しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

December 2022

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 2022年も最後の1日となりました。世の中はいろいろとかまびすしいようですが,ほとんどニュースも見ないで,マイペースでやりたいことをやって生活しているので,私はいたって平和です。
 1年を思い返すと,いろんなところに行くことができて,とても充実していました。とはいえ,自分でも思いもよらず,年末に突如引っ越しをすることにした,というイベントがあって,それを決めた11月からあっという間の2か月となりました。そのおかげで,本格的な断捨離ができました。モノがないというのはこれほど気持ちがいいものか,としみじみ感じました。
 さて,引っ越しのための断捨離もほぼ終わり,最後に残ったのが,住所変更でした。これがまあ,大変というよりも,社会の縮図を見ているかのようで,とても興味深いものでした。
 「インチキ富裕層」の私は,銀行や証券会社に口座だけはたくさんあるので,それらのすべてで住所変更をする必要がありました。しかし,自分で選んだ金融機関ならまだしも,亡くなった父親から譲り受けた中には,私にはまるで理解不能なものも存在しました。今日はそんなお話です。

 今や,多くの金融機関は,インターネットで住所変更が完結するので,とても便利です。しかし,住所変更の方法が金融機関ごとに異なっていて,とても簡単に変更ができるところから,意味もなく複雑なところまでありました。これらは,要するに,アプリを開発する人の能力の差でしょう。こういうことから契約する金融機関の実態がわかるのです。
 以前,アメリカで交通事故に遭って,生命保険を受け取る機会があったのですが,そのときもまた,手続きがとても簡単な会社と意味もなく複雑な会社がありました。そのとき思ったのは,保険というのは,まさかのときの手続きが容易な会社を選ぶべきだということでした。

 インターネットで手続きが完了しないいくつかの金融機関は,実際に出向く必要がありました。店内で手続きをしながら感じたのは,金融機関ごとにその職場の雰囲気の違いでした。もし,就職するのなら,ここはいいなあ,とか,こんなところはいやだなあ,などと思っていました。
 なかでも最悪だと思ったのは,ある証券会社でした。
  ・・
 私は,その証券会社に口座はなく,自分では絶対に利用しないところでした。どうしてそこに口座があるかといえば,親から受け継いだことが理由です。その会社はむやみやたらと電話をかけてくるという旧来の手法を未だにやっていて,かなり迷惑でした。そこで,これを機会に私の使っているネット証券会社にその証券会社の株をすべて移管して,口座を解約しようと考えました。
 窓口に行ってたまげました。今どき,株の売買など,インターネット証券で事足ります。何十年も前のように,証券会社に出向いて,相場を眺めながら株の売買をする,というような姿こそさすがになくなりましたが,私が訪れた証券会社は,未だにインターネットすらまともに機能しておらず,顧客と大きな声で電話でやり取りをしていました。
 そもそも,そんな会社が未だに存在することが私には冗談としか思えませんでした。まるで昭和に逆戻りしたような感じでした。私の担当になったという新入社員は,上司から,その旧来の方法を指南されているようでした。こりゃだめだ,と思いました。おそらく,そんな会社で何年仕事をしようと,全くつぶしは効かないのです。これは過去の遺物です。私は,絶望的な気持ちになりました。

 それにしても,今回,住所変更をしてわかったのは,この国の会社は,とても近代的なところと,古いままのところが混在しているということです。おそらくそれは会社に限らず,学校でもマスコミでも同じことでしょう。
 日本という国は元来が保守的で,新しいことを導入するのが苦手で,一度決めたことは変えられないのです。変えたときに失敗して責任を問われたくない,それだけなのです。だから責任逃れのやったふりが蔓延するのです。
 世界が日本だけならそれでもいいでしょう。しかし,世界は急速に変化し,今やAIを駆使してすべてのことが変貌しています。ChatGPTなるものを利用すれば,AIと人間がチャットをしてプログラミングをしたり,論文を書くことすらできるのです。
 今の日本は,黒船が来たころの日本と同じです。そのころとの違いは,この国には若者がいないということです。「逃げ切り」だと自負する老人と新興宗教に毒された政治屋ばかりなのです。
 これでは,日本は世界からどんどん遅れていくのも無理はないと思いました。


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12月30日の夕方は
金星と水星が並んだ。

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 原宿に着いたのは午前12時まえで,NHKホールに行くにはまだ早かったので,久しぶりに明治神宮に行ってみることにしました。
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 明治神宮の祭神は明治天皇と昭憲皇太后で,明治天皇崩御後の1920年(大正9年)に創建されました。深い杜の木々は全国からの献木が植樹されたものです。
 明治神宮内苑には,神楽殿,明治神宮ミュージアム,武道場至誠館,明治神宮国際神道文化研究所などがあります。
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 私は,神道というものがよくわからないので,そうしたものには興味がなく,目的は御苑でした
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  御苑の正式名称は明治神宮御苑です。江戸時代から大名下屋敷の庭園として使われていましたが,明治時代に宮内省が所轄する南豊島御料地となって,以降,代々木御苑とよばれました。
 隔雲亭という御茶屋,四阿があり,池には菖蒲を植え,回遊歩道を設けた美しい庭園です。 隔雲亭は太平洋戦争末期に空襲によって焼失しましたが,戦後に篤志家によって復元されました。
  ・・・・・
 10年ほど前,6月に行ったことがあって,そのときは,菖蒲田のハナショウブが最盛期でした。今回は,ハナショウブは見られませんが,紅葉が美しく癒されました。

 前回来たときは知らなかったのですが,一番奥に清正井というものがあります。
 この地は,江戸時代,彦根藩井伊家下屋敷となる以前に熊本藩加藤家下屋敷があったことから,井戸は加藤清正が掘ったと伝えられています。人気のパワースポットということです。私は,パワースポットなるものには興味がないのですが,井戸自体は興味があったので行ってみましたが,井戸を見るには細い通路を行かねばならず,そこに多くの人が列を作っていました。
 水温は四季を通じて15度前後と一定で,毎分60リットルの湧水があるということです。 その水源は明治神宮本殿西側の権殿敷地一帯の浅い地下水が2方向の自然の水路に流れ,井戸の上方斜面から井戸に湧出する自然の湧水です。

 NHK交響楽団の定期公演のあと,帰りの新幹線まで時間があったので,日本橋へ行ってみました。
 ときどき旧東海道歩きを楽しんでいるのですが,やはり,日本橋を渡らねばいけません。
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 日本橋あたりは,江戸幕府開府の際,江戸城を中心に造成した「町人地」がはじまりといわれています。シンボルである「日本橋」は,1603年(慶長8年)に江戸幕府開府と同時に完成し,1604年(慶長9年)に五街道の起点として定められ,各地から訪れる人々や物産で大いに賑わいました。通りの両側には「三井越後屋呉服店」や「白木屋」をはじめとして,堂々とした構えの店が次々と軒をつらねていました。
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 と,ここまで書いてきて疑問が湧きました。果たして,参勤交代は日本橋が集合と解散地点だったのでしょうか?
 「お江戸日本橋七ツ立ち」とかいいますが,江戸時代の時刻制度は「日の出と日の入りを境に昼夜を区別し,それぞれを六等分」していたので,季節によって時間が異なります。そこで,「七ツ」は「明け六ツ」より早い夜明け前ということですが,その時間に日本橋に集合したというわけなのでしょうか?
 まさかねえ。おそらく,それぞれの大名屋敷から出発して,もよりの場所で東海道に出たように私は思うのですが,意外にも,こういうことは調べても出てきません。
  ・・
 いずれにしても,現在の日本橋は高速道路によって空が遮られてしまっていて,まったくさえません。それはずっと問題となっていたのですが,日本橋の上を通る首都高都心環状線を地下に移す工事が進んでいるそうで,地下ルートの開通は2035年,全面撤去は2040年の予定ということです。しかし,かなりの難工事である上,高速道路を地下に移しても,日本橋の景観がよくなるという以外のメリットもなく,また,このご時世の日本では,実現すら危うくて,私が生きているうちには見ることはできないことでしょう。

 と,そうこうしているうちに,時間が経ってきたので,東京駅に着いて,夕食を済ませて,帰宅することにしました。東京はどこも混雑していて,楽しく食事を味わうなんてなかなか困難ですが,なんとか「みよた」というおそば屋さんを地下街に見つけたので,そこでおいしく食することができました。
 今秋は紅葉を見に京都へ行くこともなく,あっという間に12月になってしまったのですが,なんとか秋を味わうことができました。秋といえば京都ですが,秋の東京も悪くないものです。ただし,人の少ないところを探すのがたいへんです。

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 旅の3日目。
 今日はNHK交響楽団の定期公演が午後2時開演なのですが,その40分前から開演前の室内楽があるそうなので,午後1時にNHKホールに到着することにしました。
 そこで,それまで何をしようかと考えました。まず,早朝の浅草から北に少し歩いて,だれもいない千束四丁目の吉原遊郭跡を散策したら浅草にもどり朝食をとって,そのあと浅草寺を巡り,地下鉄の浅草駅から上野まで行って,上野公園を散策して,渋谷まで行ってしまうとめちゃめちゃ混雑しているのでそれを避けるためにJRで千駄ヶ谷へ出て昼食をとり,そこから神宮外苑を通ってNHKホールまで歩くことにしました。

 早朝の千束四丁目はゆったりと散策できました。吉原遊郭のころの古地図に描かれた路地や道路名がそのままで,とても興味深いものでした。
 浅草ではいくつかのファーストフードチェーン店がすでに開いていましたが,もっとも人の少なかったマクドナルドで朝食をとりました。東京では,ファーストフード店やコンビニエンスストアの店員さんの多くは外国人です。マクドナルドもそうでした。なんだかこういうお店に入ると日本でないようなそんな気がします。
 お客さんは多くはなかったのですが,責任者らしき女性は手際よかったのですが,男どもが仕事がのろくてなさけなくんてこ舞い状態でした。
 まだ多くの人が活動を開始していない時間の浅草寺は思う存分楽しむことができました。こんな姿を見ることができるのは早朝以外にはありません。

 地下鉄で上野まで来ました。
 上野公園全体としてはまだ人も少なかったのですが,まだ開園前というのに,すでに多くの人が動物園の入口で列を作っていたのは驚きました。あれはパンダをみるためなのでしょうか?
 しかし,動物園といえば,私はこれまで世界中の動物園に行ったことがあります。その中でも最高だと思うのは,アメリカ・サンディエゴの動物園(San Diego Zoo)です。そしてまた,すばらしいと定評のあるオーストリア・ウィーンは,何度も行く機会があったのにもかかわらず,ついにこれまで入ることができなかったシェーンブルン動物園(Tiergarten Schönbrunn)に何とか一度は行って見たいと思っているのですが,ロシアがあんな戦争を起こしてしまったので,直行便がシベリア上空を飛ぶことができず,ヨーロッパが遠くなってしまいました。
 上野公園では,すてきな紅葉を十分に堪能することができました。上野から北に向かって歩いて行くと東京芸術大学があります。東京芸術大学は中に入ることはできませんが,このあたりの雰囲気がとてもいいので,気に入っています。

 千駄ヶ谷に着きました。
 JR千駄ヶ谷駅は,以前はぼろい駅舎でした。大量の税金を投入したあげく不正だけが今だに後を引くという2021年の東京オリンピックは,開催をきっかけに日本が繁栄をとげた1964年の東京オリンピックとは真逆に,おそらく,末期症状の日本をもっとも象徴したものとして後世名を残すであろうものになってしまいましたが,その東京オリンピックによって駅舎が整備され,見違えるようになりました。
 ここから津田塾大学過ぎると建設中のビルがあるのですが,ここの1階に新しい将棋会館が入ります。建設現場を横目に10分ほど歩くと日本将棋連盟の本山である現在の将棋会館があります。そして,その周りには,棋士が対局のときに出前を頼むお店,いわゆる「将棋メシ」の聖地があります。
 このごろ話題なのは「鳩やぐら」というお店ですが,午前11時30分開店とかでまだ時間が早く入ることができませんでした。そこで,そこから原宿の方に向かって少し行った「紫金飯店」という中華料理店で昼食をとることにしました。お店は午前11時開店ということだったので,開店時間まで付近を散歩して,開店と同時に入りました。さすがにこんな時間ではほかにお客さんはいないだろうと思ったのですが,すぐに続々とお客さんがやってきて,席はいっぱいになりました。どうやら人気店のようでした。
 店内は満席なのに,さらに,電話がかかっていて,出前も盛況のようでした。私は,この日のランチとして好物の回鍋肉定食を注文したのですが,量も多く,おいしくて,大満足でした。リピート必須です。

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 鎌倉から浅草へ戻ってきました。浅草で泊ることは小さな夢のひとつでした。すでに書いたように,浅草は何度も来たことがあるけれど,ゆっくりあたりを散策したことがありませんでした。なにせ,いつも異常な混雑です。
 そういえば,ずいぶんと前,東京へ行った折,夜,浅草まで足を延ばしたら,偶然三社際に出会ったことがありました。ただでさえすごい人なのに,それに輪をかけていて,私は早々に退散したのですが,それでも,これが江戸というものかと,えらく感動したことがありました。
 何も知らずサンフランシスコへ遊びに行って,その日が偶然プライドパレードの日だった,ということも過去にありました。阿波踊りの開催日と知らず,いきなり徳島市に行った外国人のようなものですが,私は,こうした偶然によく出会います。こういう人が群れる姿を見ると,世界中,人間のやりたいことは同じだとしみじみ感じます。

 今回の旅も,旅行補助があるので,ものすごく安価なのですが,2泊するので,さらにクーポンが6,000円もありました。こうしたクーポン,お金の出どころは税金なので,使った者勝ちということで,そもそもが不平等な施策なのです。多くの税金を払っている労働者は旅をする時間もないのに,私のような大した税金も払っていない旅行好きの不良老人には大変お得だということになります。
 このクーポン,すでに書いたように,これまでも,私は,長野県,奈良県,徳島県,高知県などで使いましたが,どこも500円券とか1,000円券といった紙ベースのものでおつりも出ないとても不便なものでした。しかし,さすが東京。スマホにアプリをインストールしてポイントとして登録すると,1ポイント(=1円)からむだなく使えるのです。これは便利極まりないのですが,スマホの使えないお年寄りはどうするのでしょう? こういうのを「デジタル・ディバイド」というのでしょうか。

 さて,この晩は,そのクーポンを使って,たらふく飲んで食うことにしました。
 しかし,あるお店に入って,ビールを注文して,さらにステーキまで追加して,悦に入っていたら,あっという間に使い果たしてしまいました。まあ,それでも,夢がかなったということで,すてきな浅草の夜になりました。
 私は夜遊びの習慣はまったくないので,これくらいで満足して,浅草六区のあたりを歩いてホテルに帰りました。
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 浅草六区(=浅草公園六区)は,1884年(明治17年)にはじまった浅草公園の築造・整備における区画番号の第六区画を指したもので,この一帯は大正から昭和にかけて東京の娯楽の中心地だったところです。浅草オペラや軽演劇もここから生まれ,エノケンこと榎本健一から萩本欽一,ビートたけしなど多くの芸能人を輩出しました。
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 ニューヨークのブロードウェイのようなところといえないこともないようで,現在は「六区ブロードウェイ」として,活況を呈しています。今も「ROCKZA」というストリップ劇場が健在なのが驚きですが,ストリップも,数十年前のようなエログロから芸術に転じているとか。これもまた,千束4丁目同様,この国の現実です。

