しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

August 2024

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 私がボストンに行ったのは2013年夏のことですが,本当に楽しい旅でした。ただし,もう2,3年遅かったら,もっとアメリカのことを知っていて,さらにいろいろなことができただろうと思うですが,それは仕方がないことです。それよりも,この旅でずいぶん多くのアメリカの歴史や文化に触れることができたのは,新鮮だからこそだったのかもしれません。
 今日はそのときの旅で特に印象に残っているボストンレッドソックスの本拠地フェンウェイパークの話題です。

 ボストンでMLBを見るのは大変で,チケットを入手するのは困難でした。そこで,いち早く日本でチケットを購入していきましたが,失敗だったのは,1ゲームのチケットしか買わなかったことです。実は,私が手に入れたゲームは雨で中止となってしまったのです。この失敗に懲りて,その後は屋根のないところでゲームを見るときには,予備のチケットも購入するようになりました。
 しかし,私は幸運でした。
 実は,その前日,チケットを持っていないかったのにも関わらず,様子見を兼ねて,フェンウェイパークに行ってみたのです。そして,ボールパーク近くに,日本の金券ショップのようなところを見つけて,ダメもとでこの日のチケットがないか聞いてみたら,当日キャンセルになったチケットを合法的に結構安価に購入することができて,とてもいい席でゲームを見ることが実現したのです。
 そんな予定になかった出来事がなかったら,今にしてものすごく後悔していたことでしょう。

 ちょうどこのころ,ボストンレッドソックスでは上原浩二投手と田澤純一投手という抑えの2枚看板が売り出したころでした。私が幸運にも手に入れたゲームは負け試合でした。そこで,抑えの2枚看板を見損ねてしまったのです。しかも,投球練習場へ行けばその姿が見れらたものの,そんなことも知らず,私は,せっかくのチャンスだったのに,彼らの姿を見ることができなかったのです。これだけは今でも後悔しています。そのときは,翌日のゲームで見ればいいや,と思っていたのですが,それがかないませんでした。
 とはいえ,その話を上原浩二投手にLINEしたら本人から返事が来たし,そんな失敗があったからこそ,その教訓を生かして,その後,ダルビッシュ有投手をはじめとして,多くの日本人メジャーリーガーをアメリカで見ることができたんだから,塞翁が馬だったと,言い聞かせています。
 旅というのは罪作りなものです。

 それ以前もその後も含めて,MLBのボールパークはずいぶんと行きましたが,そのほとんどは同じような作りであるのに対して,ボストンのフェンウェイパークとシカゴとシカゴのリグレーフィールドはまさに別格でした。ここまで古いと何物にも代えがたいので,新しいボールパークに立て直すこともなく,今でも,改装を繰り返しながら使われています。
 私は,ミルウォーキーで,現在のものではなく古いほうのボールパークでゲームを見たことがあるのですが,そこは単に古いだけのところでした。今では,新しいボールパークができて,壊されました。ボストンとシカゴはそうではなく,古さというより,伝統の重みというか,まさにレジエンドという言葉がぴったりのところだったのです。こういう感動は,行ってみなければ味わえません。


◇◇◇
NHK「あさイチ」に石田組登場

紅白歌合戦に出場して
石川さゆりさんのバックで演奏したいそうです。
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 私のこれまでのアメリカ旅行の中で強く残っている思い出の地,ボストンの思い出を断片的に書いています。
 今日は,ボストンで宿泊した小さなホテルのお話です。

 「2度目のがっかり,3度目の壁」というのがあって,はじめて旅をした場所の印象があまりによかったとき,またおなじ思いをしようと2度目に行ってかっがりということは少なくありません。また,2度目もまたすばらしい思い出ができたとき,また同じ思いをと3度目に行こうと思っても,それがなかなか実現しない,つまり,満ち足りてしまっている,ということもあります。
 私にとってボストンはまさにそうした都会でした。
 私の1度目のボストンは40年以上も前のことでした。
 はじめてのアメリカ東海岸,それも,ひとり旅でした。
 それから30年以上経って,再びボストンに行ったときは,すでにはじめて行ったときのことは風化してしまっていました。その思い出をたどろうとしても,まったくイメージが異なりましたが,何も知らなかった1度目にはできなかったことの多くが実現できて,それはそれはすばらしい旅でした。
 とはいえ,3度目,となると,このコロナ禍にかかわらず,なかなか実現するものではありません。それは2度目の旅で満ち足りてしまったこと,そして,それ以外にも行きたいところがたくさんできてしまったことが理由です。

 2度目の旅で,私は,まず,ボストンでどこに宿泊しようか迷いました。大都会では治安がよいことも大切な要素です。特にこのときは,MLBのナイトゲームを見ようと思っていただけに,深夜の町あるきもしなければなりません。
 しかし,アメリカの大都会のホテルは便利で治安の心配のない場所はどこもかなり高価なのです。
 そこで見つけたのが小ぎれいな小さなホテルでした。
 アメリカにしては部屋が狭く,駐車場金も高かったのですが,思った以上に快適なところでした。
 フロント係は若い女性でした。
 チェックインのときに,昔ボストンに来たことがあるという話をしました。そして,チェックアウトのときにもその女性がいたので,もうボストンにくることはないだろうから,記念に写真を撮りましょうと言って一緒に写した写真が,今もあります。
 その言葉を聞いた彼女の悲しそうな顔が今も忘れられません。ボストンはいい町です。


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Decoy fetched the first pitch tonight for Shohei Ohtani!
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 ボストン郊外に「タングルウッド」(Tanglewood)という場所があります。
 タングルウッドはマサチューセッツ州バークシャー郡レノックス(Lenox)とストックブリッジ(Stockbridge)およびコネチカット州にまたがる南北158キロメートにわたる丘陵地帯ですが,そこで毎年夏にタングルウッド音楽祭とタングルウッド・ジャズフェスティバルが開かれ,1937年より,ボストン交響楽団の夏季の活動拠点となっています。
 この地もまた,私が行っておいて,本当によかったと思うところのひとつです。
 夢のようなところでした。
 とはいえ,私は,小澤征爾という指揮者を知らなければ,タングルウッドに行くこともなかったことでしょう。

  ・・・・・・
 1850年,作家のナサニエル・ホーソーン(Nathaniel Hawthorne)はウィリアム・アスピンウォール・タッパンという人物からこの土地のコテージを借り,1853年にギリシア神話から「テセウスとミノタウロス」(Theseus and the Minotaur),「アンタイオスとピグミー」(Antaeus and the Pygmies),「竜の牙」(Dragon's Teeth),「キルケーの宮殿」(Circe's Palace),「ペルセポネ,セレス,プルートーとザクロの種」(Proserpina, Ceres, Pluto, and the Pomegranate Seed),「イアーソーンと金の羊毛」(Jason and the Golden Fleece)の6話を少年少女向けにまとめた「タングルウッド物語」(Tanglewood Tales)を書きました。タッパンはそれを記念してコテージを「タングルウッド」と名づけ,周辺のタッパン家が所有する土地もタングルウッドとよばれるようになりました。タングルウッドは同名の物語に由来する地名です。
 1934年,ニューヨーク・フィルハーモニックのヘンリー・ヘドリー(Henry Kimball Hadley)はバークシャーでの音楽祭開催を企図し,ニューヨークの資産家であったガートルード・ロビンソン・スミス(Gertrude Robinson Smith)に相談を持ちかけました。会談ののち,スミス女史は音楽祭の企画に熱中し,1935年にストックブリッジのハンナ・ホース・ファームにて1回限りのコンサートが開催され、成功を収めました。
 1936年,スミス女史はこのコンサートの企画にボストン交響楽団をスカウトし,最初の3つのコンサートがテントの下で開かれ,1万5千人の聴衆を集めました。それを聞いたメアリー・アスピンウォール・タッパンがタングルウッドの土地210エーカーをボストン交響楽団に寄贈しました。
 1937年,ボストン交響楽団はタングルウッドでオール・ベートーヴェン・プログラムを演奏,翌1938年には演奏会場として5,100席の扇型のクーセヴィツキー・ミュージック・シェッドが建設されました。
 ボストン交響楽団は第2次世界大戦中の1942年から1945年までを除いて,毎夏クーセヴィツキー・ミュージック・シェッドで演奏会を開きました。
 1959年にクーセヴィツキー・ミュージック・シェッドは改装され,1986年には隣接するハイウッドの土地も買収し,1994年には新たに拡張された土地に小澤征爾ホールが建設されました。 
  ・・・・・・

 私は,そんな歴史も何も知らず,日本からこの音楽祭に憧れやってきて,コンサートをこころゆくまで楽しむことができたのが,いまでも強く残る思い出です。
 アメリカのこうしたすごい企画やら施設を調べて行くと,そのほとんどはある個人の夢から実現したものであって,国が主導でやったものや政治家が名声を得るためにはじめたことでないのを知って,改めて驚きます。
 こうした民衆のエネルギーこそが,この国の歴史だということをもっと強く認識する必要が,何事もあなた任せの日本人には必要だと強く感じます。


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 私は,これまで2度ボストンに行きました。1度目は1981年の夏でこのときは,人生初のアメリカひとり旅でした。そして,2度目が2013年の夏で,もう11年も前のことになります。これまでに国内外さまざまなところに行きましたが,この2度目の旅が一番印象に残るものでした。
 もう,こんな旅はできないなあ,と思うと,寂しくもありますが,また,懐かしくもなります。
 そこで,このときのことを振り返ってみたいと思います。

 これまで多くのホテルに泊まりましたが,その中で,なぜか私が今でも忘れがたいホテルがいくつかあります。そのひとつが,ボストン郊外プリマスで泊まったホテルです。
 私はこの日,夕刻,ホテルを探して走り回っていました。B&B があって,よほどそこにしようかと思ったのですが,そのころは B&B なるモノに泊まったことがなかったので躊躇しました。B&B はその後,アラスカで利用して,デラックスな朝食に驚きました。B&B というところは,朝食でいろんな宿泊客と一緒になるので,言葉ができない人にはまったく楽しくありません。
 これを書いていて思い出したのが,アイスランドで泊まった民宿で,そこもまたすばらしいところでした。そこは日本の民宿のような温かいところだったのですが,もう,再び行くこともありますまい。

 さて,この時のプリマスのホテルで何がすばらしかったかといえば,ホテルに庭から眺めたケープ・コッド湾の夕景です。時間を忘れて,海に沈む夕日を眺めることができるようなホテルは,そうはありません。それはたまたま天候がすばらしかったこともあるのでしょうが,そんな経験はなかなかできるものではなく,私もこのときだけです。
 実際,旅に出ると,そのときを生きるのに精一杯なのですが,後で思い返すと,旅では一瞬一瞬がもっとも大切なものなのです。だから,すこしだけ贅沢をしても,そうした機会はのがしてはいけないのです。時間は待っていてくれまでん。
 そのうちいつかできる,とか,いつか行ける,ということは,2020年に起こったコロナ禍でもわかるように,それを逃ししてしまうと,かなえられなくなることも決して少なくないのです。


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これまで,今回の青森旅行について書いてきました。
津軽半島と下北半島,行く前は,この旅で行きたいところへすべて行くことができるかなあ,と思っていたのですが,やはり,いくつかの場所は見落とすことになりました。そして,さらに行きたいところができてしまいました。

「青森県,何があるの?」と多くの人は言います。北海道には憧れても青森県に関心のある人は多くありません。私も行く前はそうでした。
2020年の春にはじまったコロナ禍で,突如行くことができなくなった海外。その4年後,再び行くこと可能になったら,今度は異常な円安に物価高が輪をかけて,それまでとは状況が変わってしまいました。さらに,ロシアのウクライナ侵攻で,ヨーロッパに行くのがとても遠くなってしまいました。
しかし,幸いなことに,私は海外で行きたいと思っていたところはそのほとんどすべてに行っていたので,今,行きたいところはどこか? と何度自問自答しても,思い浮かばないのです。また,歳をとったら,ヨーロッパを鉄道で旅したいという夢があったのですが,この状況では難しいです。そして,日本国内のほうが,むしろ,行きたいと思うところが出てくるようになりました。

そんなこともあって,数年前から,元気なうちに,日本国内のこれまで行ったことがないところへすべて行ってみよう,という気になって,旅しているのですが,はじめは青森県もそのなかのひとつに過ぎませんでした。
はじめに,そのころを振り返ってみます。
  ・・
●第1段階
2023年5月18日から5月20日。
まずは2泊3日で行くことにして,航空券をとり,レンタカーを借りました。そして,宿泊先を探しました。
このときに,何も知らずに行ったのが,奥入瀬渓谷,十和田湖,弘前城,酸ヶ湯温泉,黄金海岸,三内丸山遺跡でした。これですっかり青森の魅力にはまってしまいました。
  ・・
●第2段階
2024年3月6日から3月8日。4月15日。
次にやってみたかったのは,津軽鉄道のストーブ列車と五能線の「リゾートしらかみ」に乗ること,そして,弘前の桜を見ることでした。これは,今年の3月と4月に,それぞれ達成できました。
これらは,青森観光の定番なので,どこもすごく人が多いのではないか? といった心配が先に立ったのですが,そのすべてが運よくうまくいって,楽しい旅をすることができました。
  ・・
●第3段階
2024年7月4日から7月7日。
そして残ったのが,津軽半島と下北半島をまわることでした。
それが今回の旅でした。

こうして,第1段階から第3段階の旅で,多くの場所に行ったのですが,まだまだ行ってみたいところが残っています。それが今日載せた地図に示した場所です。
地図を見てみると,場所が散らかっていて,「次回」ですべてがまわれるとは思えません。これらの場所の中には,これまでに行こうと思えば行くことができたのに… というところも少なくないのですが,それはそれで,行ってみたからこそわかったことです。
こうした場所があるというのはすてきなことで,だからこそ,また行ってみようという意欲にもつながるのです。
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●これから… の先には…
冬の津軽鉄道,ストーブ列車と春の弘前の桜,これは人混みの嫌いな私でも行ってみたいという気持ちが強かったので,すでに制覇しました。
しかし,青森県の魅力には,さらに,夏の青森ねぶた,弘前ねぷた,五所川原の立佞武多。そして,秋の奥入瀬渓谷の紅葉,それに加えて冬の八甲田山の樹氷もあります。これらは,その時期にしか見ることができないものです。それらは,観光シーズンでもあり,人も多く,人混みの嫌いな私にはそうした要因が足を遠ざけているのです。つまり,行ってみたいという魅力の強さよりも人混みを避けたいという気持ちのほうが,今はまだ勝っているのです。果たして,この先,その気持ちが変わるときは来るのでしょうか?


