私は,日本各地を訪れたときに,まず興味があるのが,江戸時代にその地を支配した殿様です。それは,現在の日本の姿は江戸時代に形作られたと思うからで,薩摩藩の島津家,長州藩の毛利家はいうに及ばず,加賀藩の前田家,水戸藩の徳川家,米沢藩の上杉家など,江戸時代に同じ家の殿様が続いていて安定した藩政を行っていたところは現在文化水準が高いのです。
まず,先に訪れた弘前市の観光案内所で,江戸時代の殿様はだれだったのか聞いてみたら,知らない,と言われて驚きました。弘前城に入ったところにあった博物館で再び聞いてみたら,弘前藩の殿様は津軽家だとわかりました。しかも,津軽家は国替えされることもなく,江戸時代ずっと続いていたのです。であるのに,この地方には,津軽家をリスペクトする雰囲気がないし,ほどんど知られていないのです。
私にはこれがとても意外でしたが,このことは,また,後で書きます。
幕末期,新政府と戦った東北地方の諸藩には天守が残っていません。これがほとんど天守が残っている四国地方との違いですが,弘前城は,東北地方で唯一天守が現存しています。これにも理由がありますが,このこともまた後で書きます。
弘前城は,初代弘前藩主の津軽為信(ためのぶ)によって計画され,2代藩主の津軽信枚(のぶひら)が完成させたものです。初代の天守は五層の壮大なものでしたが,落雷で焼失しました。現存の三層の天守は2代目ですが,天守は基本的に再建の許可は下りないので,1808年(文化5年)に幕府の許可を得てその2年後に櫓という名目で再建されたものです。
弘前城本丸東面の石垣は,1983年(昭和58年)に起きた日本海中部地震の際,石垣の膨らみである「はらみ」が明らかとなり,このまま放置すると天守が崩落してしまう可能性が指摘されたので,2008年(平成20年)から修理事業が進んでいます。まず,高さ2.5メートル,総重量約400トンの3階建て天守を本丸の内部へ約70メートル移動させて,天守北側平場の発掘調査,水濠の水抜きなどがからはじまり,石垣の修復が行われています。
工事の様子は木造の展望台が設置されていて眺めることができます。
また,移動した天守は中に入ることもできますが,展望デッキからは,曳屋で移動した天守と岩木山の見事な景観を望むことができます。
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天守が移動してしまっているので残念,と思うか,もともとの天守台の場所では絶対に見ることができない天守と岩木山の絶景や石垣修理の現場が見られる百年に一度の絶景! と考えるかは人それぞれでしょうが,天守が元の場所に戻ったらまた来てみたいものだと,私は思いました。
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「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは