しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

May 2024

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 世の中がコロナ禍に毒される数か月前の2019年11月22日。私は,東武鉄道を使って,日帰りで大内宿へ行きました。列車は行きも帰りもガラガラで,東北地方はとても素朴で,楽しい旅になりました。
 私が東武鉄道に乗るのは,それ以来のことです。
 あのときも,東武浅草駅から乗ったものだと思っていたのですが,調べてみたら,北千住駅からでした。

 さて,今回の旅で,私が乗る「リバティりょうもう」1号の前に出発した午前6時30分発の「リバティけごん」1号は日光へ向かうので,外国人の旅行客が多く乗っていました。しかし,私の乗る列車は,ガラガラでした。わたらせ渓谷鐡道に乗ることを目的とするような旅人は私以外にはいませんでしたし,日光に向かうものではないから,観光用ではなさそうでした。
 実際,途中から,仕事に向かうらしい人が大勢乗ってきて,車内は,けっこう埋まりました。しかし,そのほどんどは,太田駅でおりてしまい,それ以降は,また,乗客は私だけになりました。
 私にははじめて乗る区間だったので,これはなかなか興味深いものでした。館林,足利なんて,行ったこともなければ,これからも無縁のところでしょう。
 そうこうしているうちに,約2時間後,相老駅に到着しました。ここで,わたらせ渓谷鉄道に乗り換えます。わたらせ渓谷鐵道の始発駅は,相老駅ではなく,そのふたつ前の桐生駅ですが,東武鉄道は通りません。相生駅から乗ろうとすれば,東京駅からJR宇都宮線で小山駅まで行き,小山駅からJR上毛線で桐生駅まで2時間30分程度かかります。

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 この地にある愛宕神社に,根元がひとつで,地上2.5メートルのところから2本にわかれる,樹齢は300年も経つという黒松と赤松の縁起のよい木があって,「相生の松」と命名されたことで,相生という地名が生まれました。しかし, 相生駅は他県にもあるため,共に老いるということで,相生にある駅だけは相老駅と命名されたということです。
 相生駅は,東武鉄道とわたらせ渓谷鐵道の共同使用駅で,改札口を共用しています。
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 ということですが,私は,勝手がわからず,陸橋を渡って,とりあえず,改札口を出ました。
 実際は,改札口を出なくても,別のホームに降りて待てば,そのままわたらせ渓谷鐵道に乗り換えることができたようです。
 相老駅に到着したのが午前8時47分で,わたらせ渓谷鐵道がやってくるのが午前9時ちょうどでした。やがて列車がやってきたので,乗り込みました。わたらせ渓谷鐵道は,現在,気動車9両,客車4両,ディーゼル機関車2両の計15両を有しているということですが,今回乗ったのは,その中でが最も古い「わ89-300形気動車」でした。
 乗客は,私を含めてふたりでした。
 壊れるんじゃないか,というほどガタガタいいながら,渡良瀬川に沿って,列車は進みました。
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 渡良瀬川(わたらせがわ)は,利根川の支流,流路延長107.6メートル,流域面積2,621平方キロメートル。上流にある足尾町の渡良瀬という地名に由来し,日光を開山した勝道上人が川を渡ろうとしたところ,渡るのにちょうどよい浅瀬があったので渡良瀬と名づけたといいます。
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 2024年5月11日,5月12日と東京でクラシック音楽のコンサートをはしごしたのち,2024年5月13日から5月14日まで,1泊2日で,日光へ行きました。以前,ブログに「今度どこへ行きたいのか」として書いた,わたらせ渓谷鐵道に乗ることが目的でした。
 わたらせ渓谷鐵道は,どこで乗って,どこで降りたらいいのか? など調べていくうちに,「NIKKO MaaS」というものを見つけました。いったい「MaaS」とは何か,知らないのは私だけか。
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 「MaaS」(マース=Mobility as a ServiceMaaS)とは,公共交通を含めた自家用車以外の全ての交通手段による移動をひとつのサービスとして捉え,シームレスにつなぐ移動の概念,また,それを目的としたサービスのことです。
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 それにかこつけて企画された「NIKKO MaaS」は,日光周辺を東武鉄道やバスなどが乗り放題のモバイルチケットのことで,その中に「相老・赤城ルート」というものがありました。これは,浅草から相老まで東武鉄道で行き,相老からわたらせ渓谷鐵道,日光市営バスと乗り継いで,東武日光まで行き,浅草に戻る,という2日間有効の周遊コースでした。

 日光は,確か,40年ほど前に一度行ったことがあります。陽明門が思ったより小さいなあ,と思ったことと,バスに乗っていろは坂を走ったこと,そして,華厳の滝を見たことは覚えているのですが,どうやって行ったか,というようなことはまったく記憶になかったので,今回,改めて調べてみたのですが,位置関係とか,どのくらいの時間がかかるのか,など,見当がつきませんでした。
 そこで,ゴールデンウイーク後の,おそらく空いているだろうという,この時期の平日を利用して,「NIKKO MaaS」の「相老・赤城ルート」に従って,ともかく行ってみることにしました。
 そこで,まず,浅草駅から相老駅,東武日光駅から浅草駅までの東武鉄道の特急の座席指定券と,日光で1泊する旅館を予約しました。
 とはいえ,いろいろなことがよくわかっていなかったのが災いして,行ってみたその結果,ずいぶん誤算がありました。しかし,災い転じて福となしたことも多く,また,この旅で,私は,日光周辺のことや,「NIKKO MaaS」のしくみがとてもよくわかりました。

 5月12日も,田原町の東横インに泊まりました。
 田原町に泊まったのは,早朝,東武浅草駅から東武鉄道に乗るためでした。心配だった天気ですが,晴れ男の私には珍しく,あいにく,5月13日は小雨でした。ただし,この日は,鉄道とバスでの移動が主だったし,それほど雨が降ったわけではなかったので,助かりました。
 5月13日早朝。昨日買っておいた適当な朝食を部屋でとって,午前6時にホテルチェックアウトしました。当初は,東武浅草駅まで歩くつもりでしたが,雨だったので,田原町から1駅だけ地下鉄に乗りました。地下鉄の浅草駅から東武浅草駅は地下でつながっていました。そして,6時48分発の「リバティりょうもう」1号に乗りました。
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 ところで,私がずっと疑問だったのは,「リバティ」とは何ぞや? ということでした。東武鉄道では,同じ行先の特急でも,「リバティりょうもう」と「りょうもう」というように,「リバティ」という名前のついたものとついていないものがあるのです。
 駅員さんがいたので聞いてみると,私の質問を勘違いして,「リバティ」の意味を語りだしたのですが,私が知りたかったのはそんなことではありません。で,やっと聞き出したことは,「リバティ」(Revaty)は,東武鉄道500系の特急形車両の愛称だということでした。そこで,その車両を用いて運行する特急が「リバティ〇〇」なのでした。
 東武鉄道は,「リバティ」のほかにも,「スペーシアX」というものもあって,こちらは,「東武鉄道のフラッグシップ車両」だそうで,観光特急としての快適さや豪華さを追求しているということなので,「リバティ」よりも室内が豪華です。
 いずれにしても,「リバティ」にしせよ「MaaS」にせよ,こういう固有名詞は,わけ知った人だけのひとりよがりで,一般の人には,何のことかわかりません。パンフレットにも説明がありません。むしろ,この特別感からただようのは,「リバティ」とか「スペーシアX」に乗るときは,別に料金がかかるのではないか? といった不安だけです。

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 2024年5月11日から5月14日まで,東京と日光を旅しています。
 5月11日は,夜,NHK交響楽団の定期公演に行き,お昼間は,三鷹へ行って,太宰治に浸り,その後,豪徳寺に行きました。このことは,すでに書きました。その日宿泊したのは,田原町の東横インでした。
 そして,翌5月12日。この日は,午後,東京交響楽団の定期演奏会に行くので,午前は,上野の東京芸術大学大学美術館で開催されている「大吉原展」を見に行くことにしていました。このこともすでに書きました。
 そして,上野まで,浅草界隈を散策しましたが,今日は,そのお話です。
 
 数年前,コロナ禍の時期の浅草を歩いたことがあるのですが,ほとんど人もおらず,最高でした。現在の浅草は,インバウンドが戻り,私は,まったく行く気がなくなってしまったのですが,さすがに早朝なら,ということで,浅草から上野へ行く途中に歩いてみようと思ったのです。
 その昔,写真家の木村伊兵衛さんがご存命のころ,ライカを肩に,浅草界隈を歩き,夕暮れになると,近くの店で一杯,などと書いてあったのを読んで,私はうらやましくなりました。そんな生活をしてみたいものだと思いました。それも,遠い昔のことで,今の浅草は,そんな雰囲気からは程遠くなってしまいましたが,人が少ないときなら,少しは,と思ったのです。
 ほとんどの店がまだ閉まっていた仲見世ですが,すでに,1軒の店が開いていました。それは,人形焼きで人気の三鳩堂(さんきゅうどう)でした。午前9時開店,とありますが,もっと早い時間だったように思います。 

 浅草寺を抜けて,ひさご通りを歩き,そのまま千束通りから,鶯谷,そして,上野に向かって歩くことにしました。浅草寺を抜けると人混みがなくなるので,むしろ私は,今は,そのあたりのほうが好きです。
 浅草の三社祭は,私が歩いた1週間後の5月17日から5月19日ということでした。10年くらい前,1度だけ,偶然に,その日に浅草に行ったことがあります。まだ,インバウンドはそれほどでもなかったのですが,それでもすごい人混みでした。そのときは,これぞ江戸の下町,と思いました。
 この日は,小野照崎神社(おのてるさきじんじゃ),元三島神社などでお祭りあるということで,神社のあたりは,早朝から準備で盛り上がっていました。それにしても,東京の下町というところは,まことに不思議なところです。小野照崎神社は,金美観通りに面していて,その先は,吉原の風俗街だし,元三島神社なんて,鶯谷のホテル街の真ん中にあります。このように,さまざまなものがごっちゃごちゃになっていて,表向きだけは清楚でも,その裏はドロドロ。いかにも,これこそが日本の本来の姿だ! 江戸っ子だ! みたいな気がします。
 後日知ったのですが,この日,上野の下谷神社のお祭りでは乱闘騒ぎが勃発したそうです。いくら,「火事と喧嘩が江戸の華」とはいえ,これはいただけません。

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 太宰治の足跡を訪ねて三鷹界隈を散策したあと,まだ,NHK交響楽団の定期公演の開演時間までずいぶんあったので,豪徳寺(ごうとくじ)に寄ることにしました。
 三鷹駅からJR中央線で新宿駅を経由して小田急電鉄に乗り換え,豪徳寺駅で降りました。
 豪徳寺駅のあたりには,外国人がすごくたくさん歩いていました。豪徳寺は,海外メディアで紹介されたことで外国人に知られました。駅の名前は豪徳寺なのですが,豪徳寺駅から豪徳寺は思ったよりも遠いところにありました。それは,豪徳寺の北に駅があったのにもかかわらず,豪徳寺の入口が南側だったから,寺を半周する必要があったからです。むしろ,東急世田谷線の宮の下駅のほうが近いと,帰ってから知りました。
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 豪徳寺は曹洞宗の寺院で,山号は大谿山(だいけいざん)。1480年(文明12年)のちの赤穂事件で有名な吉良上野介義央の同族である武蔵吉良氏の居館であった世田谷城の城主・吉良政忠が,伯母の弘徳院のために庵を結んだ場所にあります。
 1633年(寛永10年),彦根藩主・井伊直孝が井伊家の菩提寺として伽藍を創建し整備しました。寺の名前は,井伊直孝の戒名である「久昌院殿豪徳天英居士」によります。
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 豪徳寺が外国人に人気なのは招き猫発祥の地ということが理由だそうです。それでも,どうして? と私は思いました。それは,外国人には招き猫が珍しいらしく,また,きわめて日本らしく,さらに,招き猫だらけの境内が写真映えすることによるそうです。
 豪徳寺で招き猫が名物なのは
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 2代藩主・井伊直孝が猫により門内に招き入れられ,雷雨を避け和尚の法談を聞くことができたことを大いに喜び,井伊家御菩提所としました。それがもとで,豪徳寺では「招福猫児」(まねきねこ)を祀る招猫殿を置きました。招猫殿の横には,数多くの招福猫児が奉納されています。
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という理由だそうです。
 招き猫があるのは,本堂の左側の狭い場所でした。私は,もっと広範囲に招き猫があるものだと思っていました。また,境内は外国人であふれていると想像したのですが,それほどでもありませんでした。さらに,参道にはたくさんのみやげ店があって,そこにも招き猫があふれているように思っていたのですが,それもありませんでした。
 それにしても,豪徳寺の周辺のなんだかしらけ切った雰囲気は何でしょうか? 世田谷区は閑静な住宅地だから,多くのインバウンドであふれることで,迷惑しているような空気がただよっているように,私は感じました。もし,私がここに住んでいたら,きっとそう思うでしょう。

 私が豪徳寺で興味をもったのは,招き猫よりも,むしろ,井伊家の墓所でした。
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 鎌倉時代から井伊谷を治めていた井伊家。
 井伊直虎は,井伊直盛の娘として誕生しました。井伊直盛には男子がいなかったので,井伊直盛の従兄弟にあたる井伊直親を,井伊直虎の婿養子に迎える予定でした。しかし,1544年(天文13年)に井伊直親の父・井伊直満が今川義元への謀反の疑いをかけられて自害させられ,井伊直親も信濃に逃亡してしまいまったので,井伊直虎は,萬松山龍潭寺で出家し,次郎法師と名乗ることになりました。
 井伊直親は,その後復帰して井伊直盛の養子となるのですが,井伊直虎と結婚することはありませんでした。
 1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いで井伊直盛が戦死し,その跡を継いだ井伊直親も今川氏真に殺されてしまい,井伊直親の子・虎松(のちの井伊直政)は鳳来寺に匿われました。
 1565年(永禄8年),跡継ぎのいなくなった井伊家では,次郎法師が井伊家の当主となりました。これが「女城主 直虎」です。
 井伊直虎となった次郎法師は,井伊直政を養子として育て,1575年(天正3年)に徳川家康に出仕させました。井伊直政は多くの武功をたて徳川四天王のひとりと称され,関ヶ原の戦いの後に近江に転封されました。彦根藩主となった井伊家は,30万石の大名となって明治維新まで続き,歴代藩主のうち5人が6回の大老職となりました。
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 井伊家の墓所は,彦根市の清凉寺,東近江市の永源寺,そして,豪徳寺にあります。
 清凉寺には,初代藩主・井伊直政(なおまさ),3代藩主・井伊直澄(なおすみ),5代藩主・井伊直通(なおみち),7代藩主・井伊直惟(なおのぶ),8代反藩主・井伊直定(なおさだ),11代藩主・井伊直中(なおなか),12代藩主=大老・井伊直亮(なおあき)が葬られています。
 豪徳寺には,2代藩主・井伊直孝(なおたか),6代藩主・井伊直恒(なおつね),9代藩主・井伊直禔(なおよし),10代藩主=大老・井伊直幸(なおひで),13代藩主=大老・井伊直弼(なおすけ),14代藩主・井伊直憲(なおのり)が葬られています。
 また,4代藩主=大老・井伊直興(なおおき)は,永源寺南嶺慧詢に帰依していたため,永源寺に葬られました。
 これで,私がこれまでに行くことができた龍潭寺,清凉寺,永源寺,豪徳寺,そして彦根城が結びつきました。