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いよいよこの旅も終わりです。
青森空港へ戻る途中で,来たときに通った浪岡町の城跡へ行ってみることにしました。案内所があったので,駐車場に車を停めて,建物の中に入りました。係員の女性がいたのですが,読書に夢中で,私の存在に気づきません。また,案内所はまったく整備されているとも言えませんでした。これでは仕事放棄,怠慢です。声をかけようと思ったのですが,ばからしくなって外に出ました。調べてみると,この施設は,特定非営利活動法人NPO婆娑羅凡人舎というところがやっているようです。
  ・・・・・・
浪岡城は,1373年(文中2年)に平安京を模して,敷地の四隅に祇園,八幡,加茂,春日神社が配置されていたものを,北畠家の支族である浪岡北畠氏の居城として,1460年代に築城されたものですが,1578年(天正6年)に津軽為信によって攻められ落城しました。
現在は,跡地は公園として整備されています。
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ということなのですが,むしろ,そのとなりに新しくつくられた「中世の館」に出土した遺物などが展示されているということなので行ってみました。
「中世の館」は,浪岡町の歴史博物館で,なかなか見ごたえがありましたが,私以外に見学者はいませんでした。先ほどの浪岡城跡案内所とは雲泥の差で,親切は係員がいて,私に声をかけて資料をくれました。

「中世の館」を出て,まだ時間がありました。
青森空港で車を借りるとき,係の人に,青森県にはたくさんいい温泉があるというような雑談をすると,おすすめはランプの宿ですよ,と言われてメモをくれました。ずっと気になっていたので,行ってみることにしました。それは「ランプの宿青荷温泉」といいました。調べてみると,まだ日帰り温泉をやっている時間だったし,往復しても,帰りの飛行機には十分に間に合いそうだったので,足をのばすことにしました。
ランプの宿というからには電気が通じていない辺鄙なところにあって,ネットも通じないということでした。カーナビに従って走っていても,はじめのうちは普通の道路で,こんなところに電気が通じていないところなんてあるのかな,と思っていたのですが,浅瀬石川ダムを過ぎたあたりから道路は山深くなってきました。
延々と走っていくと,山の中に広い駐車場がありました。車を停め,そこから温泉までさらに歩く必要がありました。
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「ランプの宿青荷温泉」は,電気は通っているのですが,客室や風呂場などは灯油ランプだけで照らし,ランプの宿として知られます。
1929年(昭和4年)板留温泉の旅館を実家とする歌人の丹羽洋岳(ようがく)が小屋を建てて暮らすようになったことにはじまります。
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さすがに,今は電気は通じているので,ランプの宿というのは,それをウリにしているからでした。
思ったより大きな建物で,温泉は,内湯が3つと混浴の外湯がひとつありました。私はタオルを持っていたので,とりあえず,入浴料を払って,お試しで入ることにしました。こんな時間に入浴している人はほとんどおらず,それはそれでよかったのですが,ランプの宿というからには,夜に来なくてはそのよさがわからないわけで,単なる山奥の温泉,ということになりました。
次回はぜひ宿泊して…,となるわけですが,旅館の中は結構人が多くて,地元のお年寄りが話に花をさかせていたりして,ひなびた感もなく,ちょっと残念でした。有名になりすぎた弊害でしょう。

さて,これで今回の旅はおわりです。
青森空港へ戻る途中にダム湖である虹の湖のほとりに虹の湖公園があって,そこに道の駅があったので,車を停めてソフトクリームを食べました。そして,青森空港に戻りました。
レンタカーを返して,青森空港のフードコートで夕食のりんごカレーライスを食べてから,ラウンジで出発時間まで過ごしました。

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1年の気温x降水量b

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 自宅で過ごすには天気も気温もそれほど気にすることもないのですが,問題になるのは,外出するときです。特に旅に出るときにもっとも問題となるのは天気ですが,こればかりは運以外のなにものでもありません。とはいえ,およその傾向を知ることは必要です。
 そんなわけで,先日,7月から10月までの私の住む地方の最高気温と降水量を気象庁のデータからグラフ化したものをあげたのですが,興味をもったので,1年間に拡張してみました。こうして表示してみると,いつも,そのとき限りで忘れてしまう1年間の傾向が,きちんとわかってきました。

 最高気温は,冬はおよそ摂氏12度程度で,1月はじめから2月末まではほとんど変わりません。また,夏は摂氏35度程度で,これもまた7月はじめから8月末まではほとんど変わりません。
 春の訪れは3月で,日に日に気温が高くなっていくのですが,おもしろいことに,そのまま7月まで上昇するのではなく,4月から5月中旬までは摂氏23度程度で一定で,5月中旬から6月までが28度程度で一定というように,2段階で高くなっていくのです。そこで,気温としては過ごしやすい時期が長く続くことになります。それに対して,秋は春とは異なり,11月から12月の2月にわたってずっと低くなっていきます。過ごしやすいのは10月で,気温が20度から25度で一定。この気温が摂氏25度程度で続く年と摂氏20度程度で続く年があって,高いときは過ごしやすい秋となり低いときは小寒い秋となります。
  ・・
 降水量は,3月中旬から4月末まで,6月から7月中旬まで,そして,8月中旬から9月中旬までが多い時期になります。また,台風の影響があると,これとは違うこともあります。
 気温を降水量と並べて見てみると,春の過ごしやすい時期は雨が多く,秋の過ごしやすい時期は雨が少ないということになります。また,気温と降水量だけではわかりませんが,春は,花粉や黄砂などの影響もあり,気温は安定していても,雨に加えてこうした外的な要因もあるのが問題です。
 こうしてみると,1年で,もっとも気持ちのよい季節は10月ということになるかもしれません。

 四季があるのは日本に限るものではありませんが,それでも,3か月ごとにはっきりとした筋目があるのはめずらしいということです。温暖化の影響なのか,このごろは,昔のような「美しい」四季とは異なるように感じているのですが,調べてみると,それでもはやり,春夏秋冬,それぞれ明らかな違いがあるものだと思いました。
  ・・
 幕末,そんな日本に人生を四季に例えた吉田松陰がいました。
 吉田松陰は,反幕府運動をしたとして処刑される直前,江戸・小伝馬町牢屋敷の中で全十六節からなる「留魂録」を書きました。「留魂録」は,「身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」という辞世の句を巻頭にしてはじまりますが,「留魂録」の第八節は吉田松陰の死生観を語っているものです。
  ・・・・・・
 今日死ヲ決スルノ安心ハ四時ノ順環ニ於テ得ル所アリ
  ・ 
 十歳ニシテ死スル者ハ十歳中自ラ四時アリ
 二十ハ自ラ二十ノ四時アリ 三十ハ自ラ三十ノ四時アリ
 五十 百ハ自ラ五十 百ノ四時アリ
 十歳ヲ以テ短トスルハ惠蛄ヲシテ霊椿タラシメント欲スルナリ
 百歳ヲ以テ長シトスルハ霊椿ヲシテ惠蛄タラシメント欲スルナリ
  ・・
 今日,私が死を目前にして平穏な心境でいるのは,春夏秋冬の四季の循環という事を考えたからである。
  ・
 人間にもそれに相応しい春夏秋冬があるといえるだろう。
 十歳にして死ぬものにはその十歳の中に自ずから四季がある。
 二十歳には自ずから二十歳の四季が,三十歳には自ずから三十歳の四季が,
 五十,百歳にも自ずから四季がある。
 十歳をもって短いというのは,夏蝉を長生の霊木にしようと願うことだ。
 百歳をもって長いというのは,霊椿を蝉にしようとするようなことで,いずれも天寿に達することにはならない。
  ・・・・・・
 司馬遼太郎さんの小説「世に棲む日日」に詳しく描かれ,1977年(昭和52年)これを原作とした大河ドラマ「花神」で篠田三郎さんが吉田松陰を演じました。

ダウンロード


◇◇◇


◇◇◇
With walk-off SLAM,
Ohtani becomes fastest to join 40-40 club.

大谷翔平選手,おめでとうございます。
通訳の William Augustine Ireton さん,インタビュアーの Kirsten Watson さん,とばっちり。
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◇◇◇
西に花火・東に雷の共演。

花火が終了するやいなや,土砂降りになりました。
現地に行った人は屋根もなくどうしたことだろう?
遠くから車で見ていた私は実害ありませんでした。
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2024年7月7日,「東北温泉」で1泊して,この日は旅の4日目,最終日です。
午後7時35分の飛行機で帰宅するので,1日たっぷり時間がありました。まさかこんなに時間ができるとは思っていなかったので,どこへ行くかというプランがなく,青森空港に向って,どこかおもしろそうなところを見つけながら行くことにしました。こういうのも悪くないものですが,帰宅してから考えるともったいないことをしました。また,昨晩は雨が降っていましたが,早朝に上がり,この日はいい天気になりそうでした。

まず,昨年「酸ヶ湯温泉」に行ったときは運休で行くことができなかった八甲田山ロープ-ウェイに乗ることにしました。山の中を延々と走っていって,やっとロープ-ウェイ乗り場に着いたのですが,この日も運休でした。まったくツイていません。八甲田山ロープ-ウェイはずっと運行しているのではないかと思ったのですが,私に縁がないだけのようでした。また来いよ,と言っているのでしょう。
こうなったら,八甲田山ロープ-ウェイに乗ることができるまで,何度でも青森に行ってみよう! と決心するのでした。

気を取り直して,次に行ったのが黒石市でした。八甲田山から城ケ倉大橋を渡ると,道なりに黒石市に着きます。
  ・・・・・・
黒石市は,青森県の中央部にある人口約3万人の町です。
黒石市の前身である黒石藩は,弘前藩4代藩主・津軽信政が藩主就任時幼少だったため,幕府の指示により3代藩主・津軽信義の弟である津軽信英を後見人とすべく,1656年(明暦2年)に弘前藩より5,000石を分知され立藩したのにはじまります。8代藩主・津軽親足の代に至り,弘前藩よりさらに6,000石の分与があり,1万石となりました。居城は黒石陣屋でした。
  ・・・・・・
とはいえ,黒石市のどこに行けばいいのかわからないので,とりあえず黒石市の駅前にあった観光案内所で聞いてみることにしました。黒石駅は弘南鉄道弘南線の終着駅で,ここから弘前駅まで直接行くことができます。
観光案内所で知ったのは,黒石市の見どころは,町の中心部にある中町こみせ通り,そして,ご当地グルメは黒石つゆやきそば・黒石やきそばということでした。
さっそく中町こみせ通りへ行ってみました。観光客用の駐車場もありました。中町こみせ通りは,何となく,昨年の秋に行った四国の小京都である大洲の町に似ていましたが,それよりはずっと小さな町でした。
この日,名古屋は摂氏35度あったそうですが,青森は25度くらいでした。のんびりと歩いていると,アイスコーヒーが飲みたくなったので,松の湯交流館の裏手にあったコーヒーショップに入りました。若い女性がひとりでやっていたので,雑談をしながらコーヒーを飲んでいるとお昼になりました。
中町こみせ通りの真ん中にあったのが津軽こみせ駅というみやげ物店で,店内の奥に食事ができるようになっていたので,黒石つゆやきそばを注文しました。できるのを待っていると,その奥にあったステージで津軽三味線の生演奏がはじまりました。津軽三味はいいものです。三味線の生演奏は週末に行われるということですが,この日はちょうど日曜日でした。
三味線の演奏はスピーカーを通して外まで聞こえているそうですが,店内で聞いていたのは私ひとりでした。

ここで余談です。
黒石市の市街地から走っていると,津軽こけし館という案内標示がありました。興味がなく行かなかったのですが,どうして黒石にこけし? と思ったので,帰ってから調べてみました。
  ・・・・・・
津軽こけし館は1988年にオープンした施設で,日本一の大きさを誇る197センチメートルのこけし,棟方志功が絵付けをしたこけしをはじめ,全国のこけしが展示されています。また, 隣接して,津軽伝承工芸館があります。
  ・・・・・・
この施設が有名にったのは,純金・純銀製のこけしの展示だったそうです。黒石市民が応募したアイデアに基づき,「ふるさと創生事業」の資金により1億円で製作され,直接触ることができましたが,2007年10月21日,黒石市の財政難のため入札によって1億9000万円相当で落札され,実物の展示が終了されました。それによって,観光客が激減したそうです。
ここでもまた,おいらせ町の自由の女神同様,「ふるさと創生事業」が後を引いていますよ,竹下さん。

  ・・・・・・
弘前城。ここは津軽藩の歴史の中心である。津軽藩祖大浦為信は,関ヶ原の合戦に於いて徳川方に加勢し,慶長八年,徳川家康将軍宣下と共に,徳川幕下の四万七千石の一侯伯となり,ただちに弘前高岡に城池の区劃をはじめて,二代藩主津軽信牧の時に到り,やうやく完成を見たのが,この弘前城であるといふ。それより代々の藩主この弘前城に拠り,四代信政の時,一族の信英を黒石に分家させて,弘前,黒石の二藩にわかれて津軽を支配し,元禄七名君の中の巨擘とまでうたはれた信政の善政は大いに津軽の面目をあらたにしたけれども,七代信寧の宝暦ならびに天明の大飢饉は津軽一円を凄惨な地獄と化せしめ,藩の財政もまた窮乏の極度に達し,前途暗澹たるうちにも,八代信明,九代寧親は必死に藩勢の回復をはかり,十一代順承の時代に到つてからくも危機を脱し,つづいて十二代承昭の時代に,めでたく藩籍を奉還し,ここに現在の青森県が誕生したといふ経緯は,弘前城の歴史であると共にまた,津軽の歴史の大略でもある。津軽の歴史に就いては,また後のペエジに於いて詳述するつもりであるが,いまは,弘前に就いての私の昔の思ひ出を少し書いて,この津軽の序編を結ぶ事にする。
  太宰治「津軽」
  ・・・・・・

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金のこけし銀のこけし


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 私は鉄道マニアではないけれど,鉄道を使って旅行をしようとすればある程度の知識が要るので,自然に鉄道に詳しくなってしまいます。また,飛行機マニアでもないけれど,やはり,飛行機を使って旅行をすると,それなりに関心ができて,飛行機に詳しくなってしまいます。いずれにしても,マニアの人たちからみれば,単なるアマチュアにすぎませんけれど…。
 それと同じように,旅先でどこにいくかとなると,動物園や美術館になってしまいます。ということで,それほど興味があるわけではなかったけれど,国内外問わず,これまで私はずいぶん各地の動物園や美術館にいきました。また,この春は,散歩ついでに,毎週のように名古屋市の東山動植物園に行っていました。しかし,7月中旬以降は,猛暑のために,まったく行くこともなくなっていまい,一体,この暑い日々,愛すべき動物たちがどのように過ごしているのか気になります。

 そんな東山動植物園ですが,一時,私は,動物園よりも植物園のほうに興味がわいて,植物園を中心に散策をしていました。そのうち,童心に帰って動物園を見てみようと行ってみたら,それがまあ,興味深いこと。すると,自然と動物の名前を憶えてしまったり,動物の消息が気になって,元気かな? などと思い煩うようにもなってしまいました。
 動物園は,かつて,三省堂の新明解国語辞典の第4版に
  ・・・・・・
 (動物園は)捕えてきた動物を,人工的環境と規則的な給餌とにより野生から遊離し,動く標本として都会人に見せる,啓蒙を兼ねた娯楽施設。
  ・・・・・・ 
とあって,物議をかもしました。
 しかし,現在は,多くの動物が絶滅危惧種となっていることもあり,動物園は,繁殖活動にも取り組んでいます。動物園にいる動物も,動物園生まれがほとんどになっています。東山動物園の春は,コアラ,アジアゾウ,オットセイ,カンガルーと,ベビーブームでした。

