しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

February 2023

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 大手門をくぐり,茨城大学教育学部附属幼稚園と水戸第三高校の間から角櫓まで続く遊歩道を通ると,水戸城二の丸角櫓(すみやぐら)に行くことができました。見学は無料とかかれてありました。私は,水戸城は何もないと聞いていたので,驚きました。長い長い土塀を歩いて行くと,それは見えてきました。
 櫓の前には発掘された当時の礎石が展示されていました。中に入ると,水戸城に関する展示があって,水戸城について何も知らなかった私は,興味深く見ることができました。

 2021年6月27日の東京新聞に「水戸城二の丸角櫓(すみやぐら)が完成,きょうから一般公開」という記事がありました。
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 水戸城で復元が進められていた二の丸角櫓の一般公開が27日からはじまる。
 角櫓は高さ9.6メートルで,角櫓から大手門に延びる全長約470メートルの土塀とともに,2018年3月に着工し,昨年9月に完成した。  昨年2月には正門に当たる大手門が完成しており,角櫓の完成で水戸城における一連の復元プロジェクトは完了した。
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とありました。
 であるなら,私は,今回もまた,非常に幸運で,これまでずっと行ってみたいと思っていた水戸に今やっと来ることができたおかげで,完成したばかりの二の丸角櫓を見ることができたのでした。それ以前なら,何もない水戸城に落胆しただけだったことでしょう。

 前回も触れたように,水戸城は大規模な土塁とともに,城の西側の台地に五重の堀, 東の低地に三重の堀をめぐらせた堅固な土造りの平山城で,二 の丸には御殿を造営し御三階櫓がありましたが,戦災で焼失しました。
 2009年(平成21年)水戸城の城門と伝わる 扉が坂東市の古刹で発見されたことが契機となって,2014年(平成26年)水戸城復元事業が本格的にスタートし,2020年(令和2年)に大手門を復元,そして,6月に水戸城二の丸角櫓と土塀の復元工事が完了しました。
 そこで,私が訪れたときは,水戸城跡は当時にタイムスリップ したような感覚になる空間に生まれ変わっていたわけです。
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 二の丸角櫓は水戸城内に存在していた角櫓のひとつで,二の丸の南西部角に位置していました。櫓本体は2階建の角櫓とその北側・東側に接続される2つの多聞櫓(=北多聞櫓・東多聞櫓)から構成されていて,L字型をしています。  かつて,城内には4基の角櫓が建てられていて,城の北側よりも南側(城下町側)にかたよって設けられていたことから、城下から城を見上げた際の視線を意識してつくられたと考えられています。
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 また,遊歩道の際に,水戸城跡二の丸展示館があって,内部は,水戸城だけでなく,水戸の歴史,また,全国の城郭に関する展示がありました。
 展示館の外に,この展示館の係の人がいたので,少しお話をしました。私が「さすが徳川御三家の水戸だけのことはあってすばらしいですね」と言ったら,「なんのなんの。御三家といってもたかが36万石の小大名だったし,観光客は来てくれないし」というようなことを言いました。さらに「ここの産業は何ですか」と聞いたら,「産業と言っても特にないし…」みたいな感じで,全くもって,地元に誇りを感じていないかのようでした。話しぶりから,全体的にいじけた雰囲気がいっぱいでした。
 はじめに引用した新聞の記事の最後に
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 高橋靖市長は「歴史景観づくりにおけるハード面の整備が終わり,これからはソフト面をどう展開していくかが大事。観光振興などの目的を達成していきたい」とあいさつした。
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とあったのですが,せっかくこれだけのものを作ったのだから,それこそ,観光振興のために何か知恵を絞ればいいのに,このやる気のなさはいただけないと思いました。水戸城はとてもいいところだったのに。


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 以前,NHKBSPで放送された「まいにち養老先生、ときどき2022冬」について書いたのですが,去る2023年1月28日に「まいにち養老先生、ときどき2023冬」が放送されたので,見ました。
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 人生に必要なのは日々を生き抜くための「金言」と,ほんのちょっぴりの「毒」。
 だれもが生きづらさを感じる今,そのヒントを授けるのは解剖学者の養老孟司。自然豊かな鎌倉の私邸で暮らしている。2020年度から続くシリーズ番組の新作をお届けする。
 夏の宵,ぼんぼりに照らされながら蘇るのは敗戦の記憶。6月4日,虫の命を思う法要では小学生の頃から始まった虫捕り人生に思いを馳せる。秋には虫を求めて東南アジア・ラオスへ! 20年以上も通い続けたラオスで,「虫捕り」と自らの「人生」との関係を紐解く。
 仏教国ラオスの寺を歩き,日常から離れた異国の地で問い直す,生と死。
 老学者の穏やかで鮮やかな暮らしから,日々を癒す言葉のサプリメントを拾い上げることができる,…かもしれない。
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というのが番組の紹介です。

 本当に「賢い」年配の男の人には,鎌倉の地がとてもよく似合います。私も少しはあやかろうと,気が向くと東京に行った折り,鎌倉あたりを散歩するのですが,ここでいう鎌倉は,JR鎌倉駅から鶴岡八幡宮に続く観光地のことではありません。あんな雑踏は原宿であって,鎌倉ではありません。鎌倉の地はそうした観光客だらけの場所から少し外れると,静寂につつまれた,とてもよいところになります。
 今から45年も前のことになるでしょうか。私が大学生のころ,生まれてはじめて鎌倉に行こうと,東京駅から横須賀線に乗りました。暑い夏の日だったように記憶しています。そのころは,新宿湘南ラインなどなかったから,鎌倉へ行くには,東京駅から出発する列車に乗るのです。また,半分の車両は冷房が入っておらず,冷房の入った混雑した車両に乗るか,あるいは,冷房のない暑い,しかし,がらがらの車両に乗るか,選択できました。そんな時代,田舎者だった私は,鎌倉に行く横須賀線が普通列車なのにもかかわらず,グリーン車を連結していたのに驚きました。そういえば,私が子供のころは,グリーン車とはいわず,1等車といっていたのですが,調べてみると,グリーン車と名前を変えたのは,1969年のことだったようです。
 そのときの私が思ったのは,鎌倉には,作家や評論家,芸術家のような文化人といったお金持ちが住んでいるのだから,所用があって東京に出てくるときはグリーン車に乗るんだ,ということでした。そして,鎌倉に,また,鎌倉に住む文化人に,さらにあこがれました。

 などということを,この番組を見ると思い出すのですが,そうした昔の記憶をたどるだけでも,なぜか,ちょっとすてきな気持ちになって,若返れます。さらに,足元にも及ばないけれど,私ももう少し歳を重ねたら,養老孟司先生のようなお年寄りになりたいものだ,と改めて決意するのです。
 この世代の人たちは,第2次世界大戦の惨状を知っている最後の世代だから,平和ボケしたわれわれとは生に対する重みが違います。このごろ,世の中が再びきな臭くなってきたのは,そうした実体験のない人たちが国の中枢にいるようになったからでしょう。
 また,齢を重ねたとき,最も大切なのは,健康で,かつ,やりたいことを失わずに生きていくことです。養老孟司先生も,現職のころは社会との関わりにずいぶんと苦しんだようですが,結局,自分のやりたいことがあったから,退職をしたあとでも,ずっと輝いていられるのでしょう。
 私の齢になると,退職をしたらこれで卒業と思っている人も少なからずいて,そうした人の多くは,仕事を失くすとあとは何もない日々時間をもてあましています。また,現役時代,常にタバコを吹かせ,毎晩のように飲みに出かけていた偉そうな人から,鬼籍に入っています。そんな姿を見ていると,とても痛々しいと思うと共に,哀れにも感じます。
 いつまでもときめいていること,ときめいていられるものをもっていること。生きる情熱を失わないこと。そうでなければ,この暗い世の中で,世界が輝いて見えなくなってしまって,とてもつらいのです。
 来年もまた,世界が輝いて見られるこの番組が放送される日が,今から楽しみにしています。

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 茨城県庁三の丸庁舎を過ぎると,もうそこは弘道館で,長い塀がありました。中はどうやら広い庭らしく,梅の花も咲いていました。しかし,入口はさらに先だったので,弘道館の塀伝いに歩いていくと,道路に出て,その向こうには水戸城の大手門がありました。そこで,弘道館へ入る前に,この大手門をくぐって水戸城に行くことにしました。
 私は水戸に来るまで,水戸城? 聞いたことがないなあ,水戸に城ってあるのだろうか? と思っていたくらいなので,大手門があまりに豪華だったことに驚くとともに,自分の無知を恥じました。それとともに,やはり,来てみなければ本当のところはわからないものだ,とも実感しました。

 「STAP細胞はあります」じゃあないけれど,水戸城はありました。水戸城は自然の地形を生かした砦のような城でした。しかし,もともと水戸城には昔から天守閣はなく,また,現在は,敷地の多くが学校になっていて,学校の敷地には入ることができません。
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 水戸城は江戸時代,徳川御三家のひとつ水戸徳川家の居城であり,水戸藩の政庁が置かれていました。  
 JR常磐線水戸駅の北側に隣接する丘陵に築城された連郭式平山城で,北部を流れる那珂川と南部に広がっていた千波湖を天然の堀としていて,台地東端の下の丸(=東の二の丸)から西に向かって,本丸,二の丸(=西の二の丸),三の丸が配され,それぞれが空堀で仕切られていました。
 平安時代,この地には馬場氏の居館があったと考えられ,その後,馬場氏を追いやった江戸氏が居城としました。
 1590年(天正18年)小田原参陣の功により所領安堵を得た佐竹氏が水戸城を強襲し江戸氏は滅亡,佐竹氏は本拠を太田城(現在の茨城県常陸太田市)から水戸城に移し,水戸城は常陸国主佐竹氏の居城となりました。
 佐竹氏は関ケ原の戦いで中立を守ったことで秋田に転封となり,水戸城には徳川家康の五男・武田信吉が封じられたのですが,武田信吉は翌年嗣子なく急死したので,十男・徳川頼宣が封じられますが,のち,駿府藩が与えれられ,十一男・徳川頼房が下妻城(現在の茨城県下妻市)より入城して以降、水戸徳川家の居城となりました。
 水戸徳川家は参勤交代を行わない江戸定府大名であったので,水戸城が藩主の居城として使われることは少なく,そのため,城内の建築物は質素でした。水戸城には天守建造はなく,御三階櫓と称する櫓があって,それが天守閣の代用でした。御三階櫓の初代は「三階物見」とよばれた三重櫓でしたが,1764年(明和元年)に焼失しました。1766年(明和3年)に建てられた2代目は,外観3重内部5階の最上重の入母屋以外の破風のない層塔型で,櫓台はなく,地面に敷かれた礎石の上に建っているものでした。よく写真に出てくる,およそ城らしくないものがそれで,昭和戦前期まで残っていたのですが,1945年(昭和20年)空襲によって焼失しました。
 幕末に,水戸藩では,改革派の天狗党と保守派の諸生党の対立が起き,1864年(元治元年)に天狗党が筑波山で挙兵して天狗党の乱が起きました。この対立は明治維新まで続き,1868年(明治元年)に水戸城下で戦闘が行われて,城内の多くの建物が焼失してしまいました。
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 ということで,私の謎は解けました。
 なお,本丸や二の丸,三の丸をどう配置するのか,堀や土塁,石垣はどこに作るのか,出入口の形はどうするのかといった城の基本設計を「縄張」といいます。「縄張」には輪郭式(りんかくしき),連郭式(れんかくしき),梯郭式(ていかくしき)があります。輪郭式は,本丸を囲む二の丸,二の丸を囲む三の丸,という縄張で,4方向に対して等しく防御が厚くなりますが,曲輪を囲んでいく構造のために城郭の規模を大きくする必要があります。連郭式は,本丸,二の丸,三の丸を並列に配置する縄張で,奥行は深くなるものの,本丸の脇や背後が露出してしまい、その結果搦手などの守りが大手に比べ手薄になることもあります。また,梯郭式は,本丸を城郭の片隅に配置し,周囲の2方向,あるいは3方向を他の曲輪で囲む縄張で,本丸の露出している側に,湖沼や山河,絶壁などの「天然の防御設備」がある場所に向く縄張です。

 では,私がこの日に見た豪華な水戸城の大手門は何だったのでしょうか?
 三の丸には水戸藩藩校であった弘道館が現存していて,公開されています。また,城跡には,茨城県立水戸第一高等学校と附属中学校,水戸第三高等学校,水戸市立水戸第二中学校,水戸市立三の丸小学校,茨城大学附属小学校・幼稚園が建っているので,校内は立ち入り禁止となっているのですが,大手門から遊歩道が通っていて,城を抜けることはできます。また,このあたり,ものすごくきれいで,できたばかりのようでした。
 実は,平成に入ってから水戸市によって大手門や二の丸角櫓などの整備計画が策定されて,復元が進められたのです。私が通った豪華な大手門は2020年2月に復元式典が開かれたという出来立てほやほやのものでした。また,この年の4月には三の丸の杉山門も復元され,周辺も整備された。また、木造復元による二の丸角櫓および鉄筋コンクリート製の二の丸土塀も復元されて,2021年6月から一般公開が開始されていたのです。
 つまり,私は,とてもいい時期に水戸へ来たということで,それ以前に書かれた書物やネットの記事はすべて古いものであったわけです。

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 芸術館通りを歩いていくと,茨城県立図書館という大きな建物にぶつかりました。 
 私が偕楽園でもらった水戸観光ガイドマップには,このあたりはもともとが水戸市の行政地域だったところで,茨城県庁の北に茨城県庁三の丸庁舎,その向こうに弘道館,さらに東に水戸城があると書かれてありました。
 ここでひとつ疑問だったのは,茨城県庁三の丸庁舎があっても,茨城県庁そのものが地図になかったことですが,そのときは,まあいいか,と思って,尋ねることもありませんでした。
 後日,家に帰ってから調べてみたら,茨城県庁は,私の持っていた水戸観光ガイドブックより外れた,はるか南にありました。その建物の25階には展望ロビーとレストランもあったので,こんなにも天気がよくて空気が澄んでいたのに,そこに行かなかったことが悔やまれました。
 今回わざわざ水戸市に行ったのにもかかわらず,こうして,さまざまな場所を見落とした原因は,私が水戸市に単にどんなところだろうという好奇心があっただけで,まったく想い入れがなかったことにありました。
 しかし,これもいつもことです。今回,水戸がどんなところかわかったし,行き方も理解したので,私のことだから,その気があるのなら,きっとまた行くことでしょう。楽しみはたくさん残しておくべきです。

 さて,この時点では,私が行きたいと思っていたのは,水戸城と弘道館でしたが,それらは茨城県立図書館の横を通って行けばたどり着くという程度のことは地図で何となくわかったので,歩いて行きました。
 すると,見えてきたのが,茨城県庁三の丸庁舎だったはずなのに,私がそこで見たのは,警視庁とかかれたパトカーと何かの撮影をしているらしき人たちでした。ここで私がやっと理解したのは,これはテレビか映画のロケに違いがない,ということでした。それにしては,さほど多くもない観光客でしたが,それでも,だれもそれを見ているわけでもなし,また,市民は気にするでもないし,というように,ほぼ無関心だったことです。私も,しばらくここにいれば,だれか有名なタレントさんでも見ることができるのかな,と思ったのですが,こんなところで自分だけがボ~ッとしていても時間のムダだと悟って,行きすぎました。そもそも,私は,タレントさんをほとんど知りません。
 これもまた,帰宅してからわかったことは,茨城県は,ドラマや映画のロケ地として有名なところだったということでした。そこで,このようなことはいつもどこかしこで頻繁に行われていて,ホームページではしょっちゅうエキストラを募集していることでした。どうしてそうなるかといえば,東京からさほど遠くなく,土地は広く,この茨城県庁三の丸庁舎のような古い建物が多く,たいした産業もない茨城県では,こうしたロケを積極的に誘致しているからでした。
 なお,この日のロケは,後で写真を詳細に見てみると,茨城県庁の表示が「警視庁大隣警察署」となっていたことから,どうやらフジテレビで放送され,今とは違ってテレビドラマを積極的に見ていたころの私も知っていた「ミステリと言う勿れ」というドラマの映画版を撮っていたらしい,ということでした。


