しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

May 2023

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私は,日本各地を訪れたときに,まず興味があるのが,江戸時代にその地を支配した殿様です。それは,現在の日本の姿は江戸時代に形作られたと思うからで,薩摩藩の島津家,長州藩の毛利家はいうに及ばず,加賀藩の前田家,水戸藩の徳川家,米沢藩の上杉家など,江戸時代に同じ家の殿様が続いていて安定した藩政を行っていたところは現在文化水準が高いのです。
まず,先に訪れた弘前市の観光案内所で,江戸時代の殿様はだれだったのか聞いてみたら,知らない,と言われて驚きました。弘前城に入ったところにあった博物館で再び聞いてみたら,弘前藩の殿様は津軽家だとわかりました。しかも,津軽家は国替えされることもなく,江戸時代ずっと続いていたのです。であるのに,この地方には,津軽家をリスペクトする雰囲気がないし,ほどんど知られていないのです。
私にはこれがとても意外でしたが,このことは,また,後で書きます。

幕末期,新政府と戦った東北地方の諸藩には天守が残っていません。これがほとんど天守が残っている四国地方との違いですが,弘前城は,東北地方で唯一天守が現存しています。これにも理由がありますが,このこともまた後で書きます。
弘前城は,初代弘前藩主の津軽為信(ためのぶ)によって計画され,2代藩主の津軽信枚(のぶひら)が完成させたものです。初代の天守は五層の壮大なものでしたが,落雷で焼失しました。現存の三層の天守は2代目ですが,天守は基本的に再建の許可は下りないので,1808年(文化5年)に幕府の許可を得てその2年後に櫓という名目で再建されたものです。
弘前城本丸東面の石垣は,1983年(昭和58年)に起きた日本海中部地震の際,石垣の膨らみである「はらみ」が明らかとなり,このまま放置すると天守が崩落してしまう可能性が指摘されたので,2008年(平成20年)から修理事業が進んでいます。まず,高さ2.5メートル,総重量約400トンの3階建て天守を本丸の内部へ約70メートル移動させて,天守北側平場の発掘調査,水濠の水抜きなどがからはじまり,石垣の修復が行われています。
工事の様子は木造の展望台が設置されていて眺めることができます。
また,移動した天守は中に入ることもできますが,展望デッキからは,曳屋で移動した天守と岩木山の見事な景観を望むことができます。
  ・・
天守が移動してしまっているので残念,と思うか,もともとの天守台の場所では絶対に見ることができない天守と岩木山の絶景や石垣修理の現場が見られる百年に一度の絶景! と考えるかは人それぞれでしょうが,天守が元の場所に戻ったらまた来てみたいものだと,私は思いました。

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 人生のゴールドエイジは55歳から75歳。これほどすばらしい時期はないのです。この時期を楽しく過ごすために,それまでの55年間を生きてきたといっても過言ではありません。
 とはいえ,定年が65歳になってしまった今では,ゴールドエイジの半分を無駄に過ごしてしまわなければならない人が多いのが気の毒なことです。できれば,私のように,1年でも早く早期退職するといいと思うのですが,なかなかそうもいかないのでしょう。55歳で管理職,なんて最悪の選択です。輝ける50代後半のもっとも楽しめる時代を完全に無にするからです。それで多少お金が手に入ったとしても,無駄にした時間は戻りません。また,仕事を辞めた後で,そんな肩書は誰もリスペクトしません。仕事は人生の一部ではありますが,仕事が人生ではないのです。

 少子高齢化の時代,世の中はゴールドエイジを迎えた人だらけです。このごろは,社会が3年前に戻りつつあるので,私のように,それまでと変わらず旅をしていた少数の人は別として,これまで外出を控えていた「人生すべてパック旅行」の人たちも,今になって積極的に外出をしはじめました。
 一概にゴールドエイジといっても,これまでの人生経験がそれぞれ異なるから,人生感も価値観も異なり,また,能力も違い,幼稚園児とは違って仲間意識が芽生えることも容易なことではありません。さらに決定的なのは,この先は高額の収入も見込めないし,プライドだけが取り柄の人にとっては唯一の支えであった仕事上の肩書もなくなってしまうと,もはや,この齢になったとき,すでに何か行動を起こす前に勝負あった,という感じです。

 こうした人たちは,①お金もなくしたいこともない ②お金があってしたいこともたくさんある ③お金はあってもしたいことがない,あるいは,したいことがあってもそのやり方がわからない ④お金はないけれどしたいことがたくさんある,という4つのタイプに分けられます。
  ・・
 この中で,お金もなくしたいこともないという人たちは,朝から晩まで,その日一日ををいかにして潰すかが日々の大問題です。近くのモールの休憩所で1日ボーッとテレビを見て,夕方の特売がはじまると群れて夕食のお弁当を買ったりしている人も少なくありません。それはそれで人それぞれだからいいと思うのですが,退屈ほど辛いものもないわけだから,それを克服することは結構たいへんです。人は夢がないと精神的に病んでしまうから,これだけは避けなければなりません。鬱になる老人が多いというのは,こんな状態を指すのでしょう。
 次に,お金があってしたいことがたくさんあるという人たちは,人生を謳歌しているわけだから,お好きなようにしてもらえばいいでしょう。お金の使い方もよく知っているし,したいことをどのようにするかも知っているから,楽しい毎日を送っているのです。心配なのは健康だけですが,精神的に充実していれば病気にもならないものです。まさにゴールドエイジです。
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 お金はあってもしたいことがない,あるいは,したいことがあってもそのやり方がわからない,という人たちが,もっとも経済社会に貢献している人たちだと私は思います。こういう人たちが,お金を使ってもらうお客さんとしてもっと貴重な存在なのです。だから,いかにして,こうした人たちからお金を使ってもらうか,いや,巻き上げるか,ということが商売のコツとなります。
 こうした人たちの多くは,現職当時,仕事人間だった人たちです。いざ退職をして旅行をしようと思っても,現職のころに遊んでいないからその方法がわからないので,ともかく,まずは旅行会社の窓口を頼ってくるということになるのです。だから,〇〇パックなるもので,団体ツアー旅行をしているひとたちに多いのです。
 このタイプの人たちに多いのは,現職当時に地位が高かった人です。そのプライドを捨てきれないので,いつまでも先輩風を吹かすから,結構周りの人は迷惑しますが,こういう人がお客さんならば,むしろそれを利用して,そうしたプライドをくすぐってあげさえすれば,お金を出すことに躊躇はしないのです。
 この少子高齢化社会で,最も消費のターゲットにするといいのは,こうした人たちなのでしょう。
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 お金はないけれどしたいことがたくさんある,という人たちが,ゴールドエイジを迎えたとき,もっとも悲劇の存在となるでしょう。こうした人たちが幸せな生活を送るには,お金を使わなくても楽しめるものをもっていることが必要なのでしょうが,やりたいことがたくさんあるというのは,もともと好奇心が高いからであって,しかも,お金がないというのは,若いころにお金を使ってしまったとか,収入がたくさんあったころにお金がかかる楽しみをしていた,というその結果であることが多いからです。
 そうならないための対策が立てやすいのは,このタイプでしょう。つまり,きちんと人生設計を立てて,若いうちから,上手な,自分の身のたけにあったお金の使い方を覚えることです。
 若いころは,自分が齢をとったときのことなど,さほど考えないものですが,実は,若いころにやっているそのすべてのことは,ゴールドエイジを迎えたときどうなっているか,ということに通じているのです。そのときを迎えてからでは遅いのです。


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 2023年5月17日に,NHKBSPで「新・街道をゆく~北のまほろば」が放送されました。私がちょうど青森県に旅行をする前日だったので,まさにぴったりの内容でした。録画しておいて,旅から帰ってから見ました。
 以前,司馬遼太郎さんの書いた「街道をゆく」を映像化した番組が作られたのですが,「新・街道をゆく」はそれを新しく作り直したものです。
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 司馬遼太郎さんが終生深い思い入れを抱き,亡くなる2年前の1994年に旅して記したのが,青森県を歩いた「街道をゆく41~北のまほろば」。なぜ,司馬遼太郎さんが,本州最北の地である青森を,物成がよく豊かな土地を意味する「まほろば」とよんだのか。縄文の巨大遺跡から幻の中世都市,津軽が生んだ芸術家である太宰治や棟方志功…。
 厳冬の津軽半島を舞台に司馬遼太郎さんの足跡をたどる。
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という内容の番組でした。

 司馬遼太郎さんは1923年に生まれ1996年に亡くなった作家です。とても多くの作品を執筆していて,NHK大河ドラマでのよく取り上げられていました。私は大学生のころ,ずいぶんと読みました。
 小説だけでなく,紀行文や対談集も数多く,その深い洞察力と知識に基づいた歴史感は「司馬史感」といわれ,多くの人が影響を受けました。当然,批判的に思う人もいたのですが,私は若かったので,そうした批判をするような知識ももっていなかったし,よくわかりませんでした。だから,ある種,洗脳されたかもしれません。
 また,「街道をゆく」は「週刊朝日」の連載として1971年にはじまり,司馬遼太郎さんが亡くなる1996年まで25年にわたり続きました。「街道をゆく」は,日本民族と文化の源流を探り,風土と人々の暮らしのかかわりを訪ねる旅の紀行文です。
 いつ「週刊朝日」を手に取っても載っていたのですが,若かったころの私にはさしておもしろくもなかったので,これまで読んだこともありませんでした。
 しかし,今回,青森県を旅行してみて,どうして,弘前藩の殿様・津軽家が江戸時代ずっと続いたのにもかかわらず人気がなくリスペクトされていないように思えたのか,太宰治が豊かな家に生まれたのに屈折した小説を書いたのか,この寒い地で3,000年以上も縄文文化が栄えたのか,など,多くの疑問をもって帰宅しました。それからこの番組の録画をみて,まさに私が疑問に思ったことが取り上げられていて,感激しました。そして,はじめて「街道をゆく」という紀行文のおもしろさがわかりました。
 そこで,図書館で「街道をゆく41~北のまほろば」を借りて読んでみました。私は,この歳で,やっと,司馬遼太郎さんが何を書きたかったのかということがわかったのが,喜びでもあり,また,やっと追いついたという思いをもちました。

 縄文時代,この地は,食料の宝庫だったようです。山や野に木の実が豊かで,三方の海の渚では魚介がとれ,走獣も多く,川にはサケやマスがやってくるという,「北のまほろば」だったのです。
 私は,東北地方や北海道に縄文時代の遺跡が多いのは,これらの地が今のように寒くなく,もっと温暖だったからと思っていました。それも多少はあるでしょうけれど,温暖でなければ豊かでない,というのは「街道をゆく~北のまほろば」を読んでみると,どうやらコメ作についての考えのようです。コメ作中心でなかった縄文時代はそうではなく,コメ作が伝わってから,そうした価値観が根づいたと「街道をゆく41~北のまほろば」には書かれてありました。
 ところが,江戸時代,殿様はコメを上方の商人に売りつけることで貨幣に変えていたので,コメは貨幣となりました。そこで,本州最北の地はコメ作には気候的に不向きであったのにかかわらず,領主の津軽家の殿様は米作りを奨励し農地を開いたのです。しかし,5年に一度は「やませ」が吹いて飢饉が訪れるという悲劇が襲いました。これが金を借りるということにつながっていくので,次第に貧しくなっていったのです。
 明治時代になってリンゴ作りがはじまって,やっとこの地に見合った特産物が手に入ったのですが,それでも,ときに台風が襲って,実りの秋にほとんど収穫できないという悲惨な年もありました。
  ・・
 私は子供のころ,学校で,縄文時代は生活が不安定で,コメ作がはじまった弥生時代になって生活が安定したと習いました。しかし,実際は違う。縄文時代は貧富の差もなく長く平和が続きました。弥生時代になって,貧富の差ができて,人々は戦いに明け暮れるようになったのです。
 津軽,今の青森県は「北のまほろば」。コメ作りが広がる以前はとても豊かだったです。
 青森県に限らず,どの地も,こうしたさまざまな先人の苦労の上で,今の人々の生活があるということが,実際に行って,その地の空気を吸い,その地を歩くことで,実感することができるということを,私は,旅をすることで知りました。

 余談ですが -という書き方は司馬遼太郎さんの小説によく書かれてある言葉でもありますが- 「街道をゆく41~北のまほろば」の中に「無名の師」(むめいのし)という言葉がありました。浅学の私は,この言葉を知らず,調べてみたのですが,その意味は
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 起こす名分のない戦争。 特に仕掛けられる側だけでなく、仕掛ける側においても必要がなくかつ勝算が確定的でない場合に独裁的な指導者によってなされるものを言う。
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とありました。まさに,現在のお隣の大国のことだ,と思いました。昔も今も,愚かな独裁者をもつと,支配される側は悲劇です。

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この旅の2日目,2023年5月19日です。
朝は午前5時に千人風呂に行きました。こんな早くても,すでに5,6人の人が入浴していました。私も含めてお年寄りは朝は早起きなのです。私も,常日ごろから午前4時過ぎの起床です。
朝食が午前7時からだったのですが,それ以前にすでに並んでいました。日本いうバイキング,つまり,ビュッフェ形式で,私はこれが嫌いなのですが,致し方ありません。それでも早めに行ったので,座席を確保して,ゆったりと食事をすることができました。
食事を終えて,酸ヶ湯温泉をチェックアウトしました。
この日の目的地は,まずは弘前市,そして,青森県の西の海岸線に沿って,この日に予約した深浦の民宿まで行きます。天気予報は午前中なんとか雨が降らず,午後は天気が悪くなって雨,ということでした。前日はとても天気がよくて,奥入瀬渓谷も十和田湖も美しく見ることができたし,この日は弘前という都会の観光なので,まあ,よしとしますか。明日は天気も回復するということでした。

国道394号線は,むつ市から下北半島の東側を海岸線に沿って進み,小川原湖の北側を西に向かい,さらに青森県の中央部を進み,途中,八甲田山の北側を国道103号線と併用しながら黒石市へ行き,そこから国道102号線と併用しながら弘前市に至る国道です。
私は,この日の朝,酸ヶ湯温泉からこの国道394号を走っていました。その途中で渡ったのが城ヶ倉大橋でした。
このあたり,かつて城ヶ倉と沖揚平間は,城ヶ倉峡谷の急峻な地形を幅員狭く急勾配の九十九折りで越す難所でした。1974年,この部分をつけ替えて長大な城ヶ倉大橋を作ることになりました。そこで1995年にできたのがこの城ヶ倉大橋という,城ヶ倉峡谷を眼下に見下ろす長大なアーチ橋で,作られた当時は,上路式アーチ橋として,アーチ支間長が255メートルで日本一でした。
私は,当然,いつもの通り,そんなことはまったく知らず走っていたのですが,こりゃすごい,と橋のたもとにあった展望台に車を停めてしばし見入りました。
帰宅してから調べてみると,この場所は県内有数の景勝地で,城ヶ倉渓流の美しい景色をを見下ろすことができ,特に紅葉の時期になると真っ赤に染まり非常にきれいな場所なのだそうです。

