しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

July 2023

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2023年7月8日,3日目。博多駅前のビジネスホテルに1泊して,次の日は柳川市に行くことにしていました。
柳川市に行きたいと思って福岡市まで来たのですが,福岡市から柳川市に行く方法を知らなかったというのがいい加減なところです。どうにでもなるわさ,と思っていた,というか,JR博多駅から列車に乗れば行くことができるものだと思いこんでいました。
直前になって調べてみると,柳川市に行くには,西鉄に乗るということがわかりました。私が宿泊しているJR博多駅近くのビジネスホテルからは,まずバスに乗って薬院というところまで行って,そこで西鉄に乗るとGoogleMaps がいうので,それを信じることにしました。西鉄の始発は西鉄福岡(天神)という名前の駅,この駅は天神とよばれる福岡市の繁華街にあるそうで,その次の駅が薬院でした。

なお,西鉄福岡(天神)駅は,もともとは福岡駅,そして,西鉄福岡駅といっていたらしいのですが,まぎらわしいということで改称されたもので,天神がカッコづけされているのは,単に天神という名前にすると,大宰府天満宮とまちがえやすいから,また,福岡ではどこか漠然としていてわからないから,というような憶測があるようです。
また,天神という場所に行くにも,福岡地下鉄には空港線の天神駅と七隈線の天神南駅,そして,西鉄の西鉄福岡(天神)駅があって,それらは離れているのですが,すべて地下街でつながっていました。しかし,そのことは,行ってみるまで,よそ者の私にはわからないのでした。
それにしても,どうして西鉄は天神が始発でJR博多駅とは接続していないか? それでは不便ではないか? と私には疑問でした。それは,たとえば,名古屋市で,JR名古屋駅から近鉄が接続しておらず,近鉄の始発はJR名古屋駅から地下鉄で2つめの栄にある,というようなものです。
そこで調べてみると,次のようにありました。
  ・・・・・・
【問】
西鉄福岡(天神)駅とJR博多駅はどうして離れているのでしょうか。地下駅を作って博多駅まで延ばせば博多の人達は便利になると思うのですが。
【回答】
博多駅は確かに九州の交通の中心ですが,行政・ビジネスの中心は昔から西鉄福岡駅のある天神です〈よ〉。(中略)つまり,博多駅(から新幹線)を利用する人は最初からJRを使うし,天神・中洲に用がある人は西鉄を使う。〈それだけの話です。〉
  ・・・・・
この回答で私が強調して記号をつけた〈よ〉と〈それだけの話です。〉という言葉に,よそ者はだまっていろ,的な傲慢さを感じるのは私だけでしょうか? こういうのは,地元の人には当たり前のことでも,よそ者には不便だし,わかりにくいのです。
実際は,福岡市が発展する以前の段階で,西鉄を博多駅まで延長する計画を立てなかった,その才覚がなかったというだけのことでしょう。それだけの話です。また,もし東京なら,西鉄を地下鉄に乗り入れすることでしょう。

後で調べてみたら,博多駅から天神に行くには地下鉄が通っていて,バスで薬院に行かずとも地下鉄に乗れば西鉄福岡(天神)駅に行くことはできたのです。また,薬院駅にも,以前は天神南駅が終点だった地下鉄七隈線がこの3月から博多駅まで延長になっていました。確かに,福岡市内は西鉄バスが頻繁に走っているからバスでも便利だったのですが,よそ者にとっては,一般に,どの町でも,バスというのはよくわからないので,できれば地下鉄を利用したくなるのです。
ともかく,私はバスで薬院に着いて,そこで西鉄の特急に乗り換えて柳川市に行くことができました。
とはいえ,この時点でもうひとつ疑問だったのは,西鉄における特急というものの存在でした。というのも,私鉄によって特急の意味が異なっていて,私は,特急といえば,JRや近鉄のように,特急は特急券がいる特別豪華な車両といったような印象をもつのです。
西鉄における特急は,東京の京王も京急も同様ですが,全席自由で特急料金も必要がないということでした。そのことさえ,よそ者にはわかりません。近鉄に限らず,小田急ロマンスカー,京成スカイライナーのように,別料金の発生しない特急なんて超レアだと思っている人種も大勢いるのです。
ともあれ,今回の旅で,福岡市の公共交通について,私はずいぶん詳しくなりました。

柳川市にある西鉄の駅は西鉄柳川駅といいます。薬院駅から西鉄に乗って,約1時間で西鉄柳川駅に着きました。
この日の宿泊するホテルが西鉄柳川駅の近くなので,まず,ホテルに行ってキャリーバッグを預けました。適当に旅をしていても,こういうことだけは抜かりがないのです。とはいえ,柳川市の観光の中心地がどこかすら知らなかったのです。
聞いてみると,西鉄柳川駅からはけっこう離れていて,そこまでは川下りの船に乗って行くのだとか。柳川市を観光するには川下り船が必須だなんて,うまいことできているなあ,と思いました。
私が柳川市に着いたときは雨は降っていなかったのですが,この日の天気予報では豪雨でした。聞いてみると,豪雨だろうと川下り船は運行するとかいう話だったので,一応,安心しました。
しかし,まだ到着したのが早すぎて,川下りの船は運航してなかったので,とりあえず,川下り船の運行がはじまるまで,近鉄柳川駅近くにあった三柱神社(みはしらじんじゃ)に行くことにしました。
  ・・・・・・
三柱神社は,「西国一の強者」と称された百戦錬磨の武将・初代柳河藩主であった立花宗茂,岳父の戸次道雪,そして,立花宗茂の室であった誾千代(ぎんちょ)の三神を祀ったことからこう称する神社です。雄大荘厳な風格の社殿と緑陰広がる三柱神社の境内は,水郷柳川の名所のひとつで,参道は直線300メートルもあり,春の大祭に流鏑馬が奉納されます。
1783年(天明3年),七代藩主の立花鑑通が柳河城内三の丸の長久寺境内に社を建立したのを起源とし,武神軍神,水利,干拓,開田,郷土繁栄の守護神でした。また,近年では,必勝,就職,再就職,復活の社として崇敬されています。
  ・・・・・・

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壱岐島から博多港に帰ってきました。
すでに書いたように,もともとは柳川市に行こうと思っていて,そのついでに博多の観光もしようと,3泊4日の予定で県営名古屋空港から福岡空港へ往復する航空券を買ったわけですが,そこにあとから,壱岐島を観光することを思い立って,ねじ込んだわけです。
しかし,もう少しきちんと予定を立てるべきでした。
まず問題だったのは,旅行をしたのが7月6日木曜日から7月9日日曜日だったのですが,こんな時期に旅行をするべきではなかったということでした。梅雨末期で,大雨が降る可能性が高く,さらに,蒸し暑かったからです。計画したときは結構忙しく,かつ,すずしい時期だったので,思いもよりませんでした。
ふたつ目は,週末に福岡市を観光するなんて,無謀な話でした。

私は,これまで数回福岡市に行ったことがあります。
はじめに行ったときは,これもまた今以上に何も知らず,偶然,博多どんたくのときで,予約もせずに行って,宿泊する場所がなくて困りました。
2度目は大相撲の九州場所のときだったのですが,このときもまた,千秋楽を見にいったので,その前日に福岡市の観光をしようと土曜日にホテルを探したのですが,まったく見つからず,しかたなく鳥栖市に泊りました。
ということで,私の頭には,「福岡市=ホテルがない」という図式ができ上っていたのですが,実際は,平日はそうでもないようです。
今回,福岡市に1泊したかったのは,中洲の屋台を見たかった,できれば,屋台で飲みたかったというのが理由でしたが,「福岡市=ホテルがない」ということだけは頭にあったので,早めに博多駅の近くにホテルは予約したからホテルを探すという点は大丈夫だったのですが,福岡市なんて名古屋市と同じくらいの規模だから東京とは違う,と思っていたのが,大いなる勘違いでした。
金曜日夜の中州は,渋谷のようなものすごい人出で最悪でした。ただし,私はまったく知らなかったのですが,もう数日遅かったら,今度は,それに加えて,博多祇園山笠の山舁きがはじまるし,世界水泳も開催されたから,それなら,もっと大変でした。
もし,また福岡市に行く機会があるのなら,今度は,しっかりと計画して,すずしいころの平日に行ってみたいと思います。

ところで,ここまで書いていて思い出したのですが,よそ者の私は,福岡というのか博多というのか,その違いがわかりません。空港は福岡空港だったし,港は博多港でした。また,JRは博多駅だし,西鉄は西鉄福岡(天神)駅です。福岡市はありますが博多市はありません。福岡県人は,福岡のことをさすとき博多とよぶことが多いそうです。
どうして福岡といったり博多といったりするのかという,福岡市に住んでいる人には当たり前のことであっても答えられません。大阪と梅田の違いと同じなのか?
そこで調べてみました。
  ・・・・・
「続日本紀」の中に博多大津という名称があるように,この地は,もともとは「博多」でした。
1600年(慶長5年)の関ヶ原合戦で,黒田長政が東軍の勝利に貢献したとして,筑前国を与えられ入国しました。当初は,以前からあった名島城を居城としましたが,手狭なことから新たな地に城を築き,黒田家ゆかりの地である備前国邑久郡福岡の名前を取って福岡城と名づけたことで「福岡藩」が立藩しました。これが「福岡」の起こりです。
それ以降,中洲を流れる那珂川を挟んで,東は「博多」西は「福岡」にわかれてよばれるようになりました。「川向こうの福岡城のあるところ」という感じでしょうか。
明治になって,「福岡藩」が福岡県となりましたが,県庁所在地の市名のほうは,博多市にするか福岡市にするか紛糾し,1票差で福岡市に決まりました。そして,博多市派の人々をなだめるために? 鉄道の駅は「博多」になりました。
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なお,「大阪」は,古くは浪速とよばれていた地に,蓮如が大坂御坊(=石山本願寺)を建立したことで大坂(オオザカ)という呼称ができたのですが,「坂」の字が「土に反る」ことから死を連想させるとして,江戸時代のころから「大阪」とも書くようになり,明治時代に定着したものです。
「梅田」は,JR大阪駅のある場所の地名のことなので,「博多」と「福岡」の違いとは少し意味が異なり,大阪の人が駅のある場所を「梅田にある駅」から梅田といっているわけなので,少し違います。

さて,博多港でジェットフォイルを降りてから,第1ターミナル前のバス停でずいぶんと待ちました。壱岐島からのジェットフォイルの到着時間とバスの時刻がまったく連動していないのが不思議でした。このくらいの利便性をはかってもいいのに,と思いました。
博多駅から博多港に来たときにも思ったのですが,博多港から船に乗るという観光客のことを,この町はまったく考えていないと感じました。
やっと来たバスに乗って,博多駅に戻り,博多駅近くに予約してあったビジネスホテルにチェックインしました。
私は,中洲の屋台で夕食を,と思っていたので,ホテルの部屋に荷物を置いて,再び出かけたのですが,思惑が外れました。とにかく,人多すぎで,屋台なんて入れたものではありませんでした。ならばと,屋台を断念して中洲の繁華街にある食堂で,と思ったのですが,中洲にあったのは,ものすごい数の風俗店と飲み屋ばかりでした。また,食事をしようと思っても,どこも満員だと断られました。
ものすごく暑かったので,仕方なく,少しだけ席があった,今どき,タバコの煙モウモウの飲み屋に入って1杯だけビールを飲み,その次に,なぜかお客さんのいなかったチェーン店のラーメン屋でなんとかおなかを満たして,早々にホテルに戻ることにしました。
私は人混みとタバコが嫌いです。また,せっかくラーメン屋に入ったので,博多ラーメンを注文するべきだったけれど,暑すぎてその気になりませんでした。
いったい,中洲まで何をしに来たのやら,と思いました。

ただし,博多祇園山笠は7月1日から開幕していて,合計14の飾り山が市内のさまざまなところで公開されていたから,絢爛豪華な「飾り山笠」をいくつか見物することができたのが幸いでした。
  ・・・・・・
山笠には「飾り山笠」と「舁き山笠」の2種類があります。
「飾り山笠」は,高さ約15メートルある鑑賞専用の山笠で,動くことはなく,期間中,決められた場所で毎日見ることができます。また,実際に担がれる「舁き山笠」は高さ3メートルほどです。
以前は「飾り山笠」と同じ高さでしたが,明治時代になって電線を切ってしまう問題が出てきたために,高さの低い山笠を「舁き山笠」として別につくるようになったということです。
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iki

これで1泊2日の壱岐島観光は終わりです。
帰りのジェットフォイルの出航時間は午後5時10分でした。1時間ほど早く郷ノ浦港について,かろうじて1台スペースがあった一般駐車場に車を停めました。壱岐島のレンタカーは,港には特に営業所もなく,返却するときには電話をするとかかれてあったので,決められた電話番号に電話をしたら,ガソリンスタンドで書いてもらった満タン証明書と車のキーをダッシュボードに入れておけばいい,と言われました。
のどかな島です。これで大丈夫かな,と思いましたが,島から逃げ出すこともできないから,それでいいのでしょう。
  ・・
ということで,こんな具合に車を返却? して,ターミナルに入ったのですが,すでに,ジェットフォイルを待っている人たちが結構いて混雑していました。そこで,ターミナルの2階にカフェがあるということだったので,カフェに入り,ケーキセットを注文して,時間を潰しました。
やがて,乗船の時間になったので,ジェットフォイルに乗り込み,1時間ほどで博多港に戻りました。