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 引っ越しを機に断捨離をした私は,手元にはほとんど本が残っていないのですが,今も生き残っているのは,何度も読んだ小説や専門書の類ばかりです。その中に,ただ1冊だけ,まだ一度も読み切っていない本がありました。それは「青年は荒野をめざす」でした。
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 「青年は荒野をめざす」は五木寛之さんが1967年に書いた小説で「週刊平凡パンチ」に連載されました。
 小説は全部で8章にわれていて,20歳になったばかりの若者がヨーロッパに旅に出て,ジャズ音楽と女と酒を経験しながら,自分発見をするものです。
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 以前,ブログに
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 海外旅行に出かけられなくなった私がここ数年選択したのは,さまざまな「彷徨」でした。
 「彷徨」とは,あてもなく歩きまわること,さまようことをいいます。(「彷徨」の)使用例として「青春の彷徨」(がありますが),「青春の彷徨」に関してひとつ紹介すると,20歳のジュンの冒険を求めた「青春の彷徨」を描いたという,1967年に五木寛之さんの書いた小説「青年は荒野をめざす」があります。
 いいなあ,栄光の1960年代。
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と書いたとき,まともにこの本を深く読んでいないことに気づいて,捨てずに持ってきたのです。そして,今,やっと読了しました。

 「週刊平凡パンチ」も,この小説も,私より少し上の「団塊の世代」が若いころの必読書でした。今,私が当時の「週刊平凡パンチ」を読むとどう感じるのだろう,と思ったりもするのですが,このころに青春を過ごした私より少し上の人たちは,けっこう背伸びをして,こうした雑誌に影響されてそれぞれの人生を生きてきたわけです。
 私が若いころは,まだ,海外旅行は身近なものではありませんでした。そのころに,この小説に憧れて,北欧を旅して,自慢げにその経験を語った人と国内の旅先で出会ったことがありますが,その話を聞きながら,私は,何か夢物語のように感じました。当時の私には,北欧なんて一生行くことのないだろう別世界だと思われました。
 そうした「団塊の世代」の先輩たちは,学園紛争とか,けっこうむちゃくちゃやっていて,そうした姿を見て,しかも,大いに迷惑をこうむって育った次の私たちは「しらけ世代」といって,夢よりも現実の,冷めた若者たちでした。そんな若者のひとりだった私も,この小説のような旅ははじめっからする気もなかったのですが,人生はわからないものです。歳をとった今になって,逆に夢の中で生きるようになって,冒険心が沸き起こり,縁がないと思っていた北欧だったのに,フィンランドには2度も行ったし,さらには,何度も何度も行ったアメリカやオーストラリアでは,日本を捨ててやってきたという多くの日本人を知ったし,旅先でも結構おもしろいことをたくさん経験しました。
 小説はあくまで小説だから,旅先で小説のような経験はできない,と実際に旅をしたことのない人は思うのでしょうが,そんなことはないのです。旅先でその国の女性と恋に落ちる,ということはさすがにそれほどはないでしょうが,同じように旅に出て,旅先で知り合った日本人の女性といい関係になるといったことは,決して現実離れしてはいないし,さらに,私にはわからない世界だけれど,音楽をやる若者たちであるなら,仲間意識が芽生えて,小説までもいかなくとも,決して,ジュンのような体験をすることはあり得ないことでもないように思います。

 「青年は荒野をめざす」を読み終えてから,ネット上にある多くのレビューを読んでみました。
 レビューのほとんどは,おそらく,その「団塊の世代」の人たちが書いたものに思えましたが,私がおもしろいなあ,と感じたのは,本の中身の感想よりも,そのレビューを書いた人たちのそれぞれの人生が垣間見えたことでした。
 今も,そうした青春に憧れを抱いていて,この小説の主人公をまぶしく感じているような,しかし,自分は海外にすらいったことがない,または,旅に出てやりたい放題の青春をおくった,そして,今もそのときのことが忘れられない万年青年だったり,あるいは,そんな冒険をする勇気も知恵もないけれど,そんな若者を世間知らずとバカにしくさって,世渡りだけはうまくて,地位だけ偉くなって,そして,引退したのに,未だに偉そうに先輩風を吹かして若者を説教するような,そんなオヤジだったり,そのような人たちの姿が浮かぶのです。
 そのなかから,いくつかピックアップして,一部を引用してみます。
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〇とにかく若者は夢を見なくてはいけない。ジャズ小説であり,エンターテインメントであり,そして路地裏から見た「世界」であるこの小説が,その格好の道案内として今でも通用するだろう。
〇「荒野」って小説に出て来た少年がいつも読んでいたので、気になって読んでみた。そしたら高度経済成長の日本にぼんやりとした不満を持った中流育ちの青年が海外に飛び出して魅力的な金髪女性とセックスするって内容だったから、正直に言ってあの少年にはがっかりした。
〇ハタチ前後で読んだらきっともっとおもしろかっただろうな。真に受けて海外に飛び出したかもな。
〇それにしても五木寛之って適当だよな。ラストの手紙と本編矛盾してるし。すっごい気になったわ。 〇 常識的に考えた世界で行われる,善悪の行為を超えたところに音楽はあって,人を感動させる。 人の感動なんて善悪を超越したところにある。
〇自分はジュンがそれらの出会いを通じ一歩一歩成長していく姿にとても励まされた。
〇昔,バックパックひとつで世界一周の旅に出かけていたそんな雰囲気を思い出したいのだろうか。人間が若く見えるのは歳ではない。本がよぶのか自分がよび寄せるのか,そのときにベストな本と出会うことがたまにある。この本がまさにそれだった。
〇舞台は60年代なんだからこれでいいのだ。当時に生きていなかったから,いくら現在の尺度で判断しようとしても無駄だ。
〇展開が,時が経てばずいぶん青臭いと苦笑するかも知れない。だけど,青臭さを感じられることを大真面目に言葉にできたこの小説が生まれた時代がうらやましいことに変わりはない。
〇60年代や70年代ああたりにジャズ喫茶でコーヒーを片手にこの本に熱中して異国に夢を求めて旅する主人公に憧れていた若者がいたかも知れない。そんな過去の若者たちとの交錯に思いを馳せられるのもまたよかった。
〇海外へ行くことが特別なことだった時代,当時陸路でヨーロッパを目指した人たちの必携書がこの「青年は荒野をめざす」と小田実の「何でも見てやろう」だったとか。この小説は「スイングしなけりゃ意味が無」かったバガボンドたちを思いながら、パリで読むのも一興です。
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 人生,一度っきり,青春は戻ってこない,のですよ,おじさんたち。若いころ,どんな夢を見て,そして,どんな大人になりましたか? そして,今もまだ,夢をもっていますか?

無題無題


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月と金星と木星の大接近。

2月23日の夕方。
月の位置が変わりました。DSC_1180DSC_1175


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 私には謎の町だった水戸市へやっと行くことができました。
 いつものように,事前には特に情報を集めるでもなく,調べることもありませんでした。行くまでに私が知っていたのは,梅の花がきれいな偕楽園があることくらいでした。そしてまた,学校では尾張,紀伊,水戸を徳川御三家と習ったけれど,尾張の名古屋城や紀伊の和歌山城は有名でも,水戸城っていうのを聞いたことがないなあ,と思っていました。そうそう,水戸室内管弦楽団はかなりのものらしいということは知っていましたが,その程度でした。
 そこで,水戸とはどういうところなのか,それを知りたくて,一度は行ってみようと長年思っていたのだけれど,遠く,不便なところという印象があったので,なかなか行くことができませんでした。私のまわりにも水戸へ行ったことのある人はまったくいません。これではおそらく将来も行くことはないだろうと思ったので,今回,意を決して,わざわざ行ってみたわけです。
 もし気に入れば,リピートするだろうし,一度でよければ,もう行くこともないだろうし…。私の旅は,いつもそんな感じですが,今回は,とにかく自分の好奇心が満たされればそれでよいのです。

 前回書いた偕楽園は,まだ梅の花の全盛期には早かったけれど,どういうところなのかはよくわかりました。次に,偕楽園の隣にあった常磐神社(ときわじんじゃ)に寄ってみました。
 日本に住む人は,信仰心があるのやらないのやら。山頂には鳥居を立て,家を建てるときは地鎮祭をしてかしこまるくせに,お祈りをしちゃえばあとは知ったこっちゃないと,平気で自然破壊をし,初詣などになると普段の無宗教が突然豹変して,多くの人は,わけもいわれもだれを祀っているのかも知らず気にせず,きちんとその意味を知って自分がそれを納得して行うのではなく,神社が決めた作法を鵜呑みにして,神殿で二礼二拍手一礼とかでお祈りし,おまけに,鳥居をくぐるのに一礼をしたりする人すらいるのが,そもそも私にはよくわからないというか,それが不思議で仕方がありません。

 私は,神格化というものには,それが新興宗教であろうと,古来からの宗教であろうと,ともに胡散臭いものを感じるのですが,では,この常盤神社というところがどういうところか,に好奇心が働いたので,ともかく行ってみました。
 そこでわかったのは,常磐神社は徳川光圀と徳川斉昭を祀るもので,作られたのは新しく,江戸時代後期から明治時代初期に流行した藩祖を祀った神社のひとつということでした。で,その際,徳川光圀を高譲味道根之命(たかゆずるうましみちねのみこと),徳川斉昭を押健男国之御楯命(おしたけおくにのみたてのみこと)というように名づけて神格化したのでした。まあ,一種の洗脳ですな。私は,へえ~と思いました。ただそれだけでした。
 人を神として拝め奉ることは,その人がいかに偉大な人であろうとも,それを何か別の意図で利用するという思惑のある人たちのする,危ういことです。
 それより,境内にあったひな人形がきれいでした。

 むしろ,私には,そのあたりから見えた高くそびえたタワーが気になりましたが,それは,写真などで見たことがあった水戸芸術館でした。そちらのほうが興味があったので,常磐神社は早々にして,水戸芸術館の建物のある場所まで歩いて行くことにしました。
 水戸駅から偕楽園に向かったときと同じように,途中に丘があったので,登るのがたいへんでしたが,その途中,常盤神社の北方向に,突然,風俗街が現れたのには驚きました。そこは天王町というそうで,わずか30万人の町にしては,その規模はかなりのものでした。
 日本という国は,旧街道を歩いても,地方都市に行って散策しても,どこもかしこも,昔は遊郭街だった,というところがあって,その多くは,今もまだ,形を変えて風俗街になっているという,そんな感じなのが,海外の町を歩いているときに比べて最も違うように,私は思います。これが古事記の時代から続く「神の国」の実態なのでしょう。
 やがて,その一角をすぎると景色は一変して,きれいな,文化的な街が現れました。それが,水戸芸術館から和歌山城に至る芸術館通りでした。

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 水戸芸術館(Art Tower Mito)は,市制100周年記念施設として建設され,1990年に開館した美術館・コンサートホール・劇場からなる現代芸術の複合文化施設です。
 初代館長は私が尊敬する音楽評論家の吉田秀和さんで,その後任として,2013年に水戸室内管弦楽団の音楽顧問である指揮者の小澤征爾さんが2代目館長に就任しました。
 この水戸芸術館専属のオーケストラが水戸室内管弦楽団です。
 水戸室内管弦楽団(Mito Chamber Orchestra=MCO)は,ソリストとしても活動を行うような日本を代表する奏者と外国人を含めた一線級の音楽家が構成員で,1990年に初代館長吉田秀和さんの提唱によって設立されたものです。
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 水戸市にある小澤征爾さんの率いた水戸室内管弦楽団と,金沢市にある岩城宏之さんの率いたオーケストラ・アンサンブル金沢(Orchestra Ensemble Kanazawa),このふたつの超一流の室内楽団は,私のあこがれで,こうしたオーケストラをもつ文化水準の高い地方都市に住んで,ときどき足を運んで,極上のコンサートを聴いて生活したいものだ,とずっと思ってきました。
 しかし,小澤征爾さんも病気になり,岩城宏之さんも今は亡く,こうしたカリスマ的な指導者がいなくなって,なかなかこの先がたいへんそう,と心配なのは,素人の私が思っているだけのことなのでしょう。それは,日本には優秀な音楽家がたくさん育ち,世界で活躍しているからです。それよりも,むしろ懸念されるのは,この国の政府の文化や学問を軽視する採算重視の風潮と,このようなすばらしいオーケストラを支えるファンの高年齢化の方かもしれません。
 今回はまったく考えになかったので,水戸芸術館に入ることはしなかったのですが,ぜひ,次回,また水戸市に来ることがあれば,今度は,ここでコンサートを聴き,タワーの頂上から水戸の町を眺めてみたいと思いました。

☆☆☆
月と金星と木星の大接近。

2月22日の夕方。
西の空がきれいでした。DSC_1107sDSC_1162s


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 偕楽園に到着しました。水戸駅から歩いたので,東門から入ることになりました。門の外には,日本の観光地らしく,多くの屋台や土産物屋が軒を並べ,開店の準備に忙しくしていました。
 入園料を払って,中に入りました。これもまた帰ってから知ったことには,以前は無料だったとか。
 門を入ると,一面の梅林でした。満開にはまだまだという感じでしたが,梅はさまざまな種類があるので,すでに咲いているものや,まったくその兆候すらないものなどがありした。あと1週間もすればほとんどが満開になるという話でしたが,おそらく,そのころはすごい人出だろうから,混雑の大嫌いな私にはこのほうがよかったのです。なにせ,私の好奇心は,偕楽園ってどういうところだろう? なのでしたから,それがわかって満足でした。

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 偕楽園は水戸市にある日本庭園で,岡山市の後楽園,金沢市の兼六園と並んで日本三名園のひとつです。
 100種3,000本もの梅が植えられていて,園内には梅の異名「好文木」に由来する別荘好文亭もあります。これは,古代中国の晋の武帝が学問に親しむと花が開き,学問をやめると花が開かなかったという故事に基づいているものです。
 水戸藩第9代藩主徳川斉昭は,1833年(天保4年)藩内一巡後,水戸の千波湖に臨む七面山を切り開き回遊式庭園とする構想をもちました。藩校「弘道館」で文武を学ぶ藩士の余暇休養の場へ供すると同時に領民とともに楽しむ場にしたいと,庭園を「偕楽園」と名づけました。「偕楽」とは孟子の「古の人は民と偕に楽しむ,故に能く楽しむなり」という一節から援用したものです。
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 偕楽園はとても広く,私が行った日が天気がよかったことと,朝早かったこととと,まだ,梅が最盛期でなかったことから,とてもゆったりと園内をまわることができて,最高でした。人が多かったら,そうはいかなかったことでしょう。

 水戸藩は徳川御三家のひとつと今では習いますが,必ずしも,江戸時代にそう認識されていたわけではないそうで,将軍家と尾張徳川家と紀伊徳川家を御三家といったという説もありました。また,水戸徳川家は,尾張徳川家と紀伊徳川家に比べて,官位が低かったので,格下,とみなされていたようです。水戸に行ったとき,この地に住む人はそんないじけた感じを今にしてもまだもっているように私には思えましたが,その理由は後日書きます。
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 江戸幕府初代征夷大将軍・徳川家康の十一男・徳川頼房が初代の藩主となった水戸藩は,東北諸藩の反乱に備えて北関東の拠点として作られた藩でした。石高は低く,最終的でもわずか36万石でした。
 官位は尾張徳川家と紀伊徳川家が大納言であったのに対して,水戸家は中納言でしたが,参勤交代の対象とはならず江戸の小石川邸に常住したので,「副将軍」という俗称が起こったと考えられています。
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 水戸藩で世間で有名なのは徳川頼房の三男で3代藩主の徳川光圀で,今も「水戸黄門」として時代劇で大活躍です。実際の徳川光圀は日本中を歩いたわけでなく,「大日本史」の編纂を開始し,また,尊皇運動に尽くした人物です。これによって,尊皇を支柱とする水戸学が誕生し,幕末の尊皇攘夷運動に多大な影響を与えました。そこで,水戸家は親藩でありながら「もし将軍家と朝廷との間に戦が起きたならば躊躇うことなく帝を奉ぜよ」との家訓があったとされます。
 しかし,水戸では,徳川光圀よりも9代藩主の徳川斉昭のほうを誇りに思っているように感じました。徳川斉昭は強烈な尊皇攘夷派として知られ,海防強化や天皇陵修復,弘道館を作っての後期水戸学による藩士の教化,領内の廃仏毀釈の徹底による寺院圧迫など,尊皇思想に貫かれた政策を実施し,日米修好通商条約無勅許調印反対運動を主導しましたが,大老井伊直弼と対立して安政の大獄で失脚しました。
 そんな徳川斉昭は,水戸では名君の扱いを受けていますが,山川出版の高等学校教科書「詳説日本史」には
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 水戸藩のように,藩主徳川斉昭の努力にもかかわらず,藩内の保守派の反対などの抗争で改革が成功をみなかった例もある。
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と冷めたく書かれてあります。それ以上は述べられていないので,よくわからないのですが,徳川斉昭が実際,どのような藩政を敷いたのか,藩内でどういった抗争があったのか知りたいなあ,と私は思いました。事実,水戸藩は尊皇攘夷運動の火付け役であったのですが,幕末には藩内で尊皇攘夷派と佐幕派の抗争が繰り返されて混乱状態に陥ったまま明治維新を迎えました。
 なお,徳川斉昭の七男が15代将軍の徳川慶喜です。

