しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

October 2024

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【Summary】
The Namahage Museum and the Oga Shinzan Folklore Museum on the Oga Peninsula in Akita Prefecture introduce the 200-year-old tradition of Namahage to visitors. Namahage is a visiting deity that admonishes laziness and wards off misfortune. Inside the museum, masks from various villages are on display, and the folklore museum offers live performances, providing an engaging way to experience this unique culture and history.

男鹿半島の中央部に,なまはげ館とそれに併設された男鹿真山伝承館がありました。私は秋田といえばなまはげ,ということは知っていましたが,なまはげが男鹿半島の行事だということまでは知りませんでした。
せっかく来たからということで,行ってみました。ほとんど観光客を見なかった男鹿半島でしたが,着いてみると,ここには多くの観光客が来ていて,これまでほとんど人を見なかったから,彼らはどこから湧き出たのだろう? と不思議でした。

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なまはげは,200年以上の歴史を有する男鹿半島周辺で行われてきた年中行事です。
冬に囲炉裏にあたっていると,手足にナモミ,アマとよばれる低温火傷ができることがあります。それを剥いで怠け者を懲らしめ,災いをはらい祝福を与えるという意味でのナモミ剥ぎからなまはげ,アマハゲ,アマメハギ,ナモミハギなどとよばれるようになったといいます。
なまはげというのは,怠惰や不和などの悪事を諌め,災いを祓いにやってくる来訪神で,丹色に塗った木の皮や木製の面をつけ,ケデ(またはケンデ,ケダシ)と称する藁衣装を着ます。
かつては小正月の行事でしたが,現在は大晦日の晩に,大きな出刃包丁(あるいは鉈)を持ったたなまはげに扮した村人が家々を訪れ,「泣ぐ子(ゴ)は居ねがー」「悪い子(ゴ)は居ねがー」と奇声を発しながら練り歩き,家に入って怠け者や子供,初嫁を探して暴れます。家人は正装をして丁重にこれを出迎え,主人が1年の家族のしでかした日常の悪事を釈明するなどしたのちに酒などをふるまって送り帰します。
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かつては男鹿半島のほとんどの集落でなまはげが行われていましたが,少子高齢化の影響で現在はほぼ半減しているといいます。

そうしたなまはげの行事を,観光用に体験できる施設がなまはげ館と男鹿真山伝承館です。
なまはげ館は,なまはげをテーマに地域の歴史や風土を紹介している施設で,なまはげの展示コーナーには各集落で実際に使われていたものなど150枚を超えるの多種多様な面が勢ぞろいし,伝承ホールでは,男鹿の大晦日のナマハゲ習俗を紹介する映画「なまはげの一夜」が上映されています。
男鹿真山伝承館では,なまはげの実演が見られました。これはなかなかおもしろいもので,期待以上でした。

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【Summary】
When I was a child, I found it strange and regrettable that a large lake in Akita Prefecture was being reclaimed. I longed to visit it, and after nearly 60 years, I finally did. Hachirogata Reclamation began in 1952 as a large-scale mechanized farming project. After exploring Ogata Village and the Oga Peninsula, I was intrigued by Sugaya Masumi, a late-Edo period traveler from Aichi Prefecture, who extensively documented Japan's northern regions in his journeys.

子供のころに地図帳を見て,秋田県に大きな湖があるのに,どうしててそれをつぶしてしまうのかが不思議でした。また,残念に思いました。そして,一度行ってみたいと思っていたのですが,60年近くたって,ようやくそれが実現しました。
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第2次世界大戦後,西側諸国との講和条約に際して,日本が最も腐心したのはオランダへの対応でした。オランダの日本に対する国民感情は悪く,賠償の代わりに技術援助に応じるなら講和会議に参加するという条件から,それを受けるプロジェクトとして,八郎潟干拓が選ばれたのでした。
1952年(昭和27年)に八郎潟の干拓ははじまりました。1戸数ヘクタール(約5ヘクタールがプロ野球のグランド程度)の大区画農場を造り,アメリカのような,ヘリコプターによる直播や大型コンバインを利用した大規模な機械化農業をしようという計画でした。八郎潟は,東西12キロメートル,南北27キロメートル,水深は3メートルから5メートルですが,湖底のほとんどはヘドロが堆積した超軟弱地盤でした。
難工事のすえ,ついに7年後に干陸式を迎え,新村は大潟村と名づけられました。干拓事業が終了したのは,工事開始から25年後の1977年(昭和52年)でした。
6世帯14人という日本一小さい村からスタートした大潟村は,現在では約1,000世帯,人口約3,300人の村へと成長しました。
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風力発電用の風車がならぶ大潟村を越えると男鹿半島に着きました。その先端が入道崎でした。岬は私が想像していた断崖のようなところとは違って,広い平地でした。みやげ物屋や食堂が並んでいて,その1軒で昼食をとりました。そのあと,灯台に上り,雄大な景色を楽しみました。
男鹿半島は思ったよりも広く,美しかったのですが,半島に沿って海岸線を走るだけでは,中央部に行くことができず,どうするものかと思いました。男鹿半島といえばなまはげ,ということで,男鹿半島の中央部になまはげ館というものがあったので,海岸線に沿って走るのはあきらめて,行ってみることにしました。その途中にあったのが八望台という展望台でした。
八望台には,木製の大きな展望デッキが整備されていました。登ってみると,火山活動に伴う水蒸気やガス爆発によってできる爆裂火山湖の一ノ目潟,二ノ目潟を眼下に見下ろすことができるほか,日本海や男鹿半島のシンボルである寒風山まで見渡すことができる場所でした。日本海に沈む夕日を眺めることができるサンセットスポットとしても知られるそうです。