このごろ,四国地方や紀伊半島などを走るようになって,日本にいかに山が多く,そこに道路を通すためにこうしたとんでもない橋やトンネルが無数にあることを知りました。また,今でも車がやっとすれちがえるようないわゆる「酷道」が山のようにあり,走っていると何とかならないものかと思ってしまうのですが,それを解消するためにこんな難工事ばかりを行っていれば,技術は進むことでしょうが,いくらお金があっても足らないだろうとも思います。また,今後の日本を考えたとき,維持できるかしら,と心配にもなります。
こうした絶景があると,オカルト好きのお人たちは,心霊スポットと騒ぎ立てます。この場所も, 飛び降りの名所で,青森県ではじめて新型コロナウィルスに感染した人が飛び降りただとか,そういう噂があるらしいです。私はまったく興味がないのですが,いやはや,という感じです。
私が通ったときはせっかくの絶景も霧っていたのが少し残念ではありました。

黒石市に入ると道路が広くなりました。このあたりは田んぼアートで有名なのだそうですが,今は時期でないので,何もありませんでした。さらに進むと,弘前市に到着しました。
弘前市は長年ずっと行きたかったところだったのですが,なかかな機会がありませんでした。
2020年の春に有名な弘前城の桜を見ようと名古屋・青森間の航空券を買ってあったのですが,直前になってコロナ禍が襲い,私はむしろ空いているから行く気満々だったのですが,飛行機が飛ばず,行くことができませんでした。今は桜の季節ではないのですが,ともかく,その3年後に弘前市に行くという念願はかないました。
弘前城のあたりは官庁街でした。どこかに車を停めて,半日観光をしようと思った矢先,西に美しく見えたのが岩木山でした。そこで,天気が崩れて見えなくなる前に岩木山の写真を写そうという気になって市街地を越えて岩木山が一望できる場所を探しに行くことにしました。そしてなんと見つけた場所で幻想的な写真を撮ることができました。

市街地に戻り,車を駐車場に停めて,まずは観光案内所に行きました。
事前に何も調べない私は,ともかく,その場所の観光案内所に行って情報を聞き,地図をもらうのです。観光案内所には弘前ねぷたが飾ってありました。
弘前の桜,例年はゴールデンウィーク直前のころが満開ということでしたが,今年は異常に早く,開花が4月8日だったそうです。
いろいろな情報を聞いて,そのあとは,徒歩で弘前市内を歩き回ることにしました。まずは弘前城。思った以上に広いお城の敷地でした。

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ともかく,午後6時に夕食をとるために2階の大広間に行きました。まだ,ほとんどのお客さんは来ておらず,1番先に食事となりました。舞台には大きなねぶたがありました。
この広さで,混雑していなければ,部屋で食べるのと大差ないから,私は満足でした。
前回行った佐渡島以来,私は,旅先で地酒を呑むことに目覚めてしまったので,今回もまた,地酒を所望することにしました。夕食はかなり豪華でした。ご飯とみそ汁はセルフサービスで,好きなだけ食べることができたのもよかったです。

食事を終えて,一度部屋に戻り,いよいよ温泉に行くことにしました。
中に入って,ああ,ここは写真で見たことがある,と思いました。私が写真で見たときのイメージでは,東北の人里離れた田舎にある寂れた湯治温泉,だったのですが,まったくそうではなく,というか,だれもが一度は行ってみたいと思うからかなりの集客があるので,どんどんと拡大して,今の姿になったような感じでした。この温泉は,今は大きな旅館になっていますが,もともとは湯治客用のものだから,そのころの何でも自分でやる,というものが時折残っていたりして,その妙なバランスが心地いいです。また,旅行社で予約した〇〇パックのようなものはあっても団体ツアー客は受けつけていないようです。
それにしても,まさか,こうした場所に来ることがあるとは思いもしませんでした。しかも,行きたいと切望して行ったわけでもなく,単に予約をしたらここだった,ということだから,行きたくても行けない人がいるのに,これはまた,かなり運がいいわけでした。
ゴールデンウィークはものすごい人混みなのだそうです。また,冬は雪があっても,除雪してあるから来ることは可能だということですが,はやり,ここまでたどりつくのは大変に思います。この時期が一番いいという話でした。
  ・・・・・
酸ヶ湯温泉の名物は総ヒバ造りの「ヒバ千人風呂」で,体育館のような巨大な建物に「熱の湯」「四分六分の湯」と打たせ湯があります。
「熱の湯」と「四分六分の湯」は泉源が異なり,「熱の湯」は源泉の湯がそのままでややぬるめ,「四分六分の湯」は源泉の湯に水を混ぜていて,もともとの源泉が高温なので,熱の湯より高温です。
混浴ですが,脱衣所は男女別で,大浴槽は中央半分に目印があってそこで男女が区切られています。また,現在は,女性専用となる時間帯がもうけれらています。
千人風呂に洗い場はなく,別にある男女別の小さな玉の湯で体を洗うことができます。
  ・・・・・・
ということでした。

私の目論見どおり,巨大なお風呂はガラガラでした。湯煙の中,遠くに女性がひとりお湯につかっているのが見えましたが,まもなく出て行きました。
その後はずっと私ひとりでした。こりゃ,最高でした。こんな有名な温泉に私ひとりなんて,これほどの贅沢がほかにあろうか,と思いました。
結構長くお湯につかって,一度出て部屋に戻ったのですが,30分後に再び温泉に行きました。
今度は,2,3人の人がいましたが,この広さだから,いないのも同然,ふたたび,温泉を独り占めすることができました。幸せな時間でした。

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来たときは反対に,休屋から十和田湖畔を北に走り,子ノ口から奥入瀬渓谷沿いを進んでいくと,川は奥入瀬川と蔦川(つたがわ)にわかれます。蔦川もまた,奥入瀬川と同じように,美しい渓谷だったのですが,観光地化していなかったし,車を停める場所もほとんどありませんでした。かろうじて車が1台ほど停まれる場所があったので,そこに車を停めて写真を撮りました。
蔦川に沿って走っていくと,八甲田山に向かって進むことになるので,どんどんと標高が高くなり,周りは雪景色になってしまい,驚きました。
  ・・・・・・
八甲田山は,標高1,625メートルの岩木山に次ぐ,標高1,585メートルの大岳を主峰とする18の山々からなる複数火山の総称で「八甲田山」という単独峰が存在するわけではありません。
周辺は世界でも有数の豪雪地帯で,1902年(明治35年)に青森の歩兵第五連隊が雪中行軍の演習中に記録的な寒波に由来する吹雪に遭遇して,210人中199人が遭難死した八甲田雪中行軍遭難事件が発生しました。それを基にした新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」とその映画があって,私は見ていないけれど,そんな過酷な事件があった,ということだけは知っていたので,「八甲田山=雪が多く危険」というイメージだけをもっていました。
その麓に,私がこの日に宿泊する酸ヶ湯(すかゆ)温泉がありましたが,私は,酸ヶ湯温泉がこれほど標高が高い場所にあることすら知りませんでした。

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酸ヶ湯(すかゆ)は,八甲田山系の火山起源の温泉です。湯はその名の通り強い酸性を示し,pHは2.0を切ります。pHは2.0というのは,胃酸並みです。温泉の名は鹿湯(しかゆ)ですが,「しかゆ」が「すかゆ」に変化しました。
江戸時代前期の1684年(貞享元年)の開湯と伝承され,古くから湯治場として有名でした。
1954年(昭和29年)に群馬県の四万(しま)温泉,日光の湯元温泉とともに国民保養温泉地第1号に指定されました。
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ここは一軒宿で,混浴風呂として有名だそうですが,私はそのことも知りませんでした。ここに予約したのは,以前書いたように,青森県2泊3日の旅のモデルコースが書かれてあったウェブページに載っていたので予約しただけのことでした。

チェックインをして案内された部屋は奥まったところにあった湯治客用のもので,なかなか快適でした。
到着した午後5時ころは,夕食前でもあり,ずいぶんと多くのお客さんが風呂に行くところだったので,人混みの嫌いな私はげんなりしました。私が理想とするのは,家族経営の小さな温泉宿で,ほかには宿泊客がおらず,食事も部屋でひとりで取ることができるところなので,あまりにそれとは違う巨大さにあっけにとられました。私が望んだところとはかけはなれていたからです。
そんな時間に温泉に入る気にもならないので,一計を案じました。それは,夕食をできるだけ早く食べて,他のお客さんが食事をとっている時間に入浴しようということでした。

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生まれてはじめてひとり旅をしたのが20代のときで,山陰地方を1周しました。このときのことは,今でもずいぶんよく覚えているのに,その次にひとり旅をした東北地方のことはほとんど何も覚えていないのはずいぶんと奇妙なことです。そのとき,おそらく私は,角館と田沢湖に行ったと思うのですが,十和田湖には行っていないような気がしています。というか,田沢湖と十和田湖がごっちゃになってしまっています。 いずれにしても,十和田湖については何も印象がないのだから,今回,ぜひ,行ってみたいと思っていました。
奥入瀬渓谷に沿ってずっと走ってきたのですが,私は,奥入瀬渓谷というのはもっと山深いところだと思っていたので,車ならこんなに簡単にアクセスできることが驚きでした。
この時期は新緑が美しかったのですが,さほど混雑しておらず,快調に走ることができました。しかし,秋の紅葉のとき,この道路がまともに走れるのかどうかはわかりません。

やがて,眼下に十和田湖が見えてきました。十和田湖の湖水が奥入瀬川に注ぐ子ノ口というところで十和田湖畔に出ました。ここには観光地らしいドライブインがあって,駐車場に多くの車も停まっていました。ここから十和田湖の遊覧船が出ているらしいので,それに乗ろうと思ったのですが,チケット売り場で聞いてみるとどうやらそれは間違いで,十和田湖に沿ってさらに南に走っていったところにある休屋(やすみや)という場所が遊覧船の乗り場のようでした。いや,子ノ口からも遊覧船はあるのですが,子ノ口で乗船できる遊覧船は周遊するのではなくて,休屋に行ってしまい,周遊できるのが休屋という場所から出航する遊覧船でした。
そこで,子ノ口から休屋に車を走らせることになりました。
途中の景色を見ると,休業している店や,だれも宿泊していないような民宿,すでに退役したような観光船などが見られ,十和田湖は思っていたほどにぎわっておらず,というか,活気がなく,というか,寂れ感さえあって,私には意外でした。

  ・・・・・・
青森県と秋田県にまたがる十和田湖は,水深が326.8メートルで田沢湖,支笏湖に次いで日本3位,面積では日本で12番目の湖です。ちなみに面積の大きい順に,琵琶湖,霞ヶ浦,サロマ湖,猪苗代湖,中海(島根県),屈斜路湖,宍道湖,支笏湖,洞爺湖,浜名湖,小川原湖(青森県)と続きますが,風光明媚な湖となると,十和田湖はもっと上位になると思われます。
十和田湖を擁する山地は,カルデラを有する火山群で,約20万年前から約15万年前の十和田火山の噴火活動で中央部が陥没した地形となり,3万5,000年から1万5,000年ごろの巨大噴火で水が流入してカルデラ湖が形成されたものです。
中世は山伏が修行し,江戸時代には南部藩の霊場となっていましたが,1872年(明治5年)に廃仏毀釈運動により,霊山としての十和田湖は大打撃を受けました。
1905年(明治38年)に和井内貞行が十和田湖でヒメマスの養魚事業を成功させました。また,1908年(明治41年)に文人の大町桂月が十和田湖を訪れ,その後,1921年から1923年にかけて周辺を探勝してその素晴らしさを紹介して以降,風光明媚な観光地として知られるようになりました。
湖畔には1953年(昭和28年)に建てられた高村光太郎作のブロンズ像「乙女の像」があって,その台座には国立公園化の実現に寄与した大町桂月,武田千代三郎,小笠原新一の功績が刻まれています。
  ・・
2003年ごろには300万人の観光客がやってきたのですが,その後は減少を続けています。
その影響で,宿泊施設や土産物屋の休廃業が相次いで「廃屋通り」とさえよばれるほどの惨状を呈しているのです。それは,もともと団体旅行客が主力だった十和田湖は,観光が個人客に中心にシフトするにつれて施設が対応できないまま陳腐化したものです。
また,湖上には観光用の遊覧船が2航路運航していましたが,2013年に十和田湖観光汽船が経営破綻し,十和田湖遊覧船企業組合を設立しましたが,この航路も2016年に廃止となりました。このときの遊覧船が撤去されず放置されたままになっています。現在は,十和田観光電鉄が定期航路を開設しています。
  ・・・・・・

休屋に着いたのですが,どこの駐車場があるのかわかりません。みやげ物店で遊覧船のチケット乗り場があったので,店先に車を停めて中に入ってチケットを購入しました。車はそこに停めていいと言われました。あとで知ったのは,少しはなれたところに1日500円の有料駐車場があったのですが,私は得をしたことになります。
遊覧船の出発まで40分程度あったので,「乙女の像」まで歩いて行くことにしました。結構時間がかかったので,これだけ時間があったことで行くことができたのです。
戻ってきたら,乗船時間でした。遊覧船には,団体ツアー客が大勢乗ってきました。さらに,出航直前に修学旅行生が大量に乗船してきて,ちょっとうんざりしたのですが,特に問題はありませんでした。遊覧船が大きかったからです。
天気がよかったので,快適な船旅でしたが,案内はテープが流れるだけでした。海外でこうしたクルーズをすると,肉声で,しかも,アドリブあり,何らかのサプライズありというようにまことに楽しいのですが,日本の観光地には,そうした工夫が不足しているといつも思います。
50分程度の遊覧でした。

