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日新館天文台跡は鶴ヶ城の西にあって,こんなマニアックな場所はほとんどの人にはまったく興味はないから,まちなか周遊バスのコースではありませんでした。そこで,その場所まで歩く必要があったのですが,こうしたはじめての町を歩くのは,とても楽しいものです。
次に目指したのが,鶴ヶ城からは,はるか東にある御薬園(おやくえん)でした。途中からまちなか周遊バスのコースになるので,そのあたりでバスに乗ればいいかな,と思っていたものの,結局,歩き通しました。
幸い,この日は天気もよくとても暖かでした。
御薬園へ行く途中で見つけたのが,田中玄宰(たなかはるなか)の屋敷跡でした。田中玄宰は江戸時代後期の会津藩家老で,会津藩5代藩主・松平容頌(かたのぶ),6代藩主・松平容住(かたおき),7代藩主・松平容衆(かたひろ)に仕えた偉い人です。天明の大飢饉の窮地を乗り越えるため,殖産興業の奨励を図り,今日の会津地方の伝統産業の基礎を築くなど,高く評価されたそうです。
そして,県道64号線沿いには,若松城の土塁が今も残っていました。
30分程度歩いて,やっと御薬園に着きました。
見どころということでやってきた御薬園ですが,私は御薬園が何か知りませんでした。御薬園は藩主の庭園でした。
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約635年前,この地に住む喜助が病気で難儀していました。朝日保方(あさひやすかた)という白髪の老人が鶴の舞い降りた泉の水で喜助を介抱し,喜助はもとのからだに戻りました。喜助は疫病から救ってくれた恩人として,朝日保方を霊泉の傍らに手あつく葬り,祠をたてて朝日神社とし,霊泉の泉を鶴ケ清水と名付けたということです。この祠は今も御薬園にあります。
1432年(永享4年),当時の10代当主・葦名盛久(あしなもりひさ)は,この地は霊地であるとして別荘を建て,16代当主・葦名盛氏(あしなもりうじ)は別荘を復興,これが御薬園の創始とされています。
その後,永い戦乱で別荘はまったく顧みられませんでしたが,初代藩主・保科正之は霊地の由緒を正して庭園を整備し,保養所として用いるようになりました。2代藩主・保科正経(まさつね)は、貧しい領民を疫病から救い,病気の予防や治療などを施したいとの願いから,園内に薬草園を設け,各種の薬草栽培を試みました。
現在の庭園は3代藩主・松平正容(まさかた)の時代,1696年(元禄9年)に小堀遠州の流れを汲む園匠目黒浄定(めぐろじょうてい)と普請奉行辰野源左衛門(たつのげんざえもん)の手に成るもので,規模を拡大し借景を取り入れた池泉回遊式の大名庭に大補修を加えたものです。
周囲約540メートルの長方形で面積は1.7ヘクタール,約5100坪あり,北に千古の雪を頂く飯豊の霊峰や,東には磐梯の秀峰と背あぶり山・東山の連山が望まれた借景のすばらしい庭園として造られました。
また,薬園が整備拡充され,朝鮮人参を試植し,これを広く民間に奨励したことから,領民からお殿様の薬園,御薬園(おやくえん)とよばれるようになりました。
戊辰戦争後,維新政府は御薬園を没収し官有地としましたが,これを憂いた現在の若松市柳原町の豪商・長尾和俊は,会津一円に募金を呼びかけて買い戻され、旧藩主の所有となりました。
1932年(昭和7年)国の名勝に指定され,1953年(昭和28年)から一般に公開されました。
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御薬園は,中央に心字池がある池泉式回遊式大庭園で,思った以上にすばらしいところでした。ここは,大河ドラマ「八重の桜」のロケ地となったところでもありました。心字池の周りを歩くようになっていたので,景色を眺めながら歩きました。心字池の中央に亀島と楽寿亭,池の西側に御茶屋御殿,庭園北側に藩政時代の薬草栽培地跡を利用した薬用植物標本園がありました。
少しだけ雪が残り,それはそれはすばらしい雰囲気でした。
池泉式回遊庭園の池の水源は,猪苗代湖と東山の湯川の2系統から引き入れているということです。
ひときわ目につく数寄屋造りの楽寿亭は,主として藩主や藩重役等の納涼や観光の場であり,茶席や密議等の場としても使われていたようです。楽寿亭の命名は保科正容によるもので
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松平正容は,平素から政務は「仁」と「知」が大切であるといい,「仁知」の2字を座右の銘としていました。時折り御薬園に来て山水を見ていましたが,それは,自然の造化のなかにも「仁」者の「寿」と「智」者の「楽」のあることを感じ「楽寿亭」の名をつけた
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といいます。
このすばらしい庭園に訪れていたのは,私のほかにひとり女性がいただけでした。が,その女性は,奇遇にも,鶴ヶ城で一緒にボランティアガイドの説明を聞いた人でした。
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「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは