しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

September 2023

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ローソク島遊覧船で美しいローソク島の岩を見ることができて満足した私は,旅館に戻ってきました。この日の夕食もまた,格別でした。スペシャルメニューはサザエでした。また,昨晩は地元の冷酒を呑んたので,今日はビールにしました。

さて,2023年8月25日。旅の4日目,隠岐諸島の3日目です。
朝,窓から美しい朝日を見ることができました。朝食を終えて,チェックアウト。これから島前に向かいます。
島前は,西ノ島,中ノ島,知夫里島の3つの島からなり,私が島前で予約した旅館は西ノ島にあります。島後から島前の各島への移動は,本土と隠岐諸島をつなぐ3隻のフェリー「おき」「くにが」「しらはま」のいずれかを使います。
  ・・
●フェリー「おき」
私が島後に来るときに乗ってきたフェリーが「おき」です。「おき」は,午前9時本土の七類港を出発して,島後の西郷港に午前11時25分に着きます。そして,午前12時5分に西郷港を出発して,島前では,まず,中ノ島の菱浦港に午後1時15分着するので,中ノ島に行くには,このフェリーが利用できます。しかし,西ノ島に行くには,なんとその2時間後の午後3時15分に中ノ島を出発して,西ノ島の別府港には午後3時30分着というスケジュールなので,このフェリーに乗ると,島後から島前・西ノ島までは3時間25分もかかってしまうのです。
また,中ノ島の菱浦港で降りて,そこから島前3島を結ぶ内航船「しまかぜ」に乗り換えることもできるのですが,「しまかぜ」は,午後1時21分に菱浦港を出発して別府港に午後1時28分に着くものしかなく,この便は,中ノ島の菱浦港での乗り換え時間がわずか6分しかないので間に合いません。また,その次の内航船は午後4時47分までありません。ということで,現実的ではないのです。
●フェリー「くにが」
「くにが」は,午後3時10分に島後の西郷港を出発するのですが,そのまま本土の七類港へ行ってしまうので,別府港には行きません。
●フェリー「しらしま」
「しらしま」だけが現実的で,午前8時30分に島後の西郷港を出発して,島前・中ノ島の菱浦港に午前9時40分着,そして,わずか10分後の午前9時50分に菱浦港を出発して,午前10時5分に西ノ島の別府港に着きます。これなら,島後から島前・西ノ島まで1時間35分ですが,これしか選択肢がないのです。
このように,隠岐諸島を旅するのは,難解なパズルを解くようなものです。
結局,私のように,先に島後に行って次に島前の観光をしようとすれば,島前では,西ノ島ではなく,中ノ島に旅館をとったほうが,船便だけをみれば便利だったのです。こんなことわかるか! という感じです。しかし,私が,西ノ島に旅館を予約した最大の理由は,中ノ島にはレンタカーがない,という情報が元となっていました。だから,いずれにしても,西ノ島でレンタカーを借りなければはじまらないから,西ノ島に行くしかなかったのです。
このような事情で,もともとは,午前中は島後を観光して,午後,島前に行こうと思っていたけれど,朝早く島後を後にして島前に向かうことになったのです。午前8時30分の「しらしま」に乗船し,時間通り,午前10時5分に島前・西ノ島の地を踏みました。

もう少し続けます。
島前の中ノ島,西ノ島,知夫里島の3島を足した面積は,島後の4分の1程度です。地図を見るとわかるのですが,もともと島後のような丸い島の真ん中が浸水して海になって離れたような感じですが,いずれにしても,島前の3つの島を観光するには,海を越えなければなりません。
また,狭いといってもどの島も徒歩で観光できるわけがなく,車が絶対必要ですが,「地球の歩き方JAPAN・島旅」によると,西の島には軽自動車のレンタカーが15台ほど,知夫里島には5台ほど,そして,中ノ島にはレンタカーはない,とありました。いったいどうやって観光するの? という感じでした。
3つの島の間は,内航船「しまかぜ」とともに,10台ほどの車を運ぶことができるフェリー「どうぜん」があるから,島前・西ノ島で借りたレンタカーをこれで別の島に運ぶと書かれてありました。「どうぜん」は便数も少ない上,予約不可だったので,車を乗せるのは早い者勝ちということになり,乗れなかったどうするの? あるいは,帰ってくることができなくなったらどうするの? と思いました。現実問題,満員になることはまずないらしいのですが,そんな情報もまた,「地球の歩き方JAPAN・島旅」には書いていないし,ネットで調べても出てきません。
そんな多くのことを心配しながら,ともかく,西ノ島でレンタカーを借りなければ何もできないので,わずか15台が満員にならないように,早めに予約して,確保してありました。実際,このレンタカーは満車になることがよくあるそうです。ここでもまた,隠岐諸島を旅するのは,難解なパズルを解くようなものでした。
隠岐諸島の観光協会さま。観光客を誘致したいのなら,もう少し船の便のダイヤを考えてください! 船舶業者の縄張争いをしている場合じゃありません。

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◇◇◇
Harvest Moon 2023.

中秋の名月です。
New1s


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 東京には多くのオーケストラがあります。それぞれのオーケストラの特徴を知りたのですが,そうしたことが書かれたものがなかなかありません。探しても,ランキングとか,どこが上手だとか,そういういかにも日本らしい比較ばかりです。私が知りたいのは,そういう話ではなく,それぞれがどういったことをウリにしているのか,というようなことです。
 もし,私が東京に住んでいたら,どのオーケストラを贔屓にするか,きっと迷うことと思います。定期会員のよさは,毎回,苦労してチケットを買わなくていいということなので,どこかのオーケストラの定期会員になるだろうけれど,その選択は,オーケストラが上手,下手とかはさておき,どの会場が便利であるかとか,プログラムが自分好みであるかとか,聴いたあとで満足できるか,そういうことで決めるだろうと思います。

 さて,2023年9月27日,豊田市のコンサートホールで,東京都交響楽団の演奏会があるというので,チケットを購入しました。行くことにした理由は,まずは,プログラムがブラームスのヴァイオリン協奏曲と交響曲第4番という私の大好きな曲目だったからです。ふたつ目は,ヴァイオリン協奏曲を演奏するのが,服部百音さんだったことです。そして,最後に,私が豊田市のコンサートホールの友の会の会員で,優先的にチケットが購入できることでした。
 指揮者はオランダ人のローレンス・レネスさん(Lawrence Renes)という人でしたが,私はよく知りませんでしたが,なかなかすばらしい指揮者でした。
 数年前に一度,東京で東京都交響楽団のコンサートを聴いたことがあります。以前,NHK交響楽団に在籍していたビオラの店村眞積さんとか,コントラバスの池松宏さんが首席で在籍していて,のびのびと演奏していたのが好印として残っています。たえず,テレビカメラの目にさらされているよりも,このほうがいいのだろうと,私は思いました。

 服部百音さんは,難しい曲を選ぶことが多く,それがストイックさにつながっているだろうと思うのですが,そうした無理がたたったのかどうか,体調を崩してしまい,しばらく入院していたので,とて心配しました。そして,ずいぶんとやせてしまいました。何かにつかれたようなストイックさから卒業して,力を抜いて演奏が楽しめるようになったとき,服部百音さんは,もう一段高みに達することができるだろうと,私は思っています。
 前回私が聞いたのは,名古屋フィルハーモニー交響楽団の定期公演でバルトークのヴァイオリン協奏曲第2番という,これまで聴いたこともない難曲を演奏する姿でしたが,今回は,ブラームスという,非常にポピュラーな曲をだったので,より楽しみにしていました。考えてみれば,私は,ブラームスのピアノ協奏曲は何度もライブで聴いたことがあるのですが,ヴァイオリン協奏曲はほとんどライブで聴いたことがありません。長くてむずかしいから,らしいです。

 今回の演奏会では,服部百音さんの弾くブラームスは,やはり彼女らしく,力強く,躍動感があって,時折,指揮者と対決するような感じでした。また,交響曲第4番,これがまたとてもよかったです。
 ちなみに,アンコール曲は,ヴァオリン協奏曲のあとがクライスラーの「レチタティーボとスケルツォ」からスケルツォ,交響曲第4番のあとがブラームスの「ハンガリー舞曲」第1番でした。
 私は専門家でないので,演奏のよし悪しなんて技術的にはまったくわからないのですが,とにかく,聴いていて元気になれるものがいいと,このごろ思います。もう,この歳になると,何の憂いもなく,自分が楽しいとおもうことだけが,耳に入り目で見ることができればそれでいいのですが,そんな私でも,これはいい演奏だなあ,とこころから思いました。これほどすばらしい演奏会をひさびさに聴きました。
 また,今回の演奏会に限らず,他の演奏会のプログラムを見ても,東京都交響楽団は,私の聴きたくなる曲ばかりなので,もし,東京に住んでいたら定期会員になってもいいなあ,とも思いました。
 平日の夜,名店で,極上の食事を味わうような,こんな演奏家を楽しむことができたのは,この上なく幸せなことでした。

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ローソク島は,島後北西部の海面上に高さ20メートルほどの,約500万年前の鮮新世前期に噴出して出来た火山岩で形成されている,面積はわずか0.0033平方キロメートルの,島というより,単なる岩です。ローソクのような細長い形状で,特に夕日が先端に重なったときに灯がともっているように見えるさまことで,島後最大の観光地となっています。
地元では古くからその存在が知られていたのですが,広く知られるようになったのは第2次世界大戦後に観光地化が進んで以降ということです。
  ・・・・・・
隠岐諸島のどこなのかは知らねど,ローソク上の岩のてっぺんに沈む太陽が重なっている写真を見たことがある人は多いことでしょう。
しかし,これもまた,天気次第です。
私は,これまでに,オーロラ,皆既日食,南半球の星空など,天気次第,というものをずいぶんと見てきました。このように,旅というのは,特別なものを見てみたいと思うと,その多くは天気次第なのです。高いお金をかけてわざわざ行って,それがかなわないときのトラウマもまた,かなりのものとなります。幸い,強運の持ち主の私は,それらすべてがかないましたが,それを再びはじめからやってみろといわれても,到底かなうとも思えません。悔しい思いをしている人も少なくないでしょう。そうして意味でも,旅は,楽しい反面,かなりのリスク? を伴うものです。
ローソク島遊覧船でもまた,目的がかなうかどうかはわかりませんでした。このところの天候を考えると,むしろ,絶望的でもありました。

ローソク島遊覧船の予約は一括して隠岐の島観光協会が行っていて,隠岐諸島のアプリからできたのですが,それがまあ,出来が悪いというか,要領を得ないというか,不親切というか,予約ができても反応がなく,1週間前に返事が来るとあったので,わざわざアプリの通知機能をONにして待ちました。この通知機能もまた,私には必要のない通知が毎日のように入ってくるし,それでも,1週間前にやっと届いた通知には,氏名や住所などを入力することになっていたのにもかかわらず,バグがあって,返信ができず,結局,隠岐の島観光協会まで電話をしました。
また,出航するかどうかも当日の天候次第ということで,その可否は直前に電話で知らせるということでした。さらに,ローソク島遊覧船が出航するのは,五箇の福岸壁,または,赤崎岸壁のどちらかということで,そのときに,そのどこに集合するかも同時にわかるということでした。こんなのどかなシステムは改善の余地があります。

この日は,幸い快晴で,もちろんローソク島遊覧船は出航が決まり,私の乗るのは赤崎岸壁からということでした。集合時間より早く着いたので,もうひとつの出航場所である五箇の福岸壁にも行ってみました。五箇の福岸壁のほうは,観光船のターミナルらしく,きれいな建物があり,そこには,土産物も売っていたし,カフェもトイレもありました。時間つぶしに,私は,そこでソフトクリームとたこ焼きを食べました。帰ってから知ったのですが,これは,地元で校長を定年退職した人がはじめたと新聞記事にありました。しかし,赤崎岸壁にはトイレすらなく,単なる雑草が繁る広場でした。
以前は個人観光客の依頼に基づいてボランティアがローソク島を案内する形態だったのが,2002年(平成14年)から,予約制の有料遊覧船が就航しているということですが,おそらく,地元の船持ちがそれぞれ隠岐の島観光協会に登録して,お客さんを手配してもらっている,というものらしく,ひとつの大きな会社があるわけでもなさそうです。そこで,その船持ちが所属する岸壁から船が出る,ということみたいです。だから,料金は,乗船するときに船乗りにお金を直接渡します。

午後5時を過ぎると,赤崎岸壁に,2台の観光バスと何十組かの個人旅行の車がやってきました。こんなに大勢が乗れるのかな? と心配になるほどでしたが,なんとかなりました。
船に乗り組んで,私は,一目散に,最前列右側の座席に陣取りました。こういうとき,要領がいいのです。
やがて出航しました。港を出ると,もう1隻の船が並走してきました。おそらくこれは,五箇の福岸壁からのもので,この日は,合計2隻がローソク島をめざすことになりました。
私の乗った船は室内から窓越しにしか見ることができず,もう1隻の船は甲板上に座席があったので,損した気分になりました。これもまた,それぞれ,別の船持ちが独自に営業しているからなのでしょう。
それにしてもローソク島にある岩の先端と太陽が重なる地点なんて限られているから,多くの船が出ることもできず,かなり無理な企画です。これは。
ちなみに,陸地はどこも断崖だから,小さなローソク岩を見上げることができる場所はなく,ローソク状の岩の先端と太陽が重なるというのは船からだけ見ることできるのです。

ずっと雲ひとつなかったので,私は楽観していたのですが,なぜか,ローソク島に近づいたら,雲が出てきました。それでも,なんとか,絶景を見ることができました。むしろ,雲ひとつないときよりも,雲で太陽が揺らいでいるほうが炎らしくていいとも思えました。また,船を回転する余裕がなく,まともに窓から見ることができたのは,私の座っていた右側の座席からだったので,これもまたツイていました。
船は,行ったり来たり,島に近づいたり遠ざかったりと,アクロバティックな操縦をしました。私は,カメラのシャッターを連射して,何とか写真をものにしました。
結局,こうして,なんとか天気も味方してくれたのですが,旅に出る前に予約しようとして満員だった前日は,天気も悪く,これもまた,私の強運のなせる業でした。

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 せっかく隠岐にきたので,牛突きとかいう牛さんのお相撲が見たかったのですが,それが,観光牛突きという形で実現しました。時間は午後2時30分からで,予約は不要ということでした。つまり,満員にならない,ということです。
 会場は,隠岐モーモードームというところで,時間前に到着したので,時間つぶしにとなりの隠岐国分寺に再び行ってみました。昨日とは違い,係の人がいたので,入場料を払って中に入り,博物館を見学することができました。
 博物館で,ちょうど,私のように牛突きを見にきていた子供つれた若い夫婦と会いました。彼らは私と同郷で,今は島前に移住しているということでした。壱岐島,小浜島,黒島など,離島に来ると,こうした都会を脱出したという人にけっこう出会います。

 隠岐の牛突きは,承久の乱で隠岐に配流になった鳥羽上皇を慰めるためにはじまったと伝えられています。隠岐の牛突きは手綱を使って行い,1トンクラス のオス牛が土俵狭しと激突します。本場所では,勝負は時間制限なしにどちらかが逃げ出すまで行われ,長い取組では1時間以上続くといいます。勝ち抜いた牛は横綱として敬意が払われ,負けた牛はお肉になります。
 9月1日に佐山牛突場で開催される「八朔の牛突き」は,昔から壇鏡神社八朔祭の余興として行われ,古式ゆかしい文化財として,また,民俗娯楽として引き継がれています。また,10月13日に一夜嶽神社の祭礼として行われる「一夜嶽(いちやがだけ)牛突き大会」は,一夜嶽神社の拝殿の向かいにある牛突き場で行われています。それ以外にも,隠岐モーモードームで,1月の第2日曜日に初場所,8月15日に夏場所,11月上旬に上西神社で奉納牛突きが行われます。「地球の歩き方JAPAN・島旅」には年3回の大会とありますが,間違いです。
 こうした本場所は,観光客にはなかな見ることができないので,隠岐モーモードームで,団体ツアーなどの予約がある日のみ,伝統文化として観光牛突きを実施しているということですが,私は,運よく,この日実施されていたので,見ることができました。
 広いドーム型の会場には,まばらな観客がいました。
 開始時間になると,2匹の牛が現れて土俵入りをしたのち,牛突きがはじまりました。取組はおよそ10分程度でしたが,観光牛突きでは勝敗をつけず,引き分けにするということで,時間になったときに終了し,そのあと,牛さんと写真を撮ることができました。

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かっぱ遊覧船を降りて,この後は,午後2時30分からはじまるモーモードームの観光牛突きまでの時間,まだ行っていない島後の見どころをまわることにしました。そのはじめは檀鏡の滝(だんきょうのたたき)でした。
  ・・
その前に私は,寄りたい場所がありました。それはかっぱ遊覧船に乗ったときに紹介された八尾川かっぱ公園でした。ここには,水木しげる作ものもはじめとして,多くのかっぱの像があるのです。
それにしても,どうして隠岐でかっぱなのか?
  ・・・・・・
八尾川は,古くから,増水による氾濫や渇水による水不足,水難事故に人びとは悩まされてきたので,水にまつわる伝承として,河童伝説がうまれました。また,西郷の町には「福河童大明神」という祠がありますが,この祠は,松岡家に代々伝わる河童伝説の河童を神格化させたもので,1962(昭和37)年に作られました。また,「福河童大明神」の入魂式のときに誕生したのが「河童踊り」で,踊りによって「河童祭り」が誕生することになりましたが,徐々に衰退していきました。
こうした経緯から,1999年(平成11年)に生まれたのが「八尾川かっぱ公園」でした。そして,観光事業として,2010年(平成22年)には「かっぱ遊覧船」の運行がはじまりました。
  ・・・・・・