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 先日購入したニコンZ50とNIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VRは,私には理想のカメラとレンズでした。
 私がカメラを使う目的は旅行にいつも携帯することと星を写すこと。そのうちで,星を写すカメラは別にあるので,旅行に携行する理想のカメラを探していました。とにかく,大きいのはいくら性能がよくてもダメです。使いづらいのもダメです。レンズは,特殊な目的以外は交換する気はありません。そして,持っていて楽しいもの。そこで購入したこのカメラ,まさに,大きさといい,使いやすさといい,ダイヤルも知らないうちに回ってしまうということもなく,私には申し分がありませんでした。レンズもまた,自重で垂れ下がることもなく,フードもうっかり外れたり緩むこともなく,写りもボケ味もよく,手になじむ大きさでした。このように,カメラもレンズも,これまでの欠点がすべて改良されたしっかりとした作りで,ちょうどよい大きさでした。これらは,スペックだけをああだこうだと書き連ねるようなカメラ雑誌を読んていてもわからないことです。
 巷では,ニコンのミラーレス一眼カメラは,最高級のZ9を除いて,オートフォーカスが劣るだの,技術が古いだの,新しい機種がなかなか出ないだの,レンズの種類が少ないだのと散々ですが,私はプロのカメラマンでもないし,バスケットボールやサッカーなど動きの激しいスポーツを撮るわけでもないし,カーレースや飛行機を撮ることを目的とするものでもないし,頻繁にモデルチェンジなどされてはたまらないし,たくさんの機種やレンズを揃える必要もないし,そもそもオートなんてそれほど重視していないので,これでいいのです。むしろ,品質がよいニコンは持っていて気持ちがいいです。
 ということで,すっかりお気に入りで,このところ,旅に出かけるときだけでなく,普段も持ち歩いていて,いろいろと試しています。今日は,そのカメラの設定のお話です。

 以前書いたように,ニコンZ50には,U1とU2というユーザーセッティングがあります。これらには自分がよく使う設定を記憶しておくことができるのですが,何を設定するかが問題でした。そこで,旅をしながら試行錯誤を続けていたのです。
 私が写真を撮るときは,大きく分けて,ふたつの場合があることに気づきました。
 そのひとつは,思い立ったときにシャッターチャンスを逃さずに直ちに撮りたいという場合です。
 この場合は,シャッターを押す前に,あれこれと設定をいじる時間はなく,すぐにシャッターを切りたいのです。あるいは,あえて設定をする必要があれば,露出補正とレリーズモードだけが選択できればよいのです。私は,露出補正をして写すことが多いのですが,設定を変えたことを忘れてしまうことがよくあります。そこで,ユーザーセッティングモードU1では,①露出はプログラムオート ②ピント合わせはAFモード自動切り替え ③AFエリアはダイナミックAF ④測光モードはマルチパターン測光 ⑤コマンドダイヤルを回すだけで露出補正ができて,一度スイッチを切ればその露出補正がリセットされる ⑥Fn1ボタンにレリーズモードを割り当て,Fn2ボタンにフォーカスモードの設定を割り当てる,という設定にしました。
 もうひとつは,じっくりと撮りたい,という場合です。
 私が旅先で写す写真の多くは風景写真で,その場合,あえて逆光にして太陽を入れ,うまく露出を変えて光の加減を調整し,好きな場所にピント合わせ写す,といったものなのですが,そうした場合,カメラ任せでピント合わせをオートフォーカスにして露出もオートにしてあっても,そのあとで,いつも自分でなんらかの補正をしていることに気づきました。ならば,いっそのことカメラ任せなんてやめてしまって,すべてマニュアルでもよかったのです。そこで,ユーザーセッティングモードU2では,①露出はマニュアル ②ピント合わせもマニュアルフォーカス ③AFエリアはシングルポイントAF ④測光モードはスポット測光を割り当てる,という設定にしました。

 今回出かけた偕楽園と弘道館で写した今日の1番目から4番目の梅の花の写真は,ユーザーセッティングU2で,すべてマニュアルで写したものですが,自分でも再発見したのは,カメラがいかに自動化されようと,結局,50年前のカメラの機能で十分だった,ということです。つまり,私にはニコンF3の持っていた機能だけでよかったわけです。ならば,30年間,一体,カメラは何が進歩したのだろうか,と思いました。使いもしない機能のために余分なお金を払っていることになるのでしょうか。
 そうだ,忘れていました。毎回フィルムを購入して,あとで現像するまでどんな写真ができたかわからない,という銀塩フィルもの時代から,受光素子を使ったデジタル化の時代になって,フィルム代も現像代も要らず,写すたびに瞬間に写真が確認できるようになった,ということがありました。これだけでも,大いなる進歩だったのです。ほかの機能は? まあ,どうでもいいや。そのように考えると,やはり,フィルム時代の機能のままでデジタル化したライカMはすごい。

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 2023年2月19日,雨上がりの日曜日。今年もまた,NHK交響楽団の名古屋公演があったので,聴いてきました。年に1度行われる名古屋での公演はNHK交響楽団定期公演Bプログラムをもってくるもので,私の地元名古屋で聴く利点は,サントリーホールで行われる東京で定期公演Bプログラムは平日の夜なので行くことができないこととチケットの入手が困難であるのに比べて,日曜日昼の開催なので日程の都合がつけやすく,定期会員がいないので,ずいぶんと割高ですがよい席が選べるということです。
 今回のプログラムは,2月15日に東京のサントリーホールで行われたNHK交響楽団2月定期公演Bプログラムと同じで,ドヴォルザーク(Antonín Dvořák)の序曲「フス教徒」(Hussite Overture),シマノフスキ(Karol Szymanowski)の交響曲第4番「協奏交響曲」(Symphonie concertante),そして,ブラームスの交響曲第4番,指揮者は,2月11日に私が東京で聴いたCプログラムと同じヤクブ・フルシャ(Jakub Hrůša)さんでした。
 私の大好きなブラームスの交響曲第4番を聴くことができるだけで,行く価値があるというものです。

 ヤクブ・フルシャさんはチェコ出身の指揮者ということで,聴く側としては,ドヴォルザークやスメタナの曲を期待するのですが,私が先日東京で聴いたCプログラムはそれとは無関係でした。今回は,ドヴォルザークとチェコのお隣のポーランドの作曲家であるシマノフスキ,ということで,別の意味でも期待しました。
 プログラムによれば
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 (ドヴォルザーク,シマノフスキ,ブラームスといった)3人の作曲家が自国の歴史や文化,音楽的な遺産と向き合う「アイデンティティ証明」の作品である。(シマノフスキの交響曲第4番でピアノを弾く)ポーランド出身のピョートル・アンデルシェフスキ(Piotr Anderszewski)も,その趣旨に共感しての共演となろう。世界各地で民族や文化の多様性を抑圧する動きが顕著な昨今,私たちに問いを投げかけるプログラムだ。
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とありました。

 ブラームスの交響曲第4番については,これまでも書いたので,はじめに,それ以外の2つの曲について書きます。
 序曲「フス教徒」ははじめて聴きました。
 作曲された時代のチェコはオーストリア・ハンガリー帝国の支配下にあったのですが,「汎スラヴ主義」も勃興していました。この政治的潮流に強く影響されたのがこの作品といいます。「フス教徒」というのは,15世紀初頭,宗教改革を行い火刑に処せられたヤン・フス(Jan Hus)の支持者で,チェコの人々にとって自主独立の象徴で,劇自体は未完で,序曲だけが完成しました。
 曲はスメタナの「わが祖国」で奏でられるのと同じ旋律が垣間見えるから,それだけでも,チェコの人の琴線に触れるでしょう。シベリウスの「フィンランディア」みたいなものかなあ,と思いました。
 シマノフスキの交響曲第4番もまた,はじめて聴きました。ポーランドは大国に支配される時代が長く続き,1795年には,オーストリア,プロイセン,ロシアに国土を3分割されるという悲劇が襲いました。今,ロシアからの侵略戦争を戦うウクライナに生まれたシマノフスキは,抑圧の時代とポーランド第二共和国が誕生した1918年以降を生きた作曲家です。シマノフスキの音楽は,祖国ポーランドの聴衆たちにはあまり受け入れられなかったといいますが,その理由は,シマノフスキの音楽が,当時の人々が思い描いていたマズルカやポロネーズとは異なっていたことにあるそうです。
 シマノフスキは1927年にワルシャワ音楽院の院長に就任しましたが,守旧派との軋轢や同性愛的傾向への非難に苦しみ辞職。定職を失いピアニストとしての収入を求めたシマノフスキが,自らを独奏者として作曲したのが,この交響曲でした。
 第1楽章のユニゾンで民俗的な旋律は,ポーランド南部のタトラ山脈地域の民俗音楽に由来するものです。緩徐な第2楽章についで,ティンパニに導かれ躍動する民俗舞曲風の第3楽章へと続きます。
 この曲は,交響曲というよりむしろピアノ協奏曲なのでピアニストが活躍するのですが,今回のピアニストはピョートル・アンデルシェフスキさんで,「さまざまな矛盾を抱えた多義的な存在」と自らを称して,シマノフスキには特に深い愛着を抱いているそうです。
 NHKFMで放送されたBプログラムを聴いたときは,ドヴォルザークの序曲「フス教徒」はわかりやすい曲だと思ったのですが,ドヴォルザークらしい美しい旋律というより,とげとげしさが目立つものでした。これが民族の躍動感につながるのでしょう。シマノフスキの交響曲第4番は聴きこまないとそのよさが私にはわかりませんでした。今回も,第2楽章あたりで飽きてしまいました。
 この曲のあとにピアノのアンコールがあって,この日の曲目は,NHKFMで放送された定期公演Bプログラム1日目のシマノフスキ作曲20のマズルカ第3曲とは違って,バッハ作曲パルティータ第1番第4曲サラバンドでした。

 ブラームスの交響曲第4番は,NHKFMで放送されたのを聴いたときは,若々しい,そして,少々管楽器のうるさい演奏だなあ,というのが私の感想でした。ならば,実際に聴いてみて,どういう感想をもつか? それもまた,今回の楽しみでした。
 私が若々しい,そして,少々管楽器のうるさい演奏だなあ,と思ったのは,古風なブラームスの交響曲第4番は,たとえば,ブロムシュテッドさんの演奏などでは,弦楽器を強調し,管楽器を抑制することで,枯れた感じの熟練された味を出していて,使い込まれてよく磨かれた名器,たとえば,ライカM3というカメラのような感じを想像するのに対して,この若い指揮者の場合は,新品のピカピカの道具,たとえば,最新のミラーレスカメラ・ニコンZ9のような演奏だったからでした。そして,それは,ライブで聴きこんだとき,指揮者の派手な動きに呼応して,弦楽器に比べて金管楽器の音が若干派手だったことに起因していたということがわかりました。帰宅してから,ブロムシュテッドが指揮したものと聴き比べてみて,ずいぶんと違うものだなあと実感しました。そのよし悪しは個性としてとらえるとして,ライブで聴くとまた違った印象をもつもので,放送で聴いたときに比べて,それはそれで,さわやかに聞こえました。
 どちらの演奏にしても,もともとブラームスの交響曲第4番は本当にすばらしいです。緻密な計算に基づかれていて,1音の無駄もなく,深い考察の上で書かれた曲。だからこそ,いい演奏に出会うと,その音楽がしっかりとこころに響くから,泣けてきます。今回も感動しました。

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 水戸駅から,最初の目的地である偕楽園まではかなりの距離があって,どのように行けばいいのかわかりませんでした。簡単に調べたところでは,バスに乗る,とありました。しかし,歩いて行くことができない距離でもないし,はじめて訪れた町は,目的地以外にもおもしろそうなところがあるかもしれないから歩くに限ると思っているので,今回も歩くことにしました。私は,何せ,はじめてニューヨークに行ったとき,マンハッタン中を歩いて観光したくらいです。
 ここでひとつ疑問がありました。地図で見ると,偕楽園には,JR水戸線の偕楽園という駅があるのです。しかし,ネットの時刻表を見ても,偕楽園に停車する列車がないのです。いったいこれは何か? 水戸線とは何か? さっぱりわかりませんでした。

 結局,私は,この日,バスにも乗らず,水戸市内をすべて歩いてまわりましたが,帰宅して調べたら,次のようなことがわかりました。
 偕楽園駅は,JR水戸線ではなく,私が乗ってきたJR常磐線の水戸駅のひとつ前の駅でした。そして,この駅は,梅まつりをやっている期間だけの臨時駅でした。しかも,この駅に停車できるのは下り線のみなので,東京方面から水戸駅に行くときはひとつ手前の偕楽園駅で降りることができても,その逆はないので,戻るときは,偕楽園駅から水戸方面の列車に乗って,水戸駅で降りて東京方面に向かうことになる,ということでした。

 私が水戸に来たのは梅まつりの時期だったので,この駅には列車が停車するはずです。確かに私が乗ってきた列車は水戸駅に着く手前で,偕楽園を通ったのにもかかわらず,偕楽園駅には停まりませんでしたが,それは,着いた時刻が早すぎたからでした。
 また,私が乗った列車が途中の友部駅に着いたときに「水戸線はこの駅で乗り換えです」という放送がかかったのですが,私は,これもまたわけがわかりませんでした。一瞬,友部駅で降りてJR水戸線に乗り換えれば偕楽園に行けるのかな,とも思いました。
 これもまた家に帰ってから調べてみると
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 本来,水戸線というのは,1889年(明治22年)に水戸鉄道によって栃木県の小山駅と水戸駅間が結ばれたもので,その後,JRとなり,友部駅から水戸駅まではJR常磐線となったために,現在は,JR水戸線は小山駅と友部駅間のことを指す。
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ということだそうですから,友部駅での放送は,小山駅方面に行く列車に乗り換えられますよ,という意味でした。
 また,私は水戸駅から偕楽園までバスに乗らず歩いたのですが,水戸市内1日乗り放題というフリー切符が発行されていたので,これを購入すれば,バスで簡単に市内観光ができるのでした。

 水戸駅から偕楽園まで歩くことに決めた私は,おおよそJR常磐線に沿った道を30分くらいかけて歩きました。はじめのうちは,水戸駅近くの古びた飲み屋街とかがあって,なかなか風流でした。そのまま道が平坦ならよかったのですが,その先は小高い丘になっていて,それを越すのが結構大変でした。しかし,丘を越えたら,左手に千波湖(せんばこ)という美しい湖が見えて,土手道を進むと,たくさんの野鳥がいて,また,その一帯は公園となっていて,なかなかのものだったので,歩いたのは正解でした。
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 水戸のシンボルとも云われる千波湖は,周囲3キロメートル,平均水深1メートルのヒョウタン型をした底浅の淡水湖です。
 千波湖の原型は今から5,000年から3,000年前に古那珂川の堆積物により古桜川が堰き止められてできた「堰止湖」で,江戸時代,水戸藩が城下町の整備のため,沼地を護岸し囲い込んだことにより湖沼「千波湖」が成立しました。このときの千波湖は現在の姿より3倍程広いものでしたが,大正末期から昭和前期に行われた改修事業により現在の姿となりました。
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 やがて,右手に偕楽園が見えてきました。
 すでに梅の花が咲いていたので,来てよかったと思いました。


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 2月11日,NHK交響楽団の定期公演を聴いたのち,大井町のアワーズイン阪急に1泊し,翌日の朝早くホテルをチェックアウトして,水戸へ向かうことにしました。

