しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

October 2023

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レンタカーを借りて,まず向かったのは,高知県立牧野植物園でした。
高知県立牧野植物園は,高知市街から高知龍馬空港に向かう途中にあります。高知南国道路がトンネルに入ったその上にあるのですが,これまで,何度もそのトンネルは通っていたのに,一度も行くことがありませんでした。また,私は場所を勘違いしていて,道路に面したところにあるとばかり思っていて,今回,iPhoneのGoogleMapsを車に表示して走っていたのですが,小高い山の中に入っていくので,戸惑ってしまいました。それでも,なんとか,駐車場に着きました。
やはり,予想通り混んでいましたが,それでも,平日なので,まだマシ,といったところでした。
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高知県立牧野植物園は,高知県出身の植物学者牧野富太郎博士の業績を記念して,1958年(昭和33年)に五台山に「県営牧野植物園」として開園しました。1999年(平成11年)には園内に牧野富太郎記念館本館が開館し,リニューアルオープンし,2008年(平成20年)には南園に「50周年記念庭園」が誕生,また,2010年(平成22年)4月24日には新温室がオープンしました。
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チケットを購入して,園内に入りました。
今回,私は,ここでたっぷりと時間をとって,見学することにしていました。はじめは不案内だったので,ともかく,園内を1周してみることにしたのですが,それがまあ予想以上に広いこと。また,思っていたよりもずっとすばらしいところでした。
NHK連続テレビ小説「らんまん」が終わったときだったので,番組に出てきた花にはそれがわかるように案内が取り付けられていたり,また,テレビ番組に関する展示があったりしたことと,番組に出てきた植物の名前になじみがあったので,結果的に,この時期に来たのはよかったわけです。ただ,花は開花の時期というものがあるので,そうした花々がすべて咲いているわけではないのが,当たり前のこととはいえ,残念でした。
まず,目についたのが「ヤマトグサ」(Theligonum japonica Okubo et Makino)でした。
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「ヤマトグサ」は,アカネ科ヤマトグサ属に分類される多年草で,雄花が雄蘂が垂れ下がる独特の姿をしています。
1884年(明治17年)に牧野富太郎博士が最初に高知県で発見しました。本種は日本固有種で,しかも,日本人の手によって記載され,日本の学術雑誌に発表された最初の植物です。
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☆☆☆☆☆☆
 2023年10月29日の早朝,部分月食が起きました。
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 地球の影には本影とそのまわりの半影という薄暗い部分があります。月が地球の本影に入らず半影にのみ月全体あるいは部分が入る場合を「半影月食」,本影にすっぽりと入る場合が「皆既月食」,そして,一部だけが本影に入る場合が「部分月食」です。
 なお,半影は薄い影なので「半影月食」では月が欠けているかどうかはっきりとはわからず,写真に撮るとどうにかわかる程度です。
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 今回は,部分月食なので,欠けた月を美しく見ることができました。
 また,月食のはじまる時間は,日食とは異なり,日本の違う場所から観察しても同じになります。それは,月食では,日食のように,直接太陽が月によって隠されるのとは違い,月が地球の影に入ったときが月食のはじまる時間なので,日本時間を適用する場所であればどこで観察しても同じ時刻になるというのが理由です。

 午前4時30分ごろに西の空に輝く月を見たら,すでに,左下のあたりが欠けていました。思った以上に欠けていたので,驚きました。やがて,月の欠け具合が大きくなるにしたがって,月が西の空に低くなっていって,それとともに,空が白んできました。
 また,木星が月の左上に明るく輝いていました。
 月が欠けたまま山の中に沈む姿が見たかったのですが,残念ながら,雲があって,それはかないませんでしたが,それでも,気持ちのよい明け方の空に,幻想的な姿を見ることができて,満足しました。
 なお,10月の満月は「ハンターズムーン」(Hunter’s Moon)。部分月食の日は,満月の日でもあります。 

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☆☆☆
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 今年ほど,秋がすばらしい,と思った年はありません。ともかく,夏がひどすぎました。
 先日行った高知県立牧野植物園では,アサギマダラやツマグロヒョウモンがヒヨドリバナのまわりを,モンキアゲハがアザミのまわりを舞っていました。歩いていても,汗をかくこともなく,ほんとうに気持ちがいい時間を過ごすことができました。
 秋といえば,食欲の秋でもあります。多くのおいしい食べ物がありますが,私には,秋の食べ物といえば,マツタケよりも,何といってもサンマです。以前は,安物の魚と位置づけられていたサンマですが,近年は不漁で,なかなかお目にかかりません。ウナギよりも貴重なほどです。私は,先日,やっと1匹所望することができました。
 しかし,蝶もサンマも,それぞれを詠ったものは,残念ながら万葉集にはありません。蝶については以前書きましたが,サンマは,そもそも,それを食べはじめたのが江戸時代のころだからです。

 とはいえ,サンマには「目黒のサンマ」という有名な古典落語があります。当時,低級な下魚として扱われていたサンマを,庶民的な流儀で無造作に調理すると美味だが,丁寧に調理すると不味い,という内容の滑稽噺で,3代目三遊亭金馬が得意とした演目です。
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 ある殿様が目黒まで鷹狩に出ました。供の者が弁当を忘れたために腹を空かせている殿様のもとに,うまそうな匂いが漂ってきました。殿様が匂いの元を尋ねると,家来が「これはサンマというものを焼く匂いですが,サンマは庶民の食べる下魚なので,殿のお口に合うものではありません」と答えました。
 しかし,空腹に耐えかねた殿様は,サンマをを持ってくるよう命じました。家来が,農家から直接炭火で焼いた「隠亡焼き」のサンマをもらってきました。サンマは黒く焦げて脂がしたたっていましたが,はじめて食べた殿様は,そのうまさに大喜びしました。
 そのうまさが忘れられず,殿様は,ある日,サンマを出すよう家来に申しつけました。家来は慌てて日本橋の魚河岸でサンマを買い求めたのですが,焼くと脂が多く出て体に悪いということで,蒸籠で蒸して脂をすっかり抜き,骨がのどに刺さるといけないと骨を1本1本抜いて椀にして出しました。
 殿様が食べてみると,目黒で食べたものとは比較にならぬまずさです。どこで求めたか尋ねると,家来は「日本橋魚河岸で求めてまいりました」と答えます。殿様はしたり顔で「ううむ,それはいかん。さんまは目黒に限る」。
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 サンマという名前は、元は「さいら」とよばれていたようで,「細長い魚」という意味から来ているという説と「大きな群れを作る魚」から来ているという説とがあります。「秋刀魚」の表記が一般的になったのは大正時代のころで,佐藤春夫の「秋刀魚の歌」という詩が発表されて広く知られるようになったとされていて,明治時代に書かれた夏目漱石の「我輩は猫である」の中では「三馬」の表記が使われていました。
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 あはれ秋風よ 情あらば伝へてよ
 ――男ありて
 今日の夕餉にひとり さんまを食ひて
 思ひにふける と
    佐藤春夫「秋刀魚の歌」 

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 吾輩は猫である。名前はまだない。
 どこで生れたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。
  ・
 吾輩は再びおさんの隙を見て台所へ這い上った。すると間もなくまた投げ出された。吾輩は投げ出されては這い上り,這い上っては投げ出され,何でも同じ事を四,五遍繰り返したのを記憶している。その時におさんという者はつくづくいやになった。この間おさんの三馬を偸んでこの返報をしてやってから,やっと胸の痞が下りた。
    夏目漱石「我輩は猫である」 

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 サンマが食べられるようになったのは江戸時代のころからです。当時は淡白な味わいが最上とされていたので,脂の乗り切った房総のサンマは粋ではないといわれました。贅沢な話です。その後,江戸の人口増加で安い大衆魚として食生活に定着し,それとともに,おいしい物として人気になっていきました。
 いつまでもサンマが食べられますように。

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 2023年10月27日は,旧暦の9月13日。この夜の月を「十三夜の月」といいます。「十三夜の月」は「中秋の名月」,つまり「十五夜の月」の次の満月の直前であることから「後の月」ともよばれます。 「中秋の名月」を愛でる風習は中国から伝わったものですが,「十三夜の月」を愛でる風習は日本独自のものです。
 松尾芭蕉が
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 仲龝(=中秋)の月はさらしなの里,姨捨山になぐさめかねて,猶あはれさのめにもはなれずながら,長月十三夜になりぬ。今宵は宇多のみかどのはじめてみことのりをもて、世に名月とみはやし
  「笈日記」(おいにっき) 松尾芭蕉
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と書いたように,王朝文化華やかなりし平安時代の前期,59代宇多天皇が十三夜の月を「無雙」(むそう),つまり最高だ,と賞したのがはじまりだとも,60代醍醐天皇が「月見の宴を催した」のがはじまりだともいわれています。
 完全よりも少しだけ劣るものを愛する,なんて,いかにも日本らしいと私は思います。よくいえば,謙虚,悪くいえば,へそ曲がりなのです。

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 雲消えし 秋の半ばの 空よりも 月は今宵ぞ 名におへりける
   「山家集」 西行
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 八月十五日・九月十三日は,婁宿(ろうしゅく)なり。この宿,清明なる故に,月を翫(もてあそ)ぶに良夜とす。
   「徒然草」239段 吉田兼好
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 古代中国の天文学では,天球の黄道にある星々を28のエリア(=「星宿」といいます)に分割し,これを「二十八宿」としましたが,婁宿はその「二十八宿」のうちのひとつで月を鑑賞するのに適した宿のことを指します。
 「中秋の名月」は「芋名月」,「十三夜の月」は「豆名月」「栗名月」といいます。 また「十五夜の月」と「十三夜の月」をあわせて「二夜の月」といって,どちらか一方の月しか見ないことを「片見月」といって忌み嫌うそうですが,これは,江戸時代,吉原遊郭が紋日(もんび=遊郭で五節句や松の内など特別な日のこと)だった「十五夜」に登楼した客を「十三夜」にも再訪させるためにそういいはじめたとも,もともとあった「片見月」の伝承を吉原遊郭が利用したともいわれているようです。
 なお,吉原遊郭の遊女たちは,このどちらかの日にしか登楼しない客のことをも「片見月」とよんで忌み嫌ったということです。

 まあ,そうした話はともかく,私は,今年,「中秋の名月」も「十三夜の月」も美しく眺めることができたので,「方見月」にはならず,ホッとしました。

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今日から,2023年10月19日から10月21日,2泊3日で出かけた四国旅行について書きます。
このブログを見直してみたら,昨年も同じ時期に四国に行っていました。昨年私が四国に行ったのは,かずら橋を渡ろう! というのが動機だったのですが,なかなか楽しい旅になりました。
ところで,今年度の前期NHK朝の連続テレビ小説「らんまん」の主人公は牧野富太郎博士で,高知県がその出身地でした。ドラマはおもしろく,非常に興味をもって見たことで,私は,牧野富太郎博士ゆかりの場所についてずいぶん詳しくなりましたが,昨年の今ごろは,牧野富太郎博士のことなんて,まったく興味がなく,せっかく高知県に行ったのに,高知県立牧野植物園も,牧野富太郎博士の生まれた佐川の町も,行くことがありませんでした。植物園? そんなところに行ってどうするの? と思っていた始末でした。そして,我が身の無知を恥じました。
そんなわけで,今年は,牧野富太郎博士ゆかりの場所を訪ねる旅に出たというわけです。

いつものように,FDAで県営名古屋空港から高知龍馬空港まで行って,そこでレンタカーを借りることにしました。宿泊先は,1日目は高知市内,そして,2日目は松江市の郊外にして,安価なところを見つけて予約をしました。
そして,1日目は高知県立牧野植物園と佐川町に行き,高知市内で泊り,翌日は,四国の瀬戸内海側に足をのばそうと思いました。2日目に松山市の郊外に泊ることにしたのは,前々から気になっていた,JRの下灘駅に行って夕日を見たい,と思ったからです。とはいえ,夕日が見られるかどうかは天気次第なので,期待半分,あきらめ半分でした。
と,いつものように,その程度のいい加減な計画で,あとのことは行ってから考えることにしました。

それにしても,9月までの酷暑とはうって変わって,今年の10月は気持ちのよい毎日が続いています。
特に,9月までがひどすぎたので,その差が大きく,私は,精神的にも肉体的にもバテバテだったのが,完全に復活しました。人が住む環境はこうでなければ…。
であるのですが,このところ,やたらと観光客が増えてしまい,それだけが残念です。私は,コロナ禍のころも変わらず旅をしていたのですが,あのころはどこもガラガラ,しかも,国がいろんな割引をやっていたから安価に旅をすることができたのが懐かしいです。飛行機も半分くらいは空席だったから,とてもサービスがよかったのですが,今は満員です。さらに,私の嫌いな,団体ツアー客と外国人のインバウンド,そして,なぜか群れて行動するオートバイライダーたちが復活してしまい,これからは旅をする場所を考えなければ,と苦慮するこのごろです。
私は,なるべく人の少ない,そして,自然の多い場所に出かかけてのんびりしたいのです。
  ・・
2023年10月19日。
さて,今回も,快晴の県営名古屋空港から飛び立ちました。
座席は,向かって右側の窓側席にしました。名古屋から高知までは,左側だとずっと海。ただし,室戸岬はよく見えます。そして,右側はずっと紀伊半島の景色が見られるのです。
定刻より5分ほど遅れて,高知龍馬空港に到着しました。

