しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

March 2023

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佐渡島3泊4日の旅。私がははじめの2泊で選んだのが「桃華園」という民宿でした。最後の1泊を別にしたのは,ある思惑があったからですが,そのことはいずれまた。
旅といっても,私の場合,つねに自由気ままなひとり旅なので,海外も日本国内もさして変わることはなく,まず,往復の交通機関を決め予約し,次に,現地での移動手段を決め,それがレンタカーであれば予約をし,そして,宿泊先を探し出して予約する,というだけのことです。大概はこれで終わりで,後は出たとこ勝負ですが,時にはさらに現地ツアーを探すこともあります。また,宿泊先は現地に着いてから探すときもあって,以前はほとんどそうしていたのですが,現在はネットで簡単に予約ができ,しかも,キャンセルも簡単にできるので,とりあえず,まず,適当なところを確保してしまうことにしています。
今回は,はじめに,県営名古屋空港から新潟空港までのFDAを予約しました。これは,早ければ早いだけ安価です。もし,FDAが就航していなければ,新潟までは東海道新幹線,上越新幹線と乗り継ぐことになるわけで,それではあまりに値段が高く時間もかかるので,そのときは,おそらく佐渡島には行っていなかったと思います。とにかく,いつもFDA様様です。新潟空港から佐渡島までは,これまでにも書いたように,なんとかなるだろうと,無計画でした。次に,佐渡島での移動手段は,もちろん,レンタカーにしたのですが,多くの他のところとは違い,レンタカー会社が限られていたので,その中で,もっともメジャーだと私が思ったタイムズレンタカーにしました。そして,最後に宿泊先を探していったわけですが,日本国内の旅行の場合,私が最も重視するのは,なるべく小さな宿で,ほかに宿泊者がいそうにないところ,そして,夕食と朝食がついていて,理想をいえば温泉であること,です。そのような条件とクチコミなどで見つけ出したのが,この「桃華園」でした。温泉ではありませんでしたが,大きなお風呂がありました。また,場所は特にこだわりませんでした。というより,佐渡島がどうなっているか,皆目見当がつかなかったから,まあ,どこでもいいや,という感じでした。私がこの民宿を選んだ決定打は,この民宿の女将がトキを見ることができる場所を教えてくれる,という口コミを読んだことでした。

ともあれ,私は,カーナビを頼りに民宿に行きました。場所は金北山の登山口にあって,かなりの山の中だったので,これもまた,私には理想的でした。近くにはコンビニの1軒もありません。こういうのがいいのです。午後5時到着という予定だったのですが,ちょうどそのころに到着しました。
大きな民家で,離れに宿泊棟があって,1階に2部屋,2階にも2部屋ありました。私が宿泊した1階の6畳和室の部屋にはバストイレがついていましたが,風呂は,別棟の大きなものを利用しました。食事は母屋で食べます。思った通り,オフシーズンで,宿泊は私だけでした。
夕食は午後7時にしてもらって,一度また外に出ました。
トキがねぐらに帰るのが日が沈むころだとトキの森公園で聞いていたので,もう一度トキのテラスへ行って,運がよければトキが見れらるかも,と思ったからです。しかし,トキのテラスで30分以上を眺めていても,鳥1羽飛んできませんでした。どうやらトキのテラスは飛んでいるトキを見るにはあまり条件のよくない場所だったようです。ただし,美しい夕日を見ることができました。
あきらめて民宿に帰って,いよいよ夕食です。
この家には5歳と2歳のかわいい男の子がいて,食事の前に,歓迎太鼓を披露してくれました。それがまあ上手だったこと。生まれたときからそれを聞いて育って,体が覚えているようでした。その後,地酒「金鶴純米活性にごり酒」を冷で2杯飲んで,おいしい食事をいただきました。普段お酒を飲まない私ですが,この地酒は気に入りました。
夜,お風呂から戻るとき,空に満天の星が見えました。私は,星を見に来たわけではなかったのですが,三脚は持ってきたので,星の写真を撮りました。この時期の天の川は薄くしか見えません。

そういえは,松尾芭蕉に次の句があります。
  ・・・・・・
  荒海や佐渡によこたふ天の河
  ・・・・・・
この句は,夜の日本海に浮かぶ佐渡島の黒々とした島影とうねる日本海の荒波のふたつの対比的な事象を超越するかのように天空をまたいで天の川が横たわっている姿を詠んだという「奥の細道」を代表する句のひとつです。
この句を詠んだとされるのは七夕も近い旧暦の7月4日,新暦の8月18日でしたが,記録によると,新潟を発つときは快晴だったものの,夕刻に出雲崎に着いたあと,夜中には強い雨が降っていたというので,松尾芭蕉が実際に見たものを詠んだのかどうかは意見がわかれるのだそうです。
そもそも,天の川があざやかに見えるのは南の空だから,新潟から日本海を隔てた佐渡島を見るのとは反対の方角です。そこで,この句のイメージどおりの写真を写そうとなれば,佐渡からずっと北に船で行って,島影の上に天の川がある写真を写す必要があるわけです。私は,佐渡島にいるのだから,当然,そんな写真も写せません。で,ちょっとしゃくなんで,以前,木曽駒高原で写した夏の天の川の写真を最後に載せておきます。

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☆☆☆ 木曽4


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私は空を飛ぶトキが見たくて佐渡島に行きましたが,情報は何もありませんでした。
観光用の施設として動物園のようなものがあって,ケージ越しに飼育されているトキを見ることができるのだろう,と思っていただけでした。また,飛ぶトキを見るには,広い佐渡島中を探し回って,運がよければ飛んでいる姿や田んぼでエサをさがしている姿が目撃できるのでは,という淡い期待を描いていたのですが,どこで見ることができるかは知りませんでした。ただ,私が1泊目と2泊目に宿泊を決めた民宿の口コミに,この民宿の女将がどこに行けばトキが見られるかを教えてくれる,書いてあったので,それに惹かれて予約をしただけでした。
これから書くことは,私が佐渡島に行ってから知ったことです。

佐渡島にあった観光用の施設はトキの森公園でした。私がはじめに行ったのはこの施設でした。
トキの森公園は佐渡市が管理・運営していて,園内には資料展示室とトキふれあいプラザがあります。トキの森公園に隣接して環境省が設置し新潟県が管理・運営しているのが,トキの保護と増殖を目的とするトキ保護センターですが,これは非公開です。また,少し山の中に入ったところに,放鳥をする前の訓練をする野生復帰ステーションがあって,これもまた非公開です。
  ・・
トキの森公園の資料展示館には,トキの様々な資料や説明があったり,トキのはく製を見ることができます。また,資料展示室から通路を通っていくと,隣接する非公開のトキ保護センターで飼育されているトキを遠くから見ることができる観察回廊があります。資料展示室を出て,少し歩いたところにあるトキふれあいプラザという別棟にも2羽のつがいのトキがいて,ガラス越しにトキを見ることができます。
まず,私は,資料展示室でトキに関する知識を手に入れることにしたのですが,ここの係の人がとても親切で,手作りの地図をくれて,トキがどのあたりを飛んでいるかを教えてくれました。次に,通路を通って観察回廊へ行って,トキ保護センターで飼育されているトキを見にいったのですが,正直いって,これはがっかりしました。遠くのケージ越しにトキが見えるだけだったのです。写真を写しても金網が邪魔をして,大した写真を写すこともできませんでした。私の後に,数人の見学者が来たのですが,すぐに退散していきました。これなら,以前行ったいしかわ動物園のほうが目の前で見ることができたから,ずっとマシだなったなあと思いました。
  ・・・・・・
金沢市にあるいしかわ動物園には2016年11月にオープンしたトキ里山館という立派な建物があって,エサをついばむトキを間近に観察したり,棚田風の湿地や樹木など,里山を再現した環境の中でトキが暮らす姿をガラス越しに観察することができます。また,トキの展示場に隣接する学習展示コーナーでは,トキの嘴や足などを他の鳥と比べたり,本物の羽を触ったりしながらトキのことを学ぶことができます。
  ・・・・・・
次に行ったのはトキふれあいプラザでした。ここにはつがいのトキがいて,1羽はかなり近くで見ることができましたが,木に止まっているだけでした。もう1羽は木の上の巣にいて巣の中には卵があって,交代で巣をあたためているということでした。
この建物にいた係の人もとても親切で,というか,本当にトキが好き,という感じの人で,私が「飛んでいるトキが見たいので佐渡島に来た」と話したら「4日いるのなら必ず見ることができるよ」と言って,どこに行けばいいかを教えてくれました。これには勇気づけられました。

トキ保護増殖事業計画に基づいて,鳥インフルエンザ等の感染症による絶滅の危機の回避を主たる目的として,トキは分散飼育がされています。現在,こうした施設で飼育されているトキは,佐渡島では,トキ保護センターに36羽,トキふれあいプラザに2羽,野生復帰ステーションに93羽,また,新潟県外では,東京の多摩動物園,金沢市のいしかわ動物園にそれぞれ10羽,出雲市と長岡市のトキ分散飼育センターにそれぞれ11羽と13羽いますが。この中で,佐渡島以外に,一般にトキを見ることができるのは,いしかわ動物園だけです。
また,2008年に10羽の放鳥からはじまったトキは,野性下で着実に増え,現在は500羽を越えるトキが佐渡島で生息しています。ただし,佐渡島以外の場所でもトキを放鳥するという計画があるのですが,新潟県内ではそれがなかなかうまくいっていません。長岡市や柏崎市,出雲崎町,刈羽村,弥彦村が候補になったものの,農家が反発し断念しました。それは,イネが踏み荒らされたり,餌となる虫などを育むために,農薬,化学肥料の使用が制限されたりする「負担増」を懸念するなど反対があったからといいます。また,新潟県外では,能登半島や出雲市などが候補地にあがっていて,2035年くらいまでには定着させたいという意向が環境庁にあるそうです。

トキの森を出て,先ほど教えてもらったように,次に行ったのが山の中のトキのテラスという展望塔でした。ここにもトキに関する資料の展示室があり,また,屋上には展望台があって町が一望でき,トキが飛んでくれば見ることできるということだったのですが,まったくその気配はありませんでした。また,トキのテラスの眼下には非公開の野生復帰ステーションの大きなケージが見られたのですが,あまりに遠くて,トキは点にしか見えず,これもまた失望しました。
早々に山を下りて,最後に,新潟大学やNPOなどの団体が運営するトキ交流会館に行きました。ここにもトキが飛んでくるということで,玄関付近はトキの観察ができるようになっていたし,いつトキが見られるかというトキ時刻表も掲示してあったのですが,トキは音沙汰もありませんでした。
一旦,あきらめて,今日宿泊する民宿へ行くことにしました。
民宿へ向かう途中,走っている車から,田んぼのあぜ道でエサを探す野性下のトキがいるのを発見しました。ちょっと感動しましたが,写真を撮ることはできませんでした。さらに走って行くと,その途中で,飛ぶトキを,ついに目撃しました。これにはかなり感動しました。念願だった飛ぶトキを見たのです! ただし,写真を撮ることはできませんでした。
ともかく,トキは確実に佐渡の自然の中にいて,運がよければ見ることができるということが確信できました。
さあ,あとは写真を撮ることさえできれば…。

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◇◇◇
桜満開。

名古屋は桜が満開です。
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「Befcoばかうけ展望室」を出てもまだずいぶんと時間があったので,朱鷺メッセの2階にあったカフェで少し時間をつぶしました。その後,新潟港のターミナルに行って,昼食をとることにして,「佐渡の手前」という名前の食堂に入りました。佐渡うどんというものを注文したのですが,これは佐渡海藻アカモク(通称ナガモ)を練り込んだうどんということで,もとからある佐渡名物だと思ったのですが,実際は,東京にある日本食の「僖成」(きなり)という店が新潟に進出するために新しい名物として作ったうどんということでした。

やがて,ジェットホイルの乗船時間になったので乗り込みました。座席は窓際で,3割から4割程度の乗船率でした。 
時速65キロメートルくらいでジェットホイルは順調に進み,やがて,佐渡島が見えてきました。遠くに雪をかぶった金北山が見えてきて,ほどなくして両津港に到着しました。両側に多くの土産物店が並んでいるターミナルの通路を通り,道路を越えたところの集落に私が借りるタイムズレンタカーの小さな店舗がありました。佐渡島には大きなレンタカーの店舗はなく,どこもそんな感じでした。
車を借りていよいよ出発です。
とにかく私はトキが見たいというのが第一なので,まずは,トキの森公園に向かいました。私が懸念していたのは,ずっと飛んでいるトキを見ることができずに,滞在する4日の間,それだけを探して他に何もせず旅が終わるのではないか,ということでした。
両津港の付近にアーケード街があったのですが,ほとんどの店舗は閉じられていて,シャッター街でした。第一印象はさびれた島だな,ということでした。聞くところによると,佐渡島は高齢化が進んでいて先行き不安ということでした。しかし,というか,だから,というか,佐渡島は人も車も少ないからどの道も走りやすく,旅行者の人混み嫌いな私としては,なかなかいい感じでした。

カーナビに従って走っていくと,トキの森公園に着きました。
トキが飼育されている場所はもっと人里離れたところなのかと想像していたのですが,集落の近くであるのに驚きました。
駐車場にはほかに車はなく,どうやら来ていたのは私くらいでした。入場料を払って,まず,資料展示館の建物の中に入ると,出迎えてくれたのが,日本産トキ最後の1羽だった「キン」のはく製でした。
ちょっと泣けてきました。
  ・・・・・・
「キン」はメスであることから当初は「トキ子」とよばれていました。
幼鳥だった「トキ子」は真野町でさまよっていたところを宇治金太郎さんにより助けられ,餌付けされていました。トキは非常に警戒心が強くストレスに弱い生物ですが「トキ子」は宇治金太郎さんだけには懐いていました。
1968年3月,環境行政の方針によって,「トキ子」の捕獲が試みられました。しかし、無双網で捕えようと近づいてくる捕獲班を「トキ子」は警戒し逃げてしまいます。捕獲班は真野町に「トキ子」を捕獲するよう指示して引き揚げて行きました。困った真野町は,宇治金太郎さんに「トキ子」の保護を依頼します。宇治金太郎さんも,保護しなければ「トキ子」が生きていけない事を理解していましたが,「俺の事を信頼している「トキ子」を捕まえる事は出来ない」と決心がつきませんでした。
しかし,季節が天敵の鷹やカラス,野犬などが動き出す冬から春に向かい,このまま保護しなければ「トキ子」は夏まで生きてはいられないことが決定的になりました。ある日,「トキ子」がいつも現れる餌場姿を見せなくなりました。ようやく見つけたのは,7キロメートルも離れた場所でした。悩んだ末,宇治金太郎さんはついに「トキ子」の捕獲を決断しました。
いつものように「トキ子」は宇治金太郎さんの元に降り立ち餌をもらった後,宇治金太郎さんに寄り添うように座りました。宇治金太郎さんは「トキ子」を優しく抱きかかえるように捕獲しました。「トキ子」は騒いだり抵抗したりせず,じっと動かないまま,ただ小さな声で「クヮー」っと鳴いたそうです。宇治金太郎さんの目からは大粒の涙がこぼれ落ちていました。
トキ保護センターに移送された「トキ子」は,宇治金太郎さんの名前から1字もらい「キン」と名づけられました。その後,1981年に生存していたすべてのトキが捕獲され「キン」とのペアリングも試みられましたが,「キン」が卵を産むことはありませんでした。
やがて,ただ1羽残された日本産最後のトキとなった「キン」は2003年10月10日の朝,ケージ内で死亡しているのが見つかりました。推定36歳,鳥類としても異例の長寿でした。「キン」が長生きしたゆえに,トキ保護センターが存続し,1999年に中国から譲り受けたつがいのトキから子が生まれ,今日につながったのです。
  ・・・・・・

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  NHKBSP「ワールド・トラックロード 〜俺の助手席に乗らないか〜」,1回目のアメリカ編に続いて2回目はオーストラリア編でした。この番組は
  ・・・・・・
 世界のトラック野郎が見る景色を「主観」で楽しむ新感覚ロードドキュメンタリー。
 運送の仕事を擬似体験しながら,高さ2.5メートルの車窓に広がる壮大な景色を堪能する。
  ・・・・・・
と番組の紹介にあるのですが,オーストラリア編が放送されたのは2023年1月2日で,見逃してしまったので,再放送がいつあるのか,ずっと探していました。それが3月24日に放送されたので,録画して,佐渡島から帰ってから見ました。
  ・・・・・・
 今回の舞台はオーストラリア。
 ▼赤土の大地を横断する長距離トラックの助手席から見えた絶景とは?
 ▼6日間・4,300キロメートルの大陸横断の仕事に密着! ガイドブックにはないオーストラリアの素顔とは?
 ▼カンガルーやコアラに注意! 標識にびっくり!
 ▼荒涼とした大地「アウトバック」を疾走!
 ▼オーストラリアで一番長い約150キロメートル直線の道
  ・・・・・・
というのが,番組のテーマとなっていました。

 アメリカもそうですが,私はオーストラリアもかなりの距離を走ったことがあります。私が走ったのはニューサウスウェールズ州とクインズランド州,そして,ノーザンテリトリー州のウルル・カタジュタ国立公園あたりです。そのなかでも,ニューサウスウェールズ州とクインズランド州は砂漠の中を深夜6時間以上走った経験があります。
 番組にもあったように,オーストラリアを走るときは動物の飛び出し注意で,特にカンガルーは車と並走して走っていたり,道路にはよく死骸があります。
 しかし,それ以外は,ほとんど車も走っていないし,のどかな大平原を走りやすい道がずっと続いているので,とても楽に走ることができます。シドニーやブリスベンなどの大都会に一部高速道路があるだけで,片側1車線の道路です。
 そこで,アメリカとはまったく違っていて,変化も何もなく,かなり単調であり,刺激もありません。時折小さな町があるだけで,それ以外のところは街灯もないし,赤茶けた大地が広がっているだけです。地形も,アメリカのように変化に富んでいるわけでもありません。

 オーストラリアでは,トレイントラックといって,鉄道のように何両も接続した大型トラックが走っています。そんな国ですが,私が最も印象に残っているのは,ウルル・カタジュタ国立公園のガソリンスタンドに石油を運んできたタンクローリー車の運転手さんと話をしたときのことです。日本ではありえないものすごく長いタンクローリーを接続して,オーストラリア大陸を横断していると言っていました。とにかく,町を出ると,永遠に続くとさえ思える大地に道路だけが続いていて,ちょっと想像を超えています。自家用車ならともかく,こんな大型車が故障でもしたらどうするのだろう,と思ってしまいました。
 オーストラリアでは5時間も6時間もかけて隣町に行くのは普通のことというのですが,日本に住んでいる人に想像がつかないことでしょう。アメリカは大陸横断をしてもおもしろくロマンチックでもあるのですが,オーストラリアにはそんなときめきも感じません。
 私は,オーストラリア大陸を車で横断するような夢も勇気はもち合わせていません。であるのに,奇しくも,深夜の6時間,オーストラリア大陸を走り続けたことがあります。時に運転を休憩して外に出て空を眺めたときのろうそくの光ひとつない暗闇に輝く満天の星は地球上とは思えないすばらしさで,これだけは,オーストラリアでなければ味わえない感動でした。
 しかし,それまでは夜の光なんて星が見えなくなるだけだと毛嫌いしていたのに,遠くに町の明かりが見えたときのホッとした気持ちも,今は,強烈にこころに残っています。
 それやこれやで,懐かしい気持ちにさせられた番組でした。

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私が旅に出た2023年3月22日はとてもいい天気でした。
県営名古屋空港から新潟空港まではわずか45分なので,新幹線で京都へ行くよりもずっと早いのです。離陸体制が終われば着陸態勢,という感じです。
定刻の午前8時5分に離陸した飛行機の窓からは,眼下に雪をかぶった御嶽山,その遠くに富士山がきれいに見えました。そして,しばらくすると立山連峰が美しく見え,すると,まもなく着陸となりました。
話は前後しますが,今回は3泊4日だったこととカメラの三脚を持っていたので,キャリーバックを持っていきました。搭乗するときにキャリーバッグの重さを測って,機内持ち込みは許さん,とか,余分に料金を取る,とか,そういった格安航空会社もあるのですが,FDAはそうした類の嫌がらせ? はまったくなく,おそらくは機内持ち込みもできたのでしょうが,今回は自主的に預けることにしました。とはいえ,乗客がそれほど多いわけでもないので,新潟空港で預けたカバンはすぐに出てきました。
駅も空港も旅客機も,このくらいの規模が旅行をするにはもっとも快適なのです。

午前9時前に到着した新潟空港は,とてもきれいで,大きさの割に人が少なく,気持ちのよいところでした。新しそうだったのですが,調べてみるとリニューアルしたのが1996年でした。1998年には多くの国際線が就航していたようですが,現在は取りやめ,あるいは運休中ということで,国際線はまったくなく,どおりで閑散としていたわけです。
さて,ここからです。私が行く佐渡島は新潟港から船なので,新潟空港から新潟港まで行くことになるのですが,キャリーバッグを持つ身では,さすがに歩くとか公共交通に乗るとかいう気にはなりませんでした。ということで,タクシーに乗ることにしました。
客待ちをしていたタクシーは個人タクシーで,気さくな運転手さんはいろいろな話をしてくれました。新潟空港から新潟港までは約3,000円でした。もし,公共交通機関を使おうとしても,新潟空港から新潟港までのシャトルバスは1日3便ほどしかなく,路線バスもまた,便が少なく,多くの人は,まず,新潟駅に行って,そこから新潟港に向かうという話でした。
約30分くらいで新潟港に着きました。
新潟港からの船は佐渡島の両津というところに着くのですが,船にはフェリーとジェットホイルという高速船があって,値段が倍くらい違いますが,時間は,フェリーが2時間30分,ジェットホイルは1時間7分というように,やはり2倍以上違います。新潟空港から私は,ジェットホイルにしたのですが,出航時間は,何と午前11時30分でした。なお,フェリーだと出航時間は午前9時25分が出たばかりでこれに乗ることは不可能で,次が12時35分というように,県営名古屋空港を朝1番の飛行機に乗ってもずいぶんと接続が悪いのででした。
つまり,私のように,タクシーとジェットホイルを使うと,待ち時間を含めずに,新潟空港から佐渡島の両津港まで1時間30分ほどかかり,そして,料金が1万円以上と,県営名古屋空港から新潟空港まで航空運賃よりもはるかに高額であり,時間がかかるのです。
今回は最速で名古屋から佐渡島に着いたのですが,それでも,待ち時間を入れると,せっかく県営名古屋空港を朝8時5分の飛行機に乗っても,両津港に到着するのは最短で午前12時37分だから,4時間32分もかかってしまいます。
それにしても,セントレア・中部国際空港から石垣島まで飛行機で行くのと,新潟港から佐渡島の両津港までフェリーでいくのと時間が変わらないというのがとても興味深いことです。そう考えると,佐渡島は遠く,お金のかかるところです。

船の出る時間までまだ2時間くらいありました。もし待ち時間があれば,新潟港のとなりにある朱鷺メッセというビルに「Befcoばかうけ展望室」というのがあるから行ってくるといいとタクシーの運転手さんに教えてもらっていたので,そこに行くことにしました。
「Befcoばかうけ展望室」は朱鷺メッセの31階,地上約125メートルに位置する展望室で,日本海側随一の高さということでした。展望台の名前の由来は,命名権を取得した栗山米菓のコーポレートブランドが「Befco=Beika Company」で,「ばかうけ」は新潟県の方言「ばか=とても,すごく」からつけられた商品名です。「Befcoばかうけ展望室」からは,新潟市街地,日本海,佐渡島,五頭連峰などの360度の大パノラマを楽しむことができました。新潟市といって私が知ってるのは新潟地震で有名になった萬代橋だけですが,萬代橋もきれいに見ることができました。
  ・・・・・・
新潟地震は1964年(昭和39年)に発生した地震で,新潟市を流れる信濃川に架かる橋のうち木製のものはほとんどが倒壊した。
コンクリート橋の萬代橋(当時の表記は万代橋)は取付部の破損・沈下のみで,車両の通行が唯一可能なままであったが,八千代橋は橋脚が倒れるなど深刻な被害を受けた。また,昭和大橋は竣工の1か月後だったにも拘らず橋桁が倒れ,橋脚2本は砂に飲み込まれ行方不明となり,単スパンごとに傾いた。この落橋した昭和大橋の写真は被害の象徴として知られている。
  ・・・・・・
ということで,教科書などに載っている崩落した橋を私はこの時までずっと萬代橋だとばかり思っていたのですが,それは大間違いでした。知ってよかった。
私が行った時間,この展望台には多くの外国人がいました。このビルにはホテルが併設されていて,どうやらこのホテルに宿泊したようでした。話しかけてみると,イスラエルから来たということで,チャーター船で世界中を回っていて立ち寄ったと言っていました。

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2023年3月22日から3月25日まで3泊4日,ついに念願だった佐渡島に行ってきたので,今日からはその様子を書きます。
佐渡島といえば,金山とたらい舟とトキ。…ですが,私は,それ以外にはほとんど何も知りませんでした。今回行った目的も,私の知る3つのうちのひとつ,飛んでいるトキを見たい,そして,できれば写真に収めたい,という1点集中でした。とはいえ,それが可能なのかどうかさえ,皆目見当もつかず,しかし,いつものように,ほとんど何も調べず,でたとこ勝負,というずさんな計画,というか無計画で旅立ったのです。
行き方はいつものように,県営名古屋空港からお気に入りのFDAで新潟空港まで行って,そこから佐渡島に渡ろうというものでしたが,お恥ずかしい話,新潟空港からどうやって新潟港まで行くのかさえ調べていなかったという有様でした。しかし,これまの数々の経験から,これで何とかなるのです。現地で聞くほうが正確なので,事前に調べていないほうが結構うまく行ったりもするのです。
さて,どんな旅になったか,果たして夢が実現したかは,これからのお楽しみです。

これまでも何度かこのブログに書いてきましたが,私は,飛んでいるトキを見るのが長年の夢でした。子供のころから抱いていたいろいろな夢のほとんどを実現した今でもまだ残っていた夢のひとつが,この,飛んでいるトキを見る,ということだったのです。そしてまた,今やっておかなければもうやれない,という想いにかられ,ついに行くことにしたのです。
佐渡島がこれまで残ってしまったのは,遠い,ということが最大の理由でした。遠いだけでなく,お金がかかる,というのもありました。そこで,一旦は佐渡島へ行くことはあきらめ,トキが分散飼育をされているという金沢市のいしかわ動物園へ行って,ケージの中にいるトキを見て,それで自分を満足させて,また,あきらめていたのですが,どうしても,飛ぶトキをみたいという夢は捨てきれませんでした。
2020年に山形へ行ったときに,上空から佐渡島を見て,絶対に行くんだ,という想いをあらたにしました。さらに,そうした気持ちに拍車をかけたのが,FDAで新潟空港まで簡単に行くことができるということを知ったことでした。

私のまわりに,佐渡島に行ったという人はいません。当然,飛んでいるトキを見たという人もいません。私が佐渡島に行くというと,佐渡島で3泊もして何をするんだ,とか,飛んでいるトキなんて見るのは無理,とか,そんな否定的な声ばかりでした。
しかし,私は,これまでも,夢はすべて実現してきました。それに,持ち前の強運は,偶然も味方につけて,奇跡的にこれまで何もかもを成功させていたのです。しかし,今回だけは,別のような気がしました。それは,自他ともに認める晴れ男の私なのに,行く前日になっても,佐渡市の天気予報はずっと雨だったことが原因でした。さらに,私はすっかり忘れていたのですが,3月24日は月と金星が大接近するというではないですか。こんなイベントがあるのに,旅などしている場合ではないのです。
そんなわけで,ともかくもずいぶん以前に航空券とレンタカーと宿泊先だけを予約してあった佐渡島の旅は,まったくテンションが上がらず,何も準備をする気もなくなり,あとは行ってから考えようという感じで旅に出ました。

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◇◇◇


◇◇◇
月と金星の大接近。

3月24日に佐渡島で写しました。
あいにく日本中曇りだったようですが,
旅先の佐渡島は晴れました。
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 2020年2月,かねてから行きたかったハワイ・モロカイ島はぎりぎり間に合いましたが,それ以降,海外旅行に行くことができなくなりました。その代わり,私は,これまで行ったことがなかった国内のさまざまな場所に目を向けるようになりました。
 何事も「塞翁が馬」です。
 私は,それまでとは違って,公共交通機関は飛行機と新幹線以外は一切利用せず,車ばかりで移動をしはじめましたが,今から思うと,非常に快適でした。そもそも,人出が極端に少なかったからです。ひとつ問題があったとすると,博物館などの公的施設が軒並みお休みだったということくらいで,それ以外は不自由もせず,普通なら混雑するような観光地でも,ほとんど人がいなくなって,思う存分現地で歩き回りました。
 私はまったく気にしていなかったのですが,そのうち「Go To Travel」とかいう,今から考えると滑稽な政策ができたり,また,なくなったりして,さらに,今度は,旅行支援が行われるようになって,人が増えました。私は,補助があろうがなかろうが,行きたいときには行くし,行きたくなければ行かないのですが,結果として,ずいぶんと恩恵を受け,国内を安価に旅することができました。

 こうして,次第に,日本国内の旅の仕方を覚えていったのですが,もし,コロナ禍が起きていなかったら,日本を旅する楽しみなど,今でも知らなかったことでしょう。
 ともかく,日本は,なるべく観光客のいかないところを探して,かつ,小さな宿を見つけて,おいしいものを食べ,温泉につかり,あとは,予定も立てずにその場で行きたいと思ったところに行くに限るのです。現地までの行き方は場所にもよりますが,格安航空を利用すると列車よりも早く安く,また,新幹線も,うまく利用すると快適なグリーン車で旅ができることを知りました。そして,現地ではレンタカーを借りるのです。
 そんなこんなで,これから,これまでに行ったところや,これから行きたいと思っているところを書いてみます。つまり,前回の海外編に続く,国内編です。

●北海道
 若いころ,私は北海道が大好きでした。毎年のように夏に出かけていました。
 冬もまた,スキーで大雪山へ行ったこともあるし,その折に函館へ足をのばしました。目的地はトラピスチヌ修道院だったのですが,公共交通機関がストライキとかでまったくなく,雪の中を歩いて,寒さの中,やっと見つけた喫茶店の暖かかった思い出だけが残っていて,トラピスチヌ修道院がどういうところだったのかはまったく記憶にありません。
 その後はしばらく足が遠のいていて,2020年に久しぶりに行きました。そのときの目的はネオワイズ彗星の写真を撮る,だけだったのですが,そのために,留萌から稚内まで車で走りました。ちょうどコロナ禍で,しかし,北海道は楽しくて,こりゃいいわ,と思ったことが思い出です。
 そんなわけで,私は,北海道は行きつくしているので,今,特にわざわざ行きたいとは思わないのですが,考えてみると,札幌の雪まつりとか知床の流氷は見たことがありません。しかし,寒いだろう,とか,人が多いだろう,とかいう否定的な気持ちが先にあるので,当分は行くこともありますまい。人混みが気にならなかった若いころに一度は行ってみてもよかったのかな,と今では思います。
  ・・
●東北
 今,東北はマイブームです。
 若いころ,東北1周の旅をしたことがあるのと,今は亡き藤井旭さんに感化されて,浄土平に行ったこと,また,仕事で盛岡に行って,そのついでに下北半島を1周ドライブしたことがあって,これまではそれでわかった気になっていました。
 歳をとって,なぜか気になるようになって,東京へ行った折に,花巻や大内宿に行って,虜になりました。その後,これまでほとんど知らなかった山形に1度行ってみようと旅だったのですが,ここもまた,大好きになりました。
 東北は広く,また行きたいと思うところばかりです。たとえば,青森の津軽,秋田の由利本荘,山形の酒井などですが,飛行機で行ってレンタカーを借りるだけなので,これからときどき東北旅行を楽しみたいと思っています。たくさん温泉があるのもまたすてきな話です。
 冬の青森で走るストーブ列車に乗ってみたいとも思うのですが,観光客だらけだろうから,二の足を踏んでいます。きっと行かないだろうな。
  ・・
●関東
 関東といっても,東京はよく行くのに,それ以外の場所は意外と知りません。茨城なんてこの2月に行ってみるまではまったくもってさっぱりでした。そこで,今後は,東京から少し離れた関東を順に旅する計画をしています。たとえば,房総半島1周,とか,三浦半島1周とか,栃木も日光に行ったくらいでほとんど無知です。
 ただし,東京に近いところは観光客が多く,なんとかそれをかいくぐって,私好みの静かな安宿に泊まってきままに旅をするノーハウが,私には未だもって確立できていません。

 以下,次回。


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 近ごろ,2020年12月に行われたNHK交響楽団の公演で,諏訪内晶子さんがヴァイオリンを弾いたベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を録音したものをしっかり聴き込んでいて,私はえらく感動しました。
 いつもクラシック音楽を聴いているのに,何を今更… という感じで,おのれの愚かさが身にしみました。その原因は,私のクラシック音楽とのつき合い方にあるのでしょう。「ながら」が多く,聴き込んでいないのです。また,楽器の弾けない私は,自分の弾くという経験に照らし合わせてプロの演奏を聴くことができないのです。
 そんな私でも,しっかり聴き込んでみると,このときの演奏は,すごい,としかいいようがなく,今になって,諏訪内晶子というヴァイオリニストがいかにすばらしいかが,やっと理解できました。それは,はじめから終わりまで音程がしっかりしていてまったくぶれないし,音の強弱がきちんとしているし,それでいて,とても音色が,特に高音がとても美しく張りがあり,しかも,演奏に主張があって,オーケストラを引っ張るのです。そういう人だからこそ,優れたヴァイオリンであるグァルネリ・デル・ジェズ「チャールズ・リード」("Charles Reade" Guarneri del Gesù)を弾きこなすことができるわけで,ヴァイオリンを習いはじめたばかりの幼児が弾いたところで楽器が泣きます。
 とにかく,何事につけ真のプロはすごく,真のプロだからこそ,優れた道具が生きるのです。

 前置きが長くなりました。今日は,ヴァイオリンではなく,カメラです。
 楽器と同じように,カメラもまた,プロの仕様に耐えるニコンZ9のような機材は,真のプロでなければそれを使いこなすことはできないのです。私は真どころか偽のプロでもないので,当然,ニコンZ9は使いこなせません。しかし,このカメラはとても評判のよいカメラなので,そのどこがすごいかを知りたくなりました。カタログを読んでも私には謎で,まったくわかりませんでした。
 今回,ニコンZ50を購入して使ってみて,それと比較して,やっと,どういうことなのかがわかってきました。
 そこで,今日は,ニコンZ9のどこがすごいか,というお話です。
  ・・・・・・
●圧倒的なAF性能
 「すばやく被写体を認識し,一度つかんだらその後も追従していく性能は他のカメラとは全く比べ物にならないレベルなので,ピントはカメラに完全に任せることができる」といううたい文句は,動的なものを失敗なく撮る必要があるプロのカメラマンには非常にこころ強い味方でしょう。なにせ,カメラがディープラーニングをして,カメラマンが何を写したいかを判断するというのですから,すごいものです。
 さらに,「3D-トラッキング」という,撮影者が選んだフォーカスポイントで被写体にピントを合わせると,あとは,シャッターボタンを半押ししている間,構図の変化に合わせてフォーカスポイントを自動的に切り換えてピントを合わせ続けるという機能がついています。
 これらは,ニコンZ50で口惜しい思いをしている私には,うらやましい機能です。
●EVF「Real-Live Viewfinder」
 「「Real-Live Viewfinder」と名づけられたファインダーは,景色の遅延が無いといってもよほどのレベルで,連写をしてもブラックアウトフリー。また,新画像処理エンジン「EXPEED7」で,連写やAFなどカメラ全体の性能アップに繋がっている」というのは,私がニコンZ50 でとっさのときに起動のタイムラグが問題と,前回書いた,ミラーレス一眼最大の欠点を凌駕するものです。
 さらに,「プリキャプチャ」機能といって,シャッターチャンスを逃しても,シャッターを全押しした1秒前までさかのぼって記録ができるというものもついています。
●メカシャッターレス
 「Nikon独自のイメージセンサーは,高速読み出し,ローリングシャッターによる歪みをほぼゼロに。そして,メカシャッターがなく,電子シャッターのみなので,シャッターの耐久回数が存在せず,シャッターのトラブルとは無縁」というのは,カメラの信頼性に直結するわけです。ミラーレス一眼では光を直接受光体が受け止めるわけだから,ミラーの必要な一眼レフカメラとは,本質的に異なっているわけだから,耐久性に問題のあるメカシャッターは必要がないのです。
●4軸チルト式画像モニター
 「縦構図にカメラを構えてもモニタが上下に動かせるので,ハイアングルやローアングル撮影が容易」というのは,私の使っているニコンD5300のバリアングル式とZ50のチルト式の両方の欠点を克服しています。
●最大で6.0段分の手ブレ補正
 「望遠撮影や低速シャッタースピードでの静止画撮影,動画撮影の手振れの影響を効果的に補正」。いくら構図のよい写真を写しても手振れをしているとあとでがっかりです。
●ファイルサイズが1/3となる「高効率RAW」
 「毎秒20コマの高速連写が可能で,かつ,画素数を低下させれば毎秒120コマの超高速連写ができるが,RAWは極めて高効率」というのは,動きのある被写体を写すにはこころ強いものでしょう。
●動画カメラを超える動画性能
 「8Kで2時間超えの撮影が可能であり,十分な熱対策」。これまで,一眼レフカメラの動画撮影は機材が熱をもつために30分が限界で,これでは,超時間の動画を撮る必要がある場合,一眼レフカメラは,機材としては不満でした。
  ・・・・・・
 このようなことは,カタログに書かれてあっても,それがどういうことなのか,いまいちよくわかりませんでした。それが,実際,私がニコンZ50を使ってみて,ニコンZ9のこうした特徴が,どういうことを意味しているのかが理解でしたというわけです。つまり,このカメラは「何でもあり」だったのです。
 これらのほとんどは私には無縁の高性能であり,使いこなせないものばかりですが,プロのカメラマンが何を求めているのか,そして,それが反映されているのかがよくわかるようになりました。そこで,カメラ店に出かけて実際に触ってみたのですが,私の第一印象は,残念なことに「重い」「大きい」だけでした。