これが,今回の壱岐島旅行でした。
わざわざ行かないと絶対に行くことがないだろうと,勢いではじめた離島めぐりですが,これまで,石垣島,佐渡島,そして,今回の壱岐島と行きました。
飛行機で直接アクセスできた石垣島は,そこからさらに,小浜島や黒島,さらに,竹富島に行くのに船に乗ったし,佐渡島と壱岐島にはそれぞれ新潟港と博多港からジェットフォイルに乗ったりして,なんとなく離島というところへどうやって行くのか,離島はどういうようすか,ということがわかってきました。どこも似ているところもあり,また,違うところも大いにあるのですが,それにしても,離島へ行くには交通費がかかりすぎるのが難点です。たとえば,佐渡島の場合,県営名古屋空港からから新潟空港に行く費用と新潟港から佐渡島に行く費用がほとんど同じだし,今回も,福岡空港へ行く費用と博多港から壱岐島に行く費用があまり変わりませんでした。
それでも,私は観光だからいいとしても,島に住んでいたら,本土に行くのが大変です。これでは若い人は島から出て行ってしまうのも無理ありません。だから,どんどん過疎化してしまっています。
以前,アメリカ人の友人が,ハワイは観光旅行で行くにはいいところだけれど,住むのは島から出るのがたいへんだからいやだ,と言っていたのですが,日本の離島はハワイよりも狭いから,その比ではないです。
私はまだまだ行ったことがない離島がたくさんあります。来月,隠岐島に行くことだけは決まっていますが,果たして,この先も別の離島に行く気になるのかどうか? 今はまだ,種子島,五島列島など,気になっている離島はあるのですが…。

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おいしい昼食をとってから,私が壱岐島で最後に行ったのが渡良半島の「鬼の足跡」でした。
渡良半島の周辺は大草原になっていて驚きました。入口にゴルフ禁止という看板があって驚きましたが,まさに,ここはゴルフ場のようなところでした。
この大草原には遊歩道が整備されていて,ここを歩いて行くと海岸に出ます。そして,断崖絶壁で,まったく柵もありません。すぐに柵を作ったり,注意書きを書いた看板を設置して,景観を台なしにすることには懸命な日本にも,こんな無防備な場所があるなんて,信じられませんでした。ここは,まるで,以前に行ったアイスランドの海岸のようでした。

半島の先端に「鬼の足跡」とよばれている大穴がありました。穴の大きさは,直径53メートル,周囲110メートル,深さ13メートルで,玄武岩でできているそうです。「鬼の足跡」は洞窟から海水が侵食して天上が陥没したものだと思われます。
  ・・・・・・
昔々,デイという名前の鬼が朝鮮から対馬,壱岐と飛び石伝いにやって来ました。鯨がたくさん泳いでいるのを見て,デイは鯨をすくい捕るために,片足を辰の島に,もう片足をこの渡良の牧崎にまたがり,3頭の鯨をすくい捕りました。そのときできた穴が「鬼の足跡」です。
  ・・・・・・
また,海岸の右方に見えている台形の岩が「ゴリラ岩」です。右を向いて,とがった頭,くぼんだ目,笑っているようにも見える愛きょうのある口元。歯もあります。「ゴリラ岩」は黒崎半島「猿岩」と向かいあっているといわれています。「ゴリラ岩」,果たしてゴリラの横顔に見えるでしょうか? 
これだけ広く美しいところなのに,私以外に来ていたのはひとりの観光客だけでした。私が「ゴリラ岩」のある海の方をじっと見ているのをその人が不思議そうにしていたので,「ゴリラ岩」のことを話すと,その人は「ゴリラ岩」を知らなかったらしく,「確かに見える!」と感謝してくれました。

渡良半島には展望台もありました。展望台からは海の向こうに,大島、原島、長島が見渡せました。この3つの島を渡良三島(わたらみしま)といいます。長島と大島の間には珊瑚大橋が架けられています。
説明書きがあって,渡良三島は有人の島で,人口は,原島が130人程度,長島が160人程度,大島が190人程度。漁業がおもな産業で,郷ノ浦から1日に4便ほどの船が出ていると書かれてありました。
私は,有人の島だということに驚きました。
壱岐島は古くから流人の島で,江戸時代には,京都以西で罪を犯した者は,五島列島,壱岐島,天草諸島などに島流しにされたので,壱岐島には,毎年20人ほどが流され,200人から300人くらいの流人がいました。では,壱岐島で犯罪を犯した人はどうなるのでしょう? 今度は渡良三島に流されたのだそうです。
渡良三島は,私が沖縄の石垣島に行ったとき,そこから,小浜島や黒島に出かけたのですが,ちょうどそんな感じなのでしょうか。しかし,小浜島や黒島とは違って,渡良三島は観光の島ではないようです。到着しても,レンタサイクルもなければ,道路案内すらないそうです。でも,なぜか行ってみたい気がしました。かなりディープな話です。

また,渡良半島にはツインズビーチという,塩樽海水浴場と小水浜海水浴場があって,ふたつの海水浴場は遊歩道で結ばれています。壱岐島は東側は砂浜があり穏やか,西側は岩浜で波が荒い,と聞いていのですが,ここは西側にあるのにも関わらず,入り江となっていたので美しい砂浜があって,けっこうしゃれた海水浴場でした。しかし,ここもまた,だれもいませんでした。

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帰りのジェットフォイルは壱岐島の西側にある郷ノ浦港から出航します。出航時間は夕方なので,まだ時間が十分にあったのですが,郷ノ浦がどんなところかと,一度行ってみることにしました。
郷ノ浦は結構大きな港町でした。そこで,ここで昼食をとることにしました。どこかよい店がないかと町の中を走ってみましたが,なかなか駐車場が見つかりません。どこでも停められるような気もするのですが,そうもいきません。そのうちに,隣に駐車場をもった「三益寿司」というお寿司屋さんを見つけたので,そこに決めて,車を停めて,中に入りました。
昨日宿泊した民宿の食事が大したことなかったこともあり,贅沢をすることにしました。そこで,注文したのは海鮮丼でした。今,壱岐島では「赤ウニ」が旬,ということで,「赤ウニ」も目当てでした。
非常においしくいただきました。
  ・・・・・・
おいしい生ウニ! ですが,ウニは世界中に生息していて,900種類もあります。しかし,その中で食用とされているのは10種類程度だそうです。
北海道から東北で食べられているのは,「バフンウニ」「ムラサキウニ」の2種類です。
「バフンウニ」は 北海道や東北が産地で,トゲが短く,殻に入った見た目が馬糞に似ていることからこのように名づけられました。オレンジ色に近い濃い黄色です。濃厚で甘味が強いのが特徴です。
「ムラサキウニ」は利尻産・礼文島産が有名で,トゲは長く,殻に入った見た目が黒に近い紫色をしていることからこのように名づけられました。白色に近い淡い黄色で「白ウニ」ともよばれます。淡泊で上品な甘みが特徴です。
一方,壱岐島では,主に「ムラサキウニ」と幻のウニと呼ばれる「赤ウニ」が水揚げされます。4月中旬から10月中旬がウニの漁期で,島内に約300人いる海女・海士がウニを獲っています。芦辺町八幡地区では,約60人の海女が乱獲防止のためレオタードを着用したユニークな漁を行います。4月中旬から6月20日ごろが「ムラサキウニ」の旬の時期。7月から10月中が「赤ウニ」の時期とされています。
「赤ウニ」は特に九州沿岸,しかも西側に生息する温帯性のウニですが,水揚高は年々減少していて,九州外にはめったに出回ることがないことから、壱岐島では幻のウニとよばれています。
  ・・・・・・

食事の後,郷ノ浦の高台にある「春一番の塔」を見にいきました。
立春から春分の日にかけて、はじめて吹く風速8メートル以上の南風を春一番とよびますが,この春一番という気象用語は,壱岐島が発祥の地です。
  ・・・・・・
江戸時代,郷ノ浦の漁師達が月に1,2回,五島沖にある喜三郎曽根というところにタイの延縄漁に出かけていました。港を出るときは快晴でした。漁場に着いて延縄漁をはじめましたが,しばらくして南風が吹きはじめ,黒雲が南の水平線上に湧き上がってきました。それを見て,漁師のひとりが「春一だ」と叫びました。
漁師達は帰る用意をはじめましたが間に合わず,強烈な南風が海上を吹き荒れ,周りはおおしけになり,荒波が漁船におおいかぶさってきました。漁師達はなすすべもなく,船もろとも海中に沈んでいきました。遭難者の数は53人でした。
  ・・・・・・
壱岐島では,1987年(昭和62年),郷ノ浦港入り口のある元居公園内に記念碑の「春一番の塔」を建てました。塔の形は,江戸時代,壱岐島で利用されていた船をモデルにしたものです。
この遭難事故以後,船の形を萩の鶴江の型にしたり,広島の船の型にしたりと変えていったので,もともとあった壱岐島の漁船の型は残っていないといわれています。

郷ノ浦町に半城湾という大きな湾があり,その小さな入江の奥に長崎県内では分布の北限とされているアコウ樹があるというので,広い道を右折して,道なりに急な坂道を下り,見にいきました。アコウはクワ科イチジク属の亜熱帯高木で,幹周り4メートル,樹高13メートルありました。中国南部,台湾,琉球を通って,種が流れ着いてここで自生したものか,それとも誰かが植えたものかはわからないということです。 
幹の周囲から伸びた無数の気根は幹を伝い,幹と一体化しながら地面に届き,斜面の土をがっしりと掴んで立っていました。古い葉は,春になると落葉し、新しい葉が出てきます。 また,枝や幹に直径1センチメートルほどの大きさのイチジクに似た小さな実がなるということです。

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次に目指したのが,壱岐島の最南端でした。私が参考にしていた地図には,地名は初瀬とありました。
島の西海岸に沿って道路があったので,そこを走っていったのですが,ほとんど民家もなく,道路が続いてはいても,この先に何があるのだろう? と感じました。思ったよりも岬の先端は遠いなあ,と思いながら走っていると,以前行った,ハワイのモロカイ島やマウイ島の海岸沿いを走っていたころを思い出しました。ちょっと似ていました。
道の向こうから定期バスが来たのに驚きました。エッ! この先に人が住んでいるんだ,とびっくりしました。途中にバス停もあったのですが,こんなところでだれが乗るのだろうと思いました。バス停にあった時刻表を見てみたら,バスは1日に4便ほどだったから,バスに出会ったのも,かなりの偶然だったわけです。
驚いたことに,岬の先端に着いたら,かなり多くの民家がある漁港に突き当たりました。本当に,日本では,どんなところに行っても人が住んでいるんだなあ,と思いました。
壱岐島の最南端は,地図で見ると海豚の鼻に似ていることからイルカ鼻という名があるということです。集落の横壁には,高さ50メートルほどの鏡岳があって,その山頂に鏡岳神社あるそうです。祭神は,伊邪那美命(イザナミノミコト),速玉男命(ハヤタマオノミコト),事解男命(コトサカオノミコト)です。神社に行くには階段が320段もあるということだったので,私は行くのをやめました。なにせ,ものすごく蒸し暑かったし,いつ雨が降ってくるかわからない天気だったし。また,山頂に登っても,木々が茂っていて見晴らしはよくない,と聞きましたし…。と,これは登らなかったかった私の強がり,かな。

  ・・・・・・
昔,壱岐の柳田という村に,彦兵衛という信心深い農夫が住んでいました。 日ごろから豊前にある彦山大権現を信じていて,夫婦でお参りをしていました。
60歳に夫婦が彦山にお参りしたとき,夢の中でお告げがありました。
「自分は彦山権現である。お前たちは私を信じて何回もお参りしたので,私もその間ずっとお前たちを守ってきた。しかし,お前たちももう年だし,はるばる海を渡ってくるのも大変だろう。「初瀬の岩脈」の崖の途中に生えている松の木の枝に私と同体の鏡をかけておくので,その鏡をとって神殿を建て,鏡を奉納しそこにお参りすれば,彦山に参拝するのと同じである。よって,これからはいつでもお参りしたいときにそこにお参りするように」
彦兵衛夫婦は「初瀬の岩脈」の断崖に行ってみると,お告げのとおり,断崖の途中の松の木の小枝に鏡が輝いてかかっていました。そこで,その鏡をとり鏡岳に神殿を建て奉納しました。それ以来,この神社を鏡岳権現と呼ぶようになったということです。
  ・・・・・・
ということで,この集落の海岸沿いにあったのが「初瀬の岩脈」でした。高さが約41メートルもある「初瀬の岩脈」は,その対岸に,全体がよく見える展望台がありました。壱岐島のこんな場所に隠れた名所があったのです。
壱岐島は,火山活動が多い島だったことが最近の研究でわかってきました。古代には,壱岐島のあちらこちらで火山活動が盛んだったようです。「初瀬の岩脈」は,まず,1回目の火山によって,白っぽい流紋岩が噴き出しました。その後,2回目の火山活動で,地下から上がってきた玄武岩が最初にあった流紋岩の断崖を突き破り,ふたつに割いてしまいました。大きな玄武岩が大きな流紋岩を突き破ってこのような断崖になったということです。黒っぽく見える玄武岩の幅は20メートルから28メートルもあって壮観でした。

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2023年7月7日,壱岐島の2日目になりました。
1日目はとてもよい天気でしたが,2日目の天気予報は雨でした。しかし,思ったほどは降らず,まあまあの天気でした。
2日目は1日目に行くことができなかったところを回ろうと思って,気が向くままにあれこれと訪れたのですが,帰ってから地図を見ながら写してきた写真を調べてみると,何度も同じ道を北に南に東に西にと,文字通り右往左往していたので,場所の特定に困りました。
私らしくないです。要するに,計画不足だったのです。

