しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

July 2024

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2024年3月7日,津軽鉄道のストーブ列車に乗って終点の津軽中里駅まで行ったとき,中里で宿泊した「福助旅館」で,女将から「こういうの知らないでしょう?」と言って,龍飛崎には地下を北海道新幹線が走っていてその音が聞こえるホテルがあると聞きました。さらに,立派なホテルだけれど辺境の地だから宿泊代が安いとも言われました。家に帰ってから調べてみると,それは「龍飛崎温泉ホテル竜飛」でした。そこで,今回津軽半島を1周するにあたり,私がまず予約したのがこのホテルでした。
龍飛崎の先端,高台の上に,私が思っていた以上の豪華なホテルがありました。龍飛崎にある宿泊施設はこのホテルくらいのものでした。
チェックインしたときにフロントで新幹線の話をすると,得意気に「新幹線が通過するときにホテルのロビーの照明が虹色に光って列車が走る音が聞こえるんですよ」と言われました。しかも,列車がいつ通過するか時刻表まで掲示されていました。どうやら,これがこのホテルのウリのひとつのようでした。私は,来るまで,列車が走る音が聞こえるといったって,ホテルのコンクリートで囲まれた地下室のようなところだけだろうと思っていたから,意外でした。

ホテルには,団体旅行ツアーが1組来ていたのですが,インバウンドはいませんでした。さすがにここまでは来ないのでしょう。青森県というところは,市販されているガイドブックにも,十和田湖と弘前が載っているものがほとんどで,それ以外の場所の情報は非常に少なく,私にはこれがいいのです。
多くの観光客は北海道に行ってしまうので,青森県は,一部の観光地を除けば観光客は少なく,よって宿泊代は安く,インバウンドはほとんどいないのです。私が,全国ほとんど行ってみた結果,日本で残る最高の観光地は青森県と高知県だけだと思っている理由はそこにあります。特に青森県は温泉が多く,人は優しく,自然が多く,すばらしいところです。
チェックインして一旦部屋に入り,荷物を置いたところで,ちょうど列車が来る時間となったので,急いでロビーに戻りました。ソファに座って待っていると,まず照明の色が変わりはじめました。そして,しばらくすると,列車が走る音が聞こえました。こそっとホテルの人に聞いてみると,この音はマイクで拾って拡大しているということでした。
また,このホテルは,1990年(平成2年)7月には平成の天皇と皇后が食事と休憩をしたところということで,そのときに使った備品が展示されていました。

「龍飛崎温泉ホテル竜飛」は,食事も温泉も部屋も最高でした。
私は,温泉が混みあうといやなので,なるべく夕食を早くとって,そのあとで入浴することにしています。この日も,私のほかにだれもおらず,くつろげました。また,この温泉には小さな露天風呂もあって,それがまた快適でした。
食事は夕食も朝食も豪華でした。朝食はすでに用意されていたものに,バイキングでそれ以外の好きなものを選ぶことができるという形式だったので,ストレスがありませんでした。
また宿泊したいと思うホテルでした。
  ・・
ちなみに,私が泊まったホテルは「龍飛崎温泉ホテル竜飛」が正式名称ですが,竜と龍が混在しています。竜と龍,このふたつの漢字は異体字にすぎず,同じもので, 竜が新字体で龍が旧字体ですが,これは,歴史的に龍の方が正字だとされてきたからというのが理由です。ただし,もともとは竜のほうが先に生まれたものです。
異体字のうち,名前などで,斉より齋,辺より邊,浜より濱といったように,難しいほうが威厳がありそうなのでそちらを使いたいと,こだわっている人がいるのと同じく,龍飛崎も,竜より龍を使いたいのでしょう。先日行った天竜峡も,現在は天龍峡で統一しようと決めていると聞きました。

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今日のホテルにチェックインする前に,あたりを散策することにしました。
まず,国道339号線を来た道に戻り,青函トンネル記念館に行きました。
青函トンネル記念館は,道の駅みんまやというところにありました。道の駅みんまやは,もともとは,青函トンネル記念館と風力発電に関する博物館である竜飛ウィンドパーク展示館のふたつの施設から構成されていたのですが,現在,竜飛ウインドパーク展示館は閉館したようで,広い駐車場と青函トンネル記念館のみになっていました。
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青函トンネル記念館は,1988年(昭和63年)に青函トンネルの開通とともに開業しました。大きな吹き抜けの壁に青函トンネルの構造を知るパネルなどが展示されていて,ケーブルカーで青函トンネルの体験坑道に行くことができます。
竜飛海底駅は,世界初の「海より深い駅」として誕生しました。見学ツアーの利用者に限定して設置された駅で,青函トンネル竜飛斜坑線の体験坑道駅と青函トンネル内にあった竜飛海底駅との連絡ができたのですが,竜飛海底駅が2013年(平成25年)に北海道新幹線の工事用施設として使うため休止されたことで,竜飛海底駅の見学はできなくなりました。
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入館料を払って記念館に入りました。ここから,海面下140メートルの世界を体験できる体験坑道へ 青函トンネル竜飛斜坑線というケーブルカーに乗り込んで,斜度14度の斜坑を下りました。
地下坑道の一角に展示エリアが設けられていて,実際に掘削に使われた機械や器機などを見ることができました。そこが海の底と思うとゾッとしました。

青函トンネルの掘削は,たびたび異常出水に見舞われました。中でも最大だったのは1976年5月6日に起きたもので,毎分数十トンの海水があふれ出し,1日もたたずに888メートルが水没してしまいました。
こうした難工事を乗り越え,21年の歳月と34人の犠牲者を出しながら,1985年(昭和60年)3月10日に貫通し,1988年(昭和63年)3月13日に一番列車「はつかり」が走行しました。そして,2016年(平成28年)3月26日からは,北海道新幹線が運行しています。
青函トンネルの年間の維持費は40億円,湿度が高く塩水にさらされる過酷な環境にあるので,次第に劣化し,近い将来には大規模な修繕が必要といいます。また,せっかく北海道まで行くことができても,現在は函館北斗駅までしか開通しておらず,そこから札幌や函館に行くのに不便な状態では,客足は伸びません,
現在は札幌まで延長するために工事をしていますが,渡島トンネルでは1か月で10メートルほどしか掘削できず,羊蹄トンネルでは巨大な岩が発見され工期が止まり,札樽トンネルでは泥土の漏出事故が多発というように,開業時期が見通せない状況だそうです。そうまでしていつか札幌駅までつながったとしても,時間がかかり運賃が高いから,結局飛行機のほうが便利では,利用者がいるとは思えません。大丈夫かな?

さびれ感満載の青函トンネル記念館を出て国道339号線から別れ,坂道を下ると,再び海岸線を走る国道339号線に出ます。この坂道が「階段国道」の代わりとなる,実質の国道339号線です。海岸線にあるのが太宰治文学碑でした。太宰治は,1944年(昭和19年)5月,津軽半島を蟹田から三厩(みんまや)へと北上して,この地にたどり着き「奥谷旅館」に宿泊しました。
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ここは,本州の袋小路だ。読者も銘肌せよ。諸君が北に向つて歩いてゐる時,その路をどこまでも,さかのぼり,さかのぼり行けば,必ずこの外ヶ浜街道に到り,路がいよいよ狭くなり,さらにさかのぼれば,すぽりとこの鶏小舎に似た不思議な世界に落ち込み,そこに於いて諸君の路は全く尽きるのである。
  太宰治「津軽」
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また,太宰治文学碑から国道339号線を少し西に進むと左手に,太宰治が滞在したという「奥谷旅館」がありました。「奥谷旅館」は,現在,龍飛岬観光案内所「龍飛館」となっているのですが,開館時間をすぎていたので,残念ながら館内に入ることはできませんでした。
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露路をとほつて私たちは旅館に着いた。お婆さんが出て来て,私たちを部屋に案内した。この旅館の部屋もまた,おや,と眼をみはるほど小綺麗で,さうして普請も決して薄つぺらでない。まづ,どてらに着換へて,私たちは小さい囲炉裏を挟んであぐらをかいて坐り,やつと,どうやら,人心地を取かへした。 「ええと,お酒はありますか。」N君は,思慮分別ありげな落ちついた口調で婆さんに尋ねた。答へは,案外であつた。 「へえ,ございます。」おもながの,上品な婆さんである。さう答へて,平然としてゐる。N君は苦笑して,「いや,おばあさん。僕たちは少し多く飲みたいんだ。」 「どうぞ,ナンボでも。」と言つて微笑んでゐる。
  太宰治「津軽」
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さらに国道339号線を西に行くと,左手に「階段国道」の下側がありました。住宅地の一見私有地のようなところに数台の車が停められる駐車場があって,そこに車を停めて,住居の軒下を歩くと,「階段国道」に出ます。先に行った上側に車を停めようと,この下側に車を停めようと,結局,往復するしかないわけです。階段は362段あって,総延長388.2メートル,標高差約70メートル,軟弱な私は階段を上り下りしませんでした。

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北海道新幹線


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私は,これまでに,宗谷岬,野寒布岬,積丹岬,襟裳岬,納沙布岬,大間崎,などなど「尖がったところ」にはずいぶん行ったのですが,龍飛崎には行ったことがなく,憧れでした。
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龍飛崎は津軽半島の最北端にあります。西は日本海,北は津軽海峡,東は陸奥湾と,三方を海に囲まれていて強い海風が吹くところから「風の岬」といわます。
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多くの岬のように,龍飛崎も海岸ぎりぎりのところが断崖となっていてそこに展望台がある,というイメージだったのですが,そうではなく,先端にあるのが帯島ですが,帯島には道がなく,その手前に漁港があって,そこが岬,とは言い難く,そこで,その奥の高台にところが竜飛崎の展望台となっていました。また,高台の突端には津軽海峡のシンボルとなっている白亜円形の龍飛埼灯台がありました。

私が行った日は,雨は降っていませんでしたが曇っていたので,晴れていれば見ることができるという津軽海峡を挟んだ北海道の松前半島や函館山を見ることはできませんでした。そして,ものすごい風で,まさに「風の岬」でした。
駐車場からさらに上ると「文学碑の丘」で,2頭の龍が鎮座する「龍見橋」がありました。
「龍見橋」は橋の欄干に「太宰の道」と記されているのですが,それが橋の別名であるのか,橋を通る前後の道も指しているのか判然としないそうです。
ともかく,太宰治は「津軽」の執筆でこの地を訪れました。
また,「文学碑の丘」には吉田松陰碑がありました。
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1851年(嘉永4年)12月,吉田松陰は北辺の守りをこの目で実地踏査したいという思いから,熊本藩士の宮部鼎蔵とともに東北地方へ向かいました。水戸,会津,越後,大館を経て,弘前城下に入った3月,ふたりは弘前藩の儒学者であり兵学者の伊藤広之進を訪ね,津軽半島の海防について尋ねました。その後,五所川原,十三湖を見ながら北上し,小泊の港で津軽海峡を望みましたが,龍飛崎までは行っていません。
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龍飛崎といえば,だれもがイメージするのは石川さゆりさんの歌った「津軽海峡・冬景色」で,歌謡碑がありました。ボタンを押したらすごい音量で曲が流れたのですが,風の音に負けてしまいました。
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「津軽海峡・冬景色」は,1977年に発売された石川さゆりさんの15枚目のシングルです。
歌詞の内容は,東京を発って本州最北端の青森県にたどり着き,津軽海峡をこえて北海道に渡る人々を描いた叙事詩です。歌の詞は,龍飛崎の回想までで,青函連絡船上の津軽海峡で北海道に帰る女性の心情を吐露させて終わります。
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その昔,現在のような新幹線がなかったころ,北海道を目指す人々は,上野駅から夜行列車に乗って,雪が降る青森駅で降り,ボーディング・ブリッジを渡って津軽海峡渡って函館駅に向かう青函連絡船へと乗り継いで行きました。私は,今から45年ほど前の冬に,反対に函館駅から青森駅に青函連絡船に乗って渡り,ボーディング・ブリッジを渡り青森駅のホームに出て,寝台特急「ゆうづる」で上野駅まで帰ったことがあります。青函連絡船はすごく揺れて船酔いを起こして苦しかったことと,寝台列車で夜明け前に目覚めるとやたらおなかが空いたことが記憶にあります。
なお,「津軽海峡・冬景色」では竜飛岬とありますが,この地は,龍飛崎というのが正式な名称です。

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国道339号線は,弘前市から東津軽郡外ヶ浜町に至る延長約129キロメートルの国道です。かつて,小泊と龍飛間は小舟でしか交流できない「まぼろしの道路」でした。1972年(昭和47年)に小泊側から自衛隊により,また,翌年には龍飛側から請負工事により道路改良が行われ,1983年(昭和59年)に全面開通しました。この日はこの部分を走ります。
小泊を過ぎると,道の駅があって,そこからしばらくは海岸沿いを走ることになり,この日の天気も手伝って最果て感満載となりました。小泊と龍飛崎を結ぶ約24キロメートルの区間は「竜泊ライン」(たつどまりライン)とよばれています。
その南半分は,日本海の波に洗われた奇岩が見られる絶景のドライブルートとして知られているのですが,この時期,青森県内ははツキノワグマが出没しているということで,どこを走っていても注意喚起がされていました。とはいえ,車を走らせていて,道路にツキノワグマが出てきたらどうしたらいいのかな? と思いました。
  ・・・・・・
●運転中にクマと遭遇したらなるべく停車せず,熊のスキを見つけてゆっくりとすり抜ける。
●クマに道を塞がれたら,バックをすると余計に追いかけられることもあり,クラクションはクマが興奮する可能性があるので,窓はしっかりと閉めドアをロックしてクマが車内へ侵入するのを防ぎ,クマの様子をうかがい,進路が空いたらゆっくりと加速して脱出する。
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ということですが,私は,アメリカで野生のシカやバッファロー,隠岐で牛に囲まれたことがありますが,さすがにクマはありません。