ところで,秋田県に来ると,しばしば,菅江真澄(すがえ ますみ)という名前に出会います。私は,その人をまったく知らず,誰だ,その人? と思いました。調べてみると
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菅江真澄は,1754年(宝暦4年)に生まれ,1829年(文政12年)に亡くなった江戸時代後期の旅行家です。本名は白井秀雄。
愛知県の岡崎,あるいは豊橋生まれで,少年期に岡崎城下の成就院の稚児となり,1783年(天明3年)郷里を旅立ち,信濃・越後を経て出羽・陸奥・蝦夷地など日本の北辺を旅しました。
1801年(享和元年)に秋田藩(久保田藩)に移り,角館で客死しました。
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ということでした。まさか愛知県の生まれとは…。

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【Summary】
In October 2024, during a 4-day trip, I enjoyed favorable weather except for rain in Akita City on October 19. I stayed at the comfortable Hotel Grand Tenku, relaxed in the early morning onsen, and visited Tazawa Lake, Japan's deepest lake, where I saw the famous Tatsuko statue. Legend tells of Tatsuko, who transformed into a dragon and became the lake's guardian. I then visited Hachirogata, once Japan's second-largest lake, now mostly reclaimed land, and continued to the Oga Peninsula, reaching its tip at Cape Nyūdō.

2024年10月18日金曜日。
この日はすばらしい天気でした。2024年,この年は非常に天気がおかしくて,いつまでも暑いし,秋だというのに雨が多く,また,蒸し暑いのです。しかし,北海道ではすでに雪が降るとか降ったとか…。そんななかで,10月17日から10月20日まで3泊4日で旅をしたのですが,結果的に,10月19日に秋田市で雨になった以外は,巧みに天気の悪い場所を避けて旅をしたようです。
私が宿泊した「ホテルグランド天空」は居心地がよく,早朝もまた,だれもいない温泉にのんびりと浸かり,至福の時間を楽しみました。そして,朝食をとりました。また泊まってみたいところでした。
チェックアウトして,乳頭温泉まで行ってみたのですが,駐車場には多くの車が停まっていて,いくら有名な温泉でも,混んでいるのはいやだな,と思いました。

山を下り,田沢湖畔まで来ました。この日は,男鹿半島をまわって,秋田市まで行くことにしていました。田沢湖は遊覧船があるようでしたが,時間がなく,乗るのはあきらめました。
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淡水湖である田沢湖は,日本で最も深い湖で,日本で19番目に広い湖沼です。円形で直径は約6キロメートル,最大深度は423.4メートルと日本第1位,世界では17番目に深い湖です。流入河川は小規模な沢しかないので,湖底の湧水が湖を作っていると考えられています。田沢湖は冬も凍りません。
田沢湖の名前の由来は,「田沢村の潟」,アイヌ語で「盛り上がった円頂の丘」を意味するタプコプが変化した説などがあります。
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私が見たかったのは,有名な辰子像でした。
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田沢湖のほとり神成村に辰子という名の娘が暮らしていました。辰子は類いまれな美しい娘でしたが,その美貌に自ら気づいた日を境に,いつの日か衰えていくであろうその若さと美しさを何とか保ちたいと願うようになり,その願いを胸に,村の背後の院内岳にある大蔵観音に,百夜の願掛けをしました。必死の願いに観音が応え,山深い泉の在処を辰子に示しました。
辰子は,そのお告げの泉の水を飲みましたが,急に激しい喉の渇きを覚え,狂奔する辰子の姿は龍へと変化していきました。自分の身に起こった報いを悟った辰子は田沢湖に身を沈め,そこの主として暮らすようになりました。
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一方,海沿いに八郎潟という湖がありました。ここには,人間から龍へと姿を変えられた八郎太郎という龍が住んでいました。八郎太郎は,いつしか田沢湖の主・辰子にひかれ,辰子もその想いを受け容れ,八郎太郎は辰子と共に田沢湖に暮らすようになりました。
主のいなくなった八郎潟は年を追うごとに浅くなり,主の増えた田沢湖は逆に冬も凍ることなくますます深くなっていきました。
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田沢湖を,そして,辰子像を見た私は,このあと,八郎潟に向かいました。
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八郎潟は,かつては面積220平方キロメートルと,日本の湖沼面積では琵琶湖に次ぐ第2位でしたが,大部分の水域が干拓によって陸地化され,陸地部分が大潟村になりました。
その先にあるのが男鹿半島で,その先端が入道崎でした。

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【Summary】
I visited Tazawako Kogen Onsen's "Hotel Grand Tenku" instead of Nyuto Onsen, known for its picturesque hot springs. Despite missing the comet photo opportunity, I enjoyed the stunning views, excellent food, and the luxury of a quiet, 24-hour accessible onsen with few guests. It was an ideal and satisfying trip.

