しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

June 2023

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 コロナ禍以前,一度白川郷を訪れたことがあります。そのときは,あまりに多くの外国人観光客に,私はいやになりました。自撮り棒を振り回し,ソフトクリームを食べながら大声で闊歩し,秋のとても気持ちのよい時期だったと思うのですが,情緒もなにもあったものではありませんでした。
 今回,金沢市に行った帰りに,東海北陸道を経由して帰ることにして,再び,白川郷に行ってみました。さすがに前回ほどのことはないだろうと思ったのですが,さにあらず,やはり,多くの外国人観光客が大型バスで来ていました。それでも,まだ,前回よりはマシでした。

 確かに,いいところであるとは思うのですが,これほどの外国人がやってくるのはどうしてなのだろうと,ChatGPTに聞いてみることにしました。
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 白川郷は,日本の岐阜県に位置する伝統的な農村地帯であり,外国人に人気がある理由はいくつかあります。
①伝統的な日本の風景
  白川郷は,美しい自然環境と伝統的な日本の風景が広がっています。その特徴的な景観は,伝統的な茅葺屋根の家屋や風情ある田園風景から成り立っており,外国人にとってはまるで絵画のような美しさと独特の雰囲気を感じることができます。
②文化的な魅力
 白川郷は,日本の伝統的な農村文化を体験できる場所としても知られています。訪れる人々は,伝統的な茅葺屋根の家屋や農作業の風景を見学したり,地元の伝統工芸品や食文化に触れることができます。外国人にとっては,このような文化的な要素が魅力的であり,日本の伝統や歴史を深く理解する機会となります。
③世界遺産の登録
 白川郷は,1995年にユネスコの世界遺産に登録されました。この認定により,白川郷の美しい景観と文化的な価値が国際的に認められ,多くの外国人観光客が訪れるようになりました。世界遺産の登録は,外国人にとって訪れる価値のある場所であることを示す重要な要素となっています。
④映画やメディアの影響
 白川郷は,いくつかの映画やテレビ番組のロケ地としても知られています。特に,アニメ映画「千と千尋の神隠し」や日本のドラマやバラエティ番組などで頻繁に登場しました。これらのメディアの影響により,多くの外国人が白川郷に興味を持ち,実際に訪れるようになりました。
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 これらの要素が組み合わさり,白川郷は外国人に人気がある観光地となっています。その美しい景観,伝統的な文化,世界遺産の価値,そしてメディアの影響によって,多くの人々が魅了されるのです。
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 ということだそうですが,のんびりと地元のおいしいものを食べたり,家の中の見学したり,といった感じではありません。おそらくそれは,団体客がほとんどであることが理由であろうと思われます。これでは,旧街道沿いの古い建物を訪ねるほうがずっといいなあ,と思ったことでした。
 想定されたこととはいえ,せめて,空いたお店でお昼でも,という予定は実現できそうになかったのですが,幸いにして,午前11時少し前,開いたばかりのお店を見つけたので,ほかにお客さんのいないひろい店内で,ゆっくりと昼食をとることができたのは幸いでした。

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 前回金沢市に来たのは,2017年10月に大相撲の金沢巡業を見に来たときでした。金沢市は私の住む愛知県からは車ならば3時間かからず来ることができるので,身近かというかなんというか,遠い感じはしないけれど,あまり来ることもありません。
 ずっと若いころに金沢城に行こうと思ってやってきて,お城に入ったら,そこが金沢大学でがっかりしたことがありました。これでは,天下の「加賀100万石」が台なしだと思いました。私の頭には,それ以来「金沢城=金沢大学=観光地でない」という図式がしっかりでき上がり,まったく行く気を失せていたのでした。
 今回はお城の近くのホテルに泊まったのにもかかわらず行かなかったのですが,調べてみると,現在は違うみたいなので,次回,また時間を見つけて来てみたいと思ったことでした。
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 現在は公園として整備され,観光客で賑わう金沢城公園ですが,実は,金沢城公園は整備されてまだ20年ほどしか経っていません。というのも,金沢城公園は,以前は金沢大学のキャンパスだったのです。
 城郭全域を大学のキャンパスにするのは大変珍しいものでした。
 明治時代,金沢城跡には陸軍第九師団司令部や歩兵第七連隊などが置かれていました。第2次世界大戦戦後は金沢大学の丸の内キャンパスとなりましたが,その後,角間地区に総合移転することが決定し,1995年に「お城のキャンパス」は完全に姿を消しました。
 1996年には石川県が金沢城跡を国から取得し,以降,金沢城跡は公園として整備され,今は,お城のキャンパスの面影はありません。
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 コロナ禍もどこかへ去り,金沢市には外国人観光客が戻ってきたようですが,今回は,金沢市を観光する気はなかったので,お昼間はいしかわ動物園に行き,夜はおいしいものを食べて,その後,金沢駅を経由して,武家屋敷まで歩き,次の日は,東海北陸道をドライブして帰ることにしていました。
 何を食べようかと調べていたら「採れたてで新鮮なお刺身がたっぷりのった海鮮丼は,鮮魚が集まる近江町市場ならではのマストグルメです。金箔があしらわれた華やかな丼や,ボリューム自慢の丼などのお店がたくさんあります」とあったので,金沢市の名物は海鮮丼だとわかりました。そこで,近江町市場の近くの海鮮丼のお店に入りました。店内には有名人の色紙が所かまわずならんでいて,店の主は話し好きで,地ビール「百万石」も飲んで,楽しい時間を過ごすことができました。
 その後,新幹線が金沢市を通ることで新たに整備された金沢駅を経由して,夜の長町武家屋敷跡を少しだけ散策しました。
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 長町武家屋敷跡は,加賀藩時代の上流・中流階級藩士の侍屋敷が軒を連ねていたところで,土塀と石畳の路地が続いていて,現在も藩政時代の情緒ある雰囲気を味わうことができます。
 長町の地名の由来には諸説あり,藩政期から武士の邸宅が並んでいて,この辺りが長い町筋であったことや前田家の重臣である長氏の屋敷があったことなどが挙げられています。
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 金沢市はとてもいいところですが,新幹線ができて首都圏からのアクセスが容易になったためか,最近私が行った青森県の弘前市などと比べて,外国人に限らず観光客が多すぎて,私にはなじめませんでした。

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 私がいしかわ動物園を知ったのは,すでに書いたように,佐渡島以外でトキを見ることができる動物園である,ということからでしたが,行ってみると,トキに限らず,ライチョウやホワイトタイガーなど珍しい動物が多く,また,都会から離れたすばらしい動物園だということを認識しました。広さは,北海道の旭山動物園くらいのものでしょうか。
 私は特に動物園マニアでもないように思っているのですが,よくよく思い出すと,これまでに,世界中の多くの動物園に行っています。フィンランドの北極圏近くにあるロヴァ二エミの動物園にも真冬に行ったことがあるし,アメリカでは,ノースダコタ州の州都であるビスマルクの小さな動物園から,カリフォルニア州サンディエゴの巨大な動物園まで行ったことがあります。当然,オーストラリアではコアラも抱いたし,ニュージーランドではキーウィも見ました。
 しかし,行く機会があったのにもかかわらず,なぜか見落としてしまってかなり後悔しているオーストリアのウィーンにあるシェーンブルン宮殿内にある動物園があるのですが,そこにはいつか行ってみたいものだと今でも思っています。
 これどほ世界中の動物園に行ったことのある人も多くはないかもしれませんが,そんな私が気に入ったのだから,いしかわ動物園はすばらしいところだというのがわかるというものです。

 この動物園,金沢市から結構な距離があって,どうしてこんな場所にあるのか疑問でした。
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 1999年(平成11年)10月に開園したいしかわ動物園は,石川県が設置し,一般財団法人「石川県県民ふれあい公社」が管理・運営を行っています。
 動物舎は,自然の地形を活かした中に植栽や岩,池などを配し,動物たち本来の生息環境に近い環境を再現していますし,動物が飛び越えられない幅の堀を巡らせる「モート方式」やガラス越しの観察によって,従来のコンクリートや鉄格子で仕切った狭い動物舎では見られない動物たちの生態が間近に観察できるよう配慮しています。 
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 もともとは,1958年(昭和33年)金沢市卯辰山に,演劇場・映画館・小遊園地,大浴場,宿泊施設を併設した民間施設「金沢ヘルスセンター 」の付属施設として開園したものです。しかし,「金沢ヘルスセンター 」は,入館者数の減少と施設の老朽化で1993年(平成5年)に閉園し,それとともに,動物園も幕を下ろすこととなりました。
 その後,石川県内唯一の動物園であること「動物園の公営化」の流れを受けて,石川県が施設全体を買収し,財団法人いしかわ動物園を設立しましたが,施設の狭小と老朽化を理由に金沢市から現在の地に移転しました。
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 トキの分散飼育は,ホオアカトキなどの近縁種の飼育に取り組んでいたいしかわ動物園の飼育・繁殖の実績が評価されたことで選ばれたもので,2010年に佐渡トキ保護センターからオス2羽,メス2羽の4羽がやってきてはじまりました。
 当初は一般に非公開のもとで飼育されてきましたが,2016年11月19日から一般公開を開始しました。
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 この日は,暑くもなく,寒くもなく,すずしい風が吹いていて,また,ほどほどの入場者で,食堂で待つこともなく昼食をとることもできて,楽しい時間を過ごすことができました。

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 私は,長年,トキが見たくて見たくて,佐渡島へ行こうとずっと思っていました。しかし,佐渡島は遠く,また,果たして,佐渡島へ行けばトキを見ることができるかどうかもわからず,おそらくムリだろうと,そうあきらめていたのですが,2016年に,石川県のいしかわ動物園で,トキが数羽,分散飼育をはじめたと聞いて,行ってきたことがあります。2016年12月3日のことでした。そのときのことはすでに書きました。その後,念願がかない,佐渡島で飛ぶトキを見ることができたことも,すでに書きました。
 今回,2023年5月25日から5月26日にかけて,1泊2日で金沢市に行くことができたので,その1日目,再び,かなざわ動物園に行って,トキを見ることにしました。

 この時期は梅雨なので,天気が最も心配だったのですが,未だ,晴れ男の強運は冷めておらず,2日ともとてもよい天気でした。しかも,蒸し暑くもなく,時折吹く涼しい風が最高でした。また,日曜日なので,動物園は混雑しているのでは,という心配がありましたが,これもまた,ほどほどの人出で,大丈夫でした。
 いしかわ動物園に到着したのは午前11時ころで,入園して,まず,一目散にトキのケージを目指しました。私は,すでに,佐渡島で飛ぶトキを見たので,あのころの願望はなかったのですが,それでも,目の前にいるトキをまた見てみたいという気持ちがありました。それは,佐渡島では,実際に飛んでいるトキは空高く,それほど近くで見ることはできません。また,トキを見ることができる観光用の施設もあるのですが,それは意外と遠く,また,金網のケージ越しだったので,むしろ,かなざわ動物園のほうがトキを近くで見ることができるのです。

 はじめのころは,エサを啄む姿と,木に止まっている姿だけで,飛ぶどころか,羽根も広げることがなく,少し物足りなく感じました。しばらくいると,飛ぶ姿や羽根を広げる姿を見ることできて,感動しました。
 聞いてみると,現在,いしかわ動物園で公開されているトキは,つがいと,生まれてまもない3羽の合計5羽のトキでした。2016年のときはもう少したくさん公開されていたような気がするのですが,実際は,そのときもまた,5羽でした。
 いずれにせよ,令和8年に,能登半島でトキの放鳥が決定したという話を聞いてうれしくなりました。能登半島の空をトキが舞うのも,それほど遠いことではなさそうです。そうしたら,また,見に来たいと思います。
 なお,ネットに,いしかわ動物園でのトキの飼育についてのデータが掲載されていて,2022年7月で,産卵数240個,佐渡島への返還数75羽,佐渡島での放鳥数70羽に達しているということでした。

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 情報をすべて遮断してみると,ほとんどは快適なのですが,手持無沙汰な時間があることに気づきました。今まで,そうしたときに何をしていたのかを思い出すと,意味もなく雑誌を手に取っていたということに気づきました。つまり,雑誌の類もまた,単なる暇つぶしだったのです。また,雑誌は,暇つぶしのための絶好な武器なのです。
 ということで,何らかのそうした暇つぶしの雑誌でも,と少し考えてみて,やはり,今の私には,そういう選択肢はない,というのが結論になってしまったのが,残念なことでした。

 今から少し前,私が毎月購入していた雑誌は,「アサヒカメラ」「月刊天文ガイド」「将棋世界」の3冊でした。もっと以前には,こうした雑誌には,「アサヒカメラ」には「毎日カメラ」あるいは「日本カメラ」,「月刊天文ガイド」には「月刊天文」,「将棋世界」には「近代将棋」というように,必ずといっていいほどライバル誌があって,なかなかおもしろい時代でした。それも,インターネットがなかったからこそでした。
 さて,こうした雑誌を毎月読んでいたときは,発売日が楽しみで,購入したあとも,毎日,ほとんどすべてのページをきちんと読んでいました。ところが,インターネットから情報が入るようになると,雑誌に載っている記事の内容が,すでに知っていたことが多くなり,だから,雑誌を作る苦労がはじまりました。

