しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

September 2024

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【Summary】
I expected it to be cool in the Tateyama mountain area, but despite it being September, it was very hot when I explored Murodo and the Midagahara wetlands. After a sweaty hike, I rested at the Midagahara Hotel before boarding a bus to Bijodaira, where I explored a scenic trail filled with ancient Tateyama cedars. I walked along muddy paths due to the recent rain, and the forest offered beautiful and unique cedar trees.

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2024年,私が経験した最も暑い夏もすでに9月。さすがに立山なら涼しいだろうと期待したのですが,弥陀ヶ原湿原はとても暑く,1時間程度の散策で汗をかきました。バスが来る時間まで弥陀ヶ原ホテルのロビーでシュークリームを食べながら休憩しました。午前中あれだけ天気がよかったのに,曇ってきました。これは当然のことで,山の天気は午前中はよくても午後は曇ります。
バスがやってきました。直接美女平(びじょだいら)駅に行く人はノンストップで行くから,弥陀ヶ原駅では結構な人が降りました。私はここでバスに乗り込みました。

立山黒部アルペンルートの最高地点である室堂の標高は2,450メートル,弥陀ヶ原の標高は1,930メートルですが,この先の美女平は977メートルです。弥陀ヶ原駅から美女平駅までは30分程度の乗車でした。
途中,車窓から称名滝を見ることができて,バスも見やすいようにと一旦停車しました。
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称名滝は,落差は350メートルと日本一の規模を誇る4段構成の滝で,1段目が70メートル,2段目が58メートル,3段目が96メートル,4段目が126メートル,滝つぼの直径は60メートル,深さは約6メートルあります。
称名滝の名前は,法然が滝の轟音を「南無阿弥陀仏」という称名念仏の声と聞いたことに由来すると伝えられています。
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美女平という名前は,女人禁制の立山へ登ろうとした女が神の怒りに触れて1本の杉に化したという伝説によるそうです。美女平駅はケーブルカーのターミナル駅ですが,その杉がターミナルの端にありました。
ここでケーブルカーの乗り込んで立山駅まで行くので,バスを降りたほとんどの人は,次から次へとケーブルカーに乗るために列に並んでいきます。大量な団体ツアー客もいました。ツアーの多くは外国人対象のもので,立山黒部アルペンルートを歩いていたときには目にしなかったのですが,こんなに多くの外国人がいるとは思いませんでした。
時間はまだ午後3時過ぎで,帰宅ラッシュの時間だったのです。この時間であれば,今日中にツアーを終えることができるからでしょう。
私は,立山駅近くの旅館泊まることになっているので,夕食に間に合えばいいから,ずいぶん時間がありました。そこで,美女平の散策路を歩いてみることにしました。

美女平には樹齢1,000年以上のタテヤマスギや樹齢数百年のブナの原生林が広がる散策路があるのです。
コースは、美女平駅から不老樹やおんば杉などのタテヤマスギの巨木に出会える所要時間1時間の2キロメートルコース,火炎杉と根曲がり杉を巡る所要時間2時間の3キロメートルコース,そして,ブナの原生林も散策できる所要時間2時間30分,4キロメートルのコースがありました。私は3キロメートルのコースを歩くことにしました。
美女平駅から車道を少し上ると,森に入るところがありました。こんなところがコースの入口か,と思ったほど急坂の狭い道でした。
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森の中は,歩きやすく散策道が整備されており,気軽に森林浴や野鳥観察,自然観察などを楽しむことができます。
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とあったのですが,さにあらず,数日前の大雨で散策路にはぬかるみがあり,コースがわかりにくい場所もあって,けっこう大変でした。しかし,多くの変わった杉の木を見ることができました。

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【Summary】
This passage describes a journey along the Tateyama Kurobe Alpine Route from Murodo Station to Bijodaira, with a stop at Midagahara, a high-altitude wetland known for its natural beauty and tranquility. Despite the many tourists at Murodo, Midagahara is quiet, allowing for a peaceful experience amidst diverse flora and stunning landscapes.

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室堂駅からは立山高原バスで美女平駅まで行き,美女平駅から立山ケーブルカーで立山駅まで,これで,立山黒部アルペンルートが終わりとなります。また,美女平駅から立山駅までは,遠回りになりますが,道路もあって,マイカーは乗り入れ禁止ですが,富山駅から室堂駅まで直行するバスがあるということなので,ハイシーズンでもそのバスを利用すれば室堂まで容易に行くことができるようです。

室堂駅から美女平駅までの途中に,弥陀ヶ原(みだがはら)というところがあります。弥陀ヶ原には湿原があって,せっかく来たので,私は弥陀ヶ原にも寄ることにしました。
室堂駅のバスターミナルでは,直接ノンストップで美女平駅まで行くバスと,天狗平駅,弥陀ヶ原駅に停車するバスのふたつがありました。ほとんどの観光客は,ノンストップで美女平駅に向かうようでした。このころ,私はやっとわかってきたのですが,立山黒部アルペンルートというのは,ほとんどの人が室堂へ行くのが目的であるようでした。それなら,私とは目的が異なりました。
ノンストップで美女平駅に行くバスが出発したのち,私の乗った弥陀ヶ原駅に停まるバスが出発しました。ここからの道路は,立山有料道路ですが,乗り物自体は,電気バスなどではなく,単なる観光バスでした。すばらしい景色が続いていました。
室堂から弥陀ヶ原に至る道路が,有名な,春先に雪の大谷となる場所ということでした。あとで弥陀ヶ原にいたガイドさんに聞いてみると,その時期の観光客は中国人ばかり,なのだそうです。

やがて,弥陀ヶ原駅に着いて,下車しました。下車したのは7,8人程度でした。次に,弥陀ヶ原駅から美女平駅に行くバスは予約制ということで,下車した時点で予約する必要がありました。弥陀ヶ原湿原は1時間程度で散策できるということだったので,それを考慮して,次に乗るバスを予約しました。
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2012年(平成24年)に弥陀ヶ原の北にある大日平と共にラムサール条約に登録された弥陀ヶ原は,標高1,600メートルから2,000メートル。立山の麓から常願寺川の支流である称名川(しょうみょうがわ)の左岸にかけて,東西4キロメートル,南北2キロメートルに広がる高原で,立山火山の活動で形成された火砕流台地です。

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弥陀ヶ原は,11月から7月まで雪に覆われるということですが,この時期に来た私には想像ができませんでした。また,秋には周辺の山々とも合わさった紅葉の風景が見られるということなので,さぞかし美しいのでしょう。

私が歩いたこの季節は,川が流れ,池塘(ちとう)が数多く存在する高原湿地となる場所でした。
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湿原が形成される過程で堆積した泥炭層の隙間が水で涵養された部分ができます。これが池塘です。塘は池沼の堤という意味です。要するに,水たまりです。弥陀ヶ原では,池塘を,餓鬼が飢えをしのぐために作られた田に見立てて,餓鬼田(がきだ)とよばれます。
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弥陀ヶ原湿原には,多種の高山植物や多くの昆虫を見ることができました。詳しい人には興味深いとろこでしょう。
私は,つい先日,尾瀬ヶ原に行ってきたばかりなので,弥陀ヶ原湿原にはほとんど興味を抱かなかなったのですが,あれだけ多くの観光客のいた室堂とは全く異なり,ほとんど人がいないことには感動しました。人のいない自然はこころ和みます。次のバスの時間さえ決まっていなければ,もっとゆっくりしたいものでした。

弥陀ヶ原には弥陀ヶ原ホテルと,国民宿舎展望立山荘という宿泊施設もあって,ここに宿泊してゆったりするのも悪くないと思いました。また,さぞかし,こうしたところな夜になると真っ暗で,満天の星が見られるだろう,とも思いました。
しかし,私の持っているガイドブック「るるぶ情報版・立山黒部アルペンルート」には,国民宿舎展望立山荘からの富山の夜景の写真が載っていて,それがあまりに輝いていました。多くの人には百万ドルの夜景なのかもしれませんが,私にはがっかりでした。

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【Summary】
I visited the Tateyama Kurobe Alpine Route with the primary goal of seeing the Kurobe Dam but was surprised by the number of hikers. They strolled around Mikurigaike from Murodo and visited the old Oyama Shrine. While not deeply moved by the scenic views, they were blessed with great weather. For lunch, they leisurely enjoyed a katsu curry at "Restaurant Tateyama."

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立山黒部アルペンルートというところがどういうところなのか,そして,黒部ダムが見たい,というだけの動機でやって来た私は,多くの人が登山の恰好をしていたのに驚きました。かくいう私は,どこに行くにも同じ格好でした。
室堂まで来ました。ここが標高2,450メートルの立山黒部アルペンルートの最高地点ということでした。来るまでそんなことさえ知りませんでした。登山姿の人たちは,ここから標高3,003メートル立山連峰の名峰であり,山岳信仰の聖地である雄山(おやま)への登頂をめざしているということでした。
私は,だれでも行くことができるみくりが池のまわりをまわることにしました。
散策道は,ほぼ4キロメートルで,少しだけ上りがあるのですが,ほとんどは平坦でした。何度も書きますが,すばらしい天気で,しかも風もなく,最高でした。もっと寒いと思って,防寒着を持ってきたのですが,まったく必要がなく,半そでで十分でした。

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みくりが池は,国土地理院の地形図にはは片仮名でミクリガ池と表記されています。
室堂で最大・最深の池で,面積は約30,000平方メートル,深さは15メートル,池の周囲の長さは631メートルです。近くには,日本最高所の温泉宿であるみくりが池温泉があります。
火口湖で,周辺にはミドリガ池やリンドウ池,血の池などの火口湖群が点在します。
ミクリという名は御厨と書き,神の厨房という意です。
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こんなことを書くと顰蹙を買いますが,私は,こうした風景は,アメリカの国立公園やニュージーランドのマウントクックでたくさん見てきたし,歳をとって感動がうすれてきたので,極上の風景に出会っても,さほど感動することもなく,ああ,こういうところなのか,と思ったくらいでした。ぜいたくな話です。
2022年5月18日に,蔵王のお釜へ行きました。このときも快晴でしたが,後で知ったことには,蔵王のお釜もまた,なかなか見ることができないそうです。私はいつも運に恵まれています。

散策道を歩いて,室堂ターミナルに戻ってきました。
雄山頂上には雄山神社がありますが,そこまで行かずとも,雄山神社の旧社殿が室堂ターミナルの屋上階に復元されているので,雄山に登らずとも,社を参拝することができるのです。
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旧社殿は総欅造りで重量は約7トン。1860年(万延元年)に加賀藩によって造られ,その後135年間厳しい自然環境の中に存在していました。現在,山頂にあるのは,1996年(平成8年)に再建されたものです。旧社殿は解体されて立山町の岩峅寺(いわくらじ=地名)にある雄山神社前立社壇(まえだてしゃだん)に保管されていたのですが,(平成24年)に室堂ターミナルに復元しました。
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不思議なことに,あれだけ登山者がいても,こういうところは,ほとんどの人が来ないのです。不思議な話です。

旧社殿のある屋上階にのぼる階段の中ごろに,立山開山伝説に関する資料と白鷹を左手に持ち立山を指さす痩せ気味の佐伯有頼(ありより)少年像のレプリカがありました。
佐伯有頼少年像の本物は富山市の南北500メートル,東西1キロメートルの呉羽山公園のほぼ中央に立山が見える展望台にあります。佐伯有頼は,676年(天武天皇5年)から759年(天平宝字3年)にかけての伝説上の人物です。
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佐伯有頼が父の大切な白鷹を無断で持ち出し狩りにでかけたところ,白鷹に導かれて美しい高原にたどり着きました。そのとき出会った阿弥陀如来に立山の開山を告げられ,文武天皇に報告すると,深く感激し勅命により立山を霊域として開山したということです。
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さて,午前11時を過ぎました。こんなに人がいては,昼食を食べることができるか心配だったので,早めに食事をとることにしました。室堂ターミナルに「レストラン立山」がありました。ほとんど人がおらず,驚きました。アルペンカツカレーなるものをのんびりと食べました。
食べおわるころに,ここでもまた,旅物語,クラブツーリズムといった団体ツアー客の御一行様がやってきて,混雑がはじまりました。

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【Summary】
I attempted to photograph the Comet Tsuchinshan-ATLAS (C/2023 A3) from September 24-26, 2024, despite cloudy conditions. On September 26, they finally captured the comet under a brief clearing in the clouds. It appeared brighter than Mercury, around first magnitude, raising hopes for its visibility in the evening sky in October.

☆☆☆☆☆☆
 2023年2月22日に発見された紫金山・アトラス彗星(C/2023A3 Tsuchinshan-ATLAS)は,2024年9月末に太陽に0.4天文単位まで接近し,0等まで明るくなる,という予報でした。すでに,どのように見ることができるかはブログに書きました。
 これまで,「紫金山・アトラス彗星は,既に彗星核の断片化が進行しており,このままだと近日点通過(太陽に再接近)する前に消滅するという,最近の観測結果に基づいた非常に厳しい予想を立てた論文のプレプリントが公開さました」とか,「紫金山・アトラス彗星が10月9.4日ごろに-4等級よりも明るくなるとの予測」とか,接近前からいろいろと話題でしたが,ついに,接近を迎えました。

 見えようと見えまいと,体験してみなければわからない,ということで,まずは,私がブログに書いた
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●9月27日ごろから10月5日ごろ
 彗星は,明け方午前5時くらいに,太陽が昇る寸前の東の空低く,うみへび座に1等星から0等星の明るさで現れるのですが,高度が非常に低く,どのように見ることができるかはわかりません。
 彗星が大化けすれば,ひょっとして,ものすごく明るい彗星が薄明の中で確認できるかもしれません。
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にしたがって,9月27日より早い9月24日から彗星を写真に収めようと実験をはじめ,連日,午前4時に起きて,午前4時30分から午前5時まで,彗星が見られる方向にレンズを向けることにしました。しかし,9月24日も9月25日も,そしてまた,9月26日も,空は雲に覆われていて,どうしようもありません。

 もし,天気がよければ,少し遠出をしようと思っていたのですが,その気もすっかりなくなって,自宅の近くで,とりあえず写真を撮ってみることにしました。
 雲を通してシリウスは見えていたので,雲は薄く覆っているだけなのかな,もし,彗星が明るかったら写るかもしれないなあ,と期待しました。
 しかし,家に戻って調べてみても,9月24日も9月25日も何も写っておらず,がっかりしました。
 9月26日はさらに深く雲に覆われていたのですが,東の空の低空の部分だけなぜか雲が切れていたので,淡い期待をもってこの日も懲りずに写真を撮りました。そして,家に帰ってから調べてみると… 何と,彗星状の天体がはっきりと確認できました。毎日早起きをしていたので,神様がプレゼントをくれたようです。今日の写真は,9月26日の午前4時48分に,ISO1,600,露出時間1.3秒で写したものです。
 経験上,このような低空では,水星を写すのもやっとなので,その経験から,紫金山・アトラス彗星は水星よりも明るく,1等星くらはありそうです。この様子なら,10月11日ごろに夕方の西の空に現れるときが楽しみです。今度は早起きしなくてもいいし。

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【Summary】
After visiting Tokiwa-so, I went to Fukagawa Edo Museum and Kiyosumi Garden via Kiyosumi-Shirakawa Station. At the museum, they experienced exhibits recreating Edo-period streets, and at Kiyosumi Garden, they enjoyed the scenic stroll garden. Both sites provided a rich sense of history, especially as Fukagawa Edo Museum became crowded with foreign tourists.

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 トキワ荘に行った後,深川江戸資料館と清澄公園に行くことにしました。私は東京については無知で,地下鉄に乗ると,よく,清澄白河という駅が出てきて,この変わった名前の場所はどこだろう? とずっと思っていたので調べてみて,清澄公園を知りました。また,その近くに深川江戸資料館があったので,そこへも行ってみることにしたのです。
 私が気になっていた清澄白河駅ですが,トキワ荘最寄りの駅である落合南長崎駅からは大江戸線で直接行くことができるので驚きました。清澄白河駅で降りて,まず,深川江戸資料館に行きました。
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 深川江戸資料館は,江戸時代に関する資料等を収集,保存,展示するとともに,江東区民の集会の場を提供することにより文化の振興と向上を図るために設置された江東区立の体感型資料館です。
 江戸時代の天保年間ごろの深川佐賀町の街並みを実物大で再現した展示があり,朝昼晩の移り変わりが音響や照明などで演出されるほか,お店や長屋に実際に入って生活用具などに触れられる体感型の展示室があります。
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 よく似た施設に,両国国技館近くにある江戸東京博物館があって,そこには行ったことがあります。深川江戸資料館もまた,江戸時代にタイムトラベルしたような気持になって,なかなかいい時間を過ごすことができました。そのうち,このような施設で2泊3日滞在体験でもできるようなものができればいいのになあ,と思ったことでした。
 私が行ったときは空いていたのですが,そのうち,外国人で一杯になりました。また,チケット売り場も長蛇の列になりました。

 深川江戸資料館を出て,清澄庭園へ行きました。この時期,老人週間とかで,私は無料でした。
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 清澄庭園は,江東区清澄にある回遊式林泉庭園です。
 この地は,江戸府内の中では発展が遅く,江戸時代以前は,隅田川の三角州に蘆荻の茂る低湿地帯で,海上には幾つかの浮洲が形成されていました。
 徳川家康の江戸入府に伴って,隅田川の水運や木場の発展を背景にして魚介類の需要に応えるため,隅田川河口に深川猟師町が誕生し,寛永時代(1624〜1643年)に町が成立しました。
 幕末ごろには,諸大名下屋敷や豪族の住居と池庭がありました。明治維新後の1878年(明治11年)このあたりの土地約3万坪を岩崎弥太郎が買い取り,以降,弟・岩崎弥之助,長男・岩崎久弥へと岩崎家3代にわたってそれらの庭を改修し,清澄庭園となりました。
 やがて,岩崎久弥は,東京市公園課と相談し児童遊園として改造し,1921年(大正10年)に一般公開しました。さらに,1924年(大正13年)には東京市に寄付されました。
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 中島をもつ広い池が中心にあって,ツツジとサツキの植えられた「つつじ山」や池の端を歩けるように石を配置した「磯渡り」などがあって,すばらしい空間でした。

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【Summary】
"Tokiwa-so" was the apartment house where the manga artists I read as a child once lived. Today, the Tokiwa-so Manga Museum is located in Toshima Ward, so I visited. I toured the place where Osamu Tezuka and others spent their youth, and ate ramen at "Matsuba", a restaurant from that era.

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 私が子供のころの漫画雑誌は「少年サンデー」「少年キング」「少年マガジン」でした。私は特に熱中したわけではなかったのですが,それでも,手塚治虫,藤子不二雄,赤塚不二夫などの名前は当然知っていて,雑誌も読みました。やがて,1986年にNHK銀河テレビ小説「まんが道~青春編~」や1996年の映画「トキワ荘の青春」で,ときわ荘という名前を知りました。私が子供のころに出会った漫画家は,トキワ荘という当時の下宿屋のようなところで青春時代を過ごしていたわけです。
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 トキワ荘は豊島区椎名町に,1952年(昭和27年)から1982年(昭和57年)にかけて存在した木造2階建のアパートで,手塚治虫,藤子不二雄,石ノ森章太郎,赤塚不二夫など著名な漫画家が居住していたことから漫画の「聖地」でした。現在は,当時の場所の近くに復元施設「豊島区立トキワ荘マンガミュージアム」が建設されています。
 トキワ荘は2階部分に四畳半の部屋が10室と,共同の調理場,トイレなどが存在していました。
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 ということで,東京交響楽団の定期演奏会を聴きにいった折り,今回もまた,ディープな東京めぐりとして,トキワ荘に行ってみることにしました。

 「豊島区立トキワ荘マンガミュージアム」は10時開館ということだったので,ネットで予約をしました。到着したのは30分ほど前だったので,付近を散策しました。トキワ荘が建っていた場所には碑がありました。また,ゆかりの地も多くありました。
 時間になったので,入館料を払って入りました。中は当時の様子を再現してあって,私が大学生のころに多くあった下宿屋のようでした。私には,こうした場所のほうが居心地がいいのですが,今の若い人には無理でしょう。職員の人たちはとても親切で,いろいろな説明を聞くことができました。
 トキワ荘は,1952年(昭和27年)に上京した手塚治虫は新宿区四谷の八百屋の2階に下宿していましたが,編集者の出入りの激しさに八百屋の主人から苦情を言われるようになり,紹介されたのがこの「ときわ莊」で,これを皮切りに,漫画家の多くが「ときわ荘」へ入居することとなったということでした。手塚治虫が入っていたという部屋に座り写真を撮ってもらいました。風呂はなく,近くの銭湯に行くのですが,トキワ荘の中にある調理場の洗い場で行水をしたこともあるという話でした。
 トキワ荘が解体されるとき,新聞記者連れられてやってきた手塚治虫は,かつて住んでいた2階14号室の天井板に「リボンの騎士」のサファイアの絵と自画像を描いたということですが,その本物が展示してありました。

 トキワ荘の近所に「松葉」という中華料理店があって,この店のラーメンは,藤子不二雄の作品に登場する「小池さん」の設定となったということです。「松葉」は現在も営業を続けているということだったので,トキワ荘を出て,「松葉」で昼食をとりました。当時の味を再現したというラーメンを食べました。
 子供のころの漫画と,大学生のころの下宿屋を思い出して,とてもなつかしい,そして,尼酸っぱい気持ちになりました。

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【Summary】
I first fell in love with Bruckner's Symphony No. 4 after hearing it in 2002. The piece, composed when Bruckner was 50, has a youthful energy. While there are different editions, such as the Haas and Novak versions, I enjoyed the familiar Novak version during this concert. Akiyama's conducting was clear and rhythmic, and despite initial worries about the brass, the performance was excellent. Sitting in the P section allowed me to appreciate the music in a unique way, and the concert concluded with a warm atmosphere celebrating Akiyama's 60 years as a conductor.

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 2002年の第1458回MHK交響楽団の定期公演で,スクロバチェフスキ指揮のブルックナー交響曲第4番をFMで聴き,テレビで見て以来,私はこの曲が大好きになりました。
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 ブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」(Die Romantische)は,ブルックナー50歳の1874年に第1稿(1874年稿)が完成しました。タイトルは,ブルックナー自身が「ロマン主義的(Die Romantische)とよんだことからきています。1878年に改訂に着手し,第3楽章が全く新しい音楽に置き換えられ(1878年稿),さらに1880年に第4楽章を大幅に修正したものが第2稿(1878/80年稿),それに1886年ニューヨーク初演のためにわずかな改訂が加えられ,その後1887年から1888年にかけて弟子たちがさらに改訂を施したものが第3稿(1888年稿)です。
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 1886年に第2稿に基づく楽譜の出版が企てられましたが実現せず, 実際に出版された楽譜は,1889年に第3稿に基づくものが最初でこれは初版,改訂版,改変版などとよばれています。さらに,第2稿に基づいて1936年に出版され,その後内容修正のうえ1944年に再出版されたものが原典版,ハース版と称されていて,それ以来,初版での演奏は廃れ,ハース版による演奏が主流となりました。
 戦後,まず1953年に第2稿に基づく楽譜が出版され(=ノヴァーク版第2稿),続いて1874年に第1稿に基づくものが出版されました(=ノヴァーク版第1稿)。
 さらに,2004年には第3稿が出版されたました(=コーストヴェット版第3稿)。
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 今日よく演奏されるのは,ハース版,または,ノヴァーク版第2稿です。ハース版とノヴァーク版第2稿は,本質的には同じものですが,①第3楽章のトリオ冒頭の管弦楽法,②第4楽章の最後で回想される第1楽章第1主題の管弦楽法に違いがあります。
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 私が交響曲第4番が好きなのは,第1楽章から第4楽章まで,極めてバランスがよいところです。どの楽章もすばらしい。そして,ところどころに,私の琴線にふれるところがあるのです。それらが今日載せた部分です。ブルックナーが50歳のときに作曲したものだから,決して若くはないのですが,それでも,ブルックナーにとれば「青春」の曲。交響曲には若さが感じられるのです。
 今回の演奏会で使われたのは,ノヴァーク版第2稿でした。第2稿でもハース版とノヴァーク版では,アレ,と思うことがあります。そして,このほうがいい,とか,これはちょっと,と思ったりするのですが,私は学者でないし,そういうことにはあまりわからないので,それはそれで楽しみとしていました。しかし,それは,同じ第2稿における些細な違いに過ぎないのです。
 というのも,ずいぶん前に書いたのですが,交響曲第3番の第1稿と第3稿を聴いたことがあって,その違いは歴然としていましたが,このときは,聴きなれていなかった第1稿に好感をもちました。また,これもすでに書いたように,1週間前にNHK交響楽団の定期公演で交響曲第8番の第1稿を聴いたのですが,これにはとまどったというか,私には交響曲の第8番は第1稿には肯定的な意味を見出せませんでした。
 そんなわけで,今回は,私の聴きなれた第2稿であることにホッとしました。そして,しっかりと私の大好きなこの曲と向き合いたいと思いました。

 秋山和慶さんの指揮は,奇を衒(てら)うものではなく,リズムも,私の体に染みついたものと同じで,とても好感がもてました。この交響曲はホルンの出来次第,という面があって,東京交響楽団は金管楽器が少し弱いと聞いていたので,少し心配でした。出だしがヒヤヒヤものでしたが,なんとか切り抜けて,そのあとは順調でした。
 このような大規模の曲ではP席では音がそろわないという話で,最後尾に陣取ったティンパニがはやり少しだけズレるのですが,私には何の問題もありませんでした。それ以上に,指揮者の指示がよくわかり,奏者がどのように聞こえているのか,といったことがつかめるので,興味深く聴くことができました。また,P席からは,会場すべてが見渡せて,その荘厳な雰囲気がとてもすてきでした。私はP席がとても気に入りました。これからもこの席を選ぼうと思いました。私の隣にP席マニアの人がいて,演奏前に話が弾み,それもまた楽しいものとなりました。
 今回の演奏会は,フライングの拍手もなく,すばらしいものでした。
 曲の終了後,秋山和慶さんの指揮者生活60周年メモリアルにちなんで,60と書かれたモニュメントにあしらわれた60本のバラがプレゼントされました。なお,「秋山和慶指揮者生活60年記念てぬぐい」なるものが販売されていて,カーテンコールでは客席でスポーツの観戦のようにそれを掲げる人がいたり,それを見たマエストロがほほえんだりして,とてもあたたかみあふれた雰囲気となって,私は幸せな気持ちになりました。

第1楽章冒頭第1楽章第2楽章第4楽章あ第4楽章い第4楽章うIMG_4301IMG_4302IMG_4305IMG_4313IMG_4344


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【Summary】
Alban Berg's Violin Concerto, subtitled "To the Memory of an Angel", was composed in 1935 in memory of Manon Gropius, who died at 18. The work uses 12-tone technique, with its second movement depicting her struggle and ascent to heaven. Symbolism, like the number 22, is woven into the composition.