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☆☆☆
火星,月,金星。

5月24日。
澄んだ夕方の西の空。
ふたご座に火星,月,金星が揃いました。
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野辺地から南に進路をとります。はじめは八戸市へ行こうと思っていたのですが,時間的にムリそうだったので変更して,十和田市から奥入瀬渓谷を目指すことにしました。せっかく天気がよいので,奥入瀬渓谷と十和田湖で十分時間をとることにしたのです。
遠くに見えた雪の被った山々は八甲田でした。十和田市に行く途中で,妙な看板を見つけました。はじめは通り過ぎたのですが,気になったので引き返してみました。それは「日本中央の碑」でした。
広い公園になっていて,駐車場があり,その向こうに保存館があったので,中に入ってみました。誰もおらず,私が入ったら係の人が電気をつけてくれました。ここは日本中央の碑歴史公園で,長らく簡素な祠だけの雨晒しになっていたところ,1995年(平成7年)に発見地近くに公園施設を作ってそこに保存館を設けて保存しているというものでした。
いったいこれが何かと係の人に聞いても,明確な説明もなく,する気もなさそうでした。これだけでもかなりの眉唾ものだと私は感じましたが,帰ってから調べてみると
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日本古代史の中でも屈指の謎をもつ「日本中央の碑」。歌学者の藤原顕昭が出した「袖中抄」に〈陸奥には「つぼのいしぶみ」という石碑があり,蝦夷征討の際に坂上田村麻呂が矢筈を使って「日本中央」という文字を刻んだものである〉という一説があって,それ以降,東北の歌枕として和歌の中に使われ,また幻の遺跡として考えられてきたのです。かつては宮城県の多賀城の碑が「つぼのいしぶみ」と目されていたのですが,1949年(昭和24年)に青森県東北町石文という所から突如として「日本中央」と刻まれた石碑が出土したのです。
刻まれた「日本中央」について,この伝承は「日本」という国号が使われていなかった時代のものであり,また,この碑を刻んだとされる坂上田村麻呂はこの地まで遠征していないから,すべては謎。実際は,「日本」という文字は「ひのもと」と読ませ,平安初期の文献では「東北地方一帯」を指す言葉として使われていたらしいとか。つまり,「日本中央」というのは,坂上田村麻呂以下の蝦夷征討軍が敵地の中央部分に当たる場所としてマークしたポイントという意味ではないか,といわれています。
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なんとまあ,おもしろい話ではないですか。
なお,東北の歌枕とは,次のような和歌です。
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みちのくの いはでしのぶは えぞ知らぬ かきつくしてよ つぼのいしぶみ
  源頼朝「新古今集」
みちのくの 奥ゆかしくぞ おもほゆる つぼのいしぶみ 外の浜風
  西行法師「山家集」
請いかば 遠からめやは 陸奥の 心つくしの つぼのいしぶみ
  和泉式部「和泉式部日記」
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さて,その後,順調に走って,午前11時ころに奥入瀬渓谷の入口に着きました。そこにドライブインがあったので,車を停めて中に入り,昼食をとることにしました。
何が名物かと聞くと「バラ焼き定食」だと言われたので,それを注文しました。
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十和田市で昨今俄然脚光を浴びているソウルフード「十和田バラ焼き」は,牛のバラとたっぷりの玉葱を鉄板の上で焼いただけのもの。家でもすぐにできそうなこの食べ物は,十和田市で食べるとその味が大いなる魅力に溢れるのです。「十和田バラ焼き」は,戦後の青森県三沢市の屋台で生まれたといわれているものです。米軍基地のあった三沢士では,戦後まだまだ高価で一般の人々の手には入りにくかった牛肉がアメリカ軍の払い下げ品として比較的安く手に入ったので,それをいかにおいしく食べようかと工夫し生まれたものです。三沢市で生まれたバラ焼きが十和田市に伝わることで市民権を得ました。今や十和田市内でバラ焼きを提供する店は60軒以上あって,いつしか十和田市民のソウルフードとなったのです。
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くせになるおいしさでした。

昼食を終えて,さて,奥入瀬渓谷です。歩くと14キロメートル以上あるということで,川に沿って車道が続ているので,見どころで車を停めては観光することにしました。
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約20万年前から始まった火山活動が,約5万5千年前から1万5千年前ごろに大規模な噴火を繰り返したことで,大量の火砕流を噴出し,火山体の中心部の陥没が進み,約1万5千年前には十和田湖の原型となるカルデラが形成され,十和田湖ができたと考えられています。
カルデラから噴出した膨大な火砕流堆積物の軽石や火山灰などが堆積して圧縮・固結した溶結凝灰岩で構成された火砕流台地は,「子ノ口」部分が決壊し大洪水が発生して侵食されたことによって深い谷ができました。こうして形成されたのがU字型の奥入瀬渓谷です。
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渓流沿いに国道102号線が走っていて,また,それに沿って自然遊歩道も整備されているので,渓谷沿いを歩いて散策することができます。
●三乱の流れ
まず,車を停めたのが三乱の流れでした。
ここはおだやかな流れのなかにほどよく配置された岩の上にさまざまな植物が生えていて,すばらしい景観でした。最適の時期はムラサキヤシオが岩の上に咲き乱れるちょうど私が訪れた今でした。
●石ヶ戸の瀬
ここに広い駐車場があって,まず,売店でこの店限定のソフトクリームを食べて,そのあと,周りを散策しました。
激しい流れでもなくゆるすぎることもないという石ケ戸の瀬。このあたりはテレビのCMで見かける場所なのです。
「ケ戸」というのは方言で「小屋」の意なので,「石ケ戸」とは石でできた小屋(=岩屋)を意味します。大きな岩の一方がカツラの巨木によって支えられて岩小屋のように見えます。この自然の岩屋〈昔,鬼神のお松という美女の盗賊がここをすみかとし,旅人から金品を奪っていました。手口は,旅の男が現れると先回りして行き倒れを装い,介抱してくれた男の隙をみて短刀で刺し殺す,あるいは,男の背を借りて川を渡り流れの中ほどにさしかかるといきなり短刀で刺し殺したといわれています。
●阿修羅の流れ
「奥入瀬を代表する」阿修羅の流れです。うっそうと茂った木立のあいだを激しく流れる水がつくりだす景観は男性的です。
●雲井の滝
うっそうとした森林にかこまれた断崖から3段になって落下するこの雲井の滝は高さ20メートル。滝は岩を少しずつ浸食しながら上流に向かって後退していきます。雲井の滝は水量が豊富なことから岩が削りとられるのが速く,ほかの滝にくらべると、ずいぶん奥まったところまで後退しています。
ほとんどの人は道路際で滝をみていましたが,私は滝つぼの近くまで歩いて行きました。すごい迫力でした。
●銚子大滝
奥入瀬渓流本流にかかる随一の滝が銚子大滝です。高さ7メートル,幅20メートルある堂々たる滝です。流れ落ちる水は多量の水霧を生み,木漏れ日がそこに幾本もの光の筋を作っていました。滝の右手に伸びる断層や左から流れ込む寒沢の影響でできたこの滝は,十和田湖への魚の遡上を妨ぐので,魚止の滝ともよばれ,長い間,十和田湖には魚が住めないといわれてきました。

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この日の行程,最終目的地は予約してあった酸ヶ湯温泉でした。
いつものようにいい加減な私は,酸ヶ湯温泉の具体的な場所すら知らなかったのですが,酸ヶ湯温泉は十和田湖の北らしいので,たどり着く途中で,ぜひ行きたかった奥入瀬渓谷と十和田湖観光をすることにしました。また,奥入瀬渓谷までは,青森空港から,野辺地町を経由して,さらに,できれば八戸市を回っていくことができたらと思っていました。
…なのですが,私が八戸市よりも行きたかったのが野辺地町にある野辺地駅でした。というのも,私はほとんどテレビは見ないのですが,それでも,以前は,テレビ東京系の「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」は楽しみにしていました。この番組に野辺地駅が数回出てきました。また,今もNHKBSPの「日本縦断こころ旅」を見ているのですが,「日本縦断こころ旅」は,毎年,必ずといっていいほど青森県を通り,番組でたびたび登場するのが野辺地駅なのです。
しかし私は,野辺地駅が青森県のどこにあるのかも,知りませんでした。そこで調べてみると,下北半島の玄関口にあたるところに位置していることがわかったので,おそらく「何もない」とは思うけれど,今回の旅では,少し遠回りになっても,ぜひ,野辺地駅へ行ってみようと思ったわけでした。

青森空港はターミナルビルに隣接してレンタカーターミナルビルがあったりして,ちょっぴりアメリカの空港みたいでした。さっそくレンタカーを借りました。
まず,青森駅から北に走って青森市に出て,青森市から東にむかって津軽海峡の海岸線を走っていくと,ほどなく野辺地駅に着きました。予想通り,ほとんど人影のない駅前でした。ロータリーに車を停めました。
まず,右手に見えた常夜燈は「日本縦断こころ旅」の2022年7月1日に放送された第1107回の冒頭で出てきたものです。火野正平さんはもっと大きなものを想像していたようですが,実際は思ったより小さかったと言ったそうです。この常夜灯は,ここが昔,北前船の寄港地だったころのものです。
第1107回では,また,この駅で火野正平さんが自転車につけたお守り「モーリー」を交換しました。
駅で火野正平さんが「ちょっと駅でやることがあるんだ」と言って自転車「チャリオ」を降り,「チャリオ」の後ろにずっとついていた青い森鉄道のキャラクター「モーリー」のぬいぐるみを取り外しました。火野正平さんはモーリーを持って「こいつ。ドロドロになっちゃって。頭も伸びちゃって。俺たちを守ってくれたやつ」と言って,「返したら飾るとおっしゃってたから。これ。よう頑張った。エライエライ」とモーリーを野辺地駅の駅舎に持っていきました。職員の方が新品の「モーリー」を持ってきて交換し,古い「モーリー」は、正平さんが来た記念で野辺地駅に置いてもらえることになりました。
なお,「日本縦断こころ旅」では,2014年7月9日に放送された350日目にもこの場所を訪れています。
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また,ロータリーから道路を隔ててあったのが松浦食堂でした。現在はやっていないのですが,この松浦食堂は,「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」の2010年2月27日に放送された第6弾で,太川陽介さん,蛭子能収さんとゲストのマドンナ山田まりやさんがバス待ちの間に訪れて,バスの発車まで時間も店で待たせてもらい,蛭子能収さんが座敷で大の字になって寝てしまったところです。また,2013年8月31日に放送された第15弾で再訪し大歓迎を受け,そのときに,太川陽介さんが店の人たちを「すごい優しい家族のような人たち」と話したところです。

駅で客待ちをしていたタクシーの女性の運転手さんがいたので話しかけると「野辺地は何もないところでしょう」と言いましたが,こうした「テレビ番組を見たから来てみた」と話をすると,「「モーリー」が駅の中に飾ってあるから見てくるといいよ」と言いました。それを聞いた私は「モーリー」と対面することができました。
とてもうれしくなる出来事でした。幸先がいいぞ,この旅も。

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私が青森県に行くのはこれが3度目です。
1度目は今から40年以上前の冬に北海道にスキーに行ったときに,一度は青函連絡船に乗ってみたいと,あえて飛行機を利用して帰るのをキャンセルして,函館駅から海路で青森駅に到着,そこから寝台特急「ゆうづる」で上野駅まで戻ったことがあるのですが,このときは青森駅のホームを通っただけでした。
2度目は,これは35年ほど前に岩手県の盛岡市に仕事で行ったときに,仕事が終わって1日自由時間ができたので,レンタカーを借りて下北半島を1周したのです。このときもまた,ほとんど,車に乗っているだけでした。
というわけで,私は,事実上,青森県はほとんど知りませんでした。

青森県は,よくテレビの旅番組で出てくる野辺地,映画で名前だけ知っている八甲田山,縄文時代の遺跡である三内丸山,桜の名所である弘前,太宰治の「津軽」,冬の津軽鉄道ストーブ列車,多くの秘湯など,気になっていたところがたくさんあるのですが,どこも詳しく知らなかったし,位置関係もわかりませんでした。そこで,今回,2泊3日で,それらの場所を巡ってこようと考えたのです。
名古屋と青森の往復は,今回もまたFDAを利用し,空港で借りるレンタカー,そして,ネットで見つけた青森県2泊3日の旅モデルコースなるものでお勧めだった酸ヶ湯温泉と西海岸の深浦に1泊ずつ宿泊先だけを予約しただけで,そのほかは,ほとんど何も調べず出たとこ勝負でした。
日本の旅は天気次第ですが,自他ともに認める晴れ男の私なのに,今回もまた,天気予報では天候が冴えず,前回の佐渡島と同じように,旅に出るまではかなりテンション低めでした。しかし,その結果は,またまた,思いもよらず,すばらしいものになりました。

では,旅をはじめます。2023年5月18日,県営名古屋空港午前7時20分発です。空港に到着したのは午前6時。すでにずいぶんと混んでいました。少し前までは乗客も少なく,コロナさままさで,それはそれでとても快適だったのですが,このごろは団体旅行ツアーが復活したのがその理由でしょうか。行きは最後部席と決めているのにずっと座席が埋まっていたのはそのためで,団体旅行ツアーは条件の悪い席があてがわれていることが多いのです。
ほとんど空席がなかったのですが,ひとり旅の私は今回も隣の席が空いていて快適でした。天気予報に反してこの日は天気がとてもよくて,少し透明度は悪かったのですが,空からは富士山をはじめとして,多くの雪を被った美しい山々を見ることができました。機内サービスはパックのお茶から静岡茶とリンゴジュースの選択ができるように変わっていました。
1時間20分ほどで,飛行機は定刻の午前8時40分に青森空港に到着しました。

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昨年のこの時期,私は山形県へ行きました。
そのころは,日本国内の旅行の仕方すらほとんど知らなかったというのに,それ以来,さまざまなところに出かけたのでもう慣れっこになりました。
1年でずいぶんと変わったものです。時が流れるのは早いようで,1年でずいぶんといろいろなことができるものです。
そこで,今年は,東北地方旅行の第2弾として,青森県へ行くことにしました。

2020年の春に突然コロナ禍が世界を襲い,それまで行っていた海外旅行もすべて行くことができなくなりました。まさか3年間もそれが続くとは思いませんでしたが,もとの世の中に戻ったら,だれよりも早く,また,海外からの観光客がどっと押し寄せるよりも早く,「日本国内をすべて見てまわろう」と考えていました。
しかし,実際は,私が思う以上に世の中はせっかちでした。
もっともせっかちだったのは国でした。〇〇トラベルとやらで,不要不急の外出をするなと言っていた半面で,旅行をすると割引がある,とか,かなりちぐはぐなこともやっていました。
そしてまた,私も含めて,新型コロナウィルスなどまったく気にもしないで,空いている今こそ旅のチャンスとばかりに旅行をしていた人も少なくありませんでした。
今年は,また,以前のように海外からの観光客も来日するようになりましたが,それでも,まだ,遅くはありません。また,私の行きたいと思う場所は,多くの人が思うようなところではないことも,この3年で知りました。

ということで,何となくはじめた日本国内の旅行ですが,結果として,私が思っていたような「日本国内をすべて見てまわろう」をすでにはじめていたことになります。
しかし,実際にはじめてみると,日本国内を「すべて」旅行するのは並大抵なことではありませんでした。日本には,小さな島々,つまり,離島が山のようにあって,そのほとんどが,行くこと自体がたいへんなのでした。
まあ,それでも,旅をしなければならない,などという義務はまったくないし,仕事でもないので,気楽に考えて楽しむことにしましょう。

では,2023年5月18日から5月20日まで2泊3日の青森旅行のLIVEです。
はたして,今回は,どんな思いがけない出来事があることやら…。

◇◇◇


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 一時夢中になったアメリカ・メジャーリーグで,私は30チームのボールパークにすべて行きました。
 はじめのうちは,アメリカのボールパークに行くと,かなり感動したものです。アメリカでは,ベースボールのスタジアムをボールパークといいます。それは行ってみれば明白にわかることですが,日本のほとんどの野球場とはちがい,まさに,テーマパークで,単にベースボールを見る,という場所ではないだからです。また,スタンドでふと我にかえると,私以外にはほとんどがアメリカ人で,英語を母国語とする人がこんなにも集まっているというあたりまえの状況なのに,かなりのときめきを感じました。そしてまた,ある種の孤独も味わったものです。
 そのうちに慣れっこになって,また来ちゃった,と思うようになったものです。
 それにしても,チケットが高くなったもので,今や,アメリカでベースボールを見るのはかなりの贅沢になってしまいました。以前は無料だった駐車場も,チケットよりも高額なほどになってしまい,安価で気軽に楽しめた,そのよさの多くがなくなってしまいました。そこで私は,もし,今,見にいくのなら,メジャーリーグよりも素朴なマイナーリーグの方がいいなあ,と思うわけです。

 私は,日本のプロ野球にはまったく関心がないのですが,噂では,北海道の札幌に本拠地を置く北海道日本ハムファイターズが新球場を作って移転したとか。その新球場というのが,メジャーリーグを模したものなのに,全く観客の入りが悪いとか,そんな話です。
 その理由について,訳知り顔でとやかくいっている人がいるのですが,私は当然のような気がします。そもそも,日本とアメリカでは文化がまるで異なるわけで,車で郊外まで出かけて野球観戦をする,ということだけでも,日本では不自然なのです。日本人がボールパークに求めるのはそんなことではないわけです。うるさいだけの応援をはじめとして,楽しむ,という目的そのものが根本的に違う。それが,私が日本の野球嫌いの理由でもあるわけですが,そもそも,日本はベースボールではなく,野球,いや,ブシドーなのです。

 さて,それはともかく,今の私が楽しみにしているのは,NHKBS1で放送されているメジャーリーグ中継を英語音声で見ることです。私は,ベースボールに限らず,NHKのスポーツ中継の日本人のアナウンサーの独特の言い回しが好きではありません。また,解説者も同様です。これらは,私の求めているスポーツ中継とは本質的に違うからです。そしてまた,英語の子気味いい音声が流れると,アメリカにいるような気がするのもすてきなことです。
 はじめてメジャーリーグが日本で放送されたころは,アメリカの放送がそのままだったので,アメリカのコマーシャルも見ることができたりして,それはそれは楽しいものでした。今でも面倒なことなどせず,そのまま現地の放送を流せばいいのに,と思います。
 ABEMAでもメジャーリーグ中継をはじめたようですが,その多くは日本語のアナウンスと解説で,二か国語放送もないので,見る気になりませんでした。今は見ていないからわからないけれど,まだ同じなのだろうか?