 カメラ雑誌は,現在「CAPA」という雑誌以外は休刊となってしまったのですが,「CAPA」はカメラのスペック比べが主で,「アサヒカメラ」の代用とはなりません。しかし,現在のように,カメラがスマホにしてやられる以前に,すごい勢いで創刊された雑誌は軒並みだめになったのですが,その理由は,読者のニーズに応えられていなかった,ということに尽きます。
 天文雑誌は,今も健在です。私が日本の天文雑誌に魅力を感じなくなったのは,雑誌のせいではなく,私の興味が変わったからにほかなりません。私は,もっと深く掘り下げた天文情報を読みたいのに対して,雑誌の内容は,日本らしい,メカ中心,または,アマチュア天文家が老後の楽しみに私設天文台を作って超新星を発見したとか,さらには,依然として,読者の投稿写真のコンテストとか,そんなことを競っているような他人の自己満足を見る気もありません。
 将棋雑誌は,よほどのマニアでないと,難しすぎます。一時,デジタル版に駒が動くという機能をつけたことがあって,こりゃすごい,これならわかる,と思って感激しtことがあるのですが,おそらく,そうした手間がコスト的に釣り合わなかったのでしょう。今は単に紙ベースがデジタル化されただけになってしまいました。内容は,手の解説をされても,読んでいるだけでは追えないし,詰将棋とか次の1手とかは難解すぎて,まったくできません。

 ということで,日本の雑誌を購入しても,ぼんやりと写真を眺めているだけなので,そんな目的に1,000円以上も投資するのは自分には割が合わないという結論になってしまいました。

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 情報を遮断した私ですが,実は,2冊購読しているものがあります。それも電子媒体でなく紙媒体です。そのひとつは,NHKラジオ語学講座のテキスト「まいにちドイツ語」です。一時,電子書籍にしたのですが,気楽に書き込めないので戻しました。紙は紙の利点があるものだと思いました。ただし,保存が大変です。ここ何年もやっていると,保存しても新しいものが出てくるから結局過去のものはほとんど見ないことがわかったので,1年終わったら破棄することにしました。
 もうひとつは,「Sky & Telescope」というアメリカの天文雑誌です。これは,電子媒体はpdfなのでダウンロードすれば,どのタブレットでもPCでも読めるので便利ですが,電子媒体とともに紙媒体のものもアメリカから取り寄せています。家で手軽に読むには紙媒体もまた捨てがたいものです。
 今日は,その「Sky & Telescope」のお話です。

 私がこの雑誌を知ったのは,今から55年以上も前のことでした。当時は「月刊天文ガイド」が創刊して2,3年過ぎたころでしたが,「月刊天文ガイド」は「Sky & Telescope」をお手本にして作られたものだと友人から聞いたのです。その真偽はわかりませんんが,そのころから,この雑誌を一度読んで,というか,そのころは英語は読めなかったので,見てみたいと思ったのでした。しかし,今とは違って,外国の雑誌を入手するのは簡単でなく,名古屋市内で洋書を取り扱っていると聞いた「丸善」という書店に時折置いてあったのを発見して,感激したものです。しかし,値段は定価の数倍しました。
 年月が経ち,インターネットが普及しはじめたころ,ネットで注文できるようになって,私は定期購読をはじめました。アメリカから直接送られてくるのです。そのうち,アプリができて,電子媒体でも読めるようになったのですが,あるときから,電子媒体のダウンロードができなくなってしまい,私は,サブスクをやめました。噂では,出版社がつぶれたとかいう話でした。
 それからまたしばらくして,どんな経緯があったのか詳しくは知らないのですが,「Sky & Telescope」の発行が継続されていて,以前とは別の方法でしたが定期購読ができたので,復活しました。以前よりも雑誌は薄っぺらくなり,アプリもないのですが,先にかいたように,pdfでダウンロードできるようになりました。いつまで存続するのかわかりませんが,今はそれで十分満足しています。

 以前ずっと購読していた雑誌「TIME」などもそうですが,アメリの雑誌と日本の雑誌は,もともと,本質的にまったく異なるもののように思えます。簡単に言うと,日本の雑誌は,カタログ雑誌だということです。
 子供のころ,私のまわりはみな「月刊天文ガイド」を購読してたのですが,その中のひとりが家で父親が広告だらけの「月刊天文ガイド」を見て,これは広告収入で成り立つ雑誌だから,こんなものにおお金を出すことはない,と言ったというのです。社会の仕組みを知らなかった私は驚きました。また,そのころの「月刊天文ガイド」の人気記事に「望遠鏡をテストする」というものがあったのですが,ある号で,旭精光研究所という今は亡きハイアマチュア向けの望遠鏡が取り上げられ,酷評されて怒ったメーカーが,それ以降,雑誌に広告を載せるのをやめたということがありました。新聞も雑誌も,結局は利益の多くはそういう媒体に載せる広告収入がもととなっているので,広告主の意に反するような記事はないし,記事自体も,広告の一環だったりするのです。
 そう考えると,むしろ,アメリカの雑誌にはほとんど広告がないから,購読料がその収益の多くを占めているわけで,それで成り立っていることの方が不思議な気もしますが,内容は日本の雑誌とは比べものにならないほど充実しています。
 物欲が煽られないだけでも,読んでいて,こころが休まります。

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 まず,今日のお話の結論をいいます。天気予報はまず当たりません。昔より当たるという人がいますが,それは正しくないと,私は思います。
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 さて,私は,旅に出る機会も多いので,天気が気になります。そこで,さまざまな天気予報を調べるのですが,日々,ころころと予想が変わります。特に,1週間先の予報など,まったくといっていいほどあてになりません。そんな予報なら,ないほうがずっといいと思うほどです。
 むしろ,私は自分でもおそろしいほどの晴れ男なので,周囲の人は,何の根拠もないのに,天気予報よりも,私が旅行に行く先は晴れる,とかいっているくらいです。
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 誰かが言っていました。
 確かさ50パーセントというのが最も困る。確かさ0パーセントならその逆だと思えばいいけれど,50パーセントというのは,要するにわからないということではないかと。
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 つまり,現在の天気予報は,「晴れか曇りか,ところによっては雨でしょう」といっているようなものなのです。

 ところで,天気予報といっても様々です。
 「晴れ」といっても,冬型の気圧配置で北風が吹いて寒く雲が次々と流れてくる日,移動性高気圧がやってきて雲ひとつなく晴れ上がり気持ちがいい日,太平洋高気圧が張り出して蒸し暑い日では全く違います。
 星見に行くときの私は,「晴れ」といっても,星が見えるかどうかその基準となります。そこで,移動性高気圧がやってきて,等圧線がおむすび型になる日が最高の条件となりますし,そうでない日は,天気予報で晴れといっても雲がでてしまうこともあります。
 このように,天気予報は,その目的によって知りたい情報が違うのです。
 それにもかかわらず,天気予報は,昔から同じようなことを伝えていて,知りたい情報をつたえているとはいい難いものです。むしろ,わからないならわからない,とでもいってもらったほうが,よほど親切です。

 私は,コロナ禍以前,頻繁に海外旅行をしていたのですが,この時期から初秋にかけて海外旅行を企画したとき,もっとも問題となったのは台風でした。
 出発の日に台風が来るとなると,パニックです。そこで,1週間ほど前からの正確な台風情報が欲しくなったのですが,このとき,最も正確だったのが,アメリカ軍の天気予報で,日本の予報はあてになりませんでした。
 聞くところによると,こうした予報は,現在はAIがやっていて,そのプログラムは気象のことなど知らない人がつくったという話を聞いたことがあります。要するに,これはディープラーニングの世界なのです。気象予報士という資格を取るのはかなり難しいものらしいのですが,それにしても… という感じです。気象予報士の名前の下に,天気予報正解確率でも記述したらどうでしょう?
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 AIによって将棋界が変わったように,天気予報もまた,どんな情報を人々が望んでいるかを考えて,従来のものとはまったく異なる価値観でつくられるべき時代だと,私は思います。


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 数年前,というか,藤井聡太竜王名人が29連勝を達成して将棋ブームが起きる前,私は,将棋にほとんど関心を失くしていました。そのころの将棋は,まあ,今とそうはわからないのですが,角換りとか相がかりといった戦法が幅を利かしていて,難しくて,よくわかりませんでした。将棋が大衆に受け入れられるには,棋士の自己満足ではなく,もっと素人がわかりやすい将棋を見せる必要があると思っていました。それは今も同じですが,それでも,将棋AIのおかげで,「観る将」には,わからないなりにも楽しめるようになりました。
 その後の私は,世間のミーハーと同じく,藤井聡太という若者の活躍ではじまった将棋ブームに乗っかって,ABEMAの将棋中継を見るようになったわけです。はじめのうちはよかったのですが,次第に,そこに,ひとつ,大問題が発生するようになってしまいました。それは,藤井聡太竜王名人が負けるものなら,落ち込んでしまって,楽しく将棋の観戦ができなくなってしまったことです。これではだめです。

 しかし,念願の名人となった今,もう,そういうのは卒業しようと思いました。この後は,勝敗には無関係に,将棋の観戦を楽しもうと思うようになったのです。そこで,何十年ぶりかで,将棋を指すことにしました。幸い,周りに将棋の強い人が大勢いるのが救いです。
 そこで久しぶりに将棋について考えたのですが,私のような,さほど将棋に強くないものが将棋を楽しむには,研究を知らなければ戦かえない,といった最新戦法なんてやってはだめ,ということでした。つまり,藤井聡太竜王名人の指すような将棋をマネしてはいけないのです。あれは,強いからできることであって,凡人の指すものとは違います。
 なら,どうすればいいか?
 ということなのですが,序盤の戦法としては,原始棒銀とか筋違い角とかひねり飛車です。最新の研究将棋なんて,知っているほうが有利。それでは勝負になりません。こうした古い戦法も,よく知る人にはうまくいかないことでしょうが,おそらく,ほとんどの相手は,そうは知らないだろうし,もともと,そんな古い戦法,今の人は見たこともないことでしょう。私が将棋に凝っていた今から50年以上前の戦法だからです。
 いずれにしても,将棋は終盤勝が負なので,そこまで持ち込めば何とか…。というのは,しかし,甘い考えでした。長年指していなかったから,その終盤が弱いことに今更ながら気づきました。私は,藤井聡太竜王名人ではなかったのです。当たり前か。でも将棋指すのは楽しいよ。
 詰将棋やらなきゃ。


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 ニコンからZ8というカメラが発売されました。Z9に並ぶ,プロ用カメラの最高機器です。私には無縁の世界ですが,いいものには違いありません。
 若いころは,身に着けるものは安くて用途にかなっていればいいと思っていたのですが,齢をとったからには不快な印象を与えないために多少は小ぎれいにしないといけないと思うようになって,いいものを買うようになりました。そこで気がついたのは,いいものは,買うときは値がはっても,結局は長持ちするということでした。
 カメラもまた,今は売り払ってしまったので手元にありませんが,その昔,ニコンF3/TとニコンFMというカメラを使っていました。20年もすると,このふたつのカメラの材質の違いが歴然となってきて,やはり,高級品は違うということが身に染みました。ニコンFMは塗装が剥げてきたのですが,ニコンF3/Tはいつまでもピカピカでした。
 いいものというのはそういったものなのです。しかし,スペックには現れません。

 暇に任せて,カメラの新製品情報を掲載しているブログを見ることがあります。新製品情報自体はどのブログも,そのもととなる情報が同じだから大差ないのですが,ブログによってコメント欄が違うのがおもしろいです。そこで気づいたことがありました。
 それは,紹介されるカメラによって,コメントを寄せる人の層が違うということです。プロ用の機器を紹介しているときは,コメントの内容もかなり専門的で,私には理解ができないことも少なくありません。そうした機器に求める能力がまったく違うからなのでしょう。しかし,そんなコメントに中に,時折,全くわかっていない人が混じっていたりするときがあって,それは場違いな感じがします。ただし,書いている人がそれに気づいているのかどうか?
 それが,プロとアマの違いなのでしょう。
 ここで問題だと思うのは,プロとアマ,その根本的な違いを知らない人が,プロの書いたコメントとアマの書いた場違いなコメントのふたつを同レベルのものと思って,その評価を鵜呑みにすることなのです。それは,たとえば,アマチュアのオーケストラを聴いて「よかったよ」というのとプロのオーケストラの演奏を聴いて「よかったよ」といったときに,このふたつのオーケストラの実力を同レベルだと思うことと同じようなものです。

 このごろ,私は,何事も,自分の思っていた以上に奥が深いものだ,と思うようになりました。そうした奥の深さを知るには,やはり,自分が真剣にそこに向き合うことが必要なのでしょうし,自分に実力がないと,決して到達できないものでしょう。
 だから,そんな天賦の才がない私が趣味を楽しむには,自分には何が相応なのかを知ることが最も必要なのです。でないと,身の丈を越えたものを買って,結局は使いこなせないという悲劇が生まれます。
 私には,やっと使い方をマスターした,アマチュア用の,ニコンZ50とズームレンズNIKKOR Z DX 18-140mm f/3.5-6.3 VRで十分ですし,日々,とても楽しく愛用しています。