この日はじめに行ったのは,勝本港で,今日こそ島めぐりをしようと思ったのですが,チケット売り場で雨模様で霧が出ていて何も見えないからやめたほうがいいよ,と言われて断念しました。本当に,昨日乗ればよかったのに,と後悔しました。
そこで,壱岐島の東側,1日目にジェットフォイルで到着した芦辺港の北の高台にある少弐公園に行きました。
竜神崎の一帯は元寇で激しい戦いがあった古戦場で,現在は少弐公園となっていて,とても見晴らしのよいところでした。また,少弐資時の石積みの墓がありました。
また,近くには壱岐護國神社があって,少弐資時が祭神として祀られています。少弐資時は,1274年(文永11年)の文永の役で12歳で初陣を果たし,1281年(弘安4年)の弘安の役で日本軍を率いて壱岐島を占領する東路軍との奮闘の末戦死しました。享年19歳でした。

次に,芦辺から,壱岐島の南東の海岸に行こうと走っていたら見つけたのが,安国寺でした。臨済宗の安国寺は,臨済宗で1番古い寺です。
元寇で壱岐島は壊滅的な被害を受けましたが,それに対して,鎌倉幕府は事後処理に追われ,何の援助もできませんでした。その後,足利尊氏,足利直義の兄弟は,足利氏の天下統一の威信を示すために,臨済宗の夢窓礎石の勧めによって,北海道と沖縄を除く全国66か国と壱岐,対馬の2島に利生塔と安国寺建立を命じました。しかし,壱岐島では財政的に苦しく,寺を建てる余裕がなかったので,すでにあった老松山安国海印寺を拡張,修理して安国寺にしました。
二重の瓦葺きの屋根のある仏殿はこれまで何回か火災で焼失し,現在あるのは江戸時代に再建されたものです。また,本尊は延命地蔵菩薩(えんめいじぞうぼさつ)で,室町時代の作だそうです。
境内には大きな杉の木がありました。杉の木は壱岐で一番の大木で,樹齢約1,000年,直径6メートル,樹高30メートルもあるということです。

安国寺を過ぎると,石田町というところに着きます。さらに東に行くと,壱岐空港があって,少しわかりにくいのですが,滑走路の下を,かろうじて車が通れるほどの幅の地下道がくりぬかれていて,それを抜けると海岸に着きました。この海岸は砂浜で,南から順に,錦浜,大浜,筒城浜とあり,日本の快水浴場百選に選ばれたところだそうです。
確かに,広い渚がずっと続いていましたが,私が行ったときは人ひとりいませんでした。壱岐島は先日行った佐渡島以上に寂れた感が半端ないですが,シーズンになれば,多くの人が訪れるのでしょうか。

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壱岐島で宿泊したのは「明るい農村」という名前の民宿でした。
私は,旅先では,豪華なホテルとか団体ツアー客御用達の温泉旅館とかに宿泊する気がなく,素泊まりのビジネスホテル,もしくは,老夫婦が営んでいるような小さな温泉宿,というものを探して予約をします。
素泊まりのビジネスホテルはどこにでもあって,そのほとんどは大差ないのですが,以前,「ローカル路線バス乗り継ぎの旅!」で蛭子能収さんが言っていたように,小さな温泉宿,というのが難しいのです。また,温泉がないところでは,民宿というものが結構多く,大概の場合,バストイレは共同となっています。また,食事の提供があったりなかったり,部屋も広かったり狭かったりと,ともかく千差万別で運次第,くじを引くようなものです。私は,最悪の場合1晩泊ることさえできればいいと思っているので,それほどこだわっていないのですが,それでも,先日行った佐渡島で泊った「いさりびの宿・道遊」のように,満足なところに出会うと,楽しい旅になります。

今回,どうしてここにしたのか,まったく記憶にないのですが,おそらく,安かったから,でしょう。バストイレも共同で,単に寝るだけの部屋でしたが,部屋は和室ではなくベッドでした。
問題だったのはベッドが固くて腰が痛くなったことと,それ以上に,部屋に空いたコンセントがまったくなかったことでした。冷蔵庫とテレビのためのコンセントがあったのみで,冷蔵庫のほうは奥まっていて外すことすらできませんでした。
私は,夜,カメラのバッテリーの充電とiPhoneの充電ができないと困るのです。テレビは見ないので,そちらのコンセントを使って,途中で交換をして,なんとか事なきを得ましたが,連泊だったら大変だったことでしょう。
食事は,夕食も朝食も別棟の広間でした。壱岐島なので,海のものを期待していたのですが,夕食は牛丼で量も少なく,朝食はほとんどセルフサービスでした。まあ,吉野屋で夕食と朝食を食べたようなものでした。つまり,ここは合宿所みたいなところで,残念ながら,いささか期待外れでした。
旅慣れてきてわかったことは,こうした宿のお客さんの多くは,道路工事をしている人のようで,私の目的とは少し違うなあ,ということでした。

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この日私が予約したのは「明るい農村」という名前の民宿でした。1晩寝られればいいや,という程度で選んだのですが,場所は壱岐島の芦辺港近くの高台で,とても見晴らしのよいところでした。
そこで,「神宿る島」壱岐にちなんだいくつかの観光名所に寄りながら,原の辻遺跡から民宿に行くことにしました。

先日行った佐渡島もそうでしたが,壱岐島にも国分寺跡がありました。
奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立されたのが国分寺と国分尼寺ですが,当時の壱岐島では飢饉や伝染病,さらに台風などの天災による不作が続き,国分寺を建てる余裕がありませんでした。そこで,壱岐島を支配していた豪族の壱岐直が,自分が個人用にもっていた氏寺を嶋分寺(とうぶんじ)という名称にして国分寺に代用することにしたのだといいます。
現在は,草が茂るだけの荒れ地でした。
また,国分尼寺の場所は不明です。

壱岐直は,この国分寺跡の近くにある,現在は國片主神社が建っている場所に屋敷を構えて住んでいました。
國片主神社は,811年の創建とされる歴史ある神社です。主祭神は少彦(すくなひこ)で,菅原道真も祭っていることから「国分天満宮」の名でも知られています。
唐より石船に乗つて唐田の濱に着津した唐田天神が國片主神社の前身で,その地が,壱岐直氏の居館址だったころから,「国県主」が「國片主」になったのではないか、といわれています。
國片主神社の隣,県道脇に木の柵で囲まれた大小ふたつの丸い石がありました。これは,「壱岐名勝図誌」には「国分石」とあり,壱岐の中心の道標にしていたといわれていることから,「へそ石」の由来となったそうです。「へそ石」の隣に立っている石柱には,上部に六面十二菩薩の仏塔が乗っていて,これが壱岐島の中心に位置することから,「心の御柱」や「支石墓」(ドルメン)の名残りだといわれます。ドルメンとはケルト語で,dolは机,menは石を意味し,大きな天井石とそれを支える数個の石からなります。そのほとんどが墓と考えられています。

その際にあった月讀神社は,壱岐氏が,航海の安全を祈るためにお祀りしたものとされます。
487年(顕宗天皇3年)に阿閉臣事代(あへのおみことしろ)が加耶に使いで行った際,壱岐の月読神が「私は月神である。私を京都に祀りなさい。そうすれば日本国中が幸せになるだろう」といったので,阿閉臣事代は都に帰り,天皇にそのことを報告しました。
天皇はこれを受け入れて,壱岐県主の先祖・押見宿彌(はじめて相撲をとったという野見宿禰とは別人?)を壱岐島から京都によび,嵐山に壱岐の月神を分霊して月讀神社を祀りました。その後,京都の月讀神社を中心として日本全国に神道が根づくようになったそうですが,壱岐の月讀神社は,全国の月讀神社の「元宮」ということになるということで,このことから,壱岐島の月讀神社は「神道の発祥の地」とされているそうです。
「古事記」には,伊邪那岐(いざなき)と伊邪那美(いざなみ)が天照(あまてらす)の次に産んだのが月読(つくよみ)。更に,鼻を洗ったときに産まれたのが須佐之男(すさのお)とあります。よって,この三柱の神を特に三貴子(みはしらのうずのみこ)とよび,別格と記されています。なお,天照を主神とする代表的な神社が伊勢神宮,須佐之男を主神とする代表的な神社が松江の熊野大社です。

「海女の里」として知られる八幡浦の海中に祀られているのが「はらほげ地蔵」で,満潮になると胸まで海に浸かるお地蔵さんです。
6体ある「はらほげ地蔵」は,六道(地獄,餓鬼,畜生,修羅,人間,天)における苦しみや悩みから救ってくれるといわれ, 地元では遭難した海女さんや鯨の供養のために祀られていると伝わります。
「はらほげ地蔵」の名前の由来は「お地蔵さんの腹が丸くえぐられているため」ですが, 満潮時にお供え物が流されてしまわないように,穴は貫通していません。
穴は見えないように赤い胸当てがしてありました。お腹が痛いときや風邪をひいたとき,また,胸の病,恋の病などのときに,早く治るようにとお願いをして,治ったら,赤い胸当てを作り,お礼をするのだそうです。

「はらほげ地蔵」の近く,八幡半島の先端の岬が「左京鼻」です。「左京鼻」からは,玄界灘を望む水平線の大パノラマと,約1キロメートルもの長さの雄大な海蝕崖が見られるます。
江戸時代のはじめ,壱岐島が大干ばつに襲われたとき,陰陽師の後藤左京和尚と龍蔵寺の日峰和尚が雨乞いをすることになりました。 ふたりは,雨乞いの祈祷を7日7夜行いましたが,それでも雨は降りませんでした。責任を感じた左京和尚は「左京鼻」の崖から飛び込もうと席を立ち上がりました。 また,日峰和尚も千把の麦わらの中で焼身自殺をしようとしました。そのとき,一転にわかにかき曇り,突然車軸を洗うような大雨が降り出し,村中の人々が喜んだということです。このときに,日峰和尚が着ていた焼け焦げた袈裟は龍蔵寺にあり,「左京鼻」は後藤左京和尚の名前からつけられたものです。
「左京鼻」の海上にある岩は「観音岩」とよばれているもので,玄武岩の柱状節理が発達したものです。「猿岩」でも触れましたが,国生みで壱岐島が作られたとき,島が流されてしまわないようにと,壱岐島の周辺に8本の柱(=「壱岐の八本柱」)を立てて縛りつけたといいます。「観音柱」はその中の1本です。
ちなみに,「壱岐の八本柱」は,「猿岩」「観音岩」のほかには,手長(たなが)島の柱,辰の島の「日出柱」,名烏島の柱,塩津浜の柱,渡良大島の柱,半城湾内の柱のことだそうです。

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壱岐島は「魏志倭人伝」に出てくる一大國といわれているところです。
  ・・・・・・
倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國
從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸 狗邪韓國 七千餘里 
始度一海千餘里至對海国 其大官日卑狗 副日卑奴母離
所居絶㠀 方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑
有千餘戸 無良田 食海物自活 乗船南北市糴
又南渡一海千餘里 名日瀚海 至一大國 官亦日卑狗 副日卑奴母離
方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴
  ・・
倭人は帯方東南,大海の中に在り。山島に依り国邑を為す。旧百余国。漢の時,朝見する者有り。今,使訳通ずる所は三十国なり。
郡より倭に至るには,海岸に循ひて水行す。韓国を歴て,乍南乍東し,その北岸,狗邪韓国に到る。七千余里なり。
始めて一海を度ること千余里にして対海国に至る。その大官は卑狗と曰ひ,副は卑奴母離と曰ふ。
居する所は絶島にして,方四百余里ばかり。土地は山険しく深林多し。道路は禽鹿の径の如し。
千余戸有り。良田無く,海物を食らひ自活す。船に乗り,南北に市糴す。
又,南に一海を渡ること千余里,名は瀚海と曰ふ,一大国に至る。官は亦た卑狗と曰ひ,副は卑奴母離と曰ふ。
方三百里ばかり。竹木叢林多し。三千ばかりの家有り。やや田地有り。田を耕すも,なお食らふに足らず。亦、南北に市糴す。
  「魏志倭人伝」
  ・・・・・・
「魏志倭人伝」のはじめに登場するのが對海國。現在の対馬島です。「古事記」には大八洲のひとつとして「津嶋」と記されています。対馬島は,山が険しく,深い森が多く道路は獣道のようで,田んぼはなく海産物を食べて自活し,船に乗って南や北に海を渡って穀物を買い入れている,と記されています。対馬島には,三根遺跡群,山辺遺跡などの遺跡があって,これらは弥生時代の大規模な集落の跡です。
對馬國から瀚海と称する海を渡って千余里で至ると記された一大國は,一支國,現在の壱岐島にあたると推測されています。 一支國は,広さは三百里四方で,竹や木の茂みが多く,三千の家が建っている。田畑は少しあるが,耕作地が不足しているので南北に海を渡って食料を買い入れているとあります。

そのような歴史ロマンに彩られた壱岐島で,一支國の王都と特定されている原の辻遺跡を一望できる小高い丘に,壱岐市立一支国博物館があります。非常に大きな建物でした。常設展示室では,原の辻遺跡をはじめ,島内に点在する遺跡や古墳から出土した貴重な実物資料を約2000点展示し,私の好奇心を満たすものでした。
緩やかな曲線を描いた屋根は全面緑化され,周辺の山並みにも溶け込んでいました。
次に,原の辻遺跡に行くことにしました。壱岐市立一支国博物館を下ったところにガイダンスという建物があって,おそらく,壱岐市立一支国博物館ができる以前の博物館だったところなのでしょうが,そこに車を停めて,そこからしばらく歩きました。
原の辻遺跡は国の特別史跡に指定され,登呂遺跡,吉野ヶ里遺跡と並ぶ,弥生時代の重要遺跡のひとつです。海を介して交流・交易を行い,外交の先進都市であった一支國の拠点として栄えたこの遺跡は,現在は,弥生の原風景を残す公園として整備され,17棟の復元建物を間近に見学することができます。
とはいえ,壱岐市立一支国博物館も原の辻ガイダンスも原の辻遺跡も,訪れていた観光客は私くらいのものでした。