ということで,かっぱ公園に寄ったのち,檀鏡の滝をめざしました。
私は,この滝にずいぶん期待しました。檀鏡の滝は,「古くから「勝ち水」といわれた特別な水」としてこの滝の水を飲むと勝負ごとに勝つといわれているということでした。前日に岩倉の乳房杉に行ったときのように,山の中を進み,やっと着いたと思ったのが駐車場で,滝はそこから30分も歩く必要がありました。いっそやめようかとも思いました。なにせ,ものすごく暑い日でした。それでも,なんとか登り切りましたが,そこで見たのは,古びた社だけで,一体どこに滝があるの? という状況でした。よく見ると,確かに高くそびえた崖の上からちょろちょろと水が流れています。これが滝か?
これこそ,隠岐の三大がっかりの筆頭でした。

かなり落胆しましたが,引き返すことにしました。その道すがら,一応,この島の観光名所らしきところにいくつか寄りました。
まず,島の西側の海岸の那久岬までいきました。そこにも灯台があって,美しい海と海岸線を見ることができました。そこから海岸にそって北に行くと油井前の州があるといことだったのですが,行ってみても単なる漁港でした。
引き返し,亀の原水鳥公園,佐山牛突き場と行きましたが,どこも,何がある,というものでもありませんでした。
いずれにしても,これで,私がレンタカーを借りたときにもらった「隠岐島後ドライビングMAP」にかかれれあったあった見どころのほぼすべては見終えました。
そこで,モーモードームへ行くことにしたのですが,この日は,まだ,昼食をとっていなかったのです。とはいえ,この島で昼食がとれる食堂をさがすのは困難なのです。また,贅沢な話ですが,これまで,連日おいしいもを食べ過ぎていて,何を食べたいということもなくなっていました。そこで,何とか見つけたコンビニで,パンを買いました。この旅で痛感したのは,ご馳走はたまに食べるからこそ,ということでした。

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 例年,新しい年の1月や2月に行われているNHK交響楽団の名古屋公演です。しかし,どういうわけか,2024年のはじめに行われるはずが,今回は,2023年9月23日でした。そこで,今日のブログの題名に困ってしまい,「2024?」となった次第です。
 今回の曲目は,NHK交響楽団9月定期公演Bプログラムと同じで,モーツァルトの交響曲第29番,フルート協奏曲,そして,交響曲第39番と,オールモーツアルトプログラムでした。私が先日東京で聴いたオールリヒャルト・シュトラウスのプログラムに比べたら,ずっといいです。
 ただし,ちょっと短いです。もう1曲,モーツアルトのオペラ序曲があってもよかったなあ。
 それにしても,よく練られているもので,Aプログラムがリヒャルト・シュトラウスで,Cプログラムがワーグナーと大編成が続いたものだから,Bプログラムではモーツアルトをプログラムにあげて,多くの団員さんをお休みにしよう,という感じです。時折,こんなプログラムがあります。しかし,何といってもモーツアルトです。この,異常に暑かった今年の夏の終わりの9月には,これ以上の清涼剤はありません。
 これほどポピュラーな3曲だから,曲の紹介は必要ないでしょう。 ということで,それは割愛します。

 今回は,指揮者がトン・コープマンさん(Antonius Gerhardus Michael Koopman)でした。すでに,NHK交響楽団には,2017年と2019年に客演してオールモーツァルトプログラムを披露しているということですが,定期公演ははじめてということで,私は,これまで聴いたことがありませんが,当然名前だけは知っていました。トン・コープマンさんで私が連想するのは,バッハですが。
 トン・コープマンさんは,1944年オランダのズヴォレ生まれというから,79歳ですか。いいおじいちゃんです。
 自ら設立したピリオド楽器によるアムステルダム・バロック管弦楽団とともにバロックから古典派に至るレパートリーを取り上げ,作品の成立した時代のスタイルと奏法に基づく演奏によって高い評価を得てきた,ということなので,今回は,ピリオド奏法なのか? と思ったのですが,単にオーケストラの規模が小さいだけでした。なにせ,第1ヴァイオリン,第2ヴァイオリンがそれぞれ8人,ヴィオラが6人,チェロが5人,コントラバスが3人,そして,木管と金管で,全部で30人足らず。フルート協奏曲に至ってはさらに1割ほど少ない,というこじんまりとしたものでした。
 名古屋市の次は伊那市だそうですから,少人数で楽しい演奏旅行です。

 2曲目のフルート協奏曲のソリストは,NHK交響楽団首席フルート奏者の神田寛明さんですが,時折,NHK交響楽団の定期公演では,首席奏者がソリストを務めます。その,神田寛明さんが3曲目の交響曲第39番では,オーケストラ席でフルートを担当していました。大忙しです。
 今回のコンサートマスターは,長原幸太さんという読売日本交響楽団のコンサートマスターが務めました。長原幸太さんはテレビで読売日本交響楽団のコンサートが放送されるときに,時折見たことがありますが,こうして,入れ替わり立ち代わりコンサートマスターが代わると,以前書いたように,本当に,NHK交響楽団は次のコンサートマスターを探しているような感じがします。さすがに,NHK交響楽団に神奈川フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスター石田泰尚さん,という手はないでしょうが,一度,そんなコンサートを見てみたいものです。

 モーツアルトは,当然ですが,いいです。ザルツブルグの香りがします。今回の演奏の特徴といえば,交響曲第39番でティンパニを強調してオーケストラを引っ張っていたことでしょうか。
 モーツアルトほど,演奏者の力量次第で聴く側のこころに響く力が異なるものもないと思うのですが,私が先日聴いてきたリヒャルト・シュトラウスの半分以下の規模で,これだけのコンサートができるとなれば,複雑な気持ちがしてきます。
 ということで,暑さも少しは和らいだ9月の土曜日の昼下がり,充実した時間が過ごせました。
 それにしても,愛知県芸術劇場コンサートホール,できれば,行きたくないホールです。ホール自体は音がよいということですが,建物の作りが悪すぎます。通路は狭いし,まっすぐに進めないし,エスカレータは混みあって,慢性的渋滞。地震であったらどうするのでしょう? これだけひどいものがどうやったら作れるのか,と思うほどの設計です。何とかならないものなのでしょうか? 災害でも起きなければ改善されないのでしょうか?

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 せっかく入会資格ができたので,「ジパング倶楽部」に入会することにしました。
 海外からの旅行者には,多くの日本人がその存在を知らない「JAPAN RAIL PASS」という特典があります。これだけ円安で国民が苦しんでいるのに,外国人観光客にこれ以上の待遇を与える必要などないと私は思うのですが…。むしろ,インバウンド公害税をとるべきです。さて
  ・・・・・・
 「ジパング倶楽部」はJRグループ共通のシニア会員制度で,男性満65歳以上,女性満60歳以上が入会できます。また,夫婦のどちらかが満65歳以上であれば夫婦会員になれます。
 JR線を営業キロで201キロメートル以上利用する際に,乗車券,特急券等が3割引(入会後はじめの3回は2割引き)で購入できます。ただし, 新幹線「のぞみ」「みずほ」の特急料金及びグリーン料金,「はやぶさ」の特急料金及びグランクラス料金は割引になりません。また,4月27日から5月6日まで,8月11日から20日まで,12月28日から1月6日までは利用できません。
  ・・・・・・
というものです。

 もともと海外旅行ばかりをしていたので,国内旅行にはほとんど興味がなかったのですが,近ごろ,「今行かないとこの先も行かないだろうというところ」にわざわざ出かける旅行をはじめたら,おもしろくなってきました。また,これまでは,飛行機を使って現地まで行って,そこでレンタカーを借りるという旅行をしていたのですが,これからは列車もいいなあ,と思うようになってきたので,入会したわけです。
 愛知県に住んでいると,東京以北を旅行するとき,どこに行くにも,とりあえず東京に出なければならないのですが,これがとても馬鹿らしいのです。むしろ,岩手県や山形県よりも遠ければ飛行機で行くことができるのですが,それより近いと中途半端に遠いので,車では遠く飛行機では近すぎるから,列車で行くことになります。
 ただし,東京へ行くだけなら,「ジパング倶楽部」を利用して3割引きにするよりも安価なチケットがあります。たとえば,「ジパング倶楽部」を利用して「ひかり」の指定席に乗るより,JR東海ツアーズのずらし旅を利用すれば「のぞみ」のグリーン車のほうが安いのです。

 列車に限らず,この国では,何かをしようとするとき,かなりの知恵が必要です。たとえば,外食をするときも,なんらかの割引があったりクーポンがあったりして,それが一切なければ何ということもないのですが,後でもっと安かったとわかったときには,むしろ損をしたという思いの方が強くなってしまいます。これでは,サービスが逆効果ではないか,と思うこともあります。
 旅もまた同様で,JRのチケットだけでも,あまりに多くの値引きがあるので,それを調べるだけでも大変です。まあ,先に書いたずらし旅以外は,「ジパング倶楽部」の3割引きがもっとも安価だと思うので,せいぜいこれを利用して,まめに旅をしたいものだ,と思って,時刻表まで購入してしまいました。
 「ジパング倶楽部」は,旅を楽しむ以上に,ボケ防止に最適かもしれません。

 …ということだったのですが,このたび,まさにボケ防止に最適な出来事が起きてしまいました。このことはまたいずれ。


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かっぱ伝説と北前船で栄えた漁師町をまったりと舟遊び。
隠岐の島町では,北前船で栄えた西郷港周辺を遊覧船に乗ってお楽しみいただける八尾川かっぱ遊覧船を運航しております。
  ・・・・・・
ということで,「地球の歩き方JAPAN・島旅」に大きく紹介されていたかっぱ遊覧船を予約したのですが,私以外に参加者いるのかな? と思いました。実際は,私のほかに,家族連れが1組乗りました。また,予約した時点では,一体,どこを遊覧するのかな,と思いました。もちろん,それは,実際に乗ってみれば判明するのですが…。

ところで,話は少し逸れますが…。
今回旅をした隠岐諸島は,とてもいいところでした。食事も宿泊も最高で,私は好印象をもちました。また,観光案内所もとても親切でした。ただし,はじめて旅をするには,よくわからないことが多々あるので,自分で工夫する余地が多々あることを知りました。
本土から乗ってきたフェリーもそのひとつでした。フェリーは予約不要で乗ることができるのですが,雑魚寝の2等客席は早い者勝ちだから,乗船名簿を早く記入して,それを窓口に出してチケットを手に入れることがポイントでした。ぐずぐずしていた私は,フェリーに乗ったとき,すでに2等客席は人が一杯で,居場所を確保するのに苦労しました。
このかっぱ遊覧船については,集合場所である西郷港のポートプラザというものがどこなのながよくわかりませんでした。これは,隠岐ビューポートホテルというちょっと古びたビルの1階に隠岐旅工舎という観光会社のカウンタがあって,そこが集合場所だったのですが,このビル,どこにもポートプラザという表記がなかったのです。どうやら以前は,このビルが隠岐諸島の観光のポータルサイトだったらしいのですが,2階にあった観光案内所が新たにできた隠岐港のフェリーターミナルに移ってしまったことで,わけがわからなくなってしまったようです。
次に,かっぱ遊覧船に乗るためには車をどこに駐車すればいいのかがわからなかったということがありました。かっぱ遊覧船のパンフレットには「駐車場はない」と書かれてあるのですが,これはあまりに不親切です。この島を観光するにはレンタカーが必要なのに,車を停める場所が示されていないなんて! 実際は,西郷港の前に広い駐車場があって,一見有料ですが,1時間以内なら無料だし,それを越えると,はじめの時間から遡って1時間わずか100円で,しかも,1日停めても600円でした。だから,「西郷港の駐車場に停めてください」と書いてあればいいのです。
駐車場には駐車券とかいうものはなく,自由に出入りすることができるようになっていました。駐車場の入口に小屋があって,そこに係の人いて,いちいち車の出入りをチェックしてノートにナンバーを手書きで書き込んでいて,出るときに,無料時間を越えていたら,その係の人にお金を払うという,きわめてのどかなシステムでした。
私は,駐車場の件は,不安だったので,事前に観光案内所で聞いていたから,なんとかなりました。

話をかっぱ遊覧船に戻しまして…。
島後でもっとも古い西郷の町はハ尾川(やびがわ)の中州のようなところにあります。また,西郷の町にある西郷港は東西約5キロメートルに広がっていて,水深も深く,江戸から明治初期にかけて北前船の風待ち港として栄えていたといいます。
かっぱ遊覧船は,西郷港から西郷湾を外洋に向かて進み,少しだけ防波堤を出て,外側から島の側壁を眺めてから,引き返し,八尾川をかっぱの淵の水神様まで上っていってそこで引き返す,というルートでした。
船は外洋に出ると,最後に赤のコントラストが美しい西郷大橋をくぐります。私の宿泊している「隠岐シーサイド岬」や隠岐世界ジオパーク空港は,この西郷港から西郷大橋を渡ったところにあります。再び西郷大橋をくぐり,今度は,八尾川を遡っていきました。
八尾川には用水路があります。これは八尾川の氾濫を防ぐために昭和初期に作られたものです。八尾川では,漁師街の日常風景を見ることができたし,西郷の町並み,島の山々などの光景を眺めながらの楽しい船旅でした。
かっぱの住処があったと伝えられているのがかっぱ淵で,そこには船でしか参ることのできない水神様が祀られています。船はかっぱ渕を通り過ぎると,港町ならではの風情が漂う八尾川に架かっている博愛の精神から私財で建てられた橋である「愛の橋」をくぐり,さらに,遊覧船の乗り場の近くにある1,500年以上前に建てられた由緒正しい水祖神社(みおやじんじゃ)を右手に見て,西郷港に戻ってきました。現在の水祖神社は,以前の水祖神社と天満宮が一緒になったものなので,鳥居がふたつある神社ということでした。

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2023年8月24日。旅の3日目,隠岐諸島の2日目です。
朝,窓を開けると,ちょうど東側に面していて,山の間から,美しい日の出を見ることができました。この静けさがたまらくいいです。そして,朝食。朝食もまた,私の嫌いなバイキングでないところがいいです。旅の食事はこれでなきゃ,という感じです。
  ・・
それにしても,私は,バイキングとかいう名前にも抵抗があります。アメリカンコーヒー,ナポリタンスパゲティなどと同じように,だれが名づけたのやら。アイスランドに行ってから増々そう思うようになりました。
バイキングは和製英語。棚に並んだ料理の中から好きなものを自由に選ぶ食べ放題の形式を日本のホテルがはじめたときにこう名づけたことによって,それが転嫁して,食べ放題のことをバイキングというようになったそうです。
英語では,ビュッフェ形式(Buffet)ですが,「取り分けた分の料金を支払うので食べ放題とは異なる」という説明が書かれたブログがあったのですが,アメリカやヨーロッパのホテルの朝食でも日本のバイキング形式のところが結構あって,それらはbreakfast buffetというから,その説明は正しくありません。
海外のホテルのように,広々としたところでゆったりと朝食がとれるのならともかく,狭い場所で,我勝ちに食材に群がって,トレーをもって席を確保して,なんて,旅先でやることではありません。

さて,すでに書いたように,この日は,午前10時からかっぱ遊覧船,午後2時30分から観光牛突きアトラクション,そして,午後5時からロウソク岩遊覧船という予定だったので,自由な時間があまりなさそうなきがしていました。しかし,かっぱ遊覧船は1時間程度,観光牛突きアトラクションは20分程度なので,けっこう時間があることがわかりました。
そこで,この時間を利用して,島後でまだ行っていないところをめぐることにしました。
まず,かっぱ遊覧船の時間まで,旅館の近くを見てまわることにしました。
  ・・
私の宿泊する「隠岐シーサイド岬」のある高台から西郷港の反対に,西郷岬に向かって海岸を時計まわりに走っていくと,隠岐世界ジオパーク空港がありました。
  ・・・・・・
1965年(昭和40年)に開港し,2006年(平成18年)に現在の位置に移転した2,000メートルの滑走路を持つ隠岐世界ジオパーク空港は,隠岐の島町の中心地から南に約3キロメートルほど離れた西郷岬半島の先端部に位置します。年間利用者数は約国内3万人です。
  ・・・・・・
この空港,こじんまりとしていたのですが,アメリカの地方の小さな町の空港のような感じでした。離島に行くには空路が便利だと思うのですが,佐渡島など,なかなか定着しません。それに比べて,壱岐諸島は,それなりの需要があるようで,空港も活気がありました。直接大阪の伊丹空港に行くことができるというのがメリットとして大きいのかもしれません。
隠岐世界ジオパーク空港の先が西郷岬で,そこには1921年(大正10年)に建てられた西郷岬灯台がありました。また,ここは「夕日の見える丘公園」と名づけれらていて,確かに,夕方には美しい夕日が眺められる場所です。また,ここから,かすかにトカゲ岩を見ることもできます。