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水金地火木土+月
みんな見えた。

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 カフェで小休止し,金沢街道をJR鎌倉駅まで戻ります。やがて,浄明寺という交差点に着きました。ここには広い駐車場があって,多くの車が出入りしていました。また,バス停もあって,多くの乗客がバスを待っていました。ガイドブックも持たない私にはわからなかったのですが,どうやら,ここは有名な観光地のようでした。
 道路標示には,北に浄明寺,南に報国寺とあって,報国寺(竹寺)という名に魅力を感じたのですが,確かに,報国寺をめざす観光客が大勢いました。
 私はこのままJR鎌倉駅まで行って帰るつもりだったのですが,せっかくだからと,少し人が多いのが難点だったのですが,このふたつの寺に寄ってみることにしました。

 ところで不思議なのは,この地にある寺の名が浄妙寺なのに,地名が浄明寺だということでした。帰ってから調べてみると,それは次のような理由でした。
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 鎌倉市浄明寺は鎌倉五山第五位の浄妙寺にはじまる地名ですが、現在,地名が「浄明寺」になったのには格式の高い寺名をそのまま使うのをはばかったためだといわれています。
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 なるほど。印鑑を押すときはへりくだってお辞儀をしているように少し斜めに押せとかいうバカげたことをさも常識であるように吹聴する人がいるように,いかにも「やったふり」が得意な日本らしい話です。浄妙寺がある場所が浄明寺町だなんて紛らわしいだけです。

 私は,まず,報国寺を目指しました。
 幸い,私が訪れたときは人も多くなく助かりました。この日は金曜日だったのですが,週末は人だらけだから行くものではない,という口コミがありました。この寺は午前9時から開いているので,私のように「ついで」ではなく,この寺が目的なら,その時間に入るべきでしょう。
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 報国寺は臨済宗建長寺派の寺院で,正式には功臣山報国建忠禅寺。
 境内に孟宗竹約2000本からなる竹林があってそれが観光名所にもなっていて,竹寺として知られています。
 報国寺は,1334年(建武元年)天岸慧広の開山により創建されたと伝えられ,開基については足利尊氏の祖父足利家時とも上杉重兼ともいわれ,両家の菩提寺でした。
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 多くの人が訪れる理由もわかろうというもの,規模は小さいながら,ここの竹林はすばらしいものでした。これはもっと真剣に写真を写す目的でやってきてもいいかな,と思いました。
 竹林の背後のやぐらには墓がありました。それは,足利尊氏の祖父である足利家時,四代鎌倉公方足利持氏の嫡男である足利義久の墓でした。1438年(永享10年)の永享の乱で室町幕府6代将軍足利義教に敵対した4代鎌倉公方足利持氏でしたが,その嫡男でわずか10歳の足利義久がこの地で自刃したのです。また, 鐘楼脇には,鎌倉幕府滅亡時に北条高時に殉じた鎌倉将士の墓と伝えられる五輪塔群がありました。

 次に,浄妙寺に行きました。
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 浄妙寺は臨済宗建長寺派の仏教寺院で正式には稲荷山浄妙広利禅寺。鎌倉五山の第五位。
 1188年(文治4年)足利義兼の創建と伝えられています。足利義兼は平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将・御家人で,足利宗家2代当主で,足利尊氏は昆孫です。
 はじめは極楽寺という真言宗の寺院でしたが,正嘉年間(1257年から1259年ごろ)に建長寺開山蘭渓道隆の弟子・月峯了然が住職となって禅刹に改め,寺名も足利貞氏の法名をとって浄妙寺と称しました。 
 境内墓地には足利貞氏の墓とされる宝篋印塔があります。足利貞氏は鎌倉時代後期から末期にかけての鎌倉幕府の御家人で,足利宗家7代当主。 足利尊氏の父です。
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 浄妙寺は報国寺とは違って,ほとんど観光客がおらず,静寂を保っていました。とても紅葉の美しい寺でした。
 なお,浄妙寺にちなんだ「鎌倉」の名前の由来を紹介します。
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 藤原鎌足が鹿島神宮に参詣の途中,現在の由比ガ浜である由井里に泊まったところ,夢に白髪の翁が現われ,天下がよく治まる方法を告げました。夢からさめると,枕元に「鎌」が置いてあり,一匹の白狐が現われると鎌足を浄妙寺の裏山に案内しました。
 そこに「鎌」を埋め,お堂の「倉」を建てたのが「鎌倉」になったといわれています。
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 浄妙寺を出て,私は混雑するバスに乗ることもなく,ずいぶん歩いてJR鎌倉駅まで戻りました。
 この日は,早朝の空いた鎌倉を味わい,念願の大河ドラマ館に行き,そして,午後は金沢街道沿いの明王院,報国寺,浄妙寺へはじめて行くことができました。天気もよく,期待以上の1日でした。

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 子供のころ,歴史の授業で「金沢文庫」という名を知ったのですが,それまで,金沢といえば石川県金沢市のことだと思っていたので,同じ地名が神奈川県にあるのに驚きました。
 鎌倉時代中期に幕府の要職を務めた北条実時は文化人で,典籍や記録文書を集め和漢の書を収集しました。金沢文庫は鎌倉時代中期,金沢流北条氏の北条実時が金沢郷に設けた文庫(=書庫)です。武家の文庫としては日本最古ということです。
 武蔵国久良岐郡六浦荘金沢郷は,古来,砂鉄を産し,これが「かねさわ」の語源といわれます。古くは荘園が設置された私有地でした。
 源頼朝が鎌倉に幕府を開いたのは三方を山に囲まれ,前は海という天然の要害であったことが理由ですが,人々の往来や物資の運搬にはこれが最大の障害でした。そこで,鎌倉幕府は七方向に切通しを作り(=「七切通し」)陸路の確保を行いました。
 金沢の地は幕府隣接の港町・六浦湊として栄えましたが,六浦湊に荷揚げされた物資の運搬に利用されたのが「七切通し」の中のひとつ朝夷奈切通しを通る六浦道でした。これが現在の金沢街道です。

 私は,明王院に行こうと,鶴岡八幡宮から滑川に沿って金沢街道を歩きました。明王院は思ったよりずっと遠く,しかも,この日は暑く,かなり参りました。
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 明王院は,真言宗泉涌寺派の寺院で山号は飯盛山,寺号は寛喜寺です。
 1231年(寛喜3年),鎌倉幕府4代将軍藤原頼経によって発願された寺です。寺は江戸時代の寛永年間の火災で焼失し,その後再建されたものです。
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 北条氏ゆかりの寺が多い鎌倉の中で,唯一現存する鎌倉幕府の将軍の発願で建立された寺院です。
 当時,近くには大江広元の館がありました。現在,その地は大江稲荷社です。大江広元の息子は毛利の姓を名乗り,中国地方を治める安芸毛利家の基礎を築きました。
 境内は私のほかに訪れている人もなく,ひっそりとしていました。

 私は,京都や奈良は何度も行って詳しいのですが,鎌倉はなかなか行く機会がありません。もし東京に住んでいたなら,文句なく鎌倉の散策を楽しみに何度も通ったことでしょう。
 京都や奈良同様,鎌倉も観光地といわれるようなところはものすごい人混みなのですが,そこから少し外れると静寂が待っています。ひとりで気ままに散策をするときの醍醐味というのは,そういう場所を見つけて歴史に浸ることだと強く思うようになりましたが,これまでほとんど無知だった鎌倉にもこうした場所があることを今回知ってうれしくなりました。
 そしてまた,散策の楽しみは,小さなカフェで一休みをすることです。今回もまた,明王院近くに「Alpha Betti Cafe」という名の絶好のカフェを見つけたので,そこに寄って,しばし休息を取りました。ケーキとともに,暑かったのでアイスティーを注文しました。冷たい飲み物にホッとし,ケーキがとてもおいしかったです。

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 昼食を終えて,歩いて鶴岡八幡宮のあたりまで戻ってきました。早朝とはうって変わってものすごい人でした。そこで私は,人の行かないところはないものかと探して,これまで行ったことがない鎌倉の東,明王院を歩いて目指すことにしましたが,その途中にあったのが宝戒寺でした。

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 宝戒寺は天台宗の寺院で,金龍山釈満院円頓宝戒寺と称し,本尊は地蔵菩薩です。
 宝戒寺は鶴岡八幡宮三の鳥居前の横大路を右に行った突き当りにあって,寺域は北条義時以来歴代の北条執権邸地跡と伝えられています。
 鎌倉幕府の滅亡後,後醍醐天皇が足利尊氏に命じて,北条一族の霊を弔うために建立させました。
 本堂が印象的な静かな落ち着いた寺で,だれでも本堂に上がって本尊の子育て経読み延命地蔵様を間近で拝観することができます。
 境内には四季折々の花が咲き,特に秋には境内一面に白萩が咲き,別名「はぎの寺」として有名です。
  ・・・・・・
という紹介がありました。

 もともと北条家の鎌倉屋敷は鎌倉亭といい,現在の鶴岡八幡宮・二の鳥居がある場所だったのですが,小町邸に最初に住んだのは2代執権北条義時でした。3代執権北条泰時,4代執権北条経時はもとの鎌倉亭に住みましたが,そのほかの執権は,7代執権北条政村を除いて,小町邸に住んでいました。
 また,鶴岡八幡宮から延びる若宮大路沿いにある「M`s Ark KAMAKURA」というビルの1階に鎌倉時代の屋敷跡が一部そのまま残されています。一部床がガラス張りになっていて,その足下に「北条小町邸跡」の発掘された跡を見ることができるそうです。私は帰ってから知りました。
  ・・
 北条得宗家9代目当主で鎌倉幕府14代執権の北条高時は,1333年(元弘3年)新田義貞の軍に追い詰められて宝戒寺の裏山・葛西ヶ谷にある東勝寺で自害し,一族郎党870余人も運命を共にし,鎌倉幕府は滅亡しました。
 足利尊氏の寄進状に「北条高時の慰霊のためその屋敷跡に後醍醐天皇が建立した」旨の記述があります。実際の造営は,後醍醐天皇による建武の新政が崩壊し,御醍醐天皇が没した後に足利尊氏らによって行なわれたと推定されていて,1354年(文和3年)ごろには寺観が整ったものと思われるそうです。

 規模はそれほど大きくなく,こじんまりとした寺が街中にひっそりとあって,見逃してしまいそうですが,こうした場所こそが旅の散策で出会う醍醐味です。静かな境内で歴史に想いを巡らすのはなかなかよいものです。

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 源頼朝の墓と大河ドラマ館に行くことができて,午前10時には目的を達したので,東京へ戻ることにしました。この時間以降は団体ツアー客がたくさん押し寄せるので、まったくもって楽しくありません。そこで,鎌倉駅まで戻りましたが,人のほとんどいなかった早朝とは全く違う世界がありました。
 JRに乗りました。
 こんな時間に東京方面に向かう人も少なく,車内は空いていました。大船まで来たとき気が変わりました。せっかく鎌倉まで来たのだから,ここで戻らずとも,せっかくの快晴,夕方まで鎌倉の,なるべく人の少ないところ,これまで行ったことのないところを散策することにしようと。
 そこで,大船で列車を降りて,再び鎌倉へ向かいました。鎌倉で乗車したのだから,鎌倉で降りるわけにもいかず,北鎌倉で降りることにしました。

 はじめて鎌倉に行った若いころ,多くの乗客が鎌倉のひと駅前北鎌倉で下車するのが不思議でした。私は鎌倉で降りて,いろんなところを巡ってたどり着いたのが北鎌倉であったことで,その疑問が解けました。
 そうなのです。鎌倉観光は北鎌倉で降りて,鎌倉へ向けて歩くのが正解なのです。さだまさしさんが若いころに作った縁切寺という曲があります。
  ・・・・・・
 源氏山から北鎌倉へ
 あの日と同じ道程で
 たどりついたのは縁切寺
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 この日私が北鎌倉で降りたのは,北鎌倉から鎌倉へ歩く途中で名所を巡ることではありませんでした。それは,これまでさんざんやっています。そうではなく,おしゃれなレストランがあるのではないか,という期待なのでした。
時間はまだ午前12時前だし,鎌倉よりは空いているだろうと。

 その途中で,円覚寺,建長寺と通りました。
  ・・・・・
 円覚寺は正式には瑞鹿山円覚興聖禅寺と号する臨済宗円覚寺派の大本山で,鎌倉五山第二位に列せられる名刹です。
 鎌倉時代の1282年(弘安5年)に鎌倉幕府執権・北条時宗が元寇の戦没者追悼のため中国僧の無学祖元を招いて創建しました。北条得宗の祈祷寺となるなど,鎌倉時代を通じて北条氏に保護されました。
  ・・
 建長寺は。正式には巨福山建長興国禅寺と号する臨済宗建長寺派の大本山で鎌倉五山の第一位すです。
 鎌倉時代の1253年(建長5年)の創建で、本尊は地蔵菩薩。
 開基は鎌倉幕府第5代執権北条時頼です。
  ・・・・・・
 ということで,今回私が巡ろうとしている鎌倉時代はじめとは少し時代が異なります。
 以前,大河ドラマで北条時宗を取り上げたことがあるのですが,そのころの私は「北条時宗=元寇」としか思わず,しかも「元寇=神風」という連想となり,まったく興味を持ちませんでした。
 それはさておき,北鎌倉駅あたりはものすごい観光客でしたが,円覚寺は境内に入ると,思ったほどは人がおらず,落ち着いて紅葉を楽しむことができました。
 建長寺はこれまで何度も行ったことがあるので,今回はパスしました。

 さて,どこかで昼食をと思いつつも,ガイドブックなどはまったくもっていないので,行き当たりばったりで,私の期待はおそばだったので,その気になっていたのものの,おそば屋さんは見当たらず,それ以外にもなかなか期待通りのお店がありません。そうこうするうちに「ひ路花」という名の,民家を改造した程度のちいさなレストランを見つけました。なんでも温野菜がウリのようでした。
 さほど広くない店内でしたが,幸運にも席があって,私は,ここで昼食をとることにしました。
料理が出てくるまでずいぶんと時間がかかりましたが,急ぐ旅でもなく,それはそれでいい時間となりました。こうして,期待以上の昼食をとった私は,すっかり元気になって,さあ,歩くぞ,と再び鶴岡八幡宮まで歩いていったのでした。