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 藤井聡太新名人が誕生しました。これで,8つあるタイトル戦のうち,王座を除く7つを制覇し,さらに,昨年度は,4つのトーナメント戦も優勝したので,将棋界の獲得賞金のほとんどを総なめしたことになります。また,昨日は,とほうもない大逆転勝利を演じて,8冠に一歩近づきました。こうなると,将棋界ひとり勝ちの状態なので,他の多くの棋士の収入と大きく差ができてしまいます。-しかし,この将棋でも,藤井聡太竜王名人の指した84手目△8八龍以下25手詰みを「将棋AI」が83手を指した段階で読み切れていなかったというのはどういうことだろう? 「将棋AI」は龍を切って詰ます手順が読めないのかも…。- 
 収入が多ければ累進課税でより多額の税金がかかるから,ひとりが独占して高収入をあげると,多くの棋士がタイトルを分け合っている状態に比べて,国としてはより多い税金収入があるということだから,好都合なのでしょう。だから,羽生善治九段とか囲碁の井山裕太三冠に国民栄誉賞をあげたのかな? 高額納税の返礼品みたいなものか?
 それでも,将棋界はまだ少ない方で,メジャーリーグの大谷翔平選手など,その何倍,いや,何十倍,はたまた何百倍もの収入があるそうだから,税金もバカ高いものでしょう。
 ということで,高額所得者というのは,私のような「インチキ富裕層」とは違って,多額の税金をとられたところで,それでも,入ってくるお金は途方もないものですが,いくらお金が手に入ったとしても,ある金額を越えてしまうと,何か,よほどの大豪邸を立てるとか,でもしないと,もはや,使いみちもないことでしょう。そんな心配をしてしまいます。

 こうした,途方もない高収入を得られる人にとっては,老後の心配は無縁なことでしょうが,ほとんどの人はそうはいきません。若いころからずっと収入の少ない人にとっては,日々,暮らすことだけでも大変なので,貯金をすることすらできないかもしれませんし,若いころに,少しだけ高収入があるような職業に就いた人も,また,若いころは欲しいものも多いから,たとえ思った以上の収入があっても,なかなか貯金もできないわけです。このように,きちんと将来設計を考えておかないと,お金が残らないから,ともに,老後がたいへんです。アメリカでは,プロフットボールの選手の多くが,現役時代に途方もない収入を得ているのですが,彼らの多くは,選手を引退後,自己破産に陥ってしまうそうです。
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 前回,人生は55歳から75歳がゴールドエイジだと書きました。
 ゴールドエイジを楽しむためには,第1に健康,そして第2にある程度のお金です。元気で金に困っていないのなら,まさに文字通りのゴールドエイジとなるわけですが,55歳の時点で貯金のない人や,月に50,000円程度の国民年金しか収入のない人の老後は,そうはいきません。
 ということで,若い人が無駄遣いをしているのを見ると,ゴールドエイジになったときのことを考えて,無駄遣いをしないで,日々,身の丈に応じたお金の使い方を考えたほうがいいのになあ,と,老婆心ながら,いつも思ってしまいます。

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 歳をとって物質欲もほとんどなくなり,必要なモノでもこだわりもないのですが,このたび,iPhoneを買い替えました。
 それまでは,6年ほど前に買ったiPhone8をずっと不自由なく使っていて,買い替える必要性も感じていなかったのですが,iPhone8が2023年秋のiOS17のアップデートの対象外となってしまったことと,2023年9月にiPhone15が発売されるそうなので,それを待ってもよかったのですが,電源端子がLightning端子からUSB-C に変わるとか? ということだったので,それでは持っている多くのコードがむだになるではないか,とiPhone14を買う決心をしたのです。

 私は,ずっと以前から,iPhoneもiPadも,Appleショップで購入します。そして,iPhoneには,格安SIMを入れています。
  ・・
 iPhone8はiPhoneの第11世代目のモデルで,2017年9月に発売されたものです。そのころに頻繁に海外旅行をしていた私は,iPhone6を使っていたのですが,iPhone 7では日本国内でApple Payを利用可能にするFeliCaが日本向けのモデルのみ有効だったのでパスして,全世界のモデルでFeliCaが利用可能になるiPhone8の発売を待ちわびて,発売と同時に購入したのです。
 今回購入したiPhone 14は第16世代のiPhoneで,2022年9月に発売されたものです。
 iPhone8に比べて,カメラ機能として,画素数は1200万画素と同じということですが,ソフト的にかなり進化しているらしいです。しかし,私は,カメラは別にニコンZ50を使っているので,カメラの性能にはあまり気にしていません。

 という次第で,注文してまもなくiPhone14が届いたので,これまでの使っていたiPhone8からアプリを移行をすることにしました。先日,新たにiPadを購入したときは,何の問題もなく移行できたので,今回もそのつもりだったのですが,思いのほかめんどうでした。それは,iPadとは違って,データ通信や,銀行などのアプリが存在してからです。
 まず,データ通信ができないのに驚きました。それは,APN構成プロファイルをダウンロードして設定する必要があったからです。しかし,こういうことは,ドコモ,au,ソフトバンクなどのキャリアで購入する人は知らない知識でしょう。何事も安く上げるには知恵が必要です。
 また,銀行などのアプリは,設定がそれぞれの銀行で異なっているのが,煩わしいというより,何か,とても滑稽でした。おそらく,その煩わしさの違いというのは,それぞれの金融機関の担当者の能力の違いなのでしょう。何か,それぞれの金融機関の内情がわかるようでした。
 もっとも快適だと思ったのは,顔認証です。こんなに便利なものだとは思いませんでした。指紋認証も便利だったのですが,それとは全く別物でした。それにしても,256ギガバイトのものを買ったのですが,60ギガバイトくらいしか使っていない! 私は,iPhoneで動画見ないし,撮らないし,どうしよう? もったいない話です。


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 2023年6月17日,第8期叡王戦第5局が柏の葉「三井ガーデンホテル」で行われるはずでした。しかし,叡王戦が第4局で終わってしまったために実現せず,その代わり,同じ日に「藤井聡太叡王を囲む会」が開催されました。
 このときのプログラムの第1部で行われたトークショーがYouTubeにアップされていたので見ました。それが「AIビッグ対談 藤井聡太叡王 Ponanza開発 山本一成CEO」でしたが,すばらしいというか,秀逸なものでした。優秀な人同士の対談というものは,聴いているほうが賢くなった気になるというものです。いい時間になりました。
 内容については,このYouTubeを見ていただくことにして,私は,それを見ていて,いろいろなことに思いをめぐらせました。今日はそのお話です。

 AIということばがあまりに有名になって,ひとり歩きをしています。関係のないことまでAIというラベルをはったり,AIを活用したわけでもないのに,AIというラベルを張った研究を公表する大学の先生がいたり…。
 これもまた,世の常ですが,私は,そんなAIの限界と可能性にとても興味があります。
 たとえば,「将棋AI」でいえば,これまで,私の知る限り,つぎのふたつの局面で,「将棋AI」のアルゴリズムはどうなっているのだろう? と疑問に思ったことがあります。プログラム的にはかなりの問題だと思うのですが,これについて,だれもわかりやすい解説をしていないことが不思議です。
 そのひとつ目は,以前このブログに「「将棋AI 」未だ未熟なり」として書いたことがあるのですが,2022年2月3日に行われた第80期将棋順位戦B級1組,先手佐々木勇気七段対後手藤井聡太竜王で,将棋AIが納得のいかない変化手順を示したものです。
 そしてふたつ目は,2023年5月28日に行われた第8期叡王戦五番勝負第4局,先手菅井竜也八段対後手藤井聡太叡王で,藤井聡太叡王が80手目△2九龍を指したのですが,これが23手の即詰みでした。しかし,「将棋AI」はこれを読めなかったのです。こういうものを見ると「藤井聡太のAI越え」とかいって興味本位で語られるのですが,少なくとも,「将棋AI」が詰みのある局面でそれが読めない,というものを私ははじめて見ました。人間的には盲点であっても,「将棋AI」は通常,これを見逃さないのです。

 これでは,AIもまだまだだなあ,と思ってしまいます。というのも,こうした人工知能の技術がすでにさまざまな社会生活で実際に活用されているわけですが,そこに次のようなミスがあったらたまりません。たとえば,医学の病理検査で異常を見逃してしまったり,入国検査で怪しい人を入国させてしまったり。それがこんなことでは,本当に役立つのかしら? 正しいのかしら? と疑問になってしまうのです。
 そうした技術活用のひとつとして,山本一成CEOが研究している車の自動運転があるわけです。今私が乗っている車も,多くの最新技術が使われていて,たとえば,車線をはみ出して通行すると,警告音が鳴ります。これは,将来の自動運転につながる研究開発中の技術だと思うのですが,それが,鳴ったり鳴らなかったり,あるいは,意味もなく鳴ったりと,まったくもって安定しません。つまり,信用できるものではないのです。
 こうした経験から,私は,こんなことではいつまでたっても自動運転などできるわけがないと,確信してしまいます。しかし,その最大の理由は,AIのせいだけではなく,というか,それ以上に,この国の道路整備がひどすぎるということにあります。交差点ごとに右折帯があったりなかったり,あるいは,変則だったりするし,信号のシステムも交差点によって違うし,センターラインの表示の形式も一定ではありません。また,通行帯を示すラインも,消えていたり,あるいは,元から書かれていなかったりすることもよくあるのが,この国の道路です。このように,人間が運転していても戸惑い,あるいは理解不能なことが少なくないのに,人工知能がこれを判断できるとは思えません。きちんとラインが引かれ,全国でルールが統一されているアメリカの走りやすい道路と比べたら雲泥の差です。
 こんな現状では,日本では,いくらAI技術が進化したとしても,自動運転はムリでしょう。それは,日本という国の交通インフラがあまりにもあいまいであり,いい加減だからです。

 おそらく,日本がこの先,さらに世界から遅れることになる要因は,こうした,何事につけても忖度社会で,その場限りのやったふりが蔓延する日本という社会の在り方のせいだと私は思います。人的なミスが多発しているマイナンバーカード,その原因は日本社会のシステム上の愚かさから来るものなのに,それを解決せず,しかし,半ば強制的に普及させようとしたり,行政が交通整理をしないものだから支払い方法が多すぎるゆえに一向に進まないキャッシュレス社会,そうした現状を見ても,それは明らかでしょう。つまり,日本の科学技術の発達を阻害している要因は日本という国のシステムであり,そこに住む人間にあるのです。

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 浦賀の渡しを渡り終えて,この先は浦賀港の西海岸に沿ってさらに南下して,ペリー公園に行くように地図にあったのですが,それがまあ,遠かった!
 実際,私がめざしていた「黒船が来た浦賀」に行くには,京急電鉄の浦賀駅ではなく,京急久里浜駅のほうが近かったのです。
 首都圏に住んでいる人には当然のことも,私のような,この地方に無縁の人はほとんど知らないことがあるのです。私のまわりにも,「三浦半島? 鎌倉までは行ったことがあるけれど…」という人がほとんどで,三浦半島は知らない,という人ばかりです。いい経験になりました。
 ずいぶんと歩いていたら「黒船食堂」というお店があって,どうやら私が何となく目指していた目的地に到着したように思いました。さらに歩くと,ようやくペリー公園に到着しました。
 公園には,大きな碑と博物館がありました。

  ・・・・・・
 日本の歴史公園100選にも選ばれている,ペリーの久里浜上陸を記念して作られた歴史公園です。
 園内にはペリー記念館,ペリー上陸記念碑および記念碑広場,児童広場があり,約250本の松の緑の向こうに久里浜の海と青い空が広がる見事な景観も魅力です。
 太極拳や音楽会などのイベントも行われるなど,市民の憩いの広場として親しまれています。
 また,毎年7月には,ペリー公園を会場として久里浜ペリー祭が開催され,記念式典やパレード,花火大会などが行われ,10万人近くの人で賑わいます。
  ・・
 1853年(嘉永6年)アメリカ大統領の日本開国を求める国書をもってペリーが久里浜海岸に上陸し,翌年,日米和親条約が結ばれ開国しました。 ペリー上陸記念碑は,1900年(明治33年)ペリー艦隊の一員だったビィアズリーが来日した折,久里浜にペリー上陸を記念する碑すらないのは残念だと演説したことがきっかけとなって完成し,1901年(明治34年)のペリー上陸と同じ日に除幕式が行われました。
 碑文「北米合衆国水師提督伯理上陸紀念碑」は伊藤博文の筆によるものです。 太平洋戦争で1945年(昭和20年)碑は引き倒されましたが,終戦後に復元されました。
  ・・・・・・

 浦賀や久里浜にはこれ以外に,特に何,というものもほとんどありませんでしたが,これで黒船が浦賀沖に… という場所がどんなところかわかりました。
 帰りは,京急久里浜駅から京急電鉄で泉岳寺駅まで戻りました。
 そんなわけで,前回行った横須賀市街,今回の金沢文庫と浦賀で,全く無知だった三浦半島がどんなところか,少しずつわかってきました。
 地図で見ると,三浦半島の先端に,城ケ島があります。これ,いわゆる離島です。少しだけGoogle Maps で見ると,先日行った青森県の深浦町のような海岸が続いているように思えます。興味が湧いてきたので,次回は,おそらく,暑い夏が終わったあと,この辺りを散策してみようと考えています。
 この日,品川駅で降りず,泉岳寺駅まで行ったのは,少し前に行った泉岳寺で赤穂義士博物館がすでに閉館していて入ることができなかったので,改めて行ってみることにしたからです。閉館5分前に中に入ったのですが,規模も小さく,5分あれば十分なくらい特に何ということもない小さな博物館でした。それにしては,入館料が500円もしました。