角館から北北東に行くと,田沢湖があります。また,田沢湖から北東,岩手県との県境にそびえるのが烏帽子岳ですが,烏帽子岳を通称乳頭山といいます。そして,その麓にあるのが有名な乳頭温泉です。乳頭温泉は,「鶴の湯温泉」から最奥の「黒湯温泉」の6軒の1軒宿と「休暇村乳頭温泉郷」の7つの宿で構成されていて,さらに,山道には「一本松温泉」という,かつての温泉場跡地の野湯も存在します。雑誌「じゃらん」の「あこがれ温泉地ランキング」では,雪景色の中で最高の雰囲気が味わえるということで,2年連続1位に輝いた秘湯ファンの聖地だそうです。その魅力は,ブナの原生林のなかにある風情あるレトロな湯治場。
私は,乳頭温泉という名前は知っていたのですが,それがどこにあるかは知らず,ああ,ここなのか,と思いました。そして,そこに宿泊しようと思ったのですが,今回は様子見だからと妥協して,その手前にある田沢湖高原温泉郷の「ホテルグランド天空」を予約しました。

とはいえ,田沢湖を背後に,車はすごい山の中を登っていきました。
その途中に展望台があったので,田沢湖の景色を見ようと車を停めました。すばらしい景色でした。田沢湖向こうとおくには秋田県と山形県の県境にある鳥海山も見えました。カメラを空に向けている人がいました。聞いてみると,紫金山・アトラス彗星を撮ろうとしているということでした。私は,紫金山・アトラス彗星はちょっと方角が違って,山に隠れてしまうし,そのあたりは雲が出ているからちょっと無理じゃないの? と思ったけれど,楽しんでいる様子だったので,そのまま引き上げました。とはいえ,私も,もし条件がよければ紫金山・アトラス彗星の写真を撮ることができるように,今回は三脚を持参していたのですが,徒労に終わりました。

「ホテルグランド天空」に着きました。
思っていたよりずっとすばらしいホテルでした。食事も温泉も最高でした。さらによかったのは,宿泊客が少なく,温泉はひとり占め,また,温泉は24時間いつでも入ることができることでした。さらに,窓からの景色もすばらしいものでした。
私には,こうした宿泊先が理想なのです。いい旅になりました。

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【Summary】
Kakunodate, now part of Semboku City, retains its Edo-period samurai town atmosphere, with preserved buildings and structures. The Ishiguro and Aoyagi residences are open for public viewing. Aoyagi's estate is notable for its historical exhibits, including illustrations by Odano Naotake. Although preservation began in the 1960s, balancing tourism and maintaining a tranquil atmosphere remains a challenge.I prefer smaller, quieter samurai residences like those in Kaminoyama (Aomori) or Aki (Kochi) over popular tourist destinations.

大曲から北北東に走って,角館に着きました。角館町(かくのだてまち)は,2005年(平成17年)に田沢湖町,西木村と合併したので,現在は仙北市の一部ですが,現在も仙北市角館町として地名はそのまま残っています。
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角館は,1620年(元和元年)にこの地を領していた芦名義勝(あしなよしひろ)によって造られた町で,1656年(明暦2年)に芦名家が残絶したのちは佐竹北家に受け継がれ,秋田藩(久保田藩ともよばれる)の所領として城下町が形成されました。
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災害がなかったことで,現在も江戸時代末期時の屋敷割や,母屋・門・蔵の屋敷構え,枡形など武家町の特性が残されているので,まるで江戸時代に舞い戻ったかのような雰囲気があります。

町のはずれに広い駐車場があったので,そこに車を停めて,町を散策することにしました。
今から45年ほど前に東北地方を1周したことがあります。そのときに,田沢湖と角館には行ったように記憶していたのですが,今回行ってみて,どうやらそれは私の勘違いのようでした。私は,角館にははじめて来たのでした。
江戸時代のまま残されているとはいえ,町の中の道路は舗装され車も通ることができるし,やはり,こうした観光地は,インバウンドで多くの外国人が来ているので,がっかりしました。とはいえ,広い道路は,拡張したわけではなく,江戸時代のままの広さということでした。町の中は車の通行を禁止すればいいのに,と思いました。

武家屋敷の中に,3か所ほど,内部が公開されているものがあったので,私はそのうちの2つ,石黒家と青柳家を見学しました。
石黒家は,佐竹北家の佐竹義隣に召抱えられた石黒勘左衛門直起を初代としています。家格は家老格の小野崎家(200石)に次ぐ150石取りで,財政を担当する用人として佐竹北家に仕えました。
8代石黒直信は,幕末から明治初めにかけて家塾「紅翠亭」を開き学問の普及に尽力した人物で,9代石黒直幹は晩年には角館町長を務め,10代石黒直豊は角館図書館の初代館長を務めました。
さらに,12代石黒直次は最後の角館町長を務め,合併後は仙北市の初代市長となりました。現在もこの武家屋敷に子孫が暮らしています。
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格式高い薬医門で知られる青柳家は,角館に現存する武家屋敷のなかで最古の建物で,茅葺きの母屋の座敷に入って建物を主体に内部を見学できました。
 四季折々の草花あふれる3,000坪の敷地内には,母屋,武器庫,解体新書記念館,秋田郷土館,武家道具館,アンティークギャラリー喫茶・ハイカラ館,幕末写真館,時代体験庵などがありました。
私が特に興味をもったのは,青柳家と姻戚関係である小田野直武が描いた「解体新書」の挿絵でしたした。西洋の陰影法を取り入れ,後の洋画界に大きな影響を与えた秋田蘭画は,小田野直武と秋田藩主・佐竹義敦によって完成されたということです。

角館で保存の動きがはじまったのは昭和40年代のことで,重要伝統的建造物群保存地区として選定されたのですが,保存には多くの困難も伴うと想像できます。観光客が来てくれないと維持もできないのですが,観光客多くなると,落ち着いた雰囲気もなくなってしまうので,それはそれで問題です。
こうした観光地もいいですが,私は,これまでに訪れた中で,青森県の上山や高知県の安芸などに残る小規模な武家屋敷のほうが,何もないけれど,落ち着きます。

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【Summary】
Last year's Ryuo title match was planned at the Former Hongo Residence in Daisen, but after Fujii won 4-0, the event was canceled. The site, which hosted a special Ryuo exhibition, remained open until the end of 2023, showcasing historical architecture and memorabilia.

大曲といえば花火なのですが,私の記憶では,昨年2023年の将棋のタイトル戦が行われた場所でした。大曲駅の観光案内所で聞いてみると,それは,大曲駅から南に位置する旧本郷家住宅ということだったので,行ってみることにしました。しかし,私のおぼろげな記憶では,この場所は,もともとは非公開だったものが,将棋のタイトル戦がおこなわれた(る?)場所だということで有名になり,観光客が押し寄せるようになったことから,当分の間は公開することになったとかいう話でした。
今も公開しているのかな? と思ったのですが,ともかく行ってみました。というか,竜王戦で話題になったときは,まさかここに行くことになるとは夢にも思いませんでした。

私の記憶がいいかげんだったことが行ってみてわかりました。旧本郷家住宅は,実は
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-幻となった竜王戦七番勝負第6局-
藤井聡太竜王が見事4連勝で竜王戦3連覇を達成したため,2023年12月6日から7日(木)に開催予定だった第36期竜王戦七番勝負第6局は幻に終わりました。幻となった第36期竜王戦七番勝負第6局の会場・旧本郷家住宅では,(2023年)11月12日(日)までの日程で「竜王戦特別展inだいせん」を開催していましたが,竜王戦がなくなってしまったために年末まで開催を延長しています。
旧本郷家住宅は,秋田県内有数の地主として知られる名家です。敷地内には,江戸末期から昭和初期にかけて建てられた歴史的な建築物を眺めることができます。
建物内に入ってみると,広々とした土間玄関があり,奥にある内蔵や隣接する洋館へと続いています。 歴史と伝統を感じさせる座敷は日本建築の美が色濃く表れています。壁にはいくつもの書が掲げられていて,なかには伊藤博文公の書もあります。
さらに奥に進むと竜王戦の会場があります。将棋盤が用意されていて,実際に座ることができます。しかも駒を動かしても大丈夫なので,ぜひ雰囲気を味わってみてください。
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ということで,ここは,実際は竜王戦が行われたわけではなかったのです。藤井聡太竜王は,タイトル防衛後にこの地を訪れて,祝福をうけたことで,ニュースになったのでした。
私も対局場になるはずだった広間に入って,盤の前に座って,写真を撮ってもらいました。なお,盤と駒は,当然,実際に使われるはずのものではありません。
このときは「年内は公開」とあったので,2023年いっぱいは公開していたということになるのですが,今もまだ公開しています。まあ,花火以外に大した見どころもない町なので,これもまたウリのひとつとなるからでしょうか。また,第1局の封じ手の実物が譲り受けられてここに展示されていました。

今年2024年の竜王戦は現在第3局が京都の仁和寺で行われていますが,昨年2023年の竜王戦も第2局が京都の仁和寺で行われ,私は,その前夜祭に参加しました。また,昨年12月には仁和寺にも行って,実際に対局が行われた場所も見ることができました。
これもまた,それを見ようと思って行ったわけでもなかったのですが,なにか不思議な縁を感じました。

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【Summary】
After arriving at Akita Airport, I headed to the rental car counter and was shuttled to a nearby branch. I rented a car from Times and planned to return it at Akita Station on October 19. My first stop was Daisen City, formerly known as Omagari, famous for fireworks. I visited the Fireworks Heritage Museum, where I learned about the history and culture of fireworks, and also saw a photo of Ryuo Fujii Sota's visit.