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 東京とは違って,大きなホールがあまりない名古屋では,オーケストラの演奏会のほとんどは,愛知県芸術劇場コンサートホールで行われます。以前書いたように,愛知県芸術劇場コンサートホールは,音はいいのですが,会場までの設計が非常に悪く,狭いエスカレータか込みあうエレベータしかありません。東京のサントリーホールとは段違いです。私はできれば行きたくないところです。
 愛知県芸術劇場コンサートホールができるまでは,金山にある名古屋市民会館しかありませんでした。今から40年ほど前,名古屋市民会館で定期演奏会を行っていた名古屋フィルハーモニー交響楽団の公演によく行ったものですが,今は,ここでは,市民会館名曲シリーズというものを開催しています。また,名古屋市民会館は日本特殊陶業市民会館フォレストホールというよくわからない名称になっています。

 土曜日の夕方,ちょっとのんびりとクラシック音楽を聴いてみたいなあ,ということと,曲目がブルックナーの交響曲第7番ということもあって,2024年5月25日,久しぶりに日本特殊陶業市民会館フォレストホールへ行って,演奏会を聴いてきました。ホールが古いのはいかんともしがたいのですが,それが逆に,昭和のころの演奏会を聴いているみたいで,楽しめました。入り口もロビーも階段も広くストレスがありません。
 開演前のロビーコンサートというものもあって,曲目は,ブルックナーの弦楽五重奏曲の第1楽章でした。
 ブルックナーの弦楽五重奏曲は,弦楽四重奏にヴィオラをもう1本増やした編成です。ブルックナーの弦楽五重奏曲は傑作のひとつで,こころに染み入るものでした。今度は,静かな会場で聴いてみたいと思いました。

 今回の演奏会の指揮は,マティアス・バーメルトさんで,以前,NHK交響楽団の定期公演や第九演奏会でも指揮をした人なので,よく知っています。はじめにNHK交響楽団が招へいしてきて,その後,日本の各地のオーケストラの常任指揮者になる,というパターンがよくあって,マティアス・バーメルトさんも2018年4月から2024年3月まで札幌交響楽団の首席指揮者でした。
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 現在81歳で,時代に流されない誠実さと剛直さを併せ持つ指揮振りと音楽性で「いぶし銀のマエストロ」と世界でたたえられています。
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 正直,カリスマ性はありません。我を出す,というタイプではないように思います。そこで,どういう演奏をしたいのか,という主張が軽薄な気がします。

 曲目は, ワルター・アウアーさんがフルートを演奏する尾高尚忠のフルート協奏曲とブルックナーの交響曲第7番でした。フルート協奏曲は第2楽章がきわめて日本らしい音階ですてきでした。
 ブルックナーの交響曲第7番は,美しい第2楽章,ブルックナーらしい第3楽章のカデンツァはいいのですが,第4楽章がちょっと弱いのが欠点だと私は思っていました。
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 他のブルックナー交響曲の最終楽章に比べると,軽快な親しみやすさにあふれている反面,終楽章が短いと否定的に評されることがあります。また,再現部の主題再現は逆に行われるのでわかりにくいという評価もあります。
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 今回,久しぶりにじっくりと聴いてみて,交響曲第7番は,第2楽章と第3楽章を入れ替えて,第4楽章をなくして,それで終わりにしたらいいのではないか,と思ってしまいました。
 一度,そうして聴いてみよう。

 いずれにしても,週末の夕方,こんな気楽なコンサートを聴くのも悪くありません。
 観客の入りは6割程度でした。
 日本特殊陶業市民会館フォレストホールは,終演後,愛知県芸術劇場コンサートホールのように,狭いエスカレータに乗る必要もないし,NHKホールのように,代々木公園や渋谷の雑踏をかきわけることもなく,帰ることができます。これがいい。
 日本特殊陶業市民会館フォレストホールは,近く建て替え工事をする計画があるそうです。しかし,そうなると,建て替えをしている間,ますます,名古屋でコンサートを聴く場所がなくなってしまうことでしょう。
 終演後,おいしいものを食べて帰宅しました。

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 紫式部公園に隣接して,紫式部と国府資料館「紫ゆかりの館」がありました。私は,来るまで,ここが「光る君へ 越前 大河ドラマ館」だと思い込んでいました。
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 「紫ゆかりの館」は,紫式部が越前国の国府の国司に任命された父とともに,この地で1年余りをすごしたことを知り理解を深めていただくために,2021年4月にオープンした資料館です。
 当館では,紫式部が過ごした時間を体験できる展示と,国府のころより脈々と生き続けている丹南地域の伝統工芸品の展示,販売をしていいます。
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 ということで,午前9時開館だったのですが,それよりも15分ほど前に入ることができたので,見学しました。なかなかすばらしい場所で,気に入りました。しかし,先に書いたように,ここが「光る君へ 越前 大河ドラマ館」だと思っていた私は,このとき,どうも違うなあ,と気づきました。そこで,係の人に聞いてみると,この場所から北に行ったところの武生中央公園に大河ドラマ館はある,ということでした。そこで,駐車場に戻って,急いで向かいました。何せ,この時点では,大河ドラマ館は混雑していると思っていたから,なるべく早く行きたかったのです。

 武生中央公園は,子供用の遊具施設や図書館などがある立派な施設でした。その一角に倉庫のような建物があって,大河ドラマ館はそこで開催されていました。午前9時を少し過ぎていたのですが,人気げがなく,入口が暗く,やっているのかな? と思ったくらいでした。
 中に入りました。この日来たのは,私が一番乗りということでした。混雑していたらいやだな,と思っていたのですが,予想に反して,うれしい誤算でした。その後,ぱらぱらと人が入ってきました。
 展示されているのは,これまでに見た大河ドラマ館と同じように,ドラマで実際に使って,お役御免になった小道具や衣装でした。人が少ないこともあって,とても楽しく見学することができて,大いに満足しました。係の人ともいろいろな話ができました。

 越前市は,2005年に武生市と今立郡今立町が合併してできた,人口8万人程度の都市です。
 合併にあたり,新たな市の名称を巡って,少数意見の「越前市」が選ばれたことに批判があるということです。そもそも,北隣に越前町があり,南隣に南越前町があり,まぎらわしいのです。というか,私は,武生市と今立郡今立町が合併というより,こういうのは,武生市に今立郡今立町が吸収されたと考えて,そのまま武生市でいいのでは? と思ってしまうのですが,何か事情があるのでしょうか。
 高知県にも,四万十町と四万十市という紛らわしいものがあります。これもまた,以前中村市だったところが四万十市になったものです。
 越前市のある場所は,古くから拓けた土地で,越の国(こしのくに=令制国への移行に際して,越後,越中,能登,加賀,越前と分割)の国府が置かれていました。国衙跡は現在発掘中ですが,国分寺や国分尼寺の場所は不明だそうです。いかに,この地が激動の歴史をおくったかがわかるようです。
 今回は,大河ドラマ館だけが目的だったので,町の観光はしませんでしたが,車内から見た感じでは,中心市街地は,歴史的遺産を継承した古い町並や建物が残り,白壁の蔵が立ち並ぶ「蔵の辻」とよばれる一角もあって,とても風流な感じがしました。その一方で,駅前の商店街はシャッター街化してしまっていて,おそらく,これが,この町の問題なのだろうと推察しました。
 のんびりしたところなので,今度は,このあたりで適当な宿を見つけて,越前ガニでも食べながら1泊してみたいと感じました。

 帰路,道の駅「越前たけふ」に寄って,昼食をとりました。
 来るときは早朝だったのでさほどでもなかったのですが,その後,名神高速道路が工事渋滞をはじめていたので,少し遠回りして,中部縦貫自動車道から,一度走ってみたいと思っていた九頭竜ダム湖畔の国道158号線で郡上白鳥へ抜け,東海北陸道を走って帰宅しました。後で地図で確かめると,徳山湖のある国道417号線を通って,揖斐川町へ抜けるほうが距離的には短いと思いました。この地域は冬は豪雪地帯ですが,この時期は快適に走れます。朝は曇っていたのですが,このころはとてもいい天気でした。
 楽しい半日の旅になりました。

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 今年2024年のNHK大河ドラマ「光る君へ」。
 はじめは,何だ,貴族が政権争いをしているだけのドラマじゃないか,以前放送された「平清盛」に比べて,画像がきれいすぎてリアル感に欠けるな,と思っていたのですが,それがまあ,おもしろいこと! 史実がほどんどないのをいいことに,何でもあり,やりたい放題であることもすばらしいし,漢詩や和歌や大鏡,小右記など,昔,高等学校で学んだ漢文や古文がいたるところに出てきて,それが効果的で,そしてまた,見ているほうの教養をためされているようで,愉快です。
 ドラマはこうでなくてはいけません。
 ということで,いよいよドラマの舞台が越前になることもあって,込み合う前がいいだろうと,2024年5月21日,越前市の「光る君へ 越前 大河ドラマ館」に行ってくることにしました。

 我が家から越前市までは,名神高速道路と北陸自動車道を走れは,2時間もかかりません。朝6時すぎに家を出ました。ゴールデンウィーク後の平日だからと思うのですが,高速道路はいたるところで工事をしていて,1車線が閉鎖されている箇所が多かったのですが,渋滞することもありませんでした。唯一の誤算は,天気予報では晴れだったのに,深く雲が垂れ込んでいたことでした。
 ゆっくり走って,午前8時過ぎには越前市に着きました。
 越前市には紫式部公園というものがあって,私は,その公園の一角に「光る君へ 越前 大河ドラマ館」があるものだと勘違いをしていました。そこで,公園の駐車場に車を停めて,大河ドラマ館が開館する前に紫式部公園を見学することにしました。実際は,「光る君へ 越前 大河ドラマ館」は別の場所だったのですが,そのことは次回書きます。

 紫式部公園は,大河ドラマで紫式部が主人公になるということとは関係なく,それ以前に越前市が町おこしで作ったもののようです。
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 紫式部公園は,1981年(昭和56)に都市計画の決定を行い着手された,紫式部がこの地を訪れたことを記念して、文化的歴史的公園として整備したもので,施設としては紫式部像・紫式部歌碑・釣殿・泉池・自由広場・藤棚などがある寝殿造庭園の公園です。
 文化勲章受章者の圓鍔勝三が制作した金色に輝く紫式部像や,総檜造りの釣殿を自由に見ることが出来ます。
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 観光で来る私のようなものには,すばらしい公園ですが,地元の人には単なる散歩広場のようなものです。しかし,こんなすばらしい公園で毎日散歩できたらいいなあ,と思いました。でも,維持費が大変そうです。
 気ままに紫式部公園を歩きました。
 紫式部公園には「金色の紫式部像が池に映える姿が鑑賞できる場所が1か所だけあるので探してみてください」とパンフレットに書かれていました。その場所で写した写真が2番目のものです。

 紫式部像のまわりに3つの紫式部の詠んだ歌碑がありました。
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●春なれど 白嶺の深雪 いや積り 解くべきほどの いつとなきかな
 「年が明けたら唐人を見にそちらへ参ります」と言っていた藤原宣孝が,年が明け「春になれば氷さえ解けるもの。あなたの心もとけるものだとどうにか教えてあげたい」と言ってきたことへの返歌で,「春になりましたが,白山の雪はますます積もって解けるのはいつのことかわかりません」(春になっても私のあなたに対する気持ちは解けません)と詠んだものです。
 藤原宣孝は,紫式部が帰京した後に結婚する相手です。紫式部が父である藤原為時に同行して越前に赴いたのは,藤原宣孝の求婚から逃げるためだったという説があるそうです。
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●ここにかく 日野の杉むら 埋む雪 小塩の松に けふやまがへる
 越前に下向した紫式部がはじめて迎えた冬のこと。初雪が降った日,日野山に積もった雪を眺めながら,都にある小塩山の松を思い出して詠んだ歌です。日野山の杉は雪が降って埋もれんばかり。都の小塩山の松にも降り積もっているのだろうか。
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●身のうさは 心のうちに したひきて いま九重に 思ひみだるる
 これは,時が過ぎ,夫の藤原宣孝と死別したのち,藤原道長の娘で一条天皇の中宮である藤原彰子に仕えるようになったときに詠んだ歌です。
 わが身の辛い思いは心の中に寄ってきて,今,宮中で心が幾重にも乱れることだ。
  ・・・・・・

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「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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 太宰治の足跡を訪ねて三鷹界隈を散策したのですが,その途中に,三鷹市山本有三記念館があったので,寄ってみました。
 山本有三記念館は,作家・山本有三が1936年(昭和11年)から1946年(昭和21年)まで家族とともに居住した大正末期竣工の洋館です。
 当初は,商社役員や大学教員を務めた実業家・清田龍之助の住宅として建てられたものでしたが,1931年(昭和6年)に実業界を退き,競売にかけられたものを,1936年(昭和11年)に購入したのです。ここで,山本有三は「路傍の石」を執筆しました。
 第2次世界大戦後,進駐軍に接収されたので,山本有三一家は転居しました。進駐軍の接収が解除されたあとは,国立国語研究所三鷹分室,東京都立教育研究所三鷹分室「有三青少年文庫」として使用され,1996年(平成8年)から,三鷹市山本有三記念館となり,2018年に改修工事が終わり,リニューアルオープンしました。

 代表作「路傍の石」は,昭和の戦前・戦中期に書かれた小説ですが,未完に終わりました。
 内容は
  ・・・・・・
 極貧の家に生れた愛川吾一は,貧しさゆえに幼くして奉公に出される。やがて母親の死を期に,ただ一人上京した彼は,苦労の末,見習いを経て文選工となってゆく。
 厳しい境遇におかれながらも純真さを失わず,経済的にも精神的にも自立した人間になろうと努力する吾一少年のひたむきな姿を描きます。
  ・・・・・・
というものです。
 最初,朝日新聞で1937年(昭和12年)6月まで連載されたのですが,軍国主義の空気が盛り上がってくる時代背景の中で,朝日新聞社が自粛的に中断しました。連載中断から約1年半後の1938年(昭和13年)から昭和15年(1940年)にかけて,主婦の友社で再開されたのですが,小説の中でひとりの社会主義者が出てきたことで当局の検閲にひっかかりました。
 第2次世界大戦後,小説の中に日清戦争や日露戦争のことや不平等条約改正があったことで,GHQの検閲が入って,結局,「路傍の石」を完結させることができなくなったわけです。

 山本有三記念館には,山本有三が愛用した品々が展示されていました。解説に,山本有三はつねに「いいものを少し」という思考がもとになっているとあって,そのこだわりが垣間見えました。おそらく,そうした完璧主義が「路傍の石」を未完に終わらせたのではないか,と思いました。
 しかし,「路傍の石」がもし完結して,その結末が,努力の末幸せになった,というのでは,小説の深さがなくなってしまうから,むしろ未完であったことがよかった,という指摘もあるそうです。

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 太宰治の足跡を訪ねて三鷹界隈を散策しています。
 風の散歩道に沿って歩いて,太宰治の最寄り駅である三鷹駅にもどりました。
 「新郎」では,三鷹駅前の広場が描かれています。
  ・・・・・・
 けさ,花を買って帰る途中,三鷹駅前の広場に,古風な馬車が客を待っているのを見た。明治,鹿鳴館のにおいがあった。私は,あまりの懐しさに,馭者に尋ねた。「この馬車は,どこへ行くのですか。」 「さあ,どこへでも。」老いた馭者は,あいそよく答えた。
  「新郎」
  ・・・・・・
 また,三鷹駅前郵便局は太宰治が原稿料受取りなどに利用した郵便局で,随筆「男女川と羽左衛門」では、横綱男女川を見たことをユーモラスに描いています。
  ・・・・・・
 やはり,自転車に乗って三鷹郵便局にやって来て,窓口を間違ったり等して顔から汗をだらだら流し,にこりともせず,ただ狼狽しているのである。
 私はそんな男女川の姿を眺め、ああ偉いやつだといつも思う。よっぽど出来た人である。必ずや誠実な男だ。
  「男女川と羽左衛門」
  ・・・・・・

