しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

April 2023

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 しらびそ高原から国道152号線に戻ってきました。
 今回は,ここから国道152号線を南に走り,途中で国道151号線に通じる国道473号線に右折して,今度は国道151号線を北上して飯田市までまで行き,国道153号線でさらに北上して,国道361号線に左折して権兵衛トンネルを越えて,国道19号線に出て南下,目的地の木曽駒高原に行くことにしました。こんなバカげたジグザクの遠回りをするのは,平行する国道152号線,国道151号線と国道153号線,そして,国道19号線がそれぞれ,杖突街道,伊那谷,木曽谷と,別の谷を通っていて,その間に険しい山脈があって,ほとんど東西を結ぶ道路がないことと,これまで走ったことがないところがどうなっているかを知りたかったことにありました。
 特に,長野県上田市から八ヶ岳や南アルプスの山間部を縦断して,静岡県の天竜川や支流の水窪川に沿って浜松市街に下る国道152号線は車両通行不可能な分断区間が2箇所に渡って存在し,赤石山脈沿いの山岳路では自動車1台分の道幅しかありません。また,地蔵峠と青崩峠には車道は通じていないので,峠を越えるためには登山道を徒歩で登っていくか,林道で迂回する必要があるなど,「酷道」のひとつに数えられているということで,これまで私は地図で見ただけで,どんな山の中かと思っていたのです。
 しかし,走ってみて驚きました。山の中を狭い道路だけが続いているのかと想像していたのに,結構多くの民家があったからです。こんな不便なところに住んで,一体何を生業としているのか,私には謎でした。日本では,どこまで山奥に行っても人が住んでいます。それはそうと,中央構造線があったり,広く快適だった道路が突然狭くなり工事中だったりと,走っていて飽きることはなかったものの,これまで,四国地方や紀伊半島を走ったときに,日本の山の中は今もこんな感じなんだ,と衝撃を受けたのですが,まさか,中部地方でも同じだということをこれまで知りませんでした。
 ちなみに,国道152号線は三遠南信道という100年後も完成しないといわれる高速道路に準じた道路が作られる計画があるのですが,それが一部開通していたり,あるいは,工事中だったりしています。

 ところで,私が国道151号線を走ったのには,また,別の理由がありました。それは,東栄町御園というところに行ってみたかったからです。
 まず,国道151号線沿いに,「レストハウス東栄」という食堂があったので,おすすめの「旬のランチの定食」を注文しました。おそばだけでも十分なほどすごい量でしたが,なかなかおいしい食事ができてすっかり満足しました。ここの女将さんはとてもいい人でした。
 さて,東栄町の町から北に山の中を入って行った御園という集落には,かつて,御園天文科学センターがありました。金子式プラネタリウムを開発した豊橋向山天文台の金子功さんが,豊橋市内では星が見られなくなって山の中に引っ越して作った施設・御園天文台を拡張したものでした。学生のころ,満足に星を見たことがなかった私は,ここならきれいな星空が見られるだろうと憧れていたところでした。当時は車をもっていなかったので,国鉄といったころの飯田線に豊橋駅から乗って東栄という駅で降り,1日に数本しかないというバスに乗り損ねたので2時間くらい歩いて御園まで行って,金子功さんにお会いしたのが今から45年前のことでした。
 金子功さんは2009年に90歳で亡くなったということなので,当時59歳だったのです。初老のすてきな人で,アポイントもなく行ったのですが,暖かく迎えてくれました。廃校になった御園小学校の旧校舎を利用したところで,金子式プラネタリウムと口径30センチメートルの天体望遠鏡が備えられていました。ミカンを食べながら話が弾み,ここに住んでみないかと言われたのですが,当時は,まさか,と思いました。弟子入りすればよかったのに,惜しいことをしました。しかし,もし,そんなことをしても,こうした田舎で私が生きていけたとは思えません。

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 当時,金子功さんは,御園天文科学センターを単なる天体観測施設ではなく,所有していた天文機材のほとんどを町に寄付し,つぎのような「文教の里づくり構想」を打ち出しました。
 1.天然自然に恵まれた地域の特性を生かした「天の利」
 2.土地の生産力を高め経済力をつけるための「地の利」
 3.数々の施設を中心とした文化活動を通じての「人の和」
 しかし,この構想はこの地の人には理解されませんでした。
 行政側は施設建設さえ終わってしまえばあとはさして関心を示すこともなく,天文施設は町のお飾りになってしまったのです。 行政側からは「天文台を自分のもののように勝手に運営している」だとか「何を企んでいるのか信用できない」という声が上がりはじめ,悲嘆に暮れる日々が続くようになりました。 結局,田舎自治体の保守的・封建的な考え方が金子功さんの自由な発想に追いつけなかったわけです。
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 その後,御園天文科学センターは廃止されて,町主導で新しく作られたのがスターフォーレスト御園でした。私も一度行ったことがあるのですが,何か金子功さんの意思とは違うなあと,あまりいい印象は持ちませんでした。また,私は,こうした一般の人を対象とする施設は嫌いなので,それ以後は行っていません。
 今はどうなっているのかな,と思って今回寄ってみたのですが,御園天文科学センターは使われないまま未だ存在し,スターフォーレスト御園は健在でした。昔話でもしようとスターフォーレスト御園を訪ねてみたのですが,田舎の排他的な空気を感じ,特に星好きでもなさそうな職員の人のお役人的対応にすっかり気分が悪くなりました。夢から覚めた気持ちでした。
 私は,ここで星見をする気もなく,過去の自分の足跡をたどる,というか,曖昧になってきている記憶を書庫にいれるような旅をしているだけなので,何方道(どっちみち),もう来ることはないけれど。

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 2023年4月22日から4月23日,1泊2日で木曽駒高原に出かけた途中でまず寄ったのがしらびそ高原でした。
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 しらびそ高原は長野県飯田市上村にある標高1918メートルの高原です。「しらびそ」とは高原付近の植生であるマツ科モミ属の樹木であるシラビソに由来します。
 矢筈トンネル東出口から市道上村1号線を登ったところにあって,日本三百名山の奥茶臼山の登山口でもあるしらびそ峠の南方徒歩10分ほどの場所に,高原の中核施設となる宿泊施設のしらびそ高原天の川があります。
 高原からは南アルプスの山並みが一望でき,天気がよければ北アルプス,中央アルプス,御嶽山や恵那山まで見渡せます。また,本州有数の天体観測スポットとして知られています。
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 今から40年ほど前,しらびそ高原は星がきれいだということで知りました。
 そのころは,どこで美しい星空が見られるのかを知らなかったので,そんなところならぜひ行ってみたいものだと思ったのですが,地図で見るとあまりに遠く,そもそも,しらびそ高原に行くには,国道152号線という,南アルプスの西側の山麓を南北に走り,しかも,途中で国道がなくなってしまうという道路を越える必要があって,そんなえらい山の中に行くのはたいへんだと,なかなか行く機会がありませんでした。星を見るために3時間も遠征するのもどうかと思ったのです。
 今の私は,日本国内だけでなく,ハワイやオーストラリア,ニュージーランドで満天の星を見てきたこともあり,日本国内で星見をするには,今回も行った木曽駒高原で十分だと思っているし,もともと晴天率の低いこの国で星見を目的にそんなに遠くに行くのはリスクが大きすぎるので,まったく魅力を感じないのですが,それとは別に,今私がやっている「一度は行ってみたいと思っているところは今行かねばきっともう一度も行くことはないだろう」の一環として,好奇心だけで思い切って行ってみたわけです。

 それにしても遠いところでした。
 国道153号線,国道418号線と山の中を東に東に走りました。途中,ものすごく立派な道になったり,あるいは,すれ違うのもやっとという道になったりと,この国のどこにもある道路事情と同じだったのですが,最短に走って約3時間かかりました。
 この日,家を出たときはとても天気がよく,木曽谷まではその状態だったのに,伊那谷を越すと曇りになってしまったのがとても残念でした。こんなに遠いのか,と思いながら,やっと到着したしらびそ高原には,「天の川」というとても立派なホテルがあったのに驚きました。そして,週末だからか,多くの宿泊客がいました。私は,もっと何もない山奥だとばかり思っていました。
 確かに,ここなら,視界が広いので,晴れてさえいれば,とても美しい星空が見られることでしょう。しかし,こんな立派な宿泊施設があっては多くの人が来るだろうから,落ち着いて星見をすることができそうにないので,私向きではないなあ,と思いました。また,宿泊施設の部屋の明かりでせっかくの暗い空が台なしです。以前,しらびそ高原に星見を目的で行った人が期待外れだったと言っていたのですが,その理由がわかりました。
 観光が目的で宿泊するにはよさそうなところですし,普段,星を見たこともない人が単に満天の星を見るにはいいところなのかもしれません。しかし,ここに泊まっても,次にどこに行く,というところもなく,それにしても遠いから,拡張性はありません。

 今回は,せっかく行ったのに,霧が出ていて,あまり南アルプスの雄大な景色が見られなかったのが残念でしたが,まあ,一度は行ってみたかったしらびそ高原というところがどんなところかわかったので,満足でした。

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2023年3月25日。佐渡島旅行最終日は国中平野にある見どころを巡る予定でしたが,その前に,再び史跡佐渡金山に行くことにしました。その理由は,2日目の夕刻に行ったとき,明治以降の採掘跡である道遊抗を出たところで雨が降ってきて,傘を持っていなかったのが災いして,最大の見どころだった「道遊の割戸」に行くことができなかったからです。そんなわけで,今回は道遊抗の見学だけをするつもりでチケットを購入して,中に入りました。
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「道遊の割戸」は,壮大な採掘跡を残す佐渡金山のシンボルで, 佐渡金山の中でも初期の採掘地とされる江戸時代の露天掘りの跡です。巨大な金脈を掘り進むうちに山がV字に割れたような姿になりました。
山頂部の割れ目は幅約30メートル,深さ約74メートルにも達します。
道遊脈とよばれる脈幅約10メートルの優良鉱脈を有していて,明治以降も割戸の下部で大規模な開発が行われていました。
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1899年(明治32年)にはじまった道遊坑での採掘場にはトロッコと線路があって,電線や水処理と空気を送るパイプが設置されていました。削岩のときも,ダイナマイトを使用し,機械で運び出していました。 道遊坑を出たところにあるのが機械工場で,削岩機などのさまざまな工作機械が掘削を停止したときのまま保存されていました。
ここから,「道遊の割戸」に向かう坂道があります。
「道遊の割戸」までは約10分の登りで,実際に目にした割れ目の底に大きな穴ぼこがあって,現在は途中で埋まっているのですが,本来は道遊坑につながっていました。江戸時代に掘ったのは山頂近くだけだったのですが,明治になってから穴を開けて,鉱石を落としながらどんどん掘り下げていったのです。それは,山頂のところにタテに鉱脈があったからで,露頭掘りで垂直に切り出された採掘跡は他にないといいます。
また,ふもとにあるのが北沢浮遊選鉱場で,世界ではじめて浮遊法という選鉱法を金で行った施設でした。
やがて,昭和になって鉱脈が枯れはじめると,浜石から金を取りだすことになりました。浜石というのは海岸に転がる石のことで,何百万年という間に川によって山から削られて海に流れ出た金鉱石です。浜石は約200万トンも存在しました。
第2次世界大戦が拡大すると,銅や鉄,亜鉛,鉛などの生産に力が向けられることになって,佐渡金山は閉山を迎えることになってしまいました。浜石は今もあって,100億円以上の金が存在するということですが,それは民家の下,なのだそうです。

実は,佐渡金山は,金ではなく銀の産出量が日本一でした。
それは,金鉱脈からは銀や銅も産出することが多かったからですが,佐渡金山では,金の総産出量が約78トンで銀はその30倍の2,300トンもあったのです。日本では,全盛期は,佐渡金山のほかに,石見銀山や生野銀山などがあって,銀の産出量は世界の約3分の1を占めていました。
佐渡金山は生産を停めましたが,今の日本でも金は産出しています。1985年から採掘をはじめた鹿児島県の菱刈鉱山は,わずか12年で佐渡389年分を追い抜きました。これは,最新の技術の成果です。こういう話を知ると,江戸時代,人力で鉱山を掘っていたことの大変さがわかるというものです。

この日は,売店で金粉入りソフトクリームを食べました。

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小佐渡を1周して,真野湾を越え,七浦海岸に戻ってきました。
途中,小佐渡の西端が沢崎海岸で,そこには沢崎鼻灯台があったのですが,遠くからしか見ることはできませんでした。また,沢崎海岸あたりの道路が入り組んでいて,道に迷いました。それまで走っていた佐渡島の外周を1周しているはずの県道45号線が突然なくなってしまったからです。佐渡一周線とは名ばかりで,突然その表示はなくなるし,いい加減な話です。
観光名所である小木町と宿根木は,真野町から内陸部を国道360号線が貫いていて,海岸線を走らなくてもショートカットできます。だから,目的地が小木町と宿根木であるならばアクセスするには便利なのですが,私のように,佐渡島の海岸線をくまなく走っていこうというモノ好きには過酷でした。海岸線を走っていたら,突然道路がなくなってしまったり,ものすごく狭い民家の間を走ることになってしまったりと,悪戦苦闘の連続だったのです。そんなわけで,この間しばらくは余裕がなかったので,1枚の写真もありません。
なんだかんだで,何度も引き返したりしながら,どうにかして,再び国道360号線が海岸線に沿って走るようになった河ケ崎にたどり着いたので,国道360号線に合流しました。その後は快調に走っていたら,ほどなくして真野町に着いてしまいましたが,ここは明日観光することにして通過して,今日宿泊する七浦海岸の「いさりびの宿・道遊」に急ぎました。
宿に着くのを急いでいた理由は,せっかく西海岸の沿った宿に泊まるからには,午後6時過ぎに沈む夕日を見たいと思ったことと,この日の午後8時過ぎに,金星と月が大接近するということで,その前に入浴を済ませて,夕食をとり,食後に写真を写そうと思ったからなのです。

「いさりびの宿・道遊」は3泊目の宿を探していて適当に選んだところだったのですが,まさに私の理想の宿でした。以前,「ある思惑があって3泊目の宿泊先を変えた」と書きましたが,「ある思惑」とは,両津港の近くにある「金沢旅館」に泊まろうと思っていたことです。しかし,どういうわけか,予約ができず,見つけたのが「いさりびの宿・道遊」でした。しかし,期待以上,ここは最高でした。
こうして,これまで2泊した民宿「桃華園」もよかったし,3泊目の宿もまたよかったから,私の佐渡島に対する印象は五つ星なのです。旅はこうでなければなりません。
「いさりびの宿・道遊」は,まず,場所がよかったです。西側が海に面していて,夕日が最高に美しいのです。また,夕日は部屋の窓からも一望できるのです。しかも,雨という天気予報は今回もまた覆り,この日は昨晩降った雨も上がり,青空になりました。次に,この宿のさまざまな「こだわり」が私の考えと一致していたことです。宿の女将とも話をしたのですが,とても気が合いました。
このきれいな宿に到着して,はじめに,ゆっくりとお風呂に漬かりました。ここは温泉で,くつろげました。お風呂から上がって,次にしたのは夕日を見ることでした。宿の前の海岸でもよかったのですが,2日目にも行った夫婦岩が近かったので,夫婦岩を入れた夕日の写真を写すことにして,車で出かけましたが,わずか5分程度で到着しました。
夕日を写真に収めてすっかり満足して宿に帰り,そのあと,いよいよ夕食でした。
佐渡島に来てすっかり日本酒が好きになってしまった私は,飲み比べセットなるものがあったので,それを注文して,地酒を堪能しました。そのあと,ビールも飲みました。ふだんはアルコールを飲まないのですが,こんな調子で,すっかり呑み助になりました。食事もまた最高でした。
夕食を終えて,宿の前の海岸で,金星と月の大接近をカメラに収めました。旅に出るまではすっかり忘れていたこの天体現象でしたが,この晩,日本で晴れていたのは佐渡島くらいのものだったので,自宅にいたら曇っていて写せなかったことでしょう。しかも,ここは金星と月が見える西側が海岸なので,まさに理想的な場所でした。

きれいな部屋,おいしい食事,そして温泉。
佐渡島の3泊目もまた,快適に過ごすことができました。
さて,最終日。朝食をとってチェックアウト。この日は国中平野巡りです。

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 お昼の時間になったのですが,筑波宇宙センターにはカフェテリアもなかったので,バスに乗ってつくば駅に戻ることにしました。バスの時間はあらかじめ時刻表で調べておいたので,バスが来る5分前にバス停・資材科研究機構に着きました。
 定刻にバスがやってきました。しかし,このバス,すごい勢いでバス停を通過していきました。通過するときに運転手は私の姿を見て,手で大きな×印を作りました。しかし,バスは回送と表示されてもおらず,いったい何が起こったのか,私には不明でした。乗車拒否をされたように感じました。その後,10分過ぎてもバスが来ません。天気がよければいいのですが,結構な雨が降っていて,しかも,車がしきりに水しぶきをはねながらすごいスピードで通り過ぎるので,バス停には立っていられません。つくば市はどんな町だと,いやになってきました。
 次のバスは40分後なので,待っているのもバカらしくなって,駅まで歩くことにしました。歩くとつくば駅までは30分程度だから,雨さえ降っていなければ,はじめから歩いていたことでしょう。歩きはじめて5分後くらいしたら,傘をさしながら歩道を歩いていた私の横をバスが通り過ぎていきました。要するに,バスは15分遅れだったのです。では,先ほどのバスは何だったのか? だんだん腹が立ってきました。