高知空港に到着して,空港内のレンタカーカウンタに向かいました。秋田空港近くの営業所まで送迎があって,営業所で手続きを済ませました。今回は,Timesレンタカーを借りますが,10月17日に秋田空港で借りて,10月19日の午前秋田駅前で乗り捨てることになります。
来るまで,というよりも,この時点でも,どこを走るか決めかねていました。ただし,宿泊先だけは,1日目が乳頭温泉の麓,2日目が秋田駅前に予約してあったので,制約はありました。距離感がないので,どのくらいのところに行くことができるかわかりませんが,結局,地図で確かめて,反時計回りに1周することにしました。

まず向かうのは,秋田空港から南東へ,花火で有名な大曲と決めました。地図を見ても,大曲という地名がなかなかみつかりませんが,それは,2005年(平成17年)に周辺の町村と合併して,大曲市はなくなり,大仙市となったからです。秋田空港からしばらく走ると,まるでアメリカの田舎道をはしっているようなのどかな感じになりました。天気も幸いして,最高の気分でした。
時刻はちょうどお昼だったので,道の駅をみつけて,昼食をとりました。お昼だというのに,レストランは空いていました。のどかなところです。
c昼食を終えて,まず,大曲駅に着きました。駅前に大きな花火のモニュメントがありました。観光案内所があったので,地図をもらいました。大曲の見どころは,大曲駅から花火通り商店街を南に5分ほど走ったところにある花火伝統文化継承資料館ということでした。実は,私が行きたかったのは,それ以外に,確か,昨年の竜王戦が行われた古民家でした。聞いてみると,それは,旧本郷家住宅という場所で,今でも公開されているということでした。

まず,花火伝統文化継承資料館に着きました。建物の3階と4階が展示室でした。
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花火伝統文化継承資料館「はなび・アム」は,花火を知り,学び,体験できる施設として,2,018年(平成30年)にオープンしました。
花火の歴史や製造方法,鑑賞の仕方を学ぶことができる常設展示のほか,市民グループ「花火伝統文化継承プロジェクト」と協働で収集・保存している花火に関する資料を企画展示しています。
また,高精細な花火映像を4面マルチスクリーンに映写する「はなびシアター」,自分がデザインした花火をスクリーンで打ち上げ体験できる「はなび創作工房」,影絵作家・藤城清治氏の作品「大曲の花火」(レプリカ)など「花火のまち大仙市」でいつでも花火を体験できる施設です。
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ということで,大曲といえば花火だから,こうした施設がなくてはじまりません。
藤井聡太竜王名人が訪れたときの写真がありました。

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【Summary】
As I wrote before, on Saturday, October 19, 2024, I attended an NHK Symphony Orchestra concert in Tokyo. Since October is an ideal time for travel, I decided to visit Akita Prefecture, a place I had never fully explored. I flew from Chubu Centrair Airport to Akita, despite the inconvenience. Upon reflection, I realized it would have been more convenient to fly from Nagoya Airport to Hanamaki Airport via FDA.

