しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

February 2024

IMG_1737IMG_1716IMG_1717

######
 東海道五十三次の41番目の宿場である宮宿は熱田宿ともいわれ,熱田神宮の門前町でした。
 人混みのきらいな私は初詣にも行かないから,地元に住んでいながら,近年,熱田神宮に行ったことがありませんでした。子供のころには,初詣に連れていかれたから,そのころは行ったこともあるのですが,ものすごい人混みに中を単に社殿と往復しただけで,何も見ていないのです。熱田神宮には,信長塀というものがあるそうなのですが,それすら,まったく記憶になく,一度見てみたいと思っていたのです。
 とはいえ,熱田神宮のまわりには,西に国道22号線が,東には県道226号線が走り,JRの熱田駅と名鉄の神宮前駅があるから,このあたりを通ることはまれではありません。しかし,車で通る限り,さびれ感満載で,見える風景は悲惨なものです。名鉄の神宮前駅のあたりはデパートも閉店し,駅前の商店街はほぼシャッター街だし,壊れかけの民家が並んでいます。また,熱田神宮には,「きよめ餅」という名物もあるのですが,その店舗も古いままで塗装も剥がれているし,「宮きしめん」という食事処も熱田神宮の中にあるようですが,そういえば,近年,私は,きしめんすら,食べたことがありません。何でも「きしめん離れ」が叫ばれている状況だそうで,近ごろは,名古屋メシとやらが全国的に有名なのですが,その中に,果たしてきしめんが候補にあるのやらないのやら…。

 ということで,車で通り過ぎるだけではよくわからないので,かねてから,一度,電車に乗って熱田神宮に行って,きちんと現在の姿を見てみようと思っていました。そこで,2024年2月17日に東海市芸術劇場で大西順子ソロピアノコンサートに行くついでに,思い立って行ってみたのです。
 名鉄の神宮前駅で降りました。神宮前駅は再開発の途上で,東口は新しくなったようですが,私がよく目にする西口は工事中でした。今から40年ほど前までは,そのとなりの金山駅もひどいものでした。名鉄の駅は坂の途中にあるし,JRに至っては,駅すらありませんでした。それがいつしかひとつにまとめられ,総合駅となりました。しかし,神宮前駅は,依然として不便なままなのです。神宮前駅は,JRの熱田駅と離れていて,しかも,JRの熱田駅は駅舎が西側にしかありません。そこで,名鉄の神宮前駅の東口をいくら整備しても限度があるのです。ここもまた,名鉄とホームを平行にして,総合駅にすればずいぶんと便利になるのになあ,と思いますが,名古屋人にはそんな投資をする意欲もありません。まあ,もしもしできても,私の寿命がありません。
 このごろ東京や大阪によく行く私には,それに比べて,大都市(だと思う)名古屋は,あまりにもド田舎です。鉄道インフラがひどすぎるのです。名鉄は名古屋駅も未だに乗換駅の体すら成していませんし,地下鉄のなごや駅はホームが狭すぎて,人がごった返しています。
 観光で名古屋に来る人は,鉄道インフラを利用してみれば,名古屋がどういう都会かということがたちどころにわかり,名古屋人気質が理解できることでしょう。

◇◇◇


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_4896shiroshige053_main

######
 しばらく家っていなかった旧街道歩きですが,そろそろ復活しようと思うようになりました。天気のよい日,最寄りの駅まで列車で行って,2,3時間,10キロメートルくらい歩いて,地元のおそば屋さんでお昼を食べて,帰りにカフェに寄る,といった1日を過ごすのです。
 そんな旧街道歩きをすると,いろいろとわかってくることがあります。
 日本各地を旅行していると,歴史が可能な限り保存されている町もあれば,そのほとんどが残っていない町があったりします。同じように,旧道街道にある宿場は,概して,静岡県は,どこも整備されていて,また,案内もしっかりとしていますが,愛知県はだめです。これもまた,県民性,というのでしょうか。
 そんな愛知県ですが,有松宿だけは,昔の面影をずいぶんと残しています。となりの池鯉鮒宿や鳴海宿がほとんど何も残っていないのとは対照的です。しかし,私にはあまりに近すぎで,これまで行ったことがありませんでした。そこで,少し時間があったので,先日,歩いてみました。

  ・・・・・・
 そめくて あけも美とりも 有松の 里の栄は 色にても知れ
   磯丸
  ・・・・・・
 磯丸は無名ですが,案内板によると
  ・・・・・・
 伊良湖村の漁夫で通称新之丞。貧窮のため母を医者にも診せることができず,3年間伊良湖崎神社へ平癒祈願に日参し,献額の古歌に興味を持ち,40歳のころから文字を覚え,仮名文字や和歌を能くした。
 郡奉行湯元彦馬がこれを賞揚し磯丸の名を与える。
 1811年(文化8年)京都柴山持豊に入門,粕屋貞良と名を改める。一般庶民ながら天皇御出の新嘗祭に紫雲殿に参殿の栄に浴す。当時極めて稀なことである。
  ・・・・・・
とありましたが,史跡としては,これくらいのものでした。
 有松宿には,どの宿場にもある本陣跡を探してみてもないので調べてみると,有松宿という名前すら東海道五十三次にはなく,有松宿は,39番目の池鯉鮒宿と40番目の鳴海宿の間にある間宿(あいのじゅく)でした。
 間宿では宿泊することは許されないので,旅人相手の商売には限界がありました。そこで,武田庄九郎が九州豊後の絞染の技法をこの地にもたらし,近郊の手織り木綿の技術と結びついて「有松絞」が発展したということです。現在,有松宿が当時の姿を残しているのもまた,観光客に来てもらうために有松絞りをブランドにするためなのでしょう。
 ぶらぶらと歩いていたら「寿限無茶屋」という名前のおそば屋さんがあったので,昼食をとって,満足しました。
 なお,歌川広重の描いた浮世絵「東海道五十三次」で描いた40番目の宿場「鳴海宿」は,実際は有松宿の姿です。

DSC_4900sDSC_4901DSC_4902DSC_4903DSC_4906DSC_4911IMG_1392IMG_1396


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

USA1998 (9)DSCN1542DSCN1548

######
 アメリカへよく出かけていたとき,興味をもったのがベースボールのマイナーリーグでした。
 アメリカでは,プロベースボールのすそ野が広く,ルーキーリーグからはじまり,1A,2A,3Aとあって,その上位にメジャーリーグが存在します。国が広いので,マイナーリーグも全国の中小都市にまたがってしますが,特に,多くのチームがスプリングキャンプを行うフロリダ州に多くのチームがあります。
 私は,今から30年近く前,夏にフロリダ州をドライブしたとき,毎晩のようにマイナーリーグのゲームを見ました。夜,走っていると,大平原の向こうに明かりが見えてくるのですが,それがそれがマイナーリーグのゲームなので,思わず寄ってしまうのでした。
 メジャーリーグとは違って,スタジアムも小さく,観客席もさほどいないのですが,それでも,ちゃんとした娯楽興行で,楽しいものでした。

 日本では,マイナーリーグは2軍といって,1軍の予備的な扱いとなっていて,若手の修行の場やベテランの調整のために存在しているという位置づけで,ファンを対象としたものではありませんでした。
 現在は,2軍の扱いは,チームによってずいぶんと違うようです。アメリカのベースボールを手本にして野球をショービジネス化しようと力をいれている日本ハムのようなチームでは,2軍もそれなりにファンサービスに力を入れているようです。その一方で観客席もないようなところでゲームをしていたりする場合もあります。私は,アメリカのマイナーリーグを見て,日本ももっと2軍戦を大々的に宣伝して,特に,子供たちを無料で入れたり,選手のサイン会でもやればいいのに,と思っていました。

 ということを書こうと考えながら調べていると,なんと,つぎのような情報を手に入れました。
  ・・・・・・
【プロ野球2軍 2024年から14球団へ】
 プロ野球の2軍の公式戦に2024年から新たに静岡,新潟のふたつの球団の参加が内定しました。 
 「ハヤテ223(ふじさん)」と「新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ」です。
 2軍の公式戦は,イースタン・リーグ7球団とウエスタン・リーグ5球団にわかれて行われていますが,野球のすそ野を広げることを目的に,2軍の試合に参加する新たな球団を公募し,その結果,オーナー会議で,静岡市を本拠地とする球団の創設を目指す「ハヤテ223」と,独立リーグ BCリーグの「新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ」のふたつの球団が2軍の試合に参加することが内定しました。
  ・・・・・・
 新規に参加する球団の選手でこれまでプロ野球でプレーしたことがない選手が12球団に入団するためには、ドラフト会議で指名される必要があるということです。それ以外の選手については、人数を制限した上で、シーズン中に12球団へ移籍することも可能になる見通しだということです。

 新球団の地元で様々な球団との試合を見てもらおうと、来シーズン、2軍の公式戦で既存の12球団がリーグを超えて新球団の本拠地を訪れて試合を行う日程が組まれることになりました。 これまでもリーグを超えて戦う交流戦は行われていますが、1軍と異なりチームによって試合数にばらつきがあり、シーズンによっては組まれないカードもあるのが現状です。

 私は,アメリカのマイナーリーグを見にいくのは,今では難しいので,日本の2軍戦でものんびり見にいきたいなあ,と思ったりします。大相撲でも,幕下の取組を見ることがおもしろいように。

K10014210561_2309291625_0929163232_01_03


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_7185

######
 午前中は葦毛湿原(いもうしつげん)へ行き,お昼に老舗「きく宗」で菜飯田楽を食べ,残るは旧東海道を歩いて,吉田城址に行くことでした。豊橋市は浜松市と同じような感じでしたが,やたらと観光客が多い浜松市とは違い,観光地でない豊橋市は観光客もおらず,天気のよい週末にふらりと出かけるには絶好の場所でした。
 豊橋市は,三河人の気質なのか,大きな文化施設もなく,これといった観光施設もなく,また,産業といっても,特に,というものもないから,イケイケな雰囲気でもなく,逆に言えば落ち着いた町でした。浜松市と似ているのは,交差点を渡るには,歩道橋しかないというような,一世代前の,弱者に対するいたわりのないことでした。人口も減少傾向だそうです。

 私は,「きく宗」から歩いて,吉田城址を目指しました。途中,吉田宿の本陣跡や西東惣門跡などがありましたが,都会の中心部でもあり,宿場の雰囲気はほとんど残っていませんでした。しかし,人通りも少なく,また,きれいな町でした。
 やがて,豊橋市役所に着きました。ここは,週末でも最上階の13階に展望台があって,昇れるということだったので,行ってみました。おそらく,ここが,豊橋市で最も高い場所なのでしょう。とても見晴らしがよいところでした。
 豊橋市役所の北側が吉田城址でした。
  ・・・・・・
 1505年(永正2年)今川義元の親である今川氏親は,三河の松平氏を抑えるため,牧野古白(こはく)に命じ今橋城を築かせました。戦国時代,今橋城は,激しい攻防が繰り返されるなか,名称を吉田城と改めました。1564年(永禄7年)徳川家康が吉田城を攻略し,城主に酒井忠次を置きました。
 1590年(天正18年)徳川家康の関東移封によって,池田輝政が入城し,城地の拡張や城下町の整備を行いました。その後は,財政的要因のため,完全に整備されないまま明治を迎えました。
 明治維新による版籍奉還で,敷地は兵部省の管轄となり,1873年(明治6年)に失火により多くの建物が焼失してしまいました。
 太平洋戦争後,三の丸内側は一部を除き豊橋公園として整備され,本丸には1954年(昭和29年)に鉄櫓(くろがねやぐら)が再建され,中は資料館となっています。
  ・・・・・・
 吉田城の外周は東西1,400メートル,南北700メートルで,本丸の内側,門周辺,及び,豊川に面した側が石垣となって今も残っています。鉄櫓は無料で,小規模ながら,景色もよく,なかなかのものでした。
 
 これで,今回の目的は達成できたので,市電に乗って豊橋駅まで行って,そこから名鉄電車に乗り換えて帰ることにしました。
 市電の駅に向かう途中で目にしたのは,安久美神戸神明社(あくみかんべしんめいしゃ)の豊橋鬼祭でした。いつものとおり,何と奇遇なことか! 私はいつもこんな具合です。そこで,ちょっとだけ安久美神戸神明社に寄ってみることにしました。
  ・・・・・・
 939年(天慶2年)坂東で平将門の乱が起き,朝廷は,参議の大伴保平を勅使として東海の伊勢神宮へ派遣し関東平定を祈願しました。翌年,平将門の乱は平定されました。そのお礼として,朱雀天皇が豊川左岸の安久美荘を伊勢神宮へ寄進したことで,安久美神戸(あくみかんべ)という名の神領地(=神戸)となり,その屋代(やしろ)として創建されたのが安久美神戸神明社です。
  ・・・・・・
 豊橋鬼祭は,毎年2月10日から11日にかけて行われる 安久美神戸神明社の春の例祭です。
 荒神である赤鬼を天狗が退散させ,天下を清める様子を具現化した「赤鬼と天狗のからかい」で知られ,赤鬼が浄罪として撒き散らすタンキリ飴の飴粉で見物客は全身を真っ白に染められることから「天下の奇祭」と称されるそうです。

DSC_7140DSC_7142DSC_7143DSC_7152DSC_7167DSC_7182DSC_7060DSC_7200DSC_7196

◇◇◇
IMG_4974


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_7120

######
 私は菜飯田楽(なめしでんがく)が好物です。
 名古屋市内にも「鈴の屋」という菜飯田楽を提供するチェーン店があります。しかし,年配の人には人気でも,若い人にはそれほどでもないようで,店舗も減っており,若干,斜陽気味です。これもまた,名古屋メシとして売り出せばいいと思うのですが,実は,菜飯田楽は名古屋メシというよりも,豊橋付近の名物料理のようです。我が家の近くにも田楽を出す店はあるのですが,そこでは菜飯が食べられません。
 菜飯田楽を提供する店が少ないので,どこかおいしい店がないものかと調べていると
  ・・・・・・
 平安時代末期,中国から豆腐が伝来し,拍子木型に切った豆腐を串刺しにして焼いた料理が生まれました。やがて,味噌がすり潰されて調味料として使われるようになり,焼いた豆腐に味噌をつけた料理が流行しました。白い豆腐を串にさした形が田植えのときに田の神を祀り豊作を祈願する田楽の白い袴をはき一本足の竹馬のような高足に乗って踊る田楽法師に似ているため「田楽」の名になったといいます。
 菜飯田楽は,米の飯に大根葉を乾燥させ炊き込んだものと田楽を合わせた料理です。
 東海地方では菜飯田楽を出す店が多く,特に,1820年ごろの文政年間創業の「きく宗」は,吉田宿の名物料理であった赤味噌の豆腐田楽と菜飯をセットにした菜飯田楽を地元の名物料理として提供しています。
  ・・・・・・
とあったので,これはぜひ一度は食べてみたいと,わざわざ行ってみました。

 店があったのは,旧東海道の吉田宿本陣の近くでした。
 1945年(昭和20年)の豊橋空襲で店舗が全焼しましたが,翌年には営業を再開したといいます。また,1968年(昭和43年)に,矢作ダムに沈む古民家を買い取り,当地に移築したのが,現在の店舗だそうです。
 午前11時30分からということで,その15分前に着いたのですが,すでに10人ほどが列を作っていました。間口が狭く,時間がかかるかな,と思ったのですが,奥行きがあって,すぐに中に入ることができました。メインメニューは菜飯田楽のみということで,それを注文しました。しかし,料理が出てくるのに30分ほど時間がかかりました。
 豆腐田楽はおいしかったのですが,他の店で食べたものより,菜飯が少しばかりべたべただと私は思いました。まあ,もともとそういうものなのかもしれませんが。

DSC_7131DSC_7147DSC_7129DSC_7109DSC_7115DSC_7135

◇◇◇
IMG_5071IMG_1144


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_7100DSC_7095

######
 葦毛湿原(いもうしつげん)は,期待したのとは違って,やたらと立て札やロープが多くて,雄大なイメージがありませんでした。日本は,自然を破壊することにかけては天下一品です。花が盗まれたり,荒らされたり,ゴミが捨てられていたりと,アメリカと比べると,公園やキャンプ地を訪れる人に道徳心がないのです。日本人は,一見従順そうですが,それは人の目を気にしているだけのことで,人が見ていないと,突如,傍若無人に変身するのです。そんな国で,貴重な生物を守ることは並大抵なことではありません。私も,以前,秋,彼岸花が美しく咲く私の家の近くの公園で,隠れて彼岸花を切り取っている女性を見つけて,悲しくなったことがあります。
 葦毛湿原がどんなところかわかったので満足して,バスで,次の目的地である吉田城へ行くことにしました。バスは30分に1本ありました。

 バスに乗りながら,外を見ていると,大きな池が目に留まりました。そこは向山緑地でした。向山,といえば,私は思い出したことがあるのです。そこで,この場所で降りることにしました。
  ・・
 その昔,金子功という人がいました。私もお会いして話をしたことがあります。
 金子功さんは,若いころは軍に勤務していました。自由な気風を求める金子功さんは,戦争が終ると「ようやく自由にモノが言えるようになる」と晴れ晴れし,前日まで「鬼畜米英」と叫んでいた人たちが「我こそは民主主義の先導者である」と 臆面もなく宗旨替えをするのを見て,自分はそんな恥ずかしいことはできない,「野武士の生活」をしながら社会を変革していくのだと,映画の巡回を行ったり文化講演会を開催したりするようになりました。
 やがて,天文教育を通じて社会貢献ができないかと考えるようになります。生活の糧を得るために天文教具を製作,販売することで蓄えができ,1952年(昭和27年)豊橋市の向山の地に200坪ほどの土地を入手し,口径15センチメートルの反射望遠鏡を備えたスライディングルーフ式の天文台を建設し, 天文台と集会室,プラネタリウムを備えた施設に豊橋向山天文台の看板を掲げました。
 私は,向山という地名だけは知っていました。しかし,それがどこなのか,私はまったく知らなかったのですが,その地がここだったのです。その後,向山は街の灯りで星の観測ができなくなり,北設楽郡東栄町の廃校になった小学校の場所に天文台を開設し,御園天文台としました。御園天文台のことは,以前,このブログに書きました。今は,豊橋向山天文台は存在せず何の痕跡もないのですが,場所は愛知県立豊橋東高等学校のすぐ近くで,学校の校門から左手に行ったところを左折して道路伝いに歩いて行ったところでした。

 私は,長年疑問に思っていた向山という場所をこうして知ることができたわけで,これでまたひとつ,子供のころからの「伏線回収」に成功しました。このごろ,こんなことばかりしています。
 いずれにしても,古きよき,ときめき多き時代でした。今や,画像のデジタル化とAIの進歩で,そんな天文台があったとしても,使い道がありません。夢のない時代になってしまいました。

DSC_7096DSC_7099 eb380e29

☆☆☆
DSC_5775DSC_5776DSC_5777FullSizeRender


◇◇◇


◇◇◇
Snow Moon 2024.

昨日,月の南極近くのクレーター「Malapert A」にアメリカの月探査機「Nova-C」が着陸しました。
DSC_0454s


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_7160DSC_7068

######
 豊橋駅から北東に20分ほど歩くと,旧東海道の吉田宿本陣や吉田城があります。私が菜飯田楽を食べようと思っている老舗「きく宗」もそのあたりにあるようです。しかし,葦毛湿原(いもうしつげん)は豊橋駅からずっと東に行ったところなので,歩いていくには遠すぎます。
 そこで,まず,バスで葦毛湿原へ行って,帰りに再びバスに乗って,吉田城へ寄ることにしました。
 駅前にバスターミナルがありました。駅から出るとそこは2階で,バスターミナルは地上階でした。戸惑いながらバス停に着くと,その直前に,私の乗るべきバスが出発してしまいました。そして,次のバスまで30分ほどありました。まあ,急ぐ旅でもないので,次のバスが来るまで駅周辺を散策することにしました。そうこうしているうちに,出発時間のかなり前にバスが来たので乗り込み,出発時間までバスの中で待ちました。
 豊橋市の市内交通は,豊橋市営バスというものはなく,民営の豊鉄バスが路線バスを運行し,豊橋鉄道が田原市までの渥美線という鉄道と路面電車を走らせています。豊鉄バスは豊橋鉄道の小会社で,豊橋鉄道は名鉄グループです。
 不思議なことに,豊橋鉄道はICカードが使えるのですが,豊鉄バスは現金しか使えません。東京ならどこへ行こうと何に乗ろうと現金など全く不要ですが,地方都市に行くと,今なお現金社会で,急に昭和に戻ったような気になります。私は,普段はまず現金は使いませんが,こんな理由から,旅に出ると現金,特に小銭が欠かせないので,旅に出るとき専用の現金がたくさん入った財布を持ってきます。

 以前から葦毛湿原という名前だけは知っていましたが,行ったことはありませんでした。
 場所は,豊橋駅からバスで30分程度も行ったところでした。私の乗ったバスは,はじめのうちは10人程度の乗客がいましたが,途中から私以外にだれもいなくなりました。やがて,葦毛湿原のもよりのバス停に着きました。葦毛湿原はそこからさらに10分程度歩いたところに入口がありました。
 だれもいないのかな,と思ったのですが,土曜日ということで,数人のハイキング客がいました。この人たちの目的は,葦毛湿原ではなく,それに続く自然歩道の散策のようでした。市内から近いので,地元の人には絶好の散歩コースなのでしょう。
  ・・・・・・
 葦毛湿原は,チャートの岩盤の上を流れる湧水によってできた湿地で,東海地方では最も大きいものです。春のミカワバイケイソウ,秋のシラタマホシクサをはじめ,四季を通して多数の花が観察でき,「東海の尾瀬」として多くの人が訪れます。
 一帯は,標高75メートルから60メートルくらいの小高い山の緩やかな斜面にあって,広さは約5ヘクタールと,プロ野球のグランド程度です。木の遊歩道が作られていて,湿原を1周することができます。
  ・・・・・・
 葦毛湿原は,「東海の尾瀬」とよばれているようですが,尾瀬は植物が長年にわたり堆積してしっかりとした水量を蓄えた湿原ですが,葦毛湿原は渇水の季節には水枯れのようになることもあります。また,後背丘陵地の森林化や夏期の少雨によって,近年,乾燥化が進んでいて,保全のための努力が続けられているそうです。

 もっと暖かくなれば多くの花が見られるのでしょうが,この日見ることができたのは,シラタマホシクサだけでした。
  ・・・・・・
 シラタマホシクサ(Eriocaulon nudicuspe)は,日本の固有種で東海地方の一部地域の湿地などに生えるホシクサ科ホシクサ属の1年草。葦毛湿原が生息地のひとつです。環境省のレッドリストの絶滅危惧II類(VU)に指定されています。
 花茎の先端に直径1センチメートル程度の小さな花をつけ,白い玉のように見えます。
  ・・・・・・

DSC_7059DSC_7061DSC_7094DSC_7064DSC_7065DSC_7066DSC_7071DSC_7072DSC_7083


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_6509

######
 NHKBSで放送がはじまった「舟を編む〜私,辞書つくります〜」がおもしろいです。
 あらすじは
  ・・・・・・
 元読者モデルで出版社編集部員の岸辺みどり。担当していたファッション誌の廃刊が決まり,突然辞書編集部への異動を言い渡されてしまう。みどりを待ち受けていたのは,超まじめな上司・馬締光也をはじめとする,クセの強いメンバーたち。
 彼らは一冊の辞書「大渡海」編さんのために,並々ならぬ情熱と十数年にわたる歳月をかけていた。
  ・・・・・・
というものです。
 「舟を編む」は三浦しをんさんの原作で,2011年に単行本が発売されました。そして,その2年後に映画化もされて,私は,当時,原作も読んだし,映画もみました。
 原作とそれに基づく映画は
  ・・・・・・
 「玄武書房」の社員たちが,「大渡海」という広辞苑レベルの中型事典の編纂にかけた10年以上もの作業と,その間に起こった人間模様を描く。
 大学院で言語学を学んだがコミュニケーション能力ゼロの若手社員馬締光也が,辞書作りを通して,コミュニケーションの大切さを知り,体現していく。
  ・・・・・・
というもので
  ・・・・・・
 時は1995年。「玄武書房」の辞書編集部では,編集者の荒木が,定年と妻の病気を理由に部署を去ろうとしていた。荒木に代わる編集者として見つけたのが,大学院で言語学を学んだオタク風のコミュニケーション力など皆無の馬締。馬締に「右という言葉を説明してみろ」と言うと、ぼそぼそと「西を向いたとき北に当たる方」と答える。彼の言語感覚に感心して,馬締を辞書編集部に引き抜く。
 それから13年後,ファッション誌の編集部にいた岸辺みどりという若い編集者も加わり,翌年の3月に決定した「大渡海」の出版は,最後の確認作業に学生アルバイトもたくさん雇ってごった返していた。
  ・・・・・・
 という内容だったので,今回のドラマは,主人公を岸辺みどりとして,原作からちょうど13年後の姿を描こうとしているのかもしれません。

 はじまったばかりなので,ドラマがどのように進展していくかは知りませんが,第1回の放送で私が興味をもったのが,「なんて」という言葉でした。ドラマでは,岸辺みどりが「なんて」の意味を悟る場面で三省堂の「大辞林」の解説が効果的に使われていました。
 私は,手元にあった三省堂の「新明確国語辞典」と,もっとも信頼している岩波書店の「国語辞典」を引いてみたのですが,何も書いていない,というほど,内容に乏しいもので,がっかりしました。
 これでは埒が明かないので「ChatGPT」に聞いてみましたが,これがすばらしいものでした。そこで,さらに,「ChatGPT」にいくつかの文章を英訳してもらうことにしました。これもまた,すばらしいものでした。もう辞書「なんて」いらないなあ,と思いました。
  ・・
 実は,私は,これまで,「新解さんの謎」をきっかけとして,国語辞典にはかなり興味をもっていて,こだわりもあったのですが,この13年という月日は,それを変えてしまったようです。つまり,辞書「なんて」引かなくても「ChatGPT」に聞いたほうが早く,かつ,おもしろいのです。

 今の時代,スマートフォンの普及で,一時,一眼レフカメラの存続が危ぶまれました。今は,それぞれの役割分担が次第にわかってきて,何とか共存をしているようです。また,将棋AIが開発されたことで,将棋界は,はじめは不正疑惑などもあって迷走をしていたのですが,藤井聡太という新星が現れたこととと相まって,それをうまく活用することで,あらたな顧客を生み,今のところ,とりあえずは共存に成功しています。
 また,昔は,どの家庭にも百科事典というものが存在していましたが,今や,死滅してしまいました。辞書はそれとは若干異なるものでしょうが,それでも,多くの人にとっては,辞書もまた,同じでしょう。
 辞書の在り方を真剣に考えないと,今後は,百科事典と同じく,死滅の道をたどることになるのかもしれません。私は,そのことの方に興味があります。

GGs1jEKb0AA07_Mキャプチャ2


◇◇◇


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_7189

######
 2024年2月10日土曜日。天気がよかったので,豊橋市へ行ってきました。というか,行ってみました。よくよく考えてみると,豊橋市はとても近く,豊橋駅は乗り換えでよく利用しているのですが,豊橋駅で降りたことはほとんどありません。といっても,降りて何をする? という感じでした。車で渥美半島や鳳来寺のあたりに行くときにも,通過地点とはなっても,豊橋市で何をした,という記憶はありません。そこで,一度くらいは,ということで,今回,わざわざ出かけてみました。

 私の好きな歌川広重の浮世絵東海道五十三次を子供のころ見たとき,豊橋宿というのはなくて吉田宿で,そこには城が描かれていました。へえ~,豊橋は昔,吉田といったのか,豊橋城というのは聞いたことがないけれど,吉田には城があったんだ,と思ったことがありました。そこで,豊橋市でお城を見たいなあ,とかねてから思っていました。
 豊橋という名前の由来は
  ・・・・・・
 1869年(明治2年),吉田藩は伊予に同名の吉田藩があるので,明治維新政府によって改名を命ぜられ,今橋,関屋,豊橋の試案を申し出,その結果,豊橋と藩名変更を命ぜられました。
 今橋は吉田の旧称で,関屋は吉田城西側の地名,豊橋は豊川に架けられた橋です。
  ・・・・・・
ということだそうです。
 なお,伊予の吉田藩は,仙台藩主・伊達政宗の庶長子である伊達秀宗が入部した伊予の宇和島藩の五男・伊達宗純が立藩したもので,現在は宇和島市の一部です。

  ・・・・・・
 吉田宿は,東海道の江戸側から数えて34番目の宿場です。吉田宿のある吉田藩は,浜松藩同様,譜代大名が歴代藩主を務め,江戸での重職を担いました。
 吉田宿は,東海道が設定された当初からの宿場でした。東の二川宿は1里20町,約6キロメートル,西の御油宿は2里20町,約10キロメートルの距離があって,町並は23町30間,約2.6キロメートルの長さがありました。本陣が2軒,脇本陣が1軒,旅籠は65軒,戸数は約1,000軒で人口は5,000人程度でした。
  ・・・・・・
 このごろ,東北地方などに旅することが多いのですが,そういったところに比べて,東海道沿線は,江戸時代から,政治の中核を成す大名が統治していた藩が多く,また,自然に恵まれた温暖なところでもあり,堂々としているというか,おっとりしているというか,そんな雰囲気を感じます。