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 館山駅で降りたら,茫然としていた観光客が数人いました。要するに,ここ,来てはみたものの,何もないので,どうしようか? という感じでした。
 時刻は午前11時ころでした。私の目的は,外房線と内房線に乗る,ということだけだったので,千葉県の最も南の駅まで来たことで満足していたことと,雨ももうすぐ止みそうだったので,心配していた豪雨もなんとか切り抜けたことですっかり安心して,館山駅の近くで昼食をとろうと考えました。
 駅の改札口からは駅前の風景が見られて,一見,お店がたくさんあるように思えたのですが,実際はそうではなく,はっきりいって,さびれていました。ただ1か所,駅の近くにイタリア料理店とお寿司屋さんがありました。ネットで調べてみると,イタリア料理店もお寿司屋さんも午前11時15分開店とあったので,贅沢してお寿司を食べることにしました。
 開店時間に店内に入って,おすすめのお寿司を注文しました。このくらいのプチ贅沢が幸せなのです。店の人と会話を楽しみながら食事を済ませたころ,雨がすっかり止みました。そこで,館山市の見学に出かけることにしました。

 何か見どころは? ということで,唯一見つけた館山城へ行くことにしました。館山城までは徒歩で20分ほどでしたが,海岸に沿って歩いて行くとなかなか楽しいものでした。私は,こうした観光客があまりいないところのほうが落ち着きます。
 やがて,館山城へ着きました。私はこの地については何の知識ももち合わせていなかったのですが,「南総里見八犬伝」ゆかりの地とか。これには驚きました。そうなのです。南総というのは南房総のことなのです。そして,里見というのは,戦国時代にこの地を治めていたのが里見氏だったのです。
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 館山の由来は,現在の城山(=根古屋山)の名前でした。山の上に領主の館が建っていた,つまり,館の山です。平安時代末期には,沼ノ平太こと平判官貞政という豪族がこの地を治めていました。
 戦国時代になると,上総にいた里見義頼が,戦のための城よりも政治経済のための城の必要性を感じ,陸上,海上の要衝だった館山の港の整備などに着手しましたが,病死し,その子の里見義康の時代になり移転が実現。1590年(天正18年)に館山城を築きました。
 しかし,この地に外様大名がいてはまずい,ということで,1614年(慶長19年),里見忠義は徳川家康により改易を命ぜられます。そして,館山城は破壊され,堀もすべて埋められてしまいました。里見氏改易後の館山は北条藩となり,屋代氏,水野氏がそれぞれ藩主を務め,幕末には船形藩が立藩しましたが,大きく発展することもなく,やがて明治維新を迎えました。
  ・・
 「南総里見八犬伝」は,曲亭馬琴によって,江戸時代後期,1814年(文化11年)から28年をかけて完結した,全98巻,106冊の長編小説です。
 室町時代後期を舞台に,安房里見家の姫・伏姫と神犬八房の因縁によって結ばれた八人の若者(=八犬士)を主人公とする長編伝奇小説で,共通して「犬」の字を含む名字を持つ八犬士が,それぞれに辛酸を嘗めながら因縁に導かれて互いを知り,里見家の下に結集する,というものです。
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 こうして,館山城へ行って,少しだけ旅の気分を味わい,途中下車もできたことで,再び館山駅に戻ってきた私はすっかり満足して,定刻よりもかなり遅れて出発した内房線に乗って,蘇我駅で,しなくてもいい途中下車をしたのち,東京駅に戻りました。こうして,私の房総半島を途中下車しながら1周する,という念願をかなえることができました。もう2度とやらないけれど…。

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 2023年10月15日。このところずっと天気がよいのに,この日に限って雨。しかも,房総半島は豪雨ということで,途中で列車が止まって帰ることができなくなったらどうしよう? と思い悩んでいたけれど,まあ,何とかなるわい,と予定通り,あらかじめ指定席券を購入してあった特急「わかしお1号」に東京駅から乗り込みました。
 「わかしお1号」の終点の勝浦駅まで行って,そのあとはまったく予定も立てず,行ってみて決めることにしていました。毎度のこと,いいかげんなものです。実際は,次回書きますが,雨のために何度も途中下車をする状況ではなく,ただ1か所,館山駅で途中下車しただけの旅になってしまいましたが,それでも,いろいろなことを知って,ためになりました。

 房総半島は,愛知県に住む多くの人には無縁のところです。わざわざ行く気にならなければ,行くこともありません。しかし,首都圏に住んでいたら,それなりに見どころはありそうです。そこで,帰ってから少し調べてみました。
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●鵜原理想郷
 太平洋から打ち寄せる波の浸食によって形成された典型的なリアス式海岸で,勝浦市鵜原の明神岬一帯を指します。自然豊かな景勝地で,古くから文人墨客たちに愛され、特に与謝野晶子が多くの歌を詠んだことで知られているところです。
●勝浦の朝市
 勝浦駅から徒歩10分ほどにある中央商店街周辺で行われる朝市で,1591年(天正19年)までさかのぼる長い歴史を誇ります。季節の農産物や新鮮な魚介類,加工品や工芸品など,様々な商品が並びます。
●八幡岬公園
 勝浦市浜勝浦にある公園で,勝浦湾の東端に位置し,勝浦城があった城址を公園として整備したところです。お万の方の像があります。
●かつうら海中公園海中展望塔
 沖合60メートルに位置する高さ約24メートル,水深8メートルの海中展望塔。
●鴨川シーワールド
 16のエリアを持つ大きな水族館で,シャチやイルカの迫力あるパフォーマンスが人気です。
●鴨川松島
 鴨川市貝渚にある荒島,弁天島,鵜島,雀島,波涛根島,猪貝島,海獺島の7つの島が美しい景観を成している名勝。
●魚見塚展望台
 海抜約110メートルに位置する鴨川市貝渚にある展望台。頂上に立つ女神像「暁風」は展望台のシンボルです。
●城山公園と館山城
 戦国時代の武将・里見氏の居城跡を整備した城跡公園には,館山市立博物館やかつての天守閣を再現した館山城,日本庭園があり,歴史に触れながら散策を楽しむことができます。
 館山城は,三層四階天守閣形式の建物で,曲亭馬琴作「南総里見八犬伝」に関する読本や絵草紙,錦絵などの資料展示を行っています。
●洲埼灯台
 房総半島の南西端に位置する高さ15メートルの灯台。
 灯台周辺にはマーガレットや菜の花が植えられていて,「マーガレット岬」ともよばれています。
●野島崎と野島埼灯台
 房総半島の最南端に位置し,白鳥の灯台と言われる日本で二番目に古い野島埼灯台があります。
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 実際,JRの駅からはどの見どころも近くはなく,車を使わずに観光ができるような場所ではないのです。

 列車に乗ってから次第に雨が強くなってきて,はじめは勝浦駅で途中下車をする予定でしたが,その気もなくなり,勝浦駅で特急「わかしお1号」から降りると,駅で連絡していた列車に乗り換えて,次の安房鴨川駅まで行くことにしました。
 また,次の安房鴨川駅でも,また,途中下車をする気が失せて,これもまた,連絡していた列車に乗り換えて,館山駅まで行ってしまいました。途中下車をしないのなら,こんな切符を作ってもらう必要もなかなったのに…。 とだんだん自分が嫌になってきたので,雨は降り続いていましたが,館山駅で途中下車をすることにしました。
 と書くと,いかにもいい加減に聞えますが,実は,この雨は午前11時過ぎには止むことがわかっていたので,館山で雨が止むまで食事をして,その後,観光をすることにしていました。 
 がしかし…。
 私が外房線を乗り切って,内房線の安房鴨川駅から館山駅に着いた後,安房鴨川駅から館山駅間は運転が見合わせになってしまい,代行バスによる運行がはじまっていました。館山駅で駅員さんに聞いてみると,内房線の館山駅から木更津方面は,多少は遅れているけれど走っているとか。このあと雨も止むことだし何とか東京に戻ることはできそうで,安心しました。
そもそも,内房線は1時間に1本の列車しかないし,ひとつ間違ったらこれでは…。危惧していたことが現実になって,ついていたのやらいないのやら…。
まあ,これまでにも,ニューヨークで地下鉄が不通になってしまったり,フィンランドのヘルシンキで列車が豪雨で動かなくなってしまったり,などということも経験してきた私には,大したことでもなく,たかが日本,むしろ,こうしたハプニングのほうが思い出に残るものではありますが…。

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 先日書いたように,房総半島を途中下車しながら1周すると決めた私は,「ジパング倶楽部」を使って,切符を買おうと,JRの窓口に行きました。しかし,私の欲する切符を入手することができなかったのです。切符売り場にいた若い女性の駅員は発券機を前に頭を抱えていました。そして,苦労の末,出てきたのが,途中下車無効の切符だったのです。
 実は,次のような真相がありました。

 私はまったく知らなかったのですが,運賃計算の特例というものがあるそうです。それは
  ・・・・・・
 大都市近郊区間内のみを利用する場合の特例として,大都市近郊区間内のみを普通乗車券で利用する場合,実際に乗車する経路にかかわらず,最も安くなる経路で計算した運賃で乗車することができる。
  ・・・・・・
というものです。重複しない限り乗車経路は自由に選べるのですが,途中下車はできません。
 この特例を用いると,東京近郊路線は,ひたすら列車を乗り継いで1,000キロメートル以上移動しても,わずか140円しかかからないということで,これを,鉄道ファンは「大回り乗車」とよんでいるそうです。たとえば,東京から総武本線をつかって成東,東金線で大網,外房線で安房鴨川,内房線で蘇我,京葉線で八丁堀間の322.3キロメートルという大回りルートを,わずか140円で,途中下車しなければ合法的に房総半島を回ることができるのです。
 ということなのですが,逆に,私は,房総半島を途中下車をしながら1周したいと思ったことから,この特例が仇になってしまったのです。私は,「ジパング倶楽部」の特典を生かして,途中下車しながら房総半島を1周したかったのですが,東京駅から総武線,外房線,内房線経由で蘇我駅,蘇我駅から外房線,総武線経由で東京駅として購入した切符には,残酷にも,すべて,途中下車前途無効と記されていたのです。これでは意味がありません。つまり,途中下車をしたいのに,できないのです。こんな切符なら買う必要がないのです。

 この切符を発券してもらった駅の窓口に再び出かけて,相談しました。今度は,ベテランの駅員さんが出てきて,とても親切に,私の希望を満たす乗車券をなんとか作ってもらうことができました。
 ここで役立ったのが「東京近郊区間内の移動でも途中下車できるようにする方法」でした。それは
  ・・・・・・
 東京近郊区間では,どんなに距離の長い乗車券であっても途中下車することができません。ただし,「東京近郊区間を少しでも外れるならば」100キロメートルを越えれば途中下車できます。
  ・・・・・・
ということだそうです。
 これを解釈すると,次の方法を使えばいい,ということになります。つまり,「東京近郊区間で途中下車をするためにはわざと東京近郊区間を外れる」ことにするわけです。
  ・・・・・・
●方法1 エリアの外にはみ出す。
 たとえば,新宿駅から松本駅の乗車券の場合,全区間が東京近郊区間に含まれるために途中下車することが出来ませんが,新宿駅から東京近郊区間のエリア外の北松本駅の乗車券にすることで,松本駅と北松本駅間の東京近郊区間外を含む乗車券となり,全区間で途中下車できるようになります。
●方法2 新幹線経由の乗車券にする。
 「新幹線は東京近郊区間に含まれない」のです。そこで,これを利用すると,東京近郊区間外の乗車券が作れます。
 たとえば,①宇都宮駅から東京駅の乗車券を途中下車できるようにするには,宇都宮駅から東京駅を在来線経由にせず,「新幹線の路線経由」の乗車券とすることで途中の各駅で途中下車できるようになります。この場合,新幹線と在来線は平行に走っているので,在来線の宇都宮線にも乗車でき,各駅で途中下車ができます。
 また,②水戸駅から東京駅の場合は,常磐線は並行する新幹線がないため,水戸駅から東京駅のうち,上野駅から東京駅の部分のみを「新幹線の路線経由」とすることで,途中の各駅で途中下車できるようになります。
 いずれの場合も,乗車券のみを購入し,実際には新幹線には乗らないのだから新幹線の特急券を購入する必要はありません。
  ・・・・・・
 なお,ここの話題とは関係がないですが,実際に新幹線に乗りたいという場合は,①の在来線が並行して走っている区間は同じ路線と扱うので,この区間では,在来線の乗車券に新幹線の特急券を購入すれば新幹線に乗ることが出来ます。また,②の最短経路上に新幹線と並行する在来線がない場合は,在来線の乗車券に新幹線の特急券を購入しても新幹線に乗車することはできず,新幹線を利用する場合は,新幹線の路線経由の乗車券と新幹線の特急券が必要です。

