しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

March 2024

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 奥琵琶湖の西湖岸道路は風車街道と名づけられています。
 このあたり,マキノサニービーチ,オートキャンプ場,海水浴場があって「琵琶湖で一番美しいところ」という歌い文句で観光客を集めています。奥琵琶湖は水がきれいで淡水なので,海で泳ぐようなベタつきもなく,人気があります。おそらく,夏場はすごい人でしょう。
 私は,人が少ないところ,または,人気があってもシーズンオフの場所を探しては旅をしています。ここもまた,この時期は閑散としていました。これがいい。
 さらに,晴れ男の私です。朽木谷を通ったときは雪混じりであったけれど,奥琵琶湖まで来ると回復して,すばらしい天気になりました。

 今回1泊した民宿は,琵琶湖畔にあり,オートキャンプ場と接していました。私は異常なほどの早起きなので,今回も,夜明け前に起床しました。朝食まで時間があったので,海岸を散歩することにしました。
 これがまた,ものすごく美しく,すばらしい景色でした。やがて,日の出を迎え,太陽の光が湖面に光り,最高でした。私は寒さには強いので大丈夫ですが,放射冷却ですごく寒い朝でした。
 シーズンオフのキャンプ場に,ただ1組の年配の夫婦が,この寒さの中でキャンプをしていました。
 私は,アメリカでキャンプをしたこともあり,アメリカやオーストラリアのオートキャンプ場を知っていて,それに比べて,日本のオートキャンプ場はあまりに貧弱で魅力がないか,または,キャンプというのは名ばかりで,至れり尽くせりだったりするから,日本でオートキャンプをしたり,キャンピングカーを買うことにまったく興味がありません。むしろ,他の国の様子も知らず,狭い日本でこうしたことに浪費している人を哀れんでしまうのですが,ここでもまた,どうしてこんな時期に? こんなところで? とむしろ気の毒に思ってしまいました。
 彼らは,せっかくの美しい夜明けの風景を見るでもなく,朝食の準備をはじめました。近くにしゃれたカフェがあるから,何もこんなところで自炊しなくても,とも思いました。まあ,人それぞれですが…。

 時間になったので,民宿に戻り,朝食を食べました。
 食堂にポスターが貼ってありました。それは,メタセコイアの並木道でした。そういえば,このあたりにそんなところがあるということだけは,いつか聞いたことがありましたが,すっかり忘れていました。せっかく来たのだから行ってみようと,正確な場所をGoogleMapsで検索して,民宿をチェックアウトしたのち,車を走らせました。
 それがまあ,見事な風景で,想像以上でした。日本のこうしたところは,実物は写真以下の場合が多く,スケールも小さいことがほとんどですが,ここは違いました。また,この日は平日でもあり,早朝でもあり,シーズンオフでもあったため,ほとんどだれもいなかったことが幸いしました。おそらく,ここもまた,ハイシーズンだとすごい人になることでしょう。
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 農業公園マキノピックランドを縦貫する県道小荒路牧野沢線には,延長約2.4キロメートルにわたりメタセコイアが約500本植えられ,遠景となる野坂山地の山々とも調和し,マキノ高原へのアプローチ道として,高原らしい景観を形成しています。
 この並木は,1981年(昭和56年)に,学童農園「マキノ土に学ぶ里」整備事業の一環としてマキノ町果樹生産組合が植えたのがはじまりで,春の芽吹き,新緑,夏の深緑,秋の紅葉,冬の裸樹,雪花と四季折々に訪れる人々を魅了します。
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 これもまた,このときはまったく知らなかったのですが,2022年に放送されたNHKのプレミアムドラマ「グレースの履歴」のオープニングで,この並木道を赤いスポーツカーで走るシーンがあります。 
 「グレースの履歴」は日本の美しい風景を舞台に,夫のこころの旅路を妻の愛車でたどるロードムービーで
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 妻を突然の事故で亡くした希久夫に残されたものは,妻の愛車「グレース」。日常から遠く離れた場所ばかりカーナビ履歴に残されていたことを知り,妻の不貞を疑った希久夫は謎を解くため履歴をたどる旅に出ます。往年の名女優グレース・ケリーと伝説のエンジニアのエピソードを乗せて,人々に引き継がれていく名車の存在は,希久夫の人生に意外な展開を及ぼしていく。
 原作,脚本,演出は「京都人の密かな愉しみ」などで日本人の心を細やかに描きだす源孝志です。
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ということで,私は,今回の旅で,この地を訪れたことでこのドラマを知り,家に帰ってから,NHKオンディマンドで夢中になって見てしまいました。「グレースの履歴」で写されたのはもっと青葉が茂っている時期ですが,今回のような,枯れた姿の方がきれいだな,と思いました。

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 国道367号線は,旧秀隣寺足利庭園と朽木陣屋を過ぎると終わりを告げて,国道303にぶつかります。国道303号線を東(右)に走れば琵琶湖へ,西(左)に走れば鯖街道で小浜市街に通じています。このときの私は,朽木谷というところがわかればそれでよかったのですっかり満足して,右折して琵琶湖を目指しました。しかし,あとで調べてみると,左折してさらに行くと,中山道奈良井宿のような,鯖街道の熊川宿というすばらしいところがあったのです。惜しいことをしました。
 こうして,また,行きたいところが増えていくのです。

 私は国道303号線を東に進んで,奥琵琶湖まで来ました。このあたりの地名を高島町マキノといいます。今回は,マキノの琵琶湖畔にある湖魚民宿「吉平」というところが予約してありました。安価で,おいしい夕食を食べてのんびりできそうな宿泊先を探して見つけたものでした。
 予約してあった民宿までやって来たのですが,まだ時間が早かったので,そのまま通りすぎて,琵琶湖の北岸を少し走っていくことにしました。
 奥琵琶湖というところは,理由なくときめくのです。奥琵琶湖は琵琶湖畔に沿って進んでいくと奥琵琶湖パークウェイに入ります。あとで知ったのですが,でないと,周回できなかったのです。しかし,冬の時期は積雪のため奥琵琶湖パークウェイは通行止めでしたが,湖畔に沿ってさらに道路が続いていたので,そちらを走ることにしました。右手に琵琶湖が見え,すばらしい景色で,大満足でしたが,行き交う車はほとんどありませんでした。
 ずいぶん走ると,菅浦の湖岸集落という場所に到達して,そこで道路は行き止まりになってしまいました。

 私は,この集落の名前だけは聞いたことがあるのですが,特に興味があるわけでもなかったのでそれ以上調べなかったので,この時点ではほとんど何も知りませんでした。集落の入口に観光客用とに思われる案内地図があったので少しときめいたのですが,駐車場がありません。むしろ,どこかしこに,道路は駐車するな,と書いてあって,ものすごく排他的な嫌な感じがしました。よそ者は来るな,集落に入るなという雰囲気が漂っていました。
 しかし,せっかく来たのでと,道路をかなり引き返し,やっとみつめた駐車スペースに車を何とか停めて,そこから歩きました。集落の中をしばらく歩いていたのですが,住んでいる人に何か言われそうで,途中で怖くなって引き返しました。
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 菅浦の湖岸集落は,琵琶湖の北端より南に突き出て岬状となる葛籠尾崎(つづらおざき)の西側の入り江に位置します。天皇に供える食物を献上する贄人(にえびと)が定着したのがはじまりとされます。
 かつて,菅浦は険しい山に囲まれていたため,水運主体の隔絶された集落でした。そこで,早くから惣村(そうそん)が形成され,自検断(=公権力でない私的集団がその内部のメンバーで刑事裁判権や警察権をもつこと)を行使し,集落の東西には境界となる「四足門」があって,部外者の出入りを厳しく監視していました。
 やがて,1966年(昭和41年)に県道513号線が開通し,1971年(昭和46年)には奥琵琶湖パークウェイも開通し,自動車でのアクセスが可能となると,中世の伝統をとどめる地域として脚光を浴びるようになりました。現在は,57世帯103人が暮らしています。
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 高嶋之 足利湖乎 滂過而 塩津菅浦 今香将滂
 高島の 阿渡の湊を 漕ぎ過ぎて 塩津菅浦 今か漕ぐらむ
 たかしまの あとのみなとを こぎすぎて しほつすがうら いまかこぐらむ
 高島の 阿渡の港を漕ぎ去っていって 塩津菅浦のあたりを 今は漕いでいるだろうかあの船は
    「万葉集」巻9・1734 小弁
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というところだったのです。

 私は,早々にここを出て,今日宿泊する民宿に戻りました。
 民宿の建物はとても新しくきれいでしたが,こんな時期に来る人はほかにはおらず,宿泊客は私ひとりで閑散としていました。食事もおいしかったけれど,やっている人が初老の無口の男の人ひとりだったので,お話が弾むこともなく,単に宿泊するだけで少し物足りなかったことが残念でした。

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 2024年2月27日から2月28日まで,1泊2日で琵琶湖1周の旅をしました。
 石山寺と三井寺についてはすでに書いたので,今日からはその続きです。家からさほど遠くない琵琶湖なので,これまで何度も行ったところがある反面,行ったことがない場所が少なからずあって,ずっと気になっていたのですが,なかなか行く機会がありませんでした。そこで,NHK大河ドラマ「光る君へ」にちなんだ石山寺と三井寺に行ったあとに,そうした場所を1泊することで時間を作って,すべて行ってみよう,というのが,この旅の目的でした。

 まず向かったのが,朽木谷でした。
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 1570年(永禄13年)4月,織田信長は,若狭の守護・武田家を討伐するためという口実で京を出陣しました。このころの武田家は内乱が続いていて,これを平定した朝倉義景が実質上若狭を支配していたので,織田信長は,若狭攻めを口実に,越前の朝倉家討伐を目指していたのです。
 織田軍は,港を押さえる金ヶ崎城の攻略を開始しました。このころ,金ヶ崎城主の朝倉景恒(かげつね)と朝倉義景との関係が悪化していたために援軍が遅れ,あえなく落城。朝倉景恒は降伏しました。こうして敦賀一帯を制圧した織田信長は,朝倉家の本拠・一乗谷に向かって兵を進めようとしました。
 ところが,木ノ芽峠にさしかかったところで,同盟関係にあった,義弟・浅井長政の裏切りを知ります。このままでは朝倉軍と浅井軍の挟み撃ちにあうことを悟り,織田信長はすぐさま撤退することを決め,豊臣秀吉,明智光秀らに殿(しんがり)を命じて,金ヶ崎城を守らせ,自らは朽木谷を越え,京へ逃げかえりました。
 このときの織田信長の退却戦が「金ヶ崎の退(の)き口」「金ヶ崎崩れ」,そして,この撤退が,「信長の朽木越え」と後世伝えられる出来事です。
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 その「朽木越え」というのがどこのことなのだろう? ということが,子供のころから私にはずっと気になっていて,一度,行ってみたいと思っていたのですが,なかなか実現できませんでした。
 それとは別に,京都やその周辺の庭園について調べていたとき,旧秀隣寺庭園というのを知りました。京都市内の有名な庭園のように今も造園をくり返した現役のものとは違って,寂れた庭園の写真を気に入っていました。また,先日,この庭園が「ブラタモリ」でも紹介されました。旧秀隣寺庭園は朽木谷にあるのでした。

 私は,三井寺から北上し,国道477号線から国道367号線を走り,旧秀隣寺庭園を目指しました。
 その途中で,融(とおる)神社に出会いました。
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 融神社は,寛平年間(889年から898年)に,源融(みなもとのとおる)が閑居を設け一面の鏡を埋めたものを伊香立の荘官が掘り出して神璽とし,源融を才人として祀ったのがはじまりとされます。
 源融は平安時代初期の公卿で,源氏物語の光源氏のモデルともいわれます。「小倉百人一首」にも,河原左大臣として歌があります。
  みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに みだれそめにし我ならなくに
    河原左大臣「小倉百人一首」
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 私は「光る君へ」ゆかりの場所を旅しているわけだから,融神社も知っていましたが,この旅で行こうとしている朽木谷からは遠い場所だと思っていたので,行くのをあきらめていました。それがこの場所だっとは! ということで,驚きましたが,これもまた幸運。期せず,融神社にも行くことができたのです。

 融神社を出ると,国道367号線は比良山地を通ります。次第に雲行きが怪しくなり,それまで快晴だったのに,雪が降ってきました。いやがうえにも,朽木という場所がたいへんなところだと認識させられました。私の車はノーマルタイヤなので,これ以上雪が強くなったら引き返そうと考えながら,おそるおそる走っていたのですが,幸い,それほどのこともなく,やがて,安曇川に沿ったのどかな風景を堪能できるようになりました。
 国道367号線はかつては鯖街道といい,古くは奈良,京都の皇室に食材を贈り届けるための近道であり,近代は京都の料理人に鯖や食材を運んでいる道です。そこで,現在も,ここは鯖がウリになっていて,鯖寿司を食べることができる店がたくさんありました。
 やがて,目的地の旧秀隣寺庭園のある,興聖寺に到着しました。広い駐車場があって,そこに車を停めました。 
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 興聖寺は,僧・道元が,近江の守護・佐々木信綱に建立を勧めたのがはじまりといわれる寺院です。もともとは安曇川の対岸の上柏村指月谷にありましたが,江戸時代に大火に遭い,かつて朽木氏ゆかりの秀隣寺のあった現在地に移ってきました。
 秀隣寺は,朽木宣綱が1606年(慶長11年)に正室の菩提を弔うために建立した寺院で,朽木家の菩提所でした。1528年(享禄元年)に,12代将軍・足利義晴が京都の兵乱を避け,朽木稙綱を頼って,3年間この地に身を寄せました。朽木稙綱は将軍のために岩神館を造営し,そこに設けられられたのがこの庭園でした。
 庭園は, 安曇川の清流とその背後に横たわる蛇谷ヶ峰を借景とする池泉鑑賞式のもので,左手の築山に組まれた「鼓の滝」から流れ出た水が池に注ぎます。曲水で造り上げた池泉には石組みの亀島,鶴島を浮かべ,中央付近には見事な自然石の石橋を架けます。作庭したのは,管領・細川高国と伝えられています。
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 旧秀隣寺庭園をしばらく鑑賞したのち,再び車を走らせて,さらに北上すると,朽木の町に着きました。
 ここに,朽木陣屋跡や藁ぶきの家などが保存された場所があったのですが,博物館は閉鎖されていました。私は,中途半端に寂れたところだなあ,というのが実感でした。
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 かつてこの地を治めていたのは,朽木家でした。
 朽木家は,六角家の傘下でありながら,足利将軍家と独自のパイプを持ち,諸勢力から一目置かれる勢力でした。1560年(永禄3年)六角家が浅井長政に敗れると,このときの藩主・朽木元綱は,浅井家への臣従を誓いながらも,程よい距離感を上手く取り,独立した勢力を保ちました。
 そして,1570年(元亀元年)。
 浅井長政の裏切りで挟み撃ちにあった織田軍は,「信長の朽木越え」で,京へ帰還することを決意します。このとき,織田信長にとって,朽木元綱は味方か否かが問題でした。織田信長は朽木元綱が味方してくれるか,同行していた松永久秀に確認して説得してもらう間は朽木谷の北にある洞穴に隠れていました。これが,現在も残る「信長の隠れ岩」です。
 結局,朽木元綱は織田信長を保護して京都までの道案内を務めました。この決断が朽木家を救うことになりました。 その後,関ヶ原の戦いで,朽木元綱ははじめは西軍として参戦するも,小早川秀秋とともに寝返りました。その結果,徳川家康から朽木谷を安堵され,朽木家は,激動の歴史の中を綱渡りのようにして,明治維新までこの朽木陣屋を拠点として続きました。
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今日は,せっかく「リンゴ王国」である青森県に行ってきたので,私の大好きなリンゴのお話です。
青森県に行くと,どこもかしこもリンゴです。私は夕食にデザートとしてリンゴを食べないと終われないほどなので,これだけでも,青森に住みたい! となるわけですが,とはいえ,リンゴについて詳しいわけではありません。スーパーマーケットに行って,買ってくるだけです。種類もほとんど知らず,しいていえば,ふじという名前のリンゴがおいしい,と比べもせずに思っているだけです。
そこで,これを機会に,リンゴについて詳しくなろうと調べはじめてみたのですが,途中で断念しました。というのも,リンゴは,想像していた以上に奥が深く,種類も多く,ここで簡単にまとめることができなかったからです。

リンゴ(Malus domestica, Malus pumila)は,バラ科リンゴ属の落葉高木の果実です。
リンゴの原産地はアジア西部で,人との関わりは古く紀元前から栽培されていたといわれ,16世紀以降に欧米での生産が盛んになりました。現在は,亜寒帯、亜熱帯および温帯で,7,500以上の品種が栽培されています。4月から5月に白い5弁花が開花し,8月から11月にかけて果実が実り収穫されます。
日本においては,平安時代にすでに,書物に記述がみられるということですが,これはワリンゴ(Malus asiatica)で,平安時代から明治時代にかけて栽培され,食用や供え物として珍重されました。
日本語では,漢字で「林檎」と書くのですが,これは,ワリンゴの漢名であって,現在食べているセイヨウリンゴのことではありません。
日本ではじめてセイヨウリンゴが栽培されたのは,1862年(文久2年)に越前福井藩主・松平春嶽がアメリカ産のリンゴの苗木を入手し福井藩下屋敷で栽培されたという記録が有名ですが,それより先,1854年(安政元年)に,これもまた,アメリカ産のリンゴが加賀藩下屋敷で栽培され,食用とされたことがありました。
1871年(明治4年)に,明治政府の命を受けた北海道開拓使の次官黒田清隆と民部省の細川潤次郎が,アメリカから国光など75品種の苗木を持ち帰り,北海道七飯町の七重官園で植栽,それが広がり出したのは1871年(明治7年)からのことになります。そして,生産がようやく軌道に乗ったのは明治20年代とされます。

ということで,今回,大好きなリンゴなのにあまりに知らないことを反省して,これからは,少しはリンゴを買うときや食べるときに,その種類や味について考えてみようと思いました。とはいえ,現在,出回っているリンゴの半数はふじだから,まあ,それほど考えなくてもいいのかな,と思い直したりもします。
それよりも,私には,リンゴのシーズンが終わり,市場にリンゴを見かけなくなる夏の時期が辛いのです。そんなときに愛好しているのが,このごろよく見かけるようになったニュージーランドリンゴで,ニュージーランドからのリンゴの輸入量が年々増えているようです。出回るのが日本と反対の季節であることが幸いしているようです。小ぶりですが,これを1個まるかじりするのも,また,うれしいものです。

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弘前駅に到着して,「リゾートしらかみ」を下車しました。このあと,午後7時15分発の飛行機で青森空港から帰路に着きます。県営名古屋空港到着は午後8時45分です。弘前駅から青森空港へは約1時間なので,午後4時21分発のバスに乗ることにして,それまで弘前の観光をすることにしました。とはいえ,前回来たときに弘前の観光はしたので,特に行きたいというところもなく,弘前駅から,街中を散策しながら弘前城へ行くことにしました。

弘前城は雪景色で,なかなかのものでした。そして,ここからも美しい岩木山が見えました。岩木山は山頂がみっつのこぶに見えて,まさに「山」という漢字に似ていて好きだ,と火野正平さんが言っていたのを思い出します。
岩木山を見ていたら,若い女性がひとりベンチでお弁当を食べていました。彼女は,弘前大学の4年生で,卒業を控えて,美しい岩木山を見にきたと言っていました。一応人生の先輩である私は,彼女はこの先,どれだけのことがあるのだろう,とけなげに思えました。
弘前城から,のんびり歩いて,弘前駅に戻ってきました。そして,予定通り,弘前駅からバスで青森空港へ行きました。

前回は,青森空港のフードコートで,青森のソウルフードである「味噌カレー牛乳ラーメン」を食べました。このころは,青森についてほとんど知らなかったから,どこへ行っても何をやってもどんなものを食べてもときめきと感動がありましたが,それからわずか1年なのに,珍しくもなくなってしまい,それが寂しくもありました。リピートというのはそういうものです。
今回は,いろいろおいしいものを食べ過ぎたこともあり,カレーライスにしましたが,それでも,あおもりリンゴカレーということで,それなりに地元感がありました。

こうして,今回の旅が終わりました。
ストーブ列車に乗って,不老ふ死温泉に入って,「リゾートしらかみ」に乗る,という目的は,すべて達成できました。期待以上の旅でした。昨年は単なる好奇心で出かけた青森でしたが,すっかりはまってしまい,これが2度目の旅でした。そして,今年は,さらに2回青森に行く計画があるのです。自然あり,温泉あり,そして,人の温かさあり,意外性あり,というように,青森はとてもおもしろいところです。

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2024年3月8日。
何とか指定席券を手に入れた「リゾートしらかみ」に乗る日がやってきました。
不老ふ死温泉からは,「リゾートしらかみ」の出発時刻である午前10時38分に合わせて,午前10時20分に旅館を出発する五能線のウィスパ椿山駅まで送迎バスがあるので,これに乗り込みました。結構多くの宿泊客が乗るようでした。みんな指定席券を手に入れるのに苦労したと言っていました。
この時点では,まだ,私は,「リゾートしらかみ」にはどんな人が乗っているのだろう,と心配でした。

五能線の駅名にもなっている「ウィスパ椿山」というのは,1995年4月に深浦町が開業したリゾート施設です。「ウィスパ椿山」には,土産物屋,観光案内所,ガラス館,昆虫館,スロープカーと展望台,そして,宿泊関連施設はコテージ,レストラン,展望露天風呂などがあって,ウィスパ椿山駅から行くことができるようになっていました。
昨年,私は,この近くを走る国道101号線から「ウィスバ椿山」の外観を見て,異様な感じをもちました。これはバブル期のレジャー施設で,地中海の住居を模した異様な外観をしていて,この自然豊かな地を求めてやってくる観光客のニーズとは違うなあ,何か勘違いをしているなあと思いました。やはり,私の思った通り,業績不振やコロナ禍による休業で売り上げが大幅減少し,2020年11月に閉鎖してしまっていたそうです。
「ウェスパ椿山」に限らず,こういう施設を考えた人に見地やセンスがないとこういうことになります。こんな事例は日本各地いたるところにあって,その多くが今は廃墟となっています。こうしてまた,日本の自然が破壊され,日本国中,自然がゴミ屋敷となっていくのです。
「ウェスト椿山」は閉鎖されましたが土産物屋「コロボックル」だけは今も営業していて,これは,不老ふ死温泉から「リゾートしらかみ」に乗るためにやってくる宿泊客をターゲットにしているものと思われます。もし,不老ふ死温泉が「ウェスト椿山」の土産物屋「コロボックル」と結託して,送迎バスの時間を少し早めこの駅で待合時間を長くすれば,もっと売り上げが伸びることでしょう。そうなっていないのが,良心的というか商売気がないというか…。

やがて,定刻に「リゾートしらかみ」がやってきました。不老ふ死温泉に行くと思われる乗客が数人降りました。
私が「リゾートしらかみ」に乗り込んでみると,意外や意外,団体客もいなければ,インバウンドの客もおらず,乗っていたのは,大学生のような個人旅行客がほとんどでした。「リゾートしらかみ」は秋田駅を出発して,弘前駅,あるいは,新青森駅を経由して青森駅まで行くので,東京に住む人がこれに乗るのを目的とするのならば,秋田新幹線で秋田駅まで来て,「リゾートしらかみ」に乗って新青森駅で降りて,東北新幹線で帰れば,日帰りコースにできます。そこで,JR東日本の10,000円の平日限定1日乗車券「旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス」を利用して乗ってきたようです。だから,平日のほうが座席指定券が取りにくく,週末が空いていたのです。
さらに聞いてみると,この入手困難な座席指定券を手に入れる最も確実な方法は,駅の自動券売機で1か月前の午前10時に購入することだそうで,私のように,「えきねっと」で1か月以上前に予約を入れても,JR東日本のコンピュータプログラムはそれが優先的に購入できるシステムになっているわけでないから意味がなく,売り切れてしまうらしいです。これが今回「リゾートしらかみ」指定券即時完売,入手不可能の真相でした。
腹立たしいのは,こうして全席指定券が売り切れであるにもかかわらず,実際は,ずいぶん多くの座席が空いていたことです。要するに,予定も立っていないのに切符を手に入れて,行くことができなくなっても,あるいは,乗らなくてもキャンセルしないからです。その理由は,座席指定券が840円と安くキャンセル代金が320円と高いということもあるのですが,それよりも「旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス」を使えば,座席指定券がその料金に含まれているので,乗る乗らないにかかわらず,座席指定券を手に入れてしまうからです。さらに腹立たしかったのは,乗っている人の多くが,景色も見ず,列車の旅を楽しんでいるわけでもなく,寝ていたりしたことでした。
「リゾートしらかみ」は,能代駅と川部駅で進路方向を変換しますが,もっとも景観のよい能代駅と川部駅の間はA席が海側となります。そこで,特に,A席の争奪戦になります。私は,A席が取れず,通路側のB席を,それもキャンセルがあったから何とか手に入れたのですが,実は,私の隣のA席には私の下車した弘前駅までだれも座らなかったので,幸運にも海側のA席に座ることができてしまったのです。

さて,それはともかく,私は,せっかく座席指定券を手に入れたのだから精一杯贅沢をしてやろうと,ネットの「うけとりっぷ」で豪華弁当を購入しておきました。この弁当は「セイリングの海彦山彦弁当」お値段2,000円というもので,深浦駅での停車時間が6分ほどあって,その時間にホームに降りて,弁当を受けとるというシステムでした。同じように注文をしていた人が5,6人いて,列車がホームに着いて扉が開くと同時に降りて弁当屋さんを目指しました。
弁当が欲しくても予約がしていないということでうらやましがっていたり,どうやって買ったのか聞いてくる人もいました。しかし,「旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス」でやってきた若者にはこの弁当は高価すぎるから,お昼時に乗っているのに食べるものすらない人がほどんどでした。「リゾートしらかみ」には,ビュッフェ車両はあるのですが営業しておらず,車内販売も自動販売機もないのです。ただし,セルフレジの売店はあるので,私はお茶をそこで購入しました。

そんなこんなで,紆余曲折がありましたが,私は,結局,「リゾートしらかみ」の海側のA席に座って,おいしいお弁当を食べながら,晴れ渡った美しい景色を見るという最高の旅をすることができました。
列車は,鰺ヶ沢駅を過ぎると,内陸部に入ります。今度は,私の座っている席の反対側右手に岩木山が美しく見えるようになってきたので,席を立って展望室に行って写真を撮っていると,同じようにして写真を撮っていた女性がいて,何となく仲良くなりました。お話をしていたらあっという間に時間が過ぎるようになり,午前12時35分,五能線の終点駅・川部に到着。そして,その13分後,弘前駅に到着したので,手を振ってお別れしました。
最高の「リゾートしらかみ」の旅になりました。

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午後1時30分に五所川原駅に不老ふ死温泉の送迎バスが来ました。五所川原駅に行くとだけ聞いていたので,五所川原駅のどこに? と思ったのですが,五所川原駅は出口が1か所で,しかも駅前は狭いから,それだけでわかりました。
送迎バスは,私の予想に反して多くの人が乗っていて,五所川原駅で乗せてもらったときは,譲ってもらわないと座る場所がないほどでした。これでは不老ふ死温泉もすごく混んでいるのでは,と嫌な予感がしたのですが,考えてみれば,新青森駅からの送迎バスはこの1台のみであり,この日は五能線が不通で,しかも,それに代わる交通手段もなく,冬場では地元の人以外はレンタカーを利用する人もいないから,宿泊客というのはほぼこのバスの利用者に限られるわけで,だから,わずかこれだけともいえるのでした。
回復基調の天気で,次第に岩木山がうっすらと見えてきた天気の中,バスは途中で休憩を挟みながら,青森県の西海岸沿いに国道101号線を走っていって,深浦町の街中を過ぎ,約1時間で不老ふ死温泉に到着しました。

私は,日本各地にある,名前が知られた,ずらりと大きなホテルの立ち並ぶ温泉街よりも,一軒宿のほうが好感がもてます。昨年泊まった酸ヶ湯温泉も,今回の不老ふ死温泉も,今は有名になりすぎて建物は建て増しをしつつ大きくなっていますが,もとはともに一軒宿です。
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酸ヶ湯温泉は300年の歴史があるのですが,それに対して,不老ふ死温泉は,津軽西海岸の日本海に突き出た艫作崎(へなしざき)に湧出する歴史の浅い温泉です。
艫作崎は黄金崎ともよばれ,日本海に沈む夕陽が見られる場所として有名でした。もともと,海岸に少量ながらも温泉が湧き出ていたのですが,1970年にその地点を地下200メートルほどボーリングしたら大量の温泉が湧出するようになったのがはじまりです。 泉温は摂氏49度,毎分400リットルの湧出量があり,鉄分を多く含む濁った赤褐色の湯が湧き出ています。
「この温泉で養生すれば老いる事も弱る事もない」「1日1年,3日3年命が延び,一生浸かると不老不死」になるとの意味から不老ふ死温泉と名づけられました。温泉宿には波打ち際に造られた瓢箪型の名物混浴の露天風呂があり,瓢箪型の露天風呂の隣には女性専用の楕円形の露天風呂もあります。
日本海の水平線に沈む夕陽を眺めながら露天風呂に浸かるのが醍醐味で,マスコミに取り上げられることが多く,人気になりました。
なお,不老ふ死温泉のふたつめの「不」が平仮名なのは,書家の先生が漢字の「不」がふたつ重なるのはよろしくないと言ったというのが理由だそうです。
  ・・・・・・

私は,昨年,青森県をはじめて旅行したときまで,不老ふ死温泉を全く知らなかったのですが,そのときに意識して以来,この名を目にすることが多く,食事もおいしそうだったので,泊ってみたいと思うようになりました。
送迎バスで一度にチェックインしたので,そのときだけはフロントが混雑しましたが,手際よく対処して,というか,いつもこんな感じなのでしょう。部屋は広く,廊下でも人と対面することがほどんどなく快適で,どれだけの人が宿泊しているのかわからなかったのですが,結構閑散としていて,最高でした。
本館の内風呂「黄金の湯」とそれに続く浜辺の露天風呂,そして,新館の内風呂「不老ふ死の湯」には併設された露天風呂がありました。宿泊客のお目当ては浜辺の露天風呂で,本館の内風呂「黄金の湯」に入ってから行くようになっていました。
日が沈むころの浜辺の露天風呂は混雑するということで,私は,それよりも2時間ほど前に行きました。そのときはガラガラでしたが,次第に人が増えてきました。すでに,日没を見ようと,湯船の特等席に陣取って日没まで粘っていた人がふたりほどいて,いやな感じがしました。しかし,この日は水平線近くには雲があるので,彼らの目論見は外れ,気の毒にも海に沈む夕日は見られない,と思ったので,私は,浜辺の露天風呂に入ることができたことに満足して,30分ほどで部屋に引きあげて,部屋から沈んでいく夕日を眺めることにしました。それがまあ,美しかったこと! 実際,私の思ったとおり,海に沈むころの夕日は見られませんでした。
なお,浜辺の露天風呂は日没後から日の出までは暗いので入ることはできません。また,西側が海で東側は山なので,浜辺の露天風呂から日の出を見ることはできないから,早朝に入ってもあまり意味がありません。
しかし,午前4時から内風呂には入ることができるということだったので,その時間に新館の内風呂「不老ふ死の湯」と併設された露天風呂に行ったのですが,私以外にだれも入っている人がおらず,ここの露天風呂が最高でした。夕方には,この露天風呂からも夕日を見ることができます。ただし,この露天風呂は外から丸見えです。

このホテルでも,また,火野正平さんの色紙を見つけました。私がこれまでに行った日本各地の辺境であるJR野辺地駅,深浦町森山海岸の象岩,佐渡島の民宿「桃華園」,隠岐諸島島前の旅館「みつけ島荘」,壱岐島の猿岩など,どこに行っても,火野正平さんの足跡があります。これだけ津々浦々日本中を巡ることができるのなら,いつまでも自転車旅を続けたいわなあ,とうらやましく思うことでした。
不老ふ死温泉の宿泊コースは,夕食にバイキングと特選和膳を選ぶことができるのはすでに書きましたが,安価なバイキングを選んだ人たちは大広間でした。私は,特選和膳を選んだので,落ち着いた広間で,人も少なくそれぞれが離れたテーブルに座って,ゆっくりと地酒を味わいながら食事をすることができました。朝食は,私の嫌いなバイキング形式だったのですが,それほど混み合っていなかったので,それなりに許せました。
こうして,念願だった不老ふ死温泉での宿泊をすることができたのですが,温泉はもちろんのこと,食事もおいしく,幸い,インバウンドもおらず,団体ツアー客はいたようですが,少人数だったので気にならず,予想以上でした。私は,また来たいと思いました。