海岸沿いを走っていくと,七ツ滝がありました。七ツ滝は,高さ約21メートルの滝で,7段の段差があることからこの名があります。都城出身の荒川秀山が選んだ,七ツ石,権現崎,経島,羅漢石,姥石,辨天崎,稲荷堂,青巖,七瀧,傾石,竜飛崎という「小泊十二景」のひとつだそうですが,こんなことを知ると,また,行きたいところが増えてしまいます。七ツ滝の沢は滝の下流60メートルほどで日本海に注ぎます。
この先龍飛崎までこのように海岸線を進むのかと思っていると,突然,かなり標高が高い山の中に入っていきました。それとともに霧が濃くなって,一寸先が見えなくなりました。
アメリカでもインターステイツを走っているときにこのような霧の中に入ったことがあるのですが,アメリカの道路は,車のヘッドライトでセンターラインは黄色く浮かび上がり,エンドラインは白色に浮かびあがるので安全でした。それに比べて日本では…。霧に注意という道路標示を作る前にやることがあるだろう,と思いました。
このように,「竜泊ライン」の北半分は海岸線から離れた尾根沿いの峠道で,山の景色へと変化し,つづら折れが連続しますが,その一部区間は11月中旬から4月下旬までは冬季閉鎖されるそうです。
どうやら峠を過ぎて少し高度が低くなり,霧が晴れたと思ったら,そこが龍飛崎で,まず,私がこの日宿泊する「龍飛崎温泉ホテル竜飛」が目の前に飛び込んできました。

そのままさらに進むと「階段国道」の上側がありました。
  ・・・・・・
「階段国道」は,龍飛灯台付近から龍飛漁港付近の間の急峻な崖を結んでいる国道339号のルートとして指定された362段の階段とそれに続く歩道区間の通称です。自動車やバイクなど車両は通行することはできず,歩行者専用の通行路で,階段国道を下がりきると龍飛漁港バス停のすぐ近くに出ます。
龍飛崎の丘の上から龍飛漁港へと下る区間は,かつては村道の階段で,これがのちに県道に昇格し,さらに国道339号が国道指定された際に「役人が現地を見ずに地図上のみで国道に指定した」らしいといわれます。国道指定当初は階段ではなく狭い坂道で,青森県が階段に整備したものです。
現在は,この階段区間の上下を結ぶ迂回可能な自動車交通路があるので,これを国道とすればいいのですが,すでに「全国で唯一の階段国道」が有名になっていて「この方が観光名所になるから」という理由で,そのままになっているということです。
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私は,ろくに調べもせず,運がよければ「階段国道」を見られたらいいなあ,と思いながらこの旅をしていたのですが,それは津軽半島の山の中にあるものだと何となく思っていたので,あきらめていました。それがまさかここだったとは,と驚きました。そして,これもまた幸運なことでした。

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十三湖を過ぎて,次に向かったのは,小説「津軽」の像記念館でした。それにしても,私は,鶴の舞橋,十三湖,そして,この小説「津軽」の像記念館,このあとに行くことになる「階段国道」と,そのどれもが,どこにあるのか調べもせず,知りもせずに来たのに,本当に偶然,その順番に津軽半島を北上して訪れることができたのです。自分でも驚きました。
ただし,帰ってから調べてみると,高山稲荷神社という有名な見どころを通り過ぎてしまっていたのです。ということで,私は,もう一度,青森県を旅する必要ができてしまいました。
小説「津軽」の像記念館は,十三湖からさほど遠くない中泊町小泊にありました。

記念館の近くには,ぴかぴかの,こどまり学園という施設がありました。中泊町立こどまり学園は,従来の小泊小学校と小泊中学校を一緒にした小中一貫校で,2022年にできたばかりのようです。この日は,小学校で参観授業が行われていました。
記念館の周りに駐車スペースがあったので,私はそにに車を停め,記念館に向かいました。昨年,青森県を旅したときに,ぜひ行ってみたかったのが金木の「斜陽館」でしたが,「斜陽館」に行って以来,ろくに太宰治の小説を読んだこともないのに,何かにとりつかれたかのように,太宰治に関する史跡を訪ね歩いているのです。
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小説家太宰治の「津軽」のクライマックスは,幼年時代の子守りであったタケと太宰治が30年ぶりに再会する場面であったといえます。ふたりが出会った小泊小学校の運動場を望める場所に記念館があります。
記念館では「津軽」が誕生するまでの経緯やタケと太宰治の出会いの場面について,資料や映像を通して知ることができ,関連する資料が多数収蔵されています。
また,記念館横には,再開の場面を再現した小説「津軽」の像や文学碑が建立されています。
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記念館では,私があまりに熱っぽく太宰治について語るので,私のためにビデオを上映してもらえました。ビデオは,生前のタキさんが太宰治について語ったものを収録したという内容で,私は感動しました。
太宰治とタキが再会した小学校は,この現在のこどまり学園で,運動場の一角に記念碑がありました。また,小泊には,今は残っていない,「津軽」に描かれたさまざまな場所に記念碑がありました。私は,小泊に来てよかったと思いました。

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「久し振りだなあ。はじめは,わからなかつた。金木の津島と,うちの子供は言つたが,まさかと思つた。まさか,来てくれるとは思はなかつた。小屋から出てお前の顔を見ても,わからなかつた。修治だ,と言はれて,あれ,と思つたら,それから,口がきけなくなつた。運動会も何も見えなくなつた。三十年ちかく,たけはお前に逢ひたくて,逢へるかな,逢へないかな,とそればかり考へて暮してゐたのを,こんなにちやんと大人になつて,たけを見たくて,はるばると小泊までたづねて来てくれたかと思ふと,ありがたいのだか,うれしいのだか,かなしいのだか,そんな事は,どうでもいいぢや,まあ,よく来たなあ,お前の家に奉公に行つた時には,お前は,ぱたぱた歩いてはころび,ぱたぱた歩いてはころび,まだよく歩けなくて,ごはんの時には茶碗を持つてあちこち歩きまはつて,庫くらの石段の下でごはんを食べるのが一ばん好きで,たけに昔噺むがしこ語らせて,たけの顔をとつくと見ながら一匙づつ養はせて,手かずもかかつたが,愛めごくてなう,それがこんなにおとなになつて,みな夢のやうだ。金木へも,たまに行つたが,金木のまちを歩きながら,もしやお前がその辺に遊んでゐないかと,お前と同じ年頃の男の子供をひとりひとり見て歩いたものだ。よく来たなあ。」と一語,一語,言ふたびごとに,手にしてゐる桜の小枝の花を夢中で,むしり取つては捨て,むしり取つては捨ててゐる。
  太宰治「津軽」
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地図で見て,私が子供のころからずっと気になっていたのが十三湖でしたが,行く機会がありませんでした。2024年3月に津軽鉄道のストーブ列車で津軽中里駅まで行ってその町で宿泊したとき,津軽中里から十三湖まで行くバスがあるという話だったので,行ってみたいと思ったのですが,断念しました。
それは,雪が積もっていたこともあって,この先に人が住んでいるのだろうか,とさえ思えたし,ネットで調べても,弘南バスのサイトには時刻表があっても地図がなく,地名が書かれてあっても,それがどこのことなのかわからなかったからです。
今ならわかります。
実際は,五所川原営業所発小泊案内所行きの津軽半島の中央を走るバスが1日に6本運行されていて,それに乗ると,十三湖へ行くには,その東岸にある有名な「しじみ亭奈良屋」という食事処の近くの今泉というバス停まで,中里駅前からわずか14分で行くことができるのでした。また,五所川原営業所発市浦庁舎前行きの津軽半島の西岸を走るバスが1日に8本運行されていて,このバスは津軽中里駅は通りませんが,五所川原営業所で乗車すれば,十三湖の北岸の中之島公園というバス停を経由します。
このように,弘南バスを使っても十三湖に行くことは可能だったのです。

今回はレンタカーだったので,弘南バスを利用することもなく,鶴の舞橋を見たあと,カーナビで十三湖を探して,車を北に向けて走りはじめました。あたりは,津軽平野らしい雄大な平原が続いていましたが,冬には一面の銀世界となります。この広々とした感じが津軽半島の魅力です。やがて,十三湖に着いたのですが,道路は十三湖を周遊するようにつながってはいるものの,湖が見えません。
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十三湖は海水と淡水が混合した汽水湖で,南北7キロメートル,東西5キロメートル,周囲31.4キロメートルと,十和田湖,小川原湖に次いで,青森県で3番目に大きな湖です。岩木川をはじめ,13の河川が流れ込むことから十三湖といわれています。
宍道湖と日本一を競う漁獲量を誇る十三湖のシジミは「十三湖産大和しじみ」として有名です。
また,オオハクチョウ,コハクチョウの渡来地として知られているほか,幻の鳥といわれているオオセッカや天然記念物のオオワシなど飛来する鳥や生息している鳥が多く,バードウォッチングも楽しめます。
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ということですが,十三湖のどこに行けば雄大な風景が眺められるのか,皆目見当がつきません。

ともかく道路に沿って走っていたら,十三湖道の駅というものを見つけたので,まず,そこに行くことにして,ちょうどお昼時だったので,昼食として,しじみラーメンセットを食べました。あとで知ったことには,先に書いた「しじみ亭奈良屋」のほうがよかったかも,と思いました。
十三湖道の駅から十三湖が眺められると思ったのですが,それは誤解でした。せっかく十三湖に来たのに,なかなか湖が見えないのです。
さらに走って,十三湖の北側に回り込むと,やっと湖が見えてきました。ここが十三湖観光の中心らしく,みやげ物屋などもありました。十三湖中の島ブリッジというものがあって,渡ると中の島へ行くことができるのですが,さびれ感満載で,ほとんど人はいませんでした。
地図で見ると,ここからさらに西に,海に向かって道路が続いていて,十三湖の湖水が日本海に流れ出るところに十三湖大橋が架かっていて,そこから湖に沿って南へ行くと集落が存在するというので,走ってみることにしました。どうやら,その場所が,中世,十三湊(とさみなと)として栄えた場所だったようです。

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湖が日本海に開いてゐる南口に,十三といふ小さい部落がある。この辺は,いまから七,八百年も前からひらけて,津軽の豪族,安東氏の本拠であつたといふ説もあり,また江戸時代には,その北方の小泊港と共に,津軽の木材,米穀を積出し,殷盛を極めたとかいふ話であるが,いまはその一片の面影も無いやうである。
  ・・
中里から以北は,全く私の生れてはじめて見る土地だ。津軽の遠祖と言はれる安東氏一族は,この辺に住んでゐて、十三港の繁栄などに就いては前にも述べたが,津軽平野の歴史の中心は,この中里から小泊までの間に在つたものらしい。
  ・・
やがて,十三湖が冷え冷えと白く目前に展開する。浅い真珠貝に水を盛つたやうな,気品はあるがはかない感じの湖である。波一つない。船も浮んでゐない。ひつそりしてゐて,さうして,なかなかひろい。人に捨てられた孤独の水たまりである。流れる雲も飛ぶ鳥の影も,この湖の面には写らぬといふやうな感じだ。十三湖を過ぎると,まもなく日本海の海岸に出る。
  太宰治「津軽」
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十三湖は最果て感あふれる何か切ないところでした。

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午前9時30分,青森空港に着陸しました。青森空港は,アメリカの地方都市と同じような空港で,隣にレンタカーターミナルがあって,そこまで歩いていくと予約してあった車を借りることができます。 さっそく,車を借りて出発しました。
今回の旅のテーマは,前回書いたように「津軽半島で太宰治に浸る」でしたが,中でも最も行きたかったのは,津軽半島の小泊にある小説「津軽」の像記念館でした。それとともに行きたかったのが,鶴の舞橋,十三湖,「階段国道」,そして,この日の宿泊先である地下に北海道新幹線が通っているという「龍飛崎温泉ホテル竜飛」でした。
しかし,いつものように,私のいい加減なところは,事前にそれらがどこにあるか調べてこなかったということにあります。まず,何となく最も近いと思われた鶴の舞橋から行けばいいのかな,きっと,青森空港から東に向かって走っていけば目的地に着くだろうと思って,東に向かって車を走らせました。
前回の青森旅行から帰ってくるまで,私は,鶴の舞橋というものを知りませんでした。そして,知っていればいくらでも行くことができたのに,と後悔していました。そこで,この旅でまず行ってみたいと思っていたのです。

そして,まず見つけたのが,浪岡城跡でした。浪岡? 聞いたことがある地名だな,と思いました。そうです。ここは,横綱稀勢の里,現在の二所ノ関親方の師匠であった横綱隆の里の故郷でした。それにしては,浪岡町には,横綱隆の里をしのぶものは何もありませんでした。
いい加減に走っていても仕方がないので,浪岡城跡の駐車場に車を停めて鶴の舞橋をカーナビで調べました。私が思っていた(感じていた?)とおり,鶴の舞橋はここから近くでした。浪岡城跡は時間があれば帰りに寄ることにして出発しました。
カーナビに従って走っていくと,まもなく鶴の舞橋に到着しました。
広い駐車場があって,パラパラと観光客が来ていました。車を停めて,さっそく橋を渡りました。
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鶴の舞橋は1994年(平成6年),岩木山の雄大な山影を湖面に美しく映す津軽富士見湖に,日本一長い三連太鼓橋として架けられました。
全長300メートルもの三連太鼓橋はぬくもりを感じさせるような優しいアーチをしていて,鶴と国際交流の里・鶴田町のシンボルとして,多くの人々に愛されています。
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このように,鶴の舞橋は,比較的新しいもので,歴史的な史跡ではないようです。太宰治が「津軽」を書いた当時は存在しませんでした。

