永元年)に6代執権の北条長時が相次いで亡くなると状況が変わってきます。当時14歳の北条時宗までのつなぎとして7代目の執権に就任したのは当時60歳の北条政村でした。
 1266年(文永3年)に6代将軍・宗尊親王が病床に伏せると,宗尊親王が歌会と称して近臣を集め,ひそかに北条時宗を討つことを企んでいるという噂が幕府の中で流れはじめました。幕府は宗尊親王を廃し,その子,当時まだ3歳の惟康親王を将軍にするという決断を下し,宗尊親王は都に送り返されました。

 以下,次回。


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「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは
💛
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かずら橋を渡ること,ホビートレインに乗ること,そして,素朴な温泉宿で温泉と和食を賞味すること,という私の高知旅の目的は,天気がよく,すべて達成することができました。だから,これで大満足だったはずなのです。
それなのに,最後の最後に,せっかく,さくらサーカスを見る機会があったのに,それを逸してしまったこと,そして,クーポンの亡霊に悩まされて,昼食を食べ損ねたことだけが残念でした。
しかし,旅というのは,楽しかったことはすぐに忘れてしまい,往々にして,こういうことだけが記憶に残るのです。
この齢になると,「いつかは」と考えるよりも,思い立ったときにそれをする,ということがとても大切なのです。「いつかは」はありません。私がこのブログのテーマとしている「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」,つまり「人はしなかったことだけを後悔する」というように,できたことよりもできなかったことがあとあとまで残ってしまうのです。そんなわけで,帰宅後,近々,今度は日帰りで高知へ行って,さくらサーカスを見てくることにして,さっそく航空券とサーカスのチケットを予約しました。
そのことはいずれまた。

高知龍馬空港に着いて,レンタカーを返却しました。返却したその車に今度は乗せられて,空港まで送ってもらいました。
この日,私は,変な時間に昼食を食べてしまったものだから,何か軽いものを夕食代わりに食べることにして,空港の売店でサンドウィッチを買いました。
キチンと予定を立てていたのなら,ホビートレインに乗って,そのあと,窪川の町の小さなレストランでゆったりと昼食をとり,それから桂浜へ行ってさくらサーカス見て,空港で夕食をとる,という旅ができたのですが,それはまあ,そんな情報を手に入れることが簡単にはできないので,無理な話でした。
ともかく,いくらガイドブックがあろうと,ネットで多くの情報が探せようと,実際を知るには行ってみるほうがずっと早いのです。

この時期はもう日が沈むのが早く,午後7時に飛行機が離陸したときはすっかり真っ暗でした。
予定通り,県営名古屋空港に到着して,この旅は終了しました。
いろいろあったけれど,だからこそまた,旅はいいものです。

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期待したほどでなかった高知県立龍馬記念館でした。展示されているもののほとんどは本物でなくレプリカでした。そのあとでゆったりと昼食を,と思っていたのに,桂浜は団体ツアー客だらけで,最悪でした。しかも,私がイメージしたようなレストランはどこにもなく,また,クーポンも使えませんでした。クーポンがつかえるという土産物屋さんは,団体ツアー客でごったがえしていました。
すっかりいやになって,桂浜を後にしました。
クーポンが使える店をネットで探しました。それがまあ,わかりにくいこと。
なんとか,桂浜と高知龍馬空港の中間あたりに,クーポンが使えるというファミリーレストラン「COCO'S」を見つけたので,そこに行くことにしました。高知まで来てファミレス,なんて。
お昼を食べ損ねて,もう時間は午後3時.。一体私が食べようとするのは,昼食なのか,おやつなのか,それとも,夕食なのか…?

「COCO'S」に着いてみると,その隣にちょっと高めのお寿司屋さんがあって,そこもまたクーポンが使えるということだったので,せっかく高知県まできたのだからと,気が変わってお寿司屋さんで少し贅沢しようと中に入りました。しかし,そのお寿司屋さんは店構えからはかなり高級そうな感じかったのですが,ただの回転寿司でした。
そんなわけで,予定よりずいぶんと遅れて,お昼だか何だかわからない時間にお寿司を食べました。
食事を終えて,帰りの飛行機は午後7時。それまでやることがなくなりました。
高知県立牧野植物園というものがあったので行ってみようと思ったのですが,そこもまたものすごい人だったのでやめました。この日が天気のよい土曜日だったというのが最悪でした。
そこで,私が高知県へ行った1週間前に,NHKBSPで放送している「にっぽん縦断こころ旅」でちょうど火野正平さんがこのあたりを走っていたことを思い出して,私もそのあたりを巡ってみることにしました。

それは2022年10月11日の放送で
  ・・・・・・
【高知龍馬空港の近くにある防波堤から見る飛行機の離着陸】
お手紙をくださった西さんは,キャンプ好きの夫に引っ張られて行き当たりばったりのキャンプを頻繁にしていました。高知にキャンプに来た西さんが,高知龍馬空港の近くにある防波堤を偶然訪れたとき,ぶつかりそうなくらいに近くで頭上を通り越していく旅客機を見て,すっかり「離着陸マニア」になったそうです。
西さんのリクエストに応え,正平さんは,残暑厳しい高知のお遍路道をひた走り,滑走路を見渡せる防波堤をめざします。
  ・・・・・・
ということで,桂浜に程近い種崎海岸海浜公園から,途中,四国八十八か所の第32番札所・禅師峰寺が通過地点だったので,私も,種崎海岸海浜公園と禅師峰寺に行ってみることにしました。
四国八十八か所の第32番札所・禅師峰寺は
  ・・・・・・
行基菩薩が開基。峰寺とも呼ばれています。807年,弘法大師がこの地を訪れ,海上安全を願って十一面観音像を刻んで安置。行基菩薩が開いた峰の寺の意味で禅師峰寺となり,本尊は船魂観音と呼ばれ,漁師の信仰も篤く,歴代の藩主も浦戸湾を出帆するとき必ず海上安全を祈ったといわれています。
  ・・・・・・
という寺だったのですが,ものすごい坂道を登ったところにあって,こんな道を火野正平さんは自転車で走ったのかしら? と思いました。
さすがに山の上,寺からの景色は最高で,夕日が美しく輝いていました。
むしゃくしゃしていたこころが少しだけ晴れました。

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これで,私はこの旅の目的はすべて達成したので,あとは帰宅するだけでした。そこで,最後の課題は,私が前日もらった3,000円のクーポンのうちの残っている2,000円分の使いみちでした。トラベルクーポンは税金のムダ使いそのものです。クーポンつまり金券,,でなく,たとえば,ポイントでもらえるのなら使いやすいのですが,クーポンは使えるところが限られていて,しかも,それがどこなのか小さな字で書かれた一覧表だけでは簡単にはわからないし,前日宿泊した宿でもらって,次の日に使い切ってしまわなければならないということでは,日ごろ買ったこともない土産物に化けるくらいしか使う手段がないのです。
  ・・
それでも,1日目に宿泊したときにもらった徳島県の3,000円分のクーポンは,500円券が6枚だったので使いやすかったのですが,徳島県限定だったので,2日目の朝から高知県に行ってしまう私は,使うのに困りました。そして,2日目に宿泊したときにもらった3,000円分のクーポンは,高知県限定であっても翌日の3日目は高知県を旅するから使うのには問題がなかったのですが,1,000円券が3枚でおつりが出ないので,それはそれで使いにくいものでした。うち,1,000円は宿泊先のホテル松葉川温泉の夕食でワインと梅酒に使ったけれど,残りの2,000円が問題でした。
この日,私はその「亡霊」にずっと悩まされることになりました。

高知県といえば坂本龍馬。坂本龍馬といえば桂浜です。桂浜はこれまで何度も行ったことがあって,今回あえてまた行く気持ちはありませんでしたが,高知県立坂本龍馬記念館だけはなぜか行っていなかったので,今回はそこへ行くことにしていました。そして,そのあと,高知県立坂本龍馬記念館内にきっとあるだろうレストランか,あるいは,桂浜のどこかのレストランにでも入って昼食をとって,そこでクーポンを使い果たすことにしました。
そのような勝手な予定を立てて,窪川から桂浜に向かいました。
  ・・
高知県内を走る高速道路は,たとえば,高知龍馬空港インターチェンジから高知インターチェンジや四万十中央インターチェンジから須崎東インターチェンジなど,ところどころだけ無料区間があります。そこで,無料区間だった四万十中央インターチェンジから須崎東インターチェンジまで高速道路を走って,その先,桂浜までは一般道に進路を変えました。
やがて,一般道で桂浜の手前まで来たのですが,そこには,高知競馬場と広い駐車場がありました。
そこで思いがけないことが起きました。

それは,この広い駐車場でさくらサーカスが開催されていたということです。
私は,以前,NHKBSPでさくらサーカスのドキュメンタリーをやっていたのを見て興味をもち,そのとき,一度見たいものだと思ったのをここで思い出したのです。まさかここでやっているとは! さすが強運,思わぬ偶然でした。しかし,私は,この運を手にすることができなかったのです。
このとき,頭を駆け巡ったのは,チケットをもっていないし,どうやって見るのだろう,何時からやるのだろう,これからサーカスを見て帰りの飛行機の時間に間にあうのだろうか,高知県立坂本龍馬記念館にも行きたいし,などなどのことでした。
車が信号待ちになったときを利用して急いでネットで調べても,開演時間がよくわかりません。駐車場に係員がいたから,そこで一旦車を駐車して聞いてみればよかったのですが,車が多く渋滞気味で,その流れに従って走っていたら通り過ぎてしまいました。引き返すのもたいへんでした。
ということで,私は目の前に訪れた幸運を自らつかみ損ねてしまったのでした。
家に帰って調べてみると,この時点でサーカスを見ることができたのです。サーカスを見ても,十分に飛行機に乗るまで時間があったのです。行きたかった高知県立坂本龍馬記念館は大したことがなかったから,むしろさくらサーカスを見るべきだったのです。これにはほんとうに後悔しました。
さくらサーカスは来年2023年1月15日まで開催しているということなので,私は,後日,サーカスを見に,再び高知に行くことを決めました。

さて,さくらサーカスを見損ねた私は,行きたかった高知県立坂本龍馬記念館に着きました。ここの入館料は500円程度で,クーポンが使えるということでしたが,おつりが出ないので使うのをやめました。高知県立坂本龍馬記念館の展示は充実していたものの,そこにあったのはそのほとんどがレプリカだったので,期待が大きかっただけに私はがっかりしました。また,館内にはレストランもありませんでした。
見学を終えて,次に桂浜水族館へ行こうと考えました。桂浜まで来て水族館なんて,と思っていたので,これまでは行ったことはなかったのですが,桂浜水族館でクーポンが使えるらしいと知ったからです。しかし,人混みの中結構な距離を歩いてやってきたのに,入館料にはクーポンが使えず土産物だけが可能だと言われて,空腹も手伝って,次第に機嫌が悪くなってきたので,桂浜水族館に入るのをやめました。次第に,私の高知県への想いも薄れてきました。それに輪をかけたのが,桂浜は団体ツアー客だらけだったことでした。とんでもない人混みでした。
あきらめきれず,レストランがないかと,人混みの中をかき分けかき分け,桂浜の新しくできたモールのようなところに行ってクーポンが使えるところを探したのですが,ここもまた,土産物点だけはクーポンが使えても,レストランでは使えませんでした。
さくらサーカスを見損ねた後悔が次第に増幅して,やらたと腹が立ってきました。もらったクーポンの亡霊によって,この日の予定は無茶無茶になって,私は高知県が嫌いになってきました。