西郷岬をぐるりと回って,国道485号線まで戻ってきました。
昨日行ってみたけれど閉まっていた玉若酢命神社に隣接する億岐家住宅に行ってみました。社司を代々勤める神主家の億岐家が古代の国造を称し,玉若酢命の末裔とされていて,ここには宝物殿があるのです。
呼び鈴を鳴らすと,家の人が出てきて,宝物殿の中に入れてくれました。そして,ていねいな説明がありました。
宝物殿には,国の重要文化財に指定されたここにしか現存していない隠岐国驛鈴(えきれい)が2個,唐櫃(からびつ),億伎倉印(おきそういん)が展示されていました。
  ・・・・・・
646年(大化2年)の大化の改新の詔に「はじめて京師を修め,畿内の国司,郡司,関塞,斥候,防人,駅馬,伝馬を置く」とあり,駅馬伝馬の制度ができて,5里,約20キロメートルごとに駅が築かれました。驛鈴は,律令時代,駅使が乗用を許された駅馬の匹数を刻んだ鈴で,通行手形として,官吏が公用で中央に行く際に帯同し、身分証明になるものでしたが,億岐家住宅の宝物殿にしか現存していません。現代の駅伝という名称も、駅から駅を移動する際に、駅鈴を人・馬調達のために鳴らした「駅伝制」にちなんで命名されたものです。
唐櫃という大きな箱は,1786年(天明6年)に光格天皇がここの驛鈴を実見した際に,律令制度と天皇制の証に感服し,驛鈴を入れて光格天皇が下賜したもので,御所が焼失して新御所への遷行行列にもこれを加え,朝廷の存在と権威を世に知らしめました。
億伎倉印は,奈良時代,租庸調で徴収した税収品の出納に使用されたもので, 国司が所持し出納の事務処理に関して捺印しました。現存するのは隠岐,駿河,但馬のみということです。
  ・・・・・
隠岐諸島にはすごいものが残っているのだなあと思いました。

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今回の旅で,島後に2泊,島前に2泊したのですが,どちらも,泊った宿も食事も最高で,私が理想としているものでした。今回は,はじめて隠岐諸島へ行ったこともあり,さまざまな見どころをもれなく見ようと思ってあわただしかったこともあり,また,例年とは異なってとても暑かったこともあったので,それが残念でしたが,もっとのんびりとすれば,隠岐諸島には,さらにいい印象をもつことになるでしょう。
これまで行った離島,まず,石垣島は,飲み屋で騒ぐにはいいところなのかもしれませんが,私の好みではありませんでした。佐渡島は宿も食事もよく,とてもいい島でした。でも,思った以上にさびれていました。壱岐島はちょっとがっかりでした。そして,今回の隠岐諸島は,いろいろな意味で最高でした。

「隠岐シーサイド岬」に戻ってきました。食事の前にお風呂に入りました。温泉ではありませんでしたが,こじんまりとしてきれいなお風呂でした。
そして,いよいよ食事です。
この宿は,先代が料理旅館だったところを買ったものということで,料理をウリにしているだけのことがありました。予約をしたとき,わざわざ電話がかかってきて,2泊で異なるメニューを用意します,と女将が言っていたので,楽しみにしていたのですが,この日は隠岐牛が提供されただけでなく,食べきれないほどの新鮮な魚が出ました。

普段お酒を飲まない私ですが,このごろは旅先ではご当地の地酒を冷酒でいただくことにしていて,ここでは隠岐誉を1合呑むことができました。隠岐誉を提供するのは,1972年(昭和47年),菊水,高正宗,沖鶴,初桜,御所の5つの酒造所が合併して設立された島唯一の酒造所である隠岐酒造です。
  ・・・・・・
隠岐の島には,環境省選定「名水百選」に選ばれた湧水が2か所あり,清らかな仕込み水に恵まれています。
冬の日本海を吹き渡るシベリア颪を味方に,最新設備の特定名称酒蔵での徹底した品質管理の中,隠岐酒造は和衷共同を社是として,日本酒と焼酎とリキュールを製造しております。
  ・・・・・・
という酒蔵です。
歳をとってきて,こういう旅の楽しみを知ってしまうと,海外旅行なんてくそくらえ。もう,これ以外のことは考えれられません。すばらしい夕食になりました。食事を終えて,部屋に戻ると,窓からは西郷港の美しい夕景にこころが癒されました。

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午後5時近くになって来たので,ひとまず,今日と明日,2泊する西郷港に近くの「隠岐シーサイド岬」にチェックインすることにしました。ここは,すばらしい食事がウリということで,とても楽しみしていました。思ったより立派な旅館でした。
夕食は午後6時だったので,それまで,再び,近場の観光に出かけることにしました。
西郷港のあたりには,玉若酢命神社,八百杉,億岐家住宅,そして,少し離れて,隠岐国分寺,隠岐モーモードームなどがあって,明日行くことにしていたのですが,とりあえず,様子を見にいくことにしたのです。

玉若酢命神社(たまわかすみこと)は隠岐の総社で「玉若酢命神社の社司を国造と云ふ。渠(かれ)が言に曰く。天武天皇の勅命ありて之を奉ず。」とあります。12代景行天皇が隠岐国に遣した大酢別命の子である玉若酢命を主祭神とし,大己貴命,須佐之男命,稲田姫命,事代主命,須世理姫命を配祀します。玉若酢命は隠岐諸島の開拓にかかわる神と考えられていて,社司を代々勤める神主家の億岐家が古代の国造を称し,玉若酢命の末裔とされます。
入口に大鳥居がありました。進んでいくと,1852年(嘉永5年)に作られた入母屋造茅葺の随神門があって, その向こうに1793年(寛政5年)に建立された切妻造茅葺の本殿があります。
この神社で有名なのは八百杉(やおすぎ)です。八百杉は,樹齢1,000年とも2,000年以上ともいわれ,若狭国からきた八百比丘尼が参拝の記念に植え,800年後の再訪を約束したことから八百杉とよばれるようになったといいます。根元に棲んでいた大蛇が、寝ている間に生きたまま木の中に閉じ込められ、今でも幹に耳をあてると大蛇のいびきが聞こえるという伝承があります。
道路を隔てて,億岐家住宅がありました。億岐家住宅は1801年(享和元年)建立の隠岐地方の代表的な大型民家です。隣に宝物殿が隣接していますが,この日は遅く,閉まっていました。私は,ここに明日,来ることになります。

さらに国道485号線を北に行くと,隠岐の島町役場があり,また,そのあたりには,ヤマダ電機などの家電量販店やスーパーマーケットがあったりして,驚きました。離島とはいえ,石垣島や壱岐島にも,役場の近くには,本土と変わらない大型店があります。
もう少し行くと,隠岐モーモードームがありました。明日,ここで牛突きを見ることにしているので,どんなところかと思ってやってきました。その隣に国分寺がありました。ここは有料の施設なのですが,もう時間が遅かったので,資料館などには入れませんでしたが,境内は自由に見ていいとあったので,中に入りました。
隠岐国分寺東寺真言宗の寺院で,山号は禅尾山,本尊は釈迦如来です。
奈良時代,聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺の後継寺院です。現在の境内と重複して旧国分僧寺があったとされ,また,南東方約500メートルに旧国分尼寺跡がありました。
1332年(元弘2年/正慶元年)の元弘の変に敗れた後醍醐天皇が隠岐に配流されたとき,「増鏡」によると「海づらよりは少し入りたる国分寺といふ寺を,よろしくさまにとりしひておはしまさむ所にさたむ」とあり,この国分寺が行在所といわれます。また,このあと私が行くことになる島前の西ノ島町に黒木御所があり,実際の行在所の所在がどちらだったのか,そのどちらもだったのかは,わからないそうです。おそらく,後世,箔つけのために,「ここにいたんだよ」とでも伝承してきたのでしょう。

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 これまで,浜松市を観光したことはありませんでした。
 私には,浜松といえば,ヤマハとか浜松ホトニクスとかいった先端企業があるハイテク都市という印象がありました。また,浜松餃子のような地元グルメも有名なので,今回,浜松城に行くのを楽しみにしていました。
 掛川城を見たあと,掛川駅から浜松駅に戻って,途中下車をした私は,浜松駅にあった観光案内所で「浜松城と浜松餃子を目的に来たのですが」と言って,浜松の観光について聞きました。そして,浜松餃子の店の載ったパンフレットをもらい,ついでに,浜松城と,現在,浜松城内で開催されているNHK大河ドラマ「どうする家康大河ドラマ館」の入場券を購入しました。浜松では浜松城のシニア割は70歳からということで,私は対象外でした。この時点でいやな予感がしました。
 ちょうどお昼前だったので,まずは浜松餃子を,と思ったのですが,観光案内所で勧められた店は,日曜日でもあり,大変な行列でした。私は,グルメでないから,そこまでして食べる気持ちもなく,見送りました。そして,昼食はあとにして,浜松城に行くことにしました。来る前は浜松城まで歩いて行くことにしていたのですが,あまりに暑かったことと,思ったより遠かったので,浜松駅前のバスターミナルからバスに乗りました。ところが,浜松市営バスはSuicaが使えないのです。これには驚いたとともに,私が勝手に思っていたハイテク都市・浜松への印象が,先ほどのシニア割とともに,急激に悪くなりました。

 市役所南のバス停で降り,地下道を歩いて,浜松城に着きました。
 まずは「どうする家康」大河ドラマ館に向かいました。先日,岡崎城へ行ったときに岡崎城で開催されていた「どうする家康」大河ドラマ館へ行ったのですが,あれからドラマもずいぶんと進んだので,展示されているものが異なっていて,なかなか楽しいものでした。
 それにしても,大河ドラマ館というのは,要するに,テレビドラマで使用済みとなった衣装や小道具を展示してお金をとるという商法です。うまいこと考えたものです。しかし,番組のPRに800円という結構な入場料だということに,NHKの浅ましさを感じます。バカ高い受信料を払っている人には無料であってもいいと私は思います。
 次に,浜松城に行きました。天守は結構な高台にあって,へばりました。
  ・・・・・・
 浜松城の前身は,15世紀頃に築城された曳馬城(ひくまじょう)で,今川氏支配下の飯尾氏が城主でした。徳川家康が1570年(元亀元年)に曳馬城に入城し,浜松城へと改称,城域の拡張や改修を行い、城下町の形成を進めました。このころは,土造りの粗末な城だったようです。
 関ヶ原の戦い以後は,譜代大名の居城となり,城主は9家22代に引き継がれていきましたが,藩主の中で老中になっただけでも,松平乗寿,松平信祝,井上正経,水野忠邦,井上正直,と5人もいるというように,歴代城主の多くが江戸幕府の重鎮に出世したことから「出世城」といわれました。
 17世紀のうちに初期の建物は姿を消し,天守台のみが現在に伝わります。明治の廃城令で建物や土地が払い下げられ宅地化が進行しましたが,天守曲輪と本丸の一部は浜松城公園になり,1958年(昭和33年)鉄筋コンクリート製の復興天守が再建されました。
  ・・・・・・

 私は,浜松城にはがっかりしました。単なる,多くの場所にある外見だけ城の鉄筋コンクリートの建物であったこともそうですが,それよりも,よく見ると,この城,石垣と城の大きさが違い,広い石垣の上に,サイズが不足したアンバランスな城が建っているのです。
 城の外にボランティアの人がいたので,いろいろとお話を聞きました。
 石垣と城の大きさが違うのは,復元したときにお金がなく,小さいサイズでしか作れなかったから,という話でした。次に,私がいつも気になるその地の殿様について聞きました。先に書いたように,浜松城は「出世城」といって,江戸幕府のお偉いさんになった大名だらけなのですが,そこには,当然,ワイロあり,袖の下あり,というわけで,地元民には,藩主様にいい印象がないようです。裏返せば,地元に目が向いていなかったということにもなります。また,今では武家屋敷跡も全く残っておらず,この地に住んでいる人は,歴史を全くリスペクトしていないそうです。井伊直虎なんて大河ドラマではじめて知ったということらしいです。浜松というところは,そんなところだったのです。だから,史跡といっても,大した見どころはありません。
 文系の学問にからっきしり興味のない技術おたくの理系が合理性だけで作った都市ではないかと,だれかが言っていました。
 浜松餃子を食べ損ねた私は,帰りに,途中で見つけたお店で昼食をとることにして,のんびりと駅まで歩くことにしました。それにしても,この町,官庁街にはレストランすらありません。交差点はすべて地下道になっていて,階段の上り下りもたいへんでした。これでは弱者は浮かばれません。
 浜松城のシニア割の対象年齢が70歳から,ICカードの使えない公共交通,歴史に対するリスペクトの欠如,弱者への配慮のない交差点など,こうした理由から,私の抱いていたハイテク都市・浜松の印象は完全に消え失せ,失望感だけが残りました。
 そういえば,同じような感じを味わった都市があったなあ,と思いました。そうだ,つくば市だ。

 途中でやっとおもしろい店をみつけたので,中に入って,昼食をとりました。なかなかのお店でした。さらに歩いて行くと,JR浜松駅の近くにあった商業ビルの中のモールにあった店のひとつで,浜松餃子が提供されていたので,昼食をとったばかりだったけれど,せっかくだからと,浜松餃子にありつくことができました。
 こうして,とにもかくにも,浜松城へ行く,浜松餃子を食べるという目的は達成しました。

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 2023年9月10日。
 今年は,NHK大河ドラマ「どうする家康」を口実に,家から近いこともあって,時間があるときにゆかりの地をめぐっています。静岡市の駿府城は,すでに6年前に行きました。しかし,何度もJRの在来線や東海道新幹線で通るのに,浜松城や掛川城には行ったことがありませんでした。そこで,今回,NHK交響楽団の9月定期演奏会を聴きに東京へ行ったあと,そのまま東京で1泊して,翌日,帰りに途中下車して行ってみることにしました。
 今回の旅では,浜松駅と東京駅間をひかりで往復するチケットを購入して,これとは別に,名古屋駅から掛川駅までの往復乗車券を購入しました。こうすれば,往路は浜松駅で降りて,そこからひかりに乗り換えて東京駅まで行き,帰りは,ひかりで東京駅から浜松駅まで来て,昨日の往路が途中下車扱いとなっている浜松駅から掛川駅に行き,復路は,掛川駅から再び浜松駅で途中下車して浜松城へ行き,浜松駅から再びJRの在来線に乗って帰宅することができるからです。
 先に掛川城へ行ったのは,荷物を浜松駅のコインロッカーに預けることにしたためです。
 浜松駅で荷物を預けて先に浜松城へ行き,次に掛川城へ行っても,結局,預けた荷物を取りに浜松駅で途下車しなければならないので,掛川駅からそのまま帰ることはできないので,結局同じなのす。

 私は,掛川という町ははじめて行ったとばかり思っていたのですが,2017年にJR在来線に乗って金屋駅で降り,旧東海道を西に,掛川駅まで歩いたことがあることを思い出しました。しかし,そのときは,時間がなく,掛川市内の観光はしませんでした。
 掛川といって私が連想するのは,中日ドラゴンズの春季キャンプ地だったことがある,ということです。浜松で行ったこともありますが,こんな場所でやったところで,名古屋に比べてどれだけ暖かいの? と当時思いました。きっと,大人の事情だったのでしょう。昔は,九州とか四国で行われていた日本のプロ野球の春季キャンプも,今は沖縄ばかりのようです。しかし,春の沖縄には天候が悪いという欠点が存在します。
 掛川駅は新幹線も停車するから掛川は大きな町のように思うのですが,掛川駅の北口から掛川城へ行くために北に15分ほど歩いていたときに感じたのは,活気がないところだ,ということでした。掛川駅の北口のまわりにも,気の利いたレストランすらないのです。その一方,新幹線の駅がある南口は,一応は,ホテルがあったりもしましたが,それ以外は同じようなものでした。
 日本は,大都市以外は,どこもこんな感じです。老人の旅にはこのほうがいいのですけれど,日本の斜陽を感じます。

 さて,掛川城に着きました。NHK大河ドラマ「どうする家康」の影響か,結構な,というかほどほどの人が来ていました。掛川城はこじんまりとした城でした。
  ・・・・・・
 掛川城は,戦国時代に今川義忠が重臣の朝比奈泰煕に命じて築城したと伝えられています。現在の掛川城の姿は山内一豊によるものです。
 明治以降、廃城令によって廃城処分とされ撤去されましたが,1994年(平成6年)に,1854年(安政元年)の地震で倒壊した天守や大手門などの一部の建物,塀が復元され,今も,堀や土塁,石塁の復元が行われています。
 再建された天守は日本初の木造復元天守で,いい感じを出していました。
  ・・
 掛川城は,戦国時代,武田信玄と徳川家康との間で,幾度も戦乱に巻き込まれましたが,1582年(天正10年)の武田氏の滅亡まで徳川氏の領有であり続けました。1590年(天正18年)に家康が関東に移封されると山内一豊が入りましたが,山内一豊は土佐を与えられて移転したので,その後は多くの譜代大名が入り安定しませんでした。最終的に,1746年(延享3年)太田道灌一族の系統である太田氏が入り,幕末を迎えました。
  ・・・・・

