しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

April 2024

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2024年4月16日。今回の旅も最終日となりました。
せっかく青森駅前の東横インに宿泊したのに,結局,青森市周辺には行きたいところもなく,最終日もまた,弘前市に行くことにしました。というのも,前日,りんごを食べながら話をしている途中で,弘前市に太宰治が下宿していた家が保存され公開されているという話を聞いて,ぜひ行ってみたいと思ったからでした。
ということで,東横インで朝食を済ませ,チェックアウトをして,青森駅に向かいました。私が乗ったのは,午前7時4分秋田駅行きで,弘前駅到着は午前7時50分でした。
この日の予定は,弘前駅から徒歩で,弘前東照宮,熊野奥照神社,弘前八幡宮と北上して,そこで引き返し,最勝院(さいしょういん),そして最後に,太宰治が下宿をしていたという旧藤田家住宅に行くことでした。これまで2度弘前市に来たのですが,すべて,行ったことがないところでした。

弘前駅から西に歩いていくと,まず,目についたのが旧青森銀行津軽支店の建物でした。
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1880年(明治13年)の弘前大火を教訓に1883年(明治16年)宮本甚兵衛が防火建築として設計した角三呉服店は,当時の洋風建築の要素を取り入れたものでした。
1917年(大正6年)に津軽銀行に譲渡されたとき,玄関前には洋風柱と印象的な棟飾りのポーチ,内部にはカウンターなどが設けられ,近代銀行建築に改装されました。1943年(昭和18年)からは青森銀行津軽支店として,1998年(平成10年)まで活用されてきました。
弘前市で現存する近代洋風建築の中では最古の建物とされていて,現在は「弘前市立百石町展示館」として一般公開されています。
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まだ朝早く,中に入ることはできませんでしたが,外観を見ることができました。

そこから北に向かって,弘前東照宮を目指して歩きました。
GoogleMapsが示す場所に到着したのですが,そこには薬王院という立派な寺があるだけで,それらしきものがありませんでした。歩きまわっていると,薬王院の裏手に空き地があって,そこに本殿だけが存在していました。
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弘前天満宮は,弘前藩2代藩主・津軽信枚が南光坊天海を通じて幕府に日光東照宮から東照大権現の神霊を迎えることを願い出て,1617年(元和3年)に,弘前城天守の傍らに東照大権現を勧請したのがはじまりです。
1624年(寛永元年)に現在地に遷座し,社殿を造営,薬王院が管掌することとなりました。
明治期に住民の希望で神仏判然令により薬王院と分離しつつ復興されました。
平成に,境内で運営していた結婚式場への過大投資が原因で経営難に陥り,宗教活動を停止し,本殿も売却されることになりましたが,2015年(平成27年)弘前市が収得し,祭神は黒石市にある黒石神社へ移されました。
本殿は創祀当時の建物で,素木造である上に彫刻や金具をほとんど用いない簡素な造りとなっています。
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といった経緯があって,現在は,本殿であった建物だけが囲いに覆われて存在していました。

北に歩いていって,熊野奥照神社に到着しました。
地図ではかなり遠そうだったので,行くことができるか不安だったのですが,それほどの距離ではありませんでした。
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熊野奥照神社は,紀元前85年,阿部比羅夫が秋田・能代の蝦夷を討ち津軽に所領を定めた際に,熊野三所大権現を奉ったのが最初といわれます。
津軽藩祖津軽為信が社殿を修復し,現在の本殿は2代目藩主津軽信牧の再建による,弘前最古の建造物です。
1880年(明治13年)に阿部比羅夫,坂上田村麻呂を合祀したことで,熊野奥照神社となりました。
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一見,単なる神社ですが,こんな歴史があるのだと思いました。

熊野奥照神社からさらに北に進むと,大きな鳥居があって,その向こうに社殿が見えたのが弘前八幡宮でした。
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弘前八幡宮は,津軽総鎮守,弘前総鎮守,弘前城鬼門守護の社です。
古来「弓矢八幡」武神として武家信仰の中核で,津軽地域の「一代様信仰」として,戌(いぬ)年,亥(いのしし)年生まれの守護神と崇敬されています。
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ということでした。
従来の本殿は裏手にあって,見るには許可が必要とありました。許可を取るのは簡単そうでしたが,それほど興味があったわけでもなし,面倒になってやめました。

そこで引き返し,ずいぶん南まで歩いていって,最勝院に着きました。
遠くからでも目につく五重塔が満開の桜と調和してきれいでした。弘前市の見どころは弘前城だけではありません。
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市民から「五重塔の寺」として親しまれている最勝院は,真言宗智山派の寺院で,山号は金剛山,寺号は光明寺。
1532年(天文元年年)常陸出身の弘信が現在の弘前市堀越に堂宇を建立したことにはじまります。
2代藩主津軽信枚が弘前城を築城したことにともない,城の鬼門に寺院を移転し,弘前八幡宮の別当寺(寺社をかんりするための寺)とされました。
明治時代の神仏分離令で,最勝院以外は廃寺となり,最勝院は廃寺となった寺院の檀家を引き受けて現在地に寺籍を移転しました。
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最勝院は大きな寺で,伽藍は,本堂,仁王門,五重塔,如意輪観音堂,五智如来堂,護摩堂,聖徳太子堂,薬師堂,庚申堂,鐘楼がありました。本堂は1970年の再建で,本尊は大日如来です。
五重塔は,1667年(寛文7年)に完成した日本最北端のものということです。
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弘前市にこれほど立派な寺があるのに驚きました。
まだ梅が咲いていて,梅と桜のそろい踏みが見られました。

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1か月ほど前に弘前市に来たときに見つけたのが,弘前城の近くにあった旧第五十九銀行本店本館でした。美しい木造2階建ての建築で興味をもったのですが,開館時間が午後4時30分だったので、入ることができませんでした。そこで、今回は行ってみようと思っていたので,弘前城の帰りに寄ってみました。
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旧第五十九銀行本店本館は,1904年(明治37年)現在の青森銀行の前身・第五十九国立銀行の本店として建設されたものです。
外観はルネサンス風の意匠を基本としていますが,外壁は板の上から瓦を張りその上は漆喰で塗りつぶされ,窓も外側は漆喰塗としており防火構造が取り入れられています。また,塔屋と屋根は和小屋組とトラスの折衷構造となっています。
1943年(昭和18年)に青森銀行が創立されてからは弘前支店として使用されていました。1965年(昭和40年)に建て替えのため,一度は取り壊されることとなりましたが,1967年(昭和42年)に青森銀行記念館として保存が決まり,現在は,弘前市が所有しています。
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こうした明治時代の建物は,現在,各地で公開されていますが,どれも威厳があり,堂々としていて,当時の人たちの矜持を感じます。

そのあと,昭和のようなノスタルジーあふれる弘前市内をのんびりと散策しながら,弘前駅に向かいました。
途中,「りんごを食べませんか?」と声がかかったので,りんごをいただくことにしました。声をかけたのは,りんご歴史研究所というものをやっている女性でした。
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今でこそ青森といえば「りんご」ですが,「りんご」がはじめて持ち込まれ栽培を開始した当初は苦難の連続だったと伝えられています。りんご歴史研究所はそんな先人たちの挑戦を後世に伝えると共に,青森で未来に向けて挑戦する方々を応援していくために設立されました。
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ということで,私は大のリンゴ好きであり,青森県のりんご栽培の歴史も興味があったので,りんごを食べながら,いろいろとお話をすることができて,楽しい時間になりました。

午後5時ころに弘前駅に着きました。
弘前駅午後5時41分発の快速があったのでその列車に乗ることにして,それまでの時間,弘前駅のビルにあったおそば屋さんに入って,夕食代わりのきつねそばを食べました。軽食のつもりだったのですが,おなかがいっぱいになりました。
やがて,目的の列車が来たので乗り込んで,午後6時23分に青森駅に着きました。
昨年来たときはまだ完成していなかった立派な青森駅がそびえていました。
今回青森駅前の東横インに宿泊したのは,弘前市内のホテルが見つからかなったこともありますが,青森市内に何かおもしろい見どころがあるのでは? という期待からでした。
東横インにチェックインを済ませ,再び外に出ました。

青森駅前はアーケード街となっていて,ねぶたが通るために電線がなく,極めてきれいな街でしたが,午後7時前だというのに閑散としていて,ほとんど人通りもなく,仙台駅前とは雲泥の差でした。
すでに夕食は済ませてあったので,少しお酒でも飲もうと思って歩いていたのですが,適当な店がまったくありませんでした。思っていた以上に,青森市は何もないところでした。
仕方なく,東横イン近くの居酒屋に入りましたが,外の静寂とは違って,店内は客でごった返していてものすごくうるさいし,注文してもなかなか料理は来ないし,やっと料理が来ても,高いだけで量はなく,また,会計を頼んでも何分もまったく反応がないしと,ゆったりと旅のお酒を味わおうという期待とははまったく違ったところで,印象最悪でした。こうしたちょっとしたことで,その街のイメージが台なしになります。
こんな店,入らなければよかったと後悔しました。これもまた,今回の旅の反省点でした。

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前日に弘前城に訪れた人が,まだ桜は咲いていなかったと言っていたのですが,この日はすでに桜が咲いていて,やったぜ,と思いました。まさに今日開花したばかりなので,観光客もかなり少なくて,これもまた幸いしました。私のきらいなインバウンドの団体もいませんでした。
これが私が一度は見たかった弘前城の桜なんだなあ,と思いました。
私は,旧東奥義塾外人教師館にあるカフェ「Salon de café Ange」で昼食をとってから,南の追手門から弘前城に入りました。北に向かって進んでいくと,左手にボランティアガイドの受付がありました。会津若松城に行ったときボランティアガイドさんをお願いしたのですが,弘前城でもお願いをして,ボランティアガイドさんについて弘前城をまわりました。

頼りなさそうな年配の女性のガイドさんでしたが,知らないことを多く教えてもらえて,ずいぶんとためになりました。私が印象に残ったのは,次のようなものです。
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【その1】
弘前城の最初の天守は,1609年(慶長14年)津軽藩2代藩主の津軽信枚(のぶひら)により本丸南西隅に建てられた5重の建物でした。しかし,1627年(寛永4年)の落雷で出火し焼失しました。
現在の天守は,ロシア船の津軽海峡往来などの事態により幕府の許しを得て,本丸南東隅の辰巳櫓の改修を名目として,9代藩主津軽寧親(やすちか)のときに建てられたもので,1810年(文化7年)に着工し,1811年(文化8年)に竣工しました。
天守は,外側に面する東面と南面は1層目と2層目に大きな切妻出窓を設けて堂々としていますが,内側である西面と北面には破風がなく連子窓を単調に並べただけという「二方正面」になっています。これは,幕府から役人が来たとき,西面と北面だけを見せることで,武家諸法度で禁じた天守の再建と見なされないようにした工夫だそうです。
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【その2】
現在,1915年(大正4年)以来100年ぶりの平成の天守石垣の修理が行われているので,天守は,2015年に,約70日かけて,元の位置から北西へ約78メートル離れた本丸中央部に移動させました。
当初の予定では2021年に石垣の修理が完了する予定でしたが,地質調査の結果,天守が載っていた土台部分の石垣と天守の基礎に耐震補強が必要となり,天守が元の位置に戻るのは早くて2025年度の予定となりました。

現在も,天守の内部に入ることができますが,天守を外からみることができる特設の展望デッキもあります。展望デッキからは,天守と岩木山と桜を同時に見ることができるのですが,これは,天守が移動している今だけの特権だそうです。
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【その3】
石垣の修理で天守台石垣の四隅からイカの形をした石垣が発掘され「いかすみ石」と名づけられました。それぞれの石の大きさは,大きさ約3メートル,幅約1メートル,重さ約3トンで,「いかすみ石」は,両側の石をつなぐチキリと呼ばれる鉄や鉛製の金具により固定されていました。
約100年前の大規模な石垣修理が行われた際に組み込まれた可能性が高いといいます。
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【その4】
「弘前の桜は凄い」といいます。
その理由のひとつは,ひとつの房につく花の数が違うということです。通常,桜木の房には3,4個の花がつきますが,弘前公園の桜には5個から7個もの花がつきます。そこで,弘前公園の桜は密度が高く,これが,観る人に圧倒的な迫力を与える要因となります。
もうひとつは,枝の形にあります。弘前城の桜の樹は横一杯に枝を広げ,そこに通常より多い花をつけているので,雄大で煌びやかな佇まいを有し,目の高さで桜を愛でることができます。これは,津軽地域の名産である「りんご」に深く関りがあって,弘前公園の桜は,りんご栽培を応用した剪定技術を使って,桜の樹の管理をしているからだといいます。
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「桜切る馬鹿梅切らぬ馬鹿」のことわざどおり,元来,桜は切り口から病気にかかりやすいため剪定はタブーと考えられてきました。ところが,55年前に樹勢が弱っていたシダレザクラに枝を深く切る強剪定を施したところ樹勢が回復。これを機に,弘前公園の桜は剪定されるようになりました。これが,リンゴの栽培技術を参考にした「弘前方式」とよばれる管理方法です。
この弘前方式により、これまで多くの桜が守られてきました。
りんご栽培は実の収穫をしやすくするため,また,日光が均等にあたるように枝が横に張るように剪定します。この技術を応用して桜の房に栄養を与えることで,花の数を増やし,濃密な桜の枝ぶりが誕生したのです。
また,4年前の大雪で根元から倒れてしまった樹齢100年を超えるオオシダレは,別の桜の苗木から根っこをもらってつなぐ「根接ぎ」という方法で,何度か苦境を乗り越え,支柱に支えられながらも,今年も元気に花を咲かせています。
  ・・・・・・

ガイドさんと別れ,次に,私が目指したのが,弘前公園中濠観光舟でした。
弘前公園中濠観光舟は,弘前さくらまつりの期間中,弘前城のお濠を舟で遊覧するものです。なお,弘前さくらまつりは,当初は4月19日からでしたが,1週間前倒しとなって,4月12日から行われていました。
弘前公園中濠観光舟の乗り場に行くと,黒山の人だかり…。ではなく,空いていて,すぐに乗ることができました。おそらく,満開直後で,観光客が少なかったからでしょう。
濠まで枝を伸ばす満開の桜の景色は格別でしたが,桜の花びらが水面に浮かんだお堀を船で進みながら見上げるというのもまた雅なので,桜が散ってくるころにも,楽しむことができそうです。
弘前公園中濠観光舟は,東内門前の石橋前乗船桟橋から辰巳櫓を曲がり,杉の大橋付近で折り返し来たコースを約20分でまわります。杉の大橋をくぐったときの景色が最高,ということですが,橋の上からもたくさんの方が手を振ってくれます。そうした人たちの中に若い女性のグループがいて,船頭さんが「どこの学生?」と声をかけると「弘大」という返事。おそらく,この春,弘前大学に合格した学生さんたちなのでしょう。
どこからともなく津軽三味線の音が聞こえてきたりして,最高の舟旅となりました。

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あれは春の夕暮だつたと記憶してゐるが,弘前高等学校の文科生だつた私は,ひとりで弘前城を訪れ,お城の広場の一隅に立つて,岩木山を眺望したとき,ふと脚下に,夢の町がひつそりと展開してゐるのに気がつき,ぞつとした事がある。私はそれまで,この弘前城を,弘前のまちのはづれに孤立してゐるものだとばかり思つてゐたのだ。けれども,見よ,お城のすぐ下に,私のいままで見た事もない古雅な町が,何百年も昔のままの姿で小さい軒を並べ,息をひそめてひつそりうずくまつてゐたのだ。ああ,こんなところにも町があつた。年少の私は夢を見るやうな気持で思はず深い溜息をもらしたのである。万葉集などによく出て来る「隠沼こもりぬ」といふやうな感じである。私は,なぜだか,その時,弘前を,津軽を,理解したやうな気がした。
  太宰治「津軽」序編
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2024年4月15日。旅の3日目。
今日の行程は,仙台駅午前8時5分発の東北新幹線「はやぶさ」1号に乗って,新青森駅午前9時49分着。午前9時58分発の奥羽本線に乗り換えて,弘前駅午前10時37分着でした。弘前駅に着くこれより早い列車はありません。この日は弘前市内を観光して,夜は青森市まで行って青森駅前の東横インに泊まります。最終日4日目の日程はこの時点では未定でした。