不老ふ死温泉は,現在は名も知られて,マスコミにも取り上げられて,いい循環で客足も伸びて,それに従って,旅館も大きくなっているのですが,何せ,交通の便が悪い(悪すぎる)ので,「リゾートしらかみ」頼みで,この先も順風満帆といけるかどうか? リピータが来るかどうか,「リゾートしらかみ」が存続するかどうかが今後を決めることでしょう。
多くの有名な温泉地には,1990年代のバブル経済がはじけて会社の団体客が減り廃墟化した大型リゾートホテルが乱立しています。現在は順調でも,ルールをわきまえないインバウンドの団体客が押しかけるようになって,日本人客が減っているところも少なくありません。また,不老ふ死温泉の近くには「ウェスパ椿山」という,コロナ禍で客足が減り,昨年閉鎖されたリゾート施設もあります。不老ふ死温泉がそうならないように祈っています。

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おめでとう優勝,尊富士。
五所川原の誇り。


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午前11時11分金木駅発のストーブ列車が来る時間が近づいてきたので,金木駅に行きました。
津軽鉄道には,現役の腕木式信号機が,津軽五所川原駅と金木駅に合計3個存在しています。昔は多く見られた腕木式信号機ですが,JR線では2005年6月28日にすべて撤去されて消滅し,現在では津軽鉄道が日本唯一,現役として使用されています,
私の子供のころは蒸気機関車も現役だったように,このような信号機や,タブレット閉塞・スタフ閉塞の交換など,今の若い鉄道ファンが追いかけている多くのものは珍しくもないので,関心はないのですが,こうしたものを目当てに津軽鉄道に憧れている人も少なくありません。

さて,今回の旅は,ここまでは完璧でした。
昨日乗ったストーブ列車はすごく楽しかったから,その思い出だけを残して,この日は空いている一般車両に乗ればよかったのに,せっかくだからと,この日もストーブ列車の車両の乗ったのが間違いでした。まだ朝だから空いているだろうと思ったのですが,さにあらず。車両の半分は,うるさい限りの中国人団体客が大騒ぎをしていたし,残りの半分は日本人観光客でいっぱいでした。ひとり旅らしき女性がストーブ列車だというのに,車両の端に座って,冷めた目で窓から雪景色を見ていました。
津軽中里には私以外に観光客は宿泊していなかったし,金木駅から乗り込んだのも私くらいのものだったから,おそらく,彼らは観光バスでやってきて津軽中里駅で乗り込んだか,あるいは,朝,津軽五所川原駅から津軽中里駅まで津軽鉄道で来て,折り返しているものと思われました。
これにはがっかりしました。旅の思い出は,ちょっとしたことですばらしくもなり,失望にも変わります。

そんなわけで,この日はまったくさえなかったストーブ列車なので,何も書きません。
そんなストーブ列車でしたが,午前11時37分に津軽五所川原駅に到着しました。午後1時30分に,今日の宿泊先である不老ふ死温泉の送迎バスが五所川原駅に来ることになっているので,それまで約2時間,五所川原の町を観光し,昼食もとることにしました。
五所川原の町の見どころは,「まちなか「思ひ出」パーク」にある「太宰治「想ひ出」の蔵」という太宰治の祖母キヱゆかりの蔵,立佞武多が展示されている「立佞武多の館」,そして,五所川原出身の「吉幾三コレクションミュージアム」の3か所だと以前書きましたが,すべて徒歩圏内で行くことができます。
昨日訪れた「太宰治「想ひ出」の蔵」は,太宰治の養母の家があったところで,叔母であるキヱに太宰治が送った直筆の手紙などが展示されていて,太宰治に浸るにはいいところでした。そこで,この日は,それ以外の2か所に行きました。
「吉幾三コレクションミュージアム」は,カフェが併設された洒落た建物でした。館内は,吉幾三さんが使用した楽器,ステージ衣装,出演した映画のポスターなどが展示されていて,中央にはホールがあって,紅白歌合戦やレコード大賞等に出演時の映像を上映していました。ステージ衣装のひとつを着ることができたので,試してみました。ちょうどよいサイズでした。着ていると,スタッフが記念撮影をしてくれました。私は,吉幾三さんのファンということもないのですが,一応「こんな村いやだ」とかいう歌は知っています。しかし,この歌のイメージとは異なり,五所川原の町は都会です。聞いてみると,吉幾三さんの生家は,五所川原の街中からもっと東に行ったところだったそうです。しかし現在は地元では「ホワイトウス」とよばれている600坪の豪邸です。
そういえは,現在売り出し中の大相撲の力士・尊富士も五所川原の出身です。

最後に行ったのが「立佞武多の館」でした。昨年行った弘前の「津軽藩ねぷた村」で,道の狭い五所川原の町では,青森市のねぶたや弘前市のねぷたのような幅の広いものでは作れないので,上に伸び,背の高いものだと聞いていたので,興味がありました。青森市ではねぶた,弘前市ではねぷたといいます。ねぶたもねぷたも睡魔を追い払う「眠り流し」という行事が起源になっていて,「眠り」のなまり方が地域によって異なり,ねぶたとねぷたによび名がわかれたのではないかといわれています。
そして,五所川原ではねぷたを立佞武多(たちねぷた)というのですが,これは平成のころにつけられた新しいネーミングです。
  ・・・・・・
もともと,ねぷたは旧暦の七夕に行われた夏祭りで,江戸時代中期までは小さな灯篭が使われていたのですが,次第に巨大化し,高さを競うようになりました。しかし,大正時代になると,電線が張り巡らされたことで,高い山車は運行が困難になったので衰退し,忘れ去られてしまいました。
その後,平成に入り,五所川原のねぷたを復興させようという動きが起きました。しかし,電線があるので,町中を運行させるわけにはいかず,1996年,1度きりということで作られて,河川敷へ運び,その場で火にかけてしまいました。
しかし,市民の熱意もあって,これをきっかけに,五所川原市は,ねぷたを恒久的に復活させるために,電線を地中に埋めるという手段をとりました。その結果,1998年,「五所川原立佞武多」が開催され,今では100万人超が訪れる祭りへと成長したのです。
  ・・・・・
立佞武多は,高さ約23メートル,重さ約19トンにもなります。青森市のねぶたや弘前市のねぷたとは違って,毎年1体の大型立佞武多が制作され,3年間使用されます。そこで,毎年3体の立佞武多が披露されることになります。その立佞武多の実物が保存・展示されているのが「立佞武多の館」です。
夏のまつり本番では,忠孝太鼓を先頭に,市内の有志団体・高校・町内会・企業などの中型立佞武多,小型ねぷたとともに,この3体の大型立佞武多が「ヤッテマレ!ヤッテマレ!」の掛け声と囃子,踊り手などが華を添えながら五所川原市街を練り歩くということです。
このように,五所川原の立佞武多は,実は平成になって80年ぶりに復活した,新しいものです。
  ・・・・・・
私は,3体の巨大な立佞武多を見て,五所川原の矜持を感じました。

そのあと,どこかで五所川原らしい昼食を,と思いながら歩いていたのですが,適当なところもなく,結局,五所川原駅にもどってしまいました。そして,駅前で,食事ができるお土産屋さん「コミュニティカフェ でる・そーれ」を見つけ,津軽鉄道社長シリーズと銘打った「社長のタンメン」を食べました。

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津軽半島に桜で有名な公園があることすら私は知らなかったので,驚きました。
帰ってから調べてみると,ネットに桜が満開の美しい芦野公園の写真がたくさん載っていて,今回,私が経験した芦野公園のイメージとはまるで違いました。私が行ったときは,ちょうど雪が降り積もったばかりで,さびれ感満載の白銀の姿。このような写真は1枚もありませんでした。しかし,これがまた,いいものでした。
芦野公園に太宰治の銅像があるというので津軽鉄道を降りて行ってみることにして,雪降る芦野公園駅で降りたわけですが,踏切を渡って北に約400メートルほど歩いていくと,桜松橋という藤枝ため池にかかる吊橋があって,そのたもとにめざす目的地が見つかりました。

そこには,太宰治の銅像だけでなく,「津軽三味線発祥之地」と書かれた石碑がありました。
津軽三味線は,津軽地方で発達した三味線です。明治時代に「坊様ボサマ」とよばれた盲目の旅芸人・仁太坊(にたぼう)が,家毎の軒先で三味線を弾き金や食料をもらって歩く「門付」(かどづけ)の芸としてはじまったものということです。
  ・・・・・・
仁太坊は金木の生まれで,幼くして天然痘にかかり失明,さらに両親を失って天涯孤独となり,生きるために門付けを行い三味線を弾き歩きました。やがて「叩き奏法」を編み出して自分の三味線芸を創り上げていったのです。そして,弟子のひとり・白川軍八郎が三味線の独奏で曲芸のような弾き方である「曲弾き」を編み出しました。
  ・・・・・・

さらに,吉幾三さんが歌った「津軽平野」の歌碑もありました。
  ・・・・・・
山の雪どけ 花咲く頃はよ かあちゃんやけによ そわそわするね
いつもじょんがら 大きな声で 親父うたって 汽車から降りる
お岩木山よ 見えたか親父
    吉幾三「津軽平野」
  ・・・・・・
この歌碑の裏には「風を截る音色・津軽の魂が宿る 儀一」の文字が刻まれていました。これは,作家の藤本義一本人が記した文字でした。どうして藤本義一さんが? と思ったのですが,それは,1976年,帝劇で上演された舞台「津軽三味線・ながれぶし」の作者が藤本義一さんなので,これと関わるのでしょう。

太宰治の銅像は,鹿児島市在住の彫刻家・中村晋也さんが作成した,高さ約2メートルの全身像です。
2009年6月19日の太宰治生誕百年記念日に除幕式が行われました。
これもまた,どうしてここに? と思ったのですが,芦野公園は金木町なのだから,当然なのです。津軽鉄道の線路は「つ」の字に回っているので,遠そうなのですが,芦野公園と太宰治の生家「斜陽館」は目と鼻の先の距離なのです。
「斜陽館」は午前9時に開館で,太宰治の銅像から歩くとちょうどその時間になるので,金木町を歩いて,「斜陽館」まで行きました。今回も「斜陽館」の中に入ってみましたが,「斜陽館」のことは以前書いたので,ここでは省略します。
はじめは閑散としていい雰囲気だったので30分ほど滞在していたのですが,やがて,インバウンドの人たちがバスでやってきて,雰囲気が一変したので,退散することにしました。
金木駅に向かって歩いていると,前回訪れたときは知らなかったのですが,途中に「太宰治疎開の家」があったので,寄ってみました。
  ・・・・・・
「太宰治疎開の家」は太宰治の長兄・津島文治が,1922年(大正11年)の結婚を機に新築したのもで,津島家では新座敷とよばれていました。1945年(昭和20年)の7月末から1946年(昭和21年)11月12日まで,太宰治が戦禍から逃れ,妻子を連れ故郷に身を寄せた場所とされています。
  ・・・・・・
太宰治は,新座敷に暮らしていた間に「パンドラの匣」「苦悩の年鑑」「親友交歡」「冬の花火」「トカトントン」など23の作品を書き上げていて,文豪デビュー後に居宅としていた建物では唯一現存するものということです。
そんなこんなで,この日は朝から金木の町ですっかり太宰治に浸りました。

  ・・・・・・
金木は,私の生れた町である。津軽平野のほぼ中央に位し,人口五,六千の,これといふ特徴もないが,どこやら都会ふうにちよつと気取つた町である。善く言へば,水のやうに淡泊であり,悪く言へば,底の浅い見栄坊の町といふ事になつてゐるやうである。
    太宰治「津軽」
  ・・・・・・

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冬の津軽中里に来たのだから,雪景色が見られるのは,むしろ幸運なことです。
お世話になった「福助旅館」をチェックアウトして,雪の中を歩いて津軽鉄道の津軽中里駅に着きましたが,私の他に誰もいませんでした。駅員さんもおらず,列車だけがホームに停まっていて,入口のボタンを押すと扉が開いて,すでに乗れるようになっていました。
この列車は「走れメロス」号と名がつけられた津軽21形気動車です。
  ・・・・・・・
津軽鉄道の津軽21形気動車は,1996年(平成8年)11月に2両,2000年(平成12年)2月に3両の計5両が製造された津軽鉄道の気動車です。太宰治の作品にちなみ「走れメロス」の愛称がつけられています。朝夕のラッシュ時を除く時間帯の列車をワンマン運転とすること,冷房化による快適性の向上をねらって,国と青森県からの補助金と津軽鉄道活性化協議会からの助成を受けて導入されました。
車体外装は津軽平野の実りの秋を連想させるオレンジ色を基調としていて,窓下にはレトロ感を演出する輪郭帯の入ったモスグリーンの帯が配されるとともに,連続窓風に見えるように,窓周りは黒く塗装されています。
  ・・・・・・

定刻に運転手さんがやってきて,私ひとりの乗客を乗せて列車が出発しました。
来るときはストーブ列車だったので停車しなかった深郷田駅にも停車しました。この駅で,ひとり女性が乗ってきました。そして,大沢内駅,川倉駅と続いて,私が降りる芦野公園駅に着きました。
あたりは一面の銀世界でした。
この駅に降りると,若い女性がひとり,待合室で津軽中里駅に向かう列車を待っていました。私の乗ってきた列車は五所川原行き。複線になる次の金木駅で津軽中里行きの列車とすれ違うことができるのです。
列車を降りてみたものの,道はすべて雪に覆われていて,視界も効かず,方向感覚がありません。どちらに行けば,目的の太宰治の銅像があるか,皆目見当がつかないのです。iPhoneのGoogleMapsも要領を得ません。そこで,この女性に聞いてみました。すると,どうやら,私の思っていたのとまるで逆の方向でした。降りたホームの反対側だったので,レールを横切る必要がありました。少し歩いて踏切を見つけて横断しました。
  ・・・・・・
太宰治がよく遊んだ場所として知られている芦野公園は,「日本のさくら名所100選」にも選ばれていて,約80万平方メートルの広大な園地は,春になると約1,500本の桜が咲き誇ります。一番の見どころは,桜のトンネルをローカル鉄道が走るところで,昔ながらの小さな駅舎やのどかな風景が訪れる人々を一段と楽しませてくれます。
園内には,太宰治文学碑や太宰治像,津軽三味線発祥の地碑などがあります。
  ・・・・・・

駅の周辺には,津軽鉄道・芦野公園旧駅舎を活用した赤い屋根の喫茶店「駅舎」があるのですが,さすがにまだ朝早く,開いていなかったのが残念でした。
  ・・・・・・
ぼんやり窓外の津軽平野を眺め,やがて金木を過ぎ,芦野公園といふ踏切番の小屋くらゐの小さい駅に着いて,金木の町長が東京からの帰りに上野で芦野公園の切符を求め,そんな駅は無いと言はれ憤然として,津軽鉄道の芦野公園を知らんかと言ひ,駅員に三十分も調べさせ,たうとう芦野公園の切符をせしめたといふ昔の逸事を思ひ出し,窓から首を出してその小さい駅を見ると,いましも久留米絣の着物に同じ布地のモンペをはいた若い娘さんが,大きい風呂敷包みを二つ両手にさげて切符を口に咥へたまま改札口に走つて来て,眼を軽くつぶつて改札の美少年の駅員に顔をそつと差し出し,美少年も心得て,その真白い歯列の間にはさまれてある赤い切符に,まるで熟練の歯科医が前歯を抜くやうな手つきで,器用にぱちんと鋏を入れた。
少女も美少年も,ちつとも笑はぬ。当り前の事のやうに平然としてゐる。少女が汽車に乗つたとたんに,ごとんと発車だ。まるで,機関手がその娘さんの乗るのを待つてゐたやうに思はれた。こんなのどかな駅は,全国にもあまり類例が無いに違ひない。
    太宰治「津軽」
  ・・・・・・