 東山動植物園には,まるで,自分が飼っているペットのように,始終動物園通いをしている人たちも少なくなく,その人たちはとても詳しいので,なかなか動物の区別もわからない私にいろいろと教えてくれたりもします。
 問題は,気候のよいときは,ものすごく人が多いことです。平日だからと行ってみても,遠足などで子供たちが一杯です。また,小さな子供を連れたおばあちゃんと母親,というグループもよく見ます。こうなると,レストランで食事をとることもままなりません。そういうときは,お弁当を買って行くとストレスなく過ごすことができます。
 また,秋になって涼しくなったら,行ってみようと,今から楽しみにしています。

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 ことしもまた,夏はあまりに暑いので,遠出はさけているのですが,近場もまた,どこへも行く気が起きません。そこで考えたのが名古屋港水族館へ行くことでした。ここなら室内だからいいだろうと…。
 ということで,とりあえず,下見を兼ねて,2024年7月17日に行ってみました。広い駐車場があったので車を停めてそこから歩いて向かいました。これだけでも汗がでます。
 名古屋の東山動植物園は,名古屋市民だけは65歳以上は無料ですが,私は名古屋市内に住んでいないので適応されません。しかし,名古屋港水族館は,名古屋市民だけを優遇するような陰険な名古屋市立ではないので,65歳以上は名古屋市民でなくともシニア割があって好感がもてます。
  ・・・・・・
 1992年(平成4年)に開館した名古屋港水族館は,名古屋港管理組合が設置し,名古屋みなと振興財団が管理・運営を行っています。
 日本最大の水量と延床面積を誇る水族館で,イルカをはじめ,シロイルカ,ペンギン,ウミガメなどが飼育・繁殖・研究されています。また,屋外には,世界最大級の野外水槽を保持していて,イルカやシャチのトレーニングを見ることができます。
  ・・・・・・

 私は,開館した当時に行ったことがあるのですが,それ以来,遠ざかっていました。
 館内に入ると,いきなり大きな水槽があって,ほとんどの人はそこに立ち止まってしまうので混雑していて,すでにいやになりましたが,それを過ぎるとそうでもなく,多くの水槽があって,たくさんの魚を見ることができて,なかなか楽しめました。
 シャチのトレーニングというものがあって,これを見ました。以前なら,シャチショー,と銘打つのでしょうが,このごろの動物虐待世論で,名称が変わったのかもしれません。名古屋港水族館には観覧席を備えた大きなプールがあるのですが,シャチのトレーニングが行わるのはそれではなく,大きなプールの後方にある小さなほうのプールなので,客席の上のほうで見る必要があります。
  ・・・・・・  
 名古屋港水族館のシャチの飼育は2003年(平成15年)より開始されました。
 飼育は「クー」にはじまり,「ナミ」「ステラ」「ビンゴ」「ラン」と続き,2012年(平成24年)に「ステラ」の仔「リン」が産まれました。 現在は「リン」「アース」の2頭が飼育されているそうです。なお,「アース」は15歳で,国内で飼育されている唯一の雄のシャチです。
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 観覧席周りには,売店があって,私はかき氷を食べました。シロップは自分でかけるということですが,単に店員の手間を省くためのように思えました。ここのウリは7色のシロップで,お好きなものをどうぞ,ということだったので,いろいろなものをかけて虹のようにしようと思ったのですが,かけていくにつれて黒くなってしまいました。色の3原色というのを忘れていました。アホです。

 名古屋港水族館で,私がストレスを感じたものは,レストランでした。レストランは数か所あるのですが,メニューが少なく値段が高く,しかも混んでいるのです。これでは楽しくありません。
 そこで裏技を見つけました。
 名古屋港水族館は再入場ができるので,一旦外に出ます。近くには,JETTYというショッピングモールがあります。ここは以前,2階にレッドロブスターがあったのですが,閉店して今は単なるゲームセンターとなりました。これだけでもさびれ感があります。しかし,1階はフードコートになっていて,安価に食事ができるのです。チープ感は否めませんが。
 私が子供のころ,名古屋港はレジャー施設がなく,むしろ,不気味なところでした。これはいけないと,それまでは本当に何もなかった名古屋港を観光地にしようと,一時,再開発ブームが起きて,イタリア村などもできたのですが,諸事情でわずか3年余りのちに倒産してしまいました。また,南極観測船が引退したのを機に誘致して,こちらは現在も見学することができますが,おそらく維持費がたいへんでしょう。このように,名古屋港はあか抜けず,横浜の赤レンガ倉庫のようにならないのが,頭の痛いところですが,愛知県の観光施設は,どこもそんなものです。
 ということで,暑い夏に出かける場所を見つけたのですが,一度行って十分だったのでリピートする気も起きず,結局,暑い夏に行くこともなくなってしまいました。

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 覚悟していたとはいえ,今年2024年はとても暑い夏です。昨年も暑く,10歳は年老いたように感じたので,今年はその二の舞にならないようにと,遠出は避け,早朝と夜に散歩をして,昼間はクーラーの効いた室内で過ごしているので,ほとんど気にならないのですが,日々の気温を見ると,昨年以上のようです。
 「のど元過ぎれば熱さを忘れる」といいます。このことばの熱さというのは暑さのことではないのですが,天候もまた同じようなもので「夏を過ぎれば暑さを忘れる」と,秋になると,夏の暑さを忘れてしまうようです。これではいけないと,いったい私の住む地方の7月から10月までの4か月間の最高気温と降水量を調べて,数値として実証してみることにしました。
 6月は梅雨でとても蒸し暑いと思っていたのですが,最近は,6月は雨も少なく過ごしやすい日々が続きます。そして,7月になると,突然暑くなって雨が多くなるような気がします。また,9月になると秋が来るように思われるのですが,実際は,相変わらず暑く,また,9月の第1週は雨が続きます。9月の後半になると,やっと秋の兆し訪れ,10月になると,急速に涼しくなり,いい天気が続くようになる…。私は,そんなイメージがあったので,7月から10月までを取り上げてみたわけです。
 それが今日のグラフです。

 やはり,思っていた通りの結果になりました。
 気温では,私のイメージ通り,10月になると,急に低くなります。9月末までは30度を超えるのが当たり前なのが,突如25度以下に5度以上も下がり,私には最高の季節となります。免疫力のない人や,自己抑制のできない人は,この時点で風邪をひくわけです。
 話がズレますが,投資では,数値の変動は,サインのグラフのように動くのではなく,ハイパボリックサインのグラフのように動きます。それに対して,気温は,サインのグラフのように動くのではなく,ハイパボリックタンジェントのグラフのように動くのです。だから,夏の暑さと冬の寒さは3か月ほど一定に続き,春と秋は急速に変わっていくのです。

 降水量は,台風が来るかどうかでずいぶんと異なるのですが,台風という例外を除くと,これもまた,明白な特徴がわかります。
 「梅雨明け10日間」といいます。それは正しく,7月20日ごろの梅雨明けからの10日間くらいは,非常に降水量が少ないです。それを過ぎると9月の中旬までは雨が多いのですが,秋分の日を境に安定し,10月中旬以降は晴れの日が続き,空気も澄んで,気持ちのよい季節になります。
 1964年に行われた東京オリンピックの開会式は10月10日に行われました。それは,もっとも晴天率が高い日だったからです。それなのに,今は,金儲け優先の社会になってしまい,オリンピックもアメリカで視聴率がとれる真夏に行わるという暴挙が横行することとなりました。また,私が高校生のころは,学校祭も9月下旬から10月はじめに行われていたのに,共通一次テストがはじまって以来,日程を早めて9月のはじめに行われるようになったので,毎年雨に悩まされることとなったそうですが,そんな自然の摂理に反することをすれば当たり前です。

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Supemoon, Bluemoon and Sturgeon Moon 2024.

「ブルームーン」はひとつの季節(6月21日夏至から9月22日秋分)に満月が4回あるとき,
そのうちの3回目の満月か,1月に2回満月があるときの2回目の満月のことです。
2024年は季節の「ブルームーン」で,約2.5年から3年に1度しかありません。
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 私は,これまで,シアトル,ニューヨーク,そして,フロリダと,イチロー選手が属したチームがホームゲームを行ったときに,すべて見てくることができました。つまり,3つのユニフォームを着たイチロー選手を見たわけです。今日の写真はそのときに写したものです。
 そのイチロー選手が生まれ育ったのは愛知県の豊山町で,その場所に自宅を改築したときに造られたイチロー選手の記念館があるようなことを聞いていたのですが,これまで行ったことはありませんでした。また,それが,私がよく利用する県営名古屋空港の近くだということは知っていたのですが,それらしきところも案内標示もないので,どこなのかな? とずっと思っていました。
 そこで,調べてみると,週末は外出しない私ですが,コロナ禍以前は平日も開館していたそうですが,現在は土日のみの開館ということだったので,やむを得ず,2024年8月18日日曜日に行ってきました。

 私は家から近いので,簡単に行くことができましたが,車でないと行くこともできないところなので,多くのイチロー選手のファンは「アメリカに行くより遠いところだ」と書いています。
 イチロー記念館は,正しくは,「アイ・ファイン(I - fain)」といいます。名前の由来はわからないのですが,I am fine. から来ているのかな? また,パンフレットには「THE ICHIRO EXHIBITION ROOM」とあるので,イチロー展示ルームと和訳してあるものもあります。
  ・・・・・・
 「アイ・ファイン(I - fain)」は,メジャーリーガーだったイチロー選手所縁の品が展示されている施設で,2000年(平成12年)にオープンしました。施設には,イチロー選手の現在に至るまでのコレクションが展示公開されています。
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 敷地の南側の部分が,今回訪れたイチロー記念館で,北側にイチロー選手の親御さんが住む住居があります。

 開館は午前10時30分から,ということだったので,そのころに行ってみたら,すでに駐車場には6,7台の車があって,私が停めたのが最後の1台でした。思ったよりも小さいなあ,と感じたのですが,拡張するにも,周りの人たちが土地を売らないから,ということでした。
 すでに,引退して数年経つので,今はどのくらいの人が来ているのかな,と思ったのですが,10人程度の人がいて,未だ,存在感は健在でした。
 展示は1階から3階までで,まず,エレベーターで3階はで行って,そこから階段で降りていくかたちになります。メジャーリーグ時代のものは少なく,子供のころから日本のプロ野球で活躍していたときのトロフィーや表彰状などのコレクションが公開されていました。それにしてもすごい数でした。それでも,ほとんどは日本で活躍していたころのもので,メジャーリーグでのものはアメリカにあるそうです。
 階段を降りるとき,公開されていない奥まった部屋が垣間見れましたが,そこには,テレビで見たことがあるイチロー選手がトレーニングをする機械が存在していました。
  ・・
 コロナ禍以後,アメリカに行く機会もなくなり,興味も薄れていましたが,昔,憧れていたころの夢が少し蘇ってきました。楽しい時間でした。

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八戸市はよくわからないままあとにしました。人と車が多すぎて,青森らしくなかったので,テンションが下がりました。
そして,再び国道45号線を北上して,この日の宿泊先である「東北温泉」にやってきました。
この旅は,津軽半島と下北半島を巡るのが目的だったので,この1泊はおまけでした。結果的に2泊3日でもよかったのですが,旅に出る前はよくわからず,時間的に無理かもしれないと思って保険をかけたのです。
ネットでたまたま見つけた「東北温泉」は,温泉と2食付きで宿泊代がとても安かったということで予約したのですが,これまでに泊まった「龍飛崎温泉ホテル竜飛」と「むつグランドホテル」は豪華だったけれど,私の望む〈小さくて団体ツアー客がいない旅館〉とは違っていたから,これはこれで楽しみにしていました。
田舎の小さな宿だと思っていたのですが,実際は町の日帰り温泉に宿泊施設が付録でついているというものでした。昨年の秋にJR伊予線の下灘駅で夕景を見ようと泊まった「伊予プリンスホテル」や,この春にJR飯田線の秘境駅巡りをしようと泊まった「龍泉閣」と同じような感じでした。それはそれでよかったのですが,温泉が町の人たちで混んでいたのが欠点でした。いつものように,最も空いていると思われる夕食後すぐに行ったのですが,それでも数人の人がいました。

私は知らなかったのですが,「東北温泉」はお湯が黒いことでかなり有名なところでした。
  ・・・・・・
樹木や植物が地中に堆積し,約4,000万年前に亜炭の層になり,そこを通過して湧出したモール温泉は,天然保湿成分メタケイ酸を多く含んでいるため,美肌効果大! まろやかで肌触りがよく,入浴するだけで泥パックエステと同じ効果があります。
  ・・・・・・
ということです。
モール(Moor)は,ドイツ語で腐植質を意味し,モール温泉は火山活動由来の温泉と異なり,地下深く地熱で温められた湯を樹木や植物で抽出したものです。要するに,お茶や紅茶のような感じです。メタケイ酸(H2SiO3)は,ケイ素と酸素,水素の化合物で,コラーゲンの生成を助けて肌をみずみずしくしてくれる効果があるそうです。
「東北温泉」は,日本のモール温泉の中でも最も色が黒い温泉ということでした。それでも,東北地方太平洋沖地震の後は,以前よりも薄くなったと言っていました。
ちなみに,青森県では「お湯リンピック」と名づけられた5色の温泉があって,それらは「東北温泉」の黒,「不老ふ死温泉」の金,下風呂(しもふろ)温泉「まるほん旅館」の白,「古遠部(ふるとおべ)温泉」の茶,「新屋温泉」の緑だそうです。そんなことを知ると,今度はそれを制覇したくなります。
今回もまた,期せずして,こんなすてきな体験をすることができました。
温泉は賑わっていましたが,宿泊客は私だけでした。黒尽くしの夕食と翌朝の朝食をほかにだれもいない食堂で満喫しました。

そういえば,昨年の春,青森県を旅行したとき,野辺地から十和田市から奥入瀬渓谷を目指して走っていたときに見つけたのが「日本中央の碑」でした。そこは広い公園になっていて,保存館もあったのですが,帰宅後に地図を見ると,その場所もまた東北町だったので,「東北温泉」の近くだったのです。何か不思議な気がしました。