 かつて,三鷹駅周辺には,次のような,太宰治に関わりのあった飲食店などが多くあったのですが,現在は,面影すら感じることができません。  
 現在永塚葬儀社である場所は,山崎富栄が2階に下宿していた野川家のあったところで,太宰治は,山崎富栄と親しくなった1947年(昭和22年)年9月ごろから,ここも仕事場にしていました。太宰治最後の日,ここからふたりは玉川上水へ向かったそうです。
 現在Brillia MITAKAである場所は,小料理屋千草のあったところで,ここの2階も仕事場にしていました。
 現在藤和シティスクエア三鷹駅前は,中鉢家のあったところで,1946年(昭和21年)に疎開から戻った太宰治は,ここに仕事場を借りて,「ヴィヨンの妻」などを執筆しました。「朝」はこの部屋が舞台です。
 太宰治が編集者との打ち合わせ場所にしていた馴染みの屋台・ウナギ若松屋は品川用水沿いにありました。
 サイゼリア三鷹駅南口店のある場所は田辺肉店離れの跡で,「斜陽」を書き継ぐために,ここのアパートを借りていました。この店を舞台にして書かれたのが「犯人」です。
 ムサシ三鷹ビルの東側の通りは太宰横丁という名前で,小さな飲食店が軒を並べているのですが,太宰治行きつけの小料理店「喜久屋」がこの通りにありました。また,太宰治なじみのすし屋・美登里家鮨は,「鷗」と随筆「酒ぎらい」に「三鷹駅近くのすし屋」として書かれています。

 三鷹駅を通り過ぎて,さらに西に線路沿いを進むと見えてくるのが,太宰治ファンには有名な跨線橋(三鷹跨線人道橋)です。跨線橋は,1929年(昭和4年)に旧鉄道省が現在の三鷹車両センターの前身三鷹電車庫を開設する際に人の往来を確保しようと建設したもので,全長93メートル,幅約3メートル,高さ約5メートル。三鷹駅の約400メートル西に,JR中央線などの線路を南北にまたぐように架けられています。太宰治が三鷹へ引っ越してきたのは,跨線橋の完成から10年後の1939年(昭和14)年でした。当時は高層ビルもなく,跨線橋は広々とした武蔵野の風景が見渡せる場所として,太宰治のお気に入りだったようです。
 JR中央線の上にかかるこの跨線橋は,老朽化のために解体,撤去されることになり,工事が昨年2023年12月からはじまったということは知っていたので,すでにもうないのかな,と思っていたのですが,足場はあるものの,竣工した当時の姿を今も何とか留めていました。しかし,すでに渡ることはできまず,半年ほど来るのが遅かったのが残念でした。

 三鷹駅に戻りました。
 駅前にあったCORALという商業ビルの5階の三鷹市美術ギャラリーに太宰治展示室があるというので,行ってみることにしました。2020年(令和2年)12月に開設されたのが,太宰治の自宅の一部を再現したこの展示室です。
 太宰治は1939年(昭和14年)に三鷹の住民となり,亡くなるまで過ごしました。自宅は約12坪半ほどと,妻子と暮らすには十分とはいえない質素な借家で,太宰治はこの家を,作品の中で「三鷹の此の小さい家」「三鷹の私の家」「三鷹下連雀の家」「三鷹の陋屋」「東京の私の草屋」「あばらや」などと表現しているそうです。また,「善蔵を思ふ」(昭和15年)、三畳間から見える夕陽の描写とともに再生と家庭への決意を誓う「東京八景」「十二月八日」など,多くの作品の舞台にもなりました。

 ビルを出ました。
 近くに,太宰治文学サロンがありました。ここは伊勢元酒店の跡で,2008年(平成20年)に,太宰治歿後60年と翌年の生誕100年を記念して,開設されたものです。館内には,山内祥史文庫」の蔵書があって,太宰珈琲や太宰の郷里・青森のリンゴジュースなど飲みながら時間を過ごすことができるという,すてきな空間でした。
 太宰治一家が利用していた伊勢元酒店は「十二月八日」に店名が登場します。
  ・・・・・・
 夕飯の仕度にとりかかっていたら,お隣りの奥さんがおいでになって,十二月の清酒の配給券が来ましたけど,隣組九軒で一升券六枚しか無い,どうしましょうという御相談であった。順番ではどうかしらとも思ったが,九軒みんな欲しいという事で,とうとう六升を九分する事にきめて,早速,瓶びんを集めて伊勢元に買いに行く。
  「十二月八日」
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 太宰治の足跡を訪ねて三鷹界隈を散策しています。
 禅林寺にある太宰治の墓に行ったので,このあとは,東側から反時計回りに回ることにしました。
 まず向かったのが,太宰治一家が通っていた銭湯・連雀湯跡ですが,ここは,現在ホンダのディーラーとなっているだけのところで,何の面影もありませんでした。
  ・・・・・・
 ひとりで夕飯をたべて,それから園子をおんぶして銭湯に行った。ああ,園子をお湯にいれるのが,私の生活で一ばん一ばん楽しい時だ。園子は,お湯が好きで,お湯にいれると,とてもおとなしい。お湯の中では,手足をちぢこめ,抱いている私の顔を,じっと見上げている。ちょっと,不安なような気もするのだろう。
  「十二月八日」
  ・・・・・・

 そして次が,新橋。
 入水自殺をした太宰治と山崎富栄は,6月19日に,このあたりで紐で結ばれて発見されたといいます。とはいえ,今は,橋のたもとに明星学園という学校があるだけで,ほかに何もありませんでした。
  ・・・・・・
 万助橋を過ぎ、もう、ここは井の頭公園の裏である。私は、なおも流れに沿うて、一心不乱に歩きつづける。この辺で、むかし松本訓導という優しい先生が、教え子を救おうとして、かえって自分が溺死なされた。川幅は、こんなに狭いが、ひどく深く、流れの力も強いという話である。
  「乞食学生」
  ・・・・・・

 そこから西に,平和通りまで引き返し,北に進路を変えます。平和通りは狭い路地で,あたりは,住んでみたいと思わせる新しい住宅街が続いていました。
 1939年(昭和14年)年9月から,亡くなる1948年(昭和23年)6月まで,疎開の一時期を除き,太宰治は,この場所に住んでいて,当時は,同じ造りの平屋の借家が3軒並んでいました。
 現在,かつて太宰治邸のあった場所から路地を挟んだ反対側にあるのが,三鷹市の和風文化施設の井心亭で,太宰治邸の「玄関の前の百日紅」が庭に移植されています。
  ・・・・・・
 朝に言い出し,お昼にはもう出発ということになりました。一刻も早く,家から出て行きたい様子でしたが,炎天つづきの東京にめずらしくその日,俄雨があり,夫は,リュックを背負い靴をはいて,玄関の式台に腰をおろし,とてもいらいらしているように顔をしかめながら,雨のやむのを待ち,ふいと一言,
「さるすべりは,これは,一年置きに咲くものかしら。」
と呟きました。
 玄関の前の百日紅は,ことしは花が咲きませんでした。
「そうなんでしょうね。」
 私もぼんやり答えました。
 それが,夫と交した最後の夫婦らしい親しい会話でございました。
 雨がやんで,夫は逃げるようにそそくさと出かけ,それから三日後に,あの諏訪湖心中の記事が新聞に小さく出ました。
  「おさん」
  ・・・・・・

 さらに北に進むと,玉川上水に至ります。右手に,三鷹市山本有三記念館があったので,そこに入りましたが,このことは,また,後日書きます。
 三鷹駅から南東に,玉川上水が続いています。今は,玉川上水に沿って,風の散歩道という美しい道路がありますが,ここが,太宰治終焉の地です。
 当時の玉川上水は流れが速く,地元の人たちは「人喰い川」とよんで恐れていたそうです。現在のような鉄柵もなかったから,そのまま用水に飛び込むことも可能だったことでしょう。
 太宰治と山崎富栄が入水をしたと思われる場所には,現在,玉鹿石が置かれています。太宰治を偲んで,故郷青森県五所川原市金木町産の玉鹿石を石碑としたということですが,目立たず,なかなか場所がわからず,一旦通り過ぎてしまいました。同じように,場所がわからず,戸惑っている人たちがいました。
  ・・・・・・
 私は,家の方角とは反対の,玉川上水の土堤のほうへ歩いていった。四月なかば,ひるごろの事である。頭を挙げて見ると,玉川上水は深くゆるゆると流れて,両岸の桜は,もう葉桜になっていて真青に茂り合い,青い枝葉が両側から覆いかぶさり,青葉のトンネルのようである。ひっそりしている。ああ,こんな小説が書きたい。こんな作品がいいのだ。なんの作意も無い。私は立ちどまって,なお,よく見ていたい誘惑を感じたが,自分の,だらしない感傷を恥ずかしく思い,その光るばかりの緑のトンネルを,ちらと見たばかりで,流れに沿うて土堤の上を,のろのろ歩きつづけた。だんだん歩調が早くなる。流れが,私をひきずるのだ。水は幽かに濁りながら,点々と,薄よごれた花びらを浮かべ,音も無く滑り流れている。
  「乞食学生」
  ・・・・・・

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 三鷹市は本当にいい街で,文化水準も高く,私は大好きです。もし,東京に住んでいたら,こんな街で暮らしたいものだと,いつも思っていました。
 2024年5月11日,今回は,太宰治ゆかりの地を訪ねるということで,JR中央線に乗って,三鷹駅に降り立ちました。まず,駅前にあった観光案内所で「みたか散策マップ」というパンフレットをもらいました。そして,そこに書かれた「太宰治の足跡コース」に従って,歩くことにしました。
 まずは,太宰治の墓のある禅林寺を訪ねなければ話になりません。
  ・・・・・・
 夕方,職場から帰った産業戦士たちが,その道場に立寄って,どたんばたんと稽古をしている。私は散歩の途中,その道場の窓の下に立ちどまり,背伸びしてそっと道場の内部を覗いてみる。実に壮烈なものである。私は、若い頑強の肉体を,生れてはじめて,胸の焼け焦げる程うらやましく思った。うなだれて,そのすぐ近くの禅林寺に行ってみる。この寺の裏には,森鴎外の墓がある。どういうわけで,鴎外の墓が,こんな東京府下の三鷹町にあるのか,私にはわからない。けれども,ここの墓地は清潔で,鴎外の文章の片影がある。私の汚い骨も,こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら,死後の救いがあるかも知れないと,ひそかに甘い空想をした日も無いではなかったが,今はもう,気持が畏縮してしまって,そんな空想など雲散霧消した。私には,そんな資格が無い。立派な口髭を生やしながら,酔漢を相手に敢然と格闘して縁先から墜落したほどの豪傑と,同じ墓地に眠る資格は私に無い。お前なんかは,墓地の択り好みなんて出来る身分ではないのだ。はっきりと,身の程を知らなければならぬ。私はその日,鴎外の端然たる黒い墓碑をちらと横目で見ただけで,あわてて帰宅したのである。
  「花吹雪」
  ・・・・・・

 森鷗外の墓が禅林寺にある理由はつぎのとおりです。
 1922年(大正11年)7月9日に永眠した森鴎外の遺骨は,森家が1872年(明治5年)上京後しばらくは向島の地に住居を構えていたことと旧主亀井家と関わりのある寺であったことなどから,墨田区向島の弘福寺に納められました。しかし,弘福寺が関東大震災で罹災したため,1927年(昭和2年)12月,同じ宗派の禅林寺に改葬されました。
 その禅林寺に,まさか,太宰治自身が眠るなどということは,夢にも思わなかったに違いありません。
 静かな寺でした。墓地のほぼ中央に太宰治の墓がありました。そして,森鴎外の墓はその斜めうしろにあって,その隣に,悪女といわれた妻・志げの墓もありました。私が訪れたときは,だれもいませんでしたが,頻繁に誰かが訪れている形跡がありました。
 太宰治の死後,美知子夫人が夫の気持ちを酌んでここに葬ったということです。自分とは別の女性と心中した男の墓をここに葬ったとは,何とできた女性なのか,と思いました。
 太宰治は,最初の妻・初代の浮気を知ったショックで自殺未遂を起こしたのちに離婚し,筆を絶っていました。心配した井伏鱒二が再婚相手として探し出したのが石原美知子でした。美知子と出会ってからの太宰治は,公私ともに健康を取り戻し,ユーモアと明るさにあふれた作品を書き連ねていきました。「東京八景」には,三鷹の自宅で妻に再起を誓う印象的な場面があります。
  ・・・・・・
 私は,夕陽の見える三畳間にあぐらをかいて,侘しい食事をしながら妻に言った。「僕は,こんな男だから出世も出来ないし,お金持にもならない。けれども,この家一つは何とかして守って行くつもりだ」その時に,ふと東京八景を思いついたのである。過去が,走馬燈のように胸の中で廻った。
  「東京八景」
  ・・・・・・

 美知子は,太宰治という芸術家を愛していたといわれ,太宰治のやりたい放題にやらかしていたということですが,まさか,自分を置いて,別の女性と心中をするとは思っていなかったことでしょう。
 太宰治の死の翌年1949年(昭和24年)6月19日,第1回の桜桃忌(おうとうき)が禅林寺で開かれました。桜桃忌という名は,太宰治と同郷の津軽の作家で,三鷹に住んでいた今官一によってつけられたものです。「桜桃」は死の直前に書かれた小説の題名で,6月のこの時季に北国に実る鮮紅色の宝石のような果実が,鮮烈な太宰治の生涯と珠玉の短編作家というイメージに最もふさわしいとして,友人たちの圧倒的支持を得たのです。
  ・・・・・・
 もう,仕事どころではない。自殺の事ばかり考えている。そうして,酒を飲む場所へまっすぐに行く。
「いらっしゃい」
「飲もう。きょうはまた,ばかに綺麗な縞を,…」
「わるくないでしょう? あなたの好く縞だと思っていたの」
「きょうは,夫婦喧嘩でね,陰にこもってやりきれねえんだ。飲もう。今夜は泊るぜ。だんぜん泊る」
 子供より親が大事,と思いたい。子供よりも,その親のほうが弱いのだ。
 桜桃が出た。
 私の家では,子供たちに,ぜいたくなものを食べさせない。子供たちは,桜桃など,見た事も無いかもしれない。食べさせたら,よろこぶだろう。父が持って帰ったら、よろこぶだろう。蔓を糸でつないで,首にかけると,桜桃は,珊瑚の首飾りのように見えるだろう。
 しかし,父は,大皿に盛られた桜桃を,極めてまずそうに食べては種を吐はき,食べては種を吐き,食べては種を吐き,そうして心の中で虚勢みたいに呟く言葉は,子供よりも親が大事。
  「桜桃」
  ・・・・・・

 美知子は,1912年(明治45年)に生まれ,1997年(平成9年)に亡くなりました。
 太宰治の作品に登場することも多く,「日本のまづしい家庭の主婦はどんな一日を送ったか」について書かれた「十二月八日」では,主婦のモデルが美知子で,主人は太宰治自身として登場します。
  ・・・・・・ 
 背後から,我が大君に召されえたあるう,と実に調子のはずれた歌をうたいながら,乱暴な足どりで歩いて来る男がある。ゴホンゴホンと二つ,特徴のある咳をしたので,私には,はっきりわかった。
「園子が難儀していますよ。」
 と私が言ったら, 「なあんだ。」と大きな声で言って,「お前たちには、信仰が無いから、こんな夜道にも難儀するのだ。僕には,信仰があるから,夜道もなお白昼の如しだね。ついて来い。」
 と,どんどん先に立って歩きました。
 どこまで正気なのか,本当に,呆れた主人であります。
  「十二月八日」
  ・・・・・・
 美知子は,太宰治の墓の隣,津島家の墓に眠っています。

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 私は,読書青年ではなかったし,太宰治は「走れメロス」「人間失格」くらいしか読んだことがありませんでした。そして,「人間失格」のイメージと入水自殺をしたという事実が強すぎて,入り込めませんでした。それが,なぜか,「富獄百景」の天下茶屋に惹かれて行ってみたり,青森県五所川原市金木の斜陽館が気になって足を運んでいるうちに,関心をもつようになってきました。それを決定的にしたのが「津軽」でした。