 そこで,私が発券してもらったのは,㋐新横浜駅発で,東京駅までが新幹線,東京駅からは在来線の総武線,外房線,太海,浜野(つまり内房線)経由で蘇我駅着という乗車券と㋑蘇我駅発で外房線,総武線経由で東京駅着という乗車券でした。この方法は,片道でも往復でもないので連続といいます。
 これを使うと,㋐の切符では,新横浜駅から横浜市内区間だけは途中下車ができませんが,それ以外は途中下車ができます。私は,実際には,新横浜駅からは乗らず,東京駅から内方乗車(持っている乗車券の途中の駅から乗車すること)するので,これで,房総半島を途中下車できるようになるのでした。東京駅からの切符よりも新横浜駅から東京駅間の運賃500円ほど高くはなりますが,ジパング倶楽部の割引がそれを上回ります。私は,何も新横浜駅発にしなくても,上記➀のように,品川駅発にして,品川駅と東京駅の間だけ「新幹線の路線経由」とすればいいと思うのですが,駅員さんが新横浜駅からにすると言ったので,そのほうが間違いがないから従うことにしました。また,㋑の切符は途中下車ができません。
 私は不正をする気など全くないのですが,こうも規則がややこしいと,思い通りの旅をするのも大変だと思ってしまいます。私のような凡人には,規則が理解できません。それにしても,JRの駅員さんは,こんな複雑なことを知っているなんて,なんとまあ賢い人たちだろうと,見直してしまいました。

 ということで,なんとか,房総半島を途中下車しながら1周することが可能になったので,2023年10月15日に決行したのですが,何と,この日の天気予報は房総半島は豪雨。もし,房総半島の途中で列車が止まってしまったら帰ることができないではないか! 再び,別の問題が起きてしまったのです。が…。

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 日本各地を旅するとき,江戸時代にその地を治めていた殿様が気になるということを書きました。そして,その殿様がどれだけ領民に慕われていたかがわかるのが菩提寺だと気づきました。であるなら,本家本元,徳川将軍家の菩提寺はどうなんだろう? と興味が湧いてきました。
 そこで,今回,芝の増上寺を訪ねてみることにしました。
 ここは以前,行ったことがあります。しかし,どういうわけか,その時に写した写真がなくなってしまっていたので,また行ってみようと思ったのです。以前行ったときは,徳川将軍の墓所は特別公開だったと思うのですが,調べてみると,現在は,いつも一般に公開されているようでした。

 ところで,徳川将軍の墓所は1か所にあるのではなく,日光東照宮,上野の寛永寺,芝の増上寺,そして,谷中霊園の4か所にわかれています。
 初代将軍・徳川家康と3代将軍・徳川家光の墓は日光東照宮にあります。
 そして,芝の増上寺に墓があるのが,2代将軍・徳川秀忠,6代将軍・ 徳川家宣,7代将軍・徳川家継,9代将軍・徳川家重,12代将軍・徳川家慶,14代将軍・徳川家茂であり,上野の寛永寺に墓があるのが,4代将軍・徳川家綱,5代将軍・徳川綱吉,8代将軍・ 徳川吉宗,10代将軍・徳川家治,11代将軍・徳川家斉,13代将軍・徳川家定。そして,谷中霊園に墓があるのが15代将軍・徳川慶喜です。

 徳川家康は,遺言で自分が死んだら「静岡にある久能山に葬ってくれ。そして1年後に日光に移してくれ」という旨の遺言を残したことから,日光東照宮に葬られているのですが,自身を神格化するために神社に葬られているということになります。また,3代将軍・徳川家光は東照宮と同じ敷地内の天台宗の輪王寺ですが,これは,徳川家光が徳川家康を尊敬していたことから本人の希望で日光に埋葬されたそうです。
 これらは例外。
 もともと徳川家は浄土宗を信仰していたので,浄土宗である芝の増上寺が菩提寺です。
 ここに登場するのが天台宗の僧・南光坊天海。徳川家康,徳川秀忠,徳川家光はその影響で天台宗に帰依していました。この南光坊天海が「江戸に天台宗の寺を」と希望し,徳川秀忠が現在の上野公園のあたりの土地を与えたことで,1625年(寛永2年)に建てられたのが寛永寺です。
 徳川家光による寛永寺建立,天台宗への帰依の流れを受けて,その後の4代将軍・徳川家綱,5代将軍・徳川綱吉は寛永寺に埋葬されたのですが,これに怒ったのが増上寺でした。そこで,それ以降は交代に埋葬しようということになったのだそうです。

 巨大な増上寺に着きました。多くの人が来ていたのですが,私の目的である徳川将軍の墓地を訪れる人はほとんどいませんでした。
 6人の将軍と和宮の墓がコの字にならんでしたのですが…。
 実は,これは近年,このような形になったもので,もともとは,ひとりひとり将軍ごとに大きな霊廟があって,それらが墓だったのです。第2次世界大戦で火災に遭ったことと,その地が現在プリンスホテルに売られたことで,このような形になったということでした。
 私は,これまで,さまざまな藩主の菩提寺に行きましたが,将軍の墓がこれほどみすぼらしいということに衝撃を受けました。
 歴史というものは,そんなものです。
 私自身は,墓というものにまったく価値感をもっていません。墓というのは,その後に生きている人間の何らかの思惑で作られているだけのものです。それを偶像化している国もあるのですが,そんなものは未来永劫続くわけはないのです。そんなことは歴史が証明しています。
 私が増上寺で感じたのは,そんなことでした。

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 私は,吉原遊郭のあった現在の台東区千束4丁目にある風俗店には興味がありませんが,午前中,江戸時代の雰囲気が残るこの界隈を散策するのが嫌いではありません。このあたりに樋口一葉記念館があるのですが,私は,その場所がわかりませんでした。そこで,今回,行ってみることにして,谷中霊園から歩きました。
 樋口 一葉は,1872年(明治5年)に生まれ,1896年(明治29年)に亡くなった小説家です。
 中島歌子に和歌や古典文学を,半井桃水に小説を学び,生活に苦しみながら「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」といった作品を発表し,文壇から絶賛されましたが,24歳で肺結核により夭逝しました。
 1961年(昭和36年)樋口一葉がかつて居住し「たけくらべ」の舞台にもなった下谷龍泉寺町(現在の台東区竜泉)に一葉記念館が開館しました。当時,女流作家の単独資料館としては日本でははじめてであったといいます。また,老朽化が進んだこともあり,2006年(平成18年)にリニューアルしました。現在の建物は,地上3階・地下1階の構造で,1階が龍泉寺町の街並みを再現したエントランスギャラリー,2階部分にふたつ,3階部分にひとつの展示室があります。また,樋口一葉記念館の隣には一葉記念公園があり,「たけくらべ」の記念碑などがあります。

  ・・・・・・
 樋口一葉は,現在の千代田区内幸町の東京府庁構内官舎で,東京府下級役人の樋口則義と多喜(旧姓・古屋)の次女として誕生しました。
 幼児期から利発で言葉が出るのも早く物覚えがよかったのですが,1883年(明治16年),首席で卒業した高等科第四級ですが,母親が女は学問は不要という考えから上級に進まずに退学しました。
 その後は,中島歌子の歌塾「萩の舎」(はぎのや)に入門し,歌会では,下級官吏の娘であった樋口一葉は気おくれしながらも親が借りてきた古着で出席し,最高点を取りました。
 父親の事業の失敗で負債が残され,現在の文京区に引っ越し,母と妹と3人での針仕事や洗い張り,下駄の蝉表作りなどの賃仕事をするなど,苦しい生活が強いられました。
 「萩の舎」同門の田辺花圃が小説「薮の鶯」を出版し,多額の原稿料を得たのを知った樋口一葉は,小説を書こうと決意しました。また,生活苦打開のため1893年(明治26年),吉原遊郭近くの現在の台東区竜泉一丁目で荒物と駄菓子を売る雑貨店を開きましたが,1894年(明治27年)5月には店を引き払い,現在の文京区西片一丁目に転居しました。しかし,樋口一葉は肺結核が進行しており,自宅において24歳と6か月で死去しました。
  ・・・・・・
 私は,吉原遊郭の女性の姿を描いた代表作「たけくらべ」から,樋口一葉は吉原遊郭の近くに生まれたものだとばかり思っていたのですが,それは誤解でした。

 樋口一葉記念館を出て,私は,吉原遊郭のあった千束4丁目まで歩いて行きました。私がこの日やりたかったのは,吉原遊郭のメインストリート「仲之町通り」の,吉原遊郭唯一の出入り口であった大門跡の近くにある「能登屋」というおそば屋さんで昼食をとることでした。
 このお店はとても評判のよいところで,やっと念願がかないました。
 お昼を食べ終えて,私は,浅草駅まで歩いて,地下鉄に乗って,次の目的地である港区芝の増上寺に向かいました。

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 2023年10月14日のNHK交響楽団10月A定期を聴きに東京へ行く計画を立てたのですが,残念ながらコンサートは中止になってしまいました。しかし,それ以外の予定はそのまま実行することにしました。
 今回は,コンサートの余韻を十分に味わうために1泊することにしていました。
 そこで,1日目の10月14日は,ディープな東京散策として,谷中霊園から旧吉原の樋口一葉記念館,そして,芝の増上寺で徳川家の墓とまわり,2日目の10月15日は,かねてからの懸案であった房総半島を1周することにしました。私は,人の少ないところのほうが楽しいのです。

 まず行ったのが,谷中霊園でした。新幹線で東京駅に着いて,そのまま乗り換えて上野駅まで。そこから歩きました。JR日暮里駅の方が近いのですが,私は,早朝の上野公園を歩くのが好きなのです。
 谷中霊園には,多くの有名人の墓がありますが,私の目的は,牧野富太郎博士の墓と江戸幕府最後の15代将軍・徳川慶喜の墓でした。上野公園を過ぎて,さらに北西に向かって歩いて行くと,谷中霊園が見えてきました。まず,徳川慶喜の墓の表示があったので,そちらを先に行くことにしました。
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 徳川慶喜は,明治維新によって,幕府崩壊とともに一般人になったのですが,公爵に叙せらたことで神道への宗旨替えをし,明治政府が作った新しい墓所である谷中霊園に埋葬されました。
 その後,徳川宗家は徳川慶喜とは別の徳川家達に移り,徳川慶喜の流れをくむ家系は墓じまいをするということで話題になりました。
  ・・・・・・
 徳川慶喜は神式で埋葬されたため円墳状の墓で,隣には,その妻・美賀子の墓が並んでいます。
 この場所は,江戸時代は感応寺(現在の天王寺)の境内でした。大政奉還を果たした徳川慶喜は,明治維新で謹慎が解かれると駿府(現在の静岡市)に隠棲し,10男11女をもうけ,1897年(明治30年)に東京に戻り,巣鴨で暮らしましたが,巣鴨駅の建設の喧騒から逃れるために,1901年(明治34年)に小石川に転居しました。大正2年に風邪を患って満76歳で亡くなりました。

 牧野富太郎博士は,今年度前期のNHK連続テレビ小説「らんまん」の主人公・槙野万太郎のモデルです。墓は,徳川慶喜の墓からさほど遠くないところにありましたが,見つけるのがたいへんでした。
 1862年(文久2年),土佐国佐川村(現在の高知県高岡郡佐川町)に生誕した牧野富太郎博士は植物学を志し,1884年(明治17年)に東京に出ました。1912年(大正元年),50歳のときから1939年(昭和14年)まで,東京帝国大学理科大学講師を務めました。
 1926年(大正15年)から没するまで大泉に居を構え,自邸の庭を「我が植物園」としてこよなく大切にしていました。そこは,現在の牧野記念庭園で,私が先日訪れたことはすでに書きました。
 1957年(昭和32年)に94歳で死去し,天王寺墓地に葬られました。墓の横には,牧野富太郎博士が愛し,新種の笹に「スエコザサ」と名づけた妻・寿衛さんの墓がありました。
 墓の正面には「結網学人牧野富太郎 TOMITARO MAKINO Dr.Sc. APRIL 26.1862−JAN 18.1957 墓」,側面に「昭和三十二年一月十八日歿 浄華院殿富嶽穎秀大居士 行年九十六歳」,裏面には年譜が刻まれていました。隣のすえさんの 墓の横側には
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 家守りし妻の恵みやわが学び
 世の中のあらん限りやすゑ子笹
  ・・・・・・
という自作の句が刻まれていて,泣けてきました。

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 2023年10月16日,京都ホテルオークラで行われた第36期将棋竜王戦第2局の前夜祭に出席して,その日は四条大宮の東横インに泊りました。その翌日のことです。
 25年ほど前の10月の京都は紅葉には早く,観光客は少なく,静かでとてもよいところでした。しかし,今は,コロナ禍以降でインバウンドが再び復活して,どこも外国人だらけになってしまい,とはいえ,落ち着いた観光客なら許せるのですが,我がモノ顔で京都の街中を闊歩する姿は本当に嫌なものです。日本の歴史や文化を知る人もほとんどいません。単に観光地で群れているだけです。そんなわけで,私の好きだった京都はどこにもなくなってしまいました。そこで,京都を観光するのはやめて,これまでずっと行きたかった司馬遼太郎記念館に行くことにしました。

 今の若い人はどうなのでしょう? 司馬遼太郎さんを知っているのでしょうか?
 司馬遼太郎さんは,私の亡くなった父親より数年歳をとっていて,私は,大学生のころ,いつも,なんらかの司馬作品を読んでいました。そのころは,こうした作品を書く作家の存在は当たり前だと思っていたのですが,今考えると,司馬遼太郎さんがいなければ,坂本龍馬が今のように有名だったかどうかもわからないし,私たちが知っている戦国時代や明治維新とは違ったイメージをもっていたのかもしれません。
 以前書いたように,「街道を行く」に書かれていた日本全国に根差す多くの歴史は,私が今になって旅をしてようやく理解できたものですが,それを,私が気づくよりもっと若いころにすでに理解し,解釈して作品として世に残していたということが,どれだけすごかったかということをやっとわかってきたのでした。