私は学者でないので,学問的な信ぴょう性や意義はよくわかりません。そこで,無責任に,ずっと,邪馬台国は奈良の纏向遺跡で卑弥呼の墓は箸墓だと信じていて,というか,そのほうがロマンがあるじゃないですか。ということで,ときおり,奈良に行っては,卑弥呼の時代に戻って楽しんでいます。
そんな私は,原の辻遺跡で,ほかに人がいなかったことも幸いして,「魏志倭人伝」の記述にある一大國がここだったのだなあ,と,ひとり古代にタイムスリップして感慨にふけっていました。これもまた,いいものでした。

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☆☆☆
7月21日。快晴でした。

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壱岐島の中央部に「王家の丘古墳群」があります。この場所が気になっていたので,「猿岩」に行った私は,次に行ってみることにしました。
私が習った日本の歴史では
  ・・・・・・
弥生時代の後期に現れた墳丘が,3世紀中ごろになると大規模になり,やがて前方後円墳が出現し,竪穴式石室が横穴室石室に変化し,やがて,6世紀末から7世紀のはじめに終焉を迎えた,というものです。また,早くから,朝鮮半島南部の加耶とよばれる地域に,鉄資源を目的として密接な関係をもっていたヤマト王権でしたが,4世紀後半になると,朝鮮半島北部にあった高句麗の南下策で圧迫を受けた百済や新羅によって加耶が飲み込まれたことで,6世紀にはその勢いを失っていった。
  ・・・・・・
というものでした。
しかし,壱岐島の古墳のことはまったく触れられておらず,壱岐島の歴史については何も知りませんでした。

壱岐島では,横穴式石室墳は知られず、6世紀後半に,突如,横穴式石室をもつ前方後円墳の対馬塚古墳,続く双六古墳が現れ,その後は円墳に変わり,6世紀末まで続いたとみられているということです。
壱岐島には,現在,古墳256基が残存しますが,対馬塚古墳,双六古墳に加えて,笹塚古墳,兵瀬古墳,掛木古墳,鬼の窟古墳の4つの円墳,合計6基が,壱岐島にある他の古墳とは異なる大規模な古墳なので,これらが,当時の首長墓の系譜をなすと見られているということです。
被葬者はよくわかっていないそうですが,壱岐氏と関連づける説,ヤマト王権が朝鮮半島での対新羅交渉に重用した人物とする説,527年に新羅と結んで筑紫国造磐井が大規模な戦乱をおこした磐井の乱の鎮圧で功をなした人物とする説などがあるそうです。また,突如,前方後円墳が現れたことから,福岡平野の古墳を営んだ首長層が,対新羅防衛のために壱岐島に移されたとする説も挙げられています。
  ・・
これらの古墳の中で,鬼の窟古墳という変わった名前に,私は興味を覚えました。
昔々,壱岐島は鬼の住む島だったということで,数々の鬼にちなむ場所があって,鬼の窟古墳もそのひとつです。大きな石を組んだ古墳の石室は人間業ではないということから,鬼が住んでいた窟といわれているということです。鬼の名のついた古墳は,この鬼の窟古墳以外にも,鶴亀鬼屋(つるきおにや)古墳,鬼屋窪(おにやくぼ)古墳,鬼の岩屋古墳があります。

私は古代史に興味があって,これまでに,奈良にある古墳は訪れたこともたびたびあるのですが,ほとんどの古墳は,天皇陵であったりして,なかなか近づけないものでした。それに対して,壱岐島にある古墳は,石室の中にも自由に入ることができたりと,きわめて開放的で,おもしろいものでした。
これまで私は,今でも壱岐島に行くのが大変なのに,昔から大陸と日本が頻繁に行き来をしていたことが,とても不思議なことに思えていました。しかし,考えてみれば,昔だって,壱岐島だけでは何かと不自由なので,生きるために,食料を求め,物資を求め,大陸と交流をする必要があったのでしょう。そうすると,九州に行くにも海を渡らねばならず,ならば,対馬島に行くのも,その先の朝鮮半島に行くのも,要するに海を渡るという意味では同じことだから,今より困難なことであっても,そうした行き来が頻繁に行われていたのも,そして,人が交流すれば文化が生まれたのも,このような古墳を見た私は,不自然なことではなかったのかもしれないなあ,と思うのでした。

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梅雨明け。久しぶりの星空。

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おそらく,壱岐島最大の名所といえば「猿岩」だと思われます。何も調べて来なかった私でもその存在は知っていたのですが,これもまた,NHKBSPの「にっぽん縦断こころ旅」で見たからにほかなりません。
勝本城に行ったあと,再び勝本港に戻って島めぐりをすればよかったものの,引き返すのがおっくうになって,私は,壱岐島の海岸線に沿って南に走り,湯ノ本温泉を過ぎたところにある黒崎半島の先端に位置する「猿岩」をめざしていました。
途中の湯ノ本温泉は約1,700年前から湧出していたと伝えられていて,神功皇后が応神天皇の産湯をつかわせたなどの伝承が残っているそうです。自然湧出の温泉としては島内唯一の温泉ということなので,こんなところに泊るのも一興だったかもしれません。
この時点でもまだ壱岐島がどういうところなのかもあまりよくわからず,様子見状態で走っていたのですが,思ったよりも広い島だなあ,と感じていました。壱岐島は,あまり海岸線に沿って道路がなく,よって,海が見えず,山また山で,どこをどう走っているのか,見当がつかなかったのも,その理由でした。

やがて,海が見えてきて,「猿岩」が展望できる広い駐車場に着きました。名所とはいえ,私以外には車の1台も停まっていませんでした。
「猿岩」というのは,黒崎半島に分布する玄武岩の海蝕崖の一部がそっぽを向いた猿にそっくりなためにそう称されているものですが,だれが見ても,その姿を見ると納得します。それくらいそっくりで,何かおかしいです。
「壱岐は生きた島なので流されないようにと,8本の柱を立てて繋いだが,その柱は折れ残り,今も岩となって残っている」という神話があって,その8本の柱(=「壱岐の八本柱」)のひとつがこの「猿岩」ということです。
だれが名づけたかこの「猿岩」,しかし,別の場所から見ると,まったく猿の形には見えないから,偶然,この展望台からの角度だけ,この姿に見える,というのも,また,興味深い話です。
猿岩の展望台にあった案内地図にだけ,黒崎半島のひとつ南の渡良半島の先にある「鬼の足跡」とよばれる名所に「ゴリラ岩」というものがあると書かれてあったので,その時は気になったのですが,いい加減な私はそれがどこかがわからなくなってしまいました。次の日,気になって行ってみようと思ったのですが場所がわからず探す羽目になってしまいましたが,そのことはまた後日。

「猿岩」の近くに1933年(昭和8年)に完成した黒崎砲台の廃墟がありました。
入口が洞窟となっていて,中に入ってみたのですが,明かりもなく,また,水が溜まってぬかるんでいて,しかも,その先が通行ができなくなっていたので,概要がわからないまま引き返しました。
この黒崎砲台というのは,案内板には,1928年(昭和3年)から6年の歳月を費やして,対馬海峡を通過する艦船を攻撃するために,戦艦「土佐」または巡洋戦艦「赤城」の主砲が据えられた砲台と書かれてあったのですが,実戦で使用されることなく終戦後に破却されました。今は,跡のみが残る戦争遺産です。

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結局,私は 勝本港から出航する島めぐりをしないで,高台にある勝本城跡に来ました。島めぐりをしなかったことをあとで後悔するのですが,何も調べずに来ているわけだから,仕方ありません。
勝本城跡は,勝本の対馬を望む絶景の丘にありましたが,遠い昔の戦国時代に,この島にまでこうした城跡があることに驚きました。今でも島に渡るのがたいへんなのに,人間というのは,すごいというか何というか,私は,旅をするたびにわからなくなります。しかし,この後,壱岐島のさまざま史跡を訪れることになるのですが,壱岐島の歴史は,戦国時代,なんて,それほど昔のことではなく,はるかはるか,その何倍も昔に向かうのです。

1591年(天正19年)に豊臣秀吉の命を受け,朝鮮侵略のために,部隊の休息と物資の補給基地を目的に工期わずか4か月で完成させたのがこの勝本城で,築城を指揮したのは,壱岐島を統治していた平戸領の松浦鎮信でした。秀吉は壱岐には渡っていません。
秀吉の死後,兵は朝鮮から撤退しました。江戸時代,朝鮮との関係改善の意思表示として勝本城は崩されました。現在は城跡は城山公園となっていて,大手門の石垣が残っています。
また,勝本城跡には,城山稲荷神社もありました。
朝鮮侵略のとき,壱岐の各地で豊臣秀吉率いる軍の海上安全と戦勝の祈願が行われ,1592年(天正20年)にこの稲荷神社が祀られました。その後,勝本浦の人々のあつい信仰の場となり,現在まで続いています。

また,城山公園の近隣には,河合曽良の墓と,ふたつの句碑がありました。
河合曽良とは,あの,松尾芭蕉とともに「奥の細道」を歩いた曽良のことか? どうしてここに墓が? と私は驚きました。壱岐島には驚かされることばかりです。
河合曽良は1649年(慶安2年)に信州の上諏訪に生まれました。成人して伊勢長島藩に仕官しましたが,長島藩松平家の滅亡後,江戸へのぼり,松尾芭蕉の門下へ入りました。
1689年(元禄2年),松尾芭蕉の「奥の細道」紀行に同道しましたが,河合曽良は体が弱く,旅の終わり近くの北陸路で腹痛に苦しみ,足手まといになることをおそれ,加洲やまなかの涌湯で松尾芭蕉と別れ,伯父の秀精法師を頼ることになりました。
  ・・・・・・
曾良は腹を病て,伊勢の国長島と云所にゆかりあれば,先立て行に
 行行てたふれ伏とも萩の原  曾良
と書置たり。行ものゝ悲しみ,残るものゝうらみ,隻鳧のわかれて雲にまよふがごとし。予も又
 今日よりや書付消さん笠の露  芭蕉
  「奥の細道」
  ・・・・・・
江戸時代,将軍の代替わりに全国津々浦々の治政の実情を見てあるく巡見使という制度がありました。1709年(宝永6年)に徳川家宣が将軍に就任した折の巡見使の家来として,河合曽良は
 春にわれ乞食やめても筑紫かな
の句を残し,江戸をあとにしました。一行は,大坂から海路をとり筑前若松に上陸し,その後,壱岐郷ノ浦に上陸。郷ノ浦に1泊,勝本に1泊し,翌朝,対馬へ向かいましたが,河合曽良だけは病のために勝本に残りました。そして,1710年(宝永7年)死去しました。62歳でした。
そのようなわけで,この地の墓があり,勝本城址に「行行てたふれ伏とも萩の原」と「春にわれ乞食やめても筑紫かな」の句碑が建っているのです。

また,句碑の横には,御柱が立っていました。御柱は諏訪大社の大祭で使われるものです。
  ・・・・・・
曽良翁終焉の地に諏訪の御柱を贈る。この巨木は,2010年(平成22年)の式年造営御柱大祭に,諏訪大社上社本宮に建てられた御神木で,その役目を終えたのを機に,諏訪に生まれ壱岐に客死した蕉門十哲の一人曽良翁の終焉の地である姉妹都市壱岐市に御柱を建立することを企画し,諏訪大社に請うて,諏訪市がこの御柱を譲り受けた。御柱を壱岐市との末永い友好親善を願ってここ勝本町城山の地に贈る。
  ・・・・・・
とありました。
果たして,日本は広いのか狭いのか。日本国内を旅していると,驚かされることばかりです。

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 NHKFMに「朗読の世界」という番組があります。ラジオNHK第1にも「朗読」「らじる文庫」という番組があるほか,それ以外にもさまざまな番組の中に朗読のコーナーがあるようです。若いころは,こんな番組だれが聴くのだろう? と思っていたのですが,今の若い人も同じことを言っていました。しかし,本を読むのも,特に,小説を読むのも面倒になってきた私は,こうした番組の意義がわかってきました。喜ぶべきか悲しむべきか…。
 その「朗読の世界」で,太宰治の「津軽」が全35回で取り上げられていたので,聴きました。
 先日,青森県を旅して,太宰治の生まれた家,現在の「斜陽館」に行ったこともあって,これまでは存在だけを知っていた小説「津軽」に興味をもったのですが,思ったよりも分量が多くて,また,この時代の小説は読みにくいので,断念しました。そんなことこともあり,まさに,ちょうどいい時期にこの小説の朗読に出会ったのです。