 東京都内から水戸駅へ行くには,本来は,上野駅が始発のJR常磐線に乗るのが基本です。しかし,現在は,上野駅が始発ではなく,品川駅を始発として,JR東海道線経由で上野駅を通りJR常磐線で水戸駅まで直通で行く列車ができましたが,すべての列車がそうなっているわけではありません。また,上野駅からは水戸駅まで直通で行くことができるものや,水戸駅の途中の土浦駅行きで,土浦駅で乗り換えるものなどがあって,はじめて行く私はとまどいました。
 なお,JR常磐線には上野駅が始発の列車や仙台駅が終着の列車がありますが,本来,JR常磐線というのは日暮里駅から岩沼駅までをいい,上野駅から日暮里駅まではJR東北本線,また,岩沼駅から仙台駅までも,再びJR東北本線に合流します。
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 昨年2022年10月にに行った葛飾柴又のときもそうでしたし,上記にも書きましたが,東京の交通網は,本当によくわかりません。ジグソーパズルみたいです。老化防止にはもってこいかもしれません。考え方を変えれば,これほど飽きない街歩きもほかにはありません。
 そうそう,葛飾柴又の最寄り駅であった金屋駅は,JR常磐線の駅と表示されていたのに,JR常磐線の列車はすべて通過し,地下鉄千代田線が停車して私が戸惑ったところでした。
 今回行くことになった水戸も,最初に書いたように,もともとJR常磐線は上野始発の列車が運行されていたのですが,利便性を考えて,上野駅から品川駅までを延長した列車ができたわけです。このように,近ごろは,通勤ラッシュを緩和するためにわかりやすさよりも利便性が優先されていることで複雑怪奇となりました。

 私は,今から50年ほど前の知識で東京を歩いていますが,そのころの知識からみれば,近ごろは他の路線でも同じように相互乗り入れだらけなので,一体自分が何線に乗っているのか,また,どの会社の路線に載っているのか,わけがわかりません。
 さらに,わかりやすいようにと,「上野東京ライン」とか「湘南新宿ライン」とかいった名称で,複数の路線および他社線にまたがる運転系統を1本の路線として表示しているのですが,そんなもの,私のように無知な人間には,これもまた,わかりやすいどころか,何が何だかわからないだけなのです。そんな名称なら,むしろ,上野東京ラインは上野品川ライン(=上野から品川を経由するライン)または「山手線東側経由」としてもらった方がまだ理解できるし,湘南新宿ラインは「山手線西側経由大宮から大船方面行き」とでもしてもらわないと,どこを走る路線なのか想像もつきません。
 さらに,案内相互乗り入れも結構ですが,たとえば,渋谷駅から大井駅に行くのに,JR山手線で品川駅まで行って,JR京浜東北線に乗り換えて品川駅から大井駅に行くよりも,途中の大崎駅で東京臨海高速鉄道りんかい線に乗り入れる列車で大井駅まで直行するほうがずっと便利ですが,運賃が高いのです。しかし,Suicaを使っていると,そんなことを気にしなくなるので,実質,かなり余分にお金を使っていることもあるのですが,それが闇の中に葬られてしまっているのです。

 さて,私は,この日,大井町駅から水戸駅に向かうことになるのですが,はじめの予定では,大井町駅から京浜東北線に乗って品川駅へ行き,品川駅から水戸駅まで直通という列車に乗ることを考えていました。しかし,ホテルを出たのが早すぎて,そうした列車はなく,大井町駅からJR京浜東北線で品川駅では下車せず引き続き上野駅まで行って,上野駅からJR常磐線で水戸駅に行くことになりました。そこで,まず,大井町駅からJR京浜東北線に乗りました。
 この大井町駅も,また,くせものです。この駅にはJR東日本と東急電鉄大井町線と東京臨海高速鉄道りんかい線が相互乗り入れしていて,この3社の鉄道が同じ駅舎から乗ることができるのか,どこが入口なのか,よそ者の私にはさっぱりわからないのです。実際,駅舎がすごく離れたところの2か所にあるのですが,なが~い通路でつながっています。そこで,前日,予習をする必要がありました。
 ところで,今回,JRのさまざまな列車に乗ったとき,車内にあるつり広告に,どの車両に乗ってもいつも私を見つめている写真がありました。それはお茶の伊右衛門の広告で,見つめているのは藤井聡太竜王でした。本人がその列車に乗ったらどう思うのだろう? この日の朝もまた,そんな列車のひとつ,JR京浜東北線に乗車して,まず,上野駅で降りました。まだ朝食をとっていなかったで,上野駅で何か食べようと思っていたのですが,これもまた早すぎて食堂はどこもやっておらず,仕方がないので,開いていたコンビニでパンとコーヒーを買って,ホームのベンチで食べました。
 せっかくの旅なのに何かわびしい感じですが,私は,旅先の食事は,きわめて安価に済ますか贅沢にとるかの二者択一にしています。中途半端が一番よくないのです。
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 私がこの日乗り換えをした上野駅も,また,新しい駅舎と古い駅舎がごちゃごちゃになっていて,いつも迷子になります。また,常磐線下りで水戸駅までいく列車の出発するホームが列車によってさまざまなので,さらに混乱します。上野駅から始発となる列車が出発するのは9番,10番,11番,12番のホームということですが,駅舎のコンコースを歩いていると,これらのホームを案内する表示が途中でなくなってしまうのです。そして,間違えて,エスカレータを降りたり,昇ったり…。また,品川駅から上野東京ラインを走り,上野駅にやってくる常磐線の列車は,6番であり,また,水戸へ直通する特急「ときわ」は8番,または16番か17番,ただし,「ときわ43号」のみ15番,というように違うので,上野駅の「常磐線ホーム」という表示自体がたくさんあって,わけがわからないのです。

 なんとか上野駅の私の乗る列車が出発するホームに【たどりつき】ました。私は10番線から出発する直通で水戸まで行く列車に乗るつもりだったのですが,その前に,9番線のホームに土浦行きが出発しようとしていました。土浦駅で乗り換えたほうが水戸駅に到着するのが早いということだったので,迷いましたが,その列車に乗り込みました。
 さて,そうこうしているうちに土浦駅に到着しました。ホームの反対側に高萩行きが停まっていたので,乗り換えました。土浦駅で乗り換えというのはめんどうだなあ,と思っていたのですが,実際にやってみたら別にめんどうではありませんでした。
 土浦駅を過ぎたら,列車が田舎モードになったのと同様に,風景もまた大草原になりました。これはまるでアメリカの西部だと思いました。日本にこんなところがあるのが意外でしたが,私はこのほうが好きです。そのうちに地平線から日が昇り,やがて,水戸駅に到着しました。水戸駅までは3時間近くもかかりました。
 途中の土浦駅までは東京都心とかわらない都会のなが~い編成の列車ですが,土浦駅で乗り換えた列車は,突如田舎モードの列車に変わりました。ドアを開閉するのもボタンを押すことになります。これはJR東海道線で熱海以西になるときや,JR総武線で千葉を過ぎたときもまた,突如田舎モードになるわけで,それと同じです。田舎モード列車の停まる駅は,ときには,無人駅になったり,ICカードが使えなくなったりもします。このように,日本という国は,首都圏だけが別格扱いで,首都圏を出ると,何もかもが別の世界の発展途上国になってしまうわけです。

 ところで,JR常磐線(じょうばんせん)には先に書いたように「ときわ」という特急が頻繁に走っていて,これを利用すると時間がかなり短縮できますが,料金はとても高くなります。
 ということなのですが,ここで私が話題にしたいのは,この特急列車の名前に関連して,常磐という漢字は「ときわ」とも読むのではないか? と思い当たり,わけがわからなくなったことです。
 常磐線を走る特急のなまえが「ときわ」というのは,一体なんだ?
 確か,常盤御前という人が昔いたように思うし,常盤貴子さんという女優さんもいるのですが,考えてみれば,こちらは常磐ではなく常盤だ! 漢字が違う。つまり,常磐も常盤もともに「じょうばん」と「ときわ」のふたつの読み方があるし,常磐線は「じょうばんせん」であり,「ときわせん」ではないし…。いったい,真相はいかに?
 ということで,混乱した私は,帰宅後に調べてみました。
 見つけたのは,2019年1月6日の産経新聞の記事でした。それは「「常磐」と「常盤」地名の憂鬱」という内容でした。ここに一部引用します。
  ・・・・・・
 常陸国(ひたちのくに)は古くから「常世(とこよ)の国」とたたえられ,万葉歌にも詠まれた。
 茨城県の地名は県外出身者からすると難解で,ときに紛らわしい。間違いやすい代表格のひとつに「ときわ」という地名がある。
 全国的には「常磐」と「常盤」があるが,水戸や鉾田など県内では常磐と表記することが多い。
 常磐には「常に変わらない岩」という意味があるが,鉄道や高速道路になると,読み方が「じょうばん」に変わる。JR常磐線の名称は沿線の旧国名である常陸国と磐城国(いわきのくに)に由来する。「ときわ」は常磐線特急の愛称でもある。
 一方,県外では一転し,「常盤」と表記することが多い。
 「般」の下が「石」なのか「皿」なのか。茨城では常磐が大勢を占めると分かっていても,人名では「常盤さん」と表記することが圧倒的に多い。
  ・・・・・・

 常陸の名の由来は「直通」(ひたみち)すなわち「国内の往来は陸路だけでできる」ことによるとされています。万葉集では常陸の国を詠んだ歌が50首近くあるそうです。
  ・・・・・・
 比多知奈流 奈左可能宇美乃 多麻毛許曽
 比氣波多延須礼 阿杼可多延世武
  ・・
 常陸なる 浪逆の海 玉藻こそ
 引けば絶えすれ あどか絶えせむ
  ・・
 常陸にある浪逆の海の玉藻なら引けば絶えもしよう
 だかふたりの仲はどうして絶えたりしようか
   巻14・3397 東歌
  ・・・・・・


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 NHK交響楽団の定期公演に行く折に,これまで行ったことのない場所を巡っておこうと思っているのですが,今回は水戸市へ行くことにしました。
 私の住む愛知県からは,茨城県,栃木県,埼玉県,千葉県,群馬県などへ行く機会がありません。むしろそれより遠い福島県以北であれば,東京を経なくても空路でも行くことができるから,時間的には近いのですが,茨城県,埼玉県,栃木県,千葉県,群馬県などとなれば,わざわざ行くという意欲がなければ,大変縁遠いところとなります。いつか一度は,と思っていても,そのいつかは,は来ません。そこで,本当に,今行かないと,絶対に行かないと思う齢になったので,わざわざを実行しはじめたというわけです。

 茨城県は東北本線ではなく,常磐線ということなのですが,東北線沿線や日光線ならこれまでも乗ったころがあるのですが,常磐線ともなると,本当にまったくその気にでもならないと乗ることがありません。
 今回の目的地である水戸市は徳川御三家のひとつであり,梅の名所である偕楽園は有名で,行ってみたいものだと思っていたものの,地図で調べても東京から結構遠いであきらめていました。そんなわけで,私には謎に包まれていたところです。
 少し前,これも徳川御三家のひとつである和歌山市にやっと行きましたが,私の素朴な疑問は,名古屋城,和歌山城は有名でも,水戸城なんて聞いたことがないし,一体,水戸市はどうなっているのだろう,ということでした。

 今回,NHK交響楽団の定期公演の12月から2月までのCプログラム3公演に行くことにしたとき,2月はそろそろ梅の季節だから,2月の公演のときに水戸に行こうと決めて,楽しみにしていました。すでに書いたように,2月の定期公演は11日で,水戸の梅まつりもちょうど2月11日からという話だったので,たとえ,まだ梅の時期には少し早くても,2月12日なら,少しは咲いた梅の花も見ることができるだろうと期待しました。
 いつもの常で,今回も,NHK交響楽団の定期公演を聴いた後に水戸に向かい,どこか手ごろな,かつ,無名な温泉宿に1泊することにしました。ところが,ところが,温泉などないのです。日光線沿線ならいくらでも泊まりたいところがあるのですが,常磐線沿線は,まったくそういった場所が存在しないのでした。そこで方針を変更して,とりあえず,東京に1泊して,早朝,水戸に向かうことにしました。

 まだ2月なので,ひょっとしたら雪? 少しは心配したのですが,私は晴れ男だから,きっと2月12日はポカポカの陽気だと信じていました。しかし,私の出かけた1日前の2月10日の東京はなんと大雪でした。これには驚くと共に心配になってきました。であっても,自分でも驚くくらい晴れ男で運の強い私は,今回もまた翌日からは晴れだろうという自信というか確信もありました。実際,前日までの雪はどこへやら,2月11日と12日は両日とも晴れあがり,暑いくらいでした。
 こうなると,もはや,神がかりとしか言いようがありません。このごろ旅をするときは,いつも,ひとつ間違えば,雪で列車が不通になって大騒動とか,架線事故などで新幹線が不通となったりするのに,私が旅に出るときに限って,必ず晴れ,しかも,列車の運行は順調なのです。
 そんな次第でしたが,私が東京に出かけた2月11日,前日の雪で真っ白になった美しい富士山がとてもきれいでした。しかも,透明度抜群,新横浜駅を過ぎても,新幹線の車内から富士山を見ることができました。


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 ここ10年近く,毎年,年に4回から8回海外旅行をしていたので,パスポートのスタンプがほぼいっぱいになりつつありました。近ごろは出国と入国が機械化されてスタンプが不要になっていたのですが,パスポートがスタンプで一杯になることを夢見ていたので,あえて,スタンプを押してもらっていました。あと2年でその夢が実現すると皮算用をしていたときにコロナ禍になってしまい,海外旅行ができなくなって,その夢は,残念ながら実現しませんでした。そして,私のパスポートの有効期限が2022年の3月で切れてしまいました。
 短時間ならともかく,10時間近くの間,マスクをして過ごす気にもならないので,国際線には乗る気もしなかったから,また海外旅行に出かけることがあるのかな? もうないのかな? と思って,しばらく新しいパスポートを作らずにいたのですが,国際線の機内でマスクが不要になりそうだという話を聞いて,再び,海外旅行に行きたくなってきたので,このたび,新しいパスポートを手に入れることにしました。
 しかし,新たに10年パスポートを作ったところで,私の寿命が10年あるのかどうかもわかりません。ついにそんな齢になってしまいましたが,人生一度っきり,そんな後ろ向きな話をしても何の意味もないので,ずっと前向きに生きようと,10年パスポートを申請しました。そこで,今回,新しいパスポートの申請を機に,車も新しくなったし,引っ越しをして住むところも新しくなったし,ちょうどいい機会なので,海外旅行にとどまらず,今後の10年計画を立てることにしました。

 断捨離をしたおかげで,身の回りに必要のないものがすべてなくなりました。それを機に,さらに,いろいろなことを見直して,精神的にも断捨離をすることにしました。
 まず,やったのは,情報をすべて遮断することです。すでに,以前からテレビやネットのニュースはまったく見ないようにしていたので,私の唯一の情報源は新聞でした。しかし,新聞の定期購読も辞めることにしました。それは,内容がとてもつまらないというのが理由でした。新聞の定期購読を辞めるにあたって,まず,この1か月,本当に自分に新聞が必要なのかどうかを考えながら読んでいましたが,その結果,やはり,必要がないという結論になりました。
 次に,FODなどのサブスクもやめました。一時,FODで,主に民放のテレビドラマをずいぶん見ていて,このブログにもいろいろなことを書いていたのですが,何シーズンかそういったことをした結果,いつもワンパターンで,完全に飽きてしまいました。また,FODでは動画だけでなく,多くの雑誌も読むことができたので,しばらくはそれを重宝していたのですが,その内容がすべてあまりにくだらないので,そんなものを読む価値はないと思うように,というよりも,嫌悪感をいだくようになりました。
 そのような生活をはじめたら,毎日,とても多くの時間が生まれました。こころも落ち着きました。時間が静かに流れていくのです。これには驚きました。つまり,これまで,どうでもいいことに多くの時間を消費し,しかも,こころが乱れていたわけです。

 さて,パスポートが手に入り,これで,また,海外旅行にも出かけられるので,急がず,慌てず,旅行の計画を立てていこうと思っているのですが,その前に,ここしばらくは,まだ,国内の,これまで行ったことのないところに行ってみようと考えています。今がラストチャンス。いつかは1度は行ってみたいと思ってはいても行くことができなかった多くの場所は,今行かねば,もう,行く機会は訪れないと思うようになりました。
 果たして,この10年間で,何ができるのか? どこに行くか? 今はそれがとても楽しみです。