 司馬遼太郎記念館は,そんな司馬遼太郎さんが生前暮らしていた場所にあります。場所は,東大阪市で,近鉄の奈良線の河内小阪駅が最寄りの駅だとGoogleMapsがいうので,それに従って降りました。駅前には「司馬遼太郎記念館」と書かれたアーケードがあったので,興奮しました。しかし,河内小阪駅からは歩いて15分以上あって,実際は,その東の八戸ノ里駅からのほうがずっと近いのでした。そんなわけで,四条大宮駅からは行くのがけっこう大変なところでした。
 司馬遼太郎記念館は静かな住宅街にあって,庭には多くの木々があり,まるで,山荘のようなところでした。庭から書斎を窓越しに見ることができました。また,残されていた書籍が4万冊以上ということで,その多くが,現在,ここに保存されているのですが,その迫力と言ったら,すごいものでした。
 庭に咲くキンモクセイの香りが,この偉大な作家のイメージと重なって,幸せな空間となっていました。

  ・・・・・・
 もういちど繰り返そう。
 さきに私は自己を確立せよ,と言っ た。自分には厳しく,あいてにはやさしく,とも言った。それらを訓練せよ,とも言った。それらを訓練することで,自己が確立されていく。そして,”たのもしい君たち”になっていく。
 以上のことは,いつの時代になっても,人間が生きていくうえで,欠かすことができない心がまえというものである。
 君たち。君たちはつねに晴れ上がった空のように,たかだかとした心を持たねばならない。 同時に,ずっしりとたくましい足どりで,大地をふみしめつつ歩かねばならない。
 私は,君たちの心の中の最も美しいものを見続けながら,以上のことを書いた。 書き終わって,君たちの未来が,真夏の太陽のようにかがやいているように感じた。
  「21世紀に生きる君たちへ」司馬遼太郎
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 京都の四条大宮に宿泊した私は,翌日,司馬遼太郎記念館に行くために,大宮駅から大阪梅田駅行きの阪急電車に乗りました。司馬遼太郎記念館は,途中の淡路駅で乗り換えて,大阪地下鉄堺筋線で日本橋まで行き,さらに,近鉄の奈良線に乗り換える必要があるというように,結構不便なのでした。
 しかし,朝6時過ぎにホテルをチェックアウトしたので,司馬遼太郎記念館の開館時刻である午前10時までには時間はたっぷりあったので,大阪梅田駅に行く途中の高槻駅で途中下車しました。
 高槻市は,来年に日本将棋連盟の関西本部が移転するということで,近ごろは話題となっていますが,私は高槻市というのは,戦国時代に高山右近が統治してていたところということで,それ以前から名前を知っていたので,一度どんなところか行ってみたかったのです。

 何も考えずにやってきたのですが,阪急電車の高槻駅はJRの高槻駅とは少し離れていました。日本将棋連盟の関西本部が移転する場所はJR高槻駅の近くだと聞いていたので,阪急電車の高槻駅からJRの高槻駅まで歩くことにしました。駅前にあった地図で確認すると,そこからさらに歩いて高槻城跡を見てくれば,阪急電車の高槻駅に戻るという散策をすることができるようでしたので,そうすることにしました。
 日本将棋連盟の関西本部はJR高槻駅のすぐ近くにできるという以上のことは知りませんでした。歩いていれば見つかるだろう,それに,高槻市の市バスに将棋のアニメが描かれているものがあるということだったので,運がよければ見ることができるかな,とも思いました。そして,JRの駅前で遭遇しました。
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  武家屋敷が広がっていた高槻城三の丸跡から,江戸時代の小将棋や中将棋の駒が多数発掘されていて,初代高槻藩主・永井直清は文化に造詣が深いこともあって,古くからこの地では広く将棋がたしなまれていたことがうかがえます。 また,1892年(明治25年)生まれの中井捨吉八段にはじまり,現在でも,福崎文吾九段,浦野真彦八段,長沼洋八段,伊奈祐介七段などが高槻市出身だそうです。
 そこで,1年後の2024年の秋に,高槻市を「将棋の聖地」として,関西将棋会館を高槻市に移転するということになりました。
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 JR高槻駅前は大きな新しいビルが立ち並んでいて,こんなところに空き地があるのかな? と思いながらさらに歩いて行くと,建設中の場所に着きました。どうらやここに将棋会館が作られるようです。本当に駅から近く,とても便利なところ。よくこんな場所が空いていたものです。新しく開館したら,また,来てみたいと思いました。

 さて,次に行ったのが,高槻城跡でした。高山城跡は,現在,再開発されていて,公園が整備されていました。高槻藩,江戸時代の殿様は,紆余曲折の後,最後は永井氏が治めたのですが,この地は,今も高山右近が愛されているように感じました。
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 高山右近は,1552年(天文21年)かその翌年に生まれ,1615年(慶長20年)に亡くなった武将で,代表的なキリシタン大名として知られました。
 父の高山友照は三好長慶に仕え,大和国宇陀郡の沢城(現在の宇陀市榛原)を居城としていましたが,三好長慶が没すると三好氏は衰退し,1568年(永禄11年)に足利義昭が室町幕府15代将軍となったころには,和田惟政が高槻城に入り,高山父子は和田惟政に仕えることとなりました。
 1571年(元亀2年)に和田惟政が荒木村重に敗れて討死したのちは,子の和田惟長が城主となり,高山父子は相談役となりましたが,これを良く思わない和田家臣たちが和田惟長に高山親子の暗殺を企てたことで,ついに,1573年(元亀4年)に和田惟長らと斬り合いになり,敗れた和田惟長は生国・近江国甲賀郡へ逃れましたが,同地で死亡。この後,高山父子は荒木村重の支配下に入り,高槻城主となりました。
 1582年(天正10年)本能寺の変で信長が没すると,高山右近は羽柴秀吉の幕下にかけつけ,山崎の戦いでは先鋒を務め,明智光秀を敗走させたことでその功を認められて加増されましたが,バテレン追放令が秀吉によって施行されると,キリシタンであった高山右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産を全て捨てることを選び,天正16年(1588年)に前田利家に預けられて加賀国金沢に赴きました。さらに,1614年(慶長19年)に加賀で暮らしていた高山右近は,徳川家康によるキリシタン国外追放令を受けて,加賀を退去し,長崎から家族と共に追放された内藤如安らと共にマニラに渡ったのですが,老齢の高山右近は病を得て,翌年に息を引き取りました。
 1962年,高槻天主教会堂跡の近くに,高山右近臨終の地であるフィリピン・マニラ郊外アンティポロにある聖母大聖堂を模して建てられたカトリック高槻教会の新聖堂があって,高山右近記念聖堂と命名されています。
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 高槻藩は,高山右近が大名の地位を追われたのちは,新庄直頼,内藤信正,土岐定義,松平家信,岡部宣勝,そして,松平康信が入るというように,藩主が短期間で変わり安定しなかったのですが,最終的に,山城長岡藩より永井直清が入ってようやく藩主が定着し,永井氏13代の支配を経て明治時代を迎えました。
 高槻市は大阪市のベットタウンなのでしょう。JRも阪急電車も高槻駅は通勤,通学の人で一杯でした。歴史をリスペクトする,きれいな,なかなかいい町だなあと思いました。

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 2018年,佐藤天彦名人に通算タイトル獲得100期目をかけて羽生善治九段が挑戦した第76期将棋名人戦第5局が名古屋の大須萬松寺で行われたとき,その前夜祭に行ったことがあります。そのときの前夜祭は立食パーティでしたが,対局者と写真を撮ることもできましたし,多くの棋士の人たちと話をすることもできて,将棋のタイトル戦の前夜祭はいいものだ,また行ってみたいと思いました。
 しかし,それ以降,コロナ禍が起こり,前夜祭自体が中止になったり,また,前夜祭の再開後も,マスク姿の棋士の写真を写しても仕方がないので,ずっと敬遠していたのですが,それも去り,また,藤井聡太八冠誕生か,ということもあって,再び前夜祭に行ってみようかと思っていたこのごろでした。

 奇しくも,今年2023年の第36期将棋竜王戦の第2局が10月17日,18日に京都の仁和寺で行われ,その前夜祭がホテルオークラ京都で行われるということだったので,応募して当選したので行ってきました。実際,藤井聡太八冠誕生後,はじめての対局となって,さらに注目度が増したのですが,今期,藤井聡太竜王に挑戦するのは,「藤井聡太を泣かせた男」という異名のある同い年の伊藤匠七段でした。
 今回は立食ではなく,抽選による指定席ということでしたが,なかなかいい席が確保できました。参加者は200人程度かな? と思っていたのですが,なんと,400人ということでした。また,女性が8割くらいもいました。これではまるで藤井聡太八冠の披露宴みたいなもののように思えたのですが,藤井聡太竜王にはこれだけお姑さんがいるわけで,これでは実際に結婚するときに,お嫁さんになる人は大変だなあと思いました。
 前夜祭は,型通り,対局者の入場,主催者挨拶と続きましたが,学校の卒業式みたいに,退屈な話をを延々とするような人もなく,楽しいものでした。そして,最後に,対局者の決意表明がありました。

 それにしても,藤井聡太竜王は,すっかり場離れしているというか,とても上手に話をするので,感心しました。単に強いだけでなく,まだ21歳だというのに,将棋界は立派な棋士が育ったものです。
 藤井聡太竜王名人が初タイトルを取ったころは,コロナ禍真っ最中で,前夜祭も中止になったりしたので,ある意味,これが幸いしたようなところもあるように思います。前夜祭には,文化庁長官,京都府長,京都市長といったお偉い人たちがずらっとならんでいたりして,羽生善治九段ならともかくも,はじめてタイトル戦に登場するような若手の棋士には,対局の前に,こうしたイベントに出るだけで,すっかり飲まれてしまい,大きなハンディとなってしまうことでしょう。

 仁和寺門跡の瀬川大秀さんの話によると,仁和寺の創建は888年であり,また,仁和寺の裏山には成就山八十八ヶ所の霊場があるというように,末広がりの8にゆかりがあり,藤井聡太八冠にふさわしいということでした。そして,今回の前夜祭のお土産は,京都のおまんじゅう「八重」でした。粋な計らいだなあと感心しました。

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 これまで行ったことがなかった,または,どこにあるのかを知らなかった,というところについて書いてきたのですが,どこにあるのかは知っていても,どうやっていくのか? がよくわからないところもまた,少なくありません。
 私は冒険家でもないし,めんどうなことは嫌いなので,小笠原諸島? 船で24時間? と聞くだけで行く気がなくなるので,小笠原諸島は,はじめから候補にもなりません。また,東シナ海にも,ものすごくたくさんの島々があるのですが,どうやって行くのか? と,離島に凝りはじめた私が絶望感に襲われる場所も少なくありません。おそらく,最も困難なのは,吐噶喇列島でしょう。これもまた,小笠原諸島同様に,船で延々と行くしか方法がないようですし,それがまあ,とても大変そうなのです。
 昨年末に,よく知らないまま石垣島へ行ってみて,後で地図を見て,こんなに遠かったんだ,と驚く有様ですが,まだ,沖縄本島には行ったことがないし,奄美大島も屋久島も知りません。しかし,あまり行きたいとも思わないです。性に合わないというか,なんというか…。
 しかし,そんな中で,長年ずっと気になっているのが,種子島なのです。それはおそらく,鉄砲伝来,という史実と,ロケットの打ち上げ基地,ということから来るものなのでしょう。
 そこで,調べてみました。

 種子島は,飛行機で行くこともできるようです。種子島に限らず,離島の多くは飛行機も飛んでいるのですが,どこも料金が高く,乗りたいと思いません。しかし,飛行機を利用せずとも,これまで行った佐渡島や壱岐島と同じように,鹿児島港から高速船に乗れば,容易に行くことができそうです。
 さて,ここで問題のは,鹿児島港までどうやっていくか,ということです。
 以前書いたことがあるのですが,格安航空はさまざまで,私には,安ければいい,というものではないのです。県営名古屋空港を利用しているFDA が鹿児島空港まで飛んでいればまだしも,それ以外の航空会社で鹿児島空港まで飛んでるものは,すべてセントレア・中部国際空港なので,そこまで行くのが,面倒です。さらに,これは有名な話ですが,鹿児島空港は鹿児島市内から非常に遠く,鹿児島空港から鹿児島港までがたいへんなのです。
 そこで考えたのは,FDAで熊本空港までFDAで行って,そこでレンタカーを借りて,南九州の旅行を兼ねて,そのついでに1日種子島に行く,というのがよいように思えてきました。実現するのがいつのことになるかわかりませんが。

種子島


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 三浦半島,東は横浜市,西は鎌倉市までしか行ったことがなかったわけですが,先日,横須賀市へ行き,その次に浦和市までいったことで,次第に,どんなところかわかってきました。思ったよりも東京から近いところでしたが,横須賀市から先の意外な素朴さがすてきでした。
 結局,JRを利用するよりも品川駅から京急電鉄を利用するほうが簡単だと知ったのですが,その終点が三崎口駅で,三崎口駅から,多くの観光地があることを知ったので,そのうちにぜひ行ってみようと思いはじめました。

 調べてみると,三崎口駅にレンタサイクルがあって,これを利用すれば,気軽に様々なところを移動できるようです。それにしても,私が知っていたのは,城ヶ島という離島の名前だけでした。また,意外なことに,先日出かけた柳川市で訪れた北原白秋がこの城ヶ島とゆかりがあるというのもまた,偶然というか,興味深いというか。
 いずれにしても,東京近郊に住んでいる人以外は,三浦半島といっても,なぜか,鎌倉市しかなじみがないのです。鎌倉市以外に行ったことがあるという人も,私のまわりにはいません。また,テレビの旅番組でとりあげられることもほとんどないのが不思議な話です。なぜなのだろう?