 雨に濡れながら,なんとかつくば駅の近くまで来ました。そこに「デイズタウン」とかいう名前のさびれた感満載のショッピングモールがありました。中に入ると,やっているのかやっていないのか,空きスペースだらけでした。地下1階にレストラン街があると書かれてあったので降りてみると,これもまた,やっているのかいないのかわからねど,数件のレストランが存在しました。
 その中で「季彩かがり」という名前の居酒屋というか和食屋がランチをやっているという看板があったので,中に入りました。結構なお客さんがいました。ランチはカレーセットということだったので,これが一番早いだろうとそれを注文しました。しかし,ランチというわりには時間がかかって飽きるほど待っていると,やっと食事が運ばれてきました。しかし,カレーライスなのに箸とデザート用の小さなスプーンだけがついてきました。つくばの人はカレーライスを箸で食べるのかと思いましたが,私はできません。店員をよんでスプーンが欲しいというと,デザート用のスプーンを指さしてここにあるというではないですか。いや,カレーライス用のスプーンだというと,今度はやたらと枝の長いカレーライスには不似合いなスプーンを持ってきました。一体この店は何がしたいんだろうと思いましたが,ともかく,昼食をとることはできました。

 店を出て,つくば市には筑波宇宙センターのほかに何があるのだろうと調べてみると,駅の北側に大きな公園があって,その向こうにつくばエキスポセンターがあることがわかったので,行ってみることにしました。
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 つくばエキスポセンター(TSUKUBA EXPO CENTER)は,公益財団法人つくば科学万博記念財団が管理運営していて,1985年(昭和60年)に筑波研究学園都市で開催された国際科学技術博覧会(つくば万博)の閉幕後,最新の科学技術や身近な科学に親しみをもってもらえるようにと開設されたものです。
 世界最大級の規模を持つプラネタリウムや屋外に展示されている実物大のH-IIロケットの模型があり,館内には,宇宙,海洋,原子力,ナノテクノロジー,生命科学,地球環境など,科学技術について幅広く展示してあります。
 また,日本が開発した深海探査艇のしんかい6500の模型や,国際科学技術博覧会当時の様子を展示した「科学万博メモリアル」のコーナーもあります。
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ということでした。
 筑波宇宙センターは無料でしたが,ここ有料でした。私は入らなかったのですが,プラネタリウムは別料金でした。展示は少し期待したのですが,大した規模でもなく,日本中どこにでもあるような子供向けの科学館でした。これなら,私の地元名古屋の名古屋市立科学館のほうがよほどすばらしいと思いました。

 そんなこんなで,雨だったこともあり,さらに,バスの件もあり,昼食のスプーンの件もありと,私のつくば体験は最悪に終わりました。
 まあ,どういうところなのか知らなかったから,ともかく来ることができたからいいとしますか。でも,この町で学生生活をしたくはないなあ,と思いました。観光でも,二度目はないなあ。

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☆☆☆☆☆☆
 年に2度ほど訪れる木曽駒高原です。普通は平日に出かけるのですが,このところ何かと忙しく時間がとれなかったのと,来週はゴールデンウィークになってしまうことと,新月の関係で,何とか時間をひねりだし,4月22日から4月23日の週末に行ってきました。
 木曽駒高原は空が暗く標高が高いから星がきれいなので,星見が一番の楽しみです。どこに行っても空の明るい日本では,おそらく,この木曽駒高原の星空が一番でしょう。もうひとつの楽しみは,ついでに信州や奥三河などの,いままで行ったことがない場所に寄ることです。今回も,これまで行くことができなかった様々な場所を訪れることができました。
 旅のことは後日書くことにして,今日は,星空について書きます。

 木曽駒高原に行ったその1週間前,4月15日に東京へ行ったときは終日雨でした。それが原因で,自他ともに認める晴れ男の私はすっかり自信をなくし,木曽駒高原もどうせ天気が悪いだろうな,とテンション低めでした。しかし,今回は車で行くので,雨であっても,星が見られないだけで,それほど問題はありませんが,もし晴れたときのことを考えて,一応,望遠鏡などの機材は車に詰め込み,出発しました。
 私の悪い予想に反して,天気予報では週末は晴れでした。私が木曽駒高原に行くときは大概晴れるのです。実際,天気予報が当たり,確かに天気がよく,気持ちよくドライブしながら,夕刻,常宿であるペンションに到着しました。到着したときも快晴で,やっと咲いた満開の桜が出迎えてくれました。
 ところが,次第に雲が出はじめて,夕食をとったころには,一面雲に覆われてしまい,こりゃだめだとすっかりあきらめて,早々に寝ました。

 夜中の午前2時過ぎに目が覚めたので,念のため,と窓から外を見ると… 何と,星がいっぱい輝いているではないですか。これには驚きました。機材は持ってきたものの,期待していなかったために何の準備もなく,慌てて外に出て,望遠鏡を組み立てたあとで,今,何が見られるのか,下調べもしていなかったのでわからず,iPadで検索するありさまでした。しかし,手ごろな彗星のひとつもないことがわかり,魚眼レンズで星空を写すことにしました。こうした空の暗い場所では,星野写真がいいのです。
 写真を撮りながら気づいたことがふたつありました。
 そのひとつは,やたらと流れ星が見られることでした。しかも,かなり明るいのです。それは,後で知ったことですが,この日が,こと座流星群の極大だったからでした。
  ・・・・・・
 こと座流星群は,4月22日ごろに極大を迎える流星群です。普段の年の流星数はそれほど多くありませんが,ときおり突発的に流星数が増加することがあります。国内では1945年に1時間あたり約90個の記録があり,海外では1922年,1946年,1982年などに流星数の増加が観測されています。
 こと座にある放射点が空高く昇る4月22日午後11時ごろから翌朝までがおすすめの観察時間帯でしょう。母天体は1861年に出現し,太陽の回りを約400年の周期で公転するサッチャー彗星(C/1861G1 Thatcher)です。
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 ふたつめは,夜が明けるのが思った以上に早いことでした。考えてみれば,というか,考えなくてもわかることですが,4月も半ばを過ぎて,夏至が近づいてきたので,午前4時には東の空が白みはじめるのです。ということで,たっぷり星見をしようと思っていたのに,わずか2時間弱で星が見えなくなってしまったのは残念でした。
 でも,望外に楽しい夜になりました。

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民宿の女将が「小木に火星のような風景があるから探しておいで」と言ったので,小木町の観光案内所で聞いてみたら教えてくれましたが,それは小木町ではなく宿根木の海岸でした。ということで,小木町でそばを食べた私は宿根木に向かいました。
宿根木に着く手前に博物館と広い駐車場があったので,車を停めて入りました。そこは佐渡国小木民俗博物館で,隣接して千石船「白山丸」の展示館がありました。
中に入って,まず,千石船の博物館を見ました。当時の図面を参考に実物大に復原された千石船「白山丸」が展示されていて,内部も公開されていました。訪れていたのは私だけでした。
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江戸時代に日本海の海運で活躍した「北前船」。
白山丸は全長約24メートル,船幅約7メートルの木造船で,約160年前に地元で建造された「幸栄丸」の図面を基にして,1998年に宿根木集落の住民でつくる「白山丸友の会」が町おこしを目的に,総工費1億4,000万円で原寸大に復元したものです。
宿根木集落にある白山神社が名前の由来といいます。
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これほど大きな木造船が江戸時代に海上交通を担っていたことに驚きましたが,船員の部屋とかはとても居心地がわるそうだったのも,また,日本的な話だなあと思いました。
博物館は1920年(大正9年)に建てられた宿根木小学校の木造校舎をそのまま利用したものです。館内には,数多くの小木地域の民俗や海運に関する資料などがありました。私は,博物館というのは,昔使われて今はガラクタとなったものの置き場だと,いつも思います。とはいえ,これは否定的な意味ではなく,こうして保存しなければ捨てられてしまい,後世に残りません。

博物館の駐車場に止めて宿根木の集落まで歩こうと考えていたのですが,思った以上に遠かったので,再び車に乗って行くことにしました。しばらく走ると道は下り坂になって,坂の下に宿根木の集落がありました。途中の郵便局の駐車場が観光用に開放されていたので,そこに車を停めて歩いて坂を降りました。
宿根木は小さな入江に隠れた船大工と船主の集落で,小木半島の入り組んだリアス式の海岸の中の小さな入江のひとつにひっそりと存在します。集落の前に広がる宿根木港は天然の岩礁そのままの入江に防波堤と駐車場と化している小さな岸壁があるだけのものでしたが,ここは中世には南佐渡における中心的な商港でした。
宿根木は,舟持ち,水主,舟大工などが居住する特異な集落として全盛期を過ぎても存続し,江戸時代は千石船を8隻所有し,水主の数は100人を超えていました。
宿根木の民家は,役目を終えた船舶の部材が再利用されているということです。
ここの海岸が「火星のような風景」でした。とはいえ,以前行ったことがあるアメリカ・アイダホ州のクレーター・オブ・ザ・ムーン国定公園のほうがずっとすごかったなあ,と私は思いました。また,この入り江にも,観光用のたらい舟があって,私が乗った小木港のたらい舟より沖合に出るからこのほうがよかったなあ,と思いました。ただし,船頭さんは小木港のほうは女性で,こちらは男性でしたけれど。

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岩首昇竜棚田と養老の滝を見た私は,再び県道45号線に戻って,この日の目的地である小木町(おぎまち)と宿根木を目指して,さらに海沿いを南下して走っていきました。その途中に松ヶ崎という集落がありました。
おそらく,これまで走ってきた県道45号線は旧来の道路を避けて,新しく海岸線沿いにバイパスとして作られたのでしょう。そこで,県道45号線のひとつ山側に旧来の道路が走っていて,その周りに集落があるのですが,それが「昔の町並み」として表示されていました。
  ・・・・・・
松ヶ崎は宿場町を思わせる半農半漁と商業の集落です。
佐渡海峡に突き出した鴻ノ瀬鼻には,1952年(昭和27年)に設置された白い鴻ノ瀬鼻灯台があって,県道45号線(通称佐渡一周線)はこの鴻ノ瀬鼻で直角に折れます。この曲がりの西側に,遠くに連なる小佐渡の山塊を借景にしたまるで中山道の木曽路の宿場町を思わせる家並みが残されています。
  ・・・・・・
というのが松ヶ崎の説明ですが,現在は,砂浜のある海岸線には松ヶ崎海水浴場とキャンプ場があってレクリエーション地区として整備されています。私が行ったのはシーズンオフなので,全く人がいなかったのですが,夏になれば,それなりの観光地となるのでしょう。
かつて古代律令時代には,松ヶ崎は越後と佐度島を最短で結ぶ場所だったので,佐渡国の津として松ケ崎駅が定められていて,国府の出先機関が置かれていました。江戸時代には,北前船の中継港として栄え,廻船を10隻も所有した菊池喜兵衛などの在郷富商がいました。しかし,船舶の大型化によって,天保年間には廻船の寄港地が多田港に,そして,小木港へと南下していって,松ヶ崎は漁村となってしまいましたが,今は,何か昔懐かしい雰囲気がある場所でした。

松ヶ崎を過ぎ,再び県道45号線に合流して走っていくと,ようやく小木町に到着しました。小木町のあたりはこのあたりではめずらしく平地が広く,よって,大きな町並みと港がありました。この小木町とその次の宿根木は,小佐渡の代表的な観光地です。昔懐かしい集落と,だれもが知る佐渡島名物のたらい舟に乗ることができるところです。
  ・・・・・・
小木半島のつけ根に位置する小木港は,南北朝期からすでにその名が知られた古い港町で,江戸時代には佐渡金山の外港として,また,北前船の寄港地として栄えました。江戸時代のはじめに佐渡代官の大久保長安によって,小木は運上金銀渡海場に指定されたので,港の整備と共に佐渡金山のある相川と小木を結ぶ小木街道が整備されました。金の輸送は,相川から陸上交通とともに海上輸送によって小木港に着き,小木港で大型船に積み替えらて本土へと運ばれました。
小木港には南向きの港「内の澗」(うちのかん)と東向きの港「外の澗」(そとのかん)があって,弁天崎と城山で区切られていましたが,佐渡の金山にかげりが見えはじめたころから堀が掘られ,小木港は船の風待港として越後近海で最も安全な港となり,北前船の西廻り航路の拠点となって栄えました。
越後の各港から50石積の船で小木港に集められた米は,小木港から千石船に積み替えられて大阪に向いました。しかし,明治になると大型の蒸気船が主流となっていくと港の限界が訪れ,さらに新潟港が県内交通の要衝となり,さらに,鉄道時代の幕開けで,両津港が佐渡の玄関港として整備されると,小木港は急速に衰退してしまいました。現在は,直江津からの定期便が運行されているだけです。
  ・・・・・・
小木港の一角でたらい舟に乗ることができました。
せっかく来たのだからと,たらい舟に乗ることにしました。私が乗る前に1組の観光客がいたので,たらい舟は運航していたのですが,私が乗るときにはほかにはだれも観光客がおらず,シーズンオフでもあり,まったく活気がありませんでした。
ともかく,たらい舟に乗って,港の湾を1周,途中で少し漕ぐことができたのですが,結構大変でした。

私は,この小木町で昼食をとることにしていて,何か地元のおいしい魚でも食べられないものかと期待して,観光案内所に入って訪ねてみたのですが,すすめられたのはおそば屋さんでした。
ということで,すすめられたおそば屋さんに行くことになったのですが,小さな1軒屋で,戸を開けると,だれもお客さんはおらず,一見,やる気のなさそうな不愛想な主がいました。「ざるそばしかないけれど」と言われて,選択の余地もなく,それを注文しました。
であったのですが,このお店,所狭しとプロ野球のグッズやら写真やらが飾られていて,しかも,それらの多くが,かつて大阪にあって,今ダイエーホークスとなった,南海ホークスのものだったのです。私は,亡くなった父がなぜか南海ホークスの大ファンだったので,その知識は豊富です。そんな次第で,話しかけてみると,店の空気は一転して,プロ野球談議に話が弾みはじめました。
人はわからないものです。共通する話題さえあれば打ち解けるものだと,しみじみ感じました。
それにしても,この佐渡島に南海ホークスファンがいることも,不思議な話でした。
このこともまた,佐渡島は不思議なところです。

小木町から少し行った海岸線が小木半島で,ここは散策コースとなっていて,広い駐車場がありました。ガイドブックに載っているたらい舟はこの小木半島の散策コースにある元小木の入江なのですが,3月はシーズンオフで営業をしていなかったし,だれも人がいませんでした。駐車場には結構車が停まっていたのに,どうしたことでしょう。

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佐渡島の南半分である小佐渡を時計回りに1周をはじめました。まず,昨日と同じように国中平野を東に進んで,両津港まで出て,この日は右折して小佐渡の外周をまわる県道45号線を走っていきました。まずは,最東端の姫崎灯台を目指します。小佐渡最東端というのは,佐渡島最東端でもあります。
その手前,大川漁港が眼下に見られる峠から,大川漁港が美しく見えました。ここは「大川やすらぎの里」と書かれてありました。
それを過ぎると,まもなく姫崎灯台に着きますが,灯台は県道45号線からはずれ,ものすごく狭い私道を走ることになりましたが,ここは私道でしたが好意の駐車場がありました。そこに停めると,向こうに灯台が見られました。ここに「ここにもトキが来ます」という立て札がありました。
  ・・・・・・
姫崎灯台は,佐渡ではじめての灯台として,1895年に点灯しました。
現存する日本最古の鉄造りの灯台で,その歴史的・文化的価値を認められ「世界灯台100選」にも選ばれています。
 青空に映えるエレガントな白い姿も必見。近くの「姫崎灯台館」は貴重な資料の展示館になっています。
  ・・・・・・
と帰ってからわかりました。展示館がありそうな雰囲気でなかったのでパスしてしまったのがくやまれるところです。

姫崎灯台から戻り,再び県道45号線を,今度は南西に向かって走ります。
なにせ,情報が少なく,走っていて偶然見つけるようなところばかりです。そこで,先の姫崎灯台にあった展示館のように見損ねてしまうのです。
次の見どころは赤亀岩でした。
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「赤亀・風島なぎさ公園」の海水浴場から望む鉄石英の赤い大きな岩。中央部に空洞のある奇岩で,亀の親子が寄り添っているようにも見えます。
「昔,水津の漁師が大時化に遭った際,大きな亀が現れ,船はその背に乗って港に戻った。亀は岩となり村人たちは“赤亀”と名づけた」。そんな言い伝えが残る奇岩で,赤亀明神を祭る祠があります。
  ・・・・・・
とありました。

さて,この先,私が目指していたのはガイドブックにあった岩首昇竜棚田でした。
  ・・・・・・
岩首地区の標高350メートルを超える山間に広がる棚田。
江戸時代ごろから受け継がれたもので,現在残る田んぼは460枚ほど。急峻な地形を活かしきる大小の変形田が天空に昇る龍のようにつながっています。
春先,水を張った棚田に朝日が差す光景は人々を魅了します。展望小屋からの眺望も見事。
  ・・・・・・
とあるのですが,養老の滝という道路標示は見たのですが岩首昇竜棚田という道路標示はなかったので,私は棚田に入っていく道を通過してしまいました。そのまましばらく県道45号線を走っていったのですが,どうも通り過ぎてしまったと気づいたので,戻ることにしました。
岩首昇竜棚田は養老の滝に行く途中からわかれて行ったところにあるのでした。そこで,改めて出直しです。すれ違うこともできそうにない狭い道を登っていきます。そして,右手に養老の滝,左手に岩首昇竜棚田とかかれた道路標示を見つけたので,まずは棚田へ向かいました。さらにどんどんと山を登り,車が1台かろうじて通れるような道路を想像以上に登っていくと,ものすごく高い場所にたどり着きました。そこから見下ろすと,確かに棚田でした。
雨が上がったばかりで霧っていたので,少し残念でした。もし晴れていたら,日本海の青とすばらしいコントラストだったことでしょう。