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午前9時30分ごろに窪川駅に戻ってくると,すでに私のお目当てである新幹線を模したホビートレインはホームに停車していて,うれしくなりました。この列車に乗ろうと待っている乗客が,すでに,というか,わずか3人ばかりいました。私は,来るまではどのぐらい人気のものなのかわからなかったので,予約が必要なのかと思ったのですが,予約はできません。実際,これなら予約など必要ないのでした。
結局,最終的には座席が半分程度埋まるほどの乗客になりました。多くの乗客はホビートレインとは無関係な乗客でしたが,乗り込んできた中には,この列車に乗るのが目的の子供連れや,宇和島に行こうと乗った列車が偶然ホビートイトレインでラッキーと喜んでいた列車で四国を旅しているという老夫婦もいました。それにしても,私のように車を使うのならともかく,四国を列車で旅するのは楽しい反面,大変です。列車の本数が少なすぎ,また,接続が悪すぎるからです。
  ・・
私は,運転席の近くに座ったので,運転席がよく見えました。
この列車の運転手さんは,新人でした。それも,この日がデビュー,みたいな感じで,私は,不安になりました。何が不安だったかというと,私が土佐大正駅で乗り替えて反対側からやってくる列車との待ち合わせが1分しかなく,もし,運転が下手で遅れたらどうなるのだろうということでした。しかし,冷静に考えてみれば,JR四国・予土線は単線なので,そんな事態は起こりようがないのです。こちらの列車が駅に着かなければ,向こうから来る列車は発車できないのです。であるのなら,昨日私が窪川駅で訪ねたときに不親切だった駅員さんだったのですが,それなりの説明の仕方があっただろうというものです。
JR四国・予土線は,四国の中で最も採算の悪い路線です。そこで,さまざまな趣向を凝らして観光客を誘致しようとしているようなのですが,駅員さんがこんな対応ではそれも生かされません。乗れるものなら乗ってみろ,みたいな感じなのです。また,時刻表ももっと親切に記述するべきなのです。私のように,ホビートレインに乗ってみようと思っても,これではなかなか乗れません。

さて,やがて,列車は定刻の10時40分に窪川駅を出発しました。
新人の運転手さんは大きな声を出しながら確認を繰り返し,そっと列車を走らせました。横にはベテランの指導員さんがつきっきりでした。途中,スピードが出過ぎて横から手を添えて補助をしたりと,大変そうでした。まるで私が「列車でGO!」をやっているような感じでした。列車は数分遅れているようでした。そうしたさまざまなことで,乗っていても気が気ではなく,スリル満点で,おもしろい列車の旅になりました。
やがて,列車は土佐大正駅に到着しました。私は反対側のホームに停まっているであろうと思っていた列車に急いで乗り換えようと覚悟していたのですが,それが意外にも,土佐大正駅に到着したのは,時刻表にある土佐大正駅の出発時刻の20分も前のことだったのです。つまり,私の乗ってきたホビートレインは,土佐大正駅で,反対側からやってきてすれ違う列車を20分も待つことになるということでした。私の心配は,完全な取り越し苦労でした。
しかし,私が土佐大正駅で折り返そうと考えた選択は正しく,一度ホビートレインに乗ってみたいという人にはこの方法が最もよかったということです。

土佐大正駅で降りた私は,急いで乗り換えるどころか,一旦,駅から出ることさえできました。
土佐大正駅から外に出てみるととても立派で歴史ある建物で,決してさびれた駅ではなく「大正浪漫町歩きの玄関口!」だったのです。また,駅前の「国鉄・土佐大正駅」という道路標示が粋でした。この時代になって,まさか未だに「国鉄」だなんて!
  ・・・・・・
土佐大正駅は,山小屋風の木造駅舎でした。明治時代にあった村が大正時代に改名したことがこの駅の名前の由来です。ホームは高台にある島式で,駅舎から地下道を通じて移動します。
土佐大正駅の駅舎は,かつて,林業で栄えていた大正地域のシンボルでした。そこで,木製の美しい三角屋根を一目見たいと,観光客が1日上下線で8本しか運行しない列車や車を使って駅舎を訪ねてきます。そこで,駅前広場で軽食を販売してみたところ,好評だったのです。
駅舎は四万十町役場の管理なので,列車の運行の妨げにならない範囲であれば自由に使うことができるということで,構内に地元の子どもたちが描いた絵が飾られたり,駅前には町おこしのカフェがあったりしました。
  ・・・・・・
そのカフェにいた若い男の人としばしお話をしました。土佐大正駅前がこんなにもすてきなところだとは思いませんでした。これなら,20分といわず,1時間程度の待ち合わせ時間があってもよかったのに,とさえ思ったのですが,事前にインターネットを調べても,そうした情報はまったく見つかりませんでした。

やがて,私の乗る列車が来る時刻になったので,ホームに戻りました。
宇和島方面からやってきた列車は,何と「しまんトロッコ」だったのです。
  ・・・・・・
予土線3兄弟の長男である「しまんトロッコ」は,木々の緑が溢れる四万十川沿線の風景に映える山吹色のボディが特徴で,トロッコ乗車区間では、トロッコ車両ならではの爽快な風を感じながら四万十川や広見川の風景を直に眺められるほか,ボランティアガイドによる沿線案内や、地元特産品の車内販売など楽しみがいっぱいの列車です。
  ・・・・・・
ということですが,「しまんトロッコ」の運行は1日わずか1往復で,普通車両の後部に連結されたトロッコ車両に乗ることができるのは,宇和島駅と窪川駅の間の一部である,江川崎駅と土佐大正駅の間だけでした。
土佐大正駅から乗った私はトロッコ車両には乗ることができませんでしたが,それに連結された列車で窪川駅に無事戻ることができました。「しまんトロッコ」が見られただけでもよしとしましょう。
それにしても,こんなことなら,ホビートレインが窪川駅を出発する時間をもう1時間早くして,江川崎駅でこの「しまんトロッコ」とすれ違って接続するようなダイヤを作って,「しまんトロッコ」のトロッコ車両にも乗れるようにすればいいのに,と思ったことでした。そうした少しの工夫で,もっと観光客が誘致できるし,鉄道好きには最高に楽しい1日をJR四国・予土線に乗って過ごすことができるのに,何とまあ,やる気がないというか,工夫がないというか,知恵がないというか…。これでは,予土線が赤字路線であるというのも当然です。

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窪川の町に着いて,昨日聞いた場所に車を停めて,ホビートレインの出発まで,町を散策することにしました。私は,知らない町を歩くことが好きです。
まず,窪川の町にあったのが,四国八十八箇所第37番札所・岩本寺でした。
  ・・・・・・
岩本寺は,藤井山,五智院と号し,本尊は不動明王,聖観世音菩薩,阿弥陀如来,薬師如来,地蔵菩薩の五仏です。
この寺には「空海の七不思議伝説」が伝わっています。それらは,この桜に祈れば安産するという子安桜,三度目は空海が焼き栗を加持したところ1年に3度も実るようになったという三度栗,加持をしたところヒルが血を吸わなくなったという口なし蛭,桜の花が散ったのを加持したところみんな貝になったという桜貝,筆草,巻貝に棘のある尻なし貝,空海が泊めてもらったお礼に加持をしたら泥棒が入らなくなった戸たてず庄屋だそうです。
  ・・・・・・
ひとつまえの第36番札所・青龍寺までは約60キロメートル,次の第38番札所・金剛福寺までは約90キロメートルもあります。ということで,思い出したのが,2020年に足摺岬に行ったときにあったのがこの金剛福寺でした。
そのときのブログに次のように書きました。
  ・・・・・・
実はこの第38番札所(金剛福寺)は「修行の道場・土佐」という名のとおり,霊場を巡る人にはとんでもない難所にあるそうです。なにせ,ひとつ前の第37番札所・岩本寺からは約90キロメートルもあり,徒歩なら20時間以上かかります。…これは絶望的な距離です。実際に歩いてきた人がえらく遠かった,と言っていた意味が理解できました。
私は八十八箇所を巡るつもりはないのですが,もし巡るとしても車で札所だけを巡っても意味がないと思いました。歩くことで何かが変わるのです。…自分がどう変わるか,歩いてみなくてはまったく想像がつきません。そこで,この第37番札所から第39番札所の150キロメートルだけは,元気なうちに歩いてみたいものだと思ったことでした。というより,歩かなければならないところだと思いました。
  ・・・・・・
四国の距離感がわかる今となっては,こりゃすごいと実感します。なにせ,窪川の次が足摺岬なのですから。それからわずか2年と半年なのに,今の私には,もう,150キロメートルを歩く気力はまったくありません。

町の外れには,四万十川が流れていました。また,町中には,多くの喫茶店がありました。中にはとても古い魅力のある建物もありました。
その中で,昨日に行った観光案内所で勧められたのが古民家カフェ「半平」だったので,入ってみました。ここは一般社団法人の四万十町観光協会がやっているそうで,1901年(明治34年)に実業家・都築半平の別邸として建築された旧都築邸を修復し,2010年より営業しているとのことです。カフェだけでなく,屋敷の広間を利用した展示やイベントなどを開催しているそうです。
  ・・・・・・
築100年を超す古民家で癒しの時間をお過ごしください。築120年の古民家を利用したカフェ季節の和菓子を、抹茶やコーヒーと一緒にお楽しみいただけます。
  ・・・・・・
ということで,私も,季節の和菓子とともにコーヒーを所望しました。窓からきれいに手入れされた庭が見え,庭の向こうには鉄道が走っていたので,おそらく,私が乗るホビートレインは,このカフェからも見ることができるんだなあ,と思いました。

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徳島県では使い方に困り果てたクーポンでしたが,高知県は高知県で別の問題がありました。それは,徳島県は500円券が6枚だったものが高知県では1,000円券が3枚だったことです。クーポンはおつりは出ないのです。
ただし,ホテルでも使えるということだったので,そのうちの1,000円分を夕食のアルコール代に充てることにしました。しかし,アルコール代で1,000円も使おうとすると,それはそれで困りました。そんなわけで高級なグラスワインを注文して,さらに梅酒をお代わりすることになってしまいました。
ホテル松葉川温泉の夕食もまたすばらしく,これなら多くの宿泊客が訪れるのもわかります。こんな時節柄だったのに,食堂は満員でした。

私はこれまで,旅行といえば海外が多く,まれに日本国内を旅行するときは,ほぼ,東横インを利用していて,寝ることさえできればいい,という感じでしたが,このごろになって,日本の宿のおもしろさを発見しました。「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」蛭子能収さんが常々言っていたように,日本の旅館はあたりはずれの差が大きいのですが,それは,その人にはどこまで許せるか,ということになるのだろうと思うわけです。蛭子能収さんはベッドでなければ,と言っていましたが,私はどっちでもかまいません。というより,日本旅館だから和室でいいです。それより,私にとって問題なのはトイレと風呂なのです。トレイは部屋にあるといいと思うのですが,風呂はできれば温泉です。しかし,このふたつとも,宿泊客が少なければ問題はありません。私は,ゲストハウスなどのような,相部屋というのはだめですが,それよりもいやなのは大きな旅館です。というか,団体ツアー客と一緒になるのがいやなのです。おまけに,朝食がバイキング,というのは最悪です。
…ということだったのですが,今回のホテル松葉川温泉は大きなホテルではありましたが,個人客ばかりだったのと朝食がバイキングでなかったことで助かりました。

3日目 2022年10月22日土曜日
最高だったのは朝風呂でした。このホテルのお風呂は午前6時から入ることができました。
私はこのごろは寄る年波で朝がとても早く,現在は午前4起きなので早起きはまったく苦ではありませせん。そこで,午前6時になるのを待つようにしてお風呂に行きました。早朝のお風呂は,ほかにだれもいないので至福の時間となりました。
おいしい朝食後,ホテルをあとにしました。
ホビートレインに乗るにはまだずいぶんと時間があったのですが,その前に窪川の町を散策するつもりで,早めにチェックアウトしました。

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私がこの日宿泊するホテル松葉川温泉と窪川駅は車で20分程度の距離で,安心しました。
窪川駅からホテル松葉川温泉までの道は,四万十川に沿って走り,やがて,そこから道路標示にしたがって左折して橋を渡ると,あたりは田んぼだけになって,コスモスが美しく咲くのどかな村道をくねくねと通っていくことになります。
ホテル松葉川温泉,実は何も考慮しないで,単に安価だったということだけでここの宿泊することを決めたのですが,実に便利で快適なところで,最高の選択となりました。それにしても,松葉川温泉というのは,とても辺鄙なところで,どうしてこんな場所にこんな立派なホテルがあるのかが不思議でした。しかも,さびれておらず,人気のところでした。
  ・・・・・・
須崎市から中村市の中間ほどの山の中に位置し,四万十川の源流・日野地川の畔にある1軒宿の松葉川温泉。歴史は古く,江戸時代にはすでに四国有数の霊泉として知られていました。湯は四国有数の泉質を誇り,ぬめりがある湯は浸かると肌がしっとりし,美人の湯として知られています。
美しい自然と渓流のせせらぎを聞きながら浸かる露天風呂が人気です。
温泉の泉質は単純硫黄冷鉱泉で,温泉の効能は,皮膚病,神経痛,リウマチ,糖尿病,便秘神経痛・筋肉痛・関節痛・五十肩・運動麻痺・関節のこわばり,うちみくじき・慢性消化器病・痔疾・冷え症・病後回復期などです。
  ・・・・・・
とありました。