 司馬遼太郎さんの書いた「街道を行く」にも,三浦半島記があります。
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 司馬遼太郎の旅の拠点は,三浦半島の付け根部分にあたる横浜・磯子のホテル。ここから〈毎日勤め人のように〉半島に通い,鎌倉幕府出現の背景を考える。
 司馬さんは,源頼朝の挙兵成功の理由を,三浦,房総,伊豆の3半島の連動にあったと思い至る。それぞれの半島の勢力が海路を使って連携したのだ,と。大楠山の山頂から3半島の位置を改めて確認し,衣笠山では,頼朝を助けた三浦大介義明に思いを馳せる。そして,若宮大路,鶴岡八幡宮,極楽寺坂,朝比奈切通しなど,頼朝や義経,新田義貞らの足跡を辿る。
 半島を下り,横須賀で考えたのは,「スマートであれ」が教育方針だった旧海軍のこと。日露戦争で活躍した連合艦隊旗艦「三笠」を訪ねて,かつて出会った品のいい元海軍士官の紳士たちを思い出すのだった。
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というわけで,私が期待した割に,書かれているのは,鎌倉市と横須賀市までにとどまってきて,「その先」に触れていないのです。

 そんなわけで,もっとすずしくなって,天気がよいときに,こりゃ,1日楽しく過ごせそうだと思ったら,ワクワクしてきました。

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 首都圏に住んでいる人にはあたりまえかもしれませんが,私は東京近郊はあまり知りません。そこで,このところ,NHK交響楽団の定期公演を聴くために東京へ出かけた折,機会を見つけては足をのばすことにしています。その中で,今日は,千葉県の話題です。
 千葉県といって私が行ったことがあるのは,成田国際空港と東京ディズニーランドくらいのものです。房総半島は,特に,これまで無縁な場所でした。ただ一度,2009年に,列車で,佐倉市と茨城県の潮来市,そして,銚子市まで行ってみたことがありましたが,そこで驚いたのは,神奈川県と距離は同じくらいなのに,首都圏といっても,千葉県はずいぶんと寂れているということでした。当時,JRの駅が無人駅だったのには衝撃を受けました。今はどうなのでしょう?

 そこで,一度,房総半島を1周してみようと考えました。
 レンタカーでまわってもいいのですが,せっかくなので,列車で行こうと考えて,時刻表とにらめっこしました。現在は,乗り換え案内のさまざまなアプリがあるのですが,実際に目的地まで一目散に出かけるときはこうしたアプリはとても便利なのですが,楽しみで旅をするときは,時刻表の方がずっとわかりやすく,おもしろいです。しかし,どのくらい時間がかかるのだろう?
 地図をみると,千葉県の海岸線にそってずっと線路があって,太平洋側が外房線,東京湾側が内房線というらしいのですが,私は,その境目が先端の館山駅だとばかり思っていました。しかし,そうではなく,安房鴨川駅でした。東京駅を朝7時15分に出発する「わかしお1号」という特急に乗ると,千葉駅を経由して,外房線を走り,早くも午前8時45分に勝浦駅に到着するので,意外に時間がかからないものだ,と思いました。
 ところが,その先,勝浦駅から館山駅までの列車がほとんどないのです。いかにも乗る人がいない,という感じです。考えようでは,これはとても愉快なことです。つまり,空いているに違いがないからです。
 その先は,安房鴨川駅,館山駅と乗り換え,それぞれの駅で1時間から2時間程度の時間をとって,午後2時42分に館山駅を出る列車に乗れば,内房線で千葉駅に午後4時54分に着く,という感じでしょうか。
 こりゃ楽しそうだ,と調べながら思いました。

 ここまで調べたら,あとは実行するだけです。幸い,猛暑だった2023年の夏もどうやら終わりをつげ,秋になったので,いよいよ決行することにしました。ところが,ここに,とんだ事態が待ち受けていたのです。このことは,また,いずれ書くことにしましょう。

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私が今回の旅で隠岐諸島に来る前,松江市の観光をしたことはすでに書きましたが,松江市にゆかりのあるラフカディオ・ハーンは,1892年(明治25年),島前・中ノ島の菱浦湾の畔にあった岡崎旅館に滞在し,菱浦湾に「鏡浦」と名づけたといわれています。現在,岡崎旅館の跡地は「佐渡公園」(八雲広場)となっていて,ここに,ラフカディオ・ハーンと妻セツの銅像があります。
隠岐諸島を文明から隔絶された秘境だと考えていたラフカディオ・ハーンは,「知られぬ日本の面影」で「風景は島々に分け入るにしたがってますます美しくなった」と描写しています。
前回書いたように,中ノ島・海士町は都市部から出身地と異なる地方部に移住する「Iターン」の人口が多いのですが,ラフカディオ・ハーンもまた,先駆的な志願者だったのかもしれません。

さて,2023年8月27日。旅の6日目,隠岐諸島での最終日です。
この暑さ,さすがに疲れました。もはや,私には1週間の長旅はむりだなあ,と思い知らされました。この日は,予定では中ノ島にフェリーで渡り,午前中観光をすることにしていたのですが,その気がまったく失せてしまい,当初は,午後3時45分に西ノ島の別府港を出港して,本土の七類港に戻るするフェリー「おき」に乗る予定だったのを変更して,午前10時20分に西ノ島の別府港から出航する「しらしま」で,本土の境港に戻ることにしました。
今にして思えば,半日,再び中ノ島へ行って観光ができたのでもったいないことをしたようにも思うのですが,このときは,全くそんな気力がなくなっていました。それに,境港がどうなっているかを知りたくなったこともありました。
おき得のキャンペーンで,帰りのフェリーは無料でした。

フェリーに乗船して,何となく過ごしているうちに,境港に着きました。
境港はとても立派で,これなら,隠岐諸島に行くフェリーはすべて境港から出航すればいいのに,と思いました。隠岐諸島というのは,さまざまな歴史による事情からなのか,もう少し工夫すれば便利になるのに,今は,いろいろと不便なことが多いです。行けるものなら行ってみろ,みたいな感じです。
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境港といえば,ゲゲゲの鬼太郎で有名な水木しげるの出身地ですが,そこがどうなっているのか知らなかったので,興味がありました。しかし,残念なことに,境港にある水木しげる記念館は来年の4月まで休館なのでした。
境港の駅から松江駅までフェリーのシャトルバスがあるのですが,私は,JRに乗ってのんびりだらだら松江駅まで戻ることにして,まず,近くにあった回転寿司でお昼を食べました。高いだけでおいしくない寿司でした。
その後,観光案内所で地図をもらって,列車の発車時刻まで,境港駅前の水木しげるロードを歩こうと考えました。しかし,異常な猛暑で,まったくその気もなくなり,境港の駅ビルにあった鬼太郎妖怪倉庫とやらで過ごしたのち,境港駅から米子駅を経由して松江駅に戻りました。
その次の日,出雲の観光をしたことはすでに書きました。

これで,2023年夏の山陰地方への旅は終わりです。
それにしても,暑い夏でした。例年なら,とてもすごしやすい隠岐諸島での旅を満喫できたはずだったのに,これだけが残念でした。
「隠岐みやげ」と周りの人は揶揄するのですが,私は,この旅の疲れなのか,この夏の猛暑のせいなのか,はたまた,後鳥羽上皇と御醍醐天皇と文覚上人の祟りなのか,帰宅後,体調を崩してしまい,悲惨な9月を過ごすことになってしまいました。

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お祭りだということで,予定を変えて知夫里島からやってきた中ノ島でした。
偶然,年に1度のお祭りに遭遇したことは奇跡的なこととはいえ,とても暑く,しかも,菱浦港のあたりは人だらけだったので,これでは,人の少ないからこそ,と離島をめざしてやって来たのに,まるで原宿だ,と思いました。それにしても,なんと若い人が多い島でしょう。
さて,そんな雑踏をさけて,電動自転車を借りて中里地区までやってきた私でしたが,次に行ったのは明屋海岸,そして,三郎岩,さらに,金光寺山でした。
明屋海岸は珍しい地質が見られるジオサイトのひとつで縁結びのパワースポット,三郎岩は菱浦港の北東海岸に浮かぶ太郎,次郎,三郎とよばれる兄弟島,そして,金光寺山は標高164メートルの山頂からの眺めがきれい,ということでしたが,さすがに電動自転車では疲れました。いくら電動とはいえ,坂を登るのは大変でした。
それでも,車がなくても,電動自転車でこれだけ中ノ島をめぐることができたので満足して,これで,西ノ島に戻ることにしました。この日の夜は中ノ島ではパレード,そして,それに続いて花火が上がるということでした。内航船は臨時便が出るということだったので,西ノ島に帰るには問題はなかったので,お祭りを見届けてもいいのですが,パレードといったところで大したものであるまい,と思ったことと,花火は西ノ島の対岸から見ることができる,ということでした。それに,私は,西ノ島の旅館で夕食をとることになっているのです。

内航船を待つ間,海上保安庁の船が特別公開されていたので,わずかの時間見学することができました。やがて,内航船が来たので,乗り込み,西ノ島に戻りました。旅館に戻って,花火を見る絶景ポイントを聞いて,夕食前に花火を見ようと,車で海岸線沿いを走りました。
私が到着したときは他に誰もいなかったのですが,花火が上がるころには多くの人が車でやってきて,道路は車で溢れました。
きれいな花火でした。三脚を持ってきた甲斐がありました。
旅館に戻って,夕食を取りました。

ところで,私が奇しくも遭遇したのは,中ノ島・海士町の「キンニャモニャ祭り」というものでした。「キンニャモニャ祭り」はこの海士町に古くから伝わる民謡「キンニャモニャ」を踊る夏の風物詩ということで,1996年にはじまりました。「キンニャモニャ」というのは,中ノ島で歌い継がれてきた民謡のひとつで,由来は,江戸末期に島内の菱浦地区で生まれた人物・杉山松太郎が西南戦争に従軍した熊本から同地方の民謡「キンニョムニョ」を持ち帰り,自己流にアレンジして広めたのがはじまりとする説や,江戸時代に日本海を行き来した回船・北前船が伝えたとする説があるそうです。
メインステージでは伝統の「餅投げ」や抽選会,地域芸能交流会などのイベントが行われ,駐車場には屋台が並んでいました。私は,それらを見ることはできました。
最後に行われたのが,2,400人弱の人口の島で1,000人が参加するという「キンニャモニャ」パレードと打ち上げ&水中花火の競演でした。
私は見なかったのですが,両手にしゃもじを持って愉快に楽しく踊る「キンニャモニャ」とは,「キン」が金,「ニャ」が女,「モ」が物で,「ニャ」がない。 つまり「金も女も何もない」という意味だとか。

ところで,島前,特に中ノ島に若い人がたくさんいた理由は,島前が「大人の島留学」という事業を実施していて,それが軌道に乗っているからでした。
私は,これまで,石垣島,佐渡島,壱岐島といった日本の離島を旅していて,どの島も,高齢者ばかりとなっている問題があることを知りました。それとともに,都会生活に疲れ移住してきた人たちの存在も知りました。隠岐諸島の島前では,こうした取り組みをはじめたことで,そうした都会の人たちがやってきていて,今や,人口の2割を占めているということでした。

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 2023年夏。これほど自然が敵に思えた年はありませんでした。ひどかった7月,8月,9月でした。こうした3か月が老化を進めるのです。一挙に10年は齢をとります。毎年これではたまりません。
 もう秋は来ないのか,と思っていたのですが,10月になったら,突如,すずしくなって天気もよく,忘れていた気持ちのいい季節が戻ってきました。今や,春は,黄砂がひどく,雨ばかりで,気持ちのよい季節ではありません。かろうじて残るよい季節が10月から11月にかけてのたった2か月なのです。