この狭い道路を降り,今度は養老の滝を目指します。
養老の滝といえば,岐阜県にもあって,岐阜県の養老の滝は,滝の水がお酒になったという親孝行な「源丞内」という「きこり」の話です。これを聞いた時の天皇が養老に行幸して自らこの不思議な滝の水を飲んだところ,膚は滑らかになり痛むところまで直ったということで,西暦717年に年号を「霊亀」から「養老」に改元したという話が「続日本紀」にありますが,佐渡島の養老の滝はそれと関係ないのかな?
  ・・・・・
県道45号線から山道に入り,岩首川沿いに約1キロメートル。赤い鳥居の先を5分ほど歩くと高さ29メートルの滝が流れています。その昔,この滝付近に住み着いた者がほしいものを願いながら床につくと,翌朝には届けられていたという不思議な言い伝えから、不動明王が住む滝として名が広がりました。
また,滝の水は,飲むと子宝に恵まれると言われています。
手前には朱塗りの太鼓橋「滝見橋」が掛かり,木々の緑と美しいコントラストを見せています。
  ・・・・・・
とあるのですが,私はこの太鼓橋が記憶にありません。

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 筑波宇宙センターの見学者コースの建物はスペースドームというなまえの展示館でした。入口を入ったところに,まず目についたのは「はやぶさ2」の実物大模型でした。「はやぶさ2」は,太陽系の起源・進化と生命の原材料物質を解明するために2014年に打ち上げ,2020年に小惑星「りゅうぐう」(Rsyugu)のサンプルを持ち帰りました。
 思ったより大きいなあと思いました。
 展示館では,係の人による解説が行われていたので,少し聞いていたのですが,私の知っていることばかりだったので,聞くことをやめて,自由に見て回ることにしました。多くの日本の人口衛星の模型がありましたが,私が興味をもったのは,国際宇宙ステーションの一部である日本のモジュール「きぼう」の実物大模型と宇宙ステーション補給機「こうのとり」の模型,そして,日本の歴代ロケットの一覧模型でした。
  ・・・・・・
 国際宇宙ステーション(International Space Station=ISS)は,低軌道にあるモジュール式の宇宙ステーションで,アメリカのNASA(=National Aeronautics and Space Administration),ロシアのロスコスモス(Roscosmos State Corporation for Space Activities),日本のJAXA(Japan Aerospace Exploration Agency),ヨーロッパのESA( European Space Agency),カナダのCSA(Canadian Space Agency)の5つの宇宙機関が参加する多国籍共同プロジェクトです。
 「きぼう」(KIBO)は,JAXA が開発した日本の宇宙実験棟で、国際宇宙ステーション (ISS) を構成する部位として最大の実験棟です。
  ・・・・・・
 こうした日本のモジュールや補給機はアメリカの博物館にはないものだから,興味深く見ることができました。ただし,私は,むしろ,この日本のモジュールでどういった研究が行われていて,これまでにどういった成果があったかを知りたかったのですが,そうした説明はほとんどありませんでした。

 日本の歴代ロケットの展示は,私個人には興味が深いものでした。
 かつて,ペンシルロケットとNⅠロケットの間に,展示館には模型がなかったラムダロケットというものがありました。東京大学が設立した宇宙航空研究所が,1970年,それまで4回打ち上げに失敗したのち,L-4Sロケット5号機で日本初の人工衛星「おおすみ」の打ち上げに成功したもので,国内技術だけでロケットと人工衛星の打ち上げにはじめて成功したのですが,固体燃料を使うなど,ちょうどアメリカでアポロ11号が月に到着したころの出来事であって,私は,日本はなさけないなあ,と子供ごころに感じたものでした。
 こうして,曲がりなりにも大学の研究班が衛星を打ち上げるようなレベルに到達したころ,国も宇宙開発専門の機関を設置しました。それ以後,日本では,大学の研究からはじまった宇宙科学研究所 (Institute of Space and Astronautical Science=ISAS) と国の機関である宇宙開発事業団 (National Space Development Agency of Japan=NASDA) のふたつの宇宙開発機関が,それぞれ独自にロケットの開発を行ってきたので,アメリカのNASAに比べて,はた目には何やっているんだ,と感じました。
 やがて,1990年代末から2000年代のはじめに数々の失敗を経験した後,やっと,統一された宇宙機関である宇宙航空研究開発機構(Japan Aerospace Exploration Agency=JAXA) が設置されました。縄張り意識の強い日本らしい話ですが,日本国内で人工衛星打上げが可能なロケット発射場は種子島宇宙センターと内之浦宇宙空間観測所で,旧NASDA系の液体燃料ロケットは種子島から,旧ISAS系の固体燃料ロケットは内之浦から打ち上げられているというように,今も統一される以前のさまざまな事情が存在しているようです。
 こうして,現在は,ロケットの打ち上げはJAXAが行っているのですが,2022年10月12日に内之浦宇宙空間観測所から打ち上げられた小型ロケット「イプシロン」6号機が機体の姿勢の異常で打ち上げに失敗し,また,2023年3月7日には種子島宇宙センターから打ち上げられたH3ロケット試験機1号機(H3TF1)が打ち上げに失敗と,たて手続きに失敗が相次いでいます。そして,原因が解明されるまで,ロケットの打ち上げが凍結されています。
 実験に失敗がつきものとはいえ,大丈夫かな,と心配になります。

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 ともかくも,資材料研究機構というバス停で降りて,筑波宇宙センターに着きました。
 よそ者にとって,つくば市のわかりにくいところは,まず,つくばエクスプレスのつくば駅のあたりのバス停を「つくば駅前」とよばず,「つくばセンター」ということです。つまり,「つくば駅前=つくばセンター」というのがわからない。次に,つくば市の観光で,もっとも有名だと思われる筑波宇宙センターのもよりのバス停が「筑波宇宙センター」,もしくは,「宇宙センター」ではなく,「資材料研究機構」であることです。そもそも,資材料研究機構があるのは,もうひとつ手前のバス停である「千現一丁目」なのです。
 これは余談ですが,帰宅してから地図を見ていたら,私の行った「つくば市」のひとつ南に「つくばみらい市」というものもあります。高知県にも「四万十市」と「四万十町」という別の自治体があります。名古屋市の地下鉄に「市役所」「名城公園」という駅があって,名古屋城のもよりの駅は「市役所」でしたが,これはこのたび改められて「市役所」が「名古屋城」に変更されました。
 こんな混乱することを平気でやる日本人って,いったい何者なのでしょう? 行けるものなら行って見ろ,という感じです。こんなことなら,名前などつけず,単に,バス停A,バス停B,とか,甲市,乙市とかいう名前にしたほうがむしろ混乱しないからずっとわかりやすい,と皮肉のひとつもいいたくなります。

 ともかく,筑波宇宙センターの入口に来ました。
 次にわからなかったのが,見学者がどこに行くのかわからない,ということでした。筑波宇宙センタービジターセンターとか見学者コース,といった案内のひとつもない。入口にいたのは,駐車場整備の人だけでしたが,車の誘導に忙しく,観光客どころでない,という感じでした。こんなことで,セキュリティは大丈夫なのだろうか?
 遠くにあった建物がそうだと見当をつけて,中に入りました。入館料はなく,無料でした。税金で運用しているわけだから,このくらいの啓蒙活動は当然でしょう。案内所があったのですが,中に座っていたのは愛想の悪いおじさんで,訪ねる気も失せました。きっと再雇用か何かで雇われたやる気のないお人なのでしょう。
 展示もまた,予想していたこととはいえ,大した規模ではありませんでしたが,ここを訪れる多くの人は,比べる対象も持っていないから,それはそれで,すごい! と思っていたに違いありません。
 しかし,私はだめなのです。
 私が日本のプロ野球にまったく興味がないのは,アメリカのメジャーリーグを見過ぎたことが理由です。ともかく,何もかも,スケールが違い過ぎるわけです。それと同様に,日本の天文台のような研究施設もまた,行ってみると,ドームはさびだらけだし,望遠鏡はガムテープやらで修理がしてあったりコードが無造作に束ねてあったりと,アメリカのピカピカなものとはあまりにかけている,いかにも大学の研究室,という感じです。そもそも使っているお金が違い過ぎるのです。

 そこで,今日は,以前行ったことがあるヒューストンのNASAや,フロリダ半島のケネディ宇宙センター,さらには,ワシントンDCのスミソニアン航空宇宙博物館とスミソニアン国立航空宇宙博物館の「別館・国立航空宇宙博物館」ウドバーハジーセンター(National Air and Space Museum Steven F. Udvar-Hazy Center)で写してきた写真を載せることにして,筑波宇宙センターのものは次回載せることにするので,比べてみてください。
 まず,その大きさの違いに愕然とします。そして,内容にも歴然の差があります。何せ,アメリカの博物館にあるのは,地球を周回してきたスペースシャトルをはじめとして,展示されている多くのものはホンモノだから,はじめから勝負あり,なのです。

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 毎月1回,NHK交響楽団の定期公演を聴きに東京へ行くついでに,東京近郊でこれまで行ったことがないところを巡ろうとしています。
 2023年4月15日は雨の1日。
 今回のプログラムから,聴きに行く公演がソワレ,つまり,夜の部にしたから,お昼間は1日たっぷり時間があるので,東京で1泊しないでもけっこう遠出ができるなあ,と思っていたのですが,何と,前日に調べた天気予報は雨。しかも,この予報はどう考えても覆りそうにないもので,ついに,晴れ男の私の力が萎えたと自信をなくしていました。
 そんなわけで,事前に考えていた行先を来月に変更して,今回は,これもまた一度は行きたかったつくば市へ行くことにしました。

 つくばという名前は,私が高校生のころだった1973年にできた筑波大学,1985年に行われたつくば万博などで知ったのですが,私には未来都市という印象でした。
 この日は全国的に雨だったから,つくば市も当然天気が悪いので,行こうかどうしようかずいぶん迷ったのですが,筑波宇宙センターは屋根があるから雨でも大丈夫だろうと思って,出かけることにしたわけです。しかし,つくば市に何があるのか? 筑波宇宙センター以外のことは,まったく調べもしなかったから知りませんでした。
 午前9時前,東海道新幹線で東京駅に着いて,京浜東北線に乗り換えて秋葉原駅に行き,そこからつくばエクスプレスに乗りました。つくばエクスプレスというのは常磐新線の通称ですが,私は,つくばエクスプレスもまたJRだとばかり思っていたので,そうでないことをここではじめて知って驚きました。つくばエクスプレスは第3セクター(国や地方公共団体と民間が合同で出資・経営する企業)が運営する首都圏新都市鉄道(MIR)の鉄道路線だったのです。
 また,つくば市は,かつては「筑波山麓男声合唱団」とかいうガマガエルの歌があるように,農村が広がっていた地域でした。1960年代から筑波研究学園都市として開発が進み,現在は日本最大の学術都市で,1987年(昭和62年)に,筑波郡谷田部町,大穂町,豊里町,新治郡桜村の3町1村が合併して誕生したのがつくば市です。また,1988年(昭和63年)に筑波郡筑波町,2002年(平成14年)には稲敷郡茎崎町を編入しました。
 現在は,多数の研究機関が立地し,また,市の北端に日本百名山の筑波山があるということですが,天気が悪く,何も見えませんでした。

 土曜日だったためか,いつもそうなのかはわからねど,空席が目立つ列車に40分ほど揺られ,やがて,つくば駅に到着しました。
 はじめに観光案内所に行きました。まずは,ともかく,いつものように情報収集です。主な施設を500円で1日乗り降り自由で巡れるというサイエンスツアーバスがあるそうですが,5分前にすでに出発してしまっていて次は1時間後ということだったので利用できませんでした。惜しいことをしました。しかし,4番乗り場から荒川沖行きのバスに乗って物資材料研究機構というバス停で降りれば筑波宇宙センターに行くことができるということを聞いたので,バスに乗ることにしました。
 つくば市に着いて思ったのは,ここもまた,前回行った牛久と同じように,土地が広く,まるでアメリカのようなところだということでした。しかし,私がこれまで抱いていた未来都市だったかというと,それは微妙なところで,やはり,所詮日本人の考える町というのはこの程度,ということでした。そもそも,アメリカとは国力が違い過ぎるのだから,それは仕方がないところでしょう。

 それとは別に驚いたのは,ここからひたち野牛久へ行くバスがあるということでした。ならば,前回,水戸の偕楽園へ梅を見にいった帰りに,二所の関部屋を見ようとひたち野牛久の駅に降り立ったとき,その後たっぷり時間があったから,そのときにつくば市に来ればよかったなあ,ということがわかって,後悔しました。しかし,知らないものは仕方がないわけで,このように,何も知らずに観光しているといろいろと失敗します。そして,勉強になります。むしろこのほうがいいのです。
 10分後にバスが来て乗り込み,さらに10分程度の乗車で物資材料研究機構というバス停に到着しました。道路を隔てた向こう側に筑波宇宙センターがありました。
 私は,アメリカへ行ったときに,ヒューストンのNASAやワシントンDCのスミソニアン航空宇宙博物館,さらに,フロリダ半島のケネディ宇宙センターなど,ずいぶん多くのこうした施設を訪れたことがあるので,比べちゃあいけないのけれど,それと比較すると,あまりに小さなところだなあ,安っぽいところだなあ,というのが第一印象でした。無料だから贅沢いっちゃいけないのだけれど。

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 この国は東京,というか,首都圏だけが異常に発展して,それ以外は急激に退化しているようです。地方に行くと,アーケード街はほぼシャッター街と化し,かつて賑わった温泉宿も廃墟となっているところが少なくありません。住んでいる人も老人ばかりだし,バス路線も廃止となったり,列車も廃線となっています。しかし,首都圏の列車は行くたびに新しくなり,駅もまたターミナルが巨大化していて,渋谷駅など,どこがどこだかさっぱりわからない状況です。
 さて,「毎日が日曜日」の私は,その余暇を利用して旅をするのが好きなのですが,一度は乗ってみたいと思いながらも,ほとんど縁のない新幹線が今日の話題です。

 新幹線,私は,東海道新幹線と山陽新幹線が作られたころのことしかよく知りません。当時は憧れの乗り物でした。しかし,今は,利用するのは東海道新幹線くらいのものです。また,東北新幹線が大宮から仙台まで開通した,というあたりまでは記憶にあるのですが,それ以降,〇〇新幹線なるものがたくさんできたらしいのですが,それらがどういう路線なのか,どこにつながっているのかもさっぱりわかりません。
 そんな私ですが,東京駅の東海道新幹線のホームにいると,別のホームに,なじみのない塗装を施したさまざまな新幹線が出発を待っていて,興味をそそられます。しかし,それらの区別もつかないのが悔しいので,少し調べてみることにしました。それらはどの路線を走り,どこに行くために乗るのだろう?
 では,北から順に紹介します。
  ・・
●北海道新幹線
 北海道に新幹線ができたことすら,噂で知っているだけの私ですが,北海道新幹線は東北新幹線の延長で,2016年に,新青森から全長54キロメートルの青函トンネルを通って新函館北斗まで行く路線が開通しました。また,2030年には新函館北斗から札幌まで延長されるということです。
 北海道新幹線に乗るには,東京や仙台から「はやぶさ」が,「はやて」が盛岡や新青森から運行しています。
 私は,今から40年ほど前の冬,一度青函連絡船に乗りたくて,北海道からの帰り,空路を使わず,わざわざ函館まで出て利用したことがあるのですが,ものすごく時間がかかり,また,船が大揺れして船酔いをし,大変な目にあった記憶しかありません。青森からは「ゆうづる」という寝台特急で上野まで利用したのですが,いやになるほど時間がかかりました。夜明けのころ,やたらとお腹がへったことだけが印象に残っています。
 しかし,今は,そんな苦労をしなくても新幹線ならもっと短い時間で函館まで行くことができるようになったわけですが,それでも,空路なら名古屋から札幌なんてあっという間なので,あえて乗ろうとしなければ,使うのが難しい路線です。鉄道マニア以外に乗る意味ってあるのだろうか?
●東北新幹線
 東北新幹線は,1982年に大宮と仙台を結んで開業し,現在は,大宮と仙台,ともに延長して,東京と新青森を結んでいるようです。東京から北海道新幹線につながる「はやぶさ」,東京と仙台,あるいは盛岡間を走る「やまびこ」,東京と那須塩原,あるいは郡山間を走る「なすの」があります。
 私は,開業時に大宮から仙台まで乗ったことがあります。その後,確か,数回利用したと思うのですが,ほとんど記憶になく,近年,新花巻から東京まで使ったことを覚えているくらいです。
 数年前,福島県の大内宿に行ったときは,東武鉄道,野岩鉄道,会津鉄道を経由する特急リバティというのを利用しました。時間はかかったけれどがらがらで快適でした。岩手県の花巻に行ったときは,行きは東京から夜行の高速バスを利用しましたが,帰りは,新花巻から東京まで「はやぶさ」に乗りました。なかなか新鮮でした。
 どうして新幹線を使ったかというと,その当時の私は,空路の存在を知らなかったからです。
 しかし,今,再び花巻へ行くなら,空路のほうが早いし安いことがわかってしまったので,もう利用することはないでしょう。また,青森までも空路の方が便利だから,乗る機会はないと思います。
●秋田新幹線
 盛岡と秋田を結ぶ,在来線の線路幅を広げて新幹線車両が直通できるようにしたミニ新幹線で,「こまち」という名前の列車が走ります。1997年に開通しました。東京から盛岡までは東北新幹線と併用しているので,「はやぶさ」と「こまち」が連結している場合もあります。
 私の場合,秋田に行くなら,空路でもよりの空港まで行ってそこでレンタカーを借りた方が早いし安いのですが,そもそも秋田に行くことがありますまい。
●山形新幹線
 1992年に開通した山形新幹線は,福島と新庄を結ぶものですが,山形新幹線というのは通称で,東北新幹線と奥羽本線を直通する列車の愛称だそうです。列車名は「つばさ」で,東京から東北新幹線を経由して新庄まで走ります。福島まで「はやぶさ」と連結している場合もあります。
 私の大好きな山形県ですが,私は空路を使うので乗ることはありません。そもそも,東京まで東海道新幹線で行ってそこで乗り換える,ということが無意味です。
●上越新幹線
 1982年に開通した上越新幹線は,東京と新潟を結ぶものですが,大宮からが上越新幹線,東京と大宮間は東北新幹線の乗り入れで,列車名が「とき」。となると,私にはドキドキするくらい「とき」めくし,魅力的ですが,今は空路で新潟に行くから利用することはないでしょう。
 20年ほど前の冬,新潟県長岡市へ仕事で行ったときに,名古屋から東京まで東海道新幹線,東京から長岡まで上越新幹線に乗ったことがあって,三国トンネルを越えた瞬間に川端康成の「雪国」さながら銀世界となった驚きは今もわすれられません。しかし,名古屋と新潟は直線距離なら大したことないのに,わざわざ東京を経由していく意味がわかりません。空路ならわずか40分です。
 また,「とき」のほかには,東京,または上野から高崎,または越後湯沢間を走る「たにがわ」があって,これらの列車は東京に住む人たちが観光地に行くのに使うのでしょう。
●北陸新幹線
 1995年に東京,長野間,2015年に長野,金沢間が開通したもので,正式には,東京,大宮間は東北新幹線,大宮,高崎間は上越新幹線に乗り入れていて,高崎から先,軽井沢,長野,直江津と通って日本海沿岸に出るのが北陸新幹線です。最終的には新大阪までつながる予定です。
 列車は東京と金沢を走る「かがやき」,「はくたか」に加えて,東京と長野を結ぶ「あさま」,富山と金沢を結ぶ「つるぎ」があります。
 この辺りは,私の住む場所からは近く,車で行くことができるので,全く縁がありません。
●東海道新幹線,山陽新幹線
 私にはなじみがありすぎるので省略しますが,現在,この路線で私が使うのは名古屋と東京間くらいのものです。
 また,山陽新幹線には,新大阪と,後述する九州新幹線の鹿児島中央をむすぶ「みずほ」と「さくら」が走っているのですが,この名前は私にはなじみがありません。
●九州新幹線
 九州は博多までは山陽新幹線で,その先,鹿児島まで熊本など,九州の西側を走るのが2004年に開通した九州新幹線です。「みずほ」「さくら」のほか,九州新幹線区間のみを走る「つばめ」があります。
 なお,途中の新鳥栖から長崎まで西九州新幹線が建設中で,現在は,2022年に開通した武雄温泉,長崎間だけ「かもめ」が運行しています。
 九州もまた,名古屋からは新幹線では時間がかかるので,空路博多や熊本まで行って,レンタカーを借りた方が早く安くです。