 さて,豊橋市に何があるか? ですが,調べてみたところ,吉田城の他には,葦毛湿原(いもうしつげん)と,名物料理として菜飯田楽があるということだったので,これを目的としました。
 豊橋市へは,名古屋駅からはJR東海道線と名鉄名古屋本線で行くことできるのですが,今回は名鉄名古屋本線にしました。名鉄名古屋本線の東の終着駅は豊橋駅なのですが,名鉄の豊橋駅はJR豊橋駅を間借りしているという不思議な構造をしています。線路もまた,豊橋駅と隣の伊奈駅までは,JRと名鉄が上りと下りの1本ずつを所有しているそうです。これは,歴史的な経緯からそうなっているということで,線路は乗っている人にはどうでもいいのですが,駅は,JRと名鉄の改札口が同じだったり,ホームでJRと名鉄を乗り換えるとき,ホームに設置された機械でICカードのタッチが必要だったりと,事情がわからない外国人や旅行者はとまどいます。

hiroshige047_main

◇◇◇
DSC_7176DSC_7177DSC_7178DSC_7179


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_6427

######
 小出駅は,魚沼市四日町にあります。上越線の駅ですが,只見線の終着駅でもあります。以前は只見線の列車が上越線経由で浦佐駅まで乗り入れていたこともあったそうです。
 私は,これもまた,何も知らず調べず,今回の旅は,只見線に乗る,ということだけが目的でした。そこで,只見線を乗り終えたら,最短の方法で,その日のうちに帰宅することにしていました。小出駅から最も近い上越新幹線の駅を探したら浦佐駅だったので,小出駅から上越線で浦佐駅に出て,浦佐駅から上越新幹線で東京へ,そして,東京から東海道新幹線で名古屋へと乗り継ぐことにして,すでに新幹線の座席指定券は購入してありました。ただし,只見線が遅れたり,不通になることも考慮して,購入したのは,浦佐駅午後6時53分発東京駅着午後8時12分の「とき」342号,そして,東京駅発8時30分名古屋駅着午後10時23分の「ひかり」665号でした。帰宅がずいぶんと遅くなってしまうことだけが難点でした。

 私は,目的を達成すると,それ以外はどうでもよくなる性分です。そこで,思ったより早く小出駅に着いたので,そこで新たな観光をする気もなく,予定を変更しできるだけ早く帰宅するために,新幹線の指定券を変更することにしました。
 只見線の車内で親しくなったひとり旅の女性は,これから越後湯沢駅に行くということでした。私は途中の浦佐駅で降りるので,同じ列車でした。小出駅発11時10分と,30分ほど待ち時間があったので,一緒に小出駅で一旦改札口を出ました。駅前に食堂でもあれば昼食を,と思ったわけです。しかし,駅前には何もありませんでした。仕方なく駅に戻ってたわいもないおしゃべりをしながら列車を待ち,やがて,やってきた列車に乗りました。私が浦佐駅で降りるとき,彼女が,浦佐駅は何もないという話だ,と言ったのでびっくりしました。それまで,私は,「腐ってもタイ」,浦佐駅は新幹線の駅だから,そんなことはないと思っていたからです。
 しかし,それは真実でした。本当に浦佐駅は話のタネにできるくらい何もない駅でした。
  ・・・・・・
 浦佐駅は,南魚沼市の北部の大和地区に位置し,冬はスキー客,夏は奥只見湖や尾瀬方面への新潟県側の玄関口として旅行客にも利用されるということでできた駅です。また,日本の奇祭のひとつである「裸押合大祭」の舞台となる越後浦佐毘沙門堂もあります。
 上越新幹線の建設が決定した当時,六日町と小出町の中間点に位置する浦佐に新幹線の駅が設けられることが決まった際,両町から異議の声が上がったそうです。でありながら,浦佐に駅ができたのには,「何らかの政治的な意図が働いていた」とする「政治駅」説や,「六日町は越後湯沢に近過ぎるため駅の設置が難しく,小出に設けるとルートが大回りになり,小出駅の構内が狭隘で新幹線ホームが設けられない」という「現実問題が背景にあったとする」説があるそうです。
 駅ができたのち,スキー場が閉鎖されたこともあって,上越新幹線が開業した当初は1日2往復設定されていた只見線に直通する普通列車は廃止されました。現在,駅周辺には商業施設が少なく,医療機関や学校,宿泊施設が若干あるのみです。
  ・・・・・・
 浦佐駅は異常なくらい閑散としていました。ほとんどというか,まったく乗客がいませんでした。
 駅舎西口1階には団体待合室と化粧室とレンタサイクル駐輪場があって,それらは機能していたのですが,付近の待合室と化粧室は閉鎖されていました。駅の機能は2階に設けられているのですが,みどりの窓口すらありませんでした。新幹線改札口には自動改札機が2台あるのみでした。
 私は,この駅で,座席指定券の変更をしようと思っていたから,改札口で聞いてみると,改札口のとなりにある「話せる指定席券売機」で行うようにと言われました。言われたまま「話せる指定席券売機」に向かって話しかけてみると,係員の顔が写り,遠距離で会話ができました。まず,指定席券を発券機に設置されたスキャナで読み取るように言われました。そして,浦佐駅発午前11時59分発東京駅着13時28分の「とき」318号の新たな指定席が決まりました。そして,次に,言われた通り券売機に切符を入れると,新たな切符が出てきました。なかなかおもしろい体験でしたが,お年寄りや外国人は困ることでしょう。

 再び改札口に戻り,今交換した新しい切符と,すでに持っていた2枚の乗車券を駅員に示し,これで自動改札機が通れるかと聞くと,試してみましょう,と言われて,駅員が切符を自動改札機に通したら,無事通ることができました。ここで通したのは,名古屋駅から只見線を経由した大宮駅までの連続1と大宮駅から名古屋駅までの連続2,そして,変更したばかりの浦佐駅から東京駅までの上越新幹線の特急券の3枚でした。ということで,自動改札機を通り,ホームに行ってみたのですが,ホームには売店すらありませんでした。私は困りました。新幹線が来る時間までに,ホームにあると思っていた売店で駅弁を買うか,何か昼食をとるつもりでいたからです。
 浦佐駅の2階にはかろうじてコンビニがあることだけは確認してありました。そこで,再び,改札口で駅員さんに話をして外に出してもらい,コンビニで昼食を買い,それを待合室で食べてから,今度は,自動改札機ではなく,改札口からホームに入れてもらいました。こんなことができるのも,私以外に乗客がまったくいなかったからに違いありません。また,駅員さんといっても,若い男性と女性のふたりだけでした。
 ホームは,相変らず閑散としていて,この駅から列車に乗るのは2人から3人でした。
 やがて,ホームに滑り込んだ「とき」318号に乗りこみました。憧れだった「とき」,いい名前です。車内は,思った以上に乗客が多く,空席はほとんどありませんでした。

 上越新幹線は,三国峠を通る長いトンネルを抜けると,すっかり景色が変わります。まるで川端康成「雪国」の世界です。それまでは真っ白だった風景は一変して緑だらけとなり,雪に覆われた只見線が夢のように思えました。まもなく人だらけの東京駅に着きました。乗客が私ひとりの浦佐駅も日本なら何万人もいるような東京駅もまた日本です。信じられません。外国人でごった返すみどりの窓口で並んで,やっとのこと東京駅から名古屋駅までの座席指定券を変更してもらい,午後5時前には帰宅しました。
 予想をはるかに超えた楽しい旅は,こうして終わりました。
 もし,1日,日程が異なっていれば,大雪で,只見線に乗ることはかなわず,帰ることすらできたかどうか。いつもながら幸運でした。

DSC_6413DSC_6415DSC_6418DSC_6416DSC_6429DSC_6430DSC_6438DSC_6473DSC_6480

◇◇◇
DSC_3004x


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_6372 DSC_6399 DSC_6404 DSC_6411

######
 午前9時30分,定刻に只見駅を出発しました。只見線の旅もあと1時間ほどで終着の小出駅です。
 只見線は,会津川口駅から只見駅までがもっとも風光明媚なところで,この先はたいしたことはないと思っていたのですが,最後の見どころ? がこのあとにありました。
 前回書いたように,只見駅を過ぎると,並走する国道252号線は,六十里越えという難所を迎え,冬の間は雪が深く通行できません。しかし,只見線は,3,712メートルの田子倉トンネルとそれに続く6,359メートルの六十里越トンネルというふたつの長いトンネルが掘られているので,運行ができるのです。

 このように,只見線は,只見駅を過ぎると長いトンネルに入るので,次の大白川駅までの30分間,全く駅がありません。しかし,かつて,田子倉トンネルの中に田子倉駅がありました。ただし,ほとんど乗客がなく,2001年(平成13年)から冬期間は全列車が通過となり,2013年(平成25年)に駅は廃止されてしまいました。
 只見駅で乗り込んだ車掌さんが,このふたつのトンネルと田子倉駅についての案内放送をしました。 勉強不足の私は,それがかなりの見どころであることすら知らなかったので,「猫に小判」「豚に真珠」「馬の耳に念仏」状態だったのですが,マニアには見たくてたまらないところだったに違いありません。
 今は廃墟となった田子倉駅をあっという間に列車は駆け抜けました。心構えがなかった私は,肉眼で駅を確認することはできましたが,残念ながら写真を撮ることはできませんでした。また,只見駅を過ぎると,トンネルのために,運転席の横のそれまで開いていたシェードも閉められてしまい,前面の展望がきかなくなりました。トンネルの中の駅,停車まではむりとしても,徐行運転するサービスがあってもいいなあ。

  ・・・・・・
 田子倉駅を中心にした半径2キロメートルには,現在はだれも住んでいません。
 田子倉駅は,線路の北側に単式ホーム1面1線を有する地上駅で,列車が大白川方の六十里越トンネルと只見方の田子倉トンネルの間で少しだけ外に出る地点に位置していました。ホームは南側の田子倉湖と北側の崖に挟まれた低い場所にあり,スノーシェッドに覆われていました。
 ホームの中ほどから北側に階段があって,これを登ると,駅舎を通って崖の上を走る国道に出ることができるようになってしました。駅舎の内部には階段と通路のみがあったということです。駅にまだ列車が停車していたころの乗車人員は,1日平均で,2000年3人,2001年3人,2002年0人,2003年3人,20040人でした。
 現在も駅舎は現存していますが,駅舎内に入ることはできません。
  ・・
 六十里越えは,新潟県魚沼市と福島県南会津郡只見町との間にある峠で,最高点の標高は863メートルです。六十里越えの名の由来は,実際の距離は六里,約24キロメートルでありながら,険しさゆえに1里が10里にも感じられるほど余りに急峻かつ長大な山道であること,中世まで東日本においては1里は500メートルであったことなどの説があります。
 新潟県中越地方と福島県会津地方南部を結ぶ街道であるものの,国内有数の豪雪地帯で,かつ,雪崩れや落石の危険性が高い箇所を経由することから,冬季は通行できない難所です。
 新潟県中越地方と只見町を結ぶ街道は,六十里越えのほかには,約15キロメートル北東側の三条市と只見町の間に位置する八十里越えがあるのですが,そちらの方が更に難所で,国道289号などの国県道は自動車の通行すら不能区間です。
  ・・・・・・

 なぜか,それまでは何ともなかったのに,トンネルを越えたあたりから列車の窓ガラスが曇って,窓を拭かないと写真が撮れなくなりました。
 この難所を抜けると民家が見えてきて,やっと只見駅の次の大白川駅に到着しました。ここで,年配の女性がひとり乗車してきたのにはびっくりしました。我々8人に,乗客がひとり増えたのです。
 その先,列車は民家の中を抜けて行って,入広瀬駅,上条駅,越後須原駅,魚沼田中駅,越後広瀬駅,薮神駅と停車して,やがて,小出駅に到着しました。
 午前10時41分,私は念願の只見線を走破しました。全く退屈しない4時間半でした。

DSC_6361DSC_6367DSC_6377DSC_6378DSC_6385DSC_6386DSC_6388DSC_6390DSC_6394DSC_6397


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

IMG_1765IMG_1768IMG_1769IMG_1773

######
 2024年2月17日,大西順子さんが愛知県の東海市芸術劇場大ホールでソロピアノコンサートを行うというので,聴いてきました。客席は満員でした。

 惜しくも,2024年2月6日に亡くなった小澤征爾さんですが,私が今でも印象に残っているのが,2013年に行われたサイトウ・キネン・フェスティバルです。
 2013年のサイトウ・キネン・フェスティバルは,8月12日から9月7日まで10公演が行われたのですが,その最終日9月6日を飾ったのが, 小澤征爾さんが指揮をしたガーシュウィンの「ラプソディー・イン・ブルー」を,サイトウ・キネン・オーケストラと大西順子トリオが共演したものです。これは,2012年夏,突然の引退宣言をした大西順子さんでしたが,小澤征爾さんの猛烈な誘いに負け,一夜限りの復活とし出演を決めたものです。そして,小澤征爾率いるサイトウ・キネン・オーケストラと大西順子トリオの共演は,大きな話題となりました。
 小澤征爾さんは,2010年に大病を患ったのですが,この公演は,その後に行われたものです。
 私は,公演の様子をテレビで見ましたが,それはそれはすばらしいものでした。そして,そのときに私が知ったのが,大西順子さんでした。今回のコンサートの中で,大西順子さんがそのときの共演についても話していたのですが,観客の中で何人がそれを知っていることか?
  ・・・・・・
 1967年生まれの大西順子さんは,ジャズ・ピアニストです。渡米し,ボストンのバークリー音楽院に学び,その後,ニューヨークに移り,アップタウンのジェシー・デイヴィス・クインテットのレギュラー・ピアニストとして活動しました。
 日本へ帰国後は,バークリー時代の仲間とトリオを結成,ニューヨークの名門ジャズ・クラブヴィレッジ・ヴァンガードに,日本人としてはじめて自分のグループを率いて出演しました。
 以降,活動中止や再開を繰り返し,2015年に,何度目かの活動再開をしました。
  ・・・・・・

 私は,ジャズには疎く,また,大西順子さんも,先に書いたサイトウ・キネン・フェスティバルの放送でしか知らないので,これはまさに,将棋のルールも知らないのに,藤井聡太八冠の将棋を観戦するのと同様に,「豚に真珠」「猫に小判」「馬の耳に念仏」でした。はじめのうちは,現代音楽を聴いているような感じに思えて,正直かなり苦痛でした。
 しかし,次第にわかってきて,楽しくなりました。
 クラシック音楽のピアノとは違って,ジャズのピアノは,即興を旨とするのですが,それは,ベートーヴェン以前,協奏曲のカデンツァを演奏者が即興で演奏していたのを拡大したようなものです。そこで,オリジナルをどのように奏者が変化させ創作するのか,というのが腕の見せどころとなるわけで,いかにして聴き手を引き込んでいくのかが聴かせどころです。
 残念ながら,私は,そのオリジナルをも知らないのだから,話にならないのですが,それでも,次第に,次にどう来るか,ワクワクして聴けるようになってきました。そして,こりゃすごい,と思うまでになりました。大西順子さんは偉いものです。
 今回もまた,私が長年味わうことがなかった感動をひとつ手に入れることができました。