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金星と海王星の大接近。

2月15日の夕方。
沈む直前の西の空です。DSC_1069an


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 2023年2月のNHK交響楽団第1978回定期公演を聴きました。
 Cプログラムだけのサービスである開演前の室内楽は,チャイコフスキーの弦楽六重奏曲 「フィレンツェの思い出」の第1楽章を,ヴァイオリン松田拓之,宮川奈々,ヴィオラ中村洋乃理,小野聡,チェロ渡邊方子,小畠幸法というみなさんが演奏しました。
 私は,次回から再びAプログラム土曜日夜の定期会員に変更するので,開演前の室内楽を聴くのはこれが最後になります。こういうプレコンサートはとてもいいものなので,聴けなくなるのが残念です。
 私が3か月でCプログラム土曜日からAプログラム土曜日に変更するのは,Cプログラムの土曜日マチネというのが,お客さんがコンサートの後は食事でもしよう,みたいな感じで,12月の公演では曲が終わってもいないのに拍手をはじめた観客がいたりということに加えて,私の選んだ座席は2階席中央の音のいい場所で気に入っていたのですが,左側の人が大柄で座席が窮屈だったことと,右側の人がいつも寝ているのにときどき起きてはうなり声をあげながら指揮をしはじめるといったことが嫌になった理由です。次回からは,以前座っていた,もっと後列,というか2階席最後列の,周りはほとんど人のいないところに再び戻ることにしました。
 NHK交響楽団の定期会員になってかれこれ20年近くになるのですが,これまでも,何度か席替えしていろいろな席に座ったことがあります。しかし,なかなか満足いく席がないのが残念です。

 さて,話をコンサートに戻します。
 今回の曲目は,バーンスタイン作曲の「ウエスト・サイド・ストーリー」からシンフォニック・ダンスとラフマニノフ作曲の交響的舞曲で,指揮はヤクブ・フルシャ(Jakub Hrůša)さんでした。
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 ヤコブ・フルシャさんは,1981年チェコのモラヴィア地方の中心都市ブルノ生まれで,以前,NHK交響楽団定期公演で好評を博したラドミル・エリシュカ(Radomil Eliška)さんの薫陶を受けたことがプロの指揮者になるきっかけだったといいます。2010年にプラハの春音楽祭の開幕公演で「わが祖国」を指揮したのは記憶に新しいところです。
 私は知らなかったのですが,ヤコブ・フルシャさんは,2010年から2018年まで東京都交響楽団の首席客演指揮者だったそうなので,日本ではなじみの指揮者だったようです。現在はバンベルク交響楽団首席指揮者,チェコ・フィルハーモニー管弦楽団,ローマ聖チェチーリア国立アカデミー管弦楽団の首席客演指揮者です。
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 まだ若いヤコブ・フルシャさんですが,2011年に雑誌「グラモフォン」で「大指揮者になりそうな10人の若手指揮者」のうちのひとりに選ばれたということで,現在,とても人気があります。
 私は,今回,はじめて聴いたように思うのですが,パーヴォ・ヤルヴィさんがはじめてNHK交響楽団を指揮したときに感じたのと同じような衝撃を受けました。指揮がわかりやすく,かつ,なめらかで,とても気に入りました。

 今回の曲目は一見変わっています。それは,このふたつの曲に関連があまりないように感じたからです。解説によると,作曲年代が比較的近く,ともにアメリカで作られたという類似点があると書かれてありました。私は,実際に聴いてみて,そんな理由以上に,休憩なしのCプログラムでは,楽器編成が似ている,という点が選曲の理由であったように感じられました。
 バーンスタインのシンフォニック・ダンスは,定期公演の曲目,というより,ファミリーコンサートで取り上げられることのほうが多い感じですが,いかにも,いかにも,アメリカサウンドです。ステージ上で楽団員が大声で「マンボー」と叫んじゃったりするのは,お品のよい定期公演の曲としては異例です。うがった見方をすると,コロナ禍末期の現在,ステージで大声で「マンボー」なんて叫ぶことが許されるのはとてもすばらしいと思うわけですが,それは意図したことなのか,あるいは,シマッタ,と後悔していることなのか? しかも,昨日の演奏よりも大きな声を出そうと打ち合わせまでしたというではないですか。
 日本という同調意識の高い人が多く住む魔訶不思議な国では,今もまだおバカさんみたいに,感染予防だのマスクマスクだの,などということにきちんとした知識もないくせにこだわっている人がいるのをさもあざ笑うかのようで,コロナなんて無縁だとはじめっから思っている私には,とても微笑ましいというか愉快でした。私もまた,思わず,ブラボーと叫びたくなりました。
 そんな冗談はともかくとして,私が今回,ぜひ書きたかったのは,2曲目のラフマニノフの交響的舞曲についてです。
 昨日2月10日のコンサートはNHKFMでライブ放送されたのですが,その放送のなかで,聴視者から「はじめて聴いた」というコメントがあったと紹介されていました。しかし,この曲は,これまで何度かNHK交響楽団の定期公演でも演奏されている,決してめずらしいものではないのです。私にもとてもなじみのある曲です。
 作曲家のラフマニノフといえば,1月の定期公演でもピアノ協奏曲が演奏されていて,そのとき私は
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 ラフマニノフもチャイコフスキーも,聴いて楽しい曲であっても,私は,あえて聴きたいというものではありません。出てくればおいしくいただいても自分からは注文しない料理のようなものです。
  ・・・・・・
と書きました。
 交響的舞曲もまた,自分から録音を探して聴くこともないですが,とても好きな曲のひとつです。

 ラフマニノフ(Sergei Vasil'evich Rachmaninov)の管弦楽曲は,ドイツ系ともフランス系とも違う,そしてまた,ロシア的でもない独特の質感があって,派手に金管が跳ね回るよりも,複数の旋律が合わさり太いうねりを作るというか,そんな感じがします。交響的舞曲は1940年に作曲されたラフマニノフ最後の作品で,「舞曲」と銘打たれてはいるものの,3楽章制の交響曲もしくは交響詩のようなもので,コンサートのとりを務める大役を担える大作です。
 穏やかな第1楽章の中間部にサクソフォーンのソロがあって,それがピアノと絡んで,なにかとても妖艶な,というか,なまめかしさが感じられるのが,エロチックでもあり,くすぐったく魅力的です。それにつられた第2楽章は夢をみているような幻想曲であり,第3楽章はオペラ的で,人生の集大成のような壮大なクライマックスを迎えます。これこそが,ラフマニノフが最後にこの世に書き残した美しい響きです。早春のこの時期にこんな曲を聴くのも悪くありません。
 ところで,この日は,右隣の方がお休みだったので,私は,きわめて快適にコンサートを楽しむことができました。

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 2020年春に突然はじまったコロナ禍で何がよかったかといえば,美術展の入場が予約制になって,空いているということでした。今後もこの予約制をずっと続けてほしいと切に願っているのですが,それ以前は,絵画を見るというよりも人の頭を見にいくようなものでした。
 それでも,人気のある画家の場合は,結構な人が集まるので,予約時間になれば予約者が集まってけっこう長蛇の列となったものですが,エゴン・シーレという画家は日本ではあまりなじみがなく,そこで,集客力もないようで,思った以上に空いていました。私にはこれもよかったことのひとつでした。美術展に限らず,クラシック音楽のコンサートもまた,人があまりに多いとストレスが溜まります。
 芸術を味わうというのは,こころと対話するのだから,人の存在は害にこそなれ,益とはならないのです。さらによかったのは,一部の作品でしたが,撮影ができたことです。海外の美術館ではほぼすべての作品が撮影可能なのに,日本でどうしてそれができないのか私には疑問でした。近ごろは,NHK交響楽団などのコンサートでも,カーテンコールの撮影が可能となってきたのがよい傾向です。
 どうも日本という国はけち臭いというか,芸術をお高くとめるというか,特別な存在としたがるというか,そういった意味でも精神が貧困で,まったくもって,後進国です。

 エゴン・シーレをウィーンで知った私には,今回の展覧会でウィーンの香りを感じることができたのが最大の楽しみでした。展覧会を見たあとは,この余韻にひたるために,東京都美術館のカフェでザッハトルテ(もどき)を味わうことにしました。
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 ザッハトルテ(Sachertorte)は,オーストリアの国立歌劇場のとなりにある5つ星ホテル「ホテル・ザッハー」(Hotel Sacher)や,カフェ「デメル」(Demel)で提供されている古典的なチョコレートケーキのことです。
  小麦粉,バター,砂糖,卵,チョコレートなどで作った生地を焼いてチョコレート味のバターケーキを作り,アンズのジャムを塗ったあとに表面全体を溶かしチョコレート入りのフォンダンでコーティングをします。
 1832年,外交官のクレメンス・メッテルニヒ(Klemens Wenzel Lothar Nepomuk von Metternich-Winneburg zu Beilstein)に仕えた料理人のひとりだったフランツ・ザッハー(Franz Sacher)が考案しました。
  ・・・・・・
 という次第で,ザッハトルテ(もどき)を食することができて,とても幸せでした。

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 人には目と耳があって「現実」の世界をすべて見ることができ,また,聞くことができるように錯覚していますが,実際は,人の目が見ることができる光の波長は限られているし,聞くことのできる音の波長もまた同様です。というように,人は,「現実」の世界の,ある一部しか認識できてはいないわけです。
 そうした限られたある一部の「現実」の世界を見て聞いて,そこから人は感情を誘発して,生きているわけです。そうした形のない感情を,音として表現すると音楽となり,像として表現すると美術となります。だから,芸術というのは,人の感情を具体化したものといえるわけです。しかし,先に書いたように,人間の「現実」もまた,美しいだけではなく,そこには,見えない「現実」もあって,それは,美しさもあれば醜さもあり,また,エログロも存在するというように,決してきれいごとではないのです。しかし,美しさはだれしもが共感するのですが,醜さやエログロは,それを自分の感情に同化できる人もいれば,できない人もいるわけです。また,できないだけでなく,それを否定したり中傷したりすることもありますが,そういうことをするのは,穢れを知らぬ未熟な人ゆえかもしれません。
 旧来の西洋の絵画の多くはキリスト教を母体とした純化した精神を表現したものであって,それを芸術と称していたのに対して,人の本性を表現するべきだという主張が「世紀末ウィーン」の芸術です。それを音楽として表現したのがグスタフ・マーラーであり,絵画として表現したのがグスタフ・クリムトであり,エゴン・シーレでした。
 今,エゴン・シーレが天才として語られるのは,そうした人の本性をむき出しにした精神を絵画に生々しく表現することに成功したからでしょう。それらは,決して美しくもないし清楚なものでもないから,さまざまな批判にもさらされるのですが,先に書いたように,それらのすべてが人の本性というものです。

 今回,作品がやってきたのは,ウィーンにあるレオポルド美術館の所蔵するものです。
 レオポルド美術館は19世紀後半から20世紀のオーストリア美術約8,000点の作品を所蔵し,特に220点以上のエゴン・シーレ作品を所蔵することから「エゴン・シーレの殿堂」として世界にその名を知られています。
  ・・・・・・
 エゴン・シーレはオーストリアの画家で,1890年にウィーンにほど近いトゥルンに生まれました。 
 15歳のときに父が精神病を患い死去し,その喪失感を埋めるように,また,自己肯定のために多くの絵を描きました。1906年,弱冠16歳でウィーンの美術アカデミーに入学,その翌年にグスタフ・クリムトと出会って強く影響を受けました。
 やがて,美術アカデミーの旧制度に反発して自主退学し,「新芸術家集団」を結成しましたが,その後は集団を離れ,独自の裸体画を模索し,大胆なボーズを取る裸体を視覚を惑わす歪な線で描き,無防備でありながら緊張感をはらむ表現主義的な画風を確立しました。
 1915年,エディット・ハルムスと結婚しますが,1918年にスペイン風邪で亡くなり,その2年後に自らもスペイン風邪で28歳で早逝しました。
  ・・・・・・

 エゴン・シーレの特徴は,まず,強烈な裸婦画にあります。妹のゲルトルーデとは兄弟以上の関係だったという話ですが,おそらく,若くして最大の理解者であった父を亡くすなど,精神的に屈折し,早熟だったからでしょう。
 そしてまた,エゴン・シーレの生きた時代は「世紀末ウイーン」で,それまでの 「盲目的」な伝統崇拝が終焉をむかえ,偶像破壊的な前衛芸術が巻き起こっていました。「盲目的」な伝統崇拝というのは,当時建設された国会議事堂をはじめとしたウィーンの代表的な建物が新しい時代のものにもかかわらずブルジョア階級の趣味嗜好を反映したギリシャ時代を模倣したものだったからで,それに対する反発が生まれたのです。その代表が分離派会館といった建物ですが,その主張は,分離派会館に掲げられた「時代にふさわしい芸術を 芸術には自由を」(Der Zeit ihr Kunst der Kunst ihr Freiheit.)であったのです。
 今回,実際にエゴン・シーレの作品を見て,初期のものや風景画に私は衝撃を受けました。その理由は,それらの絵画があまりにすばらしいことからでした。そうした美を追求した結果,それでは物足りなくなってしまった,ということだったわけです。そのことは,グスタフ・クリムトも同様だし,キュビズムだけが話題となるパブロ・ピカソもまた同じで,初期の作品は,ものすごく繊細で,かつ,美しいのです。つまり,そういった,いわば,きれいごとの絵画を超越したところに,彼らの評価があるわけです。

 書記の作品は,金を多用したグスタフ・クリムトをまねて銀を多用したので,エゴン・シーレは自らを「銀のクリムト」と称し,人の本性をさらけだす表現,内側をえぐられるような表現を絵画を通して主張しました。代表作のひとつである,今回来日した「ほおずきの実のある自画像」(Selbstporträt mit Kirschen)で,頭部を傾け,鑑賞者に視線を向けているクローズアップで描かれた画家は,挑発的であり,かつ,何かに怯えているようにも見えます。そこには,鬼気迫るような雰囲気があります。エゴン・シーレ独特の異様な歪んだ表現は,決して万人には理解されないものですが,それを理解できる人には強烈な印象を与えるのです。
 このような,人間の中身から思わずにじみ出てしまった表現は,人間の本性を赤裸々に語るのです。
 生涯にわたり自画像を描き続けたシーレは,「世紀末ウィーン」という多様な価値観が交錯し対立する世界に生きながら,自画像を通して自己のアイデンティティを模索し続けたのです。それを完成させることなく早世してしまったことが惜しまれます。

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 私にとって,「世紀末ウィーン」(Wiener Moderne)の芸術を知ったきっかけは,作曲家グスタフ・マーラー(Gustav Mahler)でしたが,それに関連して興味をもったのが,グスタフ・クリムト(Gustav Klimt)でした。今日の1番目の写真が,ベルヴェデーレ宮殿オーストリア絵画館(Österreichische Galerie Belvedere)で私が見たグスタフ・クリムト(Gustav Klimt)の「接吻」(Der Kuss)です。
 そして, グスタフ・クリムトにつられるようにして名前を知ったのが,エゴン・シーレ(Egon Schiele)。2番目の写真は,オーストリア美術史美術館(Kunsthistorisches Museum)で私が見たエゴン・シーレの「母親と二人の子供」(Mutter mit zwei Kindern)です。「母親と二人の子供」は,1915年に書かれたもので,エゴン・シーレの作品の中では最も抽象的な形体感覚が示された作品で,中央の母親の白っぽい姿と両脇の子供の色鮮やかな姿の対比と融合は,死にゆくものの中からの新しい生の成長ということを象徴的に表しているということです。なお,この作品はレオポルド美術館の所蔵ではないので,今回来日していませんが,同様の作品であるレオポルド美術館所蔵の「母親と二人の子供Ⅱ」(Mutter mit zwei Kindern Ⅱ)を見ることができます。