 「津軽」は,1944年,太宰治が34歳のときに書かれた小説です。紀行文ですが,その中にフィクションが交えられていることから小説に分類されているそうです。太宰治が,生まれ故郷である青森県津軽を訪れ,過去に世話になった人々と出会いながら津軽出身者という自分のアイデンティティを確立していくという,美しくも,切ない物語です。
 「津軽」では,太宰治,本名・津島修治を「私」と称し,越野タケを「たけ」としています。
  ・・・・・・
●序編
 私は,現在の五所川原市である青森県金木村に生まれました。親は大地主でした。
 出版社の編集者から「津軽の事を書いてみないか」と言われたことから,津軽人とはどんなものであるかを見極めたくて,当時住んでいた東京を出発し,津軽半島を3週間ほどかかって1周することになりました。
●巡礼
 青森に着いて,かつて私の実家である島津家に仕えていたT君の出迎えを受けます。
 T君は,昔,金木家で一緒に遊んだ仲間だったのですが,私がT君を親友だと思っているのに対して「あなたはご主人です」と答えるT君でした。
 明日,T君とともに,青森県蟹田へ出かけます。
●蟹田
 蟹田で出会うのは中学時代の友人であるN君です。今は蟹田の町会議員となっていて蟹田になくてはならない人物です。
 蟹田の山へ花見に行き,その後,蟹田分院の事務長をしているSさんの家にお邪魔し,熱狂的な接待を受けますが,津軽人である自分自身の宿命を知らされた気になり,「津軽人としての私を掴むこと」を目的とする私は,津軽人の愛情の表現は少し水で薄めて服用しなければならないと感じるのでした。
●外ヶ浜
 N君と農業について語るうち,青森の郷土史に5年に1度は凶作に見舞われているのを発見し,哀愁を通り越し憤怒を感じます。
 翌日,N君の案内で外ヶ浜街道を北上し,竜飛岬にたどり着きます。竜飛は,烈風に抗し怒涛に屈せず懸命に一家を支えて津軽人の健在を可憐に誇示していました。
 竜飛の旅館で歌いながら寝てしまった翌朝,寝床で,童女が表の路で手毬唄をうたっているのを聞き,希望に満ちた曙光に似たものを感じて,たまならい気持になるのでした。
●津軽平野
 竜飛で1泊した翌日,私はひとりで,生まれた土地である金木町へ出発します。
 金木の生家に着くと,実家には長兄の文治と次兄の英治,長兄の長女の陽子,陽子のお婿さん,姪ふたり,祖母などがいましたが,あまり会話が弾まず,気疲れがします。
●西海岸
 翌日,金木から父の生まれた五所川原の木造駅に行きます。五所川原へ戻った私は,3歳から8歳まで育ててくれた女性たけに会うために,小泊を訪れました。
 小泊港に着き,たけの家を見つけたのですが,戸に南京錠がぴちりとかかっていて固くしまっています。筋向いのタバコ屋に聞くと運動会へ行ったとのことでした。
 運動会でたけと再会したのですが,たけは私を小屋に連れて行き「ここさお坐りになりせえ」と傍に座らせただけで何も言いませんでした。いつまでたっても黙っていると,たけは肩に波を打たせて深い長い溜息をもらしました。「竜神様の桜でも見に行くか。どう?」
 竜神様の森の八重桜のところで,能弁になったたけは「30年近くお前に逢いたくて,そればかり考えて暮らしていたのを,はるばると小泊までたずねて来てくれたかと思うと,ありがたいのだかうれしいのだか,かなしいのだか。よく来たなあ」。
 兄弟の中で,私がひとり,粗野でがらっぱちのところがあるのは,この悲しい育て親の影響だったという事に気づいて,このときはじめて,育ちの本質をはっきり知らされたのでした。
  ・・・・・・
 
 作品のなかでは,たけとの会話がクライマックスになっていて,それが「津軽」の中核をなしていますが,実際は,ひとことも言葉を交わすこともなく,太宰治はひとり離れて周りの景色を見ていた,といいます。おそらく,これは,太宰治の願望を表わしたものでしょう。そして,自分のどうしようもなくいたたまれない本質の源流が越野タケのせいだと言いたかったのかもしれないなあ,と私は思いました。そういう意味では,この小説は太宰治の狂気です。
 「津軽」は,太宰治のことをよく知り,また,実際に津軽の地を見てくると,より作品を深く味わうことができるのだろうと思います。だから,先に「津軽」を読んで,その想い入れを持って実際にその地を訪れるか,あるいは,私のように,その地を知ってから「津軽」を読むか,そのどちらにしても,その両方をしなければ,作品は理解できないでしょう。
 私は,小説「津軽」に接して,いつかまた,再び津軽の地を旅してみたいと思いました。


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男嶽神社にある「おみやカフェ」で昼食を,と思っていたのに,それがかなわず,私は,ともかく,壱岐島のもっと北にある勝本港へ行って,そこで何か昼食をとり,そのあと,順に南に向かって観光をすることにしました。
すでに書いたように,私は,壱岐島については何も調べずに,また,ガイドブックすら持たずにこの島にやってきて,頼るのは,レンタカーを借りたときにもらった地図だけで,この時点では,まだ,壱岐島がどうなっているか,全く把握できていなかったのですが,これまで様々なところに行ってきた経験から,30分もすれば,おおよそのことが把握できるだろうと思っていました。
やがて,勝本港に着きました。勝本港は離島にあるいい雰囲気の港町で,周辺には,昼食を食べることができる食堂もいくつかありました。また,勝本港には壱岐島の北にある小さな辰の島という観光名所にいく島めぐり遊覧船も出ていました。私は,ここで,大きな間違いをしました。というのも,結果的に,勝本港周辺の食堂で昼食をとり,その後で,島めぐり遊覧船に乗るべきだったのです。
しかし,私は,勝本港あたりにあった「イルカパーク」という看板が気になって,勝本港を通り過ぎて,まず,「イルカパーク」へ向かうことにしました。そもそも「イルカパーク」ってなんだろう? と思いました。名前から想像するに,このあたりには自然のイルカでもやってくるのかと勘違いしました。

  ・・・・・・
「イルカパーク」は,1995年に壱岐市が市営でイルカの保護を目的に創業しましたが,その当時は,廃れた小屋があるのみで,護岸されたとても大きな自然の海の入江があるにも関わらず,中心にある9メートル四方ほどで囲われた小さな生簀に2頭ずつのイルカが飼われているだけというものでした。
2018年からそんなイルカパークの再生が行われ,2019年にリニューアルオープンしました。
現在,「イルカパーク」は「壱岐イルカパーク&リゾート」といって,壱岐島北部にある天然の入り江を仕切ってできた海浜公園で,「イルカに間近でタッチできる!」「イルカにゴハンをあげられる!」「イルカのトレーニング体験ができる!」といった体験プログラムが用意されていて,ファミリー旅行や女子旅に人気のスポットとなっています。
また,敷地内のカフェでは,ふわとろのパンケーキや「壱岐牛」などの地元食材を使ったフードメニューを提供しています。
  ・・・・・・
という場所でした。
後で調べるとそういう施設だったのですが,私が広い駐車場車を停めたときは,観光客は私以外には1組の家族連れがいただけでした。施設に行っても,まるで商売っ気もなく,やっているのやらいないのやら,何ができるのやらできないのやら,さっぱりわかりませんでした。
ともかく,カフェがあるというので入ってみました。食事ができるかと聞くと,ここの名物はパンケーキだということでしたが,昼食にパンケーキでは,と思って,さらに聞いてみると,壱岐牛の入ったパスタができるというので,それを注文しました。
カフェから外を見ると,確かにプールでイルカが泳いでいるのが見えましたが,私はさほど興味もなかったので,昼食をとっただけで,施設をあとにしました。
壱岐島,どこも寂れている,と感じました。よい意味で。

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壱岐島に着きました。
壱岐島めぐりをするには,歩いて周れる大きさではなく,自転車でも広すぎ,かといって,公共交通では不便なので,やはり,レンタカーに限ります。事前にインターネットで予約できたのはパジェットレンタカーだったので,予約がしてあったのですが,どうやら,パジェットレンタカーといっても,実際は,壱岐交通レンタカーの代理店だったようで,壱岐交通レンタカーの人が迎えに来ていました。
ジェットフォイルの到着した埠頭には,いくつかのレンタカー会社の人がそれぞれ予約した人の名前の書かれたプレートを持って立っていました。私も,自分の名前を見つけて,指示に従って,私の借りる車のところで待っていました。やがて,運転免許証を見せて,書類にサインをして,手続きが終わり,車を借りることができました。離島では,レンタカーを借りるだけでも,島によってシステムが違うので,これもまた,興味深いものです。
わかりやすい島の地図がもらえたので助かりました。この時点では,私は,壱岐島についてはまったく知らなかったのです。何せ,何も調べてこなかったからです。
  ・・
何となく,沖縄県だけ行ったことがないから,という理由で行ってみようと思っていたところ,安価な直行便があるということを偶然見つけて,沖縄本島ではなく石垣島に行きました。その次は,飛んでるトキ見たさに,一度は行ってみたいと長年思っていた佐渡島に行きました。
そんなこんなで,離島を旅しはじめて,そのうちに,そうだ! 離島めぐりをしよう,と目覚めてしまったのが発端でした。
そこで,次は,隠岐島だということになって計画をしていたころに,それと時を同じくして,柳川に行こうと福岡空港までの航空券を買ったついでに,壱岐島にも行くことになったことはすでに書きましたが,壱岐島で何がしたい,ということもありませんでした。行ってみたかっただけでした。
ただし,一か所だけ,行ってみたいところがありました。それが,男嶽神社でした。

  ・・・・・・
次生伊伎嶋 亦名謂天比登都柱
  ・・
次に伊岐(イキ)の島を生みたまひき。またの名は天比登都柱(アメノヒトツバシラ)といふ。
  「古事記」国生み
  ・・・・・・
「古事記」によると,伊邪那岐(イザナギ)と伊邪那美(イザナミ)の夫婦神によって作られた8つの島のうち,5番目に生まれたのが「伊伎嶋」(=壱岐島)です。また,壱岐は「天比登都柱」(アメノヒトツバシラ)ともよばれ,天地を結ぶ交通路としての役割を担うなど,古来より神々とのゆかりが深い場所として語られてきました。
  ・・・・・・
壱岐島が生れたときの最初の神様である「天比登都柱」(アメノヒトツバシラ)や「月読命」(ツクヨミノミコト)の降臨の地にある男嶽神社は,明治時代までは山全体が御神体とされ,一般の人の入山が制限された神聖な場所でした。男嶽神社には,導きの神様とされる「猿田彦命」(サルタヒコノミコト)が祀られており、敷地内には御祭神にちなんだ200体を超える石猿がずらりと並んで奉納されています。
  ・・・・・・
という男嶽神社ですが,私は,そんなことよりも,この神社にある「おみやカフェ」に行ってみたかったのでした。それは,NHKBSPで放送している「にっぽん縦断こころ旅」で火野正平さんが訪れたところだったからです。ここには「神社エール」とかいう飲み物もあります。
こんな辺鄙な山の中の神社,だれが行くのだろう? と思いながら,やっと到着した男嶽神社でしたが,ひとっこひとりおらず,あいにく「おみやカフェ」も閉まっていました。火野正平さんがひとめぼれした店員のお姉さんに会いたかったな。
幸先悪し。とても残念でした。

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おみやカフェおみやカフェ2


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福岡空港から博多港までどのように行くか,事前にネットで調べたときは,どのサイトもごちゃごちゃ書かれているだけで,よくわかりませんでした。安価な公共交通で行くことができるのにもかかわらず,2,000円以上もするタクシーに乗れ,というものもありました。また,公共交通については,肝心なことは適当にリンク先が書かれてあるだけで,乗り場さえわからず,また,博多港がどうなっているかもわからず,無責任。情報をめぐりめぐっているだけで知りたい情報にたどり着けませんでした。これでは情報発信能力の欠如です。どうして,もっと簡便に書かれていないのでしょう。ということで,調べがつかず,わからないまま出かけることになりました。
何事も実践あるのみ。福岡空港から博多港第1ターミナルから出航するジェットフォイルに乗って壱岐島に行くためのわかりやすい方法は,実際に行ってみてから帰宅して改めて調べ直して,やっとよく把握できたので,ここにまとめます。
  ・・・・・・・・
まず,福岡空港から,地下鉄に乗って博多駅に行きます。
博多駅からは西鉄バスに乗ります。名古屋市には名古屋市営バスと名鉄バスが走っていますが,福岡市には福岡市営バスはありません。すべて西鉄バスです。
博多駅でのバス乗り場は,博多バスターミナルと博多駅周辺ののりばAからFまでのふたつがあります。博多港第1ターミナルに行くには,博多バスターミナルではなく,のりばFで乗りますが,博多バスターミナルの案内標示には博多駅周辺ののりばのことは一切かかれれていないので注意が必要です。
のりばFからは,46番,88番,99番,それに,BRTという連結バスが出ていますが,第1ターミナルに行くのは46番と99番です。46番のバスは少し遠回りをします。88番とBRTは第1ターミナルには行かず,国際ターミナルに行きます。私は,そうとも知らず,第1ターミナルではなく国際ターミナルに行く88番に乗ってしまったので,途中で降りる必要があったのです。
蛇足ですが,帰りに博多港から福岡駅に向かうときは,99番というバスはなく,48番なのです。それにしても,どうしてこういうわかりにくいことをするのでしょうか。
  ・・・・・・
このように,他府県から来た人には,乗れるものなら乗って見ろ,行けるものなら行ってみろ,という感じです。
福岡空港から壱岐島に行くジェットフォイルが出航する博多港第1ターミナルに行くには,要するに,「福岡空港で降りて,地下鉄で博多駅へ行って,博多駅前ののりばFのバス停で99番のバスに乗ればいい」ということです。ネットには,ごちゃごちゃ書かず,これだけ書いてあればいいのです。