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 NHK大河ドラマ第61作目の「鎌倉殿の13人」は,2022年(令和4年)1月9日から12月18日まで放送されました。
 脚本は「新選組!」「真田丸」に続く大河ドラマ3作品目となる三谷幸喜さんで,平安末期から鎌倉前期を舞台に,源平合戦と鎌倉幕府が誕生する過程で繰り広げられる権力の座を巡る駆け引きを,大河ドラマ初主演の小栗旬さんが主演する北条得宗家の祖となった北条義時を主人公として展開しました。
 ユーモアを交えたホームドラマのような描写とともに,徹底して無情で陰惨な粛清劇が描かれました。
 「鎌倉殿」とは源頼朝をはじめとする鎌倉幕府の将軍を,また,「13人」とは頼朝死後に発足した集団指導体制「十三人の合議制」を構成した御家人を指しているように思われ,また,解説されましたが,実際にドラマを見終えると,もっと深い意味があったように思われました。
 三谷幸喜さんは執筆にあたり,日本史を知らない海外の人が見ても楽しめる「神代の時代」のドラマを書くことを目標とし,歴史書「吾妻鏡」をベースに,「ゲーム・オブ・スローンズ」「ゴッドファーザー」「アラビアのロレンス」「仁義なき戦い」などの影響を受けたといいます。そして,最終回になると,北条義時の死がいかに描かれるか,という点に関心が集まり,アガサクリスティのような,という三谷幸喜さんの発言から,毒殺,みんなが犯人などなど,さまざまな憶測をよび,推理小説の結末を想像するような期待が生まれましたが,その死に北条政子が絡むとは思いもよりませんでした。

 私は,三谷幸喜作品としての大河ドラマは「新選組!」は見た記憶がありますが,「真田丸」はほどんど記憶にありません。
 3度目となる今回の作品で鎌倉幕府の成立期を取り上げるというニュースを聞いたときは,興味ないなあ,と思いました。しかし,はじめの数回を見て,そういう考えは一変しました。このわかりにくい時代を実に明晰に,かつ,おもしろく描いていて,1年間があっという間でした。
 また,三谷幸喜さん独特のユーモアには賛否があって,特に若いころの作品は私は少しばかり食傷気味だったのですが,熟練の技というか「鎌倉殿13人」でこれまでの考えが一変しました。また,話がかなり複雑であっても,非常によく練られていて少しもムダがないものでした。
 私は,これまでの大河ドラマで,戦国時代は「国盗り物語」を,幕末は「花神」を,それらはともに司馬遼太郎作品を大野靖子さんの脚本でドラマ化したものでしたが,その2作を越える作品に出合えませんでした。あるいは,意識して比較しました。しかし,「鎌倉殿の13人」ははるかにそれらの2作を越えた,比較しようのない最高の大河ドラマだと思いました。実際,「大河最高傑作」という評価があるそうです。

 その「鎌倉殿の13人」に関する大河ドラマ館が鎌倉で開催されているというので,ぜひ行って見たいと思っていたのですが,鎌倉は遠く,その機会がなかなかありませんでした。
 大河ドラマ館は2022年3月1日から2023年1月9日に鶴岡八幡宮内の鎌倉文華館鶴岡ミュージアムで開催されています。
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 会場の鎌倉文華館鶴岡ミュージアムは,1951年に開館した神奈川県立近代美術館の旧鎌倉館を継承したものです。
 神奈川県立近代美術館は20世紀建築の巨匠ル・コルビュジエに師事した建築家・坂倉準三の設計で,日本初の公立近代美術館として開館しました。
 2016年に閉館した後,神奈川県から鶴岡八幡宮に土地の返還と合わせて無償譲渡され,2019年鎌倉文華館 鶴岡ミュージアムとして開館したものです。
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 室内外が流動的に結びつく開放的な空間が特徴で,池に反射した光が天井に映るピロティや,平家池に面するコンクリート製手摺り,大谷石積みの壁面,各階段の人造石研ぎ出しの手摺りなど,実にすばらしい建物,ということです。

 今回,12月8日と12月10日に東京で行われるふたつのクラシックのコンサートを聴きにいくその機会ができて,ならば,その間の12月9日に鎌倉へ行ってみようと思い立ち,なんとかその夢が実現することができました。
 私は,行くことができるかどうかわからなかったから,事前にチケットを購入していなかったので,当日朝,少し並びましたが,開館早々はそれほど混雑しておらず,すぐに入ることができて,十分に展示を楽しむことができました。
 大河ドラマ館の内容は
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➀あらすじや脚本家コメントなどの作品概要
②大倉御所の撮影セットを詳細に再現したオリジナル・ジオラマ
③鎌倉幕府の一角をリアルに再現した大型造作
④大型壁面に投影されるドラマの雄大な背景映像
⑤主要登場人物たちの衣装や、小道具を実物展示
⑥4Kスクリーンでドラマの魅力や撮影・制作のウラ側などを“深掘り”する他では見られないオリジナル映像
⑦源氏と平家。武士と貴族。ドラマの人間関係を網羅する相関図
⑧華やかな出演者の皆さんのサイン色紙を展示
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でした。
 私が特に興味深かったのは,実際にドラマで使用されたさまざまな小道具や衣装でした。これは,実際にドラマを見た人には感動的な展示であったように思います。私はかなり興奮しましたが,そんなことはこれまでの大河ドラマ館で感じたことがなく,今回がはじめてでした。

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 源頼朝の墓,法華堂跡と巡って,まだ時間があったので,さらに北東に向かって歩くことにしました。このあたりは,これまで行ったことがありませんでしたが,人も少なく,鎌倉らしく,なかなかよい所でした。
 鎌倉宮に着いたのですが鎌倉宮は帰りに寄ることにして通り過ぎ,まず永福寺跡に向かいました。

 永福寺(ようふくじ)は,11192年(建久3年)に,源頼朝が弟源義経と奥州藤原氏の霊魂を鎮めるために建てた寺院ですが,現在は跡地の礎石と池が復元されています。
 本堂は二階堂とよばれ,本尊は釈迦如来でした。1193年(建久4年)に阿弥陀堂が建立され,二階堂を中心に薬師堂、阿弥陀堂、三重塔などを備えた壮大な寺院でしたが,1405年(応永12年)に焼失してしまいました。1983年(昭和58年)に発掘調査が行われ,当時の姿が復元されつつあります。礎石は土中にあるため,それと近似した石が使用されています。
 奥州藤原氏3代目の藤原秀衡が建てた無量光院は宇治の平等院を模して建てられましたが,永福寺はその無量光院を念頭に置いて作られました。
 2017年(平成29年),苑池の復元工事が終わり水が満たされましたが,苑池の景観は宇治平等院の鳳凰堂前の阿字池のようであったと想定されています。
 永福寺では,3代将軍源実朝や4代将軍藤原頼経が和歌会を催したといいます。
 また,1247年(宝治元年)に起こった宝治合戦で,三浦光村が永福寺に陣を構え,1333年(元弘3年)には,鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞が足利尊氏の嫡男義詮を伴って滞在したこともありました。
 鎌倉の発展とともに栄えた永福寺は1405年(応永12年)に炎上し,その後衰えたものと考えられています。

 永福寺から鎌倉宮に戻りました。鎌倉宮は「鎌倉殿の13人」で描かれた時代ではなく,建武中興の時代のもので,後醍醐天皇皇子の護良親王を主祭神とします。
 護良親王は後醍醐天皇の皇子で父とともに鎌倉幕府を倒し建武中興を実現しましたが,その後,足利尊氏との対立で足利方に捕えられて東光寺に幽閉され,1335年(建武2年)の中先代の乱の混乱の中で足利尊氏の弟の足利直義の命で家来である淵辺義博によって殺害されました。
 1869年(明治2年)建武中興に尽力した護良親王の功を賛え,明治天皇は護良親王を祀る神社の造営を命じて「鎌倉宮」と名づけました。本殿の後方にある土手の穴が護良親王がおよそ9か月間幽閉されていた土牢であるという古伝承があって,土窟で2段になっているといいます。
 私は特に興味がありませんでした。

 鎌倉宮を過ぎ,次に覚園寺を目指しました。結構な道のりでしたが,静かな住宅街で,こんなところに住んでいる人はしあわせだろうなあ,と思いながら歩きました。やがて山門に着きました。
 覚園寺は鎌倉幕府執権の北条家歴代の尊崇を集めた真言宗泉涌寺派の仏教寺院で,山号を鷲峰山(じゅぶせん)と称します。本尊は薬師三尊です。境内および周辺は自然環境が保全されていて昔の鎌倉の面影を最もよく残す寺のひとつといわれています。とても紅葉がきれいでした。
 鎌倉幕府2代執権北条義時が建立した大倉薬師堂が覚園寺の起源とされます。1218年(建保6年),薬師如来の眷属である十二神将のうちの「戌神」が北条義時の夢に現れたことが薬師堂建立の端緒で,その後,9代執権北条貞時の時代に正式の寺院となりました。
 鎌倉幕府滅亡の年である1333年(元弘3年),後醍醐天皇は覚園寺を勅願寺としました。足利尊氏も覚園寺を祈願所とし保護したので,1337年(建武4年)の火災で焼失した本堂は1354年(文和3年)に足利尊氏により再建されています。
 1830年(文政13年)の火災で覚園寺は伽藍の大部分を失い,1923年(大正12年)の関東大震災でも大きな損害を受けましたが,その後徐々に復興しました。

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 北条義時の墓とされる法華堂跡から右手奥の階段を上った先に3つの祠が並んでいました。これらは,左から順に,毛利季光の墓,大江広元の墓,島津忠久の墓でした。
 結構な急坂の階段で,しかも,毛利季光の墓,大江広元の墓と島津忠久の墓は鉄策で区切られているので別の階段を登らなくてはならないという,大変な苦行を要しました。
 とはいえ,私は,この3人の中で,大江広元しか知りませんでした。大江広元は「鎌倉殿の13人」にも登場しましたが,確か,高等学校の日本史の教科書にも載っていたように記憶します。
 毛利家といえば長州藩,島津家といえば薩摩藩なのに,なぜここの墓が? しかも,どちらも明治維新のときの薩長同盟の関係です。それがなぜ? と無知な私は思ったので,帰宅してから調べてみました。

●毛利季光
 戦国大名・毛利元就や上杉謙信の家臣・北条高広の先祖である毛利家の祖・毛利季光は,鎌倉武士で,大江広元の4男として1202年に生まれました。大江広元の広大な所領のうち厚木市の毛利庄の地頭となって毛利季光と名乗ったのが大江氏系「毛利家」のはじまりです。
 1216年(建保4年)に左近将監に任ぜられると翌年には蔵人となり,従五位下に叙せられました。
 毛利季光は,3代将軍・源実朝に仕えていましたが,源実朝が殺害されてからは出家して「入道西阿」と称しました。承久の乱では,執権・北条泰時に従って大軍を率いて後鳥羽上皇の勢力と戦い,美濃・木曽川の戦いや,山城の宇治川・淀川の戦いにて戦功を挙げ,その功により安芸国吉田荘の地頭職を与えられ移住しました。
 1233年(天福元年)執権・北条泰時から関東評定衆に任命されました。
 1247年(宝治元年)北条家の執権派と対立した三浦泰村の妹が妻であったことから,宝治合戦にて三浦家に味方するも敗北し,源頼朝の鎌倉法華堂で,息子の毛利広光・毛利光正・毛利泰光・毛利師雄らと共に自刃して果てました。また,毛利季光の娘は5代執権北条時頼の正室となっていたのですが,法治合戦後離別したといいます。
 毛利季光の墓は,1921年(大正10年)鶴岡八幡宮西側の鶯ヶ谷の山にあったものが移されたといわれています。
 毛利一族のうち越後にいた4男・毛利経光の家系が唯一残り,その子孫が吉田荘に移り住んで国人領主から一躍中国地方の覇者となったのが毛利元就です。

●大江広元 
 大江広元は,源頼朝の政務の側近として「政所別当」を務めた人物でした。明経生から出身し,外記を専職とする下級貴族として朝廷実務の経験を積んだのち,30歳代半ばから幕府首脳への途に転身しました。明経(みょうぎょう)とは,律令制において式部省が行った秀才に次ぐ第二の官吏登用試験。また,外記(げき)は,律令制において朝廷組織の最高機関・太政官に属した職のひとつです。
 源平の内乱の勃発とともに兄の中原親能が早くから源頼朝の陣営にあり,大江広元も1183年(寿永2年)の平家都落ちののちまもなく,鎌倉に下ったと思われます。頼朝に文筆の才を見込まれ,公文所別当および政所別当に取り立てられました。しかし,大江広元は単なる実務家ではなく,1185年(文治元年)には御家人らの訴えを頼朝に取り次ぐ「申次」を務め,源頼朝の側近としての地位を固めます。そして,守護・地頭政策に関する献策により源頼朝の信頼を高め,名実ともに首脳としての実力を発揮するようになりました。1180年代後半から1190年代前半の文治・建久年間には特に対朝廷交渉に起用され,朝廷・幕府関係の基礎作りに働きました。
 源頼朝の死後はしばらく幕府は内部抗争に揺れ動きましたが,大江広元は,一貫して北条義時と連携する立場を守り,北条義時の覇権を支えました。承久の乱に際しては,積極的な京攻めを主張して幕府の勝利に貢献しています。
 大江広元は,1225年(嘉禄元年)になくなりました。
 この墓は,1823年(文政6年)長州藩によって建てられたものということです。

●島津忠久
 島津氏の初代・九州島津氏の祖島津忠久は「島津家譜」などの系図類によれば,源頼朝の庶長子で,母は比企能員の妹丹後局で近衛家の家司惟宗広言の養子というのですが,定かでありません。
 1185年(文治元年),伊勢国須可荘・波出御厨地頭職に補任。以降,島津荘下司職・信濃国塩田地頭職に補任されました。1189年(建久元年)の奥州藤原氏征伐に従軍。1197年(建久8年)大隅・薩摩の守護となり,のち日向の守護も兼ねました。1203年(建仁3年)に比企能員の乱に縁座し,3か国の守護などを罷免されますが,薩摩の守護にのみ復しました。1213年(建保元年)の和田義盛の乱に戦功をたて,承久の乱後には越前守護となりました。
 1227年(嘉禄3年)になくなりました。
 現在の墓は1779年(安永8年)に,源頼朝の墓とともに島津重豪が整備したものです。


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 早朝の鶴岡八幡宮を通って,源頼朝の墓に向かいます。途中にあったのが大倉幕府跡でした。
 鎌倉幕府の所在地は3か所ありました。まず,源頼朝が開いた大倉幕府です。次に,3代将軍源実朝の死後,4代将軍藤原頼経が執務した宇都宮辻子幕府です。そして,4代将軍藤原頼経から最後の9代将軍守邦親王まで続いた若宮大路幕府です。
 大倉幕府跡は鶴岡八幡宮の北東一帯の地域にあったと推測されていて,大倉幕府跡の石碑は源頼朝の墓から少し金沢街道に向かって歩いた場所にありました。そこを中心にした東御門,西御門,金沢街道に囲まれた地域に,将軍御所,公文所,問注所などの施設が置かれたと考えられています。
 この地が選ばれたのは鎌倉の外港六浦と鎌倉を結ぶ六浦道沿いの地であったことと四神相応の地であったことだそうです。
 大倉御所は何度も焼失しそのたびに同一敷地に再建されたが、1219年(承久元年)焼失後は再建されず宇津宮辻子御所に移りました。