午後3時を過ぎに,窪川駅から再びホテルに戻ってきて,チェックインを済ませました。このホテルにはこれまでにも多くの芸能人が訪れたようで,フロントには多くの色紙が飾ってありました。
部屋の広く,立派で,私はこんなところに泊まるなんて夢のよう,と思いました。
実は,私がつねに日本の旅で憧れているのは,こんな豪華でなくもっと小さな旅館なのですが,それは贅沢というのです。
さっそく,温泉につかることにしました。
お昼間は日帰り温泉として,宿泊客以外にも開放されているので,地元の人が数人お湯につかっていました。私は,ほかに宿泊客がおらず,したがって,私ひとりが温泉で,というのが最も理想なのですが,それは無理な相談です。しかし,広い温泉につかっていたのは数人だけだったのが幸いでした。
露天風呂もサウナもありました。
ひとつだけ難といえば,ここの温泉は,少しお湯の熱さが足りなかったことです。

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 表面的には活気を呈していたようにみえた川崎市でしたが,歩き回っているうちにいろんな裏の面が見えてきました。結局,ここは,競馬場と競輪場と昔あった川崎球場と,そして,風俗街の町でした。
 まず,前回書いた川崎大師に行く途中に巨大にそびえていたのが競馬場でした。そして,川崎大師の帰り,さすがに歩くのは断念して京急に乗って川崎駅に戻り,次に目指したのが,かつて川崎球場のあったところでしたが,お隣には巨大な競輪場がありました。

  ・・・・・・
 川崎球場は,かつて,川崎市に存在した野球場でしたが,プロ野球が去ってからは,大規模な改修ののち,アメリカンフットボールや軟式野球等での利用が主となり,2014年に富士通スタジアム川崎となりました。
  ・・・・・
 川崎球場は,1951年(昭和26年)に竣工し,1952年(昭和27年)にはプロ野球公式戦・東急フライヤーズ対大映スターズ戦が開催されました。
 昭和20年代の貧しきころの日本は,在京5球団がすべて現在の東京ドームの前身であった後楽園球場を本拠地としていたので,川崎球場ができたことで,首都圏でのプロ野球の日程の過密化の解消に役立ったのでしょう。
 1954年(昭和29年)に高橋ユニオンズが川崎球場をフランチャイズとし,1955年(昭和30年)からは大洋ホエールズも川崎球場をフランチャイズとしましたが,高橋ユニオンズは1956年(昭和31年)オフに消滅したので,それ以降1977年(昭和52年)まで大洋ホエールズのみの本拠地となりました。私の記憶に強く残るのはこのころのことです。
 しかし,大洋ホエールズは,老朽化が著しくなったことで川崎市に改修を要求しても一向にそれを実施しない川崎球場に嫌気がさして,1978年(昭和53年)に横浜スタジアムを専用球場として移転してしまいました。
 主のいなくなった川崎球場は,次に,本拠地がなくジプシー球団であったロッテオリオンズが専用球場として使用することとなり,それは1991年(平成3年)まで続きました。しかし,観客は入らず,最悪の本拠地といわれました。野茂英雄と村田兆次の対決,そして,落合博満がいて,観客が1,000人も入らなかったなんて異常です。

 川崎球場が最悪だった原因は,川崎市が川崎球場を改修しなかったことに尽きます。老朽化し,かつ,狭隘な球場では魅力がありません。その結果,試合をよそにスタンドで流しそうめんや麻雀などをしたりカップルがいちゃついていたりという姿だけが話題となりました。また,選手側にとれば,ロッカールームは通気性の悪さから湿気が多く,観客側にとれば,スタンドの座席は狭隘で座りにくく,トイレは男女共用の汲み取り式便所でしかも鍵が壊れているという有様でした。球団も「テレビじゃ見れない川崎劇場」といった自虐的なテレビコマーシャルを流したりしたのですが,こうなると悲劇を越して喜劇でした。
 当然の結果として,ロッテオリオンズも千葉マリンスタジアムに逃げていきました。
 私は,こうした場末感は嫌いでなく,ずっと気になっていて,さぞがし風紀の悪いところにあるのだろうと思っていたのですが,現在は,表面的には思ったほどひどい場所ではありませんでした。また,奇しくも,私が行ったときはロッテオリオンズの投手だった村田兆次さんが亡くなったばかりで,事務所には献花台がありました。これが場末感ただようこの地にふさわしいというか,何か象徴的な感じがしました。いずれにしても,アメリカなら二軍以下四軍1Aのスタジアムのようなものです。日本のプロ野球はアメリカのMLBと同類に考えてはいけません。

 そんな川崎球場を後に,駅に向かって歩きはじめたのですが,そこにあったのがつぶれかけた居酒屋やら古びた風俗街でした。帰宅してネットで検索してみたら,私が朝まず歩いた旧東海道を巻くようにして,駅の北側が堀之内という場所で,ここは昔の青線,今は,ソープ街となっているところでした。また,駅の南側は南町という場所で,ここは昔の赤線,今は,ここもまたソープ街でした。
 なぜここにそうした風俗街が川崎市に存在しているかといえば,かつて,この地には富士紡績の工場やら,現在の東芝である東京芝浦電機,現在の日本コロムビアである日米蓄音機製造,現在の味の素である鈴木商店などの工場が進出し,さらに,東京湾岸には京浜工業地帯として,現在のJFEスチールである日本鋼管があって,これらの工場の従業員がお客さんとなって栄えていったからだそうです。
 私が歩いていたのは午前11時前後のことで,9月に歩いた旧吉原遊郭跡のように,風俗店に出勤する途中の女性がタクシーから降りる姿を多く見かけましたが,思った以上に若いのに驚きました。
 それにしても,日本の旧街道沿いを歩いていると,日本各地どこも,江戸時代には遊郭があって,それが赤線になって,現在は,風俗店に変わっていたり,空き地となっていたりします。また,かつて,武士に必要な武具の類を生産するために必要だったさまざまな原材料を作っていた人たちが住んでいた被差別部落があったという跡も見かけます。日本は,その長い歴史の中で存在したそういう場所が今も深く根ざしている国なのだといつも思います。そしてまた,かつて景気がよかったころに作られ,今は潰れたパチンコ店やら廃業した旅館やら主のいなくなった古い店舗やらが多く存在し,それらの多くは,所有者が行方不明だったり,権利が複雑に絡まっていたりして,壊すに壊せず,売るに売れず,廃墟化しているところが多くあって,それらが原因で再開発も行えず,また,不法投棄の場所となってしまっていたりと,まるで,町全体がゴミだめのようです。

 11月の東京旅行は,予報では雨だったのですが,結局,今回も,私は雨には降られませんでした。
 東京にいるうちは天気がよく,東京から帰るときに雨が降りはじめたようですが,私にはまったく影響がなく,名古屋に帰ったときは,ずっと降り続いていたという名古屋の雨はすでに上がっていました。ということで,今回もまた,晴れ男パワー全開でした。
 さて来月は12月のNHK交響楽団の定期公演のほかに,その2日前にもうひとつ別のコンサートを聴くことになったので,2泊3日で東京に行くことになりました。中1日時間ができたので,NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にちなんで,久しぶりに鎌倉へ足を延ばして,歴史散策をしてみようと思っています。

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 今から40年近く前,お正月の初詣バスツアーとかに参加したことがあります。大晦日に出発して,早朝,確か,川崎大師と浅草の浅草寺と神田明神だったかに行くというスケジュールでした。そのときのことはほとんど忘れてしまったのですが,なぜか,川崎大師の仲見世でトントコトントコと飴を切る音だけがずっと記憶に残っています。数件の店があって,それぞれの屋号に元祖だとか本家だとか老舗だとか書かれてあったのがとても滑稽でした。
 そんな川崎大師が今どうなっているのだろうとふと気になっていたので行ってみることにしました。

 JR川崎駅で降りて旧東海道を北に歩き,六郷の渡しまで行ったあとに,川崎大師まで歩きました。大した距離でもないだろうと思っていたのですが,さにあらず,かなりの距離でした。
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 川崎大師という通称で知られる平間寺は,真言宗智山派の大本山で,1128年(大治3年)の建立です。尊賢上人を開山とし,平間兼乗を開基とします。
 平間兼乗が海中へ網を投げ入れたところ弘法大師の木像を引き揚げたので,木像を洗い清め,花を捧げて供養し,近くに小堂を構えました。諸国遊化の途中に訪れた高野山の尊賢上人がこの話を聞き,1128年(大治3年)に平間寺を建立しました。
 1813年(文化10年)に,徳川幕府第11代将軍徳川家斉が訪れたことで有名となり,1899年京急が開通。初詣発祥の地として,プロモーションの影響で正月に鉄道で寺社仏閣に参拝することが全国的にブームとなりました。現在も,正月には初詣の参拝客で大変な賑わいとなります。
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とネットにあったのですが,私の想像以上に賑わっていました。
 私の地元名古屋だと熱田神宮の門前など,完全にシャッター街と化しさびれてしまっているのですが,ここはそうではありませんでした。
 私は,宗教にまったく信心がなく,お寺自体には興味も関心もないのですが,境内にあった第55代横綱北の湖敏満之像だけは興味をもちました。これは,平間寺を菩提所とする北の湖敏満の三回忌の折に建立された銅像ということでした。横綱北の湖といえば,理事長だったころ,大阪場所に見にいったときに,会場の大阪府立体育舘のレストランでお見受けし,一緒に写真を写したことがあります。それは亡くなるわずか少し前のことでした。

 川崎大師の門前に,私の記憶にあったトントコトントコの飴の音は今もありました。
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 情緒漂う寺社の門前町にリズミカルで小気味よい音が響き渡ります。毎年300万人もの初詣客が訪れることで有名な川崎大師の名物「とんとこ飴」。
 山門に続く約100メートルの仲見世通りには5軒の飴店があり,店先で飴を切る実演販売を行っています。
 トントコトントコという軽快なリズムは飴を切る際に包丁がまな板に当たる音です。
 老舗飴店「松屋総本店」のホームページによると,とんとこ飴の発祥は明治初期の東京・深川で,創業家の店主が昭和初期に川崎に店舗を構え一族がそれぞれの屋号を用いて広めていったということです。こういうアイデアを考えたのがすごいことです。
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 あまりに懐かしくなって,お店の人に話しかけると,うまいこと飴を買う羽目になってしまいました。そう,私は音だけを記憶していて,この飴をなめたことすらなかったのです。いい記念になりました。
 こうしたことを含めて,私は近ごろ,昔経験しておぼろげにしか残っていないさまざまな記憶をたどる旅ばかりしているようです。

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 川崎,といって思い浮かぶのは,かつて日本のプロ野球の球団で,現在の横浜DeNAベイスターズが大洋ホエールズといったころの本拠地だった川崎球場くらいのものでした。スタンドはボロボロ,グランドに背を向けて麻雀したり流しそうめんを楽しんだりと,退廃ムード満載でした。そんな川崎,私はこれまで行ったことがありませんでした。
 いや,たった一度,岡本太郎美術館というところには行ったことがあって,それもまた,川崎市内であったのですが,JRの川崎駅前とはずっとはなれていたように記憶しています。そういえば,川崎大師というところも行ったことがありますが,そのことはまた次回。
 そのころの貧しかった日本,というか,今またそんな日本に逆戻りしているような気もしますが,その,私が子供のころにその地名を知った川崎は,川崎球場を象徴として何か三流で暗く,みすぼらしい感じがして,私がもつ川崎という地のイメージはずっとそんなふうでした。
 そんなわけで,川崎というところの真実の姿をほどんど知らないので,先日,旧東海道の品川宿あたりを少し歩いたその勢いで,NHK交響楽団の定期公演を聴きに東京へ行ったついでに,午前中,今回は川崎宿あたりを歩いてみることにしました。 
 東京駅に午前8時30分ごろに着いて急いで東海道線に乗り換えて逆戻り,午前9時過ぎに川崎駅に降りました。

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 川崎宿は東海道五十三次の2番目の宿場です。東海道成立時点では宿場でなかったのですが,品川宿と神奈川宿の間が往復十里,つまり40キロメートルと異常に長く,伝馬の負担が重かったために,1623年(元和9年)に設置されました。
 設置後,伝馬を務める農民の負担や問屋場が破産に追い込まれるなどの窮状に陥ったのですが,田中休愚が幕府に働きかけを行い,六郷の渡しの権益を川崎宿のものとするなど川崎宿再建のために大きな役割を果たしたそうです。
 川崎宿は砂子・久根崎・新宿・小土呂の4町からなっていて,旅籠72軒,うち、飯盛女を置いていた「飯売り旅籠」、つまり遊郭が33軒,置いていない「平旅籠」が39軒でした。「飯売り旅籠」はのちに南町へ移されました。
  ・・・・・・

 川崎駅前は,表面的には,私がイメージしていたのとはまったく違い,東京のJRの駅前と変わらず,人と商店がいっぱいの華やかな街でした。そりゃそうでしょう。ここは神奈川県といっても,多摩川を隔てているだけで,おとなりは大田区,そして,羽田空港です。
 旧東海道は,そんなJRの川崎駅前から少しだけ東に行ったところを東海道線に並行して通っていて,品川宿同様に,きれいに整備されていました。あてもなく歩いていると,東海道かわさき宿交流館という建物がありました。ここは市の施設らしく,午前9時から開いていたので,中に入ってみました。旧東海道の宿場跡によくある公営の博物館を兼ねた施設で,館内には,ジオラマをはじめとして,川崎宿の歴史がわかるような展示がされていました。
 しかし,どうも役所的というか,変な人が居座らないためというか,係の人には商売気はなく,展示のある部屋も長居をしないことなどと書かれていて,やたらと警戒心が強く感じました。以前、ニューヨーク・ハーレムの図書館に行ったことがあるのですが,そこもまた,警戒心満載のところでしたが,同じ空気を感じました。要するに,川崎市というのは,そういうところなのだなあ,と私は感じました。

 見学を終えて,ともかく,川崎宿の北のはずれ,かつて多摩川にあった六郷の渡しの跡まで歩いて行ってみました。
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 1600年(慶長5年),当時六郷川といった現在の多摩川に六郷大橋を架けられ,以来修復やかけ直しが行われましたが,1688年(貞享5年/元禄元年)の大洪水で六郷大橋は流され,以降,幕府は架橋をやめ,明治に至るまで船渡しとなりました。
  ・・・・・・
 現在は,渡船跡の碑と明治天皇六郷渡御碑が建ち,欄干に渡船のモニュメントがあります。
 歌川広重の東海道五十三次の川崎宿に描かれているのが,この六郷の渡しです。対岸には川会所が見え。江戸最後の渡しとして厳しい詮議が行われていのでしょうが,平和が続く世につれて取り締まりも緩やかになり,ほとんど無い状態になったであろうといわれています。
 それにしても,まもなく江戸,というところなのに,わずか160年ほど前は橋もなく渡し船を使って人が行き来していたとは,何ともはや非生産的というか,のどかというか。しかも,明治維新後もその状況はさして変わらず,橋を架けては流され,を繰り返し,何とかまともな橋が架かったのが1925年(大正14年)というから,これもまた驚きです。

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 今回のブログの題名「蔓延する同調圧力に屈せずに」というのは,NHK交響楽団のホームページあった文章を一部引用すると
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 コンサートに予定調和を望まず,聴き手に新鮮な驚きを与えることが井上道義の信条だ。コロナ禍に蔓延する同調圧力にも抗い 続けてきた。
  ・・・・・・
と書かれていたものからからとったものです。
 実は,今回の11月定期公演Aプログラム2日目,ショスタコービッチの交響曲第10番が終わったとき,禁止されているはずの「ブラボー」が大声で飛んだのです。2日目は放送されないので,これはNHKホールにいた人しか知りません。
 井上道義さんは自分のブログに次のように書いています。
  ・・・・・・
 録画があった昨日(と違って)今日は楽員さんも開放感からか,現実の戦争には大反対の老兵士は相応のエネルギーでこの名曲が本来の姿をとって刻まれていく時をちょっとだけ客観的に共有できたと感じた。僕が最も誇りとした一瞬はマスク越しのこころからのブラボーの嵐が続く流れを生んだ曲の終わりでのブラボーの一声だった。
 目立ちたいだけのブラボー,よい声を聞かせたいブラボー,終わりを俺は知っているぜのそれ,ひどい演奏への悪意あるそれ,等々聞いてきたが… 今日のあれは違った。
  ・・・・・・
ということだったので,このブラボーは井上道義さんには好印象だったのでしょう。
 ただし,私は,禁止しているのにそういう声が出たということを責めているのではなく,本質的にブラボーは嫌いです。いや,それが空気になじんでいるのならともかく,日本人のそれは,歌舞伎の大向こうのようなものだからです。今回のコンサートは例外で,このコロナ禍ではコンサートではブラボーと叫ぶ輩がいないので,むしろ私にはここちよいのですが,NHK交響楽団の定期公演には,フライングの拍手とか,時折,おかしな観客が混じっています。

 ところで,アメリカやヨーロッパでのクラシックのコンサートやオペラはマナーがいいと思っている人も多いでしょうが,実際は,日本よりもずっとざわざわしています。マナーも特にいいとはいえません。しかし,自然体というか,馴染んでいるというか,それが場に溶け込んでいるので,全く不快なものではないのです。演奏前は,まるでパーティに行くように着飾った人たちが集まってきて,演奏の合間にはアルコールを親しみながらおしゃべりをして,コンサートが終わると自然と立ち上がり,花を投げる,といった行為すべてをこころから楽しんでいるのです。
 それに比べたら,やはり,日本人にとってはクラシック音楽というのはよそ者であって,外国人が着物を着ているような,そんな感じが否めません。また,演奏前に,まるで小学校の朝礼の先生の「ご注意」のように,うるさいくらいに何度も何度も注意を喚起する場内放送がかかります。アメリカやヨーロッパのコンサートでは記憶にありません。チケットを買ってもらって聴きにくる観客に対して失礼です。コンサートを楽しみに来る大人に対して,こりゃないぜ,と私は思います。観客の不快な行為以上にこの放送が私には不快です。これもまた,日本らしき責任逃れのやったふりです。
 文化水準の低い,そして,知的好奇心の低い日本人は,いつまでもずっとガキなのです。社会全体が幼稚園です。それは,欧米ではベイビーシッターに子供を預けて大人の時間を楽しむべきレストランに,日本では子連れでやってきて,客席を子供たちが走り回る,という日々の光景とも重なります。何も考えず,言われたことを従順にやるのがよい子という教育なので,そうして育って齢だけ大人になっても自分がないのです。精神的には大人になっていないのです。だから,人と同じことをまねるしかなく,同調圧力が幅を利かすのです。そして,何が真実かも正義かも知らないのにそれに外れた行為を見ると「先生に言ってやろ」が正しい行動だと,それを当然と思っているなさけない人が存在するのです。

 それはともかく。 
 今回もまた,私は,このところの定番である,新幹線N700Sのグリーン車で名古屋・東京間を往復しました。優雅な旅です。
 これで,私の聴いた9月,10月,11月,3回のAプログラムは終了です。それぞれのコンサートはまったく異なる特徴があって,興味深いものでした。まだしばらく海外に行くのもたいへんなのでNHK交響楽団の定期公演で満足することにして,次回からは,再びCプログラムに戻って,土曜日のマチネを楽しみたいと思っています。

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 2022年NHK交響楽団の定期公演Aプログラムは,9月のファビオ・ルイージ首席指揮者就任記念ヴェルディ「レクイエム」,10月の桂冠名誉指揮者ヘルベルト・ブロムシュテッドさんのマーラー・交響曲第9番とならんで,11月は,今,私が最も聴きたかった日本人マエストロ井上道義さんで,とても楽しみしていました。2022年11月13日,その日が来ました。
 井上道義さんは1946年に生まれ,1971年にミラノ・スカラ座主催グィド・カンテルリ指揮者コンクールで優勝したという経歴で,新日本フィルハーモニー交響楽団音楽監督,京都市交響楽団音楽監督,大阪フィルハーモニー交響楽団首席指揮者,オーケストラ・アンサンブル金沢音楽監督を歴任しました。
 2014年に大病に倒れるも復帰しましたが,それ以降の神がかり的な活躍で,私は興味をもちました。
 なお,2024年を限りに引退を表明しているので,今が聴く最後のチャンスとなります。

 今回のプログラムは,伊福部昭の「シンフォニア・タプカーラ」とお得意のショスタコーヴィチの交響曲第10番です。
 伊福部昭は1914年(大正3年)に北海道で生まれ,2006年(平成18年)に亡くなった作曲家ですが,日本の民族性を追求した民族主義的な力強さが特徴で,映画音楽「ゴジラ」で有名です。前回2020年に井上道義さんがNHK交響楽団のコンサートに登場したとき,ピアノとオーケストラのための「リトミカ・オスティナータ」という曲を指揮して,私は感動しました,今回はそれに続くもので,「シンフォニア・タプカーラ」は代表作。この曲はアイヌの人々への共感とノスタルジアから書かれたものだそうです。
  ・・・・・・
 西欧的な主題展開を拒否したモザイク的な形式や息の長い旋律,執拗なオスティナートといった独特の音楽語法が凝縮されていて,特に第2楽章冒頭のハープに惹かれ,フルートの低音域とコールアングレの息の長い旋律が美しく,また,第3楽章の勇壮な感じなど,そのリズム感がたまりません。
  ・・・・・・
という説明が書かれてありました。
 伊福部昭さんは「すべての芸術はその民族の特殊性を通過して共通の人間性に到達する」といいます。
  ・・
 ショスタコーヴィチの交響曲第10番ホ短調作品93は,1953年,プロコフィエフと同日にスターリンが死去した年,満を持して発表した交響曲です。
  ・・・・・・
 交響曲第5番で確立されたショスタコーヴィチの純器楽的な交響曲は交響曲第10番で頂点を極め,さまざまな表現イディオムが暗号のように張り巡らされる一方で楽章をまたいだ主題動機の回想や予告によって全体は幾重にも関連付けられているといった魅力的な語り口とその意味の広がりは他に類をみないものです。
  ・・・・・・
 ソビエト連邦下の抑圧的な体制で,苦しみながら時代と個人の真実を体現してきたショスタコーヴィチの交響曲ですが,皮肉にも,今のロシアの有り様が,そのころのショスタコービッチの想いと重なって,救いのない絶望感の中に,ある種の救いを見出す苦しみのように感じます。

 この日のコンサートは,前回のヘルベルト・ブロムシュテッドさんのときとは客層が少し違っているように感じました。もちろん,定期会員の人たちは同じですが,それ以外は,年齢が若く,井上道義さんファン,というか,そんな感じでした。当然のことですが…。
 クラシックのオーケストラではないですが,かつて「踊る指揮者」といわれた人がいました。それはスマイリー小原さんですが,井上道義さんの指揮はまさにそんな感じで,指揮というより曲のイメージを体で表現して踊っているように見えました。お元気です。というか,元気すぎるというか。また,カーテンコールが異質で,何度もステージに出てきては団員さんのまわりを駆け回りました。そんなカーテンコールはこれまでに見たことありませんでした。
 11月の定期公演は,今回のAプログラムだけが井上道義さんなので,この日で終わりです。そこで,恒例で花束が贈られたのですが,贈るほうでなく,受け取るほうの井上道義さんがひざまづくなんて,何だか不思議な光景でした。
  ・・
 今回取り上げられた曲は,どちらも,打楽器が異様に響き,人間の生命の鼓動を表現しているという感じで,それが強いものだから,聴いている者のこころに訴えるというよりも,扇動するという,そんな感じで,私には,少々,食あたり気味になりました。
 ショスタコービッチの音楽は,私が忙しかったその昔は,気が乗らないときはそれを聴いて自分を奮い立たせたものですが,その必要もなくなった今となっては,まあ,もう少し静かにしてよ,みたいな気にもなります。それは,演奏のよし悪しとはまったく関係がありません。それよりも,音楽を聴くというのは,そのときの精神状態がかなり大きな意味をもつものなのです。