 掛川城もまた,次に行く浜松城と同じく再建されたものではあったのですが,浜松城の鉄筋コンクリートそのものとは異なって情緒がありました。しかし,それよりも,私には,御殿が,二条城,川越城,高知城とともに,当時のまま現存していたのがよかったです。よくも残ったものです。また,御殿の奥の二の丸茶室では,今年2023年1月に,藤井聡太王将に羽生善治九段が挑んだ第72期ALSOK杯王将戦七番勝負第1局が開催された場所ということでした。
 こんなさびれた感満載の掛川でしたが,人混み嫌いな私は,意外といいかも,と思いました。
 それにしても,今年はいつまでも暑い夏が続きます。もっと涼しいと思っていた私は,期待が外れました。この先過ごしやすくなったら,再び訪れて,今度は,1日,この辺りを散策してみたくなりました。

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島後1日目に,できるだけ多くの見どころをまわろうと思っていたのですが,来る前は,どのくらいの距離と時間がかかるのか見当がつかなかったので,どれだけ行くことができるのかな,と思っていました。事前に私が思っていためぼしいところを訪れても,まだ,時間に余裕があったので,白島海岸を出たあとは,まず,ローソク島を見にいってから,島の中央を走る唯一の国道485号線を南下して,今日の宿泊先のある西郷港の近くまで戻ることにしました。このルートは,島を北から南まで縦断することになるのですが,島を横断するには40分くらいということもわかってきました。

私は,大した計画も立てずに,単に島後で2泊,島前で2泊することにして,宿泊先を予約したのですが,その後で,島後から島前に渡るフェリーが1日に3便しかないことを知って,そのうちの一番早い朝の便で島後を出発して,島前に到着後,すぐにレンタカーを借りるということにして予約をしました。そこで,実質,島後の観光ができるのは1日目と2日目しかなくなってしまいました。
また,2日目は,午前中にかっぱ遊覧船,午後に,この日しか実施されない隠岐モーモードームでの牛突き,夕方に,この日の予約しかできなかったローソク島遊覧船といった予定ができたことで,島後を自由に観光ができるのが1日目しかなくなってしまいました。これには少し後悔ましたが,実際は,2日目のそれぞれのツアーはさほどの時間がかからなかったので,2日目もけっこうな自由時間ができたのですが,そんなことはこの時点はわかりません。
そこで,当初,島後の一番の見どころであるローソク島の岩は,2日目の遊覧船で見ることができるから1日目は行かなくてもいいか,と思っていたのですが,時間があったので,陸地からどのように見えるのか好奇心が湧いて,行ってみることにしたのです。
しかし,私は島前・西ノ島の摩天崖と島後のローソク島あたりの風景を混同していて,だだっ広く青々と続く大地を歩いて行くと,遠くにローソク島が見えるというイメージだったのです。それが大きな間違いでした。実際は,ローソク島の岩は,木々の間にかろうじて見ることができた展望台と,それよりも東側の久見という漁港の高台から,遠く,単に島から突き出た小さなローソク島の岩を見ることができるだけでした。
そんなローソク島だったのですが,思った以上に小さくて,こりゃ,三大がっかりだ,と思いました。私は次の日にローソク島遊覧船に乗ることになるのですが,その時点でこの認識が一変しました。それもまた,この時点はわからないことでした。

ローソク島に落胆した私は,島後の中央を縦断しながら,島の中央部あたりにある神社をめぐることになります。
927年(延長5年)にまとめられた日本の神社のリストを延喜式神名帳といいます。ここに記載された神社は式内社といって格式が高いとされているのですが,その中でも特別な神社を大社と記載しました。神社が16ある隠岐諸島には,島後の伊勢命神社(いせみこと),水若酢神社(みずわかす),島前・中ノ島にある宇受賀命神社(うつかみこと),島前・西ノ島にある由良比女神社(ゆらひめ)の4つの大社があります。それに比べて,島根県の本土にある大社は出雲大社と松江市にある熊野大社だけなのです。
まず,伊勢命神社に行きました。延喜式神名帳に名神大社と記されるこの神社は伊勢命を主祭神としていて,本殿は隠岐造りです。伊勢命というのは,他にはない隠岐国独自の神だそうです。
伊勢命神社を過ぎたあたりは,山ばかりの島後には珍しく平地が広がっていて,田園があったり牛の放牧を見ることができたりしました。ああ,やっと隠岐らしい景色! とその時は思いました。おそらく多くの人にとっても,私と同じように,隠岐諸島といえば牛の放牧のイメージでしょう。しかし,隠岐らしいそのような景色を多く見ることができるのは,島前の知夫里島なのです。
それを過ぎると,水若酢神社に着きました。水若酢神社は隠岐国の一宮神社で,主祭神は水若酢命で,隠岐国の国土開発と日本海鎮護の任務にあたった神といい伝えられています。この神社の本殿はとりわけ立派でした。何でも隠岐特有の建築様式「隠岐造り」だそうです。
また,西暦偶数年の5月3日には,隠岐三大祭りである「水若酢神社祭礼風流」が行われるほか,毎年11月3日には奉納大会として五箇地区の人々で開催される相撲大会があるということで,境内には立派な土俵がありました。
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隠岐では、神社の屋根の葺き替えや町の記念事業,大型公共事業の竣工を記念して,夜を徹しての「古典相撲」が行われます。もともとは,神への奉納相撲「宮相撲」として行われていました。
大きな大会では,力士が200人以上参加し,割り相撲や5人抜きなど,300番近くの取組が行われ, 最高位が大関です。
役力士のうち,大関,関脇には,栄誉の品として土俵の柱が贈られ,小結には,柱を繋ぐ貫ぬきが贈られるます。
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こうして,国道485号線を下って行ったのですが,まだ時間があったので,島の中央部にある原田という集落で左折して,県道316号線を北上し,かぶら杉を見にいくことにしました。かぶら杉は,先に書いた,岩倉の乳房杉,玉若酢命神社の八百杉と並ぶ「隠岐の三大杉」のひとつです。しかし,岩倉の乳房杉とは異なって,山の中を狭い道を延々と走る必要もなく,県道316号線の際にありました。駐車できるスペースを見つけて車を停めて,しばし,かぶら杉を見ました。
かぶら杉の由来は,その樹形が鏑矢の先に似ているから,とか,大きな株が目立つからといった説があるそうです。1本の株が根元から複数の幹に分かれていて,幹は現在では6本が残っていますが,かつては12本あったということです。樹齢は600年,幹囲は約9.3メートルあります。

これだけまわっても,まだ時間があったので,隠岐島の西海岸にある屋那の松原と舟小屋群まで遠まわりして行ってくることにしました。
屋那の松原は,若狭国から隠岐に来た八百比丘尼(やおびくに)が一晩で植えたと伝えられているもの,その近くに20棟ほど残された舟小屋は,杉皮葺きの屋根に浜辺の石が乗せられた舟を格納する建物で,木造平屋で杉皮葺きの舟小屋が20棟,100メートルにわたって連なっていて,なかなか風情がありました。
なお,八百比丘尼というのは,不老不死になれるという人魚の肉を食した若狭の漁師の娘が,不老不死ゆえに家族友人に先立たれ,永遠にその最期を見なければならない運命を背負うという,日本の伝説上の比丘尼(尼僧)とされます。

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島後は丸いので,海岸線の風景とともに,島の内部にも見どころがいくつかあるのですが,どこもけっこうな山の中だから,狭い道を5キロメートルほど走っていったり,2キロメートルくらい歩いて行かないと着かないところなので,たいへんでした。また,豪雨でもあると,道路が不通になってしまい,情報がないと,とても危険です。私は,レンタカーを借りたときに,どの道路は走っていけないかということを聞いていたので助かりました。

浄土ヶ浜の次に向かったのが,岩倉の乳房杉でした。
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「隠岐の島町三大杉」とは,岩倉の乳房杉,かぶら杉,玉若酢命神社の八百杉ですが,岩倉の乳房杉がその中で,最も奥地,隠岐諸島最高峰・標高608メートルの大満寺山の麓にひっそり立つ奇杉で,幹囲11メートル,主幹は15本に分かれていて,大小24個の乳房状の根が垂れ下がっている,樹齢約800年,樹高約30メートルの巨木で,地元ではこの乳房杉を御神木とし,母乳の神として崇拝して,毎年4月23日に供え物を運んで祭礼を行っているそうです。
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ネット上には,2020年8月7日の大雨で土砂崩が発生し,アクセスする道路が車両通行止めになってしまいましたが,北側の山道より歩いて見にいくことは可能で,徒歩だと1時間弱で到達できるとありましたが,私の行ったときは,幸い,道路も開通していました。人影もなく,歩ていくことができる距離とも思えませんでした。

次に行ったのがトカゲ岩でしたが,ここに行くには,再び浄土ヶ浜まで戻って,岩倉の乳房杉とは1本北の道を,これもまた,同じ程度の距離を山の中に進む必要がありました。なんともはや,大変な島です。
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トカゲ岩は崖を垂直に登るトカゲのような見た目をした奇岩で,およそ26メートルの高さがあります。トカゲ岩を構成する岩石は、約550万年前の火砕岩に割り込んで固結した粗面岩マグマで,この部分は周りの火砕岩よりも硬く風化されにくかったため,トカゲのような形として取り残されたと考えられています。
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駐車場があったので,車を停めて,そこから結構登ると,トカゲ岩展望台がありました。展望台からずいぶん遠いところにトカゲ岩がありました。何だこれだけのことか! と思うか,すごい! と思うかは人次第です。
トカゲ岩,もっと近づくには,ここからさらに40分程度の登山が必要で,これを登ってきたという人のブログがありました。私は当然そんなことはしないので,これで引き上げることにしました。

さて,再び浄土ヶ浜に戻って,今度は海岸線にそって,反時計回りに北上しました。島後の最北端にあるのが白島海岸で,そこを目指します。
駐車場に車を停めて少し歩くと白島展望台に着きました。
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島後の北側に突き出た白島崎と,沖ノ島,白島,松島,小白島などの周辺の島々を総称して白島海岸といいます。白島崎は高さ50メートルから200メートルの断崖が続くダイナミックな海岸美が美しい場所です。一帯の海岸の岩肌はアルカリ流紋岩といって,ナトリウムやカリウムなどのアルカリ元素を多く含む流紋岩がが風化し白みを帯びているので,これが白島崎の名の由来です。
白島海岸は,アルカリ流紋岩のほかに,沖ノ島,白島を形成する粗面岩,帆掛島,雷島を生んだ玄武岩と3種の火山岩で成り立っています。
また,沖に浮かぶ沖ノ島は天然記念物オオミズナギドリの貴重な繁殖地となっています。
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散策路を歩いていると,アジサイが咲いていました。なぜ今? と思ったら,ちゃんと理由がありました。本来は7月には枯れるアジサイの花が11月ごろまで咲いているのは,対馬暖流の影響を受けるからだそうです。

ところで,帰ってから知ったのですが,白島海岸にも遊覧船があるらしいのです。しかし,そんなことが書かれたものを見ませんでした。何でも,島後は私も翌日乗ることになるローソク島遊覧船に客が取られてしまっているから,という話なのですが,私が思うに,宣伝不足です。
島前に比べて,島後は,自然の雄大さを知ることができる場所が少なく,島後のみを観光する人には隠岐らしさがわからないのです。また,団体ツアーでは訪れる場所があまりないのです。
ローソク島遊覧船は夕方だけなので,これと併せて,お昼間の白島海岸遊覧船をセットにすればいいのに,と思いますが,どうも,隠岐は,観光資源がたくさんあるのに,それらを,力を合わせて2のものを3や4にすることができていないと感じます。

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では,今日からは話を元に戻しまして,旅の2日目です。
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2023年8月23日,2日目。
早朝,松江駅前の東横インを,朝食前にチェックアウトしました。朝食時間の前でもコーピーとパンは食べられます。
以前書いたことがあるのですが,私は東横インの朝食サービスがきらいです。その分,宿泊代を500円でも下げて,朝食は有料にするべきだと思っています。この日も,朝食の時間になると,宿泊客が1階の食堂にずらりと列を作っていました。旅というのは,乗り物も食事も,快適であるべきで,朝から混雑しているのは論外です。
この日は,松江駅前から連絡バスにのって七類港まで行って,午前9時発のフェリー「おき」に乗ります。いよいよ隠岐諸島に向けて出発するのですが,隠岐諸島を旅するのは,パズルのようなものでした。今回の私は「地球の歩き方JAPAN・島旅」というガイドブックを参考にしているのですが,知りたいことが書いてなかったり,間違っていたりしました。そこで,私の経験をもとに,実際はどうすればいいのかを順に書いていきたいと思います。

これも,すでに書いたことですが,隠岐諸島は,これまでに行った離島である佐渡島や壱岐島とは違って,ジェットフォイルの便の時間が悪く,午前9時発のフェリーに乗る必要があるので,松江市内に前泊しました。また,フェリーはジェットフォイルとは違い,事前の予約は必要がなく,いつでも乗れますが,ガイドブックにはこういう情報が欠けているのです。私は乗れなかったらどうしよう,と心配していました。
フェリーには雑魚寝の2等から,特2等,1等,特等,特別室とあるのですが,2等は,混雑する時期は場所を確保することが大変だそうで,こういうときは,お金を奮発して上位の客室をとればいいとガイドブックにはありました。2等では場所取りが早い者勝ちなので,はやく船内に入ることと,壁が背になるところを陣取ることがポイントです。
毛布が有料で借りられます。また,直方体の形をした枕があります。わずが3時間足らずなので,本を読んだり,音楽を聴いたり,仮眠していれば,時間がつぶせます。私は,詰将棋をコピーして持っていたので,4,5問解いていたらあっという間でした。こういうとき,将棋の趣味は助かります。

乗船券の購入は,七類港で連絡バスを降りてターミナルに入ると,乗船名簿(A6判の単なる用紙)を記載する机があるので,そこで乗るフェリーの名前と客室のランク,氏名と住所を記入して窓口で提出します。乗船券の購入はクレジットカードが使えます。ガイドブックには,隠岐諸島では現金しか使えないところが多い,とあったので,ずいぶん多くの現金を持参しましたが,実際は,ほぼカードやプリペイで事足りたので,現金はほとんど必要がありませんでした。また,もし必要なら,島には郵便がたくさんありました。現金など危険なので持っていないにこしたことはありません。
はじめて乗る私は,混雑する船室がいやなので,来る前は,上位の客室にしようと思っていました。実は,事前に,今回の旅では,ウェブで「おき得乗船券」というものを登録してありました。これは,2023年度に実施されているもので,隠岐諸島に泊ることと島でなにがしかの体験をひとつ以上すると,帰りのフェリーが無料になるという企画です。乗船名簿を出す際に「おき得乗船券」に登録してあると言うと,宿泊先と島での体験のときにスタンプを押してくれる用紙をくれました。帰りにこれを出せば,帰りのフェリーは無料になると言われました。しかし,この企画に参加すると,2等しか利用できないといわれたので,しかたなく2等客室にしたのですが,これで十分でした。

フェリーに乗り込むと船員さんがキャリーバッグを置く場所を教えてくれるのでそこにおいて,適当な場所に陣取りました。これで出航です。
ダラダラと過ごすうち,午前11時25分,島後の西郷港に到着しました。
島後でレンタカーの予約がしてありました。フェリーから降りて,ターミナルの階段を降りたところで,レンタカー会社の人が待っていたので,送迎車に乗り込むと,レンタカー会社のオフィスまで5分程度で着きました。そこで手続きをして,いよいよ出発です。島後にはレンタカー会社がいくつかあるのですが,ガイドブックには,車の台数が限られているので事前の予約が必要とありましたが,真偽は不明です。
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私は,島後に2泊します。
隠岐諸島の観光で,予約が必要だったのは,まずはロウソク島遊覧船でした。はじめはこの日8月23日が希望だったのですが,すでに満員だったので,やむを得ず翌日の8月24日にしました。遊覧船は午後5時過ぎの出航です。これは,ロウソクの形をした岩に沈む夕日が重なってロウソクの炎のように見られるというものですが,見られるかどうかは天気次第です。また,隠岐モーモードームというところで観光牛突きのアトラクションがあって,これも見たいと思いました。これは予約不要なのですが,開催日が限られていました。しかし,奇跡的に8月24日の午後2時30分に実施されることがわかりました。いつものように,運がいいです。さらに,かっぱ遊覧船という島後のまわりを遊覧する船があって,これは予約が必要だったので,これも8月24日の午前10時に予約しました。
というように,翌日8月24日の予定が埋まっていったので,この日,8月23日は予定がなく,この日に島の見どころを反時計回りに可能な限り多くまわることしていました。