 秋といえば,私には彼岸花とコスモスですが,彼岸花の季節は終わってしまい,コスモスだけが野山に咲き誇っています。しかし,コスモスが日本にやってきたのは明治以降のことなので,コスモスを読んだ「万葉集」の歌はありません。コスモスはメキシコ原産のキク科の1年生植物で,ヨーロッパに移入されて,Cosmos bipinnatus Cav. と名づけられ,これが和名にもなっています。
 彼岸花とコスモス以外に,秋といえば,柿の実,萩,ススキです。
 しかし,昔から食べられていたのに,「万葉集」には柿の実を詠んだ歌はないそうです。
 それに比べて,多くの歌が詠まれているのが,ススキに萩。
 ススキはイネ科の多年草で,花穂の形から尾花ともよばれます。「万葉集」には,ススキとして詠われているのが17首,カヤが10首,尾花が19首あります。
  ・・・・・・
 賣比能野能 須々吉於之奈倍 布流由伎尓 夜度加流家敷之 可奈之久於毛倍遊
 婦負の野の すすき押しなべ 降る雪に 宿借る今日し 悲しく思ほゆ
 婦負(ねひ)の野(=富山県射水市付近の野)に ススキを押さえて雪が降っている この中で宿を取らねばならない(=野宿)と思うと 今日は悲しい日に思われる
   巻17・4016 高市黒人
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 黒樹取 草毛苅乍 仕目利 勤和氣登 将譽十方不有
 黒木取り 草も刈りつつ 仕へめど いそしきわけと ほめむともあらず
 黒木を伐採しかやを刈り取って懸命にお仕えしても 勤勉な小僧だとほめて下さいませんよね
   第4巻・780 大伴家持
  ・・
 人皆者 芽子乎秋云 縦吾等者 乎花之末乎 秋跡者将言
 人皆は 萩を秋といふよし我れは 尾花が末を 秋とはいはむ
 どの人も萩こそ秋の代表のようにいうようだが 私は尾花の穂先こそ秋の代表選手といいたい
   第10・2110 詠み人知らず
  ・・・・・・

 萩は秋の風物詩として「万葉集」に最も多く詠まれ,その数は141首とも142首ともいわれているそうです。
  ・・・・・・
 吾妹兒尓 戀乍不有者 秋芽之 咲而散去流 花尓有猿尾
 我妹子に 恋ひつつあらずは 秋萩の 咲きて散りぬる 花にあらましを
 彼女に恋い焦がれ悶々としているくらいなら たとえいっときでも咲いて散る秋萩になりたい
   巻2・120 弓削皇子
  ・・
 高圓之 野邊乃秋芽子 徒 開香将散 見人無尓
 高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
 高円(=奈良県春日山)の野辺いっぱいの秋の萩 いたづらに咲いて誇っているのだろうか 愛でる主人もいなくて
   巻2・231 笠金村(かさのかなむら=万葉歌人)
  ・・
 如是耳 有家類物乎 芽子花 咲而有哉跡 問之君波母
 かくのみに ありけるものを 萩の花 咲きてありやと 問ひし君はも
 こんなことにおなりになるとは知らず 萩の花は咲いただろうか とおたづねでしたね
   巻3・455 余明軍(よみょうぐん=渡来人)
  ・・・・・・

◇◇◇
藤井聡太八冠誕生。

大逆転の勝利でした。
おめでとうございます。
無題


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 2023年10月14日に行われる予定だったNHK交響楽団10月Aプログラムが中止になりました。そろそろ「お元気に来日されました」というニュースがあるころだなあ,とこころ待ちにしていたところに飛び込んできた速報でした。
 2023年9月のNHK交響楽団の機関紙「フィルハーモニー」によると,マエストロ・ブロムシュテット(Herbert Blomstedt)に「N響100周年(2026年)を一緒にお祝いしたい」と言ったら「ウィーン・フィルとは,私の120歳のバースデー・コンサートを開く約束をしている」と述べたということだったので,今年もまた,お元気な姿を見ることができると楽しみにしていた桂冠名誉指揮者ヘルベルト・ブロムシュテットさんの10月の定期公演でしたが,残念ながら,健康上の理由で来日がかないませんでした。
 昨年は思わぬアクシデントがあって,直前に予定されていたヨーロッパでの公演が軒並みキャンセルになったことで来日が危ぶまれ,大変心配しましたが,無事,来日を果たし,マーラーの交響曲第9番を指揮されました。私には,忘れられないコンサートになりました。このときのコンサートはかなり衝撃的なものでしたが,この偉大なマエストロに悲劇性はふさわしくありません。その後はみるみる健康を取り戻し,明るく,さわやかなマエストロの姿に戻っていました。

 中止になってしまった今年の曲目は,ブルックナーの交響曲の中でも最高傑作とされる交響曲第5番でした。
 ブルックナーの交響曲第5番は,「対位法上の傑作」であるとともに,複数の主題を伸縮自在に組み合わせるポリフォニーの技術が駆使されていて,特に,第1楽章や第4楽章の展開部,第4楽章のフーガなど,その荘厳な響きに魅了されます。ブルックナーの交響曲は,オーストリアの雄大な大地を想像させるのですが,第5番はそれとは少し異質で,この長大な交響曲では,複数の旋律を重ね合わせ,そのおのおのの特徴を生かして調和させていきながら,音楽の中にヨーロッパの大寺院を思わせる壮大な音の建築物を出現させているものです。
 「レンガを一枚一枚ていねいにに積み重ねていくかのよう」と表現されるマエストロ・ブロムシュテットにとって,まさに,ブルックナー,特に第5番の交響曲はふさわしいものであり,それを味わうことができる喜びは,ほかの何ものにも代えがたい経験となるはずでした。しかし,聴くのもたいへんな大曲が無事に指揮できるのかという心配もありました。それもこれも,かなわぬこととなってしまいました。

 私は,これまでも,桂冠名誉指揮者だったヴォルフガング・サヴァリッシュさん(Wolfgang Sawallisch)のキャンセルとなった最後の定期公演,エフゲニー・フョードロヴィチ・スヴェトラーノフさん(Yevgeny Fyodorovich Svetlanov)が指揮をする予定だった最後の定期公演などのチケットを持っていたのですが,そのいずれも,代役が指揮をしました。今回は直前のキャンセルだったために代役もなく中止となってしまったのですが,コロナ禍のときのさまざまなコンサートでも痛感しましたが,私は,オーケストラのコンサートに指揮者の代役はふさわしいものではないと思っています。その指揮者だからこそ,聴きに行くからです。
 それよりも,どうかお元気になられて,再び,日本でその姿を見せていただけるようにこころから祈っています。

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午前12時過ぎに知夫里島の来居港に戻ってきました。レンタカーを返して,知夫里島から離れます。
知夫里島は,島前3島の中でも,特に何もない島,というか,人口も少なく,八重山諸島の黒島のような人より牛の方が多いというところでした。ただし,黒島は平地でしたが,知里島は山地でした。
まだ昼食もとっていなかったけれど,食べるところも限られていたので,そのまま内航船に乗って,中ノ島に向かいました。中ノ島は次の日に行くことにしていたのですが,この日がお祭りということだったので,ともかく一度行ってみようと思ったのでした。

中ノ島は思った以上に近代的な島でした。というか,この島だけ隠岐諸島の中でも別格のようなところでした。
船のターミナルは菱浦港で,港のあたりは近代的でとても立派だったし,ターミナルの中にはレストランもありました。しかし,それよりなにより私が驚いたのは,この島には異常に多くの若者がいたということでした。どうしてだろう? その疑問はのちに明らかになります。
中ノ島もまた,観光をするには車がないとどうにもならないのですが,「地球の歩き方JAPAN・島旅」には,中ノ島にはレンタカー会社がないので,この島では,西ノ島からフェリーでレンタカーを運ぶ必要があるということでした。しかし,これは間違いでした。中ノ島にも,ちゃんとレンタカー会社はありました。ただし,この日はお祭りということで,観光客が多く,レンタカーは予約でいっぱいでしたけれど。

中ノ島は,西ノ島より若干狭い程度の島ですが,観光地というより,隠岐諸島の中では平地が多く,人が農業などで生計を立てるための島という位置づけのようでした。そこで,観光の見どころは限られていて,菱浦港周辺と,もう一か所,中里というところくらいでした。そこで,この二か所に行くことができれば,車は必要がないと思ったので,別の手段を考えることにしました。さすがに,中里まで歩いて行くにはこの暑さで大変だったのですが,電動自転車という手がありました。そこで,フェリーターミナルにあった観光案内所で聞いてみると,30分後くらいすれば,2時間借りられる電動自転車があるということだったので,早速予約をしました。
そして,時間になるまで,ターミナルの2階にあったレストランで昼食をとりました。昼食はこの島のソウルフード「寒シマメ漬け丼」にしました。シマメとは「スルメイカ」のことで,「寒シマメ漬け丼」は島でとれたての新鮮なシマメを肝醤油に漬け込んだ特製の漬け丼です。

時間になったので,電動自転車を借りて,中里地区に向かいました。中里地区まではのどかな田舎道を走って約20分程度でした。
中里地区は,後鳥羽上皇ゆかりの地です。
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2022年に放送されたNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のクライマックスは「承久の変」でした。
3代将軍・源実朝の死を契機に対立が決定的となった朝廷と幕府。後鳥羽上皇は全国に向けて「北条義時を討て」という勅令を出しました。これが,武家と朝廷が武力衝突する「承久の乱」です。
これに対して,幕府軍は尼将軍・北条政子の次の名演説を受けて京に攻め上がる決断をしました。
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故右大将軍(=源頼朝)が朝敵を征伐し,関東を草創して以後,官位といい俸禄といい,その恩は既に山よりも高く海よりも深い。その恩に報いる思いが浅いはずはなかろう。そこに今,逆臣の讒言(ざんげん)によって道理に背いた綸旨(りんじ)が下された。名を惜しむ者は藤原秀康らを討ち取り,三代にわたる将軍の遺跡を守るように。ただし院(=後鳥羽院)に参りたければ今すぐに申し出よ。
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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では小池栄子さんの演技が光りました。
北条義時の長男・北条泰時が率いる先発隊が鎌倉を出発。当初わずか18騎だった軍勢は最終的に19万騎に膨らみました。
宇治川に架かる宇治橋の周辺が幕府軍が朝廷軍と激突した最後の関門でした。宇治川を突破した幕府軍は,勢いのままに入京すると京方の武士や僧侶,公家を容赦なく討伐していき,幕府軍の勝利となりました。
北条義時追討の院宣を出した後鳥羽上皇は「この合戦は自らの意思ではなく謀臣のせいで起きた」と申し開きをしましたが,聞き入られず,隠岐への配流(はいる)が決まりました。子の土御門上皇は土佐,順徳上皇は佐渡と,計3人の上皇が流罪となりました。
後鳥羽上皇は,出雲国大浜湊(現在の美保関町)から船に乗り,日本海を渡り,沖合60キロメートル余りの隠岐国阿摩郡(現在の島前・中ノ島の海士町)に向かいました。わずか7人とみられる一行は荒波にもまれながら,中ノ島の南部の「崎」(さき)という小さな港にたどり着きました。
地元の有力豪族の村上氏が上皇の身の回りの世話をすることになりました。村上氏は当時,海上交易を通じて富を蓄えていた実力者でした。
後鳥羽上皇の行在所(あんざいしょ)は,村上家に近い源福寺でした。中ノ島は,海の幸,山の幸にあふれ,稲作も盛んだったので,結構な馳走がふるまわれたようです。さらに。島人は牛同士が角突き合わせて戦う「牛突き」で上皇をもてなしたり,将棋を楽しんだりした生活をおくっていたようです。
しかし,心は満たされず,境遇は受け入れ難く,苦悩や望郷の念が消えることはありませんでした。
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 とはるるもうれしくもなしこの海をわたらぬ人のなみのなさけは
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 手紙で安否を問われても何もうれしいことはない。海を渡って隠岐の島に訪れて来ない人の通り一遍の情けなんて
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後鳥羽上皇は18年間を配流先で過ごし,1239年(延応元年)に60歳で生涯を閉じました。

中里地区には,隠岐神社,後鳥羽上皇の行在所跡と火葬塚,後鳥羽院資料館,そして,村上家資料館がありました。

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知夫赤壁を見終えて,下っていきます。やっと牛さんとの遭遇も終わりです。
下る途中で見ることができたのが白海士海岸でした。白海士海岸は赤壁とならぶ,知夫里島の断崖です。
やがて,仁夫の集落が見えてきました。ここには島で唯一のホテルである「ホテル知夫の里」があります。港周辺は仁夫里浜公園となっていますし,港の先端は長尾鼻という岬で,海水浴場となっているそうですが,だれも泳いでいませんでした。寂れた島です。この岬には,9月になるとトウテイランという紫色の花が咲いてきれいだということです。
また,この港には,御醍醐天皇上陸地の碑がありましたが,隠岐諸島では,御醍醐天皇というのがブランドみたいな感じで,いろんな場所にゆかりの地やら石やらがあります。どれが真実なのだろう? 言ったもの勝ちみたいな感じでした。
さらに港に沿って集落を進むと,知夫漁港がありました。知夫漁港は,昔は本土からの入口だったところで,最近まで本土からの定期便が入航していたそうです。ここの集落の中に,天佐志比古命神社(あまさしひこのみことじんじゃ)があります。結構な階段を上った先が神殿でした。天佐志比古命神社は式内社で,祭神は天佐志比古命です。通称一宮神社(いっくじんじゃ)といい,知夫里島の一宮ということらしいです。