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ホテル松葉川温泉に着いたのが午後2時すきだったのですが,チェンクインが午後3時からということでまだ時間が早く,部屋に入ることができなかったので,ホテルに入る前にJR窪川駅に行ってみることにしました。
この旅で私がこの旅でやり残していたことはホビートレインに乗ることだけでしたが,明日の朝10時20分窪川駅発のホビートレインに乗ってそれを実行しようと思っていました。しかし,この時点では,ホビートレインにはどの駅で乗車して,どの駅で降りて,反対側から来る列車に乗り換えて戻ってくるかは決めかねていました。それは,車を駐車することができるのがどの駅なのか,また,折り返すのに便利な駅がどこなのか,時刻表を見てもよくわからなかったからです。そこで,それを実地調査をしようと考えたのです。

私はこの旅で来るまで,窪川というところを知りませんでした。2020年に高知市から足摺岬まで車で行ったから通っていると思うのですが,記憶にありません。
窪川駅は,かつて窪川町という名前だったところにありました。窪川町は,2006年,大正町,十和村とともに合併し,四万十町となったことでその名が消滅しました。現在,窪川駅は四万十町琴平町という地名のところにあります。また,四万十町役場は窪川駅のとなりにあります。おそらく,窪川町といっていた場所が現在は琴平町という名前に変わったのだと想像するのですが,どうして名前を変えたのか調べてもよくわかりませんでした。
蛇足ですが,四万十町のとなりには四万十市がありますが,四万十市は以前は中村市といったのですが改名されたということです。しかも,四万十市にも別の四万十町があるそうです。要するに「四万十」というブランドをつけたいのだと思うのですが,紛らわしいことこの上ありません。

また,窪川駅はJR四国と土佐くろしお鉄道のふたつの鉄道会社の駅ということでしたが,これもまた,私にはよくわかりませんでした。そもそも,国鉄民営化以降の組織が複雑すぎます。このように,この国は,何もかも,その土地の大人の都合で,利便性などどこかに置き去りにされてしまい,何らかの利害関係だけでいいように変更されているようで,とても不親切です。
理系頭の私は,納得がいかないとそのままにできないので,四国の鉄道網について調べてみました。
  ・・・・・・
香川県多度津町の多度津駅から高知県高知市の高知駅を経て窪川駅に至るのがJR四国・土讃線で,引き続き,窪川駅から四万十市の中村駅に至るのが土佐くろしお鉄道・中村線ということです。つまり,窪川駅は,JR四国・土讃線の終点であり,土佐くろしお鉄道・中村線の起点です。
また,窪川駅の土佐くろしお鉄道・中村線の次の駅である若井駅を線路名称上の起点とし,宇和島方面に行くのがJR四国・予土線です。しかし,JR四国・予土線の列車は,若井駅が始発ではなく,窪川駅が始発で,窪川駅から若井駅間はくろしお鉄道・中村線に乗り入れています。つまり,JR四国・予土線は1駅間だけJR四国ではなくくろしお鉄道の路線を走っているのです。このため,窪川駅から若井駅間は別会社なので別料金です。終点は北宇和島駅ですが,列車は北宇和島駅が終着ではなく,香川県高松市の高松駅から愛媛県松山市の松山駅を経て愛媛県宇和島市の宇和島駅に至るJR四国・予讃線と合流して,次の宇和島駅まで走ります。こちらはともにJR四国なので別料金ではありません。
ということで,私が乗ろうとしているホビートレインは,JR四国・予土線で窪川駅と宇和島駅を結ぶものなので,窪川駅から1駅間だけ土佐くろしお鉄道を通り,次の若井駅からJR四国・予土線を経由して北宇和島駅まで行き,北宇和島駅から,JR四国・土讃線を1駅間走って,宇和島駅まで行くことになります。
また,JR四国・予土線では,「予土線3兄弟」といって,ホビートレインを含めた観光列車を3種類走らせています。このことはまた次回。
  ・・
窪川駅は,1951年(昭和26年)に当時の日本国有鉄道土讃本線の終着駅として開業しました。
その延長として,窪川から中村経由で国道56号線に沿って宇和島までを結ぶ計画だった路線を,途中の中村まで1963年(昭和38年)に部分開業させたのですが,中村線を土讃本線の一部とせず独立させたことが赤字路線と指定される原因となってしまう結果となり,国鉄分割民営化後の1988年(昭和63年)にそれまでの中村線は土佐くろしお鉄道に移管されたのだそうです。
また,計画だった中村駅から先は,指宿駅までが国鉄分割民営化後に土佐くろしお鉄道によって完成して,現在,土佐くろしお鉄道・宿毛線となっていますが,未だ,宿毛駅から宇和島駅までは未完成です。
現在,JR四国土讃線の特急列車は「志国土佐時代の夜明けのものがたり」以外は窪川駅が終点ではなく,引き続き,くろしお鉄道・中村線に入って直通運転を行っています。普通列車は窪川駅止まりで,くろしお鉄道・中村線に行くには乗り換えとなります。
  ・・
JR四国・予土線は,四万十川の上流部に沿って走る路線であることから「しまんとグリーンライン」の愛称が与えられています。また,土佐くろしお鉄道・中村線は,宿毛線とともに「四万十くろしおライン」という愛称がつけられています。これもまた,「しまんとグリーンライン」は「しまんと」というひらがなが使われていて,「四万十くろしおライン」は「四万十」という漢字があてがわれているというように,知らない人にはわけがわかりません。
  ・・・・・・

さて,窪川駅に着いた私は,窪川駅のとなりにあった四万十町役場の駐車場に車を停めて,道路を隔てたところにあった観光案内所に入りました。まず,付近に駐車場がないかを聞いてみると,少し歩いたところに広い空き地があって,そこなら自由に1日中車が停められるということでした。聞いてみなければわからない情報でした。さすが旅慣れた私,要領がいいです!
ということで,窪川駅付近に駐車場を見つけたので,ホビートレインには窪川駅から乗車することにしました。
次に,窪川駅に行って,駅員さんに聞いてみました。
私が乗るホビートレインは窪川駅午前10時20分発で,時刻表とにらめっこした私が折り返しの列車に乗るのを決めたのは土佐大正駅でした。私の乗る予定のホビートレインが土佐大正駅を発車するのが午前11時34分で,折り返しの列車が土佐大正駅を発車するのが午前11時35分でした。時刻表で見る限りは,その間は1分しかありませんでした。もしこれに乗り継げないと,次の列車は2時間以上先になります。つまり,駅前に何があるのかわからない土佐大正駅で長時間過ごさなければならなくなります。果たして無事に乗り換えることができるのか? 土佐大正駅の近辺には何があるのか? とても不安でした。
駅員さんは「このふたつの列車は待ち合わせをしているわけでないので,乗り換えられるかどうは不明」と言いました。とても不親切な対応で,これには落胆しました。しかし,窪川駅から土佐大正駅までと土佐大正駅から窪川駅までの往復のチケットだけはこのときにしっかり買わされました。1,410円もしました。
しかし,実は…,意外な展開が待っていたのです!

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四国には,吉野川,仁淀川,四万十川という三つの大きな川があります。
吉野川は,高知県と徳島県を流れ,流路延長194 キロメートル,流域面積3,750平方キロメートルです。「日本3大暴れ川」のひとつで,坂東太郎という利根川,筑紫次郎という筑後川と並び,四国三郎の異名をもっています。これは中学受験の必須知識かな。
仁淀川は,愛媛県と高知県を流れ,流域面積1,560平方キロメートル,流路延長124キロメートルで,水質がよく,水面は仁淀ブルーとよばれています。
四万十川は,高知県の西部を流れる一級河川で,流路延長196キロメートル,流域面積2,186キロメートルで,四国内で最長の川です。本流に大規模なダムが建設されていないので「日本最後の清流」であり,柿田川,長良川とともに「日本3大清流」のひとつです。 四万十川には支流も含めて47の沈下橋があります。

私は,この四万十川の沈下橋を写した写真に憧れて,2020年2月,コロナ禍直前に訪れました。このときの私は,いつものように事前にほとんど何も下調べをしないで行ったものだから,四万十川があれほど蛇行をしているとも知らず,まずは下流の四万十市から四万十川に沿って上流に向かい,有名な沈下橋を順に見て回り満足し,いいところだという印象をもちました。
そうして,すっかり堪能したものだから,逆に沈下橋にも四万十川にもさほど想い入れがなくなってしまい,今回は四万十川も沈下橋も見る予定はありませんでした。その代わり,その場の思いつきで,まず,四国カルストへ行き,そのあと「坂本龍馬脱藩の道」ということばに惹かれて檮原町へ行きました。そして,2日目の宿泊先である四万十町の松葉川温泉をめざして車を走らせていました。
四万十町とか四万十市とかよく似た名前で紛らわしいのですが,四万十川の上流にある町が四万十町,下流にある町が四万十市です。
松葉川温泉は,思った以上の山の中でした。山奥の狭い道を登り,この先にホテルなどあるのだろうか,というところだったのですが,それが実際どんなものだったかは次回のお楽しみとして,今日は,沈下橋の話題です。

今回走った道は,期せずして,四万十川の源流のある津野町から四万十川沿いに下流に向かっていたのです。前回の反対です。まことにのどかなところでした。そうしてまず見つけたのが高樋沈下橋でした。
  ・・・・・・
四万十川本流最上流の小さな沈下橋が高樋沈下橋で,県道19号線沿いの中土佐町大野見大股にかかるので,通称「大股の沈下橋」ともいいます。四万十川上流でまだ川は用水路のようですが,かつては川が増水すると木製の橋は流出し,遠くまで橋を拾いに行くこともしばしばあったそうです。全長32メートル,幅員1.5メートルで,その幅員の狭さから,二輪車までしか通行できません。
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四万十川は多くの人が思い描いているような広く雄大なものでなく,また,まわりの風景も田園地帯ですが,こののどかさがたまりませんでした。

高樋沈下橋からすこし下流に,こんどは一斗俵沈下橋がありました。
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一斗俵の沈下橋は1935年(昭和10年)に建設された四万十川に現存する最も古い沈下橋です。
全長60.6メートル,幅員2.5メートルで,四万十町の壱斗俵集落と米奥集落を結ぶ町道米奥壱斗俵船の橋です。
米奥集落には米奥小学校があって,橋が架かるまでは渡し船が運航していました。壱斗俵地区は高南台地とよばれる高知県有数の穀倉地帯で,美しい田園風景がみられます。
「高知フォトスポット100景」に選定されているビュースポットでもあります。
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橋のたもとに置かれた舟がいい雰囲気を醸し出していました。

IMG_4958四万十川沈下橋


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四国カルストを出て,次に行ったのは檮原町(ゆすはらちょう)でした。
この町に行ったのは「坂本龍馬脱藩の道」があると知ったからです。
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1853年(嘉永6年),剣術修行のため土佐を出発した坂本龍馬は,江戸で北辰一刀流の千葉定吉道場へ入門しました。この年,ペリー率いる黒船4隻が浦賀に来航し,坂本龍馬も品川の沿岸警備に動員されました。
1861年(文久元年),27歳になった坂本龍馬は武市瑞山率いる土佐勤王党に加盟し,翌年,武市瑞山の密書を持って長州萩の久坂玄瑞のもとを訪ねました。久坂玄瑞から,いまや大名も公卿も頼りにならず,これからは草莽の人々,つまり,志のある在野の人々が立ち上がらなければいけないと教えられ,土佐へ帰り,その翌月には脱藩をしてしまうのです。
  ・・
江戸時代は,藩を出るときには藩の許可が必要で,関所で手形を見せる必要がありました。脱藩というのは無許可で藩外に出ることで,現在でいえばパスポートを持たずに日本を出ることに当たります。28歳で脱藩した坂本龍馬は長州藩に行き,そこから薩摩を目指したといわれています。
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私は,坂本龍馬が大好きですが,不勉強で,脱藩をして歩いた道がどこにあったのかまったく知りませんでした。よく,本に写真が載っているのですが,それがどこで撮られたものかもわかりませんでした。
おそらく,現代の高知県から香川県のほうに向かったとばかり思っていました。
それが,高知市よりはるか西の檮原町を通ったと知って,大変驚きました。そこで,ぜひ,その道を見てみたいと思ったわけです。