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 京急電鉄の金沢文庫駅に着きました。そこで見つけたのが浦賀行き,という列車でした。浦賀といえば,ペリー。そう,幕末に黒船がやってきた場所です。こんなに近いのか,と思ってどのくらいかかるか調べてみたら,わずか30分程度。これなら十分に行って帰ってくることができるので,ここまできたからには,と,浦賀に行ってみことにしました。
 しかし,ここもまた,私は,浦賀という地名を知っているだけで,そこがどうなっているかもまったく知りませんでした。
 普通列車の浦賀行きが来たので乗りました。途中の駅で後から来た列車を待ち合わせしたりと,結構だらだらと走っていったのですが,私は,どこを走っているのか,まったくわかりませんでした。また,「横須賀中央」という駅にも停車しました。前回,私はJR横須賀線で横須賀市へ行ったのですが,ここで,JR横須賀線など乘らずとも,品川駅から京急電鉄に乗ったほうが横須賀市に行くにはずっと便利だということをはじめて知りました。とはいえ,こうして,経験をしてこういうことを知るほうがずっとおもしろく,また,よくわかるので,これはこれでいいのですが…。
 やがて,というか,ついに,というか,終点の浦賀駅に到着しました。

 駅前に「開国の町・浦賀」という看板を見つけました。
 この先,どこをめざせばいいかなんて,全くわからなかったのですが,この看板に書かれてあった地図を見ると,散策コースといったモデルコースがあったので,これに沿って歩くことにしました。
 まず,浦賀港に沿って港の東側をずっと南下していくわけです。途中に何かあるのか? と期待したのですが,道路の海側はずっと塀があって,何も見えません。これでは何も見られません。そのうちに住宅街になって,そこに,顕正寺と乗願寺というお寺がありました。
  ・・
 顕正寺は日蓮宗の寺で山号を東耀山と称します。石段を少し上がって西に向いた小ぢんまりとした山門を抜けると鉄筋コンクリートでできた立派な本堂が建っていました。様々な人の墓があるということだったのですが,私が知っていたのは,作家の山口瞳さんだけでした。
 道路を挟んだ乗願寺に行ってみました。乗願寺を開いたのは「曽我兄弟の敵討ち」で有名な曽我兄弟の兄・曽我十郎祐成(そが じゅうろうすけなり)とその恋人虎御前の子と伝わる了源という人です。了源は親鸞に弟子入りし平塚に寺を建てましたが,応仁の乱のころに京都で本願寺派の弾圧がはじまり,その波が関東地方まで押し寄せたので,当時の住職がこの浦賀の地に寺を移したものということです。
 ともに,ペリー来航のころとは関係がありませんでした。

 さらに進むと,浦賀の渡しがありました。そのたもとに,徳田屋跡がありました。
  ・・・・・・
 浦賀は江戸湾防衛の最前線だったので,各藩の武士が浦賀の町を訪れました。 浦賀は宿場ではなかったので,旅人を宿泊させることは禁止されていましたが,身元の確かな人は,村名主の紹介で宿泊することが許されていました。しかし,数が増えそれも困難になると,東浦賀に旅籠が許可されました。旅籠で代表的なものが,東浦賀の徳田屋と西浦賀の吉川屋でした。
 徳田屋には多くの武士や文化人が宿泊し,松下村塾の塾頭である吉田松陰は,その日記に,ペリー来航時の対応策について徳田屋の主人からの情報をもとにして師の佐久間象山らと協議したことを残しています。
 徳田屋は1923年(大正12年)の関東大震災まで存続し,今は,その跡に碑が建っています。
  ・・・・・・
 やっと,私が期待した幕末の史跡がありました。
 なお,吉田松陰が黒船で密航を企てたのは,浦賀ではなく下田です。

 浦賀の渡しはポンポンの愛称で浦賀のシンボルになっているそうです。船が対岸にいるときは呼び出しボタンを押すとすぐに来てくれます。私もそうしました。やがて船が来たので乗り込みました。約3分ほどの船旅で,浦賀造船所跡地に建つクレーンやドックを海から眺めることができました。
 浦賀の渡しは,奉行所が浦賀に置かれてまもない1725年(享保10年)ごろからはじまる長い歴史があって, 江戸時代には,船が1艘で船頭さんが2人でした。
 最盛期には1日の平均乗客数が1,000人にも達していたそうです。
 現在,浦賀の渡しは横須賀市営ですが,市の施設を民間事業者に貸し付けて運航しています。

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 金沢は,現行の高等学校の日本史の教科書には「かねざわ」とふりがながあります。つまり,金沢文庫は「かなざわぶんこ」ではなく「かねざわぶんこ」なのです。私は,ずっと「かなざわぶんこ」とばかり思っていました。しかし,今回私が調べた限りでは,「かねざわぶんこ」ではなく「かねさわぶんこ」です。
  ・・・・・・
 金沢文庫に伝わる鎌倉時代の古文書に「かねさハの御寺=称名寺」という文字が確認できるので,鎌倉時代には確かに「かねさわ」という地名だったようです。金沢実時の一族は「かねさわ」を拠点としていたから,金沢(かねさわ)北条氏といいます。
 江戸時代にはすでに加賀藩の中心地であった金沢(かなざわ)の方が有名だったので,同じ漢字の地名である武蔵国の金沢もその読み方になっていったのでは? ということです。 そして,この地が「金沢八景」の成立で外部によく知られるようになっていき,外部の人々が「かなざわはっけい」と読むので,全国に「かなざわ」として定着していったと考えられます。
  ・・・・・・

 ところで,称名寺を造営した金沢実時の墓は,称名寺の裏手に広がる市民の森の高台にあります。行くのは大変だったので,見ることはできませんでしたが,称名寺の裏手まで行かずとも,称名寺の奥には,金沢実時の子・金沢顕時(あきとき)と孫・金沢貞顕(かねさわさだあき)の墓があって,そこまでは行くことができました。何でも,このふたつの墓は取り違いがされていたようで,囲いに示された名前が反対になっているということです。
 さて,称名寺から金沢文庫に行くトンネルがあります。このトンネルを通ると金沢文庫の裏門に出ることができるので,次に,金沢文庫に行ってみました。
  ・・・・・・
 金沢文庫は,武家の文庫としては日本最古のものですが,鎌倉幕府の滅亡以後は次第に衰退していきました。そして,後北条氏,徳川家康,前田綱紀らによっても多くの蔵書が持ち出され「金沢文庫本」とよばれる典籍の多くは散逸してしまいました。
  ・・・・・・
 1897年(明治30年)に伊藤博文らの尽力によって,塔頭大宝院の境内に金沢文庫書見所と石蔵が建てられましたが,1923年(大正12年)の関東大震災によって損壊してしまいました。
 1929年(昭和4年)に 御大典記念事業の一環で鉄筋コンクリート造2階の施設が称名寺阿字池の西側に建てられることになり,1930年(昭和5年)に神奈川県立金沢文庫として復興しました。そして,1954年(昭和29年)に神奈川県立図書館が設けられると,金沢文庫は図書館から博物館に変わることになりましたが,老朽化し,1990年(平成2年)に現在の施設が竣工しました。
 館内には簡単な資料館があったのですが,私が期待していたような,当時の多くの書物を見ることができるといったものではありませんでした。

 これで,「金沢八景」と金沢文庫がどのようなものかがわかって,私の好奇心が満足されたので,京急電鉄の金沢文庫駅にもどることにしました。
 その途中で,昼食を,と思って,駅前の商店街にあった焼き肉屋さんで,豪勢な焼肉ランチを食べました。このおいしさが一番印象に残っています。

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 京急電鉄の金沢八景駅で降りて金沢文庫駅に向かって歩いているわけですが,前回も書いたように,私は,何の下調べもせずにやってきて,しかも,ほとんど知識を持ちあわせておらず,何となく,金沢文庫というものがこの辺りにあるのだなあ,という好奇心だけでやってきたのでした。そもそも,鎌倉時代につくられたという金沢文庫が現在,どうなっているのか,想像すらつきませんでした。
 歩いていると金沢文庫↑という案内標示が電柱にあったので,そこをめざせばいいのだなあ,と思っていたのですが,途中で道に迷いました。斜め先と右側方向に道路があって,どちらを進めばいいのかがわからなかったからです。ちょうど地元の人がいたので聞いてみると,その人は,私が聞いた金沢文庫なるものが,京急電鉄の駅のことなのか何なのか判断がつかなかったらしく,「称名寺さんですか?」と聞き返してきました。今度は私が称名寺なるものを知らなかったのですが,話が複雑になるといけないし,私に大した目的があるわけでもないから,称名寺なるものにも行ってみようと思って「そうです」と答えると,行先を教えてくれました。

 やがて,称名寺に到着しました。えらく大きな寺で驚きました。
 仁王門のところを受付にして土日限定の無料ガイドが行われていたので,お願いすることにしました。
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 真言律宗別格本山の寺院・金沢山称名寺(きんたくさんしょうみょうじ)。
 北条氏の一族である金沢(かねさわ)北条氏の祖・金沢実時が1258年(正嘉2年)六浦荘金沢の居館内に建てた持仏堂がその起源とされます。
 金沢文庫(かねさわぶんこ)は,金沢実時が病で没する直前の1275年(建治元年)ごろに居館内に文庫を設けたのが起源とされ,金沢実時が収集した政治,歴史,文学,仏教などに関わる書籍が収められていました。
 やがて,鎌倉幕府が滅び,称名寺の衰退とともに蔵書も次第に散逸してしまいました。
  ・・・・・・

 境内には赤門,仁王門,金堂,釈迦堂などがあり,仁王門,金堂,釈迦堂は江戸時代のものだそうですが,小さな仁王門に窮屈そうに安置されている約4メートルもある巨大な仁王像や,金堂の本尊として祀られている弥勒菩薩立像は鎌倉時代のものが今も現存しているということです。
 金堂前の阿字ヶ池を中心とする浄土式庭園は,1320年(元応2年)に金沢氏3代の金沢貞顕の時代に整備されたものですが,その後荒れ果て,現在は,古図や発掘調査の成果に基づいて,1987年(昭和62年)に復元されたものです。池にかかる赤い橋は平橋,反橋で,平橋は橋長17メートル,反橋は橋長18メートルあります。このふたつの橋は,過去,現在,未来を繋ぐものです。
 また,古図にも描かれてある美女石は現存し,美しい姿を見せています。これは,鎌倉時代に北条の姫君が阿字ヶ池で溺れ,それを助けようとした侍女共々に亡くなり,美女石と姥石に姿を変えたという伝説あるものですが,現在は美女石のみが残されていて,姥石はありません。何でも,1939年(昭和14年)の写真には存在していて,その後行方がわからなくなってしまい,阿字ヶ池の発掘調査でも見つからなかったそうです。
 称名寺もまた,「金沢八景」で称名晩鐘として描かれたところですが,この晩鐘, 2010年までは大晦日に除夜の鐘として参拝客が列をなし順番に撞くのが恒例だったのですが,鐘の老朽化が進んで,今はつくことができないそうです。
 称名寺の鐘は金沢実時が1269年(文永6年)に父・北条実泰の7回忌供養として造らせたものが破損してしまったため,鐘は息子の金沢顕時が1301年(正安3年)に改鋳したものといいます。

 称名寺のまわりの山々の緑が,ここが横浜の市街地であることを忘れさせてくれます。これは,一時、宅地開発されそうになったものが中止されて、市民の森として保存されることになったからだそうです。もし宅地開発がされていたら,あたりは住宅で埋め尽くされていたことでしょう。
 このように,市街地に近いのにも関わらず、静かな場所であることから、この日も市民が訪れて、思い思い、絵を描いたり、くつろいだりしていました。なかなかいい場所でした。

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 2023年6月10日。今月もまた,NHK交響楽団の定期公演を聴くために東京へ足を運びました。コンサートは午後6時からなので,このところ,お昼間は,東京近郊のこれまで気になっていたのに行くことがなかった場所を選んで散策をしていますが,今回は,三浦半島,「金沢八景」と金沢文庫を選びました。
 4月以来,連日天気が悪く,そのうちに梅雨入りしてしまいました。この日も雨を心配していたのですが,どうやら大丈夫のようでした。しかし,しだいに蒸し暑くなってきました。
 行きの新幹線の座席は北側で,幸いにして,久しぶりに富士山を見ることができました。晴れていても雲がかかって見られないということもあるのですが,薄曇りの天気だと,反対に,薄くかすんではいても,その姿が全体的に見ることができるのは,前回行った青森県の岩木山も同様で,不思議なことです。