 大倉幕府跡から北に進んでいくと,小高い丘になって,階段を登ったところに源頼朝の墓がありました。また,50メートル程の小道を右手に行って別の階段を登った先に北条義時の墓があって,このふたつを合わせてひとつの国指定史跡に指定されています。
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 源頼朝の墓とされるのは石造りの層塔です。かつて,源頼朝の墳墓堂である法華堂があった場所とも推定されています。
 法華堂とは法華三昧堂の略称で,天台宗の法華三昧の行を行う仏堂や法華会を行う仏堂をさすのですが,明治維新以前の皇族や貴族,武士などの墓所に立てられる堂を指すことばでもあります。
 1779年(安永8年)に島津重豪により源頼朝墓として整備が行われ,墓所内に残る碑文から,当時,玉垣,灯篭,水盤等が寄贈されたことがわかっているということです。なお,現在の層塔は,1989年(平成元年)に塔身と第1層の蓋石を残しき損されたものを翌年修理,再建したものということなので,以前私が見たのはこれほど豪華なモノでなかったはずなのに… という記憶はあながち間違いではありませんでした。
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 一方,北条義時の墓は16メートル程度の石段を上がった先にある770平方メートル程度の平場で,石塔などはまったくなく,一体どこが墓なのかわかりませんでした。
 2005年の発掘調査で,この平場の地下から墳墓堂(=法華堂)の遺構が発見され,その位置が,鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」に記載された源頼朝の墓からの方位と地形と一致したことから,遺構は北条義時が祀られていた北条義時法華堂の跡であると推定されているので,この地が北条義時の墓ということになっているようです。
 遺構は現在の地表より下にあって,保護するために調査後は埋め戻しを行い,草地として維持管理しているということです。遺構の真上には,調査でみつかった法華堂の礎石や柱の跡,雨落ち溝の跡の実際の位置を木杭や石で地表に示してあるのが現在の姿です。

 その奥まったところにある洞穴が三浦氏が供養されている横穴式の墳墓があります。三浦氏一族の供養が行われているやぐらです。
 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で三浦義村がうまく描かれましたが,その後があります。
 三浦義村の子には三浦朝村,三浦泰村,三浦長村,三浦光村,三浦重村,三浦家村,三浦資村,三浦胤村,三浦重時,三浦良賢らがいました。三浦義村の長男である三浦朝村の末裔が今川氏の家臣である駿河三浦氏です。 三浦氏は鎌倉幕府内部において評定衆として枢要な地位についていましたが,その地位を悪用した振る舞いをすることが度々あったとされ,1247年(宝治元年)の宝治合戦で北条氏と安達景盛らに攻められ,三浦泰村以下一族276人が源頼朝の法華堂にこもり自害し,滅ぼされました。
 北条氏により滅ぼされた後,三浦氏の落人は各地に散りました。秋田県や宮城県など東北地方に三浦姓は多く,現在でも東北地方には地域の三浦姓の大本家として続く家が残っているということです。三浦氏の落人たちが各地に散り散りになるときに「その地に三浦氏の者が住む目印として庭に三浦氏のシンボルであるかやの木を植える」としたという伝承が残っているそうで,未だに三浦氏の祭神である三浦大明神を祀っている家もあるとのことです。
 私が訪れたときは朝早く,観光客がだれもいない静寂の中,歴史に想いを寄せることができました。

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 昨日最終回を迎えたNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にちなんだ大河ドラマ館が鎌倉・鶴岡八幡宮のふもとにあります。一度は行ってみたいものだとずっと思っていたのですが,鎌倉は遠く,なかなか行く機会がありませんでした。
 2022年12月8日と12月10日に東京でコンサートを聴く機会があって2泊3日で東京へ行くことになったので,コンサートを聴く予定のない中日12月9日に鎌倉へ足を延ばし,大河ドラマ館へ寄ることにして,その折に鎌倉幕府に関する名所や旧跡も巡ることにしました。とはいえ,旅は天気次第。ですが… 晴れ男の私は,今回も天気に恵まれました。初冬とはいえ歩くと汗をかくほどとても暖かい日でした。
 旅行補助も手伝って,日本中,観光地はどこも混雑しているということだったので,おそらく鎌倉もすごい人混みだと覚悟しました。旅慣れた私が悟っているのは,旅は早朝が勝負だということです。どんなに混雑しているところでも,午前9時までならなんとなります。そこで,早朝に浅草のホテルを出て,午前7時には鎌倉に着きました。
 まずは,朝食ですが,JR鎌倉駅近くにカフェを見つけたので入りました。お客さんは少なく安らぎました。朝食を終えて,観光開始です。

 私が行きたい大河ドラマ館は午前9時30分開館だったので,それ以前に主なところに行くことにしました。いつも書いているように,私が観光地で嫌いなのは,団体ツアー客と仲間でつるんでやってくるオートバイのライダーとインバウンドでやってきた外国人の団体です。さすが,鎌倉はオートバイのライダーはいませんが,団体ツアー客が強敵です。団体ツアー客が行動を開始する前が勝負です。外国人も増えてはきましたが,個人で旅をしている人はまったく問題はありません。
 私がまず行こうとしたのは,源頼朝の墓でした。
 その昔に行ったことがあると記憶しているのですが,そのころは鎌倉幕府のことなどほとんど知らず,また,今以上に無知だったので,徳川家康の日光東照宮などとは比べものにならない貧弱なものだとがっかりしたのを覚えています。しかし,当時よりは賢くなった私は,時代も政治体制も異なるので,それは当然だと今は思います。
 源頼朝の墓があるのは鶴岡八幡宮を越えた東側の丘の上なので,鎌倉駅近くのカフェから小町通りぬけ,鶴岡八幡宮を経由して行きます。
 鶴岡八幡宮は,前回来たときはコロナ禍以前でものすごい人混みでした。神社の前で階段の下の風景を写真に収めていたら立ち止まらないでくださいと叱られたこともあって,鶴岡八幡宮に私はまったく不愉快な思い出しか残っていないのですが,この日は違いました。なにせ,いたのは私ひとり。
 静まり返った境内は最高でした。
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 1219年(建保7年)1月27日,鶴岡八幡宮で征夷大将軍源実朝が甥の公暁に暗殺されるというの事件が起きました。公暁が隠れていたという鶴岡八幡宮の大銀杏の古木は,2010年(平成22年)に倒れてしまいましたが,すぐさま再生への取り組みがされ,もともと植わっていた場所に残った根から若木が出てくるように処置が施され,根元から4メートルの高さで切り離された幹がその横に移植されいました。
 この日私が見たのは,黄葉した元気な2代目の銀杏でした。

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 前回書いた浄閑寺から千束4丁目の吉原遊郭跡を通り,吉原神社を経由してこの日宿泊するホテルのある浅草まで歩いてみました。

 まず私が見つけたのは,平日だというのにお店の前にものすごい列のできていた天ぷら屋さんでした。私は,お昼から天ぷらを食べるという習慣がないので,お昼から天ぷら? と不思議だったのですが,世間はそうでもないようです。
 調べてみると,そこは伊勢屋本店でした。
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 創業128年の天麩羅屋「土手の伊勢屋」はいわずと知れた超有名店で,いつ行っても観光客などの長蛇の列で賑わっています。
 建物も有形文化財に指定されるほど趣きがある店,その店内で天麩羅や天丼を食べると,確かに江戸の風情が感じられます。
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といった紹介がネットにあったのですが,「伊勢屋」さんは都内に3店舗あって,というのは,3代目が3兄弟でそれぞれお店をもっているということで,長男が私の見た「土手の伊勢屋」,次男が「千束いせや」,3男が「蔵前いせや」を経営しているそうです。
 次男が営む「千束いせや」さんは千束という名前であっても,少し前に書いた金美観通りにあるそうなので,いつか行ってみたいと思ったのですが,私はグルメでない上に,並んでまでしておいしいものを食べるという習慣がないので,実行するかどうかはわかりません。

 そうこうして歩いていくと「吉原大門」の跡まで来ました。ここからが江戸時代の吉原遊郭のメインロードです。今も多くの風俗店が軒を構えている仲之町通りに沿って歩いて行くと,千束4丁目の交差点に差し掛かりました。
 このあたり,これから出勤するような女性がタクシーから降りてきたり,スマホを耳にあてておしゃべりに忙しくしている女性がいたり,店長のような風采の男性に連れられて仕事の面接を受けにお店に向かっているような女性が歩いていたりと,そんな興味深い世界を眺めることができました。これが今の日本という国の現実の姿です。
 風俗店の間においしそうなおそば屋さんがあったので,入ろうかどうか考えたのですがやめて,そのまま通りを抜け,吉原神社まで来ました。ネットに次のような紹介がありました。
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 吉原神社は吉原遊郭とともに歩んできた神社です。
 この地には,廓の守護神として5つの稲荷社が存在しました。吉原の入口である「吉原大門」の手前に「玄徳よしとく稲荷社」(=吉徳稲荷社),さらに,廓内の四隅には「榎本稲荷社」「明石稲荷社」「開運稲荷社」「九郎助稲荷社」がお祀りされていました。明治5年にこれら5つの稲荷社が合祀され,総称して吉原神社と名づけられました。
 当初は玄徳稲荷社旧地にお祀りされていましたが,関東大震災で焼失。震災後は水道尻付近の仮社殿にてお祀りしていましたが,昭和9年に現在地へ新社殿を造営,その際新吉原隣接の花園池に鎮座する吉原弁財天も合祀しました。 
 昭和20年の東京大空襲で惜しくも焼失しましたが,昭和43年に現社殿が造営されて現在に至ります。
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 境内には浅草出身で大正から昭和にかけて活躍した俳人で作家の久保田万太郎の「この里に おぼろふたたび 濃きならむ 万」という句碑があります。

 さらに浅草に向かって歩いていくと,吉原弁財天がありました。
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 吉原弁財天は吉原神社の境外摂社です。もともとは別の宗教施設でしたが,1935年(昭和10年)に合祀されました。
 境内には,1957年(昭和32年)の売春防止法の施行で幕を閉じた吉原遊廓の歴史を永く伝えるために1960年(昭和35年)に建立された「花吉原名残碑」という石碑があります。
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 境内入口に近いところに見上げる程に大きな築山があり,その上に観音像が鎮座しています。これは,1923年(大正12年)東京を襲った関東大震災によって逃げ場を失った遊女490人が犠牲となり,1926年(大正15年)に遊女及び遊郭関係者の慰霊を目的に設置されたものです。慰霊碑の築山を裏側に回ると,戦災で犠牲になった遊女や遊郭関係者を祀る「戦災無縁塔」が鎮座しています。
 関東大震災発生時,吉原遊郭では490人もの遊女が死にました。遊郭に閉じ込められ避難出来ず,大火に見舞われ逃げ場を失った挙句,弁天池に沈んで溺れ息絶えたのです。大火が止んだ翌日,池の一面を無残な姿の遊女達の骸が埋め尽くされたいました。
 弁天池は1959年(昭和34年)に現在のNTT吉原ビルである吉原電話局の建設工事に伴い埋め立てられたので,今は鯉が泳ぐ小さな池しか残っていません。
 観音像の脇を抜けて奥へ入ると「吉原辯財天」と朱色で書かれた石碑とともに鳥居があります。その先には,かつて遊郭関係者の信仰を集め弁天池の名前の由来になった弁天祠が現在も鎮座しています。
 吉原弁財天は老朽化が著しかったのですが,2012年に綺麗に改装され,鳥居には極彩色の派手な銘板が取り付けられました。また,改修された弁天祠の壁には沢山の蓮の花に囲まれた弁天様のイラストも描かれています。

 吉原弁財天を出て,どこかでお昼を,と思いながらも適当なお店が見つからず,先に書いた千束4丁目にあったおそば屋さんに入らなかったことを後悔しつつ,やっと見つけた小さな食堂,というか居酒屋で昼食をとり,千束通りからひさご通りを経て,人のあふれる浅草に着きました。

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 江戸時代,幕府公認の吉原遊廓は,もともとは徳川家康の終焉の地である現在の静岡市,当時の駿府城下にあった二丁町遊廓から移されたのがはじまりで,江戸日本橋近くにありました(=元吉原)。幕府が提供した土地は日本橋葺屋町続きの約200メートル四方の区画で,海岸にヨシが茂る僻地。「吉原」の名はここから来ています。明暦の大火ののち,現在の千束4丁目のあたり,浅草寺裏の日本堤に移転しました(=新吉原)。
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 新吉原は日本堤から南西に下った現在の仲之町通り,当時の「衣紋坂」とそれに続く「五十間」が遊廓への唯一の公式通路で,現在の浅草警察署吉原交番のところにあった「吉原大門」をくぐった先に吉原遊廓がありました。
 吉原遊廓の唯一の出入り口である「吉原大門」は,医者以外は駕籠にのったまま通過することができませんでした。「吉原大門」を入ると,左手には面番所というお尋ね者が出入りするのを見張る場所があり,右手には四郎兵衛会所とよばれる小屋があり,遊女が大門から出ないか見張る番人が常駐していました。
 吉原遊郭は高い塀と「お歯黒どぶ」で隔絶された楽園でした。「お歯黒どぶ」は約9メートルの幅があって汚水が流れていました。非常用のはね橋は普段は上がっていて逃げることは不可能だったといいます。現在,「お歯黒どぶ」は暗渠となり,南側は花園通り,北側は道路が走っていて,西側は吉原神社があります。
 廓内は、通りごとにいくつかのエリアにわかれていて,京町1丁目,2丁目,江戸町1丁目,2丁目,仲之町,揚屋町,角町があり,今もその地名表示があります。現在は140軒に及ぶ風俗店に変貌しましたが,当時の区画がそのまま残り,「お歯黒どぶ」の思かげも感じられます。

 浄閑寺は荒川区南千住にある浄土宗の寺院で,山号は栄法山です。先に書いた吉原遊廓の北にあったことから,遊女の投げ込寺として知られます。
 創建は1655年(慶長5年)で,吉原遊廓の誕生よりも2年早く,浄閑寺が投込寺とよばれるようになったのは1855年(安政2年)に起きた安政の大地震で大量の遊女が死亡した際にこの寺に投げ込んで葬ったことによります。
 病気などで死んだ遊女は,浄閑寺に「~売女」という戒名で文字通り投込まれたという説があるのですが,信憑性はなく,「売女」の戒名は「心中」「枕荒らし」「起請文乱発」「足抜け」「廓内での密通」「阿片喫引」など吉原の掟を破った者に限られていることが最近の研究で明らかになっているそうです。この場合,素裸にされた上に荒菰に包まれ,寺に投げ込まれたということで,それは「人間として葬ると後に祟るので,犬や猫なみに扱って畜生道に落とす」という考えによったとものとされています。