 ということで,やっと日本列島を走る新幹線の全貌が理解できたのですが,結局,この中で私が利用するのは名古屋,東京間と,強いていれば,名古屋,京都間の東海道新幹線くらいのもので,それ以外はまったく縁がないことが再確認できました。どこも空路の方が便利です。
 つまり,新幹線網は,北海道新幹線と九州新幹線以外は,どの路線も,東京の人が地方に行くとき,あるいは,その反対にその地方の人が東京に行くときに利用するために作られているのであって,それ以外の人には,鉄道好きならともかく,まったく便利なものではありません。東京に住む人でも,北海道や九州に行くなら空路のほうがずっと便利だと私は思います。
 まあ,いろいろな列車を見るのは楽しいものではあるのですが,だれかが「新幹線は金持ちの乗り物」と言っていたように,新幹線にどれだけ意味があるのだろうか? とあらためて思いました。

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 小説を読むなど時間の浪費,とこのごろ持ち時間の少なくなった私は思うようになってきて,しばらく1冊の小説も読まなくなっていたのですが,何となく手にとった「六人の嘘つきな大学生」の数ページを読むでもなく見はじめたとき,思わず夢中になって,一挙に読み終えてしまいました。
  ・・・・・・
 成長著しいIT企業「スピラリンクス」がはじめて行う新卒採用。最終選考に残った6人の就活生に与えられた課題は,1か月後までにチームを作り上げ,ディスカッションをするというものだった。
 全員で内定を得るため,波多野祥吾は5人の学生と交流を深めていくが,本番直前に課題の変更が通達される。それは「6人の中からひとりの内定者を決める」こと。
 仲間だったはずの6人は、ひとつの席を奪い合うライバルになった。
 内定を賭けた議論が進む中,6通の封筒が発見される。個人名が書かれた封筒を空けると「●●は人殺し」だという告発文が入っていた。彼ら6人の嘘と罪とは。そして「犯人」の目的とは。
  ・・・・・・
というのが,読み終えたあとで知ったこの小説の紹介文ですが,そんな知識すらなく私は夢中になったのです。
 2021年に刊行されたというから,もう2年近く前ですが,この本に出合えてよかったです。漫画化され,実写映画化も予定されているということです。
 作者は浅倉秋成さんで,この名前ははじめて知りました。2012年に第13回「講談社BOX新人賞Powers」でPowersを受賞した長編小説「ノワール・レヴナント」で作家デビューしたと書かれてあり,その後も話題作を続々と発表しているとありましたが,学歴などはわかりません。また,そんなものはどうでもいいです。

 この本を読みながら,私は「エピメニデスのパラドックス」(Epimenides paradox)を思い出していました。
  ・・・・・・
 「エピメニデスのパラドックス」とは,古代ギリシャ7賢人のひとりであるエピメニデスにまつわる論理的逆説のことで,「クレタ人はみな嘘つきだ」という命題の真偽を問う際,クレタ人であるエピメニデスが真実を述べているとするとクレタ人はみな嘘つきになり,嘘を述べていたとするとクレタ人はみな正直になり,発話の主体であるエピメニデスが正直ものか嘘つきかであることと矛盾する、というものです。
  ・・・・・・
 この小説は「エピメニデスのパラドックス」ではありませんが,とてもよくできています。全体が複雑に絡み合った糸のようで,そのほんのわずかなほつれからすべてが解決していきます。
 最後の一歩手前までドキドキハラハラ,そして,おもしろいエンディングを予感させられる小説は数多くあるのですが,最後にがっかり,なんていうことも少なくありません。
 しかし,この小説はそうではなく,しかも,読後感が悪くないのです。 内容にまったく無駄がなく,密度が濃いのもよいところです。

 この小説は,大学生の就職活動をもとにしているので,私のような「不良老人」には,それとともに,若い人は大変だ,という,「かわいそう感」ももってしまいます。
 私が若いころは,就職なんて,大学からもらった推薦書だけで受かっちゃうような時代で,今のように,エントリーシートだとか集団面接なんてなかったわけですから,今とはまったくちがいます。
 しかし,学校の入学試験もそうだけれど,どんなに手の込んだ選抜をしても,その反対に適当にくじで決めても,そう違いはない,というのが私の持論です。適当に選んでも,向いていない人は自分から辞めてしまうか落伍してしまうから,最終的には同じなのです。向いてもいないことを無理にやってもロクなこともありませんし。
 この国は,万事「責任逃れのやったふり」だから,大学も厳しい入学試験を過ぎれば,大した勉強をしなくても卒業できるし,会社もまた,今のような選考をしたところで,その多くは入社3年ほどで転職してしまう,というのが現実だと聞いています。
 そうしたことも含めて,この小説はミステリーではあっても,事件の解決という面でだけではなく,今どきの若者の実態も考え方もよくわかりますし,若者を応援したくなる小説でもあります。

無題


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 2023年4月15日,第1980回NHK交響楽団定期公演Aプログラムを聴きました。
 今回は,指揮・パーヴォ・ヤルヴィさん,曲目・リヒャルト・シュトラウス作曲の「ヨセフの伝説」から交響的断章と「アルプス交響曲」でした。元来,2020年5月20日と21日に行われるはずだった第1941回NHK交響楽団定期公演Bプログラムで行われるものだったのですが,コロナ禍の緊急事態宣言で公演がなくなり,さらに,2022年2月11日と12日に行われるはずだった第1952回NHK交響楽団定期公演Cプログラムでは,パーヴォ・ヤルヴィさんがコロナ禍の緊急事態宣言で来日できなくなったために,第1952回の定期公演が,指揮・鈴木雅明さん,曲目・ストラヴィンスキー作曲の組曲「プルチネッラ」とバレエ音楽「ペトルーシカ」(1947年版)に変更になったことから再び持ち越されたものです。
 もともとサントリーホールで行われるBプログラムはチケットの入手自体が難しく,また,平日の夜だから行くことはできないので別として,二度目に予定されたCプログラムは休憩なしで,比較的短い曲目をプログラムしたという触れ込みだったのが,三度目の今回はまったく同じ曲目がAプログラムで演奏されて,単に途中で20分の休憩を挟むために時間が伸びた,というだけで値段が約2,000円も高くなった,つまり休憩代が金2,000円也,さらに,Cプログラムではサービスで行われている開演前の室内楽すらAプログラムにはない,ということが私にはちょっと腑に落ちないのですが,まあ,これは大人の事情というものでしょう。
 ともあれ,パーヴォ・ヤルヴィさんが首席指揮者のときにずっと演奏していたリヒャルト・シュトラウスの曲目の集大成として最後に用意していた「アルプス交響曲」を,これだけは譲れないとばかり,2度の延期を経て,ついに演奏できたことが何よりでした。また,コンサートマスターは,このたび,第1コンサートマスターを勇退して特別コンサートマスターになった篠崎史紀さんでした。

 2015年から2021年のシーズンまで首席指揮者を務め,2022年9月に名誉指揮者に就任したパーヴォ・ヤルヴィさんの指揮は,2022年12月10日にドイツ・カンマーフィルを率いて来日したときに聴いたのですが,NHK交響楽団にはひさびさの出演です。次年度2023年9月からの定期公演には出演予定がないのはどうしてなのかな? ととても残念なのですが,この先,また,指揮をしてくれることを期待してます。
 さて,今回取りあげた「ヨセフの伝説」は第1次世界大戦勃発の直前,「アルプス交響曲」は第1次世界大戦の最中に初演された作品で,リヒャルト・シュトラウスがモダニズム最前線に後れを取りはじめた,つまり,時代の流れについていけなくなったころのものだと解説にありました。
 「ヨセフの伝説」(Josephslegende)は1幕物のバレイ音楽で,旧約聖書のエピソードに基づく,ヨセフ少年が裕福な商人ポティファルの妻からの誘惑を断ったために監禁されるものの夢の中に現れた天使によって解放されるという物語ということです。
 この曲では,リヒャルト・シュトラウス独特の官能的な不協和音は和らげられ,豪華絢爛たる音色の饗宴が押し出されているのが,リヒャルト・シュトラウスの創造力の鈍化と酷評されたのですが,初演は大成功でした。今回演奏された交響的断章は,最晩年にリヒャルト・シュトラウスが編曲したものです。私は,聴いていると,子供たちが森の中で妖精と戯れているような映像が浮かんできました。
  ・・
 「アルプス交響曲」は「家庭交響曲」以来,10年ぶりに書かれた交響曲です。
 ドイツ・バイエルン州とオーストリア・チロル州の国境にある高さ2,962メートルのドイツ最高峰・ツークシュピッツェ山(Zugspitze)の登山を豪華に描くこの作品は,リヒャルト・シュトラウス自身の10代のころの経験に基づいているといわれ,ドイツ帝国の大ブルジョアの楽しい夏のバカンスの1日が表現された作品です。
 けた外れに長大な作品は,「形式の細分化」という手段で〈夜〉〈日の出〉〈登り道〉〈森に入る〉… といった22の小さな区画から組み立てられています。それは,この作品が成立したころ,映画はオペラや交響曲を駆逐しつつあって,これまでのような交響詩は時代遅れとなったので,効果的な短いショットを次々に繰り出すといった映画的手法で作られたものです。
 音楽批評家のパウル・ベッカーは「相変わらず豊かで魅力的だが,見まがうことなく没落しつつある萎みゆく花の明らかな兆候」と指摘し,「私にはこの作品の標題が,作曲者が考えていたのとはまったく別の,そしてはるかに広い意味で,実現されたように思える。〈下山〉は衰退であり,〈終結部〉は終焉だ」と書き,リヒャルト・シュトラウスが体現していた世紀転換期の輝かしいドイツ・ブルジョア文化の終焉の兆候を聞き取ったとあります。

 パーヴォ・ヤルヴィさんは,「安定のヤルヴィ」というか,長年指揮をしていたからこその安心感がありました。しかし,以前にもこのブログに書いたように,私は,リヒャルト・シュトラウスのよさが「英雄の生涯」と「最後の4つの歌」以外はよくわかりません。いろいろと調べてみたところ,リヒャルト・シュトラウスの音楽は,劇音楽,つまり,なんらかのドラマに付随する音楽だと思えばいい,ということを悟り,それで,やっとなんとなく理解ができるようになったのではありますが,この作品もまた,山登りの雄大な風景のバックミュージックだと思えば退屈はしないわけです。つまり,音楽なんて現実のバックミュージックに過ぎない,というチャラさなのです。要するに,映画音楽なのです。だから,音楽を聴きながら「きれいだなあ」とか「雄大だなあ」と感じればそれでいいわけで,こころに染みる,とか,思わず泣けてくる,という,私が求める音楽とは別のものなのです。
 と悟りながら,アルプスの映像を頭に浮かべて聴いていれば,まあ,眠たくもならないし,聴けなくもないというか,むしろ楽しいものでした。それにしても,ダラダラと同じような旋律の繰り返しは,ブラームスの交響曲第4番第4楽章のような,緻密な計算に基づいた変奏とも違うし,標題音楽といっても,ベートーヴェンの交響曲第6番「田園」ようなこころに染みるものとも違うし…。というのが私の正直な気持ちでした。
 それにしても,依然として私が納得できないのは,どうしてリヒャルト・シュトラウスの作品はいつもいつもこんなにむにゃむにゃととりとめもなく長く,また,異常に多くの演奏家を必要としているのか,ということです。これは成金趣味なのか? ただし,楽器の弾ける人に聞くと,演奏するのはものすごく難しくて大変だということですが,これでは浮かばれません。なんだかねえ…。苦労が報われません。

 なお,私は,前回までのCプログラム2日目土曜日のマチネから,今回からAプログラム1日目土曜日のソワレに変更したのですが,こちらの方がずっと雰囲気がよかったです。

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民宿に戻ってきました。今日もまた,食事が楽しみでした。お供は,昨晩覚えた冷酒です。この晩は佐渡ヶ島の「至」(いたる)でした。
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純米発泡濁りのお酒人気のお酒です! 瓶内二次発酵で自然な発泡。純米らしく米の旨味,爽やかさ。食事にも合います。
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というのがウリでした。
どうやら私は,この旅で日本酒の楽しさを知ってしまったようで,それはそれでいいのですが,またまた興味が増えてしまいました。この先,旅をするたびに地元のお酒を嗜みそうですが,何事も本当に奥が深いものです。私は知らなかったのですが,お酒は種類が多いから,旅で訪れたところの地酒を味わうことが楽しみとなるわけです。
この晩は天気が悪く,夕食の後はお風呂に入って,早々に床につきました。

さて,3日目の朝です。
朝食をとったあとで,近くの「小岩井」という牧場で昨日仔馬が生まれたから,ということで,誘われて,民宿の子供たちが保育園に行く前に一緒に見にいきました。生まれたばかりだというのに,ずいぶんとしっかりしているものだなあ,と思いました。佐渡島ではお祭りのときなどに馬が活躍するということで,そのために馬を飼っているのだそうです。
この民宿に宿泊したことで,いろいろな経験ができました。
民宿の女将は,数多くある宿泊施設からここを見つけ出したあなたがエライ,と言っていましたが,本当にそう思います。旅が楽しくなるかどうかは宿選びにかかっているのですが,さすが旅慣れていることもあって,今回も正解でした。

2泊お世話になった民宿ともこれでお別れです。
旅の3日目は佐渡島の南半分,いわゆる小佐渡を今度は時計回りに1周することにしました。

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 今思うと,こんなところにどうして行ったのか,という場所が少なからずあります。不思議な話です。今回はオーストラリア大陸のど真ん中に忽然と現れる町アリススプリングス(Alice Springs=The Alice)です。
 2019年春,私はオーストラリアのウルル・カタジュタ国立公園,いわゆるエアーズロックに行こうと,成田空港を飛び立ちました。予定ではケアンズ空港で乗り換えてダイレクトにエアーズロック空港まで行くことになっていました。ところが,ケアンズの到着が遅れ,次の飛行機に乗り遅れてしまったのです。次の便はなく,途方に暮れていたのですが,実は,ケアンズ空港からアリススプリングス空港行きがあって,そこでエアーズロック空港行きに接続できたのです。
 こんなこと,奇跡みたいなもので,これまでの数々の旅を思い出すと,知らなかったがゆえに何とかなっていた不思議なことが少なくありません。まあ,結局,何とかなるものです。
 そんなわけで,全く予期せず,アリススプリングスの地を踏んだのです。