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 今日は旧暦7月15日,月齢14です。写真は,昨晩写した月齢13の美しい月です。
 「毎日が日曜日」の私は,普段でも土曜日と日曜日は必要がない限り外出しません。さらに,お正月とゴールデンウィークとお盆休みは最悪で,この長い期間,街や旅行先には人があふれるので,家で過ごし,ひたすら我慢の日々が続きます。
 今年2024年は,神の怒りに触れたのか,1月1日に能登半島地震が起き,さらに8月8日には宮崎県で震度6弱の地震が起き,これが南海トラフ地震の想定震源域ということで「南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)」を発令したことで,お盆休みの1週間交通機関が乱れました。それに加えて,8月16日には台風7号が接近するということで,早々と前日に東海道新幹線は東京と名古屋の間で運転を取りやめると決定しました。

 杞憂ということばがあります。
  ・・・・・・
 杞國,有人憂天地崩墜,
 身亡所寄,廢寢食者。
 又有憂彼之所憂者。
 因徃曉之曰,
 天積氣耳,亡處亡氣。
 若屈伸呼吸,終日在天中行止。奈何憂崩墜乎。
 其人曰,天果積氣, 日月星宿不當墜耶。
 曉之者曰, 日月星宿亦積氣中之有光耀者。
 只使墜,亦不能有所中傷。
 其人曰,奈地壞何。
 曉者曰,地積塊耳。
 充塞四虚,亡處亡塊。
 若躇歩跐蹈,終日在地上行止。
 奈何憂其壞。
 其人舍然大喜,
 曉之者亦舍然大喜。
  ・・
 杞(き)の国に,人の天地の崩墜(ほうつい)して,
 身寄する所亡きを憂え, 寝食(しんしょく)を廃する者有り。
 又彼の憂うる所を憂うる者有り。
 因(よ)って往(ゆ)きて之を暁(さと)して曰く,
 天は積気(せっき)のみ,処(ところ)として気亡きは亡し。
 屈伸(くっしん)呼吸(こきゅう)の若きは,
 終日(しゅうじつ)天中(てんちゅう)に在りて行止(こうし)す。
 奈何(いかん)ぞ崩墜(ほうつい)を憂えんやと。
 其の人曰く,天果たして積気(せっき)ならば,
 日月(じつげつ)星宿(せいしゅく)は当(まさ)に墜(お)つべからざるかと。
 之を暁(さと)す者曰く,
 日月(じつげつ)星宿(せいしゅく)も亦(また)
 積気中(せっきちゅう)の光耀(こうよう)有る者なり。
 只(たとい)墜(お)ちしむるも,
 亦(また)中(あた)り傷(やぶ)る所有る能(あた)わじと。
 其の人曰く,地の壊(くず)るるを奈何(いかん)せんと。
 暁(さと)す者曰く,地は積塊(せっかい)のみ。
 四虚(しきょ)に充塞(じゅうそく)し,
 処(ところ)として塊(かたまり)亡きは亡し。
 躇歩(ちょほ)跐蹈(しとう)するが若(ごと)きは,
 終日(しゅうじつ)地上に在(あ)りて行止(こうし)す。
 奈何(いかん)ぞ其の壊(くず)るるを憂(うれ)えんと。
 其の人舎然(せきぜん)として大いに喜び,
 之(これ)を暁(さと)す者も亦(また)
 舎然(せきぜん)として大いに喜ぶ。
  ・・ 
 杞国(周の時代に河南省開封の近くにあった国)にある人がいた。
 その人は,もしも,天地が崩壊したならば,
 身の寄せ所がなくなってしまうと,
 そればかりが心配で夜の目も見ず,飯ものどを通らなかった。
 一方その人の心配しているのを心配する人があった。
 そこで出かけていって言いきかせたのである。
 「天は空気が積もっただけなんだ。
 空気のない所なんてありゃしないよ。
 からだの屈げ伸ばしだっていつも天の中でやってるんだから,
 どうして天が崩れ落ちるなんて心配するんだね?」
 「天がほんとに空気の積もったもんなら,
 日月宿星なんて, 落ちてくるんじゃないかね?」
 「日月宿星というものもやはり,
 積もった空気の中を輝いているもので,
 落ちてきたにしても, 中って怪我をさせることなんかないよ」
 「どうして大地は壊れないんだね?」
 「大地は土くれが積もっただけなんだ。
 それが四方にみちみちて,
 土くれのない所なんかない。
 とんだってはねたって, いつも地上でやっているじゃないか。
 なぜ大地が壊れるのを心配するのかね?」
 そこで,はじめに心配していた人は胸がさっぱりしてたいそう喜び,
 言いきかせた方の人も気がはれて非常に喜んだ。
  ・・・・・・

 私は,コロナ禍のときに,人間は,ほとんどのことをわかっていない,と改めて認識しました。だから,専門家は,わかっていることとわからないことをきちんとわけて説明すればいいものを,プライドがじゃまをするのか,あるいは,名を売りたいのか,はたまた,責任を回避したいのか,自分の憶測というか,単なる感想まで交えて,さも学説かのように説明し,それを,物わかりのいい庶民は,専門家という人が言うのだからとそれを信じてしまうのです。だから,何ごとも自分で考えない愚かな人は「マスク依存症」という精神病にかかってしまい,この暑い夏になっても,未だに,何のためにやっているのかもわからねど,不織布という接着剤まみれの発がん性すらあるかもしれないマスクをしていたりするわけです。
 口につけるものだから,もっとも清潔でないければならないのに,不織布を接着剤で固めたマスクと称するものの微成分を,呼吸をすることで気管支を通って絶えず体内に吸収しているのです。ましてや,色のついたマスクなど,その得体のしれない色素までも吸い込んでいるのです。熱中症の心配もあり,害以外のなにものでもありません。
 薬は病気のときに飲むもので,健康なときに飲めば毒なのです。マスクもそれと同じです。
 さて,このごろは,起きるかもしれない,ということだけで,必要以上に警戒して,交通機関が事前に止まってしまったりします。しかし,自然災害のほとんどは,というか,すべては,予測しないときに起きています。
 起きるかもしれないということだけで新幹線を徐行運転するのなら,自然災害はいつ起きるかわからないから,それに備えて,常に徐行しなけばなりません。実際は,そういった自然災害が起きたときでも安全であるようにに設計されているのではないでしょうか?
 むしろ,起きるかもしれないからという杞憂よりも,万一,突発的な自然災害が起きたときにいかに対処するか,また,起きたときに対処できるように,日頃から安全策を講じだり設備投資をしたりや訓練をすべきではないのでしょうか。そういうことを軽視して,きちんとした安全対策を講じてこなかったゆえに,東日本大震災では堤防を越えて津波によって多くの人が犠牲となり原子力発電所が悲惨なことになってしまったのです。


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「日本一」の大好きなわたらせ町を楽しんでから,さらに南に行くと八戸市に入りました。八戸市に行ってみたいということで来てみたものの,どこへ行ったらいいのかわかりませんでした。見どころ,というのがどこなのかわからないのです。しかも,八戸市は,予想に反してものすごく車が多い大都会で,落ち着いた観光地であった弘前市とは大違いでした。
さらに私が混乱したのは,八戸市は,どこが街の中心なのかわからないことでした。地図で見ると,八戸駅と本八戸(ほんはちのへ)駅があり,新幹線の駅は八戸駅だし,市役所があるのは本八戸駅の近くでした。こういう名前のつけ方はよそ者には混乱します。
帰ってから調べてみました。
  ・・・・・・
1894年(明治27年)にこの地に鉄道がひかれたときは,現在の本八戸駅は,八ノ戸駅,さらに,1907年(明治40年)に八戸駅となりました。要するに,この駅のあたりが本来の市街地でした。
1971年(昭和46年)に東北本線との接続駅である尻内駅に八戸駅の名を譲り,本八戸駅に改称しました。
今は,八戸駅には東北新幹線の駅があり,新幹線ができたおかげで,本来,青森駅までだった東北本線は盛岡駅までとなり,その先,盛岡駅から八戸駅まではいわて銀河鉄道,八戸駅から青森駅までは青い森鉄道となりました。そして,八戸駅から本八戸駅を通り久慈駅までがJR八戸線となっています。
  ・・・・・・
つまり,このあたりも,新幹線ができたおかげで,JRは廃止されて第三セクターばかりとなり,観光客にとってはくっちゃくちゃでよくわからないことになっています。その結果,私は利用しないのですが,青春18切符で安価な旅を楽しんでいる人は困ることでしょう。また,現在,私がよく利用するジパング倶楽部でも,JR在来線がないから,地方へ行くときは,新幹線利用が前提となっているかのようです。

八戸市には城跡があるだろうと調べてみると,八戸城跡と八戸根城(ねじょう)がありました。しかし,どちらが江戸時代の城郭なのかよくわかりませんでした。事前に調べてこなかった私が悪いのですが…。
ともかく,市役所に近いからこちらだろうと八戸城跡へ行くことにしたのですが,城跡は見つかれど GoogleMaps の指示通りに進むと,本八戸駅前は再開発中で,道路が遮断されれていたりして,行き止まりとなりました。結局,駐車場がどこかもわからず困ってしまいました。何とか市役所の駐車場を見つけたのでそこに停めて歩いていくと,そこはあまり整備されているとも思えない単なる公園でした。
私は,これだけで,八戸市に対する印象が最悪となりました。
  ・・・・・・
八戸城跡の場所は,南北朝時代,南部師行が八戸根城を築くのとほぼ同時に,4男・南部政長の3男・南部信助が八戸根城の支城として三八城として築いたのがはじまりです。その後,さまざまな経緯を経て,八戸は南部藩の直轄地として代官支配となりました。
一方,南部藩は1632年(寛永9年)に27代藩主・南部利直が死去し,3男・南部重直が継ぎましたが1664年(寛文4年)に男子なくして没したため,遺領10万石のうち8万石を南部利直の5男・南部重信が継ぎ,2万石を南部利直の7男・南部直房で分割され,このときに八戸藩が創立されました。
初代八戸藩主となった南部直房は,すでにあった三八城山を引き継いで修築し,八戸城としました。
現在は,八戸城の跡地に,三八城神社と三八城公園があるのみで,遺構は開発により一部の建物を除き,土塁や堀跡が部分的に残されているのみとなっています。
  ・・・・・・
あとで知ったことに,むしろ,南北朝時代に造られた八戸根城のほうが,主殿や工房,納屋,馬屋などの建物が忠実に復原されているということで,こちらに行くべきでした。

ところで,八戸市のように,青森県や岩手県には〇戸の地名があります。
この「戸」の由来は厩(うまや)の戸という意味で,一戸町,二戸市,三戸町,五戸町,六戸町,七戸町,八戸市,九戸村が現存しています。四戸がない理由は諸説あるようです。
また,青森県を走っていると,西側と東側でずいぶんと雰囲気が違うと実感します。これは,もともと西側と東側は別の藩であったからです。
  ・・・・・・
戦国時代,現在の青森県と岩手県の北部は南部家が支配し,南部家の家臣として津軽地方の統治を任されていたのが津軽家でした。南部家で起きた相続争いに巻き込まれ謀反の疑いをかけられたのを利用し,津軽家は南部家に反旗を翻し,独立を果たしました。
それ以来,400年にわたる津軽と南部の確執がつづきました。
1871年(明治4年)7月の廃藩置県で,弘前県(⇐弘前藩),黒石県(⇐黒石藩),斗南県(⇐斗南藩),七戸県(⇐七戸藩),八戸県(⇐八戸藩)が成立しましたが,9月,これらに加えて,北海道渡島半島に成立していた館県(⇐館藩(松前藩))が合併し弘前県となり,県庁を弘前におきました。
弘前県と黒石県は旧津軽藩領,七戸県と八戸県は南部藩領だったのですが,怨恨を無視した合併の背景は,両県とも穀倉地帯になりうる平野部が少ない上にやませの常襲地帯で冷害が頻発していて,過去の因縁に囚われている余裕がなかったというのが実情でした。
弘前県は他の4県の石高合計の3倍以上の財政力を有していて,しかも,弘前藩は戊辰戦争で明治政府軍に与していたこともあるので,弘前県と合併することで明治政府からの覚えも高くなり有利と考えたのではないかといわれています。
その後,県庁を弘前から青森に移転し県名を青森県に変更しました。
  ・・・・・・

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☆☆☆☆☆☆
 2017年8月21日にアメリカで皆既食を見ました。
 なるべく安価で軽いという条件で,どんな機材を持っていけばいいか探していたところ,ケンコーから「MIL TOL」という望遠鏡が発売されているのを見つけました。口径6センチメートル,焦点距離400ミリメートルで,EDレンズ1枚を含め1群2枚というだけのスペックで,定価だと68,000円でしたが,もっと安価に購入したと思います。焦点距離400ミリメートルの直焦点では画像が小さいので,持っていたニコンのテレコンバーターTC-200をダメもとでつけて焦点距離を800ミリメートルにしたら,いい像を結びました。また,対物レンズのキャップは,すでに持っていたペンタックスの75SDHFの52ミリメートルのフィルターが装着できる太陽観測用のものがちょうど合ったので,そこに,ND100000のフィルターをつけました。こうすることで,太陽が皆既状態になったとき,簡単にフィルターを取り外すことができるようになりました。これと中古で買ったGITZOの三脚,そして,ニコンD5300というカメラを持って渡米しました。皆既日食当日は快晴で,無事,多くの写真を収めることができました。

 なお,「MIL TOL」は現在発売終了で,これに代わるものもありません。しいていえば,銘匠光学 TTArtisan 500mm F6.3望遠鏡かな。細かい収差やオートフォーカスの性能など机上のスペックを気にする人が多いので,こういうものは売れないのです。とても残念なことです。とはいえ,自分に必要のない仕様のついた高いレンズを買う必要などないと私は思うのですが…。
 ということだったのですが,その後,使い捨てでいいやと思って買った皆既日食を撮るという目的だけの望遠鏡は,出番がなくなりました。捨てるのはかわいそうということで,太陽黒点と月を写すために役立てることにしました。何分にも非力な望遠鏡なので,大した作品はできませんが,所詮,趣味なんてものは自己満足のものなので,私にはこれで十分。これはこれで楽しいのです。
 問題は,太陽を望遠鏡の視野に入れるのがけっこう難しいということでした。肉眼であまり長く太陽を見るわけにもいきません。いろいろと試してみたのですが,結局思いついたのが,ビクセンの単眼鏡をファインダー代わりにすることでした。これをカメラのアクセサリーシューにつけて,単眼鏡のフィルターサイズが27ミリメートルだったので,27ミリメートルから52ミリメートルのフィルターが接続できるステップアップリングをつけ,そこにND100000のフィルターを接続しました。太陽を視野に入れるだけのわずかな時間ならこれで大丈夫です。