津軽富士見湖は,元来は岩木山を水源とする白狐沢からの自然流水によってできたものを,1660年(万治3年)に4代藩主津軽信政が柏村地方の用水補給のための堤防を築き用水池にしたものです。その後,たびたび堤防が決壊しましたが,1960年(昭和35年)に現在の堤防が完成し,水深約7メートル,満水面積281.28ヘクタールとなりました。
そこにかけられた鶴の舞橋は,岩木山を背景にした姿が鶴が空に舞うように見えるとも,橋を渡ると長生きができるともいわれます。また,夜明けとともに浮かび上がる湖面の橋,夕陽に色づく湖と鶴の舞橋,さらには,季節による異なった美しさなど,一年を通してすばらしい姿を見せます。
粋な橋を造ったものですが,なにせ,木造。維持がたいへんそうで,現在も,大改修の最中でした。

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今回から,2024年7月4日から7月7日まで3泊4日で行った,今年3度目の青森旅行について書きます。
まず,この旅に出かけた経緯を説明するために,2023年5月22日のブログから以下に載せます。 
 ・・・・・・
私が青森県に行くのはこれが3度目です。
1度目は今から40年以上前の冬に北海道にスキーに行ったときに,一度は青函連絡船に乗ってみたいと,あえて飛行機を利用して帰るのをキャンセルして,函館駅から海路で青森駅に到着,そこから寝台特急「ゆうづる」で上野駅まで戻ったことがあるのですが,このときは青森駅のホームを通っただけでした。
2度目は,これは35年ほど前に岩手県の盛岡市に仕事で行ったときに,仕事が終わって1日自由時間ができたので,レンタカーを借りて下北半島を1周したのです。このときもまた,ほとんど,車に乗っているだけでした。
というわけで,私は,事実上,青森県はほとんど知りませんでした。
  ・・
青森県は,よくテレビの旅番組で出てくる野辺地,映画で名前だけ知っている八甲田山,縄文時代の遺跡である三内丸山,桜の名所である弘前,太宰治の「津軽」,冬の津軽鉄道ストーブ列車,多くの秘湯など,気になっていたところがたくさんあるのですが,どこも詳しく知らなかったし,位置関係もわかりませんでした。そこで,今回,2泊3日で,それらの場所を巡ってこようと考えたのです。
  ・・・・・・
これを書いたのが,わずか1年4か月前のこととは思えません。

結局,そのときの旅では,私が「気になっていたところ」のすべてを見ることはできませんでしたが,なぜか,青森県の魅力のとりこになってしまいました。
そこで,その後,今年2024年の3月6日から3月8日までと4月15日から4月16日まで2度も青森県を旅して,私が「気になっていたところ」のそのほどんどに行くことができました。それでも行くことができなかったのが太宰治が1944年(昭和19年)に小説「津軽」であらわした旅でまわった津軽半島でした。
そんなわけで,今回「津軽半島で太宰治に浸る」旅に出ることにしたのです。そして,せっかくなので,津軽半島だけでなく,下北半島も1周することにしました。

いつものように,午前8時10分,県営名古屋空港から青森空港に向けて飛び立ちました。梅雨空で一面の雲でしたが,遠くに雪のない富士山の山頂だけが見えました。
  ・・・・・・
或るとしの春、私は、生れてはじめて本州北端、津軽半島を凡そ三週間ほどかかつて一周したのであるが、といふ序編の冒頭の文章に、いよいよこれから引返して行くわけであるが、私はこの旅行に依つて、まつたく生れてはじめて他の津軽の町村を見たのである。それまでは私は、本当に、あの六つの町の他は知らなかつたのである。小学校の頃、遠足に行つたり何かして、金木の近くの幾つかの部落を見た事はあつたが、それは現在の私に、なつかしい思ひ出として色濃く残つてはゐないのである。中学時代の暑中休暇には、金木の生家に帰つても、二階の洋室の長椅子に寝ころび、サイダーをがぶがぶラツパ飲みしながら、兄たちの蔵書を手当り次第に読み散らして暮し、どこへも旅行に出なかつたし、高等学校時代には、休暇になると必ず東京の、すぐ上の兄(この兄は彫刻を学んでゐたが、二十七歳で死んだ)その兄の家へ遊びに行つたし、高等学校を卒業と同時に東京の大学へ来て、それつきり十年も故郷へ帰らなかつたのであるから、このたびの津軽旅行は、私にとつて、なかなか重大の事件であつたと言はざるを得ない。
  ・・
私には、また別の専門科目があるのだ。世人は仮りにその科目を愛と呼んでゐる。人の心と人の心の触れ合ひを研究する科目である。私はこのたびの旅行に於いて、主としてこの一科目を追及した。どの部門から追及しても、結局は、津軽の現在生きてゐる姿を、そのまま読者に伝へる事が出来たならば、昭和の津軽風土記として、まづまあ、及第ではなからうかと私は思つてゐるのだが、ああ、それが、うまくゆくといいけれど。
  太宰治「津軽」
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 私が神奈川フィルハーモニー管弦楽団のことを知ったのは,コンサートマスターが石田泰尚さんであることからでした。以前,神奈川フィルハーモニー管弦楽団はさまざまな問題をかかえていたようでしたが,現在はとても人気があって,企業努力をしているというか,好きだという人が少なくありません。そこで,今回,聴くことを楽しみにしていました。できれば,この日のコンサートマスターが石田泰尚さんだったらいいなあ,と思っていたので,そうであることを知って,やったー,と思いました。
 今回の会場は横浜みなとみらいホールというところでしたが,はじめて行きました。というより,横浜に久しぶりに行きました。もっと気候のよい時期なら,コンサートのついでに時間をかけて街歩きを楽しむのですが,この時期ではその気もなく,単に演奏会を聴くだけにしました。
 新幹線を新横浜駅で降りましたが,そこからどう行くのかがわかりません。何とかiPhoneの情報で乗り換えながら,みなとみらいにたどり着きました。この日は土曜日だったので,すごい人でうんざりしました。ともかく人の少ないカレー屋さんで昼食をとり,会場に行きました。なんだか,いつも昼食でカレーを食べているようです…。

 みなとみらいホールはすばらしい会場でした。東京やその近郊にみなとみらいホールに限らずすばらしい会場が多くあって,うらやましい限りです。しかし,もし東京に住んでいたら,コンサート三昧で金欠病になってしまうから,気に入ったものだけを聴きに出かける今の状況のほうがいいのかもしれません。
 演奏会では,まず,プレイベントがありました。打楽器奏者の平尾信幸さんが今回で最後で,新しく金井麻里さんが入団したということで,このふたりでの演奏でした。これだけでもお得感がありました。
 そのあとではじまった演奏会もまた,本当にすばらしいものでした。こんなに興奮したコンサートはこれまでにありませんでした。曲によって照明の明るさを変えたり,いろいろと工夫が凝らされていました。
 最後,恒例になったカーテンコールでは,ピアノを弾いた松田華音さんまで引っ張り出してきたり,あげくには,ステージ上で打楽器奏者たちと記念写真を撮ったりと,そのお茶目ぶりが楽しかったです。
 実は,その裏では,井上道義さんのブログに
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 今回神奈川フィルとのコンサートは40年前からの持病の尿路結石を引き金とする諸々の体調不全で風前の灯,でも自分でも意味不明な情熱があり何とか無事終わることが出来た
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とあって,私は,この演奏会がキャンセルになるのではないかと心配していたのですが,聴くことができてほっとしました。マエストロは病院からやってきて演奏会が終わってまた病院に戻っていったらしいです。まさに命懸けだったのです。

 すっかり満足して会場を出ると,団員さんたちのお見送りまでありました。
 今回神奈川フィルハーモニー管弦楽団の演奏会に来て,その人気の秘密がわかったような気がしました。神奈川フィルハーモニー管弦楽団の演奏会のチケットはシニア割もあるし,楽しかったなあ,また来たいなあ,と思うものでした。NHK交響楽団もお高く留まっていないで少しは見習ってほしいものです。
 余韻冷めやらぬ中,横浜駅で夕食をとって,新横浜駅から新幹線に乗って帰宅しました。新横浜駅のホームで列車が来るのを待っていると,突然の雷雨。しかも,これまで体験したことがないような豪雨がホームの屋根や反対側に停車した新幹線を叩きました。まるでこの日に聴いた伊福部昭の音楽のようでした。
 この日に乗った新幹線は,行きも帰りもN700Sでした。

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 選曲のいきさつは知りませんが,井上道義さんは,様々なオーケストラとの最後の共演に際して,そのオーケストラにもっともふさわしい曲を当てているような気がします。神奈川フィルハーモニー管弦楽団との最後の共演は,フランスものを2曲と伊福部昭が作曲したものを2曲選びました。

 前半の,だれもがきっとどこかで聞いたとこがあると思われる馴染みのフランスものは,夢見心地になるファンタジーあふれた音楽ですが,こういう曲こそ,どれほど味のある演奏をするか,それとも,単にスコアをさらっているような味も素っ気もないものになるかで,聴く側が曲に入り込めるかどうかが決まるというものです。だから,こういう曲をアマチュアのオーケストラがやってはいけません。
 今回の演奏は,やはりプロというか,まことにすばらしいものでした。
  ・・
●管弦楽のための狂詩曲「スペイン」(España, rapsodie pour orchestre)
 シャブリエ(Alexis-Emmanuel Chabrier)が1883年に作曲した管弦楽曲です。
 シャブリエは作品の数が極めて少なく,演奏されるのはこの狂詩曲と「楽しい行進曲」など若干の作品のみです。この作品はシャブリエがスペインを旅行した際の情熱的な音楽の印象をもとにして作曲されたといわれています。
  ・・
●ドビッシー「夜想曲」(Nocturnes)
 ドビュッシー(Claude Achille Debussy が1897年から1899年にかけて作曲した管弦楽曲です。 
 「雲」「祭」「シレーヌ」の3曲からなる組曲となっています。

 後半は,「ゴジラ」で有名な伊福部昭のふたつの作品です。
 前回書いたように,2021年12月に井上道義さんが指揮をしたNHK交響楽団の公演の曲目は,前半がショスタコーヴィチの交響曲第1番で,後半が松田華音さんがピアノを弾いた伊福部昭の管弦楽のための「リトミカオスティナータ」と「日本狂詩曲」で,この日の後半の曲目がこれと同じものでした。
  ・・
●ピアノと管絃楽のための「リトミカオスティナータ」(Ritmica ostinata per pianoforte ed orchestra)
 伊福部昭が1961年に完成し,1969年に最初の改訂,次いで1971年に改訂した1楽章形式のピアノ協奏曲です。
 「リトミカオスティナータ」とは「執拗に反復する律動」という意味で,五拍子や七拍子といった日本語の韻文の奇数律動の反復を基礎として六音音階による旋律が展開するという楽曲。中国で見た四方の壁全面に仏像がはめ込まれた堂の迫力と感動が創作のヒントとなったといいます。
 かなり高度なピアノの技法が必要であり,体力が必要であるとしろうとの私は思うのですが,これを楽しそうに弾きこなしてしまう松田華音さんがすてきでした。また,いつものように,ソリストと対決するような井上道義さんの指揮がすごい迫力でした。
 この曲は,どこかしこに「ゴジラ」が潜んでるみたいで,それが突然現れてくるのです。
 松田華音さん,華音と書いて「かのん」とはなんとすばらしい名前でしょう。それにしても,先日聴いたヴァイオリンの服部百音さんもそうですけれど,生まれたときから親の期待を一身に受けて音楽家をめざしたような名前ですが,その重責たるやいかに…。
  ・・
●日本狂詩曲(Japanese Rhapsody)
 伊福部昭はじめての管弦楽曲で,1935年に完成した2楽章形式の曲です。狂詩曲というのは自由奔放な形式で民族的または叙事的な内容を表現したものです。演奏時間は約15分と短く,かつ,ノリのよい曲で,ピアノと管絃楽のための「リトミカオスティナータ」の酔い覚ましとして,また華々しいフィナーレには最適な曲でした。ビオラのソロがなまめかしく魅力的でした。
 外山雄三が1960年に作曲した「管弦楽のラプソディ」という曲がありますが,日本らしいという点でよく似ています。「管弦楽のラプソディ」のほうが作られたのは後ですが…。
 私は若いころは,このような曲がクラシック音楽といえるのかな,と思ったのですが,若気の至りでした。スメタナの「わが祖国」やシベリウスの「フィンランディア」などと同様,日本人の作曲するものは,こうした日本らしさがあるべきだと,今は思います。

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Buck Moon 2024.