キャプチャ

◇◇◇
無題無題2無題3無題4


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_6329DSC_6343

######
 私の乗った只見線の列車は,午前6時8分定刻に会津若松駅を出発して,吹雪の中を遅れることもなく,ついに,午前9時7分に只見駅に到着しました。
  ・・・・・・
 秘境ともいえる日本の原風景を残していて,「自然首都」をキャッチフレーズにしている只見町(ただみまち)は,福島県の最西端に位置し,日本有数の豪雪地帯です。また,只見川には水力発電のための「大鳥ダム」「田子倉ダム」「只見ダム」などがあって,広大な人造湖を造りだしています。特に「田子倉ダム」は貯水量が5億トンと国内屈指の規模を誇り,周囲の山々と織りなすコントラストは山紫水明の地として観光の拠点です。
 町の面積は747.54平方キロメートルで,東京23区よりも広大な面積がありますが,その9割が山林であり,ブナ,ミズナラ,トチノキなどの広葉樹林帯です。
 源流を尾瀬とする只見川の流域に集落と農地が集まっています。産業は農業と観光が主で,特に農業では,恵まれた自然条件による米作りと,昼夜の寒暖の差を利用したトマトと花弁栽培が盛んです。
  ・・・・・・

 只見線の主要駅である只見駅は町の中心部にあって,昭和40年代後半まで蒸気機関車C11による貨物列車が運行されていたことから,駅構内には蒸気機関車の進行方向を切り替える人力による転車台が残されていてマニアの羨望となっています。また,臨時運行される観光列車の折り返し地点ともなっています。
 2011年(平成23年)の夏に発生した集中豪雨によって,只見駅から会津川口駅までの区間が営業休止となり,代行バスが運行されました。このまま廃線になるのではないかと危惧されましたが,2022年(令和4年)秋,会津川口駅と只見駅間が復旧し,全線運転再開しました。
 只見線が存続できるのは,只見線と並行して走る国道252号が,福島県と新潟県との県境付近の六十里越前後の区間で,冬の間は豪雪によって閉鎖となるため,只見線が新潟県に抜ける唯一の交通手段となることにもよります。

 列車は,只見駅で午前9時7分から9時30分まで23分間停車します。
 8人の乗客は外に出ました。私は,駅舎から外に出てみました。そのとき,列車が来たのを見計らって,只見駅前から,会津田島駅まで行くバスが出発しました。しかし,だれも乗る人はいませんでした。
 このバスは商工会議所が運航しているとかで,おそらく観光シーズンであれば,今回の私の旅のように,小出駅まで行って上越新幹線で東京へ戻らずとも,只見駅で下車して,そこからバスを利用して会津田島駅まで行って,大内宿や湯之上温泉などを経由して,会津鉄道,東武鉄道と乗り継いで,東京に戻るのが,絶好の観光コースとなることでしょう。
 駅前には家々があったのですが,この雪では,だからといって,どこかに遠出する気にもならず,また,行ってみたからといっても,何かがありそうに思えませんでした。
 私は,特にすることも行くところもないので,再び,駅の中に戻って,雪と列車の美しい風景を写真に収めていました。他の乗客も時間を持て余していたので,持っていたお菓子を交換し合ったりして,交流が生まれました。
 この駅で運転手が交代しました。さらに,これまではワンマンカーでしたが,只見駅で車掌さんも乗車しました。乗り込んできたのは,すごく元気のよい車掌さんでした。

DSC_6330DSC_6341DSC_6346DSC_6332DSC_6333DSC_6334DSC_6336DSC_6347DSC_6338DSC_6348DSC_6352


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_6262DSC_6272DSC_6295

######
 私は,2019年11月22日,東武鉄道の「リバティ会津」という特急で会津田島駅まで行って,会津田島駅から湯野上温泉駅まで会津鉄道に乗り換え,さらに湯野上温泉駅から乗り合いバスで大内宿まで行ったことがあります。そのときは,大内宿に行きたかっただけだったのですが,その後,知識が増すと,今回行ったところと,大内宿の位置関係を知りたくなりました。
 それが今日の地図ですが。異なる路線を走ると全く無関係に思えた場所が糸のようにつながっていくのが不思議です。どこも,とてもいい印象が残る場所なので,また行ってみたいと思います。私は人の多い観光地よりも,こうしたのどかなところのほうが好きなのです。
 私には東北というのはものすごく遠く感じるのですが,東京からなら,日帰りコースだったりしますし,東京と名古屋は1時間30分程度だから,名古屋からでも日帰りで行くことができると考えると不思議な気がします。

 会津川口駅から只見駅までが只見線でもっとも景観のよい場所であり,それは只見川と自然との調和からくるものであったから,自然が猛威を振るい,調和が崩れれば,橋梁は破壊され,7年間も只見線が切断されてしまった場所ともなりました。
 本名駅の次が会津越川(こすがわ)駅,そして,会津越川駅の次が会津横田駅でした。このあたりはのどかな田園地帯がひろがっていましたが,冬の間は雪に覆われて,生活するのはたいへんだろうなあ,と思いました。
 会津横田駅を過ぎると,列車は第七只見川橋梁を渡りました。運転席のとなりの窓から橋梁の姿を見ることができました。第七只見川橋梁は,以前は上路式でしたが,水害で橋梁が全面流失してしまい,下路トラス桁に変わりました。橋の下を流れる只見川と,下流に見える集落や水田などの美しい自然風景が広がっているところで,並行してかかる四季彩橋から第七只見川橋梁見ることができるということです。
 第七只見川橋梁を越えると,会津大塩駅に着きました。会津大塩駅は無人駅で,のどかな里山の景色の中にぽつんと建つ素朴なたたずまいを見せます。春はさまざまな花々が周囲を彩り温かみのある景色を演出するそうです。

 会津大塩駅の次が会津塩沢駅です。会津塩沢駅から15分くらい歩くと,河井継之助記念館があります。河井継之助記は,は,戊辰戦争で長岡から会津へと向かう際に塩沢で亡くなった長岡藩家老・河井継之助を紹介する資料館で,地元の人の思いで,残された終焉の間が館内に移築されています。冬場は閉館しています。
 また,只見川の対岸にある十島集落は,小島のような形で,集落にある神社がビュースポットとなっていて,そこから眺める只見川と塩沢集落の景観が美しく,撮影ポイントとなっているそうです。
 会津塩沢駅を過ぎると,列車は第八只見川橋梁を渡ります。このあたりからだんたんと空が広くなり,晴れていれば,只見川の川面に空の美しい青が映り込むということです。

 次の会津蒲生駅を過ぎると,北側に,天気がよければ,蒲生岳がみえるそうです。蒲生岳は只見川から一気にせり上がるその山容の鋭さから「会津のマッターホルン」とも称される,標高828メートルの独立峰で,悠々とした姿はあたりののどかな風景と相まって印象的です。
 叶津川(かのうづがわ)橋梁は会津蒲生駅から只見駅間にかけて集落を貫く叶津川に架かる全長372メートルの橋梁。半径250メートルの曲線を描くのが特徴で,時速30キロメートルの速度制限があるカーブは,その美しさで写真愛好家たちに知られています。
 午前9時7分,列車は只見駅に着きました。
 只見駅出発が午前9時30分で,23分もの停車時間がありました。

DSC_6252DSC_6253DSC_6261DSC_6265DSC_6271DSC_6275DSC_6278DSC_6294DSC_6286DSC_6293DSC_6301DSC_6305DSC_6315DSC_6320DSC_6325

◇◇◇
キャプチャ


◇◇◇


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_6178DSC_6190DSC_6247

######
 午前8時5分,列車は会津川口駅に到着しました。
 反対側のホームには,小出駅午前5時36分発の2両編成の列車が午前8時2分にすでに到着していました。この列車は,会津川口駅で39分停車します。私の乗っている列車は会津川口駅を午前8時15分に出発するので,停車時間は10分でした。
 只見線全線に乗る,といっても,単に列車に乗っているだけかと思っていたのですが,こうして,会津川口駅と,その先の只見駅での長い停車時間があるので,ホームに出て写真を撮ったり,駅舎を見ることもできるのでした。
 あたりは凄い雪で,これもまた,美しく,最高でした。

 会津川口駅は,金山町の中心にあります。金山町は,金銀の鉱山が多かったことに由来するといわれ,江戸時代は羽州街道の宿場町として発展しました。もとは秋田の小野寺義道の領地でしたが,やがて最上義光の領地となりました。
 おいしいものが食べられたり,景色がすばらしかったり,温泉があったりと,歴史や名所などを調べて行けば奥が深いと思うのですが,あまりまとまった情報がありません。もったいない話です。ぜひ,今度は時間を十分にとって行ってみたいところです。
 この日は,10分の停車時間だったので,駅舎まで行ってみました。

 さて,列車は出発して,只見駅に向かって進んでいきます。
 会津川口駅から只見駅までの区間の橋梁がすべて流されてしまって,7年もの間,只見線は不通となっていましたが,今,こうして乗ることができるのがうれしいことです。
 まず超えたのが第五只見川橋梁でした。会津川口駅と本名駅間の阿賀野川水系只見川に架かる全長193.28メートルの橋梁です。2012年(平成23年)7月の新潟・福島豪雨被災後で,只見川の増水・氾濫によってこの橋梁は川口方プレートガーダー桁1連が流失しましたが,この付近の只見川は川幅がやや広く,かつ下路式トラス橋のため,トラス桁部分は冠水,流失する事態を免れました。

 列車が,次の只見川夏井川橋梁をこえると,本名駅に着きました
 本名駅を出ると,大きなダムが見えてきます。これは,上端が旧国道252号線になっている全国でも珍しい形状をもつダムで,太平洋戦争終戦後,GHQとの敗戦処理の折衝を矢面に立って行った白洲次郎氏が東北電力初代会長時代の1954年(昭和29年)に完成した,東北電力の発電専用のダムです。
 列車が第六只見川橋梁を渡る瞬間,北西側にその巨大な姿を目の前に見ることができますが,ダム下流の金山町から見ると,ダムと橋梁の景観がすばらしく,ゲート巻上機建屋から見下ろす下流の景色も絶景ということです。

DSC_6175DSC_6176DSC_6181DSC_6182DSC_6192DSC_6215DSC_6227DSC_6234DSC_6241DSC_6242

DSC_2690nxDSC_2696xsDSC_3010sxDSC_3013x

☆☆☆☆☆☆
 2024年2月12日は,天気がよく,太陽やら月やら彗星を写すのに忙しい日になりました。というか,自分で勝手に忙しくしていました。
 まず,太陽です。
 現在,太陽の表面にすごくたくさんの黒点があります。そこで,何となく写したのが1番目の写真です。数年前には,まったく黒点がなかったのがうそのようです。
  ・・・・・・
 太陽の表面にあらわれる黒いはん点を太陽黒点とよびます。黒点はふつう中央の暗部とまわりの半暗部からなっており,暗部の温度は約4,000度,半暗部は5,500度です。光り輝く太陽の表面の温度は約6,000度なので,,温度の低い黒点の部分が暗いはん点として見えるのです。
 太陽全体では約11年の周期で,表面にあらわれる黒点の数は増減し,黒点周期とよばれます。
  ・・・・・・
 ということで,私は,特に太陽に興味があるわけでもないのですが,2017年に,アメリカで皆既日食を見るために持っていこうと購入し,太陽観測用に改造した,安価で軽いMILTOLという望遠鏡が役割を終え,そのままではもったいないで,自宅で太陽の黒点を撮影するために使っているのです。ちなみに,今年,2024年4月8日,再び,アメリカ横断皆既日食があります。

 次が月です。
 2月12日は月齢2.4。月の満ち欠けなど,珍しくもないのですが,この時期は空が澄んでいるので,とりわけ美しいのです。そこで,まだ,太陽が沈むまえに写したのが,2番目の写真です。その後,太陽が沈んだら,とりわけ美しい地球照が見えるようになったので,再び写したのが3番目の写真です。
  ・・・・・・
 地球照は,月が欠けて暗くなっている部分が地球に照らされてうっすらと見える現象です。英語には「the old moon in the new moon's arms」という慣用句があります。
 これは,地球が反射した太陽の光が再び月の夜の部分を照らし,その光がまた地球に反射して見えるのです。太陽が地球を照らして反射する明るさは,満月の70倍もあるので,青く輝く地球の光が月面の影の部分を照らすのです。
  ・・・・・・

 そして,最後がポンス・ブルックス彗星(12P/Pons-Brooks)です。午後7時25分に写しました。
 先月1月11日にも写しましたが,それから1か月過ぎて,かなり明るくなりました。2か月後には最も明るくなるので,楽しみです。
 しかし,夕方の西の空低い位置にいるので,よほど空の開けた,しかも暗い場所があるところでないと,捉えることが困難です。また,明け方の北東でも見られるのですが,こちらもまた高度が低く,さらにむずかしいでしょう。

◇◇◇


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_6074DSC_6157

######
 私が乗っている只見線,今日は,会津宮下駅から会津川口駅までです。
 会津宮下駅を出ると,車窓から見えるのは巨大な東北電力宮下ダムで,対岸を国道252号線が走っています。
 ダム湖を過ぎると,列車は第三只見川橋梁を渡り,それまで進行方向右手に見えた只見川が左手に変わるのですが,第三只見川橋梁に差し掛かる瞬間,一気に視界が開け,ゆったりと流れる只見川と木々の緑が織りなす景色が車窓いっぱいに広がり,絶景となることで知られています。今は真冬なので,美しい雪景色が見られましたが,紅葉の秋はため息の出る美しさ,ということです。

 会津宮下駅の次は早戸駅です。早戸駅で下車すると,霧幻峡の渡し(むげんきょうのわたし)の乗り場に行くことができます。霧幻峡の渡しの運行は4月下旬から11月中旬までであり,予約が必要ということなので,今回はムリですが, 情緒ある「手漕ぎ渡し舟」に乗るときだけ味わうことができる只見川の川面から眺める四季折々の風景は,幻想的な川霧に包まれながら時空を超えた日本の原風景に出会えるということで人気です。
 列車の車窓からはそこまでは望めませんが,それでも,雄大な只見川を見ることができました。

 会津水沼駅,会津中川駅と過ぎました。 
 やがて,先ほどまでは,列車はずっと山の中だったのに,次第に民家が見られるようになってきました。これが金山町の集落です。
 只見線からも見ることができる,かねやまふれあい広場は,只見線の絶景スポットとして知られ,水面に迫る集落,川沿いを走る只見線が生み出す風景はすばらしく,特に,夏の早朝や夕方,雨上がりの川霧に沈む集落や冬の雪景色の中を走る列車の風景は幻想的,ということです。また,会津川口駅からほど近くの只見川の水面の先に広がる大志集落を望む風景は「大志俯瞰」(おおしふかん)とよばれ,晴天時は,山々と集落が只見川に反射する美しい水鏡の風景が見られるところだそうです。
 そんな場所を走りながら,列車は会津川口駅に到着しました。