まず,目指したのが,佐々木家住宅,そして,浄土ケ浦海岸でした。なにせ,土地勘がなく,この時点では,どのくらい時間がかかるか見当がつきません。まあ,いつものこと,30分もすればわかってくることでしょう。
佐々木家住宅はすぐに着きました。
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佐々木家の位置する隠岐島後の東海岸の旧釜村は半農半漁の集落でした。佐々木家は、代々釜村の庄屋をつとめた家です。主屋は1836年(天保7年)の建築で,隠岐地方の民家建築としては規模が大きく,杉皮葺の屋根を残していることも珍しいものです。
  ・・・・・・
という,古い民家が見学できました。
そこから海岸線に沿って走って,浄土ケ浦海岸へ向かったのですが,途中で昼食でも,という当てがはずれ,食堂の1軒もありません。そのうち,浄土ケ浜に着いてしまいました。
幸いなことに,ここに1軒の食堂「浄土ケ浦お食事処」がありました。大変賑わっていましたが,なんとか座れました。浄土ケ浦海岸を見るまえに,私もここで「浄土ケ浜気まぐれ定食」をいただきました。すごいご馳走で驚きましたが,実は,隠岐諸島では,いつもこんなご馳走が食べられたのです。なんと素敵な島なのでしょう! この日は水曜日。ここは月曜日と火曜日がお休みらしいので,これもまたツイていました。このあたり,ここ以外に食事をとるところはありませんでした。
  ・・・・・・
侵食された浄土ヶ浦の海岸線では,約2,600万年前に日本海がまだ湖だったころの地層を見ることができます。透き通るような海と大小様々な小島を有する,,,たぐいまれな景観で,民話によると,一休和尚がここを訪れた際に,まるで浄土のようだと狂歌を詠んだと伝わっています。
 釣りに出て 身はさぶ島のやれ衣 布施にきて 見れば浄土なりけり
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「古事記」に描かれた国譲りの舞台である稲佐の浜は,もっと幻想的なところかと思いましたが,単なる砂浜でした。また,稲佐の浜から南へ続く島根半島西部の海岸は薗の長浜とよばれ,「出雲国風土記」に記載された国引き神話においては、島根半島と佐比売山とをつなぐ綱であるとされているところです。
浜辺の奥に,大国主(おおくにぬし)と建御雷(たけみかづち)が国譲りの交渉をしたという屏風岩があり,海岸の南には,国引きのとき島を結ぶ綱になったという薗の長浜が続いています。高天原からの使者として派遣された武甕槌(たけみかづち)は,屏風岩を背にして大国主(おおくにぬし)と国譲りの話し合いをされたと伝えられています。
稲佐の浜に,一際目立つ丸い弁天島があります。かつては沖ノ御前、沖ノ島とよばれ,神仏習合のころには弁財天が祀られていましたが,明治のころから豊玉毘古(とよたまひこ)が祀られています。

ここから1キロメートルほどで出雲大社ですが,その途中に,出雲阿国(いずものおくに)の墓がありました。
出雲大社は有名な観光地なので,この暑さのなかでも,多くの観光客が来ていたのですが,そのだれもが,出雲阿国の墓は素通りしていました。
私は,出雲阿国の名前は学校の日本史で習って知っていたので,興味が湧いて行ってみました。
今回,改めて出雲阿国についてネットで調べてみると,出てくるのは,私の知りたい出雲阿国ではなく,出雲阿国という芸名のお笑いタレントばかりでであるのに驚きました。こんな芸人がいるんだと思いました。これでは織田信長という名前のタレントがいるようなものです。
  ・・・・・・
出雲阿国は,1572年(元亀3年)の戦国時代に生まれ,没年不明の芸能者です。
ややこ踊り(中世末期から近世初頭に行われた少女による小歌踊り)を基にしてかぶき踊りを創始したことで知られていて,これが,現在の大歌舞伎とチンドン屋の元祖とされます。
出雲阿国が演じていたものは茶屋遊びを描いたエロティックなもので,遊女ではなかったといわれていますが,今でいうストリップのようなものだったのかもしれません。
出雲阿国は,出雲国杵築中村の里の鍛冶中村三右衛門の娘で,出雲大社の神前巫女となり,文禄年間に出雲大社勧進のため諸国を巡回したところ評判となったとされているそうです。当初は四条河原の仮設小屋で興業を行っていましたが,やがて,北野天満宮に定舞台を張るに至ったそうです。
没年は,1613年(慶長18年),1644年(正保元年),1658年(万治元年)など諸説あり,また,出雲に戻り尼になったという伝承もあるので,出雲大社近くに墓があるのです。
また,京都大徳寺の三玄院にも阿国のものといわれる墓があって,夫であった名古屋山三の墓と共に並んで供養されているそうです。
  ・・・・・・

出雲大社は大国主(おおくにぬし)を祀る出雲国一宮で,旧社格は官幣大社です。 古代,杵築大社(きずきたいしゃ)とよばれていましたが,1871年(明治4年)に出雲大社と改称しました。
  ・・・・・・
大国主(おおくにぬし)は国譲りに応じる条件として「我が住処を皇孫の住処の様に太く深い柱で千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければそこに隠れておりましょう」と述べ,これに従って出雲の「多芸志の浜」(たぎしのはま)に「天之御舎」(あめのみあらか)が造られました。
  ・・・・・・
現在の10月にあたる神無月には全国から八百万の神々が集まり神議が行われることになっていて,そのような神々が集まるという信仰から,江戸時代以降は文学にも出雲の縁結びの神として現れるほどに全国的な信仰を集めるようになりました。

本殿から反時計回りに回って行くと,真後ろに須佐之男(すさのお)を祀る素鵞社(そがのやしろ)があります。また,本殿を囲む玉垣の西側に,本殿西遥拝場があります。
実は,本殿の内部は,中央に心御柱(しんのみはしら)という太柱があり,この心御柱を中心に時計回りに回って神座に至る独特な構造になっています。その結果,本殿内の神座は実は正面ではなく西を向いているそうです。つまり,本殿の中で,大国主(おおくにぬし)は西を向いているのです。そこで,大国主(おおくにぬし)の正面に向かってお参りできるのが,本殿西遥拝場なのです。
 また,出雲大社で有名なのは大しめ縄ですが,この大しめ縄は,拝殿と神楽殿の2カ所にあります。
中でも巨大なのは神楽殿のほうです。神楽殿の大しめ縄は長さ約13メートル,重さ5.2トンあります。出雲大社では,古くから向かって左方を上位,右方を下位とする習わしがあるため,しめ縄のかけ方が一般的な神社と逆になっています。現在のしめ縄は2018年に6年ぶりにかけ替えられたものです。

古代には48メートルの高さを誇ったといわれる出雲大社本殿です。このことは,1993年,井沢元彦さんが書いた 「逆説の日本史 1・古代黎明編」にあって,それを読んだ私はびっくりしました。
もし,この高さが本当だったら,本殿を支えるには巨大な柱が必要だったわけですが,それが描かれた鎌倉時代から室町時代につくられた本殿の平面図「金輪御造営差図」(かなわのごぞうえいさしず)は,長らく図面としての信憑性に疑問が持たれてきました。しかし,「逆説の日本史 1・古代黎明編」が出版された7年後の2000年,境内の地下1.3メートルから大型の本殿遺構が見つかり,柱材が出土しました。柱材は杉の大材3本を束ねてひとつの柱としたもので,本殿を構成する9か所のうち3か所で発掘が確認されました。その中心に位置するのが心御柱,正面中央に位置するのが宇豆柱(うずばしら)で,「金輪御造営差図」と類似していました。
この柱は,鎌倉時代前半の1248年(宝治2年)に造営された本殿を支えていた柱である可能性が極めて高くなったのです。ただし,私は,それが古代の出雲大社だと思っていたのですが,出土されたものは,鎌倉時代の出雲大社でした。それ以前にどうなっていたのかはわからないそうです。
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この心御柱の実物が,出雲大社の四の鳥居の先にある宝物館に公開されていました。宝物殿は1階は神殿の造りや歴史などの解説が展示してあり,2階は豊臣秀頼による国宝棟札や三十六歌人の図額などが展示してありました。
また,境内の東側に建つ古代出雲歴史博物館には,心御柱のレプリカと宇豆柱の実物が展示してありました。

この古代出雲歴史博物館は非常に立派なものでしたが,それよりも私が最も興味をもったのは,出雲大社とは直接の関係がないものの,ものすごい数の銅鐸と,「卑弥呼の鏡」ともいわれる「景初三年」の銘のある三角縁神獣鏡の実物でした。「景初三年」は西暦239年のことで,邪馬台国の女王・卑弥呼が魏に使いを送り、魏の皇帝から銅鏡百枚などを下賜された年です。
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「三角縁」とは,鏡の縁の部分の「断面の形」が三角に尖っていることであり,「神獣」は中国の神仙(しんせん)と獅子(しし)のような霊獣(れいじゅう)とが交互に配置されていることです。鏡は,直径が21センチから23センチほどであり,真ん中にある鈕(ちゅう)が大きく丸く高く,周囲には年号が書かれているものもあります。
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三角縁神獣鏡は,これまでに日本で500面以上が見つかていますが,「景初三年」の銘のある銅鏡は,国内では大阪府の和泉黄金塚古墳と島根県雲南市の神原神社古墳から出土した2面しかなく,出雲歴史博物館に展示されているのは神原神社古墳から出土したものです。
三角縁神獣鏡は中国大陸や朝鮮半島では見つかっていないことから,この鏡は「いったいどこで作られたのか」が謎で,「魏志倭人伝」に記された,邪馬台国の卑弥呼の使者が魏の皇帝から贈られた「銅鏡百枚」,つまり「卑弥呼の鏡」であるとか,中国から倭に渡ってきた鏡作工人たちがどこかで、持ってきた原材料をもとに製作したなどの説があります。

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 NHK連続テレビ小説「らんまん」を楽しく見ています。「らんまん」は
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 高知県出身の植物学者・牧野富太郎の人生をモデルとしたオリジナルストーリー。
 幕末から明治,そして激動の大正・昭和といった混乱の時代の中で,一途に情熱的に突き進んだ神木隆之介が演じる主人公・槙野万太郎と浜辺美波さんが演じる妻・寿恵子の波乱万丈な生涯を,美しい草花の情景とともに描きます。
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というもので,史実とは異なる点も少なくないのですが,それはそれで,すばらしいドラマとなっています。
 この時代,牧野富太郎のような在野の学者が少なからず存在していました。私は,植物学のことはこれまで興味がなかったのですが,このドラマを見ながら,子供のころにあこがれていた,この時代の天文学者やアマチュア天文学者もまた,こんな感じだったのだろうと想いを巡らせたりしていました。

 2023年9月9日にNHK交響楽団の定期公演を聴きに東京へ行った折に,念願の練馬区立牧野記念庭園を訪れることができました。
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 牧野記念庭園は,牧野富太郎博士の邸宅の跡地として,1958年(昭和33年)年から一般公開されています。牧野博士は1926年(大正15年),当時は野趣豊かであった大泉の地に居を構え,1957年(昭和32年)に満94歳の生涯を終えるまで,自邸の庭を「我が植物園」としてこよなく大切にしました。
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 池袋駅から西武鉄道に乗って大泉学園駅で降りると,駅前は多くの牧野富太郎さんの絵で一杯でした。
 私は,東京も人だらけの都心は嫌いですが,深大寺とか桜新町とか葛飾柴又とか,そうした郊外の町はどこもすてきです。こういうところなら住んでみたいといつも思います。途中でおそば屋さんに寄ってお昼をとって,さらに歩いて行くと,目的地に着きました。さすがにテレビの影響か,多くの人が訪れていましたが,混雑,という感じではありませんでした。

 庭園には、約300種類の草木類が生育していて,さらに,2023年(令和5年)にオープンした書屋展示室が圧巻でした。また,コーヒー好きだった牧野富太郎博士愛飲のブレンドコーヒーを味わうこともできました。
 そうした中で,私がもっとも感激したのが「スエコザサ」に囲まれた牧野富太郎博士の像でした。これだけで,すっかり参ってしまいました。
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 1927年(昭和2年),牧野富太郎博士は仙台市の三居沢(さんきょざわ)で新種のササの仲間を発見しました。そして,「植物研究雑誌」第5巻第2号で,これまで自分を支え続けてくれた妻・壽衛(すえ)さんへ感謝を込めて,和名を「スエコザサ」,学名を「Sasa suwekoana Makino」と発表しました。しかし、病に伏していた壽衛は雑誌が発行される5日前の1928(昭和3年)2月23日に永眠してしまいました。
 なお,「スエコザサ」は新種ではなく「アズマザサ」(Sasaella ramosa Makino)の変種とわかったので,現在の学名は「Sasaella ramosa(Makino) Makino var.suwekoana (Makino)Sad.Suzuki」です。
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 東京都台東区谷中の天王寺にある妻・壽衛さんの墓碑には,牧野博士自作の句
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 家守りし 妻の恵みや 我が学び 世の中の あらん限りや すゑ子笹
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と刻まれているそうです。泣ける。DSC_0929DSC_0928IMG_0552IMG_0551DSC_0887DSC_0902IMG_0555DSC_0890DSC_0905


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 9月。NHK交響楽団の定期公演が帰ってきました。今シーズン最初の,2023年9月9日の第1989回 Aプログラムを聴きました。コンサートマスターは篠崎史紀さんで,これがいいんだなあ。引き締まります。指揮は首席指揮者の ファビオ・ルイージさんで,今回の曲目は,私が苦手とするリヒャルト・シュトラウスの3つの作品でした。
 ここで,私が以前書いた「リヒャルト・シュトラウスのよさとは」を再び載せます。
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 ヨーロッパのクラシック音楽が華やかなりしころの終焉と幕引き,それを感じつつ,最高傑作「ばらの騎士」を聴き,その勢いで,交響詩を鑑賞して,そのチャラさに理解を示し,オーケストラの鳴り響くさまから,演奏家の自己満足を同化しつつ,結局は,「最後の4つの歌」で,人間の不条理さを救いに転じる。
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 要するに,リヒャルト・シュトラウスを味わうというのは,リヒャルト・シュトラウスのチャラさを理解する,ということになるわけです。NHK交響楽団の演奏がチャラいというわけではありませんよ!
 それはそれでいいのですが,私がクラシック音楽を聴くときに求める,こころに染みる,という感じはまったく味わえません。

 さて,今回の定期公演,まずは,交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」(Till Eulenspiegels lustige Streiche)からはじまりました。この曲のチャラさは,ディズニーの映画音楽みたいなもの,ということだと私は思います。1895年に作曲されたこの曲で,主人公ティル・オイレンシュピーゲルをホルンで描くのは,リヒャルト・シュトラウスの父へのオマージュだそうで,反権威主義的な,乾いた挑発の哄笑と独創性がその底に沈んいます。
 「むかしむかしティル・オイレンシュピーゲルは…」ではじまり,リヒャルト・シュトラウスのさまざまな作品同様に,何がメロディーかもわからないロンド形式の堂々巡りを繰り返し,最後にティル・オイレンシュピーゲルが悲鳴を上げて処刑にされるような音楽が終わると,すべてをあざ笑うかのように,再び「むかしむかし」のテーマが繰り返される,というだけのものです。

 2曲目は「ブルレスケ」(Burleske)で,この曲ははじめて聴きました。
 「ブルレスケ」というのは下品な笑劇のことで,リヒャルト・シュトラウスが作曲した2曲の左手のためのピアノ協奏曲「家庭交響曲余禄」(Parergon zur Symphonia Domestica),「パンアテネ神の大祭」(Symphonische Etuden in Form einer Passacaglia)と並ぶピアノ独奏とオーケストラのための作品だそうです。ピアノは1982年生まれのマルティン・ヘルムヒェン(Martin Helmchen)さんでした。
 冒頭の4台のティンパニによるソロは子気味よく,かつ,挑発的で結構楽しめましたが,これもまた,それだけのことでした。解説では,ブラームスのピアノ協奏曲の影響が濃厚,という話ですが,私には,まったくそうは思えません。しいていえば,ブラームスのピアノ協奏曲第2番のチェロとピアノの掛け合いみたいなものを連想しますが,ブラームスのほうがずっといいです。いずれにしても,リヒャルト・シュトラウスがピアノ協奏曲を作るとこうなる,ということでしょう。それにしても,アンコールのシューベルトの「即興の時」のほうがこころに染みるのだから,困ったものです。

 最後が,交響的幻想曲「イタリアから」でした。
 当時のヨーロッパの上流家庭では,20歳くらいになると息子に見聞を広めるため,イタリア長期旅行をさせる習慣があって,リヒャルト・シュトラウスもそれに習ったそうで,ローマとナポリを中心に名所旧跡を見て回り,鮮烈な印象を受けて,帰国後に完成させたのがこの作品ということでした。
 第1楽章は「エステ荘から眺めた灼熱の太陽に燃えるローマのカンパーニャ」を描いたもので,ドイツ的なものへの訣別とラテン的なものへの志,第2楽章はソナタ形式で意外なほど古典主義的な音楽でメンデルスゾーンのよう,と解説にありましたが,メンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」のほうがずっといいです。第3楽章は「風にそよぐ葉、鳥の歌、自然のひそやかな声、海の遠い波、岸辺に届く寂しい歌」を描いたもの,だそうですが,これもまた,何がメロディーかもわからない堂々巡り。まあ,別に,という感じです。
 極め付きは第4楽章です。リヒャルト・シュトラウスは,ナポリ民謡だと思い込んでいた「フニクリ・フニクラ」をパラフレーズしたものということで,フィナーレでこうした俗謡を引用すること自体,ロマン派の真面目くさった交響曲伝統への嘲笑であって,まさにチャラさ絶好調のようでした。
 リヒャルト・シュトラウスには家庭交響曲とかアルプス交響曲という名前の交響曲らしきものがありますが,それらもまた,実体は交響詩であって,この曲こそが,リヒャルト・シュトラウスの交響曲でしょう。

 ということで,今回の定期公演は,だれでも知っている交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」で客寄せをしておいて,そのあとに,チャラさ絶好調のリヒャルト・シュトラウスなりに作曲したピアノ協奏曲と交響曲を,まあ,一度は聴いてみてごらん,というものだったと私は理解しました。
 演奏者にとれば,多くの団員が参加できて,しかも,思い切り演奏できるリヒャルト・シュトラウスは,久しぶりの定期公演の肩慣らしにちょうどいいのかもしれません。それにしても,観客の方は,私の座っていた2階席のうしろのあたりはガラガラでしたけれど。
 さて,来月は,待ちに待った巨匠ヘルベルト・ブロムシュテットさんのブルックナー。きっと満員でしょう。お元気で来日されますように!