この旅の目的は,天童市で人間将棋を観ることと,弘前市で弘前城の桜を見ることだけの3泊4日という贅沢なものでした。しかし,いろいろと反省点が多く,日程も宿泊先も少し工夫すれば,もっと快適なものになったのですが,何せ,どのくらい混雑しているのかわからず,適当に決めたので,まあ,こんなものでしょう。
もし,次回があるとすれば
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1日目は今回と同じように,県営名古屋空港からおいしい山形空港まで行きますが,おいしい山形空港から天童駅までは事前に空港ライナーを予約をします。名古屋駅から東海道新幹線,東北新幹線,山形新幹線と乗り継いで天童市まで行くと,最も早くても,天童駅到着は午前11時58分になります。そして,少し贅沢しても天童温泉に宿泊します。2日目の夜,天童駅から山形新幹線,東北新幹線,奥羽本線と乗り継いで,弘前駅まで行きます。午後5時49分に天童駅を出発しても,弘前駅には午後11時17分に着くことができます。そして,早めに予約をして,弘前市内に宿泊します。3日目は弘前城などを見て,その日の夜,青森空港から県営名古屋空港へ帰ります。
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といった日程にすると思います。

今回は,1日目に山形駅前,2日目の仙台駅前,3日目に青森駅前の東横インに宿泊しました。
いつも書いているように,東横インの3大欠点は,部屋の壁が薄いこと,エレベータが1基しかなくなかなか乗れないこと,そして,バイキング形式の朝食が混み合うことです。しかし,駅前にあり,安く宿泊できるし,チェックインとチェックアウトが楽なので,一夜を過ごすだけだと考えれば,それでも便利なので,よく利用しています。
仙台駅前の東横インは大きかったので,エレベータは2基あったものの,朝食はかなり混み合うことが予想されたから,私は,外に出て,吉野屋などで済ますことにしました。ところが,仙台市というところは,意外に,吉野家,すき家,松屋といった店が少ないのです。また,24時間営業というのもなくて,午前6時営業開始とかでした。仙台市は,都会なのか田舎なのか,中途半端なところでした。

東北新幹線は,仙台以北は空いていると聞いていたのですが,それでも,月曜日ということもあり,仕事で利用する人が多く,思ったより混雑していました。「はやぶさ」では,未だ車内販売があるのにも驚きました。
私は,これまで,東海道沿線については何となくわかるのですが,東北地方のことはこれまでまったく知りませんでした。このごろこの地方を旅行をするようになって何となくわかってきたというか,それとともに,疑問に思うことが多くなってきました。それは,この国の鉄道網は,すべて首都東京中心の発想で考えられていて,東京に住む人だけが便利であるようにできているということです。
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仙台駅を出発した「はやぶさ」1号の行先は北海道の新函館北斗駅です。
新函館北斗駅というから,函館駅の近くだと思っていたのですが,調べてみると,何ともはやどうにもならないほど不便で中途半端な場所でした。
私は,新幹線で北海道まで行ったことはこれまでありませんが,新函館北斗駅で降りるなら,今でも,飛行機で新千歳空港へ行くほうが便利です。ただし,飛行機でも,名古屋からだと,FDAが季節限定で県営名古屋空港から丘珠空港まで運行していますが,通常は,セントレア・中部国際空港まで行かないと札幌空港まで行く便がないから,飛行機を利用しても北海道は不便で,気合を入れて旅に出る必要があります。
私の乗った「はやぶさ」1号は,はじめのうちは結構乗客が乗っていましたが,次第に少なくなり,七戸十和田駅でほとんどの人が降りてしまいました。

今回,新青森駅を利用するまで,新青森駅がどこにあるのか知りませんでした。青森市内からずっと遠いところかと思っていましたが,青森駅から奥羽本線をひと駅南に行ったところでした。
青森県はおもしろく魅力に富んだところですが,すべての都市がばらばらなのが欠点です。
特に,青森市は,県庁所在地としては,魅力のない都会です。もともと,青函連絡船があったからこそこの位置に町ができたのであって,青函連絡船なき今では,この位置に町がある理由がありません。青森駅は,青函連絡線との接続のために埠頭に作られたから,今では,とどのつまりで,盲腸のような感じになってしまっています。だから,この場所に新幹線の駅を造ることができません。観光資源も,ねぶたしかありません。もともと,津軽藩の藩庁は現在の弘前市の場所であり,青森市にはそうした歴史もないので,城郭や由緒ある神社仏閣もありません。
とはいえ,弘前市もまた,現在は,交通の中心でなく,奥羽本線の単なる途中駅になっているから,行くのに便利とはいえません。せめて,東北新幹線が弘前駅を経由していれば,というか,盛岡駅からそのまま北に,東北自動車道のルートを走っていたらよかったのに,と思いますが。
このように,青森県は,さまざまな中小都市が散在していて,列車で旅をするには苦労します。ただし,今回は新青森駅での接続がよく,さほど待つこともなく乗り換えすることができて,弘前駅に着きました。

私の心配は,果たして,この時期に弘前城の桜が咲いているか,ということでした。1か月まえに弘前市に来たときは,まだ,雪が降っていたのです。東北新幹線の窓から見た景色では,仙台あたりは桜が満開でしたが,次第にそうした景色もなくなっていました。
何せ,弘前のさくらまつりは,当初は4月19日からだったとのこと。弘前市の桜は,昨日は3分咲きという情報で,少々がっかりしていました。しかし,ここ数日,ものすごく天気がよく,しかも暑く,一気に咲くのでは,という淡い期待もありました。
この日は,弘前城に行く以外に予定もなかったので,のんびりムード。桜が咲いていなければ,もはや,何もすることがありません。ともかく,弘前駅で降りらた,コインロッカーに荷物を預けて,弘前城まで歩いていって,途中でどこか見つけて昼食をとるつもりでした。
しかし,知ってはいたものの,昼食をとるいい店がなかなか見つかりません。そのうち,弘前城の周辺まで来てしまいましたが,弘前城内には食事をする店がないことも知っていました。そこで私が思い出したのは,藤田記念庭園にある「クラフト&和カフェ匠館」と旧東奥義塾外人教師館(とうおうぎじゅく)にある「Salon de café Ange」(サロン・ド・カフェ・アンジュ)でした。このふたつなら,満足できる昼食がとれます。私は,「Salon de café Ange」のほうが近いので,そこに決めて,中に入りました。落ち着いた店内で,リンゴカレーライスセットを食べることができました。

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いつたいこの城下まちは,だらしないのだ。旧藩主の代々のお城がありながら,県庁を他の新興のまちに奪はれてゐる。日本全国,たいていの県庁所在地は,旧藩の城下まちである。青森県の県庁を,弘前市でなく,青森市に持つて行かざるを得なかつたところに,青森県の不幸があつたとさへ私は思つてゐる。
  太宰治「津軽」序編
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この日はシャトルバスに乗らず,歩いて天童駅まで行くことにしていました。
私は今回,車ではありませんが,舞鶴山山頂から麓にある駐車場まで階段状の散策道があって,麓の駐車場に車を停めた人は,この険しい散策道を歩いて登り降りする必要があるのですが,私は,降るほうなので,さほど問題はありませんでした。しかも,歩きながら,桜が満開の美しい景色を堪能することもできました。
下界に降りました。
昨日,シャトルバスの車内から見た1軒の氷屋さんが気になっていて,この日は,そこで涼をとることを楽しみにしていました。その氷屋さんには「天童将棋愛す」(てんどうこまあいす)というのぼりが立っていましたが,注文したのは「ふんわり5代目かき氷」の「とちおとめ-極-」でした。
私は常に,人混みが嫌いなので,計算づくで人の動きとは逆を行くことにしています。ということで,時間が早かったので,私が店に入ったときは空いていました。しかし,私が氷を食べ終わるころには,長い列ができていました。

すでに書いたように,この旅は,天童市の人間将棋を観ることと弘前市の弘前城の桜を見ること,このふたつが目的でした。しかし,天童市から弘前市は遠く,この日は途中の仙台市で1泊することになりました。実際は,この日に仙台市に宿泊しなくても,山形新幹線で福島駅まで行って,そこで東北新幹線に乗り換えれば青森市まで行くことはできたのですが,仙山線に乗ってみたかったことと,せっかく来たので,仙台市を散策するのも悪くない,と思ったので,そうしました。
ただし,天童市から仙台市までが大変でした。天童駅からまず,奥羽本線で羽前千歳駅(うぜんちとせ)まで行き,そこで仙山線に乗り換えて,仙台駅までいくのですが,列車の接続が悪いのです。
このところ,列車で旅をするようになったのですが,JRは何を考えているのやら,ということがすごく多くあります。とにかく,新幹線ファーストで,地元の人が乗る在来線はものすごく不便です。こんなことなら,民営化する以前の非効率の国鉄のほうがずっとよかったとさえ思えます。リニア新幹線の建設で莫大なお金を使う反面,在来線の多くの駅は駅員すらおらず,列車もまた,ワンマンカーばかりとなり,お年寄りがJRを利用するのはとても大変です。地元民は不便を強いられているようです。

天童駅から仙台駅までの列車の時刻は次のようでした。
  ・・・・・・
①天童駅発午後1時56分・羽前千歳駅着午後2時12分
 羽前千歳駅発午後3時16分・仙台駅着午後4時33分
②天童駅発午後3時12分・羽前千歳駅着午後3時26分
 羽前千歳駅発午後4時21分・仙台駅着午後5時49分
③天童駅発午後4時7分・羽前千歳駅着午後4時21分
 羽前千歳駅発午後4時21分・仙台駅着午後5時49分
④天童駅発午後5時3分・羽前千歳駅着午後5時17分
 羽前千歳駅発午後5時18分・仙台駅着午後6時37分
➄天童駅発午後6時17分・羽前千歳駅着午後6時31分
 羽前千歳駅発午後7時3分・仙台駅着午後8時20分
  ・・・・・・
つまり,羽前千歳駅で1時間ほど待つか,それとも,まったく待ち時間がないか,この選択肢しかないのです。しかし,この日,奥羽本線は2分ほど遅れていて,しかも,羽前千歳駅で遅れた列車を待っていてくれないのでした。③では,仙山線に乗り遅れる心配があります。実際そうでした。
私はそれを危惧して②に乗りました。そして,駅周辺には何もない羽前千歳駅で1時間ほどを過ごしました。

ともあれ,私は,こうして,仙台駅に到着しました。仙台駅は,うって変わって東京並みのものすごい人でした。私が仙台に来たのは45年ぶりのことでした。駅前の雰囲気はあまり変わっていないように思えましたが,45年前はこんなに人がいたのかな,と思いました。
さっそく,この日宿泊する東横インまで歩いていってチェックインを済ませ,夕食を食べに再び外に出ました。
街の雰囲気は博多のような感じがしました。しかし,アーケード街を歩いていると,やたらとタバコを吸っている若者がいて驚きました。このごろ,そんなことを感じたのは仙台市だけでした。そしてまた,食事をする店も「喫煙可」をウリにしている店が目につきました。昭和のころにもどったような不思議な気がしました。
仙台市は牛タンが名物らしかったので,牛タンが食べられるてごろな店を見つけて入りました。

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Pink Moon 2024.

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山形駅に戻ってきたのが午前10時少し前でした。
午前10時20分発の列車で天童駅に向かおうと思っていたのですが,山形駅前に午前10時2分天童温泉行というバスがあったので,それに乗ることにしました。このバスは途中で天童駅に停まります。バスから風景を見るのも悪くないと思いました。
結局,午前10時20分の列車に乗っても,到着はほぼ同じ時刻でした。
昨日,天童駅のコインロッカーに荷物を預けたとき,ほとんどのロッカーは開いていたので,そのつもりでいたら,この日は,ひとつも空きがありませんでした。駅の観光案内所で聞いても,これ以上のコインロッカーはないということでした。これでは,人間将棋を見に,地方から来た人は困ります。こうした配慮がまったくなされていないのだなあ,と痛感しました。要するに,そういうことに思考を巡らせる人材がいない,ということなのでしょう。
仕方がないので,カバンを持ったまま,人間将棋の会場に向かうことになりました。会場では重たいキャリーバッグを引いている人もいました。

さて,この日もまたいい天気で,申し分なかったのですが,昨日とは違い,すごく混雑していました。人が多いと,変な人もいます。そして,不快になります。そこで,よほどお目当ての棋士がいるのでなければ,人間将棋を観るなら1日目の土曜日のほうがおすすめです。
私は,この日,特に想い入れもなかったので,雰囲気だけを味わって,途中で帰ることにしていました。念願だった人間将棋というものもよくわかって気が済んだし,何より,人混みが嫌いだし,将棋の内容といっても,大相撲の巡業と同じです。
昨日は昼食として焼きそばを食べましたが,この日は,米沢牛の牛串にしました。これは,山形のソウルフードだそうです。
やがて,プログラムに沿って,プロ棋士トークショー,日本将棋連盟創立100周年記念の挨拶,そして,人間将棋というように,イベントが進行しはじめました。
観覧席はぎっしり詰まっていて暑く,とはいえ,こんな中で人の迷惑も考えず傘をさす人の気持ちが理解できません。
人間将棋がはじまってしばらくして,帰路につきました。

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前回山形市に来たときに山形城も訪れたので,今回は満開の桜を見ることだけが目的でした。しかし,山形城内で,はじめて見る建物に遭遇しました。それは旧済生館本館でした。普段なら閉館時間を過ぎていたのですが,この時期は特別に公開をしていたので,中に入ることができました。
  ・・・・・・ 
【昭和の宮大工職人達の手でよみがえった明治の最高傑作】
済生館は,1878年(明治11年)に山形県立病院として建設されたもので,当時の山形県令三島通庸の「山形の近代化を図る」という構想のもとに竣工されました。東北地方で最も早く西洋医学を取り入れ,診療の他に医学校が併設され,オーストリア人医師ローレツを金沢医学校から招聘しました。
経営の問題から,1888年(明治21年)に民営となり,1904年(明治37年)には山形市立病院済生館となりました。
昭和30年代後半,老朽化が進み解体することが決まりましたが,霞城公園内に復原保存されることになったもので,現在は「山形市郷土館」として当時の姿を伝える歴史資料館となっています。
  ・・・・・・
ユニークな三層楼の 建物は,当時横浜にあったイギリス海軍病院を参考にしたといわれていて,中庭を囲んで病室を円形に配置し,正面の塔屋は三層構造の独特の形態になっていました。
明治時代の建築物は,どれも,当時の人たちの西洋文明への憧れと向上心と矜持が感じれます。

さて,山形城です。桜が満開で,週末でもあり,多くの人が訪れていました。
山形城内にある巨大な銅像,前回来たときは,あれは誰だ? と思ったくらい何も知らなかった私ですが,馬にまたがった武将の名は最上義光です。
このように,前回来たときには,山形藩の歴史も,最上義光も知らなかった私ですが,その後興味が湧いて,いろいろと調べました。
  ・・・・・・
南北朝時代,清和源氏の流れをくむ斯波兼頼(しばかねより)は,356年(延文元年)羽州探題としてこの地に入り,政治の拠点と定め,山形城の築城を開始。そして,最上姓を名乗るようになりました。約170年後の1546年(天文15年)に最上家11代当主となる最上義光(もがみよしあき)が誕生し,さまざまな困難を乗り越えて,16世紀の末には村山・最上地域を治めるに至りました。
1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いで最上義光は東軍へ加担。また「北の関ヶ原」とよばれた慶長出羽合戦では,西軍の上杉景勝(かげかつ)の重臣・直江兼続(かねつぐ)との戦いが半月にも及びましたが,関ヶ原で東軍が勝利したことで直江兼続は退却。最上義光は,徳川家康から57万石の領地を認められ,山形藩初代藩主となり,商業を振興し,商業都市としての発展に寄与しました。
  ・・
1622年(元和8年)最上義光の死後に起きた最上騒動で最上家は改易となり,山形藩は出羽新庄藩,上山藩,本荘藩,鶴岡藩などに分割されたことで,石高は半減しました。
その後、鳥居忠政が移封されましたが,2代のち,世継ぎに恵まれなかったため,保科正之が山形に入封。保科正之は名君とうたわれましたが,7年後に陸奥会津藩へ移封となりました。
その後,山形藩は,松平直基,松平忠弘と短期間で藩主となる大名家が交代したのち,奥平昌能が「宇都宮興禅寺刃傷事件」により実質左遷されて山形藩にやってきました。この奥平昌能から,山形藩は騒動を起こした譜代大名の左遷の地となる慣習ができたといわれています。
奥平昌能の死後,奥平昌章がわずか5歳で後を継ぎましたが,家臣団にも優秀な人材がおらず,藩は大いに荒廃し,奥平家は移封。 その後,山形藩は堀田家,越前松平家,奥田松平家の3つの家から7人の藩主が出ましたが,どの藩主も短期間で交代し,藩は困窮する一方でした。そして,9代将軍・徳川家重よりもその弟・徳川宗武を将軍に推したため,山形藩に左遷された松平乗佑のときには,石高はわずか6万石になってしまいました。
その後,山形藩は3年間の天領をへて,秋元家が藩主となりました。秋元家は最も山形藩を長く統治した家で,4代の藩主を輩出し78年の長きにわたって山形藩を治めました。
最後の藩主となった水野忠精(ただきよ),水野忠弘(ただひろ)は,天保の改革に失敗し失脚した水野忠邦の長男と孫が左遷されてきたものです。
  ・・・・・・
東北地方最大の山形城は,2.83ヘクタールの本丸,27.99ヘクタールの二の丸,234.86ヘクタールの三の丸を三重の堀と土塁で囲まれた輪郭式の平城で,三ノ丸は,姫路城より広く,慶長出羽合戦においては,城郭が霞で隠れて見えなかったことから「霞ヶ城」とよばれました(約5ヘクタールがプロ野球のグランド程度)。
本丸には当初から御殿のみで天守はありませんでしたが,二ノ丸には江戸時代前期まで三階櫓がありました。今も残る二ノ丸の堀や土塁,石垣は,最上氏改易後の1622年(元和8年)に城主となった鳥居忠政やその後の保科正之により改修されたと伝えられています。
しかし,山形藩は度重なる石高減少で家臣を抱えきれず,山形城の維持で財政はひっ迫し,散々な有様でした。江戸中期以降は城の維持すら困難になり,幕末には御殿は二の丸に置かれ,本丸は更地で三の丸の西半分は田畑になっていました。
このように,江戸時代は悲惨な歴史が続きましたが,幕末の戊辰戦争では,水野三郎右衛門元宣の功績で山形藩は守られました。現在は,城の遺構の調査が進み,観光地として整備が進んでいます。

山形城を出て,夕食をとることにしましたが,土曜日でもあり,どこも混雑していたのですが,空いていたおそば屋さんに入りました。
翌4月14日。再び山形駅から天童駅に行くのですが,山形駅から天童駅に行く列車は山形新幹線を除くと午前8時42分の次が午前10時20分しかなく,人間将棋の開始が遅いので慌てて行くこともなかったので,それまで山形城の付近を散策することにして,昨日遅くて行くことができなかった最上義光歴史館にも寄ることができました。
  ・・・・・・
最上家の中でも特に多くの偉功を残した11代当主最上義光。最上義光が居城とした山形城の二の丸東大手門前にあるのが最上義光歴史館です。
ここには,最上義光所用三十八間金覆輪筋兜をはじめとする遺品が展示されています。
  ・・・・・・
ということで,最上義光歴史館では,最上家の歴史を中心として,山形藩についてさまざまな展示があり,興味深く見ることができました。また,ボランティアガイドさんがいて,くわしく話を聞くこともできました。
山県市民の誇りは,最上義光だ,と再認識しました。

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人間将棋が終わって,シャトルバスで天童駅まで戻ってきました。今日の宿泊先は山形駅近くの東横インだったので,そのまま山形駅に行くか,それとも天童市内を散策して,夕食をとってから天童市内を流れる倉津川沿いのしだれ桜のライトアップを見て,夜遅く山形駅に行こうか迷っていました。
ともあれ,まず,ライトアップをする前の倉津川沿いのしだれ桜を見にいくことにしました。
しだれ桜は満開だったのですが,それほど見事,というわけでもなく,また,前回来たときに天童市内の散策はしたので,新鮮なものもなく,それより,山形城の桜を見たいという気持ちの方が強くなってきたので,夕方,天童駅から在来線に乗って,山形駅まで行くことにしました。

天童駅から山形駅までは奥羽本線の列車が1時間に1本程度あります。私の乗る列車が来るのが30分ほど先だったのでホームで待っていたら,反対側のホームに山形新幹線の「つばさ」がやってきました。
私は鉄道マニアでもなく,これまで関心もありませんでしたが,山形新幹線と秋田新幹線は在来線を走るんだなあ,ということくらいは知っていました。しかし,在来線と新幹線ではレール幅が違うので,両方の列車が走れるように,レールが3線軌道になっているとばかり思っていました。であるのに,天童駅のホームから見ると,レールは2線しかありません。
疑問に思ったので,近くにいた駅員さんに聞いてみました。すると,在来線が新幹線のレール幅で走ることができるように代えてある,という返事でした。それは初耳でした。であれば,この区間を走る在来線の車輪幅は新幹線仕様であって,山形新幹線が走る区間しか運行できない,ということになります。

帰宅したのち,調べてみました。
  ・・・・・・
●山形新幹線「つばさ」:主な駅は,福島駅-米沢駅-山形駅-天童駅-新庄駅
福島駅で東北新幹線と別れた「つばさ」は,新庄駅まで奥羽本線を走るのですが,福島駅-新庄駅間は,レール幅を1,067ミリメートルから1,435ミリメートルに変えただけなので,最高速度時速130キロメートルで走行します。
奥羽本線の福島駅-新庄駅間は車輪幅1,435ミリメートルの在来線も走っています。
  ・
*仙山線
途中の羽前千歳駅で別れ仙台駅までレール幅1,067ミリメートルの仙山線があるのですが,仙山線は羽前千歳駅から山形駅まで乗り入れているので,羽前千歳駅-山形駅間は,1,067ミリメートルの軌道と1,435ミリメートル軌道が並列してあります。
1,067ミリメートルの軌道を仙山線の列車が走り,1,435ミリメートル軌道を「つばさ」と車輪幅1,435ミリメートルの在来線が走ります。
  ・・
●秋田新幹線「こまち」:主な駅は,盛岡駅-雫石駅-田沢湖駅-角館駅-大曲駅-秋田駅
盛岡駅で東北新幹線と別れた「こまち」は,大曲駅までを田沢湖線,大曲駅から秋田駅まで奥羽本線を走るのですが,盛岡駅-秋田駅間はレール幅を1,067ミリメートルから1,435ミリメートル変えただけなので,最高時速130キロメートルで走行します。
田沢湖線の盛岡駅-大曲駅間は車輪幅1,435ミリメートルの在来線も走っています。
  ・
*山形新幹線と秋田新幹線を結ぶ新庄駅-大曲駅間
奥羽本線の新庄駅-大曲駅間は新幹線が走っていないので,レール幅は従来の1,067ミリメートルのままですが,奥羽本線の在来線は,新庄駅から大曲駅を越えて秋田駅まで走っているので,「こまち」の走る大曲駅-秋田駅間は単線の1,067ミリメートルと単線の1,435ミリメートルの並列区間となり,1,067ミリメートルの軌道は新庄駅からの在来線が走り,1,435ミリメートルの軌道は「こまち」が走ります。
ただし,奥羽本線の神宮寺駅-峰吉川駅間は,並列区間のうちの一方の単線である1,067ミリメートルの軌道にも1,435ミリメートルがくっついた3線軌道になっているので,秋田新幹線からみれば複線軌道となり,「こまち」のすれ違いができます。
私が,レールが3線軌道になっていると思っていたのは,この部分のことでした。
  ・・
●山形新幹線と秋田新幹線の車両の大きさ
山形新幹線と秋田新幹線の車両の大きさは在来線の車両と同じで,全長20メートル,全幅2.9メートル。東北新幹線の車両の大きさは 全長25メートル,全幅3.8メートルなので,それよりも小さく,東北新幹線の駅に停車するときはホームと車両の間に隙間ができるので,扉の下にステップが出ます。
  ・・・・・・
このように,奥羽本線は,福島駅-新庄駅間はレール幅1,435ミリメートル,新庄駅-大曲駅間はレール幅1,067ミリメートル,大曲駅-秋田駅間はレール幅1,067ミリメートルとレール幅1,435ミリメートルの並列区間です。
調べれば調べるほど,こんな複雑なことをしてまで走らせているミニ新幹線とよばれる山形新幹線と秋田新幹線など必要がなく,従来のレール幅のまま,時速110キロメートルくらいの走行ができるように峠越え区間などの改良工事をして,①福島駅-新庄駅-大曲駅-秋田駅,②盛岡駅-大曲駅という,福島駅と盛岡駅で東北新幹線と接続をするふたつの在来線特急があればそれで十分のような気が,私はします。

さて,天童駅で,ようやくやってきた列車に乗って,山形駅に到着しました。
山形市内も,前回来たときにおよその場所は行ったので,今回の目的地は,桜満開の山形城でした。
まず,宿泊先である東横インにチェックインをして,部屋に荷物を置いて,再び外に出ました。20分ほど歩いて,満開の桜咲く山形城に到着しました。すでに太陽は沈みかかっていて,いい雰囲気でした。

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人間将棋が行われたのは満開の桜が咲く舞鶴山山頂広場でした。展望台からは,天童市の街並みと,遠くに美しい山々を見渡すことができます。
ここには,昔,天童城がありました.。天童城は,別名舞鶴城,天童古城といい,東西1,000メートル,南北1,200メートルの範囲におよぶ村山地方最大の山城で,標高231.8メートルの山頂部に主郭が置かれていました。主郭は,現在,愛宕神社が建っています。
天童城は,江戸時代後期に天童藩を立藩した織田家の居城ではなく,その昔,南北朝時代に北畠天童丸が居を構えた場所とされます。北畠家は,1372年から1374年の文中年間に,最上氏の圧力により天童城を去り,1375年(天授元年/永和元年)に最上直家の子・最上頼直が養子として天童城に移り天童姓を名乗りました。天童家は村山郡に大きな勢力を築き,次第に最上家と対立するようになりました。1577年(天正5年)に最上義光が天童城を攻めましたが,撤退させました。しかし,1584年(天正12年)最上義光がまたも攻めると落城し,廃城となってしまいました。
なお,1830年(天保元年)に天童藩を起こした織田家の陣屋は,この天童城ではなく,田鶴町に置かれましたが,戊辰戦争で,はじめは新政府軍だった天童藩は奥羽列藩同盟で幕府軍に寝返ったために攻められて焼失してしまいました。

山形県は,律令制度で,米沢盆地には置賜郡,山形盆地には村山郡,最上盆地(新庄盆地)には最上郡,庄内平野には出羽郡が置かれました。 14世紀から江戸時代初期まで,山形藩を治めたのは最上家で,山形盆地,最上盆地,庄内平野は,最上家の支配下にありましたが,1612年(元和8年)に御家騒動で改易となると,最上盆地には新庄藩戸沢家,庄内平野には鶴岡藩酒井家が幕末まで領しました。また,米沢盆地は,米沢藩上杉家が幕末まで領主となっていました。
しかし,山形盆地は,最上家改易の後は,国替えによって,頻繁に藩主が後退し,その都度,山形藩は縮小していき,幕府領や上山藩などの諸藩にわかれ,幕末には16あまりにも細分化されてしまい,郡中心部は領地錯綜の状態にありました。天童はその渦に飲み込まれてていたのです。
ただし,羽州街道の整備によって,天童は宿場町として,交通の要衝であり,商業的には発展していきました。

明和事件は,江戸時代中期におこった幕府による尊王論者弾圧事件です。 甲斐出身の山県大弐(だいに)は江戸で尊王思想を鼓吹し,藤井右門は江戸で山県大弐の家に寄宿し江戸攻略の軍法を説きました。1767年(明和4年),幕府は,小幡藩の内紛にかこつけて両名を逮捕し,山県大弐を死罪に,藤井右門を獄門に処しましましたが,この際,小幡藩主だった織田信邦は蟄居となり,織田信浮(のぶちか)が家督相続を許されるとともに,米沢藩が預かる幕府領だった高畠への移封の上,織田信長の子孫ということで認められていた国主格の待遇も廃されてしまいました。
国替えとなった織田家の所領は,置賜郡,村上郡,信夫郡とひどく距離が離れ散在してまとまりがないもので,藩財政はすでに極限状態でした。幕府も織田家の所領分散を問題に思い,信夫郡の所領を村山郡に移すことになり,その結果,領地の4分の3以上が村山郡天童に集まることとなりました。そこで, 1818年(文政元年)に亡くなった織田信浮に次いで家督を相続した織田信美は,1830年(天保元年)ついに,藩庁を天童に移す決断をし,翌年,天童藩が誕生しました。

1836年(天保7年)織田信美から家督を相続した織田信学のころは,藩の財政はさらに困窮を極めていました。ここにひとりの逸材が登場します。
1831年(天保2年)に生まれた吉田大八は15歳で家督を継ぎます。そして,1864年(元治元年)米沢から将棋駒製造職人の大岡力次郎と河野道介を招いて指導をさせ,下級家臣の手内職として将棋の駒製作を奨励したのです。その背景には,江戸後期における将棋の流行がありました。将棋の駒は,生産をはじめるのに必要な資本は少なくてすみ,大都市から離れている天童でも運搬コストが低かったのです。
手内職をすること自体に家臣たちの反対がありましたが,吉田大八は「将棋は兵法戦術に通じ,武士の面目を気づつけるものではない」といって奨励し,織田信長が「将棋は作戦の秘訣なり」といった故事を引用して藩主・信学や藩重役を説得して奨励してもらったりしました。
それ以来,木地屋と書き屋に専業化した家内手工業になって,地元周辺地域向けに将棋駒生産が確立し,藩の財政も救われました。

江戸時代から天童駒は漆で駒木地に文字を書く「番太郎駒」とよばれる安価なもので,関西の高級な彫り駒からみると大衆駒でした。しかし,天童の職人たちによる駒生産の効率化と生産技術向上への血のにじむような努力が積み重ねられ,天童駒を安価な番太郎駒からより高級なものにしようと試みられるようになりました。
こうして,天童は生産量全国一の座を占めるようになり,昭和の終わりごろからは高級駒の生産地としての評価が高まるようになっていき, 現在では,天童駒は全国の95パーセントを独占するまでになり,特色ある伝統産業として天童の名を知らしめることに成功しました。
1992年(平成4年)には,将棋の駒をイメージした外観の観光情報センタービルを建設,天童市将棋資料館が併設され,「将棋の町天童」の名はさらに高まりました。また,春の桜祭りには将棋供養祭や人間将棋が行われ,天童の観光に一役買って,貴重な観光資源となっています。

1886年(明治19年)に旧山元村地内の鎌田原で用水井戸掘りの際に微温泉が出ました。あらためて47度の温泉を掘りだして湯屋を開業したのが1911年(明治44年)のことです。 当初は田んぼの中に小屋掛けがある程度の湯屋でしたが,ついには温泉町ができ上がるまでになりました。さらなる集客を目指して、当時ようやくその名が知られはじめていた隣町の天童の名を拝借し,1924年(大正13年)天童温泉と名づけられました。
こうして,天童温泉は天童を代表する観光保養地となり,現在の天童は「いでゆと将棋の町」として知られているのです。

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4,000 times Anniversary of uploaded this blog today.