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「福助旅館」に到着しました。気さくな女将さんが迎えてくれました。
この日の宿泊客は3人,ということでしたが,私以外は旅行者というより,仕事か何かの作業で来ているひとのようでした。地方のこうした旅館は,道路工事などで来ている人の宿泊先になっていることも少なくなく,仕事が終わって帰ってきて,外で群れてタバコをくゆらせていたりしていることもあって,観光気分の気ままなひとり旅の期待とは違うことがありますが,今回は大丈夫でした。
部屋に案内されました。和室の中央に大きなベッドがありました。
特にすることもないし,どこかに行くあてもないなあ,と思っていたら,旅館の風呂よりも近くに大きな温泉ができたから行ってみるといいよ,と言われたので,そうすることにしました。シャンプーやタオルを準備してくれました。
四つ角を左へ左へ行くように,と言われたのでそうすると,5分くらいで到着しました。「総合福祉健康センター 湯らぱ~く」という,すごく大きな施設でした。
  ・・・・・・
事業費26億円で,2022年3月に着工し2024年2月6日の「ふろの日」に温泉やトレーニング施設を備えてオープンしたのが,中泊町の「総合福祉健康センター 湯らぱ~く」です。
入浴料400円の大浴場には,内湯(中温・高温),露天風呂,サウナと,家族風呂があります。天然温泉は体の芯からポカポカと温まります。
  ・・・・・・

それほど混雑していませんでした。新しく広く,しかも,天然温泉ということで,どこかの大きな旅館の温泉より,ずっと立派で快適,ここは最高でした。毎日こんな温泉に入れるのなら,この町に住んでもいいと思うほどでした。
風呂につかりながら地元の人と話をしましたが,何せ,津軽言葉があまりわからないから,外国にいるような感じでした。
以前,オーストリアでドイツ語しかわからない初老の女性と,バス停でバスが来るまで話をしたり,フィンランドでフィンランド語しかわからない老人の男性と,地下鉄の駅で列車が来るまで話をしたこともあります。
まあ,そんな経験上,それに比べれば,何を言っているのかおおよそは見当がつくから,何とかなります。そんな地元の人が言うには,やはり,ここもまた,若い人は都会に出てしまい,この町も老人ばかりだそうです。
あまりに快適な温泉だったから,ずいぶんと長い間入っていました。
帰りにお酒でも買ってくるといい,と旅館の女将さんに言われたのですが,その,酒屋さんがないのです。というか,町全体にお店がほとんどないか,あっても,もう閉まっていました。かろうじて見つけて中に入ったのですが,今度は,地酒どころか,売っている品物がほどんどない。かろうじて存在したワンカップ大関を購入しました。せっかく来たのに,この地のお酒が飲めないのだけが残念でした。
旅館に戻って,女将さんと話をしながらのんびりと夕食をとりました。
食事後は,私は,旅先でもテレビを見ないので,特にすることもなく,早々に寝ました。

2024年3月7日。
朝起きて,窓から外を見るとしんしんと雪が降っていて,旅館のまわりは一面の銀世界でした。雪国らしくていいです。この雪はまもなく止んで,この日は快晴となる,という天気予報でした。
朝食をとったあと,出発の準備をしました。
もともとの予定では,午前10時53分津軽中里発のストーブ列車に乗ることにしていましたが,それまでここで何をするの? ということもあったし,金木駅のひとつ手前の芦野公園駅で降りて少し歩くと太宰治の銅像があると女将さんが言うので,予定を変更して,午前8時18分発の列車に乗ることにしました。
午前8時18分発の列車に乗ると,芦野公園駅に着くのが午前8時29分。そこから歩いて,太宰治の銅像を見て,金木の町まで歩けば,午前9時に開館する斜陽館に行くことができます。私が乗ろうと思っていたストーブ列車が金木駅に来るのが午前11時7分なので,金木駅からそれに乗ろうと決めました。斜陽館はすでに昨年行ったのですが,太宰治の銅像は見ていないし,金木の町自体も散策していないので,これがいいな,と思いました。

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昨年は車で金木の斜陽館までしか行くことができなかったので,金木駅を過ぎた北は,私にははじめて見る風景でした。田んぼは雪景色で,ハクチョウやそのほかの鳥がいました。ハクチョウには興奮しました。それ以外の鳥はストーブ列車の中で解説がありましたが,残念ながら名前を忘れました。
金木駅の次が芦野公園駅,その次の川倉駅は通過して,大沢内駅,そして,「不幸だ」と読めるとネタにされた深郷田駅は通過して,午後3時25分終点の津軽中里駅に着きました。
予想をはるかに超えた,すばらしいストーブ列車の旅になりました。
ただし,残念なことに,ストーブ列車の多くの写真を見ると,気動車が接続されていて,写真が様になっていますが,今回,私が乗ったのものは気動車が接続されていませんでした。その理由は調べてもわかりませんでした。

このストーブ列車,コロナ禍のころ,まったく乗る人がいなくなってしまったそうです。
私は,コロナ禍の時期もずっと元気だったし,未だ,新型コロナどころか,風邪すらひいたことが一度もありません。むしろ,そのころは,どこも空いているのを千載一遇のチャンスとして,頻繁に京都や東京へ車で新幹線で旅をしていましたし,飛行機で北海道にも行って,ガラガラの旭山動物園を堪能しました。しかし,青森へ行ってストーブ列車に乗ることは思いつかず,今となっては残念なことをしました。旅と投資は人と反対なことをするといい,というのが私の持論です。
ストーブ列車はコロナ禍を乗り越えて,よくぞ,生き残ったものだと思いました。
今回乗った車両は「オハフ33」と書かれていました。
  ・・・・・・
1948年に新潟鐵工所で製造された元国鉄「オハフ33・520」は,津軽鉄道には1983年に譲渡されました。機関車に暖房用蒸気供給設備がないため,ダルマストーブを設置しています。
  ・・・・・・
若いころは,こんな客車に乗っていたから,私にはなつかしいものでしたが,若い人にはめずらしいものでしょう。

私は,来る前,津軽鉄道の終着駅はどんなところだろう? という好奇心でいっぱいでした。ものすごい最果てのような気がしていたからです。しかし,駅の周辺は思った以上にたくさんの民家があったので意外な気がしました。
乗客の多くは,というより,ほどんどは,前回書いたように,JR東日本の10,000円の平日限定1日乗車券「旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス」で来ているので,津軽中里駅に来たことで満足して,30分ほど滞在して,午後3時54分発のこのストーブ列車に再び乗って,戻っていきます。何せ,彼らは日帰り旅行なのです。朝,弘前駅でわかれた大学生も,彼の予定通り,金木駅でストーブ列車に乗ったようで,再び再会しましたが,ここで折り返して帰っていきます。
今は,このような企画商品があるにせよ,普段でも,旅をしている大学生の多くは,ふたり連れの女性が多く,男の姿は,海外でも日本国内でもあまり見かけません。旅こそ最大の勉強なのに,と私は思いますが,彼らは一体何をしているのでしょう。

私は,長年ストーブ列車に乗りたかったのですが,観光客で混雑しているのも嫌だったし,半ばあきらめていました。しかし,津軽中里駅の近くに旅館を見つけたことで,これなら最終のストーブ列車に乗れば,おそらくそれほど混雑していないだろうし,静かな町で1泊するのは悪くないと思ったので,今回の旅を実行したのですが,ストーブ列車の中で「今日この町に泊まる」と言ったら「この町に何があるの?」と言われました。帰宅した今になってもよくわかりません。車がないと,津軽半島のこの先の十三湖も竜飛岬もどうやって行くのか皆目見当もつきません。バスがあるよ,と聞いたのですが,調べても時刻表すら見つかりませんでした。
もっと寒い時期にフィンランドのロヴァニエミに行ったのですが,ロヴァニエミのほうが交通事情はずっと便利でわかりやすいものでした。JRの車内では「カンペ」にせよ,英語の案内放送があったりと,一見,外国人に親切そうなふりをしていますが,地方の駅には駅員すらいないし,会社が異なれば,地元で聞いても時刻表すら簡単には調べられません。また,現金しか使えないとか,本当に日本はよくわからない国,というか,やったふりばかりで,本当の利便性がまるでわかっていないのです。だからまた,バス旅のようなテレビ番組が作れるのでしょう。
しかし,何もないにせよ,こうした知らない小さな町を歩くのはこころときめきます。これぞ旅です。おそらく,今日宿泊する旅館も,客は私ひとりでしょう。むしろ私はそれを狙って旅をしているわけです。これまで,日本国内に限らず,海外も多く旅をしてきましたが,何もないような,ガイドブックにも情報が載っていないような無名の町の小さな旅館へ泊ることこそが,旅のなかで最大の贅沢だと,つくづく思うようになりました。
後でこの日宿泊する旅館の女将さんと話をしていたとき,みんな津軽中里まで来ても泊まらずに帰っちゃう,とぼやいていました。

私はこの日,津軽中里の「福助旅館」に1泊するので,ストーブ列車の車中で知り合った人たちと別れて,津軽中里駅から「福助旅館」まで歩くことにしました。
10分くらい津軽中里の町を歩いて,「福助旅館」に到着しました。

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五所川原の町は小さくて,見どころは,「まちなか「思ひ出」パーク」にある「太宰治「想ひ出」の蔵」という太宰治の祖母キヱゆかりの蔵,立佞武多が展示されている「立佞武多の館」,そして,五所川原出身の「吉幾三コレクションミュージアム」の3か所で,すべて徒歩圏内でした。この日は時間がなかったので,その中で,「まちなか「思ひ出」パーク」にある「太宰治「想ひ出」の蔵」だけに行って,それ以外のところは,次の日に行くことにしました。五所川原の町のことは後日まとめて書くことにします。
五所川原駅に戻ってきました。いよいよ午後2時40分発のストーブ列車に乗ります。

小さな津軽五所川原駅前には観光バスが2台も停まっていてすごくいやな予感がしました。これだけの人がこれから乗るか! と思いました。しかし,バスの中にも待合室にもひとりの団体ツアー客もいませんでした。
すると,駅の待合室で,青森空港で出会ったツアーコンダクターの女性に再会しました。そこでわかったのは,団体ツアー客は,青森空港からバスに乗って津軽五所川原駅に直接向かって,午前12時発のストーブ列車に乗って,午前12時26分着で金木駅で降りて,斜陽館に行って,再び,午後1時56分金木駅発のストーブ列車で午後2時22分に津軽五所川原駅に戻ってくるという旅程だということでした。つまり,このときの観光バスは,ストーブ列車で戻ってくる団体ツアー客を乗せるために待っていたのです。
やがて,ストーブ列車が戻ってきました。すると,まあ,降りてくるわ降りてくるわ,すごい数の団体ツアー客が改札口から出てきて,バスに乗り込んでいきました。
こんな具合だから,個人旅行客は,午前12時発の時間のストーブ列車に乗るのは最悪の選択です。
津軽五所川原駅の待合室に売店があったので,店員さんに聞いてみると,この1週間ほど前は,暖冬で津軽鉄道の沿線は雪がなく,観光客はがっかりだったようです。そして,この3,4日雪が降ったので雪が積もり,今は絶好の状況だということでした。ストーブ列車は3月31日までの運行で,私は,青森の寒さに恐れをなしていたので,1月,2月に来ることは選択肢にはなく,3月なら多少は暖かだろうと,やってきたわけですが,しかし,雪がないかもしれないなあ,と覚悟していたので,今回もまた,幸運でした。

改札がはじまったので,列車に乗り込みました。ここでもまた,さきほどとは別の大学生と知り合いました。彼は大学4年生で,卒業前に旅行でやってきたと言っていました。旅は道連れ,列車の中はふたりのほうがいろいろと便利なので助かりました。心配していた車内は,団体ツアー客もいなければ,うるさいだけのインバウンドの中国人もおらず,最高の状況でした。ここでもまた,私は幸運でした。
個人旅行客は,津軽五所川原駅午後2時40分発のストーブ列車に乗るべきだと知りました。
ストーブ列車の中で,定番のお酒とスルメを売っていました。スルメを買うと,係の人がストーブの上で焼いてくれるのです。ビニール袋のなかに1匹のスルメが入っているのですが,係の人がこれを手で切ってストーブで焼いて,再びビニール袋に入れてくれるのです。そこで,もうこの時点では,何人かの人のスルメがごちゃごちゃになるわけで,そんなことなら,はじめから焼いたのをくれればいいわけですが,まあ,これが儀式というものでしょう。スルメもお酒もひとりでは多すぎるから,知り合った大学生と分け合うことができました。
私が乗ったストーブ列車,空いていたから,ストーブの近くに陣取ることができたし,若い女性がいっぱいで,とてもたのしい時間となりました。

やがて,列車は嘉瀬駅に着きました。この駅にあったのが,香取慎吾さんが描いた車両でした。
この車両は,香取慎吾さんが,1997年に地元の小学生たちと一緒に絵を描いたもので,2000年に運行を終えてからは,嘉瀬駅で展示されていたのですが,車両に描かれた絵が時間が経って劣化してしまったので,再び香取慎吾さんに依頼して,2017年に塗り替えたものだそうです。
列車は次の金木駅に到着しました。この駅の近くに斜陽館があるのですが,さすがにこの時間だと降りる人はあまりいませんでした。

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午前12時40分発の列車の出発時間が近づいてきたので,弘前駅に戻りました。
この時点では知らなかったのですが,弘前駅は奥羽本線の駅なので,北に行くと青森駅,南に行くと秋田駅です。五能線は弘前駅から奥羽本線を北に青森方面に行く途中の川部駅からはじまるのですが,弘前駅から直通で接続しています。そこで,弘前駅で五能線に直通する列車の表示は間違えないように赤字で表示されています。
五能線は川部駅から南に進むので,弘前駅からの直通列車は,川部駅で進行方向を変え,五能線に入ると右折しながら,西に行くことになります。

2両編成のワンマンカーがやってきたので,乗り込みました。結構混雑していました。
列車が出発すると,車窓から見えるのは雪原,そして,リンゴの農園でした。これぞ私の思っていた青森! でしたが,寒くありませんでした。
弘前駅,撫牛子(ないじょうし)駅,その次が川部駅です。川部駅で進行方向を変えて五能線に入り,次の駅が藤崎。青森県はリンゴ生産日本一ですが,その中でも,このあたりが最も生産量が多い場所だそうです,そして,藤崎は駅に表示があるように,「ふじ」発祥の地です。
  ・・・・・・
1939年(昭和14年)に,この地でりんごの新品種の育種試験が開始されました。「デリシャス」の花の花粉を「国光」の花のめしべに交配したものから274個の果実を収穫し,この果実から得られた2004粒の種子を植えつけ,968本の実生が育ち,その実生がはじめて実をつけたのが1951年(昭和26年)のことでした。その中から「東北7号」として選抜されたものが後の「ふじ」です。
「ふじ」と命名されたのは1962年(昭和37年)3月で,1982年(昭和57年)に生産高日本一となり,「ふじ」は名実ともに日本一のりんごに成長しました。
  ・・・・・・
藤崎駅の次が林崎駅,板柳駅,鶴泊駅,陸奥鶴田駅と続き,列車は午後1時24分に五所川原駅に到着しました。

JR五所川原駅のホームは津軽鉄道五所川原駅のホームと陸橋でつながっていました。
私が乗ろうと思っていたストーブ列車は午後2時40分発ですが,その前に午後1時30分の普通の列車があって,それに乗り替える乗客は,JR五所川原駅の改札を出なくても,そのまま津軽鉄道のホームへ行くことができて,駅員が誘導していました。この駅の構造は,はじめて来た観光客はかなり戸惑います。日本の鉄道の駅の構造は,五所川原駅に限らず,どこも複雑で,行ってみないとわかりません。
弘前駅から乗った列車の中で,ひとり大学生と知り合いになりました。彼は,鉄道ファンのようで,カメラを2台首から下げていました。五所川原駅に着いたら,午後1時30分発の津軽鉄道に乗り替え,途中の金木駅で降りて,斜陽館へ行き,金木駅から津軽鉄道のストーブ列車に乗るということで,五所川原駅で一旦別れました。
彼は,東京駅から東北新幹線で新青森駅までやって来たそうですが,この日,東北新幹線が郡山駅でオーバーランをしたということで,乗ってきた列車がずいぶん遅れてしまい,予定が狂ったと言っていました。
  ・・・・・・
JR東日本は,平日限定の1日乗車券「旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス」をえきねっとで発売する。価格は1万円で,枚数制限や年齢制限などは設定しない。
2024年2月14日から3月14日の平日限定で,フリーエリア内の普通・快速列車,新幹線,特急列車などの普通車自由席およびBRT(バス高速輸送システム)が1日乗り放題になる。また,事前に座席指定を行なうことで,新幹線・特急列車などの普通車指定席も2回まで乗車できる。
  ・・・・・・
というのがあったそうで,これを利用して旅をしていたお金のない大学生が東北地方に大量に押しかけていたのでした。こんな企画があるので,平日でも混み合っていたのです。
列車の旅はいいものですが,あまりに遅れや運休が多すぎます。