55年前人類が月を歩いた日です。
写真は7月20日の月とスミソニアン航空宇宙博物館に展示されている月着陸船です。
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 2024年7月20日。神奈川フィルハーモニー管弦楽団みなとみらいシリーズ第397回を聴きました。
 この演奏会は,井上道義さんと神奈川フィルハーモニー管弦楽団との最後の「狂」演で,曲目は, シャブリエの狂詩曲「スペイン」,ドビュッシーの夜想曲,松田華音さんがピアノを演奏する伊福部昭のピアノとオーケストラのための「リトミカオスティナータ」,そして,伊福部昭の「日本狂詩曲」でした。
 この演奏会に出かけた理由は,指揮が井上道義さんということと,一度聴いてみたかった神奈川フィルハーモニー管弦楽団ということと,曲目に以前NHK交響楽団の演奏会で取り上げられたのと同じ伊福部昭のピアノとオーケストラのための「リトミカオスティナータ」と「日本狂詩曲」だった,ということでした。
 演奏会のことは次回書くとして,今年2024年12月30日で引退する井上道義さんですが,私は,この先,井上道義さんの指揮をする演奏会に行く予定はなく,これが私にとっても最後ということで,今日は,これまでに聴いたさまざまな演奏会についてまとめておくことにします。

 1986年(昭和61年)に放送されたNHK教育テレビ「NHK趣味講座・第九をうたおう」という番組の担当講師が井上道義さんで,私はテキストを購入して興味深く見ました。それまで井上道義さんのことは知っていましたが名前くらいのものでした。
 「第九をうたおう」というのは,もちろん,ベートーヴェンの交響曲第9番の第4楽章のことで,私も多くの人と同じように,一度は第九を歌ってみたいと思ってこの番組を見ました。しかし,この番組で,第九を歌うというのは並大抵のことではないということがわかって,それ以降,歌ってみたいという願望は大それたことだと悟り,その夢をあきらめました。だから,番組がアダになった,ともいえるのですが,決してそうではなく,クラシック音楽のすばらしさと奥深さ,井上道義という指揮者の偉大さ,そして,こうした高貴なものに私のようないい加減なしろうとは足を踏み入れてはいけないということがわかったというだけでも,見る価値がありました。

 その後,井上道義という指揮者のことは忘れていたのですが,すばらしいマエストロであると私が意識したのは,2020年12月5日に行われたNHK交響楽団 12⽉公演,指揮井上道義さん,ピアノ松田華音さんで,伊福部昭のピアノとオーケストラのための「リトミカオスティナータ」を演奏したものを翌年3月7日にNHK Eテレクラシック音楽館で放送されたものを見てからでした。これは,今回私が聴いたものと同じ曲目です。
 これ以降,井上道義という指揮者にすっかりはまってしまい,何とかライブで聴いてみたいと思っていたのですが,2022年NHK交響楽団の定期公演11月のAプログラムでやっとそれが実現しました。そして,それを機会に,NHK交響楽団の定期公演を越えて,井上道義さんの指揮する様々な演奏会を聴くために,西に東に通いはじめたのです。
 これまで私が聴いた演奏会は,そのどれもが話題となるすばらしいものでした。

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☆☆☆☆☆☆
 岩手県奥州市水沢に国立天文台水沢VLBI観測所があります。国立天文台の中で,現存する一番古い観測所のひとつで,1899年(明治32年)に設置されました。
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 明治時代,天体観測の面でも欧米各国の科学技術を導入して,正確な緯度を測定する事業を行うために設置された緯度観測所が前身です。現在も,国際緯度観測事業を行いつつ,測地学観測の観測所として機能しています。
 緯度観測所では,日本及びアジアにおける国際測地学研究の拠点として,測地学に関連する研究及び測定を行いました。この観測事業の実施を行った木村栄教授が近代測地学の世界的業績であるZ項を発見した場所として有名です。
 現在,これらの観測に用いられた機材開発技術を応用して,月測地学探査に必要な機器開発を実施し,月探査計画での観測データ解析も行っています。また,相対基線法による超長基線電波干渉法(Very Long Baseline Interferometry=VLBI)観測で精密な銀河マップを作製することを目的に,日本各地にあるVLBI観測点を専用ネットワークで結んだ観測点の解析センターの役割を担っています。これらのデータ解析には精密な時刻測定が必要なため,国内では数少ない協定世界時(UTC)を刻む原子時計を運用し,データ解析に活用し,研究観測から得られたデータは,日本電信電話の時報(117),情報通信研究機構のJJY,NHKのラジオ放送の時報などに活用されています。

 2019年から,ブラックホールの影を世界ではじめて撮影に成功したチームに参加した本間希樹教授が所長を務めていますが,2020年度の天文台関連の予算が半分程度に減額されることとなって電波望遠鏡の停止や人員の補充が行われないなど研究への影響が懸念されていましたが,他の研究により予算が確保され電波望遠鏡の維持は可能となったそうです。また,2021年には必要最低限の研究が可能な予算要求がほぼ満額で決定されたといいます。

 私は,この観測所のことは昔から知っていましたが,光学望遠鏡があるわけでないからまったく興味もなく,どこにあるのかも知りませんでした。
 2019年,宮沢賢治にちなんだ花巻に興味をもち,また,ブラックホールの写真撮影に成功した本間希樹教授が所長ということで行ってみたくなって,東京から深夜バスに乗って出かけてきました。行ってみて,私はこの地が大好きになりました。また,水沢VLBI観測所で行っている研究にも興味をもちました。
 奥州市は遠いところでしたが,今は,県営名古屋空港から花巻空港までFDAが飛んでいるので,行くことは容易になったので,また,訪れてみたいものです。


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☆☆☆☆☆☆
 花山天文台は京都市山科区の花山山山腹に位置する天文台。京都大学大学院理学研究科附属の施設で,1929年(昭和4年)に設立されました。 天文台のある山は標高221メートルの花山山で「かざん」あるいは地元では「かさん」とも読まれています。
  ・・
 京都大学における天文学研究は1897年(明治30年)に設立された京都帝国大学理工科大学にさかのぼります。当初は大学敷地内において観測を行っていて,佐々木哲夫によるフィンレー彗星 (15P/Finlay) の観測はこの時期のことです。
 1921年(大正10年)に理学部物理学科が分割されて宇宙物理学科が設置されましたが,大学付近における市電の開通などに伴い観測環境が悪化したので移転が検討されるようになりました。
 花山山にある土地が地主から大学に寄付されたので,2年の工事によって天文台が建設され, 1929年(昭和4年)に花山天文台が設立されました。初代天文台長は山本一清でした。
 京都帝国大学附属の花山天文台は,東京帝国大学附属の東京天文台(現・国立天文台)と並んで日本における天文学研究の拠点でしたが,京都と東京では天文学用語が異なっていることもしばしばでした。東京で「惑星」とよんでいたのに対して,京都では「遊星」,また,1930年(昭和5年)に発見されたPlutoについて,東京では「プルート」を用いたのに対し,京都では野尻抱影が提唱した「冥王星」を早くから受け入れていました。

 設立から長い間,観測施設施設として利用されてきましたが,京都市の人口増加に伴って光害や大気汚染などの環境の悪化により,1968年(昭和43年)に新設されたの飛騨天文台設立にその地位を譲りましたが,現在でも「教育施設」として重要な役割を果たしています。
 花山天文台は,2013年「京都を彩る建物や庭園」に選定され,2014年に「京都を彩る建物や庭園」に認定されました。

●口径45センチメートル屈折赤道儀
 この望遠鏡は,1927年(昭和2年)理学部宇宙物理学教室で購入し,1929年(昭和4年)に花山天文台が創設されたとき移設されました。
 当初は口径30センチメートルのレンズがついていましたが,1969年(昭和44年)に性能向上のため,カール・ツァイス製の45センチメートルレンズに換装され,これによって,焦点距離が675センチメートルと伸びたので鏡筒が長くなってしまいました。
 そこで,架台とのバランスが崩れるのを防ぐために,対物レンズから入った光を末尾の反射鏡で受けて折り返し,鏡筒の真ん中付近に接眼レンズを設けるというユニークな工夫がされているので,一般的な屈折式の望遠鏡とは少し違った外観となっています。
 これがまあ,京都らしいというか,私は好きです。
●口径70センチメートルシーロスタット
 1961年(昭和36年)に設立された太陽館に設置されて,太陽の分光スペクトル観測望遠鏡として活躍しています。現在は大学院生の研究指導や理学部学生に対して課題研究と課題実習の実習教育を実施しています。


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 日本の天文台について,これまで三鷹,飛騨,岡山と,3回書きましたが,その続きです。
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 木曽観測所は,長野県南西部に位置する木曽町三岳の標高1,120メートルの尾根伝いに広がった緑豊か な台地に建設されています。
 木曽観測所は,1974年(昭和49年)に東京天文台の観測所として開設されました。1988年(昭和63年)に国立天文台に改組されたのに伴って,国立天文台の組織から離れて,現在は,理学部附属天文学教育研究センターの観測所となっています。
 木曽観測所の設立目的は,口径105センチメートルシュミット望遠鏡による銀河系内外の諸天体の観測的研究,並びに夜天光の観測を行なうことでした。

●口径105センチメートルシュミット望遠鏡
 木曽観測所のシュミット望遠鏡は,補正板口径が105センチメートル,主鏡は150センチメートル,焦点距離は330センチメートルで,F比は3.1です。
 木曽観測所では,シュミット望遠鏡の広い視野を活かした様々な観測プロジェクトが実施されていました。
 木曽観測所におけるシュミット望遠鏡の観測プログラムは,パロマ天文台のシュミット望遠鏡である「サミュエル・オシン望遠鏡」(The Samuel Oschin telescope)のように全天域を隈無く観測するのではなく,掃天探査を要する研究テーマを主とし,個別の研究 テーマをこれに加える形で月ごとに編成されました。
 建設当時は写真乾板が観測の主流だったのが,最新の固体撮像素子技術を導入して微光天体を高感度かつ精密に測定する必要が生じたため,1987年にCCDカメラの開発が開始され,さらに,2012年には超広視野モザイクCCDカメラに置き換わりました。また,2019年からは,さらに超広視野のCMOSカメラ「Tomo-e Gozen」が本格運用を開始しました。
 私は,このシュミット望遠鏡にとても親しみがありました。そして,ついに,2019年の公開日に,その実物に触れることができました。

 こうしていろいろと書いていると,何もかも,このコロナ禍の前に夢が実現したことに幸運を覚えます。
 見学してわかったことは,この望遠鏡もまた,老朽化したものをなんとか生き延びさせて活躍の場を与えようと苦労していることです。しかし,シュミット望遠鏡という形式自体が今では古いことと,赤道儀という架台の形式もまた,時代に取り残されていることから,現状を維持することがたいへんだということです。
 そうしたことも,何だか,30年以上前に買って,今も使っている私の古びた望遠鏡と同じように,親近感を抱きます。

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 適塾を出て,次に行ったのが,梅田スカイビル空中庭園展望台でした。大阪の街を高いところから見てみよう,というわけです。
 今から40年以上前,はじめて大阪に行ったとき,当時は,プロ野球の球団に阪神タイガースと阪急ブレーブスが競っていました。そこで,大阪駅を降りて外に出たら,左手に阪神百貨店,右手に阪急百貨店がそびえていて,感動したものでした。私は今でもその印象が強烈なのですが,現在は,もう,高層ビルが乱立していて,よそ者にはどのビルがどんなビルなのか,訳がわかりません。先日行った天王寺駅も同じように訳がわかりませんでしたが,それと同様です。
 この国は東京をはじめとして,大阪,博多などの都会だけがどんどんと進化し,行くたびに違う姿をみせています。それに対して,地方都市は,そりゃまあ,どこも悲惨な状況です。

 念願だった適塾を見てから,北に向かってしばらく歩いていくと,そんな大阪駅に着きました。ここから地下道を通って梅田駅の北口に行くことができて,そこで地上に出て西に行くと,めざす梅田スカイビルが見えてきました。地上に出ず,そのまま地下でつながっていれば,と思いました。
 さて,私の目的地は梅田スカイビルの展望台だったのですが,その前に目についたのが地下街に行く通路でした。そこで,レストランでもあれば昼食をとろうと,とりあえず降りていくと,そこにあったのは「滝見小路」という,古き良き昭和の街並みを再現した昭和レトロ商店街でした。
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 「滝見小路」は,自然の森にある列柱滝を眺める商店街で,どこか懐かしくなぜか新しい風情を感じながら料理やお酒を堪能できます。
 稲荷神社,三輪自動車や井戸など,歩くだけでも楽しめる街並みも見どころです。
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 というところで,レストランがたくさんあったのですが,まだ時間が早くどこも開店していませんでした。まもなくレストランが開店しはじめると,すぐに長蛇の列ができはじめました。
 私は,人混みが嫌いなので,そんなところで食事をする気もなくなって,近くにあったココイチで昼食をとりました。

 さて,食事を終えて,いよいよ空中庭園展望台へ向かいました。
  ・・・・・・
 地上40階,地下2階,高さ約175.295メートルの梅田スカイビルは,1993年に完成しました。ウェスティンホテル大阪とともに新梅田シティを構成しています。
 タワーイースト,タワーウエストの2棟で構成され,その頂部を連結するように円形の空中庭園展望台が設置されていて,両棟を行ききするため,22階に連絡通路が設けられています。
 空中庭園展望台は1993年に開業しました。超高層ビルの展望台は屋上に設置されているので,360度の視界と全天を風を感じながら展望を楽しむことができます。
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 聞いてみたら,大阪市には,梅田スカイビル空中庭園展望台よりも100メートル以上高い,高さ287.6メートルのあべのハルカスの60階に位置するハルカス300という天上回廊があるということでした。こちらはフロア全体にガラスを配した屋内回廊だそうです。私は行ったことがないので,今度行ってみよう。

 エレベーター,エスカレーターと乗り継いで,空中庭園展望台に出て,景観を楽しみました。
 私も海外に行くと,まず,高いところからその町を一望してみたいと思うわけで,それと同じように,ここもまた海外からの来訪者がたくさんいました。
 ふたり連れの場合,ふたりが入った写真を撮るのに苦労していることも少なくなく,そんなとき,声をかけてあげると,とても喜ぶので,ここでも,そうしていたふたり組の女性に声をかけて,写真を撮ってあげました。どこから来たかと聞くと,彼女たちはアメリカから来たと言っていました。アメリカ人というのは,意外なことにけっこう珍しく,アメリカ人の話す英語を久しぶりに聞いて,また,アメリカに行ってみたくなったことでした。
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 梅田スカイビル空中庭園展望台を堪能してから,地上に降りて,そのまま南へ向かって歩き,大阪中之島美術館で開催されていた「醍醐寺展」を見てから,フェスティバルホールでの演奏会へ行きました。