 巷のスペック好きのハイアマチュアとか,カメラおたくのなかには,このようなカメラの高性能を理解ができない人もいるのでしょう。しかも,そうでありながら,そういう人ほど,いろいろと批評をするから,メーカーにとってはいい迷惑に違いがありません。
 このことは,その道のプロでもない人が国務大臣をやっていい加減なことをいっているのに何かダブりますが,国務大臣の発言は,国の存亡がかかっているからより深刻であり,罪が重いのです。それは何ごとにいえることで,専門家でもないのに,単に聞いたことを書くいい加減なマスコミの記事やら,その道のプロでもないのに,政権の覚えめでたく有識者として無責任に軽率に批評をしたりコメントしたりする,自称専門家にも通じます。そのことが容易にわかるのが,将棋の解説です。藤井聡太竜王の将棋を解説してみれば,その棋士が真のプロなのかそうでないのかは容易にわかります。
 私は,プロの演奏やプロ用の機材とは何かを調べてみて,自分の愚かさが身にしみました。

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アドモンドベネディクト修道院s2019-11-30_19-38-01_773

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 無計画な旅ほど,得るものが大きいものはありません。と,これは,何事もいい加減な私の自己弁護にすぎませんが,それでも,あとで思うに,無計画であればこそ,これほど不思議で,かつ,運がいいとしか思えないこと起きるのです。
 先日,家で,ある写真集を見ていて驚きました。それは図書館の写真でしたが,どうも,私はそこに行ったことがあるような気がしたのです。調べてみると,そこは,オーストリアにあるアドモンドベネディクト修道院の図書館(The library of Admont Abbey)でした。
  ・・・・・・
 アドモント修道院図書館は,オーストリアのエンス川沿いの小さな町アドモントにある世界最大の修道院図書館です。
 アドモント修道院は,1074年,ザルツブルクの大司教の指示によって建てられました。アドモント修道院が設立されたとき,聖ペテロ修道院から多数の本が保寄贈され,それらの本を収納するために,アドモント修道院に隣接して,1776年に,ウィーンの建築家ヨハンフーバーによって図書館が設計され,建てられました。
 1865年の火事でほとんどが消失し,その後再建されましたが,火事の際に, 唯一,奇跡的に図書館は火災を免れました。
 図書館の内部は美しく装飾されていて,白い2階建てのクローゼットスタイルの本棚にはハードカバーの本がたくさんあります。
  ・・・・・・
 図書館の内部は,奥行き70メートル,幅14メートル,高さ11メートルもあって,約7万冊の本が収蔵され,また,修道院全体では20万冊もの本があります。
 白亜の図書館は,窓から差し込む陽の光によって明るく照らされ,天井には聖書に記された場面を表した7つのフレスコ画が描かれています。また,中央には,オーストリア国立図書館の大広間「プルンクザール」を模した大広間があります。床のタイルは目の錯覚を利用した配色になっています。

 2019年の初冬,私はアドモント修道院図書館に行くことができました。
 といっても,私は,この図書館のことなど全く知りませんでした。では,なぜ行ったかというと,そのいきさつは次のようです。
 私が行きたかったのはハルシュタットでしたが,ウィーンからはあまりに遠く,半ばあきらめていました。しかし,どうしてもあきらめきれず,そこで,見つけ出したのが,ウィーンから日帰りでハルシュタットへいく現地ツアーでした。ガイドさんの女性は英語とドイツ語を話しました。日本人の参加者は私しかいませんでした。
 ハルシュタットはあまりに遠く,早朝に出発したのに,なかなか到着しません。それだけでもイライラしていたのに,私の乗った大型バスは,途中のこの修道院に到着したのです。しかし,そこがどこなのかさえわからず,しかも,当時の私は,どうしてこんなところで道草しているんだとさえ思いました。そして,自分の意思とは関係なく,私は,この図書館の内部を見学したというわけです。
  ・・
 この図書館に憧れ,やっとのことで行くことができたという人のブログがありました。そして,我が身を恥じました。それは,この図書館は,オーストリアの観光案内ガイドブックにも掲載されておらず,また,あまりに辺鄙なので行くのがかなり大変な,「世界一美しい図書館」だったのです。
 アドモントへ公共交通機関で行こうとすると,電車とバスの組み合わせでウィーンから片道約4時間かかります。しかも,午前中に訪ねると,図書館内に差し込む陽の光が多いことと,ほかにほとんど観光客がいないから,荘厳な雰囲気を体験できるとありました。
 これでは,もし,私がこの図書館に憧れをもっていて,ぜひ行ってみようと思ったところで,おそらくは不可能だったことでしょう。
 今では,期せずして,この図書館に行くことができたことを感謝せざるをえません。

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 早朝,本證寺へ行った帰り,どこに寄ろうかと考えていて思い当たったのが,長久手古戦場でした。
 愛知県道6号力石名古屋線を走っていると「古戦場南」という交差点があります。私は,この交差点を通り過ぎることはあっても,この交差点の北西にある,長久手古戦場(古戦場公園・色金山歴史公園)には行ったことがありませんでした。
  ・・・・・・
 1584年(天正12年)に豊臣秀吉と徳川家康が激烈な戦いを繰り広げた主戦場跡地で,国の史跡に指定されている。現在,この場所は「古戦場公園」として整備され,園内には武将の塚や郷土資料室がある。また,ここから約2キロメートル北にある「色金山歴史公園」には,家康が合戦時に腰掛けて軍議を開いたとされる石が残されている。
  ・・・・・・
 よく通るのにこれまで行ったことがないのはそれほど興味がそそられるわけでもなかったことが理由ですが,近くにある史跡というのはどこもそんなものです。しかし,おそらく,NHK大河ドラマ「どうする家康」でもそのうちとりあげられることでしょうし,わざわざ行かないことには,この先も決して行くことがないのではと思ったので,今回行ってみることにしたのです。

 長久手古戦場は,小牧・長久手の戦いのあったところです。
  ・・・・・・
 1582年(天正10年)織田信長が本能寺の変で最後をとげ,天下統一の事業を受け継いだのが豊臣秀吉でした。豊臣秀吉は,山崎の戦いで明智光秀を討ち,織田家の跡目相続を決める清須会議で,織田信長の二男織田信雄,三男織田信孝を跡継ぎと認めず,織田信長の孫の三法師を跡継ぎとしました。そして,三男織田信孝と結んで対抗する柴田勝家を賤ヶ岳の戦いに破り,織田信孝を知多郡野間で自害させ,織田信長の後継者としての位置を固めました。
 そこで,二男織田信雄は,豊臣秀吉と戦うために三河の徳川家康に援助を求めました。1584年(天正12年),徳川家康は主家織田氏を助けるという大義名分で,1万5千の兵を率いて清須城へ入り,織田信雄軍と合流します。
 豊臣秀吉軍の森長可は羽黒の八幡林で徳川家康勢と戦って敗れ,それを聞いた豊臣秀吉は直ちに三万の兵を率いて大垣から犬山へ着き,小牧山を北東から包囲するよう布陣し,楽田に本陣をかまえました。一方,織田信雄・徳川家康連合軍は小牧山に本陣をかまえて東へ連砦を築き,豊臣秀吉軍に対しました。しばらくは,小競り合いがあっただけで,両軍に大きな動きは見られませんでした。
 がっぷり四つに組んだ横綱相撲です。
  ・・
 やがて,豊臣秀吉が,池田恒興の,徳川家康の本拠地岡崎を奇襲しようという進言を聞き入れ,作戦がはじまりました。
 豊臣秀吉軍は,2万の大軍を4隊にわけ,楽田から物狂峠を越え山裾にそって,大草,関田を経て上条に野営し,庄内川を渡って長久手方面へ向かいました。しかし,この動きが徳川家康側に通報されていて,徳川家康は,ただちに水野忠重を小幡城に向かわせ,自らは9,300の兵を率いて,如意,勝川を経て庄内川を渡り,小幡城へ入りました。
 徳川家康軍の先遣隊が白山林で豊臣秀吉軍の豊臣秀次隊を打ち破ります。そして,徳川家康軍の本隊が長久手に進み,豊臣秀吉軍の池田恒興・森長可両軍を迎えたので,ついに一大決戦がはじまりました。
 激戦ののち,徳川家康軍の優勢が目立ちはじめ,池田恒興,森長可の両大将が戦死し,豊臣秀軍は崩れました。この敗報を聞いた豊臣秀吉は,2万の兵を率いて長久手へ向かうのですが,徳川家康はいち早く兵をまとめ,遠回りして小牧山へ帰ってしまったので,豊臣秀吉は兵を率いて楽田に帰りました。
  ・・
 その後,両軍のにらみあいが続きましたが大きな合戦をすることもなく,結局,豊臣秀吉軍の主力は小牧地区から退き,また,徳川家康軍も兵を引きました。そして,桑名で豊臣秀吉と織田信雄が和議を結び,次いで,徳川家康も豊臣秀吉と和解し,8月にわたる小牧・長久手の戦いが終わりました。
  ・・・・・・
という流れなのですが,戦いが尾張地方全体に及んでいたので,この地だけが戦場ということでもなく,ここは,いわば,長久手という名前を冠にしたシンボル的存在で,公園となっています。
 また,小さな博物館もありました。

 私は,これまで,長久手古戦場だけでなく,自宅からそれほど遠くもない史跡には,通り過ぎることは多くとも,ほとんど行ったことがありません。おそらく,行ってみてもどこも大したことはないだろうけれど,これでは,この先も行かずに終わるように思うようになったので,これからはわざわざ行ってみようと考えているこのごろです。

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 NHK大河ドラマ「どうする家康」は,昨年の「鎌倉殿の13人」とは奥行きが違い過ぎる駄作で,比べるべくもないのですが,そんなドラマの内容とは関係なく,「鎌倉殿の13人」の主な舞台は鎌倉で遠かったのですが,今年の「どうする家康」の舞台は地元なので,私は,これを機会に,暇つぶしに,このドラマで紹介された地元の史跡を巡ろうと思っていて,先日2023年3月16日の早朝,安城市の本證寺へ行ってきました。
 ちなみに,来年の大河ドラマ「光る君へ」の舞台はおそらく京都なので,また,そのときはそれを口実に,足繁く京都へ通おうと思っています。
 朝早く行ったのは,人がいない時刻を狙ったからです。私は団体さんが嫌いです。到着したときは私以外にだれもいなくてよかったのですが,午前6時前だというのに,すでに道路は渋滞していたので,到着するまでがたいへんでした。愛知県は道路が広いと誤解されがちですが,名古屋の南部から岡崎,知立,安城,そして,知多半島あたりは,もともと大型トラックが多く走り,また,橋が少なく道路も限られているから慢性的に渋滞していて,朝6時前でもすでにすごい交通量なので,近ごろ値上がりした高速道路を利用しない限り,どこも非常に走りにくいのです。

 では,話題を本證寺に戻します。
  ・・・・・・
 若いころの徳川家康と戦った寺・本證寺は,鎌倉時代に慶円上人によって開かれた真宗寺院です。「徳川家康三大危機」のひとつに挙げられる三河一向一揆では,本證寺は一揆勢の中心拠点のひとつとして徳川家康と戦いました。二重の堀をもつことから,城郭寺院ともよばれています。
 当時,東西320メートル,南北310メートルの外堀に囲まれた寺内町は,守護不入(治外法権と租税免除)となっていました。一揆後は徳川家康により破却されましたが,約20年後に赦免され,江戸時代後期には200余の末寺を持つ大寺となっていました。
 本證寺の中庭には,徳川家康の無二の参謀として知られる本多正信の供養塔と伝わる碑が残っています。
  ・・・・・・
と,地元安城市のホームページにあります。

 三河一向一揆は,戦国時代,西三河全域で1563年(永禄6年)から1564年(永禄7年)までの半年間にわたって,蓮如の曾孫である本證寺10代空誓が中心となって浄土真宗の本願寺門徒が,領主の徳川家康と戦ったものです。
  ・・・・・・
 本證寺,上宮寺,勝鬘寺は三河における本願寺教団の拠点で,徳川家康の父・松平広忠の代に守護使不入の特権を与えられていました。
 三河一向一揆は,1562年(永禄5年)に,本證寺に侵入した無法者を西尾城主・酒井正親が捕縛したことが,守護使不入の特権を侵害されたとして起きたのが発端とか,あるいは,1563年(永禄6年)に,松平氏家臣の菅沼定顕に命じて上宮寺の付近に砦を築かせ,上宮寺から兵糧とする穀物を奪ったことに端を発したとかいわれます。
 1564年(永禄7年),馬頭原合戦の勝利で徳川家康は優位に立ち,和議に持ち込みました。
 徳川家康は和議を結ぶことで一揆衆を完全に解体させたのち,本願寺の寺院に他派・他宗への改宗を迫るなど,本願寺教団には厳格な処分を下す一方で,離反した家臣には寛大な処置で臨み,家中の結束を高める事に成功しました。
  ・・・・・・
 「徳川家康三大危機」は,三河一向一揆のほかには,三方ヶ原の戦い,伊賀越えですが,私は,三方ヶ原の戦い,伊賀越えについては,これまでの大河ドラマでも大きく取り上げられていたし,よく知っているのですが,三河一向一揆は知りませんでした。高等学校の教科書にもまったく記載がありません。「どうする家康」では,あまりに描き方が雑だったのが残念でした。

 車で行ったので,駐車場が心配でしたが,広い臨時の駐車場ができていたので,停める場所はたくさんありました。日本の多くの観光地のいつもの常というか,どこも同じというか,それほど見どころがある場所でもなかったのですが,それよりも,こうしたところに行くのは,歴史が作られた場所だということに想いを馳せることに意義があるのでしょう。

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◇◇◇
月齢27.6の月。

日の出前20分。東の空に月がきれいでした。
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◇◇◇
ソメイヨシノ開花。

暖かな日差しに桜の花も誘われました。
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 「文化のみち」の散策で,最後に紹介するのは,旧豊田佐助邸と旧井元為三郎邸です。

 豊田佐助は,発明王とよばれ,現在に至るトヨタグループの礎を築き上げた創始者・豊田佐吉の弟でした。当時,長塀町に豊田佐吉邸,白壁町に豊田喜一郎邸と豊田利三郎邸もありましたが,現存するのはこの豊田佐助邸のみで,豊田利三郎邸は門と塀だけが残っています。
 太平洋戦争後に米軍に接収され将校の住宅となっていた時期もありますが,その後アイシン精機の所有となり,現在は名古屋市が借用し一般公開しています。
  ・・
 旧豊田佐助邸は,1923年(大正12年)に建てられた白いタイル張りの木造の洋館と広い間取りの和館で構成されています。洋館と和館が併設する大正時代に流行した建築様式で,1階には,蓮の蕾の形の照明と吊元の装飾,鶴にトヨダの文字をデザインした換気口が見られます。
 関東大震災以前の時代でありながら耐震構造を取り入れているなど,豊田佐助がいかに先進的な考えの持ち主であったかがわかります。
 2階に上がると非常に広い面積の和室が広がっています。 この大広間の風通しをよくするためにさまざまな工夫がなされています。 欄間の上下に隙があったり左右に開ける雪見障子なども見られます。
 また,和室の周りを洋風建築の廊下が取り囲んでいるという非常に特殊な構造で,敷居ひとつ挟んで和洋の全く異なる様式が隣り合わせになってるのに,違和感なくまとまっています。

 次に,旧井元為三郎邸です。ここは「文化のみち橦木館」(しゅもくかん)といいます。
 この地域は,江戸時代,約600坪に区画割りされた武家屋敷町がありました。この広い敷地と陶磁器の生産地で有名な瀬戸・多治見の両街道や堀川にも近く,船積みにも便利だったことから,明治半ばには陶磁器の絵付け・加工業者などが集まるようになりました。
 昭和初期には,この界隈に600をこえる上絵付け工場があり,最盛期には,日本で作られた輸出用の陶磁器の7割以上がこの地域で生産されていたといいます。
  ・・・・・・
 井元為三郎は,1874年(明治7年)に生まれた,明治から昭和時代前期の実業家です。
 16歳で有田系の商店に入り,1897年(明治30年),24歳で独立。橦木町に隣接する飯田町に井元商店をかまえました。明治40年代にはサンフランシスコに貿易会社を設立し,大正に入ると、シンガポールやビルマにも進出して,陶磁器以外に医薬品や雑貨も扱うようになりました。1924年(大正13年),名古屋陶磁器貿易商工同業組合の組合長に就任しました。加工問屋「五人衆」のひとりに数えられるなど,陶磁器業界の重鎮として活躍しました。
  ・・・・・・
 建物は,2階建てのステンドグラスの色鮮やかな光に満たされた洋館,懐かしい薫りにあふれる平屋の和館と東西2棟の蔵,さらに京都から移築された茶席,四季折々の趣が時を忘れさせる庭園で構成されています。洋館にはステンドグラスが贅沢に使われていて,井元為三郎は輸出陶磁器の商談を行うため、多くのバイヤーを招待していたそうです。