DSC_6049DSC_6094DSC_6095DSC_6107DSC_6116DSC_6127DSC_6131DSC_6135DSC_6138DSC_6143DSC_6163

◇◇◇
無題キャプチャa


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_6003DSC_6022

######
 只見線に乗車して1時間ほど経ちました。乗っているのは,カナダから来たという夫婦連れと2人の息子たち,私と同年代の夫婦連れ,そして,ひとり旅の若い女性,そして私の8人。列車はワンマンカーなので,運転手さんがひとり。とてものどかでした。各駅停車であっても,こんな雪の中,途中でだれも乗ってきませんし,降りる気にもなりません。
 紅葉の時期は通勤ラッシュ並みというから,幸運でした。旅はこうでなければいけません。

 会津柳津駅で停車中,窓から外を見ると,「赤ペコ発祥の地」という看板が見えました。
 会津柳津駅のある柳津町には,日本三所の虚空蔵菩薩のひとつ福満虚空藏菩薩を本尊として祀る圓藏寺があって,この寺が「赤ペコ発祥の地」です。
  ・・・・・・
 今から400年ほど前の1611年(慶長16年)に会津地方を襲った大地震後の1617年(元和3年)本堂である虚空藏堂を厳上に建てるとき,大材を厳上に運ぶのに大変困り果てていたところ,どこからともなく力強そうな赤毛の牛の群れが現れて,大材運搬に苦労していた黒毛の牛を助け,本堂である虚空藏堂を建てることができたという伝説からきたものです。
  ・・・・・・
 圓藏寺は,只見線の車内からもちらりと見ることができました。
 また,月光寺という寺もあるそうです。月光寺は圓藏寺と深い関係をもつ寺で,そそり立つ岩場を伝い落ちる滝を背にして静寂の地に建つ山居寺ということです。本堂の裏側に只見線の線路が伸びていて,春には線路脇に咲く桜のトンネルを潜る列車を見ることができるというから,そのころに来てその姿を見てみたいものです。また,日本遺産「会津の三十三観音めぐり」のひとつ奥之院弁天堂という観音堂もあるようです。
 柳津町には,柳津温泉もあり,一度,ゆっくりと訪れてみたいです。

 列車は郷戸駅,滝谷駅,会津桧原駅と停車して,さらに進むと,只見川を渡りました。ここが第一只見川橋梁で,只見線の魅力を語るうえで代名詞といってよいほど有名なビュースポットです。只見川が水鏡となって風景が川面に写る姿や,水面から川霧が立ち橋梁を包む幻想的な景観が見られます。
 第一只見川橋梁を渡ると,会津西方駅があります。それを過ぎると,再び,列車は第二只見川橋梁で只見川を渡ります。会津西方駅より国道400号を会津宮下方面に400メートル進んだ場所にビュースポットがあります。このビュースポットでは,国道400号からほぼ水平な視点から橋梁を眺めることができ,特に列車が走る様子は周囲の風景と相まって美しさもひとしお,ということです。
 それを過ぎると,国道252号,只見線,県道237号と3つのアーチ橋を一度に重ねて見られるスポットがあって,「宮下アーチ三兄弟」とよばれ親しまれているそうです。
 このように,只見線は,乗ってよし,見てよし,なので,次回はレンタカーでも借りて,外から只見線をみるのも悪くないなあ,と思いました。

 そして,列車は午前7時30分過ぎ,会津宮下駅に到着しました。ここで反対側から来る列車とすれ違うので,しばらく停車しました。写真を撮ろうと,乗客はホームに降りました。しばらく待っていると,列車がやってきました。この列車は,午前7時6分に会津川口駅を出発して,午前8時58分に会津若松駅に到着するものです。
 なかなかの景色でした。

DSC_5959DSC_5961DSC_5967DSC_5970DSC_5974DSC_5982DSC_5986DSC_5993DSC_5998DSC_6002DSC_6026DSC_6007DSC_6014


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_5939

######
 ついに,念願だった只見線に乗車できました。心配だった雪は降り続いていましたが,ともかく列車は動きました。あとは,雪が強くなって途中で止まらないことを祈るだけでした。
 シーズンオフを狙ったのが功を奏して,ガラガラでした。また,雪が幸いして,雪景色の只見線という最高の状況となりました。
  ・・
 私は,この日,只見線で小出駅に到着後,午後6時31分発の上越線に乗って浦佐駅午後6時40分着。そして,浦佐駅午後6時53分発上越新幹線「とき」342号で午後8時12分東京駅着。さらに,東京駅午後8時30分発東海道新幹線「ひかり」665号で午後10時23分名古屋駅着の予定でした。「のぞみ」でなく「ひかり」なのは,ジパング倶楽部を利用していたからです。
 そこで,1日3本しか全線を走る列車のない只見線,私が乗ったのは,会津若松駅午前6時9分発ですが,次の午後1時5分発がJR小出駅午後5時47分着なので,最悪でも,これに乗る必要があるわけでした。

 来る前,只見線に乗っているだけではなく,1度は途中下車して,沿線でどんな観光をしようか考えました。そして浮かんだのが次の①②③の案でした。
  ・・・・・・
 案① 時刻表とにらめっこをした結果,今乗っている列車は会津川口駅午前8時5分着なので,この駅で午前8時41分発か,もしくは,その次の午後0時29分発の逆向きの列車に乗り換えて会津柳津駅まで戻って会津柳津駅で途中下車すれば,会津若松駅午後1時5分発の列車が会津柳津駅午後2時5分に来るので,これに乗ることが可能。
 案② あるいは,会津川口駅で7時間24分滞在すれば,午後3時29分発に乗れる。
 案③ また,只見駅でも同様に7時間24分滞在すれば,午後4時31分発に乗れる。
  ・・・・・・
 その程度の考えでした。
 しかし,実際乗ってみたところ,今乗っている列車でも,会津川口駅での停車時間は10分あり,只見駅では23分あるので,停車時間に列車から降りて,外から写真も撮れるし,駅の構内の売店に行くこともできることがわかりました。また,この雪では,会津川口駅や只見駅で7時間24分滞在しても,紅葉の時期ならともかく,雪の中どこへ行くの? と思ったので,結局,①②③の案は廃案となり,このままJR小出駅まで乗りつくすことにしました。

 さて,列車は進み,会津坂下(あいずばんげ)という駅に着きました。単線の只見線は,この駅で,反対方向からの列車とすれ違います。単線の只見線,すれ違うのは,ここ会津坂下駅と会津宮下駅,そして,会津川口駅の3つです。つまり,この3つの駅ならば,反対方向の列車に乗り換えて,JR会津若松駅に戻れるということになります。
 会津坂下駅で反対側からやってきた列車は,2両編成でしたが,車内は高校生で一杯でした。どうやら,会津若松市内の高校に通う只見線沿線に住む高校生たちのようでした。それとは反対に,私の乗った列車に乗っていた2人の高校生は,会津坂下駅で降りていきました。地図で調べると,ここには会津農林高等学校があったので,どうやら,そこの生徒のようでした。
 と,このあたりまで,只見線は会津若松市街地を通っているので,高校生の通勤手段となっているようです。
 会津坂下駅を過ぎると,空が白んできました。列車は,会津若松市街地を過ぎ,田園地帯に入りました。窓から外を見ると,一面の銀世界でした。
 やがて,塔寺駅を過ぎて,次が会津坂本駅,そして,会津柳津駅と進むと,只見線は只見川に沿った山の中に入り,それとともに雪も強くなりました。
 いよいよ,ここから只見線の景勝地です。

DSC_5945DSC_5947DSC_5950DSC_5952DSC_5953DSC_5956DSC_5957

◇◇◇
EPSON001


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSCN3071DSCN3391DSCN3337DSCN3356sDSCN3341

######
 2024年2月6日,「世界のオザワ」と評された指揮者の小澤征爾さんが亡くなりました。88歳でした。
 私は,今から43年前,ボストン,ニューヨーク,ワシントンDCをひとり旅しました。そのとき,小澤征爾さんはボストン交響楽団の音楽監督でした。ボストンのコンサートホールに大きな小澤征爾さんのポスターを見て,誇らしく思ったものです。当時,アメリカでもっとも有名な日本人,といわれていたと聞きました。
 私が小澤征爾さんの指揮をコンサートホールで聴いたのは,残念ながらたった一度でしたが,私は,小澤征爾さんが憧れで,また,音楽が聴けるのを楽しみにしていました。

 著書「ボクの音楽武者修行」にこうあります。
  ・・・・・・
 スクーターを唯一の財産として神戸から貨物船に乗り込み,マルセイユからパリまでたどりつき,フランス国内,アメリカ,ドイツ,そしてふたたびアメリカへと回って,いよいよ約二年半ぶりになつかしい日本へ帰ることになった。
 4月24日午前10時,JALのニューヨーク・フィル特別機で羽田に着いた。ハッチが開けられると,メンバーの連中がみんな
「セイジ,お前が最初に降りるんだ!」
と言って,ぼくを先頭にしてくれた。
  ・・
 突然,バーンスタインが,ぼくの首っ玉にとびついて来た。ぼくは危うく倒れるところだった。
「セイジ! セイジ! よかったな,よかったな!」
  ・・・・・・
 私は,この文章がずっと頭に残りました。おそらくこのときが小澤征爾さんの人生で最高の瞬間。

 その後,小澤征爾さんの足跡を探すかのように,私は,ボストン交響楽団の夏の避暑地であるタングルウッドを訪れました。そして,そこに,セイジオザワホールがあるのに,再び感動しました。
 ああ,この人は,こういうところで活躍していたんだな,と思いました。
 残念ながら,大きな病気をしてからは,活躍もままならなくなってしまったのがとても残念でしたが,これほど偉大で,しかし,偉ぶらず,多くの人に感動を与えた人もありますまい。
 すばらしい人生でした。ご冥福をお祈りします。

◇◇◇


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_5932DSC_5934

######
 2024年1月15日月曜日。念願だった只見線に乗ります。
 昨日,会津若松駅で「明日雪だとどうなりますか?」と聞くと「そのときはそのときにならないとわからない」と言われました。運次第だな,と思いました。会津若松駅周辺にはコンビニすらなかったのですが,近くにスーパーマーケットがあったので,昨晩の夕食後,翌日の朝食を買いました。午前6時8分発の只見線に乗るので,東横インで朝食は食べられません。
 午前4時30分に起床して,部屋で朝食を食べ,支度をして,午前5時30分にチェックアウトしました。昨日はとても天気がよかったのですが,朝はすでに雪景色でした。しかし,どうやら只見線は動いているようでした。

 私は,旅に出る前は,先入観ができるといやなのでまったく見ないのですが,帰宅してからYouTubeを見ると,秋の行楽シーズンに満員の只見線に乗った,というようなものがたくさんありました。
 午前5時45分に只見線の列車がホームに入ってくるので,混雑しているときは,早くホームに行って並ばないと座ることすらできないとありましたが,このときの私はそんなことは知らないし,この寒さではホームで待つのもいやだったので,午前6時まで余裕で駅の構内の待合室にいました。午前6時になって改札を通ったのですが,すでに列車はホームにいました。しかし,がらがらでした。
 最終的に,この日,只見線をJR小出駅まで乗りつくしたのは私も含めてわずか8人で,始発の会津若松駅で乗っていたのは,この8人に加えて,途中で下車した高校生が2人だけでした。
 10人の乗客を乗せた只見線は,定刻に出発しました。
 日の出はまだ1時間先のことで,外は真っ暗だったので,風景をみることはできませんでしたが,只見線で景色のよいといわれる場所は,夜が明ける1時間後に到着する会津標津駅から先のことです。

 ところで,この旅の1週間後。1月24日に寒波が襲来して,只見線は不通になりました。
 私は,もし,只見線が不通だったときは,磐越西線で遠回りをして新潟駅まで行こうとぼんやり考えていましたが,磐越西線もまた,雪だとダイヤが乱れるようです。
 それに加えて,これは想定外のことでしたが,1月23日はJR東京駅とJR大宮駅間で架線事故が起きて,東北新幹線も上越新館も止まってしまいました。もし,私が遭遇していたら,今回の旅は不可能でした。
 いつものこと,今回も私は強運でした。

DSC_5933DSC_5931DSC_5935

◇◇◇
IMG_1611IMG_1612IMG_1609IMG_1610


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_5890DSC_5904DSC_5918

######
 この日は鶴ヶ城のボランティアガイドで偶然一緒になった女性と同じコースで観光をすることになって,結局,飯盛山ではずっと一緒にまわることになりました。レンタサイクルにしなったことでいい出会いができました。
 飯盛山で,会津若松市の観光も終わり。あとはまちなか周遊バスで会津若松駅に戻るだけでしたが,飯盛山で時間をとりすぎて,まちなな周遊バスの時刻に間に合いませんでした。どうしようかと考えて,おしゃべりをしながら,会津若松駅まで歩くことにしました。およそ30分の道のりでした。

 会津若松駅近くに七日町があります。来るとき,まちなな周遊バスの車内で見て,帰りに寄ろうと思っていました。私はそこで夕食をとることにしていましたが,その女性は,七日町を少し見てから,今日の列車で帰るということだったので,七日町まで行って,そこでお別れすることになりました。
 七日町には古い家並みがあって,歩いて楽しいところです。
  ・・・・・・
 大正浪漫の雰囲気のただよう七日町通りは,藩政時代には会津五街道のうち,日光,越後,米沢街道の主要道路が通り,城下の西の玄関口として問屋や旅籠,料理屋が軒を連ねていました。
 明治時代以降も重要な通りとして繁栄を極め,昭和30年代頃までは,会津一の繁華街としてにぎわっていました。その後,一度衰退したこの通りは現在大正浪漫を感じられる通りとして甦り,観光客に人気となっています。
  ・・・・・・
 七日町で最も気になった建物が福西本店でした。
  ・・・・・・
 福西本店は,明治時代から大正時代にかけて繁栄した会津若松の商人である福西家が築いた蔵と商家の建築物です。特に,野口英世青春通りに面した店蔵,仏間蔵,炭蔵の外壁は,一般的な白漆喰ではなく手の込んだ黒漆喰で作られています。母屋には広々とした大広間や座敷蔵などがあります。
 さらに,庭を見渡す東南の一角には二階建ての数寄屋があり,二階は客室として利用されています。
  ・・・・・・
 内部を見学できるということでしたが,もう時間が遅く,閉まっていました。また来いよ,と言われたと解釈しました。

 その後,当てもなく歩いていて,神明通りの東裏,興徳寺の本堂東側に見つけたのは,1590年(天正18年)から会津藩の藩主であった蒲生氏郷の墓でした。この墓は,会津史談会が1953年(昭和28年)に建てた,空風火水地の五文字を刻した五輪塔で,京都大徳寺の本墓から分骨したものと伝えられます。
 また,そのあたりを,野口英世青春通りといい,野口英世が青春時代を過ごし,會陽医院に書生として住み込みで働きながら約3年半にわたって医学の基礎を学んだ場所。洗礼の地は「野口英世初恋の地」ともよばれ,初恋の人・山内ヨネ子と出会ったところだそうです。
 野口英世は,3歳のとき火傷を負った左手を手術した會陽医院の跡が,現在,アンティークカフェで,その2階に野口英世青春館という博物館となっていたので,見学しました。
 さらに歩いていくと,「椿餅」がウリの伊勢屋というお菓子家さんがあって,実にいい外観をしていたので,写真に収めました。「椿餅」は「白虎隊も食べた」といわれている由緒あるお菓子で,創業の地が鶴ヶ城の南口に面していて,城の北面の坂が「椿坂」とよばれていたのが名前の由来です。また,伊勢屋という屋号は,伊勢の松坂城主だった蒲生氏郷が1590年に会津に移封されたときに伝えられた技術を基に創業したからだそうです。

 結局,七日町には,夕食をとる適当な店はなく,会津若松駅まで来てしまったので,駅前にあった寧々家という店でおいしく酒を呑みながら夕食をとりました,
 これで,会津若松市の観光は終わりです。今回は時間がなかったので,ひととおり歩いただけでしたが,会津若松市はとても雰囲気のいい町だったので,また来ようと思いました。
 さて,いよいよ明日は只見線乗車です。空を見上げると快晴で,木星に接近した月がきれいでしたが,明日の天気予報は雪。果たして,列車は動くのか?