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 アルバン・ベルグ(Alban Maria Johannes Berg)のヴァイオリン協奏曲「ある天使の思い出に」(Dem Andenken eines Engels)については,以前,詳しく書いたことがありますが,ここで復習してみます。
  ・・・・・・
 1867年オーストリア・ハンガリー二重帝国が成立し,政治の混乱と凋落によって人々の関心が文化面に向かった結果,「世紀末ウィーン」(Die Wiener Moderne)が起きました。
 美術では,「ウィーン分離派」(Wiener Secession)が活動し,グスタフ・クリムト(Gustav Klimt)が出ました。また,グスタフ・マーラー(Gustav Mahler)の妻アルマ・マーラー(Alma Maria Mahler-Werfel)との愛欲を描いた「風の花嫁」で知られるオスカー・ココシュカ(Oskar Kokoschka)がいました。
 アルマはグスタフ・マーラーと知り合い,結婚しましたが,グスタフ・マーラーが亡くなり未亡人となったアルマは,画家のオスカー・ココシュカと関係を深めながらもヴァルター・グローピウス(Walter Adolph Georg Gropius)と再婚,ヴァルター・グロピウスとの間にもうけた娘がマノン(Manon Gropius)でした。そして,マノンのことをことのほかかわいがったのがアルバン・ベルクでした。
 1935年,マノンが18歳という若さで急死します。
 アルバン・ベルクは,この訃報を知ると,ルイス・クラスナー(Louis Krasner)から委嘱されていたヴァイオリン協奏曲を「ある天使の想い出に」捧げるものとして作曲にとりかかります。曲は完成しましたが,敗血症を起こしたアルバン・ベルクはそれから間もなく急逝。この曲は自分自身へのレクイエムになってしまいました。
  ・・
 この作品では,アルノルト・シェーンベルク(Arnold Schönberg)譲りの12音技法が使われています。第2楽章では,12音技法によってマノンの闘病が描かれ,やがて,激しい死神との戦いの音楽がふと消え失せて,古来の調性による昇天の音楽が演奏されます。
 コラールが過ぎ去ると,第1楽章で提示した基本の12音音階が美しく光を放ちながらあちらこちらで天へと昇っていき,最後にヴァイオリンの4つの解放弦の音が鳴り響くのです。
 この曲の2楽章の冒頭の死のダンスまでへのカデンツが22小節,コラールも22小節,曲の副題「Dem Andenken eines Engel」は22のアルファベット。22という数字は,マノンの命日から来ています。また,2楽章の最後の和音が18個の音で構成されているのはマノンがこの世を去った年齢を表しているといわれます。
  ・・・・・・

 私は,この曲を聴くのは2度目でした。はじめて聴いたときはよくわからなかったのですが,12音技法がなまめかしく響き,魅力的な曲だなあ,という感じはもちました。その後,ウィーンに行ったり,その折に,アルマやマノンのことを知るにつけ,この曲の深い意味がわかるようになりました。
 私はP席にいたので,ヴァイオリニスト竹澤恭子さんの様子がわからないのかな,と思ったのですが,さにあらず,P席というのは,席の勾配が急なので,ステージをよく見渡すことができて,前列の人の頭の影になることもなく,最高でした。音も,もっとバランスが悪く聴こえるのかな,と思っていたのですが,そんなこともありませんでした。それ以上に,臨場感があって,かなり魅力的でした。すばらしい演奏でした。竹澤恭子さんはモバイルの楽譜で見ていたのですが,どこかでだれかが操作しているのか,楽譜が自動的にめくられていくのも興味深かったです。
 アンコールは,J.S.バッハの無伴奏ヴァイオリンソナタ 第2番よりアンダンテでした。
  ・・
 ところで,私ははじめてP席に座ったのに,この感覚はじめてではない,と気づきました。考えてみれば,2023年5月12日に,名古屋フィルハーモニー交響楽団が井上道義さんの指揮でボレロを演奏したとき,ステージ上のオーケストラが指揮者を中央にしてそれをぐるりと取り囲むように配置されたので,一般席でもオーケストラの背後から見る形であったのです。あのときもおもしろかった。

あいうえお


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【Summary】
When the NHK Symphony Orchestra's regular concerts were canceled due to the COVID-19 pandemic, performances featuring mostly Japanese musicians were broadcast on FM radio instead. Among them, I was deeply impressed by a concert conducted by Kazuyoshi Akiyama. As a result, I decided to attend the Tokyo Symphony Orchestra's 724th regular concert, conducted by Akiyama this time.

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 コロナ禍で2020年度(2020年9月から2021年6月)のNHK交響楽団定期公演が中止となりました。その代わりに,毎月演奏会が行われましたが,私は聴きに行くことができなかったので,すべてFMで聴きました。その中で特筆すべきものは12月の演奏会でした。「ベートーヴェン生誕250周年特集」と題して,秋山和慶さん指揮で「エグモント」序曲,マーラー編曲の弦楽合奏版弦楽四重奏曲第11番「セリオーソ」,そして,ヴァイオリン協奏曲では諏訪内晶子さんがヴァイオリンを弾きました。
 このころは,外国人の入国ができなかったので,演奏会はほとんどが日本人の演奏家で行われました。そこで,これまであまりNHK交響楽団の定期公演には出演する機会のなかった日本人の重鎮や,これから売り出そうという実力派の若手が起用されたことで,新たな発見がありました。
 この演奏会はすばらしいもので,諏訪内晶子さんはもちろんのこと,秋山和慶という指揮者に感銘をうけました。そして,実際にライブで聴いてみたくなりました。それ以来,機会を探っていたところ,ちょうど,2024年9月21日,東京交響楽団第724回定期演奏会で,それがかなうことがわかったので,聴きに行くことにしました。

 この日の演奏会は「秋山和慶指揮者生活60周年記念」として,竹澤恭子さんがヴァイオリンを弾くアルバン・ベルグ(Alban Maria Johannes Berg)のヴァイオリン協奏曲「ある天使の思い出に」(Dem Andenken eines Engels)と ブルックナーの交響曲第4番 「ロマンティック」というもので,私には,最高の曲目でした。
 また,私は,これまで,コンサートをステージの反対側P席で聴いたことがなく,一度聴いてみたいものだと思っていたので,今回はP席を取りました。P席は「指揮者の顔を見,オーケストラのメンバーの背中を見,と,いつもと違ってすごくおもしろく,頭の中がよじれそう,耳が反転しそう」というような感想を耳にしたことがあります。それとは逆に「音よくないよ」とも聞いていたのですが,何事も試してみるに限ります。その結果は次回書きます。
 それにしても,考えてみれば,今回のプログラムの1曲目はヴァイオリン協奏曲だから,そんなときにP席とは…。

 指揮の秋山和慶さんは83歳。1963年に桐朋学園大学音楽学部を卒業し,1964年に東京交響楽団を指揮してデビューののち,音楽監督・常任指揮者を40年間にわたり務めたということで,京交響楽団はホームグランドです。現在は,桂冠指揮者です。
 また,竹澤恭子さんは,1977年に小学校5年生で全日本学生音楽コンクール全国大会小学生の部で第1位を受賞,1982年,桐朋女子高等学校音楽科在学中に日本音楽コンクールで第1位を受賞,アメリカ留学後の1985年,ジュリアード音楽院に入学し,1986年にインディアナポリス国際ヴァイオリン・コンクールで第1位を受賞したヴァイオリニストです。私は,これまで,何度か聴いたことがありますが,好きなヴァイオリニストのひとりです。

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【Summary】
The trolleybus from Daikanbo to Murodo passes through the Tateyama Tunnel and was converted from diesel buses in 1996 for environmental protection. It is scheduled to be discontinued in 2024 and replaced by electric buses, making it the last trolleybus in Japan. I was able to ride it in its final year.

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大観峰テラスで絶景を楽しんで,さあ,次が黒部アルペンルートの最高地点室堂になります。
大観峰駅から室堂駅までは天井にある架線から電力を供給されて走っているトロリーバス(無軌条電車線)となり,標高3,003メートルの雄山直下を貫通する長さ3.7キロメートルの立山トンネルを10分で通過します。大観峰駅の標高は2,316メートル,室堂駅の標高は2,450メートルなので,ほぼ同じ高さです。
なお,立山という山はなく,標高3,003メートルの雄山(おやま),標高3,015メートルの大汝山(おおなんじやま),標高2,999メートルの富士ノ折立(ふじのおりたて)の3つの山を合わせて立山といいます。あるいは,雄山のみを立山とすることもあります。

1971年の開業当初はディーゼルバスにより運行されていましたが,観光客の増加による増便に伴ってトンネル内に排気ガスが滞留するようになり,環境保護のため1996年にトロリーバスへ転換しました。また,2018年12月に扇沢駅と黒部ダム駅間のトロリーバスが電気バスへ転換されたことにより,現存する日本で唯一のトロリーバス路線でした。
しかし,修理用部品の調達が難しくなり,立山トンネルトロリーバスも,2024年12月1日を以って廃止され,翌2025年4月に電気バスへ転換される予定ということです。これにより,日本におけるトロリーバスは全廃される見通しとなりました。
私はそんなことも知らず立山黒部アルペンルートに来たのですが,これは幸運なことだったのか。最後の年にトロリーバスに乗ることができました。
とはいえ,アメリカではけっこうトロリーバスというのは走っていて,私には珍しいものでもなかったのですが…。

さて,けっこう込み合っていたトロリーバスですが,いよいよ室堂駅に到着しました。
室堂駅は一大ターミナルで,人がごった返していました。ターミナルから外に出ると,それは雄大な景色が飛び込んできました。何度も来ている人でも,こんなすばらしい景色ははじめてと言っていました。

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【Summary】
I traveled from Kurobedaira to Daikanbo Station via the Tateyama Ropeway and enjoyed the beautiful scenery. On clear days, breathtaking views of the Oku-Tateyama mountain range and Kurobe Lake unfold. The ropeway's one-span system is a rarity in Japan.

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黒部平は標高1,828メートル,次の大観峰は標高2,316メートルで,この間は谷なので,黒部平駅から大観峰駅までは立山ロープウェイで結ばれています。
立山ロープウェイは,全長1,638メートル。途中に支柱が1本も設けられていないワンスパン方式を採用しているというのがウリだそうです。ワンスパン方式を採用しているのは、日本では立山ロープウェイとガーラ湯沢スキー場にある「ランドー」だけということです。立山ロープウェイの着工は1968年(昭和43年),営業開始は1970年(昭和45年)ということだけはわかったのですが,それ以外の情報がありません。いろいろ調べても,ワンスパン方式ということだけが書かれていて,どういう経緯で作られたとか,作られたときの様子が書かれたものがないのです。

さて,黒部平での展望を楽しんだあと,立山ロープウエイに乗り込みました。
私ははじめて来たので,それぞれの場所でそのよさを楽しみながら進んでいるのですが,何度も来ている人は,あるいは,団体ツアー客は,こうした場所は単なる通過点のようで,先へ先へと行ってしまうので,黒部平あたりは,人もほとんどおらず,扇平駅の混雑は何だったんだ,みんなどこへ行ってしまったんだ,と思いました。
さすがに動く展望台といわれるだけあって,立山ロープウェイからの展望はすばらしいものでした。おそらく紅葉の時期は絶品なのでしょう。
わずか7分で,標高差500メートルを登り,大観峰駅に到着しました。

大観峰駅から次の室堂駅までトロリーバスに乗り継ぎますが,私は,ここでもまた,しばらく展望を楽しむことにしました。
大観峰駅の屋上にあるのが大観峰雲上テラスです。黒部平パノラマテラス同様,テーブルと椅子が置かれていました。眼下に見えるのがタンボ平や黒部湖,その反対側にそびえるのが奥立山連峰です。何といっても,この日は快晴なのです。こんなすばらしい景色が見られたのは幸運なことだったのでしょう。

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【Summary】
After walking along the Kurobe Dam embankment, I arrived at the quiet Kurobe Lake Station. Taking the Kurobe Cable Car, I reached Kurobe-Daira Station at an elevation of 1,828 meters, where I found a restaurant that was not yet open. While many people hurried to Daikanbo Station, I enjoyed the beautiful scenery of the Northern Alps on the "Panorama Terrace" under clear skies. I appreciated the grandeur of the mountains and could see the ropeway heading toward Daikanbo.