すでに書いたように,2024年10月19日土曜日,東京渋谷のNHKホールでNHK交響楽団定期公演を聴きました。10月は1年で最も気候がよく,旅に最適な時期なので,これを利用して旅をすることにしました。このところ,青森県,岩手県,宮城県,山形県,福島県は旅をしたのですが,秋田県だけが抜けていました。これまでも,学生のころ,確か,田沢湖と角館だけは行ったことがあるような記憶なのですが,それ以外の場所は知りません。そこで,今回は,秋田県を旅することにしました。
私が秋田県に縁がなかったのは,行くのが不便だからでした。FDAも秋田空港へはアクセスしていません。調べてみると,県営名古屋空港ではなく,セントレア・中部国際空港からからオリエンタルエアブリッジ(ORIENTAL AIR BRIDGE CO., LTD=ORC)という航空会社が秋田空港へ午前9時25分と午後3時45分の1日2便運航していることがわかったので,これを利用することにしました。海外へ行くわけでもないのに,セントレアは遠く不便ですが仕方がありません。
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オリエンタルエアブリッジは長崎の航空会社で,長崎空港,福岡空港,中部国際空港を拠点とします。
全便がANAとのコードシェア便です。
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2024年10月17日木曜日。
ひさしぶりにセントレアに来ました。いい天気でした。なのに…
秋田空港が霧で着陸ができないかもしれない,という標示が出ました。どうなるか聞いてみると,そのときは戻ってくる,という話でした。その後は,再び出発するか,羽田空港へ行って,そこから行くか,状況次第と言われました。まあ,急ぐ旅でもないし,それはそれでいいや,と思いました。
私はこれまで,こんなことはいくらでも経験しています。
とはいえ,朝霧で着陸ができないのなら,私が秋田空港に到着するころには霧も晴れるから問題ないだろう,と思いました。朝霧は天気のよくなる証拠です。
また,午前9時25分発だったのですが,機材の到着が遅れたために,出発が10分遅れるということでした。
機材はカナダ製のプロベラ機DHC-8-Q400で,はじめて乗りました。満席でした。これまで,いろいろなプロペラ機に乗ったことがありますが,この機体は狭いなあ,と思いました。機体にはANAとあって,要するに,ANAウイングス機材を使って,ORCの乗務員が運行しているということでした。乗務員の感じはとてもよく,好印象をもちました。五島列島に運行しているということなので,将来乗ることもあるかもしれません。なお,私はこれまで数多くの航空会社の航空便を利用していますが,独断と偏見でいうと,LCCはピーチ航空と JetStar は,いくら安かろうと,たとえお金をもらっても乗りたくありません。

ともあれ,定刻より10分遅れて午前9時35分に離陸しました。飛行時間は1時間20分。プロペラ機だから遅いのです。遠くに富士山が見えました。1時間ほどすぎると,眼下に変わった形の山が見えました。山形県との県境にある鳥海山ということでした。
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鳥海山は、標高2,236メートルの活火山です。多くの噴火によって畏れられ,古くから山岳信仰の対象となり,中世後期以来,修験道の修行場となり,鳥海山大権現,本地は薬師如来として崇拝されました。
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心配は杞憂に終わり,朝霧も晴れて,無事,秋田空港に着陸。なまはげが迎えてくれました。

以前,おいしい山形空港からレンタカーで秋田県を旅してみたいと書きましたが,今回,セントレアから秋田空港まで利用してわかったことは,秋田県へ行くには,秋田空港へ行かずとも,県営名古屋空港からFDAで花巻空港へ行くほうがずっと便利だということでした。

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【Summary】
After visiting the Hamaoka Nuclear Power Museum, I headed west along Route 150 and thought of visiting Toyohashi General Botanical and Zoological Park (Nonhoi Park) in Aichi Prefecture. There was ample parking, and although the café at the observation tower was crowded, the spacious park was pleasant. The park's naturalistic exhibits were impressive, and I was delighted to see the orangutans. I felt I would like to visit again on a weekday morning.

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 浜岡原子力発電所のPR施設である浜岡原子力館を見学したあと,さて,どこに寄って帰宅しようかと考えました。この日はまだ暑かったのですが,さすがに真夏のようなことはありませんでした。
 私は静岡県の太平洋岸を走る国道150号線に沿って,西に進んでいます。このまま行くと,国道1号線バイパスに入ります。国道1号線バイパスは,以前走ったことがあるのですが,すばらしい眺めだったという印象があります。そして,そのまま行くと愛知県に入ります。そこで思い当たったのが,豊橋総合動植物公園(のんほいパーク)でした。ここもまた,今から30年くらい前に1度行ったことがありますが,いいところだなあ,という記憶があります。
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 1954年(昭和29年)に豊橋公園に豊橋動物園が開園し,1970年(昭和45年)に豊橋子供自然公園として現在の場所に移りました。そして,1992年(平成4年)に39.6 ヘクタール(約5ヘクタールがプロ野球のグランド程度)という広大な敷地内に整備されて,豊橋総合動植物公園(のんほいパーク)として開園しました。
 入園者数は,全国の公立動物園70園中で8位です。
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 駐車場は広く,容易に停めることができました。
 ちょうどお昼時だったので,どこかで食事でも,と,せっかくだから展望塔最上階の「ステラカフェ」に行ったのですが,満席で,20分程度待つ必要がありました。そもそも,この日は日曜日。こんな日に動物園に行くこと自体が悪手なのですが,園内は広く,レストランで待ち時間以外は特にストレスはありませんでした。
 豊橋総合動植物公園(のんほいパーク)のいいところは,動物の自然な姿や生息地の環境を身近に感じることができるように造られていて,アフリカのサバンナに生息する動物には,草木や岩,プールなどを用いて草原や水辺をリアルに再現した放飼場を,また,極寒の極地に生息する動物には,白夜を再現した年間を通して低温な展示室を設けていることで,これには,名古屋の東山動植物園はかないません。とはいえ,白浜のアドベンチャーワールドの規模に及びません。とはいえ,アドベンチャーワールドもまた,私が以前行ったことがある広さ800ヘクタールあるサンディエゴ動物園サファリパーク(The San Diego Zoo Safari Park)には到底及ぶものではありません。
 豊橋総合動植物公園(のんほいパーク)で最もよかったのは,私の推しであるオランウータンが2人いたことでした。これだけでも来た甲斐ががあったというものです。また,空いている平日に朝から来てみたいものだと思いました。

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【Summary】
I attended the NHK Symphony Orchestra's A Program on the first day in October 2024, conducted by 97-year-old Herbert Blomstedt. Despite his age, his profound musical leadership captivated the audience. On October 20, NHK BS broadcasted Blomstedt's remarkable performance of Bruckner's Symphony No. 9, which moved me deeply to tears.