 そんな浄閑寺に行こうと,小塚原刑場のあと,向かいました。まだ朝早い時間でしたが,とても親切なお寺の人が声をかけてきて,お寺の説明が書かれた用紙をくれました。
 中門を入った左手に,有志によって49日の忌日に建てられた遊女若紫のお墓があります。
 若紫は江戸末期の楼閣「角海老楼」の遊女。あと5日で年期が明け所帯を持つ約束をしていた男性がいたのですが,突然刃物を振り回しながら楼へ押し込んできた客が若紫を刺し殺すという事件が起きました。わずか22歳という若さで亡くなった若紫を哀れみ,なじみ客がお金を出し合い建てたものです。
 下町が好きだった永井荷風は,1917年(大正6年)から死の前日の1959年(昭和34年)まで「断腸亭日乗」で,吉原,箕輪,千住の風景をに書きました。「断腸亭日乗」に若紫についての記述があります。
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(昭和12年)六月廿二日。快晴。風涼し。
 朝七時楼(=吉原)を出て京町西河岸裏の路地をあちこちと歩む。起稿の小説主人公の住宅を定め置かむとてなり。日本堤を三ノ輪の方に歩み行くに,大関横町と云ふバス停留場のほとりに永久寺目黄不動の祠あるを見る。香烟脉ゝたり。掛茶屋の老婆に浄閑寺の所在を問ひ,鉄道線路下の道路に出るに,大谷石の塀を囲らしたる寺即是なり。
 門を見るに庇の下雨風に洗はれざるあたりに朱塗りの色の残りたるに,三十余年むかしの記憶は忽ち呼返されたり。土手を下り小流に沿ひて歩みしむかしこの寺の門は赤く塗られたるなり。今門の右側にはこの寺にて開ける幼稚園あり。セメントの建物なり。門内に新比翼塚あり。本堂砌の左方に角海老若紫之墓あり。碑背の文に曰ふ。
 若紫塚記
 女子姓は勝田。名はのぶ子。浪華の人。若紫は遊君の号なり。明治三十一年始めて新吉原角海老楼に身を沈む。楼内一の遊妓にて其心も人も優にやさしく全盛双びなかりしが,不孝にして今とし八月廿四日思はぬ狂客の刃に罹り,廿二歳を一期として非業の死を遂げたるは,哀れにも亦悼ましし。
 そが亡骸を此地に埋む。法名紫雲清蓮信女といふ。茲に有志をしてせめては幽魂を慰めばやと石に刻み若紫塚と名け永く後世を吊ふことゝ為しぬ。噫。
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 本堂のちょうど裏手に新吉原総霊塔があります。新吉原の創業から廃業までの約380年間に浄閑寺に葬られた遊女やその子供,遺手婆など遊郭関係者や大地震によって亡くなった方々の供養塔です。
 「生まれては苦界 死しては浄閑寺」と詠まれてありました。
 総霊塔の近くには永井荷風の筆塚やひまわり地蔵があります。ひまわりは、太陽の下で一生を働きぬいてきた日雇労働者のシンボルで,連帯し支えあっている労働者の死後の安心と安らぎの為に建てられたものです。
 吉原遊郭の遊女に関係するもの以外には,本庄兄弟首洗いの井戸がありました。親の仇である平井権八を追った本庄兄弟は,先に兄が平井の返り討ちに遭い,さらに兄の首を井戸で洗っていた弟もそこを襲われ命を落とすというように,仇討ちに失敗し,悲惨な末路をたどったのですが,兄弟の最期の地がこの井戸でした。 


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 2022年12月8日から12月10日に2泊3日で出かけた東京は,ふたつのコンサートを聴くのが目的でしたが,偶然にも旅行補助があったので,ものすごく安価に堪能することができました。
 宿泊したのは浅草でした。
 私は,浅草は何度も行っているのですが,じっくりと散策したことがなかったので,とても楽しみにしていました。
 今日からは,コンサート以外の時間をどう過ごしたかを書いていきたいと思います。

 東京というと若い人はディズニーランドを連想するようですが,不良老人の私は商業主義に毒されたそういうところには今やまったく興味もなく,ガイドブックにも載っていないディープな東京を歴史散歩のつもりで巡っています。こういう場所こそが人間の本音と本質を表わしているからです。
 今回はじめに行ったのは小塚原刑場跡でした。ここは,司馬遼太郎さんの小説「花神」で知りました。小説も読み,NHK大河ドラマも見ましたが,村田蔵六,のちの大村益次郎が小塚原刑場で女囚の腑分けをする場面があって,小説を読むと,小塚原刑場は江戸郊外の人里離れた荒れ地のように思いましたし,テレビドラマでもそのように描かれました。
 しかし,実際はそこが現在のどこにあたるのかまったく知らなかったので調べてみると,南千住駅の近くで,前回歩いた吉原遊郭跡にほど近い場所であることを知りました。そこで,行ってみることにしたのです。

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 小塚原刑場は, 1651年(慶安4年)に千住大橋南側の小塚原町に創設されました。
 江戸時代の江戸には,北に小塚原刑場,南に東海道沿いの鈴ヶ森刑場,西に大和田刑場の「三大刑場」がありました。刑場の広さは間口約100メートル,奥行50メートルというから中学校の校庭程で,そこで,磔刑,火刑,獄門が執行され,腑分けも行われました。
 死体はそのまま野ざらしとされたり申し訳程度に土を被せるのみだったそうですから,周囲に臭気が充満し,野犬やイタチの類が食い散らかして地獄のような有様だったといいます。
 1667年(寛文7年)に本所回向院の住職である弟誉義観が小塚原刑場隣接地に延命寺回向院を創建しました。
 1699年(寛文9年)に下谷浅草にあった火葬寺である19の寺院が小塚原に移転し,19世紀初頭には江戸の一大火葬埋葬場となりました。また,1741年(寛保元年)には高さ3メートルの首切地蔵が建てられました。
 1873年(明治6年)に新政府が小塚原刑場を廃止するまで,小塚原刑場では20万人以上の罪人の刑が執行されたといいます。
 安政の大獄で処刑された橋本左内,吉田松陰も一時ここに埋葬されたので,現在も墓があります。  また,1771年(明和8年)にターヘル・アナトミア(Taffel Anatomia)を手に入れた蘭学者杉田玄白,前野良沢らが解剖図の正確性を確かめるために小塚原刑場において刑死者の腑分けに立ち合いました。
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 延命寺回向院は,明治時代,常磐線を建設する際に線路が敷地中央を通過したため分断されたので,常磐線の北側が回向院,南側が延命寺として独立しました。刑場跡は南千住駅西側にある延命寺内に位置します。
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 南千住駅を降りるとほど近いところに回向院がありました。回向院をGoogleMapsで調べてみても,ここにある回向院がでてこないので戸惑いました。また,多くの人が南千住で降りても,私が行こうとしている場所に興味をもつようなひとも他にまったくいませんでした。私にはそのほうが好都合なのですが…
 回向院は,史跡の部分は公開されていて,中に入ることができました。一番奥にあったのが,左手に吉田松陰,右手に橋本左内の墓でした。
 吉田松陰は1859年(安政6年)伝馬町牢屋敷で斬首され,この小塚原回向院に葬られました。30歳でした。現在残るのは当時の墓石です。吉田松陰はその後,1863年(文久3年)に高杉晋作らによって長州藩の別邸があった世田谷区若林に改葬されました。現在の松陰神社のある場所です。
 橋本左内は安政の大獄で幽閉され,1859年(安政6年),伝馬町牢屋敷で斬首されました。享年26歳でした。
 斬首になった後,福井藩が小塚原回向院に玉垣もある大きな立派な墓を建てましたが,町奉行に気づかれ,罪人に立派な墓を建てるのはいかがなものかと求められたため簡素な墓に作り変えたのが現在残っている墓石です。橋本左内が故郷の福井・善慶寺に改葬された時,この墓石も一度は福井に移りましたが,故郷で新しい墓が作られて,小塚原回向院に戻ってきました。
 墓の手前には橋本左内の碑「景岳橋本君碑」があります。「景岳」というのは橋本左内の号です。

 回向院の入口近くには悪役4人組といわれる,江戸時代に小塚原刑場などで処刑された有名な罪人の墓があります。それらは,大名屋敷を専門に盗みを働いた鼠小僧次郎吉,ゆすり・たかりの小悪党で歌舞伎の題材にもなった片岡直次郎,日本で最後に斬首になった殺人犯の高橋お伝,侠客で喧嘩で斬られた腕を子分に切り落とさせた「腕の喜三郎」です。
 鼠小僧次郎吉の本当の墓は墨田区の回向院にあって,小塚原回向院の墓は義賊としての鼠小僧に恩義を受けた人々が建てたと伝わります。
 また,2007年82歳で亡くなった「プロレスの神様」カール・ゴッチの立派な墓もありました。カール・ゴッチとは,レスリングのベルギー代表としてロンドンオリンピックに出場し,プロレスデビューは1950年で,力道山とも試合をした日本のプロレス創生期のレジェンドレスラーです。
 アントニオ猪木をはじめとする多くのプロレスラーが卓越した技術をもつゴッチ氏に心酔し,通称「ごッチ道場」で過酷なトレーニングに励みました。「ジャーマン・スープレックス」はカール・ゴッチが開発した技です。
 カール・ゴッチの墓が,没後10年の時を経て日本に建立されました。実際の骨の9割はゴッチ氏の遺志に従い海に散骨し,残りの1割が弟子のジョー・マレンコが保管していたものが日本の墓に納められたということです。
 回向院を出て,南に歩くと,先に書いた延命寺と首切地蔵がありました。

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 Cプログラムはコンサート自体は短いのですが,おまけとして開演前の室内楽があります。これは以前,NHKホールのロビーで行われていたものです。そのときはそのときでとても楽しいものではありましたが,自由席だったのでよい席を取るのがたいへんでした。それが,ステージで行われるようになって,自分の席で楽しめるようになりました。
 開演前の室内楽は正規のコンサートが開演する午後2時の45分前で,約20分ほどの演奏でした。今回はベートヴェンの弦楽四重奏曲第3番が取り上げられていて,演奏の前にはステージ上では軽く挨拶がありました。なかなかいいものでした。

 今回の定期公演のプログラムは,前回書いたように,モーツアルトの交響曲第36番「リンツ」とメンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」でした。
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 交響曲第36番は,モーツァルトが1783年の10月から11月に掛けてのリンツ滞在中に,トゥーン・ホーエンシュタイン伯爵の予約演奏会のために4日間という驚異の速さで作曲した曲で,そうした経歴から「リンツ」という愛称でよばれています。
 曲の完成度は,第38番「プラハ」,第39番,第40番,第41番「ジュピター」と並ぶウィーン古典派交響曲の傑作です。
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 交響曲第3番は,フェリックス・メンデルスゾーンが1830年から1842年にかけて作曲した最後の交響曲です。この交響曲の作曲には,モーツアルトの「リンツ」とは対照的にとても長い年月がかかりました。
 「スコットランド」という愛称は,メンデルスゾーンがこの曲を着想したのがスコットランド旅行中だったことによるものです。
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 こうした,リズミカルで楽しい曲は何度聴いてもいいもので,私は,NHKFM放送で中継したものを録音して,あとで何度も聞いています。何かをし「ながら」気楽に流しておけるのです。

 それにしても…
 この演奏会では,「スコットランド」の最後に,演奏が終わってもいないのに拍手をはじめた観客がいて,その気持ちはわからないこともないのですが,そりゃないなあ… と思いました。
 私は,ひさびさにCプログラムの2日目に返り咲いたのですが,どうも以前から土曜日のマチネは観客のお品があまりよくありません。以前にも,フライングの拍手とか度を越えたブラボーとか最上階の席でいやいや連れてこられた高校生が騒いでいたとかいろいろ問題がありました。私は,すでにチケットを持っている残る1月と2月の定期公演を聴きにいったら,再び変更を考えなくてはならないのかなあ,と思ってしまいました。

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 2022年12月8日にドイツ・カンマーフィルハーモニー管弦楽団のコンサートを聴いた翌日12月9日は鎌倉観光をして,1日おいて12月10日に今度はNHK交響楽団の定期公演を聴きました。
 9月,10月,11月はNHK交響楽団定期公演のAプログラム2日目の日曜日のシーズンチケットを購入しましたが,12月,1月,2月はCプログラム2日目の土曜日のシーズンチケットに変更しました。
 今シーズンの私の目玉は,先に書いたように9月から11月のAプログラムだったので,それ以降は,休憩なしで時間が短いCプログラムで気楽に楽しもうと思ったわけです。今シーズンはあと4月,5月,6月とあるのですが,どうするかはまだ未定です。

 11月のCプログラムは,指揮者がファビオ・ルイージさんで,曲目はモーツアルトの交響曲第36番「リンツ」とメンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」というとても気楽に楽しめる2曲でした。このことについては次回書きます。
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 さて,土曜日のお昼間のNHKホール周辺は,日曜日とは違って,思ったほどの混雑もなく人が少なく驚きました。
 NHK周辺がもう少し落ち着いたところだといいといつも思うのですが,渋谷に限らず,東京はどこもかしこも人が多すぎます。よくもまあ,これほど人がいるものだとつくづく感心しますが,人混みの大嫌いな私には耐えられません。
 ともかくも,NHKホールに着きました。館内は2022年9月から首席指揮者となったファビオ・ルイージさん一色でした。

 私がクラシック音楽を意識して聴くようになったのは今から50年以上前のことですが,そのころは,ベルリンフィルハーモニー管弦楽団はヘルベルト・フォン・カラヤン,シカゴ交響楽団はゲオルク・ショルティ,クリーブランド管弦楽団はジョージ・セルというように,それぞれのオーケストラに確固たる地位をしめる指揮者がいたものです。
 それに比べて,当時のNHK交響楽団ではさまざまな指揮者が次々とやってきて,それはそれでおもしろかったのですが,だれがこのオーケストラの芯となる代表的な指揮者なのかよくわからず,海外のオーケストラをうらやましく思ったものです。

 近年は,シャルル・デュトワさんが1996年から2003年まで7年間にわたって常任指揮者を経て音楽監督となり,次が,ウラディーミル・アシュケナージさんで2004年から2007年まで音楽監督,そしてその次が,パーヴォ・ヤルヴィさんで2015年から2022年までの7年間首席指揮者となりました。このように,近年は,芯となる指揮者が年に3月ほど指揮をすることで,指揮者の個性が出るプログラムを構成しているので,落ち着きます。そして,今年からは新たにファビオ・ルイージさんが首席指揮者に就任しました。
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 私が定期公演を聴くようになったころは,シャルル・デュトワさんが私の知らなかったドイツ音楽以外のレパートリーや日ごろなじみのなかったオペラを積極的に取り上げていたときで,とても楽しめました。次のウラディーミル・アシュケナージさんはちょっとなあという気持ちがしましたが,それなりにそつのないプログラムではありました。
 しばらく空白が続いて,それに続いたパーヴォ・ヤルヴィさんはとてもすばらしく,私は大好きでした。今回契約の満了でとても残念に思っていたのですが,ファビオ・ルイージさんが新たに就任して,また,異なった個性の指揮者を知ることになったわけです。