DSC_5888DSC_5892DSC_5893DSC_5895DSC_5896DSC_5900DSC_5899DSC_5903DSC_5905DSC_5913DSC_5907DSC_5910DSC_5914DSC_5926DSC_5929DSC_5930


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_6842DSC_6820DSC_6827DSC_6831DSC_6843

######
 2024年2月3日は,予約してあった皇居の一般参観が午後1時30分からだったので,それまで時間がありました。
 まず,午前9時に上野へ行って,国立科学博物館と東京国立博物館を見学しました。いくら土曜日とはいえ,午前中は人もおらず,ゆっくりと見てまわることができました。どこへ行っても人だらけの東京で,ここは穴場です。
 それから,以前から一度行きたいと思っていた上島珈琲店で昼食をとりました。もし,東京に住んでいたら,国立科学博物館は65歳以上は無料だし,この界隈は私の散歩コースとなるところだと思います。落ち着きます。

 昼食を終えて,皇居に向かいました。そして,一般参観の時間まで,皇居東御苑を散策することにしました。皇居東御苑は開放されていて,大手門,平川門,北桔梗門から出入りすることができます。
 私は,江戸城の正門として使われていた「大手門」から入りました。
  ・・・・・・
 皇居は,かつて江戸城でした。江戸城の前身は,1457年(康正3年)に扇谷上杉家の家臣・太田道灌が築いた平山城で,1590年(天正18年)に徳川家康が江戸城に入城した後は徳川家の居城となり,江戸幕府開幕後に大規模な拡張工事が行われ,日本最大の面積の城郭になりました。
 江戸時代,諸大名が登城していた大手門は,敵からの侵入を阻止して反撃するために、大小ふたつの門から成り立っています。現在のものは,1945年(昭和20年)の空襲で焼失し,1967年(昭和42年)に復元されたものです。
  ・・・・・・
 門をくぐると,江戸城警備における最初の番所であった「同心番所」があって,下級武士である同心が詰めて監視していました。そのちかくにあるのが「百人番所」で,45メートルの幅があります。これは,大手中之門を守るために造られた警備詰所で,甲賀組,伊賀組,根来組と4組の鉄砲百人組「二十五騎組」が警備していました。大手中之門跡の石垣を抜けると,3つ目の番所「大番所」があります。こちらは位の高い武士が勤務していました。1968年(昭和43年)に復元されたものです。

 こうした番所を過ぎると,約70本の紅白の梅が植えられている「梅林坂」があります。すでに梅は満開で,美しく花が咲いていました。この地に最初に城を築いた太田道灌が菅原道真を祀る「天神社」を設け,梅を植えたことが坂の名前の由来ということです。
 右手は二の丸庭園で,ここには,復元された日本庭園と,二の丸雑木林・新雑木林,都道府県の木,菖蒲田などがあります。
 「梅林坂」を登っていくと,本丸御殿のあった大芝生が広がります。かつては,13万平方メートルある敷地に,幕府の中枢となる政庁として御殿が建っていました。表御殿・中奥から御鈴廊下でつながっていたのが大奥でしたが,今は,往時を偲ぶものはありません。
 本丸大芝生の右手に天守閣跡があります。天守の土台として築かれた天守台は,日本最大といわれた高さ45メートルの江戸城の天守を支えたもので,現在は東西41メートル,南北45メートル,高さ11メートルの石積みが残されています。
  ・・・・・・
 1657年明暦3年に起きた「明暦の大火」で,江戸城の天守は消失しました。江戸幕府は,すぐに江戸城の復興に着手し,土台の普請を加賀藩主・前田綱紀に命じました。前田家は領内から5,000人の人夫を動員してこれに着手。御家の威信をかけて瀬戸内から巨大な御影石を運ばせて天守の土台を完成させたました。これが、今も残る天守台です。
 しかし,会津初代藩主・保科正之は,実用性のない天守に莫大な建設費や維持管理費を割くぐらいだったら,城下の復興・再建にあてるべきだと反対をし,それ以降,江戸城に天守が築かれることはありませんでした。
  ・・・・・・

 さらに行くと,城壁よりも強固な防御施設であった富士見多聞があって,内部を見ることができます。そこを下ると,松之廊下跡があります。現在は石碑と説明版が立っているだけですが,1701年(元禄14年),この場所で赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に切りかかる刃傷事件を起こしたところです。
 松之大廊下は,本丸御殿の大広間から将軍との対面所である白書院にわたる全長50メートル,幅4メートルほどの畳式廊下でした。襖に松並木の絵が描かれていたことからこの名がつけられていました。
 その先にある富士見櫓は,皇居東御苑の南に位置する高さ16メートルの三重櫓で,江戸城の史跡として唯一残る三重櫓です。どこから見ても同じような形に見えることから「八方正面の櫓」という別名があります。
  ・・・・・・
 富士見櫓は1606年(慶長11年)に創建,櫓台石垣は加藤清正が築いたもので,城内の現存石垣の中でも最も古い石垣のひとつです。富士見櫓もまた,「明暦の大火」で焼失しましたが,こちらは,1659年(万治2年)に再建され,再建されることのなかった天守に代わるものとして,代用天守の櫓ともいわれていました。
  ・・・・・・

 さて,そんな散策を楽しんでいるうちに時間になったので,桔梗門に向かいました。

DSC_6715DSC_6723DSC_6761DSC_6754DSC_6769DSC_6790DSC_6794 DSC_6802DSC_6803DSC_6804DSC_6808 DSC_6840 DSC_6817DSC_6821DSC_6826DSC_6829DSC_6835DSC_6839


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_6931DSC_6935DSC_6917DSC_6982

######
 2023年12月9日に京都へ行ったとき,以前は予約が必要だった京都御所でしたが,今は予約なしに見学することができました。家に帰ってから調べてみると,東京の皇居も,一般参観ができることを知ったので,2024年2月3日,NHK交響楽団の定期公演を聴きに東京へ行く機会に,一般参観に参加してみることにしました。皇居の一般参観は,当日受付と事前受付があるのですが,当日受付は定員を超える心配があったので,事前受付で,午後1時30分の部を予約しておきました。
 私は,ドジャースタジアムは4回も行ったことがあるのに東京ドームには行ったことがなく,アメリカの連邦議会を傍聴したことがあるのに日本の国会を傍聴したことがなく,アメリカのホワイトハウスの見学をしたことがあるのに皇居の一般参観をしたことはありませんでした。ずいぶん前,昭和のころに,偶然,4月29日の天皇誕生日に東京に行ったとき,そうか,今日は天皇誕生日か,と思い立って一般参賀に行ったことはあります。そもそも,一般参観ができることすら知りませんでした。

 集合場所は皇居の桔梗門前で,午後1時30分からとありましたが,午後1時から中に案内されました。事前予約と当日受付は別の列になっていて,当日受付はかなりの人の列ができていたので,事前受付をしておいてよかったと思いました。当日受付は日本人よりも外国人の方が多い状況でした。
 桔梗門は江戸時代に造られたもので,太田道灌が桔梗を家紋にしていたことからその名がつけられたそうです。桔梗門をくぐって,まず,参観者の休所である「窓明館」に入ります。そして,館内のテレビモニターで,皇居や皇室に関する映像を見たり,土産物屋さんを覗いたり,係の人の説明を聞きながら,時間まで待機します。窓明館の前の建物は,1921年(大正10年)に建てられた旧枢密院で,現在は皇宮警察本部の庁舎です。
 時間になったので,それぞれ,日本語,英語,中国語,フランス語,スペイン語のガイドさんについて,言語別に出発します。最初に,桔梗門の脇にある通りを進むと見えてくるのが,江戸城本丸の武器を収めていた高さ16メートル,櫓下の石垣の高さが15メートルの富士見櫓でした。富士見櫓は,1657年(明暦3年)の大火で焼け落ち,1659年(万治2年)に再建されたものです。石垣は「打ち込みはぎ」という手法で,伊豆の自然石をそのまま積んだもので,関東大震災でも崩れなかったそうです。江戸時代は,富士見櫓から富士山や品川の海,両国の花火などが見えたそうですが,今は高い建物にさえぎられて,富士山は見えないという説明がありました。

 富士見櫓から先に進むと見えてくるのが,よくテレビなどに出てくる1935年(昭和10年)に完成した宮内庁庁舎です。それを過ぎると,一般参賀を行う宮殿東庭になります。
 一般参観のメインは,どうやら,この宮殿東庭のようです。一般参賀でも入ることができるのですが,そのときは人が溢れているので,こうして落ち着いて見ることができるのは,一般参観の特典です。有田焼でできた黄色い照明灯の向こうが全長160メートルもある「長和殿」で,その中央のバルコニーに皇室の人たちが並ぶわけです。
 宮殿は,「長和殿」とその奥に平行して建つ「正殿」,そして,右手に宴会場である「豊明殿」が中庭を挟むようにして,カタカナの「コ」の字に造られた部分と,「正殿」の奥の「表御座所」で構成されています。「正殿」には,左から竹,松,梅の部屋があって,もっとも格上の松の間は内閣総理大臣や最高裁判所長官の親任式などの行事が行われる場所です。また,「表御座所」は天皇陛下が公務を行う部屋です。
 宮殿で最も注目すべきものは,宮殿東庭から「長和殿」の奥にかろうじて見える「正殿」の屋根にある,中国の伝説の鳥「瑞鳥」です。これは,両端でペアになっています。この「瑞鳥」は,高さが2.3メートルもあって,人間国宝・佐々木象堂さんが作ったものだそうです。
 宮殿の南側にある宮殿南庭は小川が流れる和風の庭園で,宮殿東庭から見える大きなふたつの丸い刈込みは「南庭の大刈込み」とよばれ,22種類から24種類の樹木を合わせてできたもので,6メートルほどの高さがあり,形を整えるために,中側と外側にハシゴを組んで手作業で行うという説明がありました。
 「長和殿」の南車寄せは,主に各国の大統領や大使の方が利用される玄関です。
 なお,宮殿は「キュウでん」,キュウのところにアクセントがあるよび方をするそうで,我々が「きゅうデン」のように,デンのところにアクセントをおくのとは違うという説明がありました。
  ・・・・・・
 そもそも日本に「宮殿」はなかった。明治以降のことだ。それ以前は「宮殿」と書いて「クーデン」と読んで、仏壇の中に入れる「厨子」(ずし)のことをそうよんでいた。明治以降使うようになった「キュウデン」というよび方を、「クー」ではないと強調するために,「頭高」で「キュウ」を強調して「キュウでん」とよぶのではないか?
  新・ことば事情7152「「宮殿」のアクセント」-「道浦俊彦TIME」(2019.5.6)より
  ・・・・・・

 宮殿を過ぎると正門鉄橋があります。
 正門鉄橋は,江戸時代,低い位置に木の橋を架け,その橋の上に橋桁を組んでさらに橋を架けていたので,二重橋とよばれるようになったそうです。なお,皇居を外側から見たとき,多くの人が眼鏡橋を二重橋と間違えます。
 二重橋の両側にある外灯は「すずらん灯」といい,年末年始にはライトアップされるということです。ここから伏見櫓の美しい姿が見えます。伏見櫓は,京都の伏見城にあった櫓を解体して移設したという話です。
 ここで折り返します。
 「長和殿」の右側を曲がると北車寄があります。北車寄は宮殿で実施される行事に参列する人が利用する玄関で,内閣総理大臣の親任式が行われたのちに撮られる記念撮影スポットでもあります。
 そこから,紅葉山という山の下を通る坂道を「山下通り」といい,江戸時代には紅葉山の上に東照宮が建っていたそうです。現在,紅葉山の上には紅葉山御養蚕所があって,皇后が毎年蚕を育て繭を出荷し,翌年のために蚕の卵を採る作業をする場所です
 夏になると大輪の蓮の花が咲く蓮池濠から,遠くに日本武道館の屋根の擬宝珠が見えました。
 さらに進んで,再び,富士見多聞を見ながら,桔梗門に戻って解散でした。

 これで約1時間15分の一般参観はおわりです。
 この日もまた,快晴でとても暖かだったので助かりました。

DSC_6853DSC_6972DSC_6856DSC_6868DSC_6880DSC_6889DSC_6896zzzDSC_6909DSC_6922DSC_6940DSC_6962DSC_6966

◇◇◇

j-map img_0a74f851ea23f1e7a26e12fd2803addc507963img_27af93b88d31ceb5dd0ef1ece9e371b4380070


◇◇◇


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_6590DSC_6686

######
 私の「ジブリの大倉庫」での滞在時間は1時間程度でしたが,これで十分でした。次に予約したのは午後1時30分からの「どんどこ森」だったので,その間,「もののけの里」へ行きながら,愛・地球博記念公園を散策することにしました。いったい「もののけの里」には何があるのだろう?
  ・・・・・・
 「もののけの里」は「もののけ姫」に登場する和風の里山的風景をイメージしたエリア。
 作品内の建物をモチーフにした体験学習施設「タタラ場」や「乙事主」の滑り台「タタリ神」のオブジェがあります。
 ・・・・・・・
 「タタラ場」では「五平餅」の炭火焼体験ができるということですが,別途1,200円が必要でした。また,「タタリ神」というオブジェと「物見やぐら」はあるだけで登ることはできませんでした。「休憩処」というのは単なる土産物店でした。「愛・地球博」のときに「サツキとメイの家」の隣に建てられた管理棟を移築したものだそうです。
 ということで,「もののけの里」には特に何も見るべきものはありませんでした。