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 今回私が聴いたのは,NHK交響楽団2024年10月のAプログラム1日目でした。もちろん満席でした。
 私の左隣は結構お歳を召された男性でした。少しお話をしたのですが,とても詳しくて,若いころは,楽器をやっていたようでした。
 やがて,開演時間になりました。いつもはじめにステージに姿を見せるのは,ファゴットの水谷上総さんとフルートの神田寛明さん。それに続いて,続々と入場するのですが,今回に限っては,第1ヴァイオリンのメンバーだけが入ってきません。それは,97歳の巨匠ブロムシュテットさんが,第1ヴァイオリンのメンバーより先に,この日のコンサートマスター川崎陽介さんの介添えでゆっくりゆっくりと入ってきたからです。すでにこの時点でものすごい拍手でした。この日は,その姿が見られるだけで,この会場に足を運んできた甲斐があったというものです。
 そして,それに続いて,第1ヴァイオリンのメンバーが入場しました。
 マエストロは,指揮台に上がるのもたいへんそうで,少し心配しました。この時点でもし転んでもしたら大変です。
 やがて,チューニングのあと,静かに曲がはじまりました。

 はじめはどうなるかと思ったのですが,マエストロは,手ぶりも指示もしっかりしていたし,やがて,そんなことも,また,マエストロが座っていることも忘れて,音楽にのめりこむことができました。不思議なもので,音楽は,それを指揮する人が偉大であればあるほど,単に音を奏でる以上の生命が宿るのです。
 途中の休憩をはさみ,プログラムの2曲がすべてが終了しました。
 マエストロが静かに指揮台から降りて,そのままステージから姿を消しました。
 いつものコンサートのようなカーテンコールはできないのです。しかし,川崎陽介さんの介添えで,2度ほどゆっくりとステージに登場したとき,場内は最高潮となりました。
 今回の「神が宿った」コンサートは,演奏について,何かをいうという次元を超えたもので,その時間をマエストロと同じ空間で共有できただけで,そのすべてが満ち足りたものになりました。
 来年の10月もまた,プログラムに名前があります。どうかお元気で,また,その姿を拝見できるのを楽しみにしています。

 ところで,翌10月20日の深夜,NHKBSで
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 2度の怪我からの復帰を果たし,依然として音楽に対して真摯な情熱を傾ける現役最長老指揮者のヘルベルト・ブロムシュテット(Herbert Blomstedt)が,2024年7月11日に97歳の誕生日を迎え,オルガン奏者だったブルックナー所縁の聖フローリアン修道院付属教会で,バンベルク交響楽団を指揮してブルックナーの交響曲第9番を演奏しました。
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という番組が放送されました。
 まるで神が乗り移ったかのようなそのすばらしい演奏に,私は泣けて泣けて仕方がありませんでした。


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【Summary】
I attended the 2020th NHK Symphony Orchestra concert on October 19, 2024, conducted by 97-year-old Herbert Blomstedt. The program featured Honegger's Symphony No. 3 "Liturgique" and Brahms' Symphony No. 4. Honegger's work, composed after World War II, explores themes of suffering, faith, and hope, while Brahms’ 4th symphony shares a similar message of finding joy in hardship, reflecting Blomstedt's deep faith. This concert was a profound experience of prayer through music.

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  2024年10月19日,第2020回NHK交響楽団定期公演Aプログラムを聴きました。
 曲目は,オネゲル(Arthur Honegger)の交響曲第3番「典礼風」 (Symphonie Liturgique) とブラームスの交響曲第4番でした。このプログラムは,コロナ禍で中止となった2020年10月に行われるはずだった1950回定期公演Bプログラムと同じものです。
 ということですが,今回の演奏会は,指揮者が97歳となったヘルベルト・ブロムシュテットさんである,ということだけでも,歴史的なものでした。ヘルベルト・ブロムシュテットさんは,一昨年来日されたときは,マーラーの交響曲第9番などを指揮し,私はそれを聴いたのですが,昨年は,体調不良からドクターストップがかかって来日できなかったので,今年の来日も不安視されていました。しかし,元気な姿を見せました。
 とはいえ,一昨年に比べたら,やはり,2年の月日は大きくて,歩くのがやっと。指揮台に上るのもたいへん,という状態でした。しかし,「存在そのものが放つオーラでオーケストラをまとめ,唯一無二の演奏を生み出す」巨匠ヘルベルト・ブロムシュテットさんの指揮する演奏会に立ち会える,というだけでも,貴重な体験となりました。