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美保神社を出て,今度は一路西に,宍道湖の北畔を出雲大社をめざして走ることにしました。この日で,宍道湖と中海の外周を1周することになるのです。
46年前,大学生だった私は,山陰地方を公共交通を使って旅しました。松江市に宿泊したとき,翌日は,一畑電鉄で大社駅まで行くことにしていたのですが,松江市のユースホステルで出会ったライダーからオートバイのサイドカーに乗らないかと誘われて,秋晴れの中,さっそうとこの道を走ったのでした。
今回,再び,今度は車でこの道を走っていて,何と偶然,サイドカーをつけたオートバイを見つけて驚きました。今どき,サイドカーをつけたオートバイなんてめったに見ません。運転していたのは初老の人だったので,ひょっとしたら46年前のあの人だったのか? 何だか過去に戻ったかのような,テレビドラマを見ているかのような不思議な気がしました。

さて,天気もよく,快調に走っていくと,1時間ほどで出雲大社に着きましたが,私がまず行きたかったのは,出雲大社を越えたさらに向こう,日御崎(ひのみさき)と稲佐の浜だったので,出雲大社はそのまま通過しました。
日御崎は出雲大社からは思ったよりも遠かったのですが,走っていくと,やがて,日御崎神社を越え,その向こうに,日御碕灯台が見えてきました。広い駐車場があったので車を停めて,日御碕灯台へ行きました。
  ・・・・・・
日御碕の突端に立つ日御碕灯台は,石造灯台としては日本一の灯塔の高さを誇り,地上から43.65メートルあります。 世界の灯台100選や日本の灯台50選に選ばれた日本を代表する灯台で,歴史的文化財的価値が高いため,Aランクの保存灯台となっています。また,全国に5箇所しかない最大の第1等レンズを使用した第1等灯台でもあります。
1900年(明治33年)に着工し,1903年(明治36年)に初点灯しました。
  ・・・・・・
日御碕灯台は現役ですが,最上部まで上ることができました。
150段ほどのらせん状の階段をのぼるのはたいへんで,汗もかきましたが,最上部からは美しい日本海の景色を一望することができました。
日御碕灯台をおりて,昼食をとることにしました。店先でイカを焼いているのに惹かれて,その店に入りました。クーラーがよく効いていてほっと一息つけしました。ここで,焼きイカ丼を食べました。

再び車に乗って少し戻ると,日御碕神社に着きました。
日御碕神社は,出雲大社の「祖神」(おやがみ)として,「出雲国風土記」に「美佐伎社」と記されている,出雲大社に継ぐ大社です。
神社は下の宮「日沉宮」(ひしずみのみや)と上の宮「神の宮」の上下二社からなり,両本社を総称して「日御碕神社」とよばれます。
  ・・
楼門をくぐり,右手の小高いところにあるのが「神の宮」で,須佐之男(すさのお)が祀られています。 出雲の国造りをした須佐之男(すさのお)が,根の堅州国(黄泉国)より「吾が神魂はこの柏葉の止まる所に住まん」と柏の葉を投げて占ったところ,柏葉は風に舞いこの神社背後の「隠ヶ丘」に止まったことから,須佐之男(すさのお)の5世の孫であり,出雲大社に祀られる大国主の父・葺根(ふきね)がこの地に須佐之男(すさのお)を奉斎したといわれています。
現在の社殿は徳川家光の命で松江藩主・京極忠高の手によって1634年(寛永11年)に造営がはじまり,その10年後,当時の藩主・松平直政の代で竣工した日光東照宮を模した権現造りです。
  ・・
楼門の正面には下の宮「日沉宮」があり,須佐之男(すさのお)の姉・天照(あまてらす)が祀られています。「「日沉宮」は,伊勢大神宮は日の本の昼の守り,出雲の日御碕清江の浜に日沉宮を建て日の本の夜を守らん」との神勅により祀ったのがはじまりといわれています。
当初は「清江の浜」の「経島」で天照(あまてらす)を奉斎していましたが,その後葺根(ふきね)が経島に行った際に天照(あまてらす)が降臨し,「我天下の蒼生(=国民)を恵まむ,汝速かに我を祀れ」との神勅があり,現在の地に祀られたということです。

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出雲縁結び空港から東に,美しい宍道湖の景色を左手に見ながら国道9号線を走っていくと,松江市内に入ります。まず私が目指したのは,美保神社でした。美保神社は,美保関という島根県の東端にあって,ここに行くには,中海にある大根島,その次の江島を通り,ダイハツ・タントカスタムのCMで登場したべた踏み坂とよばれる,江島大橋を渡っていきます。私はこの橋をぜひ渡ってみたかったのです。
コンクリートに鉄筋を入れることで頑丈にしたものがRC(Reinforced Concrete)ですが,大きな力を加えられるとひび割れが生じてしまうので,RCよりもさらに頑強なコンクリートとして考え出されたのがPC(Prestressed Concrete)です。また,橋台と橋桁が一体化して繋がっているのがラーメン橋という種類の橋で,その中でも,橋桁を支える橋台が背面から土圧を受けるようになっている橋をPCラーメン橋といいます。江島大橋は日本一のPCラーメン橋で,全長1,446.2メートル,5千トン級の船が下を通れるように,最上部は高さ約45メートルに達します。
  ・・
江島大橋を渡ると鳥取県で,境港市になります。
さらに国道431号線を北上して,今度は,境水道を,長さ709メートル,高さ40 メートルの境水道大橋で渡ると再び島根県で,渡り終えたところから右にまわって「しおかぜライン」という県道2号線を東に行くと,右手に真っ青な海が続き,対岸に大山が眺められます。私は46年前,この大山に登りました。
途中で,注連縄がかかった男女岩がありました。男女岩は,その形から子宝に恵まれるとの俗信が生まれ,今や地元での縁結びの聖地です。また,夜明けのころ,空が徐々に赤く染まり岩の向こう大山の方角から日が昇る様子が幻想的なのだそうです。

やがて,美保神社に到着しました。
美保神社は,平安時代の延喜式の中の神名帳(しんめいちょう)にのっている式内社です。えびす神としての商売繁盛の神徳のほか,漁業,海運の神,田の虫除けの神として信仰を集めています。また,「鳴り物」の神様として楽器の奉納も多いそうです。
社殿の右殿に大国主の子の事代主(ことしろぬし),左殿に大国主(おおくにぬし)の后の三穂津姫命(みほつひめ)を祀ります。事代主(ことしろぬし)は神屋楯比売神(かむやたてひめ)と大国主(おおくにぬし)との間の子供なので,三穂津姫命(みほつひめ)は義理の母にあたります。
創建の由緒は不詳ですが,8世紀に編纂された「出雲国風土記」の神社台帳にすでに記載されているということです。近世になって「出雲大社だけでは片詣り」といわれるようになり,参拝者が増えたそうで,出雲大社とあわせて「出雲のえびす・だいこく」と総称されています。
本殿は,1800年(寛政12年)の火災ののち,1813年(文化10年)に再建されたもので,大社造の左右二殿連棟の特殊な形式で,「美保造」または「比翼大社造」といわれます。

美保神社に祀られているのは,大国主(おおくにぬし)の子・事代主(ことしろぬし)ですが,事代主(ことしろぬし)はえびす様だそうです。どうしてなのだろう?
  ・・・・・・
えびすの最初の記録は,平安時代末期の「伊呂波字類抄」ということです。
本来,えびすは,海の向こうからやってくるクジラやジンベイザメが神格化されたものだそうです。このような海洋生物が出現すると豊漁をもたらすという考えからえびすとよばれ,漁業神とされました。やがて,中世に商業が発展するにつれて,えびすは商売繁盛の神としての性格が現れ,七福神の1柱とされました。
しかし,えびすはもともとは記紀に出てこない神であるので,古くから,(箔づけの)根拠を与えるために,記紀の中に該当する神を探しだそうと考えられてきました。そこで見つけ出したのが,「古事記」で,生まれつき体が異常に柔らかかったことから蛭のような子「ひるこ」と名づけられた伊邪那岐(いざなき)と伊邪那美(いざなみ)のはじめての子でした。
「ひるこ」は3歳になっても歩けなかったことから、葦の舟で海に流しまいました。流された「ひるこ」がどこかの地に漂着したという信仰が生まれ,ひるこが海からやってくる姿が海の神であるえびすの姿と一致したため,ひるこ,蛭のような子,つまり,蛭子とえびすを同一視するようになったのです。
  ・・・・・・

これとは別に,えびすを事代主(ことしろぬし)だとする神社の代表格が今宮戎神社でした。
「古事記」の国譲りで,大国主(おおくにぬし)の使者が事代主(ことしろぬし)に天津からの国譲りの要請を受諾するかを尋ねるために訪れたとき,事代主(ことしろぬし)が釣りをしていたとされることと,えびすが海の神であることが結びつき,江戸時代になって両者を同一視するようになりました。
七福神の絵図でえびすが釣竿を持ち鯛を釣り上げた姿で描かれるのは,この事代主(ことしろぬし)の伝承に基づくものです。また,大国主(おおくにぬし)がだいこくで,事代主(ことしろぬし)がえびすなら,えびすとだいこくは親子ともされます。
一方,えびす信仰が生まれる以前から事代主(ことしろぬし)を祀っていた神社が美保神社でした。そして,後世,事代主(ことしろぬし)がえびすと同一視されるようになったために,美保神社ではえびすを祀るようになったのです。

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これまで,2023年8月22日に松江市を観光したことについて書いてきました。翌,8月23日から8月27日まで,4泊5日で隠岐諸島へ行ったのですが,そのことは後回しにして,今日から,8月28日に出雲を観光したことを先に書くことにします。
  ・・
2023年8月28日,7日目。
隠岐諸島から8月27日にフェリーで境港に帰ってきた私は,再び,松江駅前の東横インに宿泊し,翌朝,早々にホテルをチェックアウトして,接続バスで松江駅前から出雲縁結び空港に向かいました。
チェックアウトするとき,この日もまた,東横インの1階では朝食をとろうと,宿泊者がずらっと列を作っていました。本当に,これはなんとかならないものでしょうか? 朝からこんなことでは楽しくありません。
私は前日の夜,コンビニで朝食を買っておいたので,すでに部屋で食べてありました。松江駅前には朝から開いているファーストフード店が1軒もないのです。
この日の夜,午後6時20分発のFDA で県営名古屋空港へ帰るので,それまで,出雲大社とその周辺の観光地を巡ることにしました。はじめは列車を使おうと思ったのですが,とても不便そうだったので,レンタカーを借りることにしました。レンタカーは松江市内で借りて出雲縁結び空港で返してもよかったのですが,割増になるし,めんどうなので,出雲縁結び空港で借りて返すことにしたので,まず松江駅から空港連絡バスに乗ったのです。

46年前に来たとき,私は,出雲大社には行きましたが,美保神社,日御崎神社(ひのみさきじんじゃ),稲佐の浜などには行く機会がありませんでした。そこで,いつか行ってみたいとずっと思っていたのが実現しました。
  ・・・・・・
「古事記」によると,出雲大社は須佐之男(すさのお)の6世孫である大国主(おおくにぬし)が祀られた神社,美保神社は大国主(おおくにぬし)の子である事大主(ことしろぬし)が祀られた神社,日御崎神社は天照(あまてらす)と須佐之男(すさのお)の姉弟が祀られた神社,そして,稲佐の浜は大国主(おおくにぬし)と建御雷(たけみかづち)が国譲りの交渉をした場。
  ・・・・・・
ということだそうですが,所詮は物語。とはいえ,これではわけがわかりません。また,「古事記」や「日本書紀」,さらにはほぼ完本の形で今も残る「出雲風土記」などの記述には,異なるところが多々あるので混乱します。そこで,私がおもしろく観光するために,ここでは「古事記」だけをもとにして,大雑把に物語を要約して,理解することにしました。