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 2024年6月30日に,大阪のフェスティバルホールで,井上道義指揮NHK交響楽団の演奏会を聴いたことは,すでに書きました。
 せっかく大阪に行くのだから,午後4時からの演奏会の前にどこかへ行ってみようと,岐阜羽島駅から「こだま」の自由席で新大阪駅に着いたのは,まだ,早朝8時過ぎでした。
 今回,私がぜひ行きたかったのは適塾でした。
  ・・・・・・
 適塾(てきじゅく)は,正式名称を緒方洪庵の号である「適々斎」を由来とする適々斎塾(てきてきさいじゅく),別称を適々塾(てきてきじゅく)といい,緒方洪庵が江戸時代後期1838年(天保9年)に大坂船場に開いた蘭学の私塾で,幕末から明治維新にかけて,福澤諭吉,大村益次郎,箕作秋坪,佐野常民,高峰譲吉など多くの名士を輩出しました。現在の大阪大学医学部の前身です。
 適塾は現存し,わが国唯一の蘭学塾の遺構として,また,江戸末期の大阪の船場町屋の遺構としても貴重なものとして,1976年(昭和51年)から実質5年を掛けて解体修理を行い,修復を機に広く一般に公開しています。
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 私が適塾を知ったのは,1977年に放送されたNHK大河ドラマ「花神」でした。
  ・・・・・・
 一人の男がいる。
 歴史が彼を必要とした時,忽然として現れ,その使命が終ると,大急ぎで去った。
 もし,維新というものが正義であるとすれば,彼の役目は,津々浦々の枯れ木にその花を咲かせてまわることであった。
 中国では「花咲じじい」のことを「花神」という。
 彼は「花神」の仕事を背負ったのかもしれない。
 彼,村田蔵六。のちの大村益次郎である。
  ・・・・・・
からはじまるこのドラマは傑作でした。
 「花神」は,周防の村医者から倒幕司令官に,明治新政府では兵部大輔にまで登りつめた日本近代軍制の創始者・大村益次郎を中心に,松下村塾の吉田松陰や奇兵隊の高杉晋作といった,維新回天の原動力となった若者たちを豪快に描いた青春群像劇で,司馬遼太郎さんの小説「花神」「世に棲む日日」「十一番目の志士」「峠」「酔って候」から「伊達の黒船」といった作品を脚本家の大野靖子がドラマ化したものです。
 第1回は,長州の村医者出身の村田蔵六が蘭学修行のため大阪にある緒方洪庵の「適塾」の門を叩くところからはじまります。好学家で優秀だった村田蔵六は,特段野心があるわけでなかったのですが,時代がそれを許さず,技術者,そして軍人として故郷長州の動乱に巻き込まれていくのです。

 私は,かつて一度,適塾を訪れたことがありますが,あまり記憶がありません。
 公開されていなかった,と書いたブログもあり,入れなかった,という人もありますが,それがいつのことだったのか忘れましたが,私は内部も見学できました。その後,私も歳をとり,少しは知識も増したので,もう一度行ってみようと,数年前,大阪に行った折りに訪ねてみましたが,そのときは改装中で公開されていなかったので,今回,ぜひ,と思っていました。
 この日は,改装されて新しくなった建物に入ることができました。そして,感激しました。歳をとって涙腺の緩くなった私は,この時代の若者の姿をイメージするだけで泣けてくるのです。
 司馬遼太郎さんの小説「花神」に「蔵六は,塾のものとはあまりつきあいをしない。彼は物干し台が好きであった」と描かれている物干し台も現存し,緒方洪庵の像の背後に見ることができます。

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 西新井大師に行って,さらにまだ時間がありました。さて,どこに行こうかと考えていて,思い出したことがありました。それは,以前,亀戸に行ったとき,亀有公園前派出所とかいう漫画の舞台がここではないか? ならば,何かゆかりのものがあるのでは… と探してみたことがあったのです。もちろん,亀戸は亀有ではないからそれは大間違いだと気づきました。では,亀有はどこか? ということで,いつかその場所に行ってみたいと思ったことでした。
 地図で確認してみると,何と,亀有は西新井大師からまっすぐに東に行ったところではないですか! そして,どうやら,そこまではバスで行くことができそうでした。しかし,今もってよくわからないのですが,西新井大師から亀有へ直接行くバスが,午前11時57分と午後1時41分2本のみ,ということだったのです。では,それ以外の時間がどうやって行くのだろう?
 幸いにして,私が亀有に行こうと思いついたのが午後1時30分ごろだったので,奇跡的に1日に2本しかないバスのうちの1本に乗ることができたのです。
 少し遅れてバスが来たので乗り込みました。亀有まで思ったより距離がありましたが,やがて亀有に到着しました。

 とはいえ,実は,私は,アニメとか漫画にはまったく興味がなく,「こちら葛飾区亀有公園前派出所」は名前を知っているだけで,読んだことさえなかったから,もちろん内容も知りませんでした。
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 「こちら葛飾区亀有公園前派出所」は,秋本治さんによる,「週刊少年ジャンプ」で1976年から2016年まで連載された,葛飾区の亀有公園前派出所に勤務する両津勘吉(りょうつ かんきち)を主人公に,その同僚や周辺の人物が繰り広げるギャグ漫画です。
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 亀有には「こちら葛飾区亀有公園前派出所」にちなんだ何がしかのものがあるだろうと思ったのですが,着いてみて驚きました。この町は「こちら葛飾区亀有公園前派出所」だらけだったのです。
 まず,JR亀有駅前にモニュメントがありました。そして,亀有公園にもベンチに座った銅像が!
 暑かったので,何か冷たいものでも,と喫茶店に入って氷を食べていたら,店の人が「亀有両さん銅像めぐりマップ」なるものをくれました。こうなると,何事も徹底的にやってみたくなる私は,そのマップに乗っていた銅像をすべて見ることにしたのです。そして,時間を気にしながらも,どうにか制覇しました。

 さて,こんな予定外のことをしていたので,この日の目的であるNHK交響楽団の定期公演の時間がせまってきました。間に合うのかな? と心配になりましたが,これもまた,何と,JR亀有駅は常磐線であるにもかかわらず,千代田線に乗り入れていて,そのまま乗っていれば,明治神宮まで乗り換えなしで行くことができたのです。本当に,東京はよくわからないところです。どうして亀有駅から原宿駅まで直通で行くことができるのだろう? と不思議な気がしました。
 そんなわけで,2024年6月6日から旅に出た私は,尾瀬に行った帰りの6月8日,西新井大師と亀有で半日を過ごしたのち,NHK交響楽団の定期公演を聴いて,午後9時6分の「ひかり」665号で帰宅することができました。

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 西新井大師は,駅からすぐのところにありました。まず,参道にあった食堂で昼食をとりました。なかなかおいしいおそばでした。そして,境内に入りました。思った以上に立派な寺でした。
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 西新井大師は,正式には五智山遍照院總持寺(ごちさんへんじょういんそうじじ)といい,真言宗豊山派の寺で,古くから「関東の高野山」ともよばれています。
 空海が関東巡錫の途中,西新井を通った際に,本尊である観音菩薩の霊託を聞き,本尊の十一面観音を彫り,826年(天長3年)に寺院を建立したことにはじまるとされます。
 空海=弘法大師から,西新井大師ということです。
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 立派だと思った本堂は,江戸時代中期に建立されたものが1966年(昭和41年)の火災で焼亡したので,1971年(昭和46年)に再建されたものです。

 西新井大師は,川崎市の川崎大師,香取市の観福寺大師堂とともに関東三大師のひとつに数えられるそうです。境内に空海によってもたらされたとされる加持水の井戸があって,この井戸が本堂の西側に所在することから西新井とよばれるということです。
 私がまず興味をもったのは,塩が積まれている地蔵でした。これは「いぼ取り地蔵」いう塩地蔵尊で,江戸時代からいぼ取りに霊験ありと伝えられているものだそうです。
 次が,1884年(明治17年)に建立された三匝堂(さんそうどう)でした。この建物は,都内に残る唯一の栄螺堂です。栄螺堂といえば,少し前に行った会津若松市で見たことがあります。
 また,奥の院は,高野山奥の院を江戸後期に勧請したものです。
 ボタン園もあって,この時期,アジサイやハナショウブが見事でしたが,ほんどの参拝客が素通りしていくのが不思議でした。都心でこんな庭園はほとんどないというのに。

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 2024年6月8日,念願の尾瀬歩きを終えた私は,高崎駅午前10時39分発の「とき」314号で午前11時28分に東京駅に戻ってきました。
 この日は,夜6時からNHKホールでNHK交響楽団第2010回定期公演を聴くのですが,それまで時間がありました。何をしようかと考えて思いついたのが,西新井大師へ行くことでした。
 東武鉄道の西新井駅からたったひと駅の大師前駅まで東武大師線というのがあります。その東武大師線の大師前駅は無人でありながら自動改札がなく改札口が開放されているということをネットで見ておもしろいと思ったことと,西新井大師自体にも興味をもったことがその理由でした。
 東京は,原宿とか池袋とか上野とか浅草といった,多くの人であふれかえるところもあれば,少し離れるとけっこうのどかな,昔の東京らしさが残っている場所があるのです。

 調べてみると,東京メトロ大手町駅から西新井駅まで東武鉄道が相互乗り入れしているので,直通で行くことができることがわかりました。
 東京の鉄道網は,相互乗り入れだらけで,地下鉄に乗っているつもりなのに,私鉄であったりして,何が何だかわかりませんし,どこに行くのかも定かでありません。しかも,それがわかりやすく説明してあるサイトすら探してもないのです。おそらく,ほとんどの人は,アプリの乗換案内で調べて,どの鐡道会社が乗り入れているのか疑問にも思わず,単に乗っているだけでしょう。しかも,Suicaを利用しているから,料金体系すらわかっていないと思われます。私も同様です。
 そんな次第で,ともかく,西新井駅に到着して,そこで自動改札を通って,東武大師線のホームに入りました。こんな盲腸みたいな路線が存在してるのが不思議なことでしたが,想像していたより利用者が多く,しかも,列車も頻繁に発車します。乗ったらすぐに大師前駅に到着しました。
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 大師前駅は,大正時代,東武伊勢崎線と東上線を結ぶ連絡線上の駅として開設しました。しかし,その連絡線案が進展しないうちに第2次世界大戦による東京への大空襲が激化したため営業は休止。戦後,再び営業を開始しました。
 自動改札機,自動券売機,自動精算機は設置されておらず,乗車券発売や改札などの機能については,西新井駅構内の乗換通路上に当駅発乗車券が購入出来る券売機や連絡専用自動改札機を設置して処理をしています。
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 念願の尾瀬を歩き終えて,尾瀬戸倉から沼田駅行きのバスに乗り,途中の中町で降りて,再び,ホテルサンルート沼田に戻ってきました。
 このホテルには,大浴場とレストランがあったので,これがとてもよかったです。
 まず,大浴場で体を休めて,そのあとで,ゆったりと夕食を楽しむことにしました。これこそが,海外旅行では味わうことができない日本の旅のよさです。こんな楽しみを覚えてしまうと,海外旅行をする気がなくなってしまいます。

 2024年6月8日。
 翌朝はホテルで朝食をとりました。朝食の時間は午前7時からでしたが,その5分前にはすでに数人が列を作っていました。広い食堂でしたが,私が食べ終わるころには列はすごい長さになっていました。東横インもそうですが,朝食の無料バイキングというのはよし悪しです。朝から憂鬱になります。
 朝食後チェックアウトして,沼田駅に向かいました。ホテルのある市街地から沼田駅までは下り坂なので楽です。来たときは,失敗した,この先どうなるかと心配でしたが,結局,沼田駅から坂を上ったのは着いたときだけでした。状況がわかったので,次回尾瀬に来ることがあれば,また,同じホテルに泊まるかもしれません。あるいは,沼田駅から尾瀬戸倉の間には,老神温泉(おいがみおんせん),片品温泉(かたしなおんせん)があるし,戸倉にも旅館があるので,もし,そうした場所の旅館が安価ならばそこに宿泊するという方法もありますが,さほど時間は違いません。
 この日は土曜日。私が沼田駅に着くと,昨日私が尾瀬戸倉まで乗ったバスにのるために多くの観光客が並んでいました。旅は,週末にするものではないなあと思いました。
 私は,沼田駅から高崎駅まで行き,そこで,上越新幹線に乗り換えて,東京へ向かい,東京でNHK交響楽団の定期公演を聴いたのち,帰宅します。NHK交響楽団の定期公演のことはすでに書きました。

 高崎駅は,上越新幹線と北陸新幹線が合流する駅です。上越新幹線には,新潟駅始発の「とき」と,途中の越後湯沢駅始発の「たにがわ」があります。また,北陸新幹線には,敦賀駅始発の「かがやき」「はくたか」と,途中の長野駅始発の「あさま」がありますが,「かがやき」は高崎駅は通過します。
 東海道新幹線には「のぞみ」「ひかり」「こだま」があって,私にはその区別がつくのですが,上越新幹線と北陸新幹線のことはなじみがないのでその区別がわかりません。そこで,ほとんどの駅を通過する列車なのか,たくさん停車駅がある列車かを区別するために「LEVEL1」「LEVEL2」とか,「Grade1」「Grade2」,もっと単純に(新幹線の)「特急」「急行」いった名称を通称のあとにつければいいのに,と思います。たとえば「-LRVEL1ーとき」「-LRVEL2ーたにがわ」とか「特急とき」「急行たにがわ」といった感じです。
  ・・
 私は,高崎駅午前10時39分発東京駅午前11時28分着の「とき」314号の座席指定券をもっていたから,列車が来るまでずいぶん時間がありました。早い列車に座席指定を変更すればよかったのですが,めんどうだったので,そのまま待ちました。しかし,それまでに,いくらでもがらがらの列車が来て自由席に座ることができたのに,新潟駅からやってきた「とき」はすごく混んでいました。高崎駅から「とき」に乗るのは最悪の選択でした。実際は,座席指定券など購入せず,自由席でよかったのです。いい経験になりました。