 まず,自分のために,太宰治の生涯についてまとめてみます。
  ・・・・・・
1909年(明治42年)6月19日 青森県北津軽郡金木村に生まれる。本名は津島修治。
1923年(大正12年)青森県立青森中学校に入学し,遠戚宅から通学。
1927年(昭和2年)官立(今の国立)弘前高等学校文科甲類に入学。
 弘前市内の藤田家に下宿。芸妓紅子(=小山初代)と知り合う。
1929年(昭和4年)下宿ではじめての自殺をはかる。
1930年(昭和5年)東京帝国大学仏文科に入学。東京市本郷区に下宿。
 銀座のカフェに勤める田辺あつみ(=田部シメ子)と鎌倉小動崎の海岸で薬物心中を図り,女は死亡。
1931年(昭和6年)小山初代と品川区で所帯をもつ。
1933年(昭和8年)井伏鱒二宅に近い杉並区天沼に転居。はじめて太宰治の名で作品を発表。
1935年(昭和10年)都新聞の入社試験に失敗し鎌倉で縊死を図るが未遂。大学を除籍される。
1937年(昭和12年)太宰治の義弟と初代の不義を知り,谷川温泉で心中未遂。初代と離別。
1938年(昭和13年)井伏鱒二が滞在する御坂峠の天下茶屋に赴く。
1939年(昭和14年)石原美知子と結婚式を挙げ、甲府市御崎町で新婚生活に入る。
 「富嶽百景」を発表。東京府北多摩郡三鷹村下連雀の家に転居。
1940年(昭和15年)「走れメロス」「乞食学生」を発表。
1941年(昭和16年)長女園子誕生。太田静子と恋に落ちる。「帰去来」刊行。
1944年(昭和19年)長男正樹誕生。「津軽」刊行。
1945年(昭和20年)妻子を連れて津軽の生家へ疎開。
1946年(昭和21年)疎開生活を終え妻子と共に三鷹の自宅に帰る。
1947年(昭和22年)次女里子誕生。山崎富栄と知り合う。
 太田静子(しずこ)との間に、治子誕生。「斜陽」刊行。
1948年(昭和23年)「人間失格」執筆。「桜桃」発表。
 6月13日夜半,山崎富栄と共に玉川上水へ身を投じ,6月19日39歳の誕生日,死体が発見される。
  ・・・・・・

 しかし,考えてみれば,私は,太宰治が命を絶った三鷹市の太宰治にちなんだところへは行ったことがなかったのです。私には,三鷹市は東京天文台しか頭にありませんでした。そこで,今回,三鷹市の太宰治に関したところを訪ねてみることにしました。そして,太宰治が小説で描いた三鷹の地を歩いてみようと思ったのでした。
  ・・・・・・
  結婚後,私にも,そんなに大きい間違いが無く,それから一年経って甲府の家を引きはらって,東京市外の三鷹町に,六畳,四畳半,三畳の家を借り,神妙に小説を書いて,二年後には女の子が生れた。北さんも中畑さんもよろこんで,立派な産衣を持って来て下さった。
 今は,北さんも中畑さんも,私に就いて,やや安心をしている様子で,以前のように,ちょいちょいおいでになって,あれこれ指図をなさるような事は無くなった。けれども,私自身は,以前と少しも変らず,やっぱり苦しい,せっぱつまった一日一日を送り迎えしているのであるから,北さん中畑さんが来なくなったのは,なんだか淋しいのである。来ていただきたいのである。昨年の夏,北さんが雨の中を長靴はいて,ひょっこりおいでになった。
 私は早速,三鷹の馴染みのトンカツ屋に案内した。そこの女のひとが,私たちのテエブルに寄って来て,私の事を先生と呼んだので,私は北さんの手前もあり甚だ具合いのわるい思いをした。
  「帰去来」
  ・・・・・・

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 772年2月28日に生まれ,846年8月14日に亡くなった白居易は唐の時代の詩人で,字の白楽天として知られています。
 居易は「礼記」の「君子居易以俟命,小人行険而僥倖」(君子は安全な所にいて運が巡ってくるのを待ち,小人は冒険をして幸いを求める)に由来し,楽天は「易」の「楽天知命,故不憂」(天の法則を楽しみ運命をわきまえる。だから憂えることがない)に由来します。
 安史の乱を背景とした玄宗皇帝と楊貴妃の悲恋を歌った「長恨歌」は高等学校で習いました。
 「新楽府」50編は,社会批判や風刺の意図をもち,唐代にみられたさまざまな社会現象や,それを対象にして,政治批判・社会批判をする文学と意識して作ったもので,目的は,聞く者(君,臣,民)に民衆の苦しみや世相を知らせ,特に,権力を握るものに深い戒めを示すことにある,とその序にあります。

 NHK大河ドラマ「光る君へ」は,昔も今も変わらぬ,権力争いをしているだけのドラマ,といってしまえば,身も蓋もありませんが,その中に,深い深い平安時代の文学芸術がこちょこちょと出てくるので,学校の古典の授業よりもお勉強になります。
 5月12日の放送でも,まひろが「新楽府」の中の「澗底松」(かんていのまつ)を写すシーンが話題となりました。また,のちに紫式部が宮中に出仕した際,藤原道長の娘の彰子に,この「新楽府」を教えていたことも「紫式部日記」に記されています。
  ・・・・・・
 読みし書などいひけむもの,目にもとどめずなりてはべりしに,いよいよかかること聞きはべりしかば,いかに人も伝へ聞きて憎むらむと,恥づかしさに,御屏風の上に書きたることをだに読まぬ顔をしはべりしを,宮の御前にて「文集」の所々読ませたまひなどして,さるさまのこと知ろしめさまほしげにおぼいたりしかば,いとしのびて人のさぶらはぬもののひまひまに,をととしの夏ごろより,「楽府」といふ書二巻をぞしどけなながら教へたてきこえさせてはべる,隠しはべり。
  「紫式部日記」
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 「澗底松」は以下のものです。
 私は,才能がありながら,それが世に知られぬという不憫さというより,そのほうが世に出て,人と争うよりずっと自由で幸せだと思ってしまうのですが…。
  ・・・・・・
有松百尺大十圍,生在澗底寒且卑。
澗深山險人路絕,老死不逢工度之。
天子明堂欠梁木,此求彼有兩不知。
誰喻蒼蒼造物意,但與之材不與地。
金張世祿原憲貧,牛衣寒賤貂蟬貴。
貂蟬與牛衣,高下雖有殊。
高者未必賢,下者未必愚。
君不見沉沉海底生珊瑚,歷歷天上種白榆。
  ・・
松有り百尺大なること十圍,生じて澗底じゅんていに在れば寒にして且かつ卑し。
澗たに深く山險けはしくして人路絶ゆ,老死するも工の之を度はかるに逢はず。
天子の明堂梁木を欠く,此に求め彼かしこに有れど兩つながら知らず。
誰か諭さとらむ蒼蒼たる造物の意,但ただ之に材を與へ地を與へず。
金張は世祿せいろく黄憲こうけんは賢,牛衣は寒賤にして貂蝉は貴なり。
貂蝉と牛衣と,高下殊なる有りと雖いへども。
高き者未だ必ずしも賢ならず,下なる者未だ必ずしも愚ならず。
君見ずや沈沈たる海底に珊瑚を生じ,歴歴たる天上に白楡を種うるを。
  ・・
高さ百尺,幹回り十抱えもある松の大木が,寒く深い谷底で寂しく生えている。
谷は深く山は険しいので行く人もなく,老いて枯死しても良材を求める大工に逢うこともない。
天子は太廟を建てようと良質の梁材を探し求めるが,谷底に松の大木があるのに両者は互いに知らないままだ。
蒼蒼と広がる天たる創造主の意図を誰が知りよう,ただ大松に良い材質を与えながら良い適地を与えなかった。
愚者の金日磾や張湯は先祖のおかげで名族であったが,獣医の子の黄憲は賢者の評を得ただけ貧しい生涯を終えた。
卑賤の者は麻の牛衣を着て、高貴な者は貂蝉の冠をかぶる。
貂蝉と牛衣と,身に着ける者の間には身分の違いはあるが。
身分の高い者が必ずしも賢者であるとは限らないし,身分の低いものが必ずしも愚者であるとも限らない
諸君もご存知のように人の目が届かぬ深い海底に美しい珊瑚が生じ,光り輝く天上のような宮中にはありふれた白楡の木が植えられている。
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無題

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「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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 2024年3月26日から5月19日まで,東京藝術大学大学美術館で「大吉原展 江戸アメイヂング」が開催されていて,見にいきたいと思いながらその機会もなく,あと1週間で終わってしまうという5月12日にその機会ができたので,ようやく行くことができました。
 展示内容は
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●第一部
 入門編として,吉原の文化,しきたり,生活などを,厳選した浮世絵作品や映像を交えてわかりやすく解説します。
●第二部
 風俗画や美人画を中心に,吉原約250 年の歴史をたどります。
●第三部
 展示室全体で吉原の五丁町を演出します。浮世絵を中心に工芸品や模型も交えてテーマごとに作品を展示,吉原独自の年中行事をめぐりながら,遊女のファッション,芸者たちの芸能活動などを知ることができます。
●江戸風俗人形
 辻村寿三郎の人形が並ぶ吉原の妓楼の立体模型で遊女の生活を紹介します。
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というものです。
 人の営みは,それを「文化」というならば,そこには,美しい服を作りたい,着てみたい,人気者になりたい,といった欲求から,さまざまな「芸術」が生まれることになります。そこで,それがどのような動機で作られたものであるにせよ,そこで生まれた「芸術」は人類の財産として残るわけだから,それを展示しよう,というのが,この展覧会の目的だったのでしょう。そして,人は,自分の知らないことを知りたい,という好奇心があるので,このような展覧会に多くの人が訪れるのでしょう。
 私は,この展覧会に限らず,これまで訪れたことがなかった東京芸術大学大学美術館に行くことができたこともあって,その好奇心が満たされたことに満足しました。展覧会を見終えてから,館内のレストランで,おいしく昼食をとりました。

 「大吉原展 江戸アメイヂング」は,開催前から,大いに議論をよんだそうです。曰く
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 公式サイトに書かれたステートメント「-江戸吉原の約250年にわたる文化・芸術を美術を通して検証-仕掛けられた虚構の世界を約250件の作品で紹介する」に対して,「ここで女性たちが何をさせられていたかがこれでもかとぼやかされた序文と概要。遊園地みたい。性的搾取の負を歴史を無視・軽視し,売買春の舞台となった吉原をはじめとする遊廓を美化するものだ」。
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 要するに,展覧会から。吉原という地のもつ「歴史の影の部分」を切り離してしまったことが問題だったようです。「江戸アメイヂング」というサブタイトルもよくない,と。しかし,この展覧会は,吉原をテーマとして残された「芸術の展示」を目的とするものなので,「歴史の影の部分」を取り上げることとは,また,別である,という意見もあり,難しい問題です。

 当時吉原遊廓があった場所,現在の千束四丁目に吉原弁財天があって,その案内板「花吉原名残碑」(はなのよしわらなごりのひ)には,吉原の「歴史の影の部分」についてはまったく触れられずに「新吉原は江戸で有数の遊興地として繁栄を極め,華麗な江戸文化の一翼をにない,幾多の歴史を刻んだが」と書かれてありますし,また,日本各地にあった遊廓に関連した遺構が観光と結びつくことで,「歴史の影の部分」と向き合うことよりも美化や不可視化が加速されている,といった指摘もされています。また,遊郭に限らず,佐渡金山,石見銀山などでも,過酷な鉱山労働や,見せしめのための処刑があったというような「歴史の影の部分」が存在したのにも関わらず,現在は,観光資源としての娯楽に重点が置かれていると指摘する人もいます。
 その一方で,戦争が科学を進歩させたように,こうした「歴史の影の部分」を利用することで,商業活動が成り立っていた,金儲けをして生きてきた,という人の営みも少なくないわけです。遊郭の周囲のさまざまな職業は遊郭があったがゆえに成り立っていたのだし,戦争のための武器を売って成り立っている会社も少なくありません。直接的にせよ,間接的にせよ,そのような「歴史の影の部分」から恩恵を被っている人が,このような展覧会で「歴史の影の部分」を語っていない,と批判することができるのでしょうか。
 歴史は,人間が行ってきたことをありのままに受け止めることをせず,都合のよいことだけを語り残すものです。そして,「歴史の影の部分」が葬り去られてしまうのです。そこで,そうした現実に真摯に向き合っていないといって,つねに,このような議論が起きるのでしょう。
 このことは,遊郭が存在しなければ生きていけない人がいた,という社会の仕組みのほうがむしろ問題でしょう。これは,人間社会のもつ,根源的な課題です。

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  「花吉原名残碑」
 吉原は,江戸における唯一の幕府公許の遊郭で,元和3年(1617年)葺屋町東隣(現中央区日本橋人形町付近)に開設した。吉原の名称は,植物の葭の生い茂る湿地を埋め立てて町を造成したことにより,はじめ葭原と称したのを,のちに縁起の良い文字にあらためたことによるという。
 明暦3年(1657年)の大火を契機に,幕府により吉原遊郭の郊外移転が実行され,同明暦3年(1657年)8月浅草千束村(現台東区千束)に移転した。これを「新吉原」と呼び移転前の遊郭を「元吉原」という。
 新吉原は江戸で有数の遊興地として繁栄を極め,華麗な江戸文化の一翼をにない,幾多の歴史を刻んだが,昭和33年(1958年)「売春防止法」の成立によって廃止された。
 その名残を記す当碑は,昭和35年(1960年)地域有志によって建てられたもので,碑文は共立女子大学教授で俳人,古川柳研究家の山路閑古による。
 昭和41年(1966年)の住居標示の変更まで新吉原江戸町,京町,角町,揚屋町などのゆかりの町名が残っていた。
  平成17年(2005年)3月 台東区教育委員会
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 2024年5月12日,NHK交響楽団の定期公演を聴いた次の日,東京交響楽団第720回定期演奏会を聴きに,サントリーホールに行きました。せっかく東京に行ったので,今回はコンサートのはしごです。
 指揮はジョナサン・ノットさん(Jonathan Nott)で,曲目は, 武満徹の「鳥は星形の庭に降りる」(A Flock Descends into the Pentagonal Garden), ベルク(Alban Maria Johannes Berg)の演奏会用アリア「ぶどう酒」(Der Wein),そして, マーラーの交響曲「大地の歌」(Das Lied von der Erde)でした。
 ソプラノは髙橋絵理さん,メゾソプラノはドロティア・ラングさん(Dorottya Láng),テノールはベンヤミン・ブルンスさん(Benjamin Bruns)でした。

 すでに書いたように,私は,2020年11月15日,ジョナサン・ノット指揮,東京交響楽団のコンサートを聴きに行く予定でした。おもな曲目は,ブルックナーの交響曲第6番でした。NHKEテレの「クラシック音楽館」で聴いたジョナサン・ノット指揮・東京交響楽団のブルックナーの交響曲第9番が忘れられず,チケットを購入したのはその年の1月で,とても楽しみにしていました。
 しかし,コロナ禍で,ジョナサン・ノットさんの来日が不可能となり,広上淳一指揮でベートヴェンの序曲「命名祝日」と交響曲第4番に変更となりました。フランス料理を楽しみに食べにいったら,天丼に変更になったようなものでした。
 時節柄,しかたがなかったとはいえ,がっかりでした。もし,はじめからこのプログラムだった行くこともなかったのに,と思いました。熱が冷めて,それ以降,東京交響楽団の演奏会に行くこともなくなりました。