 こうして,ときどき太陽黒点を写して楽しんでいるのですが,今日の写真は,1番目が2024年5月9日,2番目の写真が8月1日,そして,3番目の写真が8月14日に撮ったものです。こうしてみると,このところ,太陽は活動期ということで,大きな黒点がたくさん現れます。また,太陽の自転周期は25.38日なので,少しずつ位置を変え,また,姿も変わるので,写し甲斐があります。
 太陽活動は,およそ11年周期で繰り返します。喫緊の太陽極大期は2025年7月ころと予測されていて,太陽極大期には太陽表面の爆発(=フレア)が頻繁におき,その結果,強力な太陽風が放出されるので,これが地球に達すると磁気嵐などによってオーロラが発生します。そこで,このごろ,アメリカの北部地方や北海道でもオーロラが観測されています。特筆すべきは,2024年8月12日,北海道で,ペルセウス座流星群の流星とオーロラが同時に見られた,という出来事起きたことです。
 太陽の活動は,地球上に様々な影響を与えるのですが,私はそうした影響には何もできないので,せいぜい太陽黒点を写真に収めて,太陽のご機嫌をとることにしましょう。

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下北半島は思ったよりも狭い,というか,距離はあっても移動するのに時間がかからず,あっという間に小川原湖の北端まで南下してきました。
この日私が宿泊するのは「東北温泉」という旅館でした。青森県の東北町というところにあるそうで,ここから国道394号線を南西に走れば到着します。しかし,この時間に旅館に着いても,まだ早かったことと,青森県で八戸市だけ縁がなく,行った記憶がなかったので,八戸市まで遠回りしてみようと,さらに南下することにして進路を変え,国道338号線を走りました。
国道338号線は,地図では太平洋の海岸沿いを走っているようにみえますが,実際に走ってみると,住居がずっと続いていて海が見えませんでした。三沢市あたりまで来ました。三沢市はアメリカ軍の基地があるということで名前だけは知っていましたが,国道338号線沿いには,特にそのような施設は見あたりませんでした。また,三沢市は私の推しである2019年第56回ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝した沖澤のどかさんの出身地でもあります。
案内標示に三沢航空科学館というのがあったので行ってみようと思ったのですが,八戸市へ行くことを優先して,今回はやめました。
さらに走っていくと,大山康晴記念館という案内標示がありました。いきなり大山康晴という名前が出てきてびっくりしました。将棋の大山康晴十五世名人は倉敷市に生まれたので,倉敷市には倉敷市大山名人記念館があって,私も行ったことがあります。しかし,この場所とどういう縁があるのかな? どうしてここに? と思ったのですが,そういえば「青森県百万町(ももいしまち)の大山康晴記念館で…」みたいな記事を将棋の雑誌で読んだことを思い出しました。興味をもったので,ともかく行ってみることにしました。
航空科学館には行く気にならず,将棋の記念館なら行ってみようと思うのが私らしいのですかね。自分でもよくわかりません。

大山康晴記念館があったのはおいらせ町というところでした。
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おいらせ町は,2006年(平成18年)に上北郡下田町と百石町が合併して発足しました。
八戸市とこの町の境に奥入瀬川が流れていることから,おいらせ町と名づけられました。
  ・・・・・・
市町村合併でできた市町の多くは,知名度を上げるために,多くの人が知っている名前をつけようと四苦八苦しているようです。その結果,名前は聞いたことががっても,それがどこにあるのか,よそ者にはよくわからないものが少なくありません。
水沢市は奥州市になったし,武生市は越前市。中村市は四万十市になりましたがそのおとなりには四万十町があります。南アルプス市などというものもあります。また,清洲町は清須市となりました。
私は,子供のころに地図を眺めるのが好きで,多くの地名を覚えたのですが,それらの地名が,現在はどうなってしまったのか,よくわからないことが多々あります。

やがて,大山康晴記念館に着きました。地元の人が将棋を楽しみに来ていました。
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おいらせ町は「将棋の町」として将棋の普及奨励と芸術文化の充実及び観光振興を目指し,個性豊かな地域社会の実現と特色あるまちづくりを推進するため,各種活性化事業を実施しています。
その取り組みの中で,大山康晴十五世名人は当初より将棋の普及奨励を通じ地域づくり事業に積極的に関わり数々の功績を残してきました。
その功績をたたえ,また将棋の普及奨励を図るために将棋記念館を設立しました。
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ということだそうですが,館内にはさまざまな資料が展示されてて,そのまま東京や大阪の将棋会館に資料館として展示されてもよいような貴重なものでした。
現在,将棋会館には博物館がありません。以前は,大阪の関西将棋会館の地下にあったのですが,いつの間にかなくなりました。東京の将棋会館も大阪の関西将棋会館も新しくなるのですが,博物館はできるのかしら? 歴代名人の肖像画を並べたり,将棋の歴史を展示したりしてもいいように思うのですが。将棋メシの食べ比べコーナーとかも…。
係の人はもとても親切でした。もともとは観光施設として,入場料をとっていたようですが,今は無料です。いくら将棋好きであっても,わざわざ観光で来る人もいなさそうです。
それにしても,こんな地方の町でどうして将棋?

さらにおいらせ町の不思議なところは,この町に本物そっくりの自由の女神像があったことです。
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自由の女神像は,おいらせ町いちょう公園内にある繊維強化プラスチック(FRP)製です。
1990年,ニューヨークと百石町が北緯40度40分にあることに因み,また「4」にこだわり,本家自由の女神像の4分の1の大きさで製作されたものです。制作費は竹下登内閣時代の「ふるさと創生事業」の資金によるものです。
東京台場の自由の女神像の約1.7倍あることで,おいらせ町ホームページには「日本一の自由の女神像」と謳っています。
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中には入ることができないようです。
また,大山康晴記念館の近くには「日本一の大いちょう」というものもありました。
どうやら,この町は日本一というのがお好きなようです。

お金のない今では考えられないことですが,日本中にお金があふれていたバブル期末期の1988年(昭和63年)から1989年(平成元年)に,国は「ふるさと創生事業」と題して,各市区町村に地域振興のためと称して1億円をばらまき? ました。このばらまかれたお金をどう使うか,もらったほうは頭を悩ませました。それは,個人が突然宝くじで1億円当てて,使い道にこまるのと同じでしょう。
そこで,温泉を掘り当てたり,金の延べ棒を買ったり,日本一のすべり台を作成したり,世界一大きな狛犬を作成したり,このようなモニュメントを造ったり,天文台を建設したりしました。要するに,その地方自治体に住む人の文化的水準が試されたわけです。
もっともやっていけないのは,大した長期的な展望もないのに,そして,維持費のあてもないのに「箱モノ」を作ることでした。よって,それらの多くは,老朽化によって,今ではその維持に四苦八苦していたり,閉鎖されていたりします。要するに,1億円を溶かしちゃったわけです。
中には,福井県立恐竜博物館のように,その企画によって町おこしが成功したものもありますが,それは例外で,「箱モノ」には巨額の維持費がかかるということを考えていないのです。
その反対に,そのまま預金して,その後の15年間で6,000万円の利子所得を得た,というのもあります。また,金を買って,何かを造り,盗まれた,というアホな例もあります。
マスコミは,この事業について,その当時はさまざまな批判をしましたが,それっきりで,現在は話題にもしません。机上の空論だけで批判するのでのではなく,今,「「ふるさと創生事業」35年後の総括」と題して,足で歩いて取材をしてきちんとその結果を報道する,ということこそがマスコミの仕事だと思うのですが…。

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ペルセウス座流星群

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 毎年お盆休みのこの時期に話題となるのがペルセウス座流星群です。
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 ペルセウス座流星群(Perseids)はペルセウス座γ星付近を放射点として出現する流星群で,毎年7月20日ごろから8月20日ごろにかけて出現し,8月13日前後に極大を迎えます。2024年は8月12日の午後11時ころが極大期でした。
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 母天体はスイフト・タットル彗星 (109P/Swift-Tuttle)で,1862年にアメリカの天文学者ルイス・スウィフト(Lewis A. Swift)とホレース・タットル(Horace Parnell Tuttle)によって独立に発見され,イタリアの天文学者ジョヴァンニ・スキアパレッリ(Giovanni Virginio Schiaparelli)によってペルセウス座流星群の母天体ではないかと指摘されました。
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 ペルセウス座流星群の流星は,流れる速度が速く,また,明るい流星や火球が多いので,見ごたえがあります。私は,今から40年以上前に一度,この時期に星のきれいな山の中の旅館に泊まったことがあって,一晩中楽しんだことがありますが,それっきりです。ちょうどお盆の時期なので,多くの人が楽しめる,といいますが,実際は,旅行をしても混雑するし値段が高いので敬遠します。また,夏の空はきれいでないからです。とはいえ,家の近くで,満足に星が見られる場所はほとんどありません。特に,流星群は,望遠鏡で見るものではないから,空の暗いところがいいのです。
 今年は,晴れたこともあって,久しぶりに見にいくことにしました。あまりやる気はないので,ポラリエ という簡易赤道儀に対角魚眼レンズをつけたカメラを接続して持っていきました。これで,ひとつでもふたつでも流星が写っていればいいや,といういい加減な姿勢です。
 流星群の楽しめる場所を探して車で右往左往しました。やっと見つけても,遠くの都会の光で思ったより暗くなかったり,また,人のいない山の中だとクマが出てくる心配があったりするのです。やっと適当な場所を探しだしました。南の空は明るかったのですが,北の空は暗かったので,そこに陣取りました。近くには民家もなく,人もおらず,その点はよかったのですが,クマが怖いので音楽をかけて,イスに座って,空を見上げました。

 10分に1個ほどの明るい流星を見ることができました。意外と少ないな,と思いました。
 いくつか流星の写真も写すことができましたが,かえすがえす残念だったのは,最も明るかった流星が,ちょうどカメラのシャッターを閉じたときに流れたことでした。
 午後9時過ぎから見はじめたのですが,午後11時をすぎたあたりから曇ってきたので,引き上げました。明るい流星をいくつか見ることができたので,これで満足するとしましょう。

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35 年ほど前に国道394号線を下北半島の東海岸に沿って走ったとき,周囲が木々に囲まれ,まったく海が見えす,しかも,砂利を積んだダンプカーが多く走っていました。北海道の松前半島の海岸線に沿って走ったときはずっと雄大な海が見えたので,この違いに失望しました。しかも,この地にある六ケ所村は,当時,核燃料の再処理工場が計画されており,ダンプカーによる砂利の投棄とともに,本州の北の果てはゴミ捨て場だと思いました。
それから私も歳をとり,いろいろなことがわかってきたので,今回は,冷静にこの地を走って,公開されている施設があれば見学し,下北半島の現在の姿を確認することにしました。

まず見つけたのが東通(ひがしどおり)原子力発電所のPR施設「トントゥビレッジ」でした。
  ・・・・・・
美しい自然に囲まれた青森県下北郡東通村の豊かな緑の森にあるのがトントゥビレッジです。
この森の中には様々な動植物のほかに豊かな自然の中にしか住まないといわれている妖精たちが暮らしています。
小さな妖精の名前は「トントゥ」。森に住む動植物を観察したりエネルギーのしくみを知ることができる妖精が仲良く暮らす村へようこそ!
  ・・・・・・
ということで,子供むけの施設でしたが,原子力発電のしくみについてわかりやすい展示と説明がありました。つまり,ここは原子力発電所のPR施設でした。展望台から原子力発電所は見えるけれど写してはいけないとか,かなり神経質でしたが,パンフレットには写真が載っているので,意味ないじゃん,と思いました。
私は,まったくの勉強不足で,東通原子力発電所は稼働しているものとばかり思っていたので,聞いてみると「???」という返事。つまり返事を濁していて,こりゃわけありだな,と思いました。
帰ってから調べてみると
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東通原子力発電所は東北電力と東京電力ホールディングスが敷地を保有しています。
1号機は2005年12月に営業運転を開始しましたが,2011年3月1日に起きた東北地方太平洋沖地震に伴う福島第一原子力発電所の事故の際は定期検査中でした。しかし,それ以降,再稼働することなく,今も停止した状態が続いてます。
  ・・・・・・
ということで,現在は稼働していません。

次が六ケ所原燃PRセンターでした。
  ・・・・・・
日本原燃株式会社の六ケ所原燃PRセンターでは,日本原燃株式会社が事業を行う原子燃料サイクル施設を中心に原子力や放射線について大きな模型やパネル,映像を使用してわかりやすくご案内しています。売店やレストランもあります。
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ということで,こちらは展望台から自由に写真を写してもよかったし,かなり大らかな施設でした。逆にいうと,稼働中の施設を維持するためには一般の人たちの理解が必要なので,かなり気を使っているわけです。
  ・・・・・・
核燃料の再処理,つまり「原子燃料サイクル」というのは,原子力発電所から運ばれてきた使用済の燃料を燃料貯蔵プールで冷却貯蔵し,3センチメートルから4センチメートルの小片に切断したのち溶解槽で硝酸により溶かし,リサイクルできるウランとプルトニウム,廃棄する核分裂生成物質(=廃棄物)に分離し,廃棄物をガラス固化し保管するというサイクルを行うことです。
  ・・・・・・

原子力発電で使われるウラン燃料は,97パーセントの核分裂しにくいウラン238と,3パーセントの核分裂しやすいウラン235からなります。
原子力発電の軽水炉で,3パーセントのウラン235は,1パーセントのウラン235と2パーセントの核分裂生成物質になります。また,97パーセントのウラン238からは,中性子を吸収することで1パーセントのプルトニウムと1パーセントの核分裂生成物質が出ます。
つまり,原子力発電によって,ウラン燃料は,95パーセントのウラン238,1パーセントのウラン235,1パーセントのプルトニウム,3パーセントの核分裂生成物質になるのです。これが使用済の燃料で,ここから,3パーセントの核分裂生成物質を取り除き,残りの97パーセントを再利用できるようにするのが原子燃料サイクル施設というわけです。
なお,1パーセントのプルトニウムは,新たなウランと混ぜ合わせて,MOX(=Mixed Oxide Fuel)燃料として利用します。これをプルサーマルといい,MOX燃料が使用できる軽水炉(=プルサーマル基)で利用します。現在,日本にはプルサーマル基は4基あります。
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問題はその3パーセントの核分裂生成物質で,これらは高レベル放射性廃棄物(ネプツニウム,アメリシウム,キュリウム,ストロンチウム,セシウム,テクネチウム,ルテニウム,ロジウム,パラジウム等)として残されています。日本では,その量は、最終処分する際の「ガラス固化体」に換算すると,既に約2万6,000本にも及びます。
高レベル放射性廃棄物は,当然,ゴミ捨て場に捨てるわけにもいきません。現在は,六ケ所村にある日本原燃株式会社の高レベル放射性廃棄物貯蔵管理センターと,東海村にある日本原子力研究開発機構の東海研究開発センターにあって,これらは,30年から50年間にわたり貯蔵・冷却したのち,最終的には300メートルより深い地下に「地層処分」し,「天然バリア」である地層と「人工バリア」である金属や粘土を組み合わせた「多重バリアシステム」によって,放射能の減衰する数万年以上をかけて放射性物質を人の生活環境から隔離することになります。つまり,地下深くに埋めるわけです。
しかし,高レベル放射性廃棄物を地下深くに埋める場所(=最終処分場)がすでに作られているのはフィンランドのみ,計画中なのがスウェーデン,フランス,アメリカで,日本では現在,北海道寿都(すっつ)町,神恵内(かもえない)村が候補となっていますが,最終処分場の場所すら決まっていないのです。