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 日露戦争は1904年(明治37年)から1905年(明治38年)にかけて,当時大日本帝国といった日本と南下政策を行うロシア帝国との間で行われた戦争です。朝鮮半島と満洲の権益を巡る争いが原因となって引き起こされ,陸戦では満洲南部の遼東半島や奉天が主な戦場となり,海戦では日本近海にて大規模な艦隊戦が繰り広げられ,アメリカ合衆国政府の斡旋でポーツマス条約を締結し終わりました。
 大日本帝国海軍の戦艦「三笠」は,敷島型戦艦「敷島」「初瀬」「朝日」の次の4番艦で,イギリスのヴィッカース社で建造され,1902年(明治35年)に竣工。三笠山にちなんで命名されました。日露戦争では連合艦隊司令長官の東郷平八郎大将らが座乗,1905年(明治38年)連合艦隊旗艦として日本海海戦を戦いました。
 のち,佐世保港で爆沈しましたが,浮揚・修理されました。1912年(大正元年)に前部火薬庫火災事故を起こし,大正時代は北方警備に従事。ワシントン海軍軍縮条約により除籍され,横須賀で記念艦となりました。現在は三笠公園に記念艦として保存されています。
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 ということで,横須賀市の観光では,まず,「ヨコスカネイビーバーガー」を食べ,次にYOKOSUKA軍港めぐりをしたのですが,まだ1時間30分程度は時間があったので,三笠公園にある記念艦「三笠」を見にいくことにしました。徒歩で20分程度の距離でした。途中,左手はアメリカ海軍基地で,それを越えたところに公園がありました。
 入館料を払って,中に入りました。入館料は65歳以上のシニア割引があって,そのチケットを見せたのですが,証明書の提示も必要がなく,何の疑いもなく65歳以上に見られたことにがっかりしました(笑)。老人の気持ちも微妙なのです。
 歴史的な価値というか,これで日露戦争をしたのか,という気持ちが起きましたが,私は,これまで,こうした戦艦をいくつか見たことがあるので,特にそれ以上の興味は湧きませんでした。
 聞いてみると,この戦艦に900人もの乗船員がいたとかで,さぞかし居心地がわるかっただろうと思いました。ぎっちぎちです。私には耐えられません。海軍も大変だなあと思いました。

 これで今回の横須賀市初体験も終了ですが,三浦半島はまだまだ見ていない場所がたくさんあるし,歴史的にも興味があるので,また,次の機会にそれ以外の場所にも行ってみたいと思いました。

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 午後1時出航の軍港めぐり,その15分ほどまえに行ったのですが,すでに列ができていました。しかし,それほど混んでいる,という感じではありませんでした。
 乗船して,2階席へ行きましたが,さほど人がおらず,ゆったりとしていました。
 45分間の軍港めぐりは,楽しい案内放送があったので,大変楽しむことができました。
 このところ,日本国内では,最上川や大歩危渓谷,さらには,佐渡島の尖閣湾などのクルーズに乗りましたが,値段の割には大したことがなかったりあったりと,さまざまでした。海外でも,アラスカ州フェアバンクスのリバークルーズやミネソタ州のミシシッピー川クルーズ,シカゴのミシガン湖クルーズ,また,バーモント州のシュプレイン湖ディナークルーズ,ハワイ島のサンセットクルーズ,フィンランドのヘルシンキ湾クルーズなどに乗ったことがありますが,それらはすべて値段以上のものでした。

 見どころは進行方向右側に多いということですが,1周するのでどちら側でも大差ないし,座席を移動できるので,特に気にすることもありませんでした。
 まず,潜水艦を見ることができました。ここの潜水艦は当然,外観を見るだけですが,日本で実際の潜水艦の中を見学できるのが広島県の呉市にある「てつのくじら館」ということです。しかし,私は,フィンランドのスオメンリンナで潜水艦の中を見たことがあります。
 次々に見えてくるのは海上自衛隊の艦船やアメリカ海軍の基地に停泊している艦船で,それらの名前や役割をすべて解説してくれました。
 八角形の形をした白い板がついているのがイージス艦(Aegis warship)。イージス艦というのは,イージスシステム(Aegis System)という,アメリカ海軍のウィシントン提督,マイヤー提督の指導のもとRCA社のレーダー部門が開発した艦載武器システムを搭載した艦艇の総称で,フェーズドアレイレーダーと高度な情報処理・射撃指揮システムによって,200を超える目標を追尾し,その中の10個以上の目標を同時攻撃する能力をもつそうです。イージス(Aegis)とは,ギリシャ神話の中で最高神ゼウスが娘アテナに与えたという盾であるアイギス(Aigis)のことで,この盾はあらゆる邪悪を払うとされています。
 私が興味をもったのは,ステルス戦艦でした。ステルス(stealth)とは,軍用機,軍艦,戦闘車両などの兵器をレーダー等のセンサー類から探知され難くする軍事技術の総称で,正式な軍事用語は低観測性 (low observable=LO)。水上艦船においては,レーダー反射断面積の減少を試みるための艦体の単純化・平面化がされているのです。
 残念ながら,空母「ロナルド・レーガン」は昨日出航してしまって見ることができませんでした。

 このように,多くの戦艦が停泊しているのですが,第2次世界大戦のころの戦艦とは違ってスマートな外観をしているので,すごいというよりも,おもちゃみたいな気がしました。
 それにしても,こんなものを作ってしまう人間って,何だろうとも思いました。そもそも,これらは戦争の道具なのですから見世物ではありません。

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 「どぶ板通り商店街」で念願の「ヨコスカネイビーバーガー」を食べ終えてレストラン「TSUNAMI」を出たのが午前12時過ぎでした。この日,午後6時までに渋谷のNHKホールに行く私は,逆算して,午後3時30分まで横須賀観光をすることができます。
 横須賀市の中央に「コースカベイサイドストアーズ」(Coaska Bayside Stores)という大きなショッピングモールがそびえていました。ここは,国道16号沿線の住友重機械工業横須賀分工場と林兼造船横須賀造船所の跡地に立地する市内最大のウォーターフロント型複合商業施設です。
 1991年にショッピングモール「ショッパーズプラザ横須賀」として開業しましたが,2019年に一旦閉店し,「コースカベイサイドストアーズ」と改め2020年に全店舗が開業したものといいます。

 週末は予約が一杯という情報もあったのですが,クルーズ船を見る限り空席があるように思えたので,「YOKOSUKA軍港めぐり」をすることにしました。船でしか見られない軍港を周遊し,海上自衛隊の艦船や潜水艦,さらに,アメリカ海軍のイージス艦や空母を見られるかもしれないという日本で唯一のクルージングツアー,期待しました。
 汐入ターミナルから出向するのですが,チケットは,以前は,横須賀の歴史的建造物として存在した旧海軍下士官兵集会所をイメージして再現したチケットの販売所があったそうですが,現在は,先に書いた「コースカベイサイドストアーズ」の中に立派なチケット売り場がありました。
 次の出航時間は午後1時で,それほど混んでいないということでした。この日,天気予報は雨でした。前回,雨だったで,横須賀に来るのをやめたのですが,この日は雨でも来ることにしていたわけですが,実際は幸い,雨はほとんど降りませんでした。ちょっとだけ,晴れ男の面目が立ったというものです。逆にこの天気と,ゴールデンウィーク1週間後というのが幸いしたのかもしれません。

 チケットを購入して,乗船時間には,まだ40分程度あったので,それまで,ベイエリアのヴェルニー公園を散策することにしました。この日は,オクトーバーフェストをやっていました。5月12日から5月21日まで,ということでした。はじめて行った横須賀でこうした行事に出会うと,いつもこんな景色だと勘違いしてしまいます。多くのアメリカ人がいて,日本でないような感じでした。また,アメリカに行きたくなってきました。
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 横須賀初開催の「横須賀オクトーバーフェスト2023 in spring」がヴェルニー公園で開催!
 オクトーバーフェストはドイツ最大のビール祭りで,約200年の歴史をもち,多くの観光客がビールやドイツ料理を楽しむために訪れるお祭りです。
 今回横須賀で開催されるオクトーバーフェストは,約60 種類のドイツ樽生ビールと100 種類の絶品グルメを堪能できるほか,横須賀生まれのクラフトビールの出店など地元企業も出店します。
 米海軍第七艦隊やドイツ民族バンドなどによるステージも盛りだくさんで音楽好きも必見!
 ぜひ一度足を運んで,美食・美酒・音楽の祭典をお楽しみください!
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 というのが公式ホームページでの紹介です。
 私は,恒例の行事で,この3年ほどは中止,みたいなものだと思ったのですが,そうではなかったわけです。
 そもそも,オクトーバーって10月のことなのになぜ今? という感じはしました。ちなみに,本家のオクトーバーフェスト(Oktoberfest)は,ドイツ・バイエルン州の州都ミュンヘンで開催される世界最大規模の祭りです。1810年以来ミュンヘン市内中心部のテレージエンヴィーゼ(Theresienwiese=テレーゼの緑地)とよばれる広大な場所で9月半ばから10月上旬に開催されます。開催期間は10月の第1日曜日を最終日とする16日間です。
 もし先月来ていたら,オクトーバーフェストもきれいなバラの花も見られなかったのだから,ツイていました。しかし,私は,車を名古屋駅に駐車して日帰りでやってきているので,ビールは飲めず,見るだけだったのが残念でした。それに,巨大なハンバーガーを食べたばかりでもう何も受けつけません。ヴェルニー公園は満開のバラの花がきれいだったので癒されました。「プリンセスアイコ」というバラもありました。

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 横須賀は軍の街です。江戸時代幕末,ペリーが黒船でやってきたのが浦賀水道,というのは,東京湾の入口だから,当然の位置関係ですが,それ以来,日本の軍港として発展してきました。現在は,アメリカ海軍第7艦隊の基地や海上自衛隊の基地があるので,海兵たちや,異国情緒溢れる街並みを見にきた私のような観光客で賑わっているわけです。
 とはいえ,これまでの私のように,鎌倉までは行ってもその先に行く人は多くないから,JR横須賀線は鎌倉を過ぎる空いてしまいます。しかし,多くの列車は横須賀駅まで行かず,途中の逗子駅が終点で,そこで乗り換える必要があって,しかも,接続がいいわけでもなかったのに驚きました。
 東京都心の列車は,まるでパズルのように入り組んでいるし,駅構内も広すぎて歩くところばかりだし,便利そうで便利でない。しかも,都心を抜けると,急に辺鄙になって,もう少し知恵を絞ればいいのに,と思うことが少なくありません。乗れるものなら乗ってみろ,という感じです。水戸市へ行ったときもそうだったし,葛飾柴又へ行ったときもそうでしたが,今回の横須賀市も同じでした。こんなことなら,JR横須賀線はすべて逗子駅止まりにして,逗子駅からは久里浜駅までを4両編成で往復で走らせて,逗子駅での接続をよくした方がわかりやすいし,ずっといいのに,と思いました。
 また,逗子駅には,平日のラッシュ時には混雑する鎌倉駅から東京方面に行かず,一旦,反対方向の逗子駅まで行って,そこで,再び東京方面に行こうとする客が少なからずいるらしく,そうした乗り方は別料金が必要です,といういじわるな看板があったのですが,そんなケチなこといわずに,そうさせればいいのに,と私は思いました。普段は法律など自分の都合のよいように解釈する名ばかり法治国家なのに,こういうときに限って規則をもち出す,きわめて日本人らしい陰険さです。列車が不便なのは客の責任ではなく,JRのほうの責任です。何のための公共交通なのだろう? 空気を運ぼうが人を載せようが違いはない。

 さて,逗子駅で乗り換えて,20分程度の待ち時間の末,ようやく待望の横須賀駅に着きました。
 私がまず歩こうと思った通称「どぶ板通り商店街」というのは,京急本線の汐入駅から米国海軍基地までのあいだにあるエリアで,地名は横須賀本町といいます。明治時代,どぶ川が流れていて,往来の邪魔となったので,海軍工廠から厚い鉄板をもらってきてどぶ川に蓋をしたことからこのようによばれるようになったといいます。
 どぶ板通りは,鮮やかな色の英語の看板ばかりです。来る前はもっと退廃ムード漂う場所かと思ったのですが,看板が英語であるだけの,普通の商店街でした。
 現在,横須賀芸術劇場がある場所は,終戦直後,アメリカ海軍下士官兵集会所であるEMクラブが本場のジャズに触れられる貴重な場所だったことから,横須賀は,日本におけるジャズ発祥の街としても有名です。
 見えてきたのが,横須賀3大グルメといわれる「ヨコスカネイビーバーガー」「よこすか海軍カレー」「ヨコスカチェリーチーズケーキ」を一度に食べることができる,地元の人にも人気のレストラン「TSUNAMI」でした。開店が午前11時ということで,10分程度待って,入ることができました。店内はすぐに一杯になりました。
 異国情緒たっぷりの店内には,ビリヤード台やダーツボードなどもあるということでしたが,この日は座席に変わっていました。また,店内にはいたるところに芸能人のサイン色紙が飾ってあって,人気店だとわかりました。