  ・・・・・・
■天地のはじまり
高天原には,まず,高御産巣日(たかみむすび)など5柱の天つ神,次に,2柱の神が単独で出現したあと,男女の4ペアの神が出現し,最後に,伊耶那岐神(いざなき)と伊耶那美神(いざなみ)のペアの神が出現しました。
■国生み
天つ神から沼矛(ぬぼこ)を授かった伊耶那岐(いざなき)と伊耶那美(いざなみ)は,浮き橋に立って掻き回してできた淤能碁呂(おのころ)島に降って伊耶那美(いざなみ)が伊耶那岐(いざなき)に求婚しました。生まれた子は体が異常に柔らかかったので、蛭のような子「ひるこ」と名づけましたが,3歳になっても歩けなかったことから、葦の舟で海に流してしまいました。
改めて,伊耶那岐(いざなき)から求婚すると,今度は,伊耶那美(いざなみ)は,淡路島,四国,隠岐島,九州,壱岐島,対馬,佐渡島,本州を生みました。
さらに,さまざまな神々を生んだのち,火の神である火之夜藝速男(ほのやぎはやを)を生んだことで,死んでしまいました。伊耶那岐(いざなき)は怒って,火之夜藝速男(ほのやぎはやを)の首を尾羽張(おはばり)で切り落とした際,尾羽張の根元についた血が岩に飛び散って,建御雷(たけみかづち)が生まれました。
■黄泉国(よもつくに)
黄泉国に行ってしまった伊耶那美(いざなみ)を連れ戻すため,伊耶那岐(いざなき)は黄泉国へと出向き,伊耶那美(いざなみ)に,戻るように説得しました。
伊耶那美(いざなみ)は,黄泉国の神と相談してくるからその間決して中を覗いてはならないと言って,伊耶那岐(いざなき)を待たせました。しかし, 待ちきれなくなった伊耶那岐(いざなき)が中を覗いてしまうと,蛆がたかり,躰の八箇所に恐ろしい雷神を生じている伊耶那美(いざなみ)の姿があったので,驚き恐れ逃げ出しました。
■須佐之男
黄泉国から逃げ帰った伊耶那岐(いざなき)が禊をすると,左の目から天照(あまてらす)が,右の目から月読(つくよみ)が,鼻から須佐之男(すさのお)が出現しました。
伊耶那岐(いざなき)は,天照(あまてらす)に高天原を,月読(つくよみ)に夜の食国(おすくに)を,須佐之男(すさのお)に海原を統治するように命じましたが,須佐之男(すさのお)は自分は亡き母(伊耶那美(いざなみ)のことだと思われる)のいるもとに行きたいと言って泣いてばかりいたので,伊耶那岐(いざなき)の怒りを買い,追放されてしまいました。
■石屋
追放された須佐之男(すさのお)が姉・天照(あまてらす)のいる高天原にやってきたとき,「弟はこの国を奪いに来たに違いない」と疑ったので,須佐之男(すさのお)は,自らの潔白を証明するために「宇気比」(うけひ=占い)をして子神を生もうと提案しました。
お互いの持ち物である須佐之男(すさのお)の剣と、天照(あまてらす)の玉を交換し,口に含んではき出した息の中から,須佐之男(すさのお)は忍穂耳(おしほみみ)をはじめとして五柱の男神を,天照(あまてらす)は三柱の女神を出現させました。須佐之男(すさのお)は,自分が持っていた剣から女神が生まれたのだから,自分の勝ちであると勝利宣言をしてあばれたので,天照(あまてらす)は,とうとう石屋(いわや)に閉じこもってしまうと,高天原も地上世界も真っ暗闇になってしまいました。
このとき,伊斯許理度売(いしこりどめ)が作った鏡が,天照(あまてらす)が石屋を細く開けたときに天照(あまてらす)自身を映し,興味をもたせて外に引き出したので,再び世は明るくなりました。これが今日伝わる天皇家の3種の神器のひとつである「八咫鏡」(やたのかがみ)です。また,玉造部(たまつくりべ)の祖神玉祖(たまのおや)が作った勾玉が「八咫鏡」とともに高御産巣日(たかみむすび)の子神・布刀玉(ふとだま)が捧げ持つ榊の木に掛けられました。これが今日伝わる天皇家の3種の神器のひとつである「八尺瓊勾玉」(やさかにのまがたま)です。
■八俣大蛇(やまたのおろち)退治
こうして,高天原も追放された須佐之男(すさのお)は,出雲の鳥髪山の地に降り立つと,少女を置いて泣いている老父と老女に出逢いました。須佐之男(すさのお)が泣いている理由を尋ねたところ「自分たちには8人の娘がいたが,毎年,八俣大蛇が訪れて娘をひとりずつ喰われてきた。最後の娘の櫛名田比売(くしなだひめ)が喰らわれる時期となったので泣いているのだ」と答えたので, 須佐之男(すさのお)は,八俣大蛇を退治する代わり,娘を自分の妻として奉るように要求し,八俣大蛇を退治しました。そのとき,八俣大蛇の尾から出現した1本の剣を,天照(あまてらす)に献上しました。これが今日伝わる天皇家の3種の神器のひとつである「草那藝之大刀」(くさなぎのつるぎ)です。
■大国主神(おおくにぬし)の誕生
櫛名田比売(くしなだひめ)と結婚した須佐之男(すさのお)は,出雲の須賀に宮を作り,子神を誕生させました。子神はさらに次々に次代の子神を生んでいき,須佐之男(すさのお)の6世孫として誕生したのが大国主(おおくにぬし)でした。
大国主(おおくにぬし)は,兄神たちと一緒に八上比売(やがみひめ)に求婚に出かけ,その途中で素兎(しろうさぎ)を助けました。素兎から「あなたが八上比売(やがみひめ)を得るでしょう」と予言され,そのとおりに八上比売(やがみひめ)から求婚の承諾を得ましたが,兄神たちの恨みを買い,命を狙われてしまいました。このままでは本当に殺されてしまうと危惧した母神は,大国主(おおくにぬし)に,須佐之男(すさのお)のいる根の堅州国(黄泉国)へ行くようにと指示しました。
根の堅州国(黄泉国)に出かけた大国主(おおくにぬし)は,そこで須佐之男(すさのお)の娘,須勢理毘売(すせりびひめ)と出逢って結婚し,地上世界を治めることになりました。八上比売(やがみひめ)は正妻となった須勢理毘売(すせりびひめ)を畏れ,自分の生んだ子を木の俣に挟んで因幡に帰ってしまいました。
■国譲り
天照(あまてらす)は,「大国主(おおくにぬし)が治めているこの地上世界は,私の子である忍穂耳(おしほみみ)が統治する国だ」と宣言をし,須佐之男(すさのお)との「宇気比」で産んだ男神五柱のうちの長男である忍穂耳(おしほみみ)を派遣しました。
忍穂耳(おしほみみ)は,天の浮橋に立ち地上の様子を窺いますが,地上世界はとても騒がしかったと報告を受けた天照(あまてらす)と高御産巣日(たかみむすひ)は,「地上世界は,荒ぶる国つ神どもが跋扈している国だ。誰かを派遣して言向(服従)させよう」と言い,伊耶那岐(いざなき)が,火之夜藝速男(ほのやぎはやを)の首を切り落とした際に生まれた建御雷(たけみかづち)を使者として派遣し,大国主(おおくにぬし)とその子神の事代主(ことしろぬし)・建御名方(たけみなかた)を服従させ,国譲りを成功させました。
大国主(おおくにぬし)は,「壮大な宮殿を自分が鎮まるために建ててもらえるならば,出雲国に鎮まるだろう」と言って国を譲り渡しました。この宮殿が出雲大社です。
■天孫降臨
国譲りの交渉が無事に終わり,天照(あまてらす)は子神を降臨させることができるようになりました。降臨を予定していた忍穂耳(おしほみみ)に,天照(あまてらす)と高御産巣日(たかみむすひ)が改めて降臨を命じたところ,忍穂耳(おしほほみみ)は,自分に子・邇々芸(ににぎ)ができたので,この子神を降臨させようと言いました。邇々芸(ににぎ)は,「八咫鏡」(やたのかがみ),「八尺瓊勾玉」(やさかにのまがたま),「草那藝之大刀」(くさなぎのつるぎ)を天照(あまてらす)から授けられ,筑紫・日向(ひゅうが)の高千穂の久士布流岳に降臨し,高千穂宮を立てました。
■日向に降臨
日向に降臨した邇々芸(ににぎ)は,笠沙の御前でひとりの美女・佐久夜毘売(さくやびめ)と出会い,生まれたのが,火照(ほでり=海幸彦),火須勢理(ほすせり),火遠理(ほおり=山幸彦)でした。
火遠理(ほおり=山幸彦)は,火照(ほでり=海幸彦)から借りた釣道具を失くしてしまいました。火遠理(ほおり=山幸彦)が何度謝っても火照(ほでり=海幸彦)は許しませんが,やがて,釣り道具が見つかりました。
次第に不幸になっていった火照(ほでり=海幸彦)が火遠理(ほおり=山幸彦)のもとに乗り込むと、火遠理(ほおり=山幸彦)は,塩満珠と塩乾珠を使って火照(ほでり=海幸彦)を溺れさせ,そして助けてやりました。このことですっかり火遠理(ほおり=山幸彦)に服従した火照(ほでり=海幸彦)は、守護人として火遠理(ほおり=山幸彦)に仕えることを約束します。
■鵜葺草葺不合(うがやふきあえず)の誕生
火遠理(ほおり)は,海神宮の娘、豊玉毘売(とよたまびめ)を妻とし,子神ができました。
豊玉毘売(とよたまびめ)は,「私たちの国の者は,出産のときには本国の姿になって産むので,その姿を見てはならない」と言い,鵜の羽を茅葺とした産屋に籠もって出産をしようとしました。しかし,火遠理(ほおり)は,見たいという気持ちを抑えることができずについ覗いてしまうと,そこに見えたのは,和邇(わに)の姿となってのたうっている豊玉毘売(とよたまびめ)の姿でした。豊玉毘売(とよたまびめ)は無事に鵜葺草葺不合(うがやふきあえず)を出産しましたが,見られたことを恥に思い,海神宮の世界に戻ってしまいました。
■神武東征
鵜葺草葺不合(うがやふきあえず)と豊玉毘売(とよたまびめ)の妹である玉依比売(たまよりひめ)との間には四柱の男子が誕生しました。 次男の稲氷(いなひ)は海原に入り,三男の御毛沼(みけぬ)が常世国(とこよのくに)に渡り, 長男の五瀬(いつせ)と四男の神倭伊波礼毘古(かむやまといわれびこ),すなわち神武天皇は,天下を治めるべきよき場所を求めて東へ行こうと相談しました。
高千穂宮を出発し,筑紫,安芸,吉備などを経て大阪湾に入り,大阪方面から大和へ入ろうとしますが,在地勢力の抵抗にあい,五瀬(いつせ)は紀伊国において戦死してしまいました。
神倭伊波礼毘古(かむやまといわれびこ)の一行は,夢で天照(あまてらす)と高御産巣日(たかみむすひ)の命を受け,高御産巣日(たかみむすひ)が授けた八咫烏(やたがらす)の先導を受けたり,国つ神の服従を受けたりしながら,刃向かう者を征討し,苦労しながらも,ヤマトの畝傍(うねび)の白檮原宮(かしはらのみや)で即位しました。
  ・・・・・・
これが,「古事記」に描かれた,初代・神武天皇が即位するまでのこの国の神話の概要です。

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夕食を終えて,サンセットクルージングの乗り場に向かいました。
これから,船に乗って,宍道湖の夕日を楽しみます。
  ・・・・・・
宍道湖は,大橋川,中海,境水道を介して日本海と接続しているので,淡水湖ではなく汽水湖で,平均塩分濃度は海水の約10分の1です。面積は日本で7番目に大きく,東西約17キロメートル,南北約6キロメートル,周囲長47キロメートル,平均約5メートルの湖底はほぼ水平となっています。
宍道湖内に浮かぶ唯一の島が嫁ヶ島は,宍道湖南岸から200メートルほど沖にあって,全長150メートル,幅27メートルの小さな島です。姑にいじめられた若嫁が寒さに凍った湖上を実家に帰る途中,氷が割れて水死し,それを哀れんだ湖の神様が一夜にして島を浮かび上がらせたという伝説があります。
  ・・・・・・

サンセットクルージングに使われている「はくちょう号」は,フランスの河川を走る遊覧船をイメージしてつくられたクルーズ船で,大橋川から宍道湖に入り,約1時間の宍道湖周遊を楽しむことができました。この日は,ほどほどに雲があり,雲に光が反射して,美しい風景でした。
「はくちょう号」は,屋根つきの船内と,1階と2階にデッキがあり,当然,最上階の2階に陣取りました。船は旋回して夕日が見られるので,見やすいように自由に動き回れます。
第2乗船場から乗り込むと,まず,大橋川にかかる3つの橋をくぐります。1番目は新大橋で,この橋はかなり高さが低く,迫力があります。次が擬宝珠のある松江大橋,そして,最後が宍道湖大橋です。
この橋を超えると宍道湖に出ます。
宍道湖の北側にある松江しんじ湖温泉を眺めながら,沖に出ていくと,いよいよ夕日が湖に沈んでいきます。ここで遊覧船は一旦停止して,日没までの風景を楽しむ仕掛けです。
やがて,嫁が島も間近に船が再び動き始めます。
島根美術館,松江城,そして,松江大橋界隈は灯りがともりはじめて風情が満載でした。
旅の1日目は,こうして,松江市内を堪能することができました。

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私は「ぐるっと松江レイクライン」の1日乗車券を利用して,松江市内観光をしています。
松江市といえば,宍道湖に沈む夕日です。46年前に来たときにはじめて見て,何と美しい! と思いました。今回も,この夕日が楽しみだったので,松江市の観光案内所で宍道湖観光遊覧船の「サンセットクルージング」を知って,早速予約してありました。
というわけで,あとは,「サンセットクルージング」の出発時刻である午後6時20分までが,この日の持ち時間でした。

月照寺を出て,再び「ぐるっと松江レイクライン」に乗りました。
このまま松江駅に戻ろうかとも思ったのですが,途中,島根県立美術館を通ったので,降りることにしました。この旅に出る前に,NHKEテレで放送している「日曜美術館」のアートシーンで島根県立美術館という名前が出てきたのを覚えていて,機会があれば行ってみようと思っていたからです。
私は,正直,美術はよくわかりません。わからないのだけれど,世界中の多くの美術館に行っていて,ずいぶんと有名な作品を見ています。
それはともかくとして,松江市に来たとき,何度も,多くの人に,島根県立美術館から見る夕日がとりわけきれいだ,と聞きました。しかし,私はすでに「サンセットクルージング」を予約してあったので,残念ながら,この場所から夕日をみることはかなわなかったのですが,ともかく,どんな美術館なのだろうと,興味が湧いたからです。
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島根県立美術館は,「日本の夕陽百選」にも指定される宍道湖の畔にある山陰最大規模を誇る美術館です。 常設展示として,特に「水」を画題とする絵画などが数多く展示されることで定評があります。
また,「夕日の見える美術館」として,ロビーの西側をすべてガラス張りにし,夕日観賞のために一般に開放しています。宍道湖を一望できるエントランスロビーから,刻々と移り変わる宍道湖の表情が楽しめ,夕方になると美しい夕陽がロビーを黄金色に染め上げます。
館内には,カジュアルフレンチを楽しめる「湖畔のレストラン RACINE」(ラシヌ)を併設し,宍道湖一望の絵になる風景を眺めながら,ちょっとリッチな時間を過ごすことも可能です。
少し湖畔よりの芝生へと足を運ぶと,縁結びスポッとしても人気の「宍道湖うさぎ」があって,12羽の「宍道湖うさぎ」のうち,湖から2番目のウサギに西を向きながら触ると幸せが訪れるということで,す。
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そんなわけで,もし次回があれば,ここで半日すごしてもいいと思いました。

今回,特別展として, テオ・ヤンセン展が開催されていたので,入りました。会期は7月7日から8月28日でした。いったいどんな展示があるのか,私は,全く無知でした。
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テオ・ヤンセン(Theo Jansen) は1948年に生まれたオランダの彫刻家です。1968年からデルフト工科大学で物理学を学び1974年に卒業し,画家に転向しました。1990年,風力で動作するストランドビースト(strand=砂浜,beest=生命体)の制作を開始し,以来,アートと科学が融合した多くの芸術作品を生み出しています。
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ストランドビーストというのは,プラスチック・チューブやペットボトル,粘着テープといった身近な材料を組み合わせて,物理学による計算に基づいて作られた,風の力で砂浜の上を歩く生命体だそうです。
レオナルド・ダ・ビンチみたいだ,と思ったら,やはりテオ・ヤンセンは「現代のレオナルド・ダ・ヴィンチ」と称されているということです。ストランドビーストは,故国オランダの海面上昇間題解決のため,海岸に自生して砂を積み上げる防波堤ができないか,という発想を基点として生まれたものだそうです。
不思議な展覧会でした。島根県立美術館のよいところは,常設展も含めて写真を撮ってもいいところでした。海外の美術館の多くは写真撮影可なのに,なぜ,日本の美術館の多くでそれが不可なのか,私にはわかりません。

さて,島根県立美術館を出て,再び「ぐるっと松江レイクライン」に乗って,松江駅に戻りました。
これから,「サンセットクルージング」の乗船時間までに夕食をとろうと,松江駅の駅前で見つけた「楽楽」という居酒屋さんで,地酒を呑みながら夕食をとりました。

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「ぐるっと松江レイクライン」は,松江市内を反時計回りに1周しています。1日乗車券を購入した私ですが,これまで,松江駅から松江城まで乗車しただけでした。松江城で降りて,遊覧船「ぐるっと松江堀川めぐり」に乗り,その後は,松江城の北側を,小泉八雲記念館や旧居,武家屋敷というように時計回りに歩いて松江歴史館まで来たのですが,その場所は,はじめに乗船した遊覧船「ぐるっと松江堀川めぐり」の大手前堀川遊覧船乗場に近く,再び,その場所に戻ってきました。
そこで,そこから「ぐるっと松江レイクライン」に乗って,残りのコースを1周することにしましたが,途中で何か見どころがあれば,そこで下車しようと思いました。バスの中で観光案内放送があるので,その場所がどういうところかわかるのです。
しばらく乗っていたら,月照寺に差しかかりました。この寺は,松江藩松平家の菩提寺ということだったので,下車することにしました。すでに書いたように,私は,江戸時代にその地を治めた殿様が地元でどのように慕われていたかということに興味があって,その答えが菩提寺を訪ねるとわかるからです。これまで訪れた中で,もっともすばらしいと思ったのは,山形県の米沢市にあった上杉家の廟所でした。その反対に,なんだこれは,と思ったのが,青森県弘前市の津軽家の廟所でした。

月照寺は,かつては,洞雲寺(とううんじ)という禅寺でした。永く荒廃していたのですが,松江藩初代藩主・松平直政が生母の月照院の霊牌安置所として,1664年(寛文4年)に再興し,浄土宗の長誉を開基とし,「蒙光山月照寺」(むこうざんげっしょうじ)と改めました。
松平直政は1666年(寛文6年)に江戸で死去しましたが,臨終の際に「我百年の後命終わらば此所に墳墓を築き,そこの所をば葬送の地となさん」と遺しました。2代藩主・松平綱隆が松平直政の廟所を営んだとき,山号を現在の「歓喜山」と改めました。以後,9代藩主までの墓所となりました。ずらりと並んだ立派な墓所は壮観でした。これほどの藩主の墓をほかに見たことがありません。
なお,松江藩松平家は10代まで続きましたが,最後の10代藩主・松平定安のときに明治維新となったので,この地には墓所がありません。
名君の誉れが高い7代藩主・松平治郷の廟門は松江の名工・小林如泥の作によるとされ,見事な彫刻が見られます。また,松江城が見下ろせる場所に葬ってほしいという遺言にしたがって,遠くに松江城が見られる高台に墓所がありました。
また,6代藩主・松平宗衍の廟所には,大亀が寿蔵碑の土台となっています。
この大亀は,夜な夜な松江の街を徘徊し,下の蓮池にある水を飲み「母岩恋し,久多見恋し…」と町中を暴れ回ったといいますが,この伝説は小泉八雲の随筆「知られざる日本の面影」で紹介されています。「母岩,久多見」というのは大亀の材料となった石材の元岩とその産地のことだそうです。
松平治郷は,30キロメートル西方の出雲市久多見町の山中より堅牢で緑色の美しい久多見石を材料として選びましたが,この石は,かつて,出雲大社に功有りとし,本殿おにわ内にクタミ社として単独社を設けられ祀られる神が逗留したとされる神石だったので,切り出しや運搬には難儀を極めました。
こうした神威を恐れた松平治郷は,お抱えの絵師に延命地蔵像を描かせて,残った岩に線刻し崇めました。この石は「親孝行岩」として現在も信仰されていて,この大亀の頭を撫でると長生きできるといわれています。

境内には松平治郷お抱えの力士であった雷電爲右衞門の碑があり,手形が彫られていたので,私の手を重ねてくらべてみました。
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雷電 爲右エ門は,1767年(明和4年)に生まれ,1825年(文政8年)に亡くなった現在の長野県東御市大石出身の大相撲力士です。現役生活21年,江戸本場所在籍35場所のうち大関在位27場所で,通算黒星がわずか10個,勝率.962の大相撲史上未曾有の最強力士とされています。
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また,境内には宝物殿もあり,歴代藩主の遺品が展示されていました。

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塩見縄手を東に,松江城の北側をさらに歩いて行って,松江歴史館に着きました。
松江歴史館の敷地面積は約5,500平方メートル,延床面積が約4,200平方メートルで,本館と松江藩家老朝日家長屋,館の入口には長屋門があり,屋外には日本庭園も設けられています。松江歴史館では,松江城の国宝指定の決め手となった 「祈祷札」や ,堀尾三代,京極一代,松平十代の松江の系譜,庶民の暮らし,産業,祭事,食文化など城下町松江の歴史や文化をさまざまな資料展示や映像,模型などで見ることができます。
この日は,非常に暑く,こうした涼しい場所がとても助かりました。