 私がこの建物でいたく気に入ったのは,2階の窓の大正ガラスでした。
 大正時代,ガラスは高価なもので,財力のある家でないと購入することができませんでした。一般の家庭でもガラスが入るようになるのは昭和になってからのことです。
 当時はイギリスで確立された「手吹円筒法」とよばれるガラスの製造方法が主流で,1枚1枚が手作りがゆえの不規則な歪みがあり同じ形はふたつとありませんでした。そこで,ガラス越しに見る庭は,ゆらりと歪んでとても味わい深く,またレトロな雰囲気があり,やさしい気持ちにさせてくれるのです。
 旧井元為三郎邸は,かつて住む者が居なくなってからは荒れ放題だったそうですが,1996年(平成8年)から2002年(平成14年)にかけて市民グループが借り上げて「橦木館」という名前をつけ,演劇やコンサート,ファッションショーなど各種イベントが行われる文化サロンとして使用されてきました。
 2004年(平成16年)頃からは毎週土曜日のみの公開していましたが,2006年度末に名古屋市が土地・建物を取得し,2009年(平成21年)7月17日から再び公開されたものです。


◇◇◇
桜と金星と木星。

咲き誇る桜の花の後ろに美しく輝くふたつの惑星。
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◇◇◇
藤井聡太「五冠」終わる。

「史上最年少六冠」
(竜王,王位,叡王,棋王,王将,棋聖)
に加えて,
「史上初一般棋戦グランドスラム」
(NHK杯,朝日杯,JT杯,銀河戦)
達成。
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 「文化のみち」でシンボル的存在なのが「文化のみち二葉館」です。かつて,名古屋市東区東二葉町にあったこの邸宅は「日本初の女優」とうたわれた川上貞奴と「日本の電力王」といわれた福沢桃介が大正から昭和にかけて暮らしていたものです。東二葉町という地名は今はありませんが,「文化のみち二葉館」の場所から北西へ出来町通りを越えたところで,清水口の交差点の北東の場所です。
 二葉館は,ひときわ目を惹くオレンジ色の洋風屋根をもつ大正ロマンの香り高い館で,5年の歳月をかけて,2005年(平成17年)に現在の地に移築し復元されました。移築したころ,突然,こんな派手な建物ができたので,私は驚いたことがありますが,中に入れることはずっと知りませんでした。

 そもそも,私は川上貞奴という女性もまったく知りませんでした。
  ・・・・・・
 1871年(明治4年)に東京日本橋の両替商の家に生まれた川上貞奴は,生家の没落により7歳で日本橋芳町の芸者置屋・浜田屋の亀吉の養女となりました。才色兼備で,伊藤博文らにひいきにされました。
 のち,自由民権運動の活動家で書生芝居で人気を博していた川上音二郎と結婚し芸妓から引退します。川上音二郎の影響で演劇へ転向,持ち前の芸の力と人柄とで日本初の女優として活躍し「マダム貞奴」とよばれ,ロダン,ピカソ,ジイド,プッチーニなど芸術家らをも魅了することになりました。
 川上音二郎が亡くなると,7年にわたる追悼興行を行ったのち芸能界を引退し,第3のステージとして,旧知の間柄であった福澤桃介の木曽川の水力発電事業を支えました。
 川上貞奴は,人生の前半を川上音二郎,後半を福澤桃介というふたりの男性のパートナーとして,そばに寄り添いながら社会を変えていったのです。1946年(昭和21年)に亡くなりました。
  ・・・・・・

 これもまた,私は知らなかったのですが,というのは,このころ,私の家にはテレビがなかったからですが,1985年(昭和60年)のNHK大河ドラマ「春の波涛」の主人公は川上貞奴でした。
  ・・
 国道19号線を北に木曽川に沿って走って長野県南木曽町に着くと,大きな古い吊り橋が目につきます。この吊り橋は「桃介橋」といって,福沢桃介が大正時代に架けた木製の吊り橋で,日本最大級といわれ,独特の外観は異国情緒にあふれています。
 吊り橋を渡ると福沢桃介記念館があります。福沢桃介が木曽川水系の発電所建設の監督のために建てたモルタル造りの旧別荘を記念館として公開しているもので,福沢桃介のパートナーであった川上貞奴も滞在したため,福沢桃介と川上貞奴のロマンの館としても知られているということでした。ここには行ったことががありますが,この地がどうして有名なのか,訪ねたころの私はわかりませんでした。それは,要するに,大河ドラマの影響なのでした。
 そしてまた,その川上貞奴が南木曽町とは遠く離れた名古屋市の「文化のみち」と関係があるのかも,はじめはわかりませんでしたが,調べていくうちに様々な糸が繋がり,興味が湧いてきました。

 和洋折衷の斬新で豪奢な建物は「二葉館御殿」とよばれ,政治家や財界人,文化人が訪れるサロンとでした。当時としては驚くほどの電気装備が施され,また,ほうぼうに川上貞奴の好みを取り入れたしつらいがなされました。
 当時の記録では,玉砂利の道を入っていくと,車寄せの前がロータリー。そこには,松の木などが植えられ,芝生の庭にはしだれ桜やもみの木,電気仕掛けの噴水やサーチライトがあったようです。
 円形に張り出したソファがある大広間では,ステンドグラスが柔らかい光を投げかけていました。 ここで川上貞奴は,毎日やって来る大勢の客への茶菓や晩餐の手配に追われる傍らで,川上絹布の経営者としての仕事もこなしていました。また,電車で3時間かかる木曽のダム建設現場へ出かける福沢桃介に同行することもあるというように,忙しくとも充実した暮らしでした。
 その後,病気がちになった福沢桃介は東京へ戻り,川上貞奴もまた,「川上児童楽劇園」の指導のため,拠点を東京へと移しました。
 建物の2階の展示室には,坪内逍遥,城山三郎をはじめとする名古屋を中心とする郷土ゆかりの文学者や文学作品が資料やパネルで紹介されていて,これもまた,私には,とても興味深いものでした。

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 名古屋市の繁華街・栄の東側である名古屋市東区泉二丁目と三丁目を隔てる南北の道路は,いろいろ調べても名前がわからないのですが,この通りの「桜通泉二」交差点から「芳野二」交差点北まで全長約1. 4キロメートルにわたって「オオカンザクラの並木道」があって,毎年この時期は,名古屋市内でいち早く花見ができる名所となっています。
 私はそのことをまったく知らなかったのですが,昨年のこの時期,偶然,車で通りかかって,桜が満開なのに驚きました。しかし,この通りや付近には,ほとんど駐車場がなく,また,車が頻繁に行き来しているので,車を停めることができないので,桜を愛でることもなく通り過ぎてしまいました。
 そこで,今年は,事前に車を停める場所を調べておいて,そこに駐車して,名古屋市市政資料館を経由して歩いていきました。
 今年もまた,桜は美しく咲き誇っていましたが,天気もよく,暖かで,どうやら私が行った3月15日が最も美しいときだったようです。

 1961年(昭和36年)の春,「名古屋で1番早く咲く桜を植えていただきたい」という地元の希望がかない,16本の苗木が植えられました。今では,当時植えられた木で残っているのはわずか6本ということですが,その後に新たに植えられたものも含めて,現在では約140本の桜が並木道をつくり,今,桜の花が見ごろをむかえているわけです。
 ここに植えられている淡紅色の桜は,オオカンザクラ(大寒桜)です。
  ・・・・・
 オオカンザクラは,バラ科サクラ属の落葉高木で,樹高は5メートルから10メートルあって,花は中輪,一重咲きで淡紅色。花は半開状で,下を向いて咲きます。開花時期は,ソメイヨシノ(染井吉野)より1週間ほど早く3月初旬に咲きはじめます。
 オオカンザクラは,カンヒザクラとヤマザクラ(山桜),またはカンヒザクラとオオシマザクラ(大島桜)の雑種といわれています。カンヒザクラは,バラ科サクラ属で,桜の原種のひとつです。樹高は5メートル程度です。花は小輪,一重咲きで濃紅紫色。また,釣り鐘状の花が特徴で,下向きに咲く花や,パッと大きく開かない花が多く見られます。開花時期は3月中旬です。カンヒザクラはヒカンザクラ(緋寒桜)ともいわれますが,ヒガンザクラ(彼岸桜)と区別するために,現在はカンヒザクラとよぶようになりました。
  ・・・・・・

 この通りの一部は,前回書いた「文化のみち」になっているので,「文化のみち」を歩いていると出会います。
 かなり知れ渡ったので,こんな春の日は,平日にもかかわらず,私のような老人がほとんどですが,すごい人混みになっていました。誰しも考えることは同じです。また,歩道の端には,絵を描いている人たちがたくさんいました。 
 この通りに沿って北に向かって歩いて行くと「白壁」の交差点があります。交差点の南西一帯は,名古屋で有名な女子校である金城学院高等学校があります。また,交差点の北西に少し行ったところに,金城学院中学校があります。
  ・・・・・・
 金城学院は,1889年(明治227年)にアメリカの長老教会,南長老ミッション宣教師ミセス・ランドルフ(Anne E. Randolph)が開校したもので,1921年(大正10年)に日本ではじめてセーラー服を採用した学校です。高等学校の構内にある栄光館講堂は国の登録有形文化財建造物に指定されています。
  ・・・・・・ 
 この日は,金城学院中学校の卒業式だったようで,卒業式を終えた生徒やその親がたくさん歩いていました。

 名古屋市市政資料館から出発した私は,「文化のみち」を散策する前に,この「オオカンザクラの並木道」まで行って,十分すぎるくらいの桜の景色を堪能したのちに,「文化のみち」を歩こうと思っていました。
 というわけで,「オオカンザクラの並木道」を北に「白壁」の交差点まで歩いて,そこで引き返し,このあとは,二葉館を通って,撞木館,旧豊田佐助邸,そして,旧春田鉄次郎邸へと向かうことになります。「オオカンザクラの並木道」から1筋入ってしまうと,それまでの喧騒はどこへやら,静寂の「町並み保存地区」になります。
 このことは,また,次回。

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 何もない,と揶揄される名古屋市内ですが,それでも,楽しめる一帯があります。というか,近年できました。それは,私が長年住んでいたところからさほど遠くないのに,これまでゆっくり歩いたことがない場所で「文化のみち」と名づけられた一帯です。
  ・・・・・・ 
 名古屋の近代化の歩みを伝える歴史的な遺産の宝庫ともいえる名古屋城から徳川園に至る地区一帯を「文化のみち」として育み,イベントの実施や貴重な建築遺産の保存・活用をすすめています。
  ・・・・・・
とホームページでは紹介しています。

 私が高校生のころは,今のようには整備されていなかったのが,近かったのになじみがない理由ですが,今考えてみると,自宅から私の通った高校までは,名古屋でも最も文化的水準の高いところだったのです。それがまあ,知らないというのは恐ろしいもので,毎日往復していたのにも関わらず,どこにも寄ったこともないわけで,非常にもったいないことをしました。
 近年になって,引っ越ししてしまってまったく縁もゆかりもなくなったのに,この辺りを通ってみたら,名古屋にもこんなところがあるんだと,すばらしく景観がよいのに驚いたのです。
 2021年に行われた第6期将棋叡王戦第3局,豊島将之叡王と藤井聡太当時2冠の対局が行われた料亭「か茂免」(かもめ)があるのも,また,この場所です。2022年の第7期将棋叡王戦第4局もここで行われる予定でしたが,第3局までで藤井聡太叡王が挑戦者の出口若武六段から防衛をしてしまったために行われず,祝賀会に変更になりました。
 そんなわけで,それ以来ずっと「文化のみち」が気になっていたのですが,特に今の時期は,早咲きの桜が満開なので,天気のよい3月15日に行ってみました。

  まず,名古屋市市政資料館から出発です。
 名古屋市市政資料館は名古屋市役所のやや東に位置します。レンガ造りの建物は,1922年(大正11年)に建てられたもので,ネオ・バロック様式,かつ,日本国内ではこの時代以後ほぼ造られなくなった最後の大規模なレンガ造りの建造物です。
 もともとは,名古屋控訴院,地方裁判所,区裁判所庁舎で,およそ60年もの間使用されていましたが,1979年(昭和54年)に移転のため使われなくなったのち,1989年(昭和64年)に名古屋市市政資料館として開館しました。現在は,市政関連資料の閲覧ができるほか,建物・市政・司法に関する展示がされています。私は,現役時代,ここで会議をしたことがあります。
 今回は中には入りませんでしたが,館内に入ると,まず,ゴージャスな大階段があります。2階から3階部分にかけては吹き抜けになって,ところどころ部材が大理石でできていて,その重厚感に圧倒されます。アーチ型の屋根,立ち並ぶツートーンの柱,左右対称の作りなどは,大聖堂のような荘厳さを感じることができます。この建物は「坂の上の雲」「華麗なる一族」「花より男子2」といったテレビドラマや,映画などでロケ地として使用されました。何もロケ地が水戸ばかりではなく,こんな身近なところにもあるのです
 名古屋市市政資料館の庭には,ソメイヨシノより早く咲くオオカンザクラが植わっていて,この時期満開になります。多くの人が散歩をしたり,写真を写していました。大通りからひとつ入っているので,知っている人だけの穴場的存在です。あまり,紹介もされていません。それがまた,いいのです。

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 私が欲しいのは,気楽に旅行に持っていくことができる邪魔にならない大きさで,しかも,不自由なく一応何でも写すことができるカメラです。
 プロのカメラマンでもないし,腕がいいわけでもないし,何かのコンテストに出すとかいうこともまったくないし,人と競うということもないし,あくまで自己満足と暇つぶしなので,高性能のカメラが多く発売されていても,それらはすべて,あの大きさと重さでは私には必要がありません。
 中でも,ニコンZ9はとても評価の高いカメラですが,私の選択肢には入りません。また,ニコンZ6Ⅱですら大きすぎるのです。私には,多くの人が通常だと思っているサイズのカメラでも手に余るのです。
 また,レンズ交換も頻繁にやりたくないので,多少性能を犠牲にしても高倍率ズームがいいし,とはいえ,馬鹿でかいものは要りません。
 さらに,新製品が出るたびに買いだ買いだという人もあり,実際に買い替える人もいるのでしょうが,私にはそういった趣味も物質欲もまったくなくて,多少時代遅れになろうと古くなろうと,愛着をもってできるだけ長く使いたいのです。
 それは,お金があるとかないとかいうことではなく,前にも書きましたが,100万円あったとしたら,カメラやレンズを買うより,3回海外旅行がしたいというのが私の価値観だからです。

 私がこれまでずっと使っていたカメラは,まずはニコンF3/TとニコンFMだったのですが,カメラがデジタル化になってフィルム代もバカにならないので使わなくなりました。その後は,ニコンJ3とニコンD5300だったのですが,ニコンJ3は大きさはよかったのですが,ピントの手動調整が即座にできないというように,写したいものが写せるカメラではなかったので,今回,引っ越しを機に断捨離をして,3台あったニコンJ3と交換レンズはすべて処分してしまいました。2台あるニコンD5300は使いやすいので手もとに残りました。
 そして,ニコンF3/T,ニコンFM,ニコンJ3を下取りに出した代わりに,久々に購入したのが1台のニコンZ50でした。それに加えて,今日の1番目の写真のように,FTZⅡというマウントアダプタを購入したのですが,それは,以前から持っていたFマウントのズームレンズと対角魚眼レンズを活用して,カメラ1台とレンズ3台で写したいものはすべて写そうと考えたからです。
 しかし,使いこなすにはそれなりに工夫が必要でした。今回は,その悪戦苦闘について語ります。

 私が写したいのは,日の出や夕暮れの写真,動いている列車が風景に入っている写真,飛んでいる鳥が風景に入っている写真,花がうまいこと何らかの景色に溶け込んでいる写真,さらには,特別に望遠鏡で写すのではなくて,手持ちで月や惑星が何らかの媒体と一体となっている写真などで,これらはスマホではうまく写せないものです。
 しかし,カメラの機能が多すぎて,カタログを見たり,説明書を読んでいてもさっぱり理解できないので,実践あるのみとばかり,散歩に行く際にカメラを持参してあれこれ設定を変えては試しているのですが,なかなかうまくいかないのが現状です。
 その理由のひとつ目は,メニューが多すぎるということです。ふたつ目は,ミラーレス一眼では,電源をONにしてからカメラが起動するまでのタイムラグが馬鹿にならない,ということですが,こちらのほうが大問題でした。
 そこで,今度は,以前のように,ニコンD5300にズームレンズをつけて写してみました。
 ニコンZ50を持ち慣れた今となっては,ニコンD5300さえ大きく,というか,肉厚に感じたのですが,先に書いたふたつの問題点がすべて解決するのに驚きました。つまり,ひとつ目のメニューについては,ニコンD5300程度の設定であるのが私には適切だったのです。つまり,わかりやすいです。どおりで,これまで,カメラの説明書などほとんど読んだこともないのに問題なく使っていた理由がわかりました。ニコンZ50のメニューの多さが私の理解できる能力を超えていたのです。
 何でもできるということと使いこなせるということは違うのです。
 ふたつ目のタイムラグについては,従来の一眼レフはファインダーが実像だから,当然ですが,電源が入っていなくても像が見えるのでストレスがなく,スイッチを入れてから像が見えるまでのライムラグがありません。写したいと思ったときにシャッターが切れる。これが実に快適なのです。だから,飛んでいる鳥とか,急に現れる列車のように,とっさに写真を写そうとするときは,はやり,このほうがずっと便利なのでした。
 だったら,ニコンD5300 だけでいいではないか,ということになるのですが,問題はレンズです。ニコンZ50とともに購入したズームレンズNIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VRが大きさといい性能といい申し分なく,従来のNIKKOR DX 18-140mm f/3.5-5.6G ED VRではサイズも大きすぎ,また,機能的にも使いづらく,これに代わる代われないのです。

 結局,従来の一眼レフもミラーレス一眼も,それなりの長所があるということを再認識しました。
 メーカーもそんなことは当然知っているので,ソニーの悪影響? のおかげと,例のごとく,マスメディアのあおりのおかげで,消費者がミラーレス一眼になびいてしまっているのを口惜しく思っていることでしょう。なにせ,いいものであっても売れなければ仕方がありません。
 なお,次回書きますが,ニコンZ9では「Real-Live Viewfinder」という機能が搭載されていて,ふたつ目の弱点が克服されているようですが,このことはまた次回。

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◇◇◇
ISS.