最後に私が気になっていた文覚上人の墓へ行きました。
文覚上人は,大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で市川猿之助さんが演じた怪しげな人物です。
最終回で隠岐に流される後鳥羽上皇に,幽霊のように現れて,「隠岐はいいところだ」と語るシーンがあります。
  ・・・・・・
-逆輿とは罪人が運ばれる時のしきたりである-
後鳥羽上皇「文覚,とっくに死んだのではなかったか」
文覚「隠岐はいい所だぞ」
後鳥羽上皇「お,おまえも隠岐へ流された?」
文覚「隠岐はいい所だ!」
後鳥羽上皇「あ~っ,あ~っ」
文覚「何もないぞ。一緒に暮らそう!」(後鳥羽上皇の頭をかじる)
後鳥羽上皇「あ~っ!嫌じゃ~!ああっ,待て。文覚,文覚」
-後鳥羽上皇は死ぬまで隠岐を離れることはない-
後鳥羽上皇「頭まで噛んだではないか,おい」
  ・・・・・・

文覚上人は摂津国を本拠地とした渡辺党の者で,出家する前の名を遠藤盛遠(えんどうもりとお)といいました。若かりしころ,従兄弟で親友である渡辺渡(わたなべわたる)の妻・袈裟(けさ)御前に横恋慕し,ついに渡辺渡を殺して袈裟御前を我が物にしようと企てました。深夜に渡辺渡の寝所に忍び込んだものの,誤って袈裟御前の首をはねてしまい,それを悔やみ出家し,文覚と名乗ったといいます。
伊豆に配流された源頼朝のもとを訪れて,懐から頭蓋骨を取り出し「これはお前の父のしゃれこうべだ。苔まみれになっていたのを獄舎の番人から貰い受けた」と源義朝の無念を語ったともあります。この話,大河ドラマでみたような…。
文覚上人は神護寺を復興させようとし,その費用を後白河法皇に強要し,それを拒否されると暴言を吐いて伊豆へ流罪になりました。以後、頼朝が権力を掌握していく過程で返り咲き,文覚上人は源頼朝や後白河法皇の庇護を受け,神護寺,東寺,高野山大塔,東大寺など,各地寺院の所領回復などに貢献し,源頼朝存命中は幕府に大きな影響力を持っていました。
しかし,1199年(正治元年)の源頼朝死去と同時に文覚上人は政争に巻き込まれて,佐渡国へ再度配流の身となりましたが,政敵が亡くなったことでその3年後に京に戻りました。
1205年(元久2年)後鳥羽上皇は,謀反の疑いありとして,突然,文覚を隠岐国への流罪としますが,文覚はいつか後鳥羽上皇を隠岐に迎え取ってやると言い残しながら配流先に向かったと「平家物語」にあります。
  ・・・・・・
高倉天皇の第二皇子・守貞親王は,その性聡明な方で人望も厚く,頼もしい方であったから,文覚は,何とかこの皇子を御位に即けたいと前々から思っていた。しかし,さすがに頼朝の在世中は手出しもできなかったのだが,建久十年,頼朝が死ぬと,文覚の謀叛気は,のこのこと首をもたげた。
しかし,たちまち役人の耳に入って,文覚は,八十歳に余る身を隠岐島に配流の身となった。文覚は京を出るとき 「今日,明日とも知らぬ老残の身を,都の片ほとりへ置くならばともかく,隠岐へ流すとは余りにも情を知らぬ。毬杖冠者ぎっちょうかんじゃ(=毬杖の好きな天皇)よ,そのうち,そなたをわしのところにきっと迎え取るぞよ」
この言葉どおり,後鳥羽院は,承久の乱には隠岐に流されたのであった。
  「平家物語」第十二巻・六代被斬
  ・・・・・・

隠岐・知夫里島には,次の話が伝わっています。
  ・・・・・・
文覚上人は自分を島流しにした後鳥羽上皇を呪いながら暮らしていましたが,あるとき,知夫里島の友人の武士安藤帯刀にこう言いました。
「今から西ノ島の洞窟(「文覚の岩屋」)で修行をしてくる。が,知夫里に帰って来ることはないだろう。毎日、狼煙を上げるようにするから見守っていてほしい。もしも狼煙が上がらない日があったら、それは、私が死んだときだと思ってくれ」
託された安藤帯刀は,知夫里の丘から狼煙を見ては文覚上人の無事に安堵しました。ある日,ついに狼煙が上がらない日がやってきました。急いで西ノ島に駆けつけてみると,文覚上人は正座で合掌したままの姿で亡くなっていました。安藤帯刀は遺体を背負って知夫里島に戻り,文覚上人が修行していた西ノ島の洞窟が見えるこの場所にお墓を建てました。
それからまもなくのこと。
文覚上人の呪いが通じたのかはわかりませんが,奇しくも,文覚上人を島流しにした後鳥羽上皇もまた隠岐に流されることになりました。そして,その子孫である後醍醐天皇も…。
  ・・・・・・
文覚上人は強力な念力の持ち主だったことから,ここは,島民にとっては大願成就のお参りの場所でもあります。

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赤はげ山展望台を経て,知夫赤壁に向かっています。
赤はげ山に向かうあたり,付近は放牧場となっていて,たくさんの牛さんが放牧されています。かつてここでは牧畑農法が行われていて,現在でも「名垣」と呼ばれる石垣で当時の名残を垣間見ることができました。展望台に向けて牧草地の中の狭い道路を走って行くのですが,道路というより,これは牧場の中を走っていくようなものでした。 
牛さんがじゃましてなかなか進めません。それでも大人の牛は車のボディを叩くと道から避けてくれるのですが,子牛たちがいけません。道路を避けるどころか,車に寄ってきてボディをなめはじめる始末でした。やっと牛が少し移動して車が通れるぐらいの隙間ができると,牛たちをやり過ごして進みます。
赤はげ山は,知夫里島の西部に位置していて,標高325メートルの山頂に展望台があるのですが,残念ながら工事中で,展望台の上までは行くことができませんでした。それでも,駐車場からは,世界でも珍しいというカルデラ湾に浮かぶ島前の島々や遠く島根半島や大山を望むことができました。
それはともかく,驚いたのは,赤はげ山山頂に,八王子ナンバーのワゴン車が停まっていて,展望台から電源を引っ張って高らかにアンテナを立ててアマチュア無線をやっていたモノ好きがいたことです。何でも,ここなら余分な電波が来ないからいいのだとか。何というモノ好きな,とあっけにとられました。冬に行った高知県の四国カルデラでも,馬鹿でかい天体望遠鏡をおっぴろげたおじさんがいたし,男というのは,こうした熱病に侵されると,手に負えません。

ところで,知夫里島は牛さんとともに,ものすごい数のタヌキがいます。これは,島民が飼っていたものが野生化したそうで,なにせ,天敵がいないものだから,増え続けているそうです。ニュージーランドのウサギと同じです。
赤はげ山展望台の次が知夫赤壁ですが,そこに向かう途中,とうとう,私は,道路に何十頭もの牛さんに進路を阻まれました。こうなるとどうにもならず,困っていたら,地元の人が軽トラでやってきて,牛さんたちをけちらかしてくれました。
知夫赤壁は,知夫里島の西海岸に,1キロメートルも続く大断崖です。約1キロに渡って広がっており、その高さは50メートルから200メートルです。この崖は約600万年前に噴火した火山の火口が浸食されてできた断面です。赤い色は、噴火で飛び出した溶岩のしぶきの鉄成分が酸化して生じたもので、繰り返し噴き上がったしぶきによって縞模様ができました。ドラマチックな赤壁は隠岐諸島で最も印象深い景観の一つで、知夫里島を象徴する風景の一つです。日本海の波でざっくりとえぐられた赤褐色の岩肌が,時刻とともに様々な表情を見せてくれるという絶景した。
駐車場に車を停めて,100メートルほど歩いたのですが,その途中で,ヌーッと牛さんが出てきたのには驚きました。

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2023年8月26日。旅の5日目,隠岐諸島の4日目です。
前回書いたように,車を運ぶという予定を変えて,車は西ノ島の旅館の駐車場に停めたまま,身ひとつで知夫里島へ内航船「いそがぜ」で出かけることになりました。出航は午前7時47分で,知夫里島の来居港(くりいこう)着が午前8時4分,レンタカーは午前8時30分の貸し出しでした。
内航船は隠岐観光が運航していて,本土と隠岐諸島をむすぶフェリーと高速船レインボージェットの運行は隠岐汽船という別会社が運航していて,同じ港でも船が停泊する場所が異なっています。また,これらの間にはほとんど何の表示もないので,観光客はとまどいます。もっとわかりやすくしてほしいものです。いろいろと聞いて,やっとわかった内航船の待合所でしたが,ここは単に待合所になっているだけで,内航船は,改札もなければ係員もいません。外に出たところに時間になると船が来るので,乗り込んで,そのときに料金を払うだけです。全く放送もないので,見逃すと終わりです。
少し早く着いたので,待合所で船を待っていると,地元の人がいたので,少し雑談をしました。すると,今日は知夫里島に行くのではなく,中ノ島に行くべきだ,というではないですか。それは,この日は,中ノ島では年に1度のお祭りをやっているから,ということでした。私はびっくりしました。以前,サンフランシスコに行ったとき,偶然,プライドパレードに出会ったことがあるのですが,今回もまた,偶然,そんなお祭りに出会うことになるなんて! という感じでした。
いずれにしても,私は,お昼には知夫里島から戻るので,それから中ノ島に行けばいいや,と思いました。

やがて内航船「いそかぜ」が来たので,乗り込みました。船は,島前の内海を進み,予定通り知夫里島の来居港に到着しました。思った以上にのどか,というか何もない島で,港にあったのは,観光案内所と土産物店のある建物だけでした。
まだ早く,観光案内所も開いていなかったので,しばらく待って,やがて係の人がやってきたので,予約してあった軽自動車を借りました。普段軽自動車なんて乗ったことがないのですが,こうも馬力がないものかと驚きました。何せ,西ノ島も知夫里島も坂ばかりなのですが,上るのが大変なのです。
車をかりるときに,牛が道にいるから,脅かさないで,牛にどいてもらうには車の窓を開けて,ボディを手で叩いてください,と言われました。
私は,この島での牛さんの大変さにまだ気づいていません。

知夫里島の見どころといっても,赤壁と牛さんくらいのものです。
私は,赤壁に向かう途中で,まず,姫宮神社に寄りました。姫宮神社は小さな集落の中にあって,車が近づけなかったので,付近に停めて歩いて行きました。
  ・・・・・・
知夫里島・古海地区の氏神として崇敬されている姫宮神社は,創立年代は不詳ですが,元禄年間には姫宮大明神・倭姫命とあります。豊玉毘売(山幸彦の妻)と玉依比売(豊玉毘売の子・鵜葺草葺不合の妻,神武天皇の母)の姉妹の女神様が祭神で,お産や母乳にご利益があるといわれています。
境内には古い神楽殿があり,約40年前までは夏に島前神楽が奉納されていたそうです。入口の下方には6世紀後半の庶民のお墓である宮の影横穴墓群があって,家族ごとに横穴墓を持ち,その中でお葬式もしていたということです。
  ・・・・・・
と,この辺りまではよかったのです。
やがて,車が1台やっと通れるほどの道路が続くようになって,しかも,道路には牛さんのフンが目立つようになると,本当に,道には牛さんやら馬さんやらが出現するようになってきて,走ること自体が大変になってきました。

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島前で2泊するのは,別府港まで徒歩圏内の「みつけ島荘」でした。
予定通り,この日1日で西ノ島のほとんどの見どころをまわり,さらに,中途半端に終わりましたが,国賀めぐり定期観光船に乗ることもできて,別府港に戻ってきました。別府港には,西ノ島ふるさと館という郷土博物館があったので,そこに寄ってから,旅館に行くことにしました。
西ノ島ふるさと館は,まあ,どこにでもある博物館でしたが,ここではじめて知ったことがひとつありました。それは,「シャーラ船送り」というものでした。
  ・・・・・・
「シャーラ船送り」は,お盆に迎えた先祖の霊を精霊船(しょうりょうせん)に乗せて海(=西方浄土)に向けて送る送り盆の行事です。
西ノ島町では,美田地区の5つの集落と浦郷地区の4つの集落で,集落ごとに大きなシャーラ船を作り,各家や墓から集めた旗(=盆旗)や供物を船に乗せ精霊を送るものです。
全長10メートルを超える大きなシャーラ船が美田湾をえい航する姿は夏の風物詩となっています。
  ・・・・・・
長崎市の精霊流しや,松江市のホーランエンヤなど,日本各地にはさまざなこういた行事があるものだなあと,改めて思いました。

さて,旅館に到着しました。脇に駐車場があったので,車を停めて,中に入りました。女将さんに,島前は,特に知夫里島は行くのが大変,という話をすると,車を運ばなければ,内航船「いそかぜ」で,もっと簡単に往復できる,と言われました。そりゃそうだ,と思って,せっかく借りたレンタカーは旅館の駐車場に置き去りにすることにして,改めて,知夫里島でレンタカーを借りればいい,とこのとき,気づきました。ならば,もっと早いうちにそうすべきだったのですが…。
部屋で,知夫里島の観光案内所に電話をして,ダメもとで,たった5台しかないレンタカーに空きがないかを聞くことにしました。すると,午前8時30分から午前12時30分までなら,1台空きがあるというではないですか。狭い知夫里島は4時間もあれば十分だとも言われたので,予約をしました。これで,明日まる1日知夫里島でどうしよう? という不安は払しょくされました。
この,とても評判のよい旅館には,これまで,多くの芸能人が宿泊していました。また,青森県深浦と同じように,ここでも,「にっぽん縦断こころ旅」の火野正平さんが来ていました。
この晩もまた,気持ちのよいお風呂に豪華な食事,隠岐諸島は,なんとすばらしい場所でしょうか!
「みつけ島荘」のウリは岩牡蠣です。こんな巨大な牡蠣,はじめて食べました。