私は,昨年の5月に青森に来たときは青森空港でレンタカーを借りたのですが,時間がなかったので,五所川原の町を素通りして,斜陽館だけ行きました。そこで,五所川原の町はほとんど知らなかったので,今回,五所川原の町を観光するのを楽しみにしていました。五所川原といって私が知っていたのは立佞武多(たちねぶた)だけでした。これは,昨年,弘前市の観光をしたときに,弘前市のねぷた村で,青森市のねぶたと並んで,五所川原の立佞武多として紹介されていて知ったことです。
まず,改札を出て,JR五所川原駅に隣接した津軽鉄道の駅に入り,ストーブ列車の切符を購入しました。満員だったら? という心配があったのですが,大丈夫でした。これで念願のストーブ列車に乗れる,と思いました。次に,これから約1時間あるので,五所川原の町を散策することにしたのですが,何があるかわからなかったので,五所川原駅にあった観光案内所に入って,五所川原の見どころを聞き,地図をもらいました。

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2024年3月6日。
私が県営名古屋空港から旅に出るときは,大概いつも晴れなのに,今回はめずらしく雨でした。しかし,現地の天気予報は晴れということだったので,心配していませんでした。日本の旅は,天候がすべてです。
定刻に飛び立った旅客機の窓から,はじめのうちは雲しか見えませんでしたが,天気予報どおり,新潟県の上空を通るころになると,雲が切れてきました。やがて,眼下に男鹿半島がはっきりと見えてきました。ここが八郎潟なのか,と思いました。私は,まだ,秋田県はほとんど知らないので,次回こそ行ってみようと思いました。
やがて,大地は雪ばかりとなりました。そして,青森空港に着陸しました。このころは,まだ,青森はどれほど寒いのだろうかと,身構えていました。
昨年の5月に来たときは,青森空港でレンタカーを借りたのですが,今回は,鉄道に乗ることと雪道を走るのに躊躇したことで,空港からはバスに乗ることになります。これが,日本国内も海外も,空港からの接続が最も気になるところで,今回も少し不安でした。空港から鉄道路線があるところはまれで,路線バスがあれば上等です。

青森空港からは青森市と弘前市に接続する路線バスがありました。私は,弘前駅前まで行くのですが,飛行機の到着とバスの出発が接続されているわけでないので,ずいぶんと待たされることになりました。その間,空港のロビーで時間を潰していたら,私の乗ってきた飛行機に乗っていたらしい団体ツアー客が出てくるのを現地のツアーコンダクターの女性が待っているのに会いました。私は,3泊までの旅行ではキャリーバッグを持たないので,荷物を預けることはありません。また,コロナ禍以前,頻繁に海外旅行をしていたときも,一応キャリーバッグは持っていましたが,機内持ち込みサイズだったので,多くの場合,機内に持ち込んでいました。乱暴な海外の空港では,キャリーバッグを預けると,どうしてこうなるのかな? と思えるほど傷だらけになってしまったり,私はそんな目に遭ったことは一度もないのですが,最悪の場合,キャリーバッグが行方不明になってしまったりするらしいです。
多くの旅行客は,たった2,3泊の旅なのに,私には信じられないほどの大きなキャリーバッグを引きずっています。そこで,団体ツアー客は荷物を預けるわけで,預けたキャリーバッグが出てくるのを待っているから,遅くなるのです。
ツアーコンダクターの人に聞いてみると,この団体ツアー客の目指す先は,津軽鉄道のストーブ列車ということでした。ああ,やっぱり団体ツアー客と一緒か,と少し憂鬱になりました。

さて,青森空港から,数人の乗客を乗せて,時間通りにバスは出発して,約1時間で弘前市に到着しました。私は,ここから津軽鉄道のストーブ列車に乗るために,JRで五所川原駅まで行きます。弘前駅の改札はSuicaが使えるのですが,五所川原駅は使えないということで,自動販売機で切符を購入する必要があったのですが,自動販売機はカード型Suicaは使えてもモバイルSuicaは使えないということで,驚きました。
弘前駅から五所川原駅までは奥羽本線で川部駅まで行って,そこから五能線に入るのですが,五能線の鰺ヶ沢行きの列車があるので,乗り換えなしで行くことができます。列車の発車時刻までは,まだ1時間以上も時間がありました。とはいえ,私は,昨年来たときに弘前市はほぼ観光をしつくしてしまったので,特に行きたいというところもありませんでした。時刻は午前11時過ぎ。そこで,弘前駅にあった観光案内所で,どこか食事のできるところを聞くことにしました。駅の近くに「虹のマート」という市場があって,その中に昼食のとれる店があるということだったので,行ってみることにしました。旅というのは,こういう地元の人が行くところがいいのです。
まず,弘前駅のコインロッカーに荷物を預けることにしました。コインロッカーは600円で,ここでもSuicaは使用できず,100円玉しか使えないということでした。1,000円札のみの両替機があったのですが,この機械,かなりのポンコツで,1,000円を入れても,戻ってきてしまうのです。違う1,000円札で試しても同じ。これには参りました。何度目かでやっと100円玉がでてきました。

こうして,昭和時代に戻ったような錯覚を感じながら,弘前駅から五所川原駅までの切符を手に入れ,カバンをコインロッカーに預けて,弘前駅から「虹のマート」まで歩いていきました。歩道には雪が残っていましたが,全く寒くなく,風もないので,快適でした。
「虹のマート」は地元の人で賑わう市場でした。この市場で思い出したのが,フィンランド・ヘルシンキや,アメリカ・フィラデルフィアで行ったことがある地元の市場です。こういうところは,その土地の人たちの好きなソウルフードをすごく安く食べることができます。
「虹のマート」にはラーメン屋さんがあったので,「平日限定・具だし牡蠣ラーメン」を注文しました。これぞ旅! という感じで,幸せでした。今回もまた,出だし好調です。

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前回書いたように,県営名古屋空港と青森空港の往復の航空券を手に入れ,さらに,津軽中里の旅館と不老ふ死温泉の予約も済み,あとは,1か月前に「リゾートしらかみ」の座席指定券を手に入れるだけとなりました。不老ふ死温泉は五能線のウェスパ椿山駅まで送迎があります。しかし,ここで問題が発生したのです。


今回の私の旅は,2024年3月6日から3月8日までの2泊3日でした。少しでも空いているほうがいいと,あえて平日にして,次の旅程を考えました。
  ・・・・・・
●3月6日水曜日
3月6日は,県営名古屋空港を午前8時15分に出発するFDAで青森空港に午前9時35分到着後,午前10時発のバスで約1時間かけて弘前まで行きます。
JR弘前駅を午前12時40分に出る五能線で午後1時24分に五所川原駅に到着して,津軽五所川原駅から午後2時40分発の津軽鉄道ストーブ列車で終点の津軽中里駅に午後3時25分に着いて,津軽中里の旅館で1泊します。
●3月7日木曜日
ここで,第1の問題が起きました。翌日の3月7日は何と「リゾートしらかみ」が運行していなかったのです!
しかし,これは,津軽中里駅午前9時49分発の津軽鉄道に乗って,午前10時26分に津軽五所川原駅に到着。五所川原駅を午前11時8分に出発する五能線が午前12時44分深浦駅終着で,そこで約2時間後の午後2時41分の次の列車に乗って,ウェスパ椿山駅午後2時56分着というように,接続が悪く時間がかかるのですが,何とかなります。逆に,この2時間で深浦の町を散策できるから,これでいいや,と思いました。
●3月8日金曜日
最終日の3月8日は「リゾートしらかみ」が運行するので,ウェスパ椿山駅を午前10時38分発の「リゾートしらかみ」に乗って,弘前駅に午前12時48分に到着。
弘前を散策したのち,適当な時間のバスで青森空港に行って,午後7時15分発のFDAで帰宅します。
  ・・・・・・

ところが,3月7日は,「リゾートしらかみ」が運行していないだけでなく,そもそも,架線の工事とかで,五能線自体が運行していないのでした。そして,それに代わる代行バスすらない,という有様でした。つまり,行く方法がないのです。これが第2の問題,これには参りました。
不老ふ死温泉のウェブページを調べ直すと,東北新幹線の新青森駅から送迎バスがあるとありました。こんなに遠い距離でも便宜を図ってもらえるのです。というか,そうしないと,お客さんが来ないのでしょう。しかし,これだと,私は,津軽中里から津軽鉄道で津軽五所川原駅に戻ったあと,五所川原駅から新青森駅まで行かなくてはなりません。これには困りました。ダメ元で不老ふ死温泉に連絡をしてみると,送迎バスが午後1時30分に五所川原駅を通ってもらえることになりました。これは幸いでした。これなら,3月7日は津軽中里駅の出発を後らせて,午前10時53分発の津軽鉄道ストーブ列車に乗っても,津軽五所川原駅の到着が11時37分となり,帰りもまたストーブ列車に乗ることができるのでした。
こうして,何とか問題が解決して,あとは3月8日の「リゾートしらかみ」の座席指定券を手に入れるだけとなったので,1か月以上前に,「えきねっと」で予約を入れました。これで一安心でした。

しかし,何と,1か月前の朝,「リゾートしらかみ」の座席指定券はすでに完売で,入手ができないというメールが入りました。これが第3の問題でした。いったい誰が買うんだろう? と思いました。大口の団体ツアー客でもいるのではないか,と思いました。あるいは,「リゾートしらかみ」の車内はインバウンドのうざったい外国人だらけか?
翌日,別の用事があって,近くのJTB に行く機会があったので調べてもらうと,3月8日はやはり満席,でも翌日の3月9日は大量に空席があると言われました。金曜日が満席で土曜日に空席があるとはどういうことなのでしょう? こうなれば,普通の列車に乗るしかないなあ,と観念しました。しかし,はじめは乗れても乗れなくてもいいと思っていたのに,乗れないとなると意地でも乗ってやろうと思うのが人の常。万が一と思って,毎朝5時に「えきねっと」で調べていたら,5日後,キャンセルが5席も出たのです。早速購入しましたが,そのあと,残り席はあっという間に売り切れました。
こうして,私は,何とか「リゾートしらかみ」の指定席券を手に入れることができたのです。
このように,指定席を手に入れることはできたけれど,いったい,どんな人が乗っているのだろう? そんな不安が残りました。はたしてその真相は?

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昨年2023年5月18日から5月20日まで2泊3日で青森旅行をしました。そのときがはじめての青森旅行でしたが,2泊3日の青森旅行モデルコースというブログをみつけたので,それを参考にしました。そのブログによると,宿泊先は,酸ヶ湯温泉と不老ふ死温泉で決まりとありました。
今の私にはわかりますが,そのとには何も知らず,手探りだったので,酸ヶ湯温泉には宿泊したのですが,不老ふ死温泉には宿泊しませんでした。その代わりに宿泊した深浦町森山海岸の「民宿 汐ケ島」がとてもおもしろいところでした。そして,そのときに知ったのが「リゾートしらかみ」という列車でした。というように,私は,この旅で青森県にめっきり詳しくなり,また,その魅力にとりつかれてしまいました。
その後,2023年12月4日に「今後どこへ行きたいのか? 津軽半島で太宰治に浸る」をブログに書いたのですが,それ以来,このブログのとおり①津軽鉄道のストーブ列車に乗ること②不老ふ死温泉に泊ること③「リゾートしらかみ」に乗ること,これをすべて含めた旅を計画することにしました。
しかし,これを実現するまでが大変でした。今日は,まず,そのいきさつから書きます。

  ・・・・・・
①津軽鉄道のストーブ列車に乗ること
津軽鉄道はの出発は津軽五所川原駅で,JRの五所川原駅の隣にあるということでした。津軽五所川原駅から北に津軽半島の中央部を,途中,太宰治の斜陽館のある金木駅を通り,終着の津軽中里まで,約45分です。時刻表を見ると,津軽鉄道は1時間に1本ほどの割合で運行していて,その中で,津軽五所川原駅発9時35分,12時,14時40分の3本がストーブ列車でした。ストーブ列車は予約ができず,当日空席があれば乗ることができるということが少し心配でした。
ストーブ列車は3月31日まで運行するということだったので,さすがに1月や2月は寒いと思ったので,3月はじめの平日に行くことにしたのですが,私の嫌いな団体ツアー客で満員だったら,ということだけが心配でした。
終着の津軽中里駅からほど近いところに旅館が2軒ありました。こりゃいいや,と思いました。さすがに最終のストーブ列車なら満席ということもなかろう,そして,団体ツアー客もこれには乗らないだろうと思ったので,そのうちの1軒「福助旅館」を予約しました。
②不老ふ死温泉に泊ること
不老ふ死温泉は青森県の西海岸沿い,深浦という町にあります。前回行ったとき,旅館の看板を目撃したので,場所は知ってしました。不老ふ死温泉の最寄りの駅は五能線のウェスパ椿山駅で,そこまで送迎バスがあるということでした。
ネットに不老ふ死温泉のサイトがあって,簡単に予約ができました。食事がとても魅力的でした。夕食は値段の高い特選和膳と値段の安いバイキングから選べるようになっていて,せっかく旅行に行くのだから,特選和膳にしました。朝食はともかくも,夕食までバイキングなんて,絶対にいやです。
③「リゾートしらかみ」に乗ること
五能線を走る臨時快速列車が「リゾートしらかみ」で,JRの秋田駅と青森駅間,または弘前駅間を1日に3往復運行しています。そこで,行きは五所川原駅からウェスパ椿山駅まで,帰りはウェスパ椿山駅から弘前駅まで「リゾートしらかみ」を利用しようと考えました。
私は鉄道マニアでないのですが,列車で旅行をすることが多いこのごろ,詳しくなってきました。列車はすべて指定席で,1か月前の発売ということでした。
前回青森旅行をしたとき,車で五能線沿いの国道101号線をすでに走っているので,風光明媚な海岸線の景色はすでに堪能しているから,特に乗らなければ,というこだわりはなかったので,もし乗れなかったら,普通の列車でもいいや,とも思っていました。でも,時間が倍かかります。
ところが…。
  ・・・・・・

というように,とりあえず,津軽中里の旅館と不老ふ死温泉の予約を済ませて,次に,県営名古屋空港と青森空港の往復のFDAを予約しました。とりあえず,ここまでを済ませたので,あとは,「リゾートしらかみ」の指定席券を手に入れるだけでした。
それよりも心配だったのが天候でした。何せ,3月とはいえ,青森はまだ,最高気温摂氏3度,最低気温摂氏マイナス10度,しかも,吹雪で飛行機が欠航してしまう,などということが起きかねません。

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  ・・・・・・
 私は,ジブリ作品は「となりのトトロ」と「魔女の宅急便」しか知らず,ほどんど興味もないのですが,地元でもあり,一度くらいはどういうところか知りたいという好奇心だけで,2か月前にはじまる事前予約でチケットを手に入れ,2024年1月22日に行ってきました。
  ・・
 それにしても,有料施設は高すぎます。「ジブリの大倉庫」と「もののけの里」で2,500円,そして,「どんどこ森」と「青春の丘」がそれぞれ1,000円で,合計4,500円也。食事と交通費を合わせれば,約10,000円となります。そもそも,新しく造った施設というもはほとんどなく,これまでに何らかの形であったものを改装したり移築しただけの,いかにも金のかけかたを知らない愛知県らしい娯楽施設でした。現在,東京ディズニーランドのチケットが値上がりして約10,000円だそうですが,これはアトラクションなども含まれているので,それに比べたら,かなり割高です。
 私は,どういうところなのかという謎が解けたので,1回で十分だと思いました。リピートすることはありますまい。
  ・・・・・・
と書いたのが,2か月近く前のことでした。
 それにしても,あのころのほうが暖かかったというのも皮肉なもので,すでに3月も半ばというのに風が強く寒いこと。外を散歩する気にもなりません。