若田光一さんが降りたばかりの国際宇宙ステーション。
昨晩の夕方は火星を巻くように飛んでいきました。
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 今から10年ほど前の私は,アメリカ合衆国50州制覇という夢を追い求めていました。それを成し遂げてからは,オセアニアやヨーロッパを旅するようになりましたが,アメリカに関しては,次に考えたのが,ハワイ6島制覇でした。そして,年に1度はハワイに行くようになって,残るは,モロカイ島とラナイ島だけになりました。新型コロナウィルスの影が忍び寄ってきた2020年2月についに,かねてから行きたかったモロカイ島に行くことにして旅立ちましたが,これが,これまでで最後の海外旅行となっています。
 現在は,そんな状況です。
 今日は,もし,コロナ禍が起きていなかったら,私はどこを旅していただろうか? そして,コロナ禍も収まりつつある今,この先,新型コロナウィルスが世界を震撼させなかったら旅するはずだったところに,今もまだ行きたいのかを自問自答してみます。

●チェコ・プラハ
 私が,今,一番行ってみたいと思っているのは,チェコの首都プラハです。
 オーストリアのウィーンに行くまで,チェコのプラハへ行きたいと思ったことはありませんでした。そもそも,私の若いころは,ソビエト連邦の鉄のカーテンが重くのしかかり,オーストリアは身近かであっても,当時,チェコスロバキアといわれたこの国はずいぶんと遠いところだという印象しかありませんでした。しかし,オーストリアへ行ったとき,チェコはそのお隣だということを実感しました。
 プラハといえば,この名前の交響曲を書いたのがモーツアルト。そして,チェコはドボルザーとスメタナのふるさとなのです。そこで,実際に行って,この町の,この国の空気を直に感じたい,そう思うようになってきました。
 コロナ禍以前は,ウィーンに行って,そこから列車でプラハに行こうと思っていましたが,今は,直接プラハに行って,いろんなところをめぐりたいものだという想いが強くなってきています。チェコはEUですが,通貨はユーロではありません。これが少しめんどうなのですが,そんなこと知っちゃこちゃないと,同じくユーロでないアイスランドには何のためらいもなく行ったこともあるので,大した問題でもありますまい。絶対行くぞ! プラハ。
  ・・
●オーストリア・インスブルックなど
 オーストリアはすばらしいです。ウィーンには2度行ったことがあるのですが,その折に,1度目はザルツブルグ,2度目はハルシュタットにまで足を延ばすことができました。そのときのすばらしさは忘れがたいものです。
 オーストリアは広い国ではありませんが,まだまだいきたいところが山ほどあります。オーストリアの隅々まで旅をしてみたいと,今はそう思っています。
  ・・
●オーストラリア・パースなど
 まぎらわしいのですが,これから書くのは,オーストリアでなくオースト「ラ」リアです。
 オーストラリアといえば,私には南半球の星空を見るために行くというのがいつもの目的でした。これまで常宿にしていたバランディーンのゲストハウスで星見をしようと何度も行ったのですが,そのついでに,ほかの場所に寄ることを考えていました。その候補としてあったのが,アデレードや,メルボルンからキャンベラまでドライブで,行く計画も立てていました。
 今にして思うに,私は「バランディーンの呪縛」から逃れられていなかったのです。
 しかし,よくよく考えてみると,オーストラリアは広いのです。だから,西側のパースとか,北側のダーウィンなど,まだまだ知らないところがたくさんあるのです。とはいえ,何となく,行っていなくてもそこがどういうところなのかがわかるのです。要するに,オーストラリアはいい国だけど,どこに行っても,私にはそれほど魅力的ではないのです。
 あこがれだった南半球の星空だったのですが,何度も見た今となってはあまり興味がなくなってしまいました。だから,また行こうという想いは今は低いです。
  ・・
●ニュージーランド・ダニーデンなど
 ニュージーランドはとてもすてきな国です。何といっても自然が美しいのです。少し遠いのですが,身近かに感じられる国で,気ままに旅をすることができます。国土は日本くらいの面積ですが,なにせ,日本より格段と人が少なく,ゆったりと滞在できます。
 どういうわけか,私には北島は興味がなく,行くとしたらまた南島ですが,最も行きたかったテカポ湖やミルフォードサウンドにはすでに行ったし,もう,あまり行きたいと思う場所が残っていません。それでも,また,行ってみたいです。これまで行っていないのは,南島の一部分だけなので,ダニーデンだけでなく,時間をとって,一度は南島を一周してみたいなあと思っています。
 日本とは四季が反対なので,うまく時期を選ぶといい旅ができそうです。また,日本と同じく車は左側通行なので,ドライブするにも楽しいところです。
  ・・
●ハワイ・ラナイ島
 ハワイが好きな日本人はたくさんいます。私はハワイなんて東京と同じさ,とずっと毛嫌いしていましたが,やたらと多くの日本人がいるのはホノルルをはじめとしたオアフ島だけだと知って以来,マウイ島を除いて,ハワイ島,カウアイ島,マウイ島には知らないところがないほど何度も行って,ハワイを堪能しました。そして,行きつくしました。
 ハワイの楽しみは,ビーチで1日何もせず過ごす,というものもあるのですが,私はそれを楽しいと思わないのでだめです。ハワイは向いていないのです。
 今日のはじめに書いた6島制覇の夢は,モロカイ島,ラナイ島が残っていたのですが,2020年2月にモロカイ島には行ったので,残すはラナイ島だけなのです。しかし,ラナイ島は何もないモロカイ島とは違って,島全体がリゾートで,ホテルも高く,私向きではありません。だから,もし行くとすれば,マウイ島から日帰りで往復できればそれでいいわけです。そういう機会は以前にあったので,そのときに行っておけばよかった,と少しだけ後悔しています。もし,コロナ禍が起きていなければ,行っていたと思うのですが…。しかし,今となっては,ハワイは,もう,どうでもよくなりました。
 私は,ハワイは卒業しました。ハワイに行く人をうらやましいとも思いません。
  ・・
●アメリカ本土
 アメリカ本土もまた,卒業しました。
 今,自問自答をしても,アメリカへ行きたいとは思わなくなってしまったのです。自分でもそれが悲しいです。
 コロナワクチンを何度接種しても全く副反応もなく,風邪さえひとつひかず,花粉症にもまったく縁のない私ですが,唯一の持病であった「アメリカ行きたい病」が完治しまったことだけが,私の,新型コロナウィルス最大の副反応だったのでしょう。あれほど行きかったのに,自分でも不思議です。
 あえて行こうとすれば,まだ行っていない国立公園が数か所と,66歳にやろうと思っていたルート66完走。そして,最後に,ニューヨークで,まだ見ていないフェルメールの6作品を見てみたいというくらいです。と,ここまで書いていて,2024年4月8日にアメリカ大陸横断皆既日食があることを思い出しました。もっとも晴れそうなのはテキサス州です。さて,どうするか。
 ということなのですが,それ以上に頭を悩ませているのが,DELTAのマイレッジ。ものすごくたくさんあるのです。これをどのように使うべきか? 実は,このことが今の私の最大難問なのです。


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 私の大好きなおやつはたい焼きです。お昼過ぎに小腹がが空くと,ふらふらと外出して,つい,たい焼きを買ってきてしまいます。夕食までのしばしの時間を満たすのには絶好の食べ物です。
 我が家の近くには,たい焼き屋さんが結構多くあるので,その違いを味わうのも,また,楽しいものです。

 買い食い文化が発達したのは江戸時代からだそうですが,そのころにはさすがにたい焼きはなかったようです。
 たい焼きは今川焼きから派生した食べ物であるとされ,明治時代に鋳物の型を使って作られたのがはじまりという説があります。また,どこの店がはじまりかという点に関しては,1909年に創業した麻布十番にある「浪花家」の考案説がありますが,それ以前からもたい焼き屋が存在していたという話もあって,定かではないそうです。
 いずれにしても,庶民のおやつとして誕生したたい焼きは当時から人気がありました。東京に暮らした多くの文豪も,作中にたい焼きを登場させています。
  ・・・・・・
 この次第で,露店の間(あわい)は,どうして八尺が五尺も無い。蒟蒻,蒲鉾、八ツ頭,おでん屋の鍋の中,混雑(ごたごた)と込合って,食物店(たべものみせ)は,お馴染のぶっ切飴,今川焼,江戸前取り立ての魚焼,と名告を上げると,目の下八寸の鯛焼と銘を打つ。真似はせずとも可いい事を,鱗焼は気味が悪い。
  泉鏡花「露肆」(ろし)
  ・・
 間もなく夜店出しを止めることにした。その時の想いが直接の原因だった。もう一つには,同業の者を観察して,つく/″\嫌気がさしていた。鯛焼饅頭屋は二十年,鯛焼を焼いている。一銭天婦羅屋は十五年,牛蒡,蓮根,コンニャクの天婦羅を揚げている。鯛焼が自分か,自分が鯛焼か,天婦羅が自分か自分が天婦羅か,火種や油の加減をみるのに魂が乗り移ってしまう程の根気のよさよりも,左様に一生うだつの上りそうにもない彼等の不甲斐無さが先ず眼につくのだった。
  織田作之助「俗臭」(ぞくしゅう)
  ・・
 いいお天気なのに道が悪い。昼から隣にかもじ屋さんが店を出した。場銭が二銭上ったと云ってこぼしていた。昼はうどんを二杯たべる。(十六銭也)学生が,一人で五ツも品物を買って行ってくれた。今日は早くしまって芝へ仕入れに行って来ようと思う。帰りに鯛焼を十銭買った。
  林芙美子「放浪記」
  ・・
 がらんとした家に待つのは智恵子,粘土,及び木片こつぱ, ふところの鯛焼はまだほのかに熱い,つぶれる。  昭和六・三
  高村光太郎「智恵子抄」
  ・・・・・・
 詩人であり評論家であった吉本隆明は,高村光太郎の一文から,たい焼きを「男のせつなさの象徴」ととらえています。

 たい焼きの「焼き型」には,1匹ずつ焼き上げる一丁焼きと,鉄板などで複数匹を一度に焼き上げる2種類があって,前者で焼いたたい焼きを「天然もの」,後者で焼いたたい焼きを「養殖もの」などとよんで,その道の「ツウ」は区別,いや,差別していたりするのですが,手間がかかり2キログラムを超える鋳物の焼き型をひとつずつ返すために体力が必要な一丁焼きは減少を続けています。
 「天然もの」と「養殖もの」は焼き方の違いにより,皮の焼き上がりが異なり,火の通り方によって味も違うわけですが,やはり何ものも「養殖もの」は「天然もの」には勝てず,「天然もの」は高温で焼くために皮がカリッっとした味で,いわゆる「ホンモノ」なのだそうです。はじめカリッとした舌ざわりののち,餡のいっぱい詰まった中身に到達したときのときめきは最高の幸せに通じます。
 たかがたい焼き,されどたい焼き。こだわりはじめると,きりがありませんが,優雅な日常を幸せにすごすには,これもまた,ささやかな贅沢だったりします。

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 ☆☆☆☆☆☆
 数年に1度,肉眼でも見える彗星が地球に接近します。条件がよいと,長い尾を引いた美しい姿を見ることできます。今日の1番目から3番目の写真はこれまで私が写した大彗星の写真です,1番目は百武彗星(C/1996B2 Hyakutake),2番目はヘール・ボップ彗星(C/1995O1 Hale-Bopp),そして,3番目はネオワイズ彗星(C/2020F3 NEOWISE)です。

 今回は,2023年2月22日に発見された紫金山・アトラス彗星(C/2023A3 Tsuchinshan-ATLAS)が2024年9月末に太陽に0.4天文単位まで接近し,0等まで明るくなる,といううれしいニュースが飛び込んできました。
 私は,不快になるだけなので,マスコミや口コミなどの情報はすべて遮断しています。そこで,自分に必要な情報は,公式のものをインターネットから手にいれていますが,この情報は,2月28日の「CBAT」(=The Central Bureau for Astronomical Telegrams)#5228 が発信したものです。
  ・・・・・・
 小惑星地球衝突最終警報システム「ATLAS」(=Asteroid Terrestrial-impact Last Alert System)では,全天を24時間カバーするために,110メガピクセルCCDアレイカメラを搭載した口径50センチメートル f/2のライトシュミット望遠鏡が世界中に8台あって観測を行っています。そのうち,南アフリカのサザーランド(Sutherland)にある南アフリカ天文台(South African Astronomical Observatory=4番目の写真)に設置した望遠鏡が2月22日に撮影したCCD画像から彗星を発見しました。
 中国の紫金山天文台(=5番目の写真)でそれ以前の2023年1月9日に撮影した写真に同じ天体が写っており,特定できたので,この名前がつけられました。
  ・・・・・・
 その後の観測で,彗星の軌道が明らかになって,いつ見ることができるかわかったので,今日はそれを紹介します。

●2024年5月末から7月25日ごろ(下から5番目の星図)
 5月末にには彗星は10等星くらいの明るさになって,夜,太陽が沈んだあとの西の空,おとめ座からしし座にかけて移動する彗星を確認できるようになります。
  ・・
●7月末から9月末
 地球から見たとき,彗星は太陽に近づくために2か月の間,彗星を見ることができなくなります。
  ・・
●9月27日ごろから10月5日ごろ(下から4番目の星図)
 彗星は,明け方午前5時くらいに,太陽が昇る寸前の東の空低く,うみへび座に1等星から0等星の明るさで現れるのですが,高度が非常に低く,どのように見ることができるかはわかりません。
 彗星が大化けすれば,ひょっとして,ものすごく明るい彗星が薄明の中で確認できるかもしれません。
  ・・
●10月6日ごろから10月10日ごろ
 見かけ上,再び彗星は太陽に近づくので,見ることができなくなります。
  ・・
●10月11日ごろから(下から3番目から1番目の星図)
 彗星は日没後の夕方の西の空に,非常に明るい状態で見えるようになります。はじめは地平線ぎりぎり,次第に高度を上げてかみのけ座からうしかい座へ動いていき,ずっと見ることができるようになりますが,光度は下がり,暗くなっていきます。

 今のところ,このような感じだと思われますが,最も明るい時期に見ることができないとはいえ,10月11日を過ぎると,長い尾を引いた鮮やかな姿を見せてくれることでしょう。
 来年が楽しみになってきました。

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「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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 ついに,藤井聡太竜王が名人戦に登場します。デビュー以来,ずっと名人候補といわれ,マスコミに騒がれ,いつか潰れたときは気の毒だと思っていたのですが,私が思っていたより,ずっと精神的にも強い若者でした。
 私が若かったころは,何事にも「絶対王者」がいました。たとえば,プロ野球だと読売巨人,大相撲だと横綱大鵬,将棋だと大山康晴十五世名人,という具合です。物心ついたときからそうだったのだから,こうした「絶対王者」はずっと「絶対王者」のままで,変わることはないと思っていました。
 私はそのすべてに対してアンチでしたから,いつも辛い思いをしていたのと同時に,世の中はままならならないものだというあきらめをもちつづけて大人になったようなものです。こういう成長過程がいいのか悪いのか,いずれにしても,すっかりひねくれた大人になりました。
  ・・
 読売巨人の連続優勝が途絶えたのは,1974年(昭和49年)のことでした。こんなことが起こるのかと思いました。横綱大鵬が引退したのは,1971年(昭和46年),そして,大山康晴十五世名人が名人戦で敗れたのは1972年(昭和47年)と,奇しくも,それらはおよそ同じころのことで,私が最も多感なころでしたから,そのすべては強烈に印象に残っていて,今も詳しく語ることができます。文献だけで知っていて,それを文章にするライターとは年季が違います。
 強いものに対して,常にアンチである私なのに,その後の「絶対王者」で応援した王者がただひとりいました。それは,横綱千代の富士でした。齢が私とほとんど同じであったことと,強いながらも小柄で弱点をひめていたこと,そして何よりまだ関取になる前から知っていたからです。弱いころからの出世物語を知ると,応援したくなります。そこに,藤井聡太竜王が加わりました。
 現在の藤井聡太竜王のことは,ほかにいくらでも書いている人がいるでしょうから,今日は,昔の将棋名人戦の思い出を書きます。