また,壱岐島に行くには,博多港からジェットフォイルかフェリー,唐津東港からフェリー,長崎空港から飛行機の方法があります。
博多港からは,臨時便が出るハイシーズン以外は,1日にジェットフォイルは4便,フェリーは3便,壱岐島の芦辺港か郷ノ浦港へ行くものがあります。ジェットフォイルは第1ターミナル,フェリーは第2ターミナルから出航しますが,このふたつのターミナルは隣り合っています。
唐津東港からは印通寺行きのフェリーが1日5便あります。また,長崎空港からは壱岐空港まで飛行機が1日2便あります。
ということで,名古屋から博多空港を経由して壱岐島に行くには,午前7時県営名古屋空港発の福岡空港行きの飛行機に乗って,福岡空港で降り,博多港に行ってジェットフォイルの午前10時30分発の壱岐島芦辺港行きに乗るという一択となります。つまり,このジェットフォイルに乗ることができなければ,壱岐島に行くのはあきらめなくてはならないことになるのです。

いろいろありましたが,ともかく,私は,予約時点では満席だった午前10時30分発のジェットフォイルの空席を,翌日やっと見つけて予約して,福岡空港から博多港までも,迷いつつも到着して,どうにか,乗り込むことができました。一旦は満席ということでしたが,実際は当日も数席空いていました。
ジェットフォイルは新潟港から佐渡島に行くときも乗りました。速い・揺れるという評判でしたが,思ったほど速いとは思いませんでした。また,揺れもしませんでした。
  ・・・・・・
ジェットフォイルは軍事用船舶として開発されました。1974年に旅客用が開発され,1977年に日本でこの旅客用が初導入されました。「ジェット」は本船がジェットエンジンとウォータージェット推進機によって駆動されることからきており,「フォイル」とは「鋭い薄い翼」を表わします。
もとは「ボーイング929ジェットフォイル」(Boeing 929 Jetfoil)のことで,ボーイング社が設計製造した旅客用の水中翼船の名称ですが,現在はライセンスを引き継いだ川崎重工業の登録商標で,「川崎ジェットフォイル929-117型」として、製造・販売を行なっています。
  ・・・・・・
乗船して1時間と少し,やがて,壱岐島が見えてきて,予定通りの時間に芦辺港へ入港しました。

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福岡空港に着きました。
このごろ,日本国内の様々な空港を利用するようになったのですが,成田国際空港や羽田国際空港,関西国際空港,中部国際空港といった巨大な空港以外に,日本には,青森空港,山形空港,高知空港のような小さな空港と,新潟空港,福岡空港のような国際線も離発着する比較的大きな空港があることを知りました。どちらかといえば,小さな空港のほうが休まりますが,どこも新しくきれいなことにおどろきます。
福岡空港の最大の利点は,市内に近く,とても便利だということです。地下鉄で2駅先が福岡駅です。数年前にはじめて来たときにそのことに驚きました。
また,福岡空港からは羽田国際空港や成田国際空港へ行くよりも,韓国の韓国仁川国際空港へいくほうがずっと近く,そこから世界中に飛び立つことができるわけで,日本でもっとも世界に近い空港といっても過言ではありません。

私は,福岡空港から博多港へ行き,そこから壱岐島までジェットフォイルに乗るわけですが,ジェットフォイルの出航時間が午前10時30分なので,約2時間あります。ここで問題なのは,博多港へ行く方法を知らない,ということでした。私は,何も調べずに旅をしているのです。というか,調べてもよくわからなかたっというべきでしょう。
先日,佐渡島へ行ったときも,新潟空港から新潟港へ行く方法を知らず,また,調べても,直接行く手段が難解で,結局,タクシーに乗りました。実際,新潟空港から新潟港へいくには,福岡市とは異なり,地下鉄などなく,また,バスの便もよくないので,タクシーを利用するのがベストだったのです。もう少し何とかならないものかと思うのですが,おそらく,そうしたアクセスをする客自体が少ないのでしょう。
それに比べたら,福岡空港の場合は,地下鉄を利用すれば簡単に福岡駅に行くことができるし,福岡駅に行けば,そこで博多港へバスで行くことは難しくはなさそうでした。
ということで,地下鉄で福岡駅に着きました。福岡駅の地下街には,バスターミナルという案内標示があったので,それを目指して歩いて行ったのですが,これが大間違いでした。博多港へ行くバスはバスターミナルからは出ていなかったのです。バスターミナルに着いて,私は愕然としました。案内標示を見ても博多港へ行くバスがないのです。何とか係員を見つけたので聞いてみると,のりばFから出ているということでした。バスターミナルからFというバス乗り場なんて,ものすごく遠いのでしたが,仕方がないのでのりばFまで歩いて行くと,ちょうど博多港国際ターミルへ行くというバスが来たので乗り込みました。

私が愚かなのは,この時点でも,博多港がどうなっているのかを知らなかった,ということでした。
実は,博多港には,第1ターミナルと第2ターミナル,そして,国際ターミナルがあるのです。しかし,GoogleMapsを見ても,第2ターミナルと国際ターミナルという表記は見つかっても,第1ターミナルという表記がないのです。おそらく,第2ターミナルの隣だろうと適当に考えて,第2ターミナルをめざすことにしました。
それに,何を見ても,「壱岐島へ行くフェリー乗り場は第2ターミナル」とは書かれてあっても,ジェットフォイルの乗り場と書かれていないのです。佐渡島へ行ったときも同じでしたが,どちらも,不親切極まりないのです。
無知な私が乗ったバスは,博多港をめざして進んでいるように見えたのですが,私は,途中で気づきました。どうも,国際ターミナルは第1ターミナルとは別の埠頭ではないだろうか? このふたつはえらく離れている! だから,博多港とはいえ,国際ターミナルへ行ってしまってはいけないのです。バスの窓から景色を見ていたら,福岡国際センターが見えてきました。ここは,以前,大相撲九州場所を見にきたところでした。これなら私は,よくわかります。いつも,こうして適当に旅をしているので,一度行ったところはしっかりと覚えているのです。
そうなのです。第2ターミナルの隣にあるであろうと私が勝手に思っている第1ターミナルに行くには,福岡国際センターあたりで降りて,歩くべきなのです。でないと,どんどんと離れて行ってしまう!
ということで,福岡国際センターのあった国際会議場サンパレス前というバス停でバスを降りて,キャリーバッグを転がしながら,第1ターミナルらしき場所を目指しました。この先にあった埠頭には,私の乗るジェットフォイルが停泊していたので,その場所だと確信しました。そして,実際,第2ターミナルと書かれたビルの手前にあったのが第1ターミナルでした。

ビルに入って,ジェットフォイルのチケットを購入しました。
私が恐れていた,このジェットフォイルのチケットを大量に買ったと思われるグループは,ここで,ひとつの団体ツアーではないことが判明しました。いくつかの何らかの団体がいたのです。しかし,危惧していたような,うざったい団体ではありませんでした。
私がチケットを購入するために並んでいた前にいたのが,スイスから来たという夫婦連れでした。日本に住む私がよくわからないのに,海外から壱岐島に個人旅行なんて,すごいなあと思いました。いろいろとお話をして,少しは気持ちが晴れました。
チケットを購入して,まだ時間があったので,第1ターミナルの中にあったカフェでアイスコーヒーを飲みました。
そんな感じで,今回もまた,行き当たりばったりでしたが,ともかく,無事に壱岐島へ行くジェットフォイルに乗り込むことができました。

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ジェットフォイルが満席だったときはどうしようかと思いましたが,結局予定通りにすべて予約できました。そして,出発の日が来ました。ここ数日間の天気予報は最悪で,九州地方は豪雨になるとか。さらに悪いことには,この日は,天気はまあ,ましなのですが,なんと黄砂が来るとか。それもしかたがありません。というか,それでも,晴れ男の私は自分の力を信じていました。
2023年7月6日,1日目の天気はなんと快晴でした。
  ・・
朝は予定通り県営名古屋空港にいつものように車で行って,空港の駐車場に車を停めました。
FDAの福岡便は午前7時発,と早い時間なので,空港でチェックインをして,今回はキャリーバッグを持っていたので荷物を預けて,そのまま出発ゲートを抜けて,待合室に行くと,ほどなく搭乗がはじまりました。

福岡までは1時間と20分ほど。ちょうどいい感じです。
今回も,クルーのひとりに声をかけられました。「どちらにお出かけですか?」
もうおなじみです。今回もすてきなお土産をいただきました。FDAはいつも最高です。
このところ,私はすっかり国内の旅が楽しくなってしまいました。それとともに,海外に行く気がどんどんとなくなってきました。
この1年で,青森,山形,佐渡島,高知,福岡というように,日本をもれなく旅してきたことになります。そして,来月は出雲まで行って,そこから隠岐島に渡ります。どこに行くにもFDAはとても便利です。もしこれらの便がなかったら,どこもとても不便なところです。毎回,大した予定も立てずに適当に出かけているのに,いつも思った以上の旅になっています。
この日は,季節外れの黄砂襲来という予報だったのですが,その影響なのかどうなのか,少しばかり空がかすんでいるように感じましたが,それでも,天気がよかったので,さまざまな景色を機内から眺めることができました。実際は,黄砂なんて,まるで影響はなく,ガセネタでした。
定刻通り福岡空港に到着しました。

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前回書いたように,柳川に行くという目的のために,まずは,福岡空港までの航空券を手配したので,次は,柳川市のどこかに宿泊しようと,いつものように小さな温泉宿を探したのですが,手ごろなところがなかったので,ホテルに変えて探していました。
そのころ,私は,すでに書いたように,沖縄県の石垣島,それに続いて,新潟県の佐渡島と旅をしたことから,離島を旅するということに夢中になりはじめていて,この旅とは別の日程で,隠岐島へ行くことにして,平行してその旅の計画も立てているうちに,福岡市なら壱岐島に行けるではないか,と思い立ち,3泊4日の旅は後半で柳川に行き,前半は壱岐島に行こうということになりました。
そんなわけで,隠岐島への旅と壱岐島への旅の計画を同時に立てることになったのですが,自ら招いたこととはいえ,「おき」と「いき」,名前が似ていることもあって,頭の中が大混乱していました。もともと,隠岐島にはぜひ行きたいという想い入れがあったので,ガイドブックも購入して,念入りに計画を立てていたのですが,壱岐島のほうは,柳川に行くついで,という程度だったので,あまりテンションも上がらず,壱岐島内を観光するためのレンタカーと1泊する適当な宿を押さえただけでした。そして,壱岐島までのジェットフォイルは,1か月前からの予約ということだったので後回しにして,2泊目の福岡市内のホテルと3日目に宿泊する柳川のホテルも予約しました。これで、ジェットフォイル以外の予約はすべて完了です。

やがて1か月前になりましたが,ジェットフォイルの予約なんて、どうせガラガラだから急がなくても大丈夫だと高をくくり,1か月前から2,3日経った後でそろそろジェットフォイルの予約でも,と思ってネットにアクセスして愕然としました。
ジェットフォイルはそのほどんどの便が簡単に予約できたのに,たまたま私の予定していた日時の行きの便だけが満席だったのです。これには唖然としました。他のどの日時も空席があるのに,なぜに,私の予定していたものだけが満席なのか! しかも,帰りの便はすべて空席がたくさんありました。
とはいえ,1日に4便しかないジェットフォイルで,しかも,壱岐島の西側の芦辺港着くのは私が予定していた便と夜の便の2便しかないのです。また,壱岐島に行くのにはジェットフォイル以外にはフェリーがあるのですが,フェリーは夕刻しかないのです。夕方到着してもその日1日を無駄にするだけだから意味がありません。つまり,この時点で,壱岐島に行くことが不可能になってしまったのです。
日程を変えれば行くことが可能だったのですが,そうすると,すでに予約の済んだ3泊分のホテルも壱岐島のレンタカーもそのすべてをキャンセルして再び予約し直す必要があったから,どうしようかと悩みました。壱岐島のレンタカーと宿をキャンセルして,壱岐島行きは断念するしかないなあ。と思いはじめました。
  ・・
その次の日。
壱岐島には縁がなかったとあきらめ,壱岐島のレンタカーと宿をキャンセルすることを決心して,再びネットで,念のためとジェットフォイルを運行する九州郵船のサイトにアクセスすると,何と,昨日は満席だったのに,数席だけ,予約ができるようになっていたのです!
何じゃこりゃ,と思いました。キャンセルがでたのだろうか? それにしても,ほぼ満席のジェットフォイルに乗る予定の人たちはどういう人なのだろう? うざったい団体客だったらどうしようか? それが疑問として残ったのですが,ともかく,これで行くことができると,予約をしました。こうして,行きは博多から壱岐島の芦辺,帰りは壱岐島の郷ノ浦から博多のジェットフォイルの予約をすることができました。
それにしても,福岡市からそれほど遠くもない壱岐島に行くことがこれほどの難物だとは思いもよりませんでした。

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福岡県柳川市といって,私が思い出すのは,元大関琴奨菊のふるさと,ということくらいで,特に興味があっわたけではありませんでした。ところが,2022年12月に,NHKBSPで放送されている「にっぽん縦断こころ旅」で火野正平さんがこの柳川市の小さな水族館を訪れたのですが,それを見て,急に行きたくなりました。
ということで,柳川市に行くことを思い立って,県営名古屋空港から福岡空港までFDAを利用すれば簡単だ,と行くことができる日にちを調整して,さっそく,航空券を購入してしまった,というわけでした。
予定を調べたら暇だったのが2023年7月6日から7月9日だったので,この時期にしたのですが,航空券を購入したころは,このころがこれほど蒸し暑く,かつ,梅雨の末期で豪雨になるなどということをすっかり忘れていて,行く直前になって後悔しました。まあしかし,行くしかありません。