 さて,そんな3月10日。来る3月16日にジブリパークに新たに「魔女の谷」が開園するということで,その内覧会があって,申し込んでおいたら当たってしまったので,「リピートすることはありますまい」と書いたのに,行ってきました。到着したのが午前9時30分ごろだったのに,すでに車が一杯でした。前回と違うのは,この日が日曜日だということでした。「毎日が日曜日」の私には曜日の感覚がないのです。
 内覧会というからには,抽選に当たった選ばれし者だけが入ることができると思っていたから,悠々と出かけたのですが,これが大いなる誤解でした。これは決して内覧会などではない。東京駅並みのものすごい人混みでした。そもそも私は勘違いをしていました。私が当たった無料の招待券というのは,「魔女の谷」だけでなく,ジブリパークの他のすべての施設にも入ることができたのです。そんなことなら,前回,高いお金を出して,施設を巡った意味がありません。調べてこないお前が悪いといわれればそれだけのことですが,これにも落胆しました。
 まあ,せっかく来たのだから「魔女の谷」だけ入ることにしたのですが,すごい行列でした。中にあったのは,一般のものより長いとかいうソーセージの入ったホットドッグを売る「グーチョキパン屋」で,これは100メートルくらいの行列ができていたし,「空飛ぶオーブン」とかいう名前のレストラン,これは午前11時開店だというのに,2時間も前から並んでいる人がいたし,それ以外には,メリーゴーラウンドとかがあっただけでした。

 このところ,青森県に行って大自然に浸ったり,東京ですばらしいコンサートを聴いてきたりと,連日日本各地を移動し,精神的にも満足に浸っていた私は,それと比べてしまうから,このような作り物の張りぼてには何の感動もなく,かなりちんけなものとしか思えませんでした。せめて,ディズニーランドのようなショーや最新技術を駆使したアトラクションでもあれは,それなりの哲学というものも感じられるけれど,それすらないし,スタッフは単なるバイトの域を出ず,来た人を楽しませようという意欲も感じられませんでした。
 そんなわけで,前回入ることができなかった「魔女の谷」だけを適当に見て,早々に引き上げることにしました。並んでまでして昼食をとる気もなかったのですが,入口近くにおにぎりを食べることができるという,客のほとんどいなかったレストランがあったので,そこで昼食をとりました。これが一番落ち着きました。
 この日やったことはそれだけでした。しかし,こんな無意味な日も悪くない。

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 2024年3月9日,新日本フィルハーモニー交響楽団の演奏会を聴きに東京へ行きました。今回の公演は午後3時からだったので,それまで何をしようかな? と思っていたのですが,新幹線の車内から見えた富士山があまりに見事で,しかも,新幹線が品川駅に差しかかっていても,まだ,富士山がきれいに見えるので,こりゃ,東京で富士山を見ることができる絶好の機会だと,新宿にある東京都庁の展望台に行くことにしました。
 以前にも東京都内から富士山を見たことはあるのですが,このごろはなかかなその機会がありませんでした。現在の東京都庁ができた1991年に,展望台があるということで行ってみた記憶があるのですが,それ以降は,行ったことがありませんでした。おそらく,富士山を見ることができる展望台はこれだろうと思い当たり,行ってみることにしたのです。
 実際,展望台からの眺めは,予想以上にすばらしく,美しい富士山を見ることができました。展望台は外国人でいっぱいでした。

 さて,この日の演奏会は,すみだトリフォニーホールで,場所はJR錦糸町駅からほど近いところでした。この界隈は,亀戸といいます。亀戸といえば,亀戸天神です。東京に住んでいる人には当たり前かも知れませんが,よそ者の私には,東京には,未だに行ったことがない場所が結構あります。このごろは,機会があれば,そうした場所に行ってみることにしています。
 亀戸天神は,JR錦糸町駅から20分ほど北に行ったところにありました。
   ・・・・・・
 亀戸天神社,通称亀戸天神は,天満大神,すなわち,菅原道真を祀り,学問の神として親しまれています。1644年から1647年の正保年間,菅原道真の末裔であった九州の太宰府天満宮の神官・菅原大鳥居信祐が天神信仰を広めるため諸国を巡り,1661年(寛文元年)にこの地にたどり着いて,もともとあった天神の小祠に菅原道真ゆかりの飛梅で彫った天神像を奉祀したのがはじまりとされます。四代将軍徳川家綱が鎮守神として祀るよう現在の社地を寄進し,太宰府天満宮に倣い造営されました。
 名物は葛餅で,亀戸餅ともよばれ,1805年(文化2年)に天神社参道で創業した船橋屋が人気を集め,現在も店舗を構えています。
  ・・・・・・
 この,下町情緒あふれる地もまた,いいものでした。次回はゆっくりと街歩きをしてみたいと思いました。

 では,最後に,お恥ずかしい話を。
 アニメに疎い私にも,おぼろげに「こちら亀有公園前派出署」という名前のアニメがあることは知っていました。それがここ亀戸だと思い,何かゆかりのものがないかなあ,と探していたのです。亀戸と亀有は,全く異なる場所だから,当然,あるわけがないのです。
 ということで,今度は,亀有にも行ってみようと決心しました。
  ・・
 この日は,日帰りで東京を往復したのですが,行きは美しい富士山を見て,すばらしい演奏会を聴いて,帰りは,JR東京駅のホームで「ドクターイエロー」を目撃しました。そんなわけで,気分がよかったので,駅弁「春の弁当・花衣」を買って,帰りの車内で食べました。

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 グスタフ・マーラ―の交響曲第3番は,演奏時間が約100分もあり,当時,世界最長の交響曲といわれました。私がこの曲をはじめて知ったときは,確か「夏の朝の夢」といった表題があったようですが,現在は聞きません。これだけ長いのに,もともとはもう1楽章あって,割愛された楽章は次の交響曲第4番の第4楽章となったそうです。
 はじめに第2楽章から第6楽章までが作曲されて,最後に第1楽章が書き上げられたようです。

 この第1楽章は,高貴な雰囲気でもなく,特に美しいわけでもなく,私は,ちょっと長すぎるのでは,と思います。表現は悪いのですが「だらだらと」続いてしまうので,ちょっとうんざりします。そして,これだけ長いと,ぬるい温泉につかりすぎた感じになってしまい,それを冷ますのにずいぶんと手間がかかるのです。逆にいえば,先に作曲された第2楽章から第6楽章まで,というか,もともとは第7楽章までの前座を担うには,これだけの長さが必要になってしまったのかもしれません。
 井上道義さんは,第1楽章だけでお疲れになって,この楽章が終了したところで,座り込んでしまい,最後まで演奏できるのかな? と私は心配になりました。
  ・・
 口に水を含みなんとか立ち上がったマエストロが,だれかが思わず拍手をしたのを制して,静かに第2楽章がはじまりました。
 交響曲第3番は,第4楽章と第6楽章が聴かせどころだと私は思うのですが,第4楽章をはじめの見せ場にするには,第2楽章と第3楽章が必要なのでしょう。どちらかなくてもいいかな,と考えても,第2楽章の次に第4楽章があったら変だし,第2楽章を省略して第3楽章では,やはり,うまくないです。先に書いたように,長大な第1楽章の熱さましをするには,第2楽章と第3楽章が必要になってしまうのです。
 いずれにしても,マーラーは,このあたり,音楽をどこにもって行けばいいのか迷いさまよっている感じがして,この交響曲で一体何がいいたいのかな,何を表現したかったかな,という疑問が,私には起こります。

 しかし,そんな疑問は第4楽章で吹き飛びます。交響曲第3番は,第4楽章からが魅力的です。ここでは
  ・・・・・・
 O Mensch! Gib Acht!
 Was spricht die tiefe Mitternacht?
 „Ich schlief, ich schlief –,
 Aus tiefem Traum bin ich erwacht: –
 Die Welt ist tief,
 Und tiefer als der Tag gedacht.
 Tief ist ihr Weh –,
 Lust – tiefer noch als Herzeleid:
 Weh spricht: Vergeh!
 Doch alle Lust will Ewigkeit –,
 – will tiefe, tiefe Ewigkeit!“
  ・・
 おお人間よ! 注意して聴け!
 深い真夜中は何を語っているのか?
 「私は眠っていた
 深い夢から私は目覚めた
 世界は深い
 昼間が思っていたよりも深い
 世界の苦悩は深い
 快楽-それは心の苦悩よりもさらに深い
 苦悩は言った。滅びよ!と
 だが,すべての快楽は永遠を欲する
 深い永遠を欲するのだ!」
  ・・・・・・
と,アルトが歌うのですが,これは,ニーチェ(Friedrich Nietzsche)の「ツァラトゥストラはこう語った」(Also sprach Zarathustra)の第4部第19章「酔歌」の第12節「ツァラトゥストラの輪唱」から採られたものです。
 これを歌った林眞暎さんが本当にすばらしかった!

 そして,第5楽章ですが,ここでは一転して,児童合唱が鐘の音を模した「ビム・バム」を繰り返し,アルトと女声合唱が
  ・・・・・・
 Es sungen drei Engel einen süßen Gesang,
 Mit Freuden es selig in dem Himmel klang,
 Sie jauchzten fröhlich auch dabei,
 Daß Petrus sei von Sünden frei.
  ・・
 3人の天使が美しい歌をうたい
 その声は幸福に満ちて天上に響き渡り
 天使たちは愉しげに歓喜して叫んだ
 ペテロの罪は晴れました!
  ・・・・・・
と歌うという,ユニークなものです。この歌詞は,交響曲第4番につながっていきます。
 このように,交響曲第3番は,交響曲第2番で「復活」しちゃったのを第4楽章で終結させて,第5楽章で交響曲第4番で天国に昇天させるための橋渡しとしているのでしょう。そのために子供たちと女性の声が必要なのです。男性の声があると,天国よりも地獄,ショスタコービッチの「バビ・ヤール」になってしまいます。

 いよいよ,最後の第6楽章。
 交響曲第3番は,この第6楽章ですべてが救われます。Langsam. Ruhevoll. Empfunden. (ゆるやかに安らぎに満ちて感情を込めて)とありますが,実際は「アダージョ」。
 この楽章の美しさと神々しさは,筆舌に尽くしがたいものです。そして,マーラーの音楽の数々のすばらしい「アダージョ」のなかでも,第3番の第6楽章は癒しの「アダージョ」であり,真骨頂です。井上道義さんは,こうしたメロディアスな楽曲を指揮すると,本当にいい。

 今回はじめての,すみだトリフォニーホールと新日本フィルハーモニー交響楽団でした。外に出ると,スカイツリーが迫ってきます。このホールは,規模的にもホールの形状もウィーンの楽友協会に似ていて,同じような響きがしました。ただし,それがホールのせいなのか,オーケストラのせいなのか,私の席のせいなのか,専門家でないのでわかりませんが,今回の演奏では,弦と管のバランスがちょっと悪かったです。というか,管が昭和時代のオーケストラのようでした。私は,管をもう少し抑えたほうがいいように感じました。
 何はともあれ,美しかった第6楽章で,長い長い交響曲のすべてが報いられました。そして,いつものように,今回もまた,井上道義さんのスタンディングオベーションがいつまでもいつまでも続きました。

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 名古屋フィルハーモニー交響楽団とのブルックナーの興奮も冷めやらぬ2024年3月9日,今度は,すみだ平和祈念音楽祭2024として,すみだトリフォニーホール大ホールで,アルトの林眞暎(まえ)さんを迎えて,井上道義さんが新日本フィルハーモニー交響楽団を指揮する,マーラーの交響曲第3番を聴いてきました。林眞暎さんは,2023年11月18日に,同じく井上道義さんが指揮をした読売日本交響楽団の演奏会でマーラーの交響曲第2番「復活」ですばらしい歌声を聴かせた人です。
 私は,新日本フィルハーモニー交響楽団も,すみだトリフォニーホールもはじめてでした。このような演奏会がなければ,そのような機会はなかったことでしょう。墨田区というととても遠い印象ですが,すみだトリフォニーホールはJR錦糸町にあって,東京駅からほんのわずかな距離で,私がよく行くNHKホールのある渋谷区とはまったく異なる,下町情溢れる場所でした。また,新日本フィルハーモニー交響楽団は,1972年に,小澤征爾さんと山本直純さんの掛け声の下,楽員による自主運営のオーケストラとして創立したもので,ここでもまた,小澤征爾さんの偉業がひとつ,世に残りました。私は,そのころのいきさつをよく知っています。そうした経緯もあって,当時,山本直純さんが司会をする「オーケストラがやってきた」というクラシック音楽啓蒙のすぐれた番組があって,新日本フィルハーモニー交響楽団が出演していたのですが,このごろは,テレビでは見る機会もめっきりなくなりました。

 今回の曲目であるマーラーの交響曲第3番,私はよく聴くのですが,生演奏を聴いたのは,どうやらはじめてのことでした。この交響曲は,第6楽章まであり,というか,もともとは第7楽章まで構想されていたということですが,第1楽章だけでも30分と,通常の交響曲ほどの長さがあるから,全体はものすごく長く,しかも,途中に女性のソロがあり,その後で合唱が入りというように,この時期のマーラーがやりたかったことを全部入れ込んだ,そんな感じがする大曲です。しかも,第1楽章,そして,急にけだるくなる,でも,優美な第2楽章,第3楽章,そして,アルトが歌う第4楽章を,子供たちがステージ上で何もせず座り続けるのも大変で,一体どうやって演出するのか? という問題もあり,演奏会で実演するのは,大変な曲に思っていました。
 しかし,私には,その大きさとは反対に,地味で,というか,軽く,第2番「復活」の思い入れのある深いテーマの交響曲や,天国の快楽を愉快に奏でる第4番の間にあって,その存在感が希薄なのです。交響曲第2番で,「蘇らせてしまった」マーラーが,このあと,一体何を奏でたいのだろうか? と聴きながら思ってしまうわけです。第2番を彷彿とさせる第4楽章が異質ですが,全体として,この曲は,次に何がくるか,その展開が予測でき,しかも,予測通りに展開するので,気分がよく,聴いていてさわやかで疲れないのです。

 今回は,第3楽章の終わりのところで,林眞暎さんと子供たちが音もなくステージに姿を現すという粋な演出で,一体どうやって演出するのか? という私の謎は解けました。
 感想は次回書きますが,私が最も印象に残ったのは,最終楽章である第6楽章の美しかったこと。この曲を作曲のは1895年から1896年なので,マーラーが35歳のときと,まだ若いのですが,私は,この楽章が,交響曲第5番の有名な第4楽章アダージェットや最後の完成作となった交響曲第9番の第4楽章につながるものだと思いました。静謐感に満ちた美しい楽章こそ,マーラーの,最も優れたものだと,私は,いつも思います。そして,引き込まれてしまうのです。

キャプチャ


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 弁慶の引摺り鐘を過ぎてさらに進むと,村雨橋を通ります。
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 中興の祖である智証大師・円珍がこの橋の上に差しかかったとき,自分が長安で学んだ青龍寺が火事で焼けているのを感知して,真言を唱え閼伽水を撒くと,橋の下から一条の雲が巻き起こり,西の方に飛び去りました。後日,青龍寺から礼状が届き,火事を消してもらったお礼が書かれていたということです。そこで,ムラカリタツクモノハシ=村雨橋と名づけられました。
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という説明が書かれた案内板がありました。
 村雨橋を渡ると,右手に唐院がありました。唐院は,園城寺の開祖である智証大師・円珍和尚の廟所を中心とする寺域で,灌頂堂,大師堂,三重塔で構成されています。唐院という名称は,智証大師が唐に渡って修行を積み,持ち帰った経典類を収めたことに由来しています。
 そこをすぎて,石段をあがると,観音堂に着きました。

 観音堂は,西国三十三所観音霊場の第14番札所です。琵琶湖と大津市街を一望する景勝地にあり,古くから文人墨客に親しまれてきました。
 観音堂は,南院札所伽藍の中心建築で,後三条天皇の病気平癒を祈願して,1072年(延久4年)に創建されたと伝えられています。その後、移築や焼失を経て,1689年(元禄2年)に再建されました。本尊の如意輪観音坐像は33年ごとに開帳される秘仏です。
 本尊をまつる正堂と外陣に相当する礼堂を合の間で繋ぐ本瓦葺の大建築で,堂内には元禄期の華やかな意匠を施しています。