 私がはじめてオーストリアを旅行した動機は,クラシック音楽でウィーンに憧れていたことからでした。ウィーンでクラシック音楽といえば,誰しもが思い浮かぶのはモーツアルトであり,ベートーヴェンでしょう。私もそうでした。しかし,行ってみてもっとも衝撃を受けたのは,グスタフ・マーラーでした。それは,すでに何度も書いていますが,グスタフ・マーラーによって「世紀末ウィーン」ということばを知ったからでした。グスタフ・マーラーは「世紀末ウィーン」の時代に活躍した指揮者であり作曲家でしたが,このことは,岩波現代文庫の渡辺裕さんの書いた「マーラーと世紀末ウィーン」に詳しく書かれています。
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 マーラーの作品の真の新しさやおもしろさは「世紀末ウィーン」の文化史全体に目を広げてはじめて明らかになります。著者は同時代人クリムト,ワーグナー,フロイト,アードラーらの活動をも視野に入れ,彼らの夢と現実のありようを描きだします。また,現在,彼の音楽のどのような側面が注目され,それが現代文化のいかなる状況を表現しているのかを問うのです。
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 ウィーンから帰ってきて読んだこの本をきっかけとして,そしてまた,ウィーンで多くの絵画を見てきて,音楽だけでなく「世紀末ウィーン」に関連した画家についてもっと知りたくなり「ました。
 ウィーンにあるいくつかの美術館を訪れたとき,「世紀末ウィーン」の絵画を数多く鑑賞することができました。そこで私がたくさん見たのがグスタフ・クリムトの作品で,その次がエゴン・シーレの作品でした。グスタフ・クリムトという名だけは,オーストリアを訪れる以前から知っていました。しかし,エゴン・シーレという名は,そのときまで,まったく知りませんでした。
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 「世紀末ウィーン」の芸術の現出は,19世紀末,史上まれにみる文化の爛熟を示したオーストリア・ハンガリー帝国の首都ウィーンで展開された多様な文化からでした。オーストリア・ハンガリー帝国の政治面における混乱と凋落によって,人々の関心が文化面に向かった結果,キリスト教的な諸価値に対する文化的反抗としての性格が自由主義思潮に向けられることになったのです。
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 今回,東京都美術館でエゴン・シーレ展が開催されたので,2023年2月11日に見にいきました。この展覧会では,ウィーンのレオポルド美術館にあるエゴン・シーレの作品が数多く来日しています。
 実は,2回もウィーンに行って,「世紀末ウィーン」に興味をもち,いくつかの美術館に行ったのにも関わらず,レオポルド美術館には行っていないのです。それは,私の不勉強のせいであって,エゴン・シーレという画家のことを,そのころはあまりに知らなかったので,興味がなかったことにあります。この美術館に行かなかったのは不覚であり,あまりにも残念な話です。

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 ちょうどフィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent Willem van Gogh)が28歳で亡くなった1890年に生まれたエゴン・シーレでしたが,彼もまた,世紀末を経て芸術の爛熟期を迎えたウィーンに生き,フィンセント・ファン・ゴッホと同じくわずか28年という短い生涯を駆け抜けました。
 エゴン・シーレは,最年少でウィーンの美術学校に入学したのですが,保守的な教育に満足できずに退学して,若い仲間たちと新たな芸術集団を立ち上げます。しかし,その当時の常識にとらわれない創作活動により逮捕されるなど,生涯は波乱に満ちたものでした。
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 今回のエゴン・シーレ展は,レオポルド美術館の所蔵作品から50点を展示して,画家の生涯と作品を振り返り,加えて,グスタフ・クリムト,オスカー・ココシュカ(Oskar Kokoschka),リヒャルト・ゲルストル(Richard Gerstl)をはじめとする同時代作家たちの作品もあわせた約120点の作品が展示されるということだったので,私は,この展覧会で,大好きなウィーンの空気を一杯浴びてくることができるのをとても楽しみにしていました。


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 私の「はじまり」は,旅と音楽と星。これだけで十分です。
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と書いた2023年は,ZTF彗星ではじまりました。しばらく星見に行っていなかったことと寒さでためらっていたのですが,私のポリシーは「人生において人はしなかったことだけを後悔する」なので,出かけて写真を撮ることができてホッとしました。
 星見というもの好きな趣味は,「月刊天文ガイド」を創刊された1965年のころから読んでいた,今は65歳から75歳くらいの人たちが若かったころにはじめたもので,昨年末になくなった藤井旭さんによる天体写真の撮影と,彗星を7個発見した池谷薫さんの影響による新天体の発見,というふたつの柱で夢中になったものです。
 こんな趣味は,いまや絶滅危惧種です。それはどうしてかというと,やたらとお金がかかるわりに,自然条件に左右され過ぎる,ということと,それにも増して,自然が破壊され,夜空には人工の光が満ち満ちて星自体がほとんど見えなくなった,ということにあります。そんな現状なのに,未だにこの趣味をやっている人は,高額な望遠鏡を購入するとか,コンピュータによる画像処理に凝るとか,ひとそれぞれです。いずれにせよ,人の欲望は限りがないわけで,もっときれいな写真が撮りたい,とか,できるだけ多くの新しい天体を発見したい,とか,海外に出かけて,日本では見られない天体現象を見たい,というように,エスカレートしていったわけです。
 そこで,天体写真1枚写すのに,いくら使ったと考えると,ぞっとします。また,そもそも,晴れなければどうにもならないわけだから,これほどコストパフォーマンスの悪い趣味はないのです。
 しかし,その一方で,美しい星空を一度は見てみたい,という希望は多くの人にあるようで,そうしたイベントやツアーが数多く行われていたり,また,惑星を望遠鏡で見てみたい,という人も少なくなく,天文台で観測会が行われていたりします。しかし,そういった人たちは,一度見ればそれで十分満足してしまい,その次に発展するような余地もありません。

 では,私にとっての星見というのは,どんなものなのでしょう。
 私は,日ごろ,ほとんど星の見えないところに住んでいたから,まずは,満天の星を見てみたいという想いからはじまり,それがかなったら,今度は,いつかは皆既日食が見たい,とか,南十字星が見たい,とか,オーロラを見てみたいとなったのですが,そのすべてを達成したら,もう,そういう夢はなくなりました。
 しかし,その後,高額な機材を買うとか,田舎に天体観測所をつくるとか,幸い,そういうことには興味がなく,星を見るということよりも,そうした場所にでかける,その雰囲気が好きだった,ということに気づいたわけです。
 今日の1番目の写真は,生まれてはじめてニュージーランドに行ったとき,なんとか南十字星とマゼラン雲を見てみたいと思ったのですが,ニュージーランドであってもやはり都会は空が明るく,ではどこに行けばそれができるかも皆目わからないまま,当てもなく,クライストチャーチの郊外に出かけ,なんとか高台を見つけて写したものです。その場所は空もそれほど暗くはなく,条件もよくなかったのですが,それでも,生まれてはじめて見たマゼラン雲には感動しました。だから,この写真は私の宝物だし,私には,この写真が一番印象に残っているのです。
 また,2番目の写真は,オーストラリアでの,まさに満天の星ですが,ろうそくの明かりすらないような真っ暗な大地で見た星空に勝るものはありませんでした。
 このような条件のよい場所は日本にはありませんが,今の私には,深夜,だれもいない高台で,ひとり星空と会話する,とか,日が暮れたあとや太陽が昇るまえの「かたわれどき」と「かわたれどき」の美しさを味わうことが最高の楽しみなのです。なので,星の見える夜は,いつも,そんな気持ちを味わっていたい,それだけです。

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 子供のころ,いつか江戸時代のように街道を歩いてみたいなあ,と思っていたのですが,そう考えていたのは私だけではなかったようで,私の世代には,街道歩きをしている人が少なからずいます。また,このところ,街道ルネッサンスとやらで,江戸時代の旧街道を見直して,宿場を整備しようということが各地で行われていて,さらに街道歩きを楽しいものにしています。
 何事にもいい加減な私は,街道をすべて歩こうなどという,そんな意欲はなく,単に,暇つぶしで気に入ったところを適当に,しかも下り坂専門で歩いているだけですが,それでも,これまで,ずいぶんといろんなところを歩きました。旧東海道では,歩いていて楽しいのは,よく整備された静岡県なのですが,県民性というかなんというか,愛知県はそうした歴史に対するリスペクトが薄いというか,金をかけたがらないというか,大して整備されたところがありません。また,私にはあまりに身近なのが災いして,わざわざ行こうと思ったこともありませんでした。

 そんな愛知県にある旧東海道の宿場は,東から,二川宿,吉田宿,御油宿,赤坂宿,間宿である本宿,藤川宿,岡崎宿,池鯉鮒宿,有松宿,鳴海宿,宮宿と,結構多くがあります。
 そこで,今回,岡崎城に行ったついでに,その帰りに藤川宿を歩いてみることにしました。
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 藤川宿は,東海道五十三次の37番目の宿場です。本陣跡には藤川宿資料館があり,国道1号沿いには道の駅が整備されています。また,1キロメートルほど松並木も残っています。
 藤川は中世から交通の要地でした。1601年(慶長6年)の伝馬制度により宿場が設置され,1648年(慶安元年)山中郷から住民を移し,加宿の市場村が東隣して成立しました。藤川宿は幕府領で,村高310石,町並家数43,馬役人18,歩行役人24,問屋1。宿内人1,213人,総家数302,本陣1,脇本陣1,旅籠屋36でした。
 宿の西端に一里塚や十王堂があって,吉良道の分岐点でもありました。
  ・・・・・・

 多く宿場と同じように,藤川宿もまた,国道1号線と並行して残っていて,道幅などは江戸時代のまま当時の町並みの雰囲気が保たれています。古い家もときどき見られますが,その多くは遠慮がちに新しい家に建て替えられていて調和がないのも,また,どの宿場跡で見られる姿と同様です。
 私は,いつも,こんな宿場町を歩きながら,気の利いたカフェがあればコーヒーを飲んだり,お昼に訪れたときは,おそば屋さんがあれば入って食事をしたりといった楽しみを期待するのですが,多くの場合,そんなお店は存在せず,単に生活空間です。また,道路は,車がすれ違うにはちょっと狭いのにもかかわらず,結構,地元の車が行き来するので,歩いていてもいつも車に気をつけなければならないから,それほど楽しくないのもまた同じです。

 藤川宿は,江戸時代には,むらさき麦の産地として栽培されていたところでしたが,それも廃れ,幻の麦となっていました。近年になってそれが再現されたということです。私が訪れたときは何もみられませんでしたが,5月中旬になると美しい紫の穂が見れれるそうなので,そのころに行くのがよいようです。むらさき麦はは本来の大麦の成分に加えブルーベリーなどに含まれる「アントシアニン」が入っている麦ということです。
 また,藤川宿の東の入口に東棒鼻,西の入口に西棒鼻棒鼻があります。私は棒鼻ということばをここではじめて知ったのですが,棒鼻というのは駕篭の棒先の意味です。大名行列が宿場へ入るときに仕切り直して恰好よく入場するために,この場所で先頭(=棒先)を整えたことからそうよぶようになったということで,宿場の門として入口に宿囲石垣がありました。
 歌川広重の東海道五十三次藤川宿は,この東棒鼻の様子を描いたものということです。

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 以前,トヨタに「ビスタ」(Vista)という名前の車がありました。トヨタ自動車のホームページによると「英語で「展望」という意味」とありました。実際,「ビスタ」ということばは,イタリア語,スペイン語,ポルトガル語,英語にあって,いずれも,展望といった意味をもつようです。
 岡崎にも「ビスタ」があります。ただしくは「ビスタライン」です。

 岡崎城から北に3キロメートルほど行ったところに,大樹寺という寺があります。
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 大樹寺は,徳川家の先祖・松平氏と徳川将軍家の菩提寺です。大樹寺は、浄土宗鎮西派に属し,1475年(文明7年)に松平家4代親忠が勢誉愚底を開山として創建されたものです。徳川家・松平氏の菩提寺として盛衰をともにしています。
  ・・
 この寺に掲げられた徳川家康の座右の銘であった「厭離穢土欣求浄土」(おんりえどごんぐじょうど)とは「極楽浄土に生まれ変わることを心から願い求めること」という意味です。 
 桶狭間の戦いで「敗軍の将」として生き延びた当時満17歳の徳川家康は大樹寺に逃げ込みました。大樹寺の先祖代々の墓所の前で自害しようとしますが,そこへ寺から出てきた登誉上人が「代々松平家は平和な世の中を創ろうとしてきた。その想いをあなたは断ち切るのか?」といさめ「厭離穢土欣求浄土」を授け,平和国家建設にまい進するよう励ましました。そのことばに勇気づけられた徳川家康は生まれ変わり,墓前に大願成就を誓ったそうです。
  ・・・・・・
と,このシーンは,大河ドラマ「どうする家康」でもありました。

 この大樹寺と岡崎城を結ぶ直線を「ビスタライン」とよぶそうです。これは,3代将軍徳川家光が1641年に大樹寺を整備したとき,徳川家康の生誕の地である岡崎城を望めるようにと山門を配したことに由来していて,それ以来,380年間守られているといいます。
 そのようなわけで,この眺望が岡崎を話題にするといつも取り上げられるので,そのことは知っていましたが,今回,大樹寺にはじめて行きました。そして,実際,山門から岡崎城を眺めることができました。
 このように,この「ビスタライン」に眺望を遮るようなビルを建てることはタブーとなっているわけですが,そのために岡崎には何らかの条例でもあるのでしょうか? それとも,日本らしく,単なる慣習なのでしょうか? 私には気になるところです。

 大樹寺には,14代までの徳川将軍の等身大の位牌と松平八代の墓があることで,松平家と徳川家の菩提寺としての体をなしています。しかし,私は,松平八代の墓を見たとき,以前行った米沢市にある上杉家歴代藩主の霊廟を思い出して,それに比べたらずいぶんと見劣りするものだと思いました。
 また,大樹寺には,唯一の室町時代の遺構である多宝塔があります。
  ・・・・・・
 多宝塔は1535年(天文4年),松平家7代清康が伽藍を再興したときに建立されたものです。
 多宝塔は1辺4.35メートルで,屋根は宝形造で元はこけら葺でしたが,現在は檜皮葺となっています。和様の多宝塔では下層裳階の柱は角柱ですが,この多宝塔は丸柱が用いられ,組物は二手先で,中備に蟇股,間斗束を用いているといいます。また,上層には白色の板張りの亀腹をつけ,禅宗様四手先の組物をのせて軒の出が深くなっていることで,上下層の釣合いがよくみえます。
  ・・・・・・
 なお,大樹寺は私が訪れたときはまだ駐車場は無料でしたが,2月10日以降は有料になるそうで,その工事をしていました。大河ドラマでブームになることで観光客が多くなるのを見越しているわけで,お寺様もなかなか商売が上手なこと。私はこの煩悩にあきれましたけれど。

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 「不良老人」にとって,こころ静かに,日々を穏やかに過ごすことこそが,もっとも大切なことです。
 いつもそう願っているのですが,ここ数年,「不良老人」の私にとって,コロナ禍よりも禍だったのは報道でした。つくづく愛想が尽きました。
 今ごろになって,老後の年金問題,外国人労働者,海外移住者の増加,といったことを盛んに話題にしているようですが,そんなこと,もうずいぶん以前からわかっていたことです。この少子高齢化の時代に国が成り立つには,年寄りにいつまでも働かせるか,減った若者の労働者を海外から人を入れて補うか,しかありません。そんなことは私にもわかります。また,まじめに将来を考えている若い人なら,自分が将来どう生き延びるかを模索すれば,国別幸福度ランキング54位のこんな国を捨てて海外に活路を見出すのが最も得策だと思うのは当然の利であり無理もないことなのだから,海外に移住する人が増加しているというのは当然のことです。
 だれしもが考えつくようなこのようなことが現実となった今になって,そんなことを報道しているようでは情けない限りです。それは,報道が,この深刻な問題に対して,これまで,汗を流して現実を取材して,真摯にどうすればいいのかを提言をしてこなかったからです。今更… なのです。
  ・・
 一方,政府は,少子化対策とかいって,相も変わらず,増税してそのお金をばらまこうとしているのですが,そもそも,少子化の原因は,子育てをするお金がないということ以上に,子供を育てることに意義がみいだせない,夢がない,魅力がないということに尽きます。教育と称した金儲けが横行し,中学受験は過熱し,教育費は高騰し,しかし,待遇を改善しないから教師の質は落ち,学校では新しいこと,社会に出てから有益なことは何も学べないのです。また,国別男女平等ランキング116位のこの国では,女性は,仕事と育児の両立などできないほど労働環境が悪質です。
 これでは,お金に余裕のあったところで,子育てをする魅力がありません。こうした根本的な原因があるにもかかわらず,お金だけ配ったところで,少子化は何も改善されないのです。
 そうした問題を取り上げ,読者や視聴者と考えるのが報道の役割です。
 しかし…。