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次の黒部湖駅まで黒部ダム堰堤を歩きました。混雑していた扇沢駅にいた人たちはどこに行ってしまったのか,というほど,誰もいなくなりました。黒部ダム堰堤を越えるとトンネルになっていて,そこが黒部湖駅でした。ここもまた列ができていましたが,ここから乗る黒部ケーブルカーはどんどんと並んでいた人を載せて出発していくので,ストレスはありませんでした。
標高差約400メートル,最大勾配31度の急斜面を走る黒部ケーブルカーは,雪害を防止するため全区間が地下トンネルを通っています。トンネルの中間地点で2台のケーブルカーがすれ違うようになっています。

5分ほどで黒部平駅に到着しました。標高1,828メートルまで来ました。
黒部平駅の白い建物の中にはレストランなどもあって雪の大谷をイメージした黒部平オリジナルメニューの「雪の大谷カレー」や「立山ブラックソフト」などが食べられるということですが,まだ早いので営業していませんでした。多くの人は,というより,ほとんどの人は,ここでとどまることなく,次の大観峰駅まで行く立山ローブ-ウェイの乗り場に急ぎました。
黒部ダムも黒部平も人の流れについていくと,どこも見ないで室堂まで行ってしまいます。そうなのです,ほとんどの人がめざしているのは,立山黒部アルペンルート最高地点の室堂だったのです。私はここでそれを知りました。私は,立山黒部アルペンルート全体を知りたくてやって来たので,どの地点も観光したいのです。そこで,黒部平駅でも踏みとどまり,景観が楽しめる「パノラマテラス」に登りました。

「パノラマテラス」から眺める景色は,それはそれはすばらしいものでした。何といっても,この日は快晴なのです。
遠くに見える北アルプスの山々は,左から,標高2,814メートルの五竜岳,標高2,539メートルの牛首山,標高2,889メートルの鹿島槍ヶ岳,標高2,688メートルの布引山,標高2,841メートルの鳴沢岳,標高2,678メートルの赤沢岳,標高2,762メートルのスバリ岳,標高2,821メートルの鉢ノ木岳でした,どれも2,500メートルを超える堂々としたもので,きっと山好きな人にはたまらなく魅力的な風景でしょう。

晴天に感謝でした。
また,反対方向に目をやれば,これから目指す立山連峰の大観峰にむかう立山ロープウェイが見えました。

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【Summary】
The distance between the Earth and the Moon changes periodically and can be closest or farthest even when it is not a full moon. However, because these extremes often occur during a full moon, phenomena like supermoons and micromoons are frequently observed at that time.

☆☆☆☆☆☆
 昨日2024年9月17日は中秋の名月でした。土星がすぐ近くにあって,一緒に写真に収めました。また,明日9月18日は9月の満月「ハーベストムーン」(Harvest Moon)です。

 その1か月前の2024年8月20日は,8月の満月「スタージェンムーン」(Sturgeon Moon=チョウザメ月)でした。これは,8月は五大湖などでチョウザメの漁獲のシーズンを迎えることからついた名前です。また,「 ブルームーン」でもありました。
 「ブルームーン」にはふたつの意味があります。そのひとつは,1月に2回満月があるときの2回目の満月のことです。もうひとつは,ひとつの季節(6月21日夏至から9月22日秋分)に満月が4回あるときにそのうちの3回目の満月のことで,2024年8月20日は季節の「ブルームーン」でした。季節の「ブルームーン」は,約2.5年から3年に1度しかありません。
  ・・
 さらに,この日の月は「スーパームーン」とされて報道されていました。しかし,実際は,今日2024年9月18日の満月のほうが,地球からの距離が357,500キロメートルと近いので,この月のほうがむしろ「スーパームーン」となります。しかし,この翌月,10月17日の満月が地球からの距離が357,400キロメートルとなり,2024年の正真正銘の「スーパームーン」です。また,に最も地球から遠い月である「マイクロムーン」は2月24日満月で,地球との距離は406,000キロメートルでした。
 今日の写真は,1番目が昨日の中秋の名月と月,2番目が2024年8月20日の月と2月24日の月を並べたものです。「(ほぼ)スーパームーン」と「マイクロムーン」はこれだけ見かけ上の大きさが違うわけです。

 ということなのですが,私がずっと疑問に思っていたのは,地球と月の間の距離が最も近いときと遠いときが何も満月に限らないではないか,ということでした。この疑問について調べていて,国立天文台のサイトで見つけた表で納得がいきました。
 実際,月と地球との距離は周期的に変わっていて,やはり,私が思っていたように,満月でないときに最も近くなったり遠くなったりするようです。しかし,やはり,満月のときに最も近くなったり遠くなったりすることが多く,満月のときに限って,「スーパームーン」とか「マイクロムーン」というわけです。

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 2024年9月14日に猛暑の東京へNHK交響楽団の定期公演を聴きに行った折り,多摩動物公園,国立極地研究所南極・北極科学館とまわって,まだ時間があったので,山崎富栄の墓を探しに行くことにしました。私は,このところ太宰治に凝っていて,ゆかりのある場所を求めて,青森県の各地と三鷹市に行ったのですが,最後に残ったのが山崎富栄の墓でした。
  ・・・・・・
 1948年(昭和23年)6月13日の夜,太宰治と山崎富栄は玉川上水で心中しました。6月19日,ふたりの遺体は新橋の下流10メートルほどのところで浮き上がっているのが発見されました。遺体は腰の部分を赤いひもでしっかりと結ばれていました。享年太宰治39歳,山崎富栄29歳。
 死後,山崎富栄は「太宰を殺した女」として世間から非難を浴びました。山崎富栄の両親に宛てた遺書には「本当は太宰さんのお隣にでも埋めていただければ本望なのですがそれはむしのよい願いだと知っています」と書かれていたそうです。
 山崎富栄は山崎家の菩提寺である永泉寺に埋葬されました。父・山崎晴弘は「娘が世間を騒がせて申し訳ない」との考えから,住職の安田弘達師に対して墓所が永泉寺に在ることを世間には公表しないで欲しいと依頼したといいます。
  ・・・・・・
 そこで,何とか,永泉寺を見つけ出し行ってきました。地下鉄の江戸川橋駅からほど近いところで,その先には,春,将棋名人戦の第1局が行われるのが恒例となったホテル「椿山荘」がありました。

 まだ時間があったので,次に,伝馬町牢屋敷跡に行ってみることにしました。場所は,地下鉄の小伝馬町駅すぐでした。先日,大河ドラマ「花神」について書いたときに,吉田松陰が処刑された伝馬町牢屋敷跡を見てみたい,と思ったのが理由です。
  ・・・・・・・
 1854年(嘉永7年)黒船艦隊が再来航した際に密航を企て失敗し,小伝馬町にあった伝馬町牢屋敷に送られました。 その後,長州の萩に送還され,松下村塾を受け継ぎ,木戸孝允,高杉晋作,久坂玄瑞,伊藤博文など多くの志士を育てました。しかし,安政の大獄に連座して江戸に送られ,ふたたび伝馬町牢屋敷に入獄され,1859年(安政6年)に処刑されました。
  ・・・・・・
 現在,この場所は十思公園となっていて,一角に松陰先生終焉の地,吉田松陰先生辞世の碑,吉田松陰顕彰の碑が並んで建っていました。また,十思公園に隣接する十思スクエア別館には伝馬町牢屋敷の模型がありました。
 この地で私は,深い歴史を感じて,感傷にふけりました。

 さて,時間が近づいてきたので,NHKホールに行くことにしましたが,新しくつくられた将棋会館の外観を見ようと千駄ヶ谷駅で途中下車しました。千駄ヶ谷駅のコンコースには,将棋連盟創立100周年の展示もありました。この地で新たな歴史が作られていくことでしょう。

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 2020年7月,旭山動物園でオランウータンを見ました。それが今日の1番目の写真です。このころは,別段興味があったわけではありませんでした。
  ・・
 NHK交響楽団の定期公演を聴くために東京へ行ったおり,これまで行ったことがない東京近郊の興味ある場所を訪ねることにしているのですが,今回,2024年9月14日は,多摩動物公園へ,オランウータンを見にいくことにしていました。
 それにしても,暑い日でした。早朝,新幹線の車内から見えた富士山,雲もなければ雪もない。おそらく,山頂は人だらけだろうと考えるだけで,体が暑くなりました。よほどやめようかとも思ったのですが,ほかに何をすればいいのかアイデアもなく,決行しました。
 オランウータンに興味はなかったのですが,当たり前に見ることができた名古屋市の東山動植物園では,新しくオランウータン舎ができたのにもかかわらず,2人いたオランウータンが死んでしまい,主が不在となってしまいました。そこで急に興味がわいて調べてみたところ,オランウータンは急激に数が減っていて,日本の動物園にもわずかしかいないということがわかりました。そして,最も多くいるのが多摩動物公園だと知ったので,行ってみたいと思っていたのです。

 JR中央線で立川駅まで行って,多摩都市モノレールに乗りました。こんなところにモノレールがあることすら私は知りませんでした。おそらく,先に都市ができてしまい,公共交通がなく,不便だったので作られたのでしょう。名古屋の東部丘陵を走るリニモのようなものですが,スピードが遅いのが欠点です。
  ・・・・・・
 1958年に上野動物園の分園として開園した多摩動物公園は日本最大の広さを誇ります。
 多摩丘陵の上に作られたため起伏が多く,園内ではシャトルバスが運行されています。
  ・・・・・・
 園内に入ったのですが,こんな暑い日に歩くこともままならず,また,私が目的とするオランウータン舎は最も高い場所にあったので,シャトルバスに乗って向かいました。
  ・・・・・・
 オランウータンは,ヒト科オランウータン属(Pongo)で,ボルネオ島とスマトラ島の一部にのみ分布していて,ボルネオオランウータン(Pongo pygmaeus),スマトラオランウータン(Pongo abelii),タパヌリオランウータン (Pongo tapanuliensis)がいます。
  ・・・・・・
 現在,日本にいるのは,ボルネオオランウータンが26人,スマトラオランウータンが8人,ハイブリッドが2人で,うち,9人のボルネオオランウータンが多摩動物公園にいるそうです。そこで,たくさん見られるのを期待したのですが,4人しか見ることができませんでした。あとはどこにいるのだろう? この動物園,案内がさほど親切でありませんでした。聞けばよかったのでしょうが,暑すぎて,まったくやる気を失い,オランウータンだけを見て,満員のレストランで何とか席を見つけて昼食をとったのち,早々に退散しました。

 まだ時間が早かったので,同じ多摩都市モノレールで行くことができる国立極地研究所南極・北極科学館へ行ってみました。
  ・・・・・・・
 国立極地研究所(National Institute of Polar Research)は,大学共同利用機関法人情報・システム研究機構を構成する大学共同利用機関で,南極,北極及びその周辺地域(極地、南極圏や北極圏)に関して,物理学や生物学など様々な科学的観点から観測、実験、総合研究を行っています。
  ・・・・・・・
 ということで,南極・北極科学館は,従来,資料や標本,出版物等を総合研究棟入口に展示し,昭和基地からの映像を放映するなど簡単な情報コーナーを設けたり,定期的に研究所の一般公開も行っていたものを,2010年に,国立極地研究所南極・北極科学館として,開設したのです。
 ここもまた,行ってみたかったところでした。
 無料とはいえ,規模も小さく,館内に説明員がいるわけでもなく,少しがっかりしました。

 2023年4月につくば市に行ってみたことがあるのですが,立川市の研究施設も,同じような感じでした。私は,アメリカで,NASAをはじめとして,多くの研究施設を外から,あるいは,見学コースなどで見たことがあるのですが,それに比べて,あまりに貧弱だなあ,という印象をもちます。また,アカデミックさにも欠けていて,もし私が研究員だったらこういうところで研究したいなあ,という気にもなりません。
 また,アメリカの研究施設が,そのどれも,一般の人によくわかるように,大きな見学施設が設けられ,講演会や係員によるしっかりとした説明がされているのとは違い,ついでのような感じでそれらがあることにも,落胆します。こうした施設は税金で作られているという意識が低いのです。

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 2024年9月14日。9月からはじまった2024年度のNHK交響楽団第2016回定期公演Aプログラムを聴きました。曲目は,「ブルックナー生誕200年」ということで,ファビオ・ルイージさん指揮するブルックナーの交響曲第8番の第1稿でした。
 このところ,マーラーの交響曲を聴く機会が多かったのですが,うって変わって,これからはブルックナー三昧です。ブルックナーの交響曲は,演奏機会の多い第3番以降では,第4番は少し未熟で,第9番は未完。したがって,第8番がもっとも充実したもので,最高傑作だと思うのですが,私が好むのは,まず第4番,次に第9番,それについで,第8番です。また,第7番は以前書いたことがあるのですが,第4楽章をやめて,第2楽章と第3楽章を入れ替えれば,聴く気になります。第3番は粗削りなところがあり,第5番は異色。第6番は地味で,聴いてみれはいい曲だし,よく聴くのですが,どんな曲かと突然問われても浮かびません。