 前回,横須賀市に行ったときは,JR横須賀線に乗ったのですが,今回は,JR品川駅で新幹線を降りて,京急電鉄で金沢八景駅をめざすことにしました。「金沢八景」が何モノなのかまったく知らなかったけれど,ともかく,金沢八景駅で降りて,金沢文庫駅まで歩けば,きっとどういうところかわかるだろう,と思ったからです。
 愛知県に住む私は,東京や大阪の私鉄に比べて,名古屋の名鉄はダサいイメージがあって,特に,新名古屋駅のホームは,よく話題にされているように,完全なカオス状態なのですが,この京急電鉄の品川駅は,名鉄の新名古屋駅をほうふつとさせるダサさで,これが首都圏の私鉄なのか! といつも思います。しかも,品川駅を出た後の線路のカーブもまた,ダサさの面目躍如です。
 JR品川駅も西口あたりだけが昭和に戻ったような雰囲気なのですが,これと一緒に京急の品川駅も改良工事をすればいいのに,と思ったりします。ともかく,私のようなおのぼりさんには,京浜急行の品川駅のホームはとてもわかりにくいです。
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 さて,今回行った場所ですが,私が知っていた知識は
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 北条氏一門の金沢実時とその子孫は,鎌倉の外港として栄えた六浦の金沢に金沢文庫を設け,和漢の書物を集めて学問に励んだ。
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という高等学校の日本史の教科書の記述だけです。昔,金沢文庫という名前をはじめて習ったとき,石川県の金沢ではなく,横浜市に金沢! ということに驚いたものですが,それ以来,一度,そのあたりに行ってみたいと長年思っていたわけでした。
 ということで,金沢文庫に関してはこの程度の知識だったのですが,「金沢八景」については,さらに何も知らず,おそらく,金沢文庫近くの海の美しい景色のことなのだろう,といった程度でした。

 京急電鉄に乗り込んで,私が降りようと思っていたのは金沢八景という名前の駅だったのですが,そのひとつ前に金沢文庫という名前の駅があることに驚きました。そこで迷ったのですが,はじめの予定通り,金沢八景駅で降りて金沢文庫駅まで歩けばいいや,と適当に考えて,初志貫徹で金沢八景駅で降りました。
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 室町時代末期から江戸時代になると,湖や内海を囲んだ風景の美しいところを,中国の瀟湘八景に見立てて,各地に「〇〇八景」が生まれました。
 「金沢八景」は,金沢の八つの勝景をあてはめたものです。
 金沢の景勝は,中世において既に知られていましたが,元禄時代,徳川光圀に招かれて水戸祇園寺の開山となった中国明代の僧心越禅師(しんえつぜんじ)が,1694年(元禄7年)にこの地に来て,再び見ることのない故郷の杭州西湖を偲びつつ金沢の能見堂からの眺望を瀟湘八景になぞらえて,八編の漢詩を詠みました。これが,金沢八景の名前のおこりです。
 これ以降,多くの文人が訪れ,歌川広重によって描かれた「武州金沢八景」八連作が金沢八景を世に広めました。金沢八景は
  ・・・・・・
 洲崎晴嵐(すさきのせいらん)
 瀬戸秋月(せとのしゅうげつ)
 小泉夜雨(こずみのやう)
 乙舳帰帆(おつとものきはん)
 称名晩鐘(しょうみょうのばんしょう)
 平潟落雁(ひらかたのらくがん)
 野島夕照(のじまのせきしょう)
 内川暮雪(うちかわのぼせつ)
  ・・・・・・
です。
 金沢八景駅で降りたところにあったのが,このうちの瀬戸秋月として描かれた瀬戸神社でした。ちょうど,アジサイの花がきれいでした。そこから乙舳帰帆で描かえた海岸線に沿って歩いて行くことにしました。

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今回の旅の最後に訪れたのが青森市文化観光交流施設・ねぶたの家「ワ・ラッセ」でした。
「ワ・ラッセ」は,2011年(平成23年)に青森駅ホーム東側に広がる青森ウォーターフロントエリアに開業したもので,青森ねぶたの保存伝承のほかに,青森の観光の拠点となっています。
名称は公募により,最優秀作品である「ワ・ラッセ」と優秀作品である「ねぶたの家」を組み合わせたものだそうです。
ねぶたに関する観光施設は,以前は,民間の「青森自然公園ねぶたの里」というものがあったということです。「青森自然公園ねぶたの里」があった一帯は,古代,女王・阿弥須(おやす)とその弟・頓慶(とんけい)率いる蝦夷の集落であったとされ,坂上田村麻呂がこれを攻める際に巨大な人形を用いたというのがねぶたの起源であると伝えられていたそうですが,坂上田村麻呂は現在の盛岡市までしか達していないことが史実として青森市民に知られるようになったことで白けてしまったようです。それが原因かどうかは知りませんが,2013年(平成25年)に入場客の減少によって事業を停止してしまい,現在,ねぶたに関する施設はここだけ,ということです。
館内には巨大なねぶたが多く展示されていて,興味深いものではありましたが,「青森市=ねぶた」と思っていた私には,弘前市で見たねぷたの博物館に比べたら,所員の説明があるわけでもないし,これでねぶたの何がわかるか? という感じで,少し物足りな感がありました。

「ワ・ラッセ」を出て,これで,青森市の観光はおわりです。そしてまた,今回の旅の旅程もおわりです。
JR青森駅を通り抜けて,車を停めた場所に戻り,車で空港へ行くことにしました。
JR青森駅は現在リニューアル工事中でした。コンコースに,青森にあるリンゴジュースだけを置く自動販売機がありました。これは「青森の心意気を示した自販機」とネットで話題をよんだものだそうです。調べてみると
  ・・・・・・
この自動販売機は「JR東日本ウォータービジネス」が青森駅と新青森駅に設置している「acure」(アキュア)で,販売している商品はオリジナル飲料ブランド「acure made」(アキュアメイド)の「青森りんごシリーズ」です。
2017年(平成29年)から設置されていて,ツイッターアカウント「ぐるぐる@guruguruuzumaki」さんが「リンゴジュースしか売らないという青森の心意気を示した自販機」とSNSに投稿したところ,多くの反響があったということです。
「青森りんごシリーズ」は「ふじ」「つがる」「王林」「トキ」「ジョナゴールド」「きおう」があり,また,「ふじ」を主体に「王林」などをブレンドした「青森りんご」もあります。
  ・・・・・・
とありましたが,現在,この自動販売機は東京にもあって,私も目撃しました。そんなことをしたら,レア感がなくなるのに…。

さて,青森空港は空港の建物のとなりにレンタカーオフィスがあります。青森空港へ車でアクセスるるには有料道路を通る以外に選択肢がなく,したがって,レンタカーオフィスに入るには,必ずこの有料道路を通る必要がある,というだけで,青森県に対するイメージがかなりダウンします。
とはいえ,考えてみれば,これは,セントレア・中部国際空港も同じです。
午後6時過ぎレンタカーを返却して,空港ビルに入りました。飛行機の出発は午後7時35分だったので,それまで,まず,空港内のレストランで夕食をとることにしました。青森空港にはレストランが数軒あったのですが,せっかく来たのだから青森グルメ,ということで,探し出したのが「かわら」という名前のお店の「味噌カレー牛乳ラーメン」なるものでした。
「味噌カレー牛乳ラーメン」が誕生したのは1970年代中頃だそうです。
  ・・・・・・
札幌市のラーメン横丁でラーメン店を経営していた佐藤清さんが,東北地方にも札幌ラーメンを広めたいと,1968年(昭和43年)に青森市に「味の札幌」を開店しました。
1970年代,青森市の松竹会館の映画館に支店を出した「味の札幌」で,ラーメンにケチャップやマヨネーズ,コーラなどさまざまなものを入れて食する遊びが中高生の間で流行しました。「味噌ラーメンにカレーとミルクを入れて食べるとなぜかおいしい」といううわさが流れはじめて,その要望によって,1978年(昭和53年)に正式なメニューとして「味噌カレー牛乳ラーメン」を発売したのです。それは知る人ぞ知るソウルフードという存在でしたが,世に台頭したのはカップラーメンとして発売された2008年頃のことでした。
現在は,店主の弟子達が「味噌カレー牛乳ラーメン」を受け継いでいます。
  ・・・・・・
とありました。「味噌カレー牛乳ラーメン」は,味噌ラーメンのスープにカレー粉と牛乳を入れたもので,具はチャーシュー,モヤシ,バター,ワカメとメンマを使用します。なかなかの味でした。昔,
お味噌汁にバターを入れて食べていたことを思い出しました。
「味噌カレー牛乳ラーメン」を食べてから,青森空港のラウンジで一休みして,空路,帰宅しました。帰りの飛行機にはなぜか松本アルプちゃんの絵が描かれてありました。
青森県の奥深さを知ったいい旅になりました。また,ぜひ,リピートします。

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 NHK交響楽団2023年6月のA定期公演を聴いてきました。これで今シーズンは終了です。久しぶりに1年を通して定期公演を聴きましたが,いいものです。
 今回のプログラムは,プロコフィエフの交響組曲「3つのオレンジへの恋」,ピアノ協奏曲第2番,そして,カゼッラの歌劇「蛇女」から交響的断章でした。私にはほとんどなじみのない曲ばかりで,定期公演でなければ聴くこともないようなものでした。定期会員以外で,これを聴きにくる人って,たとえば,ピアノ協奏曲第2番が好きだ,とか,この協奏曲を弾いたピアニストのベラゾド・アブドゥイモフさん(Behzod Abduraimov)を聴いてみたい,といった動機がある人くらいのものだろうから,果たしてどのくらいいるのかな? と思ってしまいました。実際,お客さんも少なく,私が座っていた2階の最後尾席のあたりはほとんど空いていたので,ステージがよく見渡せました。

 プロコフィエフは悪くない。結構好きな作曲家です。私には,シロップのたっぷり入ったアイスコーヒーのような甘ったるいラフマニノフより,砂糖の入っていない渋めのホットコーヒーのようで,ずっといいです。
 交響組曲「3つのオレンジへの恋」は「行進曲」だけが非常に有名ということで,この旋律にはなじみがありましたが,全体を通して聴いたことがあったかなあ? この曲は,プロコフィエフが亡命中に影響を受けたストラヴィンスキやフランス6人組に触発されたモダンで刺激的な色彩感豊かな組曲ということで,なかなかいいものでした。
 ピアノ協奏曲第2番は知っている! と思っていたのですが,実ははじめて聴くものでした。
 考えてみれば,私がなじみがあると思いこんでいたプロコフィエフの交響曲や協奏曲で聴いたことがあったのは,7曲の交響曲のうち,第1番,第5番,第6番,第7番,5曲のピアノ協奏曲のうち,第1番,第3番,ヴァイオリン協奏曲は全曲である第1番,第2番でした。
 今回のピアノ協奏曲第2番はちょっと難解で,一度聴いただけではその聴きどころやよさを感じることができたとはいえませんでした。聴き込むとのめり込むかもしれません。どうやら,プロコフィエフにはまだ宝の山が一杯眠っているようです。聴いたことがなかった曲の多くは,一度聴いてみると,私の感性に合っているなあ,といつも感じます。コンサートであまり取り上げられないのは人気がないからでしょうか?

 カゼッラの歌劇「蛇女」から交響的断章なんて,全く知らない曲でした。それも当然で,日本初演だそうです。
 今回の指揮者ジャナンドレア・ノセダさん(Gianandrea Noseda)はイタリア・ミラノの生まれで,1997年にマリインスキー劇場の首席客演指揮者に迎えられ,それ以後,ヴァレリー・ゲルギエフとともに同劇場を支えていたというから,イタリア人というより,どことなく,ヴァレリー・ゲルギエフに似た感じがします。指揮は,とても激しく,ダイナミックです。
 歌劇「蛇女」というのは,原作が18世紀ヴェネツィアの劇作家カルロ・ゴッツィの寓話劇で,モーツァルトの「魔笛」などと同様に,主人公が試練を乗り越えて目的を達成するファンタジックな冒険譚だそうですが,「色彩豊か,特に,後半はまるでハリウッド映画さながらのゴージャスな」行進曲が含まれているとありました。
 ビゼーの「アルルの女」と同じく,歌劇「蛇女」には第1組曲と第2組曲があって,今回取り上げられたのはそれでした。組曲は,歌劇の中の曲のいいところ取りをしたようなものだと思うのですが,このふたつの組曲は,おそらく別物なのでしょう。この日の演奏では,はじめに第2組曲,次に第1組曲という順序になりましたが,このほうがバランスがよかったからでしょう。

 アルフレード・カゼッラ(Alfredo Casella)という埋もれかけていた作曲家に光を当てたのが,ジャナンドレア・ノセダさんの大きな功績のひとつだそうです。
 2012年にNHK交響楽団の定期公演で交響曲第2番が演奏された録音を聴いてみたのですが,なかなかいいものだったので,ちょっと期待しましたが,私にはあまりよくわかりませんでした。
 今回の定期公演のコンサートマスターは客演の川崎洋介さんで,となりに,伊藤亮太郎さんが座っていました。NHK交響楽団は篠崎史紀さんが特別コンサートマスターになって,ゲストコンサートマスターのライナー・キュッヒルさん(Rainer Küchl)さんの名前も消え,先日までゲストコンサートマスター白井圭さんは契約が終わり,新たに郷古廉さんがゲストコンサートマスターとして迎えられたのですが,私には,新たなコンサートマスターを探しているかのように感じます。