 谷際には,謡曲「三井寺」に出てくる観月舞台があります。
  ・・・・・・
 現在の静岡県にあたる駿河国・清見ケ関の女性が,子買いにさらわれたわが子を捜し訪ねて,京都の清水寺参籠の霊夢で三井寺へ参れと告げられます。
 ときはあたかも中秋の名月。三井寺では,僧侶が弟子・千満らを連れて講堂の庭での月見に出ます。そこへ,子を失った哀しみに心を乱した女性が現れ,名月に浮かれ,龍宮から持ち帰ったと伝わる名鐘を,龍女成仏にあやかって自分も撞きたいと近づきます。僧侶は制止しますが,女性は中国の古詩を持ちだして,詩聖でさえ名月に心を狂わせて高楼に登り鐘を撞くというのに,ましてや狂女の私がと、鐘を撞き舞います。
 弟子の千満に促されて,僧侶は狂女に素姓を尋ねます。千満・狂女の応対があって,狂女は千満がわが子と知り,母子は再会をはたすのです。
  ・・・・・・

 今回,久しぶりに三井寺に来て,どうも疑問に思うことがありました。それは,以前来たとき,上るのも大変な長い石段があって,こりゃ,もう少し歳をとったら,三井寺には来ることもできなくなるのだなあ,としみじみと思ったのです。しかし,今回,三井寺に来て,そんな大変な石段など存在しませんでした。私の記憶は三井寺でなかったのかな? と思ったのです。
 どうやら,前回来たときは,今回とは違って,電車を使ったので,駅から歩くと,この観音堂の下から三井寺に上ることになるのだと,あとでわかりました。

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 石山寺の次は三井寺です。その前に,三井寺からわずかに行ったところに大津市歴史博物館があったので,寄ってみました。時刻は午前11時を過ぎ,おそらく館内にあるであろうレストランで昼食をと思ったのです。
 実際,レストランがありました。そこで注文したのが,「光る君へ」にちなんだオリジナルメニュー「7食限定・紫式部スペシャルランチセット」でした。紫式部を想い,まん丸の近江牛コロッケを満月にみたてたもの,ということでした。
 食事を終えて,大津市歴史博物館で開催されている特別展示「源氏物語と大津」を見ました。

 そして,三井寺に向かいました。
 この日は天気がすぐれず,三井寺もほとんど人がいませんでした。望外の幸運でした。
  ・・・・・・
 三井寺は,天台寺門宗の総本山で,正式名称は長等山園城寺(ながらさんおんじょうじ)といいます。
 667年に天智天皇は都を近江に移しました。672年に天智天皇が亡くなると,大友皇子と大海人皇子(天武天皇)が皇位継承をめぐって争う壬申の乱が起きました。 壬申の乱に敗れた大友皇子の皇子・大友与多王(よたのおおきみ)が父の霊を弔うために 田園城邑(じょうゆう=土地)を寄進して寺を創建し,天武天皇から園城という勅額を賜わったことが園城寺のはじまりとされています。
 三井寺とよばれるようになったのは,天智天皇,天武天皇,持統天皇の三帝の誕生の際に産湯に用いられたという霊泉(現在,金堂西側にある「閼伽井屋」から湧き出ている清水)があり御井の寺とよばれていたものを,後に智証大師円珍が当時の厳義・三部潅頂の法儀に用いたことに由来します。
 本尊は身丈三寸二分の弥勒菩薩ですが,絶対の秘仏となっているために見る事はできません。
    ・・・・・・  

 三井寺は梵鐘で有名ですが,現在,梵鐘は三井晩鐘と弁慶の引き摺り鐘のふたつがあります。
  三井晩鐘とよばれる梵鐘は,1602年(慶長7年)当時の三井寺の長吏・道澄(どうちょう)の発願によって弁慶の引き摺り鐘を模鋳したもので,姿の平等院,銘の神護寺,勢の東大寺とともに,声の園城寺として,天下の三銘鐘(プラス1)のひとつです。
  ・・・・・・
 村の子供らにイジメられる1匹の蛇を助けたことで, 里の漁師は竜宮の王女をめとることになります。 ふたりの間には子どもが産まれますが,自分が竜女であることを知られた女は琵琶湖底によび戻されてしまいました。残された子どもは母親を恋しがり,毎日,激しく泣き叫びますが,母親にもらった目玉をなめると泣きやむのです。 しかし,その目玉も小さくなり,ついに竜女の両方の目玉はなめ尽くされてしまいました。
 盲になった竜女は,漁師に,三井寺の鐘をついてふたりが達者でいることを知らせてくれるように頼みます。 鐘が湖に響くのを聴いて,竜女はこころを安らがせたといいます。
  ・・・・・・
 また,弁慶の引き摺り鐘は,平安時代,田原藤太秀郷が近江の三上山の大ムカデ退治をしたお礼にと,三井寺に琵琶湖の龍神より頂いた鐘を寄進したのですが,比叡山延暦寺との争いで武蔵坊弁慶が攻め入ったとき,この鐘を奪って比叡山へ引き摺り上げて撞いてみると「イノー・イノー」(帰りたい)と響いたので,弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいのか!」と怒って鐘を谷底へ投げ捨ててしまったというものです。
 さらに,観音堂にも1814年(文化18年)に建立された鐘楼があって,童子因縁之鐘とよばれた鐘が釣られていましたが,第2次世界大戦の金属類供出令で失われてしまいました。
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 この鐘を鋳造するとき,大津の町々を托鉢行脚し,ある金持ちの家に立ち寄り勧進を願ったところ,その家の主人は「うちには金などない。子供が沢山いるので子供なら何人でも寄進してやろう」と断ったことがありました。
 鐘が出来上がると,不思議にもその鐘には3人の子供の遊ぶ姿が浮かび上がり,同じころ,かの金持ちの子供3人が行方不明になっていました。
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 三井晩鐘は「近江八景」のひとつです。
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  思うその 暁ちぎる はじめとぞ まづきく三井の 入あひの声
  ・・・・・・

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三井


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 石山寺は,奈良時代より霊験あらたかな観音霊場として信仰を集めていましたが,平安時代になると石山詣が流行し,多くの貴族や女流文学者が訪れました。
 「石山寺縁起絵巻」には,次のようにあります。
  ・・・・・・
 「なにか物語を書いてちょうだい」と仕えている中宮彰子に命じられた紫式部は,石山寺に7日間滞在し,観音に「まだ誰も読んだことのないような物語を書かせてください」と祈りました。そして,琵琶湖に映る中秋の名月を見たとき,紫式部の脳裏に一人の貴公子が思い浮かび「源氏物語」の須磨の巻を書きはじめました。
  ・・・・・・

  ・・・・・・
 月のいとはなやかにさし出でたるに,今宵は十五夜なりけりと思し出でて,殿上の御遊び恋しく,所々眺め給ふらむかしと思ひやり給ふにつけても,月の顔のみまもられ給ふ。
「二千里外故人心」
と誦じ給へる,例の涙もとどめられず。入道の宮の,
「霧や隔つる。」
とのたまはせしほど,言はむ方なく恋しく,折々のこと思ひ出で給ふに,よよと,泣かれ給ふ。
「夜更け侍りぬ。」
と聞こゆれど,なほ入り給はず。
  見るほどぞしばし慰むめぐりあはむ月の都は遥かなれども
  ・・
 月がたいそう明るく美しく出たので,今夜は十五夜であったなあとお思い出しになって,宮中での管弦の遊びを恋しく思い,方々は(同じようにこの月を)眺めていらっしゃるだろうよとお思いになるにつけても,月の顔ばかりをじっとお見つめになられます。
「二千里外故人心」
と声に出して唱えられ,(周りの人々は)いつものように涙を止めることができないでいます。入道の宮が,
「霧や隔つる」
とおっしゃられたことが,言いようもなく恋しく,その時その時のことを思い出しなさると,おいおいと,お泣きになります。
「夜が更けて参りました」
と(従者が言うのが)聞こえますが,やはり(寝室には)お入りになられません。
 見ているうちはしばしの間ですが気がまぎれます
 再び出会うであろう月の都は遥か遠くにあるけれど
   「源氏物語」須磨
  ・・・・・・

 石山寺を1周したところで,午前9時になったので,「光る君へ びわ湖大津 大河ドラマ館」へ行きました。私の後に,ばらばらと訪れる人がいましたが,懸念したような人込みではありませんでした。また,せっかくこの時期に石山寺に来たのに「光る君へ びわ湖大津 大河ドラマ館」を素通りする人も少なくありませんでした。
 私は,このところ,「鎌倉殿の13人」「どうする家康」などの大河ドラマ館にも行ったのですが,それらにに比べて,思ったよりも小さな規模でした。
 館内には,主人公まひろと名づけられた紫式部が第4回「五節の舞姫」で着た衣装の実物が展示されていましたが,それ以外に,特に見るべきものもありませんでした。大河ドラマ館は,ドラマの撮影で使用し終えたものが展示されるので,ドラマがはじまったばかりでは,展示するものもあまりないのでしょう。ちょっとがっかりでした。

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 とりあえず,今回の旅で行きたかったのが石山寺で開催されているNHK大河ドラマ「光る君へ びわ湖大津 大河ドラマ館 」でした。石山寺はこれまで数回行ったことがあるので,珍しくなかったのですが,ずいぶん前に行ったので,これを口実に再び行ってみようと思ったのです。ただし,私の嫌いなツアー客が大勢押しかけていると嫌なので,平日のしかもまだ寒い時期に,さらに,早朝1番に行くことにしました。
 石山寺は午前8時開門で,「光る君へ びわ湖大津 大河ドラマ館 」は午前9時開館だったので,まず石山寺へ行って,帰りに「光る君へ びわ湖大津 大河ドラマ館 」へ寄ることにしました。天気予報ではこの日は晴れということだったのですが,予想に反して,晴れ男の私には珍しく,寒く,しかも,雨混じりでした。しかし,これが幸いして,がらがらでした。午前8時に中に入りましたが,訪れていたのは私だけでした。

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 石山寺は,東寺真言宗の大本山の寺院です。山号は石光山。本尊は如意輪観音です。如来になる前の修行者を菩薩といい,如意輪観音は観音菩薩の変化身(へんげしん)のひとつです。
 聖武天皇は,東大寺大仏の表面に金メッキを施すために大量の黄金を必要としていました。そこで,東大寺開山・良弁に命じて,黄金が得られるようにと吉野の金峯山に祈らせました。すると,良弁の夢に,吉野の金剛蔵王が現れ「近江国志賀郡の湖水の南に観音菩薩が現れる土地があるから,そこへ行って祈るがよい」と告げられます。747年(天平19年),お告げにしたがって石山の地を訪れた良弁は,比良明神の化身である老人に導かれて,巨大な岩の上に如意輪観音像を安置して,草庵を建てたところ,陸奥国から黄金が産出されました。しかし,どうしたことか,如意輪観音像が岩山から離れなくなってしまったので,如意輪観音像を覆うように堂を建てたのが石山寺の草創といいます。
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 境内は広く,東大門から入って,観音堂,毘沙門堂,蓮如堂,本堂,多宝塔,月見亭と上り,梅園,紫式部像とぐるりと歩くと,約1時間かかりました。
 戻ってきたころ,やっと,10人程度の団体ツアー客がやってきました。

 月見亭の位置からの景色が「近江八景」の石山秋月です。ここから瀬田唐橋や琵琶湖は真北にあるので,歌川広重の描いた画は創作です。また、江戸時代初期の公家・近衛信尹(このえのぶただ)の画賛にはつぎのようにあります。
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  石山や 鳰の海てる 月かげは 明石も須磨も ほかならぬ哉
  ・・・・・・

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石山


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 2024年2月27日から2月28日まで,1泊2日で琵琶湖1周の旅をしてきました。
  ・・
 今とは違って,私が大学生のころは,卒業旅行などという習慣はありませんでした。また,就職試験の解禁も4年生の10月1日でした。そこで,4年生の夏休みは遠いこところに出かける機会がなく,そこで,思い立ったのが,日帰りの琵琶湖1周旅行でした。現在のJRは当時国鉄といったのですが,サービスは最悪で,乗れるものなら乗ってみろ状態でした。そこで,列車で琵琶湖1周をしようと思っても,琵琶湖の北の近江塩津駅での接続が悪く,どうにもならなかったのです。
 今となっては,どう工夫をしたのかまったく記憶にないのですが,ともかく,東海道線で米原駅まで行って,そこから反時計周りで琵琶湖を1周しました。旅の終盤戦,湖西線で堅田駅あたりまで来たとき,通勤客が大勢乗ってきて,現実に戻されたことだけが記憶にあります。
 それ以来,何度も琵琶湖周辺は行きましたが,ほとんどの場合は車だったし,日帰りで,彦根とか長浜とか,どこか一か所を見てきただけでした。
 私は,滋賀県が好きです。滋賀県の人に言わせれば,他府県の人は滋賀県といっても琵琶湖以外に思い当たる場所がなく,常に京都に押されれているという劣等感があるのだそうです。しかし,私には,滋賀県はとてもいいイメージしかありません。
 今回,大河ドラマ「光る君へ」に乗じて,石山寺や三井寺に行こうと思い立ったのですが,それ以外にも行きたいところや行っていないところが結構あるので,ならば,適当なところに泊まって,1泊2日で旅をすることにしたのです。

 先日行った神奈川県にも「金沢八景」がありましたが,滋賀県にも,琵琶湖にちなんで「近江八景」があります。「金沢八景」でも書きましたが「〇〇八景」というのは,中国湖南省の洞庭湖および湘江から支流の瀟水にかけてみられる典型的な水の情景を集めて描いた「瀟湘八景図」になぞらえて,日本の名勝を集めたものです。
 「近江八景」は,室町中期の1500年(明応9年),近江に滞在した元・関白の近衛政家が,当地にちなんでの和歌八首を詠んだ,という説があるのですが,どうやらそれは正しくなく,戦国末期の関白・近衛信尹(のぶただ)が書き表した「近江八景和歌巻子」を,江戸後期の歌人・伴蒿蹊(ばんこうけい)が知人のもとで観覧したときその奥書に「近江八景」の名所と情景が紹介されていた,と書いたことから,「近江八景」の成立は,近衛信尹によるものとする見方が有力ということです。
 「近江八景」は
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  石山秋月(いしやまのしゅうげつ)=石山寺
  勢多(瀬田)夕照 (せたのせきしょう)=瀬田の唐橋
  粟津晴嵐(あわづのせいらん)=粟津原(現・大津湖岸なぎさ公園)
  矢橋帰帆(やばせのきはん)=矢橋(現・矢橋帰帆島公園)
  三井晩鐘(みいのばんしょう)=三井寺
  唐崎夜雨(からさきのやう)=唐崎神社
  堅田落雁(かたたのらくがん)=浮御堂
  比良暮雪(ひらのぼせつ)=比良山系の雪景色
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です。
 今回の旅では,これに関したところを多く訪れることができたので,これから順に紹介していきます。

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 奇妙な風貌で興味をもった神奈川フィルハーモニー管弦楽団と京都市交響楽団でコンサートマスターをする石田泰尚さんが率いる13人の弦楽グループ「石田組」。どういうものだろうかと単なる好奇心で,2023年8月6日に,愛知県芸術劇場コンサートホールで行われたコンサートに行きました。その時は,こうしたコンサートははじめてだったので,とまどいもあり,よくわからなかったこともあって,今回,2024年3月3日に,今度は,アクトシティ浜松大ホールでコンサートがあるというので,再び聴いてきました。
 13人というのは,毎回,そのメンバーが代わっているということです。今回は,東京都交響楽団の団員さんが多数いました。また,13人といえば,「最後の晩餐」(L'Ultima Cena)と同じ人数ですが,これと関係があるのかないのか? 石田泰尚さんがイエス・キリストで,残りの12人が弟子。ならば,ユダは?
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 イエス・キリストは12人の弟子たちとともに食事をしていました。すると突然,イエスは12人の弟子たちに「あなたがたのうちのひとりが私を裏切ろうとしている」と言いました。ペテロがヨハネにそれが誰なのかを尋ねて欲しいと言い,ヨハネはイエスに尋ねました。そこでイエスは「わたしと共に鉢に手を浸した者がわたしを裏切る」と答えました。その時鉢の中に手を浸していたのがイエスとユダだったため,裏切り者がユダであることが明るみになり,ユダはその場を飛び出して行きました。
 その後,イエス・キリストは,パンを取って,賛美の祈りを捧げてパンを割いて弟子たちに与えながら「皆,これを取って食べなさい。これはあなた方のために渡されるわたしの体だ」と言いました。また,杯をとって感謝の祈りを捧げると「皆,これを受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯,あなたがたと多くの人のために流されて,罪のゆるしとなる。新しい永遠の契約の血」と弟子たちに与えて言いました。
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 今回の曲目は,第1部がシベリウスのアンダンテ・フェスティーヴォラター,ホルストのセントポール組曲,ラターの弦楽のための組曲,そして,第2部がバルトークのルーマニア民俗舞曲,C・M・シェーンベルクの「レ・ミゼラブル」メドレー,ローリング・ストーンズの悲しみのアンジー ,レッド・ツェッペリンの天国への階段,クイーンのボーン・トゥ・ラブ・ユー,そして,アンコールでした。
 「石田組」というのは,その仕掛け人がしたたかで,どうすれば,大衆を動員できるかを知っているのでしょう。だから,石田泰尚さんという優れたヴァイオリニストをカリスマにして,大衆受けをする音楽を並べて,ヴァイオリンでどれだけロックが演奏できるか,というような試みで,多くの人が集まるのです。おそらく,多くの観客は,クラシック音楽ファンとは無縁の人たちでしょう。
 だかといって,優れた演奏家を集めて,小難しいクラシックの曲目を演奏しても,人は来ないのです。これがクラシック音楽の興行の難しい問題なのです。しかし,私は,それとは逆に,第2部よりも第1部の曲目のほうがよく知っているから,話になりません。それに,いくら演奏が上手でも,私は,こうした曲には感動しないのです。それは,「石田組」のせいではなくて,私が場違いだったというだけのことですが,結論からいえば,ちょっとがっかりしました。今回のコンサートを聴きながら,私は,小さなホールで,ショスタコービッチの弦楽四重奏曲を聴きたくなりました。