今回は3泊4日となりましたが,日程は次のとおりでした。
  ・・・・・・
1日目は福岡空港到着後,博多港からジェットフォイルで壱岐島。壱岐島でレンタカーを借りて観光後,壱岐島泊。
2日目は壱岐島観光後,レンタカーを返却してジェットフォイルで博多港へ。博多駅前のホテル泊。
3日目は博多から柳川市へ西鉄で移動し,柳川市を観光。柳川市泊。
4日目は博多に戻り,福岡空港から帰宅。
  ・・・・・・
柳川市だけに行くつもりだったのが,先に壱岐島に行くことになった経緯は次回書きます。

それにしても,3泊4日というのは,旅支度には,中途半端な日数です。
私は,旅の持ち物はできるだけ少なくするという方針で,2泊までならバックパックだけで事足りるのですが,3泊となると,バックパックだけでは足りず,かといって,キャリーバッグでは大きすぎるのです。
コロナ禍以前,私は頻繁に海外旅行をしていたのですが,結局,海外旅行は4泊6日から5泊7日が最も快適だと知って以来,ずっとそんな旅程で旅をしていました。これなら,私の持っている機内持ち込みサイズのキャリーバッグは必要十分な大きさとなります。
この先の私は,3泊4日で国内旅行,ということが多くなると思うので,どうすれば快適な旅ができるかということを思案をしているところですが,今回は,キャリーバックの中が空き空きなのをいいことに,夏なので,サンダルをもって行ったり,汗をかいたときのための下着を増やしたり,タオルを1枚余分に入れたり,とやっていたら,けっこうキャリーバッグの中がいっぱいになりました。

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  以前,オーストラリアの天文台を紹介したので,今日はニュージーランドにある天文台の紹介をしましょう。
 ニュージーランドの南島の中央マッケンジー盆地にテカポ湖という星空の美しい場所があります。テカポ湖は世界一星空が美しい場所という触れ込みで,通称・世界遺産ということになっていますが,実際は,そうした名目の世界遺産はありません。実際,とても魅力のあるところですが,観光地化されてしまい,観光客が多すぎです。

 そのテカポ湖のほとりのジョン山海抜1,031メートルの位置に所在するのがマウントジョン天文台(Mount John University Observatory=MJUO)です。
  ・・・・・・
 マウントジョン天文台には口径0.61メートル望遠鏡が2台,口径1.0メートル望遠鏡が1台,口径1.8メートル「MOA 望遠鏡」が1台,観光用の口径0.4メートル望遠鏡が設置されています。
 1960年,アメリカのペンシルベニア大学が南半球での天体観測を目的とする天文台の設置を決定し,1963年にカンタベリー大学と学術間協定を帰結し天文台の共同利用とニュージーランドでの研究拠点として,1965年開所しました。
 ペンシルベニア大学の研究者が定年退職を迎えたことによりアメリカとニュージーランドの共同研究は終わりを遂げ,1975年からはカンタベリー大学付属研究施設となりました。
 1982年にアメリカ空軍が設置した地上局は閉鎖され、建物はニュージーランド政府へ移譲されました。
 1996年,日本とニュージーランドの共同研究が開始され, 2005年には観光客用の望遠鏡も設置されました。
  ・・・・・・
 日本の名古屋大学の天文台もあるのですが,聞いてみると,この天文台を使用していた教授が定年で退職してしまったので… という話でした。

 私はテカポ湖には2016年と2018年の2度行って,南半球の星空を見ることができました。
 マウントジョン天文台は,テカポ湖を見下ろす山の上にあって,お昼間は誰でも山頂まで登ることができます。天文台自体は公開されていませんが,山頂にはアストロカフェという名のカフェがあって,コーヒーを飲みながらテカポ湖の姿を見ることができます。
 夜に登るには天体観望ツアーに参加する必要があって,個人で登って星見をすることはできません。 
 テカポ湖畔は夜になると観光客が集まってくるのでけっこう光があって,私は,そこから離れたいい場所がないかと探し回ったのですが,なかなか見つけることができませんでした。
  ・・
 現地の人が,どうしてこれだけの好条件なのに,多くの天文台が建設されないのか,といっていましたが,ここは観光地すぎることと,標高が低いので,専門的な高度な天体観測にはいまいちの場所です。そこで,天文台といっても,大学のいち研究者が設立したような設備しかなく,その研究者が退官してしまうと,どうやら,その後は,置き去りにされてしまったようです。
 南半球で本格的な研究をする施設をつくるとなると,標高の高い南アメリカのアンデス山脈がその場所となるのも当然の成り行きですが,一般の人が南半球の星空を一度でいいから眺めてみたい,というときは,テカポ湖畔はよい場所でしょう。

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 アメリカ野球殿堂博物館(National Baseball Hall of Fame and Museum)がニューヨーク州郊外のクーパーズタウン(Cooperstown)という町にあります。MLBなどで顕著な活躍をした選手や監督・コーチ・審判員,また野球の発展に大きく寄与した人物に対してその功績を称える野球の殿堂で,アメリカを含む世界中の野球の歴史研究や,歴史的・記録的意味を持つ資料の収集・展示を,「歴史を伝え,偉業を称え,世代を繋ぐ」(Preserving History, Honoring Excellence, Connecting Generations)というスローガンのもとに行っています。
 かつてMLBに夢中だった私は,ここに行きたくて仕方がありませんでした。今となっては,この場所もまた本当に行っておいてよかったと思うのですが,よほどのMLB好きか旅慣れていないと,ここに行くのはかなり大変です。
 場所はニューヨークのダウンタウンからははるかに遠く,しかも,アクセスするインターステイツがありません。私は,地方の一般道を延々と走って往復しました。

 そういった不便な場所にあるにもかかわらず,クーパーズタウンもまた,とても美しいところでした。ボストン郊外のタングルウッド,そう,今思い出したのがオーストリアのハルシュタットやニュージーラドのマウントクックなども同じですが,こうした都会から離れた場所は,どこも本当にきれいです。行ったことはないのですが,イギリスの田舎も同様かな,と思います。
 こうした緑美しい景色は日本にはほとんどありません。しいて言えば信州や北海道にその雰囲気を見ることはありますが,道路は狭く,土地もせまく,遠く及びません。
 私が今思い出すのは,野球殿堂ではなく,そこへ往復したときに走った道路から見た風景なのです。
 インターステイツは便利ですが,インターステイツを走ってアメリカ大陸を横断したところで,こうした風景を見ることはできません。実際に走っていた時には,時間もかかり,インターステイツがあればいいのに,と思ったものですが,今考えると,ここはとてもすばらしいところでした。
 こんな町に生まれ育った人は,いったいどういう気持ちで日々生きているのかな,と思うことでした。


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「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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 ニューヨークに憧れた人のほとんどは,「自由の女神」を見たいと思うでしょう。「自由の女神」の姿なら,ニューヨークに行けば,特に意識しなくても,簡単に見ることができます。
 「自由の女神」は,また,リバティ島というマンハッタンからさほど遠くない島にあって,簡単に上陸することができます。というか,できました。
 私がはじめてニューヨークに行った今から43年ほど前は,市内観光バスのコースに組み込まれていて,対岸のバッテリーパークに観光バスが停まって,さあ,いってらっしゃい! ということで,思い思いフェリーに乗って島に上陸,「自由の女神」の中まで入ることができました。
 その30年後に私が行ったときは,フェリーに乗る前にまるで飛行機に乗るようなセキュリティチェックがあり,また,フェリーもものすごく混雑していて,上陸しても「自由の女神」の内部に入るにはさらに事前の予約が必要になっていました。
 43年前のアメリカの大都会のダウンタウンはどこも荒み治安も悪かったのですが,いまほどテロを心配することもない自由な国でした。戻れるものならその時代のアメリカを旅したいものです。

 「自由の女神」は正式名称を「世界を照らす自由」(Liberty Enlightening the World)といいます。アメリカ合衆国の独立100周年を記念して,独立運動を支援したフランス人の募金によって贈られたもので,1886年に完成しました。
 銅製で,像の頭の部分までの高さは33.86メートル(111.1フィート),台座からトーチまでの高さは46.05メートル(151.1フィート),台座の高さは47メートル(153フィート),台座部分も含めると93メートル(305.1フィート),総重量は225トンです。 右手には純金で形作られた炎を擁するトーチを空高く掲げ,左手にはアメリカ合衆国が独立した「1776年7月4日」とローマ数字で刻印された銘板を持っています。
 足元には引きちぎられた鎖と足かせがあり,全ての弾圧,抑圧からの解放と,人類は皆自由で平等であることを象徴しています。また,女神がかぶっている冠には7つの大陸と7つの海に自由が広がるという意味の7つの突起があります。
 内部は,エレベータが設置されていて,エレベータの10階にあたる最上階から像の中のらせん階段を上って王冠部分の展望台に登ることができます。私は43年前に登ったことがあります。台座部分の内部はアメリカの移民の歴史について展示する博物館になっていて,エマ・ラザラス(Emma Lazarus)が書いた「新しい巨像」(The New Colossus)という題の14行詩を浮き彫りにしたブロンズ製銘板が設置されています。もともとは灯台として作られたので,ニューヨーク港を向いています。

 「新しい巨像」というのは次のものです。最後の8行を載せます。
  ・・・・・・
"Give me your tired,
your poor,
Your huddled masses yearning to breathe free,
The wretched refuse of your teeming shore.
Send these,
the homeless,
tempest-tossed to me,
I lift my lamp beside the golden door!”
  ・・
疲れ果て貧しさにあえぎ自由の息吹を求める群衆を私に与えたまえ。
人生の高波に揉まれ拒まれ続ける哀れな人々を。
戻る祖国なく動乱に弄ばれた人々を私のもとに送りたまえ。
私は希望の灯を掲げて照らそう自由の国はここなのだと。
  ・・・・・・

 また,台座の記念盤には以下の文言が刻まれています。
  ・・・・・・
 AT THIS SITE ON AUGUST 5TH, 1884, THE CORNERSTONE OF THE PEDESTAL OF THE STATUE OF "LIBERTY ENLIGHTENING THE WORLD" WAS LAID WITH CEREMONY BY WILLIAM A. BRODIE, GRAND MASTER OF MASONS IN THE STATE OF NEW YORK.
 GRAND LODGE MEMBERS, REPRESENTATIVES OF THE UNITED STATES AND FRENCH GOVERNMENTS, ARMY AND NAVY OFFICERS, MEMBERS OF FOREIGN LEGATIONS, AND DISTINGUISHED CITIZENS WERE PRESENT.
 THIS PLAQUE IS DEDICATED BY THE MASONS OF NEW YORK IN COMMEMORATION OF THE 100TH ANNIVERSARY OF THAT HISTORIC EVENT.
  ・・
 1884年8月5日,「世界を照らす自由の女神」の像の台座の礎石はニューヨーク州メイソン団のグランド・マスター,ウィリアム・A・ブロディーによる式典とともに設置された。
 グランド・ロッジの構成員ら,合衆国およびフランスの政府の代表ら,陸軍および海軍の将校ら,諸外国の使節団の構成員ら,ならびに名高い市民らが参列した。
 この銘盤はかの歴史的事件の第100周年を記念してニューヨークのメイソン団により捧げられる。
  ・・・・・・

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 はじめてMLBを見たのは,今から44年ほど前,生まれてはじめてアメリカに行ったときでした。ロサンゼルス・ドジャースのホームゲームで,対戦相手はシンシナチ・レッズ。知っていたプレイヤーはピート・ローズだけでした。このときの印象はものすごいもので,アメリカは本当にすごい国だと思いました。
 当時のドジャースタジアムにはまったく広告もなく,広い駐車場はすべて無料でした。ピーナッツ売りが遠くの客にピーナッツの袋をコントロールよく投げたり,セブンスイニングストレッチ,そして,子気味よいオルガンの応援メロディーなど,すべてがあか抜けていました。今でもその頃のMLBが私にはとても懐かしいものです。今はボールパークはどこも広告だらけで派手だし,駐車場はすごく高いし,その頃の素朴さはありません。また,当時のボールパークは,現在も残っているシカゴ・カブスのリグレーフィールドやボストン・レッドソックスのフェンウェイパークのような古い,そして,ユニークなところも多く,その多くはすさんだアメリカを思い起こすようなすごみがあって,行くのが楽しみでした。

 その次に見たのが,30年ほど前,ニューヨークのヤンキースタジアムでした。今のヤンキースタジアムとは違って,古く,周りの治安も悪く,とても怪しげでした。私が見た年はデレック・ジーターがルーキーだった年で,周りの観客がみな「ジーター,ジーター」と応援していて,そのときはじめてその選手をしったものです。
 こうして書いているだけでも,その時代に戻りたいものです。
 それから,私は,アメリカ各地でずいぶん多くのゲームを見たのですが,今は,どこも同じようなボールパークになってしまい,また,チケットも高く,かつ,駐車場も高く,あまり魅力を感じなくなりました。
 その後,何十年もして,私は,再びニューヨークでMLBを見ました。チケットをダフ屋から買ったこともありますが,何の問題もありませんでした。

 今は,MLBよりも私はマイナーリーグの方にずっと魅力を感じます。アメリカはやはり少しすさんだ感じの方がずっとアメリカらしいです。そして,田舎のぼろいボールパークでのんびりと時間を忘れて楽しみたいものです。