 雑誌は,もともとインターネットの普及で売れなくなったものをなんとかしようとあがき,売れればいい,というだけが目的のおどろおどろしい見出しが躍り,庶民の老後や生活の不安を煽るだけで,無責任で,実にひどいものです。お金を出して購入して読んだあげく不快になるような,そんなものでは買う気にもなりません。
 テレビのニュースも同じようなものです。今や,いつでも,どこでも,ネットで好きな時間に見ることができるのだから,テレビ番組表を見て,その時間にテレビを見たり録画をする,などということ自体が時代遅れです。だから,テレビなどライブで見ていないのだから,ニュースがあろうがなかろうが定刻に決まった時間枠でノルマをこなすようにして放送をしているだけのものをテレビで流す価値などありません。野球中継や大相撲中継の途中にニュースを挟む理由もわかりません。また,地震や台風の情報を,NHKのすべてのチャンネルで定時番組を中断してまで流す,その理由がわかりません。その結果,私は,もう,そんなものを見ていても不快になるだけなので,今後テレビからの報道の一切を遮断することにしました。
 新聞は質が落ちました。新聞社には将来性がないからよい人材が集まらず,また,政府の言論統制のようなひどいやり方に委縮してしまって,書きたいことも書けないでいます。新聞でなければ得られない情報がないのです。そんな理由で,私は,新聞を購読するのもやめることにしました。ミサイルが飛んで来ようと,日産が脱ルノーしようと,三菱が国産ジェットを断念しようと,そんなニュースを知ったところで,私には何もできないわけだから,そんな情報を知っても仕方がないし,知らなくても何も困らないのです。また,コロナの感染者が何人とか,未だに,そんな,もし知りたければ新聞などに載せなくてもどこにでもあるようなことにスペースを割いています。新聞は,新聞を読まなければわからないような,もっと重要な情報を伝えるべきです。大学の出願者とか入試問題も同様です。そのような情報はインターネットにいくらでも転がっています。さらに,以前にはあった,吉田秀和さんの「音楽展望」のような,お金を出してまで手に入れたいと思う,質の高い文章もありません。また,私は,将棋の観戦記を読むのも新聞を購読する大きな動機でしたが,今や,わずかなスペースに棋譜の解説だけ延々と書かれたようなものを見ても何も消化できないし,新聞に書かれている程度の情報なら,すでに,ABEMAなどの将棋中継やYouTubeにある棋譜の解説でもっと詳しく知ることができます。
 このように,今は,新聞など購読しなくても,好むと好まざるに限らず,いくらでも情報は入ってきますし,新聞に載る記事のそのほとんどは,すでに知っていることなのです。新聞は,そうした情報の上に立ったもっと深い記事や解説や分析や問題定義を載せなければ,もはや,存在意義などないのです。

 昔は,情報を手に入れるにはどうするか,ということが問題でした。しかし,今は,いかにくだらない情報を手に入れないか,知らないでいられるか,ということの方がこころの平穏には大切な問題なのです。報道に殺されちゃたまりません。
  ・・・・・・
 「養生の術」は,まず心法をよく慎んで守らなければ行われないものだ。こころを静かにして落ちつけ,怒りをおさえて欲を少なくし,いつも楽しんで心配をしない。
 これが「養生の術」であって,こころを守る道でもある。心法を守らなければ「養生の術」は行われないものだ。
 それゆえに,こころを養い身体を養う工夫は別なことではなく,ひとつの術である。
     貝原益軒「養生訓」
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 2023年2月6日。天気がよく暖かな1日だったので,「どうする家康」大河ドラマ館を見に,岡崎に行くことにして,早朝,家を出ました。
 2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」では,ゆかりの地をずいぶんと訪ねました。標高400メートル級の山登りをたくさんすることになったのは予想外でしたが,ずいぶんと楽しめました。
 2021年の大河ドラマは確か渋沢栄一の話だったと思うのですが,題名も思い出せないくらい私にはまったく興味がありませんでした。
 2022年の「鎌倉殿の13人」は,舞台が関東地方だったので,なかなかゆかりの地を訪れることもままならなかったのですが,なんとか年末に鎌倉に行くことができました。
 2023年の今年は,再び,私の住んでいるところに近く,ずいぶんと多くのゆかりの地が身近にあるので,これから出かけるのが楽しみです。

 「どうする家康」の大河ドラマ館は岡崎城内にあって,午前9時に開館します。午前8時すぎには到着するつもりだったのですが,予想より時間がかかって,到着したのは午前9時30分ごろでした。高速道路を使わないと,愛知県の道路は車関係の会社が多く,どこも大型車だらけで,なかなか動きません。幸い,岡崎城の駐車場は,まだ,駐車スペースがあったので,車を停めることができました。
 まず,大河ドラマ館に向かいました。ちょうど徳川家康さんが出陣してきたので,ポーズをとってもらいました。なかかな出だし好調です。
 会場は「鎌倉殿の13人」の大河ドラマ館よりもずっと広く,内容も濃く楽しめました。ただ,まだ番組がはじまったばかりなので,実際に使われたという衣装や小道具がほとんど展示されていなかったのは残念でした。おそらく,今後,そうしたものの展示が増えて来るものと思われます。

  ・・・・・・
 岡崎城は徳川家康の生地で,戦国時代は松平氏の居城でした。
 三河国仁木氏の守護代であった西郷稠頼は1429年から1441年の永享年間に明大寺付近に居館を構えていました。1452年(享徳元年)から1455年(康正元年)にかけて,西郷稠頼は,龍頭山とよばれる半島状段丘の先端に砦を築きました。これが旧岡崎城です。
 3代目当主の西郷信貞は,明大寺の平岩城を居所としてこの地を支配していましたが,1524年(大永4年),当時,安城を支配していた徳川家康の祖父にあたる松平清康の命を受けた家臣の大久保忠茂が奇襲によって西郷信貞の持城であった山中城を落城させました。松平清康は西郷信貞に岡崎城を明け渡させ,本拠を安城から岡崎へ移し,本格的な岡崎城を構えました。これが現在の岡崎城です。
 関ヶ原の戦いののちは本多氏の居城となり,江戸時代には本丸に複合連結式望楼型3重3階の天守が建てられるなど,大規模な城となりました。
 明治維新後の1873年(明治6年),廃城令によって廃城となり,城内の天守以下の建物及び土地を払い下げられたので,現在は一切の建物を失い,本丸と周辺の持仏堂曲輪,隠居曲輪,風呂谷等の曲輪と石垣,堀などの遺構を残すのみとなりました。敷地は龍城神社,岡崎公園として整備されましたが,1959年(昭和34年)に天守が復興されました。
  ・・・・・・
 岡崎城は以前にも来たことがあるのですが,岡崎城自体は,鉄筋コンクリートのもので,登ってみたときの展望台としての役割以外は,特に興味をひくようなものではありませんでした。ただし,場内には,東照公産湯の井戸とか東照公えな塚など,徳川家康の遺構とされるものが残っています。

 ということですが,すでに梅が咲いていたりと,暖かくなった空気に誘われて,次第に観光客が増えてきました。それでも,2月の平日,ということで,私の目論見どおり,まだ,午前中は観光客がまばらで助かりました。
 大河ドラマ館と岡崎城を見た後は,おいしい昼食タイムです。
 岡崎城内にあった「いちかわ」というお店で,大好きな田楽をいただきました。岡崎は八丁味噌で有名なところとあって,お味噌が美味でした。

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 横道誠さんの書いた「ある大学教員の日常と非日常」を読みました。
 この本を知ったきっかけは朝日新聞の読書欄だとばかり思っていたのですが,調べても存在しないので,私の勘違いでしょう。しかも,私は,もっと大きな間違いをしていたのです。それは,横道という名前から,映画「横道世之介」と同類の本だと思っていたことです。実際は横道誠さんは「横道世之介」とはまったく関係はありません。
  ・・・・・・
 「横道世之介」は吉田修一さんの書いた小説で,2008年から2009年まで毎日新聞に連載され,2013年に映画化されました。
 バブル期の1987年,大学進学のために長崎から上京してきた青年・横道世之介が,お人好しな性格から流されるままにサンバサークルに入り,一目惚れした年上の女性・千春に弟のふりをしてくれと頼まれたり、世間知らずの社長令嬢・祥子に振り回されたり,友人の倉持に金を貸したりといった様々な人々と出会いながら忙しい1年間を過ごす,というものです。
  ・・・・・・
 ですが,私はこれまで小説「横道世之介」を読んだわけでもなく,映画「横道世之介」を見たわけでもありませんでした。今回,偶然,U-NEXTで映画「横道世之介」を見ることができたのですが,横道世之介の品のなさと物語のあまりのくだらなさに嫌気がさして,途中で挫折しました。

 本の紹介に戻ります。
  ・・・・・・
 横道誠さんは1979年生まれで京都府立大学文学部准教授,専門は文学・当事者研究です。
 本来はドイツ文学者ですが,40歳で自閉スペクトラム症と注意欠如・多動症を診断されて以来,発達障害の当事者仲間との交流や自助グループの運営にも力を入れ,その諸経験を当事者批評という新しい学術的・創作的ジャンルに活用しようと模索しています。
  ・・・・・・
だそうです。
  ・・・・・・
 サバティカルリーブを利用して,10年ぶりにウィーンへ研究旅行に行くべく,羽田空港に赴いた著者を待っていたのは出国許可がおりないというまさかの措置でした。
 「ある大学教員の日常と非日常」は,発達障害特性を持つ著者が,コロナ禍,ウクライナ侵攻の最中に,数々の苦難を乗り越え日本を出国し,ウィーンに到着。ウィーンでの研究者たちとの交流,ダボス,ベルリン,アウシュヴィッツへの訪問などの,めくるめく迷宮めぐりの記録です。
  ・・・・・・
というのが,この本の紹介です。

 サバティカルリーブ(sabbatical leave)というのは,大学教員が研究するための休暇のことです。
 欧米では一般的な制度で,一定の年数勤務した大学教員が,本来の職務から離れ,数か月から1年ほど国内外の研究機関で研究活動に従事するというもので,様々な大学で導入されているようです。しかし,実情は,文部科学省の2011年(平成23年)の資料によると,国立大学教員数が62,682人であるのに対して取得者がわずか210人と,およそ0.3パーセントだったそうです。それは,働きすぎの文化と空気の支配のえげつない日本では,制度はあっても運用できていない大学も多いということが原因といわれています。
 サバティカルリーブとは違いますが,私が現役のころに勤めていた組織では,夏休みは6月から9月の間に自由にとれるとあったので,忖度など一切しないし同調意識もない私は,規則通り6月や9月に1週間程度の休みをとって海外旅行をしていたのですが,上司は何やかやと嫌味をいいました。また,ほとんどの人は,周囲の目を気にしてお盆に休んでいました。本当にバカみたいでした。これが日本であり,日本人です。
 私は,人生,仕事に明け暮れて一生をおくるなんてバカげていて,元の仕事に戻れるという保証だけあれば無給でいいから,たとえば10年勤めていたら1年は無理でも1か月程度条件なしの休みが取れる,といったような制度があればいいのに,と思ったことがありました。でないと,多くの人は海外旅行もできず人生が終わります。

 話を戻しまして,この本で,横道誠さんは 「障害があるということは,ふだんから被災しながら生きているようなものだ。著名人の誰かがそのような発言をしたと思うのだが,いま調べてみても誰かわからない。いずれにせよ,僕はこの言葉に大いに首肯できる。僕たちの日常は,災難だらけなのだから,障害者とは日常的な被災者なのだ」と書いています。
 この本は,そんな著者が海外に旅立つときにちょうどコロナ禍が襲ってしまい,さまざまな苦労のあげく,なんとかオーストリアの地に降り立った,というその顛末が語られるという内容です。私がおもしろいと感じたのは,私が世界でもっとも行ってよかったと思う,そして,また行きたいと思う国のひとつであるオーストリアについて,日本とオーストリアのコロナ禍の捉え方の違いというものも含め,詳しく書かれているところでした。
 それ以外のところは,私には期待外れでした。たとえば「羽田空港に赴いた著者を待っていたのは出国許可がおりないというまさかの措置だった」という部分ですが,それは,コロナ禍によるものでは全くなくて,単に,パスポートが期限切れだった,というだけの話で,私は白けました。ただし,日本に帰国するときの手続きやさまざまな日程変更のところは,真実だけに興味深い内容でした。
 報道などには時折出てきたのですが,実際に,コロナ禍のころに海外に行かなければならなかった,あるいは,帰国しなければならなかった,という人の体験談が,もっと語られてもいいと思いますが,噂では聴いていても,なかなか真実が見えません。

 横道誠さんは,この本で「障害者はふだんから迷宮のなかをさまよっているようなもの」と書いていますが,障害者でなくともそれは同じことだし,さらに,平和ボケをしているこの国では,国民の多くが,馬鹿のひとつ覚えで,何の予防効果もないのにいつまでもマスクマスクと騒いでいるだけだし,政府はさらに迷走をし,混乱に拍車をかけている。それはまるで,迷宮というより迷路の中をいつまでも行ったり来たりしているだけというのが,この本で私が感じたことでした。


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 私の「はじまり」は,旅と音楽と星。これだけで十分です。
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と書いた2023年ですが,すでに,2023年もこれまで何度か旅をしました。
 コロナ禍以前は,ほとんど日本国内に興味がなく,出かける価値があるのは,京都と奈良だけだ,と思っていました。たまに別のところに旅をしても,宿泊先の予約やらレンタカーの貸出やらで,海外とシステムが違っていて,戸惑うことのほうが多いくらいでした。すでに何度も書いたように,2020年もすでにいくつかの海外旅行の予約をしていたのに,2月にハワイ・モロカイ島に行ったのを最後に,その後の旅行はすべてキャンセルとなってしまいました。そこで,しばらくは,自分の立ち位置がわからなくなって,一体どうしたものか,と思いめぐらせていましたが,これがいい冷却期間となりました。
 思い返すに,私は,海外で行きたかったところのほぼそのすべての場所に,すでに行っていたので,行くことができなくても,別にどおっていうこともなかったのでした。

 コロナ禍以前,私が日本国内を旅する気がなかったのは,インバウンドとやらで,やたらと多くの外国人が日本に来るようになったことが最大の原因でした。以前,阿蘇山の近郊の温泉を旅したことがありましたが,その温泉に来ていた客のほとんどは外国人で,そのマナーの悪さから,温泉に入る気力をすっかりなくしました。また,大好きだった京都も,秩序というものがまるでなくなってしまい,京都らしさが失われ,行く気が失せました。白川郷に行ったときも,ソフトクリームをなめながら自撮り棒を振りかざす外国人の団体客に失望しました。
 そこに突然襲った新型コロナウィルス。
 海外からの渡航客がまったくいなくなった2020年の春は,これがチャンスだとばかりに毎日のように京都へ出かけ,外国人どころか日本人すらまったく人のいなくなった丸山公園の枝垂れ桜や高台寺の界隈を独り占めしました。また,静寂に包まれた信州の奈良井宿を堪能することもできました。

 こうして,すっかり,静けさの中にこそ日本のよさがあることを知って,また,日本国内での旅の仕方を知ることで,私は新たな楽しみを見つけてしまったのです。結局,この国を旅するには,団体ツアー客が来るような観光地と大きな旅館を避けて,観光客のいないところに行くことなのです。リゾートなんて論外です。そもそも,大自然の中に空中回廊などの人工の建設物を作るなんて,神を,いや,自然を冒涜しています。そのうち,これもまた,朽ち果てて廃墟となることでしょう。
 私がガイドブックを見るのは,そこに載っているレジャー施設を探すことではなくて,ガイドブックに載っているような観光地なのかどうかを調べるためのものであり,載っていないところこそが魅力のある地なのです。また,宿泊する場所も,なるべく無名なところを探し出して,できれば,ほかに宿泊客のいない平日に,温泉を独り占めしゆっくりと日本の料理を堪能するのです。
 そうしたところの地元の小さなお店を訪ねたり,地元の人と会話をしたり,自然の中を歩いたりする。そこに,決して海外旅行では味わえない楽しみが存在するわけです。
 「何もないところ」こそ,日本のよさのすべてがあるのです。

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 やっと,加藤陽子さんの書いた「この国のかたちを見つめ直す」を読むことができました。
 日本学術会議会員の任命問題は,2020年(令和2年)9月,菅義偉内閣総理大臣が,日本学術会議が推薦した会員候補のうちの一部を任命しなかった問題です。このときに任命されなかった学者さんのひとりが加藤陽子さんでした。
 加藤陽子さんは,山川出版社が発行する高等学校教科書「詳説日本史」の執筆者のひとりとして,以前から名前だけは知っていました。また,時折,テレビに出演するのを見たことはありますが,それ以上のことは知りませんでした。それが,奇しくも,日本学術会議会員の任命問題で興味をもったことから,加藤陽子さんの書いた「この国のかたちを見つめ直す」という本を読んでみようと思ったわけだから,皮肉な話です。