ブログをはじめて132か月。
今日4,000回目の更新を迎えました。
いつも読んでいただいて,どうもありがとうございます。


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いよいよ1日目の人間対局がはじまりました。
はじめに登場するのは役者のむとう寛さん扮する織田信長です。
2022年,藤井聡太八冠が登場した人間将棋の観戦希望に外れたことはすでに書きましたが,そのときの人間将棋はニコニコ動画でライブ配信されたので,それを見ました。そこで,人間将棋がどのように行われたのかはすでに知っていて,今回も同じように進行しました。
ニコニコ動画で見たとき,私は,どうして天童市に織田信長? と思ったので,調べてみたら,天童藩の藩主が織田信長の末裔だと知りました。
さて,織田信長が進行役を務めて,まず,武士に扮したふたりが戦い,その結果,将棋で勝負をつけようということになって,駒に扮する人たちが登場するわけです。駒役は,1日目は,地元の高校生,そして,2日目が応募者から選ばれた人たちです。
そして,いよいよ,対局をする棋士が登場し,高台に乗って,勝負がはじまるのです。
勝負をしながら,武者言葉を話すという約束で,それがまあ,たどたどしいのがおもしろく,退屈しません。左わきには,大盤解説が行われています。

対局は90分ということでした。
途中で小休憩があり,再び織田信長が登場しました。この日は暑くて,駒役の人たちにもペットボトルが配られました。
再び,対局が再開されました。
すべての駒を動かす,ということがなかりのネックとなり,特に,端の香車を動かすタイミングがむずかしいのです。
「これでは香車が動けないではないか」
「香車が(退屈して)水を飲んでおるぞ」
この対局では,優勢だった武富礼衣女流初段が気をつかって,相手方の最後まで動けなかった香車が動けるような(ムダな)手を指しました。しかし,貞升南女流二段は,相手方の心配りを無にするような手を指して,局面が逆転してしまいました。心配りが悪手となってしまったのです。
なかなか勝負が終わらなくなって,大盤解説をしていた和田あき女流二段がいきなり
「20秒」
とか言うような適当な秒読みをはじめて… というような泥仕合となり,最後は,貞升南女流二段側が入玉を果たして,勝利しました。
対局がはじまったら,ショーであることはどこへやら…。勝負優先となって,負けられない意識が強くて,それがいかにもプロというか,女流棋士の勝気な性根を知った感じでおもしろかったです。

雲ひとつなく,風もなく,しかも,満開の桜の下,という最高の状態だったのですが,問題は,めちゃくちゃ暑かったことでした。まさか真夏のような天気になるとは思っていなかったから,私は帽子すら持っておらず,しかも,観覧席は日差しを遮るものがないから,観戦するのが苦行となってしまったのが少し残念でしたが,念願だった人間将棋を目の前で体験できて満足できました。

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タクシーで天童駅に到着しました。コインロッカーにカバンを預けて,貴重品とカメラだけをもって,人間将棋の会場に向かうことにしました。
会場は舞鶴山山頂広場ですが,雨天の場合は天童市市民文化会館ということでした。せっかく来たのに,雨天では話になりません。しかし,いつも書いているように,私は晴れ男。人間将棋の行われる4月13日と4月14日は晴れの予報でしたが,実際,両日とも雲ひとつなく,風もないという最高の天気となりました。
天童駅前から会場の舞鶴山山頂広場までシャトルバスが頻繁に出ます。私もバス乗り場に並んで,すぐに乗ることができました。シャトルバスは無料ですが,100円ほどの寄付金が必要でした。

人間将棋の日程は次のようでした。
  ・・・・・・
●1日目4月13日
午前10時20分 開会式
午前10時40分 ニャー将棋音頭(天童幼稚園)
午前10時50分 維新軍楽隊(天童市立天童南部小学校)
午前11時10分 デンソーFA山形「電王手桜将」(でんおうておうしょう)と天童代表の対局
午後0時30分 【人間将棋】貞升南女流二段と武富礼衣女流初段
●2日目4月14日
午前10時30分 開会式
午前10時40分 花駒踊りパレード,天童神輿會天聲會(てんせいかい)による木遣り唄
午前11時10分 プロ棋士トークショー
午後0時10分 日本将棋連盟創立100周年記念挨拶
午後0時30分 【人間将棋】広瀬章人九段と戸辺誠七段
  ・・・・・・
つまり,1日目は女流棋士,2日目はプロ棋士の人間将棋がメインイベントということです。

私が乗ったシャトルバスが会場に到着したのは,午前11時ころでした。一昨年,人間将棋が行われていない時期に同じ場所に来たときは,だれもいないただの広場でしたが,そのときとはまったく違って,お祭りムード一杯でした。そしてまた,桜が満開でした。
ひな壇状の観覧席があって,空いているところはどこにでも座れます。ちょうど維新軍楽隊の演奏が終わって,デンソーFA山形「電王手桜将」と天童代表の対局がはじまったところでした。これは,コンピュータと将棋の強いアマチュアとのコマ落ち対局で,コンピュータが勝利しました。
そのあとが,待望の女流棋士の人間将棋対局ですが,ここで,昼食をとることにしました。
一応,屋台があったのですが,売っているのは焼きそばくらいのものでした。私は,空腹が満たされればそれでよかったので,焼きそばを食べて,自動販売機で冷たい飲み物を買い,準備万端で,観覧席に座り,人間将棋がはじまるのを待ちました。

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私が思ったとおり,天童市の人間将棋は2024年4月13日と4月14日の開催に決まりましたが,私が今回の旅の予定を立て,予約を済ませたのは,それ以前のことでした。
はじめは,東海道新幹線から山形新幹線に乗り継いで天童駅まで行くつもりでしたが,県営名古屋空港からおいしい山形空港へFDA便で行くほうが安くて早く着くことがわかったので,今回も空路で行くことにしました。
宿泊する場所は,天童温泉などを探してみたのですが,高価だったことや,なかなかホテルの空室がなかったことであきらめて,山形市まで行けばいいやと,山形駅前の東横インの予約をしました。そんなことなら,もっと早く天童市の東横インを予約しておけばよかったのが「反省点その1」です。
私の旅は,温泉に泊っておいしいものを食べ贅沢をするか,あるいは,都会のビジネスホテルに安価で泊まるかの2者択一なのですが,今回は天童の人間将棋を見るということだけが目的だったので,後者を選びました。
ということで,はじめは,天童市だけに行く1泊2日の旅にするつもりでした。

ところが,閃いちゃったのです。
それは,せっかく山形県まで行くのだから,そのついでに,青森県の弘前市まで足をのばして,有名な弘前城の桜を見ようということでした。今もって,どうしてそんなことをふと閃いてしまったのか,覚えていないのですが,きっと,ずっと以前から,有名な弘前城の桜が見たかったことと,この機会を逃すと,また来年以降になり,はたして行ける日がくるのかな,と思ったからでしょう。
しかし,それは甘い考えでした。
その理由のひとつは,弘前市は,天童市よりもずっと北にあるから,この時期,天童市の桜が満開でも弘前市の桜が満開にはなっていないということでした。実は,私は,2023年5月にはじめて弘前に行ったのですが,そのとき,弘前市ではいつ桜が満開なのかを観光案内所で聞いたら,通常はゴールデンウィークなのですが,異常に暖かった2023年に限って,4月の上旬に満開になったという回答でした。それを聞いたとき,そうか,では,おそらく今年も4月の中旬だろうと思い込んでいたのです。しかし,2024年の春は,1月と2月は暖かかったのに,3月が寒く,桜の開花が平年よりも遅れていたのです。私は,桜前線の情報を見て,気が気でなくなっていました。
理由のふたつめは,同じ東北地方だから,と軽く考えていた私が愚かで,実際は,天童駅から弘前駅というのは,東京駅から天童駅に行くよりも時間もかかり,距離も遠いということでした。山形新幹線は福島駅で東北新幹線と分岐しているので,東京駅から山形駅に行くには便利でも,山形駅から弘前駅に山形新幹線を利用して行くにはずっと遠回りになってしまうのです。
結局,天童駅から弘前駅に行くには,まず,仙山線で仙台駅まで行き,仙台駅で東北新幹線に乗って新青森駅まで行き,新青森駅から弘前駅に行くというコースになります。しかも,列車の本数が少なく,途中の仙台市で1泊する必要がありました。
理由の3番目は,弘前市もまた,この時期にホテルを探すのが大変だったということでした。そこで,青森駅前の東横インに泊まることにしましたが,よくよく考えると,何も青森駅まで行かずとも,その途中にホテルがいくらでもあるのでした。これもまた,かなりムダな行程になってしまって「反省点その2」となりました。
という次第で,結局,2024年4月13日から4月16日までの3泊4日の旅となりました。

出発当日になりました。この日もまた,いい天気でした。
朝,午前9時15分に私の乗った飛行機は県営名古屋空港を離陸して,45分ほどで,おいしい山形空港に到着しました。
おいしい山形空港の観光案内所で天童駅までの行き方を聞いてみると,公共交通はない,という話でした。そういえば,そんなことが書かれたブログを読んだことがあったような…。で「タクシーを使ってください」と言われました。おいしい山形空港から天童駅まで料金が何と3,800円もしましたが,ともあれ,午前10時30分ごろには,天童駅に到着しました。
  ・・
事前に空港へのアクセス方法について調べてこなかったことが私の「反省点その3」です。
帰ってからわかったおいしい山形空港の交通アクセスは次のようでした。
●電車
地図で見ると,おいしい山形空港に隣接して,JR奥羽本線のさくらんぼ東根駅があります。そこまで歩けば,と思うのですが,徒歩だと40分ほどかかるようです。そこで,おいしい山形空港からさくらんぼ東根駅まで山形空港ライナーという乗合タクシーがあって,これを利用すると,所要時間は約10分で,料金は500円となります。しかし,これは1時間前までの予約制です。とはいえ,さくらんぼ東根駅に着いたとしても,そこから天童駅に行く列車は1時間に1本ほどしかありません。
●空港シャトル
おいしい山形空港から山形市内に行くには,予約不要の空港シャトルがあります。この空港シャトルは,おいしい山形空港と山形駅までを約35分で結び, 飛行機に合わせたダイヤで運行しています。料金は1,300円です。これを利用するなら,山形駅からJR奥羽本線に乗って天童駅に行くことになりますが,さくらんぼ東根駅と同じく,列車は1時間に1本ほどしかありません。
この空港シャトル,おいしい山形空港と山形市の途中に天童市があるのに,天童市で下車できないというのが私には解せません。
●空港ライナー
空港ライナーを使えば,おいしい山形空港から,東根市,天童市,村山市,寒河江市(さがえし),河北町(かほくちょう)へ,それぞれ行くことができますが,1日前,もしくは2日前までの完全予約制で,料金は800円です。
ということで,出発2日前に空港ライナーを予約しておけば,これを利用して天童市に行くことができたというわけです。

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現在,将棋の駒の95パーセントを生産するという山形県天童市は将棋の町として有名で,毎年春「天童桜まつり」で人間将棋が催されます。小学生のころに読んだ子供向けの将棋の入門書に人間将棋のグラビア写真があったので,私はその存在は知っていましたが,これまで行ってみたいと思ったことはありませんでした。
2022年4月17日に行われた人間将棋で,その年以降は名人になるだろうからこの時期は将棋名人戦と重なり人間将棋に出演することはかなわなくなるであろう,ということで,藤井聡太八冠(当時五冠)を対局者として依頼し,それが実現しました。そして,その年に限り,藤井聡太人気で,通常は予約など不要なのに,観覧者が抽選となりました。
 -実際,2023年に藤井聡太新名人が誕生し,それは現実となりました。-

私も,ダメ元で観覧希望を出してみたのですが,何と,600人の応募枠に1万人超の応募が殺到したということで,当然,落選しました。ただし,そのころの私は,天童市どころか,山形県にも行ったことがなく,もし当選したとしても,どうやって行くのさえわからないありさまでしたけれど…。
そんなこともあって,その年2022年5月17日,人間将棋が行われた1か月後,私は,はじめて山形県を旅行し,そのときに天童市にも行って,将棋まつりが行われる会場だけは見ることができました。
  ・・・・・・
人間将棋は,人間が将棋の駒となって行われる将棋のイベントです。現在は日本各地で行われていますが,1956年に山形県天童市で行ったのがはじめです。人間将棋は,将棋を戦国時代の戦にみたて,戦国時代の兵士や腰元に扮した人間が巨大な将棋の駒となり,将棋盤を模した「戦場」で相手の軍と戦うものです。
山形県天童市の人間将棋の指揮は,1992年以降は,ゲストとして招待されたプロ棋士と女流棋士が務めるようになりました。ルールは通常の将棋と同じですが,駒として参加する人のために,すべての駒を1度は動かそう,というきまりができているようです。
なお,駒となる人は一般から公募され,先手・後手で衣装が色分けされ,歩兵は女性が務めることになっています。
  ・・・・・・

そのようなわけで,それ以降,一度は人間将棋を見たいものだと思うようになって,その想いが年々強くなり,今回,行ってみることにしたのです。
私が行ってみようと計画したときは,まだ,今年2024年の「天童桜まつり」で人間将棋が開催される日にちは決まっていませんでした。しかし,ホテルや飛行機の予約を考えると,早く決める必要がありました。4月中旬の開催ということだったので,それがはたして4月13日と14日なのか,はたまた4月20日と21日なのかわからねど,運を天に任せて,4月13日と14日だと信じることにして,計画を立てました。

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 前回「相川のこいのぼり一斉遊泳」を見たのが2024年3月27日でした。それから10日余り過ぎた4月7日,桜が満開になったので,再び行ってみることにしました。「相川のこいのぼり一斉遊泳」の場所は,JR東海道線の垂井駅から北に5分ほど行ったところなので,今回は列車にしようと思いました。
 この日は日曜日。私は休日は避けることにしているのですが,その後あまり天気がよくないようだったので,やむを得ず,しかし,人が来る前に出かけようと,早朝6時過ぎに家を出ました。しかし,JRの車内は,早朝とはいえ,すでにずいぶん多くの人が乗っていて驚きました。休日しか休みのない人には,今年の桜はこの日がラストチャンスです。そこで,おそらく,そのほとんどの人は,在来線で京都へ行く人たちのようでした。
 JRの最悪なのは,名古屋駅から京都駅に在来線で行こうとすると,まず,大垣駅で乗り換え,次に米原駅で乗り換える必要があるものがほとんですが,その乗り換えが不便なことです。まず,大垣駅では,乗り換えるためには別のホームに陸橋を渡る必要があって,座席をとろうと我勝ちに競い合うので,大混乱をするのです。同じホームの両側に停めるくらいのことができないものなのでしょうか。米原駅も同様の状況となります。いやなら新幹線に乗れ,と言わんばかりです。

 私は,大垣駅の次の垂井駅で降りるのだから,まあ,そういう争いとは無縁で,ゆっくりと乗り換えましたが,それでも座れました。垂井駅で降りたのは私くらいのものでした。桜の季節。どこも混雑してるのですが,こういう穴場があるものです。観光客はほとんどおらず,地元の人たちが子供を連れてきて写真を撮っているくらいだったので,満足できました。前回とは違って,桜咲く中で,こいのぼりを見ることができたのですが,今回は,残念ながら風がなく,泳いでいるこいを見ることができず,干物のように垂れ下がっていました。
 目的は達成したので,これで帰ろうと思ったのですが,帰りは大垣駅まで,旧美濃路に沿って歩くことにしました。JR垂井駅はJR大垣駅の次なのですが,距離は4キロメートルほどもあり,歩くと1時間ほどかかりました。午前9時ころに大垣にたどり着いたのですが,すでに多くの観光客がいました。大垣でも満開の桜を堪能し,大垣名物の「水まんじゅう」を買って,午前中に帰宅しました。