 アメリカ海軍横須賀基地より提供された伝統的なレシピで作る「ヨコスカネイビーバーガー」は,100パーセントのビーフを170グラム以上使用したボリュームたっぷりの一品,ということで,ぜひ食べたいと思っていましたが,いくつかの種類があって迷いました。
 2008年から2015年まで横須賀に配備されていた空母「ジョージ・ワシントン」にちなんで名づけられた「ジョージ・ワシントンバーガー」は,ハーフポンド(227グラム)のパティに,チーズ,ベーコン,レタス,ピクルスなどを挟んだ総量500グラムもあるという定番だったので,それにしました。
 思ったよりも巨大でした。
 さらに,「よこすか海軍カレー」と「ヨコスカチェリーチーズケーキ」も食べようと思っていたのですが,さすがに「ジョージ・ワシントンバーガー」でおなか一杯で,食べることはできませんでした。次回にしよう。
 「よこすか海軍カレー」は1908年(明治41年)年に発行された「海軍割烹術参考書」に載っている日本海軍のカレーライスのレシピを元に復元されたカレーということです。 また,「ヨコスカチェリーチーズケーキ」はチーズをふんだんに使用した濃厚でクリーミーなチーズケーキで,これもまた,「ヨコスカネイビーバーガー」同様,アメリカ海軍プロデュースのレシピで,上に日本の国花のひとつである桜にちなんでサクランボがのっているのは日米友好の印なのだそうです。

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 「知らなかった茨城」の次は,「知らなかった神奈川」です。
 これまで,東京近郊はほとんど行ったことがないので,神奈川県も,箱根,鎌倉,川崎,横浜くらいしか知りません。ということで,今回,2023年5月13日,NHK交響楽団の定期公演を聴くために東京へ行ったので,お昼間は横須賀市まで足をのばしてみることにしました。
 本当は,先月行こうと思っていたのですが,天気が悪く,つくば市に変更したことはすでに書きました。横須賀線というくらいなので,JRの横須賀線は横須賀駅が終点だと思っていたのですが,その途中の逗子駅止まりの列車が多く,そこで乗り換える必要がありました。横須賀市は東京から列車で行くには結構不便なところでした。

 横須賀市といって,私が連想するのは,山口百恵さんの歌った「横須賀ストーリー」くらいのものでした。Wikipediaによれば
  ・・・・・・
 「横須賀ストーリー」は1976年にリリースされた山口百恵さんの13枚目のシングルで,歌手活動への熱意が薄れはじめていた山口百恵さんは,阿木燿子さん作詞,宇崎竜童さん作曲を自ら指名して生まれた曲で,「これっきり これっきり もう これっきりですか」という印象的なフレーズと共にヒットし,「自分の意志を持ち,潔く今を生きる女性」という新しい山口百恵像へのリセットを成功させたもの。
  ・・・・・・
とあって,実際,横須賀は山口百恵さんが小学2年から中学までの多感な7年間を過ごした思い出の土地であり,米軍キャンプがあり,母親を助けるために新聞配達をしていた街でした。
 
 横須賀市というのがどういう雰囲気の街なのだろうと,それを知りたくて,行ってみようと思ったわけです。私は,アメリカでベース(基地)に行ったこともあるので,米軍基地に対しては好奇心もないのですが,今回は,日本の中にある異国文化,それを味わってみようと考えました。


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 NHK交響楽団第1983回定期公演を聴きました。
 曲目は,ラフマニノフの歌曲集から「ラザロのよみがえり」(The Raising of Lazarus)と「ヴォカリーズ」(Vocalise), グバイドゥーリナ(Gubaidulina)の「オッフェルトリウム」(Offertorium),そして,ドヴォルザークの交響曲第7番でした。
 指揮者は下野竜也さん。いつものように,凝りに凝ったプログラムでしたが,私は,「ヴォカリーズ」とドヴォルザークの交響曲以外は聴いたこともなく,また,強いて聴きたいとも思わない曲なので,楽しめばいいと思ってコンサートに通う私には,ちょっと荷が重いのですが,今回は,たまにはお勉強,みたいな感じで聴きに行くことにしました。

●ラフマニノフの歌曲集から
 ラフマニノフは80曲以上の歌曲を残したそうですが,今回は,14曲からなる「歌曲集作品34」のうちの2曲をオーケストラ編曲で演奏したものです。
 「ラザロのよみがえり」というのは,ラザロの復活という奇跡を目の当たりにした民衆の思いを伝える音楽だそうですが,そもそも「ラザロのよみがえり」が何なのか私にはわかりませんでした。これは新約聖書にでてくる物語ということで,いろいろな解説を読んでみたのですが,さっぱり理解ができないので,居直って,単に音楽として楽しむことにしました。
 「ヴォカリーズ」は有名なので,私も聴いたことがあります。きれいな音楽です。「ヴォカリーズ」というのは,歌詞を伴わずに母音のみによって歌う歌唱法のことで,さだまさしさんの歌った「北の国から」とか由紀さおりさんの歌った「夜明けのスキャット」などもその仲間だそうです。
 指揮者の下野竜也さんのおはなしによれば,「ラザロのよみがえり」は、メロディをトロンボーンが担うように編曲し,原曲の歌曲伴奏でピアノが奏でる教会の鐘のような音の響きをオーケストラ全体にちりばめたもの,また,「ヴォカリーズ」は,ソプラノのソロをヴァイオリン16人で弾くことがおもしろく,サウンドの厚みを楽しむことができる,ということなので,深く考えずに,純粋に音楽として味わえばいいということでしたが,ともに,美しく,うっとりとする音楽でした。
●「オッフェルトリウム」
 グバイドゥーリナの「オッフェルトリウム」は,ラトヴィア出身の世界的ヴァイオリニストであるギドン・クレーメル(Gidon Markusovich Kremer)に捧げられたものですが,今回のソリストであるバイバ・スクリデ(Baiba Skride)の祖国でもあるということです。
 「オッフェルトリウム」とは,カトリックのミサで聖歌隊と会衆とによって交互に歌われる奉納唱のことです。この曲では,ウェーベルン風に提示されたバッハの「音楽の捧げもの」の主題が徐々に解体され,1音に削ぎ落とされたのち,そこから再構築がはじまって,やがて慈愛に満ちたコラールへと到る「死と復活」を象徴するかのような曲の展開,そして,一筋の光明のように残って静かに消えていく最後のヴァイオリン・ソロは感動的だ,と解説にありました。
 前衛音楽がひとつの曲がり角を迎え,疲弊していた中で,1931年生まれのグバイドゥーリナは,当時支配的だった社会主義リアリズムの理念とは一線を画し,奔放であるにもかかわらず前衛のさまざまな技法とはまるで異なった「言語」に貫かれた音楽を作曲しました。その敬虔で無垢な響きは、それまでの現代音楽ではけっして聴くことのできなかったもので,この作品は,厳しさと同時に気高い美しさをもっているのだそうです。
 昨日,名古屋フィルハーモニー交響楽団の「歴史的事件」のコンサートで「ノモス・ガンマ」を聴いてきた私は,「ノモス・ガンマ」と何か似ているなあ,と感じたのですが,「ノモス・ガンマ」の刺激が強すぎて,残念ながらこちらはだめ,全くよさがわかりませんでした。未来の人は,こうしたいわゆる現代音楽を理解するようになるのだろうか?
●交響曲第7番
 この息詰まる2曲ののち,ドヴォルザークの交響曲を聴くと,ホッとします。そしてまた,聴きに来てよかったと思いました。
 ドヴォルザークらしく流麗なメロディが惜しみなく注ぎ込まれた交響曲第7番は,1883年にブラームスの交響曲第3番の初演を聴いたドヴォルザークが1884年から翌年にかけて作曲したものです。
 ですが,このプログラムにはちょっとした趣向がありました。それは,第4楽章の最後に,まるでバッハのコラールのようなお祈りの音楽が出てくるのですが,これが,イエスがラザロを生き返らせるという奇跡を起こす「ラザロのよみがえり」とも,ミサ曲の奉献唱を意味する「オッフェルトリウム」ともぴったりと合うということです。下野竜也さんによれば,今回の定期公演は「祈り」をテーマにして組み立てたもの,ということでした。

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 2023年5月12日,地元名古屋の名古屋フィルハーモニー交響楽団第512回定期演奏会を愛知県芸術劇場コンサートホールで聴いてきました。最高に楽しく,最高に難解で,最高に疲れたコンサートでした。
 名古屋フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会に行くのは数年に1度のことで,定期会員になろうと考えたこともあるのですが,NHK交響楽団の定期公演に比べて,私にはプログラムが凝っているように感じてちょっと敷居が高く,いつも見送っていて,時折,とても魅力的な曲目や指揮者,独奏者のときだけ出かけています。数年前には,私の好きなショスタコービッチの交響曲第15番がプログラムにあったので期待したのですが,コロナ禍で中止になってしまいました。
 井上道義さんが指揮をする今回の演奏会の曲目は,バルトークのルーマニア舞曲Sz.47a BB 61, バルトークのヴァイオリン協奏曲第2番 Sz.112 BB 117,クセナキスの「ノモス・ガンマ」(Nomos Gamma),ラヴェルの「ボレロ」でした。
 今回は「継承されざる個性」というテーマだったのですが,私は,ヴァイオリン協奏曲第2番と「ボレロ」以外はまったく知らず,なんじゃこの曲目たちは,という感じだったのですが,その道の人たちには,有名,というか,井上道義さんは,これらの曲を演奏会でとりあげたことがこれまでにも何度もあるという,いわば,十八番であり,また,井上道義さんの指揮に限らず,「ノモス・ガンマ」「ボレロ」と続く演奏会も行われているようです。

  ・・・・・・
 「継承」が通季テーマなのに,誰も継承できない唯一無二の個性を発揮したプログラムを組みます。井上をリスペクトする服部百音とのバルトーク,スコア指定通りに円形配置で演奏するクセナキス,そしてそのままの配置での「ボレロ」。コンサートが歴史的事件となります!
  ・・
 「ノモス・ガンマ」と「ボレロ」を続けて聴けば「音楽史上最もクレイジーな曲」の第1位と第2位をいっぺんに体験したことになるのではないかと。これが人類の創造力の極北!!
  ・・・・・・
というのが,このコンサートのウリだそうですが,2024年末の引退を間近にした井上道義さんが,やり残したことをすべてやってやるぞ,という感じに私には思えました。だれもこんなコンサートマネできねえよ! と叫んでいるような…。つき合うほうは大変です。しかし,考えようでは,こうしためったに接することのできない曲を聴くことができるたのは貴重な経験でした。
 浅学の私は,こうした難しい曲はさっぱりわからないのですが,今回聴きにいった理由は,指揮・井上道義さん,ヴィオリン・服部百音さんという絶妙な組み合わせのコンサートをぜひ一度聴いてみたかった,ということに尽きます。が,できることなら,ショスタコービッチのヴァイオリン協奏曲が聴きたかった! とはいえ,井上道義さんが言うには,最も難解な協奏曲だと思うバルトークをぜひやりたい,と主張したのは,23歳の服部百音さん自身で,本人もオーケストラもとても大変だったけれど,いい出来だった,ということでした。
 この難解な曲たち,ゴールデンウィーク後の週末, どれだけのお客さんが入ることだろう? と思っていましたが,明日,土曜日は完売,この日は,当日券を求めて長蛇の列ができていました。

 まったく不勉強な私自身のために,まず,バルトークの作品番号について調べてみました。これは3種類存在します。
●「Sz番号」
 ハンガリーの音楽学者であるセールレーシ・アンドラーシュ(Szollosy, Andras)が作成したバルトークの音楽作品と音楽学論文の目録です。1921年生まれのアンドラーシュ・セーレーシは,バルトーク以後のハンガリー作曲界の最長老的存在です。リゲティやクルタークと同世代にあたります。
●「BB番号」
 バルトーク研究の権威でブダペスト・バルトーク研究所の二代目所長のラースロー・ショムファイ(László Somfai)によって作成された作品目録の番号で,厳密な作曲時期によって配列されます。BBはバルトーク(Bartók Béla)のことだと思われます。
●「DD番号」
 ブダペスト・バルトーク研究所の設立に貢献し,初代所長を務めたベルギーのカトリック司祭で音楽学者のデニス・ディーレ(Denis Dille)が作成した作品目録の番号で,多くはセールレーシ・アンドラーシュの分類から漏れている,主に初期に作曲されたものにつけられた番号です。
●「Op.」
 作曲者本人による番号ですが,つけ直しによって番号が重複しています。

 次に,今回の曲目についてです。誰もが知る「ボレロ」は省略ですが,こういう曲の指揮は,井上道義さんノリにノルのでお似合いでした。それにしても,最後に「ボレロ」がなければ,それまでの3曲で張り詰めたこころの持っていく場がなかったいというか,そんな感じもしました。
●ルーマニア舞曲
 この曲は,2つのルーマニア舞曲Sz.43 BB56 Op.8aの第1曲を編曲したものです。よく似た名前のピアノ版ルーマニア民俗舞曲Sz.56 BB68とそのオーケストラ版Sz.68 BB76があります。
 短い曲ですが,舞曲だから当然子気味よく,次のヴァイオリン協奏曲第2番を聴くためのこころの準備のような感じでした。
●ヴァイオリン協奏曲第2番
 1937年から1938年にかけて作曲した作品で,生前はバルトークの唯一のヴァイオリン協奏曲と思われていましたが,死後,ヴァイオリン協奏曲 第1番が再発見されたことで,第2番となりました。
 「ヴェルブンコシュ」(verbunkos)というハンガリーの民族舞曲が基になっているこの曲はとてもバルトークらしく,民族色豊かで,調性感が強かったり弱かったりとめまぐるしく変化したり,非常に美しい旋律が散りばめられていたりして,私は嫌いではありません。おそらく聴き込んでいくとその魅力にはまっていくだろうと思える曲です。緊張感がたまりません。
 服部百音さんのtwitterには「人生初の,そしてマエストロとは人生最初で最後のバルトーク」と書かれてありました。2022年12月8日に東京オペラシティコンサートホールでパーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィルハーモニー管弦楽団を聴いたとき,偶然,私の席からふた席ほど左隣りでお見かけした服部百音さんがステージにいるというのが私には一興でした。
 服部百音さんがTwitterで「カッコウ」の旋律があると書いていましたが,確かに第3楽章に「カッコウ」が何度も出てきました。また,ヴァイオリンソリストと指揮者の丁々発止の掛け合いがおもしろかったです。
●「ノモス・ガンマ」
 作曲したヤニス・クセナキス(Iannis Xenaki)は,1922年にルーマニアに生まれ,2001年に亡くなったギリシャ系フランス人です。今回演奏される「ノモス・ガンマ」は,宇宙の創生,ジャングルの大嵐,森羅万象…といった,ほとばしる熱気とは裏腹に数学を基盤にして作られた曲です。オーケストラは円形に配置され,8人の打楽器奏者が円の縁を取り巻く形で,フルートの隣がチェロのような通常ではあり得ない配置で演奏されます。
 この曲でクセナキスが追い求めたのは,徹底した自由の精神,ということだそうですが,演奏している人も,聴いている人も,何を思い,感じて聴いているのだろうと思いました。私は,何か,宇宙の創成に立ち会っているような,あるいは,未開の大地に放り込まれたような気がしました。そんな映画のバックミュージックにしたら似合いそうです。悪くない,というか,ものすごくおもしろかったです。
 なお,名古屋フィルハーモニー交響楽団のTwitterによると,「ノモス・アルファ」はチェロ協奏曲,「ノモス・ベータ」は室内楽の委嘱に備えて飛ばし,この「ノモス・ガンマ」はロアイヤン(Royan)というフランスの都市の音楽祭での委嘱で書かれた大編成オーケストラのための作品だそうです。