 加藤陽子さんは東京大学大学院人文社会系研究科教授で専攻は日本近現代史です。「この国のかたちを見つめ直す」は,毎日新聞に連載されたものを編集したものです。
 奇しくも,「とある事件」によって,実質的な幕を閉じた安倍晋三長期政権でした。その結果,長き間にこの政権が何をしてきたのかが明らかになったわけですが,それは,劣化した日本の政治と政治家,民主主義の基本をないがしろにしその根幹を揺るがし続けた政権だった,ということです。
 安倍晋三政権は,こうした現実を報道しようとする側を罵倒することで委縮させ,任命権をちらつかせることで官僚を手玉にとることで忖度が横行し,国民を無知にしておいて,好き勝手にやりたい放題だったのですが,この著者は真摯な目で見つめ,そのことをわかりやすく語ってしまうわけだから,そりゃ,政治家の厄介者となってしまったのでしょう。
 しかしまあ,日本学術会議会員の任命問題は,無知な国民の眠りを覚まし,政治家の本当の意図が明らかにされたのだから,それだけでも,菅義偉内閣総理大臣は失敗したということです。

 この本の中で何度も語られているのは,記録を残さない政府,ということですが,このことは,この国は反省をしない,総括をしないということにつながります。それは,反省をすれば,責任が問われるからです。さらに悪質なのは,資料を破棄し,なかったことにしてしまったことです。それが,何事も何か事件が起きれば公聴会を開いてそのすべてと責任者を明らかにするというアメリカの民主主義とは真逆な世界です。つまり,日本の民主主義といわれるものは,あくまで借りものであり,その本質は国民主権ではなく,いつまでも,江戸時代の殿様国家だということです。それは,そもそも,日本人自体が日本人を知らない,ということがその根本だろうと私は思っています。そしてまた,都合の悪い過去は捨ててしまうというのは,政治家こそ,この国を誇りに思っていないということの裏返しでしょう。
 本の題名は,司馬遼太郎さんの書いた「この国のかたち」に基づいています。「この国のかたち」は,司馬遼太郎さんさんが「日本とはどういう国なのか」と23歳の自分自身に手紙を書くようなエッセイです。はるか昔,私はこの本を読んだことがあります。
  ・・・・・・
 召集されて軍隊を経験した23歳だった司馬遼太郎さんは,戦争に負け終戦の放送を聴いたあと「なんとおろかな国に生れたことか」と思ったのだそうです。そして「なぜ近代日本はあのような愚かな戦争をしたのか、それを解明したい」「昔はそうではなかったのではないか」ということが動機で,鎌倉・室町期や江戸・明治期のころのことを小説に書いてきました。そして,昭和の軍人たちが国家そのものを賭けにしたようなことは昔にはなかった,と確信するにいたるのです。
  ・・・・・・

 「この国のかたちを見つめ直す」を読んで感じたのは,学者さんは,仕事とはいえタフだなあということです。学問を軽視するこの国では,どんなに正論を吐こうが研究に裏付けられた施策を提言しようが,まったく無力であり,「政治家の思惑」だけでことを進めるているだけだから,そんなことをいくらしようと意味がないと私など白けているのですが,それに対して,学者さんは学問は無力ではないという信念をもち続けているからです。
 それにしても,結局のところ,このごろ起きた「とある事件」によって,「政治家の思惑」というのは,確かな信念や学識などに裏づけられていたものではなくて,単に,支持母体のひとつである某宗教団体が意図している思想の受け売りに過ぎなかったということが明白になってしまったのです。そして,単に,地盤を受け継いだ,体制に寄り掛かることが得策だと思っている世襲議員は,いかなる手段を講じようと当選さえすればいいと考えていただけだった,ということが明らかになって,このごろは,私をさらに白けらせています。
 この本が書かれたのが,とある「事件」をきっかけとした,そうした宗教団体の問題が起きる以前であったことが惜しまれます。

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 このところ,星見にあわただしく過ごしています。とはいえ,何事もさら~っと片づけたいと思っている私は,惑星や月がきれいならばすぐにカメラと三脚を持ち出して写真を写し,彗星が明るければ近くの暗いところに出かけて望遠鏡を組み立てて写真を撮ってくる,といったことを短時間ですまそうと考えているのです。それは,星見に限らず,旅行でも同じです。行きたいと思ったら躊躇せずサッと出かける。わざわざ,ということをしたくないのです。

 このところ明るくなったZTF彗星(C/2022E3)ですが,そろそろ月が明るくなって,彗星も全盛期を過ぎていくので,これが最後と,2023年2月1日の早朝,写真を撮りにいきました。もう月の影響が強く,沈むのが午前4時過ぎになってしまったので,その後の30分程度が勝負でした。
 遠出をしたくなくなったこの時期に出かけている近くの場所は,着いてみたらめずらしく先客がいたので,少し場所を変えることにしました。寒空の下,私以外にモノ好きがいるのだなあと感心しました。星見というのは複雑な楽しみで,人と交わりたくないのです。私は釣りをしませんが,釣りの場合はどうなのでしょう?
 望遠鏡を組み立てたときは,3番目の写真のように,まだ,西の空に月が幻想的に輝いていたので,沈むのを待つことにしました。月の光が川に反射してとてもきれいでした。この日はおそらく彗星が最も明るくなるころなのですが,調べてみて驚きました。前回写したのがわずか数日前だったのに,位置がずいぶんと変わっていて,つまり,彗星が動いていて,きりん座にいたからです。きりん座という地味な星座には明るい星がありません。前回はこぐま座にいたので,明るい星を手掛かりに簡単に見つけることができたのですが,これには困ったな,と思いました。私は,お金をまったくかけないので,というか,余分なものを一切もたないので,自動導入装置などはありません。
 しかし,案ずるより産むがやすし,というか,彗星が明るかったので,双眼鏡を使うと簡単に見つかりました。そこで,頭の中に双眼鏡で見た北極星から彗星までの星の並びを覚えて,それを手掛かりに望遠鏡のファインダーで彗星を導入しました。今回は30秒露出を30回行って,家に帰ってからコンピュータでメトカーフコンポジットしました。それが今日の1番目の写真です。

 せっかくなので,もうひとつ別の彗星を写すことにしました。それがパンスターズ彗星(C/2022 A2)です。この彗星もすでに前々回に写したのですが,今回は複数枚写してコンポジットすることにしました。こちらもまた,位置を調べてみて驚きました。前々回よりずっと高度が下がり,しかも,街明かりのある東の空に埋もれていました。なんとか位置を決めて写したのですが,カメラのプレビューを確認しても,確かにその位置に彗星があるはずなのに,一見,彗星状の天体が写っていません。よくよく探すと,実は思ったよりずっと小さいのでした。何とか確認して数枚写しました。それが今日の2番目の写真です。
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 パンスターズ彗星(C/2022 A2)は2022年1月10日に20.5等星で発見された彗星です。名前のとおり,ハワイ・マウイ島ハレアカラ(Haleakala)にあるハワイ大学の1.8メートルPan-STARRS2 望遠鏡を使用するパンスターズ・プロジェクトの大規模の天体捜査網で得た画像から発見されたものです。
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 ところで,以前書いたことがありますが,「かわたれどき」(彼は誰時)ということばがあります。人の見わけがつかないから「彼は誰」時なのですが,はっきりものの見わけのつかない薄暗い時刻のことを意味することばで,万葉集の時代からあります。一方,2016年の映画「君の名は。」で「かたわれどき」ということばが生まれました。それ以来,「かたわれどき」は夕暮れどきや夕方のことを指し,「かわたれどき」は明け方や朝方を指しているとされるようになりました。
 「かわたれどき」と「かたわれどき」。私は,何にも増して,このころの空の美しさが最高だと思っていますが,特に,その空に,水星や金星,さらに,薄い月が輝いていればもっときれいです。
 1月31日の「かわたれどき」には西方最大離角を終えたばかりの水星が高い高度で輝いていたので,これを朝6時前に写したのが今日の6番目の写真です。また,この日の「かたわれどき」のころから輝いていたのが月と火星でしたが,さらに少し時間が遅くなって空が暗くなると,そのバックにあるヒヤデス星団とプレアデス星団がかろうじて見えるようになりました。しかし,なにせ月が明るすぎるので,これをはっきり写すことができないのです。それは,露出をかけると月がどんどんと大きくなってしまい,その影響で空全体が明るく星が消えてしまうし,露出少ないと月の表面の模様ははっきり写りますが,今度は星が写りません。人の目には月の表面の模様も星団も両方見えるのが私には不思議です。そんな中,なんとか露出の塩梅を見つけて写したのが今日の7番目の写真です。
 まだまだ寒い毎日ですが,晴れていれば,このように,夜空にはこんなにたくさんのときめきがあるのです。

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 現在,第72期王将戦が行われています。「最高峰の戦いである世紀の王将戦」と銘打って,藤井聡太王将に羽生善治九段が挑戦するという願ってもない組み合わせに盛り上がっています。
 もともと王将戦は将棋名人戦が毎日新聞から朝日新聞に移ったことで,連載する棋戦のなくなってしまった毎日新聞が新たに作った棋戦で,話題作りのために指し込み制度を導入しました。その制度のおかげで,升田幸三実力制第4代名人が木村義雄十四世名人や大山康晴十五世名人を香落ちに指し込んだり,さらには,対局拒否という陣屋事件が起きたりといった様々な出来事がありました。
 近年では,再び将棋名人戦が朝日新聞から毎日新聞に移ったことで,行き場を失った王将戦はスポーツニッポン社の主催となり,その結果,そのころは中継のなかった将棋の棋戦が唯一囲碁将棋チャンネルで放送されたり,また,「勝者の罰ゲーム」ができたりと,将棋の棋戦というより娯楽の面が強くなりました。
 しかし,このごろは,ABEMAでほぼすべての将棋の棋戦を中継するようになったので,逆に,王将戦だけが見られない,ということになってしまって,あまり将棋に興味のなかった人が,なぜ王将戦だけ無料で見られないのか,と苦言を呈するようになりました。「大人の事情」というのは複雑です。

 今期は,もう無理だと思っていた藤井聡太王将と羽生善治九段の対決が実現したわけですが,これは,羽生善治九段にとって悲願だったに違いありません。それは,羽生善治九段の通算100期のタイトル獲得の可能性,というより,将棋ファンのだれしもが望んでいた対戦がかなえられたということだからです。
 おそらく,一世を風靡した羽生善治九段は,自分のことより,そうしたファンの夢をなんとか実現させたいという,そうした意思が強かったと思われます。藤井聡太王将に対しては,よき後継者を得たと思っていることでしょう。藤井聡太ブームは,羽生善治という絶対王者が重しとなっていたからこそ誕生したのでもあります。
 しかし,今期の王将戦の結果を予想すると,これまでの対戦成績や藤井聡太王将の実績からみて,羽生善治九段が一方的に破れる,という可能性が強く,それでは盛り上がりません。そこで,羽生善治九段が第2局を全身全霊で戦い,ぎりぎりの終盤戦を乗り越えて勝利したとき,なんとか肩の荷が下りた,という安堵の表情を見て取ったのは私だけでしょうか。第2局の▲8二金という手をみて,羽生善治九段の強い想いを感じて,感動しました。いいものを見ました。

 今回私が取り上げたいのは,そんな将棋界に関連して,このごろ何かと話題の「ChatGPT」です。
 「ChatGPT」(Generative Pre-trained Transformer)というのは,OpenAIが2022年11月に公開した人工無脳(chatbot)です。人工無脳とは,ユーザーがキーボード等を通じてコンピュータに語りかけると,何らかの返答が表示されるというものです。
 人工知能に人格や知性といった人間らしさを付与しようとする研究は,人間の脳の働きをコンピュータプログラムに置き換えて成長させ,コンピュータにコミュニケーション能力を獲得させようとする試みなのですが,実際は,自我や知性を持つ人工知能を構築することは容易ではありません。
 そこで,コンピュータにことばの意味を理解させるのではなく,自然な応答を事前に学習,蓄積させておくことで,ユーザーが期待した解答を得ることができるようにしようとしたわけです。その結果,ユーザーは,それがコンピュータがあたかも知性をもっているかのような錯覚を起こすわけです。であっても,自分のことばで語らず,役人が事前に作った文章をただ丸読みしているだけの大臣の国会答弁などは,この人工無能よりはるかに劣るものといえるでしょう。その意味では,コンピュータの人工無能のほうがずっと賢いともいえます。
 その「ChatGPT」で,「戦争と平和」のあらすじと藤井聡太竜王がどうして強いのかを聞いてみたので,その結果を載せておくことにします。

 さて,現在の将棋界では,将棋AIが猛威をふるっていて,それに対応できないベテランは若手に手玉に取られています。とはいえ,将棋AIの指し手を暗記したところで勝てるわけでもないわけだから,将棋AIとどうかかわるかが問われているわけです。将棋AIをいち早く取り入れることに成功した藤井聡太竜王は,将棋AIの定跡を覚えるのではなく,自分の形勢判断とAIによる形勢判断の違いを念入りに研究しているようです。
 「ChatGPT」を使うと,小中学校の宿題など,すべてやってくれちゃうので,ニューヨークの学校では使用を禁止する対策が取られはじめたと聞きます。また,それと同時に,今後,もっと進化するであろう「ChatGPT」を有効に教育に利用しようと考える先進的な教師も少なくないそうです。
 私には,それが,将棋AIと将棋の棋士の関係に似ているように思います。はたして,今後,若者の教育は「ChatGPT」とどうかかわっていくべきだろうか? もう,大学入試だとか偏差値だとか評価だとか,そんなことをぐちゃぐちゃやっている時代ではないように,私は考えます。そんな古臭いことをいつまでもやっているのだから,この国は劣化してしまうのです。教育界に藤井聡太竜王はいないのです。今,教育の在り方の根本が問われているのです。

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 私の「はじまり」は,旅と音楽と星。これだけで十分です。
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と書いた2023年も,早いものですでに1か月が過ぎました。年末からの引っ越しであわただしかったのですが,やっと落ち着いて毎日をすごすことができるようになりました。その結果,ずいぶんと時間ができたので,このごろは家にいるときは,ずっとクラシック音楽を聴いています。

 2020年の春からはじまった新型コロナウィルス騒動。そのおかげで,海外旅行に行くことができなくなり,多くのコンサートも中止になったり,プログラムが変更になりました。NHK交響楽団の定期公演も,2020年の4月から6月までは中止となり,チケット代金が戻ってきました。そして,2020年9月から2021年6月までは定期公演としてのコンサートは行われず,発表されていたプログラムの多くが変更された演奏会が実施されました。そして,やっと定期公演が復活したのが2021年9月でした。その間もNHKFMによるライブ中継は行われ,いつものように私はそれらをすべて録音したのですが,あまり聴く気も起らず,多くはそのままとなっていました。
 この時期の演奏会の指揮者やソリストは,海外からの招聘が困難になったので,その多くは,普段は海外を拠点に活躍していた日本人ソリストや指揮者が帰国していたので,そうした人たちと,新進気鋭の若手を抜擢したものでした。また,曲目も,大規模なものは取りやめとなって,これまであまり聴くことがなかった小規模なものがほとんどでした。
 私がこのところ聴いているのは,やっとそれらを聴く気になったそのころの録音です。今聴いてみると,いろいろな発見がありました。
 この時期の演奏会は,抜擢された若手の演奏家にとっては千載一遇のチャンスだったことでしょう。こうした場を有効に生かすことも大切なのです。実際,このときに認められ,現在も活躍している人が少なくありません。また,普段は聴く機会がない名だたる多くの有名なソリストの演奏をたくさん聴くことができました。
 ただし,この時期は,コンサートを行う,ということだけでも大変だったので,必ずしもできのよいものばかりでもありませんでした。

 音楽に限らず,こうした時代の荒波をどう乗り切るかということは,第2次世界大戦直後の日本でどのように生き延びたか,ということと共通するものがあったように思います。現在大きな会社となっているその多くは,この時期に誕生したものです。つまり,こうした非常時こそ,その人の実力があからさまになるわけです。
 そのことは,さまざまな国が,どのようにしてこの荒波を乗り越えてきたかということとも通じます。はたして,この国はどうだったのでしょうか。やがて,この時代も歴史となったとき,その答えが出るのでしょう。
 …などということをぼんやり考えながら,私は,苦悩にあえぎながらも音楽を奏でた芸術家に敬意を表しながら,そのころの演奏会の録音を楽しむこのごろです。

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