 当時はテレビ中継もなく,インターネットもなかったから,知りうる情報は新聞紙上からだけでしたが,それでも,私がはじめて将棋名人戦を時系列で観戦したのは,第30期でした。それは,今も語り草となっている,升田式石田流をひっさげて,升田幸三当時九段が大山康晴当時名人を苦しめた,大山康晴名人の最後の名人防衛でした。
 名人戦は昔も今も4月のはじめから開始します。このころは桜が満開,しかし,雨の多い時期です。第30期将棋名人戦第1局の行われた日もまた,雨でした。このころの将棋名人戦は,東京の料理旅館・福田家ではじまるのが常で,まだ何も知らなかったころの私は,何か,ものすごく特別な儀式を見ているような気がしました。
 それ以来,私は,将棋名人戦は桜と雨,というイメージができました。
  ・・
 次に印象に残るのは,その次の第31期でした。
 大山康晴名人の後継者だとだれもが認めていた中原誠当時八段が,A級2期目に挑戦を果たしました。新進気鋭,強かった中原誠八段も,A級昇級の年は4勝4敗に終わったのですが,2期目は8戦全勝でした。
 第31期将棋名人戦は白熱した戦いで,第7局までもつれ込み,ついに,大山康晴名人の牙城が崩れました。しかし,そのことよりも,中原誠八段がそれまでのA級順位戦2期で戦った対升田幸三戦こそ,最高に記憶に残った対局でした。中原誠八段1期目は,升田幸三九段の妙手とうたわれた▲7七飛車が決定打となって完敗。2期目の対局は,升田幸三九段が勝ちを手に入れたと思ったときに▲9八香と指せばよかったものを手拍子で▲7二と指してしまったのが失着で中原誠八段が勝利しました。この2局の観戦記は東公平(=紅)さんだったのですが,それがおもしろかったこと。
  ・・・・・・
 (中原は)23分の長考をして△8三金と,敵飛圧迫の方針を見せた。ここで,升田の「新手」が出たのである。▲7七飛だ。「升田流や。ひとには教えられん」--ニヤリと笑う。この一手で,中原の飛頭の金は空を打たされ,苦戦に追い込まれたのだ。
  ・・
 中原が少考ののち△8九飛とおろすと,(升田は)チョンと香のうえをたたいて「上とこか」といった。▲9八香のことだ。しかしすぐに,ああ,行ったれ行ったれ,と吐き出すようにいって▲7二とと金を取った。バシッとコマ台にのせた。この一手が勝敗を分けた。
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 今は,あまりに対局が多すぎて,その多くは,それらがいかにすばらしいものであっても,次々と生まれる棋譜にとって代わられてしまい,深く印象に残らないのがとても残念です。

 それからちょうど50年。半世紀が経ちました。
 果たして,第81期将棋名人戦ではいかなるドラマが生まれるのでしょうか。

history_image第30期将棋名人戦第31期将棋名人戦


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 2020年3月,世界中が新型コロナウィルスの猛威に見舞われました。そして,人々のくらしが一変しました。そして,3年が過ぎました。
 今まで風邪ひとつひいたことのない私は,そのようなことにはまったく関係なく,いたって元気で,ずっと,ほとんど変わらない生活を続けているのですが,それでも,気軽に海外旅行ができなくなったのには,すでに予約をしてあった旅行をキャンセルするなど,はじめのころは多忙を極めました。
 といっても,自分でも信じられないのですが,世界中の1度は行ってみたいものだと思い続けていたのに長年行くことができなかったところに,2018年と2019年,そして,2020年の2月までに,何を思ったのか1年に6回も7回もせっせと旅をして,そのほとんどに行ってしまっていたので,そのころは,行きたくても行っていないというところは本当になくなっていました。
 そのコロナ禍も予想を1年越えたところで終焉を迎えそうな感じだし,この春,期限が切れてしまっていたのにそのままにしておいたパスポートを新しく作ったこともあるので,また,これから新しい1歩を踏み出そうと,いろいろ行動を開始しました。
 そこで,そんな3年間を振り返って,これらかどうするかを考えてみることにします。

 まず,私は,新型コロナウィルスが世界を襲ったのがもうわずかでも早かったら,と考えるとぞっとしました。
 たとえば,そのひとつに,パロマ天文台があります。私は,子供のころ,当時世界最大といわれたカリフォルニア州にあるパロマ天文台の口径5メートル望遠鏡を知って,それ以来,ひと目見たいものだと思い続けていました。それはかなわぬ夢だとも思っていました。しかし,思い立って,2018年に思い切って行ってみることにしたのです。
 何十年ぶりかで出かけたロサンゼルスでしたが,そのころは旅慣れていたので,東京へ出かけるような感じでした。ところが,年中無休とあったパロマ天文台の見学コースが,私が行った日に限って,駐車場の工事とかで臨時に休館していたのには失望しました。ただし,そのときは,もうひとつ行きたかったウィルソン山天文台が特別公開の日で,期せずして,ウィルソン山天文台を隅から隅まで,普段は見ることができないところまで見学することがきました。
 しかし,パロマ天文台を見たい。その夢をあきらめきれず,その翌年にも再び行くことにして,また,出かけました。そして今度は,通常の見学コースである,望遠鏡をガラス越しに見るのではなく,週末だけやっていた見学会に参加して,望遠鏡を真近に見ることができました。さらに,エンジェルスタジアムにも寄って大谷翔平選手まで見ることができました。
 これが一例です。
 このように,2018年から2019年にかけて,パロマ天文台だけでなく,それ以外にも,自分が望んでいた以上のすばらしいことが次々と起きていたのですが,もし,もう1年早く2019年にコロナ禍になっていたら,と思うと,自分の幸運さと運の強さに感謝せざるを得ません。
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 また,その反対に,もし,2020年3月にコロナ禍が起きておらず,今もそれ以前の世界のままだったら,その後の私はどんな旅をしていたのだろうか,と考えることもあります。
 そのときは,おそらく,ある意味,別に行きたくもなかったのに,無理やり行くところ探し出して旅行をしていたのだろうか,と思ったりもします。それはそれで,おそらく,多くのおもしろい経験をしたことだとは思うのですが,その反対に,コロナ禍が起きて海外旅行をすることが難しくなったおかげで,この3年間,もしそうでなかったら行くこともなかっただろうさまざまなところに足を運ぶことができたのも,また,とても幸運なことでした。それがどういったところだったのかは,これから書いていくことにしましょう。
 本当に,物事すべては「塞翁が馬」です。そのときそのときで,最善の選択というもはあるものです。

 いずれにしても,この3年間,修学旅行や卒業旅行に行くことができなかった生徒や学生は気の毒です。そしてまた,退職後に旅をすることを夢見ていた人もそれができなくなって気の毒な限りです。
 3年という月日は,その時間にしかできないことがあった人には,まさに,貴重な時間でした。
 また,私の両親は,2017年と2018年に相次いで亡くなりましたが,もし,あと3年存命だったら,それはそれでとてもたいへんだったことでしょう。
 その意味で,人の一生というのは,何かが起きたときに自分がそのときにどんな状況であるかによって,ずいぶんと異なるものです。私は,いろいろと運に恵まれました。

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 ハウツー本というものがあります。ハウツーは英語で「how to」。つまり,やり方のことです。ウィキペディアには
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 (ハウツーとは)何らかの作業をする方法や手順に関する非形式的な記述のこと。何らかのテーマに関するハウツーを集めた書籍をハウツー本とよぶ。
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とあります。
 この国に住む人の多くは「人生すべてパック旅行」なので,生き方さえもハウツー本に頼ります。そこで,書店の店頭には「80歳の壁」「70歳からの選択」「70歳が老化の分かれ道」… といった題名の本があるわあるわ。少子高齢化の進む日本では街中は年寄りだらけだし,今どき,書店で立ち読みしている人もまた高齢者ばかりだから,出版社としては,こういう本を出しておけば売れるのでしょう。というか,こういう本しか売れないのでしょう。
 しかし,齢を重ねても,生き方をそのような本に頼っている人は,これまでどんな生き方をしてきたのかな? と私は思ってしまいます。「人まね」人生なんて,何も楽しくありません。まあしかし,人生は1回きりなので,齢をとることも,また,はじめての経験だから,ドリル学習で育った人には仕方がないのかもしれません。
 かくいう私は,両親がふたりとも90歳前後まで生きたので,およそ,この先どうなるかがわかります。創造主もよく考えたもので,大病を患わなければ,人生の賞味期間は80年なのです。それを過ぎると泥仕合になります。そこで,このごろ強く感じるのは,残り時間も,持っているお金も限りがあるということに尽きるのです。
 若いころはそのようなことはそれほど思わなかったのに,これには参りました。だから,今の私は,まずは,時間が惜しいのです。自分でも手に負えないほどやりたいことだらけの私は,やりたいことをする時間をどう分担してやりとげるか,なのです。そしてまた,限りあるお金もまた,どう,自分の楽しみに分配するかがとても大切なことなのです。
 そのような状況で,何らかのことを達成するたびに自己満足に浸っているわけですが,私が達成感に浸れるのは,これまでにも書いたように,星と音楽と旅,これに尽きるので,それらを,いかに楽しくするか,なのです。この詳しいことは,また,次の機会に書くことにして,今日の話題はお金です。

 お金は,必要なことにはたっぷりかけますが,必要がないことには1円も使いたくありません。そこで,何が必要なことで何が必要でないことなのかは,その人の価値観にかかっているわけです。その場合,自分にとって必要なことがわからないと知らず知らず浪費をすることになります。
 その反対に,いくらお金を手に入れることができたとしても,精神的に満足できないことに時間を使いたくありません。たとえば,投資などに時間を費やすのは本当にもったいないと,私は思います。どれだけそれで利益があったとしても,それに費やした時間,そしてまた,むなしさが大きすぎます。精神的に得るものがないことに時間を使うのは,たとえお金を手に入れたとしてももったいないことですが,これもまた,若いときにそうした経験があるからこそわかることです。
 世の中は,お金を使わせようという誘惑が多すぎます。何の興味もなかったのに,うまくコマーシャルにのせられて欲しくなってしまったりするわけです。そうしたことにまんまと乗ってしまう若い人は多いのですが,一度乗せられてそれに懲りておくのも,免疫ができていいのかもしれません。

 人には免疫というものがあります。免疫は抵抗力を生みます。だから,抵抗力というものの存在を軽視してはいけません。抵抗力のある人は,少しくらい菌のあるものを食べても打ち勝てるのです。現在,何が怖いのか,やたらと怯えて,小さな子供に,過剰に消毒をさせたりマスクをさせる親がいますが,そうすることで,子供の抵抗力が育っていないことを,私は危惧しています。温室栽培では強い植物は生まれません。転んでけがをする必要があるのです。社会に出ても,世の中は善人ばかりではないので,ちょっとした悪いヤツとの接し方を子供のころから学ぶ必要があるのです。
 同じように,誰しもが罹るちょっとした病気は,子供のころにかかっておく必要があるのです。
  ・・
 ところで,四六時中マスクをしていることでつねに口呼吸になって,そのためにどんな弊害が起きるのかは医学的に何もわかっていません。医者は薬に関してはプロですが,マスクに関しては何も知りません。つまり,マスクの効用を語るのは素人の意見です。
 こんなことをしていると,おそらく,何十年も経ったとき,予期せぬ副作用が起きることでしょう。この国では,そのころに大きな社会問題となっているかもしれません。しかし,そうなったとしても,誰も責任を取ってはくれません。それが世の中というところです。
 と,ここまでは余談です。
 さらに余談を書きます。
 現在,ニューヨークでは,マスクをして公に出てもいいことを利用して,万引きが多発しています。防犯カメラで顔が特定できないからです。ニューヨーク市長は,店に入るときはマスクを「しないように」と呼びかけています。マスク信者の日本人観光客のみなさん,お気をつけあれ。

 話を戻しまして…。
 消費者は,お金を使うことに抵抗力を身につけなければならないその一方,商売をする側としては,どうでもいいようなものであっても消費者が買いたくなるように仕向けることができれば利益があがるわけなので,そういう気にさせるような商売が上手だともいえるわけです。だから,消費者側としては,そういう商売の方法,つまり,相手の手口を学ぶことこそが,浪費を避ける最善の方法となります。これこそが,浪費をしないための抵抗力であり,真の富裕層となる道なのです。


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 東京滞在2日目の2023年2月12日です。この日は終日水戸で観光をする予定で,帰りは午後9時過ぎというとても遅い時間の新幹線のチケットを購入してありました。それが,午前中で水戸を引き上げて東京に戻ることにしたので,大いに時間が余ってしまいました。
 水戸は見どころも少なくないし,博物館も美術館もあるし,魅力がないわけでもないし,1日中どこかへ行くことはできるのでした。また,行こうと思っても東京から結構遠いので,また行くかどうかもわかりません。であるのに,そうする気持ちがまるで失せてしまったのでした。

 そんなわけで,私は午後3時くらいに東京に戻ってきたので,午後9時まで何をしようかと思い煩わすことになってしまいました。自分でも訳がわからない話です。
 私は,JR東海ツアーズが発売している東京ずらし旅というものを利用して旅をしているのですが,これには,1,000円程度の「ずらし旅体験」というクーポンがついています。このクーポンがどこで使えるかという一覧があって,その中に「【ザ・セレスティン東京芝】ホテルラウンジで味わうクラシックカレーorスイーツ」というものを見つけました。ただし,時間が限定されていて,午後3時すぎではクラシックカレーはだめで,その代わりにスイーツを提供ということでした。飲み物もついていたので,行ってみることにしました。そして食べたのが,今日の写真にあるような,超ビッグサイズのパンケーキでした。とてもおいしかったのですが,おやつというにははばかられるこの大きさには参りました。
 他に何をしたいという予定もなかったので,そこでずいぶんと長居をしながら,このあとどうしようかと考えていて思いついたのが,このホテルからさほど遠くないところにあった泉岳寺へ行こうということでした。

 泉岳寺はずいぶん昔に一度行ったことがあるのですが,ほとんど記憶にありませんでした。
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 泉岳寺は,徳川家康が今川義元の菩提を弔うため、外桜田の地に1612年(慶長17年)に創建しました。1641年(寛永18年)の大火によって消失したため,3代将軍徳川家光によって現在の地に移転しました。
 この移転の際,毛利,浅野,朽木,丹羽,水谷の五大名が尽力したことから,五大名の檀越となり,浅野家との関りがこのときにはじまりました。
 1701年(元禄14年),江戸城松の廊下で吉良上野介を切りつけた浅野内匠頭は切腹を命じられ,菩提寺の泉岳寺に葬られました。翌年,大石内蔵助など47人の赤穂浪士はその復讐に吉良上野介を殺害しますが,1703年(元禄16年)に切腹を命じられ,亡骸が泉岳寺に葬られました。
 泉岳寺の赤穂義士墓所には,討ち入りした47人と,討入り以前に自害した萱野重実の供養墓を含めた48基の墓塔が並んでいます。
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 今の私には,東京のさまざまな場所の位置関係もわかるので,赤穂浪士が吉良邸へ討ち入って,その後,泉岳寺まで行ったというその距離感も実感できるのですが,そうしたことすら,昔は知りませんでした。やはり歴史というのは,歩いてみなくてはわからないものです。
 この赤穂浪士の仇討ちは,それを題材とした歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」から有名となり,それをもとに,これぞ武士道ということで,昔はテレビドラマや映画でもずいぶんと取り上げられてきたものですが,今では時代錯誤感否めず,取り上げられることも少なくなりました。
 泉岳寺の門前にあった古ぼけた土産物屋さんを見て,私は,赤穂浪士の仇討ちなんて今どきの若い人は知っているのだろうか? と思いました。アニメにはまったく疎いのでよく知らないのですが,何でも近ごろ「鬼滅の刃」というアニメで吉原遊郭が出てくるとかで話題になったそうなので,そのうち,何らかのアニメなどの題材として取り上げられると突然ブームが訪れるかもしれません。
 私のように歳をとると,人間のやってきたことは,いいも悪いもなく,そのすべてがすべて人間というものの業であり,それこそが人間という生き物の本質だと思うようになりました。だから,そうしたことには上も下も左も右もなく,それこそすべてが事実であり,歴史なのです。そして,そうした行為をするという属性をもつ生物を,創造主がおそらく誤って作ってしまったのでしょう。それが欠陥なら簡単に滅んでしまうだろうし,そもそも,人間が地球上に生存しなければならない理由もなく,また,人類の生存期間なんて,恐竜が生存していた期間と比べたら,足元にも及びません。
 そのようなわけで,吉原遊郭にせよ,赤穂浪士の仇討ちにせよ,それらはすべて日本という国に生まれた人がやってきた事実だから,アニメだろうが何だろうが,それを隠す必要もなく,そうした事実を知ることは悪いことではありません。むしろ問題なのは,そうしたことを悪く利用する人たちなのです。

 今回,ひさしぶりに赤穂浪士の墓を見て私が思ったのは,切腹を命じられた47人の年齢です。それは,60歳を過ぎて切腹して果てた人と20歳代で切腹して果てた人とはまったくもって平等でないなあ,ということでした。60歳すぎて切腹して果てたのなら,まあ,それもアリかもしれないけれど,20歳代で同じようにこの事件に巻き込まれていては若すぎます。もっといろいろやりたいこともあっただろうし。そう考えるとこの事件で死ななければならなかった若者たちが悲しいです。
 ところで,泉岳寺には,以前行ったときにはなかった赤穂義士記念館がありました。2001年(平成13年)に作られたものだそうですが,時間が遅く,残念ながら入ることはできませんでした。しかし,やり残すということはいいことで,ここもまた「次の機会」に来る口実ができました。
 泉岳寺を出て,そのあたりをなんとなく散策して見つけたのが,大石内蔵助等切腹地跡でした。こんな場所が残っていることは知りませんでした。
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 討ち入り後,赤穂浪士は4つの大名家にわけて預けられました。細川家に預けられたのは,大石内蔵助たち17人でした。1年後,赤穂浪士は切腹を命じられ1703年(元禄16年)年2月4日にこの地にあった細川家下屋敷で大石内蔵助たち17人は切腹しました。
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 これもまた,歴史の事実です。
 なお,藩主細川綱利は,切腹の庭を清めるための役人が幕府から派遣されたとき「ここで果てた勇士たちは屋敷のよき守り神なので,庭を清めるには及ばない。そのままにしておくように」という意味のことを言ったという後日談が伝えられているそうです。

 その後,どこかで夕食を,と思いつつも,変な時間に食べてしまった大きなパンケーキのおかげで,何も食べる気がなくなり,どうしようかと思いながら,一度は行ってみたかった白金台をお腹を空かそうと散策しつつ,さらに,その先までだらだらと当てもなく歩いていたら,ついに,恵比寿に着いてしまいました。
 せっかく恵比寿まできたのだから,恵比寿ガーデンプレイスで何か食べようとも思ったのですが,依然として食欲がわかず,あてもなく,そのままJR山手線に沿って渋谷まで歩いていくと,富士そばがありました。このくらいなら食べられるかもと,なんとなくお店に入り,きつねそばを食べて,それですっかり満足して,渋谷駅からJRに乗って東京駅へ向かいました。
 こうして,だらだらと時間を潰しました。
 帰りの新幹線が出発する時間になりました。あとは,がらがらの最新型新幹線N700S「のぞみ」のグリーン車に乗って名古屋まで帰るだけだったのですが,新幹線の車内でなぜかお腹が減り,ちょうどいい具合に通りかかった車内販売でサンドイッチを衝動買いしてしまいました。まあ,このいい加減さこそが自己満足でしたが,毎日こんなことをしていたら,あっという間に太りそうです。
 何もしなくても何も困らず,まさに,思いつくまま彷徨った幸せな1日でした。実は,こういうのがずっと記憶に残るのです。海外旅行をするよりずっと楽しいや。