 アリススプリングスは、オーストラリアのノーザンテリトリー(=北部準州)にある都市で,人口は2万5,000人ほど。これでもノーザンテリトリーでは首府のダーウィンに次ぎ2番目に人口が多い町です。アボリジニのアレント族(Arrente)は,この地をムバーントゥワ(Mparntwe)とよびます。
  ・・・・・・
 アリススプリングスは,当初はスチュアート(Stuart)と名づけられ,オーストラリア大陸の奥地における南北交通の拠点として建設されました。ロンドンからシドニーまでを繋ぐ遠大な電報網の重要な基地が設けられましたが,すぐ傍に湧き水が見られたことから,南オーストラリア州電信監督官であったチャールズ・トッド(Charles Todd)の妻アリス・トッド(Alice Todd)にちなんで,アリススプリングスと名づけられ,次第に町の名前となっていきました。
 1929年にアデレードからの鉄道がスチュアートに達し,駅が既存市街地の南部に設けられたため街自体も南側に移動した。この結果、電信中継所の周囲は公園として整備し、電信中継所の建物は博物館として保存したものの,市街地はアリススプリングス(湧き水)からは離れてしまったのですが,1933年には正式にスチュアートはアリススプリングスに名称変更されました。
 オーストラリア大陸のほぼ中央に位置するため,地理的に隔絶されています。マクドネル山地の東側に形成された町は,市街地をトッド川(Todd River)が貫流しています。
 アリススプリングスの主要産業は観光業で,アウトバック(Outback)とよばれるオーストラリアの内陸部に広がる砂漠を中心とする広大な人口希薄地帯に点々とある観光地を訪れる際の拠点として利用されるだけでなく,アリススプリングス自体にも多くの見所があります。また,アメリカとオーストラリアで保有しているパインギャップとよばれる軍事衛星の管理施設もあります。
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 ということですが,いくら多くの日本人がオーストラリアへ観光旅行に行っても,さすがに,アリススプリングスへ行ったという人はそうはいないことでしょう。これもまさに「塞翁が馬」で,飛行機が遅れなかったら絶対に見ることもない町であったに違いありません。
 しかし,空からこの町の周辺を見たとき,絶望的な気持ちになりました。レンタカーを借りてドライブするという気持ちにもなりません。いくら私がオーストラリア大陸の砂漠地帯を深夜6時間走った経験があるといっても,ここまで何もない砂漠ではありません。車が故障でもしたらどうなってしまうのでしょう。
 ですが,実は,それよりなにより,オーストラリアのアウトバックには隠された秘密があるのです。それは,コバエです。コバエとは字のごとく,小さなハエのことなのですが,これが異常に多く,かなり不快なのです。食べたくもないのに,口の中に一杯入ってきます。これを避けるには,頭から網を被るしか方法がありません。一見とてものどかなところに見えますが,ここを訪れる人は,日夜コバエと格闘する覚悟が必要なのです。

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佐渡島旅行の2日目は佐渡島の北側半分・大佐渡を1周してきたわけですが,民宿に戻るにはまだ早かったので史跡佐渡金山に寄ったのですが,それでもまだ時間があったので,民宿に戻る途中で目についた場所に寄ることにしました。
佐渡島の西側,佐渡湾に面して真野町があります。佐渡町はその昔国分寺があったように,佐渡島でも史跡が多いところです。まず,佐渡博物館に寄ってみました。
佐渡博物館は,佐渡出身の日本画家・土田麦僊の素描展示室など見どころの多い美術博物館ということでした。1階は金銀山に関する展示室,2階には自然・考古・歴史・民俗展示室と美術・工芸展示室がありました。また,庭園には岩石園や古民家などがあって,それなりに楽しめました。ただし,思ったほどの規模でもなく,また,博物館自体,あまり,やる気を感じませんでした。
佐渡に限ることではなく,どこに行ってもこうした公営の施設の多くは商売っ気がないというか,おそらくその理由は,職員が単に人事異動で配属になっただけで思入れないような人が多いということでしょう。それは雰囲気でわかります。ときどき,その道に情熱をもった人が配属されてきて,そのときは活発に活動をしても,その人が転勤した途端に低調になるということをこれまで多く見てきました。これもまた,きわめて日本らしい話ですが,そんなときは来館者も減り,次第に寂れていくのです。

佐渡博物館を出て走っていると,そこで見つけたのが国分寺跡でした。
佐渡島の国分寺は,聖武天皇の詔により諸国に1か寺ずつ建立されたもののひとつで,764年に佐渡国分寺として落成したと伝わります。すでにこの時代から佐渡島にこのような施設が作られていたというのが驚きです。伝わるところでは,北陸地方では珍しい瓦屋根の佐渡最古の寺院だったということですが,大火・落雷などによって幾度となく焼失し,再建したという経緯をもちます。今は何も残っていません。広い敷地には,金堂・廻廊・中門・南大門・塔跡・新堂跡などの礎石だけが並んでいました。なお,国分寺と対に国分尼寺も作られたのですが,佐渡島ではそれがどこだったのかは不明だそうです。
また,国分寺跡の隣には現在の国分寺があります。この寺は,1679年(延宝7年)に賢教によって真言宗の寺として再建されたもので,平安時代に造られた薬師如来像が今もあるということです。 
この時代,地方には国分寺,国分尼寺のほかに,国府,総社が置かれていたわけですが,国府は雑太郡(さわたぐん)にあったといわれ,これは国中平野の南辺にあったと推測されていて,国府遺跡が官人の住居と推定されていますが,政庁は見つかっていないそうです。さらに,総社は,現在,総社神社が佐渡市吉岡にありますが,これは,国府の近くにあったものを1307年(徳治2年)に現在地に遷座したと伝わります。

さらに進むと,妙宣寺がありました。これは日蓮上人ゆかりの名刹で,立派な寺でした。
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佐渡配流の日蓮に仕え,熱心な法華経信者となった遠藤為盛(=阿佛房日得上人)が,1278年(弘安元年)妻の千日尼と共に自宅を寺として開いたのがはじまりと伝わります。かつては佐渡守護代竹田本間氏の居城だったので,今も城跡の雰囲気を残しています。
境内には,県内唯一の五重塔や「正中の変」で佐渡配流となった日野資朝の墓などがあります。
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正中の変というのは,1324年(元亨4年)に,後醍醐天皇とその腹心の日野資朝・日野俊基が鎌倉幕府に対して討幕を計画した事件です。幕府の調査の結果,後醍醐天皇と日野俊基は冤罪とされ,無罪となりましたが,日野資朝は疑惑が晴れないということで,佐渡へ遠流となりました。歴史はいつもこうしてだれかが犠牲となるのです。権力者に肩入れしてもロクなことはありません。

佐渡島の中央部はどこからも金北山や大佐渡の雪を被った山並みが美しく見られるのですが,そのなかでも特に景勝の地に,亀井勝一郎の碑がありました。亀井勝一郎といえば「大和古寺風物誌」は私も知っています。
1950年(昭和25年)文人・亀井勝一郎はこの史跡の里を訪ね,豊かな佐渡の国原を望んでいたく感動して紀行「佐渡ケ島」に「飛鳥の風光を愛した人が 佐渡に渡って ここに望郷の思ひを託したのかもしれない」と記し,大和の飛鳥路に実によく似た景勝を絶賛し,この周辺を「佐渡飛鳥」とよんだのです。
古来から,佐渡の地は物書きのこころを引きつけてやまない所でした。太宰治は「佐渡」で「死ぬほど寂しい所だと聞いている」と書いていますし,この亀井勝一郎は「佐渡ヶ島」で,柱の跡しか残っていないのに国分寺跡を訪れて絶賛しています。さらに,柳田国男は,佐渡には2度ほど来ていても一度も北小浦の土を踏んでいないのにもかかわらず,「北小浦民俗誌」を書き上げました。

こうして,順々に興味深そうなところを訪ねながら走っていたら,そろそろ民宿が近づいてきました。
現在,佐渡島には空路がないのですが,空港はあるというので,民宿に戻る前に寄ってみました。
佐渡空港は国中平野に位置し,佐渡市の中心部からは南西約4キロメートルの地点にあります。佐渡空港は1958年(昭和33年)に陸上自衛隊の協力によって建設されました。定期便があれば,新潟空港から約25分です。空路があった1970年代には利用者が年間3万人いたのですが,1977年に佐渡汽船のジェットフォイルが就航したことで空路の利用客が減少し,廃止になったといいます。
滑走路の長さが890メートルと短かく離着陸できる機材が限られていたので,今回,2,000メートル滑走路を備えた拡張整備事業が行われ,羽田への直航便の運航も可能となりました。近くトキエアが新潟空港との間で路線を開設する予定だそうですが,運行が続くかどうかは料金次第でしょう。

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史跡佐渡金山を出て,次に行ったのが,佐渡奉行所跡でした。
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金脈の発見により,佐渡は幕府の直轄地(=天領)となり,1603年(慶長8年)相川に佐渡奉行所が置かれました。奉行所の建物は現存していなかったのですが,奉行の住居もあった広い施設のうち,2000年(平成12年)に御役所の部分である役所や白洲など,司法・行政の場とともに,金銀を精製する寄勝場(よせせりば)が復元されて,今は,佐渡特有の奉行所の形態を見ることができるようになりました。
  ・・・・・・
ということですが,この建物は,私にはとても興味深いものでした。
はじめに係の人の説明があって,そのあと,自由に建物内を見学できました。私以外に見学者はいませんでした。私が最もおもしろいと思ったのは寄勝場です。ここには,江戸時代にどうやって鉱石から金を選りわけていたかが再現されていました。おそらく地元の小中学生の社会見学の場として活用されているのでしょう。

相川の町は堪能したので,次に向かったのが七浦海岸でした。
七浦海岸は相川地区の鹿伏から二見まで7つの集落をまたぐ10キロメートルの起伏に富む海岸線で,とても美しいところです。典型的な隆起海岸で,夕日が美しいポイント,ということですが,実は,私は,期せずして,あすの3泊目,ここに泊まることになるのです。予約をしておきながら,3泊目の旅館がこの場所にあるということを,この時点ではまだ知らないのだから,恐れ入ります。
七浦海岸で代表的な景勝地は高瀬の夫婦岩です。仲むつまじい夫婦が語り合っているかのようにふたつの岩が並んでいることから、この名がつけられたということですが,これらの岩はイザナギノミコト(伊邪那岐命)とイザナミノミコト(伊邪那美命)ともいわれているそうです。
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高天原にいる天つ神に島々と神々を生むよう指示を受けた夫イザナギノミコトと妻イザナミノミコトは,7番目の佐渡島を産み終えたころ,疲れ果てた妻の姿を夫はかわいそうに思い,自分らの分身を創り、高天原から目の届きにくい佐渡島の西側に隠して,残りの島々と神々を分身より誕生させ,佐渡で妻をいたわりました。
ある日,分身がヒノヤギハヤヲノカミ(火之夜芸速男神)を誕生させようとしたとき,天つ神に見つかってしまいました。それを知り,恐れおののいたヒノヤギハヤヲノカミは,脱兎のごとく光熱を発してイザナミノミコトの女陰に戻りますが,その光熱によりイザナミノミコトの女陰は赤茶色にただれ,黄泉の国へと退きました。
こうして,夫婦岩も女岩の割れ目の周りだけが赤茶色くなっているのです。
  ・・・・・・
なお,岸辺の岩の大きな洞窟は縄文時代の住居跡です。

このころ,私はちょっとおやつでも,と思いながらカフェを探して走っていたのですが,ずっと気にいった場所がなく,夫婦岩の見える広い海岸に,やっと「めおと岩ドライブイン」を見つけました。しかし,塗装も剥げていてかなり寂れたところで,ホテルも併設されていたのですが,このホテル,本当にやっているのかしら,と思いました。帰ってから調べると,営業してるようでしたが,私が知る限りにおいて,宿泊客はいませんでした。
ドライブインで売られていたのが塩を使ったソフトクリームでした。それを注文して店内で食べていると,まったくお客さんがおらず,暇を持て余していた店の主がいろんな話をしてくれました。この店で売られていたのは佐渡島名物の赤玉石で,それらがたくさん並んでいましたが,目玉が飛び出るほどの値段でした。
  ・・・・・・
やや紅がかった赤い色合いが特徴的な佐渡赤玉石は,鑑賞石・銘石の世界で珍重されている石のひとつです。佐渡赤玉石は,鉱物学的には石英の一種で,本来なら無色透明に近いのですが,その成立過程で赤みを帯びた酸化鉄が入り込むことによって,赤い色になります。
独特の色合いがあるので,鑑賞石の世界では古くから珍重されてきて,独特の光沢が出てつやつやした質感は高い人気を誇ります。また,赤い色は古くから魔を払う効果があると考えられてきて,パワーストーンのひとつとしても人気があります。
状態が良ければ数万単位の値がつくことも珍しくありません。
  ・・・・・・
ということだそうですが,まったく興味のない私は,何の魅力も感じませんでした。
また,このソフトクリームに使われている塩は道路の反対側にある塩工房「佐渡風塩釜」で作られたものということで,見学してくるといいといわれました。そこで,ソフトクリームを食べた後で訪ねることになります。
入りにくそうな小屋の中は蒸気で充満していました。愛想の悪そうな,そして,怖そうな主がいて,作業場を覗くと「何をしに来た」というので「紹介されて見学に」と答えると,なぜか機嫌がよくなって,説明をしてくれました。
ここの塩は海水100パーセントを薪でじっくりと焚き上げた昔ながらの塩で,花の様に美しい結晶をしていて,ミネラルが沢山含まれているということで,「おいしい塩を探して日本中を歩き回ったあげく,ここの塩がもっともおいしい」という評判だそうです。見る限り,かなり非生産的で,こんなもの商売になるのかしら,と思ったのですが,後で調べてみると,何でも,全国の高級デパートで販売されていたり,高級ホテルのVIP料理に使われているということで,驚きでした。
見学料350円,お土産つき,と作業場の入口に書いてあったのですが,お金はいらないよ,といわれました。ただし,当然,お土産はありませんでした。
佐渡島は,いろいろと不思議な島です。

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大佐渡を1周して相川まで来ました。まだ時間があったので,最終日に行こうと思っていた史跡佐渡金山へ行ってみることにしました。佐渡島の金山は有名ですが,私は興味があったわけではありません。しかし,せっかく佐渡島に来たからには行ってみようと思っていました。
佐渡金山といえば,そのシンボル的存在は今日の1番目の写真「道遊の割戸」だそうですが,それすら知りませんでした。無知というのは酷なもので,「この場所で「道遊の割戸」がきれいに見えますよ」と言われても感動もしないのだから,もし案内する人がいても張り合いがありません。また,2番目の写真は,これもまた,北沢浮遊選鉱場跡という佐渡金山のシンボル的存在なのですが,この奇妙な遺跡? がどうして佐渡金山と関係があるのかも知りませんでした。
旅というのはいつもそういうもので,景色がきれいに見えるもそう見えないも,感動するもしないも,その人のこころな次第なのです。しかし,実際に見て,そのいわれを知ると,景色が違ってみえます。私も,佐渡島旅行の最後には,道遊の割戸に対しても北沢浮遊選鉱場跡に対しても,特別な感情をもつまでになりました。

相川の町は,江戸時代,佐渡金山に働く人のために発展したところで,佐渡産の銅で作られた「時鐘楼」のある下京町から中京町,そして,上京町と続く坂道があって,そこが佐渡金山が栄えたころのメインストリートでした。
金山で繁栄した時代,島外から多くの商人が佐渡島に渡りこの場所で商売をしていたのですが,特に京都や大阪の絹問屋が多く店を構えていたので「京町通り」という名がついています。また,京町通りの周りには碁盤の目のようにあちらこちらに小道が張り巡らされていて、その周辺には「大工町」「八百屋町」など,職人のエリア別に名前がついていると,昨晩,民宿の女将が教えてくれました。曰く,佐渡金山に来て,この相川の町を見なくては意味がないと。
以前行った,ハワイ・マウイ島の古都ラハイナ(Lahaina)を訪ねたときもそうだったのですが,かつて栄えたところで,確かにその時代生きていた人たちのことに想いを巡らすことこそ,その地を訪ねた意義だと思うわけです。
次回来ることがあれば,この町をもっとゆっくり見たいものだと思いました。

さて,相川の町から史跡佐渡金山へ行くのですが,結構山の中であるのに驚きました。
広い駐車場があったのですが,停まっていたのは2,3台でした。予想以上に観光客がいませんでした。また,観光バスがいなかったのが私には幸いでした。団体さんが来るだけで,雰囲気が一変してしまいます。
金山の入口はふたつあって,右手が江戸時代に採掘された跡である宗太夫抗を巡るもので,左手が明治以降に採掘された跡である道遊抗を巡るものでした。私は,共に見学しました。
まず,宗太夫坑に入りました。宗太夫坑は江戸時代の初期に開削された手掘り坑道で,佐渡金山最大の鉱脈「青盤脈」の西端に当り,坑道は大型で江戸時代の採掘の特徴である「将棋の駒形」の坑道,斜坑,小型の探索坑道,空気を入れる為の煙穴などが数多く残されていました。最後に博物館があって,ここでやっと私は,江戸時代の金の採掘がどういうものか納得できました。
宗太夫坑を出ると,日本の観光地の定番である土産物屋を抜けて,再び入口まで戻ります。次に道遊抗に向かいました。道遊坑は1899年(明治32年)に開削され,佐渡金山の近代化に大きく貢献した機械掘り坑道で, 坑道を含め,トロッコ,機械工場,粗砕場など多くの設備が操業当時の姿のままで残されていました。このコースでは,「道遊の割戸」直下の採掘跡,「道遊の割戸」を間近に見るポイント,高任公園からの「道遊の割戸」の絶景ポイントや佐渡金山のシンボルである「道遊の割戸」そのものを見ることができるハイキングコースが最後にあるのですが,途中で雨が降ってきて,傘を車に置いてきたので,ハイキングコースは断念して,再び先の土産物屋に戻りました。

アメリカによくある,この種の観光施設では,まず,学芸員のレクチャーがあって,そのあとでコースを巡りながら詳しい説明があり,わからないことは質問できたりするのですが,日本では,寺社仏閣を含め,どこもそのほとんどは,入場料さえ払ってくれれば,あとは自分で巡ってね,最後にお土産忘れずにね,ということなので,団体ツアー客や修学旅行でやってきても,結局何も残らず,物見遊山に終わるという,お勉強は学校で順位を上げるためだけにするもの,という,知的好奇心欠乏症の日本の典型的な施設そのものだったりします。意味もわからず,というか,何度もつけたりはずしたりすることで手やあごの細菌をいっぱいつけたようなマスクを再び口に加えるというような,あえて危険を冒してまでしてマスクを手放せないのも同類です。
佐渡金山は,最後に充実した博物館があって,そこで詳しい説明があったので,救われました。
私はこれまで,ゴールドラッシュで賑わったアラスカのフェアバンクス郊外や,ニュージーランドのクイーンズタウン郊外のアロータウンに行ったことがあるのですが,どこも,金が採取できるとなるとこんなにも人が群がることに驚きを隠せませんでした。