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今回の青森旅行の最終地は青森市です。
三内丸山遺跡から北に走って,青森市街地に着きました。まず,ひときわ高く目につくのがJR青森駅近くの青森県観光物産館「アスパム」という三角形の建物でした。「アスパム」は青森港の再開発事業に基づいて1986年(昭和61年)に建設されたもので,外観の三角形は青森の頭文字である「A」をかたどったもの,名前は,青森県(Aomori)観光(Sightseeing)物産(Products)館(Mansion)の頭文字だそうです。車を近くの駐車場に停めて,まず,そこに行きました。
青森市街地はJR青森駅近くでも駐車料金が安いことにまず驚きました。次に驚いたのは,ものすごい強風でした。
「アスパム」には展望室があるということだったので,登ってみました。展望台からは青森市の街並みが一望できました。この日は霧っていたので無理だったのですが,条件がよければ北海道の陸地も見えるということでした。

私が青森市で行きたかったのは,かつて青函連絡船として運用され,現在は博物館となっている八甲田丸とねぶたの展示館でした。
そこで,「アスパム」を降りて,まず,八甲田丸に行くことにしました。
以前書いたように,私は今から40年以上前に,一度青函連絡船に乗りました。私が乗ったのは,北海道でスキーを楽しんだ帰り,つまり,真冬のことだったのですが,そんな時期に津軽海峡を海路渡るものではありませんでした。
函館港から乗り込んだときは,さあ,3時間以上の船旅を楽しむぞ! と食べ物,飲み物を買い込んで,意気揚々と座席に着いたまではよかったのですが,出航してまもなく,船酔いになりました。こうなるといけません。当然,降りることもできないから,どうにもならないのです。
今も変わらず,というか,当時の私は今以上によほどのバカで,酔い止め薬を飲むことも知らず,それは,船もバスも車もそれまで酔ったことなどなかったからですが,そこで,ない知恵を絞って考え出したのが,とにかく寝る,ということでした。
そんなこんなで,せっかくの青函連絡船の旅は,まさに悪夢と化して,酔ったこと以外に何も記憶がありません。それ以来,私には,「船旅=船酔い」というトラウマができ上りました。
しかし,いい経験をしました。今は青函連絡船もなくなりましたが,私には,青函連絡船に乗ったことが懐かしい記憶としてきざみこまれたからです。

青函連絡船は,私が利用したのち,10年も経たずして,1988年(昭和63年)に通常運航が終了しました。八甲田丸はその後,さまざまな経緯をたどり,今は,青森港で余生を送っているのです。私が当時乗ったのが八甲田丸だったのかどうかはわかりませんんが,当時を懐かしむには十分でした。
船内はもっと往年のままなのかと期待したのですが,残念ながら,そうではありませんでした。
今は,北海道は飛行機であっという間ですが,もし,今,青函連絡船が運行されていたら載ってみたいものだと思ったことでした。
当時の私は,やっとの思いで到着した青森駅から上野駅まで,これもまた,念願だった寝台特急「ゆうづる」に乗ったのですが,この日,青森駅には,寝台特急「カシオペア」が停まっていました。

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私が小学校のころに習った歴史では,縄文時代は,稲作が普及する以前の狩りをしていた時代で,定住することなく,生活は不安定。やがて,静岡県の登呂遺跡に代表される弥生時代になると,稲作が普及して,人は定住するようになった,というものでした。しかし,その後,多くの遺跡が見つかることで,そうした定説は覆ることとなりました。
学校の教科ではその時代に正しいとされていることを学ぶのですが,今から考えると,正しいとされていたことの多くは正しくなかったし,わからないことはわからないと教えるべきだと今では思うようになりました。
やがて,弥生時代の遺跡として,佐賀県の吉野ケ里遺跡が見つかり,私もそこに行ったことがあります。また,縄文時代の遺跡も,全国各地に見つかるようになりました。その代表的な存在が,三内丸山遺跡ということだけは知っていたのですが,まさか,行くことができるとは思いませんでしたが,今回,青森県を旅することになって,ぜひ,行ってみたいと期待しました。

実際行ってみると,三内丸山遺跡が青森市街にとても近いことに私は驚きました。また,思った以上に多くの人が訪れていました。
  ・・・・・・
三内丸山遺跡は縄文時代前期中頃から中期末葉,今から約5,900年前から4,200年前の大規模集落跡です。
この地に遺跡が存在することは江戸時代から知られていて,1623年(元和9年)に多量の土偶が出土したこと,1796年(寛政8年),瓦や甕,土偶のような破片が見つかったことが記録されていました。 新しい県営野球場を建設するために,1992年(平成4年)から事前調査が行われると,この遺跡が大規模な集落跡とみられることがわかり,1994年(平成6年)には直径約1メートルの栗の柱が6本見つかり,大型建物の跡とも考えられたので,県は野球場建設を中止し,遺跡の保存を決定しました。
  ・・・・・・
ということです。
吉野ケ里遺跡は国の施設です。以前行ったときに,県の施設から国の施設になってずいぶんと予算がついたと聞いたので,三内丸山遺跡についても聞いてみると,ここは県の施設,ということだったのですが,それにしては豪華なことに私は驚きました。
縄文時代は,私が学校で習ったころに覚えたよりもずっと昔の1万年前までさかのぼり,そんなころから人がこうした営みを紀元後以上の長い間続けていたことを知りました。また,エジプト文明よりもずっと昔の話です。
縄文時代は身分の差もなく,争いもなく,おそらく,人類が幸せだったのはこの時代だったのかな,と思いました。

三内丸山遺跡にはレストランや土産物屋さんもありました。遺跡を見学したあと,私はレストランで「五千年の星」なるデザートを食べました。時刻はお昼だったので,ここでお昼を食べてもよかったのですが,朝,民宿でもらったおにぎりがことのほか大きくて,これを遺跡に入る前に駐車場に停めた車の中で食べて,それがおいしくて,お腹が一杯だったのです。

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昨日来た道を戻って,私は,五所川原市を目指しています。
青森県の西海岸に沿ってあるのが深浦町(ふかうらまち)です。多くの人にとって,こんな場所はあえて行こうと思わなけれ無縁のところでしょう。私もそうでした。しかし,それは認識不足で,このあたり風光明媚なすばらしいところでした。
  ・・・・・・
深浦町は江戸時代,北前船の風待ち湊として栄え,大阪や京都などからの文化導入の表玄関として発展し,神社仏閣や信仰の対象として大切にされてきた数多くの巨木など,多くの文化財が散在しています。 また,白神山地や,西に広がる夕陽が美しい海岸線,十二湖など、豊かな自然が魅力的です。
  ・・・・・・
と,深浦町の観光案内にありました。

ところで,私の大好物はリンゴです。
途中で,「日本最古のりんごの木」という道路標示があったので,寄ってみることにしました。というか,日ごろお世話になっているリンゴだから,私は寄ってみなければならないと思いました。
  ・・・・・・
「日本最古のりんごの木」は,1878年(明治11年)に栽植された柏桑野木田のリンゴ畑に生育している,セイヨウリンゴの「紅絞」(べにしぼり)2本と「祝」(いわい)1本です。当時この畑を所有していた古坂乙吉が弘前の菊池三郎から苗木を譲り受けたものです。それぞれの主幹は,幹囲1.88メートル,樹高は「紅絞」が約6メートルと約5メートル,「祝」は約4メートル。
1867年(慶応3年),蕃書調所にアメリカからいろいろな果物が送られてきました。当時,博物学や農学、園芸学などの多方面において活躍した田中芳男がそれらの果物を試食したところ「アップル」が見た目も味もよかったので,この果物を日本に移植することを発案,セイヨウリンゴとよばれるようになりました。
それまでの在来種のワリンゴは,平安時代末期から室町時代に中国から移入されたものでしたが,小さくて酸味が強い上に硬くて渋みもあったので,セイヨウリンゴに駆逐されてしまいました。
  ・・
1871年(明治4年),内務省勧業寮からセイヨウリンゴの苗木30本が青森県に配布され,セイヨウリンゴの栽培がはじまりました。りんごの病害虫が大発生したりしましたが,試行錯誤を重ねた上,青森県の気候風土に合う優良品種7種を推奨し、「紅絞」と「祝」もその中に入っていました。
  ・・・・・・
「日本最古のりんごの木」は今も立派な実をつけます。収穫したリンゴは一般向けに販売され,一部は「長寿りんご」としてつがる市内の老人福祉施設に毎年寄贈され続けているそうです。私もいつか食べてみたいものです。
青森県を走っていると,まわりはリンゴ畑ばかりで,リンゴ好きの私にはうらやましい限りでした。

そうこうするうちに五所川原市に到着し,市街地を抜け,さらに行ったところに,太宰治記念館「斜陽館」がありました。
今のことはわかりませんが,私が若いころは,太宰治の熱烈なファンは少なくありませんでした。しかし,私は特に太宰治に想い入れがあるわけではありませんし,ファンでもありません。読んだことがある小説といっても,「走れメロス」とか「人間失格」といった学校で習うものくらいです。しかし,なぜか気になるのです。というか,意識しちゃうのです。そうだ,以前,「富獄百景」にちなんだ天下茶屋にもわざわざ足を運んだことがあるのでした。
私は,太宰治に限らず,小説というもの自体があまりよくわからないのですが,なぜか,日本各地を旅したとき,その土地にゆかりのある作家の記念館などを訪ねることがよくあって,そしてまた,そういう場所の雰囲気が好きです。自分が賢くなったような気がするのです。
で,キチンと読んだこともないのに,「太宰治=津軽=さびしいところ」というイメージが私には出来上がっていたのですが,まさか,「斜陽館」に行くことがあるとは思ってもいませんでした。このごろは,そんな場所ばかりです。ここは,もっと寂れた場所だと思っていたので,街中の豪邸であるのに驚きました。きっと,雪の深い冬に来ればイメージも異なったことでしょう。
館内でいろいろな説明を聞き,くまなく見学をして,最後に,太宰治愛用のマントを着て写真を写し,すっかり太宰治きどりになった私は,まさに「人間失格」なのでした。
  ・・・・・・
金木は,私の生れた町である。津軽平野のほぼ中央に位し,人口五,六千の,これといふ特徴もないが,どこやら都会ふうにちよつと気取つた町である。善く言へば,水のやうに淡泊であり,悪く言へば,底の浅い見栄坊の町といふ事になつてゐるやうである。
  太宰治「津軽」
  ・・・・・・

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この旅の3日目,2023年5月20日です。
青森県は東側は太平洋に面し,西側は日本海に面しているので,かどうかは知りませんが,東側と西側では天気がずいぶんと違うようです。この旅では1日目は晴天,2日目は午前中は曇り,その後,少し天気が崩れましたが,天気は東に行くほど悪かったらしく,私は西に向かって行ったので,深浦町に着くころは雲が切れて,太陽も見えました。
そして,3日目は,東側は回復が遅れるけれど,西側の深浦町は朝から快晴,ということでした。
朝早く民宿をチェックアウトして,まず,十二湖に向かいました。
その途中,昨日案内してもらった森山海岸を美しく見ることができました。

青森県で有名なのは十三湖です。私も,帰ってから,十二湖に行ってきた,というと,十三湖ではないの? と聞かれました。
十三湖,または十三湊の名称の由来は,日本海と湖の間にある砂州に13の集落があった,とか,13の川が流入している,とか,アイヌ語で「湖の傍ら」を意味する「トー・サㇺ」に由来する,とかで,13の湖があるということではありません。
十二湖は十三湖とはまったくの無縁ですが,十二湖のほうは,たくさんの湖があることからその名があるようです。
  ・・・・・・
十二湖は深浦町にある複数の湖の総称で,白神山地の一角,津軽国定公園内にあります。
十二湖を構成する湖は,1704年の能代地震による標高940メートルの崩山(くずれやま)の崩壊で塞き止められた川から形成されたのではないかと推定されています。
十二湖という名称は,広大なブナの森に点在する33の湖沼が標高694メートルの大崩から見ると12個に見えるということに由来するといわれているようですが,実際は,湖の総数は33あり,1922年(大正11年)にこの地を訪れた十和田湖と奥入瀬を愛した高知県出身の詩人・大町桂月は,「日暮し山の眺望,湖畔群の幽闇,紅葉の残照など,十二湖は天下の奇観である。他日,必ず天下にその名を知られるであろう」といい,「山の中 三十三湖 紅葉かな」という句を詠んだそうです。
  ・・・・・・

十二湖の登リ口に日本キャニオンがあります。これは,浸食崩壊によって凝灰岩の白い岩肌がむき出しになったU字谷大断崖で,アメリカのグランドキャニオンにヒントを得て命名されたものだそうです。
  ・・・・・・
1953年(昭和28年),十二湖が県立自然公園に指定された際に訪れた国立公園審議委員の探検家・岸衛がグランドキャニオンと対比し「な~んだ,ベビーキャニオンじゃないか」と言ったことから岩崎村役場で「日本キャニオン」と命名したのが由来です。それまで,地元では「日暮山」とよばれていました。また,大町桂月も日暮山の眺望と詠んでいます。「日暮らし」とは,眺望が優れた場所を意味します。
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下からと上からと見ることができると,昨日,民宿の親父さんから聞いたのですが,下からみようと入って行った道なき道で私は道に迷い,見ることができませんでした。
上からは駐車場に車をとめて500メートルほど登ったところに展望台があって,そこから眺めることができました。
私は,当然,アメリカのグランドキャニオンに行ったことがあるのですが,それと比べちゃいけねえよ,というのが感想でした。