 S席,前から3列目,ヴァイオリンソリストの真ん前だったので,ヴァイオリン協奏曲第2番には最高の位置でしたが,「ノモス・ガンマ」と「ボレロ」は,むしろ,2階席や3階席,ステージ後方P席のほうがよかったかもしれません。ただし,私の座った席は臨場感は抜群でしたが…。井上道義さんは,S席が上席とは限らないコンサートだと書いていました。してやられた!
 いずれにしても,聴きにいってよかったコンサートでした。

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 ゆったりと流れる時間の中で,やりたいことだけをこころおきなく楽しもう,と思っていたのに,やりたいことや興味がどんどん増えてきて,しかも,精神的に強欲な私は,それらをすべて楽しもうとして,ビルドばかりでスクラップしないものだから,限られた時間をやりくりするために,いろんな工夫が必要となってきました。仕事などとは違って,楽しむためにすることだから,不快な思いをしてまですることもないわけで,そのためには,知恵を絞る必要があるのです。
 そんな私の楽しみのひとつとして,今日は,クラシック音楽のコンサートについて書きます。

 クラシック音楽に限らず,コンサートでもっとも労力が必要なのはチケットをとることです。
 以前ならプレイガイドに出かけて,早いもの勝ちでチケットをとる必要があったり,あるいは,電話をして争奪戦を行う必要があったのですが,今は,インターネットを使えばいいので,以前にくらべれば便利になったものです。それでもやはり,インターネットがつながらなかったり,いい席がなくなっていたりと,なかなか大変です。
 そこで,いいコンサートなら,お金を惜しまず,最上の席を取るに限りますし,また,事前に,なにがしかの友の会とかいったメンバーになっておくと,優先的にチケットがとれたりもします。
 私の場合は,通常は,NHK交響楽団の定期公演を聴きにいくので,これは,一度座席を確保すれば,それ以後は,同じ席のチケットが入手できるので楽です。そのときの座席ですが,今は,2階の最後部に決めました。それは,空いていることと,自分の後ろに客席がないことが理由です。そうして,自分だけの世界に浸るのです。
 こうした定期公演以外に,おもしろそうだと思っていくことにしたコンサートは,もっともよい席か,あるいは最後尾の席かのいずれかにします。
 以前,だれだったかのピアノコンサートに行ったとき,そうしたことを知らなかった私は,中途半端な会場の真ん中あたりで聴いたのですが,帰りがけ,最後尾の席で,さわやかに聴いていた女性を見て,かっこいいなあ,と思いました。そうか,これが一番か,とそのとき気づいたのです。
 会場で聴くのとラジオなどで聴くのとの違いは,そのコンサートの空気を感じられるかどうかであって,何も,ステージに近ければいいということでもないのです。


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 これまで,この3年間で私の気持ちが変わった,旅の行先について書いてきました。
 海外旅行ができなくなって,これまでは敬遠気味だった日本国内のいろんな場所を旅してみると,日本国内もまた,魅力のあるところがたくさんありましたが,私にとって,その多くはガイドブックに載っていないようなところでした。また,その土地の歴史を知ると,魅力の増すところも少なくありませんでした。そして,新たに行きたいところが生まれてくるのです。だから,きりがないのです。
  ・・
 私は子供のころ,地図を見るのが楽しみのひとつだったのですが,そのとき,世界中のすべての場所を見てみたいといつも思っていました。当然そんなことは無理な話なので,その中からどこに行くべきか,ということが,一番の問題になります。人生は短すぎるのです。
 私は,いろいろなところに行ってみたいと思っているのが性分ですが,それに対して,同じところばかりを何度もリピートしている人がいます。私は,何かもったいないような気がするのですが,それはそれで,人それぞれの価値観です。
 とはいっても,かくいう私も,常連のペンションがあって,年に2度ほど訪れるのですが,その場所に行くたびに,その途中で,別の様々なところを訪れることを楽しみにしているから,それはそれでいい楽しみになっていると,これは,自分への弁護です。
 そこで,今日は,私が,今,どのような方法で旅をしているかを書いてみることにします。
 
 いろいろなところに行って見たいと思っている私の旅ですが,気に入ったところはリピートします。1度目はほとんど何の準備もしないで出かけて,現地の観光案内所で情報を手に入れます。現地でなければわからない情報がけっこうあるものです。そうして出かけてみた結果,気に入ったところにはもう1度行きます。しかし,1度目にどんなに気に入っても,2度目は,今度は期待が大きすぎて,少しがっかりすることも少なくないのですが,2度行くと,大概,その場所のほとんどのことがわかるから,3度目はなかかなないものです。3度目があるとすれば,それはよほど魅力があるところか,もしくは,まだ,行き足りないほど見どころが多いところと言えます。
  ・・ 
 これまで,そうした旅を続けてきて,どうやら,私が行きたいところは行き尽くしたなあ,でも,旅は楽しいから,この先,どこか魅力的なところがないかなあ,などと思うようになってきたころに,コロナ禍が起きたのです。
 私は,その3年の期間に,それまでにやった様々な旅について考え直すいいきっかけとなりました。そしてまた,旅の方法を考え直す機会ともなりました。
 それまでは,国内を旅するときは,公共交通機関を使うことが最優先だったのですが,格安航空があることを知って,飛行機と車の旅に変えました。車で旅をするのは気楽なのですが,日本国内を車で旅をする最大の欠点は,日本の道路が走っていてまったく楽しくないということです。海外で,といっても,限られた国しか知りませんが,私のドライブした国はどこも,日本とは比べ物にならないほど,安全に運転ができるように,道路が整備されていました。海外での運転は,日本に比べて,ずっと安全であり,簡単なのです。実は。

 いずれにしても,どこかへ行くと,それまで知らなかったことを再発見して,新たな楽しみが見つかります。ここ3年,国内の旅ばかりをしていましたが,日本は,東京以外はどこへ行ってもさびれているという現状に驚きました。しかし,私にはそれがいいというか…。
 それにしても,狭い日本では,どんな山奥に行っても人が住んでいるから,旅は,粗大ごみの中からお値打ちな品物をさがしだしているような感じがします。しかし,どこにも人がいるから,考えようでは,アイスランドのように,車が故障したら誰も助けにきてくれないという恐怖と闘いながらドライブするのとは違った安心感があるのです。
 将来,遠出ができなくなったら,近場で人の少ないところに出かけることが,いい老後の楽しみにつながるのかもしれません。


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●中部・北陸
 私の家から,中部地方や北陸地方は近いので,逆に,何度か行ったことがあっても忘れてしまっていたり,あるいは,意外に有名なところへ行ったことがない,ということも少なくありません。
 私は年に2度ほど木曽駒高原に星見に行くついでに,岐阜や長野は足をのばすことにしているのですが,近ごろ,旅をしてとても居心地のよい場所を見つけました。それは,長野県であっても飯田より南あたりなのです。長野県なのに,長野県の旅のガイドブックにも抜け落ちていたりして,盲点にあるところですが,実にいいところなのです。
 また,富山県,新潟県は,少し前に親不知海岸が見たくなって出かけたのですが,日本海の海岸線沿いの景色がよいのに驚きました。こうしたところは捨てがたい魅力が満載なので,一度きちんと計画を立てて,宿泊先も決めて,旅をしたいと思っています。食事もおいしそうだし。
 そういえば,富山県には黒部渓谷という有名なところがあります。あまりにも有名なので,人が多すぎて,また,ツアー客だらけのような気がして,私は敬遠気味です。そんな理由から行かず嫌いになっていて,いくら雄大だといってもアメリカのパウエル湖ほどじゃないだろうと負け惜しみをいって,自分を納得させています。
  ・・
●近畿
 私にとって,まだ見ぬ地が和歌山県や奈良県の南の部分でしたが,このごろ何度か行ってみて,その魅力にはまりました。ただし,今では,何となくもうわかった気になっているので,行きたい優先順位は低くなりました。この先,気が向いたら,また,行って見たいと思っているところです。
 が,実は,名古屋からは,この地は,行くのがたいへんなのです。むしろ,四国や九州のほうが飛行機で行くことできるので近いのです。南紀白浜など,飛行機で行けるから首都圏からアクセスするほうが早かったりします。山間部には,観光客も少ない静かな温泉があったりもします。
  ・・
●中国
 山陽はこれまで何度も行く機会があったので,ほぼ,なじみの場所なのですが,何度行ってもいいところです。
 また,山陰は生まれてはじめてひとり旅をしたところなので,強く印象に残っています。しかし,それも45年も昔のことなので,今はずいぶんと変わってしまったのかもしれません。また,そのうち,そのときの旅と同じコースでひとり旅をしてみたいものです。名古屋からは出雲まで飛行機が飛んでいることだし。
  ・・
●四国
 四国は,このところ,私のマイブームでした。ここもまた,だいぶわかった気になっています。
 そういえば,このごろ,しきりに佐田岬に行ってみたかったのですが,行ったことがあるという友人がいて,話を聞いて熱が完全に冷めてしまい,優先順位がずっと低くなりました。
  ・・
●九州
 九州は,阿蘇の外輪でアイソン彗星を見ようと旅をしたことがあって,その折に,九州1周しました。また,大相撲の九州場所を見にいったとき,福岡市内を散策して,およそわかりました。それだけで,すべてを知った気になっていたのですが,先日,柳川というところをテレビでやっているのを見て,とてもいいところに思ったので,行きたくなりました。ということで,今,福岡か熊本まで飛行機で行って,現地ではレンタカーを借りて,柳川に行ってみようと計画中です。
 また,考えてみると,大分県と宮崎県にはほとんど行ったことがないので,行ってみる価値がありそうです。
  ・・
●沖縄
 はじめて行った沖縄が石垣島でした。一度行ってみるのもアリだと思ったのですが,私は,これで満足しました。沖縄本島は未だ行ったことがないのですが,それよりハワイだ,という気持ちは今もずっと変わりません。
 その最大の理由は天気です。沖縄が楽しめるかどうかは天気次第なのです。

 このように,コロナ禍以前と今とでは,私は日本を旅する気持ちは大幅に変わってしまいました。
 コロナ禍以前は,年に4度ほど海外に行き,年に2度ほど国内旅行をしようと思っていたくらいで,国内旅行にはあまり魅力を感じていませんでした。それに,国内旅行は列車でのんびり,と思っていました。それが,今は,格安航空の安さと便利さと小さな田舎の温泉宿にすっかりはまってしまいました。これからは,年に2回ほど海外に行き,年に4度ほど国内旅行です。
  ・・
 正直いって,日本国内は,どこにいっても,それほど違いがありません。BSPで放送している,火野正平さんが自転車で走る「にっぽん横断こころ旅」を見ていると,行かなくても,おおよそのことがわかります。
 ただいえるのは,有名な観光地はどこも同じで,みやげ物店ばかりです。それよりも,そうでない場所に底知れぬ興味のあるところが探せば少なくないのです。

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3泊4日の佐渡島旅行もこれで終わり。
昨年2022年秋に行った石垣島は,まるで幼稚園バスのようなおもてなしごころのかけらもなかったピーチが憂鬱だったけれど,今回はお気に入りのFDAなので,帰るまでも楽しいわけで,旅というのは,交通機関も含めて,そのすべてが快適なものでなければ行く意味がない,とこのごろ思うようになりました。
新潟空港の出発が午後7時55分とおそくても,名古屋には午後8時45分には着くので,名古屋から京都へ行くよりも新潟は近いのです。また,新潟空港も広々としていて気持ちがよく,と,思った以上だった佐渡島と往復の快適さで,充実した4日間を過ごすことができました。
それにしても,格安航空を使えば,日本国内はこんなに安く早く旅をすることができるとは,海外旅行に夢中になっていたころは思いもつかないことでした。こんな快適な旅をしていると,ますます海外が遠ざかっていってしまいます。喜ぶべきか,悲しむべきか。

以前にも書いたように,FDAは行きは最後列,帰りは最前列に座るのが,さらに快適な旅をするコツなのです。ANAなどの従来の飛行機会社は,悪しきアメリカの制度をまねして,やたらと〇〇ステイタスだのというように客をランクづけしているのですが,国が広いアメリカならともかく,たかが1時間ほどの国内線の旅にビジネスクラスなど必要なく,しかも,客のランクによって搭乗順序があれこれと決められていて煩わしく,何をもったいぶっているのやらと思います。
乗っている時間が10時間ほどの国際線なら,私はゴールドステイタスだから,それで悠々とはじめに洋々と搭乗して優越感に浸るのですが,わずかな時間の国内線では,乗るまでの時間のほうが長いくらいです。空港だって,何十機の飛行機が滑走路で離陸順を待って列をなしているアメリカの空港ならともかく,ほかに飛ぶ飛行機もない小さな日本の地方空港です。何を大国アメリカのマネをしているのか…。そんなことより,FDAのように,お年寄りや子供連れなどの優先者の搭乗が終わったら,さっさとすべての乗客を案内して,全員が揃ったら早々に離陸すればいいのです。
飛行中,いつもように,座席に座って,お茶とお菓子のサービスを待っていたら,客室乗務員の女性に「前にもお会いしましたね」と話しかけられました。佐渡島に行ってトキの写真を撮ってきたと話したら,見せてほしいとのこと。こういうのは誠にこころが休まるのであって,こんなプチ特別感が,プレミアムシートやら,ゴールドステイタスといった,バカげた,いかにも金がすべてのアメリカ的差別感よりも,ずっと乗客を満足させるのです。
おまけに,飛行機から降りるとき,自筆でお礼の書かれたキャンデーの入ったコップをくれました。
最高でした。

そんなわけで,旅に出るまではまるでテンションが低かった今回の旅は,思った以上のすばらしいものとなりました。また次回,FDAでどこかへ出かけよう!