 愛・地球博記念公園の南半分のエリアは,「愛・地球博」のときに作られたままの自然豊かな森が存在しています。その入口に立つのが「稲楼門」でした。
 かつて,名古屋市中村区にあった「中村遊郭」。遊郭時代にあった「稲本楼」は,1923年建築の木造2階建てで,べんがら塗りの赤い塀と中国風の門が特徴で,ロの字やコの字形の建物の中央に日本庭園を配置したものでした。赤線廃止後は「料亭稲本」として営業していて,私も忘年会で行ったことがありましたが,2009年に閉店し,その後は,高齢者向けデイサービス施設として使われてきました。「稲楼門」は「稲本楼」が2018年に老朽化が目立ち解体されたのを機に,この地に移築されたものです。
 「どんどこ森」はこの門をくぐり,はるか先,15分程度歩いたところにありました。
 わかりにくいのですが,有料施設の「どんどこ森」というのは,「どんどこ森」全体のことではなく,このエリアの中にある「サツキとメイの家」の建物の中を見ることができるところだけです。
  ・・・・・・
 「となりのトトロ」で,サツキとメイが引っ越してきた和洋折衷の家は移築されたものではなく,アニメを元に作られたものです。 炊事場,風呂場,茶の間,和室,洋間など,耳をすますとサツキとメイの笑い声やススワタリの音が聞こえてくるようです。
  ・・・・・・
 私は,すでに,ジブリパークができる以前からあった「サツキとメイの家」はすでに来たことがあったから,またお金を出して入る必要はなかったのです。また,「サツキとメイの家」の外観を見るだけなら,無料エリアである「サツキとメイの家の見える展望台」に登れば,それで十分でした。
 「サツキとメイの家」の外には,どんぐりが目印の山道があって。山道を登った先にあるのは,中に入って遊ぶことのできる高さ5メートルの木製遊具「どんどこ堂」と 「どんどこ売店」,そして, 飲み物や土産物、季節に合わせた商品を販売している「どんどこ処」でした。また,山頂と麓をつなぐ,かつて名古屋市内を走っていた路面電車をモチーフにしたスロープカー「どんどこ号」に乗ることもできます。 
 私には,こうした作り物よりも,自然の中を散歩するほうがずっとこころ休まり楽しいので,このあたりをゆっくりと散策しました。日本庭園もあって,なかなか落ち着けるところでした。

 そして,最後に行ったのが午後3時からの「青春の丘」でした。
 「青春の丘」は「耳をすませば」の物語の舞台のひとつである「地球屋」と「ロータリー広場」,「猫の恩返し」に登場した「猫の事務所」, そして誰でも利用できる「エレベーター塔」から構成されるエリアでした。
 「エレベーター塔」は, 19世紀末の空想科学的な世界観をもとにしたもので,ホンモノのエレベータを兼ねています。
  ・・・・・・
 地球屋は「耳をすませば」で主人公・月島雫が偶然たどりついたアンティーク家具や時計の修理・販売を行う店で,2階には,家具のほか,からくり時計,人形,木馬などが部屋の隅々まで置かれていて,機械仕掛けのからくり時計は,10分遅れているので,時間指定のチケットで入場した後に10分待つとからくり時計が動くのを鑑賞することができます。1階に降りると,天沢聖司が見習いとしてバイオリン制作を学んでいた工房がありました。
  ・・・・・・
 私が興味をもったのは,そこにあった数々の本物のヴァイオリンとヴィオラ・ダ・ガンバでした。
  ・・・・・・
 ヴィオラ・ダ・ガンバ(viola da gamba)は,16世紀から18世紀にヨーロッパで用いられた擦弦楽器で,「脚のヴィオラ」を意味してて,これは,楽器を脚で支えることに由来すします。これに対して,ヴィオラ・ダ・ブラッチョ(viola da braccio)は「腕のヴィオラ」の意味で,これがヴァイオリン,チヴィオラ,チェロなどのヴァイロン属です。
 ヴァイオリン属に比べ音量が小さいヴィオラ・ダ・ガンバは,劇場や野外での演奏には適さず,宮廷や上流市民の家庭における室内楽,および教会音楽で用いられます。
  ・・・・・・
 また,「猫の恩返し」に登場する「猫の事務所」は猫サイズで建てた木造平屋の建物ということで,外にあった電話ボックスは,受話器を取ると勝手にどこかへ電話がかかり「 ニャーオ,ニャーオ」という猫の鳴き声が聞こえてきますが,たまに違うパターンがあるそうです。

 この日,「青春の丘」に入るのを待っていたとき,ヘリコブターが2機,空を飛んだので見上げると,奇妙な虹が見えました。
 家に帰って調べてみると,それはレア度★★★の「環天頂アーク」というものでした。私ははじめて見ました。頭上高く,下側にへこんだ弓形に見える虹色現象で,その形から「逆さ虹」ともよばれるそうです。太陽光が上層の巻雲や巻層雲などの氷の粒によって屈折することで出現するということです。また,太陽高度が高すぎると見えなくなって,日の出後か,日の入り前に見られるものだそうです。
 結局,これが,この日,1番の見ものでした。
  ・・
 そんなこんなで,天気がよかったこともあり,時間十分あったこともあり,有料施設の内容はともかく,なかなか楽しい時間を過ごすことができました。有料施設以外はあまり人がおらず,これもまた,ゆったりくつろげた理由でした。近くに住んでいるのなら,毎日でも散歩に来たい場所でした。
  ・・
 それにしても,有料施設は高すぎます。「ジブリの大倉庫」と「もののけの里」で2,500円,そして,「どんどこ森」と「青春の丘」がそれぞれ1,000円で,合計4,500円也。食事と交通費を合わせれば,約10,000円となります。そもそも,新しく造った施設というもはほとんどなく,これまでに何らかの形であったものを改装したり移築しただけの,いかにも金のかけかたを知らない愛知県らしい娯楽施設でした。現在,東京ディズニーランドのチケットが値上がりして約10,000円だそうですが,これはアトラクションなども含まれているので,それに比べたら,かなり割高です。
 私は,どういうところなのかという謎が解けたので,1回で十分だと思いました。リピートすることはありますまい。

DSC_6561DSC_6559DSC_6569DSC_6575DSC_6613DSC_6621DSC_6629DSC_6653DSC_6663


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_7016DSC_7031DSC_7052

 2024年2月3日のNHK交響楽団第2004回定期公演Aプログラム,曲目はヨハン・シュトラウスII世のポルカ「クラップフェンの森で」,ショスタコーヴィチの舞台管弦楽のための組曲第1番-行進曲」「リリック・ワルツ」「小さなポルカ」「ワルツ第2番」,交響曲第13番「バビ・ヤール」(Babi Yar)でした。
 指揮は井上道義さん,歌はバスのアレクセイ・ティホミーロフ(Alexey Tikhomirov)さん,そして,オルフェイ・ドレンガル(Orphei Drängar)男声合唱団でした。今回が,2024年末で引退を表明している井上道義さんのNHK交響楽団との定期公演出演の最後となります。
 今回の定期公演の目玉はなんといっても,井上道義さんお得意のショスタコーヴィチから,交響曲第13番「バビ・ヤール」です。私は,演奏会では,はじめて聴きました。
 ショスタコービッチには15曲の交響曲があります。第2番「十月革命に捧げる」,第3番「メーデー」,第11番「1905年」,第12番「1917年」は聴いたことがなく,また,聴きたいとも思いませんが,それ以外の11曲は聴きごたえがあります。特に,私は交響曲第15番が大好きなので,ショスタコービッチ独特の響きは琴線に触れ,歌詞がわからずとも大丈夫です。それに,交響曲第13番「バビ・ヤール」は5楽章形式でわかりやすく,楽しめます。
  ・・
 それにしても,今年度のNHK交響楽団定期公演Aプログラムは,楽しみにしていた指揮者ヘルベルト・ブロムシュテッドさんとウラディーミル・フェドセーエフさんが来日できないというように受難続きであったことと,マーラーの交響曲第8番「一千人の交響曲」をはじめとして,なじみの薄い過酷な曲が続きます。私には,定期会員でなければ,チケットを買うこともないような曲目ばかりで,こんな機会でもなければ,聴くこともないから,それはそれで是としましょう。
 せっかくなので,今回は改めて勉強して,何度も録音を聴いてから出かけました。

 交響曲第13番「バビ・ヤール」は,エフゲニー・エフトゥシェンコ( Yevgeny Yevtushenko)の詩によるバス独唱とバス合唱つきの5つの楽章からなっていて,第1楽章の標題である「バビ・ヤール」をこの交響曲の通称とします。歌詞はロシア語だし,なじみの薄い曲なので,翻訳を見なければさっぱりわかりません。
  ・・・・・・
●第1楽章「バビ・ヤール」
 「バビ・ヤール」に墓碑銘はない」(Nad Babim Yarom pamyatnikov nyet)という暗くおどろおどろしい独白からはじまり,ユダヤ人の迫害や恐怖の歴史を歌い,反ユダヤ主義をナチス・ドイツに絡めて非難し,弔いの鐘が鳴り続けます。
●第2楽章「ユーモア」
 「王様や権力者たちはすべてを支配したいのだろうけれどユーモアだけは支配出来ない」(Vlastiteli vsei zemli, Komandovali paradami, No yumorom, no yumorom ne mogli)と歌います。ショスタコービッチが1942年に作曲した「イギリスの詩人による6つの歌曲」(6 Romances)の中の「処刑台の上で踊り出すマクファーソン」(Makferson pered kazn’ju)のダンスが使われています。
●第3楽章「商店で」
 「レジの列に立ちっぱなしで体が冷える。女たちはすべてに耐えてきた!」(Zyabnu, dolgo v kassu stoya, Vsyo oni perenosili)と、ロシア名物の行列と女性の忍耐強さを歌います。
●第4楽章「恐怖」
 「ロシアで恐怖が消えてゆく」(Umirayut v Rossii strakhi)と歌います。「密告の恐怖」や「外国人と話す恐怖」が登場します。
●第5楽章「出世」
 「ガリレオは常識外れだ。だが,時の流れが証してみせた。常識外れこそがほんとうは賢い」(Shto nerazumen Galilei, No, kak pokazyvayet vremya, kto nerazumnei, tot umnei)と歌います。
 力なく微笑むような不思議な脱力感のあるコーダで曲は消えていきます。チェロ協奏曲第2番,交響曲第15番と共通するショスタコービッチお得意のフィナーレです。
  ・・・・・・
 交響曲第13番「バビ・ヤール」は,舞台中央にバスがひとり,その背後に男だけの大合唱がユニゾンで,「ユダヤ人」とか「虐殺」を連呼し,ロシアにおける「恐怖」や「不条理」や「死後の出世」を歌うのです。

 ベートーヴェンの交響曲第9番で「人類は皆兄弟」(Alle Menschen werden Brüder)と歌うのも,マーラーの交響曲「大地の歌」で「春になれば花は咲き新たな緑は萌えてくる,永遠に…永遠に…」(Die liebe Erde allüberall Blüht auf im Lenz Ewig... ewig...)と歌うのも,そして,ショスタコーヴィッチの交響曲「バビ・ヤール」で「バビ・ヤールに墓碑銘はない」と歌うのも,創造主が何かの間違いで地球上に作ってしまった愚かな人間が,その英知とやらを振り絞って,かなえられない願望や,あきらめや,そして,懺悔などを音楽で表わしているのです。そして,それらが受け入れられ人々に感銘を与えるのは,人間の性(さが)と自分の力ではどうしようもない現在の世界情勢を反映しているからです。
  ・・
 今回の演奏会は,満員の観客のそのほとんどが知らないロシア語で語られる歌を約1時間延々と聴かされて,それでも,女性の声が聞こえるのなら救いがあるけれど,バスと男性だけの大合唱では,まったく救いがない曲だ,と思いました。
 私は,ふと我にかえったとき,狂気の中にいるような錯覚を覚えました。そして,どんなに演奏がすばらしくとも,いや,すばらしければすばらしいほど,これは音楽をはるかに超えて,人を大虐殺する人間の恐ろしさとそうした社会に生きなけらばならない恐怖を感じて,切なくなりました。

DSC_6990NHKSO_202402_Web


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_6546DSC_6542

######
 昨日のことのように思うのですが,もう19年も昔の2005年に「愛・地球博」が行われました。
 1964年に行われた東京オリンピック,1970年に行われた大阪万博,そして,1972年に開催された札幌冬季オリンピックで,日本は飛躍的に進歩しました。夢多き時代でした。当時はそれでよかったのですが,いつまでもそれが忘れられず,夢よ再びということで,今もなお,一部の実力者たちは同じようなことを企画しているようです。しかし,もはや,世界も,この国も,当時とは状況が違います。
 ということで,私は開催に反対だった「愛・地球博」だったので,チケットを購入することもなく,浮かれることもなく,静観を決め込んでいたのですが,その実,内覧会とオーストラリア館のシンポジウムに招かれて,2度も行きました。
 しかし,私が思っていた通り,開催したことで何かが残ったということもほとんどなく,「愛・地球博」以前は,青少年公園として県民の憩いの場であったところは,「愛・地球博」によって無残にも壊され,有効な活用方法が見つからず,広い土地を持て余し,負の遺産だけが残りました。
 それが,ようやく貰い手が見つかったように,この地にできたのがジブリパークでした。

  ・・・・・・
 ジブリパークは,スタジオジブリ作品の世界観を表現した公園施設として,同園内の未利用地や既存施設を再整備し,「青春の丘」「ジブリの大倉庫」「どんどこ森」「もののけの里」「魔女の谷」の5つのエリアを設けるというもので,まず,2022年に開園したのが「青春の丘」「ジブリの大倉庫」「どんどこ森」,そして,2023年に「もののけの里」,そして,まもなく「魔女の谷」がオープンします。
  ・・・・・・
 私は,ジブリ作品は「となりのトトロ」と「魔女の宅急便」しか知らず,ほどんど興味もないのですが,地元でもあり,一度くらいはどういうところか知りたいという好奇心だけで,2か月前にはじまる事前予約でチケットを手に入れ,2024年1月22日に行ってきました。
 冬の平日,雪やら強風だったらどうしようと,これもまた天気次第でしたが,当日は晴天でポカポカ陽気でした。1日違えば寒波到来,特に1月24日は大雪だったので,大変なことになっていましたが,私はいつもながら強運です。