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 実際に歩いてみて,ようやく尾瀬というところがわかった私でした。
 何の準備もなくやってきたので,今回はこれで帰ることにしました。危惧していたのとは違って,尾瀬は人だらけではありませんでしたが,午後になって,次第に人が増えてきました。平日の午前中にやってきたのが正解だったようです。
 まず,竜宮十字路から山ノ鼻まで戻りました。至仏山の裾が鼻のように突き出ているところから名づけられた山ノ鼻には,レストランがあったので,ここでおそばを食べました。
 来たときは,何も知らなかったので,期待に胸を膨らませて坂道を下りましたが,帰りが大変です。山ノ鼻から鳩待峠まで,5キロメートル以上の距離,標高200メートルほど坂を上らないといけません。尾瀬ヶ原の雄大な景色を見るには,誰しも,この試練を乗り越える必要があるのです。

 私は,急ぐ旅でもないので,ゆっくりと歩いていましたが,周りでは,難儀をしている初老の女性たちが大勢いました。団体ツアーで観光バスに乗って尾瀬戸倉まで来るのは簡単ですが,その先は誰しも自力で行くしかないのです。
 次第に空が暗くなってきて,やがて小雨が降ってきました。
 朝方はとてもよい天気だったので,山ノ鼻の案内所で,午後は雷雨になるかもしれない,と聞いたときは,まさか,と思いましたが,その通りになってきました。
 私の持っていた傘が役立ちました。山ノ鼻から鳩待峠までは,坂とはいえ,登山ではないから,傘をさして歩けないほどではないのです。傘を持たず,ビニール製のカッパを持っていた人が多くいたのですが,それを着たら暑くて歩けないのです。この人たちは,雑誌にのっているような服装をして,重い荷物を背負っていても,肝心なものを持参していないわけです。
  ・・・・・・
 快適な登山にするためにはレインウェア選びが大事です。登山用のレインウェアは「防水性」だけ優れているわけではなく,運動をするときと同じように長時間の登山はたくさんの汗をかくので,【安価で販売されているビニールカッパなどは「防水性」は優れていますが汗を発散させる「透湿性」が備わっていないから,汗を外部に放出できず衣服の中がムレ,汗だくの状況で登山することになると大変危険なのです】。
 そこで,登山では,「防水性」はもちろんですが高性能な「透湿性」も兼ね備えた「ゴアテックス」素材のレインウェアを選ぶことが大切です。
  ・・・・・・
ということなのです。

 私は,何とか,小降りのうちに鳩待峠まで着くことができました。ちょうど出発時間だったので停まっていたシャトルバスに乗りこんで,尾瀬戸倉のバス停で降りました。ここでバスを乗り換えて,沼田市内まで戻ります。時刻は,まだ午後2時くらいでした。
 バスを待っていると,朝出会ったスペインから来た女性がやってきて,再び合流しました。彼女は私が乗ってきた次のシャトルバスに乗ってきたようです。そのころ,尾瀬の方向を見ると,真っ黒な雲が立ち込めて雷音がたなびきはじめました。午後に尾瀬を歩きはじめた人たちは,今ごろどうなっているのだろう? と心配になりました。大平原では逃げ場がありません。ここでもまた,強運な私は,事なきを得たのです。
 やがてバスが来ました。
 沼田駅に行く途中で,スペインから来た女性とはお別れをして,私は,沼田駅の3つ手前の中町バス停で降りました。いくらいい加減な私でも,このころには,ここで降りればいいということは調べがついていました。中町のバス停からはホテルルートイン沼田はわずかな距離で,ここで降りれば,沼田駅まで行って坂道を登らなくてもすむのです。中町で降りたときは,雨は降っていませんでした。どうやら,尾瀬のあたりだけの雷雨だったようでした。
 こうして,私のはじめての尾瀬歩きが終わりました。次回があるなら,今度は,会津口から尾瀬沼を目指したいものだと思いました。

 ここからは余談になります。
 こうした山歩きで不安になるのはトイレです。
 アメリカでは,こうした山歩きやキャンプ場では,水洗トレイはありませんが,どこもとてもキレイでした。清潔さを保つための特別な薬品があるようでした。それに対して,従来,日本では,登山やキャンプ場では,利用する気にならないような,悪臭漂う不衛生なものが多かったから,尾瀬でもそれが心配でした。しかし,尾瀬では,有料でしたが,どのトイレも水洗でとてもきれいでした。こうしたことだけでも,尾瀬を大切にしている多くの人がいるのだと感謝しました。
 それにしても,日本は,何事も,やらないところは徹底的にひどく,やるとなると,今度は,行き過ぎるくらいにやる国だと,いつも思います。

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 分岐がありました。私は,ここが竜宮十字路だと思いましたが,実際は,その手前の牛首分岐でした。牛首分岐から,ほとんどの人は竜宮十字路に向かって歩いていきます。私もその予定でしたが,地図で確認すると,ここから左手に行くと,ヨッピ吊橋へ至り,そこから竜宮十字路に行くことができるのを知りました。ちょうど直角三角形のような感じです。
 直接竜宮十字路へ行けば約40分,ヨッピ吊橋を経由すると約80分です。迷ったのですが,せっかく来たのだからと,ヨッピ吊橋を経由することにしました。
 思ったより遠く,次第にめげてきたころに,やっとヨッピ吊橋に到着しました。ヨッピ吊橋は思っていたような,山の中のつり橋ではなく,鉄製のどおってことない橋だったので,がっかりしました。何せ,私は,つい1週間ほど前に,奥大井のこわ~いつり橋をふたつも渡ってきたところだったのですから。

 ヨッピ吊橋からさらに東に進むと,東電分岐に至り,その先には平滑ノ滝があり…,というように,尾瀬はどんどんと深みにはまっていきます。こうなると,果てしがありませんが,これこそが尾瀬の魅力なのでしょう。山登りも,上るときよりも,どこかで中断して引き返すことのほうが難しいといいます。
 私は,何の準備もなく時間も限られていたからそんな深みにははまらず,竜宮十字路へ向けて歩きはじめました。ヨッピ吊橋から竜宮十字路までは単調な道が続いていました。竜宮十字路では,多くのがお昼を食べていました。
 私の歩いたような初心者向けの半日コースでは,このあたりでお昼を食べて帰る,というのが楽しみだったのです。もちろん? 私は,お昼ご飯など持っていませんでした。竜宮十字路から少し行ったところに竜宮小屋があって,そこで昼食がとれるようでしたが,ここでおなかをいっぱいにしてしまうと,歩くのが大変になりそうだったので,やめました。
 それにしても,こうした山小屋に物を運ぶのは大変そうです。尾瀬ヶ原を歩いていたときも,背中に20キログラム以上の荷物を担いだ人とすれ違いました。

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 私は,この時点でも,まだ,尾瀬というところがよくわかっていませんでした。よく写真で見る尾瀬のミズバショウ咲く大平原は,いい加減な私には縁遠く,今回ちょっと歩いたくらいでは見ることはできないだろう。だから,尾瀬というところがどこにあって,どのくらいの人が来ているのか,ということがわかればいいや,と思っていました。そもそも,尾瀬を歩くような恰好をしてきたわけでもなく,持ち物といっても,帽子と財布と念のための傘と汗拭きタオルが入ったナップザックを背負っているだけでした。
 私は,バスで知り合ったスペインから来たという女性と,山ノ鼻まで,何となく一緒に歩いてきました。山ノ鼻に案内所があったので中に入って,まず地図をもらい,半日くらいで歩けるコースを聞きました。驚くことに,私がイメージしていたミズバショウ咲く尾瀬の大平原は,もうこのあたりから少し歩くだけで見られるとのこと,そして,そのあとはずっと同じような景色が続くだけだから,適当なところまで行って帰ってくればいいと言われました。さらに,午後は雷雨になるかもしれないという話を聞き,これには驚きました。

 こうしたことを伝えて,スペインから来たという女性とはここで別行動をとることにしました。彼女のほうが若いし,わたしよりずっとたくさん歩くつもりだったからです。私は,適当なところまで行って引き返すことにしました。
 こうして,尾瀬を歩くことになって,帰ってから改めて調べてみると,尾瀬は,西側の尾瀬ヶ原と東側の尾瀬沼があって,その周りを山が囲んでいる場所だということがわかりました。そして,初心者が歩くには次のふたつのコースがあるのでした。
①沼田口から来て尾瀬ヶ原を歩くコース
 これは私が今回歩いたコースで,ミズバショウ咲く尾瀬というのは,この場所のことでした。そして,まさに今がハイシーズンだったので,初心者が尾瀬を歩くにはもっとも的確なコースでした。
②会津口から入って尾瀬沼を歩くコース
 もうひとつがこのコースで,①のコースより若干きついようです。こちらは,ミズバショウではなくニッコウキスゲの花が咲くところで,シーズンは7月中ごろ,ということです。

 案内所でもらった地図に従って,山ノ鼻から歩きはじめました。山ノ鼻からはずっと平原で,どれだけでも歩けるように思いました。
 山ノ鼻から竜宮十字路まで約4,200メートル,1時間30分ほどということだったので,そこまで歩いて引き返すことにしました。
 すばらしい風景でした。アメリカの国立公園のような,日本にこんな広大ですばらしいところがあるのも驚きでした。ちょうどミズバショウが咲いていたことで,感動はさらに増しました。私がこの時期にやってきたのは,ミズバショウが咲いているから,ではなく,そんなことは全く知らず単なる偶然なのでした。また,ミズバショウ以外にも,小さな黄色いリュウキンカをはじめとして,ヒメシャクナゲ,ミツガシワなど多くの花々を見ることができました。幸い,条件がよければ燧ケ岳(ひうちがたけ)がきれいに池に映って見えるという「逆さ燧」(さかさひうち)も見ることができました。
 それにしても,開発という名目で自然破壊が大好きな日本人なのに,よくぞこれだけの湿原を残してくれたものだと感謝しましたが,これには,平野長蔵さん,平野長英さん,平野長靖さんといった平野家三代をはじめとする先人たちの偉大な努力があったからこそ,ということを知りました。
 歩きはじめて約40分で途中の牛首分岐というところに着きました。

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 沼田駅から尾瀬戸倉までバスで1時間23分もかかり,到着は午前8時43分でした。
 途中で,外国人の女性が乗り込んできました。そのまえに,バスには沼田市内から再び高校生が乗り込んできていて,やっとふたりが座れる狭いふたり掛けの席はそれぞれひとりずつが座っていて満員でした。一番後ろの席に座っていた私の横だけが空いていたので,彼女はそこに座りました。しばらくして,片言の日本語で,「このバスは尾瀬戸倉に行きますか」と聞いてきました。日本語で答えてわからないと面倒だったので,英語で答えると,彼女は安心したように英語で話しかけてきて,打ち解けました。彼女が話しかけてきたのが私で幸運だったと思いました。彼女は,スペインからひとり旅で日本にやってきて,各地を回っているのだそうだそうです。
 沼田市内から乗り込んだ高校生たちはいったいどこの高校に行くのだろうとずっと思っていたのですが,一向に降りる気配がありませんでした。バスは次第に山の中に入っていきます。どうして都会からこんな辺鄙な学校に通っているのか不思議でした。
 高校生たちが降りたのは,乗車して40分くらいして到着した尾瀬高校でした。あえて尾瀬高校を選ぶ理由があるのでしょうか。

 高校生たちが降りてしまうと,乗客は,私と,同じく沼田駅で乗った尾瀬へ行くと思われる若者と,スペインから来た女性の3人になりました。
 尾瀬戸倉に着きました。降りたのは,私とスペインから来た女性のふたりでした。若者は,大清水まで行くようでした。
 尾瀬の入り口は,南側の沼田口,東側の会津口,北側の越後口とあります。このうち,沼田口から尾瀬に行くには,私のように,尾瀬戸倉で降りてシャトルバスに乗り換えて鳩待峠まで行きそこから歩くか,大清水で降りてそこから歩くか,の2通りになります。鳩待峠からコースがもっとも初心者向けで,大清水からのコースはかなりきつい上り坂となります。
 さて,尾瀬戸倉で降りたことはいいのですが,そこから出るシャトルバスの乗り場がわかりません。乗ってきたバスの運転手に聞くと,橋を渡った先だと教えてくれました。もし,私がいなかったら,スペインから来た女性はここで困ったことでしょう。
 尾瀬は,マイカー規制があって,自家用車で来ても尾瀬戸倉から先は行くことができません。そこで,私と同じように,尾瀬戸倉からはシャトルバスを利用することになります。観光バスで来ても同様です。そこで,尾瀬戸倉には広い駐車場があります。また,新宿から尾瀬戸倉まで直行するバスもあるようです。
 シャトルバスは,一応,時刻表がありますが,人が集まり次第バスが出るようで,さほど待ち時間もなく乗ることができました。シャトルバスに揺られて約30分,やっと,鳩待峠に着きました。

 少し歩いたところに鳩待峠休憩所があって,そこが尾瀬の入口でした。
 多くの人が,雑誌に出てくるような恰好をして,屈伸運動をしたりして,これから歩く準備をしていました。そのほとんどは,私くらいの年齢の人たちでした。私は,とても山歩きだとは思えない普段通りの恰好をしていました。旅の荷物は当然ホテルに置いてきたから,この日は,カメラを肩にかけ,スマホをズボンのポケットに入れ,小さなナップザックに帽子と財布と念のための傘と汗拭きタオルが入っているだけでした。山登りをする上級者は別として,たかが尾瀬歩き。みなさん,なんと大げさな,と思いました。スポーツジムも自然散策も格好から入るのですな。家の近くでもこんな格好をして散歩してる人を見かけます。
 まず,山ノ鼻というところまで約1時間,3キロメートルほどの山道を,標高1,591メートルから1,400メートルまで,標高差約200メートルほど下ります。下りなので楽でした。しかし,歩きながら,帰りはこれを登ることになるのだ,ということに気づき,ゾッとしました。
 だれしも,尾瀬といえば,広々とした湿原に木でできた歩道が続き,ミズバショウが咲いている景色を思い浮かべることでしょう。私も,そんな景色見たさに尾瀬に来たわけですが,しかし,そんな景色はどこにもありません。単に山道が続いているだけでした。やがてミズバショウが咲いている場所に来て,少しは尾瀬を感じはじめたころ,山ノ鼻に到着しました。そこには,ロッジやレストラン,観光案内所があって,多くの人でにぎわっていましたが,私が想像していたあこがれの尾瀬の景色は果たしてどこにあるのだろうか?