到着した檮原町は,実にすばらしいところでした。この町の中心街には電柱がなく,それはそれは美しい町でした。こんなところに,これほどの町があることが驚きでした。地方の町はそれぞれ特徴があって,その町の個性をうかがい知ることができるのですが,このような整備の仕方ひとつにも,その町の「知性」が垣間見られます。
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檮原町は913年(延喜13年)津野経高公がこの地に入り,開拓によって津野荘を築いて以来,687年間津野氏の所領となり,地域の政治,文化の中心地として発展してきました。
1600年( 慶長5年)山内氏の所領となり津野山郷と称しました。
明治維新の変遷を経て,1912年(明治45年)には檮原村と改め,さらに,1966年(昭和41年)檮原町となりました。
檮原町は,幕末から明治維新にかけて重要な役割を果たした場所です。町内には、坂本龍馬や吉村虎太郎を始めとする志士たちが、土佐藩を脱藩するために通った道が昔の趣を残したまま存在しています。
坂本龍馬は,那須俊平・信吾父子の案内で盟友澤村惣之丞とともに梼原を通って韮ヶ峠から脱藩しました。また,土佐勤王党,天誅組,忠勇隊に参画した梼原出身の志士,そして吉村虎太郎,那須信吾,那須俊平,掛橋和泉,中平龍之介,前田繁馬たちは,大いなる使命感に燃えながら,この道を幾度となく往来したといわれています。
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檮原町には「坂本龍馬脱藩の道」のほかに,檮原町にゆかりのある六志士に坂本龍馬,沢村惣之丞を併せた8人の銅像が建立されていて,ここを「維新の門」と称します。明治維新が成り,近代国家が誕生したときには,既に8人の志士は壮絶な死を遂げていました。
また,ゆすはら座という建物が保存され,現在も利用されています。ゆずはら座は1948年(昭和23年)に建設された建物です。大正時代の和洋折衷様式を取り入れた建造物で,モダンな外形に花道のついた舞台,2階の桟敷席,天井の木目の美しさが引き立つ,高知県下唯一の木造りの芝居小屋です。
さらに郊外には千枚田もあって,美しい景観を眺めることができました。

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「酷道」と化した国道439号線をしばらく走っていくと,再び道幅が広くなりました。
四国カルストという道路標示があったので,道路標示に従って,県道48号線に進路を変えました。しかし,これは大間違いでした。
そもそも,四国の道は,国道439号線に限らず油断ならないのです。しかし,これは四国に限ったことではなく,春に行った紀伊半島も同様でした。都会暮らしの人には想像できないでしょうが,山間部の日本の道路は,ただ車が走ることができる,つまり,車が走れるぎりぎりの幅がある,というものと,最低片側1車線あって安全に快適に走ることができる,という2種類があるのです。しかし,それは地図にはまったく表記されていないし,また,道路の改良工事によって,頻繁に変わるので,地元の人でさえ,どちらななのか判断がつかないことすらあるそうです。
つまり,どうでもいい情報は山ほどあれど,本当に必要な情報が手に入らない国なのです。

もともと,四国カルスト,というところがどうなっているのかが私にはよくわかりませんでした。ガイドブックなどにあれだけ有名で雄大な景色の写真があるにもかかわらず,です。これは,山形県で月山に行ったときも同様でした。
よく知っている人には当たり前のことであっても,はじめて行く人には困難を極めます。
そもそも,地図を見ても,四国カルスト,という表示すらないのです。
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四国カルストという道路標示に従って進路を変えた道である県道48号線は,くねくねの「酷道」でした。そんな「酷道」をいやになるくらい走っていくと,やがて,林道と交差しました。実は,この林道こそが,片側1車線の安心して走ることができる,四国カルストにアクセスできる道路だったのです。しかし,だれが考えても,県道と林道,知らなけらば県道を選ぶことでしょう。
やがて林道は県道48号線に吸収され,快調な道路となって,やがて,四国カルストに着きました。
着いた場所は天狗高原といって,そこにあったのが,2021年7月全館リニューアルオープンした「星ふるヴィレッジTENGU」という宿泊施設でした。 「天狗高原の山腹にある天体観測に特化した高級ホテル」ということで,天文台のドームとプラネタリウムが付属していて
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「星ふるヴィレッジTENGU」は,眼下に広がる雄大な景色を望めるパノラマルーム,悪天候でも星空や自然を体感できるプラネタリウム,室内で星空を楽しむ天井がガラス張りになった特別な星空客室など,四国カルスト天狗高原の大自然をお楽しみいただける施設です。
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とホームページにありました。
このあたりはハワイ・マウイ島のハレアカラ(=1番目の写真)のような感じではあるのですが,ハレアカラの方が,ずっと道路がしっかりしています。また,この施設は1人では宿泊することができないようでした。
数年前の私なら,ここは憧れの場所だっただろうと思いました。ここなら,満天の星が見られるのは疑いのないところなのです。確かに,近くの空き地で大きなタカハシの望遠鏡を2台設置している人がいましたが,時刻は朝。こんな時間に何をしているのだろうと私は疑問に思いました。
とはいえ,世界中を知ってしまった今の私としては,いくらここの星空がすばらしいとしても,日本では晴天率が悪く,また,一般の観光客を対象とする天文台のある施設には,もはやまったく興味がありません。

この先,県道48号線は終わりとなって,県道383号線にぶつかるT字路になるのですが,ここはまた,高知県と愛媛県の県境にもあたっていて,県道383号線は県境が道路にそっておらず県境を巻くようにらせん状になっているから,単に道路を走っているだけなのに道路が県境を何度も何度も跨ぐので,「高知県に入りました」「愛媛県に入りました」と県境をまたぐたびにカーナビがうるさいこと!
実は,よく旅行ガイドにでてくる四国カルストは,ここで進路を左にとって,国道383号線を西に向かって走ったところなのでした。私は偶然その方向に向かって走ったので幸運にもその場所にたどりついたから,そうしたことがわかったのですが,もし,反対方向に走っていたら,たどり着くことらできなかったわけです。
天狗高原をすぎたあたりが姫鶴平でした。つまり,四国カルストというのは,天狗高原とか姫鶴平とかいったさまざまな名前のついた一帯のことをさすようでした。
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四国カルストは,山口県の秋吉台,福岡県の平尾台とともに,日本3大カルストのひとつで、最も高い標高からは石鎚山などの周辺の山々が一望できます。
西から大野ヶ原,姫鶴平,五段高原,天狗高原まで,なだらかな山肌には,夏は緑の草原,秋はススキが一面に広がり,1年を通して四季を楽しむことができます。浸食作用で地表に露出した石灰岩が点在していて,乳牛の放牧地帯としても有名で,多くの牛が放牧され,カルスト特有の風景をさらに牧歌的にしています。
高知県では雲海や星空の名所として「天空の爽回廊」とよんでいます。
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県道383号線をそのまま進めば地上に帰ることができそうだったのですが,珍しく親切に,この先は道路幅が狭いという標示があったので,もう「酷道」は御免だと,ここで引き返し,今度は,林道を通って下山しました。林道はずっと快適な道路でした。

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2日目 2022年10月21日金曜日
旅の2日目になりました。
かずら橋を渡ることと,予土線で新幹線を模したホビートレインに乗ることだけが目的で,それ以外は何も予定を立てずにやってきたので,残る目的はホビートレインに乗ることだけでした。予土線の駅は,祖谷から最も近い窪川駅までも結構遠くて,車で2時間以上はかかります。ホビートレインの時刻は午前10時20分の1本です。
朝早く旅館を出発すれば行くことができないこともないので,よほどそうしようと思って悩んだのですが,明日宿泊するホテル松葉川温泉が窪川駅からわずか20分のところにあることがわかったので,ホビートレインの乗車は3日目にして,2日目は,せっかく来たのだから,祖谷からこの日宿泊するホテルまで,おもしろそうな場所を回ることにしました。

ということで,それほど早くチェックアウトすることもなかったのですが,宿泊を予約したコースが早朝出発というものだった「らしく」,というのは,私はそのように意図したわけではなかったのですがいつも適当な私はきちんと確認もしないで予約したので,どうやらそうなっていたようでした。それは,早朝出発して剣山に登山する人向けのものだったのです。そこで,朝食の代わりに,お弁当が用意されていました。変更するのも面倒だったし,迷惑だといけないなあと思った私は,そのままお弁当をもらって,さも,さあこれから登山だ,みたいな雰囲気を漂わせて,まだ日の出前の午前6時にチェックアウトしました。
私は,普段は午前4時起きです。老人は早起きなのです。そこで,朝早いのはまったく苦ではないのです。

早朝,今日の予定を調べて,まず,四国カルストへ行くことにしていました。
数年前,今のように四国のことを知らなかったとき,そして,若かったとき,足摺岬と宇和島市に行ってみたいという目的で,自宅から夜行の高速バスで高知市まで来て,そこでレンタカーを借りて,1泊2日で周遊したことがありました。あれはあれで楽しい旅でしたが,そのときに行きたかった四国カルストは,時間がなく断念したのを思い出したからでした。
今回の旅でも,また,帰宅してから,このブログを書きながら調べてみると,やはり,せっかくいい見どころがもっとあったのに,見過ごしてしまったところが少なからずあります。しかし,それはそれでいいのです。というのは,また来る口実になります。本当に魅力的なところなら,いつかまた,きっとリピートします。国内であれ,海外であれ,旅というのはそんなものです。やり残したことがあるのはすてきなことです。

お昼間も交通量は少ないのですが,早朝はさらに少なく,気持ちよく走っていると,次第に夜が明けてきました。私はこの瞬間の空が好きです。
そのころ,祖谷の道の駅の駐車場に車を停めて,もらってきた朝食を食べました。
四国カルストに行くには,この先,また,「酷道」ならぬ国道439号線を,今度は西にむかって走っていくのですが,このあたり,国道439号線は「酷道」ではなく,片側1車線の,けっこういい道がずっと続いていました。
仁淀川町を過ぎて,山の中に入るとトンネルの手前にあったのが,「四万十川源流」の標示でした。私はよほどそこに車を停めて,四万十川源流まで歩いて行こうと考えました。
以前何かで読んだことがあるのですが,四万十川源流まではそこから結構な距離を歩く必要があるようでした。それでも,おそらく数年前なら行ったかもしれません。しかし,先日,長年行きたかった京都の愛宕神社に往復6時間かけて登って以来,私はまったく歩くことに自信がなくなり,こんなところで遭難でもしたら一大事だと思ってあきらめました。歳は取りたくないものです。
四万十川源流に行くことは断念して,そのまま進んでトンネルを抜けると,道路は急変して国道439号線は「酷道」に変身しました。


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☆☆☆☆☆☆
 11月の満月は「ビーバームーン」ですが,そんな満月の日の2022年11月8日,この日はおそらく今年で1番の天体現象であろう「皆既月食中に天王星食」が起きました。
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 皆既月食はそれほど珍しい天体現象ではありませんが,皆既月食中に惑星食が起こるのは珍しいことで,何と前回1580年7月26日の土星食以来,442年ぶりということでした。1580年といえば安土桃山時代で,安土城の完成が1576年だから,織田信長の絶頂期でした。なお,次回は2344年7月26日に起こる土星食なので,322年後のことです。また,「皆既月食中の天王星食」に至っては,過去5,000年で1度も起きていなかった現象です。
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 このように,大げさに報道されていたのですが,これは日本国内でのことで,世界規模では「皆既月食中の天王星食」は,それほどは珍しいものでもなく,8年前の2014年10月8日にシベリアで見られました。また,次の「皆既月食中の天王星食」は2235年6月2日で,これは南アメリカで見られますし,その次は,2304年3月23日に起き,南アフリカから南極で見られます。天王星以外では,1682年8月18日に海王星食が太平洋上で見られたのが最も新しく,この次は,世界規模でも上記に書いた2344年7月26日の土星食まで待たなければなりません。
 果たしてそのころまで,人類は地球上に存在しているのでしょうか?
  ・・
 月食のはじまる時刻や終わる時刻というのは日本全国どの場所でも変わらないのです。どうしてなのでしょう? それは,日食は月によって太陽が隠されてできる影が地球上の一部の場所に限られていて,それが月の動きとともに動くので場所によって起きる時間が異なるのに対して,月食は地球によって太陽が隠されてできる影の中に月が入るのを地球から眺めることによって起きるもので,影は月全体をすっぽりと隠してしまうので,地球上のどこから見ても同じだからです。ただし,月の高度や方位は異なっています。また,天王星食が起き,終わる時刻は地域によって異なります。
 天王星の明るさは最大高度が5.6等星で,かろうじて肉眼で見ることができる明るさですが,木星のように衛星が見られるわけでもなく,土星のように輪があるわけでもないので,見えていたとしても,区別がつきません。そこで,こうした月食のときのように,標的となる天体があるときに,やっと区別がつくというものです。まして,それが食になる,というのはかなりの驚きです。