 それからしばらくして,今回,ブルックナーではなく,マーラーではありましたが,私の好きな交響曲「大地の歌」でもあり,また,ジョナサン・ノットさんの指揮ということもあり,東京交響楽団の定期演奏会に足を運ぶことにしたのです。
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 1962年イギリス生まれのマエストロ・ジョナサン・ノットは,ドイツのフランクフルト歌劇場とヴィースバーデン・ヘッセン州立劇場で指揮者としてのキャリアをスタートし,ルツェルン交響楽団首席指揮者兼ルツェルン劇場音楽監督,アンサンブル・アンテルコンタンポランの音楽監督,ドイツ・バンベルク交響楽団の首席指揮者を経て,スイス・ロマンド管弦楽団の音楽監督を務めています。
 東京交響楽団では,2014年から音楽監督を務めています。
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 音楽監督とはいえ,これだけ頻繁に来日して指揮をすることに敬服するとともに,東京京響楽団は,この指揮者の魅力で支えられているのだろう,と思いました。

 武満徹の代表作のひとつ「鳥は星形の庭に降りる」はこれまで何度も聴いたことがありました。
 1977年に書かれた管弦楽作品で,サンフランシスコ交響楽団の委嘱で作曲されたものです。パリのポンピドゥー・センターで後頭部を星形に刈り上げたマルセル・デュシャン(Marcel Duchamp)を写真家のマン・レイ(Man Ray)が撮影した写真を見て喚起され,鳥の群れが五角形の庭に舞い降りる夢を見たという逸話が残る作品です。
 星形というのは,幾何学的にも最も美しいシンメトリーです。正5角形の内角は108度,そして,対角線を結ぶと星形になって,そこには多くの二等辺三角形が作られるのですが,武満徹は,そこにインスピレーションを得て,音楽で表現しようとしたのでしょう。美しい曲です。

 1930年に初演されたベルグの演奏会用アリア「ぶどう酒」ははじめて聴きました。
 詩はシャルル・ボードレール(Charles-Pierre Baudelaire)の詩集「悪の華」(Les Fleurs du mal)をドイツの詩人シュテファン・ゲオルゲ(Stefan Anton George)がドイツ語訳したものから取られています。ぶどう酒は,シャルル・ボードレールの人生そのものの一部をなしていました。ぶどう酒は確かに酒精ですが,それは人に生きる力をもたらす特別の飲み物,「命の水」(eau de vie)。この詩は,シャルル・ボードレールの熱い気持ちが込められているのです。
 ということで,ぶどう酒は単なるお酒ではなく,もっと官能的な飲み物だとシャルル・ボードレールは自分に酔っているわけです。大人の歌です。

 そして,最後がマーラーの交響曲「大地の歌」。
 この曲については,すでに書いているので,ここでは触れません。それより,私がこの曲に浸れるかどうかは,私自身の精神状態に寄るところが多いわけで,はたして今回はどうだったでしょうか?
  ・・
 曲の途中で,1階席中央にいた観客のひとりが具合が悪くなって,係員がその処理をしていて,若干ざわついたのですが,ステージ上では何事もないように,集中して曲が続きました。そして,そんなハプニングをものともせず,会場につめかけた観客も次第にのめりこんでいきました。
 メゾソプラノがすばらしく,最後は,圧巻の終曲を迎えました。至福な時間でした。
  ・・・・・・
 Die liebe Erde allüberall Blüht auf im Lenz, Ewig... ewig...
 春になれば花は咲き新たな緑は萌えてくる,永遠に…永遠に…
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 私には,前の日にNHK交響楽団の定期公演で聴いたレスピーギより,マーラーのほうがいいです。そして,マーラーの交響曲で最高傑作だと思っている「大地の歌」だったことが最高でした。
 こうして,東京京楽団の演奏会で2020年に味わうことになってしまった期待外れの天丼が,やっと,念願の極上のフランス料理に代わりました。

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 2024年5月11日,NHK交響楽団第2010回 定期公演 Aプログラムを聴きました。
 4月の定期公演は,天童市の人間将棋に行ったので,パスしましたが,このときのメインプログラムはブラームスの交響曲第1番でした。風のたよりでは,何がしかのことが起き,賛否両論だったということなので,聴いてみたかったな,と少し思いました。
 今回の指揮はファビオ・ルイージ(Fabio Luisi)さん,曲目は,パンフィリ(Riccardo Panfili)の「戦いに生きて」(Abitare la battaglia)の日本初演と,「ローマ三部作」であるレスピーギ(Ottorino Respighi)の交響詩「ローマの松」(Pini di Roma)「ローマの噴水」(Fontane di Roma)「ローマの祭り」(Feste Romane)でした。

 イタリア中部の都市テルニに生まれたパンフィリの管弦楽曲「戦いに生きて」は,2017年にフィレンツェ5月音楽祭管弦楽団の委嘱で作曲され,ファビオ・ルイージの指揮で世界初演されたものです。
  ・・・・・・
 弦楽器の弱音によるかすかな響きに雫を落とすようなハープの音からはじまり,曲が進むにつれて時折襲う激しい音の波やティンパニの悍ましいほどの厳しい刻みが「戦い」をイメージさせ,厳選された音の集積によって私たちを包み込む響きの美しさとその和声的な美から滲み出る秘めたる意志,そして,最後に悲壮的な美がもたらされる。
  ・・・・・・
という曲だそうです。
 私には,「戦い」が終わった安らぎよりも,敗北感としか思えませんでしたが…。救いがない曲でした。こういう,はじめて聴く曲をどう受け入れるのか,いまもって私はよくわかりません。事前にYouTubeなどから探して聴きこんでくるほうがいいのか,そういう予備知識なしで初対面で聴くのがいいのか…,いつも困るのです。そして,どう受け止めればいいのかわからぬまま,消化不良で終わってしまいます。そして,音楽を聴くということがどういうことなのか,音楽を楽しむというより,忍耐をためされているのだろうか,と考えてしまいます。はたして,演奏する人たちはどう思っているのでしょうか。

 さて,今回のメインである「ローマ三部作」です。
 ボローニャ生まれのレスピーギは,1913年にローマに移住し、この地を活動の拠点とし,「ローマ三部作」とよばれる「ローマの噴水」を1916年に,「ローマの松」を1924年に、「ローマの祭り」を1928年に作曲しました。
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●「ローマの松」
 ローマの4つの歴史的名所に立つ松を主題とします。何世紀も生き続ける松の木を前に,古代ローマへと想像の羽は広がり,荘厳な古代世界が音楽によって表現されるというものです。
 〈ボルゲーゼ荘の松〉では,17世紀初頭に建造されたボルゲーゼ荘の庭園で子供たちが遊んでいる様子を,チェレスタ,ハープ,ピアノを加えた輝かしい響きで描きます。
 〈カタコンブ付近の松〉では,古代ローマで迫害された初期キリスト教徒の地下墓所であるカタコンブから聞こえてくる祈りの歌を,グレゴリオ聖歌に由来する旋律を用いて表現します。
 ピアノの分散和音に続くクラリネットの旋律で幕を開ける〈ジャニコロの松〉では,ローマの街を一望できるジャニコロの丘に立つ松が月明かりに浮かび上がり,幻想的な響きの中から,最後にナイチンゲールのさえずりが聞こえてきます。
 夜明けのアッピア街道に立つ松を表す〈アッピア街道の松〉では,低い弱音の刻みの中から,イングリッシュ・ホルンの異国的旋律が漂い,古代ローマの世界に入り込んでいきます。街道を行進する古代ローマ軍が次第に近づき通過していく様が,オルガンやバンダとして指定された金管楽器の堂々とした響きによって蘇るのです。
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●「ローマの噴水」
 夜明けから夕暮れまで刻々と変化する日の光を反映した水の幻想的美しさを表しているローマの噴水に施された神々の彫刻が,水と一体となって想像の世界を広げていきます。古い書法と前衛の融合した響きによって,ローマの4つの噴水を表現します。
 〈夜明けのジュリアの谷の噴水〉では,夜明けの冷たく湿った霧のなかを羊の群れが通り過ぎる牧歌的情景を表します。
 〈朝のトリトンの噴水〉では,ホルンのファンファーレにはじまり、この噴水を飾るトリトンの像が、朝日のなか、水の精ナイアデスと水しぶきを浴びて踊り出します。
 〈昼のトレヴィの噴水〉では,ネプチューンの戦車が通過する勇ましさが描かれます。
 〈たそがれのメディチ荘の噴水〉では,夕暮れどきの穏やかな自然の音と噴水や鐘の音が溶け合う感覚的な美を映し出します。
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●「ローマの祭り」
 ローマの特徴的な4つの祭りを時代を自在に行き来して劇的に描写した作品です。キリスト教と関わりの深い「祭り」の音楽は,アメリカ的な趣味が反映されています。
 〈チルチェンセス〉では,古代ローマの皇帝ネロの時代の,猛獣と人間が見世物として決闘した残酷な祭りを描写します。
 50年ごとに行われるカトリックの聖年祭〈50年祭〉では,巡礼者たちがローマを眼前にしたときの感慨を賛歌の旋律も援用して表現します。
 秋のぶどうの収穫を祝う〈10月祭〉では,前半にホルン,後半でマンドリンによるセレナーデなどの楽器の独奏が華を添えます。
 〈主顕祭〉では,主顕祭前夜の祭りの賑やかさを管弦楽法を尽くして描きます。
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 当初発表になった曲順は「ローマの噴水」「ローマの松」「ローマの祭り」だったのですが,「ローマの松」「ローマの噴水」「ローマの祭り」に変更になりました。これは,前半の時間と後半の時間のバランスを考えてのことだったように思います。
 多くの人が語るように,「ローマの松」が「ローマ三部作」の中で最も充実した曲だといわれています。私もこれまではそう思っていたのですが,今回,実際の演奏を聴いてみたら,「ローマの松」は金管楽器の音が派手すぎて,むしろ,地味だと感じていた「ローマの噴水」が一番いいなあと思いました。「ローマの祭り」に至っては,単なる映画音楽です。実際,「ローマの祭り」を作曲していた当時のレスピーギはアメリカの映画音楽を意識していたということです。とはいえ,「ローマの祭り」で終わるのが,もっとも観客のノリがいいでしょう。特に,ブラボーおじさんには…。
 いずれにしても,私は,リヒャルト・シュトラウスの「アルプス交響曲」とか今回聴いた「ローマ三部作」のような,こういった写実主義的な曲のよさがよくわかりません。こころに響かないのです。ということで,私の好みだけで,今回の定期公演は,きっと空いているだろう,と思ったのですが,さにあらず。「ローマ三部作」というのは,すごく人気があるようで,満員でした。こうしたお祭りの出囃子のような音楽が好き,という人が多いんだなあ,というのが驚きでした。
 いつもはだれもいない私の周りも,はじめて聴きにきた,というような人が大勢座っていました。リズミカルなところでは体を躍らせたり,本人なりに楽しんでいるようでしたが,私は,クラシック音楽の演奏会では,そういうのは好ましいとは思えません。ブルックナーやマーラーを取り上げる演奏会とは,客層が違うのだなあ,と感じました。

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 元善光寺を出て,中央自動車道に入りました。この日は木曽駒高原のゲストハウスに1年ぶりに行くことになっていたのですが,まだ時間が早かったので,松本城に寄ってみようと思いました。松本城はずっと昔に行ったことがあるだけでした。しかし,松本城に着いてみると,駐車場はどこもいっぱいで,すごい人でした。いくら春休みの時期とはいえ,これには驚きました。そんな人混みの中に行きたくなかったので,松本城はあきらめて,そのまま木曽駒高原に行きました。

 私が,毎年のように木曽駒高原に行くのは,満点の星を見るのが目的でした。この場所は閉鎖されたスキー場にあって,人もすくなく,のんびりできるのが魅力でした。この日も天気がよく,満点の星を見ることができました。
 しかし,さびれていたゲレンデは,オートキャンプ場に変身していて,これまで人がいないことが魅力だったのに,平日とはいえ,人と車だらけでした。私がいつも星の写真を撮っていた場所も,車が行きかうようになりました。
 ここももうだめだな,とがっかりました。

 その翌日,4月2日。特に行きたいところもなかったので,どうしようなと思ったのですが,御岳山がきれいだったので,開田高原を通って,そのまま西へ行き,これまで走ったことのない道を,下呂市,郡上市と経由して帰ることにしました。
 途中,鈴蘭高原とか和良町とか,知らなかったところを通りました。いろんなところがあるのだなあと思いました。
 今回の旅は,「秘境駅」を巡るという目的だけで,あとは,何の計画もなく過ごしたのですが,それはそれでおもしろいものになりました。

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 「天空の里ビーポイント」から下りて駐車場に戻りました。
 この先は,飯田市を経由して,木曽駒高原に行くことにしました。
 国道152号線をさらに北上していくと,右手に「平成おちんの神」というものがあったので,なんじゃこれは? ということで,寄ってみました。
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 現地の案内看板によると,この蛇が住むといわれる蛇岩は,1868年(明治元年)の豪雨で沢を転がって落ちてきたもので,直下にある上村川までもう少しのところで止まったことから落ちないということばの飯田弁で「おちん岩」とよばれていたということです。
 この岩の前に,2年ほど前から祀られるようになった「平成おちんの神」。
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 かつて,お神酒を供えないと無事に通れないといわれた場所だった蛇岩。この岩の前に祀ったのが「おちんの神」です。しかし,実は,「おちんの神様」は,ここの地主さんが,工事の解体で出たゴミの中から出てきたものをきれいに洗って会社に置いたら,来る人がおもしろがって触ったり,賽銭箱を置いたらそこに賽銭が結構入ったりしていた,という代物です。
 とはいえ,会社に置いてあったころ,掃除係の人が病気になって,もう来られなくなるといってこの神様をきれいに拭いて力をもらったら,余命まで告げられていた病気が治ってしまったということから,神がかりの岩に昇格したわけです。これだけのものでした,

 どこかで昼食をと思いながら,国道152号線をさらにさらに北上していくと,そば処「村の茶屋」という店があったので,入りました。まだ,お昼時には少し早かったので,ほかにお客さんはいませんでしたが,私には,これが落ち着きます。 私は,旅をしているとき,こういうのにもっとも幸せを感じるのですが,なかなかこうしたお店がないのです。
 そば御前というものを注文して,おいしくいただきました。

 そば処「村の茶屋」の先,国道152号線は,やがて通行止めになってしまいます。その先,北に行こうとすると,険しい林道を走らなければなりません。
 しかし,その手前で西に向かって,建設中の三遠南信自動車道が通行できるようになっていて,飯田市につながっています。ただし,三遠南信自動車道は途中までしか通行ができず,その先は,これもまた,険しい県道251号線を通る必要があります。

 南信濃を走っていると,建設が難航している三遠南信自動車道がところどころ開通して通行できるようになっていたり,その反対に,一般道が災害などで通行止めになっていたりと,どこを走ればいいのかわならなくなります。今回も,この道路で正しいのかな,と疑心暗鬼になりながら,何とか,飯田市までたどり着きました。