ちょうどお昼になったので,別棟にあったレストランで昼食をとりました。
なお,六ケ所村は,この施設のおかげで,ひとり当たりの村民所得が全国平均の5倍にも相当する,日本でも有数の豊かな自治体となっています。

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 先日「もしも徳川家康が総理大臣になったら」という映画を見てきたというお話を書いたのですが,見てきた場所は,県営名古屋空港のとなりのエアポートウォーク名古屋に併設されたミッドランドシネマ名古屋空港でした。
  ・・・・・・
 エアポートウォーク名古屋は,旧名古屋空港国際線ターミナルビルを再利用したモール型ショッピングセンターで,2008年(平成20年)に開業しました。 2005年(平成17年)のセントレア・中部国際空港の開港に伴って,閉鎖されたターミナルビルを活用するためにつくられたものです。
 建物は,南側の1階,2階はアピタ,他の部分は専門店で,フードコートとアミューズメントパーは空港のチェックインカウンターのまま再利用し,吹き抜けになっています。
 南東側にミッドランドシネマ名古屋空港が新置され,さらに,2017年(平成29年)には,北東側にあいち航空ミュージアムが設けられました。
  ・・・・・・

 現在は,県営名古屋空港からよくFDAを利用して旅をしているので,この場所のことは知っていたのにもかかわらず,エアポートウォーク名古屋に寄ったことはありませんでした。今回,行ってみて,こりゃいいや,と思いました,この暑い時期に1日暇つぶしをするにはちょうどいいところでした。よく賑わっていました。
 以前,この場所が国際空港だったころに,たびたび利用して海外へ行きました。そのころは,ほかの空港に比べて,小さく貧弱な空港だなあ,と恥ずかしく思っていました。しかし,今は,公共交通機関によるアクセスが名鉄のみで,しかも,頻繁に事故や故障で不通になってしまうことと,車で行こうにも,駐車料金がとても高いことで,不便極まりないセントレア・中部国際空港よりも,この場所のほうがずっと便利なのに,と思うようになりました。

 エアポートウォーク名古屋は,さまざまなところに国際線ターミナルだったころの面影があって懐かしく,ここから旅に出たころのことを思い出していました。とはいえ,この場所に国際ターミナルができたのは,1999年(平成11年)のことで,それ以前は,現在FDAが利用している国内線ターミナルだけでした。あまりに手狭だということで国際線ターミナルができたのですが,利用されたのはわずか6年ほどの期間に過ぎませんでした。
 私はこの日,フードコートで昼食をとって,映画「もしも徳川家康が総理大臣になったら」を見て,あいち航空ミュージアムで遊んで,さらに,レストラン街で夕食も食べてきました。

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 「喉元過ぎれば熱さを忘れる」といいます。多くの人は昨年の夏が猛暑であったということを忘れてしまっていたのではないでしょうか。実際は,昨年2023年の夏は猛暑でした。7月20日ごろまでは涼しかったのですが,突然暑くなりました。そして,その暑さは9月になっても一向に変わらず,そのまま猛暑が続きました。だから,8月よりも9月が辛かったようです。ところが,10月になるやいなや,突然涼しくなりました。
 そんな2023年の夏,私は,そろそろ涼しくなるだろうと,8月20日から隠岐諸島へ旅行に行ったのですが,この時期は長袖を持っていくほうがいいと書かれてあった隠岐諸島も非常に暑く「今年は例年とはまったく違う」と言われました。そんなこともあって,夏バテになり,夏が過ぎたとき,10歳は歳をとったように感じました。

 そこで,2024年も昨年同様に猛暑がくると予想し,7月20日から8月末まではどこへも行かないぞ,と決心しました。そして,9月は8月の様子を見てどうするかを決めることにしました。
 実際,予想した通り,2024年も猛暑となりました。連日,摂氏40度近い毎日が続いています。昨年よりもさらに暑いようですが,それは,私が想定したとおりだったので,家に籠りはじめました。しかし,ひとつ大きな誤算がありました。それは,家にずっといると,やはり調子が悪くなるのです。体を動かさないと重たく感じるようになり,太ってきました。
 ということで,考えたのは,涼しい時間に外に出て体を動かそう,ということでした。
 昔は,夏は,午前10時まではクーラーなしでも大丈夫でした。また,午前8時くらいまでは,動いても汗をかきませんでした。しかし,今は,午前5時30分を過ぎると無理です。この時間になると,セミが鳴きだし,人々が活動を開始しはじめるのですが,突然暑くなるのです。この時間にまだ寝ている人はわからないことでしょうが…。

 私は,朝は午前4時過ぎには自然に目が覚めます。この時期は夜が明けるのが早いので,朝は午前4時30分を過ぎるとすでに明るいです。そこで,午前4時30分から1時間ほど散歩をすることにしました。
 ほとんど人がいない街というのはおもしろいものです。マンウォッチならぬハウスウォッチをすることができます。この家のひとは,こんなムダなことにお金をかけているんだなあ,とか,この家には,たくさんの子供がいるんだなあ,とか,そんなことを思いななら歩くのです。まれに,犬の散歩をしている人を見かけますが,犬のペースでだらだらと歩いたら,犬には運動になっても人には運動になりません。ラジオをかけながら歩いている人もいます。クマがでるわけでもないし,せっかくの静寂が壊れるので,やめてほしいです。
 そして,歩き終わったころ,家の近くにあるマクドナルドで休憩して,家に戻り,シャワーを浴びます。ほかに客のいないマクドナルドでアイスコーヒーを飲むのも悪くありません。
 そして,夜にも,午後8時から,また,1時間ほど歩きます。朝とは違って,自転車で遠出して,自宅から少し離れた公園などで歩きます。すると今度は,まだ青いクリの実やギンナンの実,一面のヒマワリ畑など見ることができます。朝とは違って,午後8時というのは,まだ暑いです。昼間の熱気がさめていないのです。しかし,1日に1度は少し汗をかくのも悪くない。それは,帰宅してすぐに入浴をするからです。
 こんな日常をおくると,1日に約1万歩ほどは歩くことができるので,体の調子もよいのです。

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2023年の天気
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スピカ食。

8月10日,スピカが月に,午後8時21分に潜入し午後8時51分に出現しました。
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 2024年8月8日。連日の猛暑で旅行に出る気も起きずその気もなく,かといって暇なので,映画を見てくることにしました。
 上映中のもので1番おもしろそうだった「もしも徳川家康が総理大臣になったら」を選びましたが,とはいえ,どういう内容なのかまったく知らず,単に題名で決めただけです。
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 こんな内閣待っていた - 歴史上の偉人オールスターズが現代に大復活!
 物語の舞台は2020年。コロナ禍真っ只中の日本で,未曾有の危機に直面する政府が実行した最後の手段は「歴史上の偉人たちをAIで復活させ最強内閣を作る」ことだった。
 総理大臣を託されたのは徳川家康。そして,官房長官を坂本龍馬,経済産業大臣を織田信長,財務大臣を豊臣秀吉,ほかにも,紫式部,聖徳太子,北条政子,徳川吉宗,徳川綱吉,足利義満などのドリームチーム内閣が誕生する。
 そんな中,テレビ局の新人記者・西村理沙はスクープを取ろうと,政府のスポークスマンである坂本龍馬に近づくのだが,ひょんなことから裏に渦巻く黒い思惑に気付いてしまう。はたして陰謀の正体とは? そして,日本史に新たに刻まれる「事件」の真相とは?!
  ・・・・・・
というあらすじでした。
 眞邊明人さんの小説を映画化したものだそうです。

 私は,映画は小難しいものでなくておもしろければいいや,ということで見にいったので,十分に満足できましたが,この映画は,さまざまな歴史上の逸話や現代のパロディがちりばめられているので,歴史や政治がわからない人には退屈だったかもしれません。近くに2人の子供を連れた家族がいたのですが,子供たちははうんざりしていました。この映画を家族で見にくるほうが悪いのでしょう。これは,日常にうんざりしている,あるいは私のように暇を持て余している老人の見る映画です。
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 特におもしろかったのは前半の30分。現在の政治家に見せてやりたいです。
 しかし,こんな大ぶろしきを広げちゃって,その後,どういう展開にするのかな? と心配になったのですが,それは杞憂に終わらず,散らかしたおもちゃを片づけようにも片づけるおもちゃ箱がない,という感じになってしまいました。
 こんな展開にするのなら,いっそのこと,もっと無茶苦茶にダイナミックにすればいいのに…。例えば,AIを駆使して,歴史上の人物をたくさん出してしまうとか。どうせ,今や,コンピュータグラフィックでどんな画像でも作れるのだから。
 後半は,説教くさい,という批評があるのですが,実際,徳川家康校長先生の講話を聞いているようなものでした。徳川家康さんは太平の世を作った,のかもしれませんが,それよりも,徳川家を滅ぼさないように,川には橋を架けず,大名の妻子を人質にとって,庶民から税金を取り立てて物言わぬようにした徳川独裁王朝の基礎を作っただけ,かもしれませんよ。
  ・・
 映画やテレビドラマを見るといつも思うのですが,アメリカの作品では大統領や警察官,消防士は英雄であり,憧れとして描いているものが多いのですが,日本の作品では,政治家や官僚,地位の高い人たちは,裏金をせしめたり,部下をいじめたりする悪徳な輩ばかりなのです。そして,それに対して,歴史上の偉人は史実以上に英雄になり賛美されます。また,「ドクターX」の大門未知子や「ラジエーターハウスの五十嵐唯織,「七人の秘書」の〈名乗るほどのものではありません〉のように,名もない庶民のように思える人が実はすごい実力者だったりする…,といった描きかたがされるのです。
 この国人たちは,日ごろ,よほど不満を抱えていて,しかし,言いたいことも言えず抑圧されて生きているのでしょう。
 この映画では徳川家康を賛美しすぎているのと,歴史ドラマの常として,ヒーローはいつも坂本龍馬になってしまうのも同じで,これでは単純というか,代わり映えがしないというか。私は,物語の展開から深みをなくしていると思いました。むしろ,影のワルが坂本龍馬だったりするほうがよかったかも。
 まあ,いずれにしても,日本は,世界で最も古い国だとか自画自賛していても,長~い歴史があっても,この映画で内閣を組織した人たち程度しかリーダーがいなかった,というのが,人材不足の日本を象徴していますな。
 ともかくも,退屈しない2時間の暇つぶしでした。シニア割引1,200円也なら,十分に元が取れました。

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尻屋崎から下北半島の東岸を南下しようと思っていたのですが,道路がありませんでした。それは,海岸線まで高い山が続いているためのようでした。仕方がないので,来た道を戻り,途中で東岸にアクセスする道路を見つけたので,そこで左折しました。
下北半島を横断していると,道路が二股にわかれます。左に行くと県道172号線,これは尻労漁港で行きどまりとなりますが,GoogleMaps のストリートビューで見ると,尻労漁港にはけっこう大きな集落があります。この地に住むのも,いろいろ不便だろうと思うのですが,日本では,どんなところに行っても人が住んでいます。右手に行くと県道248号線で,私は,この道路に進路をとりました。この道路は下北半島の東岸に沿って南下します。

県道248号線はめったに車も通っておらず,快適でした。以前,ボストン郊外の道路を走ったときのことを思い出しました。県道248号線は海岸に沿ってはいるものの,防風林がつながっていて視界が効かず,まったく海が見れらませんでした。
実は,この一帯の海岸は猿ケ森砂丘なのです。
  ・・・・・・
幅東西約2キロメートル,長さ南北約17キロメートルの猿ヶ森砂丘は,約6,000年前の縄文海進期以降に太平洋からの砂が堆積して形成されたものです。「猿ヶ森」はアイヌ語の「サル・カ・モライ」(=湿地の上流にある流れの遅い川)に由来するといわれます。
猿ヶ森砂丘は,鳥取砂丘より広く日本最大,とされますが,実際は,猿ヶ森砂丘の広さは約3,000ヘクタール程度で鳥取砂丘とは同程度。ほぼ全域が防衛装備庁の下北試験場なので,一般人の立ち入りはできません。
  ・・・・・・
ということですが,さらに調べてみると,先に書いた尻労漁港の南のあたりの小径から坂の下という場所までは行くことができて,そこで砂丘の北の端を見ることができるそうです。

猿ケ森砂丘が過ぎたあたりに猿ケ森ヒバ埋没林があるという案内標示があったので,行ってみました。小さな集落があって,それを過ぎると駐車場がありました。そこに車を停めて,森の中に入っていくのですが,クマがでるということなので,iPhone で音楽をかけながら歩きました。
しかし,森に中をどこまで歩いて行っても,どこがヒバの埋没林なのかわかりません。背後から,クマではなく人がひとり,同じように音楽をかけながら歩いてきました。「どこが埋没林なのでしょうねえ?」と声をかけると「たぶんここじゃないのかなあ?」という返事。お互い,よくわからないのでした。以前行ったことがある北海道野付半島のトドワラのようなところを期待していただけに,がっかりしました。
  ・・・・・・
目的の場所は駐車場から約300メートルで,沢沿い埋没樹がぽつりぽつりとあり,埋没「林」とは思えません。枯れ木と埋没樹がゴッチャになっているため,どれが埋没樹なのか判別が難しくよくわからないのです。
  ・・・・・・
という口コミを見つけました。来た人はみな,同じように??? となる場所のようでした。
ということで,こうした森を見たことがない人には,ヒバ埋没林が何かわからずとも,森を歩くだけで感動している人もいるようですが,私はアメリカの国立公園で,もっとすごい森を数多く体験しているので,それに比べたら…,とがっかりした場所でした。

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◇◇◇
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県道6号線は尻屋崎に近づくにつれて最果て感満載になってきました。しかし,そこに飛び込んできたのは巨大な工場群でした。それは,いくつかの会社のセメント工場でした。私のイメージしていた最果て感とはまるで違うその景観に驚きました。
そのうちのひとつであるUBE三菱セメントは,セメント需要の減少と燃料価格の上昇で2023年3月末をめどに閉鎖されたということで,現在は,その後処理の最中だそうですが,このような巨大な工場は,すべて片づけられるのでしょうか? それとも廃墟となるのでしょうか? もし廃墟となるのなら,それは環境破壊だな,と悲しくなりました。