十二湖は周回道路があって,そのいくつかの湖を車の中から見ることができました。散策できる遊歩道もあるのですが,それらの多くは,昨年の豪雨の影響で通行禁止となっていました。
アメリカの国立公園にあるようなビジターセンターや白神十二湖エコ・ミュージアムがあったり,また,訪れている人も少なく,観光地化されておらず,静寂に包まれているところなので,ゆっくり風景を楽しむにはいいところかもしれません。
十二湖で,もっと時間をとってみたかったのですが,私は,この日は五所川原市にある太宰治記念館「斜陽館」や青森市の三内丸山遺跡に行こうと思っていたので,それほどの余裕はなく,早々に引き上げました。

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民宿の周辺を案内してもらって帰ってくると夕食の準備ができていました。この民宿は2階に5部屋くらいあって,したがって,食堂もかなり広かったのですが,今晩宿泊するのは幸い私ひとりでした。
この日もまた,地酒を注文しました。
日本の旅は,温泉と食事と地酒に限ります。これだけは,いかなる海外旅行よりも楽しいものだと,私は,このごろやっと知りました。
地酒は鰺ヶ沢町にある尾崎酒造の「ブナの白神」でした。
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蔵の目の前には日本海を臨み,後ろには荘厳な岩木山。そして,神々しい白神山地。
そのような自然豊かな地で,1860年(万延元年)より地域に根差した酒造り生業とし, 現在に至ります。 酒造りとしては「華想い」や「華さやか」といった県産米を多く使用し,酵母も同 じく青森県で造られた酵母を多く使用し,特に仕込み水に至っては「世界自然遺産  白神山地」の伏流水をふんだんに使い仕込を行っています。しっかりとした味わ いが特徴的な辛口タイプのお酒を製造しています。
  ・・・・・・
ということでした。
私はまだまだ修行が足らないので,お酒の味についてコメントができないのが残念です。

さて,夕食ですが,何というボリュームなのでしょう。これがまた,この民宿の評価を高める理由なのですが,それにしても,正直,気が遠くなりました。ご飯も食べ放題だったのですが,私は,極力ご飯を食べずに,完食を目指すことにしました。
しかも,これで終わりではなく,さらに,魚が2匹,次々に出てきました。
とてもおいしかったのですが,食べ終えるのがたいへんでした。しかし,完食しました!
宿の感想の書き込み帳ががあったのですが,食べきれずにごめんなさい,朝食は少なめにお願いします,というものが多かったので,宿泊者はみな,悪戦苦闘しているようでした。

さて,翌朝です。
朝食は,覚悟を決めていたのですが,思ったほどのボリュームでなく安心しました。
さて,この日はこの旅の最終日。早々にチェックアウトをしたのですが,お昼にと,おにぎりを持たせてくれました。まさに,至れり尽くせりでした。

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私が想像していたこの民宿は,海岸に接していて,窓から夕日がきれいに見られるだろうということでした。しかし,実際は全く違いました。部屋も狭く布団も堅く,窓からは古い部落の建物が見られるだけで,一体,どうしてここが評判がいいのか,まったくの謎になってしまいました。この時点では。
昨年行った四国の祖谷観光旅館も同じようなものでしたが,そこは,かずら橋に最も近いところで,ライトアップなどを歩いて見にいくことができたという地の利がありました。

私の評価が急転したのはここからです。
お風呂から出て,夕食までのんびりしていると,声がかかりました。
夕食前に,宿の親父さんが付近を案内します,と言って,車に乗るように薦めました。一見とっつきにくそうな親父さんだったのですが,実際は親切心に溢れ,また,郷土愛いっぱいの人で,この地を知ってほしいという気持ちが体中にみなぎっていました。
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車で少し行ったところに,森山海岸という夕日の美しい場所がありました。この日はあいにく晴天ではなかったのですが,雲の合間から幻想的な夕日を見ることができました。また,海岸に沿ってJR五能線が走っているのですが,そこに見えたJR五能線のトンネルが,何でも,日本一短いトンネル,という話でした。家に帰って調べたら,正しく,日本一ではなく,JR東日本一だそうですが。
  ・・・・・・
青森県深浦町のJR五能線,全長9.5メートルの仙北岩トンネルは,JR東日本で一番短いトンネルで,日本海に面する美しい景色を売りに脚光を浴びつつあります。
JR五能線を管轄するJR東日本秋田支社によると,仙北岩トンネルは,陸奥岩崎と十二湖間で1931年(昭和6年)に海に突き出た岩壁を掘って造られました。2両編成だと通り抜けるまでわずか5秒足らずです。同じ車両の前後がトンネル両端から顔を出し,白い岩肌を「串刺し」にする光景を近くの海岸から楽しめるとあって,しばしば鉄道ファンが撮影に訪れます。
日本海沿岸を走るJR五能線は,ローカル線の風情が色濃く残り,ファンの多い路線です。秋田支社は新たなスポットの登場に「地元と一緒に情報発信をしながら観光振興につなげたい」と意気込んでいます。
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と新聞記事にありました。

また,ここは,2008年に放送されたNHKテレビドラマ「感染爆発〜パンデミック・フルー」のロケ地だったそうです。
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「感染爆発〜パンデミック・フルー」は,2008年1月12日に,NHK総合テレビのドキュメンタリー番組「NHKスペシャル~最強ウイルス」シリーズの第1夜として制作・放送されたテレビドラマです。
日本海に面する与田村(架空の村)で「H5NI型」とよばれる新型インフルエンザが相次いで確認されました。政府は村を徹底的に封じ込めて根絶を図ろうするのですが。信じられないスピードでウイルスが東京中に蔓延し,感染者・死者は数万人に上る勢いとなってしまいました。
このような状態の中,あるひとりの医師が自分の病院でウイルスに感染した患者達を受け入れることを決めます。
  ・・・・・・
という内容だったそうですが,これが現実となってしまったのは,その12年後のことでした。
与田村という架空の設定だったのですが,ロケをしたのが私が泊まった民宿のある村で,当時,民宿にはNHKのスタッフが宿泊したそうです。
この話が12年後に現実となってしまったと,新聞に取り上げられたそうです。

さらに,ドラマ「砂の器」でも,この地がロケ地となったということです。
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深浦町の森山海岸の小さな岬の上に「賽の河原」があります。
JR五能線の十二湖駅から車で2分から3分,国道101号線を北に走り、国道からそれてJR五能線を超えて岬の根元に駐車して、山道を5分ほど歩くと「賽の河原」に到達します。
岬の先端に位置する「賽の河原」は,慈覚大師が開いたとの伝承や言い伝えが残る民間信仰の地で,現在でも数多くの小石を積んだ供養塔が建立され信仰の篤さが感じられます。
 珍しい,海を見下ろす「賽の河原」は,TBSのドラマで放映された「砂の器」のロケ地にもなったそうで,冬場なら実に荒涼とした風景になるところです。
  ・・・・・・
これらに加えて,森山海岸にある象岩は,NHKBSPで放送している「にっぽん縦断こころ旅」で火野正平さんが手紙を読んだ場所です。私もその番組は見ました。
このように,以前行った佐渡島もそうだったし,ずっと前に行ったアイダホ州の村井牧場もそうだったけれど,私が旅に行って宿泊するところは,映画やㇻドラマのロケ地だった,みたいな話ばかりです。私がそうした場所ばかりを旅しているからなのかもしれませんが,何か不思議な気がします。

このあと,さらに,明日行ってくるといいよ,と言って,十二湖の観光の仕方までレクチャーしてもらいました。
JR五能線の十二湖駅の近くに祠があって,何でも,その祠は,近くに住んでいた夫婦の旦那さんの浮気がばれて,奥さんが旦那さんの首を切り,その首が飛んだ場所だとかいう話でしたが,そんな話,家に帰ってから調べても,ネット上のどこにも載っていませんでした。
私は,この場所のことは何も調べず,森山海岸も十二湖も,その存在さえ知らずに予約したのですが,こんなおもしろいところだと,行ってはじめて知りました。
民宿の親父さん,こんなに親切だったのですが,ただひとつ問題がありました。それは,私に,親父さんの話す津軽弁が英語以上に難解だったことです。通訳がほしい,と思いました。

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この日の宿泊先は,深浦町森山海岸にある「民宿 汐ケ島」でした。もともとは,青森県2泊3日の旅というサイトに書かれてあった不老ふ死温泉に泊ろうと思って,楽天トラベルで探したのですが,見つからなかったので,その近くのどこか,という程度のいい加減な気持ちで予約したものでした。私は,森山海岸へ行く途中で不老ふ死温泉を通ったとき,ここだったのか,と思いました。帰宅してから調べてみると,不老ふ死温泉はすばらしいところに感じたので,惜しいことをしたと思いました。
しかし,私が泊まった民宿もまた,なかなかのものだったし,何といっても,森山海岸はとても不思議なところだったし,また,十二湖という,それまでまったく知らなかった観光地を知ることができたから,それはそれでよかったのです。
今回の旅で,青森県は思っていた以上にすばらしいところだったから,私はリピートする気満々なので,次回は,ぜひ,不老ふ死温泉に宿泊しようと,今から狙っています。

さて,今回,私が向かっている民宿へ行く途中で,千畳敷海岸なる場所を通りました。千畳敷海岸は,1792年(寛政4年)の地震で隆起したと伝えられる海岸段丘面で,物珍しがった津軽藩の殿様がそこに千畳畳を敷かせ大宴会を開いたとされることからこの名がついたものということで,藩政時代は殿様専用の避暑地で庶民は近づけなかったといいます。
駐車場に車を停めて,少しだけ散策して見ました。
まず,おかしな形をしたカブト岩が目につきました。今日の1番目の写真がそれですが,このときは写真を撮らなかったので,この写真は,翌日,再びここに来たときに写したものです。カブト岩は,地元では,昔,あるサムライが刀で切り落としたものという伝説が伝わっているそうです。
また,私がそっくりだと思ったのは,ライオン岩でした。よくもまあ,こんなに似ている姿になったものです。

千畳敷海岸を出て,さらに南下をしていきました。
深浦町は,青森県の西海岸ですが,すばらしい景色がずっと続いていたところです。とはいえ,あまり知られていることもなく,おそらく,団体旅行ツアーもほとんど存在しないと思うので,かなりの穴場に違いありません。私はとても気に入りました。
そうこうしているうちに,秋田県の白神山地が見られるようになってきたころ,私が予約した民宿に到着しました。
ふつうの一軒家でした。こんなところに泊る人がいるのだろうか,とはじめは思ったほどだったのですが,昨日までは,付近の道路工事をしていた人たちが大勢泊まっていたとか。このあたり,昨年の夏の豪雨で,道路の多くの場所が今も復旧工事中でした。その工事も昨日で終わり,運よく,私が泊まった日は他に宿泊客がいませんでした。
とにもかくにも,夕食の前にひと風呂浴びることにしました。温泉でなかったことだけが残念でしたが,温泉は,昨日,酸ヶ湯温泉で,飽きるほど味わったので,吉とすることにします。
この民宿,ネットの口コミではえらく評判がよかったのですが,その理由が,このあと明らかになります。

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長勝寺から観光案内所まで戻ってきました。私が車を停めたのは,弘前市観光案内所の駐車場でした。
これで弘前市の観光を終えて,この日の宿泊先まで行くことにしたのです。しかし,観光案内所のあたりに気になる建物がいくつかあったので,弘前市を出発する前に入ってみることにしました。

弘前市の市街地には多くの洋館があるのですが,ひときわ変わった形をした洋館は,旧弘前市立図書館でした。これは,1906年(明治39年)に建てられ,1931年(昭和6年)まで市立図書館として利用されたものです。設計・施工は堀江佐吉で,木造洋風3階建て。八角形の双塔をもつルネッサンス様式を基調としながら,随所に和風様式が取り入れられているということでした。現在,一般に無料で公開されていて,1階は旧市立図書館の形態を復元し,当時の関係資料が展示してありました。また,2階には地方出版物や同人誌の紹介,ビデオによる文学碑めぐりのコーナーなどがありました。
その隣にあった洋館が旧東奥義塾(とうおうぎじゅく)外人教師館でした。旧東奥義塾外人教師館は,1903年(明治36年)弘前市立東奥義塾に招かれていた英語教師の宿舎として建設されたもので,木造2階建て。設計は,本間俊平とも堀江佐吉ともいわれています。キャンパスの移転に伴って,1987年(昭和62年)に市に寄贈され,ここもまた,一般公開されています。また,当時の街並みを再現したミニチュアが庭にありました。
最後に,観光案内所の隣にあった山車展示館に入りました。山車展示館は,1994年(平成6年)に建設されたもので,藩政時代から伝わる弘前市内各町会の山車を一堂に展示してありました。また,弘前ねぷたまつりの時に出陣する直径4メートルの「津軽剛情張大太鼓」も収納されていました。