  ・・・・・・
 ブルックナーの交響曲第8番は,1887年63歳のときに第1稿が完成された最も長大な交響曲です。指揮者ヘルマン・レヴィ(Hermann Levi)が「演奏不可能だ」と言ったことから ブルックナーは全面改訂を決意し,1890年に第2稿となりました。現在の演奏はほとんどこの稿を採用しています。
 また,出版の経緯から,この曲は多くの版があります。
 ブルックナーの弟子ヨーゼフ・シャルク(Joseph Schalk)が第2稿に手をいれたものが「初版」(あるいは「改訂版」)といわれるものです。また,1939年にローベルト・ハース(Robert Haas)によって第2稿を基にした「ハース版」(あるいは「原典版」)といわれるものが出版されました。その後,レオポルト・ノヴァーク(Leopold Nowak)によって,第2稿に基づく「ノヴァーク版第2稿」と第1稿に基づく「ノヴァーク版第1稿」が出版されました。
 「ハース版」と「ノヴァーク版第2稿」は,第3楽章と第4楽章に多くの相違点があります。それは,ブルックナーが第1稿から第2稿に改訂する際に「×」で消された箇所をハースは復活させ,ノヴァークはすべてカットしたからです。
  ・・・・・・
 交響曲第8番第2稿は,4楽章すべてがとても充実していてすばらしいのですが,特に,とても美しい第3楽章ともっともブルックナーらしいといわれる第4楽章が特筆すべきものです。
 第3楽章では,コーダに入る前の数小節で弦楽5部だけの和音の連続があり,そこに「天上の」ハープが絡まって4オクターブを越えるアルベッジョが聴こえ,そのあとに音楽が突如沈黙が訪れたあと「こころをこめて,優しく」(recht innig, sanft)で曲がはじまる部分は感動的です。
 また,第4楽章では,変ホ短調の主題が一貫したリズムで続いたあと,長い休止があって,その後,音楽は嬰ハ短調に変わり「荘厳でこころのこもった」(Feierlich, inning)主題を響かせるのです。
 では,第1稿ではどうでしょうか?

 9月6日に,東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団第372回定期演奏会において,高関健さんの指揮でブルックナー交響曲第8番の第1稿(新全集版ホークショー(Paul Hawkshaw)校訂)を演奏したそうです。第1稿での演奏が流行っているのかな?
 第1稿と第2稿の違いは,聴いてみるとよくわかります。
 とにかく,第1稿では,聴かせどころで,つねに裏切られるのです。だから,聴いていてまったく楽しくありません。いよいよ来るぞ来るぞ! という箇所で来ないどころか,別のよくわからぬ旋律が流れてくるのだから,つねに,ドキドキハラハラ,そしてがっかりの繰り返しでした。
 我々は第2稿を聴きなれているからそう思うのであって,もし,第1稿しか存在していなかったら,それはそれで聴いていたという人もいますが,私はそうは思いません。第1稿だけだったら,傑作とは評価されなかったに違いないです。それでも,第1楽章と第2楽章に比べれば,第3楽章と第4楽章はそれほど違いがなかったし,特に,第4楽章は,盛り上がるところは若干変だったけれど,まあ,期待通りに盛り上がったから,何とか聴きとおせました。
 それにしても,はじまる前から「ブラボー」と叫ぶ観客がいたり,曲の終わりには大量の拍手のフライングが起きたり,演奏は,不慣れな曲であることも手伝ってか管楽器がやたらと目立って聴こえるし,この暑さで私はすべてがダレダレでした。
 ということで,一度は「お勉強」。めずらしい第1稿を聴くことができたということでよしとしましょう。でも,こんなのブルックナーじゃない。ブルックナー嫌いになりそう…,と感じました。家に帰ったら,第2稿を聴いて,お口直し,いや,お耳直し。聴き終えたあとのこころのむやむやを消し去ってしまいたい。

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扇沢駅から黒部ダム駅までを結ぶ電気バスは,黒部ダムが建設されるときに資材運搬用に造られたトンネルを利用して運用しているということです。電気バスを降りると,その先は,右手と左手に長い階段がありました。どちらに行くかという情報は,電気バスの中にあったモニターで紹介されていたのですが,行ってみないことには実感がわきませんでした。
左手は立山方向,右手は黒部ダム展望台方向という案内標示がありました。要するに,黒部ダムは,一望できる展望台があって,その後,展望台から降りて,ダム堤防に沿って対岸の黒部湖駅に行くと,次の黒部平駅までのケーブルカーに乗ることができるわけで,左手に進むと,展望台はスキップして,すぐに黒部ダム堰堤に出ることができるようになっていました。

私は,立山黒部アルペンルートで,まず見たかったのが黒部ダムだったので,ここを見逃してはいけません。そこで,右手に進みました。黒部ダム駅から展望台までは220段の地中階段を登る必要がありました。登り終えると,標高1,508メートルの展望台から,黒部ダムの観光放水はもちろん,立山連峰をはじめとする、北アルプスの大パノラマも楽しめました。
私は,2018年にアメリカのグレンキャニオンダムに行ったことがあります。そのときのブログに
  ・・・・・・
グレンキャニオンダムは想像を絶する巨大なダムでした。堤高216メートル,堤幅475メートルで,黒部ダムがそれぞれ186メートル,492メートルなので同程度です。しかし,山の中にある黒部ダムとちがって,大平原にこんなものが忽然とそびえてしまっていると,恐ろしさとスケール観に圧倒されます。
  ・・・・・・
と書いたように,すでに,このスケールのダムは見たことがあるので,特にすごい! というような感動はもちませんでした。ただ,行ってみたい,と思っていたその達成感はありました。

  ・・・・・・
黒部ダムは黒四ダムともよばれる関西電力の水力発電専用のダムです。1956年(昭和31年)に着工し,171人の殉職者を出し7年の歳月をかけて,1961年(昭和36年)に送電を開始し,1963年(昭和38年)に完成しました。
標高は1,454メートルで,ダム右岸の取水口から山中に掘られた導水路を通って,約10キロメートル下流の地下に建設された黒部川第四発電所に送られて,ダムとの545.5メートルの落差で発電します。
  ・・・・・・
私は,発電のために,これだけ多くの犠牲者と困難な工事をしてまでダムを作った意味がよくわかりませんでした。調べてみると
  ・・・・・・
第2次世界大戦後の復興期,関西地方は深刻な電力不足により,復興の遅れと慢性的な計画停電が続き,停電による多数の死亡事故などが深刻な社会問題となっていました。決定的な打開策として,大正時代から過酷な自然に阻まれ何度も失敗を繰り返した黒部峡谷での水力発電以外に選択肢を見出せず,その秘境の地でのダム建設案に,当時の太田垣社長は「黒部しかない」「関西の消費電力を一気に賄える」「工期7年,遅れれば関西の電力は破綻する」と決断したものです。
完成当時,電力需要における京都府の80パーセントと大阪府の20パーセントを賄うことができました。
  ・・・・・・
とありました。
黒部ダムによって,総貯水量2億トンの北陸地方屈指の人造湖「黒部湖」が形成されました。

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2日目。2024年9月6日金曜日。
午後7時に寝たので,午前3時過ぎに起きました。絶対に快晴という確信がありました。七倉荘は自由に屋上に上がることができるので,屋上に出てみました。やはり満天の星空でした。
部屋に戻って,二度寝をしたあと簡単な朝食をとって,チェックアウトをしました。
この日は,午前7時30分に扇沢駅から電気バスに乗ることになっていました。立山黒部アルペンルートのWebチケットでは,最初に乗る扇沢駅出発の電気バスだけは時間を決めて予約することになっているのです。その後の交通機関は,時間を決めず,自由に乘ることができます。こうして,はじめに乗る人数を決めることで,一度に多くの観光客でごった返すのを制御しているのでしょう。

午前7時30分に間に合うためには,信濃大町午前6時15分発の始発のバスに乗る必要があります。
旅館を出て,バス停に向かったのですが,晴れているとばかり思っていたのに,霧でほとんど何も見えず,びっくりしました。とはいえ,朝霧は晴れる,といいます。この日の天気がいいとさらに確信しました。
  ・・
バスは,思ったより多くの人が乗り込みましたが,混雑しているというほどではありませんでした。
バスははじめのうちは大町の住宅街を走っていったのですが,やがて,結構険しい山の中を上っていき,40分ほどで扇沢駅へ到着しました。
扇沢駅は大きなターミナルになっていて,周辺には広い駐車場がありましたが,すでに満車状態で,停めることができなかった多くの車が道路に沿って,ちょっとした空きスペースを見つけては駐車をしようと苦労していました。私のように,扇沢駅から立山駅まで,立山黒部アルペンルートを縦断する人は車で来ることはできないから,扇沢駅まで車で途中で引き返すのでしょう。
ちなみに,扇沢駅から立山駅まで車を回送してもらうことはできますが,3万円程度必要ということです。
  ・・
平日にもかかわらず,こんなに早い時間に,すでに,黒部アルペンルートの乗車券を買うための長い列ができていて,思った以上の混雑に,私はこの時点でいやになりました。想像していた以上に立山黒部アルペンルートはとんでもないところだと思いました。
しかし,私は,すでにWebチケットが予約してあったので,だれも並んでいなかった発券機にQRコードをかざすだけで簡単にチケットを手に入れることができました。そこで,並んでいる人たちが哀れに思えました。立山黒部アルペンルートは,Webチケットを手に入れてから行くべきところです。

こうして簡単にチケットを手に入れることができました。そのままターミナルビルに入って,電気バスに乗るための列に並びました。列は6列あって,まだ電気バスの出発には30分以上もあったのですが,すでに,列ができていました。しかし,この時間は,さすがに団体ツアー客はいませんでした。
列に並んでいると,弁当売りがやってきて,盛んに冗談を言いながら弁当を販売していたので,それを聞いているだけで退屈しませんでした。とはいえ,ここで弁当を買ったらさらに荷物が増えます。また,食べ終わった後のゴミも持ち帰らなければならないので,私は買うのをためらいました。しかし,こんなに多くの人が行くのでは,昼食は大丈夫なのかな? と心配になりました。
なお,弁当は即刻売り切れました。
やがて,時間になって,電気バスに乗り込みました。バスは何台も連なっていて,車内はそれほど混雑もせず,思ったほど大変でもなく,わずか15分程度で,はじめの目的地である黒部ダム駅に到着しました。
さあ,いよいよ旅のはじまりです。

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今回の旅で,信濃大町駅は通過点に過ぎませんでした。しかし,翌日2024年9月6日の早朝6時15分発のバスで信濃大町駅前から扇沢駅まで行くために,この町に宿泊することになりました。
寝られればいいや,ということで,駅に近い七倉荘という旅館を見つけて予約を入れました。ここは素泊まりで,風呂もトイレも共同といいうところでした。別段,特筆すべきものはないのですが,部屋がタバコ臭いのにはまいりました。信濃大町駅前にルートインがあったので,そちらにすべきでした。

さて,食事がついていないので,どこかで夕食を取らなければなりません。そこで,チェックインを済ませて,さっそく,町に出ました。近くにスーパーマーケットはあったのですが,大型ショッピングモールがないためか,駅前のアーケード街は未だ健在で,シャッタ街ではありませんでした。
暇に任せて歩いていたら,古民家を見つけました。「塩の道ちょうじや」という公開施設でした。
  ・・・・・・
「塩の道ちょうじや」では,日本海側の糸魚川から松本方面へ塩を運んだ千国街道,通称「塩の道」とよばれるこの街道の歴史と人々の暮らしを紹介しています。江戸時代の庄屋で塩問屋を営んだ平林家の建物を利用した館内に,当時の牛方や歩荷の運搬道具,旅装や弁当箱,沿線住民の生活道具,古文書などを展示しています。
  ・・・・・・
ということで,私にはとても興味深いところでした。
また,「塩の道ちょうじや」には,流鏑馬会館が併設されていました。流鏑馬会館では,大町市の夏の風物詩である若一王子神社例祭や流鏑馬について紹介していました。大町の流鏑馬というのは射手が少年という全国的にも珍しく貴重な行事ということです。

特に何もない町でしたが,私は好感をもちました。
さて,夕食です。しかし,なかなか店が見つかりません。ここなら,という店はこの日がお休みだったし,それ以外には飲み屋さんがほとんどでした。めんどうになったことと,翌日の朝食を買う必要があったので,スーパーマーケットに行きました。
ここで思い出したのが,コロナ禍以前,よく海外に行っていたころ,レストランで食事をするのがめんどうになると,その町にあるスーパーマーケットに行って弁当,といっても海外ではパック寿司くらいしかないのですが,を買っていたのと同じだな,ということでした。
スーパーマーケットにフードコートでもあるかな,と淡い期待もあったのですが,まったくそれらしきところが存在せず,夕食のお弁当と,翌日の朝食を買って,早々に旅館に戻りました。食事をして,そのあとは特にすることもなかったので,午後7時に寝てしまいました。