さて,県道6号線は,このような多くのセメント工場の間を過ぎると,次にそこにあったのが閉じられたゲートでした。尻屋崎はゲートで閉じられてていて,行くことができないのかな? と思いましたが,この時期,午前7時から午後4時45分までは車が近づくと自動で開くことがわかりました。ここにゲートが設置されている理由はわかりません。
  ・・・・・・
尻屋崎の北側は津軽海峡,東側は太平洋で潮の変わり目で,また,濃い霧がよく発生するため,海上交通の難所として古くから恐れられていました。これが北前船がこの場所をさけて,日本海経由で運ばれた理由でした。
1876年(明治9年)に尻屋埼灯台ができました。尻屋埼灯台は国内最大級の光度53万カンデラを誇ります。
  ・・・・・・
ゲートをすぎると,やっと,私が描いていた雄大な景色が広がっていました。朝早く,私以外にはだれも来ていなかったので,これがまた最果て感を増長しました。
ドライブウエイは海岸線に沿ってずっと続いていたので,それを走っていくと別のゲートに着いたのですが,そのゲートは午前9時に開くということで,そこから出ることはできませんでした。Uターンして今走ってきた道路を逆に進むことになりました。
尻屋崎灯台は中に入ることができるということですが,私の行った時間が早すぎてまだ閉まっていたたので,灯台に入ることができなかったのは残念でした。

再び,入ったときと同じゲートから出ました。
ゲートの際に放牧場があって,多くの寒立馬(かんだちめ)の姿がありました。ここにやって来たという内容の多くのブログがあります。ブログのほとんどが寒立馬を見ることができなかった,とあるのですが,私はこういうとき,当たり前のようにうまくいくのです。
ただし,それはそれで,大変なこともままあって,昨年の8月下旬に隠岐諸島に行ったときは,放牧された牛の大群に車を囲まれて動けなくなったし,アメリカのノースダコタ州では道路の真ん中にバッファロー2頭現れて進むことができなくなったこともありました。そこで,私はそうしたことがトラウマになっているので,放牧された動物は好きではありません。

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旅の3日目は,下北半島の北東端の尻屋崎へ行って,そこからずっと下北半島の東岸を南下して八戸市まで行くことにしました。広範囲な地図では尻屋崎へ行く道路がないように見えますが,むつ市から尻屋崎までは県道6号線がつながっています。
ホテルをチェックアウトして少し行くと斗南ケ丘市街地跡がありました。車を停めて降りて,説明書きを読んでみると
  ・・・・・・
戊辰戦争に敗れた会津藩が,1869年(明治2年),藩主・松平容保(たかもり)の嫡男・松平容大(たかはる)による家名存続が許され,新領地として斗南の地(現在の三戸、上北、下北の 3 郡と岩手県の一部)に斗南藩が成立しました。この地は,移住してきた藩士達の屋敷が造られた跡です。
  ・・・・・・
ということでした。
そういえば,今年の1月,会津若松市へ行ったとき,会津藩の歴史について興味をもったので,帰宅後調べていて,斗南なる名前を見た記憶があるのですが,それがむつ市であったとは…。また,昨晩泊った「むつグランドホテル」に保科正之(ほしなまさゆき)の資料や会津松平家の系図が展示してあったのですが,どうしてここに? と思ったのでした。
私がこれまでに旅で行ったところは,いつも何かしら不思議な縁で結ばれています。

保科正之は,2代将軍徳川秀忠と下級女中との子です。母親の身分が低かったのでその存在が隠され,旧武田家臣の高遠藩主・保科正光が預かりました。のち,保科正光の後を継いで藩主となり,山形藩藩主を経て,会津藩初代藩主となりました。
家老・友松氏興が建言し,保科正之と朱子学者・山崎闇斎が共同で作成したといわれる「会津藩家訓15ヶ条」は,200年にわたり会津藩の精神的支柱として存在しました。これが幕末,会津藩の悲劇につながってしまうのです。
  ・・・・・・
第1条
大君の儀,一心大切に忠勤を存すべく,列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば, 則ち我が子孫に非ず,面々決して従うべからず。
  ・・・・・・
2代藩主・保科正経(ほしな まさつね)には男子がなく,保科正之の子・正容(まさたか)が3代藩主となると,幕府から松平姓と葵の紋を与えられ,会津藩は徳川親藩になりました。
9代藩主・松平容保(たかもり)は,越前の松平春嶽や一橋慶喜らに京都守護職への就任を要請されます。この「会津藩家訓15ヶ条」第1条の内容を引き出された松平容保は要請を承諾するしかなく,これが戊辰戦争での悲惨な白虎隊の最期を引き起こす要因となりました。

斗南の名の由来は,中国の詩文の中にある「北斗以南皆帝州」(=北のこの地も天皇の国と変わりはなく,ともに北斗七星を仰ぐ民である)から来たもので,望郷への想いとともに,いつかは南に帰りたいという願いが込められているといわれます。また,憎むべき南(=長州・薩摩)と斗(=戦)うという解釈もあります。
しかし,ここは最北の僻地でした。入植した藩士たちの生活は困窮を極め,開墾に夢を託した藩士たちは,志半ばにして命を失い,あるいは,この地を去るものが続出しました。そのわずか1年後,政府は廃藩置県を断行し,斗南藩は消滅しました。
しばらく進んでいくと,旧斗南藩士の墓がありました。 当時,入植者が亡くなっても生活が苦しかったことから墓石が置くことができませんでした。そこで,これらは,1976年に斗南会津会が整備したものだそうです。

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おいしいマグロ丼に満足して,「むつグランドホテル」を目指して国道279号を走ります。
大間崎から下北半島の北岸を東に走っていると「布海苔(ふのり)発祥の地」という碑を見つけました。布海苔って何? と思ったのですが,刺身のつまでついている紅色の海藻だと思い当たりました。
  ・・・・・・
布海苔養殖法は1868年(明治初年)佐賀平之丞により考案され,その後,祖父の意志を継承し,佐賀清太郎が完成させました。これ以後,布海苔養殖法は村内はもちろん,県内および全国で採用されるようになりました。
  ・・・・・・
ということでした。
国道279号線は通称「むつはまなすライン」といい,道路沿いは点々と住宅が立ち並んでいて,最果て感はありませんでした。まもなく,むつ市街に入りました。

下北半島では,霊場恐山,仏ケ浦海岸,大間崎と,行きたかったところにすべて行くことができました。この日宿泊する「むつグランドホテル」はむつ市街の高台にありました。
それにしても返す返す私がいい加減なのは,予約をしておきながら「むつグランドホテル」がどんなものか把握していなかったということです。泊まることさえできればいいや,と思っていたので,「むつグランドホテル」はビジネスホテルに毛が生えたようなところだと思っていました。到着して驚きました。そこは,ものすごく豪華なホテルだったのです。
団体ツアー客がたくさんいました。下北半島を団体観光ツアーでまわろうとなると,宿泊先は「むつグランドホテル」一択となるようでした。帰ってから調べてみると…,ありましたありました。「仏ケ浦上陸とJR五能線 下北・津軽2大半島3日間」というツアーが。宿泊先は1泊目が鯵ヶ沢の「ロックウッドホテル」で,2泊目が「むつグランドホテル」でした。
ここは斗南温泉という場所なので,外来の日帰り温泉もありましたが,宿泊者だけの温泉も併設されていて,宿泊者は宿泊者専用の温泉と日帰り温泉の両方に入ることができました。部屋も立派で申し分なかったのですが,私は団体ツアー客が多いというだけでうんざりしました。
素泊まりだったので,夕食はすでに食べてきたのですが,朝食は近くに食べられるようなところもなかったので,ホテルで食べることにして,チェックインするときにフロントで予約しました。
温泉は団体ツアー客がいるから混雑するので,彼らが食事をしている時間に行ってみました。やはり空いていてなかなかいい湯でした。

2024年7月6日。旅の3日目です。この旅は,結果的には2泊3日でもよかったのですが,私が行きたかった場所が何日でまわれるのか見当がつかなかったので,おまけの1日,つまり,予備日を設けてありました。この日の宿泊先は「東北温泉」。これもまた,どういうところなのかはよくわかっていませんでした。
早朝,午前5時から温泉に入れるというので行ってみましたが,すでにけっこう人がいました。年寄りはみな早起きであり,時間なんて無視なのです。旅館によってはその時間以前に行っても入浴できないところもあるのですが,ここはそうではありませんでした。
朝食は午前7時からで,バイキング形式でしたが,これが問題でした。団体ツアー客の食事時間が午前7時30分からだと見込んだのが大間違いでした。彼らは私が思ったよりも出発が早かったのです。こんなことなら,私は,午前7時に温泉に入り,午前8時から朝食をとるべきだったのです。
ホテルや旅館によっては,団体ツアー客がいる場合,個人客とは部屋を別にしていることもあり,これが好ましいのですが,「むつグランドホテル」では,同じ大広間でした。こうなるといけません。ずらっとならんだ団体ツアー客は,まるで修学旅行生で,こんなところの端に個人客が押しやられてはたまったものではありません。これだけで,私には,このホテルはリピートの候補から外れます。
今改めて調べてみると,「むつグランドホテル」に泊まらずとも,下北半島には,大間崎を含め,団体ツアー客が泊まることのない小さな旅館がたくさんあったのです。そして,その多くはおいしそうな食事つきで,評価も高いのです。私としてはうかつでした。

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朝,津軽半島の先端龍飛崎の「龍飛崎温泉ホテル竜飛」を出発して,一路,下北半島を目指したのですが,思ったよりも早く下北半島までたどり着いて,霊場恐山にも行き,さらに仏ケ浦海岸まで足を延ばすことができました。
この日予約してあったのは,むつ市の「むつグランドホテル」,素泊まりでした。
地図を見ると,仏ケ浦海岸からは,下北半島を南の海岸線に沿って反時計回りに来た道を戻るのも,時北の海岸線に沿って時計回りに大間崎を経由して戻るのも,ともに同じような距離だったので,大間崎に行って,そこで夕食をとることにしました。きっとおいしいマグロが食べられることでしょう,という期待を込めて…。

仏ケ浦海岸から下北半島の西岸に沿って国道338号線を走るのですが,海岸線はずっとすばらしい景色が続いていました。下北半島に限らず,日本海側の風景は変化に富んでおもしろいものです。
しばらく走っていくと集落が見えてきました。国道338号線はここで終点で,引き続き国道279号線になるのですが,国道を走っていくと大間崎を通り越してしまいます。国道338号線の終点で,道路標示に従って,大間の市街地を北上していくと,大間崎に着きました。
広い駐車場があったのですが,車は全く停まっていませんでした。車を停めて,まず,大間崎の日本最北端の地碑まで行きました。すごい風でした。
大間崎は,35年ほど前に一度来たことがあるのですが,そのときのうっすらとした記憶では,もっと閑散とした漁港だったように思います。現在は,立派な観光地に変貌を遂げていましたが,観光客は皆無でした。聞くところによると,北海道の宗谷岬や美瑛の青い池はインバウンドであふれかえっているとか…。それだけで,私は行く気がなくなるのですが,それに比べて,ここは最高でした。

時刻はまだ午後5時前でしたが,夕食をとることにしました。
何軒か,食事のできる店があったのですが,車を停めたとき声をかけてくれた人の店に行くことにしました。注文したはもちろん極上のマグロ丼です。マグロを釣ったという人の息子さんがやっている店ということでした。出来上がったマグロ丼を食べていると,私の食べているマグロを釣りあげたという人が入ってきました。小柄な初老の人で,この人が一本釣りしたとは信じられませんでした。
  ・・・・・・
マグロといえば「大間の一本釣り!」と答える人も多いくらい有名な,大間のマグロです。小型船に乗ってマグロが回遊する沖まで出て,釣竿で1本のマグロを釣り上げるのです。
一本釣りは,傷が少なく状態もいいため単価がよくなりますが,1本ずつ釣り上げるので手間のかかる作業になるし,漁に出ても全く釣れないこともあるといいます。
  ・・・・・・
何事もすごいものだと感動しました。

マグロは日本海を回遊して,津軽海峡に入り,太平洋へ向かうのですが,津軽海峡は海流が早く,身が引き締まっておいしいマグロになるということです。ちょうどこの時期から漁がはじまりますが,この季節のマグロは赤身ばかりだそうで,油ののったおいしいマグロは冬に捕れたものだそうです。
釣ったマグロは,マイナス60度にして都会に送るそうです。
といった話を聞いていたときはそんなものか,と思ったのですが,後で考えてみると,冬の漁は,ものすごく寒い時期ではないですか。過酷です。
店で出されたものは,冬に捕れたものということで,私が生涯食べたものの中でも最高の味のひとつでした。上質のトロと上質の牛肉を足したような味。こんなおいしいものを食べてしまうと,帰宅してから,トロにぎりは食べられないなあ,と思いました。
さすが大間のマグロでした。

ところで,先日,NHKBS「にっぽん縦断こころ旅」で大間崎を取り上げていましたが,晴れた夜には,大間崎から函館の夜景が海の上に浮かび上がって見えるのだそうです。
そんなことを知ると,ぜひ,一度はそれを見てみたいなあ,と思ったことでした。

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霊場恐山がどういうところかわかってすっかり納得しました。
時刻はまだ午後3時前でした。下北半島は思ったよりも広くありませんでした。これは,交通量が少なく信号がないので,移動に時間がかからないからでした。
今日の宿泊先は「むつグランドホテル」で,素泊まりでした。それは,何時に到着できるかわからなかったことと,翌日の予定も未定だったからです。そこで,この時期は日没も遅くまだ十分に時間があったので,下北半島のほかの観光地を巡ることにして,まず見つけたのが仏ヶ浦海岸というところでした。
仏ケ浦海岸は下野半島の西海岸沿いの中央あたりにありますが,霊山恐山から直接行く道路がなく,再びむつ市まで戻って,今度は下北半島の南岸を国道338号線に沿って,下北半島の海岸沿いに時計回りに進みます。
しかし,国道338号線は途中が不通になっているという看板があったので,はたして行くことができるのか心配になりました。不通区間がどこなのかわかりません。まあ,行くことができなければ戻るだけ,と思って進みます。途中の川内町で右折して県道46号線を行けとカーナビが示すので従うことにしました。これは三角形の斜辺,つまり,ショートカットになります。また,国道338号線の不通区間の迂回路なのだろうと勝手に判断しました。県道46号線は反時計回りに大きく曲線を描き,12時のところで県道253号線との分岐になって,県道253号線に進路を変えて進むと,やがて,再び国道338号線と合流して,しばらく進むと,無事,仏ケ浦海岸の駐車場に着きました。やはり,迂回路でした。

ここで問題がおきました。私は,仏ケ浦海岸は道路に面しているとばかり思っていたのですが,それは大きな誤解だったのです。実際は,仏ケ浦海岸は,駐車場から,クマが出ることもあるという100メートル以上の高低差がある急峻な坂道を30分ほど歩かなければならなかったのです。それでもこのような道を作った人に感謝です。そうでなければたどり着けませんでした。
  ・・・・・・
仏ヶ浦海岸は,古くは仏宇陀(ほとけうた/ほとけうだ)と称しました。陸奥湾口の平舘海峡に面した峻険な海岸沿いに2キロメートル以上にわたって奇異な形態の断崖・巨岩が連なる海蝕崖地形で,1,500万年前に海底火山から噴出した火山灰が押し固められ削り取られて形成されたものです。
陸上から近づくのが困難な土地だったので,長らく地元民のみに知られる奇勝でした。大町桂月が1922年(大正11年)に下北半島を訪れた際,仏ヶ浦海岸を見て強い感興を覚え「神のわざ 鬼の手つくり仏宇陀 人の世ならぬ 処なりけり」の和歌をもってその奇観を賞しました。仏ヶ浦海岸が世に広く知られるようになったのは大町桂月の紹介によるものです。
  ・・・・・・
海岸沿いに展開する長大な景観なので,海上からでなければその全体像は把握できないということで,佐井村佐井港およびむつ市脇野沢港からの観光船が出ているそうですが,知りませんでした。
幸いクマと遭遇することもなく到着し,絶景を楽しむことができましたが,汗だくになりました。