 ところで,垂井町は「竹中半兵衛公の里」でもあり,JR垂井駅前に竹中半兵衛の像があります。
 私は,司馬遼太郎の「国盗り物語」で竹中半兵衛を知って,かっこいいなあと思いました。
  ・・・・・・
 豊臣秀吉の軍師としてその名も高い竹中半兵衛。1544年(天文13年)大御堂城主・竹中重元の子としてうまれました。若いころ,難攻不落といわれた稲葉山城を主従18名で奪取し「美濃に半兵衛あり」とその名が全国津々浦々に知れわたりました。
 豊臣秀吉が三顧の礼を以て半兵衛を訪ね「信長公に御味方なさる様」懇願したので,説得に応じ信長に仕え,命により豊臣秀吉に属し与力の謀臣となり,智恵袋として活躍。竹中半兵衛の名は天下に響きわたりました。
  ・・・・・・
 とはいえ,これまで,垂井町にどのような竹中半兵衛ゆかりの場所があるのか知らなかったので,家に帰って調べてみました。
 竹中氏陣屋跡,天保年間に旗本竹中氏が建てた道場で約100点の竹中氏ゆかりの品や当時の資料が展示されてている菁莪記念館(せいがきねんかん), 竹中家の菩提寺である禅憧寺(ぜんどうじ),竹中半兵衛公の居城であった菩提山城跡,竹中家が領主を務め、竹中半兵衛公屋敷跡があった旧西福村 などがあるということなので,また,時間があるときに行ってみたいと思っています。

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 松尾山,不破の関資料館にいくことができたので,あとは帰るだけだったのですが,そこで,思い出したことがありました。それは,2019年1月,中山道の垂井宿に行ったとき,その近くにあった美濃国国分寺跡に行かなかったことです。そのときのブログに次のように書きました。
  ・・・・・・
 垂井町というところは,旧中山道の宿場というだけでなく,それ以外にも歴史的にとてもおもしろいところです。そのひとつは,最初に書いたように,雨宮大社があることです。そして,もうひとつは,竹中半兵衛重治の生まれたところということです。さらにまた,奈良時代に国分寺がおかれていたところでもあり,今も美濃国分寺跡とその北に現在の国分寺が整備されています。
  ・・・・・・
 そこで,今回,帰る途中で行ってみることにしました。

 養老律令に基づいて設置された日本の地方行政区分を律令国といい,明治時代初期まで日本の地理的区分の基本単位でした。令制国の行政機関を国衙といい,これは県庁のようなもの。そして,国衙を中心とする都市域を国府といい,いわば現在の官庁街です。国府には,国衙のほかに,国分寺,国分尼寺,総社が置かれました。
 国分寺へ行く途中に,美濃国府跡があったので,まず,寄ってみました。
  ・・・・・・
 1957年(昭和32年)に安立寺付近が美濃国府跡として町の史跡となりましたが,その後の調査で,そこから少し離れた場所に,東西約67メートル,南北は最大約74メートルで,国府の中心である国衙施設として,正殿,正殿前の細長い建物の西脇殿,東脇殿の3棟の建物跡が発見され,2006年(平成18年)に国の史跡に指定されたものが,この美濃国府跡です。
 調査によって,8世紀前半に創設され,2度の建て替えを経て,10世紀中頃には廃絶したということがわかりました。また,北の部分には南宮御旅神社があり,これが美濃国総社でした。
  ・・・・・・

 美濃国府跡から東に4キロメートルほどいったところに美濃国分寺跡がありました。
 国分寺は,律令制度の崩壊と共に平安の中期以後次第に機能を失い、鎌倉・室町時代を経て廃絶しました。その後は顧みる者もない有様でしたが,国分寺の本尊であった薬師如来は土中に埋もれたままとなっていました。1615年(元和元年)真教上人が土中の本尊を発見し,美濃国分寺跡の北側に草ぶきの小堂を建て,その像を安置し,現在の国分寺が作られました。
 美濃国分寺は,1968年(昭和43年)から発掘調査がはじまり,伽藍全体が史跡公園として整備されました。非常に広いもので,これだけの場所が保存されているのが驚きですが,これは,垂井町の市街地から離れた田んぼばかりの場所だったからでしょう。美濃国府跡に隣接して,歴史民俗資料館があって,国分寺跡から発掘された貴重な出土品と判明した寺跡の全貌が公開されていました。
   ・・
 また,国分尼寺は,美濃国分寺跡の西2キロメートルほど行った場所にあったようですが,こちらは石碑があるだけです。なお,美濃国では,一宮は以前訪れたことがある南宮大社,二宮が伊富岐神社(いぶきじんじゃ),三宮が岐阜市の伊奈波神社と養老町の多岐神社だそうですが,行ったことはありません。

 垂井町は,四季折々の美しい自然と風光明媚な風景でも知られていて,「相川こいのぼり一斉遊泳」は春の風物詩です。私は,この「相川こいのぼり一斉遊泳」を知らなかったのですが,車で走っている途中で見つけて,折からの強風で,多くのこいのぼりが旗めいていて感動しました。
  ・・・・・・
 毎年3月中旬から5月初旬にかけて開催される「相川こいのぼり一斉遊泳」の歴史は古く,2024年で38回目を迎えます。
 このイベントでは,相川に約350匹ものこいのぼりが一斉に泳ぎ,その美しい様子はまるで川面が彩られた絵画のようです。青空に映えるこいのぼりの色と風に舞う姿は,訪れる人々の心を和ませます。
  ・・・・・・

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 関ヶ原に行ったもうひとつの目的は,不破の関にある博物館に行くことでした。
 不破の関とは異なりますが。逢坂の関というものがありました。これを知ったのは子供のころに遊んだ「小倉百人一首」でした。
  ・・・・・・
  これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関
    蝉丸
  名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで 来るよしもがな
    三条右大臣
  夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ
    清少納言
  ・・・・・・
 このころ学校で,江戸時代の5街道について学んでいたので,箱根の関とか新居の関について知りました。そこで「小倉百人一首」で出てきた逢坂の関というのは何なのか,と思いました。逢坂の関は,それより古い時代のものだと聞いて,そんな昔から関所があったこと,そして,どうして江戸時代には逢坂の関がなくなっていたのか,など,多くの疑問が湧いてきました。
 このことに限らず,私は,小学校のころ,学校で何かを学ぶと,それに関連していろんな疑問が湧いてくるのに,学校ではその疑問のほとんどを答えてくれないのが不満でした。

 さて,不破の関ですが,このあたりはよく通るので,場所は知っていました。そして,現在は,不破の関があったところに博物館があって,大きな道路案内があるのですが,これまで行ったことがなかったのです。一度は行ってみようと思いつつもかなわなかったので,今回,意識して行ってみたというわけです。
  ・・・・・・
 不破の関は,古代の東山道の関所でした。810年(弘仁元年)には,すでに逢坂の関,鈴鹿の関と併せて三関のひとつとなっていたそうです。
 672年の壬申の乱で,大海人皇子(後の天武天皇)が美濃国出身の舎人である村国連男依に命じ「不破道」を塞ぎ,これが大きな勝因となったことから,壬申の乱以後,律令体制のもとで都の警護のために,不破の関が整備されました。
 789年(延暦8年)に三関停廃の詔が出され,廃止されました。
  ・・・・・・

 1982年(昭和57年)に開館した不破関資料館は,国道21号線を関ヶ原に向かって進んでいくと冠木門があって,その門をくぐった先にあります。
 館内はさほど広くはないのですが,関所跡から出土した貴重な土器類,壬申の乱に関する解説パネル,関所全景を復元したジオラマなどが展示されていて,なかなか興味深いものがありました。長年の疑問が解決したように思えて,満足しました。
 昔の人は今よりもっと自由に生きていた,と子供のころは思っていたのですが,さにあらず。今よりずっと窮屈な社会だったのだなあ,と,歴史の資料館を訪れるたびに,ため息がでます。

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 2024年3月27日。前日までの雨が上がり,いい天気になったので,思い立って,日帰りで関ヶ原に行ってみました。今回の目的のひとつは,松尾山に登るということでした。
 去る2020年8月18日に関ヶ原の古戦場巡りをしたのですが,その折に,小早川秀秋が陣を敷いた松尾山の登山口を見つけました。しかし,猛暑の8月,さすがに登頂するのをためらって,また後日,ということで帰宅しました。そのときのことを書いたブログに
  ・・・・・・
 松尾山の登山口からは,小早川秀秋が陣を置いた山頂まで40分ほどの登山道が続いていました。松尾山城は相当な山城で,登山道には土塁や曲輪が残っているということです。
 さすがに,この猛暑では,笹尾山すら登る気のなかった私は,当然,40分もの山道を登るわけもなく,今回はここに登るのも断念して,また,涼しくなったら来てみようと思って関ヶ原を後にしました。
  ・・・・・・
とあって,それをふと思い出したからです。
 西軍だった小早川秀秋は,この松尾山城から戦況を見守ったすえ,結局裏切り,東軍の一員としてその勝利に貢献しました。徳川家康が江戸に幕府を開くことができたのは,小早川秀秋のおかげともいえるわけで,いわば,今日の日本を作った場所です。ただし,歴史は,こうした「裏切者」が,そののち,幸せになったことはありません。裏切るという行為でその人物に信用がなくなるからです。
 裏切り西軍を瓦解させたことが卑怯な行為として世間の嘲笑を受けた小早川秀秋は,関ヶ原の戦いののち,備前,美作,備中国東半にまたがる岡山に加増,移封されましたが,1602年(慶長7年)に,わずか22歳で死去し,小早川家は無嗣断絶により改易されてしまいました。

 今日は登るぞ,と決心してやってきたので,覚悟して登りはじめたのですが,これがまあ,思ったよりきついものでした。2022年4月7日,明智光秀が本能寺の変を起こす前日に必勝を祈願して登ったという京都の愛宕山に,これもまた,今登らねばその機会がないと意を決して登ったときかなりへばって,もう二度と山には登らないと決めたのに,この様です。しかし,松尾山城も,今登らないときっともう無理だと思ったので,なんとか足を先に動かして,ついに標高293メートルの山頂に到達しました。
 戦国時代の史跡は,多くの場合標高が400メートルほどの山城です。当時の人が,防具をつけて,草鞋を履いて,こんな山に登っていたのが,私には信じられません。それに,登るのだけでも大変なのに,そこに城を築いたり戦をしたりと,どうしてそんなことができるのだろうか,と考えてしまいます。そもそも,戦なんて,トイレはとどうしていたのだろう,とか,風呂はどうしていたのだろう,という疑問が私には先にあって,こりゃ同じ人間ではないなあ,と思ってしまうわけです。本当にどうしていたのだろう?

 さて,松尾山の山頂からの景色はすばらしいものでした。
 徳川家康の陣も,石田三成の陣も一望です。つまり,関ヶ原の戦いをライブ中継するなら,この場所にカメラを据えるのが最適,そんなところでした。そんな,まさに関ヶ原の戦いの最重要ポイント,特等席に若輩の小早川秀秋が布陣できたのか? というのが,私にはもっとも関心のあるところでした。
  ・・・・・・
 松尾山には,南北朝の時代から山城が築かれていたとされ,関ヶ原の戦いの当初,松尾山城には西軍の伊藤盛正が布陣していました。伊藤盛正の居城であった大垣城を,石田三成が本陣にしたいという要請を受けて明け渡し,松尾山城に移動し本戦に備えていたのです。
 そして,小早川秀秋が,関ヶ原決戦の前日に大軍を率いて伊藤盛正の陣を襲撃し,松尾山城を奪取し,陣を敷いたのです。
  ・・・・・・
とあります。
 そもそも,西軍であるはずの小早川秀秋が,どうして,前日に同じ西軍の伊藤守正を襲撃して重要ポイントである松尾山城を奪うことができたのか,この時点ですでに裏切りではないのか,と思えます。それとも,石田三成にとれば,味方だと思っていた小早川秀秋なら,伊藤盛正よりいいか,と思ったのか,あるいは,徳川家康にとれば,小早川秀秋が裏切るという工作をしてあるから,小早川秀秋が松尾山城に布陣すれば好都合だと思ったのか,などなど,私は,こうした疑問を抱くのですが,調べても
  ・・・・・・
 小早川秀秋は,当初,1600年(慶長5年)7月18日から8月1日の伏見城の戦いでは西軍として参戦していた。その後は近江や伊勢で鷹狩りなどをしてひとり戦線を離れていたが,突如として決戦の前日にあたる9月14日に,1万5,000の軍勢を率いて,関ヶ原の南西にある松尾山城に,伊藤盛正を追い出して入城した。
  ・・・・・・
とあるだけで,そんなことが可能であった理由が詳しく書かれたものがありません。

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☆☆☆☆☆☆
 M31アンドロメダ銀河に接近したり,木星に接近したりと,話題もたくさんあったポンス・ブルックス彗星(12P/Pons-Brooks)も,そろそろ見納めです。夕方の西の低空,しかも春霞の中となると,条件は悪く,期待以下になってしまいました。天気が悪い日の多く,満足に見ることができませんでした。
 せめて,明け方の東の空だったら,少しはマシだったのに,と思いました。

 悪いコンディションだったポンス・ブルックス彗星でした。
 こうしたときに思い出すのは,オーストラリアで星を見たときのことです。日本とは違い,太陽が沈むや否や,澄んだ空に星が見えてきて,日没後1時間もすれば,地平線まで満天の星が輝いていました。そういう環境なら,さぞかし,肉眼でも,ポンス・ブルックス彗星のすばらしい姿を見ることができたのになあ,ということでした。
 日本の灰色の濁った空では,もちろん,双眼鏡でもその姿を見ることは無理で,写真を撮ると,かろうじて写るくらいのものでした。ならば,少しは空のきれいな山奥へ行こうとしても,高度が低いから山に隠れてしまって,姿を見ることはできません。では海岸に行けば,ということですが,2020年7月,ポンス・ブルックス彗星と同じように,夕方の西空に見えたネオワイズ彗星(C/2020F3 NEOWISE)は,世紀の大彗星だったので,私は,最高の条件で見ようと,北海道のサロベツ原野まで出かけたのですが,4等星程度の彗星ではそこまでの情熱も湧きませんでした。

 せめてもと,私が密かに最後の期待をしていたのは,2024年4月10日でした。
 この日は,ポンス・ブルックス彗星は木星の5度下にあって,その右横に月齢1.7が接近したことで,木星と月とポンス・ブルックス彗星を入れた写真を写そうと思っていたのですが,天気が悪くて見ることができず,落胆しました。
 もう,日本で美しい彗星の写真を写すなどということを期待すること自体,考えないほうがよいのかもしれないなあ,と感じたことでした。

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 「遠州・三河一社三山」を巡る浜名湖周辺の旅。最後は普門寺でした。
 気賀の関所を出て,姫街道に沿う形で国道362号線が走っていたので,その道を三ケ日まで行き,そこから南下しました。

 途中,浜名湖を左手に見る形になるのですが,車を停めて浜名湖を一望できるような場所がなかったので,どこか車を停めるところがないかなあと思っていると,奥浜名湖展望公園という案内板があったので,それにつられて進路を変えました。
 ところがどうでしょう。思ったより遠い上に,急な狭い上り坂。すれ違いできないような狭い箇所がずっと続いていて,車が来たらどうするのだろう? と思っていたとき,何と,偶然にも対向車が来て,ずいぶんと戻って道を譲る羽目になりました。こんなところ走るなよ,と思ったのですが,相手も同じことを思っていたことでしょう。
 何とか到着した頂上の駐車場はえらく広く,しかし,1台の車もありませんでした。当然,だれひとりいませんでした。せっかく来たのに,奥浜名湖展望公園からは樹木がじゃまをして何も見えません。以前は展望台があったようですが,老朽化で撤去されてしまったという話でした。がっかりでした。いったいこの場所,どうしたいというのだろう? ひどすぎました。
 後で調べると,この場所は「ゆるキャン△」(最後の△はテントを意味していて文字として読みません)というアニメで登場して以来「ゆるキャン△の聖地」なのだそうです。といったところで,私は「ゆるキャン△」なるものをまったく知らないし,女子高校生がひとりでキャンプをするドラマと聞いても,まったく興味がありませんでした。そもそも,こんなところにひとりで来る女子高校生はいないし,危険極まりないです。ただし,少し下ったところに多少の駐車スペースがあって,そこからは何とか風景を見ることができました。