 飯田市といって,思い出したことがあります。それは,飯田市には有名な元善光寺があるのですが,これまで,そこに行ったことがないということでした。そこで,今回,行ってみることにしました。
 元善光寺に向かって走っているのですが,元善光寺という道路標示はなく,座光寺とありました。私は,元善光寺に向かって走ってるのに,どうして座光寺? と思いました。
 実は,座光寺というのは寺のことではなく,元善光寺のある場所の地名でした。
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 座光寺とよばれる場所は,1万年以上前から人が住んでいたところなので,史跡が数多く存在しています。また,律令制では,ここに,伊那郡の役所である郡衙(ぐんが)が置かれていました。郡衙というのは政治の中心のことですが,文化の中心地でもありました。当時,近くには,座光寺という地名のもとになった寂光寺(現在は廃寺)もありました。
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 広い駐車場があったので,車を停めました。座光寺が寺のことだと思っていた私は,この駐車場は座光寺の駐車場だとばかり思っていましたが,寺だと思った建物は,旧座光寺麻績学校校舎(おみがっこうこうしゃ)でした。
 麻績学校校舎は,1873年(明治6年)に開校した,現在残っている学校校舎としては県内最古のものです。校舎の1階は人形芝居や歌舞伎を行うための舞台で,2階が学校の校舎として使うために造られた建物です。
 どうして学校に舞台があるの? と思うのですが,それは,次のような理由からでした。
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 今のような娯楽が少なかった時代,この地に住む庶民が夢中になったのは歌舞伎や人形浄瑠璃だったので,座光寺では,歌舞伎舞台を造ることが村中の願いでした。しかし,当時の座光寺は、天竜川の治水対策の費用が負担となっていて,舞台を建設することができませんでした。
 1872年(明治5年)明治政府が「学制」を発布し,学校建設をすすめました。座光寺では元善光寺を学校代わりに使っていましたが,手狭なために,新たに学校を建設する機運が高まり,この機に学校と舞台と両方を建てることにして,歌舞伎舞台としても使える学校を造ったのです。
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 そんな経緯など知らず,私は単に元善光寺を訪ねただけだったのに,旧座光寺麻績学校校舎にあった満開の桜に魅了されていました。ここには,石塚桜と舞台桜という,有名な2本の桜の木があるということなのですが,そんなことを全く知らなかった私は,偶然,そんな有名な桜の満開時期に遭遇したということになります。
 麻績神社の石の鳥居をくぐり,150メートルほど坂を上がると,城のような石垣があって,階段を上がると,旧座光寺麻績学校校舎に出ました。旧座光寺麻績学校校舎の城のような石垣の階段を上ったところにあるのが舞台桜。その手前左側にある古墳の上に咲くのが石塚桜です。
 石塚桜は,推定樹齢250年で,種類はしだれ彼岸です。樹高は15メートルと高く,古墳を覆うように枝を垂らしています。
 舞台桜は,花びらの枚数が花ごとに違う珍しい桜で,2005年(平成17年)に新種と断定され「オミノサトブタイザクラ」と品種登録されたものです。こんもりと盛られた土の上に幹が半分欠けながらも,太さが4メートルある桜が太い根で踏ん張り,添え木をあてられながらも四方八方に太い枝を張り巡らせています。
 
 そこから歩いて元善光寺に行きました。
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 元善光寺は,今から1400年ほど前の601年(推古天皇10年)に,本多善光(ほんだよしみつ)が建立した寺です。国司の供で奈良の都へ出かけ本多た善光が,難波の堀に沈んでいた一光三尊の仏像を拾い,如来のお告げに従って,信州麻績(おみ)の里の自宅へ持ち帰ったのがはじまりといわれています。
 その後,ふたたび如来のお告げで仏像が長野に移されることになった際,本多善光は自分の名前をとって新しい寺を「善光寺」,麻績の里に元々あった寺を「元善光寺」と名づけました。長野市の善光寺仏像は「えんぶだごん」という金属でできていて,元善光寺の仏像は,本多善光が木彫で同じ形の仏像を作り残したといわれていますが,秘仏のため見た人はいません。
  ・・・・・・

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 「龍泉閣」で1泊したのち朝食を済ませ,今日は,木曽駒高原まで行って行きつけのペンションに宿泊します。そこで,せっかくここまで来たのだから,どういう経路で木曽駒高原まで走ろうかと考えて思いついたのが,富山村(とみやまむら)でした。
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 富山村は愛知県北設楽郡にあった「離島以外の市町村の中で最も人口が少ない村」で,2005年(平成17年)の人口は218人でした。
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 しかし,現在は,豊根村へ編入されたので,「離島以外の市町村の中で最も人口が少ない村」ではなくなってしまったのですが,愛知県の最も北東にあって,あえて行こう思わなければ,行くこともないところなので,これもまた,好奇心だけで,行ってみようと思ったわけです。
 地図で見ると,平岡から県道1号線をひたすら南に天竜川に沿って走れば行くことができそうでした。要するに,飯田線が天竜川の東岸を走り,西岸を県道1号線が走っているわけですが,県道1号線もまた「酷道」に匹敵する道路でした。
 以前,日本3大酷道のことを書いたことがあります。中でも,紀伊半島を走る国道425号線は知らずに走ってえらい目にあったし,四国を走る国道439号線は覚悟して走ったのですが,この道も同じようなものでした。それと同等のものでした。
 やっと到着した旧富山村でしたが,こういうところだったのか,というだけの感想でした。カフェの1軒もないし,見晴らしのいい展望台もありませんでした。何が楽しみでこういうところで暮らしているのだろう? と思いました。

 次に向ったのが「天空の里」でした。
 南信濃のパンフレットを見ていたら
  ・・・・・・
 遠山郷に下栗の里があって,その集落は「天空の里」とよばれています。それは,山の上の展望台から集落を見下ろすと,まさに,集落が天空にあるように見えるからです。
  ・・・・・・
とあって,それが,ものすごく魅力的に思えたからです。
 それにしても,遠山郷って,どこなのだろう? 「天空の里」って何なのだろう?
 私は,それさえ知らず確かめず,GoogleMapsのいうままに走りました。しかしまあ,私はどこまでおバカなのでしょう。遠山郷へ行くには,国道1号線を再び平岡まで戻って,そこから北東に国道418号線を進み,さらに国道152号線を北上しなければならなかったのです。つまり,富山村は,木曽駒高原に行く途中だったわけでなく,単に平岡から往復しただけのことでした。
 とはいえ,旧富山村というところは,どこかに行く途中に立ち寄るようなところには位置していないので,こうでもしなけらば,行く機会などなかったことでしょう。
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 遠山郷という響きだけにつられて,そこに行こうと走っているのが道152号線でした。しかし,国道152号線は,昨年,これもまた,一度は行ってみたいと,わざわざやってきたしらびそ高原へ向かったときに走った道路でした。「天空の里」はしらびそ高原の途中にあったのです。
 国道152号線の走る南アルプスの麓のあたりは,かなりの難所です。
 道路を造るのも大変だし,観光をするのも並大抵なことではありません。しかし,だからこそ楽しいともいえます。おそらく,私が知らないだけで,まだまだ魅力的なところや,泊まって楽しい宿が存在するような気がします。
 何か惹かれるところがあるので,また,研究してみよう。

 遠山郷へ行く途中で見かけたのが,旧木沢小学校でした。来てね! と書かれた看板に導かれるように,寄ってみました。
  ・・・・・・
 遠山郷木沢地区は,上町,下栗,和田を結ぶ秋葉街道の要所に位置する宿場町で,かつては,遠山森林鉄道の起点として栄えました。
 その木沢地区の中心的存在であった木沢小学校は,廃校となって以来,昔ながらの木造校舎が保存され,住民手作りの展示施設,交流拠点として活用されています。
  ・・・・・・
 ということで,廃校になった小学校を村おこしの拠点として活用しているところでした。

 旧木沢小学校を出て,さらに北に走っていくと,やっと下栗の里の到着しました。
  ・・・・・・
 南アルプスの峰々が間近に迫る山岳地帯,標高800メートルから1,000メートルの地に浮かぶように広がるのが遠山郷にある下栗の里です。最大傾斜38度の急斜面に畑や民家が寄り添うようにあり,
その間をぬうようにつづら折りの坂道が走る独特の風景は,度見たら忘れることのできない絶景です。
  ・・・・・・
 つづら折りの坂道を抜けると,下栗の里駐車場に到着しました。しかし,展望台は,ここからさらに遊歩道を20分ほど歩く必要がありました。へこたれながらやっと到着したのが展望台「天空の里ビューポイント」でした。展望台やそこまでの道のりは住民が総出で整備したということです。
 やっとたどり着いたなあ,という感じでした。

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 平岡村,現在の天龍村平岡は,盆地に固まるように1,000人程度の人が住んでいます。このようなところにも集落があるのが私には驚きでした。しかし,主な産業である林業の長期凋落が原因で深刻な過疎化が進んでいるそうです。なお,村内には信号機がひとつも設置されていません。
  ・・・・・・
 天龍村は,東の熊伏山を最高峰にして,四囲が800メートル級の山に囲まれた純山村で,長野県で最も温暖な土地で,いち早く梅や桜が開花するので「信州に春を告げる村」をキャッチフレーズとしています。
  ・・・・・・
 確かに暖かく,桜まつりを目前に,すでに,花が咲きはじめていました。 
 平岡駅周辺にスーパーマーケットや図書館がありましたが,それ以外に何があるというものでもなく,私が思ったとおり,外食ができる場所も「龍泉閣」の1階にあるレストランだけでした。

 この日宿泊する「龍泉閣」,宿泊客は私を含めてふたりだったように思います。「龍泉閣」で最高だったのは,温泉でした。
  ・・・・・・
 「龍泉閣」の温泉は,同じ天龍村にある天龍温泉おきよめの湯から運ばれた天然温泉を利用しています。泉質はアルカリ性単純温泉で,肌触りが柔らかく,癖がなく肌への刺激が少ないのが特徴で,入浴すると肌が「すべすべ」する感触があるのが特徴です。
  ・・・・・・
 私が入浴したときは,ほかに人がおらず,温泉を独り占めでした。途中で入ってきた地元の人に聞くと,午後8時を過ぎると,多くの人でにぎわうよ,ということでした。温泉がこの村で一番の娯楽なのでしょう。

 ただし,問題だったのは夕食でした。
 「龍泉閣」の宿泊プランは,会席料理プラン,天龍御前プラン,ビジネスタイプのお料理プラン,そして,素泊まりとあるのですが,会席料理プラン,天龍御前プランは,2人以上限定だったので,私は,夕食と朝食の2食つきビジネスプランでした。しかし,ビジネスプランの夕食は,これだけ? というほどすごく量が少なく,こりゃ,失敗したな,と思いました。むしろ,朝食のほうが量が多く立派でした。
 素泊まりであれば,1階のレストランで好きなものを注文できたようですが,この晩,レストランは都合でお休みでした。とはいえ,この村には,ほかに食事ができるところもありません。せめて,幕の内弁当程度のものが手に入るのなら,とてもよい宿泊先となるのに…。 温泉がすばらしかっただけに,これが本当に残念でした。

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 「天竜ライン下り」では,つつじ橋というつり橋や,JR飯田線の鉄橋や,三遠南信自動車道の天龍峡大橋をくぐりました。
 つつじ橋を渡ってみたかったことと,天龍峡大橋は橋桁の下部に「そらさんぽ天龍峡」という遊歩道があって,人が歩いて渡れると聞いたので,ライン下りを終えたのち,行ってみることにしました。

 天竜峡を周回するように遊歩道があります。飯田線の天竜峡駅前にかかる姑射橋(こやきょう),つつじ橋,天龍峡大橋の「そらさんぽ天龍峡」を結び,天竜川の両岸を歩く1周1時間ほどのものです。1周するのは次回ということにして,今回は,つつじ橋と天龍峡大橋の「そらさんぽ天龍峡」を渡ることにしました。まず,天竜川東岸の龍角峯(りゅうかくほう)が見えるという天竜峡遊歩道展望台に行ってみました。近くに駐車場があったので,そこに車を停めて,天竜峡遊歩道展望台まで歩きました。
 確かに,天竜峡遊歩道展望台から龍角峯を見ることはできました。しかし,案内板にはここからつつじ橋に行くことができるようにあったのですが,通行止めでした。つまり,天竜峡遊歩道は,つつじ橋を渡ることはできないのでした。
 仕方がないので,車に戻り,姑射橋まで行って,そこで天竜川を渡り,天竜峡にそって西岸を南に進みました。駐車場があったので車を停めました。その駐車場から歩いてつつじ橋まで行くことができたのですが,その途中にあったのが,天竜峡温泉「ご湯っくり」という日帰り温泉でした。
 やっと,念願のつつじ橋に着きました。
 つつじ橋からは,奇岩巨岩の渓谷美を楽しむことができました。この季節,まだ桜には少し早かったのですが,ミツバツツジがきれいでした。おそらく,秋の紅葉や冬の雪景色はもっとすばらしいことでしょう。

 つつじ橋の対岸は,通行止めになっているわけだから,再びつつじ橋を戻ります。そして,次に,天龍峡大橋の「そらさんぽ天龍峡」を目指しました。天龍峡パーキングエリアがあったので,車を停めました。
 2008年(平成20年)に三遠南信自動車道の天竜峡ICが完成し,中央道飯田山本インターチェンジから天龍峡インターチェンジが開通しました。それまでは,中央自動車道の飯田インターチェンジから天竜峡までがわかりづらかったので,それが原因で観光客が減少してしまったそうですが,三遠南信自動車道がができたことで,観光客が戻ってきました。さらに,2019年(令和元年)天龍峡と千代地区を結ぶ天龍峡大橋が完成したので,天龍峡インターチェンジから龍江インターチェンジまでが開通し,それと同時に,天龍峡パーキングエリアという50台以上停められる駐車場ができました。それが私が停めた駐車場で,ここから天竜峡大橋「そらさんぽ」へ行くことができます。
 私は車で来ましたが,歩くと,天竜峡から「そらさんぽ」までは,約3キロメートルの遊歩道でつながっています。
 天龍峡大橋は,高さが80メートルもあるので,ずいぶんと高いところから天竜川を見渡すことができます。そこで,1時間に1本しか通らない飯田線を同時に写せたら, 飯田線と天竜川と天竜峡大橋,という素晴らしい写真になるのですが,それを待つ忍耐がありませんでした。

 このように,天竜峡は,飯田線の天竜峡駅付近はさびれ感満載でしたが,新しくできた駐車場付近はとても近代的でした。こうして,天竜峡が何モノなのかわかってくると,なかなかいいところだなあ,と思うようになったので,また次の機会を作って,今度は,適当な温泉宿でも探して,ゆっくりしてみたいと思ったことでした。

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 「天竜ライン下り」まで時間が少々あったので,付近を散策しましたが,気の利いたカフェの1軒もなく,さびれたところだなあ,というのが第一印象でした。やがて,「天竜ライン下り」に乗船しました。ほかに6,7人が乗り込みました。
  ・・・・・・
 天竜峡は,諏訪湖を水源とし伊那谷を貫いて太平洋に注ぐ天竜川の流域の中で,両岸に聳え立つ大岸壁や奇岩により山水画を彷彿とさせる奇勝絶景の名勝地です。1847年(弘蚊4年),漢学者の阪谷郎盧 (さかたにろうろ)が「天竜峡」と命名しました。
  ・・・・・・
ということですが,天竜峡には「天竜峡十勝」というものがあるそうです。これは,1882年(明治15年)に,書道家の日下部鳴鶴(くさかべめいかく)が天竜峡を訪れたとき,10の岩峰を選び,岩面に自筆の文字を刻んだもの,ということです。それらは
  ・・・・・・
●垂竿磯(すいかんき)
 仙人が苔むした岩に腰をおろし好んで釣り糸をたれたとされる。
●烏帽石(うぼうせき)
 仙人がこの幽峡で酒宴をし,酔って烏帽子を忘れ去ったところから出現した岩。
●歸鷹崖(きようがい)
 仙郷に住む仙人が鷹狩りをした際の岩。
●姑射橋(こやきょう)
 「荘子」に記されている不老不死の神仙郷藐姑射山にちなむ。
●烱々潭(けいけいたん)
 崖下の深渕には巨龍が棲み水底より烱々と光る龍の眼光が見られる。
●浴鶴厳(よくかくがん)
 水面で鶴の群がその縞模様の羽を美しく水浴させていたところ。
●仙牀磐(せんじょうばん)
 仙人たちが不老不死の金丹を練った場所と伝えられる千畳敷の岩。
●樵廡洞(しょうぶどう)
 仙人や樵人(そまびと=木こり)が雨露をしのいだとされる洞状の岩。
●龍角峯(りゅうかくほう)
 天竜川の深渕に棲む龍が天に昇ったとき,その崖に突然できた龍の化身。
●芙蓉洞(ふようどう)
 岩面の白い縞模様から富士山と富士の巻狩り場面の絵図が偲ばれたところ。
  ・・・・・・

 天竜ライン下りは,こうした岩を見ることができたり,鳥や魚を眺めたりしながら,天竜峡を眺める舟旅で,それなりにおもしろく,なかなかのものでした。
 しかし,それより,この天竜ライン下りを行っている会社の性質なのか,儲かっていないからなのか知らねど,チケット売り場も,舟に乗船する待合所も,舟を降りた唐笠港の建物も,さらには,舟自体も,整理整頓がまったくなされておらず,ゴミ屋敷みたいなのが,とても気になりました。
 天竜峡という観光地は,この「天竜ライン下り」が最大のウリだと思うのですが,これではいただけません。どのくらい集客力があるのかは知りませんが,観光地らしい清潔感や,プチリッチ感がほしいものです。
 川下りを終わると,船頭をしていた人が今度はドライバーになって,ワゴン車で乗船した場所まで送ってくれます。その途中の道すがら見えたのが「スーパーさかや」で,この家はタレントの峰竜太さんの実家だということでした。そしてまた,「スーパーさかや」はそれをウリにしているようでした。峰竜太というタレントさんがどれほどのものかは興味がないから知らねど,おらが村さの英雄なのでしょう。
 このように,天竜峡は,まったくあか抜けない,場末の観光地でした。しかし,私は,こういうの,きらいじゃありません。

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Big Sun Spot.