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 2023年2月11日から1泊2日へ東京へ行って,その折に,1日目の午前中にエゴン・シーレ展へ行って,午後はNHK交響楽団の定期公を聴き,大井町のホテルに宿泊しました。そして,翌日は水戸へ行った話を書きました。今日からは,それ以外のことについて書きます。

 まず,上野の東京都美術館でエゴン・シーレ展を見て,ザッハ・トルテを食べてすっかり満足した私は,午後2時からのNHKホールで行われるNHK交響楽団の定期公演に間に合うように,のんびりと昼食をとることにしました。そこで考えたのが,少し前に書いたことがある「千束いせや」でした。「千束いせや」は金美観通りにあります。
 NH交響楽団は午後2時からなのですが,午後1時15分から開演前の室内楽をやるので,午後1時には到着しようと思いました。また,上野から渋谷までは結構時間がかかるので,午後0時過ぎには上野駅に戻ることにして,上野から金美観通りを歩いて行きました。しかし,結構時間がかかり,「千束いせや」に行って食事をしていては間に合わない,ということに途中で気がつき断念。結局,私は,そのまま上野に戻り,上野駅からJRに乗って原宿駅で降りました。
 さて,そこからです。原宿駅周辺で,お昼に混雑していないレストランを探す必要があったわけです。といっても,どこもかもすごい人です。で,思い出したのが,その昔行ったことがある代々木体育館の食堂だ,ということで歩いて行ったのですが,探してもそれがないのでした。どうやら,東京オリンピックを機に様変わりしてしまっていたようです。しかし,私は見つけました。国立代々木競技場フットサル競技場の奥に「ボルテックス」というレストランがあったのです。
 東京で静かなレストランを探すのは至難の業ですが,やっと見つけたという感じでした。しかも,目の前にはNHKホールがありました。

 さて,定期公演も終わり,今日の宿泊先の大井町にあるアワーズイン阪急に向かいました。
 このホテルは,今から20年ほど前には,私が東京へ行ったときの定宿でした。当時,宿泊代が5,000円で,500円追加すると朝食が食べられました。また,このホテルを気に入っていたのは,最上階に宿白客限定の大浴場があったことです。広々として空いていました。
 しかし,それもすでに過去の話。改装後は,最上階の大浴場はなくなり,3階だったか4階だったかにスーパー銭湯ができて,宿泊客でなくとも利用ができるようになって,とても混雑するようになりました。私はこれで幻滅し,それ以降は使わなくなっていました。今回利用したのは,単に,JR東海ツアーズで新幹線とパックになっていたというのが理由でした。
 久しぶりに宿泊したホテルはずいぶんと様変わりをしてしまっていて,私にはまったく魅力がありませんでした。便利になったのか不便になったのか? 古きよき時代がなつかしいです。

 夕食にはまだずいぶん早かったので,久しぶりにせっかく大井町に来たのだから,周囲を散策することにしました。以前よく来たときはそういった散策をまったくしなかったので,この町の周辺がどのようになっているのかずっと謎でした。私が知っていたのは,大井というところは,日本光学,今のニコンの本社と工場があるということくらいでした。そこで,大井町駅からニコンまでの道路が光学通りという名前になっています。今は,ニコンはカメラの製造はすべてタイで行われています。本社自体は今もあるのかな?
 歩き回って驚いたのは,少し前,品川駅から南にずっと旧東海道を歩いてみたことがあったのですが,そこに合流したということでした。あとで地図で確かめて見ると,大井町駅のひとつ北は品川駅だから,それもそのはずです。次第に位置関係がわかってきました。
 このように,このあたりもいろいろと様変わりをしてしまったのですが,私には,20年前の方が,この町はずっと魅力がありました。今は,東京のどこにでもある単なる駅前です。

 散策しながら,どこかで夕食を,と思って探していたのですが,これもまた,20年も前なら,ひなびた,そして,安価でおいしい中華料理屋でもあったのですが,今は,何だか値段の高いこじゃれた店ばかりとなってしまいました。私がやっと見つけたのが小さな定食屋で,覗いてみると,カウンタ席にお客さんがひとりだけいたので,中に入りました。こういうお店も,今はほとんどなくなってしまいました。
 東京は発展しているのか,退化し続けているのか。いずれにしても,若者には魅力があるかもしれませんが,「不良老人」にはとても過ごしにくい人だらけの大都会であることは確信します。
 旅先で飲んだり夜遊びをまったくしない私は,食事を終えてホテルに戻り,テレビも見ないので,まだ午後7時過ぎだというのに,特に何もすることがないから,早々に寝ました。

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 私の周囲に水戸へ行ったことのある人がひとりもいないのですが,その誰しもが言うには「水戸といえば,水戸黄門と納豆じゃあないの?」 私もそうでした。
 しかし,実際に行ってみると,お祭りのときは存在感があるそうですが,水戸黄門も納豆も影が薄く,ほとんど何もありませんでした。何かちなんだところがないか調べてみると,水戸黄門の像が駅の近くにあったのですが,思ったよりも小さなものでした。また,そこは,徳川光圀生誕の地でもあって,祠がありました。
 到着したときは駅の1階に降りてしまったのでわからなかったのですが,駅の2階の通路をそのまま外に出ると,テレビ番組「水戸黄門」の銅像があるというので,帰りに寄ってみました。
  ・・・・・・
 ドラマの佳境で三つ葉葵の紋所が描かれた印籠を見せて「この紋所が目に入らぬか!」と正体を明かす筋書きで有名な時代劇の定番「水戸黄門」は,徳川光圀がちりめん問屋「越後屋」の隠居・光右衛門,お供の助さん,格さんが登場します。
 水戸黄門は,水戸藩3代藩主徳川光圀の別称で,徳川光圀が隠居して日本各地を漫遊して世直しを行ったという創作ドラマです。
  ・・・・・・
 この日の午後,私が早朝に行った偕楽園に水戸黄門さんが出没したというニュースを帰りの列車で見たので,ホンモノの徳川光圀よりもテレビドラマの水戸黄門のほうが水戸のイメージなのでしょう。

 しかし,納豆はいったいどこに売っているのだろう? これは最後までわかりませんでした。というか,私自身が調べる気もなかったのですが…。
 では,納豆の発祥地はどこなのだろう?
  ・・・・・・
 納豆発祥の地といういい伝えがあるのは秋田県ですが, 明治時代,常磐線が開通し,水戸駅のホームで県内の納豆が販売されはじめると「豆がちっちゃくてうまい!」と大評判になって広まり,その名が全国に知られるようになりました。
 しかし,水戸市の1世帯当たりの納豆購入額は2016年を最後に首位ではなくなりました。
  ・・・・・・

 これまでに書いたように,早朝水戸に着いた私は,偕楽園と水戸城と「弘道館」に行って,すっかり水戸についての謎がとけて,お昼前だというのに水戸に満足してしまいました。駅に戻ってきましたが,駅前は早朝とは異なり観光客で一杯で,バスの1日乗車券を買う人が長い列を作っていました。それは,水戸は東京からはさほど遠くないし,この日は日曜日だったし,まだ少し時期が早いとはいえ梅まつりがはじまっていたからでしょう。
 いつも書いているように,人混みが嫌いな私は,これで嫌気がさして,予定では,夜まで水戸観光をする気だったのにもかかわらず,水戸から東京へ戻ることにしました。私は発作的にやる気がなくなってしまうのです。また,どうも,このごろは,こうした観光地を旅するというのにあまり熱心でなくなり,むしろ,観光地でないところへ車で走っていって,人のほとんどいないような地方の小さな温泉宿でゆっくり食事,というものに快感を覚えるようになってしまったのです。水戸には博物館や美術館もあるのに,あまり興味も湧きませんでした。今考えると,とてももったいない話です。
 列車に乗る前に,どこかで昼食をとろうと,駅周辺に小さな定食屋でもないかとお店を探したのですが,ファーストフード店やラーメン屋ばかりで,なかなか気に入るところがなく,結局,駅ビルならなんとなるだろうと,エスカレータを上っていきました。そして,そこで見つけたのが,1軒のおいしそうなおそば屋さん「まち庵」でした。結構なお値段でしたが「各日限定10食・梅まつり御膳」を注文して,贅沢な食事を楽しみました。

 何と,わざわざ水戸まで来て,これで私は東京へ戻ります。
 JR常磐線は,来たときとは違って,多くの乗客が乗っていて,やっと座れるという状態でしたが,帰りは何であれ来た列車に乗れば,途中で乗り換えがあろうとなかろうと,最終的に東京まで運んでくれるので楽です。私が乗った列車は,土浦までだったので,そこで,次の列車に乗り換えたわけですが,その先で,行きに通ったある駅が気になっていたので,途中下車をする気満々でした。それは牛久という駅でした。来る途中に私が気になったというのは,牛久というのは,今は二所の関親方となった72代横綱稀勢の里の故郷で,ここに新築した部屋を構えているということを思い出したことでした。
 そうか,牛久というのは,東京からは遠いと聞いていたけれど,ここにあるのか,と思いました。当然,部屋の中に入ることはできないけれど,どんな建物なのか見たくなりました。調べてみると,最寄りの駅は牛久ではなく,そのひとつ手前のひたち野牛久という駅だったので,その駅で降りることにしました。
 駅を降りて驚きました。何にもないといえば何にもない新興住宅地でした。しかし,日本とは思えない風景がそこにはありました。広い道路に広い家。トヨタのディーラが店を構えていましたが,まるでアメリカの店舗のような,いや,それより大きな店舗でした。こりゃ,日本でなくてアメリカの田舎町だ。日本にもこんなところがあるのが驚きでした。ここなら住んでみたいと思いました。当然,二所の関部屋もものすごく大きくて豪華でした。
 今回茨城県へ行った小旅行で,私が最も強く印象に残っているのは水戸ではなく,この牛久の町のアメリカの田舎町のような姿だったのです。

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Worm Moon 2023.

梅の花の香りただよう「かわたれどき」。
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 今日は啓蟄です。今年は特に,ここ3年間のうっ憤を晴らすかのように,さまざまな場所が混雑しているようです。陽気に誘われて,もぞもぞと土からはい出してくる虫たち同様,天気がよい日は朝から多くの人が外に出てくるのです。
 人混みの嫌いな私がわからないのが,どうして人は群れたがるのか,ということです。そもそも,人と同じことをやっていて得なことはひとつもありません。外食産業も,報道されると人気に火がついて過剰にお客さんが集まります。また,ものを選ぶにも,人気度とか売れ筋とかいうものがあって,盛んに購買意欲を煽ります。しかし,よほどのものでない限り,そうした人気はすぐに下火になってしまって,一時のブームが仇になることも少なくありません。
 また,投資なども,少し前に騒がれた円安のように,こうしたニュースが流れると,もっと安くなるぞ,といって煽るのですが,私が長年生きてきて,このような記事が出たときは終焉です。なのに,多くの人はそういう報道に煽られて大損するのです。
 旅もまた,あまりに多くの人が集まると,楽しいどころか,人混みを見にいくだけになってしまいます。コロナ禍以前のインバウンドは,まさに悪夢でした。それに比べたら,これまで何度も書きましたが,2020年の春と秋は最高でした。京都もからがらで,桜も紅葉も,最高に楽しめました。また,私は2020年の初夏に北海道にも行ったのですが,人の少ない旭山動物園を楽しむことができました。そもそも,この年の観光地は,どこも人がいないのだから,出かけても最も安全でした。しかし,お客さんの来ないお店は大変そうでした。
 それに対して,今年は,これまで我慢をしてきたのだからと,どこへ行っても密状態です。

 人は群れたがる,という傾向を利用して,「サクラ」というものがあります。「サクラ」というのは,客や行列の中に紛れ込んで,特定の場面やイベント全体を盛り上げたり,商品の売れ行きがよい雰囲気を偽装したりする人のことですが,これは,江戸時代,芝居小屋で歌舞伎を無料で見させてもらうかわりに芝居の見せ場で役者に掛声を掛けたりしてその場を盛り上げるのを,その場限りの盛り上がりを「桜がパッと咲いてサッと散ること」にかけて「サクラ」といったのが語源だそうです。
 人気のないお店など,さも人気があるかのように「サクラ」に頼んで列を作ってもらうと人が寄ってくるとか,だれもいない店内では入りずらいから客を装うとか。そうすると,それを見て群れたがる人たちが寄ってくるようになるのです。
 私のように,人がいればいや気がさしてそのお店に入るのをやめるし,人気があるといえば,それを避けるように旅をするというへそまがりは,まれな話なのでしょう。
 そこで,不良老人が平原を彷徨うには,雨が降っていてもこれから天気が回復する,という雨の朝に出かけるとか,人出がはじまる時間以前の早朝に到着してしまうとか,あるいは,ガイドブックにはかかれていない,一見何もないところを選んであえてそこに行って楽しみを見つけるとか,そういう苦労をすることになるのです。
 おそらく,観光地は今後V字回復することでしょう。そこで,私はこの先,人がいないところをさがすのに苦悩の日々が続くのです。ガラガラだった2020年の春がなつかしいです。


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 第72期王将戦の第5局が,2023年2月25日,26日に島根県大田市で行われ,101手で藤井聡太王将が勝利しました。
 今日のお話は,この対局の結果のことではなく,この対局で私が思った将棋AIにおける評価値のことです。このごろは評価値でなく勝率というそうですが,私には勝率ということばは何か違うという感じがするので評価値と書きます。
 この対局や解説は,囲碁将棋チャンネルのLIVE中継をはじめ,インターネットの毎日新聞の棋譜速報,YouTubeチャンネル「元奨励会員アユムの将棋実況」などで知ることができたので,参考にして楽しんでいたのですが,あまりにむずかしくて,対局が行われていた時点ではなかなか理解ができませんでした。評価値による優劣判定も二転三転して,しかもその振れ幅が大きく,まさに死闘でした。

 戦法は横歩取りでした。横歩取りは,双方の王将が盤面全体の戦場の中で右往左往し,いつ流れ弾に当たってもおかしくないというものなので,短手数で終わることが多く,2日制のタイトル戦に選ぶ戦法として好ましくないと思われていました。一般に,他の戦法に比べて盤面が狭く感じられ,手の選択肢が少なくなるのです。ところが,この将棋では,盤面上のすべての駒が有機的に入り組んでいて,手の選択肢が非常に多く,どの手を選んでもそのあとの変化が多岐にわたり,難解きわまるものとなったのです。
 将棋AIがなかった時代なら,この将棋を正確に解説するのは不可能であったように思えます。おそらく,そうして,おもしろさの半分も伝わらず闇の中に消えて行ったことでしょう。それが,将棋AIのおかげで,現在の局面の評価値や次の手の候補が表示されるから,あまり将棋がわからない人でも楽しめるわけです。
 対局が行われていたときは,私も,優劣を評価値に頼って見ていました。そして,それが二転三転したので,双方が最善手の応手をしているのではなく,疑問手を出し合っているように感じました。だから,将棋AIの示す最善手どおりに指し手を進めるいつもの藤井聡太王将とは違うなあ,調子が悪いのかな,とも思ったし,「疑問手が多いから熱戦になっているので,名局賞にはふさわしくない」とYouTubeチャンネル「元奨励会員アユムの将棋実況」で言っていたような感想を,私ももちました。
 しかし,囲碁将棋チャンネルで放送されたものを,局後に,解説を聞きながら見直してみると,まったく別の印象をもつようになりました。それは,将棋AIの評価値は,そうした人間の勝負を判定するには,まだまだ未熟だということです。

 藤井聡太王将の対局の解説をするのは大変です。
 高見泰地七段とか広瀬章人八段,佐藤天彦九段のような,日々最新形を研究している強い若手かもしくは超一流の棋士で,かつ,話が上手でないと,深い読みに裏づけされた指し手の真意がわからず,聞いていても得るものがありません。だから,囲碁将棋チャンネルの1日目のにぎやかしいだけで手が見えない解説は論外でした。2日目の放送は屋敷伸之九段の解説でしたが,それが思った以上によく,やっとこの将棋の本質がわかりました。
 この対局は,「疑問手が多い熱戦」ではなく,実際の指し手は人間が極限まで考えた末の最善の応酬だったのです。
  ・・
 よく,形勢判断といいますが,それは,形勢判断をする局面で,①駒割り②駒の働き③玉の固さ④手番を評価するものといわれます。しかし,将棋AIの表示する評価値は,その局面での形勢判断ではなく,その局面で,次に最善手を指したときのものなのです。
 その最善手というのが,また,くせものです。それは,この先もお互いが最善手を指し続けたとき,ということが前提だからです。しかし,ここに疑問がおきます。それはまず,どこまで指し続けた状態で将棋AIは評価を判断をしているのだろうか,ということです。即詰みがない段階では,無限に読むこともできないから,どこかで読みを打ち切って,そこで形勢を判断する必要があるのですが,将棋AIがどこで読みを打ち切っているのかがよくわからないのです。
 次の疑問は,将棋AIの示す最善手には,人間が簡単に指すことができるものとそうでない難解なものが存在するということです。難解なものは当然間違えることが多く,それが次の手でなくとも,その先,その先のどこかで間違えれば,すべてが崩れてしまい,最善手でなくなったりむしろ悪手となることもあるのです。この対局は,まさに後者のほうでした。まず,次の最善手が読めない。しかも,それに続く応手もまたすべて難解で,そうした最善手を指し続けたときの評価値にすぎなかったのです。
 であるならば,むしろ,人間は,どこかで間違える可能性が高いから,評価値はまったくあてにならない,ということになります。そこで,これらのことも考慮するようにAIには機械学習をしてもらって,そうしたディープラーニングの結果,将棋AIの考える最善手を人間が指すことができる確率までを考慮した形勢判断にしなければ,正しい評価値とはいえないのではないかと,私は思ったわけです。だから,将棋AIの評価値だけではなく強い棋士の解説が必要なのです。