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松本城を出るとちょうどお昼だったので,近くのおそば屋さんで昼食をとりました。
次に向かったのが旧開智学校でした。
私は,松本城以外は行ったことがなかったけれど,ガイドブックなどで旧開智学校の建物がよく紹介されているので,どこなのかな,きれいな建物だな,行ってみたいな,と思っていました。
場所は,松本城から北に15分くらい歩いたところだったのですが,この日はとても蒸し暑く,それだけ歩くものけっこう大変でした。
  ・・・・・・
1876年(明治9年)に完成した旧開智学校は,地元の大工棟梁・立石清重が設計した学校建築で,擬洋風建築の代表です。文明開化の時代を象徴する洋風とも和風ともいえない不思議な建築は「擬洋風建築」とよばれています。
注目すべきは正面の車寄せで,この1点に擬洋風が凝縮されています。八角の太鼓楼と寺っぽいアーチの窓,青竜の上に雲がわきその上にふたりのエンジェルが「開智学校」の旗を掲げています。
  ・・・・・・
ところが,校舎は耐震工事のため休館中で,2024年秋以降の開館の予定,ということだったので,がっかりしました。縁がなかったのです。しかし,すでに外観の足場は撤去されていて外観を見ることはできたので,満足しました。思っていたより大きな建物でした。

松本市の見どころは,松本城と旧開智学校くらいのものだったので,これで松本駅まで戻ろうと思ったのですが,途中に,松本市立博物館があったので,寄ってみました。
  ・・・・・・
松本市立博物館は1906年(明治39年)に開館しました。その後,名称や所在地の変更を繰り返し,2023年(令和5年)10月に現在地に移転新築し開館しました。
  ・・・・・・
ということだったので,出来立てのすばらしい博物館でした。
約11万点を超える貴重な資料を収蔵しています,ということなのですが,特にすばらしかったのは,江戸時代後期の松本の城下町を再現したジオラマでした。これほど大きなジオラマはほかにありませんでした。

松本市は,こうした博物館や音楽祭など,文化に力をいれている都会だなあと感じました。
松本駅に戻るために街中を歩いていると,バックミュージックでブラームスの交響曲が流れているではないですか! そんな街,ほかに知りません。すてきでした。
駅に戻って,信濃大町へ行く列車が来るまで,しばしの間,氷を食べながら涼をとりました。
今回の旅の目的は立山黒部アルペンルートなのに,その前にすでにずいぶんと満足することができました。

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1日目。2024年9月5日木曜日。
台風10号の接近で日程が決まらないなど,さまざまなことがありましたが,ともかく,出発することができました。
台風が熱帯低気圧に変わり,通り過ぎたので,まさに台風一過。天気はまったく心配なく,晴れることは確実でした。それにしても,直前に日程の変更ができたということは,この時期に立山黒部アルペンルートを旅するならば,旅館の予約や交通チケットの購入は,慌てなくても1週間前に天気予報を知ってからでも大丈夫,ということになるわけでした。

午前8時名古屋駅発の「しなの」3号に乗り込みました。
このごろ,架線事故や地震や台風で東海道新幹線が不通になることがたびたびあり,中央線まわりのルートが見直されています。数日前にも,台風の接近で東海道新幹線が不通になったので,中央線の特急「しなの」も満員だったそうで,名古屋駅のホームがごった返していたそうですが,この日は東海道新幹線は平常運転をしていたので,中央線は閑散としているだろうと思っていたとおり,乗客も少なく,とても快適でした。
午前10時46分,松本駅に到着しました。
  ・・
今日の宿泊先は信濃大町駅に近い旅館なので,そのまま大糸線に乗り継いで信濃大町駅へ向かってもいいのですが,到着しても特にすることもないので,松本駅で途中下車して,夕方まで松本市の観光をすることにしました。
私が松本市に行ったのは今から50年以上も前のことですが,中学校の野外活動で八ヶ岳に行った折りに松本城に寄っただけで,それ以外の場所はまったく知りませんでした。そこで,今年2024年3月31日から4月2日まで,飯田線の「秘境駅」を巡り,そのあとで,木曽駒高原に旅をしたとき,木曽駒高原に行く途中で松本城を見ようと車で立ち寄ってみたのですが,あまりの混雑で,車を停める場所もなく,あきらめて素通りしました。そのとき,現在,松本市内はものすごい人だという印象が深く刻み込まれったので,もしこの日もそうだったらと心配だったのですが,松本駅前はがらがらで驚きました。

まず,駅にあった観光案内所へ行って,地図をもらいました。調べてみると,松本駅から松本城までは徒歩で15分程度だったので,歩くことにしました。
その間,道のいたるところで出迎えてくれたのが,小澤征爾さんの幟でした。
今年2024年2月6日に88歳で亡くなった指揮者の小澤征爾さんは,1992年から毎年夏に松本で「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」(Saito Kinen Festival=SKF),のち,2015年からは「セイジ・オザワ 松本フェスティバル」(Seiji Ozawa Matsumoto Festival=, OMF)を行なっていました。それに感謝するものでした。幟には「ありがとう」と書かれてありました。ちょっと感動しました。泣けました。
  ・・
やがて,松本城に到着しました。私は,ボランティアガイドさんの説明があるといつも利用しているのですが,今回もそうしました。ガイドさんからは知らないことをたくさん教えてもらえます。
その一例として…。
松本城天守の屋根上には,数か所平たい瓦が敷かれています。「捨て瓦」といって,上の階の屋根から雪が凍ってすべり落ち,平瓦や丸瓦を痛めるのを防いでいるものですが,これは,昭和の大修理の時に採用されたものだそうです。

松本城は,昨年の大河ドラマ「どうする家康」で松重豊さんが演じた石川数正ゆかりの城です。
  ・・・・・・
松本城は戦国時代,武田家の支配下に置かれていましたが,のち,空白地帯になったのち,1590年(天正18年)に石川数正の領国となり,築城を開始,現在も存在する松本城ができたのは,子の石川康長の時代です。
江戸の初期,松本藩主は目まぐるしく入れ替わり,ようやく落ち着いたのは1642年(寛永19年),大坂冬の陣・夏の陣で戦功を上げた水野忠清が藩主となってからで,6代83年にわたって治政が続きました。しかし,6代藩主・水野忠恒(ただつね)が遊び好きの放蕩者で,さらには江戸城中で刃傷沙汰まで起こしたことにより,改易となってしまいました。
そのあとは戸田家が9代にわたり明治時代になるまで治めました。
1871年(明治4年)の廃藩置県で,松本藩は松本県になり,松本城の二の丸は県庁となりました。また,城郭の門が取り壊され,松本城の天守は当時の兵部省によって管理され,武器の接収などが行なわれました。その後,松本中学校が松本城の敷地内にあり,本丸庭園を学校の校庭として使用していた時期もあったそうですが,1930年(昭和5年)に国の史跡に指定され,これを契機に松本城を国が管理するようになりました。
1945年(昭和20年)太平洋戦争が終結したあとに松本城は公園化が進められ,現在の姿になりました。
  ・・・・・・

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昨年2023年8月26日に「今後どこへ行きたいのか?」と題して「知らなかった黒部渓谷」を書きましたが,あれからもう1年過ぎたことが夢のようです。
私が黒部渓谷と思っていたのは,①立山黒部アルペンルートと②黒部渓谷のふたつの別の場所だったわけですが,②黒部渓谷はトロッコ列車を予約すればいつでも行けるだろうからと,まずは,難物のほうの①立山黒部アルペンルートに行ってみようと思いました。
  ・・
半年くらい前,なんとなく,立山駅のロープウエイ乗り場周辺に旅館を見つけたので,ここに宿泊すれば立山黒部アルペンルートは朝から行くことができるに違いないと,予約することにしました。しかし,8月終わりまではひとり客を受けつけておらず,9月1日以降なら大丈夫だったので,9月1日,2日の両日で予約を入れました。
しばらくはそれ以外のことはしないで,というか,調べもしないでいました。

1か月ほど前,行く日が近づいてきたので,そろそろ予定を立てようと行動を開始しました。ガイドブックを購入して調べてみると,私が行こうと思っていた立山黒部アルペンルートは,西の立山駅から東の扇沢駅までを1日がかりで横断するものだから,立山駅付近に2泊したところで意味がないことがわかりました。それよりも,扇沢駅付近に1泊して,早朝に出発し,立山駅に向かって行かなくてはならなかったのです。この期に及んでそんなことを知るとは愚かな話でした。
  ・・
そこで,慌てて9月1日の前日8月31日に扇沢駅の付近に宿泊しようと旅館を探しました。しかし,扇沢駅の付近には旅館がありません。結局,信濃大町駅近くに旅館があって予約できました。早朝,信濃大町駅前から扇沢駅までのバスがあって,扇沢駅から出発する電気バスの始発に間に合うのです。
そして,せっかく立山駅付近に2泊するのだから,9月2日はおまけと考えて,立山駅から立山黒部アルペンルートの途中の室堂まで行って戻ることにしました。
  ・・
次に,立山黒部アルペンルートを縦走するWebチケットがあることがわかったので,これを予約しました。このチケットは,扇沢駅から立山駅までをつなぐ,電気バス,ケーブルカー,ロープウェイ,トロリーバス,高原バス,ケーブルカーと,立山駅から富山駅までの富山地方鉄道のすべてが含まれています。
さらに,行き8月31日のJR中央線で名古屋駅から松本駅までの特急「しなの」と,帰り9月3日のJR高山線で富山駅から名古屋駅までの特急「ひだ」の指定席券も入手しました。
こうして準備も終わり,あとは出かけるだけとなりました。

ところが…。
8月下旬,台風10号が日本列島に近づいてきました。
はじめは,この調子なら私が旅行に出かけるときは,台風が過ぎ去った後の台風一過,ちょうどいい時期だなあ,と楽観していたのですが,何と,台風10号は太平洋上で停滞し,迷走をはじめました。そして,私が旅行に出かけるときになっても,過ぎ去るどころか,台風直撃に近い状態となってしまいました。
これには困りました。
  ・・
まず,予定を1日遅らせて日程を1日減らし,9月1日から9月3日までの2泊3日にしようと考えました。これなら簡単に予約の変更ができそうでした。ところが,日程を短縮しても,事態はかわらず,雨の中を旅するか,最悪の場合は,行くことができないか,あるいは,帰ってくることができないか,という心配が出てきました。
さんざん迷った挙句,旅館のキャンセル料が発生しない2日前の段階で,こうなったら日程をすべて変更し新たに9月5日から9月7日までにしようと思い立ちました。さっそく,旅館の予約ができるかどうかを調べてみたところ大丈夫だったので,急いで変更をしました。そして,JRの切符も立山黒部アルペンルートのWebチケットもすべて変更することができました。

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 うどん派? そば派? 私はそば派です。
 旅行先で簡単に食事を済ませるときや,普段,外出先で昼食を食べるとき,手ごろなので,そばかカレーか牛丼になります。カレーや牛丼は別の機会にして,今日はそばについて話題を進めます。
 そばといってもさまざまですが,近ごろはセルフのそば屋さんがあって,そこでは自分の好きなものをトッピングできるので簡単です。トッピングをするコツは,そば自体はかけそばにすることだと今ではわかりますが,少し前までは,かけそばなるものすら知りませんでした。我ながら賢くなったものです。
 ということですが,今の私は,かけそばにかき揚げが定番です。しかし,ほかの人を見ていると,夏でないときでも,ざるそばが多いのが私には不思議です。セルフうどん店はほとんど行かないのですが,システムはセルフそば屋さんとほぼ同じで,そばとうどんが違うくらいのものなので,これもまた簡単です。

 ところが,昔ながらのおそば屋さんやうどん屋さんに行くと,のっている具によって,地方で名前が異なるので,注文するのが大変です。調べてみると
  ・・・・・・
●関西
 大阪
  きつね(うどん) 甘い油揚げののったうどんのことで,きつねそばはない。
  たぬき(そば)  甘い油揚げののったそばで,たぬきうどんはない。
 京都
  きつね(うどん) 短冊切りした油揚げと九条ねぎ,細めんをつかったうどん。
  たぬき(うどん) 京都のきつねうどんがあんかけになったもの。
●関東
  きつねうどん 油揚げがのっているうどん。
  きつねそば  油揚げがのっているそば。
  たぬきうどん 天かすがのっているうどん。
  たぬきそば  天かすがのっているそば。
  ・・・・・・
 ということなので,関東は簡単ですが,関西は複雑です。しかし,前回書いたように,京都の鞍馬寺の門前にある店できつねうどんを注文すると,大阪流のきつねうどんが出てくるので,この通りでもないような気がしています。また,天かすののっている関東流のたぬきは食したことはありません。そもそも,天かすなるものに栄養があると私には思えません。