 これは,音楽のことをまったくわからない私の感想にすぎませんが,パーヴォ・ヤルヴィさんとファビオ・ルイージさんとでは,いろいろな点で似ているところと全く異なる点があって,とても興味深いです。
 パーヴォ・ヤルヴィさんは毎回いい意味で出たとこ勝負的なよさがあって,魅力がありました。その反対に,ファビオ・ルイージさんはとてもきちんとしていて,いい意味でおよそイタリア人らしくないと思います。これま私が聴いた曲の中では,ブルックナーがいいなあと思いました。
 ところで,NHK交響楽団の定期公演はまもなく2000回を迎えます。そこで,この記念すべき2000回に何を演奏するかというファン投票が行われて,ダントツでマーラーの交響曲第8番「一千人の交響曲」に決まったという発表がありました。それ以外の候補曲はフランツ・シュミットのオラトリオ「7つの封印の書」,シューマンのオラトリオ「楽園とペリ」だったそうですが,この3曲を並べたら,多くの人はやはり最もなじみのあるマーラーになるでしょう。私もあとのふたつを聴いたことがありません。というわけで,私個人としては,ファビオ・ルイージさんがどんなマーラーを演奏するのか,という点にとても興味があります。そのときになったら,ぜひ,この公演を聴きに行きたいと今から楽しみにしています。


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 コンサートの曲目はハイドン作曲の交響曲第102番,第96番「奇跡」,そして,第104番「ロンドン」でした。
 私はハイドンの交響曲全107曲をすべて聴いたことがあるのですが,どういうわけか,前半の2曲交響曲第102番,第96番「奇跡」はほとんどなじみがありませんでした。
 ハイドンの交響曲のうち,晩年の円熟期に作曲された12曲をザロモン・セットといいます。
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 1790年のニコラウス・エステルハージ侯爵の死去でハイドンの音楽生活は一変しました。ザロモンの招きによって1791年にロンドンに到着したハイドンは,1792年までに第93番から第98番の6曲を作曲し,いったんウィーンにもどったあと,再び1794年にロンドンに登場し,第99番から第104番を作曲しました。
 当時としては大きな編成のオーケストラによって豊かな響きを追求することができたのがこれらの作品で,どれもすばらしいものです。
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 私がウィーンで聴いたときに演奏されたのは交響曲第101番「時計」でしたが,パーヴォ・ヤルヴィさんの指定したテンポが「時計」というにはとても速かったので,多くの聴衆はとまどっていました。私は,パーヴォらしいなあと思いました。今でもそのことが最も印象に残っています。今回はテンポについては特に何も感じませんでしたが,期待以上の演奏でした。
 パーヴォ・ヤルヴィさんはとても人気があります。NHK交響楽団との契約が満了してしまい,日本ではこれまでのように頻繁に聴く機会がなくなってしまったのが残念です。おそらく,今回のコンサートに来ていた人の多くも同じ気持ちだったのでしょう。コンサートが終わっても拍手が鳴りやまず,何度もカーテンコールがありました。

 演奏会の会場は,東京オペラシティコンサートホール:タケミツメモリアルでした。今年で25周年ということだそうですが,私ははじめて行きました。すばらしいところでした。そしてまた,巨大なクリスマスツリーが色を添え,きれいでした。
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 東京オペラシティは,新国立劇場,および,東京オペラシティビルから構成されています。
 作曲家の武満徹の名前を冠した東京オペラシティコンサートホール:タケミツメモリアルは,シューボックス型の平面,変形ピラミッド型の天井,2層のバルコニー席,天井に採光窓をもち,ピラミッド状の音響反射板がステージ上部に浮かぶものです。
 座席数は1,632席で,スイス・クーン社製のパイプオルガンがあります。東京フィルハーモニー交響楽団,東京交響楽団の本拠地です。フロアはほぼ平面なので,ステージを見やすくするために座席が1列ごと互い違いになっています。
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 私が選んだのは前から10番目のど真ん中でしたが,左に座ったのが,何と何と,ヴァイオリニストの服部百音さんだったのにはびっくりしました。自分でも不思議なほど,私はこうしたラッキーな偶然によく恵まれます。

 実は,ドイツ・カンマーフィルハーモニー管弦楽団に,Emma Yoon というヴァイオリニストがいます。私は,なぜか彼女の密かなファンで,今回もその姿を見ることができたのが,喜びでした。
 それはそうと,世の中は様々な出来事でかまびすしいですが,そんな時期には,とりわけ,クラシック音がすてきに聞こえます。今回もまた,こんなすばらしい時間をすごすことができて,大変満足しました。遠いところをやってきた甲斐があったというものです。
 次回の来日が楽しみです。

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 2020年,パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィルハーモニー管弦楽団の来日がコロナ禍で中止となりました。このときは,私の住むところにほど近い豊田市でも公演が予定されていたので,とても残念でした。
 私が世界で最も好きなオーケストラがドイツ・カンマーフィルハーモニー管弦楽団です。それ以来ずっと来日を待ち望んていたのですが,ついに,2022年12月8日,9日の両日,実現しました。あいにく東京での公演のみとなってしまいましたが,12月10日にNHK交響楽団の定期公演があったので,それと兼ねて,東京へ聴きに行くことにしました。
 私が聴いたのは1日目のほうで,曲目はすべてハイドンの交響曲でした。

 2018年,生まれてはじめてウィーンに行ったとき,ぜひ楽友協会でコンサートを聴きたいものだと思ったのですが,ちょうどパーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィルハーモニー管弦楽団の公演があったのが幸運でした。苦労してチケットを手に入れて,念願がかないました。そのときに演奏されたのはハイドン,モーツアルト,シューベルトでしたが,そのときの印象があまりにすばらしく,それ以来,ファンになってしまったのでした。しかも,私がウィーンで聴いた,そのわずか少し後,私の帰国を追うようにこのオーケストラが来日して,今度は日本での演奏会を聴いたときは,不思議な距離感がおかしくて,とても奇妙な気持ちがしたものです。このようなわけで,私には,パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィルハーモニー管弦楽団は,ウィーンと私の架け橋のような存在で,今も,ウィーンを思い出すのです。
 このオーケストラはベートヴェンの交響曲の演奏で定評があるのですが,私は,ウィーンで聴いた曲の中でも,とりわけハイドンの交響曲の印象があまりに強いものだから,ぜひ,今回もハイドンを聴きたいと思いました。そしてまた,私がウィーンに行ったとき,ハイドンの住んでいた家にも行くことができたことで,日本ではあまりなじみのないハイドンをずいぶんと身近に感じるようになったのです。

 ステージに見慣れたメンバーが現れたときは感動しました。
 以前にも書いたことがありますが,日本のオーケストラはおとなしく,演奏中もほとんど態勢を変えないのが私にはすごく物足りないのですが,その点でも,このオーケストラは表情が豊かであり,すべての団員がまるでソリストのように体を揺らしながら演奏するので,聴いていても本当に楽しいです。
 ドイツ・カンマーフィルハーモニー管弦楽団は小規模なオーケストラなので,古典派の曲がとてもよく似合います。小編成のオーケストラが奏でるハイドン,モーツアルト,シューベルト,そして,ベートーヴェンは本当に気品のあるものです。私は,ステージ一杯に多くの団員が所狭しと乘ってリヒャルト・シュトラウスの音の洪水に浸るよりも,むしろ,こうした小規模なもののほうがずっと好きです。
 今回のコンサートが行われたのは,ウィーンの楽友協会のような広さの東京オペラシティ・コンサートホールだったので,それもまた,とてもよく合っていて,幸せにな時間を過ごすことができました。

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思いがけない水牛車観光を終えて,引き続き,レンタサイクルで島の観光を続けます。
まず行ったのは,竹富島の数ある御嶽の中で最も有名な御嶽である世持御嶽(ユームチオン)でした。
世持御嶽は竹富島の集落の中央にあって,「四月大願」「西塘祭」「結願祭」「九月大願」「種子取祭」(タナドゥイ)がこの御嶽を中心に開催されます。なかでも,旧暦9月の庚寅・辛卯の2日間を中心に開催される「種子取祭」は竹富島最大のお祭りで,農作物の豊穣と島民の繁栄を祈願し,舞踊や狂言などの伝統芸能を奉納します。
1914年(大正2年)年,それまで竹富村役場があった場所に世持御嶽を置き,世持御嶽に火の神と農耕の神を招いて,種子取祭の奉納が執り行われるようになったということです。
世持御嶽の周辺は緑が多く,ひっそりとした静けさの続く御嶽で神聖な空気を感じられました。

次に行ったのは,なごみの塔でした。
なごみの塔は,竹富島の玻座間西集落のほぼ中心,赤山公園の高さ約6メートルの丘に建てられた高さ4.5メートルの鉄筋コンクリートの展望塔です。頂上の展望台までは8段の階段が設けられ,その幅は約45センチメートル,奥行き約16センチメートルで,段差が約35センチメートルと高く,斜度は約60度と急勾配です。当初は展望台の上から集落内に連絡事項を伝えるために用いられたそうです。
展望台からは集落の赤瓦の家並みを一望することができたといいますが,なごみの塔がつくられたのは1953年で,現在は老朽化のために登ることができません。そこで,道を隔てた向かい側に,あかやま展望台がカフェの入っているビルの屋上に作られていて,無人の料金箱に100円を入れて登ります。展望台から,すばらしい景色を一望することができました。

そして,その次に行ったのが,西桟橋でした。
竹富島に着いたときに,カイジ浜,コンドイ浜と訪れて,その次に行こうとして迷った場所ですが,改めて地図を見て,行くことができる道を見つけました。
西桟橋は,1972年以前,農耕地の少ない竹富島の人々が西表島に水田を作っていたころに港として使用した桟橋です。桟橋の先端まで歩いていって海を見ると,透き通った水の中に,見えるわ見えるわ,たくさんの魚が泳いでいました。遠くには,石垣島を見ることもできました。

こうして,竹富島のほぼすべての見どころに行くことができて,レンタサイクルのお店までもどってきました。まだ時間が早かったので,隣にあったカフェで小休止をしたのち,レンタサイクルを返して,港まで送ってもらいました。私と同じ時間の船で竹富島に渡ってきた人たちはすでに帰ってしまい,私だけでした。私は5時間ほど滞在しましたが,竹富島は4時間もあれば十分に観光のできるところでした。それにしても,暑い日でした。もう11月の下旬というのに。

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私が利用した水牛車は竹富観光センターのものでした。
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島の観光で欠かせないのは水牛車観光。
のんびり水牛車に乗り,約30分間,美しい集落内を回ります。水牛車では三線の音色を聴きながら,気持ちよい海風を感じられます。また赤瓦の伝統的な建物の特徴や集落についての説明も聞くことができ,沖縄文化も学べます。沖縄らしいゆっくりした時間に癒されます。
  ・・・・・・
という紹介がありました。
水牛車に乗る方法すら知らなかったので,偶然,乗り場に着いたのがうれしくて,早々に予約したわけですが,帰ってから調べてみると,竹富観光センターのものは2,500円,もうひとつの新田観光は1,500円で,特に内容に差がないということなので,私は損をしました。
まあ,出たとこ勝負の私の旅にはこうしたことはつきものです。
では,なぜ竹富観光センターの商売が成り立つのかというと,石垣島の離島ターミナルにあるツアー会社で,別々に購入するよりもお得な竹富島の船の往復券と水牛車がセットになった日帰りツアーが販売されていて,それを購入したときに利用するのが竹富観光センターの水牛車だからということです。
というわけで,どうりで個人客が少なかったわけです。私が予約した水牛車の出発時間直前に,大量の団体さんが現れました。これには落ちこみました。しかし,先日行った山形県の最上川クルーズのときと同様に,団体さんは別の水牛車だったので救われました。このように,この国で個人で旅行をするのは結構制約もあり,たいへんなのです。

水牛車が出発しました。
集落内を回りながらいろんな説明があったり,三線を引きながら歌があったりと,結構楽しいものでした。水牛がどのくらいの知能があるのか知りませんが,狭い四つ角を巧みに回ったり,また,歌の間は何も命令されなくても停止したりと,すごく訓練されているのが驚きでした。それにしても,重い客車を引くのは過酷な労働です。水牛で生きるのも大変です。
  ・・
集落で興味深かったのは,家屋でした。
竹富島では,新しいものを造らず,古い建物をそのまま利用したり,修復するということが行われているので,修復が追いつかず,どことなくひなびた印象になります。それもまた,竹富島の魅力です。
サンゴを積んだだけのゴツゴツした石垣(グック)には,ブーゲンビリアや多肉植物のブリオフィルム,庭には島バナナなどが咲き乱れていました。そして,平屋建て木造の家の琉球赤瓦の屋根には,それぞれシーサーが家を守っています。
この島には200戸弱の家があるのですが,空き家はないということです。また,もし空き家がでても,島内に親戚がいないと移住も無理だという話です。

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◆◆◆
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道に迷いながら,なんとか竹富島の集落に戻ってきました。この景色こそ,ガイドブックなどによく出てくる竹富島そのものでした。ただし,想像していたよりも狭く,また,写真では美化されてしまいますが,というのは,最も写真映えのするところを写しているからですが,実際は,電柱があったり,新しい家があったりと,もう少しごちゃごちゃしていました。
私は,この日,昼食を食べ損ねました。朝,ペンションで食べた朝食は和食で,日ごろパンとコーヒーといった生活をしている私はご飯をお代わりするなど食べ過ぎてしまい,お腹が空いていなかったことに加えて,この日は日曜日で,島にある食事のできる数少ないお店のそのほとんどがお休みであったことも理由でした。
どうやら,竹富島は八重山諸島のテーマパーク,あるいは,ディズニーランドとよばれているようで,観光客が非常に多いのです。そこで,ほんのわずかだけ開店していたお店は人がいっぱいでした。

さて,集落に戻った私がまず行ったのが島の観光案内所だったのですが,そこにあったのは,島の歴史などが展示された資料館で,観光案内所ではありませんでした。ほとんど人はいませんでした。
それから,集落の中心部に行くと,まず,学校がありました。こちらの学校は小学校と中学校が一緒になっていて,さほど生徒も多くはないようでした。
さらに行くと,ここにもまた御嶽がありました。ここは清明御嶽(マイヌオン)でした。
  ・・・・・・
清明御嶽は竹富島の集落にある国造りの神を祀る御嶽です。清明御嶽に祀られる神がはじめて竹富島をつくり,その後に石垣島の於茂登岳の神から頼まれて両神が協力して石垣島をつくり,その後,八重山の島々をつくったという伝説が残っています。
清明御嶽の西側にある道は美崎浜から南のカイジ浜へと繋がっていて,その通りの一部は神の道(ナビンドー)とよばれています。道沿いには玻座間御嶽,仲筋御嶽,幸本御嶽などの御嶽があります。
  ・・・・・・