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 はじめてニューヨークにひとり旅をしたのは,今から43年ほど前,2度目のアメリカ旅行のときでした。
 行きの飛行機でとなりに座ったは,東京で幼稚園の先生をしているという,私と同じくらいの歳の女性でした。彼女は,ニューヨークにいる友人に会いに行くということでしたが,ミュージカルが好きで,機内では,私にずっとミュージカルのレクチャーをしてくれました。そして,ニューヨークでミュージカルを見ませんか,と誘われました。
 私はそれまでまったくミュージカルなど知らず,興味もなかったのですが,その誘いに応じました。
 私はニューヨーク到着後は,ワシントンDC,ボストンとまわり,ニューヨークに戻ってきました。
 そして,約束した場所で落ち合って,一緒に夕食を食べ,そして,ミュージカルを見ました。ミュージカルは「コーラスライン」でした。

 今から思えば,旅先で出会って,一緒に食事をしてミュージカルを見たのに,名前も知らず,連絡先もきかず,それっきり,というのは,私の精神年齢が若すぎたからなのでしょうか。当時の私は,この女性はミュージカルオタクの好かない女性だ,程度でしか思わなかったのです。
 そのときの女性のことは忘れましたが,日本に帰国して,私は,すっかりミュージカルのとりこになりました。しかし,日本で上演されるミュージカルは本場ブロードウェイのものに比べて,物足りないものでした。
 そして,それから35年ほどして,私はブロードウェイで再びミュージカルを見ました。見たのは「シカゴ」でした。
 当然ながら,そのときは,行きの機内で女性に誘われることもなく,ひとり,ミュージカルを見ました。そして,忘れていた40年前のことを思い出しました。あのときの彼女はいったい今ごろ何をしているのかな,と思ったことでした。


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 「西洋絵画の見方がわかる世界史入門」という本を読みました。
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 絵画は歴史の中で描かれます。つまり絵画作品は,様式や傾向も含めて,歴史の動きや流れとなんらかの関係があると言ってよいでしょう。
 本書では,作品が生まれた背景や歴史的位置づけ,そして絵画の見方について,世界史の流れや変化とともに解説していきます。近世から現代まで,どんな絵画や芸術運動が生まれ,それらにはどのような特徴があるのかを世界史の中で理解することができます。その過程で絵画の存在意義が問われ,「わかりにくい」と言われる「現代アート」が生まれていった理由も見えてくるでしょう。
  ・・・・・・
というのがAmazonにあったこの本の紹介です。

 私は,クラシック音楽は好きですが,絵画はわかりません。
 旅に出ると,よくその土地にある美術館に行くので,多くの有名な作品は見たことがあるのですが,これでは「猫に小判」。もったいない話です。
 中学校の芸術の授業で,音楽は音楽史から詳しく学ぶことができたのに,美術では作品を作るだけで,美術史どころか,絵画の見方すら習わなかったことも影響しているのでしょうが -と人のせいにしてもしかたないのですが- 日ごろ,残念な気持ちになっていて,よくわかる本がないかなあ,と思っていたときに出会いました。およそ私の知っている作品を中心に歴史の流れとともに説明がしてあって,読みごたえがありました。
 しかし,絵画を見る,というのはどういうことなのかな? という本質的なことに混乱をしています。要するに,絵画のはじめは宗教画,なのでしょうか。それは,クラシック音楽でも同様なのですが,それが発展して今につながっているのでしょう。私は,キリスト教がわからないから,そもそも,その時点で理解ができないのです。
 クラシック音楽もそうですが,私は,もし,この絵画が部屋の壁にかけてあったら気持ちが落ち着くかな? といったような感じで鑑賞することが多いです。だから,見ていて,思わず別の世界に引き込まれるような絵画が好きです。
 宗教的な難しいことはわかりません。

 美術の世界についてはこれ以上は語れないので,ここで音楽の話に振ります。
 現在,チャイコフスキー国際コンクールが行われています。
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 チャイコフスキー国際コンクール(International Tchaikovsky Competition)は,ロシア連邦政府とロシア連邦文化省の主催で4年ごとに首都モスクワとサンクトペテルブルクで開催されるクラシック音楽のコンクールで,ソビエト連邦時代の1958年にはじまりました。ベルギーのエリザベート王妃国際音楽コンクール,ポーランドのショパン国際ピアノコンクールとともに世界3大音楽コンクールのひとつとされています。
  ・・・・・・
 しかし,2022年,国際音楽コンクール世界連盟はロシアのウクライナ侵攻を受けて,チャイコフスキー国際コンクールの排除を決定しました。
 今年もまた,日本からも参加者がいるのですが,このことに関しては賛否両論があるようです。
 芸術は政治とは関係がないという人もいるのですが,今回取り上げた「西洋絵画の見方がわかる世界史入門」でもわかるように,芸術ほど政治とかかわりのあるものもないわけです。そこで,芸術家はこんなときにどう対応するかが問われるのです。これもまた難しいものです。

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 NHK連続テレビ小説「らんまん」を楽しく見ています。6月いっぱいで松坂慶子さんが演じた主人公槙野万太郎の祖母たきが亡くなったことで前編が終わって,これからの3か月が後編です。私は,見ていて辛くなるドラマは嫌いだし,主人公がいじめられるのもダメですが,このドラマは,登場人物はいい人ばかりなので,こころ穏やかに見ることができます。
 なお,実際の牧野富太郎博士はひとりっ子だったし,祖母とは血のつながりがなかったということなので,このドラマの槙野家の家族は創作ですが,ドラマだから,これでよいのでしょう。

 そんな楽しいドラマですが,このドラマを見るたびに,私は,忸怩たる思いに駆られます。
 それは,このところ,2020年2月,2022年10月,2023年1月と3回高知県へ出かけて,さまざまな場所に行ったのにも関わらず,ドラマの主人公である牧野富太郎博士にちなんだ場所をすべて見落としてしまっていた,というかパスしてしまっていたということです。
 牧野富太郎という名前は子供のころから知っていました。学校で借りた伝記を読んだのです。しかし,特に興味をもったわけではありませんでした。元来,私は「生物」という教科が好きではありませんでした。それがこんなに偉大な人だったとは…。失礼しました。
 だから,高知県立牧野植物園なんて,私が高知県へ行ったころは,こんな場所に大きな植物園があって,だれが来るのだろう? と思ったほどでした。しかし,高知県立牧野植物園の横を通ったときに臨時駐車場があったほどだから,いったいどうして? とさえ思いました。こうして,何度も行く機会があったのにそれを逃してしまいました。また,牧野富太郎博士の生まれ故郷である佐川の町も通ったことがあるのですが,きれいな町だなあ,と思っただけでした。
 日本の旅はこころでするものといつも書いている私が,実は,このように,自分が無知であったために,価値のあるものを見逃していたのです。これを恥じます。

 高知県立牧野植物園だけでなく,高知県佐川町には牧野富太郎ふるさと館,また,東京にも練馬区牧野記念庭園があるということなので,今はドラマが放映されている最中なのでおそらく多くの人が訪れているだろうから,ドラマが終わったころに,ぜひ行って見たいものだと,楽しみにしてます。
 ああ,情けない。

#1#2#3#4#5


◇◇◇
Buck Moon 2023.

梅雨の晴れ間。
久しぶりに満月が見えました。
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 ニューヨークで有名なのは,この夜景です。当時の私は,この景色に最も憧れていました。
 この夜景を見るには,ブルックリンブリッジを渡り,ハドソン川を越え,ブルックリンに行かななくてはなりません。ということで,はじめてニューヨークに行ったときは,ここもまた,私には縁が遠い場所でした。何せ,夜のニューヨーク。ブルックリンもやはり治安があまりよくなかったので,この対岸の夜景は有名であったのですが,行く勇気がありませんでした。

 そんな場所でしたが,その後,私は,この夜景も見たし,ブルックリンブリッジも歩いて渡りました。そんなわけで,今では,ニューヨークでやりたかったことは,このように,そのすべてをやり遂げることができたわけです。
 ニューヨークに限らず,どの場所も,知らないうちは,行ってみたいと思うのものです。だから,勇気を出して,徹底的に行ってみることのほうがよいのです。でないと,いつまでも,そうした願望を抱いたまま歳をとることになります。そしてまた,齢をとった今になってしみじみ思うのは,若いうちにこうしたことはやっておかないと,次第にやる気力が萎えてくるのです。そして,後悔するのです。

 今は,ブルックリンもまた,再開発が進み,高級住宅街となっているようなので,治安も悪くないようです。しかし,ブルックリン全体がそうだとも言い切れないという話を聞いたことがあります。
 この夜景を見たころ,私はブルックリンで道に迷ったことがあるのですが,私が道に迷ったあたりはスペイン語の看板ばかりで,英語も通じず,また,どこを歩いているのかさえ不明になって,そのときは生きたここちがしませんでした。今とは違って,スマホが普及する前のことでした。
 それもまた,今では懐かしい思い出です。


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 コロナ禍以前,あれだけ身近に感じていたアメリカでしたが,今は,精神的には宇宙の果てより遠くなってしまいました。
 物価も非常に高くなってしまい,また,行きたいという気持ちも萎えてしまったので,当分アメリカに行けそうにありません。というか,行く気が起きません。
 そこで,自分を元気づけるために,これまで出かけたアメリカの思い出を書いていきたいと思います。
  
 吉田ルイ子さんの写真集「ハーレム」。ビリージョエルの「ニューヨークの想い」。八神純子さんの「パープルタウン」。これが私のアメリカの原点です。というか,とりわけ,ニューヨークへの憧れでした。
 今とは違って,私が想っていたアメリカという国は,暗くすさんだもの。それは,ニューヨークの薄暗い路地裏でどこからともなく聞こえてくる不気味な靴の音。そんな想像が,ビリージョエルの「ニューヨークの想い」と同化して,憧れに転じていってのです。
 私がはじめてアメリカに行ったのは23歳のときですが,それはサンフランシスコとロサンゼルスへのツアー旅行でした。それが生まれてはじめての海外旅行でした。
 そのときに思ったのは,地球儀や地図帳で見ると,あまりにちっぽけな日本。将来,どんなにお金もちになろうとも,偉くなろうとも,高級車でぶっ飛ばそうと,こんな狭いところでしかチマチマと生きられないというなら,なさけないだけだということでした。しかし,そのころの私は,英語も満足にできなかったし,車も持っていませんでした。お金もちでなく,偉くもなく,高級な車に乗ったことがないのは,今も同じですが…。
 そこで,当時考えたのが,ニューヨークへのひとり旅だったのです。
 23歳のころに行った旅行については,今になってみれば,記憶にあることもないこともあるのですが,きわめて幼稚なものでした。それでも,5番街のカフェでひとり朝食を食べながら,どんなもんだい! と勢に浸っていたのを今も思い出します。

 私がニューヨークで最も行きたかったのはハーレムでした。しかし,治安の悪いというハーレムにひとり行く自信もはじめはなく,2度目に行ったとき,現地ツアーに参加して,なんとかハーレムに到達しました。そして,3度目に行ったとき,そのころは,吉田ルイ子さんが暮らしたころの物騒なハーレムではなく,治安も悪くありませんでしたが,ついに,ハーレムでゴスペルを聴くまでになりました。
 若き日に抱いたアメリカへの想いがすべてかなったのは,それから30年以上経ってから,ということだったのですが,ともかく実現しました。今は,そのころの自分に戻って,また行ってみたいものだなあ,とふと思ったりします。


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 白川郷に来たとき「白山白川郷ホワイトロード」という道路標示を見ました。どんなところか知らなかったけれど,せっかく来たので,行ってみることにしました。
 走ってみてわかったのは,この道路は,かつて「白山スーパー林道」とよばれたものだったのです。ならば,名前だけは知っていたけれど,まさか,この道路を走るとは思いませんでした。
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 「白山白川郷ホワイトロード」は,石川県白山市尾添と岐阜県大野郡白川村鳩谷を結ぶ延長33.3キロメートルの有料道路で,1977年(昭和52年)に開通した「白山スーパー林道」ですが,「林道」が未舗装や運転が難しいことを連想させるとして、2015年に名称を変更したものです。
 霊峰・白山の北側,ブナ原生林の樹海や高山植物などの景観に恵まれた山岳地帯を走る観光道路で,標高は600メートルから1,450メートルです。蛇谷渓谷の深いV字谷の断崖絶壁に沿って走っていて,県境の国見山や三方岩岳越えの区間は高度を稼ぐために大きく回り込むようにつづら折れの道路となっています。
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 白川郷側の馬狩料金ゲートから入って,終点の中宮料金ゲートまで行かずに途中でUターンすれば片道料金でいいといわれたのですが,どこでUターンをすればいいのかわかりませんでした。料金所でもらったパンフレットでは,①から➉までの見どころがかかれてあったので,その最後➉蛇谷大橋まで行くことにしました。道路は曲がりくねっていて,しかも,途中までどんどんと標高が高くなり,また,思った以上の距離でした。
 やっとのことで➉蛇谷大橋に着いたので,そこからUターンして,順に停車しながら戻りました。
 はじめのうちは滝が多く,それぞれ,見ごたえがありました。しかし,⑨親谷の滝・姥ケ滝は,駐車場から往復で30分以上,標高差のある道を歩く必要があったので,残念ながらパスしました。やがて,⑦とがの木台の展望台は標高が1,400メートルという最高地点であり,そこからは雪の残った美しい白山を見ることができました。
 ここから道路は下って行って,最後の③白川郷展望台にはできたばかりの展望デッキがあって,そこから眼下に白川郷の合掌集落がミニチュアのように眺められました。

 よほど雪深い道路らしく,先月までは通行できなかったということだったし,白川郷の合掌集落でうざったかった外国人観光客は来ておらず,また,標高が高いこともあってかなり涼しくて,とてもすばらしいドライブを楽しむことができました。
 いい選択でした。
 この後,東海北陸道を走って,帰宅しました。

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