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来たときとは反対に,両津港からジェットホイルで新潟港に戻ります。帰りはフェリーにしようと思っていたのですが,フェリーに乗ると,帰りの飛行機の時間に間に合うかどうか微妙だったので,迷った末,行きと同じようにジェットホイルにしました。
ビギナーズラックというか,何も知らなかった私は,行きは何も言わず単にチケットを購入したのに窓際席だったのですが,帰りは窓際席をと言ったら売り切れということで,内側の席になりました。ただし,行きは1階,帰りは2階だったので,それはそれでよしとしましょう。
乗船まで時間があったので,まず,ターミナルの1階にあったカフェでトキフロートを飲みました。要するに,これは,トキの形をしたクッキーのついた単なるフロートでした。その後,ターミナルの屋上に展望台があるというので行ってみることにしました。ここから佐渡島が一望できました。来たときは感激した大佐渡の雪を被った山並みも見慣れてきましたが,いつ見ても美しいものです。おそらくこのの1か月あとにはじまるハイシーズンに佐渡島に来る人は,こんな雪を被った金北山を見ることはできないでしょう。

港には,私が乗ろうかやめようか迷っていたフェリーが本土からやってきました。フェリーはジェットホイルより早く出航するのですが,途中で追い越されるのです。
待合室に戻ると,フェリーに乗る乗客が長い列を作っていました。ジェットホイルの運賃は高く,両津港と新潟港を往復する料金が名古屋から東京までを往復する料金と変わらないから,頻繁に利用する人はフェリーの利用となるのでしょう。ただし,島民は割安になるようですが。
私は,前回の石垣島,そして,今回の佐渡島,さらに,今後行こうと思っている隠岐島などを調べていって,離島に住むというのは,船の利用をしなくてはいけないから,ずいぶんとお金がかかるものだとはじめて知りました。
長年住んでいても,来てみなければわからないことは多いものです。たとえば,高校3年生が受験をしたり,あるいは,近年廃止になった教員免許更新制度の講座の受講などで,本土に行く必要があるときなどの経費がバカにならないそうです。国民のことなど考えていないこの国の政治は,そんな島民のことなど,全く考慮していないということに気づかされます。

さて,フェリーが出航した後,私の乗るジェットホイルの乗船時間となったので乗り込みました。
ジェットホイルは快調に運行して,1時間7分後,新潟港に到着しました。船内で下船後の新潟港から新潟駅までのバスの時間などの案内放送がかかるのですが,新潟空港までの案内はまったくありませんでした。
帰りもまた,新潟港から新潟空港までタクシーを利用しましたが,帰りの方が運賃が1割程度安かったのはどうしてだろう?
美しく広い新潟空港で夕食を取りました。2階にレストラン街があったのですが,レストラン街といっても店は3軒程度でした。選んだおそば屋さんの天ぷらがとても美味でした。その後は,ラウンジでくつろぎました。高知空港もそうだったけれど,地方空港にはゴールドカードだけで入れるラウンジがあって,また,とても利用者が少なくて,くつろげます。

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根本寺,清水寺と国中平野にある行きたかった寺を見た私は,これで主な見どころをすべて見終えたので,旅の最後に,両津港あたりを散策することにしました。まずは加茂湖の周辺をドライブです。
  ・・・・・
加茂湖は,佐渡島というより新潟県最大の湖で,周囲約17キロメートルにおよびます。もともとは淡水湖でしたが,明治期に湖水の氾濫を防ぐために開削し海とつながったために汽水湖となりました。
湖岸は遊歩道やサイクリングロードが整備され,紀貫之の歌にも越の湖として加茂湖が詠まれたように,湖面に映る大佐渡の四季の景色は絶景です。
  汐のぼる越の湖近ければ蛤もまたゆられ来にけり 
また,1932年(昭和7年)からはじまったカキの養殖が盛んに行われています。
  ・・
カキにはマガキとイワガキの2種類があって,佐渡島では,加茂湖と真野湾でマガキを養殖しています。養殖方法は垂下式養殖で,種カキをつけたホタテの貝殻を縄に取りつけ,その縄を海中にぶら下げて育てます。カキは1年から2年かけて食卓にあがる大きさに成長します。
約1,000台のいかだがあって,年間約300トンのカキが水揚げされていますが,加茂湖で取れるカキは若牡蠣でくさみが少なく食べやすいと評判です。
  ・・・・・・
ということですが,確かに,加茂湖には多くのカキの養殖場がありました。また,加茂湖の借景としてこの季節は,大佐渡の雪を被った山並みが実に見事でした。

昼食を,と思いながら走っていたのですが,もともと店が少ない上,シーズンオフでもあり,休みのところばかりでした。
加茂湖を過ぎて,両津港の東,県道45号線に差しかかる手前に「よろこんで」という食堂を見つけました。こうしたときは,ためらわず,とにかく見つけたところに入るのが鉄則です。駐車場には多くの車が停まっていました。なにせ,ほとんど食堂がないことに加えて,ちょうどお昼時でした。
運がよかったのは,偶然,私ひとりが座る場所が空いていたことです。私の後もずいぶんとお客さんが来たのですが,満員ということで断られていました。
目の前にあったメニューからカキフライ定食を注文しました。これが大当たりでした。なにせ,先に書いたように,佐渡島のカキ。しかも,いまがシーズンだったのです。出てきたカキフライは飛び上がらんばかりの大きさでした。お店といい,メニューといい,最高の選択でした。

おいしく食事をいただいて,最後に,両津の町を少しばかり散策することにしました。
両津港の東側に広い運動公園がありました。何か,ハワイ島の東海岸ヒロの町を思い出しました。ヒロの町もまた,遠くに雪を被ったマウナケアを望むことができました。
決して広くない両津の町は寂れていました。潰れたホテルやら,シャッターを閉じた商店ばかりでした。日本はどこに行っても,東京以外はこんな感じです。旧道を歩いていて偶然見つけたのが,3泊目に私が泊まろうと思っていた金沢旅館でした。ここなのか,と思いました。思った以上に古ぼけていました。
金沢旅館は「明治時代へタイムスリップする加茂湖畔の宿」ということなのですが,この旅館は明治に建てられた元遊郭なのです。外観だけでも遊郭時代の面影を残しているのですが,館内は遊郭のままで見学がきると,多くのブログにありました。
ということで予約をしようと思っていたのですが,満室だったのか,やっていなかったのか,定かでないのですが,予約ができなかったのです。実際に電話でもすれば真相がわかったのでしょうが,そこまでする気もなく,その代わりに宿泊した旅館「いさりびの宿・道遊」が最高だったので,それはそれで満足しています。
また,遊郭跡といえば,私の地元名古屋にもかつては中村遊郭があって,そのひとつだった松岡旅館が今から40年くらい前に料亭として営業していました。私がそのころ勤めていたところの忘年会で利用したことがあって,そのときに内装を見た経験もあったし,また,京都・島原の輪違屋も内部を見学したことがあるので,元遊郭にそれほど興味があったわけでもありませんでした。

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 午後5時,木曽駒高原のゲストハウスヒルトップに到着しました。さすがに気温が低いところだけあって,ちょうど,満開の桜が迎えてくれました。到着したときは快晴だったのですが,夕食のころには曇ってしまい,せっかく星見を楽しみにやってきたのにと,少しがっかりして,早々に寝ました。このごろは何事にも執着心がなくなってしまいました。しかし,すでに書いたように,深夜になって晴れ上がり,今回もまた,すばらしい星空を見ることができました。
 私は,このペンションでの晴天率が異常に高く,ほぼ毎回,星をみることができます。
 翌日も朝から晴れ上がったので,朝食後,早々にチェックアウトして,雲ひとつない御嶽山を見ようと,開田高原へ急ぎました。

 開田高原の木曽馬の里では,ちょうど,コブシの花が満開でした。
  ・・・・・・
 コブシ(Magnolia kobus)は,モクレン科モクレン属に属する落葉高木の1種で,早春に葉が展開する前に他の木々に先駆けて白い大きな花をつけます。花は3枚の萼片,6枚の花弁,らせん状についた多数の雄しべ・雌しべをもちます。
 コブシの名前の由来は,つぼみの形を握りこぶしに見立てたとする説や,つぼみが開花する様子を握りこぶしが開く様子に見立てたとする説,でこぼこした果実の形を握りこぶしに見立てたとする説などがあります。コブシがそのまま英名の基となっています。また,漢字では辛夷と書きますが,中国では辛夷(しんい)はモクレンのことなので,中国でコブシは日本辛夷と書きます。
  ・・・・・・
 私がコブシといって思い浮かぶのは千昌夫さんの歌った「北国の春」という歌です。
「コブシ咲くあの丘北国のああ北国の春」なんですが,私は,コブシという花をこれまで知りませんでした。

 さて,帰りもまた,国道19号線を下るのではなく,権兵衛トンネルを抜けて,国道153号線を南下して,奥三河を経由することにしました。とはいっても,あまり時間もなかったし,日曜日でどこも人がいっぱいそうだったので,地図で目についた四谷の千枚田というところにに行ってみることにしました。こんなところなら,ほどんど人もいないだろうなあと思いました。
 国道153号線から途中で国道257号線,そして,県道389号線,県道32号線と進みます。このあたりも行ったことがなかったので,どんなところかと好奇心もありました。
  ・・・・・・
 鞍掛山の斜面に広がる山間集落に,約400年前に開墾された美しい棚田が広がっています。
 標高220メートルから420メートルにかけて連なる石積みの棚田では,今でも20戸の農家が約420枚の田を耕作していて,先人たちが残した偉大な財産を風化させることなく,地域の人々が主体となって使命感をもって守り続けています。
 山の中腹からこんこんと湧き出る澄んだ水は,大雨が降っても濁ることがありません。水と緑にあふれた棚田は様々な動植物の住処にもなり,まるでおとぎ話のワンシーンのように人と自然が共生する日本の原風景が脈々と息づいています。
  ・・・・・・
 ということで,これまで多くの千枚田を訪れたのですが,ここが最も広く,きれいでした。こんなとところだれが来るのかと思っていたのですが,帰ってから知ったことに,「JAF MATE」の2023春号に載っていて,それが理由かどうかは知らないけれど,予想以上に人が来ていました。
 千枚田の下に数台車が停められるスペースががあって,そこに車を停めて見上げている人が多くいたのですが,それを過ぎて,さらに中腹まで行ったところにも駐車場と展望台があって,そこでは週末限定で地元の人が五平餅を売っていました。お昼を食べ損ねていたので,というか,お昼が食べられるところは道の駅くらいしかなく,そのどこも混雑していたので敬遠していたので,ここで,お昼代わりに五平餅を食べながら,おばちゃんたちとしばし雑談をしました。そして,さらに一番上まで登れる道を教えてもらうことができました。

 こうして,今回もまた,思いがけない情報を手に入れて,数多くの知らなかった場所に行くことができました。
 奥三河といっても,私は,これまで,足助とか茶臼山とか鳳来寺といった,だれもが知る場所しか行ったことがなかったので,愛知県内にもこんなおもしろいところがあるなら,一度,ゆっくり泊りがけで来てもいいなあ,と思ったことでした。
 四谷の棚田を見たあとは観光客だらけの足助を経由して,猿投グリーンロードという,勝手知ったる道を通って帰宅しました。

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 走ってきた国道151号線は飯田市で終点なので,そこからは国道153号線を北上すると書きましたが,私は,飯田市で道を間違えてしまいました。国道153号線は,国道151号線と立体交差をしていて,自然に入ることができないのが原因です。日本の道路事情と道路標示はアメリカに比べてまことにわかりにくいといつも思います。多くの道路が交差していると,もはやカーナビを見ていても間違えます。
 複雑な立体交差で曲がるのを忘れてそのまま直進して飯田市内の西のJR飯田駅まで来てしまいました。そこで,国道153号線に平行に北上する伊那南部広域農道を走ることにしましたが,そこに入るまで市街地の道路は,信号のタイミングがかなりひどく,数メートルごとにある交差点に差し掛かるたびに,直進をしているのに,まるで嫌がらせのように赤に変わるという有様で,全く進まず非常に腹立たしいものでした。これだけでも,飯田市には住みたくないと思いました。
 さて,どうにかこうにか,ずいぶんとバカに時間を浪費したあげく伊那南部広域農道に入りました。その後は信号もなくなったので,延々と北上して,なんとか権兵衛トンネルのある国道361号線までやってきました。その途中,木曽山脈がきれいに見えました。

 権兵衛トンネルができたおかげで,伊那路から木曽路へは塩尻まで北上しなくてもすむようになったのです。
  ・・・・・・
 江戸時代,塩尻市出身の古畑権兵衛は,ウシを使った物資の輸送で生計を立てていました。当時の木曽谷は道路事情が悪く,物資の輸送が困難で,米価の変動が激しかったことから住民の生活が安定しませんでした。伊那谷の交通に着目した古畑権兵衛は,有力者を説得して峠道の改良に着手させることに成功し,1696年(元禄9年)に姥神峠,鍋懸峠を越える街道の整備が完成。峠には権兵衛の名が冠せられました。
  ・・
 権兵衛トンネルは,国道361号が木曽山脈を貫いて結ぶ,全長4,467メートルのトンネルです。冬期は通行止となる既存の権兵衛峠に代わり,伊那と木曽とを結んでいます。1993年(平成5年)に工事が開始されましたが,もろい地質などで難工事となり,2003年(平成15年)にようやく貫通し,2006年(平成18年)に供用を開始しました。
  ・・・・・・

 この日宿泊するゲストハウスに着く前,ちょうど夕日が沈む時間の少し前だったので,キビオ峠に寄ってみました。
 キビオ峠からは,標高3,067メートルの御嶽山まで直線で26キロメートルもあるのですが,手前に遮る山がなく,美しい御嶽山の雄姿を眺めることができるのです。また,御嶽山だけでなく,乗鞍岳も全貌を望むことができるし,さらに右手には,ほんの少しだけですが,前穂高岳も顔をのぞかせています。キビオ峠から見える前穂高岳は,山頂が尖がっているので,一見,槍ヶ岳の様に見えるのですが,正真正銘,前穂高岳です。
 この日のキビオ峠は,ほかにだれもいなかったので,そんな景色をひとり占めすることができました。

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 ゴールデンウィークはどこに出かけても混雑するので,私は毎年家に閉じこもることにしているのですが,暇つぶしにと何となく借りてきたのが伊坂幸太郎さんの「クジラアタマの王様」でした。この本を借りた理由もまたいい加減で,伊坂幸太郎さんの小説ならきっとおもしろいだろう,というだけのことでした。読み終えるまで,あらすじすら知りませんでした。
 まさか,こんな内容だったとは!
  ・・・・・・
 製菓会社に寄せられた1本のクレーム電話。広報部員の岸はその事後対応をすればよい... はずだった。訪ねてきた男の存在によって,岸の日常は思いもよらない事態へと一気に加速していく。
 不可思議な感覚,人々の集まる広場,巨獣,投げる矢,動かない鳥。打ち勝つべき現実とは,いったい何か。
 巧みな仕掛けとエンターテインメントの王道を貫いたストーリーによって,伊坂幸太郎の小説が新たな魅力を放つ。
  ・・・・・・
 ということなのですが,物語の端々に出てくる動かない鳥というのは,かの有名なハシビロコウです。ハシビロコウ,上野動物園にも飼われているこのまったくといっていいほど動かない鳥は,話題になる以前から,私のお気に入りで,上野動物園に行ってはにらめっこしていましたが,どうして,まあ,この小説で強敵となって登場しちゃったのでしょう。何だかハシビロコウがかわいそうです。

 「クジラアタマの王様」とは、鳥のハシビロコウのことです。
 小説の最後に書いてあるのですが,ハシビロコウの別名がこの小説の題名である「クジラアタマの王様」,つまり,この小説は「ハシビロコウ」という題名なのです。
  ・・・・・・
 「ハシビロコウ」の学名「Balaeniceps rex」は,ラテン語で「balaena=クジラ」と「ceps=頭」と「rex=王様」からなります。特徴的なクチバシの形状を含む頭部のシルエットがクジラの姿に似ていることに起因しています。また,和名のハシビロコウは「クチバシが幅広いコウノトリ」の意ということです。
  ・・・・・・
 と,これで題名の謎は解けたのですが,実は,この小説を読むと,不思議な気持ちにさせられました。その理由は,次のようです。