 何の予備知識もなかったので,適当に見繕って,午前10時に「ジブリの大倉庫」,午後1時30分に「どんどこ森」,午後3時に「青春の丘」を予約しました。もうひとつ「もののけの里」というのは入場時間指定はなく,当日の午後4時までに入場すればいいということでした。そもそも,予約をしておきながら,それらが何なのかさえ知らないありさまでした。
 当日,はじめは公共交通機関でいくつもりでしたが,乗り換えなどが面倒になって,車で行きました。しかし,ちょうど通勤時間と重なって,道路は渋滞気味。やっと到着したのが午前9時ころでしたが,駐車場はがらがらでした。
 ジブリパークは愛・地球博記念公園の中に4か所点在していて,それぞれのエリアに入るときだけ有料で,愛・地球博記念公園自体は無料です。まず,案内所に行って,どのように回ればいいのか聞くと親切に教えてもらえました。午前10時までにはまだ時間があったので,時間つぶしに「愛・地球博」のときに使用したものが展示されてある「愛・地球博記念館」へ寄って見学しました。そこには残されて始末に困るものが展示されていましたが,私以外には訪れる人もおらず,閑散としていました。
 午前9時45分になったので「ジブリの大倉庫」に行ったのですが,すでに午前10時からの人たちが大勢並んでいました。

 愛・地球博記念公園には「愛・地球博」のときの跡地の一角に,スケート場とプールの入った巨大な建物ができました。「ジブリの大倉庫」は,プールを壊して,そこを改装して作られました。スケートリンクは今も存在していて,フィギアスケートショーなども行われています。
  ・・・・・・・
 「ジブリの大倉庫」は,まさにジブリの大博覧会。
 ひとつの巨大な施設の中に,映像展示室をはじめ,3つの企画展示,ショップやカフェなど「ジブリ」がぎゅっとつめこまれています。
  ・・・・・・
 というのがウリですが,中に入ると,まず,1階と2階を結ぶ色鮮やかなキャラクターのタイル装飾の階段と,天窓の下には「空飛ぶ巨大な船」がプロペラを回しながらゆっくりと飛んでいました。それぞれの階には様々な展示室がありました。
 「公開倉庫」と名づけられたコーナーには,三鷹の森ジブリ美術館で開催された企画展示「食べるを描く」が展示されていました。また,「ジブリがいっぱい展」には,世界中から集めたジブリ作品のポスター,映像・音楽パッケージ,書籍などが展示されていました。
 三鷹の森ジブリ美術館で上映されてきた短編アニメを上映する「映像展示室オリヲン座」という劇場では「ちゅうずもう」というネズミが相撲大会をやるという内容のアニメをやっていて,これはけっこう楽しく見ることができました。
 「子どもの街」と「ネコバスルーム」は単なる子どもの遊び場でした。
  ・・
 「南街」という商店街では,書籍を取り扱う「熱風書店」,模型を販売する「大空模型」,駄菓子を並べた「猫かぶり姫」が並び,実際に商品を売っていました。また,「冒険飛行団」という名のメインショップは,ジブリ長編作品に関連するグッズや,ジブリパークのオリジナル商品が売られていました。
 また,その入口にあったミルクスタンド「シベリ❆あん」では,オリジナルデザインの瓶で牛乳が売られていたり,「風立ちぬ」とかいう作品に登場したお菓子「シベリア」が食べられるということですが,「シベリア」は私の家の近くのスーパーにも売っているので,珍しくありませんでした。

 このように,「ジブリの大倉庫」にあったのは,ジブリ作品にでてくるさまざまなセットがこしらえてあったり,土産物店があったりする場所でした。「ジブリの大倉庫」は人気で,ここで何時間も過ごす人が多いということでしたが,何せ,私は,ジブリ作品は「となりのトトロ」と「魔女の宅急便」しか知らないから,見るべきものがありません。所詮,単なる作り物だという感想しか抱きませんでしたが,ふらふらしていたら,何となく時間が過ぎました。
 平日にだれが来るのだろう? と思っていたのですが,幼稚園や小学校の遠足の子供たちがたくさんいました。遠足には絶好の場所のようでした。その一方で,東京からわざわざ来たという人も結構いました。名古屋(愛知)はどこも空いているからいい,と言っていました。
 午前11時になったので,「カフェ大陸横断飛行」という名前のレストランで昼食をとりました。開店早々だったので簡単に席が確保できましたが,食べ終えたころには多くの人が並んでいました。

DSC_6513DSC_6514DSC_6522DSC_6526DSC_6532DSC_6535DSC_6540DSC_6543FullSizeRender


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

83a6a5b2n9092dab1n DSC_5865

######
 会津武家屋敷で,再び,鶴ヶ城のボランティアガイドを一緒に聞いた女性と会いました。旅は道連れ,そして,目的地が同じなので,ここから次に行く飯盛山へ,同じまちなか周遊バスに乗りました。こうして,奇しくも楽しい旅となりました。
 飯盛山は標高314メートル,会津の城下町を一望に見渡すことのできる小高い山で,飯を盛ったような形から名づけられました。讃岐の飯盛山と共通の山だと思った日本武尊(ヤマトタケル)の魂が白鳥になり舞い降りたなどの神話も残る信仰の山ですが,白虎隊十九士自刃の地として知られています。
  ・・・・・・
 1868年(明治元年)の会津戦争は,薩摩藩,土佐藩を中心とする明治新政府軍と会津藩およびこれを支援する奥羽越列藩同盟などの旧幕府軍との間で行われた戦いです。
 京都御所警備という任務に就いていたのにかかわらず,情報軽視や身分が硬直していた会津藩は,武士や地主以外の領民軽視で戦争の準備も軍制改革も遅かったことに加えて,和平主張する者を排斥したことから,藩内強硬派によって,悲惨な戦争が起きてしまう結果となりました。
 会津藩では,年齢ごとに,白虎隊,朱雀隊,玄武隊,青龍隊,幼少隊などが組織されました。藩士子弟の少年たちで構成される白虎隊の士中二番隊は戸ノ口原の戦いにおいて敗走し,飯盛山に逃れましたが,鶴ヶ城周辺の城下町が燃えているのを城が燃えているのと勘違いをして,敵に捕まり生き恥を晒すよりはと自刃してしまいました。
  ・・・・・・

 ハスを降りて,飯盛山への登山口まで来ました。登山口からは急な石段がありました。動く坂道「スロープコンベア」というエスカレータがあるということでしたが,あいにくこの日は運休だったので,雪が積もってすべりやすい階段を手すりを頼りに苦労して登りました。
 飯盛山は観光地となっていて,多くの土産物屋さんがあったのですが,今はシーズンオフで,閉じているのか,営業していてもお客さんがいないか,さびれ感満載でした。
 どうにか山頂に到着しました。山頂には,白虎隊十九士の墓,各地で戦死した三十一士の墓があり,自決した場所には慰霊碑がありました。自決した場所から鶴ケ城を見ることができるということでしたが,目を凝らしてもなかなか確認できず,自宅に戻って写真を見て,やっと判明しました。
 帰り道,中腹にあった栄螺堂(さざえどう)へ迂回しました。
  ・・・・・・
 日本でも珍しい木造建築物である栄螺堂は,1796年(寛政8年)に建立された,高さ16.5メートル,六角三層のお堂で,正式名称を「円通三匝堂」(えんつうさんそうどう)といいます。
 もともと,飯盛山には正宗寺(しょうそうじ)という寺があり,その住職であった僧・郁堂(いくどう)の考案した建物だそうです。その独特な2重螺旋のスロープに沿って,昔は西国三十三観音像が安置されていて,参拝者はこのお堂をお参りすることで三十三観音参りができるといわれていましたが,明治新政府による廃仏毀釈に伴い,明治以降は,養老の滝の話などの,8代藩主・松平容敬が編纂した会津藩の道徳教本であった皇朝二十四孝の絵額が掲げられています。また,上りと下りが全く別の通路になっている一方通行の構造で,たくさんの参拝者がすれ違うこと無く安全にお参りできるという世界にも珍しい建築様式です。
  ・・・・・・
 なかなか興味深い建物でした。

DSC_5848DSC_5855DSC_5849DSC_5851DSC_5850DSC_5857DSC_5858DSC_5878DSC_5866DSC_5867DSC_5871


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_5844

######
 御薬園を出て,次の見どころは会津武家屋敷でした。さすがにそこまでは歩くのがたいへんだと,まちなか周遊バスに乗ることにしたのですが,地図を見ると,その間に,近藤勇の墓がある天寧寺とか書かれてあったので,興味が湧いて,結局,歩き通してしまいました。
 これでは1日乗り放題のチケットを購入した意味がありません。いや,さまざまな施設に割引で入れたので,意味がなかったわけでもないのですが…。
  ・・
 余談ですが,いろいろなところで,割引だとかポイントだとかがあっても,それをどう使うか四苦八苦しているだけではないか,とこのごろ思うようになりました。そして,苦労ばかりが多くなって,結局,いくら得をしたのか? と思うと,何だか馬鹿らしくなってきました。所詮は数百円から多くても数千円くらいのものです。死んだあとに残るお金ならあってもなくても同じ。ならば,そんなことに関わっても,わずらわしいだけであまり意味がないのではないか? だから,簡単に割引になるものならともかく,工夫や知恵を絞ってまで,割引の恩恵の預かろうとするのは本末転倒…。
 閑話休題。

 近藤勇の墓に至るのは,「奴郎ヶ前」(やろうがまえ)という場所にあった狭い坂道で,かつ,かなり距離があったので,結局行くのをやめました。「奴郎ヶ前」には案内板があって,それによると,このあたりは,昔,処刑場があり、罪人が最後の食事として田楽と清水が与えられた場所だった,とありました。柵を意味する矢来の前だったことから「矢来の前」。これが転じて「奴郎ヶ前」と変化したといわれています。
 現在,この場所には会津三大茶屋のひとつである「奴郎ヶ前の田楽」を提供する「お秀茶屋」がありました。四方を山で囲まれた盆地である会津。峠には茶店ができ,その茶屋の料理が名物になりました。それらを三大茶屋といいます。
  ・・・・・・
 滝沢街道にある「強清水(こわしみず)の天ぷら」
 日光街道にある「一ノ堰(いちのせき)の棒たら」
 東山街道にある「奴郎ヶ前の田楽」
  ・・・・・・

 どうして,この場所に近藤勇の墓が? それはつぎのような理由からです。
  ・・・・・・
 28歳で京都守護職を拝命した9代藩主・松平容保(まつだいらかたもり)は,江戸帰還を命ぜられた浪士組のうち京都残留を希望する近藤勇らを御預として,のちに新選組となった「壬生浪士組」を誕生させました。
 新選組は,戊辰戦争に参戦するも敗北を繰り返し,近藤勇が西軍へ投降してもなお抵抗し,宇都宮から会津へと転戦。会津では斎藤一ら一部の隊士が如来堂において西軍に急襲され全滅したといわれます。
 近藤勇は東京板橋で斬首され,京都の三条河原において罪文とともに晒し首にされましたが,土方歳三が近藤勇のために建立したといわれる墓がこれです。土方歳三は,足の治療を続けている間,毎日この現場に来て指図し,建立させたそうです。また,近藤勇の戒名「貫天院殿純忠誠義大居士」は,松平容保が贈ったものであるといいます。
 墓に葬られているのは,京都の三条河原から新選組隊士が奪ってきた首であるとも,また遺髪であるとも。
  ・・・・・・

 奴郎ヶ前を過ぎ,さらに歩くと,会津武家屋敷に到着しました。今回もまた,歩き通してしまいました。私は,会津武家屋敷というのは,江戸時代の武家屋敷が残る風情あるところだと勘違いをしていました。実際は,日新館藩校同様,会津藩家老・西郷頼母(さいごうたのも)の屋敷を復元して見せる観光用の施設で,土産物屋などが併設されていました。本来の西郷頼母邸はこの場所ではなく,鶴ヶ城正面の追手町にありました。
  ・・・・・・
 西郷頼母は,幕末の会津藩の家老です。西郷家はもともとは保科姓で,信州高遠藩の藩主だった保科正直の弟三河守正勝からはじまり,のちに会津藩主となった保科家の分流です。
 西郷頼母は,田中土佐と共に松平容保に京都守護職辞退を進言したので,松平容保から怒りを買い,家老職を解任されました。戊辰戦争が起きると家老職に復帰し,白河口総督として戦いますが,敗れ,会津へ戻り,その後,長男を連れて会津から出ました。新政府軍が城下町に乱入したとき,家族ら21人は邸宅で辞世の句を残して自決しました。西郷頼母自身は,紆余曲折ののち,明治時代は福島県伊達郡の霊山神社で神職を務め,辞職後は会津若松に戻り,1903年(明治36年)に会津若松の十軒長屋で死去しました。
  ・・・・・・

 会津若松市の観光で,最後に残ったのは白虎隊で有名な飯盛山でした。そこまではさすがに遠く,まちなか周遊バスに乗ることにしました。しかし,まちなか周遊バスが来るには,まだずいぶん時間があったので,近くにあると思われた松平家墓所まで行ってみることにしました。
 松平家墓所は,入口まではさほどの距離でなかったのですが,そこからが大変でした。雪が残る山の中へ滑りやすい苔むした石段を登り,到着までは片道20分以上かかるとありました。また,熊注意,ともありました。さすがに冬は冬眠中だから熊は出ないだろうと思ったのですが,あまりの遠さにどうしようかと思っていたところ,途中にも墓らしきものがあったので,それだけを見て引き返しました。
 帰ってから調べてみると次のようでした。
  ・・・・・・
 江戸時代,墓所の場所全体が院内山とよばれていたので,松平家の墓所は「院内御廟」(いんないごびょう)といいます。
 「院内御廟」には,2代藩主・保科正経から9代藩主・松平容保までの歴代藩主とその側室や子どもが埋葬されています。ちなみに,初代・保科正之の墓所は猪苗代町の土津(はにつ)神社にあります。
 1657年(明暦3年)保科正之の子ども保科正頼が18歳で早世し,その埋葬場所として,南向きの山でよい清水が出るためこの場所が選ばれました。その後,2代藩主が葬られ,3代藩主も院内山に埋葬されることが決定して以来,歴代の藩主の埋葬地として歴史を刻むこととなりました。
 墓所は15ヘクタールにもおよび,荘厳な景観をつくりだしているそうです。
  ・・・・・・
 結局,私が行くことができたのは,保科正頼の墓までだったのです。

 会津武家屋敷の先に,今回は行くことができなかった,天平年間に開湯した東山温泉がありました。東山温泉には,江戸時代,会津藩の浴場と保養所があり,負傷した土方歳三はここで湯治しました。明治以降は,この風情に魅せられた文人歌人も多く,与謝野晶子や竹久夢二などが訪れ,数々の作品を残したということです。いつか,ゆっくり行ってみたいものです。
  ・・・・・
 湯あみしてやがて出じとわが思ふ会津の庄のひがし山かな
 半身を湯より出して見まもりぬ白沫たてる山あひの川
 自らを清しとすれど猶あかず会津の山の湯を愛でて浴ぶ
 湯の川の第一橋を我がこゆる秋の夕のひがし山かな
   「青海波」与謝野晶子
  ・・・・・・
 ただし,東山温泉は,様々な問題で,現在は,廃墟化しているホテルもあるということです。日本の温泉地の多くは,同じような問題を抱えています。

DSC_5826DSC_5828DSC_5846DSC_5834DSC_5836DSC_5842DSC_5841DSC_5845キャプチャキャプチャ


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

このページのトップヘ