松江歴史館は,2015年に行われた第73期名人戦の第3局の対局場となった場所でした。「観る将」ということばもなかった当時は,ほとんど話題にもならなかったから,今とは隔世の感があります。
当時,この対局で,羽生善治名人に挑戦した行方尚史八段も食したという和菓子を,国宝松江城と日本庭園を眺めながら食べられるのが,松江歴史館にある喫茶「きはる」です。
松江市は,京都,金沢と並ぶ日本三大和菓子処です。茶人でもあった松江藩七代目藩主・松平治郷が松江に茶の湯文化を広め,それとともに和菓子処として全国に名を馳せるようになったことではじまりました。そんなわけで,松江城下では,和菓子を食べなければ片手落ちなのです。さらに,喫茶「きはる」では「現代の名工」に選ばれた職人・伊丹 二夫さんがひとつひとつ手作りした和菓子とともに,茶処松江のお茶を味わうことができるというから,最高の場所でした。
なかでも,おすすめの逸品は数量限定のわらび餅。丁寧に炊いた餡をとろけるわらび餅で包み,まわりに抹茶をふったイチオシの逸品で,口に入れると小倉餡の程よい甘さと抹茶の香りがふわっと広がる至極の逸品ということです。私も,文句なく,この逸品を冷たい抹茶とともにいただきました。

松江歴史館の入場券で,近くにあった松江ホーランエンヤ伝承館にも入ることができたので,行ってきました。
松江ホーランエンヤというのは,城山稲荷神社の式年神幸祭の通称で,大阪府の天神祭り,広島県の厳島神社の管弦祭と共に日本三大船神事のひとつとされていて,10年に一度行われます。
祭りの期間は9日間で,城山稲荷神社から御神輿を船団で運ぶ「渡御祭」(とぎょさい)と,阿太加夜神社本殿に迎え,7日間の大祈祷が行われるその中日に櫂伝馬踊りが奉納される「中日祭」(ちゅうにちさい),再び船団によって城山稲荷神社へと御神霊を送る「還御祭」(かんぎょさい)の3つの祭礼が行われるというものです。中でも,渡御祭と還御祭は,五大地とよばれる地域の人々が一同に集まり,色とりどりに装飾された櫂伝馬船の総数は100隻以上にも上り,大船行列を作る壮大な姿が楽しめるそうです。
前回は2019年(令和元年)の5月18日から5月26日に開催され,次回は2029年の予定です。
松江ホーランエンヤ伝承館は,松江ホーランエンヤの起源,歴史を紹介するものでした。
全国各地にいろいろな行事があるものだなあ,と思いましたが,なにせ,10年に1度しか行われないから,見る機会もほとんどなく,徳島の阿波踊りとか,青森のねぶたのようなものとは一線を画しているような気がしました。

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46年前に松江市に来たとき,私は,小泉八雲がこの地に関わりがあったことを知りましたが,時間がなく,記念館や旧居を訪れることができなかったので,今回,そこへ行くのを楽しみにしていました。昼食を終えて,おそば屋さんから道を隔てたところにあった小泉八雲記念館に向かいました。
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小泉八雲は1850年に生まれ,1904年(明治37年)に54歳で亡くなったギリシャ生まれの小説家で,出生名はパトリック・ラフカディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn),1896年(明治29年)に日本国籍を取得して「小泉八雲」と名乗りました。日本の怪談話を英語でまとめた「怪談」を出版したことで知られます。
異国情緒を求め,小泉八雲は,アイルランドからフランス,アメリカ,西インド諸島,日本と放浪を続けました。1890年(明治23年),アメリカの出版社の通信員として来日し,日本で英語教師として教鞭を執るようになりました。小泉八雲が松江で暮らしたのはわずか1年2か月と15日でしたが,日本で最初に定住した土地であり,また,松江士族の娘・小泉セツと結婚し,松江の霊的な環境に刺激を受けたことで精神的なつながりができたこともあって,今も松江は小泉八雲ゆかりの地となっています。
  ・・・・・・

小泉八雲記念館は1933年(昭和8年)に開館した記念館で,弟子の落合貞三郎と岸清一の働きにより,小泉家から寄贈された原稿をコレクション,小泉八雲記念会から寄贈された書籍350冊をもとに,小泉八雲と妻の小泉セツが過ごした小泉八雲旧居の西隣に新築された洋風建築の建物でしたが,1984年(昭和59年)に和風建築の木造平屋建てに改築され,リニューアルオープンしたということなので,46年前に来ていたら,現在の建物ではなかったことになります。
小泉八雲の生涯について,詳しい展示があって,とても勉強になりましたが,来日当時,学者でもなく,国に招かれたわけでもなかったのに,この国で多くの関りをもち,こうした記念館まで作られたことが驚きでした。
次に,となりになった小泉八雲旧居に行きました。
小泉八雲旧居は,小泉八雲が旧士族根岸家の武家屋敷を借りて1891年(明治24年)5月から11月までのわずか6か月間住んだ邸宅です。
小泉八雲は,それまで住んでいた宍道湖岸の借家が手狭になったので,庭のある侍の屋敷に住みたいと希望して,妻の小泉セツとともにここにに転居しました。この家の庭は枯山水の観賞式庭園として評価の高いものでした。
屋敷内はとても落ちつく空間で,私は,当時のガラスが気に入りましたが,これは,小泉八雲が住んでいた時代以降のものということでした。

その後,さらに東に歩いて行くと,武家屋敷が続いていました。この武家屋敷の前に広がる通りは、塩見縄手とよばれ,松江開府時の藩主・堀尾吉晴が,松江城築城の際に,城地の亀田山と北側の赤山を掘削し,内堀とそれに並行する道路および侍屋敷を造成してできた城下町の通りです。
そのうちの1軒が博物館として公開されていたので,入りました。この武家屋敷は, 江戸時代中期の1733年(享保18年)の大火の直後に建てられたとされ,以来,明治維新まで松江藩の中級武士の住居として使用されたものです。ここに一時住んでいた塩見小兵衛がのちに異例の栄進をしたことで,城下町の通りは塩見縄手とよばれているのです。
武家屋敷の面積は,約70坪の母屋と,中間の住居として用いられていた長屋,長屋門,さらに,裏門,庭園が現存していて,それまで私が思っていた武家屋敷よりずっと広いと思いました。

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松江市内については,何の予習もなく,ガイドブックも持っていなかったので,私は,観光案内所でもらった地図と「ぐるっと松江レイクライン」に乗ったときにもらった運行ルートマップを手掛かりにして散策をしていますが,何も知らないほうが思いがけないところに出会えます。
松江城を出て,松江城の北側にある小泉八雲記念館,小泉八雲旧居,そして,武家屋敷をめざして,松江城の西側を北に向かって歩いていたのですが,前回書いた,松江神社と興雲館を過ぎると,次にあったのが城山稲荷神社(じょうざんいなりじんじゃ)でした。
入口にあった案内板を読んで興味をもったので,中に入ってみました。ここは小泉八雲お気に入りの場所ということでした。
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城山稲荷神社の 創建は,1638年(寛永15年)です。
松江藩主として領国入りした松平直政の夢枕にひとりの美少年が現れました。自らを稲荷真左衞門と名乗ると「私はあなたを全ての災厄からお守りいたします。城内に住む場所を作っていただければ,城内はもちろん,江戸の屋敷まで火事から防ぎましょう」と言って消えました。そこで,さっそく城内に稲荷神社を建てたのが城山稲荷神社です。
この由来故,松江の各家庭には,城山稲荷神社の守り札が火難除けとして置いてあり,これを見た小泉八雲は「松江唯一の防火設備」と称したといいます。小泉八雲は,松江滞在中,毎日の散歩で城山稲荷神社を訪れ,所狭しと並べられた狐の石像を気に入りましたが,とりわけ随神門そばにある一対の狐像を非常に愛でていました。
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城山稲荷神社を出たころ,ちょうとお昼時になりました。旅先では,その土地の名物を食すに限ります。元来,グルメでなかった私ですが,歳をとって,名所・旧跡めぐり以上に,食事が楽しみになってきました。こうなると,ハンバーガーくらいしか食べるものがない,しかも物価が高いアメリカなんか旅している場合でなく,日本が一番です。
交差点の角に1軒のおそば屋さんがあったので,中に入って,一押しのメニューを注文しました。
松江といえば,シジミでしょう。ということで,シジミご飯に,ご当地のおそばです。ここの名物は出雲そばということで,食べ方を説明してもらえました。
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出雲そばは出雲地方を代表する食文化ですが,特徴のひとつは,見た目が黒っぽいところにあります。
通常,そば粉は,殻をむいたそばの実を1番粉から4番粉に分類しますが,その場合,そばの実の中心に行くほど白くなります。中心の白い部分である1番粉で打ったそばが「更科そば」です。
一方,出雲そばは,粉の選別をしないで,殻のついたそばの実をそのまま挽き込む「挽きぐるみ」とよばれる製粉方法で作るので,色が黒っぽくなるのですが,栄養価と香りが高い,風味と食感のよいそばになるのがウリです。
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出雲そばには,冷たい「割子そば」と温かい「釜揚げそば」がありますが,この時期は何といっても「割子そば」です。
江戸時代,松江の城下町では,野外でそばを食べるために,四角い重箱(=割子)にそばを入れて持ち運んでいましたが,四角形だと隅が洗いにくく,不衛生との理由から,今のような円形の漆器に変わっていきました。つゆは土瓶のような容器に入れ、食べる前に器の中のそばに直接かけて食します。
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ということですが,薬味は,どのように使ってもいいということだったので,私は,3段の割子にそれぞれ3分の1ずつ分配して,そこにつゆをかけました。1段目のつゆが残ったら,それを2段目にかけるといわれました。
わざわざ3段にわけずとも大きな皿に盛ればいいようにも思うのですが,量が少ないと食欲が増すように感じるのが不思議です。
それにしても,先日行った山形県では板そばというものがあったし,石垣島には沖縄そばがあったし,日本各地,どこにいっても,その地方のそばがあって,盛り方や食べ方が異なっているのが楽しいです。今は,御当地ラーメンが人気ですが,日本ではなんといってもそば,と私は思います。
そんなわけで,旅先ではそばばかり食べています。

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「くるっと松江堀川めぐり」で1周して,大手前広場乗船場で降りた私は,次に,松江城に行きました。
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松江城は現存する12天守のひとつであり,山陰地方では唯一のもので,犬山城,松本城,彦根城,姫路城と並ぶ国宝です。
標高29メートルの亀田山に建つ天守からは宍道湖をはじめ,松江の町を眺望することができます。
明治時代初頭の廃城令で,松江城は全て解体され売却される予定でしたが,地元の有志によって天守閣だけは買い戻されて解体を免れました。また,近年,二の丸の櫓が復元されています。
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私は城オタクではないのであまり詳しくないのですが,日本各地を旅すると,大概,城を訪ねます。それは,どこも,城が観光名所の目玉だからです。
松江城で最も興味をもったのは「祈祷札」でした。
松江城は1935年(昭和10年)に国宝に指定されましたが,1950年(昭和25年)の文化財保護法の施行により重要文化財となり,国宝から外されてしまいました。
国宝に返り咲くためには,城の築城年代の証拠が必要だったのですが,2012年(平成24年),松江神社で松江城が完成した年に祈祷に使われたという2枚の「祈祷札」が発見され,建築年代が明らかになりました。しかし,それが松江城のものだという確証がありませんでした。そんなときに,天守地階の柱に祈祷札が掲げられていた釘痕が奇跡的に見つかったのです。そして,釘痕が「祈祷札」と2枚ともぴったり一致した点が根拠となって,2015年(平成27年)に国宝に再指定されたのです。
このときの「祈祷札」のレプリカが松江城の天守で展示されています。なお,ホンモノは,松江歴史館で公開されています。
松江城もまた,他の現存天守同様,かなり急な階段をのぼる必要があったのですが,のぼり終えた最上階からの眺めはすばらしいものでした。

松江城を出ると,すぐのところに,松江神社とその隣に「興雲閣」という建物がありました。
  ・・・・・・
松江神社は,1877年(明治10年)に,旧松江藩の有志によって,現在の松江市西川津町楽山に初代藩主・松平直政を御祭神とする楽山神社を創建しました。1898年(明治31年),1628年(寛永5年)に堀尾忠晴が現在の松江市西尾町に創建した東照宮の御神霊を合祀し,1899年(明治32年)に現在地に遷座して,松江神社としました。
さらに,1931年(昭和6年),7代藩主・松平治郷と,松江開府の祖堀尾吉晴の遺徳を称えて御神霊を配祀し,今日に至っています。
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また,そのとなりにあった興雲閣は
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興雲閣は松江城内に1903年(明治36年)に明治天皇行幸時の御宿所として建設された擬洋風建築の迎賓館です。
日露戦争勃発により明治天皇の行幸は実現しませんでしたが,1907年(明治40年)当時の皇太子(後の大正天皇)が行啓し,宿泊施設として使用しました。
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というもので,日本各地に残る明治時代の洋館と同じようなものでした。

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松江駅前に観光案内所があったので,1日の観光コースを聞いて,地図をもらいました。松江市内を観光するには「ぐるっと松江レイクライン」というバスがあるということなので,松江駅前の出発時間を確かめてバス停に向かうと,すでにバスがいたので,乗りこんで1日券を購入しました。
まず,松江駅前から松江城まで向かいました。バスの車内では,観光案内放送を聞くことができ,また,それに応じた写真も表示されて,とても便利でした。

私は,日本国内の旅行をするとき,まず,江戸時代にその土地を治めていた殿様について調べます。これまでに何度も書いたように,江戸時代にしっかりとした殿様が統治していたところは,現在も文化水準が高い,というのが私の持論だからです。
  ・・・・・・
豊臣政権時代,出雲は毛利家の支配下で,吉川広家が島根県安来市の月山富田城を政庁として,出雲と隠岐を経営していましたが,1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いののち,毛利家は周防と長門の2か国に減封となったので,遠江・浜松から堀尾忠氏が父の堀尾吉晴とともに入部し,出雲富田藩が立藩しました。
その4年後に堀尾忠氏が27歳で没しました。子の堀尾忠晴は幼児だったために,祖父の堀尾吉晴が後見となりましたが,月山富田城が不便だったため,1607年(慶長12年)から5年をかけて,松江城を築城し城下町を建設し,松江藩が成立しました。
しかし,堀尾忠晴は男子に恵まれず33歳で死去したので,後継ぎがいなくなり,堀尾家は改易となりました。1634年(寛永11年)に若狭の小浜藩より京極忠高が入部しましたが,3年後,京極忠高は死去し,またも改易となりました。
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1638年(寛永15年),徳川家康の次男である結城秀康(NHK大河ドラマ「どうすう家康」で登場した,小牧・長久手の戦いの和睦の条件として秀吉のもとへおくられた於義丸)の三男・松平直政が松本藩より転封され,以後,松江藩は松平家が幕末まで続くことになりました。松平直政の時代,藩の財政は苦しく,このため早くから専売制を敷き,木蝋,朝鮮人参,木綿,鉄の生産を統制しました。
松江藩中興の祖といわれる7代藩主・松平治郷は名君で,「御立派の改革」とよばれる財政再建策を推進し,寛政年間には8万両もの蓄財ができるまでになり,そのころより,松江の町は,京都,奈良,金沢と並ぶ和菓子の一大名所となりました。
幕末の松江藩は,幕府方と新政府方のどっちつかずだったために新政府の不信を買いましたが,結局新政府に恭順し,戊辰戦争では京都の守備につきました。この時期,隠岐を治めていた松江藩の代官が島民の蜂起により放逐されるという隠岐騒動が起きました。これは,長年にわたる島民の不満が爆発したのでした。
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松江城に着いて,まず,松江城を囲む約3.7キロメートルの堀川を小舟に乗って巡る観光遊覧船「ぐるっと松江堀川めぐり」に乗ることにしました。
結構混んでいて,30分ほど待ちましたが,全長8メートル,幅2メートルの観光遊覧船で,松江城の天守閣をはじめとして,武家屋敷,塩見縄手の老松など風情ある町並みなどを,約50分かけて楽しむことができました。16ある橋のくぐり抜けでは,中に非常に低い橋もあり,そのときは,船の屋根が下がってきて体を沈めなければいけないというスリリングな体験をすることもできました。先日乗った柳川市の観光船を思い出しました。
「ぐるっと松江堀川めぐり」の乗り場は1年中運行していて,冬はこたつもあるそうですが,昨冬のドカ雪のときだけは,船頭さんが出勤できず,中止になったそうです。また,この観光船のスタッフはみな年配の人たちで,どうやら市の再雇用対策と思われます。船頭さんも私と同じ年代の女性でしたが,何でも,60歳以上の人を採用しているということで,人材難,船頭募集中ということでした。
私が乗った大手前広場のほかに,ふれあい広場,カラコロ広場の合計3箇所の乗船場があって,1日乗り降り自由ですが,船の定員があるので,この日のように混雑していると,途中から乗るのも空席がないとだめなので,少し大変そうでした。私は1周しただけでした。
堀川に沿って1周しましたが,松江城の石垣がみごとでした。

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Super Blue Moon 2023.

8月2度目の満月はスーパームーン。
地球からの距離は357,181km。
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「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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