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霊場恐山に到着しました。一体どんなところやら想像もつかなかったのですが,第一印象は不気味さ漂うところでした。広い駐車場があって,その奥に,荘厳な寺院がありました。
時刻はお昼過ぎでした。それまで適当なところがなかったので,できれば,霊場恐山に着いたら昼食をと思っていましたが,食事をするようなところはないのかしら? あるいは,みやげ物店や食事どころが立ちなぶような門前町があるのかしら? などなど,半信半疑でした。実際は,1軒の食堂とみやげ物店がありました。食堂はふたりの女性が働いていました。
不謹慎な私は,お参りをする前に腹ごしらえをしました。
おいしいおそばでした。それにしても,こんな山奥に毎日通っているのも大変だと思って聞いてみると,慣れているから,ということでした。また,ここは冬は閉鎖していて,5月から10月の間だけ開山しているということでした。

食事を終えて,入山しました。ほとんど人はいませんでした。これはさびれているのか,私が行ったときがたまたまだったのか?
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恐山は,下北半島の中央部に位置する活火山群の名称で,古くは宇曽利山(うそりやま)とよばれたものが転訛して恐山となりました。最高峰は標高878メートルの釜臥山で,それに加えて,大尽山,小尽山,北国山,屏風山,剣の山,地蔵山,鶏頭山の八峰からなり,恐山という山はありません。
中央のカルデラ湖である宇曽利湖(うそりこ)の湖畔にあるのが,恐山菩提寺で,これが俗にいう霊場恐山です。なお,恐山山地というのはもっと広範囲の下北半島の上部全体の山岳地を指します。
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宇曽利という名は1057年(天喜5年)の「扶桑略記」や「今昔物語」に見られます。恐山の噴火記録はなく,最後の噴火は1万年以上前と見られていますが,今でも,水蒸気や火山性ガスの噴出が盛んです。霊場恐山の「地獄」付近には火山性ガス(=亜硫酸ガス)が充満していて硫黄臭を放出しています。このガスによる影響で草木が生えず動物も稀であることから,地獄のような様相を呈し,これが霊場としての雰囲気を醸し出しているのです。
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恐山菩提寺は9世紀ごろに天台宗の慈覚大師円仁が開基しました。本尊は延命地蔵尊で,曹洞宗の寺院です。
地蔵信仰を背景にした死者への供養の場として知られ,明治・大正期に「恐山に行けば死者に会える」と俗信されるようになりました。
イタコの口寄せが行われるようになったのは戦後になってからで,これは,霊場恐山にやってくる人を目当てにしたエンターテインメント。恐山菩提寺とは関わりがありません。
  ・・・・・・
このように,風景の異様さから,言葉は悪いですが,あの世をテーマとしたアミューズメントパークのような寺院であると私は思いました。

山門をくぐった左手に無料休憩所があったので入ってみたのですが,ほかに人影もなく,奥まったところにイタコの女性が座っていて,びっくりしました。私はご先祖様に詫びることしかしていないので,口寄せはためらいました。帰ってから調べてみると,口寄せは人気で,待ち時間が何時間にもなると書いてあったのですが,私が見たときは閑散としていました。
以前,黄金崎の不老ふ死温泉に行って,浜辺の露天風呂に入ったとき,青森県の温泉めぐりを楽しんでいるという人と話をしたのですが,恐山には自由に入ることができる温泉があると言っていました。そのときはイメージがわかなかったのですが,恐山温泉のことでした。恐山温泉は,明治から昭和初期かけて存在した恐山鉱山の掘削時に噴出したもので,寺院の境内に,男性用の「古滝の湯」(こたきのゆ),女性用の「冷抜の湯」(ひえのゆ),男女交代制の「薬師の湯」,混浴の「花染の湯」の4つの湯小屋がありました。しかし,これに入るには勇気が要りました。亜硫酸ガスが充満するので開けっ放しで,外から丸見えです。
また,霊場恐山には宿坊もあって,宿泊することも可能です。
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本坊の奥に,白い岩肌の溶岩台地が広がっていて,その奥に宇曽利湖がありました。この気味悪さがあの世をイメージさせるわけです。霊場恐山というのはこういうところでした。

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今日は津軽半島の蟹田から一気に下北半島の恐山までを紹介します。
津軽半島を時計回りに進んで,蟹田の駅前に着きました。ここで少し休憩して先を急ぎます。JR津軽線は青森駅から津軽半島の東岸にそって蟹田駅まで行って,そこから津軽半島の北岸にある今別駅まで内陸部を進むのですが,現在,蟹田駅から先は運休しているので,ここが終着駅となります。
私は,JR津軽線に並行する国道280号線を海岸沿いに南下しましたが,この先は青森市街地に近づいていくので,周りは住居ばかりになって,見どころがなくなりました。最北感あふれる奥津軽は,蟹田や金木以北です。やがて,青森市街地に着きました。国道280号線はここで終了し,片側4車線もある国道4号線に入ります。
早く青森市を抜けて,野辺地へ行き,そこから下北半島を北上したいのですが,青森市に入ると車が増えて,信号も多く,なかなか先に進めません。そんな青森市の市街地は何となく高知市の市街地に似ています。違いは城がないことで,これが,青森市の市街地に魅力を感じない原因となります。要するに,ねぶた以外は何もないのです。青森市の見どころとして三内丸山遺跡や浅虫温泉などが観光案内に書かれてあるのですが,これらはいずれも青森市の郊外です。
  ・・・・・・
この海岸の小都会は,青森市である。津軽第一の海港にしようとして,外ヶ浜奉行がその経営に着手したのは寛永元年である。ざつと三百二十年ほど前である。当時,すでに人家が千軒くらゐあつたといふ。それから近江,越前,越後,加賀,能登,若狭などとさかんに船で交通をはじめて次第に栄え,外ヶ浜に於いて最も殷賑の要港となり,明治四年の廃藩置県に依つて青森県の誕生すると共に,県庁所在地となつていまは本州の北門を守り,北海道函館との間の鉄道連絡船などの事に到つては知らぬ人もあるまい。
現在戸数は二万以上,人口十万を越えてゐる様子であるが,旅人にとつては,あまり感じのいい町では無いやうである。たびたびの大火のために家屋が貧弱になつてしまつたのは致し方が無いとしても,旅人にとつて,市の中心部はどこか,さつぱり見当がつかない様子である。奇妙にすすけた無表情の家々が立ち並び,何事も旅人に呼びかけようとはしないやうである。旅人は,落ちつかぬ気持で,そそくさとこの町を通り抜ける。
  太宰治「津軽」
  ・・・・・・

なんとか市街地を過ぎ,車も車線も減ってくると浅虫温泉です。さらに東に走り,やっと野辺地に着きました。野辺地駅は「にっぽん縦断こころ旅」や「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」でよく出てきた場所,交通の要所です。
野辺地駅前に車を停めて休憩しました。日野正平さんがここで購入したお守り「モーリー」くんを買おうと思って,野辺地駅の売店に入りました。昨年来たときは売っていたのですが,そのときは興味がありませんでした。今回,なぜか欲しくなって探したのですが,売り切れていて,入荷予定もないということでした。人生何事もこんなものです。「その機会」を逃してはいけません。
さて,いよいよ,ここから下北半島を北上していきます。
私は,以前,下北半島の東側を反時計回りに大間崎まで走ったことがあるのですが,その時は大間崎へ行っただけでした。今回の最大の目的は霊場恐山です。下北半は,つけ根は狭いのですが,先端が大きく膨れていて,しかも山岳地帯ということで,果たしていつたどりつけるのやら,と心配していました。

今回は,下北半島の西側を走っていきます。特に何もなく道路がまっすぐに続いているだけでしたが,私は,ボストン郊外のケープコッドを走ったときを思い出しました。過去に様々な場所を訪れた印象がこころの奥に貯金として残っていて,何かのきっかけでそれがすてきな思い出に加工されて出てきます。
そうこうするうちに,予想に反して,あっというまにむつ市に着きました。
基幹産業は林業と漁業だそうですが,むつ市が思った以上の都会だったのにも驚きました。このような最北の地にこれほどの大きな町がある理由というのが私にはわかりませんが,やはり,人口は減少しているようです。むつ市に限らず,東北を旅していると,旅行するにはいいのですが,住むとなると考えてしまいます。ということで,多くの若者が東京を目指して南下していく様が理解できます。

思ったより早くむつ市まで来ることができたので,そのまま霊場恐山をめざして,さらに進むことにしました。
車にはカーナビもついているし,iPhone の GoogleMaps を見ることもできるのですが,道路標示に恐山とあってわかりやすかったので,それを頼りに走りました。霊場恐山までは,むつ市からは思った以上に遠く,山また山の中のくねくね道を走っていくことになりましたが,やがて霊場恐山というゲートがありました。それをくぐってさらに進むと,とんでもない風景が現れました。それが宇曽利湖(うそりこ)でした。こんな場所に湖があるのに驚きました。こりゃ,この世ではないと思いました。

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「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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2024年7月5日。旅の2日目です。
今日は下北半島まで行って,むつ市に宿泊します。むつ市までとれだけ時間がかかるかわからず,また,広い下北半島でどれだけのところへ行けるかもわからなかったので,急いでいました。とはいえ,せっかく津軽半島へ行ったので,半島の海岸線沿いを国道280号線で走ることにしました。
まず,龍飛崎の先端にある帯島(おびしま)へ行ってみました。島とはいえ,コンクリート橋で結ばれています。帯島は源義経北行伝説の舞台のひとつで,源義経が北へ向かう際に帯を締めなおしたという伝説が残っているそうですが,竜飛弁天宮以外特に何もありませんでした。
龍飛崎に別れを告げて,津軽半島を時計回りに青森市を目指して走ります。津軽半島の北岸は,西に龍飛崎,東に高野崎があり,その間はへこんでいて,そこに今別市があります。また,今別市までの間にある集落が太宰治の「津軽」にも出てくる三厩(みんまや)です。厩はうまやのことです。
高台に義経寺(ぎけいじ)がありました。
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奥州平泉で最期を遂げたとされる源義経は,実はその後も存命し,さらに北へと逃避行を続け最後は蝦夷地へと渡ったという伝説があります。蝦夷へ渡ろうとした源義経は,海が荒れていたため船を出すことができませんでした。老人が現れ「三頭の竜馬を与えるのでそれで海を渡るとよい」と告げられます。すると,岩窟にいた3頭の駿馬を得ることができて,て無事に蝦夷へ渡ることができたたという。これが三厩の地名の由来です。
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源義経の伝説から500年ほど経った1667年(寛文7年)にこの地を訪れた円空は,源義経ゆかりの厩石に上り,そこで小さな観音像を見つけました。それが源義経の守り本尊であることを知り,円空は観音像を彫り上げ,厩石を見下ろす小高い丘の上に庵を結びました。これが義経寺のはじまりとされます。
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義経寺へ行ってみようと思ったのですが,かなりの階段を上る必要があったのでやめました。あとで地図を見ると,私は,海岸に沿って走っていたのですが,高台に並行して県道281号線「あじさいロード」が走っていて,この道を走れば,義経寺へは,登らずとも行くことができのでした。

今別の市街地まで来ました。
ここからショートカットして蟹田へ,県道14号線とJR津軽線,地下には北海道新幹線が走っています。JR津軽線は,2022年(令和4年)8月の豪雨で被害を受け,それ以降は運休が続いていて,バスによる代行運転をしているのですが,復旧を断念したらしいです。また,北海道新幹線の利用者がほとんどいないとして有名な奥津軽いまべつ駅があります。
このように,津軽半島の北側は,ツアー旅行か,レンタカーでもなければ,行くことが難しい場所でもあり,また,何もない,と思われているので,観光客が少ないのです。私は,その素朴さがたまらなく好きですが…。
県道14号線を走れば,奥津軽いまべつ駅を見ることもできたのですが,次の機会にして,私は,引き続き国道280号線を海岸沿いに走っていきました。
高野崎まで来ました。高野崎には広い駐車場があったので車を停めて先端近くまで行くと,すばらしい景色が広がっていました。
その先は,右にカーブして,単調な海岸線を走っていくことになりますが,左手には下北半島が眺められ,また,住居が点在していて,それまでのさびれ感から風景が一変しました。そこで見つけたのが高根沢の赤岩という案内板でした。国道沿いに巨大な赤岩があって,狭い道路を登っていくと採掘跡が洞窟として残っていました。このあたりは古くから天然の酸化第二鉄の産地だったところだそうです。

平館(たいらだて)というところで私が走っていた国道280号線が海岸沿いから離れたので,私は進路を変え,引き続き,海岸沿いの道を走ることにしました。そこにあったのが平舘台場跡でした。平舘台場跡というのは,江戸末期に津軽藩によって設置された台場です。1847年(弘化4年)にこの地に外国船が現れ,異国人8人が上陸した事件に大応して,その2年後に築かれたものだそうです。のどかな漁村に過ぎないように思われる地でも,さまざまな事件があったのだなあ,と思いました。
さらに走って,再び国道280号線が再び海岸沿いに現れると合流して,やがて,蟹田の町に着きました。
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私は,蟹田は蟹の名産地,さうして私の中学時代の唯一の友人のN君がゐるといふ事だけしか知らなかつたのである。私がこんど津軽を行脚するに当つて,N君のところへも立寄つてごやくかいになりたく,前もつてN君に手紙を差し上げたが,その手紙にも,「なんにも,おかまひ下さるな。あなたは,知らん振りをしてゐて下さい。お出迎へなどは,決して,しないで下さい。でも,リンゴ酒と,それから蟹だけは。」といふやうな事を書いてやつた筈で,食べものには淡泊なれ,といふ私の自戒も,蟹だけには除外例を認めてゐたわけである。
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蟹田のN君の家では,赤い猫脚の大きいお膳に蟹を小山のやうに積み上げて私を待ち受けてくれてゐた。「リンゴ酒でなくちやいけないかね。日本酒も,ビールも駄目かね。」と,N君は,言ひにくさうにして言ふのである。
  太宰治「津軽」
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このあたりに不老ふ死温泉があったはずなのに気づかなかったのは,国道280号線を離れて走っていたからでした。不老ふ死温泉は,同じ名前の私が先日宿泊した黄金崎のほうが有名ですが,この平館の不老ふ死温泉のほうが歴史がずっと古く温泉の質がよいという話なので,いつか宿泊してみたいものです。

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