 ところで,私の住む名古屋では,きしめんと味噌煮込みうどんが定番で,これらは,近年ではなごやめしとして名を知られていますが,そういえば,それ以外に,私もほどんど忘れていましたが,志の田うどんというものがあります。刻んだ油揚げ,かまぼこ,ネギをのせたのが志の田うどんです。きつねうどんと似ているのですが,油揚げには味付けがされていません。また,これらの具材は味噌煮込みうどんと同じです。また,きつねうどんやきしめんとは異なり,さっぱりとした白醤油を使っていて,濃厚な味が多い名古屋めしの中ではあっさりしています。
 志の田という名は大阪の信太森(しのだのもり)のきつね伝説からきたと,子供のころ習ったことがあります。
 きつねといえば油揚げを意味するのですが,それは
  ・・・・・・
 きつねが油揚げのこととなった理由は,農作物を荒らすネズミを捕らえていたキツネに感謝してネズミズミの油揚げをお供えしていたためとか,キツネは五穀豊穣のご利益がある「稲荷神」の使いとされていて,稲荷神社には古くから油揚げが供えられてきたため
  ・・・・・・
 とかいわれます。
 では,信太森のきつね伝説とは,何でしょうか。
  ・・・・・・
 歌舞伎「蘆屋道満大内鑑」(あしやどうまんおおうちかがみ)は,大河ドラマ「光る君へ」にも登場した陰陽師・安倍晴明の物語です。この「蘆屋道満大内鑑」の四段目に「葛の葉子別れの段」があります。
  ・・
 白狐が化身した葛の葉姫が安倍保名(あべのやすな)との間に子どもをもうけるのですが,正体が明らかになってしまい,子どもを置いて森へ帰ります。その際,葛の葉姫は「恋しくば訪ね来てみよ和泉なる 信太森のうらみ葛の葉」という和歌を残します。
  ・・
 安倍晴明は白狐から生まれたという伝説があるのですが,それが葛の葉姫が産んだ子どもとされます。葛の葉姫をまつるのが信太森神社は,通称・葛葉稲荷神社といいます。参道の先にある本殿の左側に樹齢2,000年のご神木の楠の前にある石造りの小さな祠(ほこら)が葛の葉姫を祀ったものです。
  ・・・・・・ 

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 子供のころ,父親に連れられて,よく京都の鞍馬寺に行きました。そのとき,門前にあった鞍馬名物「岸本柳蔵老舗」という店で,きつねうどんを食べて山椒の木の芽煮をお土産に買うのがルーティンでした。というより,父親は,私とは正反対で,頭が固く,新しいことをまったくしようとぜず,興味もなく,いつも同じことをしました。
 それはさておき,当時,私の住んでいた名古屋には,大きな甘い油揚げののったうどんというものは食べたことがなかったので,これが楽しみで,京都にはこういうものがあるんだ,と思いました。
 その後,私は,鞍馬寺に行くこともなくなり,また,うどんよりそばが好みとなったこともあり,また,そばを食べるときにはてんぷらそばが定番となったこともありますが,「東京駅=てんぷらそば,名古屋駅=きしめん,京都駅=きつねうどん」と勝手に思い込んでいました。

 ここからが今日のお話の第2章です。
 日清のどん兵衛にきつねうどんとてんぷらそばがあります。このなかで,私は,てんぷらそばが好きで,ときどき食べています。しかし,きつねうどんは,私がこどものころに食した甘い油揚げとは似ても似つかないものなので,あまり食べる気はしません。そんなわけですが,ふと思ったのは,どうしててんぷらうどんときつねそばがないのか,ということでした。調べてみると,商品としては存在するのです。しかし,ほとんど売っていないのです。
 先日,京の仁和寺に行く機会がありました。そして,仁和寺の門前にあったそば屋でお昼を食べることになりました。そこで私は,興味半分に,きつねそばを注文しました。出てきたきつねそば,上にのっていたのは,昔懐かしい甘い油揚げでした。これはおいしかった。しかし,この甘い油揚げとそばはどうもしっくりいかないのです。このとき私は悟りました。やはり,きつねうどんでなければならないのです。

 さて,近ごろ,マーケットで,日清のどん兵衛きつねそばとてんぷらうどんをみつけたので,これまた興味半分で買ってきました。そして食べた味は…,予想通りでした。もう,買いません。

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 これまで,思いつくままに,行きたいと思うところへ行ってきましたが,どこも,調べただけでは様子がわからないというか,実際,列車が混んでるのか空いているのか,紹介されている場所が賑わっているのか寂れているのか,さっぱりわからないのでした。
 海外旅行をしても,そんなことを思ったこともないのはどうしてでしょう。
 とにかく,日本は,旅の計画を立てるのが難しい国です。
 その理由のひとつは,ごちゃごちゃしすぎていることです。公共交通でも,横の連携がまるでなっていないので,会社が異なると情報がない。これでは,列車の接続がうまくいかないのは当然です,とても旅行者ファーストとはいえないのです。これを逆手にとって,多くの旅番組ができたりするのでしょう。そこで,結局,車で行こう,ということになってしまうわけです。これでは,鉄道会社の自滅です。鉄道の集客をよくするには,鉄道会社同士が競い合うことよりも,互いに融通を利かして,さらに,バスの便まで考えて,ダイヤを工夫するべきなのです。
 また,観光地も,ふくざつなパズルを解いているみたいで,行ってみても,どこにあるのかわからなかったり,期待外れだったりすことが多すぎます。
 このように,個人旅行は難しい。しかし,ツアー旅行で,何も考えないでも観光地に連れて行ってもらえたところで,その地のことはわからないから,やはり,自由気ままな個人旅行の魅力にかなうものはないのです。

 さて,そんな個人旅行ですが,今回は,能登半島です。
 能登半島なんて,自宅から車で簡単に行くことができそうだったのですが,微妙に遠いので,金沢市以北には,これまで行ったことがありませんでした。輪島市とかのとじまは,おもしろそうだったのですが…。調べてみたら,おすすめの観光スポットとして,推理小説の聖地「ヤセの断崖」,美しいリアス式海岸で海上散歩ができる「九十九湾遊歩道」,海に注ぐ落差15メートルの「垂水の滝」,「日本の原風景」ともいえる圧巻の美しさを誇る「白米千枚田」などなど,魅力的なところがたくさんありました。そこで,この春には行ってみようと計画していたのですが,2024年1月1日,能登半島地震が起きて,行くことができなくなってしまいました。
 そんな折,2024年11月9日に,オーケストラアンサンブル金沢が井上道義さんの指揮で,第487回定期公演マイスター・シリーズを行なうことがわかったので,チケットを購入しました。井上道義さんの指揮する公演は,去る2024年7月20日に行われた神奈川フィルハーモニー管弦楽団みなとみらいシリーズ第397回で,私は最後のはずだったのですが,予定変更です。それは,かねてから聴きたいと思っていたオーケストラアンサンブル金沢だったことと,これを機会に能登半島に行ってみたかったことからでした。
 まだ,何の計画もできていませんが,今から楽しみです。

能登


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 昨年の8月から12月にかけて「今後どこへ行きたいのか?」と題して,様々な場所を取り上げました。そのときに思っていた気持ちと同じ場所もあれば,まったく変わってしまった場所もあります。
 その多くは,実際に行くことができたし,まだ,行く機会のない場所もあるのですが,行くことができた場所のほとんどは,幸い天気に恵まれて,予想以上でした。そして,それに関連して,それまで知らなかったところを見つけてしまい,行きたいところがますます増えてしまいました。
 今日は,そうしたことを振り返ってみたいと思います。
  ・・
●黒部渓谷
 私が黒部渓谷と思っていたのは,立山黒部アルペンルートと黒部渓谷のことでした。
 このうち,立山黒部アルペンルートは,2024年8月31日から9月3日に3泊4日で行くことにしていたのですが,台風10号がやってきて延期。今日9月5日から9月7に日まで2泊3日で行くことになりました。
 ほかの場所と同じように,行ってみるまでは,どういうところなのか予想がつきません。それが不安でもあり,期待でもあります。
 果たして…。
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●尾瀬
 2024年6月7日,ついに尾瀬を歩きました。
 尾瀬は,天気もよく,ミズバショウも咲いていて,すばらしいところでした。しかし,尾瀬に行くのは,けっこう大変でした。大変だからこそ,今も,その景観が残っている,ともいえます。
 この時は尾瀬ヶ原を歩いたのですが,尾瀬沼には行っていないので,機会があれば,また,行ってみたいものだと思っています。
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●只見線
 2024年1月15日に乗ることができました。
 雪景色に憧れて,冬の只見線に乗りました。幸い,天候にも恵まれ,また,心配だった人混みもなく,楽しい時間を過ごすことができました。
 この時は只見線に乗っただけで終わりましたが,沿線におもしろい場所が数多くあることを知ったので,今度は,列車には乗らず,沿線を車で走ってみたいと思いました。
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●わたらせ渓谷鐵道
 2024年5月13日に乗って,さらに日光を観光することができました。
 わたらせ渓谷鐡道は,桜の咲く時期と紅葉のきれいな時期に行くべきなのでしょう。めずらしく天気が悪かったので,その魅力があまり味わえなかったのが残念でした。
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●紀伊半島1周
 2023年12月7日から12月8日に白浜に1泊2日でいきました。
 紀伊半島は楽しかったです。だらだらと沿線の景色を見ながら旅情を味わいました。また,アドベンチャーワールドは期待以上でした。
 列車が本数が少ないのですが,空いていて気軽に行くことができるところなので,また,機会があれば,出かけてみたいと思います。
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●房総半島1周
 2023年10月15日に行きました。
 これは失敗でした。天気も悪く,列車も不便で,ほとんど何もわかりませんでした。ここは車でいくところだなあ,と思いました。
 房総半島は中央部もいろいろありそうなので,まだまだ解明すべきところが残っていそうですが,果たして,リピートはあるのか?
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●三浦半島の先端
 京急電鉄で三崎口駅まで行って,そこでレンタサイクルでまわればよさそうなので,気候がよいときに行ってみようと,春からずっと考えているのですが…。もう秋になってしまい,まだ機会がありません。
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●種子島
 ここもまだ,行く機会がありません。行く方法を調べてみると,鹿児島空港から飛行機があるようです。したがって,セントレア・中部国際空港から鹿児島空港まで行ってそこで乗り換えれば,1泊2日で旅行できそうです。近い将来実行したいと思っています
 宿泊先も考えなきゃ。
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●五島列島
 佐渡島,壱岐島,隠岐諸島と行っていたころは,次は五島列島だと行く気満々だったのですが,隠岐諸島でおなか一杯になってしまい,後回しになって今に至ります。
 離島を旅するのは,いろいろと調べることが多く,これがだんだん面倒になってきました。歳ですな。来年こそ行ってみたいと思っています。
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●山形から秋田を周遊
 このときに書いたコースとは異なりますが,今年2024年10月に秋田県を旅することにしました。とりあえずは秋田空港まで行ってレンタカーを借りて,秋田市周辺をまわってくる予定です。その経験から,また,その先のことを考えてみたいと,今は楽しみにしています。
  ・・
●津軽半島
 2024年7月4日から7月7日に3泊4日に行くことができました。そのときの旅行記を7月24日から8月7日まで書きましたが,青森県は,何度行ってもいいところ。そして,また,新しくおもしろそうなところが見つかったので,この先,何度でも行きたいと思っています。

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 2024年9月3日。暑い8月も終わり,台風も去った平日,念願の宇治へ行きました。目的は,「光る君へ」大河ドラマ展,宇治源氏物語ミュージアム,そして,平等院でした。
 私は「光る君へ」にすっかりはまっていて,これまで,石山寺と越前の大河ドラマ館には行ったので,残された宇治にも行ってみることにしたのです。また,宇治源氏物語ミュージアムと平等院は,以前,行ったことがあるのですが,ずいぶんと古いことゆえ,すっかり忘れていたので,この機会に再び行ってみました。
 今日は,大河ドラマ展について書きます。

 午前6時前に家を出ました。宇治までは,車で新名神高速道路と京滋バイパスを経由して約2時間です。午前9時開館ということだったので,それより早く到着して,まず,付近を散策することにしました。以前宇治に行ったときは,単に目的地に行っただけで,宇治橋すらのんびりと渡ったことがなかったからです。このことは,また,後日書きます。
 さて,大河ドラマ展です。会場はお茶と宇治のまち歴史公園交流館「茶づな」という建物の2階で,京阪電車宇治駅の近くでした。開館と同時に入ったのですが,ほかに来ていた人はおらず,拍子抜けでした。とはいえ,静かな中で,十二分に堪能することができました。
 8月27日にリニューアルしたということで,展示の内容は,8月18日に放送された第31回「月の下で」に沿ったものでした。ドラマで実際に使われたものが展示されていて,とても興味をもちました。

 大河ドラマ館(展)というものは,以前はなく,渋谷のNHK放送センター内の見学コースがその役割をしていたのですが,NHK放送センターは改築工事で見学コースがなくなり,こういった形で開催すれば銭になる,ということを知ってしまったのか,ゆかりの地方で開催されるようになりました。しかし,「麒麟が来る」や「鎌倉殿の13人」のころは,岐阜城や鎌倉というように一箇所だったものが,さまざまな場所で開催されるようになり,そうなれば,当然,展示も少なくなります。今回も,それほど見もの,というものもなく,その点は物足りませんでした。したがって,客の入りがいいとはいえません。もう,こういうやり方も終焉を迎えているようにも思えます。
 とはいえ,私のような暇人には,これを口実に,その土地を旅すると思えば,それはそれで楽しいものです。特に,「光る君へ」は,京都と越前というように,出かけるには最高の場所でもあります。