さて,これで弘前市の観光を終えて,青森県の西海岸に向かいます。私がこの日宿泊するのは深浦町というところなのですが,そこがどういうところなのかはまったく知りませんでした。つまり,私は自分が宿泊する場所について知識もなく予約をしたのです。
先日,NHKBSPで「神様の木に会う~にっぽん巨樹の旅~」という番組が放送されていて,何となく見ていたのですが,その番組で日本一の大イチョウというものが紹介されていました。何でも,その大イチョウは青森県深浦町の「北金ケ沢の大イチョウ」だということを聞いて,私が泊まるところの近くだ,と驚きました。この番組は,2021年12月30日に初回放送された「神様の木に会う~にっぽん巨樹の旅~」の第4話の再放送だったのですが,それで,今回,ぜひ見たいと思っていました。
  ・・
「北金ケ沢の大銀杏」に行く途中で目についたのが「関の甕杉」という案内標示でした。
「関の甕杉」は深浦町関に位置する大杉で,推定樹齢1,000年以上,樹高30メートル,幹周り8.2メートル,という巨木でした。中世にこの一帯を支配した安東氏の内紛で戦死した霊を弔うために植樹されたと伝えられているもので,杉自体が神格化され「神杉」から「甕杉」,または,遠くから眺めると水甕の形に似ていることなどが名前の由来になったといいます。
また,そのとなりには「関の古碑群」がありました。これは,1340年(暦応3年)から1401年(応永8年)までに時宗の信徒が建立した関集落周辺の石碑を「関の甕杉」の下に集めたもので,42基あります。この地は中世「阿曽米関」(あつまえせき)とよばれる関所があったと推定される地域で,鎌倉末期に津軽大乱の戦場になったとの伝承もあります。
このあたりには,大イチョウのほかにも不思議なものが存在するものだと思いました。

「関の甕杉」を見てから,「北金ヶ沢の大イチョウ」を目指しました。迷うこともなく,案内標示を見つけました。目的地に着きました。少し離れたところに広い駐車場があったのですが,停まっていた車は私の車以外には1台だけでした。
  ・・・・・・
「北金ヶ沢の大イチョウ」は深浦町北金ケ沢塩見形に位置する大木で,推定樹齢1,000年以上,樹高31メートル,幹周りは22メートルもあります。
伝説によると,この地は,飛鳥時代の7世紀中ごろに,越国守・後将軍・大宰帥を歴任した武将で,658年(斉明天皇4年)に蝦夷に侵攻し比羅夫に従った蝦夷の首領のひとりだった安倍比羅夫が勧請した神社の境内で,創建した際にイチョウの苗が植えられたと伝えられています。
「北金ヶ沢の大イチョウ」には数多くの気根・乳垂があることから、赤子をもった母親の母乳の出がよくなると信仰され,「垂乳根の公孫樹」(たらちねのいちょう)とよばれるようになりました。周囲には多くの小祠や石仏が建立され,気根に御神酒と御米を奉納し祈願する風習は昭和50年代まで見かけたとされます。
  ・・・・・・
あまりに大きくて,全体を写真に入れるのに苦労しました。
大イチョウのとなりにJR五能線の線路があったので,列車と一緒に写真に収められたらいいなあ,と思ったのですが,2時間に1本程度しか走っていないので,それはムリな話でした。

その翌日。
私は,深浦町の民宿に泊まって,再びここまで戻ってきました。その途中で,何とJR五能線を走る列車を見ました。JR五能線の線路は国道101号線に沿っているのですが,列車は駅に停まるから車の方が若干早く,「北金ヶ沢の大イチョウ」のあたりで待っていれば,列車と大イチョウを一緒に写真に収められるのでは,と思いました。
それが,今日の1番目の写真です。

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弘前城から南西の場所に,多くの寺が集まった場所,禅林街がありました。
ここは寺町。2代藩主津軽信枚が弘前城の南西,風水でいう裏鬼門の方角の砦として,1610年に津軽一円の曹洞宗三十三か寺を集めたものです。
私は,弘前城から歩いて行ってのですが,けっこうな距離がありました。
寺町の入口には黒門と称する門がありました。
行ってみて驚いたのは,江戸時代に植えられたという杉並木が奥までずっと続いていた不思議な光景でした。観光案内所で,長勝寺だけは公開されているといわれたので,そこまで行ってみようと思いましたが,長勝寺は杉並木の一番奥にありました。
行ってみてはじめて知ったのですが,長勝寺は曹洞宗で津軽家の菩提寺で,1528年(大永8年)に鰺ヶ沢町に建立されたものを,1610年(慶長15年)に弘前城築城とともに現在地に移したのです。三門が境内を見守り,境内には鎌倉時代の梵鐘,歴代藩主や奥方の霊廟,本堂,庫裡などが並んでいました。
しかし,何か寂しげ。しかも,寂れた感がありました。ここでもまた,津軽家は尊敬されていないような感じがしました。

  ・・・・・・
南部家家臣の大浦為信(おおうらためのぶ)が戦国時代後期に南部家の内紛に乗じて津軽地方を統一し, 豊臣秀吉の小田原攻めに参陣,本領安堵のお墨つきを貰って独立して津軽為信と改名し弘前藩の初代藩主となりました。
津軽為信はしたたかで,関ヶ原の戦いでは,自身は東軍につき,息子は西軍に属させて,どちらか一方が生き残って家名を絶やさないということをしました。
その一方で,家臣に裏切られた南部氏は津軽氏のことを快くは思っていませんでした。
津軽氏の独立から200年以上が過ぎた1821年(文政4年),南部盛岡藩士の下斗米秀之進(しもどまいひでのしん=相馬大作)らが,江戸から帰国途中の9代藩主津軽寧親(やすちか)を狙撃する事件を起こしたのです(相馬大作事件)。
  ・・・・・・
現在でも,青森県の南部地方と津軽地方の人間はソリが合わないのは,このような歴史の因縁が原因です。
津軽藩の石高は4万6千石。4代藩主津軽信政(のぶまさ)による新田開発で実質の石高は30万石近くあったといわれていますが,凶作が続き,藩士1,000人の大リストラを断行するなど,弘前藩は江戸時代を通してたびたび冷害・地震・津波・洪水といった天災に見舞われ、経済的に追いつめられることも多かったのです。
北辺の地は,ひとたび飢饉に見舞われると,藩の財政は奈落の底に突き落とされます。
コメは上方で現金化されていたから,いわば「コメ=現金」であり,コメが採れないとお金だけを借りることになるから,借金だけが増えて,財政が破綻してしまうのです。
そのようなわけで,天明の大飢饉では,飢饉にもかかわらず領民に米を回すことができず,領内で8万人の死者を出しました。津軽家の殿様は,石高を優先した政治を行ったために,相次ぐ飢饉によって,領民が不幸になっていったのです。
また,江戸時代末期には,異国船の来航などで蝦夷地の警備を任され,さらなる経済負担を生みました。
このような状況で,津軽藩は幕末を迎えましたが,戊辰戦争では,一度は奥羽越列藩同盟に属したもののすぐに脱退し,新政府軍側につきました。その結果,戦後に1万石が加増されたのですが,庄内藩や盛岡藩を敵にしたので,遺恨を残すことになりました。

司馬遼太郎さんが「街道をゆく」で次のように書いています。
  ・・・・・・
コメが,この藩の気候の上から危険な作物であるにもかかわらず ―西方の諸藩でさえ江戸中期以後,換金性の高い物産に力を入れはじめたというのに― コメに偏執し,相次ぐ新田の開発によって江戸中期には実高30万石をあげるにいたった。無理に無理をかさねた。
格式が高くなったぶんだけ江戸での経費がかさみ,農民の負担も重くなる。
コメ一辺倒政策の悲劇といっていい。
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私が購入した弘前城,弘前城植物園,藤田記念庭園の3施設共通券,弘前城の次に行ったのが,弘前城植物園でしたが,行く途中で見つけたのが日本一太いソメイヨシノ。これは環境省が実施している全国巨樹巨木林調査で日本最大幹周のソメイヨシノとされたものです。幹周は537センチメートル,樹高は10メートルです。少なくとも1901年(明治34年)には植栽されていたものと思われるので,推定樹齢は100年以上です。

1988年(昭和63年)に弘前公園三の丸の一角に開園した,面積7.65ヘクタール,1,500種124,000本の草木がある弘前城植物園は,弘前城内南東を囲う形となっていて,出入口は南案内所(追手門側)と北案内所(東門側)のふたつがあります。私は北案内所(東門側)に着きました。
入口からまっすぐに歩いて行くと,右手にボタン園がありました。さらに進むと年内中央に花時計がありました。1975年(昭和50年)製作のものです。そこを右手に折れると南案内所があって,その右手側白神山地生態園がありました。気軽に白神山地を観光できるようにと整備されたもので,156本のブナがあります。白神山地生態園を抜けて,植物園の端を回り込むと,大石武学流庭園が園内の南東にありました。
植物園は私以外にほとんど人がおらず,静寂が保たれていました。この時期は花も少なく,観光客は素通りするようでした。

弘前城植物園をでて,藤田記念庭園に向かいました。
藤田記念公園は弘前公園に隣接し,弘前市出身の藤田謙一氏が1921年(大正10年)に別邸を構える際に東京から庭師を招いてつくらせた江戸風な景趣の庭園で,その後弘前市が市政施行百周年記念事業として整備し,平成3年に開園しました。総面積は約21,800平方メートルあって,東北地方では平泉毛越寺庭園に次ぐ大規模な庭園ということです。
ちょうどお昼だったので,きっとレストランがあるだろうと期待したのですが,ありました。それが「クラフト&和カフェ匠館」でした。建物は藤田謙一氏が建てた岩木山麓開発事業の事務所の倉庫で,これまで弘前市内から出土した遺物を中心に展示していた考古館でしたが,新たな観光拠点としてリニューアルオープンしたのものだそうですます。和をテーマにした喫茶スペースで,おばんざい定食を食べることができました。

昼食を終えて,園内を歩きました。
高さ13メートルの崖地をはさんで高台部と低地部にわかれていて,高台部は岩木山を眺望する借景式庭園で,洋館・和館・匠館が建ちならんでいました。また,低地部は池泉廻遊式庭園で,散策しながらハナショウブ,ツツジの群落,滝などの景趣の変化を楽しむことができるということですが,この時期は花がほとんど咲いていなかったのが残念でした。
ほとんど観光客もおらず,静かで豊かな時間が流れていきました。

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藤井聡太新名人誕生。
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弘前城を出て,そのあとは,観光案内所でもらった地図に従って,弘前城下を歩くことにしました。曇っていても,雨は降っておらず助かりました。
弘前城の北門(亀甲門)を出たところにあるのが石場家住宅でした。ここは江戸時代中期の建物で津軽地方の数少ない商家の遺構です。
さらに進むと弘前市仲町(なかちょう)伝統的建造物群保存地区となります。かつて武家屋敷が並んでいたところで,武家住宅や表門が点在し,サワラ生垣や板塀などがつくる江戸時代の敷地割りを今に伝えています。西側を閉鎖的に東側を開放的に作られているのは,岩木山からの西風や西日を避ける工夫です。4軒の住居が公開されていて,その中で,私は旧岩田家住宅を見学しました。

弘前城の東の端まで戻ってくると,そこにあったのが「津軽藩ねぷた村」でした。この観光施設では,弘前の夏の夜を彩る弘前ねぷたまつりや,津軽の民芸品,津軽三味線の生演奏,庭園などを見学することができます。私が入った時間は,ちょうど津軽三味線の生演奏がはじまった時間で,その迫力に感動しました。何事も生演奏はすごいものです。
建物を出たところにある広い庭は「揚亀園」といいます。明治時代の後期に小幡亭樹によって作庭された「大石武学流」の庭園だそうです。
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「大石武学流」と称される作庭流派の発祥は全く不明で,この地方の伝統的作庭の唯一の古典的手法となるものだそうです。 津軽地方における作庭の遺構で最も古いものは弘前城の三之丸のものとされています。この庭は,藩の「庭園守護職」であった山鹿八郎左衛門が関与したものと考えられていて,山鹿家が兵学の家でもあったことから「武学」の名がついたのでは,といわれています。ただし,大石武学という人物が実在したかどうは根拠が薄弱だそうです。
また,弘前市の瑞楽園に大石武学流と作庭者が明記したものが残されているということです。
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小堀遠州作の庭がブランド化されているのとおなじようなものでしょう。

私は,弘前城に入ったときに3施設共通券というものを購入しました。3施設というのは,弘前城,弘前城植物園,藤田記念庭園です。そこで,「津軽藩ねぷた村」を見た次に,私は,これらの施設で,すでに弘前城は見学したので,それ以外の2つの施設を見にいくことにしました。
弘前城植物園は弘前城の中にあるので,再び弘前城に向かって堀に沿って歩いていくと,サギの置物が松の枝に停まっているのが見えました。人の気配を感じると飛び立つのに,びくともしないから,置物かと思ったのです。しかし,観察していると,首が動くので,どうやら生きているようでした。
これほど警戒心のないサギ,私の家の近くにはいません。何かとても愉快になりました。

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