 気を取り直して,普門寺を目指しました。これがまた遠い。地図で確認すると,普門寺は,先日行った豊橋市の葦毛湿原にほど近いところでした。しかし,ほど近いといっても,葦毛湿原からはアクセスする道路がありません。
  ・・・・・・
 普門寺は高野山真言宗の寺院で山号は船形山。本尊は聖観音菩薩。「豊橋のもみじ寺」として知られます。
 奈良時代の開創を伝え,源頼朝,今川義元,今川氏真,徳川家康をはじめとする徳川幕府からも保護を受けた歴史があり,文化財の所蔵点数は市内最多。
  ・・・・・・
 という説明だと,かなりの寺に思えるのですが,実際は寂れ感満載で,急な階段は補修した形跡もなく荒れ果てていて,ずいぶんとがっかりしました。
 おそらく,私が行った時期が悪いこともあったのでしょう。紅葉のころはずいぶんと映えるのかもしれません。

 これで,何となく思い立って,日帰りで出かけた浜名湖周辺の旅は終了です。
 近くても,私がまったく知らなかったところがずいぶんあるものだと思いました。しかし,私の家からは中途半端な距離であり,かといって,1泊するほどのこともなし,かつ,交通の便がよくない,ということで,リピートするにはちょっと微妙なところです。

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 竜ケ岩洞(りゅうがしどう)へ行く予定もなかったのですが,龍潭寺の拝観料を払うときに,竜ケ岩洞とのセット券を勧められて買ってしまったので,行くことになりました。
 私は,これまでにアメリカの巨大な洞窟に数多く行ったので,日本の洞窟「なんて」,どこにいっても大したことはないと高を括っているから,関心はないのですが,せっかく来たから,ということで,楽しむことにしました。ほかに観光客「なんて」いないだろう,きっと寂れているに違いない,と予想したのですが,そのとおりでした。おそらく,夏休みならそれなりに人も来るのでしょうが,平日のこの時期,それに,結構入場料も高いから,人は来ません。しかし,なかなか見ごたえがありました。また,洞窟を出たところに,竜ヶ岩洞を発見した経緯や鍾乳洞に関する展示があって,これもよかったです。
 いずれにしても,アメリカのこうした施設はどこも,自然保護などが第一優先になっているのですが,日本は単なる観光施設なので,無造作に手すりがあったり,通路がセメントで固められていたりするのが,私には根本的に好きになれません。

 それよりも,興味をもったのは,この竜ケ岩洞を発見し観光地化した経緯でした。
  ・・・・・・
 竜ヶ岩洞は浜松市浜名区引佐町田畑にある鍾乳洞です。
 赤石山脈の支脈に位置する標高359.1メートルの竜ヶ石山にあって,洞窟を形成する石灰岩は2億5千万年前に生成されたものです。総延長1,046メートルのうち400メートルが公開されています。
 1907年に生まれた戸田貞雄さんは,第2次世界大戦に従軍し,終戦後は材木業を営んだり,観光事業に携わりました。そのころ,今の竜ヶ岩洞があるあたりは採石場の跡でしたが,ここに鍾乳洞があるのでは,といわれていたので,1981年,戸田貞雄さんはその山の一帯を買い取って洞窟の調査をはじめました。74歳のときでした。しかし,はじめは賛同してくれる人もありませんでしたが,洞窟探検を趣味にしている小野寺と竹内というふたりの青年が洞窟にこっそりと潜り込み,鍾乳洞を発見しました。たまたま彼らと行き会った戸田貞雄さん。それ以来,ふたりとともに洞窟の調査をすることになりました。
 次第に協力者が増え,ついに,鍾乳洞の最深部で落差30メートルの洞内滝を発見しました。そこで,「これは観光客を呼び込める」と融資がまとまり,1983年に竜ヶ岩洞はオープンしました。それから3年後,戸田貞雄さんは78年の生涯を終えました。
  ・・・・・・

 竜ヶ岩洞を出て,次に私が行きたかったが,姫街道でした。
 旧東海道は浜名湖の南岸を通っていて,以前,舞阪宿から新居宿まで,新居宿から二川宿まで,2回にわけて歩いたことがありますが,浜名湖の北岸を姫街道という迂回路が通っています。一度行ってみたいと思っていたのですが,これまでその機会がありませんでした。
 私は,ずっと,姫街道は,新居の関所を避けていくための脇街道だとばかり思っていたのですが,どうやらそうではなかったようで,姫街道にも気賀関所がありました。
  ・・・・・・
 気賀関所は全国にあった53か所の関所のひとつで,監視は厳格だったとされます。ただし,1730年(享保15年)に伊勢神宮へのお蔭参りが流行したとき,女中たちの抜け参りが多く,気賀関所の命令を受けて見張人を出しましたが,抜け参りは絶えませんでした。
 関所破りは黙認され,村々に対し「叱り」などの表面的な措置を講じていましたが,実際は,関所はほとんどお手上げ状態だったといいます。やったふり,しかし,突然,何を考えているのかお上をたてにして厳しくなるという,本音と立てまえを使いわける日本らしき話です。
  ・・・・・・

 現在,当時の関所跡は本番所の関屋の一部しか残っていませんが,1990年(平成2年)にふるさと創生事業を活用して,関所があった場所から600メートル西に観光施設「気賀関所」を復元し,手形や駕籠などを展示してあるということで行ってみました。
 ここもまた,私以外に観光客もおらず,のんびりと見学することができました。きっと,地元の小学生の学習見学の場になっているのでしょう。
 姫街道は,見付宿から天竜川を渡り,現在の安間町(あんまちょう)で東海道と別れて,三方原,追分,浜名湖北岸を通り三河に入り,御油宿まで約61キロメートルもありましたから,歩くと15時間コースになるので,日帰りは無理です。当時は,途中の市野,気賀,三ヶ日,嵩山(すせ)に宿場がありました。今はどうなっているのでしょう? 
 今回は予定していなかったので,姫街道をまったく歩くことはできませんでしたが,適当な旅館でも見つけて,いつか時間をとって1泊2日で歩いてみたいものです。

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 龍潭寺の裏手から井伊谷宮(いいのやぐう)がつながっていました。
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 建武の中興は,武家中心の社会を天皇中心の社会に戻そうとしたものとして,明治天皇にとって意義深いものだったので,明治以降,建武の中興に関った人々を祀る建武中興十五社が作られました。
 井伊谷宮は建武中興十五社の一社で,1385年(元中2年)に井伊谷で死去した後醍醐天皇の第四皇子・宗良親王(むねよししんのう)を祀るもの。社殿の背後には宗良親王の墳墓もあります。
  ・・・・・・
 井伊谷宮を出て,龍潭寺へ戻っていく途中に,1軒のおそば屋さんがあったので,入りました。
 私の理想は,天気のよい日,特に目的もなく,人の少ない,静かで落ち着いたきれいな町に出かけて散策して,お昼に,混雑していないこぎれいなお店でおそばでも食べる,ということなのです。今はまだ,これまで行ったことがないところに行こう,という煩悩があるので,その境地には達していないのですが,それでも,お昼に,こうしておそばを食べることができるのに幸せを感じました。

 さて,おそばを食べ終えて,次に思ったのは,井伊家の菩提寺・龍潭寺には行ったけれど,お城はどこなのだ? ということでした。調べてみると,龍潭寺から少し北の山の方向へ行くと,井伊谷城址があることがわかったので,行ってみることにしました。
  ・・・・・・ 
 奈良時代,この地は渭伊郷(いいごう)とよばれていて,これが井伊谷の地名となりました。
 井伊家の歴史は古く,1010年(寛弘5年)井伊谷の八幡宮神主が男児を見出し,これが井伊家の祖・井伊共保(ともやす)。そして,1032年(万寿9年)に井伊谷城を築城したと伝わります。
 井伊谷は,地理的な場所から,戦の争点の地となり続けました。1340年(暦応3年)には,室町幕府に攻められて井伊谷城は落城,戦国時代には,1514年(永正11年)今川家臣朝比奈泰以(やすもち)に攻められるなど,井伊谷は今川の配下となりました。

 井伊直親の遺児・井伊直政が城主となるまでの期間,井伊直虎が還俗し女城主を務めました。1572年(元亀3年)の三方ヶ原の戦いで井伊谷城は武田方に落ちますが,武田信玄が病に倒れ退却。その後,徳川家康が井伊谷を奪還しました。
 1575年(天正3年)に,井伊谷が徳川家康より井伊直政に与えられましたが,関ヶ原の戦いの功績により近江佐和山城が与えられ彦根藩主となり,井伊氏の拠点は井伊谷から彦根に移ったことで,井伊谷城は廃城となりました。
  ・・・・・・
 おそらく,近年まで井伊谷城址は荒れるにまかされていたのでしょうが,大河ドラマ「おんな城主 直虎」の放映で城址が整備されました。標高110メートルの井伊谷城址まで,約15分ほど歩くと到着しました。眼下に井伊谷の町を見ることができました。

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 今回一番行きたかったのが,龍潭寺(りょうたんじ)でした。ここは庭がすばらしいことで知られ,また,2017年のNHK大河ドラマ「女城主 直虎」の舞台としても脚光を浴びました。放送されたころは多くの人が訪れたことと思いますが,私は長年行きたかったのにも関わらず,これまでその機会がありませんでした。
 着いて驚きました。龍潭寺のある井伊谷の町は落ち着いたいいところだったし,龍潭寺自体も思った以上のところでした。来ている人もほとんどおらず,庭をこころおきなく見ることができました。

 龍潭寺は,山号は萬松山(ばんしょうざん)。臨済宗妙心寺派の寺院で,本尊は虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)です。菩薩はブッダを目指して努力する人を意味し,虚空蔵菩薩は菩薩の一尊で,「明けの明星」は虚空蔵菩薩の化身・象徴とされます。龍潭寺は,733年(天平5年)行基によって開かれたとされ,平安時代からすでに井伊氏の菩提寺だったようですが,当初の寺号は地蔵寺で,のち,自浄寺,龍泰寺と名前が変わりました。
 1560年(永禄3年)に,戦死した井伊直盛がこの寺に葬られたとき,井伊直盛の法号から龍潭寺と改められました。関ヶ原の戦いの戦勝で,井伊直正が近江に転封となってからも井伊家の外護を受けました。
 龍潭寺の庭園は,小堀遠州作で,江戸時代初期に本堂北庭として築かれた池泉鑑賞式庭園です。中央に守護石,左右に仁王石,正面に礼拝石が配され,さらに,池の型が心字池となっていて,数多くの石組みと築山全体で鶴亀が表現されているという,見事なものです。

 私は,井伊直虎が大河ドラマの主人公になるまで,あの,彦根藩主であり大老だった井伊直弼の先祖が井伊谷の出であり,ずっと行ってみたかった龍潭寺が井伊家の菩提寺だとは知りませんでした。
  ・・・・・・
 井伊家は鎌倉時代から井伊谷を治めていたらしいとされます。
 井伊直虎は,井伊直盛の娘として誕生しました。井伊直盛には男子がいなかったので,井伊直盛の従兄弟にあたる井伊直親を,井伊直虎の婿養子に迎える予定でした。しかし,1544年(天文13年)に井伊直親の父・井伊直満が今川義元への謀反の疑いをかけられて自害させられ,井伊直親も信濃に逃亡してしまいまったので,井伊直虎は,萬松山龍潭寺で出家し,次郎法師と名乗ることになりました。井伊直親は,その後復帰して井伊直盛の養子となるのですが,井伊直虎と結婚することはありませんでした。
  ・・
 1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いで井伊直盛が戦死し,その跡を継いだ井伊直親も今川氏真に殺されてしまい,井伊直親の子・虎松(のちの井伊直政)は鳳来寺に匿われました。
 1565年(永禄8年),跡継ぎのいなくなった井伊家では,次郎法師が井伊家の当主となりました。これが「女城主 直虎」です。
 井伊直虎となった次郎法師は,井伊直政を養子として育て,1575年(天正3年)に徳川家康に出仕させました。井伊直政は多くの武功をたて徳川四天王のひとりと称され,関ヶ原の戦いの後には近江に転封されました。
  ・・・・・・

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 まだ青もみじの季節ではありませんが,前々から気になっていた遠州・三河一社三山を巡っています。
 遠江國一宮小國神社の次に行ったのが,法多山尊永寺(はったさんそんえいじ)でした。
 私は,遠州・三河一社三山巡りを口実に,奥浜名湖をドライブするつもりで,GoogleMapsで示した道順に従って走っただけだったのですが,帰ってから調べてみると,法多山尊永寺は奥浜名湖どころか,浜松市よりもさらに東,袋井市にあって,そこまで足を延ばしたことになりました。
 門前にはものすごくたくさんの駐車場があって,一大観光地でした。しかし,朝早いこととシーズンオフのために,ほとんど,というより,まったく車がおらず,どこに停めていいものか,判断がつきかねるような状況でした。駐車場の料金もさまざまで,100円とか200円とか,探せば無料のところがあったりするかもしれませんが,今や,若いころとは違って,死んだとき残るお金ならあろうとなかろうと同じだと,多少の金額などどうでもよくなってしまった私は,客引きが誘導されたところに車を停めました。

 法多山尊永寺は,有名なのでしょう。無知な私は,こんなに栄えた寺があることに驚きました。私は,そもそも,神社仏閣に手を合わせる習慣はないので,単なる興味本位で,今行かないと行くときがないだろうと,神社仏閣に限らず,日本各地のこれまで行ったことがないところを探しては旅をしているのですが,私の知らないところがたくさんあるものだと思います。
 法多山尊永寺は,高野山真言宗別格本山の寺院ですが,尊永寺よりも法多山の名で知られているということです。そういえば,ほったさん,という名前なら聞いたことがあるようなないような…。
 法多山尊永寺に加え,萬松山可睡斎(ばんしょうざんかすいさい),医王山油山寺(いおうざんゆさんじ)を遠州三山というのだそうです。そもそも遠州三山というのもはじめて知りましたが,そんなことを知ってしまうと,また,行ってみたいところがふえてしまいます。

 法多山尊永寺の本尊は正観世音菩薩ということで,これは,浅草寺と同じです。
  ・・・・・・
 菩薩はブッダを目指して努力する人を意味し,観世音菩薩は菩薩の一尊で,一般的に「観音さま」とよばれます。正観世音菩薩は聖観音ともいいます。
 この聖観音に加え,十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音、准胝観音を六観音と称します。これは,六道輪廻(ろくどうりんね=あらゆる生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)という思想に基づいて,六種の観音が六道に迷う衆生を救うという考えから生まれたもので,地獄道は聖観音,餓鬼道は 千手観音,畜生道は馬頭観音,修羅道は十一面観音,人道は准胝観音,天道は如意輪観音という組み合わせになっているといいます。
  ・・・・・・
 正観世音菩薩は厄除け観音として知られていて,この寺は厄除だんごが名物となっています。まあ,要するに,客寄せです。
 寺伝によると,725年(神亀2年) 聖武天皇の命により「大悲観音応臨の聖地」を捜し求めた行基によって建立されたといい, 中世以降,今川氏の庇護を受け,1590年(天正18年)豊臣秀吉が安堵し,歴代徳川将軍によっても安堵され幕末まで維持されました。
 江戸時代後期の火災で伽藍を焼失し,現在の本堂は1983年(昭和58年)に再建されたものです。