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2023年3月22日から3月25日まで,3泊4日で佐渡島を旅しています。
もし,2020年の春からのコロナ禍がなければ,この時期は海外のどこかでさまよっていたと思うので,日本国内に目を向けることができたのも,コロナ禍様様なのかもしれません。佐渡島自体は,結構不便なのでなかなか来ることができませんでしたが,私は,どこへ行くにも,まあ,適当で,予習もしないから,出たとこ勝負,というか,来たとこ勝負というか,その場所に着いてから,興味があればどこにでも寄るし,食べ物も,好き嫌いがなく何でも食べられるので,その土地のものを食べるし,何かも知らずに行ってみたり食べてみたあとで,帰ってから調べてみたときに,へ~っ,これはそんなにすばらしいものだったんだ,と思うことも少なくないし,その反対に,え~っ,これ見逃した,ということもまた,少なくありません。いずれにしても,見逃してそれほど後悔するものなら,また行けばいいし,そうでなければ,縁がなかったとあきらめるだけの話です。
人生,何事も暇つぶしです。
また,旅というのは,時期というものがあって,桜の季節ならすごい人であっても,桜の季節でなければだれもいない,そういうことも多々あるのですが,そうしたベストシーズンでなくても,それなりにいいことがあったりもするのです。
今回の佐渡島旅行もまた,時季外れだったために,やっていなかったお店もあったのですが,人も少なく,大変楽しめました。

今回は,飛ぶトキを見たい,というだけが目的だったので,それが果たせたあとは,たっぷりある時間を使って,適当に車で島をまわっています。旅の2日目の今日は,佐渡島の北側,大佐渡といわれる場所を反時計回りに1周しているのですが,その最北端を過ぎて,これからは,南西に下っていくわけです。
書き忘れていましたが,大佐渡には,金北山という佐渡島最高峰とドンデン山があって,金北山の登山や,ドンデン高原で縦走を楽しんだり,また,天然杉を見ながらウォーキングをするという楽しみがあるらしいのですが,この時期は雪に閉ざされていて,それはできませんでした。ということで,大佐渡は海岸線にそって巡るだけになるのです。大佐渡は海岸線まで山がせまっていて,特に見どころというものもないのですが,とはいえ,海岸線はずっと美しく,ドライブするだけで楽しいものでした。
もうひとつ書き忘れていたのですが,この旅に来る前日まではずっと晴天が続いていたのに,予報では,私が旅に出た日から連日雨という予報でした。常に,どこに行っても晴れる,自他ともに認める晴れ男の私としては面目がないわけで,来る前からテンション下がり気味だったわけですが,結局,1日目は快晴で,夜には星空も見え,2日目も午前中は晴れたので,夜明けに飛ぶトキを見ることができ,午後遅くに雨が降り出したのですが,3日目の朝には雨が上がっていました。そして,お昼過ぎには青空がのぞきはじめたので,たらい舟にも乗れたし,海に沈むきれいな夕日を見ることができ,また,金星と月の大接近も写真に撮ることができました。さらに,最終日の4日目は晴れました。名古屋に戻ったとき,名古屋は雨が降っていたというのが,御愛嬌というか。そんなわけで,今回もまた,晴れ男の神通力は残っていました。
私の力で,佐渡島は必死に雨と抵抗し,帰宅したら力が尽きたような感じでした。

さて,佐渡には車田植(くるまだうえ)という習慣があって,それは佐渡島でも北鵜島の習俗ということですが,それが行われる田んぼが,今,私が走っている場所の近くにありました。
  ・・・・・・
佐渡の車田植は,北鵜島の北村家に残る習俗です。車田植の習俗は,ほかには高山市松之木町しか残っておらず,北鵜島の車田植は奈良時代の田植え神事を残す日本唯一の農耕行事で,神に豊作を祈るためにはじまったものとされます。
北村家の田植えは,田の水口にある神さん田(かみさんだ)からはじまり,末広がりで縁起のよい鐘形の車田での車田植でしまいとなります。田植えをする早朝に,苗代田から苗3束を迎え,握り飯を供えて田の神を祀ったのち,その苗を田主が車田へ運び,田面へ御神酒を注いで田植えが行われます。
田主から3人の早乙女に各1束ずつの苗が手渡され,畦の三方から田の中央へ進んだ3人の早乙女が,半束を田の中心に寄せ合わせるように植えたのち,車状に外側へと後ずさりしながら順次植えつけていくもので,田植えに際して,畦では田植歌が歌われます。
北村家の当主は北村佐市さんですが,後継者がいないので,今後どうなるかはわからないそうです。
  ・・・・・・
ということなのですが,これが行われるのは5月下旬なので,今は何も見るものはありません。ですが,せっかく通りかかったので,車田植をするという田んぼだけ見てきました。
 
さらに走っていくと,大佐渡のつけ根までやってきました。ここにあったのが尖閣湾でした。
尖閣,という名前で私が知っているのは,沖縄の尖閣諸島です。先日行った石垣島の近くにあります。
  ・・・・・・
19世紀後半までどの国にも属さない琉球周辺の無人島だった島々は,明治維新後の1872年(明治5年)琉球国が琉球藩に改められて日本へ帰属し1879年(明治12年)には沖縄県を設置したのち,1895年(明治28年)に日本の領土に編入しました。魚釣島を含むこれらの島々は,1900年(明治33年)に古賀辰四郎が永康丸を魚釣島に派遣した際,同行した黒岩恒が尖閣諸島と名づけました。
  ・・・・・・
という尖閣諸島と,佐渡島にある尖閣湾は,名前が同じであるだけでまったく関係がありません。
  ・・・・・・
尖閣湾は,佐渡島姫津から北狄まで約3キロメートルの海岸に広がる5つの小湾の総称です。
ノルウェーの「ハルダンゲルフィヨルド」(Hardangerfjorden)の峡尖美に似ていることから尖閣湾と名づけられました。30メートル級の尖塔状の断崖が連なる景観が人々を圧倒します。一帯は海中公園となっていて,揚島遊園の展望台からは全景が一望でき,遊覧船からは違った景色を楽しめます。
  ・・・・・・
ここは,佐渡島観光の王座を占めていて,佐渡島を訪れる人々は必ずこの景観を遊覧船から観賞する,ということですが,不勉強な私は,当然,そんなことは知りませんでした。
通り過ぎようと思ったのですが,お腹も減ったので,このあたりで昼食でもと,ちょうどドライブインがあったので,駐車場に車を停め中に入ると,遊覧船があるというので,乗ってみることにしました。船が出る時刻が20分後ということだったので,チケットを購入したのち,ドライブインで,20分で食べ終われるものといって,おそばを注文しました。磯のりののったとてもおいしいおそばだったのに,慌てて食べたのでしっかり味わえず,もったいないことをしました。
そもそも,この日は,ドライブインにいた観光客は私ひとりだったので,遊覧船もまた,わたしひとりでした。ここもまた,さびれた感一杯で,あとで,ここが有数の観光地だと知って驚きました。
確かに,すばらしい景色だったのですが,世界中のこのような景色を見慣れてしまっている私には,ニュージーランドのミルフォードサウンドの方がすごいし,石垣島の川平湾のほうが海が澄んでいたし,こりゃ福井県の東尋坊と同じだなあ,とさして感動することもありませんでした。これではネコに小判,豚に真珠です。

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 まだ梅が満開だった佐渡島から帰ってきたら,桜が満開でした。天気もいいし,暇だったので,近場の桜の名所をすべて見てしまおうと思いました。平常なら京都へ行っていたかもしれませんが,おそらくすごい人でしょうから,この春に京都へ行くということ自体が悪手です。
 何度も書いていたように,私は,人々は何を恐れているのやら,家に閉じこもって外出しなかった2020年の春と秋に,毎週のように車で京都に出かけて,桜と紅葉を独り占めしてすっかり満足したので,今年はパスです。今になって,人混みの中を花見だなんて,人と同じことをしては失敗する投資と同じ行動です。2020年の春は,私以外に観光客がいなかったのだから,これほど安全なことはなく,だれも歩いていない京都の高台寺あたりの満開の桜や円山公園の枝垂れ桜,そして,醍醐寺の花見を,心置きなくすることができて最高でした。コロナ禍様様でした。こんなことは二度とないと思いました。

 ということで,今年は京都は避けて,3月29日,桑名で桜を愛でた私は,次に大垣に行くことにしました。桑名から大垣は遠そうに思えますが,信号のほとんどない木曽川の堤防道路を快適に走るとあっという間に到着します。
 大垣も人でいっぱいではあるのですが,私の目的はそれではなく,お堀端のきれいな桜と舟下りをやっている姿を写真に撮ろうと以前から思ってはいても,これまではなかなか実現できまなかったことをしようというのでした。また,「どうする家康」にちなんだ大垣城の桜も写すつもりでした。
 大垣市は観光の宣伝が上手なようで,思ったとおり,群れるのがお好きなお人たちが団体ツアー旅行で殺到しごった返していました。舟下りは団体ツアー客の予約で満席で,個人では乗ることできないということでしたが,そうしたお人たちが行く場所はいつも限られているのです。
 私はそんな人の流れとは無縁の世界です。大垣市は,市役所あたりに多くの無料駐車場があるので,そこに車を停めるのがコツです。駐車場までも,桑名のように長い車の列ができてはいませんでした。
 大垣市は住んでもいいなあと私が思う,数少ない町のひとつでもあります。
 今日は,そんな観光ではなく,大垣城について書きます。

  ・・・・・・
 大垣城は麋城(びじょう)または巨鹿城(きょろくじょう)ともよばれます。
 その起こりは,1500年(明応9年)竹腰尚綱によって揖斐川東河岸にあった牛屋に築かれたとも,1535年(天文4年) に宮川安定が大尻に築いたともいわれますが,そのころは,牛屋川を外堀の代わりに利用し,本丸と二ノ丸のみでした。
 戦国時代,大垣の地は戦略上重要な地点であったため,以下に書くように,めまぐるしく争奪戦が繰り返されました。
 まず,1544年(天文13年)に織田信秀の攻撃により落城し,織田播磨守が5年間城主を務めましたが,1549年(天文18年)に斎藤氏に攻め落とされて配下の竹越尚光が城主となりました。
 次に,1559年(永禄2年)には,桑名について書いたときにも登場した氏家直元が城主となり,1563年(永禄6年)に大規模な改修をして本格的な城郭として整備しました。
 賤ヶ岳の戦いの後,豊臣秀吉により,1583年(天正11年)に池田恒興が城主とされ,以後,大垣城は近世城郭としての整備が進みました。1584年(天正12年)に小牧・長久手の戦いで池田恒興が戦死すると,息子の池田輝政が継ぎましたが,1585年(天正13年)に池田輝政は岐阜城主に転じ,代わって,1585年(天正13年)に豊臣秀吉の甥・豊臣秀次の家老のひとりに任命された一柳直末が,大垣城に配されました。1586年(天正13年)の天正地震で全壊焼失してしまいましたが,1588年(天正16年)に一柳直末によって,また,1590年(天正18年)の小田原の役で一柳直末が戦死したため,功を挙げた伊藤盛景が城主となり,1596年(慶長元年)ごろまでには4重4階の天守閣が作られました。
 1599年(慶長4年)に伊藤盛景が死ぬと,子の伊藤盛宗が跡を継ぎますが,関ヶ原の戦いで西軍に属したため,西軍の根拠地となりました。しかし,関ヶ原の本戦で西軍が敗北すると東軍に攻囲され落城しました。
  ・・
 江戸時代に入っても,はじめのころは城主がめまぐるしく変わりました。
 まず,徳川家康は譜代大名として,徳川家康の従兄弟にあたる重臣・伊勢亀山藩石川家初代の石川家成の長男である石川康通を城主にしました。石川康通は,す。大河ドラマ「どうする家康」に登場する石川数正は従兄に当たります。
 石川康通は,1573年(天正元年)武田軍と戦って武名を挙げ,1580年(天正8年)家督を継ぎました。さらに,関ヶ原の戦いで戦功をあげ,1601年(慶長6年)大垣藩に加増移封されましたが,1607年(慶長12年)父・石川家成に先立って病死してしまいました。子の石川忠義は幼少のため,家督は父・石川家成が再び継ぎますが,石川家成も2年後に死去し,甥の石川忠総が継承しました。
 石川忠総が藩主の時代に,大垣城に総堀が開鑿されましたが,大坂の陣で戦功を挙げたことで1616年(元和2年)豊後国日田藩に移封され,今度は下総国関宿藩より松平忠良入りましたが,1624年(寛永元年)に没すると,丹波国福知山藩より岡部長盛が入りますが,1632年(寛永9年)に没し,その後は,山城国淀藩より松平定綱が入りますが,1635年(寛永12年)桑名藩へ移封されます。
 最後に,摂津国尼崎藩より戸田氏鉄が10万石で入って,以後,明治まで戸田家が支配することになりました。
  ・・
 大垣城は,1873年(明治6年)の廃城令で廃城となりますが,天守など一部の建物は破却を免れましたが,第2次世界大戦の空襲によって焼失してしまいました。
 現在の天守閣は,1959年(昭和34年)に郡上八幡城を参考に復元されたものですが,それは,郡上八幡城が戦前の大垣城をモデルに復元されたものだったといういわれからです。
  ・・・・・・

 ここで,大河ドラマ「どうする家康」で出てくる石川数正の名前が登場したので,以下,石川数正について書きます。
 石川数正は,徳川家康が今川義元の人質になっていた時代から近侍として仕え,1560年(永禄3年)に今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に敗死し,徳川家康が独立すると,その後,今川氏真と交渉し,徳川家康の嫡男・徳川信康と正室・築山殿を取り戻したり,織田信長と交渉を行い清洲同盟成立に貢献したり,三河一向一揆では,徳川家康に尽くしたりと貢献しました。
 また,そののち,姉川の戦い,三方ヶ原の戦い,長篠の戦いなどの多くの合戦に出陣して武功を挙げました。1582年(天正10年)の本能寺の変で織田信長が死去し,豊臣秀吉が台頭すると,豊臣秀吉との交渉を担当し,小牧・長久手の戦いで和睦を提言しました。
  ・・
 ところが,1585年(天正13年),徳川家康から豊臣秀吉へ出奔してしまったのです。また,その理由が定かではないのです。
 石川数正は,三河勢の軍事的機密を知り尽くしていたので,以後,三河勢は三河以来の軍制を武田流に改めることになってしまいました。以後,豊臣秀吉の家臣として仕え,豊臣秀吉より松本藩に加増移封されました。石川数正は,松本に権威と実戦に備えた雄大な松本城の築城と街道につないで流通機構の経路を掌握するための城下町の建設,天守閣の造営など政治基盤の整備に尽力しました。

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●2023年4月3日にNHKBSPで「アラスカの光と風-星野道夫×大竹英洋・時を超える旅-」が放送されたので,見ました。
 番組の紹介は
  ・・・・・・
 優しい眼差しの写真と心に響く文章でアラスカの自然を伝え続けた星野道夫さん。その世界に共感し自然写真家になった大竹英洋さんが彼の足跡をたどり壮大な旅に出た。
 星野道夫さんが生涯をかけたトナカイの大移動に遭遇し,ザトウクジラの群れに星野さんが出会ったクジラを発見。倉庫に眠っていたカメラから見つかった遺作フィルムの現像にも成功。
 時を超えて届いた手紙の様な写真を大公開! 今よみがえる星野道夫さんからのメッセージ。
  ・・・・・・
ということでしたが,大竹英洋さんは北アメリカ大陸ノースウッズ地域をフィールドとする自然写真家で,1975年京都府舞鶴市生まれ,一橋大学ワンダーフォーゲル部の出身だそうです。
 大学卒業後に自然写真家のジム・ブランデンバーグ(Jim Brandenburg)に弟子入りしようと北アメリカ大陸ノースウッズに訪れたことから撮影活動をはじめたということです。また,ノースウッズというのはアメリカとカナダの国境付近から北極圏にかけて広がる地域のことで,世界最大の原生林のひとつでもあるこの土地には,カリブーやオオカミ,ホッキョクグマなど様々な野生動物が生息している場所です。
 こういった前提の知識がないと,見はじめたときは自分の感情の置きどろころがなく,どんな内容なのかと少し戸惑いました。そもそも,なぜ今星野道夫さん? と思いましたが,ドンドンと引き込まれ,すばらしい番組でした。
 以前書いたことがありますが,私も一度アラスカ州に行ったことがあって,多くの発見と感動をしました。そのときの想いがよみがえってきました。私にも,もう少しの勇気と才能があったらなあ,とまぶしくもなりました。またいつか再びアラスカの地を踏みたいものです。でも遠い。

●元NHK交響楽団チェロ次席桑田歩さんが2023年4月5日に亡くなりました。57歳でした。
 ここ3年,コロナ禍でNHK交響楽団の公演から遠ざかっていて,近ごろ定期会員に復帰したところ,多くの団員が代わってとても若返っていて驚きました。それ以前にいつも見ていた桑田歩さんも退団されていて,どうしたのだろうと気になっていました。
 ツイッターでは多くの投稿をしていて,今にして思えば,残り少ない命を懸命に生きていたのです。
 3月8日に病を押して出演した演奏会が最後になったようですが,衝撃的だったのは2023年1月4日に演奏をした「鳥の歌」と指揮をしたベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」です。NHK交響楽団をはじめとした多くの演奏家が集まって,渾身の演奏をしたこの公演は,現在,ネット上にアップロードされているのですが,涙なしには見られませんでした。
 以前,早逝した同じくNHK交響楽団首席チェロ奏者だった徳永謙一郎さんが,ホスピスで最後の力を振り絞って「鳥の歌」を演奏した番組を見たことがあるのですが,それと姿がダブりました。
 この演奏会の予告が載っていたときは,どうしてチェロ奏者が指揮を? と私はとまどったのですが,そういう事情だったわけです。返す返す,2023年4月27日に指揮をするはずだったブルックナーの交響曲第8番がかなえられなかったことが残念です。
 ご冥福をお祈りします。