大きな黒点が見えます。
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 飯田線の「秘境駅」の代表格である小和田駅がどういうところか納得した私は,「秘境駅」巡りを終えて,平岡駅に戻ることにしました。
 小和田駅のホームに出ました。ホームには私ひとりでした。列車を待っていると,特急「伊那路」がが恵那峡駅方面に通過していきました。これが特急か,と思いました。日曜日,この列車に乗って,ビールでも飲みながら景色を見て,きままな日帰り旅行を楽しんでいる人も少なくありませんでした。特急が通過したころ,ひとりの若者がホームにやってきました。彼が小和田駅の駅舎に自転車を置ていた本人でした。彼が乗ろうとするのは私と同じ天竜峡行きの列車でした。
 やがて,列車が来たので乗り込み,私は彼と別れて,平岡駅で降りました。こうして,私の「秘境駅」巡りは,わずか半日で終わってしまいました。

 私は,今晩は,この平岡駅の併設する旅館「龍泉閣」に宿泊するのですが,まだお昼前。この先どうしようか? と思いました。とりあえず,1階にレストランがあったので,そこで昼食をとることにしました。平岡の町で外食ができるのは,この店くらいのものらしく,しかも,この日は日曜日だったので,店内は家族連れなどでほぼ満員でした。私が注文したのは,この地方の名物「清流丼」というヤマメの唐揚げがのった丼でした。ヤマメは1枚と2枚があったのですが,1枚で十分だと言われたので,そうしました。
 食事をしながら,隣にいた家族連れにこのあたりにどこか行くところがないか聞いてみると,天竜峡に行くといいと言われたので,午後は天竜峡へ行くことにしました。

 食事を終えてレストランを出て,車に乗り込みました。なお,「龍泉閣」には大きな駐車場があり,また,駅前にも無料駐車場があるので,平岡まで車で来ても,心配はありません。
 平岡からは,天竜川に沿って,県道1号線を北上することになるのですが,天竜峡までは車で約40分でした。飯田線の天竜峡駅が見えてきて,その手前に「天竜ライン下り」という大きな看板がありました。
  ・・・・・・
 天竜川は,長野県から愛知県,静岡県を経て太平洋へ注ぐ一級河川で,幹川流路延長は213キロメートル,流域面積は5,090平方キロメートルです。
 「続日本紀」に「麁玉河」「荒玉河」(あらたまがわ)とあり,平安時代には「広瀬川」,鎌倉時代には「天の中川」,その後「天竜川とよばれるようになったといいます。この名前がついたのは,天竜川の水の流れが速く,竜が天に昇っていくかのように見えるからとか,天竜川の流れ出る諏訪湖の近くにある諏訪大社に祭られている竜神から取ったからとかいうことだそうです。
  ・・・・・・
 天竜川の水は,飯田線の車内から見たときもそうでしたが,天竜峡から見ても,緑色に濁っていました。聞いてみると,いつもそうだということでした。雨が多いのも原因のひとつで,川は澄まないそうです。

 私は,これまで,天竜峡という名前だけは知っていましたが,それがどこのことをいうのかとらえどころがなく,これまで行ったことがありませんでした。天竜峡に川下りがあることも,知ってはいましたが,乗ったことはありませんでした。
  ・・・・・・
 天竜峡は,天竜川が切り開いた絶壁が続く渓谷で,新緑や紅葉による風光明媚な景色と天竜峡温泉がウリです。
 1975年に中央自動車道の飯田インターチェンジが供用開始され,また,このころ,昼神温泉の湧出もあり,天竜峡を訪れる観光客が増加しました。さらに,1989年の天竜峡温泉の湧出によって,観光客は60万人に達したが,それがピークで,現在は低迷しています。おそらく,リピーターがいないのでしょう。
 2008年に,三遠南信自動車道の部分開通にともなって天龍峡インターチェンジが供用開始となったことを機会として「天龍峡再生元年」と位置づけて「天龍峡百年再生プロジェクト」の開始が宣言され,「竜」の字を「龍」表記に戻す運動が進められています。
 また,2019年には,天龍峡大橋と橋桁下遊歩道「そらさんぽ天龍峡」が整備されました。
  ・・・・・・
 現在は,魅力ある観光地としての道半ば,というところだと見受けられました。
 まず,「天竜ライン下り」の看板のある場所を通り過ぎて,「あざれあ」という農産物直営所までいってソフトクリームを食べました。そして,せっかく来たので川下りをすることにして,「天竜ライン下り」という看板まで戻って,広いい駐車場に車を停めてチケットを購入して,乗舟することにしました。川下りのことは,次回書きます。

 ここからは,後日談です。
 帰宅後,天竜川の川下りに乗ってきたというと,多くの人が「天竜川の舟下りって,以前事故を起こしたでしょう」というので驚きました。どうりで,安全に留意としきりに歌っていた理由はそれだったのか,と思いました。私は,そんなことは何も知らなかったのです。そこで,調べてみました。
 私は,天竜川の川下りは,私が乗った「天竜ライン下り」だけかと思っていたのですが,実は,天竜川を下るアトラクションは,3種類あったのです。
●「遠州天竜舟下り」
 これが「以前事故を起こした」という川下りです。行われていた場所は,天竜峡から約80キロメートルも南で,天竜峡とは全く関係のないところでした。
 この船転覆死亡事故は,2011年8月17日に起きたもので,乗客など5人が死亡しました。この事故を機に,「遠州天竜舟下り」は廃止されました。
●「天竜ライン下り」
 私が利用したものです。飯田線の天竜峡駅からほど近い天竜峡温泉港から乗船して,50分の船旅を楽しみ,終点が飯田線の唐笠駅に接した唐笠港です。そこから送迎バスに乗って戻ります。
● 「天竜川和船下り」
 「天竜ライン下り」より上流,飯田線の天竜峡駅から徒歩40分程度歩いたリバーポート時又に集合して,まず,シャトルバスでリバーポート弁天まで行き,リバーポート時又まで約6キロメートルを35分かけて下るものです。
 コロナ禍以前は「天竜舟下り」というものがあったのですが,利用者が減り撤退し,新たに事業が引き継がれ,2023年春から「天竜川和船下り」の名で運航を再開しました。
 新しい和船は16人乗りで,全長約9メートルと以前のものより小型です。
 ホームページを見る限り,かなり魅力的に思えました。次の機会に利用してみたいものです。

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 どう表現すれば適格なのかわかりませんが,小和田駅は飯田線のほかの「秘境駅」とは異なり,見ものや話題が数多くある「飯田線の「秘境駅」はここだ!」という,いわば,「キングオブ秘境駅」をウリとする観光名所のようでした。
 駅舎から1本しかない坂道を1時間以上歩いていくと,最終的には塩沢集落に到着するということです。私は,1時間で戻ってこなくてはならないから,途中で引き返すことにして,歩きはじめました。
 まずあったのが,廃墟になった建物です。これは,かつて,小沢商店だったところのようでした。廃業から長い年月が経過していて損傷が激しいものでしたが,窓から内部を見ると,当時使われていたものがそのまま残されていました。
 また,ここでの最大の見もの? は,オート三輪「ミゼット」3台の廃車です。「ミゼット」は,ダイハツ工業が1957年(昭和32年)に販売したものです。おそらく,以前は,この場所までオート三輪が来ることができるほどの道路があったのでしょう。

 川に沿って,なだらかな遊歩道が続いていました。
 この川は,天竜川ですが,対岸には,かつて日本一小さい村といわれた富山村,現在の豊根村富山があります。豊根村富山,つまり,富山村のもよりの駅は,小和田駅のひとつ南の大嵐(おおぞれ)駅です。大嵐駅もまた,小和田駅と同じく,天竜川の対岸にあるのですが,大嵐駅と富山の集落とは長い橋が架かっているので,簡単に行くことができます。だから,小和田駅も,天竜川に橋さえあれば「秘境駅」ではなかったことでしょう。
 さて,道幅2メートルほどの遊歩道はコンクリートで舗装されていて歩くのに不便はありませんでした,進んでいくと,石積みの上に民家がありました。一見,今でも人が住んでいるように見えたのですが無人です。この民家は,かつて小和田駅を生活利用していた唯一の夫婦が暮らしていたということですが,近年,転居してしまいました。

 家屋を過ぎたところで山の中に入り,遊歩道も険しい山道となります。塩沢集落に行くには,ここを右側に沿って,山の稜線を行くのだそうですが,「この先崩土のために通行不可」とあって,行くことができませんでした。その代わり,左側に迂回路があるようでしたが,道があるのやらないのやらわからない状態でした。まだ時間の余裕はあったのですが,道に迷ったり,滑り落ちたりしたら大変なので,ここで断念して,引き返すことにしました。あるブログによれば,「この先崩土のために通行不可」でなかったころに,この先さらに山の稜線に沿って,さらに1時間以上かけてグングン登っていくと車道に出て,その先に塩沢集落があったということです。
 一度は行ってみたいものだ,という好奇心だけでやってきた,今回の飯田線「秘境駅」を巡る旅でしたが,率直にいって,何だこれだけのことか,というのが私の率直な感想です。

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 小和田駅着が午前10時11分でした。私は,小和田駅午前11時16分発の天竜峡駅行きに乗るので,この駅での滞在時間は1時間と少しと中途半端でした。何せ,ここから歩いていくことができる最も近い集落まで片道1時間強だから,行ってくることはできません。とはいえ,駅周辺だけでは,1時間あっても特にすることがないのです。
 仕方がないから,30分程度集落に向かって散策して,途中で戻ってくることにしました。

 ホームには「恋愛成就小和田」とありました。また,ホームから古びた駅舎に入ると,結婚式の写真がありました。さらに,駅舎から出て,少し下ると朽ちかけた展望台があって,そこには,だれも整備をしていないので汚くて座ることもできないハート形の椅子がありました。
 これらは,1993年(平成5年)現在の天皇が皇太子のとき,雅子さんとの結婚の折に,駅名が雅子さんの旧姓である小和田(おわだ)と同表記であるとして,恋愛成就にあやかろうとする人々で賑わったことからくるものです。当時,水窪町は,小和田駅の下にある広場で結婚式を開きたいカップルを募集し,挙式を行い,その結婚式を記念して設置されたものといいますが,そのままの状態なので,荒れるがままになっています。

 駅舎に新しい1台の折り畳み自転車がカバーに入れて置いてありました。おそらく,だれかがここに来て,自転車を置いて,散策しているようでした。しかし,それ以外には,人の空気はまったくありませんでした。
 これが噂の「秘境駅」か,と思いました。先に降りた金野駅とは異なり,趣と品格? がありました。しかし,私は,多くのブログに書かれているような最果てムードは感じませんでした。それは,これまで,私がアメリカのド田舎をドライブしたとき,これ以上に最果てを感じたところはたくさんあったし,ゴーストタウンも数多く見てきたからです。それに比べたら,列車を使えば簡単に来ることができるし,単に,今は人がいなくなって朽ちてしまった建物や機械が転がっている廃墟でしかありませんでした。

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☆☆☆☆☆☆
 2021年11月8日の白昼,月齢3.2の月が金星を隠すという金星食がありました。このときは天気が悪く,残念ながら見ることができませんでしたが,白昼の空に金星を見ることができるかどうか,という疑問が残りました。そこで,その翌日,天気がよかったので,白昼の金星が見られるかどうか挑戦してみた結果,肉眼でも見ることができることがわかりました。
 さて,2024年5月5日午前12時8分,今度は,火星食があるということでした。月齢は26.2,しかも,隠されるのが金星ではなく火星ということで,そんなものが見られるのかな? と思ったので,試してみることにしました。

 まず,午前7時15分ごろ,すでに太陽が昇って明るい空に,月が見られるのかを確かめてみました。 
 それが意外と簡単に見つかりました。双眼鏡で見つけると,今度は目を凝らせば,肉眼でも見られるのです。これには驚きました。月齢26.2が見られるなら,お昼間でも,ほぼ,月は見ることができるわけです。
 さて,火星食です。こちらはどうでしょうか。
 火星食が起きる20分ほど前,再び,月が見られるか,確かめてみました。やはり,簡単に月は見つかりました。これで,準備は完了,あとは火星食を待つだけとなりました。

 予報された時刻が近づいたので,シャッタースピードをいろいろと変えて,月を写しました。金星に比べて火星は暗いので,露出をかけなければならないのですが,そうすると空の明るさに負けてしまい,その塩梅がむずかしいのです。
 とにかく,写真を撮り終えて,後で,調べてみました。
 火星はなかなか判断が難しかったのですが,けっこう多くの写真の同じ位置にそれとわかる白い点が写っていました。
 そんなわけで,白昼の火星食も,何とか写せるということがわかって,私は,納得しました。
 それにしても,アストロアーツのウェブページにあったように,簡単に見つかるなら,さぞかし美しいのになあ,と思ったことでした。

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 金野駅に戻りました。午前9時22分に列車がやってきました。
 私は,平岡駅から乗って金野駅で降り,付近を散策したのち,20分後にやってきたこの列車に乗って引き返しています。さすがにこの時間に上りに乗る人はそうはいないとみえ,車内は空いていましたが,この列車にも車掌さんが乗っていました。
 ちなみに,上りというのは東京駅に向かうもので,下りはその反対だと,子供のころに習いましたが,飯田線の場合,上りは豊橋駅に向かうもので,下りが辰野駅なので,感覚的には反対のような気がします。実際は,都会に向かうほうを上りというそうで,飯田線の場合,都会=豊橋市なのでしょう。
 今回は,車内で車掌さんから購入した乗車券はそのまま手渡されました。