 小説の柱は,「現実の世界」と「夢の世界」の関係がストーリーに大きく関わってくる,というものですが,小説の中で展開される「現実の世界」の出来事というのは,新型インフルエンザによるパンデミックなのです。そして,「現実の世界」で起きたパンデミックを解決するには「夢の世界」でハシビロコウに勝つことが必要だと。
 小説で,新型インフルエンザによるパンデミックが語られているのだから,私は,この小説が書かれたのは最近のことなのかな,と思ったのですが,奥づけをみると,発行が2019年7月5日でした。つまり,実際の「現実の世界」で起きた新型コロナウィルスの発生以前です。

 私自身も含めて私の周囲にはひとりの感染者もいないのだから,今でも私には,新型コロナウィルスによるパンデミックは,フェイク映像やフェイクニュースによって思い込まされているだけのフィクション,つまり,「夢の世界」の出来事のように思えます。
 しかし,家にいるときはまったく実感がなくても,たまに外出すると,社会全体が異様な風景だから,やはりこれはフェイクではなく「現実の世界」の出来事なのかな,とそこではじめて思うわけで,だから,きっとこれは真実であって,この3年間に世界が経験した「現実の世界」の悪夢だったのでしょう(たぶん)。
 この小説では,そうした「現実の世界」の悪夢が起きる以前に,まるで,未来を見てきたかのように,すでに生々しくそのことが書かれてあったということが,私には驚きなのです。

 一体,何が現実で何が夢なのか? そして,伊坂幸太郎さんは,どうして,小説を書いたあとに現実に起きたことを,それが起きる前に書くことができたのか? はたして,伊坂幸太郎さんは預言者なのか? 冥界と現世を自由に行き来できたという小野篁のように,「現実の世界」と「夢の世界」を自由に行きできたのか? この小説は,そんな自分の能力をもとにした実体験に基づくものだったのか? などなど。
 私は,この小説で,そんな不思議な錯覚に陥るような,夢見ここちとなる,奇妙な読後感を味わいました。

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 国道151号線を北上しています。
 このあたり,根羽村,売木村,平谷村,阿南町と,地図で見ると,何だか星がきれいに見られそうな場所がたくさんあって,昔は憧れていましたが,これまで行くこともありませんでした。それは,山深く,空が開けたところがどこかよくわからなかったことと,それ以上に,私の住むところからは2時間以上もかかり,わざわざそんな時間をかけてまで行く気にもならなかったことが理由です。
 今は,星見は木曽駒高原で十分なので,あえて知らないほかの場所に行く気もないのですが,手ごろな温泉つきの宿泊施設でもあれば,平日の人の少ないときに出かけて,のんびりしてくるのも悪くないなあ,と思っているのですが,さて,どうなることか。

 などと思いながら走っていると,新井展望公園という道路標示を見つけました。しらびそ高原あたりは天気が悪かったのですが,このあたりになると青空ものぞいていたので,展望ということばに惹かれて行ってみることにしました。
 展望公園に行く途中に,吉岡城がありました。
 吉岡城は15世紀後半の文明年間に,小笠原政康の子孫である下条康氏によって築城されたものだそうですが,この時代は,こうした標高が500メートルくらいの小山はどこも砦になっていたわけで,ここもそのひとつだったのでしょう。1587年(天正15年)廃城となり,現在は吉岡城址公園となっています。
 狭い道路を思った以上に登って行くと,新井展望公園に着きました。駐車場という特別な場所はなかったのですが,駐車するスペースがあったので,そこに車を停めて展望台に行きました。この展望公園は「伊那谷最南端の絶景の地!」ということで, 中央に果てしなくのびる伊那谷,左手には中央アルプス,右手には南アルプスを望むことができる場所で,すばらしい景色が広がっていました。
 この展望公園には,ベンチやテーブル,東屋,トイレが整っていました。
 ほかにだれもいなかったのが幸いで,ひとり静かに展望を楽しんでいたのですが,しばらくすると,私の嫌いなライダーたちがやってきたので,去ることにしました。ひとりやふたり連れならともかく,どうして,この人たちは群れたがるのでしょう。どんな狭いところにもやってくるので,雰囲気台なしです。

 このあたりは下條村といいます。山林が約7割を占める下條村は,タレントの峰竜太さんのふるさとだそうです。私はまったく知らなかったのですが,2000年代半ば,下條村は「奇跡の村」として注目されたといいます。それは,少子高齢化の時代に,わずか10年で総人口の1割近い人口増を達成したという話題があったからです。しかし、それから10年以上がたった今は,人口も減少に転じ,今度は逆に多くの問題が山積しているということです。
 それはともかく,下條村の観光協会のホームページを見ると,旅をするにはなかなか魅力的なところに思えます。それほど遠くもないので,このあたりで1泊するのもいいかな,と思いはじめました。
 下條村を過ぎると,今度は,天竜峡という道路標示があったので,行ってみました。
 駐車所が菜の花が美しい場所にあって,そこから天竜峡を見ることができました。天竜峡にはライン下りが運行されていて,私は利用したことがないので,一度,利用してみてもいいかな,と思いました。
 このあたり,伊那路も奥が深い。まだ,知らないいいところがたくさんあります。

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私が行きたかった国中平野での見どころは,根本寺と清水寺(せいすいじ)でした。
  ・・・・・・
根本寺は,鎌倉時代の1271年(文永8年)に佐渡島に流された日蓮が塚原の地に三味堂を開いたのがはじまりとされます。当時,塚原は死人の捨て場とされていたそうですが,日蓮は約2年半佐渡に滞在したうちの最初の6が月をここで過ごしたそうです。三味堂は畳2枚ほどの狭いあばら家で,冬には深い雪にも覆われましたが,阿仏房の夫妻から食料などの世話を受けました。
佐渡島に集まった他宗の僧侶ら数百人と日蓮が問答を戦わせて日蓮宗の根本教典「開目抄」を著したのがこの三味堂と伝わります。
戦国時代の1587年(天正15年)三味堂があった付近に京都・妙覚寺の日典上人が根本寺を開基しました。江戸時代に入ると,佐渡金山の山師たちの寄進で本堂などが建てられました。
  ・・・・・・

という説明を読んで,私はあることを思い出して,頭がごちゃごちゃになりました。
帰ってから調べてみると,それは安土宗論(あづちしゅうろん)でした。
  ・・・・・・
安土宗論は,1579年(天正7年)安土城下の浄厳院で行われた浄土宗と法華宗の宗論で,安土問答とも称されます。織田信長の斡旋により,浄土宗の僧・玉念,貞安,洞庫と法華僧・日珖,日諦,日淵の間で行われたもので,敗れたとされた法華宗は処罰者を出した上,以後,他宗への法論を行わないことを誓わされる結果となったそうですが, 法華宗は信長の意図的な弾圧によるものとしました。
  ・・・・・・
この安土宗論はいろいろなことが出てくるのですが,佐渡の問答については,詳細がわかりません。
日蓮宗というのは過激な宗教だと聞いたことがあるのですが,私はそれ以上のことはまったく知らないので,これ以上のことは書くのをやめます。
いずれにしても,この寺は,佐渡島にあった多くの寺の中でもかなり立派なものでした。また,私が最も印象に残るのは,寺の庭に咲いていた水芭蕉の花でした。

次に行ったのが清水寺でした。 
  ・・・・・
清水寺は,桓武天皇の勅により京都から布教に来た賢応法師によって808年(大同3年)開基しました。京都の清水寺を模した救世殿があって,本尊も京都清水寺同様に千手観世音菩薩。また,千手観音に従う役割を担う二十八部衆仏像は,平安時代後期に造られた歴史ある作品として,佐渡市による保存活動が行われています。
  ・・・・・・
佐渡に清水寺を建てた理由は,当時の佐渡で暮らす人々が京都の清水寺にある千手観音菩薩をお参りできるようにするためだということでした。
仁王門の左右には,金剛力士像が仁王立ちをして構えています。また,門の間から,石造りの階段の先から奥へと進む参道が垣間見えます。また,仁王門の周辺には佐渡市指定の天然記念物として有名な,樹齢約1,000年と推定される新穂大野の大イチョウを見ることができます。
参道には一面に広がる壮大な杉の木がありました。
最後の石階段を上りつめると,本堂へ通ずる中門があって,その奥に京都の清水寺を模して造られたといわれる清水の舞台があります。

想像以上にものすごく寂れた寺で,草やコケが一面に生えていて,本堂へのぼる左右の「石段」はある部分が崩れていて足元が安定しないほどであり,清水寺の本堂の中には壁に大きな絵が数枚飾られているらしいのですが,劣化で姿形を把握することすらできませんでした。
清水の舞台を支える土台の部分だけは修復されているようで,そうでなければ,舞台に乗っただけで崩れてしまうでしょう。
また,鐘楼や経蔵もあることにはあるのですが,人の気配すらありませんでした。
  ・・・・・
清水寺を出て,車に乗った瞬間に,空に2羽のトキが飛ぶのを見ました。
このトキが私が今回の佐渡島の旅で見た最後のトキになりました。少し走ったところに日吉神社があって,この日吉神社にもトキの巣があるということなので,このあたりをトキが飛んでいるのももっともだったと後で知りました。

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史跡佐渡金山に通じる車道を少し下ったところに,無宿人の墓という案内標示がありました。車を駐車できるほどのスペースがあったのでそこに車を停めて行ってみることにしました。結構遠く,途中でどうしようか迷ったのですが,せっかく来たので,折れるこころを激励してたどり着くことにしました。
大きな墓碑が並んでいました。無宿人の墓は,1853年(嘉永6年)に水替人足として働き,坑内で亡くなった無宿人28人の出身地,戒名,名前,年齢が刻まれたものでした。水替というのは,地底の坑道にたまる湧水を汲み出す坑内作業で,この作業は低賃金で,しかも,過酷な長時間労働でした。はじめのうちは,水替人足は募集で行われていましたが,重労働であったので常に人不足の状態でした。1778年(安永7年)に,江戸府内の無宿者を佐渡金山に送るという触書が出され,江戸から56人の無宿人が囚人のように目駕籠に入れられて送られてきました。政情不安で発生した無宿者が大量に江戸周辺に流入し,凶悪な罪を犯すようになったので,その予防対策として彼らを人足として使役しようとしたのです。やがて,大坂や長崎からも送り込まれるようになって,その数は1861年(文久元年)までに1,876人に達しました。彼らは竹矢来で囲んだ建坪136坪ほどの水替小屋に監禁され,一昼夜交代で地底で酷使されたということです。
当然のごとく,無宿人の墓の隣には,この地におくられた遊女の墓もありました。
私は,こうした史跡を訪ねるたびに,もし自分がその身だったらと思い,いたたまれない気持ちになります。

さて,無宿人の墓を出て,次に向かったのが,佐渡島で多くの史跡が残る真野町でした。ただし,真野町は今はなく,現在は佐渡市の一部となっています。町の中心部だったところは,真野新町という名前になっています。
真野町にある史跡,まずは,順徳上皇の火葬塚です。佐渡配流となった順徳上皇は,1242年に46歳で崩御し,翌日火葬されましたが,その跡に松と桜を植え目印としたのがこの火葬塚です。遺骨は帰京し,後鳥羽上皇墓所のかたわらに安置されました。奈良などにある天皇陵よりも大きなものだったので,驚きました。
そして,その次に行ったのが,佐渡歴史伝説館でした。
佐渡歴史伝説館は,道路沿いに多くの広告看板があったので,何だかマガイモノの施設のような気がしたのですが,せっかくだからと行くことにしました。入場料を払って中に入ると,佐渡島にゆかりのある,というか,流刑された歴史上人物や伝説を等身大ロボットなどで紹介する私設の体感型ミュージアムでした。
帰ってから知ったことには,北朝鮮拉致被害者の,現在も真野町に在住の曽我ひとみさんの夫であったチャールズ・ジェンキンスさんが,生存中,ここで,オリジナル商品「太鼓番せんべい」の販売を行っていたということです。

奈良時代には,すでに流刑地に定められた佐渡は,722年(養老6年)に皇室批判を行った万葉歌人の穂積老をはじめめとして,1221年(承久3年)に承久の乱で敗れた順徳上皇,1271年(文永8年)に鎌倉幕府や他教を批判した日蓮聖人,1434年(永享6年)に将軍の怒りを買った能楽の大成者である世阿弥などが流されてきました。
●穂積老
穂積老(ほづみのおゆ)は,飛鳥時代後期から奈良時代中期に生きた貴族です。
元正天皇を非難し佐渡島への流罪となり失脚しましたが,740年(天平12年)に聖武天皇が発した大赦により赦免されました。
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 吾命之 真幸有者 亦毛将見 志賀乃大津尓 縁流白波
 我が命の ま幸くあらば またも見む 志賀の大津に 寄する白波
 わが命が無事であったなら 再び見たい 志賀の大津に寄せる白波を
   「万葉集」巻3・288
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●順徳上皇 
順徳上皇は後鳥羽上皇による鎌倉幕府の打倒計画に参画し,承久の乱を引き起こしたものの鎌倉幕府の執権であった北条義時を中心とする幕府軍によって鎮圧され,乱の首謀者として佐渡に流されました。在島22年,都へ帰ることは許されず,46歳で崩御されました。辞世の句は
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 思いきや 雲の上をば 余所に見て 真野の入り江にて 朽ち果てむとは
 雲の上を人ごとのように見て思った 真野の入り江に朽ち果ててしまうと
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 「平戸記」の仁治3年(1242年)10月10日条に「御帰京事思食絶之故云々」とあり,都に戻れないことに絶望した果ての絶食自殺だった事を思わせる記述があります。
●日蓮上人
日蓮宗の宗祖である日蓮聖人は,地震や飢饉,疫病などの災害が相次いだことから鎌倉幕府の最高権力者であった北条時頼に「立正安国論」を提出します。この書で,相次ぐ災害の原因は幕府や民衆が邪教を信仰することにあるとし,法華経を信じなければ災いが起こると説き,鎌倉幕府や他の宗教を批判したとして,佐渡に流されました。
日蓮上人は塚原の三昧堂という荒れ果てた墓地の小堂に配所されました。この地で他宗の僧たちと「塚原問答」を戦わせました。
在島3年の後,赦免となり鎌倉へ帰りましたが,佐渡島には日蓮聖人が他宗の僧と問答を戦わせたという根本寺があって,この後,私は訪れることになります。
●世阿弥
室町幕府の3代将軍足利義満の寵愛を受け,能楽を大成させた世阿弥は,6代将軍足利義教の怒りにふれ,佐渡に流されました。
佐渡の多田に着いた世阿弥は,長谷寺を経て新保の万福寺に配所されました。
1436年(永享8年)までは佐渡に滞在していたことがわかっていますが,その後の消息については不明です。
なお,井沢元彦さんの書いた「天皇になろうとした将軍」には,足利義満の皇位簒奪説を紹介して,足利義満の急死は世阿弥による毒殺だったという説が書かれていて,私は興味深く読んだことがあります。

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