●2023年4月5日,4月6日に行われた第81期将棋名人戦七番勝負の第1局は挑戦者の藤井聡太竜王が先勝しました。
 東京都文京区の「ホテル椿山荘東京」で行われた,渡辺明名人に藤井聡太竜王が挑戦する今期の将棋名人戦は,非常に多くの人の関心を集めていて,多くのメディアでライブ中継をしたり,ニュースを流したりしてしていましたが,いつものごとく,それらは玉石混交で,「かいせつ」もまた,解説から怪説までさまざまでした。
 その中で,ダントツによかったのが,佐藤天彦九段が担当した,現地で行われた解説会でした。このときの様子はYouTubeで見ることができます。
 この対局では,85手目に渡辺明名人が▲7七銀という手を指せなかったことが話題となっていて,単にAIの評価値から多くの無責任な記事や意見が書かれていますが,この手についての真相は,この佐藤天彦九段の解説を聞いてみるのが一番です。以前,AIによる評価値についてこのブログに書きましたが,私は,人間が指せる手と指せない手がある,ということから,それをどうとらえるべきか,そして,どう解説してくれるか,はたまた,人間はAIとどのようにかかわっていくか,というほうがずっと興味があります。無責任な傍観者の脳はコンピュータに支配されていて,失敗しただのやんのやんのと騒いでるのですが,対局者はずっと真剣で,もっと深く読んでいるのです。
 こういうものを見ると,将棋に限らず,それ以外のすべてのことに対しても,どのように報道されているか,そしてまた,それらがいかに適当であるかがわかるというものです。
 また,YouTubeにある毎日新聞の将棋・囲碁ch「名人戦第1局を解説」では,三枚堂達也七段が局後にていねいな解説していたのも秀逸でした。この将棋の終盤で,藤井聡太竜王が△4八金と打って,その後にその金に効いていた角を引いて銀を取ったために,打ったばかりの金を飛車で取られるといった,一見ちょっと不可解な手順を選んだために,寄せを決めそこなっているように解説していたものもあり,実際評価値も下がったのですが,実はそんな簡単なものではなく,凡人には理解できない深い読みの裏づけがあって指し手を進めていたことが解説からわかります。こういう解説を聞くと,対局者がどれほど表面には現れない深い考察をしているのかということを知ることができて,感動を覚えます。解説はこうでなきゃ。

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 NHK大河ドラマ「どうする家康」にちなんで,桑名藩の殿様だった本多忠勝に関連した桑名城跡と九華公園を訪れた折に,お隣の六華苑にも行きました。そこで,今回は「どうする家康」とは関連はありませんが,六華苑について書きます。
  ・・
 今回,やっと六華苑に行くことができました。はじめて桑名に行ったとき,こんな豪邸があったことに驚きましたが,そのときは,コロナ禍で公開中止でした。
 公開されている内部は,先日行った名古屋市白壁の豊田佐助邸に似ているなあと思いました。それは,ともに,同じ時代の邸宅だからでしょう。とはいえ,いくら豪華でも,今のわれわれが住んでいるような住居のほうが,狭くても機能的であり,住み心地もよいので,私は,このような豪邸を見ても,住みたいとは思わないのが,皮肉というか何というか。
 時代はさかのぼりますが,江戸時代の上級武士の邸宅が各地で公開されていて,これまでいくつかを見ることができました。これもまた同じようなもので,現在の住居から見たとき,まったくもって,居心地がいいとは思えません。とはいえ,その時代は,ほとんどの庶民は,こうした住居とはかけ離れた小さく不便な家に住んでいたわけだから,それと比べたら,あまりに豪華なので,私は,その格差を考えると,複雑な気持ちになります。

 六華苑は「二代」諸戸清六の旧邸宅ということなので,「初代」がいるはずだからと,初代諸戸清六について調べてみました。
  ・・
 諸戸清六は世襲名です。初代諸戸清六はもとの名を諸戸民治郎といって,1846年(弘化3年)に生まれ,1906年(明治39年)に亡くなった米穀商,林業家,実業家,富豪でした。諸戸家は農業を営み,以前から大地主でしたが,父・諸戸清九郎が商売に失敗し身代を潰したので,一家は住み慣れた地を離れ,米・塩・肥料の採取業をしながら各地を転々としたのち,桑名の町に来て船馬町に小さな借家住まいをし,米搗き業の傍ら船宿を営みました。1860年(安政7年)に父が亡くなり家督を継いだときの諸戸清六が受け継いだものは1,000両を越える莫大な借金でした。
 諸戸清六は,父が残した負債を一身に担い,舟人となり貨物を運漕,また,米穀仲買人になり,父の残した借金返済に奮闘の末,僅か3年で借金を完済しました。さらに,明治維新を商機として事業を拡大し,西南戦争における軍用御用での仕事ぶりで多くの政府要人や三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎などの信頼を得て,1878年(明治11年)には大蔵省御用の米買付方となりました。1884年(明治17年)に山田家屋敷跡を購入。居を移した後は商売だけでなく水道敷設など公共の事業も行いました。1904年(明治37年)水に恵まれていなかった桑名市内に独力で諸戸水道完成し,水道の水は無償で提供されました。
 1906年(明治39年)に亡くなりました。享年61歳でした。
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 二代目諸戸清六は初代諸戸清六の四男・諸戸清吾です。
 早稲田中学校に進学しましたが,18歳のときに父の死去で諸戸家はふたつにわけられ,家屋敷は次男の諸戸清太が相続し,四男諸戸清吾が諸戸清六の名を襲名し,1906年(明治39年)に家督を相続しました。長男と三男は早逝しています。
 結婚し、1911年(明治44 年)に23 歳になった二代諸戸清六が住んだ住居が,現在,六華苑として公開されている旧諸戸清六邸で,1911年(明治44年)に着工し,1913年(大正2年)に竣工したものです。

 六華苑は,揖斐・長良川を望む約18,000平方メートルの広大な敷地に,洋館と和館,蔵などの建造物群と「池泉回遊式」庭園で構成されています。一部の改修と戦災を受けたものの,創建時の姿をほぼそのままにとどめています。鹿鳴館の設計で有名なイギリス人建築家ジョサイア・コンドル(Josiah Conder)設計による,和洋の様式が調和した明治・大正期を代表する貴重な文化財です。ジョサイア・コンドルは25 歳で来日して以来,67 歳で没するまで70近くの建築作品を世に送りましたが,そのほとんどは東京と神奈川県内に集中していたため,関東大震災や戦災等により崩壊し,現存する作品は非常に少ないといいます。六華苑は、地方に唯一現存するコンドルの住宅作品として、注目されています。
 なお,現在,諸戸宗家は,諸戸林業,諸戸商会,諸戸タオル,諸戸土地,日本みどり開発,諸戸本家は諸戸林産,諸戸緑化産業,諸戸産業,諸戸造林などの各事業を中心に「諸戸グループ」を形成しているということです。
 桑名市は平成3年に土地を取得し,建物は諸戸家からの寄贈を受け,整備工事の後,1993年(平成5年)に「六華苑」という名称で一般公開しました。そのうち,洋館および和館は1997年(平成9年)に国の重要文化財に指定され,他の6棟が三重県の有形文化財に指定されています。また庭園は2001年(平成13年)に国の名勝に指定されました。

 この日,六華苑には,多くの観光客が来ていました。
 受付で聞いてみると,ここは,現在公開されている映画「わたしの幸せな結婚」のロケ地だったから,ということでした。
  ・・・・・・
 2019年に小説とコミックが刊行されるやいなや,瞬く間にシリーズ累計発行部数が650万部を突破,2022年春にはテレビアニメ化も発表されたのが「わたしの幸せな結婚」です。
 明治・大正期を彷彿とさせる架空の世界を舞台に,心を閉ざしたエリート軍人と家族に虐げられて育った少女の政略結婚から始まる異色のラブストーリーで,孤独なふたりが少しずつ互いの大切な人になっていく姿が多くの共感をよびました。
  ・・・・・・
だそうです。コミックも読まず,テレビもほとんど見ない私は,全く無知でしたが。

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 2023年4月5日,大相撲稲沢巡業に行ってきました。
 コロナ禍でしばらく巡業を見ることもできませんでしたが,復活しました。前日は岡崎市で行われて,この日は稲沢市というように,まるで旅芸人一座です。午前8時過ぎに6台のバスを連ねて,力士が会場である豊田合成アリーナにやってきました。この会場は2年ほど前にできたということで,なかかな立派な建物でした。私ははじめて来ました。
 巡業の楽しみは,なんといっても力士との距離が近いということで,勝負は度外視,1日を楽しむことができればいい,というものです。多くの観客が,会場を右へ左へ,サインを求めたり写真を写したりしようと,人気力士を追いかけていました。それにしても,人気力士は大変です。ファンを邪見には扱えず,かといって,あまりに愛想をよくしていては,自分の時間もなくなってしまいます。
 こういう姿をみていると,私は,アメリカのメジャーリーグなどで,サインボールを持ってボールパークのスタンドをお目当ての選手を探して走り回っているアメリカ人の姿とダブります。どこの国でも同じです。

 今,大相撲は,横綱はケガを押して巡業に参加せざるを得ず,土俵入りだけを務めていますが,これもまた大変な仕事だと思います。まして,現在は,大関も参加していないから,まさに群雄割拠,だれが強いのかどうかも皆目見当がつかず,幕内ではだれが優勝するのかさっぱりわからない,という状況です。
 以前のように,毎場所白鵬が優勝してもまったくおもしろくなく,もし,今,稀勢の里がいたら,ダントツで優勝だろうと思うし,朝乃山が不祥事を起こしていなければ横綱として存在しただろうに,スター力士は喉から手が出るほど欲しいのに,相撲協会は自滅のようなことをやっています。
 しかも,下位の力士を見ても,将来有望,という感じの若者も見当たらないから,当分はこんな状況が続くのでしょう。こうなったら,横綱や大関などといった地位は失くしてしまって,前の場所の優勝者が次の場所で土俵入りをすればいいじゃなか,と私は思ってしまいます。
 これだけ年寄りの多い国では,日夜,暇を持て余した老人が何か楽しみがないかと探し回っているのだから,これはこれでよいのでしょう。今や,権威だとか,誇りだとか,そんな小難しいことはどうでもよく,相撲という名を借りたタレントさんのようなものだと,巡業を見ているとしみじみそう思うわけです。
 人生は暇つぶし。これはこれで,1日たっぷりと暇つぶしができたのだから,こんなすばらしいことはないのでした。

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 このところ,やりたいことがどんどん増えてきて,ゆっくり星見に行く時間がありません。星は大概のものは見てしまったので,明るい彗星でも来ない限りは後回しです。なにせ,星雲や星団はいつ見ても同じで逃げていきませんから。とはいえ,夕暮れの「かわたれどき」と明け方の「かたわれどき」は非常に美しく,そこに惑星や月が共演すると,まことに興味深い姿を現すので,思わず見とれてしまいます。
 そんなわけで,このごろは,その時間ともなると,ほかにやりたいことがあるのにもかかわらず,近場に,三脚につけたカメラを持ちだして,そうした姿を写すことが楽しくなってきました。
 今のデジタルカメラはとても優秀なので,思った以上の写真が簡単に写せます。また,このごろは,ソフトフィルターなるものをつかうと,強い光を受けている場所ほど光が大きくにじみ星像が際立つのでこれを活用するようになりました。
 現在は,明け方の空には惑星がいないので,今日は,夕方の空,つまり「かわたれどき」に写した写真をいくつか載せることにします。

 まず,1番目の写真は2023年4月3日の午後7時5分ごろから5分間にわたって写した国際宇宙ステーションです。国際宇宙ステーションはとても明るくて,予報通りに動くので,写しやすいのですが,何度見ても感動します。ただし,長時間露出をすると空が「真っ白になってしまうので,適当な露出で何枚も写して,コンピュータで「比較明コンポジット」をしなければなりません。そこで,ところどころ軌跡が破線となっているわけで,国際宇宙ステーションが輝きを停めているのではありません。
 実は,この時期の夕刻に国際宇宙ステーションを見ることができることは知らなかったというか,気に留めていなかったのですが,4月1日に金星と天王星が近づいたのでその写真を撮ろうとして空を見たら国際宇宙ステーションが飛んでいてびっくりしました。そこで改めて調べると,4月3日にも見られることがわかったので,今度はそれを狙ったわけです。
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 2番目の写真は2023年3月24日の夜8時30分ごろに月と金星が大接近したのを旅先の佐渡島で写したものです。この日は南にいくほど月と金星は近くなり,沖縄では月に金星が隠されるという金星食が起きたので,それを見るためには,住んでいるところよりさらに北に旅するなんていうことをしていてはいけないのですが,そんなことはまったく頭になかったわけです。
 であったのに,この日,日本列島はほとんどの場所で曇ってしまったようで,私がいた佐渡島が晴れていたのが,まあ,いつものように悪運が強いというか何というか…。

 話が前後しますが,先に書いた4月1日に写した金星と天王星の写真が3番目のもので,4月3日に写したものが4番目の写真です。2日で少し金星の位置が変わっていることがわかると思います。天王星は6等星くらいなので,単独にいても,なかなかどの星がそうなのかわからないのですが,こうして,金星などの標的があると,簡単に見わけることができます。実際は3月31日に金星と天王星は最接近したのですが,あいにくこの日は曇りでした。
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 また,ちょうど同じ日に,水星が結構高く昇っていて見やすい位置にあって,雲さえなければ,これはどうでも写せるのですが,日没30分後の西の空ぎりぎりに木星があってすぐに沈んでしまうというので,なんとかこれが写せないものかとトライしてみたのが,5番目と6番目の写真です。結論からいえば,がっかりでした。明け方ならこの条件なら見ることができたと思うのですが,どうしても夕方はまだ街灯が明るく,また,春は空が濁っているので難しいのです。
 いつも書いているのですが,見えなければ見えないということがわかったことが意義のあることなので,それはそれで満足できます。

 そんなわけで,日々,さまざまな条件で見え方が違うのを確認するのは楽しいことです。
 こんなことをしているから,いつも,やりたいことだらけになってしまうのですが。

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佐渡の最北端・鷲崎から二ツ亀を通り尖閣湾までの約50キロメートルの地域を外海府といいます。佐渡島で最もダイナミックな景観と透明度の高い海など,手つかずの大自然が残っている地域です。
二つ亀というのは,沖の島と磯の島のふたつの島がくっついていて二匹の亀がうずくまっているように見えることからくるよび名だそうです。どちらが沖の島でどちらが磯の島なのかは私が調べた限りわかりませんでしたが,名前から判断すると手前が磯の島で奥が沖の島でしょう。
佐渡島は沖縄などの南の島とは違って,海で泳ぐために遠いところからやってくる,というイメージはないかもしれませんが,二ツ亀には海水浴場があって,屈指の透明度を誇り,日本の快適水浴場100選にも選ばれています。私が行ったときはシーズオフだったので,ほかにだれもおらず,寂れた感満載でしたが,果たして,ハイシーズンだとどうでしょうか。 
ここにはSADO二ツ亀ビューホテルがあって,広い駐車場に車を停めることができました。私の車以外に車はありませんでした。
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景勝地を望む佐渡最北端のリゾートホテル・SADO二ツ亀ビューホテルは二ツ亀を眼下に見下ろす全室オーシャンビューで,ラウンジや大浴場からの眺望も見事です。ダイビング,釣りなどさまざまなアクティビティの拠点として最適です。
鷲崎漁港で揚がる魚介をはじめ,佐渡食材を使った料理には定評があり,レストラン「 サンセット」でも新鮮な海鮮料理をいただけます。
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というのがウリですが,宿泊代金は結構な金額でした。
昨年行った八重山諸島の小浜島にあったリゾートホテルもそうでしたが,こうした場所はどこもさびれ感満載なのです。これは,コロナ禍の影響なのか,それとも私が行く時期がオフシーズンだからなのか?