 いつもいい加減な私は,事前に準備することもなく,何となく晴れたら写そう,と思っていただけでしたが,快晴となったので,ちょっとやる気になりました。とはいえ,空の暗いところに行くわけでもなし,家の近くで見ただけです。
 月が明るいと,空の明るい場所で天王星を見つけるのは困難です。
 この日も,月が欠けはじめるまえは,双眼鏡でも天王星は見つかりませんでした。しかし,月が欠けはじめると,次第に天王星がはっきり見えるようになってきました。
 私がこの日,やりたかったのは,天王星が月に隠れる寸前と月から出た直後の写真を写すことでした。皆既月食はこれまでにも何度も写したことがあるので,特に興味はありませんでした。
  ・・
 その中で,天王星が月に隠れるのを写すのはそれほど難しいものではありませんでした。あるものが消える瞬間は狙えます。適正な露出になるように,何度も試しに写しておけばなんとかなります。しかし,天王星が月から出た直後の写真は難しいのです。ないものが出てくるというのは予行ができないのです。それでも,皆既中であれば,月に隠れるときと同じ露出でいいのだから何とかなるのですが,今回は,月から出るときはすでに皆既は終わっていて,月の明かりがじゃまになるのです。露出を少なくすれば暗い天王星が写らず,露出を多くすると,月が明るくなりすぎて,天王星が消えてしまうのです。
 そんなわけで,月から出るときの天王星を写すのは半ばあきらめていました。
 ダメ元ということで,適当に露出を決め,何段階も露出を変えながら写していきました。
 自宅に戻って調べてみたのですが,天王星を探すのに苦労しました。そして,ついに発見しました! 何と運がよかったことでしょう。露出を変えながら写したもののうち,もっとも露出が適切な写真にちょうど天王星の出が一致していました。
 ということで,今回の,皆既日食中の天王星食を写すことは,完全に成功しました。大満足でした。

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祖谷のかずら橋を渡って,アユを食べて,琵琶滝に行って,トラベルクーポンでお土産とビールを買って,旅館に戻ったのが午後5時でした。これからお風呂に入って,夕食です。
旅館の風呂は小さくて,外にある温泉に行くことはできたのですが,明日泊まるのが温泉だったので,旅館の風呂にしました。
風呂から出て,部屋でクーポンで買ってきたビールを飲んでいたら夕食の時間になりました。小さな旅館の楽しみはこうした食事です。
宿泊客は私のほかに何組かいました。さすがに行楽シーズンだけあります。
食事は低カロリーでおいしくて満足しました。これで今日の日程は終わりで,老人はこれで寝るだけです。私は,めったにテレビは見ません。

と思っていたら,宿の人からかずら橋がライトアップされているということを聞きました。これはうれしいサプライズでした。
ということで,食事後,出かけることにしました。
ライトアップではかずら橋は渡ることができず,かずら橋に平行にかかっている現代の橋から見るのです。天気がよく,空には満天の星が輝いていて,その気なら,三脚にカメラをつけて,かずら橋と星空,という写真を撮ることもできたのでしょうが,私は三脚も一眼レフカメラも持ってきていないのであきらめました。
私は旅は極力荷物を持たないことにしていて,今回の2泊3日の旅も,小さなリュックひとつでした。
それはそれとして,ライトアップされたかずら橋は幻想的でした。さらによかったことは,ほかに人がひとりもいなかったことで,私の独り占めでした。また,琵琶滝もライトアップされていました。夕方とはまったく違う,静寂に包まれていました。
旅はこうでなければ,と思いました。大満足でした。

旅館に帰ると,夕食の準備を終えて,一休みしていた旅館の女将の息子さんがいて,しばらくお話をしました。せっかくのライトアップなのに,ほかにだれもいなかったと話したら,私の行った時間は,団体ツアー客はホテルで食事中だから,ということでした。食事が終わると,バスで大挙してやってくるのだとか。
歩いてかずら橋に行くことができるところに宿泊している私はラッキーでした。
こうして,何もかもうまくいった1日目が終わりました。
さあ,明日からどうしよう。

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私はすでに奥祖谷でふたつのかずら橋を渡っているので余裕に思っていたのでしたが,奥祖谷のふたつのかずら橋より,祖谷のかずら橋のほうが橋床の間が広く,驚きました。何でも,この隙間に靴が絡んで落としてしまう人が結構いるという話でした。
私が渡るときも観光客が少なからずいたのですが,渡り終わったころに,ツアー客が大挙して押し寄せて,かずら橋に殺到し,へっぴり腰で渡りはじめたものだから,橋はごった返しました。私はこれがいやで,観光地化されてしまっている祖谷のかずら橋には,団体ツアー客が帰るであろう夕刻の時間にやってきたのですが,これが裏目に出ました。こんな夕刻にツアー客が来るなんて最悪でした。私は渡り終わっていたからよかったものに,静寂が破られました。
それはともかく,かずら橋を渡り終えると,そのさらに先には,高さ50メートルの琵琶の滝がありました。昔,平家落人が京の都をしのび,この滝で琵琶をかなで,つれづれを慰めあっていたことから名づけられたと言い伝えられているということです。
この地にあるのが平家落人伝説です。西祖谷の平家落人伝説を代表する場所が,源氏の追手が来たときに切り落とせるように蔓を束ねて橋を造った「祖谷のかずら橋」と琵琶の滝です。
  ・・・・・・
第81代安徳天皇は,高倉天皇の第1皇子で,母は平清盛の娘の徳子です。徳子は平清盛と後白河法皇の政治的協調のため,高倉天皇に入内して安徳天皇を産みました。壇ノ浦の戦いののち,平氏一門は滅亡しますが,徳子は生き残り,京へ送還されて出家し大原の寂光院で晩年をおくりました。
歴史では,安徳天皇は壇ノ浦の戦いで入水したことになっていますが,実は,平氏の残党に警護されて地方に落ち延びたとする伝説があり,そのひとつが,この祖谷で,祖谷山に逃れて隠れ住み,16歳で崩御し栗枝渡八幡神社の境内で火葬されたといいます。平国盛が祖谷を平定し,麻植郡に逃れていた安徳帝を迎えたということになっています。
天皇一行が山間を行く際に樹木が鬱蒼としていたので鉾を傾けて歩いたということに由来する「鉾伏」。谷を渡る際に栗の枝を切って橋を作ったことに由来する「栗枝渡」など,安徳天皇に由来すると伝わる地名が残っています。 
  ・・・・・・
かずら橋を渡り,琵琶の滝を見ると,今度は,それに平行にかかる現代の橋を渡って戻ることになります。

今旅行をすると,宿泊代金の補助とともに,その県内のみで使うことができるクーポンがもらえます。このクーポン,けっこう利用するのに難儀します。それは,クーポンは宿泊先でもらえるのですが,県内でしか使えないので,翌日に他県に行くとすると使う機会がないということ,そして,使えるところが限られているということにあります。ならば使わなくてもいい,という考え方もなりたちますが,みすみす3,000円を使わずに捨てるということは,私のような貧乏人にはできるものではありません。また,宿泊先での飲み物代として使えることもあり,使えないこともありと,それもまた複雑でよくわかりません。さらには,県によって,500円券が6枚という徳島県のような場合と1,000円券が3枚という高知県や長野県のような場合もあって,おつりがでないということで,不便だったりします。
ということで,クーポンがなければ買わないようなものを買ってみる,ということになって,なんだか,税金をむだ遣いしているようで,気が引けます。まあ,それでも,現地のお店が潤うから目的は達しているということなのでしょうが,何か腑に落ちません。
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実は,私は,この日このクーポンを使うのに苦労していました。それは,明日の早朝,高知県に行くので,今日中に使わなければならないということだったからです。
祖谷のかずら橋の料金は,クーポンは使えませんでした。そこで,かずら橋を渡り終えたところにあったお店でクーポンが使えるということで,3,000円のうち500円分のクーポンを使ってアユの塩焼きを食することになったのです。このあと夕食が待っている,というのに…。
そんなわけで,残った2,500円分のクーポンをどう使うか途方にくれた私は,まだ1日目だというのに,大きな駐車場に併設されていた売店で土産物やらビールやらをしこたま買い込むことになってしまったのでした。

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高知到着が早かったこともあって,1日目に奥祖谷のかずら橋,大歩危渓谷とまわることができました。午後4時と,まだ時間が早かったのですが,今日の宿泊先である祖谷観光旅館へ行くことにしました。
今日の宿泊先である祖谷観光旅館は県道沿いにあって,朝,奥祖谷に行ったときに通過したところでした。向かい側に4台から5台程度停めることができる駐車場があって,そこに車を停めて旅館の玄関をくぐりました。
女将は年配の女性でした。先日行った十津川温泉とおなじような感じでしたが,この旅館には温泉がなく,温泉につかりたいときは,近くの温泉に行くことになるという話でした。一旦部屋に入って,荷物を置いて,夕食前にかずら橋に行くことにしました。
祖谷で,かずら橋まで歩いて行くことができる旅館はここくらいのものだったのが幸運でした。団体ツアーは少し離れたところに宿泊して,バスでやってくるということで,大きな駐車場がありました。事前に調べたように,かずら橋は秘境ではなくまさしく日本のどこにでもある観光地でした。

私がこの日宿泊する旅館から坂道を曲がりながら下っていくとかずら橋に至ります。坂は結構急で,降りて行くときは問題がないのですが,帰りが結構たいへんでした。
こうした観光地は,おそらくコロナ禍で,どこもかなりの打撃を受けているようで,喫茶店は閉じていたり,土産物屋も開いているのかいないのか? というようなところが多く,寂しく思います。
書いていることと矛盾しますが,おそらく2019年まではこの場所もかなりのインバウンドで,外国人観光客でいっぱいだったように思います。なにせ,簡単に来ることができる秘境,しかも,アジアらしくごっちゃごちゃの雰囲気は,西洋にはありません。
やがて,かずら橋に着きました。
祖谷川にかかるかずら橋は一方通行で,少し坂を降ったところに料金所があって,そこでお金を払って渡ります。

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四国といえば大歩危・小歩危,だとよく聞いていたのですが,これまで行ったことがありませんでした。そもそも,大歩危・小歩危というのが何のことかすら知りませんでした。
先日,紀伊半島に行ったときに瀞峡という渓谷で観光船に乗ったとき,ここは大歩危渓谷を規模を小さくしたところだと聞いたので,はじめて,大歩危というところがどういうところかおぼろげにつかめました。そこで,せっかくここまで来たこともあって,行ってみることにしました。
国道32号線は吉野川沿いに走っていて,ドライブインに大きな「舟下り」という看板が見えました。どうやらここが大歩危なのだろうとわかりましたが,小歩危が何かわかりません。ガイドブックなどには大歩危とは書かれてあっても小歩危が見当たらないので,これではかわいそう… ということで,まず,小歩危まで行って見ることにしました。
国道32号線を走っても,渓谷の景色は見えません。展望台もありません。やがて小歩危という道路標示はあったのですが,まったく景色も見えませんでした。車を停めるところも展望台もありありません。小歩危はそれだけのところだったのです。がっかりして,「舟下り」とかかれた看板のあるドライブインまで引き返しました。

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大歩危は,四国・吉野川西岸の徳島県三好市山城町西宇地区の歩危茶屋付近から高知県長岡郡大豊町大久保地区の一部までと,その対岸となる徳島県三好市西祖谷山村の一部を指す総称で,峡谷そのものは大歩危峡とよばれます。数キロメートル下流の小歩危峡とともに,大歩危・小歩危として有名です。
「四国三郎」の異名をもつ吉野川は,水量が豊かで流れが速く、両岸から急峻な傾斜面と岩壁が迫ることから,V字谷の一帯は古くから通行の難所として知られてきました。川沿いに変成岩が露出していて「大股で歩くと危険」というのが地名の由来とされていますが,「歩危」ということば自体が山腹や渓流に臨んだ断崖を意味します。
大歩危峡の両岸は,2億年前から1億年ほど前に海底深く造られた結晶片岩で,板を重ねたようなこの結晶片岩には,礫を含んだ含礫片岩という珍しい岩などがあります。
大歩危渓谷には,100年以上の歴史がある大歩危峡遊覧船が運航しています。
  ・・・・・・
この渓谷の結晶片岩は大歩危渓谷では右に傾いていて,小歩危は左に傾いているという違いがあるということですが,ここはあくまで観光地で,アメリカの国立公園のように,学術的な博物館があったり,きちんと保存されていたり,観光船で詳しい説明を聞くことができたりするものではありませんでした。