さらに行くと,水牛車の乗り場に着きました。そこは,竹富観光センターという会社がやっている水牛車の乗り場でした。何の予習もしていない私は,竹富島は水牛車で有名だけど,今もやっているのかな,くらいに思っていて,乗れないものだと考えていました。しかしそれは大間違いで,竹富島の観光の目玉といえば,水牛車なのでした。
私は,竹富島に着いたときにレンタサイクルの会社のマイクロバスに乗り込んだので知らなかったのですが,竹富港に到着したときに水牛車の送迎車が待機していて,それにのると,水牛車の店舗に連れて行ってくれて水牛車に乗れるのでした。そして,水牛車を運営する会社は2社あって,私がこれから利用する竹富観光センターよりももうひとつの新田観光という会社のほうが割安でした。
  ・・
そんなことはまったく知らないこのときの私は,水牛車に乗ることができるだけでうれしくなり,早速チケットを買いました。もしここで水牛車の店舗に行くことができなかったら,ひょっとして,竹富島で水牛車に乗らず帰ってきたかもしれません。出発はわずか5分後ということで,それもまた,ツイているなあと思ったくらいです。水牛車に乗ろうと待っていたのはわずか4人程度に見えました。このときの私は,流行っていないんだなあ,などと誤解しました。
ところが…。

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竹富島で有名なのは水牛車に乗って集落を巡るという写真です。しかし,何の予習もしてこなった私は,水牛車に乗るにはどこに行けばよいのかも皆目わからなかったので,まずはともかく,レンタサイクルに乗って,もらった地図に従って,島の西側の海岸めざして走りはじめました。
竹富島は集落が島の中央にあって,その周りを外周道路が走っています。私がレンタサイクルを借りた場所は島の集落の中にあって,はじめはなかなか地図が頭に入らず,集落内がどうなっているのかよくわかりませんでした。
ともかく,レンタサイクルを借りた場所から西に向かって走って,外周道路を越えてさらに進んでいくとカイジ浜に出ました。このあたり,2020年2月に行ったハワイ・モロカイ島のカワキウ・ビーチ(Kawakiu Beach)に似ているなあ,と思いましたが,カワキウ・ビーチのほうがずっと人が少なく素朴です。この浜は潮の流れが速いので遊泳はできませんが,多くの人が星砂を探していました。
  ・・・・・・
星砂(star sand)は,星の形の粒子からなる砂状の海洋性堆積物です。砂という名前ですが,実際は死んだ有孔虫の殻です。星砂は海岸に運ばれ,サンゴ片等とともに砂浜を形成します。
日本では,沖縄県の多くの海岸で星の砂を見ることができますが,西表島の星砂の浜,竹富島のカイジ浜,鳩間島などが有名です。
  ・・・・・・
ということです。私は,小学生のときに,学校からこの島に行った先生から大量の星砂をもらったことがあるので,珍しいとも思わなかったのですが,多くの人には好奇のものなのでしょう。
今では知らない人も多いでしょうが,1977年に小柳ルミ子さんが「星の砂」という歌を歌ってヒットさせたことがあります。私が星砂をもらったのは,この曲によって星砂が有名になるその前のことでした。
  ・・・・・・
星砂を産出する沖縄県八重山列島には,黒島から石垣島への強制移住により恋人と引き裂かれた女性が,恋人の住む故郷の島をひと目見ようと野底岳に登ったのですが,於茂登岳に遮られてそれもかなわず,絶望して山頂の岩と化したという伝承があって,この曲の歌詞はこれをモチーフにしたとされています。
  ・・・・・・

カイジ浜から海岸線に沿って道路があり,それを北に進んでいったところに,コンドイ浜がありました。
コンドイ浜は白い砂浜と淡いブルーの海の色が美しいビーチで,ここは遠浅で波が穏やかなので,泳ぐことができます。カイジ浜からとても近いのですが,不思議なことです。ということで,トイレやシャワーの設備があって,海水浴場の体を成していました。
ここは,ハワイのカウアイ島ハナレイ・ビーチ(Hanalei Beach)のような感じでした。
このように,どうも,私は,このころは,八重山諸島にハワイのイメージをだぶらせていたようです。

コンドイ浜から,さらに北に向かって走っていくと西桟橋に着くように地図にあったのですが,その道路が工事中で通行止めになっていたので,たどり着くことができませんでした。
迂回をしていたつもりだったのですが,道に迷ってしまい,狭く,草が生い茂る道路を走っていくと,たどり着いたのが,美崎御嶽(ミシャシオン)というところでした。
  ・・・・・・
御嶽(うたき)というのは,琉球神道における祭祀などを行う施設で,沖縄では島民の信仰の場です。本土でいうところの神社に相当します。
宮古島では「すく」,石垣島,竹富島,西表島では「おん」,新城島,西表島では「うがん」,黒島,小浜島,新城島では「わん」,波照間島では「わー」ともよばれます。
御嶽は琉球の神話の神が存在,来訪する場所で,また,祖先神を祀る場でもあります。琉球神道では神に仕えるのは女性とされ,琉球王国時代は男子禁制で,現在でもその多くが一定区域までしか男性の進入を認めていないそうです。
御嶽の多くは森の空間や泉や川,あるいは,島そのものです。御嶽の入口に鳥居が設置されているのは,明治維新から琉球処分以降の「皇民化政策」による神道施設化の結果で,近世琉球までの御嶽にはありませんでした。
  ・・・・・・
美崎御獄は航海の安全を願い作られた御獄で,入口付近は大きな木々が立ち並び粛々とした雰囲気が漂っています。美崎御獄の奥には「イビ」とよばれる神域があって,神職者しか立ち入ることができないとあったので,私もそこまで行きませんでした。
また,美崎御獄の近くには新里村遺跡がありました。
新里村遺跡は,花城井戸(ハナクンガー)という井戸が中心にある遺跡です。その昔,井戸を中心に集落ができたとされていて,新里村遺跡の発見によって,花城井戸の東が12世紀末から13世紀にかけてはじまり,西側が14世紀にできたということで,この場所が竹富島の発祥地ということだそうです。
本土とはいろいろな点で歴史や文化が異なるのだなあと実感しました。

  

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石垣島から日帰りで行くことできる離島には,竹富島,小浜島,黒島,西表島,鳩間島,波照間島,与那国島があります。最も近いのが竹富島で,ここは離島初心者がまず訪れる島だそうです。実は,私が行きたかったのは小浜島でした。
港の離島ターミナルは思ったよりも大きいところで,私は,アイスランドに行ったときに訪れたバスターミナルを思い出しました。ずらっとチケット売り場や観光案内所が並んでいました。それぞれの島内は,鳩間島以外は徒歩で巡れるほど狭くないので,島内でレンタサイクルやらレンタカーを借りる必要があるということだで,それが困難な人や,気軽に観光する人向けにいくつかの島を巡るツアーなるものもありました。
私は,個人できままに旅をするのが基本なので,この日はどこかの島に渡ってみて,どのようなものなのかを体験しようと考えました。

島への船便を出しているのは,八重山観光フェリーと安栄観光というふたつの会社で,それぞれチケット売り場があったのですが,その前に観光案内所によってみようと,観光案内所と書かれたカウンタに行って聞いてみることにしました。
「今から小浜島に行って見たいのですが,日帰りできますかねえ?」「行くことできますよ。今10時30分なので,ちょうど船がでたところです。次は12時50分です」というやり取りがあったのですが,船が出るのが2時間近く後というのはちっとなあ,と思いました。そこで,予定を変えて,竹富島に行くことにしました。竹富島へは11時30分の便がありました。チケットは観光案内所でも買うことができました。
この時間,離島ターミナルは空いていたのですが,翌日,もっと早く離島ターミナルに着いたら,すごく混雑していました。

出校までの1時間,港の近くの町を散策しました。
この日は日曜日で,多くの店がお休みでした。ここは観光地なのかそうでないのか,この後いろんなことがわかってくるのですが,石垣島というところは,何か,とても中途半端なところだと,私は思いました。
離島ターミナルに戻りました。
離島ターミナルの桟橋前にはボクサーの具志堅用高さんの像がありました。
具志堅用高さんは石垣島の生んだプロボクサーですが,私は,これほど強かったという印象をもつボクサーは他にいません。
  ・・・・・・
具志堅用高さんは1955年石垣石垣島出身の元WBA世界ライトフライ級王者で,最優秀選手賞に5度選ばれた記録をもちます。ニックネームは「カンムリワシ」といい,世界初挑戦の時に「100年にひとりの天才」というキャッチフレーズで売り出しました。
  ・・・・・・

やがて,時間になったので,船に乗り込みました。
約20分程度で竹富島に到着すると,多くのレンタサイクルの店が観光客目当てに出迎えていたので,そのうちのひとつを選んで,送迎マイクロバスに乗り込みました。

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2日目 2022年11月27日日曜日
2日目の朝になりました。ペンションの朝食は午前7時30分からでした。
このペンションは私の期待以上のところでしたが,ひとつだけ問題があると言えば,ペンションから石垣港まで30分ほどかかるので,朝食をとると,朝8時30分の船便に間に合わない,ということでした。離島への船便は朝1番がどの離島へもほとんど午前8時30分で,次の便となると午前10時30分になってしまうのです。
この時点では,次の日に波照間島に行くことにしていたので,この日は午前中は石垣島を適当にまわって,午後,どこかの離島に行くことにしました。

朝食を終えて,まず,石垣島の最北端まで行きました。
最北端にあるのは平久保崎,そして,平久保崎にあるのは「恋する灯台」でした。島の北部は自然豊かなところで,あたり一面にサトウキビ畑があって,なかなかよいところでした。ほどなく最北端に到着しました。駐車場に車を停めてしばらく歩くと灯台に出ました。灯台からの景色は,右手には太平洋,左手には東シナ海を眺めることができました。私は見たことがないのですが,ここは映画「恋しくて」のロケ地になったところという話でした。
  ・・・・・・
2007年4月に公開された「恋しくて」は沖縄出身のバンドBEGINがモデルになった映画で,BEGINが学生生活を送ったころの石垣島を舞台に繰り広げられる若者たちの青春と恋愛を描いた作品です。
BEGINの同名曲をモチーフに,高校生たちのさわやかなラブストーリーが描かれています。
  ・・・・・・

次に行ったのは,国立天文台VERA石垣観測局の巨大パラボラを見ることでした。
場所は島の中央部名蔵ダムから少し北に細い道路を入ったところでした。見学できるとあったのですが,時間が早く,入ることはできませんでした。私が外から見ていたときにちょうどパラボラアンテナが音を立てて動いたので,中には係員がいたのでしょう。
  ・・・・・・
国立天文台VERA石垣島観測局は,口径20メートルの電波望遠鏡を備える天体観測施設で,内部を見学できるのは1年に1回ですが,外を見るのは1年中可能です。
VERAプロジェクトとは岩手県水沢観測局,小笠原観測局,鹿児島県入来観測局と4局で観測することにより,精密で立体的な銀河系の地図を作るという計画です。
  ・・・・・・
後で知ったことには,ここは隠れた撮影スポットなのだそうです。
私はどこに行っても,こうした天文に関する施設を見たいと思うのですが,これまで世界中の多くの施設を見てきたので,特に感動するものではありませんでした。
それにしてもいつも思うのですが,日本の施設はどこも海外の施設にくらべてかなり安っぽいです。

さらに,石垣港に行く途中に石垣天文台があったので,そこにも寄ってみました。
細い一方通行の山道を延々と登っていくと着きました。
  ・・・・・・
石垣島天文台は,国立天文台,石垣市,石垣市教育委員会,NPO法人八重山星の会,沖縄県立石垣青少年の家,琉球大学の連携によって運営される天文台です。
九州・沖縄で最大の口径105センチメートルの光学・赤外線反射式望遠鏡「むりかぶし望遠鏡」を備え,太陽系天体や突発天体の観測研究,および,天文学の広報普及を行っています。
  ・・・・・・
とのことで,電話で予約すれば内部を見学することができたようです。
こうした天文台もまた,これまで世界中の多くの施設を見てきたので,特に見たいと思うこともありませんでしたが,それよりも,前から名前は知っていた石垣天文台がどういう場所にあるのか,ということがわかっただけで満足しました。結構南に町があるので環境がいいのか悪いのか,また,天気にもあまり恵まれていない環境のように思いました。

そうこうして,ダラダラと島を巡りながら,石垣港に到着しました。
広い駐車所があったのですが,多くの車が停まっていて,空きスペースは端っこに少しだけ残っていました。ここの駐車場は1時間100円です。その空きスペースを見つけて車を停めて,港のターミナルに行きました。

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石垣島に到着しました。
空港は町から結構離れたところにありました。空港内にはレンタカー会社のカウンタはなく,空港を出たところに送迎バンがいて,そこで乗り込むとレンタカー会社のオフィスまで連れて行ってくれるということでした。乗り込んだバンの乗客は私ひとりでした。
オフィスではすんなりとレンタカーを借りることができました。
レンタカーを借りるとき,係の人に「はじめて沖縄に来ました」と私が言うと「はじめての沖縄が石垣島ですか?」と驚かれました。しかし,その反対に私が驚いたのは,係の人から「石垣に住んでいて今までに西表島に行ったことがない」と言われたことでした。同じ話をその後別の人からも聞きました。住んでいるとむしろ観光客ほど出歩かないようです。また「石垣島には制限速度よりはるかに遅くのろのろと走る地元民がいるから決してイライラしなようにね」と言われたのですが,その後,まさに,そうしたことに何度も出会いました。なぜだか,追い越し禁止車線に限って,制限速度時速40キロメートルの道路を時速30キロメートル以下で,しかも,後続車のことをまったく気にかけずだらだらだらだらと何キロメートルにもわたって走る軽トラに出会うのでした。

この日は到着が午後4時を過ぎていたので,ともかく予約していたペンションに行くことにしました。町と港は石垣島の南にあるのですが,人混みの嫌いな私が選んだペンションはその反対のはるか北にあるので,空いた道路をどんどんと北上していきました。石垣島の第一印象は,ハワイのカウワイ島とモロカイ島を足して2で割ったようなところだなあ,ということでした。
ペンションは私が思っていたよりももっと北にあったので少し迷いましたが,GoogleMapsの力を借りて何とか到着することができました。
出迎えてくれたのはペンションで働いているらしい若い楽しい女性でした。
新しくきれいなペンションで,部屋は2階の端でした。ここに4泊します。
いつものとおりいい加減な私は,このペンションには朝食のサービスがついているということを知りませんでした。というか,認識していませんでした。ただし,夕食は1回だけがサービスで,それをいつにするかは私が指定できたので初日にしたのですが,これが大正解でした。到着したばかりのこの日,どこかで夕食を,と言われても,島の北部にはほとんどレストランどころかコンビニすらないので,困ってしまったことでしょう。
美しい星空が見られそうな場所だったのですが,この晩はあいにく雲が多く,期待外れでした。私は旅先でもまずテレビをつけないので,夕食を食べて,「あること」をしてからすぐに寝てしまいました。