 アクトシティ浜松大ホールは広すぎ,観客が多すぎ,しかも,設計が古く,座席が狭く,入口の階段は混み合い,カーテンコールで写真撮影もできない,というように,音響は優れているかもしれませんが,音楽を楽しむ雰囲気にまるで欠けていました。私はもう2度と行かない。そして,会場内は,例えれば,すてきな時間を過ごそうと思って,ちょっと高級なしゃれたカフェに行って中に入ってみたら,おばさんたちが大量にいて,話に夢中でうるさくて仕方がなかった,そして,自分の居場所がまるでなかった,というようなときに味わう感じと同じでした。
 それに,私は,この前日に,井上道義さんの指揮する,すばらしい演奏会に行ったばかりで,その余韻が残っていたので,これもまた,影響しました。エスプレッソのコーヒーを味わった後で,甘いコーヒー牛乳が出てきたような…。
 まあ,そんなわけですが,わざわざ出かけた浜松で,結局,並んでまでして,昼食で浜松餃子を食べることができたのだけが救いでした。そして,帰りの電車まで時間があったので,夕食の代わりに,浜松駅の構内の,私以外にだれもいなかった店で食べた立ち食いそばがものすごくおいしかったこと。

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 ブルックナーの交響曲は,マーラーの交響曲に比べれば,形式は古典的なので,わかりやすいです。しかし,それぞれの楽章がかなり複雑で,つねに煮え切らず,だらだらとしていて,次にどんなメロディーがくるのか予測不能なところがあります。まるで,ぐずぐずしているモテない男のようで,女性にブルックナーが苦手,という人が多いのも納得がいきます。
 特に,第5番はそうした煮え切らなさが顕著です。
 私が,これまで第5番をほとんど聴かなかったのもそんな理由からでした。しかし,今回,はじめてまともに聴いてみて,こりゃすごい,ということがやっとわかりました。

 第4番は自然の中を彷徨しているような感じがするのですが,第5番は古びた荘厳な教会を思わせます。奥まったところは暗く,不気味です。
 マエストロ井上道義は,この重厚な交響曲の第1楽章を,ゆっくりめのテンポでありながら重くならず,指揮をしていきました。第2楽章が緩徐楽章で,第3楽章がスケルツオというのは,ブルックナーの第7番までの流儀で,第8番と第9番は,ベートーヴェンの第9番と同じように逆になっています。
 この第5番の緩徐楽章の美しかったこと! まさに,井上道義さんが名フィルとの決別を惜しむかのように聴こえました。そして,第3楽章は,スケルツオとはいいながら,これはメヌエットでもあり,井上道義さんお得意の踊る指揮,ダンスが見られました。
 第1楽章と第4楽章は,同じようにはじまります。まず,これが驚きです。そして,第4楽章は,第1楽章,第2楽章,第3楽章の旋律が出てきてはそれが否定されながら,盛り上がっていくので,伏線回収,ベートーヴェンの交響曲第9番をほうふつとさせます。しかし,これまでの楽章を否定したところで,だから,歓喜の旋律が出てくるのかと,期待しても,何も起きないのです。これこそが,煮え切らないブルックナーなのです。
 しかし,何も起きずとも,これまでの旋律が複雑に絡み合いながら巨大な建築物ができ上って行くのです。そんな第4楽章の盛り上がりが見事でした。

 マエストロ井上道義は第5番をはじめて指揮をしたということなので,演奏し慣れた曲のような,力の入れ方や聴かせどころのツボはわかっていないと思うのですが,それがいい効果を生んでいました。曲の最初から最後まで緻密な演奏だったのです。
 私は,来週は東京で,マエストロ井上道義のマーラーの第3番を聴くことになるのですが,こちらは指揮し慣れたものです。この対比が,いまから楽しみです。

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 2024年3月2日,豊田市コンサートホールで井上道義さんが指揮する名古屋フィルハーモニー交響楽団の特別演奏会が行われたので聴いてきました。これは,井上道義さんが名古屋フィルハーモニー交響楽団を指揮するラスト・コンサートで,曲目は, モーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」序曲とブルックナーの交響曲第5番でした。なお,「ドン・ジョヴァンニ」序曲は,豊田市ジュニアオーケストラとの合同演奏でした。
 このところ,井上道義さんの追っかけをやっているような感じになっていて,つい先日は東京のNHKホールでショスタコービッチの「バビ・ヤール」を聴いたばかりですが,今回はブルックナーです。演奏会のチケットは発売早々に手に入れたのですが,満員札止めとなっていました。私はこの日をとても楽しみにしていました。
 ブルックナーの交響曲は,ブルックナー指揮者という名前で語られるように,齢を重ねたマエストロに似合います。これまでにも,多くのすばらしい歴史的な演奏がありました。しかし,井上道義さんは,特にブルックナー指揮者という感じではなく,多くの作曲家の作品を取り上げています。そんなマエストロが,果たして,ブルックナーをいかように? と興味がありました。

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 ブルックナーの交響曲の中で,第5番は第8番と並んで規模の大きなものです。対位法の技法が活用されていて,音の横の流れを多層的に積み重ねて,壮大な音の大伽藍を築き上げていることに特徴があります。
 第5番は,第4番を完成させた翌年,ブルックナー51歳の1875年に作曲に取りかかり,紆余曲折ののち,1878年に完成しました。しかし,初演の機会に恵まれず,交響曲第8番完成後の1894年になって,ようやく初演されました。すでに老齢であったブルックナーは立ち会うことができませんでした。そして,ブルックナーが亡くなったのは,その2年後のことでした。
  ・・・・・・
という解説が載っています。

 私は,ブルックナーの交響曲の中では,第4番を最も好んでいて,第5番を聴くことはまれでした。ブルックナーの他の交響曲とは少し趣が異なっているなあ,と思っていたくらいのものでしたが,実は,これまで,根を詰めて聴いたことがないのです。昨年10月,NHK交響楽団の定期公演で,マエストロ・ブロムシュテッドがこのブルックナー交響曲第5番を取り上げるということだったので,そのときに勉強しようと思っていたのですが,演奏会は中止となってしまい,その機会を逸していました。
 さらに実は,何と,井上道義さんがブルックナーの交響曲第5番を指揮したのは,これがはじめてだったという話でした。本当かな? 引退を前にして,やりたいことはみんなやる,という感じでしょうか。
 そんなわけで,私には,とても刺激的な演奏会でした。
 感想は,次回。

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 では,今日は,目的のひとつであった「きよめ餅」と「宮きしめん」で,私のお腹と好奇心を満たしたいと思います。
 まずは,「きよめ餅」です。
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 「きよめ餅」は羽二重餅で漉し餡を包んだもので,表面に「きよめ」の焼き印が押されています。
 1785年(天明5年)ごろ,熱田神宮の西門の近くに「きよめ茶屋」という茶屋があって,参拝者がきよめ茶屋で旅の疲れを癒してから熱田神宮を参拝したそうです。
 第2次世界大戦前,新谷栄之助という人物が,名物のなかった熱田神宮周辺の地域に伊勢神宮における「赤福」のような名物を作ろうと考え,きよめ茶屋の話を基に「きよめ餅」と名づけた菓子を考案し,店舗を構えたのが発祥です。現在は3代目のようです。
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 熱田神宮のおみやげ「きよめ餅」は,1990年ごろ,テレビでコマーシャルをやっていたので知りましたが,これまで,食べたことがありませんでした。熱田神宮の東側,県道226号線を越えたところに「きよめ餅本舗」という老舗和菓子店があって,よく通るのですが,店は古く,改装もしていないようで,見てくれが悪いです。近くに,喫茶店もあるのですが,これもまた,塗装がはがれていて,さえません。そこで,一見,さびれているように感じていました。おそらく,何代目かの主人がやる気がないのだろう。もっとやり手だったら,伊勢の「赤福」のように,大きな店にできるのに,と私はずっと思ってきました。  
 この日,喫茶店が開いていたので,中に入って,「きよめ餅」を食してみました。ふかふかのお餅はなかなかおいしいものでした。店舗のほうもお客さんが入れ替わり入っていくし,熱田神宮の中にも「きよめ餅」の土産屋さんがあって,多くの人が買っていきます。要するに,さびれているわけでなく,これで十分店として成り立っていて,大きくする気もないようです。極めて名古屋的だなあと感じました。

 次は「宮きしめん」です。「宮きしめん」は,きしめんを売る数々の店のひとつです。
 そういえば,きしめんは名古屋の名物だと思い出しました。熱田神宮に中に,きしめんを食べることができる店が昔からありましたし,また,名古屋城の中にもありました。
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 きしめんは,幅が広く薄い麺が特徴です。平たいうどんは平打ちうどんといい,群馬県の「ひもかわ」や岡山県の「しのうどん」など日本の各所にありますが,名古屋の名物として「名古屋きしめん」と表示する場合は,幅が5ミリメートルから7.5ミリメートル,厚さ1.5ミリメートル未満という詳細な基準があるそうです。
 江戸時代の「東海道名所記」には,現在の刈谷市にあたる芋川(いもかわ)の名物だとされていて, 江戸時代後期「守貞謾稿」に,江戸で「ひもかわ」とよんでいるものは芋川の訛りであって,名古屋では「きしめん」とよぶという記述があるそうです。一方,現在の知立市で,雉の肉を入れたうどんが好評で,これが雉麺(きじめん)とよばれて名古屋にまで伝わったという説があるそうです。
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 しかし,私は,ここ何年もきしめんを食べたことがなく,また,食べたいと思ったこともありませんでした。「宮きしめん」の本社は熱田神宮から北に少し行ったところにあるのですが,これもまた,小さな店で,一見さえません。熱田神宮の中にあるのは,その,「宮きしめん」でした。これもまた,気になったので,ひさびさにきしめんを食べてみました。
 食べてみて,きしめんというのは,面が平らであるだけでなく,強いしょうゆ味と大量な花かつおとほうれんそうにかまぼこ,それに加えて,ちいさな油揚げが特徴の,それといった主張がない食べ物だったことを思い出しました。

 「宮きしめん」は,1923年(大正12年)創業の老舗です。直営のきしめん店を名古屋市内や岐阜県,三重県に計8店舗展開しています。ここもまた,お昼時,かなり混雑していました。「きしめん離れ」とかいっているようですが,それなりに需要はあるようです。
 ちなみに,名古屋城内にあるきしめん屋さんは「きしめん亭」という店だそうです。
 調べていくうちに,JR名古屋駅の各ホームには,数多くのきしめんの立ち食い店があって,これが結構有名だと知りました。中でも,もっとも人気なのが「住よし」とかいう名前の店で,それ以外にも,「憩」「グル麺」という名前の店があったり,「グル麺」には「住よし」が運営しているものとそうでないものがあったり,ホームのきしめんには2種類の別の味がある,というように,謎だらけで,興味が湧いてきました。一度調べてみよう。

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 養老律令が作られたのは,728年(養老2年)のことでした。その1,000年以上あとの1867年(慶応3年)に王政復古の大号令が発せられたとき,摂関政治の廃止を謳い律令時代に戻す宣言が行われ,明治政府ができた際には,養老律令で定められた規定が採用されました。つまり,この国の憲法は,大日本帝国憲法ができるまでは,ずっと養老律令だったわけです。
 そうした律令によると,令制国の国司が政務を執る施設である国庁が置かれたのが国府で,国府付近には,国庁のほかに国分寺,国分尼寺,総社が設置されました。総社とは,特定地域内の神社を合祀したものです。
 律令制では,国司着任後の最初の仕事は赴任した令制国内の定められた神社を順に巡って参拝することでしたが,平安時代になって,国府の近くに総社を設け,そこを詣でることで巡回を省くことが制度化されたものです。いかにも日本らしい話です。ちなみに,愛知県の西側半分であった尾張国の総社は,はだか祭りで有名な稲沢市の尾張大国霊神社(おわりおおくにたまじんじゃ),通称・国府宮神社です。

 このように,一般に神社といっても,その成り立ちは様々です。私の親は,寺社仏閣となれば,何でも拝んでいたのですが,それを見ていた私は,その由来もわからずに参詣するのもどうかとずっと思ったので,訪れるたびにそれを調べるようになりました。すると,まあ,おもしろいこと。日本でいう神というのは,キリスト教などの神とはまったく違うのです。何らかの作為で拝み奉る対象を作ってはみんな神にしちゃうのです。豊臣秀吉も徳川家康も亡くなった後は神になりました。
 では,熱田神宮です。
 熱田神宮は式内社です。式内社というのは延喜式によって官社に指定された神社の一覧(延喜式神名帳)に登載された神社のことで,いわば,公認の神社ということです。そして,一宮市の真清田神社が尾張国の一宮で,祭神は天火明命(あめのほあかりのみこと)という太陽を神格化した神様,犬山市の大縣神社が尾張国の二宮で,祭神は玉比売命(たまひめのみこと)といい古来より女性の守護神,そして,熱田神宮が尾張国の三宮です。
 熱田神宮の祭神は熱田大神といい,これは草薙剣(くさなぎのつるぎ)を意味します。つまり,熱田神宮の神様は剣なのです。そして,天照大神(あまてらす)と須佐之男(すさのお)の兄弟,12代景行天皇の子・日本武尊(やまとたける),日本武尊の配偶者・宮簀媛命(みやすひめ),景行天皇と次の成務天皇に仕え日本武尊が東征した際,副将軍として軍を従えた建稲種命(たけいなだね)を相殿として合祀しています。
 草薙剣については,さまざまなところで書かれていますから,ここでは書きません。

 私が今回,熱田神宮で見たかったのが信長塀でした。1560年(永禄3年)織田信長が桶狭間出陣の際に,熱田神宮に願文を奉し大勝したことで,その御礼として奉納したものです。豊臣秀吉が寄進した三十三間堂の太閤塀,日本最古の西宮神社の大練塀と並び,日本三大土塀のひとつといわれています。私は,東側の入口から入ったのですが,すぐに信長塀が目に飛び込んできて驚きました。もっと奥まったところにあると思っていたからです。こんなに簡単に見つかってはありがたみが薄れます。
 熱田神宮には,そのほかに,16世紀前半の亨禄古図にも描かれている八重の花が咲く梅の奇木があります。一度も実をつけたことがないので,そうよばれる「ならずの梅」,江戸時代,1685年(貞享3年)に5代将軍徳川綱吉が再建した神宮のなかで数少ない明治以前の建造物のひとつ桧皮葺(ひわだぶき)が美しいこの西楽所,名古屋で最古の石橋で,板石が25枚並んでいることからこの名前がついた「二十五丁橋」など,興味深いものが数多くありました。
  ・・・・・・
 ひんやれ
 宮の熱田のならずの梅は やれよいとやれよいと 花はさけども実はならん
 しょんがゑ…
    安永・天明ごろの俗謡
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