 将棋AIによって形勢判断が数値化されたことで,将棋の楽しみが増えたことは否定できませんが,現在の評価値は,そうした意味で,まだまだ未熟です。だから,人間がその手を指せるかどうかといったことまでを考慮に入れた解説ができる棋士が優れた解説者といえるのでしょう。また,「観る将」は,評価値を参考にこそすれ,その値だけに一喜一憂せずに楽しむべきなのでしょう。そこに,コンピュータではなく人間の勝負を観戦する楽しみがあるのです。
 それにしても,これほど難解な将棋を見たのははじめてのことでした。また,結果は別として,羽生善治九段はとても楽しそうでした。おそらく,藤井聡太王将に若き日の自分を見ているのでしょう。そしてまた,夢を託せる若者を頼もしく思うのでしょう。
 まさに,解説者泣かせであり,将棋の奥深さを再認識した対局でした。

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 江戸時代以前の日本は今とは何もかもがずいぶんと違っていたらしいのですが,現在の日本の仕組みや日本人の思考は江戸時代に形作られて,現在もそのままだと私は思っています。そこで,この国が法治国家だとか民主主義だとかいっても,所詮は借り物であって,結局,日本は殿様国家なのです。
 政治家の多くも世襲だし,三権分立も名ばかりで,司法と立法は本質的には行政である与党内閣の顔色を窺っていて,分立などしていません。また,法律で決められてもいないことが「お願い」という名の強制でまかり通っていますし,中には何の権限もないのに自分を警察官気取りでいるような人さえいます。

 学校もまた同様で,その前身は江戸時代の藩校のまま。だから文武両道とか,いまでもそんなことを校風にしていたりします。
  ・・・・・・
 藩校は諸藩が藩士の子弟を教育するために設立したもので,藩士の子弟は強制的に入学させられました。
 藩校では武芸が奨励され,入学すると,まず文を習い,次に武芸を学びますが,教育内容は四書五経の素読と習字が中心で,やがて,蘭学や各種武術などが加わりました。
  藩校での試験は素読吟味で,四書のうち抜粋した漢文を日本語訳で3回読み上げ,読みの誤謬や遺忘の多少で合否が決まりました。次から次へと試験が行われ,落第すると厳罰が課せられました。
 やがて,明治の廃藩置県で藩校は廃止されましたが,学制発布後は,中等・高等諸学校の直接または間接の母体となっていきました。
  ・・・・・・
 ということですが,人の能力なんて生まれつきおよそ決まっているので,いつの時代にも,こうした教育に不適に生まれてしまうと,生きるのがたいへんです。

 旧水戸藩の藩校である「弘道館」は,9代藩主徳川斉昭が推進した藩政改革の重要施策のひとつとして,1841年(天保12年)に仮開館式が挙行されてから15年あまりの年月を要し,1857年(安政4年)に開設されたといいますから,幕末,江戸幕府が大政奉還をする直前のことでした。
  ・・・・・・
 弘道館建学の精神は,「神儒一致」「忠孝一致」「文武一致」「学問事業一致」「治教一致」でした。敷地面積は約10.5ヘクタールと全国一の規模で,学校御殿,至善堂の他に文館,武館,医学館,天文台,鹿島神社,八卦堂,孔子廟のほか,馬場,調練場,矢場,砲術場などが整備された総合的な教育施設でした。
  ・・・・・・
 弘道館は,1872年(明治5年)の「学制」発布で閉鎖されたので,江戸時代の藩校といったところで,存在していたのは,幕末期のわずか15年でした。その後,正門,学校御殿,至善堂は戦災を免れ,現在は約3分の1の3.4ヘクタールの区域が「旧弘道館」として公開され,藩校当時の姿を今に伝えています。また,偕楽園と並んで梅の名所としても有名です。
 正門をくぐって中に入ると,立派に整備された建物が迎えてくれました。建物の中は資料館を兼ねていて,特に印象的だったのは,15代将軍徳川慶喜が幼いころに学び,大政奉還ののちの恭順謹慎生活をおくったという至善堂でした。
 また,建物のまわりの庭が一周できました。建物の中は結構な観光客がいたのですが,庭にはほとんど人がいなかったのが幸いというか不思議というか…。まだ時期が少し早かったとはいえ,いくつかの木には梅の花が咲いて,建物とよく合っていて幻想的でした。

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木星と金星の大接近。

3月3日の夕方。
最接近の翌日です。 DSC_1515DSC_1290


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☆☆☆☆☆☆
 このところ,夕方の西の空で木星と金星が見かけ上どんどん接近していて,昨日2023年3月2日に離角が0.5度まで最接近しました。月の視直径(見かけの大きさ)も0.5度ほどなので,月の大きさ程度です。
 これを楽しみにして,連日写真を写していたのですが,当日の天気だけが心配でした。その前の日3月1日に前線が通過して,それまでのポカポカ陽気が一変して冬のような天気に変わり,そうなると,西の空に雲が出るので,見ることができるかな? と不安だったのですが,幸い,晴れ上がって,幻想的で美しい姿を見ることができました。
 今日の写真は,1番目のものが30ミリほどの広角で写したもので,ねらいどおり走っている新幹線も入れることができました。そして,2番目のものが,ここ3日載せたものと同じ300ミリで写したものなので,ここ3日間,次第に近づく様子を比べることができることでしょう。

 木星と金星が,見かけ上接近して見える現象自体はさほど珍しいものではありませんが,夕方,つまり,金星が宵の明星のときに木星が最接近した離角が0.5度以下であり,太陽が沈んで空が暗くなった30分後に高度が20度を超える見やすいものが起きたのは,実に8年ぶりのことでした。前回見ることができたのは,2015年7月1日で,日没30分後の高度は21度,木星と金星の離角は0.4度でした。しかし,このときの天気を調べてみると,やはり,梅雨末期で,全国的に雨だったので,実際は見ることはできませんでした。
 また,明け方,つまり,金星が明けの明星のときは,最接近した離角が0.5度以下であり,太陽が昇る30分前に高度が20度を超える見やすいものが起きたのは,ここ20年以上ありませんでした。条件を少し甘くして調べ直してみると,2015年10月26日は晴れで,高度は35度もありましたが,離角は1度も離れていたので,見栄えがしなかったし,2022年5月1日は雨だったので,離角0.25度,高度13度でしたが,見ることができませんでした。
  ・・
 そのようなわけで,ある意味,とても珍しい現象を,雲のない夕方の西の空に見ることができたのは幸運でした。
 このような天体現象は,文字で読んだりイラストを見るよりも,実際に見てみると印象がまるで違い,とても美しく,おもわず見とれてしまいます。特に,この季節は空が澄んでいるので,晴れさえすれば,「かわたれどき」の夕焼けの空に明るい星が浮かび上がるので,それはそれはすばらしいものでした。

 なお,2月28日には,月が火星と接近しました。これが今日の最後の写真です。以前にも書いたことがありますが,月と惑星の接近は月が明るすぎて,うまく写すことができません。月の模様を写せば露出が不足して火星が写らず,火星を写せば月が露出オーバーとなってしまいます。

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 若いころから,朝起きると,テレビのニュースを見るか新聞を読むかから1日がはじまっていました。しかし,テレビのニュースも見なくなり,新聞を購読することもやめた今は,優雅で,まるで旅行に出ているような気分になることに,改めて驚きました。
 新聞をやめた人は多いそうですが,それでも,その代わり,テレビやネットでニュースを見ているようなので,それであれば,これまでと何ら変わることもありませんし,情報を遮断したことにはなりません。そもそも,私には,さも訳知り顔で,適当な取材をしてきただけのその道の素人である記者が流すニュースや,本音は売名行為なのに,専門家と称して自説を語っているだけの解説者,いや,怪説者などからの情報を得たところで,百害あって一利もありません。さらに,ネットのニュースで,最もうざったいのが無責任なコメントであって,それはYouTubeなどでも同じです。
 私が知りたいのは事実だけ。特に,天気予報は,知っていないとまずい情報なのですが,それもまた,天気図とここ数日の天気予報だけ十分なのに,明日は寒いから服を1枚余分に着たほうがいいとか,あまりにおせっかいが多すぎるし,全く当たらない1週間後の予報など,知らないほうがましです。本当に日本は幼稚園のようです。うるさすぎます。事実からあとは自分で判断するからおせっかいは必要がないのです。

 そんなわけで,情報を遮断したことで,静かな1日がはじまるのです。
 私は午前4時45分に起床します。私は朝はめっぽう強いのです。まず,カーテンを開け,クラシック音楽を流しながら朝食の準備をし,朝食をとったり,それから何やらしたりすると1時間が過ぎます。
 その後は,頼まれ仕事で外出するときは午前6時に家を出ます。早く家を出るのは,道路が空いているからです。早めに目的地に到着するので時間がたっぷりあって,それから読書をしたり,ラジオのドイツ語講座を聞いたり,仕事の準備をしたり,という感じです。
 何も予定がないときは,雨さえ降っていなければ,カメラをお供に散歩に出かけます。
 散歩をする時間は,日の出前後がいいのです。何といっても,空が美しい。この時間は,早朝も夕方も,つまり,「かたわれどき」も「かわたれどき」も,ともに,自然が最も美しい時間だと思っています。晴れていれば気持ちがいいですが,雲があっても,その雲が昇ったばかりの太陽の光で赤く染まります。木々は太陽の光を反射して,ドキッとする姿を見せます。やがて,太陽が昇りきってしまうと,それまでの幻想的な姿はすっかりなくなってしまう日常に戻ります。
 このように,何事も,何かがはじまる前がすばらしいのです。

 と書いていて,思い出したことがありました。
 それは,例えば,野球の応援をしていて,打者がボールを打った後で,もっと飛べもっと飛べといくら応援したところで,多少は風の影響があるにせよ,そのほとんどは,バットがボールをはじいたときがすべてであって,その後は何も変わらないということです。
  ・・
 それにしても,ニュースは,私がどれほど遮断してもいくらで聞こえてくるもので,私が昨日知ったのは,「出生数,初の80万人割れ確実に」というものでした。
 以前にも書いたことがありますが,ニュースを流したあとで,いまさらいろいろと解説をしても何の意味もないのです。もっと以前から推測できたことなら,そのころに問題定義をするべきだったのです。起きてしまったあとで騒いだところで手遅れです。また,いつものように,こういったニュースの常として,街頭インタビューなるものを流すのですが,それもまた,多く収録したインタビューの中から報道する側が意図した回答だけを取り上げ,あとはボツにして編集しているから,それもまた,世論を反映しているものではありません。そこにはすべて編集する側の何らかの意図が存在しているのです。

 水は高いところから低いところに流れるわけで,いくら政府が禁止したところで,本当に便利なことはなくなりません。それと同じように,生きていて楽しいと大人が思えれば自然と出生率は上がります。そうでなければ,いくらお金だけを配ったところで子供は増えません。それにしても,子供が減ると年金が減ったり福祉行政が行き詰まる,などという意見は,生まれてくる子供のことを考えているわけでもなく,要するに,大人の自分の都合にすぎないものです。
 いろいろな国を旅した私が,こういうニュースを聞いたとき思い出すのは,公共交通機関はベビーカー優先で,母親はベビーカーをもったまま席に座れるようなつくりになっていたウィーンの鉄道や,多くの若い夫婦がベビーカーを引きながら幸せそうに歩いていたヘルシンキの街の姿です。それに比べたら,日本は…。
 【今の日本では】「子育ては罰ゲームだ」といわれています。こういうことを書くと子育てはすばらしいとかいって反論する人がいるわけですが,それは論点が違っていて,「子育てが罰ゲーム」なのではなくて,【今の日本では】ということです。
 前日,私のまわりで,子供が生まれた,というような人が少なからずいたのですが,率直にいって,今【この国で】子供を作るなんて,なんとまあ,奇特な人だこと,と私は思いました。この先,預けようにも保育園がなく,学校に入学すれば,教員になりたい人もいなくなってしまった時代遅れの教育やらドリルをやるだけの塾やらユニフォーム代がめちゃくちゃ高いブカツたら何やらと教育にやたらとお金がかかり,新興宗教が母体で自浄能力もなく親から受けついだ地盤で当選しただけのような世間知らずで庶民の苦労も知らない人が構成する政府にムダ使いだらけの税金をたらふく取られ,女性が,たとえ優秀な成績で学校を卒業して社会に出ても,世界でも有数の男女不平等な国では夢も希望もない。生まれた子供の身になってみれば,将来,老人だらけのめちゃくちゃ大変な世界にほおりだされるわけです。
 そもそも,私がその身だったら,今【この国で】子供なんてやりたくありません。古きよき夢いっぱいだった時代に青春をおくりバブル経済期に無駄遣いをしなかったおかげで結果的に貯蓄が増え,今やりたいことをやっている「不良老人」の私には天国ですけれど。

無題


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木星と金星の大接近。

3月1日の夕方。薄雲があります。
3月2日まで近づいていきます。 DSC_1225s


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 3月です。めっきり暖かくなりました。こうなると,外に出かけたくなります。
 とはいえ,「青年は荒野をめざす」そうですが,めざすものすらなくなった,かつ,荒野を歩く元気もない「不良老人」は,平原を彷徨く(うろつく)しかないのです。そのうち,痴呆老人となって,本当に,近所を彷徨くこととなるでしょうが,今は,まだ,そこまではいっていないのだけが幸いです。というわけで,「不良老人は平原を彷徨く」と題して書くことにします。

 ところで,このところ,私が若いころに活躍していた人たちの訃報をよく耳にします。また,私と同じくらいの齢の人がよく亡くなります。そこで,私も,あの世とこの世の境がすごく低く感じられるようになってきて,跨いで行き来できるかような錯覚に陥ったりするのですが,それはまるで小野篁のようだな,と思い当たりました。
 小野篁といえば
  ・・・・・・
 わたの原八十島やそしまかけて漕ぎ出でぬと
 人には告げよ海人あまの釣舟
  ・・
 大海原に広がる島々を目指して漕ぎ出して行ったと
 都の人々へ伝えてくれよ漁師の釣り船よ
  ・・・・・・
という小倉百人一首の句で有名ですが,この歌は,都を離れて隠岐に旅立つ際に詠まれた,流罪に沈む寂しい旅立ちを詠んだものです。
 小野篁は,平安時代初期の802年(延暦21年)に生まれ852年(仁寿2年)に亡くなった,嵯峨天皇に仕えた官僚で,参議という高位にまでなった文武両道に優れた人物でした。しかし,不羈な(ふき=束縛されない)性格で「野狂」ともいわれ奇行が多く,遣唐副使にも任じられたのですが大使の藤原常嗣と争い,嵯峨上皇の怒りにふれて隠岐に流罪されたこともありました。百人一首の句はそのときのものです。また,閻魔(えんま)王宮の役人ともいわれ,昼は朝廷に出仕し夜は閻魔庁に勤めて第二の冥官であったので,今も,六道珍皇寺の本堂背後の庭内には,小野篁が冥土へ通うのに使ったという井戸と,冥土から帰るのに使った黄泉がえりの井戸があります。私も行ってみたことがあります。

 私は,この齢になっても,夢いっぱいであり,やりたいことだらけ。かつ,頼まれ仕事がいっぱいなのですが,たとえそれらが突然一切できなくなったとしても,それはそれで全く悔いがない,というとても満足した心境なのが自分でも幸せに思えます。
 また,やりたいことだらけとはいえ,雨が降ったり,風が強かったり,というように,条件が悪かったら一切やることもなく,ポカポカ陽気に誘われたときだけ,そういう行動をするという,これもまた,軟弱を絵にかいたような日々をおくっているのですが,人生なぞ,すべてが不要不急。頼んでもいなにのに生まれてきちゃったわけなので,お迎えが来るまで万事暇つぶしです。だから,これで十分です。
 ということで,2月のほとんどは,雨が降ったり,あるいは,風が強いというように,冬の終わりが近い日が多かったから,あまり外出もせず家に閉じこもりがちでしたが,とてもよい天気になってきたので,このような日の常として,カメラを肩にかけて近くの平原を彷徨くようになりました。今年の啓蟄は3月6日ということなので,暦の上でも春が来たようです。
  ・・・・・・
 太陰暦で1年を24分割したものが二十四節気で「立春」からはじまり「大寒」で終わります。「啓」はひらく「蟄」は土の中で冬ごもりをしている虫のことから,「啓蟄」は寒さが緩んで春の陽気になってきたころを指します。
  ・・・・・・

 私が平原を彷徨いた日は,梅の花が咲きはじめていて,思わず,写真を撮るのに夢中になりました。それが今日の写真ですが,私と同じくらいの齢の人が2,3人,私のように暇なのか,えらく大きな望遠レンズをつけたカメラと三脚を持参して,花を目当てにやってくる鳥を写していました。
 私も,時には安価な望遠鏡を設置してだれもいない深夜の草原で星を写しているので,人のことは言えませんが,真昼間にこんな大きな機材を持ってきて鳥を写すのが楽しみだなんて,なんと大変なことか,と思いました。鳥は動き回るので,手動で焦点を合わせればいい星に比べて,はるかに大変なのです。そこで,そういった高性能の機材を購入するにはお金がかかるわけで,コストパフォーマンス最悪です。100万円を機材に投資するなら3回海外旅行をするほうがいい,というのが私の価値観だから,私はそういうのは御免ですが,まあ,何ごとも自己満足の世界なので,人それぞれです。
 その中のひとりの人が私に写した写真を見せて,内心は自慢げに「なかなかいい写真が撮れない」とぼやきました。私が「うまく撮れないから長続きするし,楽しい」と何となく言ったら,そういう考えをはじめて聞いたといって,えらく感動されたのが,私には意外でした。これもまた,人と比べることを善として生きてきたすぐれた? この国の教育のさびしい成果なのでしょう。何事も,満足できないからこそ,今度こそ,と思ってやる気になるのだと私は常々思っているわけですが,楽しみなんて,だれに頼まれたわけでも強制されたわけでもなく,人と比べる必要もなく,所詮は自己完結の世界です。

 なお,「夏至」や「冬至」とは違って,「啓蟄」に食べる決まったものはありませんが,この季節は,旬が2月から4月のハマグリが美味だそうです。雛まつりに蛤を食べると良縁を招くといわれています。そこで,私も,良縁には関係がないですが,春を味わって楽しむために食してみることにしました。

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木星と金星の大接近。

2月28日の夕方。
3月2日まで近づいていきます。 DSC_1167xs


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