「あること」とは以下のことです。
実は,この日,私はずっと「波照間島の亡霊」に悩まされていました。
「波照間島の亡霊」というのは,波照間島に行こうかやめようか,ということでした。 といっても,私は,波照間島に特に行きたいと思っていたわけではないのです。波照間島がどういうところなのかもまったく知りませんでした。私が知っていたのは,条件次第で船がよく欠航する,ということと,片道1時間半ほどかかって,しかも外洋なので揺れて船酔いする,ということだけでした。
なのに,行こうかどうしようか迷っていたその理由は,そんなに行きにくいところなのであれは,行ってきたら,帰ってから自慢できるではないか,という,曲がった根性だけでした。
私が迷いに迷っていたのは,海が荒れて船が欠航し帰れない危険があることと,たとえ船便があっても船酔いするかもしれない,という2点でした。私は,若いころ,冬の青函連絡船に乗って,早々と船酔いしてしまい,3時間以上にわたって大変な目に遭ったことがあって,それが今でもトラウマとなっているのです。そこで,人生でこれまで酔い止め薬など飲んだことはありませんが,今回,波照間島に行く可能性を信じて酔い止め薬を持参していました。
しかも,波照間島の朝の船便は午前8時30分で,これに乗らなければ日帰りできません。そしてまた,この便は混み合うから事前の予約が必須という話でした。迷ったあげく,ネットで船便を予約することにしました。しかし,翌日の日曜日は予約ができなくて,予約ができたのはその翌日の月曜日からでした。そこで,ともかく,月曜日の便を予約しました。そして,その日は朝の出発が早いので宿泊しているペンションの朝食をキャンセルしました。
と,ここまでがこの日の晩の様子でした。

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1日目 2022年11月26日土曜日
出発の日になりました。
はじめて乗るピーチの石垣島への便は午後0時50分セントレア・中部国際空港発です。このところ,県営名古屋空港からFDAに乗ることが多く,セントレアは久しぶりです。今回も,自家用車で空港まで行くことにして,事前に駐車場を予約しておきました。
セントレアまでの公共交通機関のアクセスは主に名鉄しかありませんが,これがまた,よく遅れたり不通になります。以前,えらい目に遭いました。ほかにJRなどを乗り入れるという計画もあったそうですが,頓挫しています。こうしたとき,旅客数から名鉄だけで十分だなとということを主張する人がいますが,それもまた危機意識のない平和ボケした日本人の考えで,架線事故などの多い名鉄では,不通になったときに困ります。代わりにバスが代行輸送するのですが,その手配ができるのに1時間以上もかかり,また,タクシーもほとんどないのです。
ということで,私は,何度も利用した結果,今は自家用車で行くことに決めています。

予定よりずいぶんと早く空港に着いたので,のんびりと第1ターミナルのフードコートで昼食をとることにしました。
ここ数年,空港は利用客が減少していたのですが,近ごろはかなり復活しました。しかし,まだ,国際線は以前ほどの運行はしていないので,ほとんど外国人は見当たりませんでした。せっかく第2ターミナルを作ったのに,閑古鳥が鳴いています。
昼食後はラウンジでくつろぎました。
やがて,手続きが開始となったので,カウンタに行きました。
今回は4泊ということで,キャリーバッグを持っていました。また,石垣島は星がきれいということだったので,カメラの三脚と簡易赤道儀を持参したので,かなり重くなりましたが,それでも,ハワイへ行くときほどではありませんでした。ハワイに行くときはデルタ航空を使っていたのですが,それくらいの荷物だと機内持ち込みができます。また,2年前に北海道に行ったときは,行きはジェットスター,帰りはスカイマークを利用したのですが,ジェットスターは機内持ち込みができず,しっかりと別料金が取られ,スカイマークは機内持ち込みができました。今回はどうなのだろうと思っていたのですが,ピーチでは機内持ち込みができませんでした。

やがて,搭乗時間となり,乗り込みました。
これまでさまざまな航空会社を利用したのですが,結論からいうと,ピーチは,よくいって幼稚園バス,実際は,まるで囚人を護送するような感じでした。これでは,乗客がマスクをしていなかったので降ろされたとかで訴訟が起きるのも無理がないなあと思いました。
旅は楽しいから行くのであって,悪い雰囲気では沈みます。こんな空気の中で3時間近く狭い機内に閉じ込められ,飲み物の1杯すら出ないのではたまりません。でありながら,商売っ気だけは満載なのです。このごろよく利用するFDAとは大違いでした。そうした空気は客室乗務員にも影響するような気がします。FDAの温かみのある雰囲気に比べてピーチは真逆。何かピリピリしていました。ホスピタリティどころか,まるで乗客を絶えず監視しているかのような客室乗務員でした。今回の旅で,ピーチは,私が最も乗りたくない格安航空会社に決定しました。
そんなこんなで重苦しい雰囲気の中,しかも窓から見えるのはずっと雲ばかりだったのですが,沖縄に近づくにつれて,少しだけ島が見えてきました。あの島は奄美大島なのか沖縄本島なのか?
やがて石垣島が見えてきました。どこからともなく,畑ばかりだ,という声が聞こえてきました。
47都道府県で唯一行ったことのない沖縄県でしたが,私がはじめて行く沖縄県は,本島でなく,この石垣島なのでした。

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2022年11月25日土曜日から11月30日水曜日まで4泊5日で石垣島へ行くことになりました。今回からそのときの様子を書きます。
  ・・
コロナ禍が収まったら日本中を旅しようと楽しみにしていたのですが,収まるよりも早くせっかちな世の中は旅行支援の影響で旅をする人が増え,私もまた,予定を変更して,それにつられるように,日本国内の,これまで行ったことがなく一度は行って見たいと思っていたところを順に旅するようになりました。そして出かけたのが山形であり高知であり紀伊半島でした。とはいえ,日本国内で行きたいと思っていたところが数多くあったわけでもなく,残るは佐渡島だけとなりました。その佐渡島も2023年の3月下旬に行く予定をしています。

そんな佐渡島に行く計画をしていたとき,島という連想で,そうだ,日本には多くの離島があるんだ,と興味をもちました。離島といえば沖縄県。そういえば沖縄県に行ったことがないことを思い出しました。沖縄県どころか,私は鹿児島県に属する種子島や屋久島,奄美大島などにも行ったことがありません。そうした離島の中で,まず私が行ってみたいと思ったのが種子島でした。それはロケットの打ち上げ基地があるからです。しかし,調べてみると,アクセスがあまりよくないことがわかりました。まず,鹿児島空港まで行って,そこからさらに船に乗る必要があり,空路よりもそのあとの船路のほうが運賃が高いのです。で,別の島を調べていくうちに,石垣島は名古屋からピーチという格安航空の直行便があって,かなり安価で行くことを知って,では石垣島に行ってみようと思ったのです。
しかし,お恥ずかしい限りですが,私が石垣島で知っていたのは石垣天文台くらいもので,石垣島が正確にはどこにあるのかさえ知りませんでした。地図で見ると,思っていたよりずっと南。台湾と同じ緯度だということに驚きました。そしてまた,石垣島の近辺には知人が行って台風に遭って帰れなくなったという波照間島,NHK朝ドラ「ちゅらさん」で有名になった小浜島,水牛に引かれて観光できる竹富島といった,私でも聞いたことがある多くの島があって,そういった島々に簡単に行くことができるということがわかって,次第に興味が湧いてきました。

しかし,問題は天気でした。
ハワイに何度も足を運んでいたときは,天候など気にすることもありませんでした。台風もまた同様です。しかし,沖縄といえば台風。そこで,いつ行けばいいのか皆目見当もつきません。仕事の都合で何とか時間を見つけたのが11月下旬のこの時期でした。そこで,石垣島のガイドブックを購入して,読んでみると,この時期は雨も少なく,人も少なく,とてもいい時期のように思えました。人の多い観光地が嫌いな私としては,こりゃいいや,素朴な南の島でのんびりするのも悪くないなあと思いました。島の南は町で多くの人が住んでいるそうなので,宿泊先として見つけたのはほとんど人の住んでいないように思える島の北部にあるペンションでした。
という次第で,まず,航空券を購入し,そして,ペンションと現地のレンタカーを予約しました。ここに連泊して,天気次第で何をするかは行ってから決めよう,という程度のいい加減さで旅立つことにしました。
3泊以上の旅など久しぶりです。2年以上眠っていたキャリーバッグを取り出して,荷造りをはじめたのですが,いろんな旅のコツを忘れていて,かなり戸惑いました。また,はじめて利用するピーチという航空会社のこともよくわかりませんでしたが,まあ,海外に行くわけでもないし,何とかなるだろうと,その程度の準備でした。
こんなことで,果たしてどんな旅になるのやら…。


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 これまで海外旅行における外食を書いてきましたが,では日常はどうでしょうか。
 たまに贅沢するときは別として,普段外食するときは,大したものを食べるわけではありません。優先するのは,お店が空いていること,そして,時間がかからないこと,これくらいです。
 日本は料理の種類にかけては世界有数とは思うのですが,だからといって,普段食べるものにさほど種類があるわけでもありません。

 今日の1番目の写真は,御存じCoCo壱番屋のカレーです。家の近くには1号店があって,私は1度行ったことがありますが,普通のお店でした。アメリカ・シアトルのダウンタウンにはスターバックスの1号店があって,そこでは,オリジナルグッズとかもあり,世界中から観光客がやってくるのですが,残念ながら,CoCo壱番屋の1号店にはそういうものがないように思います。何かやればいいのに。
 CoCo壱番屋のカレーはトッピングをすると結構値がはります。また,ネット上には何がおいしいのか,などという辛口の意見が載っています。お店に言わせれば,特に,という癖がないのがいいということですが,私は十分おいしいと思います。
 なお,この写真は,普通のお店ではなく,セントレア・中部国際空にあるお店で,普通のお店とはメニューが異なります。写真でわかるように,白米ではありません。

 2番目の写真は,御存じ吉野家です。吉野家の牛丼は手ごろで早くおいしいので便利です。しいていえば,もう少しひとりひとりの座席のスペースが広いといいと思います。松屋とかすき家といったよく似たチェーン店があるのですが,牛丼はやはり吉野家が1番です。
 この写真もまた,普通のお店ではなく,成田空港にある吉野家です。空港にあるレストランはどこも値段が高いのですが,吉野家もまた若干普通の店よりは高いです。それでもお値打ちです。

 3番目の写真は,サガミといううどん屋さんです。このうどん屋さんは,はじめのころ,巨大なエビの天ぷらで人気が出て,次第に店舗が増えました。それは,CoCo壱番屋が辛さの度合いで話題をよんだように,はじめに知名度を上げるのがこうしたレストランがメジャーとなる秘訣なのでしょう。
 私が子供のころは,こうしたチェーン店も少なく,その町に1軒だけあるうどん屋さんとか中華料理店,さらには,「回らない」お寿司屋さんというのが,外食のすべてでした。よき時代でした。そしてまた,このような今は全国規模になったチェーン店ができはじめたころでもありました。今,大きくなったところは,先に書いたように,それぞれはじめのうち,何らかのウリがあって,話題をよび,市民権を得ていったようです。そうしたころを知っているだけに,何か感慨無量になります。

 4番目の写真は,どこかのファミリーレストランで食べたものです。
 ファミリ―レストランというのは,その昔は,デパートの大衆食堂でした。親に連れられてデパートにでかけたときは,なぜかご飯に小さな旗が立ったお子様ランチなるものを食べるのがとても楽しみでした。また,甘いシロップのついたふかふかのホットケーキもありました。私は,いつも,お子様ランチとホットケーキのどちらを食べるかで迷い,結局ホットケーキを選ぶのですが,1枚食べるころに飽きてしまい,お子様ランチを選ばなかったのを後悔することになったのですが,そんなことを今でも思い出すのは,何かそれがトラウマになっているからでしょうか。
 私の食生活は,まあ,こんなものですが,海外では,外食をしても,このような気楽な夕食でさえ,なかなか食べるお店が見つかりません。


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「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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 いざ引っ越すために持ち物の整理をはじめると,まあ,出てくるわ出てくるわ。ということを前回書きました。
 それにしても不思議なのは,食べ物はいくら贅沢をしたところで,後に何も残らないから潔いし,旅もまた同様です。ただし,旅では,パンフレットの類を保存してしまうと,これもまた,あとで処分するのがたいへんになるので,極力持ち帰らないに限ります。
 それに比べて,CDや本などは,後で売れる,などという邪念が湧くので,処分に手こずることになるわけです。そもそも,自分が手に入れて,その役割が終われば,それをまた売ってお金に変えようと思うこと自体が邪念なのでしょう。
 でありながら,私もまた邪念が湧きました。そこで,何とか売れないものかと試行錯誤することになりました。

 CDの類は,ブックオフに持っていったら,結構な値段で売れましたが,本はダメでした。この文化的水準の低い日本という国は,アニメやゲームは市場があっても,専門書の類は売れません。これは,政治の世界で議論すらできないという政治家を見れば容易にわかります。いろいろと探して,段ボール箱に詰めて送れば引き取ってもらえるというところを見つけたので送りましたが,ほとんどお金にはなりませんでした。。
 おそらく,メルカリなどに出品すれば,結構な値がつくものもあるのでしょうが,引っ越しのときのように大量にある場合,それらの1点1点をオークションに出して,値がつけばそれを荷造りして郵送する…,といった作業がかなりの手間です。
 さらに困ったのは写真でした。昔のアルバムは重く,量もあって,どうしようもないのです。
 前回書いたように,よくよく考えると,写真というのは写っている本人にいくら想い入れがあっても,他人にはまったく価値のないものです。それは,賞状なども同様です。しかし,本人もこの年になるとまったく想い入れもなくなって,まさに無価値なので,すべて捨てることにしました。

 このように,正真正銘の断捨離をはじめて思ったのは,歳をとったとき,必要なものは健康と必要最小限のお金だけ,ということでした。モノなんて,必要最小限以外のものはすべて必要がありません。また,いくら現職のときに名誉や肩書があったところで,そんなものは結局どうでもいいのです。何の価値もないのです。というより,むしろ邪魔です。
 それを悟ると,要するに,人生なんてすべては自己満足なのでした。
 ということで,必要最小限のものを買うだけで,それ以上のものは,捨てるときのことを考えて,買うのをやめるべきだとつくづく思い知らされました。
  ・・
 この先は「リボーン」(reborn)です。
 生まれたときは何も持っていなかったわけだから,それと同じように,これをはじめとして,何も持たず,新たな生活をはじめるのも悪くないということです。
 ということで,本当に「命以外は皆捨てる」というような空論が,まさに空論でなくなりつつあるのです。


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