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西ノ島は真ん中の部分が窪んでいて,ふたつの島のように西側と東側にわかれています。
窪んでいる部分には船引運河(ふなびきうんが)が作られていて,日本海の外海と島前の内海を結んでいます。つまり,西ノ島はふたつの陸地から成っていて,つながっていないのです。

隠岐諸島の西ノ島には河川がなく平地が少ないので農業はほとんどできませんが,外海は優れた漁場なので漁業が盛んで,浦郷港は島前随一の漁業基地です。しかし,かつては,浦郷港から出港した船は大きく迂回しないと外海にたどり着けませんでした。
そこで,1913年(大正2年)に西ノ島中央部の船引にある地峡部に運河を開削する計画が発案され,翌年に着工,人力によって1915年(大正4年)に,全長340メートル,幅5.5メートル,水深1.65メートルの船引運河が完成しました。
1963年(昭和38年)に隠岐諸島が大山隠岐国立公園に指定されて観光客が増加し,船引運河が国賀海岸をめぐる観光遊覧船のコースに組み込まれたこともあって,1964年(昭和39年)に運河の改修工事が実施され,10年後の1974年(昭和49年)に現在の全長340メートル,幅12メートル,水深3メートルに拡張されました。
また,船引運河にかかる橋は国道485号1本しかなかったのですが,2005年に西ノ島大橋を含む国道485号西ノ島バイパスが完成しました。 西ノ島の西側にある浦郷港は,かつては西ノ島の東側にある別府港と共に定期船が就航していましたが,西ノ島大橋が開通したことで,別府港から自動車による移動が容易になったことから,フェリーは2007年に寄港を終了し,現在は隠岐観光の国賀めぐり定期観光船の発着場や漁港として利用されています。

予想以上に早く西ノ島の見どころを訪れることができたので,午後3時10分出航の国賀めぐり定期観光船に乗ることにしました。
ということで,浦郷港に着きました。そして,まず,遅い昼食をとることにして,ラーメンを食べました。何せ,ほとんど食堂のないこの島で,外食ができるのは,ここくらいでした。それに,毎日おいしいものを食べ過ぎていたので,軽い食事がしたかったのです。
以前はフェリーが寄港していた面影が残る大きなターミナルビルはさびれていたのですが,入口を入ったところに国賀めぐり定期観光船のチケット売り場がありました。
天気もよく,欠航など全く頭になかったのですが…。窓口で曰く,お昼ごろから外海の波が高くなったので(船引運河を出たあと)外海に出ると危険です。そこで,予定のコースが運航できないので,船長判断で途中で引き返すことになりますが,それでもよろしいですか?
隠岐諸島の外海の厳しさがわかりました。よほどの凪でなければ,この定期観光船の目玉である「明暗の岩屋」には入れないのですが,それどころか,この日は近づくこともできないわけでした。それでも,せっかくなので,乗船することにしました。乗客は,私のほかには,ポーランドから来たという数人の人だけでした。
定期観光船「くにが」は,船引運河を出て,外海に出ると,揺れが激しくなりましたが,何とか摩天崖までは行くことができました。通常のコースだと,このあと,3つの洞窟をくぐることになるのですが,これはかないませんでした。

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隠岐諸島・島前・西ノ島の西海岸は,国賀海岸という名勝です。まず行ったのが,前回書いた摩天崖ですが,次に行くのが,通天橋でした。とはいえ,海岸沿いに道路が続いているわけでないから大変なのです。少し引き返し,再び海岸線に向かって進むと,国賀海岸駐車場という広いところに出ました。
驚いたのは,駐車場から通天橋ははるかかなたの海岸だったことで,そこに行くには,どんどんと坂道を下る必要があったことです。坂を下る,ということは,帰りはその道を上るということになります。例年だと,この時期の壱岐諸島はもっと涼しいのですが,この年は例外で,酷暑だったので,いやになりました。とはいえ,行かなければどうにもなりません。
意を決して降りて行きました。
すると,すばらしい絶景が広がってきました。これこそが,隠岐最大の景勝地・国賀海岸にある代表的な奇岩,通天橋でした。「国賀海岸の天上界」といわれます。

  ・・・・・・
通天橋は,海に大きくせり出した巨大な岩の架け橋です。岩石の中央部が海蝕作用によってえぐりあけられたもので,大自然が創り出した造形の妙です。
約7キロメートルにわたって粗面玄武岩の海蝕崖や海蝕洞が続きます。
  ・・・・・・
ここからさらに,前回書いた摩天崖まで遊歩道が続いてます。この遊歩道は,「一生に一度は訪れたい遊歩百選」で,遊歩道の真ん中からすばらしい摩天崖の姿を見ることができるそうです。また,海食崖や海蝕洞,離れ岩,波食台といったダイナミックな海岸風景は,島前カルデラ外輪山の外壁が冬場の季節風と荒波を受けて浸食されてできたものです。
通天橋は,自然が造り出した天然のアーチ橋ですが,これがさらに浸食が進んでアーチ部分が落ちると離れ岩となっていきます。
遊歩道は,すべて歩き通すと70分ほどかかります。先に来ていた人に歩くことを勧められたのですが,この暑さ,また,70分かけて摩天崖までいったところで,車は国賀海岸駐車場にあるのだから,また戻ってこなくはなりません。ということで,残念でしたが断念しました。
下りてきた坂を上がっていくと,駐車場でどうしようか迷っている人を見かけましたが,絶対下りるべきだと薦めました。この風景を見ずして,隠岐は語れません。

私は,駐車場に戻って,今度は,その少し南にある赤尾展望所に向かうことにしました。その途中,道の真ん中に馬がいたり牛がいたりして,大変でした。何とか迂回して赤尾展望所にたどり着きました。
その先,さらに進むと,鬼舞展望所がありました。
そのどちらからも,360度の絶景を見ることができました。

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隠岐,といって連想する風景は,おそらく,この摩天崖でしょう。日本海の荒波にもまれた岸壁は,側面の縞模様をさらしてそびえ立っていますが,崖の上は,一転して,穏やかな牧草地が広がりっているという,美しくなだらかな緑の平原とナイフで切り落としたかのような断崖絶壁が生み出すダイナミックな景色がここにはありました。
  ・・・・・・
摩天崖は,海抜257メートルの大絶壁で, 海蝕作用によって出来た崖では日本有数の高さを誇ります。
周辺一帯は放牧地で,牛馬がのんびり草を食む姿が見られます。
約7キロメートルにわたって粗面玄武岩の海蝕崖や海蝕洞が続き,大山隠岐国立公園に指定されている隠岐最大の景勝地です。 季節問わず絶景です。
  ・・・・・・

西ノ島の西海岸に面した摩天崖は,山に向かう狭い道路をくねくと上って行った先にありました。何だこれは! と思いました。日本では,こうした風景を日本離れした,という表現を使ったりしますが,まさに,ここは日本でないような感じさえしました。
車を駐車場に停めて,柵を越えて歩いて進みます。これだけの絶景なのに,ほとんど観光客がいないのが,また,いいです。というか,この島を観光するのに,1日に2便ほどのバスがあるとかいう話ですが,実際,車がないとどうにもなりません。
先端まで行ったら,大学生がふたりいました。電動自転車で登って来たという話でした。元気というか,何というか…。私には考えられませんでした。

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前回書いたように,島前1日目,この日に西ノ島の見どころをすべてまわることになった私は,フェリーを降りて,港の真ん前にあったレンタカー会社の窓口でさっそく車を借りて,さあ,出発です。
レンタカーにはカーナビがついていたのですが,親切なことに,島前の観光地のすべてにコードがふられていて,そのコードを入力するだけで案内してもらえるようになっていました。
レンタカーは軽自動車ですが,それがまあ,走らないこと。坂ばかりの西ノ島では,ウーウーうなりながら,いくら加速をしても,時速30キロメートルしか出ないのには閉口しました。

まず私が行きたかったのは,黒木御所阯で,別府港にのぞむ天皇山という小高い山の頂にあったので,すぐに着きました。
黒木御所阯は,隠岐へ配流された後醍醐天皇が脱出までの1年余りを過ごした場所と伝えられています。しかし,すでに書いたように,この伝承に対して,島後の国分寺を行在所とする説があります。
まず,入口にあった碧風館(へきふうかん)という資料館に入って,天皇に関する資料,黒木御所跡の伝承にまつわる文書,絵画などを見てから,奥に進みました。階段を上ると黒木神社がありました。

次に行ったのが,焼火神社(たくひじんじゃ)でした。海抜452メートルの焼火山の中腹にある焼火神社は,日本海の船人に海上安全の神と崇められています。旧暦12月30日の夜,海上から火が3つ浮かび上がり,その火が巌に入ったのが焼火権現の縁起とされています。
ここに行くには,別府港から,けっこう険しい山道を馬力のない軽自動車でつらそうに登ったところに駐車場があって,そこからさらに,この暑い中,15分も歩く必要がありました。
やっと見えた社殿は1732年(享保17年)に改築されたもので,隠岐諸島の社殿で最も古いものとされています。

その次に目指したのが,西ノ島最大の見どころである摩天崖でしたが,行く途中にあったのが由良比女神社(ゆらひめじんじゃ)でした。由良比女神社は,創建は不詳ですが,842年(承和9年)に,島前・中ノ島の宇受加神社,島後の水若酢神社とともに,官社に預かりました。また,平安末期には隠岐国の一ノ宮と定められていました。
由良比女神社に面した浜辺は「イカ寄せの浜」といい,現在,イカ漁を再現する看板があります。
この社は,元は知夫里島の鳥賊浜にありましたが,由良比女命が苧桶に乗り海を渡って西ノ島に来たとき,海に手を浸したところ美しき姿を見たイカが噛みつきました。その非礼をわび,イカが寄るようになったと伝えられています。実際,明治,大正から昭和20年代にかけて,この地の浜にイカが押し寄せたので,浜辺に30軒くらいの番小屋が建ち並んでいました。

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Lycoris radiata.

秋の気配。
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この旅を計画したときにやっておいたことは,西ノ島の別府港の近くに旅館を2泊予約したことと,レンタカーの予約をしたことでした。
島前には,午前10時5分に着いて,それから2泊して,最終日は午後3時45分別府港発の「おき」で本土に帰ることにしてあったから,2泊3日,たっぷり時間があるとばかり思っていました。
いつもの旅ならこれだけの準備で旅に出るのですが,私の考えは甘かったのです。

島前は,事前にきちんと計画をしておかないと3つの島をめぐることが難しいことにやっと気づき,出発する少し前,細かい予定を立てようと思った私は,フェリー「どうぜん」の時刻表をみながら,絶望的になっていました。
その理由は,フェリー「どうぜん」で西ノ島の別府港からレンタカーを知夫里島の来居港(きいるこう)に運んで観光するには,行きは午前9時20分別府港発,帰りは午後3時57分来居港発の一択しかない,ということでした。これには愕然としました。
つまり,私は,2泊3日のうちで,2日目に知夫里島に行くしか選択肢がないのです。かといって,車がなければ,知夫里島の観光なんて不可能です。しかし,こんな狭い島,6時間以上も滞在してどうするのだろう? と思いました。
また,西ノ島の別府港から中ノ島の菱浦港へは,3日目の最終日だと,行きは午前7時50分,午前8時40分のいずれかのフェリー「どうぜん」があるけれど,帰りは,別府港から本土の七類に戻るフエリー「おき」が午後3時30分の出航なので,さすがに午後3時に中ノ島の菱浦港発で午後3時15分に西ノ島の別府港に戻っていてはむりだから,午後2時に中ノ島の菱浦港発に乗る必要があるのです。
あるいは,島前1日目に中ノ島へ渡って観光し,最終日の3日目に西ノ島を観光するという方法もあるのですが,私が,フェリー「しらしま」で西ノ島の別府港へ着くのが午前10時5分で,西ノ島の別府港から中ノ島の勝浦港へ行くフェリー「どうぜん」は,最も早くても午前12時35分の出航だから,待ち時間が長すぎて,これも現実的でないのです。
そんな事情で,結局,別府港に着いた日,つまり,島前1日目は西ノ島を観光して,2日目は知夫里島を観光し,最終日3日目に中ノ島へ行くしか選択肢がないということでした。

いずれにしても,フェリーに車を乗せて運んだのはいいけれど,帰りのフェリーが満員で車を乗せられなかったらどうなるのだろう? という心配もありました。住んでいる人にいろいろと聞いてみたら,満員なんてありえない,と言われました。また,万一満員だったら,車だけ置いてきて人だけ戻ればいいと,レンタカーを借りるときに言われました。こうしたこともまた,「地球の歩きからJAPAN・島旅」には書いてありません。
このように,2泊3日もの日程で,島前を観光するだから,余裕余裕,と思っていたのに,こんな唯一の方法しかない,また,不確定要素ばかり,なんて,まさに,来れるものなら来てみろ,という感じでした。
難解なパズルを解くような島前ですが,果たして,どうなったのか? 私はどんな島めぐりをしたのか? 意外な展開をするこれからの旅をお楽しみに。

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