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 沼田駅からえらく苦労してやっと到着したホテルルートイン沼田でした。バイキング形式の朝食がついていたのですが,翌日は出発が早いので,せっかくの朝食を取ることができないから,まず,ホテルの近くにあったコンビニで朝食を買ってから,ホテルにチェックインしました。
 このホテルは,東横インとは比べるべくもないデラックスなホテルでした。ホテルにはレストランもあって,夕食もとれます。また,大浴場もついていました。チェックイン後,まず大浴場に行って,汗を流して,早々に寝ました。

 2024年6月7日。
 尾瀬に行くためには,まず,坂を下って沼田駅まで行って,午前7時20分のバスに乗ることになります。実は,私の乗る沼田駅発のバスは,私が昨日歩いてきた坂を上り,沼田市街を抜けていくのでした。つまり,沼田駅まで行かずとも,ホテルに近い中町というバス停で待っていればよかったのです。
 私は,昨日,チェックインするときに,ホテルのフロントで最寄りのバス停を聞いたのです。しかし,フロントにいた女性は,何も知らず,尾瀬に行くバスに乗るには沼田駅へ行けというだけでした。ホテルルートイン沼田,ホテルは立派でもフロント係は失格でした。
 さて,私は,早朝,大浴場に入ってから,部屋で買っておいた朝食を取り,朝6時過ぎにホテルを出ました。せっかく来たので,沼田駅に行くまえに,少しだけ,沼田市街を散策することにしたのです。

 沼田市は中心にあった沼田城跡が広い公園になっていました。
  ・・・・・・
 さかのぼること約400年,名だたる戦国武将が争奪戦を繰り広げた沼田を治めたのが真田氏でした。市内には至るところに真田時代の痕跡が今でも数多く残っています。
 沼田城は,1532年(天文元年)に沼田万鬼斎顕泰(ぬまたばんきさいあきやす)が3年の年月をかけ築城しました。その後,真田昌幸が入城し,1590年(天正18年)に真田昌幸の嫡子真田信之が城主となり,5代91年間の真田氏の居城となりました。また,1597年(慶長2年)には五層の天守が建造されました。
 1681年(天和元年)5代城主真田信利が江戸幕府に領地を没収され,翌年,幕府の命により完全に破却され,その後再建はされませんでした。
  ・・・・・・
 沼田というのは,何とまあ味わい深いところだなあ,と思いました。
 もっと見たかったのですが,今回は沼田市の観光に来たのではないから,このくらいにしました。

 さて,昨日は,車道に沿ってかなり遠回りをして登ってきましたが,調べてみたところ,歩行者だけが通ることができる階段やら狭い坂道があることがわかったので,さほど時間をかけずとも,沼田駅に到着できました。しかし,この狭い坂道と階段,下るのは楽でも登るのはたいへんです。
 私が沼田駅に着いたとき,尾瀬に行くらしい身なりの若者がひとりバスを待っていました。バスに乗るのはその人と私のふたりくらかな,と思ったのですが,さにあらず。この日は平日。ちょうど通勤通学まっさかりで,列車が着くたびに,乗り降りする学生や通勤客でごった返して,バス停にも高校生の列ができました。
 やがてバスが来ました。バスの行先は大清水で,私の目的地は,そのひとつ前の尾瀬戸倉です。バスは,多くの高校生でいっぱいになりましたが,そのほとんどは,途中の沼田高校というバス停でで降りていき,そのあとは,数人の乗客だけが残りました。尾瀬の沼田口からのアクセスルートはこのバス一択なのに,これでは,尾瀬は私が懸念していたほど人混みではないのかな,と安心しました。しかし,それは,私が行ったのが金曜日だったから,ということが翌日判明しました。
 翌日の土曜日,私が尾瀬歩きを終えて,沼田駅から東京駅へ帰るために上越線に乗るとき,けっこうな人が駅で尾瀬に行くバスを待っている姿を目撃したのです。

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 高崎駅ではさほど待ち時間もなく,午後6時57分発の上越線に乗って午後7時47分に沼田駅に着きました。沼田市ははじめて行きましたが,一見,以前行った会津若松駅や会津田島駅のような感じでしたが,沼田駅は,会津若松駅や会津田島駅とはどこか違っていました。駅前だというのに商店街もなく,一体,繁華街はどこ? という感じだったのです。駅弁を食べておいてよかったと思いました。
 駅の真正面に小高い山があって,どうやらそこが沼田城のようでした。私が予約をしておいたホテルルートイン沼田は,地図で見る限りは,沼田城の近くで駅からさほど遠いところではないと思っていたのに,まったく見当たりません。
 私は,旅に出るとき,2食つきの小さな温泉宿に泊まるか,さもなければ,東横インに泊まるか,と決めています。東横インは,いろいろと不満はありますが,安価で駅から近いところにあるからです。しかし,沼田市には東横インがなく,唯一見つけたシティーホテルがホテルルートイン沼田だったのです。

 私は,とんでもないことに気づきました。それは,ホテルルートイン沼田は,あの小高い山の向こうではなかろうか,ということでした。いくら旅の荷物が少ない私としても,2泊分の着替えを入れたリュックサックを背負っていました。この小高い山を越えるのか,そして,毎日,駅まで往復するのか,と思ったら,気が滅入りました。失敗したな,と思いました。
 あとで,徒歩の場合は小高い山を越えるための階段や歩道があったのを知ったのですが,このときはそんなこともわからなかったから,車道をぐるりと遠回りすることになってしまいました。
 沼田駅を出発して,20分は歩いただろうか。汗まみれになりながら,やっと小高い山を越えました。すると,沼田市の繁華街が広がっていました。そして,そこにホテルルートイン沼田が存在しました。
 そうです。沼田という町の繁華街は,沼田駅付近ではなく,小高い山の向こうだったのです。しかし,私が事前に調べておいたGoogleMapsでは,そんなことはわかりません。帰宅してからストリートビューを見て,やっとその事実がわかりました。なんというおかしな町なのでしょう! この時点では,沼田「なんて」2度と来るものかと思いました。これでは,尾瀬を歩く前にくたばってしまいます。しかし…。

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 2024年6月7日,ついに尾瀬を歩きました。
 以前から,一度尾瀬に行きたいと思っていたのですが,ずっとその機会がありませんでした。6月8日の夜,NHK交響楽団の定期公演があったので,その機会を利用して,尾瀬に行ってみることにしました。

 2024年6月6日。
 午前中は用事があったので,それを済ませて,午後に家を出て尾瀬に向かい,翌日6月7日の朝から1日尾瀬を散策して,6月8日に東京へ行くことにしました。
 とはいえ,どのように行けばいいのか見当がつかず,また,尾瀬付近に適当な宿泊場所がなかなか見つからず,尾瀬を歩くには,尾瀬の山小屋に宿泊するのがいいと書かれてあっても,行ったこともないので,さすがにその勇気が起きず,と困り果てていました。
 今となっては,どうして沼田市に宿泊しようということにしたのかは思い出せないのですが,沼田市というところに,ホテルルートイン沼田を見つけ,沼田駅前から尾瀬の沼田口へアクセスできる尾瀬戸倉まで行くバスがあることがわかったので,東京駅経由で上越新幹線の高崎駅まで行って,そこから在来線に乗り換えて沼田駅へ,そして,6月6日と6月7日ホテルルートイン沼田に2泊し,6月8日に逆コースで東京へ行く,ということにしたのでした。

 さすがに何も調べずに行くのは無謀だと思ったので,事前に「るるぶ情報版・尾瀬」というガイドブックを買ったのですが,本で見るだけでは,1日で広い尾瀬のどこまで歩けるのか,険しいのか,どういう服装ならいいのか,などなど,わからないことだらけでした。そこで,とにかく,今回はお試しということで,細かいことは調べずに出かけることにしました。一度行けば,本など読むより多くのことがわかるに違いありません。とはいえ,すべては天候次第でした。ところが,そのころはまったく気づいていなかったのですが,私が尾瀬に行こうと思っていたときは,尾瀬にミズバショウが咲き乱れるハイシーズンだったのです! 何という幸運,だったことには違いないのでしょうが,すごい人だという風のうわさ…。人混みの嫌いな私は,楽しみを越えて憂鬱になってきました。
 ということで,テンションも上がりませんでしたが,ともかく,尾瀬に出かける日を迎えました。心配だった天気は,幸い,予報では晴れ! ということでした。名古屋駅午後2時43分発の「ひかり」510号に乗って東京駅午後4時42分着。「のぞみ」に乗らず「ひかり」に乗るのは,ジパング倶楽部を利用しているからです。東京駅のホームで駅弁を買って,事前に調べてあった午後5時52分発高崎駅午後6時49分着の「たにがわ」405号に乗りました。「たにがわ」405号はすべて自由席ということでしたが,車内は空いていました。おいしく駅弁を食べているうちに高崎駅に到着しました。

 私は,東京駅から先のことがよくわかっていなかったのですが,北海道新幹線,東北新幹線,秋田新幹線,山形新幹線,上越新幹線,そして,北陸新幹線,そのすべては,東京駅から出発して,途中の大宮駅で北海道新幹線,東北新幹線,秋田新幹線,山形新幹線と上越新幹線,北陸新幹線が別れ,さらに,高崎駅で上越新幹線と北陸新幹線が別れるわけです。そこで,高崎駅まで行くには,上越新幹線と北陸新幹線のどの列車でも,高崎駅を通過するものでなく自由席があるものなら乗ればよかったのです。そんなことすら知らないものだから,ホームで,何度かの新幹線を見送って,私が乗ることに決めていた「たにがわ」405号を待っていたのでした。アホですな。

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☆☆☆☆☆☆
 現在の私は「Sky & Telescope」というアメリカの天文雑誌だけを愛読しています。以前,ときどき購入して読んでいた「月刊天文ガイド」「星ナビ」という日本の天文雑誌はまったく手にすることがなくなりました。それは,歳をとった私の興味を満たさなくなってしまったからです。
 そんなわけで,これまで知らなかったのですが,先日,ひさしぶりに書店でこれらの雑誌をパラパラ開いてみたら,高橋製作所の広告がないのに驚きました。調べてみると,ネット上ではすでにずいぶん前から話題になっていたようです。
 私がはじめて「月刊天文ガイド」を購入したのは,1968年3月号でした。昨年引っ越しをしたのを機会に,持っていた雑誌のほぼすべてを破棄してしまったので,今も手元にあるのは,はじめて購入した1968年3月号だけですが,久しぶりにそれを見てみたら,そのころは多くの望遠鏡メーカーがあって,たくさんの広告が載っていました。しかし,今思うと,現在のニコンである日本光学工業と五藤光学研究所以外は,どの会社も小さな企業で,ほとんどの部品は下請けから買い集めてそれを組み立てて製品にしていただけように思います。そんな業界に新風を吹き込んだのが高橋製作所でした。
 多くの小さな会社はなくなってしまいましたが,数々の荒波を乗り越えて,今も存在しているのが高橋製作所とビクセン,そして,中国製の望遠鏡を輸入して販売しているケンコーくらいです。

 今から50年ほど前,望遠鏡は子供たちの憧れの存在でした。現在のアマチュア天文愛好家のほとんどは,そのころの子供がそのまま齢をとった人ばかりなので,かなりの高齢となっています。そして,今の子供たちの多くは天文に興味がありません。そもそも,興味をもとうにも星が見えないのだから,どうにもなりませんし,星空が美しいという触れ込みで売っている観光地に出かけることはあっても,わざわざそのために天体望遠鏡を買おうという人はほとんどいないでしょう。
 そんな時代に,天体望遠鏡「なんて」商売になるのでしょうか?
  ・・・・・・
 高橋製作所は1932年(昭和7年)に創立された鉄鋳物の製造会社でした。第2次世界大戦後に望遠鏡の製造をはじめた当初は,SWIFTというブランドの望遠鏡を海外に輸出していたようですが,1967年(昭和42年)に,タカハシブランドの望遠鏡を発売し,これが当時連載されていた「月刊天文ガイド」の望遠鏡をテストするという記事に取り上げられて好成績を残したことで,脚光を浴びました。そして,P型というハンディで高性能の望遠鏡を発売したことで,トップメーカーに躍り出たのです。
  ・・・・・・
 そのころは,高橋製作所から新製品が続々と生まれて,私もずいぶん購入した覚えがありますが,そうした購買意欲は「月刊天文ガイド」あってこそで,この雑誌が存在していなければ,この会社は存在していなかったことでしょう。それが,恩人である雑誌から広告の掲載を撤退してしまうというのは…。

 あるころから,高橋製作所は,いったいだれが買うのやら… と思うような,高性能,かつ,高価な望遠鏡しか製造しなくなってしまいました。これでは,あこがれていても手が出ません。さらに,ここ数年は,ほとんど販売している製品が同じままです。かつてのような,新製品にときめくこともなくなりました。
 それでも,その昔「月刊天文ガイド」創刊当時に,天体望遠鏡に憧れていた人たちが,やがて,定年退職を迎え,お金持ちになったので,再び昔の趣味を取り戻し,高価な機材を購入する人も少なくなかったと思うのですが,そうした人たちも,このような趣味を卒業する歳になってきました。とはいえ,車1台もの値段がするのでは,若い人には手が出せるものではありません。
 そんな事情もあって,風の噂では,日本国内ではあまり売れていないとか。これが,雑誌に広告を載せるのをやめた理由のひとつなのでは,ともいわれています。