 法多山尊永寺に行って驚いたのは,非常に広大な境内だったということと,とてもきれいな寺だったということです。ずいぶんと整備が行き届いていました。また,現在も,夢殿を模した建物が建設中でした。きっと,この寺はかなりの「やり手」(=お金儲けが上手)なのでしょう。
 参道を歩くと,まず,立派な仁王門があります。仁王門は1640年(寛永17年)に建立されたもので,両脇の格子の中には仁王像が鎮座しています。
 仁王門から少し歩いたところの左手にあるのが1711年(正徳元年)に建立された黒門です。これは,当時12あった寺の中で中心的存在であった学頭坊・正法院の入り口の門です。
 仁王門から法多山本堂までは約15分の道のりだと聞いていましたが,かなり階段があるので,足の悪い人は辛いでしょう。267段の長い石段を登った先に本堂があります。本堂は,鳳が舞い降りた姿に例えられているということです。復路にある鐘楼堂の梵鐘は,大晦日には先着順に108回除夜の鐘突きができるそうです。また,下る途中に目に入る二葉神社は,サービス業や客商売に携わる女性の神社です。

 さらに下っていくと現れるのが厄除けだんごの食べられる茶店でした。 江戸時代,13代将軍徳川家定のころ,幕府献上の土産に添えられ将軍家にくし団子と命名されたのがはじまりとされ,それ以来,厄除けだんごとして親しまれているそうです。私が行ったのは,午前9時過ぎだったのですが,すでに店は開いていて,まだ,ほかにだれもいない閑散とした店内で厄除だんごを食べることができました。
 この茶店には多くの有名人のサイン色紙がありました。

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 少し前「JAF Mate」に,ドライブスタンプラリーという記事があって,そこに「遠州・三河一社三山青もみじめぐり」とありました。「遠州・三河一社三山」というのは,遠江國一宮小國神社,萬松山龍潭寺,法多山尊永寺,船形山普門寺です。興味があったので,その記事をとっておいたのですが,なかなか行く機会がありませんでした。それとは別に,2017年のNHK大河ドラマ「女城主直虎」の舞台であった井伊谷に,一度は行ってみたいものだと長年思っていました。
 先日行った奥琵琶湖もそうですが,奥浜名湖というのも,何か不思議な魅力を感じます。しかし,ほどんど行ったことがありません。これもまた,先日行った豊橋市と同じく,中途半端に近く,遠いので,行く機会を逸していたからです。そこで,2024年3月15日は,朝からいい天気で,暖かだったので,青もみじの季節ではないのですが,日帰りで行ってみることにしました。新東名高速道路を使えば,2時間ほどでした。

 一社三山のどこから行ってもよかったのですが,私が現地に到着するのはとても早い時間だったので,時間に関係なく入ることができた遠江國一宮小國神社から行くことにしました。とはいえ,到着して思い出したのは,遠江國一宮小國神社は,ここはすでに来たことがあるとがある,ということでした。
 以前来たのは,2019年11月16日でした。当時,私が行きたかったのが森町でした。それは,若いころには浜名湖畔の舞阪町に住んで,新彗星を発見していたアマチュア天文家・池谷薫さんが,近年は空が暗い森町に引っ越しして住んでいる,ということを知ったことで,森町はどんなところかと行ってみたかったからです。森町は,森の石松の生まれたところであり,また,森町には,遠江國一宮小國神社という大きな神社があったのですが,私は行くまでこの神社を知りませんでした。
 遠江国一宮小國神社は,祭神は大国主。ちなみに,遠江国には一宮と二宮があって,遠江国二宮は鹿苑神社ということでした。創建時期は不明で,社伝によると,555年(欽明天皇16年)に現在地から6キロメートルほど離れた本宮山に神霊が示現したのでそこに社殿が造営されたというのがはじまりということだそうです。

 神社ではじめに目にしたのが,1,000年の歴史を見守った御神木のスギでした。この杉は,約400年前の慶長の古図にすでに大杉と記されていて,樹齢1,000年余りといい伝えられていますが,1971年(昭和47年)の台風で倒れてしまいました。
 その近くにあったのが,徳川家康の「立あがり石」でした。これは,徳川家康が休息した石といわれているものです。徳川家康の祈願所のひとつが小國神社で,徳川家康は,ここで祈願したことで長篠の戦いや関ケ原の戦いに勝利し,天下統一を成すことができたことから「立ち上がり石」と伝わり,これにあやかり,石に腰かけて帰る人が多いということです。私も腰かけてみました。
 神社の脇には事待池(ことまちいけ),別名いぼとり池がありました。小國神社は「願い事が意のままに叶う神社=事任神社」(ことのままのかみやしろ)として知られ,詣でて願掛けをし「事のままに待ち」,その結果,心願成就すれば,池に鯉を放ち神恩感謝の意を表わすという慣わしから「ことまち池」といわれているそうです。
 また,境内の脇,参集殿裏手にはひょうの木がありました。ひょうの木は縁結びの御神木といわれています。ひょうの木は学名を檮 (イスノキ)といいます。イスノキは,「古事記」に登場する「湯津津間櫛」(ゆつつまぐし=神聖で清浄な櫛)の「ゆつ」(神聖)に由来することばで,ゆすのきがゆつのき,そして,いすのきと転じたものといいます。
 イスノキをひょうの木というのは,葉が「まゆ型」の殻になる特質があって,小さな穴が開いて, 笛のように吹くと「ひょう」という音が出ることからきているものです。
 神社のひょうの木は特異な形状をしていて,木肌がうねり,根元の上部から交わりながら二本の幹にわかれています。

 「古事記」に登場する「湯津津間櫛」は次のものです。
  ・・・・・・
【その1】
於是,欲相見其妹伊邪那美命,追往黃泉國。爾自殿騰戸出向之時,伊邪那岐命語詔之「愛我那邇妹命,吾與汝所作之國,未作竟。故,可還。」爾伊邪那美命答白「悔哉,不速來,吾者爲黃泉戸喫。然,愛我那勢命,入來坐之事恐。故,欲還,且與黃泉神相論。莫視我。」
如此白而還入其殿內之間,甚久難待,故,刺左之御美豆良,湯津津間櫛之男柱一箇取闕而,燭一火入見之時,宇士多加禮許呂呂岐弖此,於頭者大雷居,於胸者火雷居,於腹者黑雷居,於陰者拆雷居,於左手者若雷居,於右手者土雷居,於左足者鳴雷居,於右足者伏雷居,幷八雷神成居。 於是伊邪那岐命,見畏而逃還之時,其妹伊邪那美命言「令見辱吾。」卽遣豫母都志許賣此六字以音令追,爾伊邪那岐命,取黑御𦆅投棄,乃生蒲子。是摭食之間,逃行,猶追,亦刺其右御美豆良之湯津津間櫛引闕而投棄,乃生笋。是拔食之間,逃行。
  ・
 黄泉国に行ってしまった伊耶那美(いざなみ)を連れ戻すため,伊耶那岐(いざなき)は黄泉国へと出向き,伊耶那美(いざなみ)に,戻るように説得しました。
 伊耶那美(いざなみ)は,黄泉国の神と相談してくるからその間決して中を覗いてはならないと言って,伊耶那岐(いざなき)を待たせました。しかし, 待ちきれなくなった伊耶那岐(いざなき)が中を覗いてしまうと,蛆がたかり,躰の八箇所に恐ろしい雷神を生じている伊耶那美(いざなみ)の姿があったので,驚き恐れ逃げ出しました。
  ・・
【その2】
爾速須佐之男命,乃於湯津爪櫛取成其童女而,刺御美豆良,告其足名椎手名椎神「汝等,釀八鹽折之酒,亦作廻垣,於其垣作八門,毎門結八佐受岐此,毎其佐受岐置酒船而,毎船盛其八鹽折酒而待。」
故,隨告而如此設備待之時,其八俣遠呂智,信如言來,乃毎船垂入己頭飮其酒,於是飮醉留伏寢。爾速須佐之男命,拔其所御佩之十拳劒,切散其蛇者,肥河變血而流。故,切其中尾時,御刀之刄毀,爾思怪以御刀之前,刺割而見者,在都牟刈之大刀,故取此大刀,思異物而,白上於天照大御神也。是者草那藝之大刀也。
  ・
 高天原も追放された須佐之男(すさのお)は,出雲の鳥髪山の地に降り立つと,少女を置いて泣いている老父と老女に出逢いました。須佐之男(すさのお)が泣いている理由を尋ねたところ「自分たちには8人の娘がいたが,毎年,八俣大蛇が訪れて娘をひとりずつ喰われてきた。最後の娘の櫛名田比売(くしなだひめ)が喰らわれる時期となったので泣いているのだ」と答えたので, 須佐之男(すさのお)は,八俣大蛇を退治する代わり,娘を自分の妻として奉るように要求し,八俣大蛇を退治しました。そのとき,八俣大蛇の尾から出現した1本の剣を,天照(あまてらす)に献上しました。これが今日伝わる天皇家の3種の神器のひとつである「草那藝之大刀」(くさなぎのつるぎ)です。
  ・・・・・・

 私が行ったときは早すぎて,門前にあることまち横丁も店は開いておらず,すでに前回来たこともあって,早々に引き上げました。

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 たびたび書いていますが,「月刊天文ガイド」に触発されて,子供のころは天文に夢中でした。とはいえ,何をしたというわけでもなく,雑誌に書いてあったことがすべて憧れだったにすぎません。
 当時は,天体望遠鏡といっても,手に入るのは子供向けのおもちゃのようなものばかりで,本格的なアマチュア天文愛好家は,自作をしていました。そこで,反射鏡を磨くということに憧れていたわけです。
 私は憧れていただけで,実際には何もしなかったのですが,本だけは買いました。その本の名前は「反射望遠鏡の作り方」。内容は,望遠鏡の作り方とはいっても,反射鏡の作り方がほぼすべてを占めていた本でした。そして,著者は木辺茂麿という人でした。変わった名前だなあ,と思いました。
 このように,当時は,アマチュアの天文愛好家には,それぞれの分野に神様のような大人がいたのですが,そうした人たちが実際はどういう人なのだろうと,ずいぶん謎でした。それが55年も過ぎて,やっとわかってきたのです。ということで,私にとっての子供のころの伏線回収,今回は,木辺茂麿さんがどういう人だったか,です。

  ・・・・・・
 1912年(明治45年)に木辺派本山錦織寺に生まれ,1990年(平成2年)に亡くなった木辺成麿さんは,京都帝国大学文学部を卒業し,1969年に真宗木辺派21代門主に就任した浄土真宗の僧侶・木辺宣慈 (きべせんじ)さんでした。また,光学技術者でもあり,レンズ磨きの名人として知られ「レンズ和尚」とよばれました。
 子供のころ,京都帝国大学花山天文台初代台長の山本一清博士がはじめた天文同好会に参加し,教えを受けました。天文学者になりたかったのですが,お寺を継がなくてはならず,許されませんでした。住職修業の傍ら,戦争中陸軍航空技術研究所の嘱託となり,後に滋賀県出身の天文学者・中村要さんに出会ったことがきっかけで,日本でも数少ない天体望遠鏡の反射鏡磨きの大家になりました。
 戦前から1970年代ころまでの口径30センチメートル以上の西村製作所の大口径反射鏡には木辺成麿研磨のものが多く使われていて,現在でも「木辺鏡」として天文愛好家にとっては垂涎の鏡となっています。
  ・・・・・・
 そこで,今回,琵琶湖1周の旅の途中で,前回書いた山本天文台に続いて,錦織寺にも行ってみようと思っていました。木辺茂麿さんもまた,山本一清さんと深いつながりがあって,2022年7月14日に放送されたNHKBSP「コズミックフロント」の「アマチュア天文学の父・山本一清」にも描かれています。
 錦織寺は,思った以上に大きくて立派な寺で驚きました。木辺茂麿さんは,亡くなって34年にもなり,もう,お寺では,歴史上の人物のひとりです。

 木辺茂麿さんは,京都大学花山天文台のために多くの鏡を作成しました。それらは
  ・・・・・・
 1 太陽館の口径70センチメートルシーロスタットの2枚の平面鏡
 2 太陽館の50センチメートル凹面鏡
 3 ザートリウス(SARTORIUS)社の口径18センチメートル屈折望遠鏡に同架した口径12.5センチメートル屈折望遠鏡
 4 口径60センチメートルシュミット鏡
 5 現在飛騨天文台にある口径60センチメートル反射望遠鏡
  ・・・・・・
ということです。
 口径60センチメートル反射望遠鏡は,最初は花山天文台に設置され,月面地図つくりの国際共同観測に活躍しました。また,1968年の飛騨天文台開設に合わせて飛騨に移設され,飛騨天文台最初の望遠鏡として、月・惑星観測に活躍しました。
 現在は,突発天体観測用としてよみがえり,再び活躍の場が与えられているようで,この望遠鏡で観測されたガンマ線バーストの可視測光データが雑誌「Nature」の論文に発表されたということです。

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 私は,子供のころ,創刊間もない「月刊天文ガイド」でアマチュアの天文に関する知識を得ていました。当時の「月刊天文ガイド」は,今とは違って「子供の科学」を天文に特化した子供向けの雑誌だったので,東亜天文学会という,本格的なアマチュア天文愛好家を対象としたものとは異なっていました。そこで,「月刊天文ガイド」に東亜天文学会が登場することもなく,したがって,その存在すら知りませんでした。私より10歳から20歳ほど上の人たちがアマチュア天文愛好家の先駆けとして東亜天文学会の会員の中枢だったわけで,そのような先人たちとは年代が少し離れていたからです。
 風のうわさで,東亜天文学会という名前を聞き,何か敷居の高い高度なことをしている集まりのように思えて,それが何なのか? という好奇心が芽生えましたが,私には,その存在は謎でした。

 その時代,本格的なアマチュア天文愛好家のリーダー的な役割を果たしたのが,京都帝国大学教授の山本一清(いっせい)さんでした。山本一清さんがアマチュアのためにと発足したのが東亜天文学会であり,機関誌「天界」でした。その後,さまざまな曲折があって,山本一清さんは京都帝国大学教授を退役し,活動の場として建てたのが山本天文台であり,インターネットなどがなかった時代に,その地から新彗星などの情報を知らせたのが山本速報でした。
 そのようなわけで,私は,東亜天文学会には縁もゆかりもなかったのですが,噂で聞いていた山本天文台というものが,いったい何であったのか,どこにあったのか,謎解きを試みようとしました。しかし,何分50年も前のことで,調べてもなかなか情報が出てきませんでした。

 ネットで何かないかとずいぶん探していたら,やっと,次のようなブログを見つけました。
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 「京都新聞」を読んでいると,見たことのない不思議な建物のカラー写真に目がとまりました。写真につけられたキャプションには「山本天文台第二観測室」とありました。
 山本天文台? 大津市?  「星空の開拓者たち」というタイトルのその記事によると, 京都帝国大学の花山天文台の初代台長・山本一清さんは, 大学退官後,見晴らしのよい大津市上田上桐生辻の自宅を改築し,1942年に開いたのがこの天文台だとあります。当時,東洋一の大きさである英国カルバー製46センチメートルの反射望遠鏡を置くなど,施設も本格的でした。
 「官僚育成の特色があった」東京帝国大学に対し,京都帝国大学は 「高い知識をもつアマチュア天文学家をネットワーク化」することで広範なデータ収集するために,その育成に力を注ぎ,私設のこの天文台も「アマチュア天文家の根拠地」にすべく構想されたとのことです。
  ・・・・・・

 私の好奇心は,山本天文台がどこにあったのか,ということが満たされればよかっただけなのですが,大津市上田上桐生辻という場所だといっても,現在の地名でなかったし,正確な場所がわかりませんでした。載っていた写真と,当時訪ねたという人が正心寺の近くだったと書いていた別の情報だけを手掛かりに,GoogleMapsのストレートビューで探して,何とかその場所を見つけ出しました。大津市上田上桐生辻は大津市桐生という地名に変わっていたし,正心寺というのは間違いで正休寺でした。
 で,今回,琵琶湖一周の旅のついでに行ってみました。GoogleMapsで見る限り,そのあたりは,道路が狭く,車を停める場所というか,車が通れる道すら危うかったのですが,桐生キャンプ場の駐車場を見つけ出したので,そこに車を停めて,30分ほど歩いて,目的の場所に到着しました。
 現在,山本天文台は跡形すらなくなっていて,そこにあったのは,おそらく,山本一清さんのご子息の家だと思うのですが,門だけが写真で見たままでした。その場所は,いまでも結構のどかな地だから,当時なら満天の星を見ることができたことでしょう。
 なお,山本天文台にあった英国カルバー製46センチメートルの反射望遠鏡は,現在,四国の天体望遠鏡博物館にあります。

 私の謎解きはこれだけのことで,ゆかりの人に話を聞いたとか,資料を見せてもらったとかいうものではないのですが,私には,子供のころの伏線が回収できて,十分満足でした。
 山本一清さんのことは,2022年7月14日に放送されたNHKBSP「コズミックフロント」で「アマチュア天文学の父・山本一清」として放送されました。植物学界の牧野富太郎博士が朝の連続テレビ小説「らんまん」の主人公だったのなら,天文学界の山本一清博士もその波乱万丈の人生は主人公がやれそうです。しかし,すでに「まんてん」という題名の連続テレビ小説はあるし,はたして,どんな題名がいいか?