国内外とわず,けっこう多くのクルーズに乗りましたが,日本の川下りはどこもスケールが小さいのは仕方がないこととはいえ,やはり,慰安旅行の範囲を超えるものはありません。
それでも,最上川川下りは,観光ガイドがしっかりしていてなかなかのものだったし,紀伊半島の瀞峡の川下りは秘境感満点で満足できました。それらに比べて,この大歩危渓谷の川下りは,いかに歴史があったとしても,値段も高く,運行時間も短く,案内も少なく,見どころもあまりなく,私にはいまいちでした。

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「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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「世界3大〇〇」「日本3大〇〇」というものがたくさんあります。
私がこの旅で話題にした「日本3大酷道」というのもそのひとつです。
「世界3大がっかり像」というものもあって,それはシンガポールの「マーライオン」,デンマークの「人魚姫像」,ベルギーの「小便小僧」だそうです。私はそれらをひとつも見たことがなく,また,見たいとも思わないのですが,本物の5分の4の大きさの「人魚姫像」だけは見たことがあります。それは,1999年にデンマークから大阪市に寄贈されたもので,現在は海遊館横のサンセット広場に移動したそうですが,以前は同じエリアの大阪文化館裏の海に面した場所にあったものでした。
これらの像ががっかりであるのは,思ったよりも小さい,というのが理由だそうですが,そう思う人たちは,こうした像がニューヨークの「自由の女神像」のような巨大なものだとでも想像しているのでしょうか? 私は,大阪の「人魚姫像」を見たとき,別にがっかりしなかったし,そんなものだ,と思いましたけれど…。

さて,この話は今日の話題に関連します。
「日本の3大秘境」と名づけられているのが,徳島県西部祖谷川の流域にある祖谷,岐阜県の白川郷,宮崎県の椎葉村だそうです。宮崎県の椎葉村は,九州のど真ん中,今でも山深い「秘境」の地の雰囲気に満ちているそうですが,岐阜県の白川郷は,もはや観光地化されてしまい,秘境感はまるでなくなりました。私はインバウンドの折に出かけて,がっかりした覚えがあります。
今回,私が訪れたのが祖谷。ここは依然として「深山幽谷」のことばがふさわしい「秘境」とよべる地だそうで,かなり山深い場所ということですが,車で行けば,大したことはありませんでした。むしろ奥祖谷のほうがずっと秘境でした,
とはいえ,従来は,深い谷と高い山に阻まれて他の地域との往来が困難であったために,独特の習慣や風習,文化,祭礼などが残されてきたといいます。また,屋島の戦いで落ち延びた「平家の落人」がこの地に住み着いたという平家伝説も存在します。

祖谷の町から山に通じる道路からはるか下を流れる祖谷川を眺めると,谷底まで200メートルの高さがあって、目がくらむようです。V字型に深く切り込んだ渓谷は「ひの字渓谷」ともよばれていて,祖谷川沿いの断崖には,祖谷街道の開設工事で残った岩が多数突き出ていますが,その中で1番の難所といわれる七曲にあるのが小便岩といわれる大断崖です。その小便岩の上に,かつて,周辺に住んでいた子供たちや通りかかった旅人達が度胸試しに乗ったり飛び跳ねたりしたということで,そんな逸話を元に,現在,小便岩には徳島県の彫刻家、河崎良行さんが1968年に作った「小便小僧」がひとりたたずんでいるのです。
  ・・
ここもまた,テレビの旅番組で紹介されたところですが,私は特に興味があったわけでもないのでどこにあるのか全く知りませんでした。大歩危渓谷に行こうと走っていたら,小便小僧という道路標示があったので,せっかく来たのだから,と行ってみたのです。
ちょうど同じころに来ていた観光客が,こんなに小さいの,とか言って落胆していましたが,これまた,今日のはじめに書いた「世界3大がっかり像」と同じ思いの人なのだと,私は,少し同情してしまいました。
眼下に広がる雄大な景色はすばらしいものでした。

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念願だった奥祖谷の二重かずら橋に行って,またひとつ,やりたいことリストが減りました。再び国道439号線で祖谷に戻ります。
来るときに通って驚いたのですが,祖谷から奥祖谷に行く途中で,「天空の村かかしの里」を通りました。帰りに寄ってみようと思っていました。驚いた理由は,以前,かかしの里をテレビの旅番組で放送していたのですが,それがこんなところにあったということに対して,でした。
  ・・・・・・
人よりかかしが多く暮らす「かかしの里」があるのは,徳島県三好市の山里である標高800メートルの名頃(なごろ)集落です。空に近いので,別名「天空の里」ともいいます。四国のほぼ中央の中山間地帯です。
集落を歩くと,そこかしこにかかしの姿を見ることができます。
素朴でどこか懐かしさを感じるデザインのかかしたちは,人々の生活にとけ込んでいます。名頃は人口わずか20人程で最年少が40代という限界集落ですが,なんとかかしが300体以上あります。
かかし村のはじまりは,綾野月美さんという女性の手作りからはじまりました。カラスの被害から畑を守るために,父親を模したかかしを作ったところ,近所の人がかかしに挨拶をするのを見て楽しくなり,そこから大量作成がはじまったそうです。
  ・・・・・・
国道439号線沿いにかかしがたくさん見られるのですが,道が狭いので,なんとか駐車スペースを見つけて車を停めました。まずは集会所の縁側にたくさんのかかしがありました。私は見なかったのですが,集会所の中もまたかかしが大集合しているということで,畳に寝そべっているおばあさんもまたかかしだそうです。
道路の周辺には,あっちにもこっちにかかしの姿があって,本当の人のように思えてきます。ときどき本物の人と間違えてドキッとします。バス停でバスを待っているのもかかしですし,野菜直売所にいるのもかかしですし,チェーンソーを持っているおじさんもまたかかしです。

かつて,ドイツ人の留学生が名頃を訪れ,「Valley of Dolls」(人形の谷)という動画をネットに投稿したところ,世界中から注目を集めました。その影響で,イギリスやカナダなど世界各国からも観光客が訪れていたそうです。
かかしは,表情豊かな顔作りからはじまり,木枠に新聞紙を80枚以上巻いて胴体を作り,要らなくなった洋服やブラウス,スニーカーや長靴などを着せて完成するそうです。制作は1体2日間程度です。2年くらいしか持たないので,これまでに制作した350体のうち,現在,集落に点在するに人形は約100体ということです。
村には「かかし基本台帳」なるものが存在していて,一体一体名前や性別・性格などが記載されているそうです。「かかし基本台帳」によると,かかし村の第1号かかしは,村長の続裕次郎さん。「子供のころはガキ大将。某有名大学を卒業後,大手商社に勤務。30歳のとき,幼馴染のきよちゃんと結婚を機に故郷に。地元森林組合に勤務し山を守る。実直な人柄。現在3期目」とあります。

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奥祖谷のかずら橋は深い森の中にありました。
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秘境の雰囲気が漂う美しい景観に囲まれたかずら橋は,平家一族が剣山の「平家の馬場」に通うために架けられたといわれる橋で,追ってを防ぐためいつでも切り落とせるように「しらくちかずら」で架設したと伝わっています。「祖谷13橋」といわれ,生活道として利用されていましたが,現在は,西祖谷山村善徳の祖谷のかずら橋とこの場所の2箇所だけが残っています。
奥祖谷二重かずら橋は,徳島県三好市東祖谷菅生の奥祖谷地区を流れる祖谷川にかかるかずら橋で,男橋と女橋の2本あって,夫婦橋ともよばれます。また,近くにはロープを引きながら渓流を渡ることができる「野猿」もありますが,現在は故障していて利用できません。
男橋は下流側にあって,長さ42メートル,幅2メートル,水面からの高さ12メートル,女橋は上流側 にあって,長さ22メートル,幅1.2メートル,水面からの高さ4メートルです。
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渓谷の入口に小屋があって,そこが料金所でした。小屋の中にいたおじさん,暇なのかやる気がないのか寝ていたのか,声をかけてもなかなか反応がありませんでした。こののどかさがたまりません。
お金を払って渓谷に至る道を下っていくと,あこがれのかずら橋が見えてきました。これが男橋です。
確かに足場は広いのですが,思ったほどではないというか,怖い感じはありませんでした。
男橋を渡って,少し下流にいったところに女橋がありました。女橋のほうが短いのですが,眼下の川の流れは急でした。
さらに下流には「野猿」があるのですが,故障中で乗ることはできませんでした。
  ・・
ここはいいです。ほとんど人がいなかったことと,自然の美しさがたまりませんでした。
こんなところでのんびりすることこそが,これぞ日本の旅です。
おそらく,コロナ禍以前だと,こんなところまで,大勢の観光客が来ていたのでしょう。「野猿」に乗ることはかないませんでしたが,天気もよく,幸運でした。
「酷道」を走ってきた甲斐があったというものです。

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奥祖谷に到着しました。時刻は11時過ぎでした。
ここで話を少し戻します。

国道32号線は片側1車線の走りやすい道路でした。国道32号線を大歩危の手前まで来ました。大歩危,その先に小歩危があります。これらは渓谷の名前で,これまで何度か四国に来たことがあるのですが,一度も行ったことがありませんでした。今回も,私の第一の目的はかずら橋だったので,このときは通過しました。ここで吉野川を渡り,国道32号線とは別れを告げて,県道45号線に右折したのですが,次第に山深くなってきて,いよいよ祖谷,という感じがしてきました。道の駅を越えると,祖谷の集落が見えてきました。
ここで道がわからなくなるのです。祖谷川を越えると県道45号線は県道32号線になります。県道32号線は集落の中に入ると道幅が狭くなり,というか,集落の中を通るので広げることができなかったのでしょう。祖谷のかずら橋は祖谷川の南にあって,かずら橋はこの祖谷川にかかっているのですが,集落の手前でY字路になっていて,左側は集落の中を通る県道32号線で,右側がかずら橋にいくための善徳バイパスです。私は,ここを通過して,奥祖谷まで行くことにしていたから,狭い県道32号線を走り続ければいいのですが,「奥祖谷」という道路標示がないのです。
私は,結果的にそのまま走り続けたのでうまくいったのですが,かずら橋を目的に来た人が善徳バイパスに行かずに県道32号線を走ってきてしまって戸惑っているのを目撃しました。そして,Y字路で道案内をしていた若者が,後で知ったことには,私が今日宿泊する旅館の息子さんでした。
  ・・
そんなわけで,疑心暗鬼になりながら,祖谷を過ぎ,狭い県道32号線を進んでいくと,やがて,「奥祖谷」という道路標示がありました。
やがて県道32号線は国道439号線と交差します。そこから,国道439号線に進むのですが,実は,国道32号線は,私が走ったように大歩危まで行って県道45号線に入らなくても,そのずっと手前の大豊というところで国道439号線に分岐していて,そこで国道439号線に入ることもできたのです。しかし,私の前をのろのろ走る大型のダンプカーが2台,その道に入っていったこともあり,それについていくのもはばかれました。おそらく国道439号線の改良工事のための車両なのでしょう。このように,日本の辺境地はどこに行っても道路改良やダムなどの工事ばかりで,多くの工事車両が走っていますし,やたらと工事中です。
というようなことで,地図で見る限り,国道439号線のほうがずっと険しい道路に見えるので,少し大回りのように見えても,私が走った道順が正解だったようです。
いずれにしても,国道439号線,私が予想していたほどはたいへんでなく,祖谷から40分あまりで奥祖谷に到着しました。

奥祖谷は期待通りの場所でした。駐車場に停まっていたのは2,3台の車だけで,観光バスが来ることはほぼ不可能。車がなければ,公営のバスがあるとかいう話ですが,そうでなければタクシーを使うしかアクセスできません。
食事ができるような場所があるとは思えなかったのですが,なんと,1件,食堂がありました。そこで,まずは腹ごしらえということで,食堂に入りました。お客さんは私ひとりでした。食堂をやっていたのは,歩くのもままならないようなお年寄りの女性がふたりだったので,セルフサービスでしたが,祖谷そばとおはぎを注文しました。祖谷そばはそばが太く,こしがあって,なかなか美味でした。
これぞ,私が憧れている旅の姿でした。

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