 そのような理由だけに限らず,今や,日本中,満足に星が見える場所すらなくなってしまったことのほうが大きいのかもしれません。私が星見をしていた場所も,年々明かりが増えてきたり,道路できたりして,撤退を余儀なくされています。
 しかし,オートキャンプ場や,満天の星が見られることを売りとするようなホテルや施設が作られていることを考えると,満天の星を見たいという願望は少なくないものと思われますが,そうした人たちの願望と,現在販売されている望遠鏡に対する期待とが一致していないように感じます。これでは,ほんの一部の,高齢化した往年の天文ファンだけが,今も変わらず天文雑誌の写真コンテストに応募するために,高価な機材を使っているわけですが,そうした人たちは,もう絶滅危惧種となりつつあります。
 今や,若い人の価値観はそんなところにはないのです。
 たとえば,スマホで制御できて,軽くて,持ち運びが簡単にできて,自動で極軸をあわせてくれるような架台や,デジタルセンサーとコンピュータで画像を見せてくれるようなものが必要なのです。また,たまに星がたくさん見えるところに出かけたとき,美しい星の写真を撮りたいと気軽に持っていけるような機材があるといいなあと思っても,ビクセンだけがかろうじてそうした需要を満たす製品を販売しているだけで,高橋製作所の製品には,そうした需要に応えることもないし,また,そんな技術力もないようなのです。

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 ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番のあとに休憩がありました。
 休憩後,第2番のまえに演奏されたロッシーニの歌劇「ブルスキーノ氏」序曲が,疲れ果てた私には癒しとなりました。第2番と楽器編成が似ているという理由もあったのでしょうが,この選曲は絶妙でした。
 ロッシーニが作曲した1幕からなるオペラ・ファルサ(Opera Farsa=笑劇)「ブルスキーノ氏,または冒険する息子」(Il signor Bruschino, ossia Il figlio per azzardo)は,現在は,序曲のみが多く演奏されています。序曲は序奏部を持たない小規模なもので,弦の弓で譜面台を叩くという奏法がコミカルなものでした。なお,この演奏会は,簡単なパンフレットが配られただけで,曲の紹介がかかれた小冊子はありませんでした。

 さて,ほっと一息ついたあとに,ショスタコービッチのヴァイオリン協奏曲第2番がはじまりました。服部百音さんの衣装が黒色に変わりました。
  ・・・・・・
 3楽章からなるヴァイオリン協奏曲第2番は,1966年から67年にかけて作曲されたもので,60歳になった晩年のショスタコービッチらしい,思索的,哲学的内容をいっそう深めた作品です。
 室内楽的な明確な輪郭があり,全合奏の部分は極めて少ないのが特徴です。また,ヴァイオリンの独奏パートはまとまって休むことがほとんどなく,各楽章の中間部にそれぞれカデンツァを置いています。
   ・・・・・・
 第2番は,第1番のような派手さがないし,演奏される機会もほとんどなく,私も,これまで演奏会で聴いたことはありませんでした。また,ネット上にも詳しい解説が見当たりませんでした。そこで,今回,私は,何度も聴いて,予習をしました。
 第2番は,はじめて聴いたときには,聴き手を引き込む迫力がありません。しかし,聴きこんでみると,かなり魅力的な作品でした。
 陰鬱な雰囲気ではじまるオーケストラにソロ・ヴァイオリンが落ち着かない主題を乗せていく第1楽章の主調は嬰ハ短調で,これは,ヴァイオリンの曲にはあまり適さない調性ということです。暗く曖昧な第1主題と軽妙な第2主題の音色の変化が対比し,展開部からカデンツァに現れる重音ののち,第2楽章へと続きます。このあたりが,ショスタコーヴィッチ好きにはたまらなく魅力的に感じられるところです。薄暗がりの中に真っ赤な糸がうねりながら光って見えるような第2楽章のヴァイオリンのソロによる主題の提示は,暗い色調の曲に乗る艶っぽい音色が特徴で,唐突に過激なカデンツァがはじまり,朗々とホルンのソロが響きますそして,アタッカで演奏される第3楽章は,諧謔的で光と影がギラギラと入り乱れるような曲想で,かなり長めのカデンツァがあり,終盤は,打楽器とヴァイオリンが掛け合う展開になります。
 この曲は,幾多の試練を乗り越えた晩年のショスタコービッチの,ロシアの狂気に戦い疲れたむなしさとあきらめが表現されているように,私は感じます。「第1番に比べ第2番はそれなりにうまくやってはいるが,どうしても訴えかける力が弱いような気がするのである」という,ある評論を読みましたが,この曲は,人に訴えようと思ってはいないのだ,と私には感じます。ショスタコーヴィチ自身ための,ロシアへの決別であり,多くの犠牲者への鎮魂の曲なのです。

 この第2番の,第1楽章と第3楽章のカデンツァに現れる,ロシアの狂気をあざ笑うかのようなお道化たメロディは,どこかで聴いたことがあるのになあ? 何だったかなあ? と非常に気になって,ショスタコーヴィッチのさまざまな曲を聴いて,やっと探し当てました。それは,1966年に作曲されたチェロ協奏曲第2番のメロディでした。
 チェロ協奏曲第2番とヴァイオリン協奏曲第2番を何度も聴き比べてみると,このふたつの協奏曲は,まさに,兄弟のようなものでした。ちなみに,ヴァイオリン協奏曲第2番の第1楽章の最後とチェロ協奏曲第2番,そして,交響曲第15番のフィナーレは,ショスタコーヴィチお得意の,それぞれ,同じような木管楽器と打楽器との掛け合いの妙で,これが,私にはたまらなくいい。
  ・・
 と,聴きながら想いを巡らせていると,第3楽章の後半部で「事件」(ハプニング)が起きました。服部百音さんが酷使していたヴァイオリンがついに音を上げて,弦が切れてしまったようでした。突如,コンサートマスターのマロさんのヴァイオリンと交換して,続きを弾きはじめたところで,井上道義さんが演奏を止めました。そして,少し戻して,演奏を再開し,無事に何事もなかったように終了しました。ヴァイオリンが変わって,音色が変化したのが,私にはとてもおもしろかったです。
 ちなみに,服部百音さんの使用楽器は,日本ヴァイオリンより特別貸与の1740年製グァルネリ・デル・ジェス(Guarneri del Gesù)。マロさんの使用楽器は(株)ミュージック・プラザより貸与されている1727年製ストラディバリウス(Stradivarius)です。
 私は,一度,NHK交響楽団の定期公演で,ヴァイオリン奏者の弦が切れて,ヴァイオリンを後ろへ後ろへと回し交換する姿を見たことがあるのですが,今回は,ソリストのヴァイオリンの弦が切れる,というもので,これははじめて見ました。ただし,ピアノの弦が切れた,というのは見たことがあります。こうした「事件」と,その的確で冷静な対処を見ると,いかにプロの演奏家がすごいのか,ということを再発見します。

 井上道義さんは,ブログに次のように書いています。
  ・・・・・・
 何と! 最後の最後にあり得ないタイミングで弦が切れ, コンサートマスターのマロさんの楽器を一瞬のうちに手渡され,彼の楽器の素晴らしい音さえ一瞬で引き出し,よい意味で「忘れられない事件」として,2,700人のお客さんの記憶に残すことになったのです。
 道義は,あの時,無理やり続けるかやり直すかという一瞬の判断の分け目で後者を取りましたが,それは,モネが「何かあったらやり直すから」と宣言していたせいでもありました。
 彼女との共演では,以前も肩当てが落ちたこと1回,弦が切れたこと1回と,いつも何かが起こる。
  ・・・・・・
 終了後,服部百音さんは,燃えきれていないような表情を見せて,井上道義さんがそれを慰めるような姿が見えました。しかし,大観衆の拍手で,すべてが救われました。
 今回のコンサートで,人生の仕事のひとつをやり終えることになる,というようなことをXに書いていた服部百音さんでしたが,あまりに完璧にやり終えて気が抜けてしまうよりも,こうした「事件」があったことで不完全燃焼となり,より上を目指そうという意欲が沸き起こったのではないかな,と私は思いました。
 すばらしい演奏会に立ち会えて,大満足でした。

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 ずいぶん前のことなので,チケットを入手したときのことは忘れたのですが,私の席は,前列2列目,そこまではよかったのですが,ステージに向かって左から3番目,つまり端っこでした。こりゃ最悪だ,と思ったのですが,考えてみれば,カーテンコールのとき,一番近くで見ることができるではないか,ということで,思い直しました。
 大阪フェスティバルホールはすばらしいところですが,オーケストラのコンサートではちょっと広すぎます。
  ・・
 この日の前日2024年6月29日に,サントリーホールで同じ演奏会がありました。私が大阪のフェスティバルホールで聴いたのはその翌日となりますが,これが,正真正銘,井上道義さんのNHK交響楽団を指揮する最後となるわけです。NHK交響楽団のコンサートマスターはマロさん。曲目は,前回書いたように,ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番と第2番。この2曲を挟んで,ロッシーニの歌劇「ブルスキーノ氏」序曲でした。

  ・・・・・・
 41歳のショスタコービッチが,1947年から1948年にかけて作曲された4楽章からなるヴァイオリン協奏曲第1番は,12音技法を使うなどの前衛的な書法により1948年2月に共産党による作曲家批判を受けたため,発表を控えました。その後,スターリン死後の雪解けの雰囲気の中,交響曲第10番の初演が成功し,ジダーノフ批判が一段落したと考えられた1955年に発表されました。
  ・・・・・・
 コンサートがはじまりました。
 服部百音さんは,あざやかなブルーの衣装で現れました。ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番は,ショスタコーヴィチの傑作のひとつであり,ヴァイオリン協奏曲の傑作のひとつです。私も好きな曲です。しかし,この曲を聴いていると,貴族趣味のベートヴェンやブラームスの優雅なヴァイオリン協奏曲とは全く異質の,これはまさに現在行われている戦争そのものだと感じられます。
 それにしても,この曲,悲しすぎます。現在のロシアの狂気によって失われた多くの犠牲者に思いを巡らせます。

 今回の演奏を聴いていると,服部百音さんの演奏はまさに命懸け。これから第3楽章のカデンツァが待っているというのに,すでに第1楽章から,これ以上はないというほどの精魂込めたもので,これで,次の第2番まで体力が保てるのか,それ以上に,楽器がもつのか,と思えるほどでした。弓の糸がひっきりなしに切れました。
 これだけ激しい演奏はこれまで聴いたことがありません。これは,芸術というよりも,まさに戦いでした。
 ヴァイオリン協奏曲第1番演奏が終わったとき,演奏者以上に,聴いていた私が疲れ果てました。

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 2024年6月30日に,大阪のフェスティバルホールで,井上道義指揮NHK交響楽団の演奏会を聴いてきました。主な曲目は,服部百音さんがヴァイオリンを弾くショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番と第2番でした。服部百音さんのXにはこうあります。
  ・・・・・・
 当初周りから散々,不可能だろうといわれたショスタコ協1番&2番を一夜で同時にやる×2日連続×ライブ録音の企画がもうすぐはじまって終わる。私が20歳の時に企画してから4年。大変な思いも沢山した。けれど,信じられない程沢山の人とチームの力が重なり団結した企画だった。実現した事そのものだけでも,皆さんのショスタコへの尊敬と愛情を大きな形にする事が出来た。と思っています。
  ・・
 私は元気です。 舞台でね!
  ・・・・・・
 ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番は,以前,井上道義さんが指揮をした読売交響楽団との劇的な演奏,服部百音さんが第3楽章「バッサカリア」の最後の長いカデンツァが終わり,汗を拭おうとしてヴァイオリンの肩当てを落とし,第4楽章のはじめの3音が弾けなかったというものですが,これをテレビで見たことがあるので,このような演奏をライブで聴けるのか! という期待がありました。また,ヴァイオリン協奏曲第2番は,服部百音さんは,この演奏会の前に5月の広島交響楽団のコンサートでも弾いていて,それは,この演奏会に向けての調整? だったように思いました。
 ところが,この演奏会ではとんでもないことが起きたのですが…。それは次回に。

 2024年末で引退する指揮者井上道義さんは,現在,自分のやりたいことをすべてやり終えようと,精力的に各地でゆかりのあるオーケストラの指揮をしています。NHK交響楽団との共演は,定期公演では,2024年2月の第2004回が最後だったので,これで終わり,と思っている人もいるでしょうが,実際は,今回の演奏会こそが,最後となります。
 実は,井上道義さんが再びNHK交響楽団を指揮するようになったのは,近年のことです。井上道義さんのブログにこうあります。
  ・・・・・・
 今だから書くが,井上は80年代中頃に,N響と小澤事件を思わせる大喧嘩して20数年間指揮しなかった。
 「井上がN響定期? 絶対有り得ない!」と事務長に言われて帰ってきたことあったとは梶本音楽事務所時代のカジモト社長の懐古調のセリフ。
  ・・・・・・
 若いころは振らせてもらえなかったのに,今ごろになって,頻繁にNHK交響楽団が招へいしてくれるのは…,みたいなことを書いていたのを読んだことがあります。何か,すごく根にもっている感じがします。

 ショスタコーヴィチは2025 年に没後半世紀となるのですが,このコンサートはそれとは関係ないと思われます。井上道義さんは,自分のレパートリーの中心にショスタコーヴィチを据えていて「ショスタコーヴィチは自分自身である」と語っているし,服部百音さんもまた「これほど自分自身に矛先を向けている作曲家はいない」と語り,ショスタコーヴィチとその作品を自らの核としてきたからです。この両者,服部百音さんは,17 歳のときに井上道義さんと初共演して以来,「音楽の真実を教えてくれる先生」として敬愛しているようです。最高の組み合わせです。
 そのようなわけで,このコンサート,これを聴かずにおれようか,ということで,私は,ものすごく楽しみにしていました。それにしても,ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲 第 1 番と第 2 番。第1番はよく演奏されますが,第2番とは! 私はこれまで聴いたことがありませんでした。

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