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 近ごろ,新幹線や長距離バスで,隣の席に人が座るのが嫌な人は,はじめに隣の座席も含めて2席予約して,直前になって必要のないほうの席をキャンセルする,ということが横行しているという話を聞きました。私は,そういうことをしたことはないのですが,気持ちがわからなくもありません。
 ということですが,私も人混みが嫌いなので,新幹線に乗るとき,グリーン車を利用しています。というか,していました。しかし,高いお金をかけて乗ったグリーン車がつねに快適化といえば,そんなこともなく,むしろ普通車のほうが快適ではないか,と思うようになりました。旅を快適にするのにお金をかければいい,というものではないのです。
 では,私が経験した不快な体験を紹介しましょう。
  ・・
●ゴミを散らかし放題にするカップル
 私が座っている席の通路を隔てた向こう側の席に,カップルが座っていました。
 この人たちは,乗ってから降りるまで,ビールを飲みながらつまみをおいしそうに食べていました。そして,空き缶もつまみの袋も,そのまま,汚せるだけ汚し,食い散らかして,もちろんリクライニングを戻すこともなく下車していきました。
 彼らが下車したあとのとんでもない惨状はいうまでもありません。通りかかった車掌さんは助けをよんでそれを掃除するのに大騒動でした。
 グリーン車に乗っているからといって,マナーがいいとは限りません。
  ・・
●乗ってから降りるまでずっと化粧をし続けていた女性
 東京へ行こうと私が名古屋で乗り込んだとき,すでにいましたから,大阪か京都で乗り込んだものと思えますが,その女性は私の斜め前にいたので,私はずっとその存在が気になりはじめました。
 というのも,その女性は,大きなキャリーバッグを持っていて,その中に入っていたのが数々の,私にはよくわからない化粧道具一式でした。そして,出てくるわ出てくるわ…。で,東京駅に着くまでずっと化粧をし続けていたのです。
 しかし,それは,化粧というよりも,私には,顔をキャンパスにして油絵を描いているように見えました。降りるときにちらりと見たその顔は,まさにお化けに見えました。
 私が不愉快だったのは,何度も何度も髪をといていたことです。おそらく,座席の周りには髪の毛がいっぱい落ちていたことでしょう。お気の毒な話ですが,おそらく彼女は「メイク依存症」という精神病だったのでしょう。近ごろは「マスク依存症」という病気にかかっている人も多くいますけれど…。
  ・・
●空いた席がいくらでもあるのに,わざわざ隣に座る男性
 混んでるときならともかく,いくらでもほかに空いた席があるのにもかかわらず,わざわざ隣の通路側を取って座る男性がたまに存在します。隣の私が老人の男性で残念でしたね,と思ってしまうのですが,こういう人はどういう思考をしているのだろうと,私には理解ができかねます。
 駐車場で,車を停める場所がいくらでも空いているのに,停まっている車の隣にわざわざ停める人もいます。こういう人を「トナラー」というそうですが,とんだ下心があるのかもしれません。私が若い女性だったら嫌だな。
  ・・・・・・
 認知の特性で,そうした概念が希薄な人が10人にひとりくらいはいます。その人たちは何の悪気もなく,自身のこだわりで席を選んでいるのだと思います。
 悪気も何もないんです。電車ならここ,バスならここ,よく行くカフェならここ,と気に入っている席があります。空いていれば周りの状況にかかわらずそこに座りたいし,埋まっていても座りたい。全体がどのくらい空いているかより,自分の座りたい席の周辺だけに意識が向いているのです。
  ・・・・・・
だそうです。

 ということで,こんな人たちがいるのでは,別料金を払ってまでグリーン車に乗る意味がありません。むしろ,空いているときなら,普通車の自由席で,自分の気に入った席に座ったほうがずっと快適だと思ってしまうようになりました。
 ところで,東海道新幹線にはありませんが,東北・北海道新幹線や上越新幹線,北陸新幹線には「グランクラス」(Gran Class)があります。旅客機でいうファーストクラスのようなものです。確かに,旅客機のファーストクラスは快適ですが,たかが2時間程度の日本国内の列車の旅で,これは大げさな,と私は思ってしまいます。おそらく,有名人が一般の人から目を遠ざけるためにこの席を選ぶのでしょう。
 考え方は人それぞれですが,いずれにしても,列車の旅では,同じ車両に不快な人がひとりでもいれば,どんなに豪華な座席であっても,すべては台なしです。

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 「オワコン」とは「終わったコンテンツ」を略したことばで「おわコン」や「終わコン」とも表記されます。世間的にもう飽きられている,流行が過ぎているなど「よい時期が終わった」と見なされた情報やコンテンツを指します。

 私はこれまで日本の鉄道にはほとんど興味がありませんでした。新幹線に乗ることもほとんどありませんでした。それが近ごろ,コロナ禍のおかげで国内旅行に目が向き,かつ,ジパング倶楽部を利用して多くの列車に乗るようになってきたら,日本の鉄道の現状に目覚めました。
 そして,さまざまな不便な点が目につくようになって,いったい何をやっているのやら? と思うようになってきました。
 それぞれの地元の要望や,それを伝える人たちのその多くは利権がらみだし,国全体を見まわせる人もなく,また,利権に関係なく判断できる人もなく,という状況で,新たに新幹線が作られたり,あるいは,在来線が廃止されています。今日は,その中で新幹線について取り上げます。
  ・・
●北海道新幹線
 函館北斗駅までが開業していますが,函館北斗駅は札幌に行くにも函館に行くにも便利でなく,北海道に行くには,飛行機のほうが便利です。観光客が北海道新幹線に乗りたいと思う目的は,青函トンネルを越えてみたい,ということくらいでしょう。
 現在,函館北斗駅から札幌駅までが工事中ですが,渡島トンネルでは1か月で10メートルほどしか掘削できず,羊蹄トンネルでは巨大な岩が発見され工期が止まり,札樽トンネルでは泥土の漏出事故が多発というように,開業時期が見通せない状況で,今では2040年ごろまでずれ込むのではではないかとさえいわれている状況です。
 たとえ札幌駅まで開通したとしても,東京以西の人が札幌に行くなら,やはり飛行機のほうが便利だし安価です。これほど巨額なお金を投じて困難な工事をし,青函トンネルの維持に莫大な維持費をかけてまで札幌駅まで新幹線をつなげる意味があまりないように感じます。とはいえ,青函トンネルはすでにできてしまっているから,函館駅までつなげてそこで終了し,函館駅から札幌駅を経由して旭川駅までいく在来線の特急を走らせるほうがよいように私は感じます。
  ・・
●秋田新幹線と山形新幹線
 ミニ新幹線とよばれるものですが,ミニ新幹線は在来線の線路幅を広げただけだから最高速度が時速130キロメートル。これではあまり意味がないように思います。
 そんなことなら,福島駅から山形駅,新庄駅,大曲駅を終点とする在来線の特急と,盛岡駅から大曲駅を経由して秋田駅まで行く在来線の特急があればそれで十分だと思います。これが山形県へ行ったときに私が感じたことです。
  ・・
●北陸新幹線
 現在は敦賀駅までつながっています。敦賀駅から新大阪駅までどのような経路をとるか,一応結論は出ているのですが,工事がはじまっておらず,いまだにもめています。こんな状況ではいつできるものやら…。
 以前は,大阪駅からは「サンダーバード」,名古屋駅からは「しらさぎ」という在来線の特急に乗れば乗り換えなしで金沢駅まで行くことができたものが,北陸新幹線の開業で敦賀駅止まりとなってしまい,めんどうな乗り換えが必要で,むしろ不便になりました。北陸新幹線は金沢駅までで終了でよかった,と多くの人が言っています。
 北陸新幹線が現在決まっているルートで延長するのを最も望んているのは小浜市です。
 現在,小浜市は京都や大阪に行くのにとても不便です。距離的には近いのに,路線がないからです。そこで,新幹線さえできれは京都や大阪に行くのに便利になる,という理屈はわかりますが,在来線すら走っていないというのは,工事が大変だったからでしょう。そのルートに新幹線を走らせようというのだから,かなりの無理筋です。また,果たして,できたとしてどれだけの需要があるというのでしょう。
 さらに,小浜駅から西に延長する山陰新幹線,などという夢物語もありますが,需要がありません。
  ・・
●西九州新幹線
 武雄温泉駅から長崎駅までという短距離の新幹線です。いったいだれが乗るのかな,と思ってしまいます。
 九州新幹線と接続する計画なのでしょうが,これもまた,いつできるものやら…。現在は「リレーかもめ」という列車が武雄温泉から博多駅まで走っているようですが,そんなことなら,西九州新幹線のかわりに同じルートで在来線を作ったほうが便利だったような気がします。
  ・・
●リニア新幹線
 作りはじめてしまったリニア新幹線ですが,これもまた,いつ完成するのやら…。
 現在の東海道新幹線の混雑状況を考えれば,第2新幹線は必要なのでしょうが,計画したルートが無理筋すぎます。おそらく,走るようになっても,とても運賃が高くなると思うし,ずっとトンネルばかりの路線では,乗ることができる人や乗りたい人は限られるでしょう。
 私は,むしろ,現在の東海道新幹線とどう折り合いをつけるかのほうに興味があります。

 これらのどれも,開通するのは早くて10年後のことでしょうが,このように,どれも工事中のものばかりで,果たして計画どおり完成するかのほうが心配です。
 自分勝手な話にするなら,今から10年先なんて,もう,旅をするような年齢ではないから,私にはどうでもいいことに思えますけれど,少子高齢化で若者が減り,地方が過疎化している中で,こうしたインフラを作ることは,今の若い人たちに大きな負担となって残るような気がします。
 東海道沿線に住んでいると,東海道新幹線は3分ごとに運行しているような状況だから,どの新幹線も同じような気がしますが,北陸新幹線なんて,地方の在来線と同じように,現在でも1時間に2本程度の運行です。あと50年もすれば,利用者が少ないからということで真っ先に廃線の対象となって,現在の地方の鉄道の置かれた問題の二の舞になっているような気がしないでもありません。

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 いまから30年近く前,突然京都に目覚めました。
 ある年の10月に何かのきっかけで京都を訪れました。当時は,紅葉前の京都は観光客も少なく,気候もよく,静寂に包まれていました。私は,京都のすばらしさを知ってしまったのです。京都は,見るもよし,写真をとるもよし,そして,おいしいものを食べてもよし。それまでの私は,日本にこんなところがあるということすら知りませんでした。
 そこで,購入したのが山と渓谷社から出ていた「歩く地図S・京都」というガイドブックでした。そして,この本を片手に,月に1回は京都に行くようになりました。こうなると,何事もすべてやってしまいたい性格から,この本に載っている寺社仏閣にすべて行こうと思うようになりました。
 今では考えられないのですが,冬の寒いときであっても,夏の暑いときであっても,また,雨が降ろうが雪が降ろうが,例外なく,毎月京都に向かうのでした。
 その結果,梅に雪が積もった景色やら,桜満開の風景やら,紅葉のうつくしいライトアップやら,はたまた,春の都おどりやら,貴船の川床料理やら,節分の舞妓さんの豆まきまで,何から何までを体験することができました。
 現在の,インバントでいつ出かけても人混みだらけの状況では考えられないことです。よき月日でした。

 真夏の過酷な日,私は,山科の北にある毘沙門堂へ行きました。
  ・・・・・・
 護法山安国院出雲寺,通称・毘沙門堂は,山科区にある天台宗の寺院で,山号は護法山,本尊は毘沙門天です。妙法院,三千院,青蓮院,曼殊院とならぶ天台宗京都五門跡のひとつです。ちなみに私はすべて行きました。
 毘沙門堂の前身は出雲寺で,文武天皇の勅願により703年(大宝3年)に行基が開いたといいます。1195年(建久6年)に平親範が平家ゆかりの平等寺,尊重寺,護法寺を統合し,出雲寺の地に護法山出雲寺として再興し,最澄自刻の毘沙門天像を本尊としました。
  1467年(応仁元年)に応仁の乱によって焼失しましたが,1469年(文明元年)に再建され,1571年(元亀2年)に再び焼失してしまいました。 江戸時代初頭,南光坊天海によって復興が開始され,江戸幕府は山科の安祥寺の寺領の一部を出雲寺に与え,現在地に移転・復興されました。毘沙門天を祀ることから出雲寺は毘沙門堂とよばれるようになりました。
 江戸時代初期,111代後西天皇皇子の公弁法親王がこの寺で受戒し,晩年に毘沙門堂に隠棲したことで,以後,門跡寺院となりました。
  ・・・・・・
 由緒ある寺はすばらしかったのですが,この季節で物足りなかったのが花でした。夏には,梅も桜も藤もカキツバタもありません。
 と思っていたのですが,セミの鳴く寺の入り口で目にしたのが,美しいサルスベリの花でした。今とは違って,当時の私は,花の名前もほとんど知らなかったので,真夏にもこんな花が咲くんだ,と驚きました。それ以来,私には,京都の夏は,サルスベリ,という印象ができあがりました。
 それ以来,毘沙門堂に行くこともなく,また,夏に京都に行くのは五山の送り火だけとなりましたが,私は,そのときの印象が忘れられず,夏になると,五山の送り火とともに,サルスベリの咲く風景が重なるのです。


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