海岸までかなりの坂を降って行くと展望台があって,二ツ亀がきれいに見えました。砂州が二ツ亀までつながっていたのですが,帰ってから調べてみると,いつもつながっているわけではなく,私が行ったとき,たまたま干潮だったかららしいので,このチャンス,歩いて渡るべきでした。
二ツ亀から西に少し行ったところには大野亀がありました。こちらは標高167メートルの1枚岩が海に突き出しているものです。頂上には善宝寺石塔があり,登ると外海府の全貌を一望できるそうですが,私は行きませんでした。なお,二ツ亀,大野亀の「亀」というのは,亀の形をしているという意味のほかに,亀というのは,アイヌ語のカムイ,つまり,神聖な島を意味することからともいわれているそうです。
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二ツ亀から大野亀に至る約4キロメートの海岸線には自然遊歩道があって,海を見ながら散策をすることができ,その途中には,洞窟内に無数のお地蔵様がまつられた「賽の河原」もあります。
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とあって,自然遊歩道を歩いて「賽の河原」へ行くこともできたのですが,また戻ってこなくてはならないので,これもまた,行くのをやめました。
そのようなわけで,徹底的に軟弱な私は,再び来るとは思えないこの場所なのに,そのほとんどを断念してそのまま車に戻り,大野亀まで車で向かいました。この日の私はまったくもって行動的ではありませんでした。

道路を走っていくと,大野亀の手前に「賽の河原」という道路標示がありました。一旦は行くのを断念したのに,その道路標示に沿って行けば,長い距離を歩かなくても車で「賽の河原」に行けるんだ,と勘違いした私は,その道路標示に従って,車を海岸線に向けて右折しました。坂道を下っていくと,そこにあったのが,願(ねがい)という名前の集落で,そこにも駐車場がありました。
ここでやっと悟ったのは,「賽の河原」に行くには,ここに車を停めて,自然遊歩道を歩くのだということでした。何をどう思ったのか,今もってわからないのですが,今度は,私は「賽の河原」を目指して,海岸に沿って,道なき道を歩き出したのです。しかし,よくよく考えるに,先の二ツ亀から自然遊歩道を西に向かって歩くよりも,この願から自然遊歩道を東に向かって歩く方が,「賽の河原」まではずっと遠かったのです。
二ツ亀から大野亀の地域はパワースポットとしても知られているそうです。願の集落から「賽の河原」までは徒歩で15分くらいでしたが,岩場を歩くので疲れました。「賽の河原」は海食洞穴で,そのなかに「地蔵菩薩」を中心に無数の石地蔵が静かに並んでいました。
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「賽の河原」というのは,仏教の世界観の「三途」,その川のほとりのことで,親を遺して亡くなった子供たちが集まる場所です。
子供たちは小石を拾ってはひとつずつ積み上げて塔を作ろうとします。これは毎日12時間もかけて行う苦行ですが,その涙ぐましい行為は,塔が完成する前に鬼が出てきて石を崩してしまうので,必ず徒労に終わります。子供はこうして毎日虚しい苦行を繰り返しているというのが仏教の世界観で,亡くなった子供にとっても,子供を亡くした親にとってもあまりにも救いのない伝承です。
しかし,この伝承には続きがあります。
それは,子供たちの前に地蔵菩薩が現れて「私を冥途での親だと思いなさい」と抱きしめてくれるというものです。地蔵菩薩は地獄の入り口で死者を救う神様と考えられています。また,地蔵信仰は子供たちと結びつきが強く,安産や子供の病気の守護神としても敬われています。
昔は,出産で親子共々命を落とすことや,子供が育たずに亡くなることが多くあったので,遺された親を癒す必要があった時代だっだから生まれた伝承でしょう。
法華経には「童子の戯れに沙を聚めて仏塔を作る」とあり,これは,「子供が戯れで作ったとしても,仏塔を作ればそれは功徳を積んだことになる」という意味で、これが「賽の河原」につながったといいう説があるそうです。
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「賽の河原」とよばれる場所は,佐渡島のここ以外にも,青森県むつ市の恐山や長野県の木曽町の御嶽山にもあります。

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念願だった,飛んでいるトキを見て写真を写すことができた私は,すっかり満足して,朝食をとろうと民宿に戻るわけですが,まだ朝食の時間には少し早かったので,近くにあった順徳院御配所跡に寄ってみました。
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84代順徳天皇は,後鳥羽天皇の第三皇子として1197年(建久8年)に生まれました。1210年(承元4年)後鳥羽上皇の強い意向によって,兄・土御門天皇の譲位を受けて践祚し14歳で即位しました。土御門上皇には権力はなく,後鳥羽上皇による院政が継続されました。
昨年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で出てきたように,父・後鳥羽上皇の討幕計画に参画し,それに備えるため,1221年(承久3年)に順徳天皇の第三皇子・仲恭天皇に譲位して上皇となりました。そして,承久の乱を引き起こしたものの,倒幕は失敗に終わり,後鳥羽上皇は隠岐へ,順徳上皇は佐渡へ配流され,1242年(仁治3年)に亡くなりました。
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順徳天皇は,後鳥羽天皇の影響で和歌や詩に熱心で,藤原定家に師事して歌才を磨きました。小倉百人一首に
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 ももしきや 古き軒端の しのぶにも
 なほあまりある 昔なりけり
   順徳院
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 宮中よ古い屋敷の軒端に生えるしのぶ草
 そんなものを見ても古きよき時代を偲んでも
 偲び切れない思いにかられる
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があります。
小倉百人一首が成立した1235年当時,順徳上皇は佐渡へ配流されていたので,佐渡院といいました。順徳院と称せられたのは,亡くなった7年後の1249年(建長元年)のことでした。
1156年(保元元年)保元の乱で敗れ,讃岐に配流され,その地で崩御し,のちに怨霊となったのが讃岐院ですが,鎮魂のために名前を讃岐院から崇徳院に改められた話は当時まだ記憶に新しいものだったので,鎌倉幕府は,自らが廃したふたりの院の祟りを恐れ,鎮魂のために, 隠岐院は顕徳院,のち後鳥羽院に,佐渡院は順徳院に名前を変えました。なお,小倉百人一首の選者は藤原定家といわれていますが,藤原定家は1241年に亡くなっていて,そのときはまだ順徳院という名でなかったことから,小倉百人一首が藤原定家の亡くなったのちに手が加えられたことは明白です。
佐渡島には,順徳院御配所跡以外に,順徳上皇のゆかりの場所が数多く残されています。学校で習う歴史ではなく,やはり,行ってみなければわからないことが多くあります。
また,順徳院御配所跡の近くに北條家住宅とありましたが,それが何なのかわからなかったので,ともかく行って見ることにしました。北條家というのは,江戸時代に漢方医を開業し,代々「道益」の名を受け継いだ北條家の邸宅ということでした。茅葺屋根のどっしりとした長屋門をくぐると茅葺屋根や細い木柄が特徴的な主屋がありました。建築年代は18世紀後半ということで,庭木に囲まれた広い敷地には,米蔵、家財蔵、味噌蔵が建ち並んでいました。

民宿に戻って朝食をとり,この日の観光に出発です。
この旅の最大の目的だった,飛ぶトキを見る,が実現したので,残りの3日はこころおきなく佐渡島の観光ができます。
日本の離島で,佐渡島は沖縄本島に次ぐ面積をもっています。思ったより広いのです。
佐渡島は,北側の楕円形の部分を大佐渡,南側の楕円形の部分を小佐渡といって,それぞれ山地となっています。大佐渡の主峰は標高1,172メートルの金北山で,小佐渡の主峰は標高646メートルの大地山です。大佐渡と小佐渡はもともと別の島で,これが中央の砂州によってくっついたもので,砂州は離島には珍しく広い平野となっています
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今からおよそ3,000万年前,ユーラシア大陸の東側の縁が割れて,火山活動をしながら陸から引き離されていきました。大佐渡,小佐渡の山々は,このときの火山噴出物や溶岩でできています。海岸の岩肌にある赤っぽい岩片は大陸の岩盤をなす花崗岩で,大陸から切り離されはじめるときに大陸の崖が崩れ,そこへ火砕流が流れ込んで固まり片辺礫岩として残ったものであり,当時の激しい噴火の痕跡である球顆流紋岩(=石英の粒が含まれる火山岩)が荒々しい海岸線を形づくっています。
金銀鉱脈がつくられたのは約2,000万年前のことで,大陸から引き離そうと働く力によって岩盤に亀裂が入り,できた断層にマグマで熱された高温・高圧の熱水が地中深くの岩石から溶け出した石英や金,銀などの鉱物を溶かし込んで何度も上昇し,断層の隙間を埋めるように徐々に沈殿していったのです。金銀山最大の鉱脈とされる青盤脈は,長さ2,100メートル,深さ500メートル,幅6メートルにも及びます。
やがて,1,700万年前,日本列島が大陸から完全に切り離されると日本海が誕生し,佐渡島は一旦,日本海の海底に沈んで姿を消してしまいましたが,約300万年前,日本列島全体がプレートに押されて隆起をはじめると,海底にあった佐渡にも力が加わり,大佐渡,小佐渡がふたつの島となって海上に顔を出しました。このとき,約3,000万年前の大地をしっかり抱えたまま隆起したので,佐渡島には豊かな金銀鉱脈が存在するわけです。
大佐渡,小佐渡の山から出る大量の土砂は川で運ばれて海岸線に堆積し,さらに波がその砂を動かして,真野湾(=西側の湾)と両津湾(=東側の湾)のあたりに砂州が形成されました。砂州に挟まれた海が土砂で埋め立てられて,大佐渡,小佐渡ふたつの島をつなぐように平野ができました。
江戸時代になり,金山採掘のため相川集落の人口が増えると,不足した米を補うために国中平野周辺の新田開発が一気に推し進められました。これが今に続く広大な平野です。
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私は,2日目の今日3月23日は,両津港から,大佐渡を反時計回りに1周,あすの3日目3月24日は,今度は,両津港から小佐渡を時計回りに1周して,最終日3月25日は,中央の平地を観光することにしました。
まず,民宿から東に両津港まで行き左折して,海岸線に沿って北上していきます。佐渡島のもっとも北にあるのが二ツ亀というところで,そこまでは単調に道路が続いていましたが,北に行くにつれて,トンネルは狭くなり,道幅もすれ違うのがやっとになってきました。
そのうちに,奇妙な形の岩が見えてきました。それが二ツ亀でした。

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 桑名市は私の自宅からさほど遠くないのに,通り過ぎるだけで,行ったことがありませんでした。私の印象は,江戸時代に東海道が宮宿から七里の渡しで着くのが桑名宿であることと,桑名といえば焼き蛤,ということくらいでした。
  ・・・・・・
宮重大根のふとしくたてし宮柱は,ふろふきの熱田の神の慈眼す。七里のわたし浪ゆたかにして,来往の渡船難なく,桑名につきたる悦びのあまり,めいぶつの焼蛤に酒くみかはして,かの弥次郎兵衛喜多八なるもの,やがて爰を立出たどり行ほどに,此頃旅人のうたふをきけば
はやりうた「しぐれはまぐりみやげにさんせ,宮のお亀が情所ヤレコリヤ,よヲしよヲしよし
  十返舎一九「東海道中膝栗毛」五編上
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熱々の風呂吹き大根じゃないけれど,宮島大根のように立派に建てられた柱を有する熱田神宮の神に守られた七里の海路は波静かで,往来の船は難なく桑名の湊に着いた喜びのあまり,名物の焼蛤に酒を酌み交わして,かの弥次郎兵衛北八なるもの,やがてここを出立し,辿って行くと,此の頃,旅人の唄う声が聞える。
流行唄「しぐれははまぐりみやげにさんせ,宮のお亀が情所やれこりゃ,ようし,ようし,よし」
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 こんなことではいけないと,数年前に七里の渡し跡に行ってみたことがあって,そのときの様子はすでにブログに書きましたが,七里の渡し跡の周辺は,旧東海道に沿って,桜の名所である九華公園(きゅうかこうえん)と,六華苑という明治時代,この地に住んでいた山林王・諸戸清六の旧邸が公開されているということで,いろいろ見どころが多彩なのに驚きました。
  九華公園は桑名城跡を公園として整備したもので,桜やつつじ,花菖蒲の名所として知られていますが,以前行ったときは春でなかったので桜も見られず,また,コロナ禍で六華苑も閉館していたので,2023年3月29日,天気がよかったこともあって,また,桜が満開だろうと,再び行ってみることにしました。
 しかし,平日とはいえ,すごい人混みで,駐車場もほぼいっぱいだったのには参りました。なんとか車を停め,駐車場からお目当てだった九華公園へ歩いていきました。九華公園で桜を愛で,お堀で船に乗り,春のきもちのよい時間を過ごしました。現在,桑名城はほとんど何も残っておらず,九華公園に一か所だけ,江戸時代のお城の石垣が残っていました。何でも,それ以外の場所の石垣は,四日市市が海を埋め立てるときに持っていってしまったという話です。桑名市の怨念がこもっています。

 私は,日本各地,どこも,行ってみたときに最も興味をもつのが,江戸時代,そこがどのような藩だったのか,また,治めていた殿様がだれだったのか,ということです。そこで,桑名藩についても調べてみると,何と本多忠勝という名前が出てきました。こりゃ「どうする家康」ではないか,ということで,興味をもちました。実際,九華公園の入口に本多忠勝の大きな銅像がありました。
  ・・・・・・
 「徳川家康」を支え,生涯に57度も戦場へ赴いてもかすり傷ひとつ負ったことがないといわれるほど勇猛な武将として有名な本多忠勝は,本多忠高と小夜の長男として,1548年(天文17年)現在の岡崎市にあった西蔵前城で誕生しました。父の本多忠高は,本多忠勝2歳のときに今川氏との間で勃発した「安城合戦」で戦死したので,幼少期は叔父の本多忠真を頼り,母と共に現在の岐阜県加茂郡にあった洞城に移り住みます。
 本多忠勝の初陣は1560年(永禄3年)の「大高城兵糧入れ」で,13歳だった本多忠勝は危険な任務を見事にやり遂げました。1563年(永禄6年)の「三河一向一揆」の際には,一揆衆に味方する本多一族の中でも数少ない徳川方として大活躍し,その働きぶりが徳川家康の目に留まり,愛用していた「蜻蛉切」とよばれる槍とともに,一躍その名を馳せました。この「蜻蛉切」とともに本多忠勝の武具として有名なのが「鹿角脇立兜」で,鹿の角をモチーフにした脇立は,和紙を貼り合わせて黒漆で塗り固められたものです。
  1600年(慶長5年)「関ヶ原の戦い」で奮闘した本多忠勝は,その功績によって桑名に転封され,桑名藩を創設し,初代桑名藩主となりました。
 本多忠勝は,1604年頃(慶長9年)から病気がちとなり,1609年(慶長14年)には嫡男・本多忠政に家督を譲って隠居し,翌年病死しました。享年63歳でした。 
  ・・・・・
 本多忠勝が桑名城下で行った整備として最も有名なのが「慶長の町割り」です。これは,三重県の北東を流れる現在の員弁川,当時の町屋川と大山田川の流れを途中でせき止め,そこを外堀として利用することで現在の街並みの大部分を完成させたもので,今日でいう都市計画事業です。今でも桑名市の中心部は慶長の町割りの名残をとどめています。
 本多忠勝は,徳川家康のみならず織田信長や豊臣秀吉からも愛された武将でした。
 辞世の句は
  ・・・・・・
 死にともな 嗚呼死にともな 死にともな
 深きご恩の君を思えば
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 主君の深い恩に報いることができなくなると思うと
 死にたくはない
  ・・・・・・
で,晩年は幕府の中枢からは距離を置いていた本多忠勝ですが,最後まで主君・徳川家康への忠誠心が変わることはありませんでした。

 本多忠勝が桑名藩を創設する以前の桑名は,伊勢国の一部として,はじめは滝川一益が治め,没落後は,織田信長の次男・織田信雄が支配し,次に,豊臣秀吉の家臣・一柳直盛が入封。さらに,織田信長の下で勇名を轟かせた氏家直元の次男・氏家行広が入りましたが,関ヶ原の戦いで西軍に与したので壊滅し,本多忠勝が入ることになったのです。
 本多忠勝の嫡男・本多忠政は大坂の陣に参戦し活躍し,また,豊臣秀頼の正室であった千姫と本多忠政の嫡男・本多忠刻が婚姻したこともあって,1617年(元和3年)に武功により西国の押さえとして播磨姫路藩に加増移封されました。
 そして,本多家に代わって家康の異父弟である松平定勝が入りました。
 それ以後の桑名藩は,歴史の荒波に翻弄され,さまざまま事件が起き,とても興味深い歴史があります。ここではそれを書くことが本意でないので省略しますが,幕末に桑名藩は朝敵となってしまい,いわれなき差別を受けて肩身の狭い思いをしたり,西南戦争では怨みを晴らすために400名もが出征したという悲劇がありました。

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金星と天王星の大接近。

4月1日に写しました。
薄雲があります。
3月31日の方が接近したのですが,曇りでした。
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トキを見るには早朝,日の出のころに巣から飛び立つから,その時間が最適だということでした。そういえば,私の自宅のあたりは田んぼがいっぱいあるのですが,早朝散歩をしていると,日の出とともに,さすがにトキはいませんが,サギをはじめとして多くの鳥が飛びはじめます。ちょうどそのころ,犬の散歩もはじまるのですが…。私の最も好きな「かたわれどき」です。
この日3月23日の日の出は,春分のころだから,およそ午前6時です。私は朝はめっぽう強いので,この時間はまったく苦になりません。そこで,昨晩,民宿の女将に教えてもらった場所に午前5時30分過ぎに到着しようと,午前4時過ぎに起きて,午前5時に民宿から車で出かけました。
到着したときはまだ早かったので,薄暗かったのですが,次第に空が明るくなってきました。そのころは,空を見上げても何も飛んでいなかったのですが,しばらく待っていると,目の前に向かって小さな鳥が飛んできました。思っていたよりも小さいので,はじめはまさかその鳥がトキだとは思いませんでした。やがて近づくと,確かにトキ色の羽根を羽ばたいて上空を旋回していきます。急いでカメラを向けて写真を撮りました。
ついに,運転している車内からではなく,トキを目の前で目撃したのです。来るまえに自宅でサギの写真を撮って練習してきた甲斐があったというもので,練習してきたのと同じようにして写真をモノにしました。夢がかなった瞬間でした。

トキは,群れてたくさん飛んでいるのではありません。それほどの数はいません。数十分に1羽から2羽,飛んできては旋回して遠くに餌場を求めて去っていくのです。次第にわかってきたのは,トキは「ガーゥガーゥ」と結構大きな声で鳴くので,その声が聞こえたら飛んでくるのがわかるのです。どうやら,教えてもらったところに確かにトキの巣があるようでした。また,姿が見えなくても,鳴き声はたくさん聞こえてくるのです。
それにしても美しい羽根です。どれだけ見ても見飽きることはないのです。
こうして,この日の朝,午前5時40分ごろから午前6時過ぎまでの30分間に,私は5羽の飛んでいるトキを目撃し,写真に収めることができました。
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トキは首のあたりの皮膚が黒く,繁殖期が近づくとこの皮膚が厚くなり粉状になって剥がれ落ちます。それを水浴びの後こすりつけるために,頭から背中にかけて黒くなります。黒くなった羽根はトキが繁殖可能な状態であることを表すとともに,巣で卵を抱く際の保護色の役目を果たすとも考えられています。着色した羽根は「生殖羽」とよばれます。
この様な羽色の変化は鳥の中でトキだけです。羽色が黒くなると繁殖可能を示すとともに,抱卵時の保護色とも考えられています。
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私が佐渡島に来たのは,ちょうど繁殖期だったので,羽根を広げて飛んでいるトキもまた,羽根の「トキ色」が実にみごとでした。

今回もまた,オーロラが見たい,皆既日食が見たい,泳いでいる鯨が見たい,日本人メジャーリーガーがアメリカでプレーしている姿が見たい,ウィーンの国立歌劇場でオペラが見たい,などといった私の長年の夢のなかまのひとつだった,飛ぶトキが見たい,が,こうして実現しました。

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