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 2023年4月5日に大相撲稲沢巡業に行きましたが,そのほぼ1年後,というか,もう1年経つというのが驚きですが,2024年4月3日に大相撲一宮巡業に行ってきました。
 わずか1年で大相撲も様変わりしました。1年前には
  ・・・・・・
 下位の力士を見ても,将来有望,という感じの若者も見当たらないから,当分はこんな状況が続くのでしょう。こうなったら,横綱や大関などといった地位は失くしてしまって,前の場所の優勝者が次の場所で土俵入りをすればいいじゃなか,と私は思ってしまいます。
  ・・・・・・
と書いたのですが,ところが,ところが,です。
 先月の春場所は,青森県五所川原市金木出身の尊富士関が優勝し,また,二所の関親方の秘蔵っ子・大の里関が健闘し,ここ数年でこのふたりが横綱になるのでは,といわれるようになりました。まあ,暴力事件だの部屋の閉鎖だのというきな臭いさまざまな問題は,ここでは抜きにして,やっと本格派の2大巨頭が出てきたという期待でいっぱいです。

 この日は朝から雨で,残念ながら,バスから降りる力士を見ることもできず,早々に会場である一宮総合体育館に入りました。
 私が巡業を見るのは,これで,何回目だろう? 金沢市,刈谷市,稲沢市についで,きっと4回目だと思うのですが,今回は,横綱は土俵入りだけ,4人の大関のうち3人が欠場,さらに,尊富士も欠場と,多くの人には少し物足りなかったのでしょうが,私の目的は,大ファンになった大の里関一点集中,ということだったので,問題ないわけで…。
 毎回,適当に席がどこなのかも知らずチケットを買うのですが,今回もまた,昨年同様,2階席だと思っていたら1階席でした。私は,力士を追っかけて一緒に写真をとったり,サインをねだったり,という趣味はないから,欲をいえば,安価な2階席の見晴らしのいい一番後ろあたりに陣取って,のんびりとお弁当でも食べながら見たほうがよかったなあ,というのが反省点でした。
 いずれにしても,大の里関の写真をたくさん写せたので,満足です。
 大の里関の立派なのはいつもファンサービスをしている,ということで,これなら人気が出るはずです。いまのところ,本場所ではここ一番に弱い,ということが師匠の二所の関親方の現役時代・横綱稀勢の里に似てしまっているのだけ心配ですが…。

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 私が小学校の高学年のときに習った国語の教科書に,瀬田に住む子の作文が載っていて,そこに
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 私が住む町は「瀬田の唐橋唐金擬宝珠 水に映るは膳所の城」で有名なところです。
  ・・・・・・
とありました。
 私は,小学生のころは,4月のはじめに国語の教科書をもらったらすぐに全部読んでしまうような,今とは違ってとてもまじめな子供でした。やらされていたのではなく,自発的にやっていたことだったから,興味のあったことは,今になってもしっかりと覚えています。そのなかで,強烈な印象として残っているのが,ここに書いた瀬田の唐橋の小学生の作文と,アメリカ・カリフォルニア州のセコイア国立公園で車が通るために穴の開いたセコイアの木,そして,「池谷薫さん新彗星発見」という新聞記事を読む教材なのです。
 アメリカ・カリフォルニア州のセコイア国立公園は,長年の夢がかない,実際に現地に行くことができました。また,池谷薫さんはお会いしたことはないのですが,今住んでいる静岡県の森町には行ってみました。そして,今回,瀬田の唐橋を訪れることができました。ということで,これもまた,私の伏線回収の旅のひとつなのです。

 瀬田の唐橋は,瀬田川に架かる橋です。瀬田川というのは琵琶湖の南岸から流れ出す川で,今は,それよりも北に,近江大橋,さらに,琵琶湖大橋がありますが,江戸時代は,東海道・中山道方面から京都へ向かうには,近江八景のひとつ「矢橋の帰帆」で知られたように,草津市の琵琶湖畔・矢橋から白い帆をかけて船で大津の石場港へ至るか,あるいは,瀬田川を渡る必要がありました。そこで,1889年(明治22年)まで,瀬田川に架かる唯一の橋であった瀬田の唐橋は,交通の要衝であり京都防衛上の重要地でした。
 瀬田の唐橋は,京都の宇治橋,山崎橋とならんで日本三大橋のひとつであり,「近江八景」のひとつ瀬田の夕照として知られています。
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  露時雨 もる山遠く 過ぎ来つつ 夕日のわたる 勢田の長橋
  ・・・・・・
 現在の瀬田の唐橋は,大橋が172メートル,小橋が52メートルで,全長224メートルありますが,かつて架けられていた橋は,丸木舟を横に何艘も並べフジの木を利用しその蔓を絡めた橋で「搦橋」(からみばし)と称され,これが「から橋」に転訛したことと中国や朝鮮半島の様式を模した唐様が取り入れられたことで,唐橋となったといわれます。

 瀬田の唐橋をめざして車で大津から南に走っていくと,左手にあったのが膳所城址の公園でした。
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 徳川家康は,1601年(慶長6年)に東海道の押さえとして,藤堂高虎に,大津城を排して膳所の地にに城を築かせ,大津城主だった戸田一西を入城させ,膳所藩が成立しました。最終的には,本多俊次が入城し,13代220年の間,本多氏の居城となり明治維新を迎えました。
 江戸時代の膳所城は水城で,長野県の高島城,島根県の松江城とともに日本三大湖城のひとつであり,大津城,坂本城,瀬田城と並ぶ「琵琶湖の浮城」のひとつともいわれ,4重4階の天守がありましたが,明治期に廃城となり,解体されました。
  ・・・・・・
 この場所は「近江八景」の粟津の晴嵐といわれる風光明媚なところです。
  ・・・・・・
  雲払ふ 嵐につれて 百船も 千船も浪の 粟津に寄する
  ・・・・・・
 さらに行くと,めざす瀬田の唐橋が見えてきました。もっと観光地なのかと思っていたのですが,日常の交通量の多い橋にすぎず,なかなか駐車場も見つかりませんでした。ずいぶん遠いところに車を停めるしかありませんでしたが,何とか歩いて瀬田の唐橋まで行って,橋を渡ってみることができました。
 また,この橋を見ながら食事でも,と思っていたのですが,そうした場所もなかなか見つから,結局,近くにあったモールのフードコートで焼きそばを食べることになりました。
 ということで,単なる侘しい経験でしたが,私は,念願がかない,大満足でした。

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粟津瀬田

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 一度は行ってみたかった金ケ崎がどういうところか納得して,次に私が行きたかったのは瀬田の唐橋でした。
 琵琶湖の西岸は,湖岸に沿っても道路がありますが,国道161号線はバイパス化していて山の中を走っているので,時間は稼げますが景色は物足りません。しかし,近江高島を過ぎると,湖岸を走るようになります。そして,湖中に朱塗りの大鳥居を見ることができます。また,国道161号線をはさんで社殿が鎮座します。これが「白鬚さん」「明神さん」の名で親しまれ,また,近江の厳島ともよばれる創建以来2,000余年の歴史を誇る近江最古の大社・白髭神社で,祭神は猿田彦(さるたひこ)です。猿田彦は,天孫降臨の際に天照に遣わされた邇邇芸(ににぎ)を道案内した国津神です。

 白鬚神社を通り過ぎさらに進むと,右手に雪を被った比良の山々が見えます。これが「近江八景」の比良の暮雪です。
  ・・・・・・
  雪はるゝ 比良の高根の 夕くれは 花のさかりに すくるころかな
  ・・・・・・
 国道161号線は,再び,山の中を走るようになって,琵琶湖が望めなくなりますが,琵琶湖畔は,このあたりに,雄琴温泉,そして,堅田の浮御堂があるはずです。堅田の浮御堂は「近江八景」の堅田の落雁として位置づけられているところです。
 国道161号線をさらに進んで,比叡山延暦寺の玄関口である坂本に着きました。この場所は「近江八景」の唐崎の夜雨として描かれているところです。
  ・・・・・・
  夜の雨に 音をゆづりて夕風を よそに名たつる から崎のまつ
  ・・・・・・
 ここもまた,明智光秀ゆかりの西教寺などがあって,2022年6月に来たことがあるのですが,そのころに比べて,ずいぶんと観光客が増えました。

 今回は,この地にある慈眼堂に南光坊天海の廟所があるということで興味をもったので寄ってみることにしましたが,近くに駐車場がなく,車を停めるのに苦労しました。
 以前,東京の上野に行ったときにも書いたのですが,南光坊天海は
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 徳川家康の側近として,江戸幕府初期の政策に深く関与した南光坊天海は,1643年(寛永20年)に100歳以上の長命で亡くなった天台宗の大僧正です。
 生まれは,将軍足利義澄落胤説やら,姿を変えて生き残った明智光秀やらという説があり,生年も前半生もよくわかりませんが,一説では,福島県会津美里町の龍興寺にて出家した後,天台宗を学び,比叡山延暦寺や園城寺,興福寺などで学を深めたといいます。
 1588年(天正16年)に現在の川越市にあった無量寿寺北院に移り,天海を名乗ったあたりから,足跡が明瞭となっています。
  ・・・・・・
ということです。 
 また,会津美里町観光協会のホームページには
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 南光坊天海は,陸奥大沼郡高田(現在の会津美里町高田)の出身で,父はこの地の土豪・舟木景光,母は会津領主葦名氏の出自。幼いころに天台宗の龍興寺で得度したのち、各地を遍歴して修学を重ねました。
  ・・・・・・
とあります。会津美里町は,南光坊天海をこの町の観光の目玉にしようというわけです。会津美里町は,私が先日乗った只見線の会津高田駅にあります。
 南光坊天海に限らず,歴史上の偉人が,私が訪れた日本各地のさまざまなところで,糸がもつれるように関係しているのがとても不思議な感じがします。
 慈眼堂の建立は「天台座主記」などによると,1646年(正保3年)ころの建立であると考えられます。 慈眼堂は,南光坊天海(慈眼大師)の廟所であり,木造慈眼大師坐像を祀っています。南光坊天海は,1607年(慶長12年)比叡山南光坊に住し,織田信長の焼き討ちによ り荒廃した延暦寺の再興に尽力しました。また,日光東照宮・輪王寺や東叡山寛永寺などを 創建するなど,多くの業績を残しました。

 坂本は,穴太衆(あのうしゅう)という,古墳築造などを行っていた石工の末裔で安土桃山時代に活躍した寺院や城郭などの石垣施工を行った技術者集団の住んでいた場所です。
 穴太衆は,安土城の石垣を施工したことで,織田信長や豊臣秀吉によって城郭の石垣構築に携わるようになり,江戸時代初頭に到るまでに多くの城の石垣を手掛けました。先日行った会津若松城の古い石垣もまた,穴太衆が作ったという説明を聞いたことがあって,これもまた,私が訪れた日本各地のさまざまなところで,糸がもつれるように関係していて,とても不思議な感じがします。
 現代でも,坂本の町に多数立ち並ぶ「里坊」(さとぼう)とよばれる延暦寺の末端の寺院群は,穴太衆の組んだ石垣で囲まれ,町並みに特徴を与えています。

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比良唐崎


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 この旅は石山寺と三井寺へ行く以外は出たとこ勝負だったのですが,これまで,一度は行きたいと思いながら行く機会がなかった琵琶湖周辺の場所にできるだけたくさん行きたいものだと思っていました。そこで,朽木谷に行き,奥琵琶湖の湖畔に宿泊しました。奥琵琶湖パークウェイが通行止めだったために偶然行った菅浦の湖岸集落と民宿でみつけたポスターで知ったメタセコイアの並木道は望外の収穫でした。
 ここまで来たからには,さらに「金ケ崎の退(の)き口」まで足を延ばしてみようと思うようになったのですが,結構遠そうだったので,どうしようか迷いました。しかし,こんな機会はこれからあるかどうかわからないから,行ってみることにしました。いったいどこなのだろう? と調べてみると,それは敦賀市でした。

 メタセコイアの並木道を出て,琵琶湖を背後に国道161号線を北上しました。天気が悪いと雪が積もり,険しい道になるのですが,幸い,この日は快晴で,すぐに敦賀市に着きました。金ヶ崎城址は敦賀市の港の近くで,私が想像していたような山の中ではなく,市街地にあるのに驚きました。
 広い駐車場は,私の車以外に車が駐車しておらず,閑散としていました。ここに車を停めて,小高い山を登っていきました。そこにあったのは,金ケ崎宮という神社で,傍らに道があり,それをさらに上ると,金ケ崎城址,一の門跡,曲輪跡,堀切,虎口などを見ることができました。そこからの眺めがよく,敦賀港が一望できました。桜の名所としても知られているそうなので,春になると,多くの人で賑わうことでしょう。
 こうして,今回もまた,子供のころから謎だった場所の伏線回収ができました。

 ここで,時間が飛びます。
 この旅は,その後,さらに,琵琶湖周辺を巡ることになるのですが,それは次回にすることにして,今日は,浅井家にちなんで,最後に行った小谷城戦国歴史資料館について書くことにします。
 浅井家の本拠であった小谷城の麓に小谷城戦国歴史資料館があります。小谷城はすでに2度行ったことがあるのですが,いずれも,小谷城戦国歴史資料館は休館で,入ることができませんでした。今回こそは行ってみようと思っていたのですが,調べてみると,何と火曜日が休館ということでした。そこで,昨日行くのはやめて,この日水曜日に行くことにしたのです。3度目の正直となりました。
  ・・・・・・
 小谷城戦国歴史資料館は,戦国時代に北近江を支配した浅井氏とその居城である小谷城をメインテーマにしています。
 第1展示室は浅井氏三代にスポットを当て,浅井長政,浅井長政夫人のお市の方,2代浅井久政らゆかりの人物の肖像画を展示するとともに,小谷城跡から出土した遺物を紹介しています。
 第2展示室は小谷城をテーマに,小谷城址保勝会所蔵の絵図や曲輪復元イラストからは小谷城の詳細な構造を知ることができます。
  ・・・・・・
 という,だだっ広い駐車場に派手な外見とは裏腹のこじんまりとした博物館でした。
 なお,小谷城戦国歴史資料館の運営母体はどこにも書かれれていないので民営かと思ったのですが,長浜市です。

 織田信長を裏切ったことで,その後,浅井家は滅ぼされてしまいますが,浅井長政と正室の市との間に生まれた3人の娘,長女の茶々は豊臣秀吉,二女の初は京極高次,そして,三女の江は徳川秀忠の妻となりました。こうして,浅井家の血は徳川将軍家につながるという数奇なことになるのです。歴史の不思議さを感じます。
 長浜市浅井支所前には,浅井長政,市,そして,浅井三姉妹と嫡男の万福丸,総勢6人の像があります。また,浅井の町中の徳勝寺には浅井三代の墓があります。徳勝寺は,応永年間(1394から1428)に通峰真宗和尚(つうほうしんしゅうおしょう)を開基として創立され,浅井氏の菩提寺となりました。

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