 やがて,平岡駅まで戻ってきました。私は,この駅では降りず,小和田駅まで行きます。
 飯田線は,平岡駅から南に小和田駅まで,鶯巣(うぐす)駅,伊那小沢(いなこざわ)駅,中井侍(なかいさむらい)駅とあります。どこも1日の乗車人数は数人程度でしかありません。この中で,小和田駅が秘境駅ランキング3位,中井侍駅が10位ということです。中でも,小和田駅は飯田線の中では秘境駅ランキング1位です。
 そして,ついに,小和田駅に到着し,下車しました。ホームには,この列車に乗ろうと待っていた人が数人いて,私と入れ違いに乗り込みました。彼らば,小和田駅を散策したのち,帰るところなのでしょうか。
  ・・・・・・
 小和田駅は浜松市最北端の駅です。 駅前には何ら施設がなく,また,道路が通じていないため,自動車では訪問できないことから,鉄道ファンに「秘境駅」のひとつとして認知されています。秘境駅ブームの火付け役であり,「秘境駅へ行こう」の著書で知られる牛山隆信さんが最初に訪れた駅であり,牛山隆信さんが作成した秘境駅ランキングでは全国3位にランキングされています。
 開業当時の小和田集落は水窪の北西の玄関口で,大津峠を通って水窪市街地と奥三河・南信濃を結ぶ,街道上の要所となっていました。また,天竜川の川べりには筏だまりがあり,水運による木材輸送の中継地ともなっていました。しかし,1956年に完成した佐久間ダムにより,集落の川に近い部分は水没してしまい,今は,駅周辺に人家はなくなり,最も近い人家は,険しい山道を1時間ほど登った先にある塩沢地区の数軒のみとなっています。また,塩沢集落は,自動車が通行可能な道路が整備されたため,小和田駅を利用する住人はいなくなりました。
  ・・・・・・

 このところ,JRでは,駅の無人化が進み,また,廃線となるところも少なくないのに,どうして必要のない駅が廃駅とならないのか,私には解せません。飯田線の場合,やたらと駅が多いのですが,その多くは必要性のないもので,それらに停まらなければ,もっとスピードアップが可能になるのに,と思います。
 飯田線の「秘境駅」は,いわば,テーマパークのアトラクションなのでしょう。

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 飯田線の秘境駅巡りをしているブログが山ほどあるので,秘境駅について詳しく知りたい人はそれを読んでいただくとして,ここでは,私が何をしたかを書きます。それよりも,こうしたブログを読んで私がうんざりしたのは,急行「飯田線秘境駅号」の写真でした。人がうじゃうじゃ密になっていて,これでは渋谷駅前と変わりません。人はどうしてこうも群れたいのでしょう。秘境なんて,人がいないからこその秘境であって,あれでは単なる遠足です。とにかく,この国では,ブームとなると,何でも人が集まるのです。
 ということで,私は,急行「飯田線秘境駅号」の運行している日を避けて,ほとんど人の乗っていない列車で秘境駅巡りをしています。それでも,数人のカメラを持った若者が車内を動き回っては写真を撮っていました。そうです。うっかりしていました。この日は日曜日。「毎日が日曜日」の私は,曜日感覚を喪失していました。やはり,平日にすればもっと人が少なかったのに,と思いました。
 天気だけが心配でしたが,いつものとおり,今回もいい天気でした。しかし,意外だったのは,伊那路が名古屋より暖かいということでした。すでに桜がずいぶん咲いていました。それにくらべて,次の日に行くことになる木曽路は寒く,桜は,まだ,開花もしていませんでした。

 飯田線は,私が乗車した平岡駅から北に天竜峡駅まで,為栗(してぐり)駅,温田(ぬくた)駅,田本(たもと)駅,門島(かどしま)駅,唐笠(からかさ)駅,金野(きんの)駅,千代(ちよ)駅とあります。この中で,ある鉄道愛好家が作った秘境駅ランキングによると,為栗駅が13位,田本駅が5位,金野駅が6位,千代駅が20位ということでした。時間をかけてこれらの駅ですべて下車してもいいのですが,一旦降りると,次の列車が来るのに何十分も,あるいは,何時間も先になってしまいます。私はそこまでの趣味はありません。そこで,少し迷った末,金野駅で降りることにしたのです。
 降りてはみたものの,何があるでもなし。20分後に折り返しの列車が来るまで,道路があったので,少し歩いて見ることにしました。とはいえ,普通の道路が延々と続いているだけでした。要するに,金野駅を見るだけなら,車でも来ることが可能ということです。帰宅して,GoogleMaps のストレートビューで見たら,その先も延々と道路が続いていて,結局,最後は集落にたどり着くだけのことでした。こんなものは秘境とはいいません。
 それよりも,田本駅で降りるほうがよかったのです。ネットによると,田本駅には駅舎すらなく,まずは階段で駅の上まで登っていき,そこで絶景を眺め,その先は,断崖絶壁のウォーキングコースが続いているということで,秘境度という点では,金野駅よりずっとマシでした。おしいことをしました。

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キャプチャ

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 2024年3月31日から4月2日まで,2泊3日で飯田線の「秘境駅」を巡る旅に出ました。3月31日は日曜日なので,平日に行くと書いたこととは矛盾しますが,私の都合上,やむを得ず,こうなりました。今回もすばらしい天気でした。
 1日目は,前回書いたように,平岡駅に併設された旅館「龍泉閣」が予約してあったので,まず,車で平岡駅を目指しました。GoogleMapsによれば,自宅から平岡駅までは2時間程度ということだったので,午前6時ころに家を出ました。
 ところで,名古屋から塩尻までは,木曽谷と伊那谷があって,鉄道や道路は,そこを通ります。つまり,JR中央線や国道19号線は木曽谷を通り,中央自動車道と飯田線は伊那谷を通ります。
 ただし,地図を見るとわかるように,愛知県の北東部と静岡県の北西部は山ばかりなので,名古屋から伊那谷に出るのが大変なのです。飯田市以北の伊那谷は広い平地ですが,それ以南は平地がないのです。そこで,中央自動車道が伊那谷に入るには,中津川市を過ぎたあと,恵那山トンネルという8キロメートル以上もあるトンネルを抜けて飯田市に出て,伊那谷に入ります。
 JR飯田線は,豊橋駅を出発すると,宇連川(うれがわ)に沿って進み,鳳来峡からは,宇連川の支流である亀淵川沿い,そして,天竜川を北東に進んでいきます。しかし,佐久間ダムがあって行き場を失うので,水窪の方向へ迂回し,再び,天竜川沿いに戻るという複雑な経路をとります。その後は,天竜川に沿って進むのですが,このあたりの天竜峡までの山深い場所にあるのが,飯田線の「秘境駅」です。
 このようなわけで,車で平岡駅まで行こうとすれば,山の中の狭い道路を北上するか,あるいは,中央高速道路を走り,恵那山トンネルを抜けた後で,国道151号線を南東に進むことになります。国道151号線は交通量が少なく,快適なのですが,くねくね道が延々と続くので,運転がたいへんです。
 日本の山間部は,こうしたくねくね道ばかりです。現在は,道路工事によって,高架を造ることで直線道路に改良されていたり,山を貫く長いトンネルができている場所も少なくありませんが,そうした道路を走ると,よくもまあ,ほどんど車も通らないところに,すごいお金をかけて道を造るものだ,税金のむだ使いだ,と思ったりします。しかし,国道151号線のように,昔のままの道路を走っていると,今度は,何とかならないものか,と思ってしまう,身勝手な私に嫌悪感を覚えます。

 やっと,午前8時過ぎに平岡駅に着きました。平岡は,想像以上に開けた大きな町であることに驚きました。一体,この町でどのような仕事をして暮らしているのだろう? と思いました。何せ,都会へ出るには,国道151号線,国道418号線といったくねくね道しかアクセス道路がないからたいへんだし,産業といっても工場もなければ田んぼもなく,いったい何があるの? という感じなのです。
 「竜泉閣」は平岡駅に併設されていて,駅の待合室が旅館のフロントでした。旅館の人がいたので聞いてみると,午前8時32分発の列車に乗れば,午前中に「秘境駅」を全部巡ることができる,というではないですか。私が事前に調べたとおりですが,簡単にそういう返事をされて驚きました。
 つまり
  ・・・・・・
 平岡駅から,午前8時30分発の豊橋駅行きがありますが,これに乗ってしまうと,接続が悪く,戻ってくるのが大変です。しかし,午前8時32分発の天竜峡駅行きに乗れば,金野(きんの)駅着午前9時2分。20分後の午前9時22分発に中部天竜駅行きがやってくるので,それに乗れば折り返すことができて,平岡駅を通り過ぎて,小和田(こわだ)駅まで行くと,小和田駅着が午前10時11分。そして,1時間5分後の午前11時16分発の天竜峡駅行きに乗れば,午前11時36分に平岡駅に戻ってくることができるのです。
  ・・・・・・
 これだけのことなのです。
 「秘境駅」巡りのやり方とかいって,ごちゃごちゃとスケジュールを書いているブログのあるのですが,実はとても簡単な話でした。こうすれば,飯田線の「秘境駅」巡りなど,自宅から日帰りコースだったのです。大仰に平岡に1泊などしなくても半日で私の好奇心は満たされたのですが,先に「龍泉閣」の予約をしてあったので,せっかくだから泊まることにしました。

 では,話を戻します。
 平岡駅のホームにはすでに列車が停まっていましたが,これは午前8時30分発豊橋行きだから,乗ってはいけません。やがて,反対方向から列車がやってきて,これが午前8時32分発の天竜峡行きで,これに乗り込みます。
 事前に調べたところでは,飯田線はワンマンカーということで,乗り方も予習してきたのですが,さにあらず,ちゃんと車掌さんがいて,これにもがっかりしました。とはいえ,後日 -すでにブログには書いたのですが- 天童駅から羽前千歳駅で乗り換えて仙台駅に行ったとき,天童駅から羽前千歳駅までの列車がワンマンカーだったので,予習した成果が出て助かりました。
 私は,ついこの前,「これぞ秘境」という,雪深い只見線に乗ってきたばかりなので,それに比べたら,天気がよかったことも手伝って,飯田線は単なる山間を走る列車の旅だと思えました。
 ほとんど乗客のいない車内でした。車掌さんがやってきて,切符を買いました。目的地を聞かれて,だれも降りないような金野駅で降りると言うのが物好きに見られるようで恥ずかしいくらいでしたが,お金を払うと,無人駅だから切符は預かります,と言われて,さらに驚きました。車掌さんが覚えることができるほど乗客が少ないのです。
 天竜峡沿いの景色を見ていたら,それなりに楽しかったけれど,期待していたような秘境感はまるでありませんでした。ほどなく金野駅に到着したので,列車を降りました。

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 JR飯田線は,豊橋駅と辰野駅を結ぶ鉄道路線で,周囲に人の気配がなく利用者もほとんどいない「秘境駅」が多数あることで有名です。そこで,一度そうした駅に行ってみたいものだと思っていたのですが,勝手がわからず,実行できませんでした。
 これまでやっていないことをわざわざやってみよう,というこのごろの私の楽しみのひとつとして,ぜひ「秘境駅」巡りを実行してみようと,情報を収集することからはじめました。いつもは,出たとこ勝負なのですが,列車の本数も少なく,行き当たりばったりでは帰れなくなるおそれがあったからです。
 JR東海も「秘境駅」がウリになることを知って,近年は,豊橋駅と飯田駅間に,急行「飯田線秘境駅号」なるものを月に3回ほど運転しています。「飯田線秘境駅号」というのは,鉄道マニアのために,本来,特急「伊那路」では通過する「秘境駅」に数十分間特別に停車する列車で,その見返りは急行料金です。しかし,群れることが嫌いな私は,鉄道マニアであふれると思われる,そうした列車に乗る気も起きず,ほとんど人がいないと思われる平日に,自力で巡ろうと思ったわけです。

 まず,「秘境駅」はどこなのか? からです。
 調べていくと,小和田(こわだ)駅,田本駅,金野(きんの)駅の3駅が「秘境駅」の中でも代表的な「秘境駅」だということがわかりました。
 次に,JR時刻表から,この3つの「秘境駅」に停車する,そして,出発する時間がわかるようにまとめてみました。なお,この表で↓↑と入力してある駅は通過するという意味ではありません。単に,列車の進行方向を示しているだけです。この表を作ったのは,列車の本数の少ない飯田線では,一度降りてしまえば,次の列車が来るのが2時間後,などということもざらにあるから,逆方向の列車に乗って,行ったり来たりすれば何とかなるかもしれない,と思ったからですが,それには,JR時刻表のように,上りと下りが別々ではわかりにくいのです。
 そして,私のまとめた表に従って,どこで乗ってどこで降りたらいいのかな,と考えて,日程を立てはじめたのですが,そのとき,「秘境駅」である小和田駅と田本駅,金野駅の中間にある平岡駅に「竜泉閣」という旅館が併設されていることを知りました。平岡駅周辺は町らしいので,何と,そこまでは車で行くことができるのです。

 これらのことから,はじめは,自宅から列車で豊橋駅に行き,豊橋駅から飯田線に乗って,そのまま「秘境駅」を巡りながら北上して,天竜峡駅や飯田駅の近くで宿泊しようと思っていたのが,平岡駅まで車で行って,平岡駅から北にある田本駅,金野駅,南にある小和田駅という「秘境駅」へ行ったり来たりすればいい,ということがわかったので,さっそく「竜泉閣」を予約をしました。
 残る問題は天気だけでしたが,晴れ男の私なら,きっと大丈夫でしょう。

無題


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私が昨日知ってぜひ行ってみたいと思った,太宰治が弘前高校(現在の弘前大学)時代に下宿をしていたという家に,やっと来ることができました。
保存公開に際して,当時の家が,元の立地から約100メートル南東に向きを変えずに移築され,「太宰治まなびの家」として公開されていて,場所は,弘前大学にほど近いところでした。
  ・・・・・・
「太宰治まなびの家」は,太宰治が1927年(昭和2年)から1930年(昭和5年),旧制弘前高校在学時の3年間を過ごした藤田家住宅です。藤田家は太宰治の実家である津島家の親戚筋にあたりました。
この家の2階奧の,押入,縁側,出窓がついた6畳間が太宰治の部屋でした。
  ・・・・・・
太宰治は,1929年(昭和4年)12月10日の深夜,この部屋で,常用していた多量の睡眠剤カルモチンを飲み,最初の自殺未遂を敢行しました。当時つき合っていた,小山初代との関係が真因ではないかと推測されている一方,偽装自殺説もあるそうです。

「太宰治まなびの家」を出てから,弘前大学に向かいました。
弘前大学では,2009年(平成 21 年)太宰治生誕 100 年の節目の年に,太宰治と弘前大学との縁を恒久的に伝えるため,太宰治文学碑が建立されました。碑面には,「津軽」の一節が刻ま れていますが,この碑文は,太宰治の長女・津島園子さんが最も好きだというものだそうです。
なお,弘前大学資料館にも太宰治の資料が展示されていると「太宰治学びの家」で聞いたのですが,今回は時間がなく,そこまでは行くことができませんでした。
どうやら,私は,もういちど,弘前市に足を運ぶ必要があるようです。
  ・・・・・・
私には,また別の専門科目があるのだ。世人は仮りにその科目を愛と呼んでゐる。人の心と人の心の触れ合ひを研究する科目である。私はこのたびの旅行に於いて,主としてこの一科目を追及した。どの部門から追及しても,結局は,津軽の現在生きてゐる姿を,そのまま読者に伝へる事が出来たならば,昭和の津軽風土記として,まづまあ,及第ではなからうかと私は思つてゐるのだが,ああ,それが,うまくゆくといいけれど。
  太宰治「津軽」序編
  ・・・・・・

これで,今回の3泊4日の旅が終わりました。
ゆっくりと昼食をとる時間がなかったので,コンビニで買ったサンドウィッチを弘前駅のベンチで座って食べてから,午前12時15分のバスで青森空港へ向かいました。青森空港着午後1時10分。青森空港のラウンジで一服して,午後2時15分のFDAに乗って帰宅しました。
この日は曇りがちの天気で,一面雲がありましたが,ほどなくして,御嶽山のあたりだけ雲が切れて,1か月前よりずっと雪を被った山頂が見えました。
今回も天気に恵まれ,というか,恵まれすぎて暑かったのですが,念願だった天童市の人間将棋と弘前市の弘前城の満開の桜を堪能することができました。

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