 交響曲を5曲作曲したオネゲルは,1892年に生まれ,1955年に亡くなったスイスとフランスの二重国籍をもち,主にフランスで活躍した作曲家です。
 父はコーヒーの輸入商社の支配人を務めていた人物で,母と同じく音楽愛好家でした。教会のオルガニストを経て,チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団(Tonhalle Orchester Zürich)の創設者フリードリヒ・ヘーガー(Friedrich Hegar)に勧められて作曲家を志しました。
 交響曲第3番「典礼風」は,プロ・ヘルヴェティア財団からの委嘱を受け,第2次世界大戦が終結した1945年から1946年にかけて作曲されました。「典礼風」は交響曲の宗教的な性格を表すために命名されたもので,3つの楽章には,死者のためのミサ(レクイエム)と詩篇の中から取られた句がタイトルとしてつけられています。
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●第1楽章「怒りの日」(Dies irae )
 神の怒りに直面した人間の恐れを表す楽章で,オーケストラは「全てを一掃する絶対的な激怒した竜巻」「力の爆発と全てを破壊する憎悪」を表現しています。
●第2楽章「深き淵より」(De profundis clamavi )
 神に見捨てられた人々の苦しみの瞑想,祈りを表現する,霊感に満ちた深遠なアダージョ楽章です。終結部分で「鳥の主題」がフルートの装飾的なソロに変容し,悲劇の中にあって平和への約束を象徴するオリーブの枝をくわえた鳩です。
●第3楽章「我らに平和を」(Dona nobis pacem )
 文明がもたらした「集団的な愚かさの台頭」と「隷属への人の絶え間ない進行のさま」を表しています。バスクラリネットによる「馬鹿げた主題」の行進は進み,ホルンの主題「被害者の反抗意識と暴動」,半音階で下降する木管楽器の動機,弦楽器によるエスプレッシーヴォの主題などが加わって次第に盛り上がり,不協和音によるクライマックスに至ります。これが静まると,人類の平和への願いを表す主題が奏でられ,「鳥の主題」を回想し静かに曲を閉じます。
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 ChatGPTはつぎのように説明します。
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 オネゲルの交響曲第3番「典礼風」は,第2次世界大戦後の荒廃と人間の苦しみを反映しつつ,最終的には平和と希望への祈りを表現しています。
 この作品は,戦争による破壊や人間の恐れ,そして苦悩を描きながらも,そこからの再生や癒し,平和への希求というメッセージを人類に伝えようとしています。
 第1楽章「怒りの日」は,神の怒りと戦争の恐怖を象徴し,人類の罪や破壊の衝動に向き合う姿を描きます。第2楽章「深き淵より」は,苦しみと祈りの中で救いを求める人々の姿を静かに表現しつつm悲劇の中にも希望があることを示唆します。第3楽章「我らに平和を」では,暴力と愚かさの中にあっても,人間の平和への願いが強く描かれ,最終的には静かな祈りとして曲を閉じます。
 オネゲルは,戦争の悲劇を経て,絶望の中でも平和と希望を見出そうとする強いメッセージをこの交響曲に込めており,特に,人類が戦争の教訓から学び,平和を追求する必要性を強調しています。
  ・・・・・・
 オネゲルの交響曲第3番「典礼風」ははじめて聴きましたが,まだ聴きこんでいない私にはそのよさがわかったとはいい難いものでした。ブロムシュテットさんもあまり指揮を経験した曲ではないようで,スコアをめくるのが精いっぱい,という感じを受けました。

 それに続くのが,私の大好きなブラームスの交響曲第4番でした。私はこれで救われました。
 ブロムシュテットさんも暗譜で,オネゲルの交響曲第3番「典礼風」とは打って変わって,大きく両腕を振り上げたり,細かな指示を出したり,座っているのを忘れるほどの熱演でした。
 第4楽章パッサカリアの主題の元になったコラールの歌詞は「苦難に満ちた私の日々を,神は喜びに変えてくださる」というもので,ここに,オネゲル作品との共通性があって「それこそが揺るぎない信仰とともに生きるブロムシュテットのメッセージを表している」とプログラムの解説にありました。
 今回は祈りの演奏会でした。

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【Summary】
On October 5, 2024, I rode the Thomas train in the morning, visited the Toro Ruins and Kunozan Toshogu Shrine in the afternoon, and stayed at Toyoko Inn after dinner in Fujieda. The next day, I traveled through Omaezaki for the first time, enjoying scenic views, including Mt. Fuji and the Pacific Ocean from the lighthouse. I visited Sakuragaike, a mysterious lake tied to local legends. Lastly, I toured Hamaoka Nuclear Power Plant, which has been shut down since 2011 due to seismic safety concerns.

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 2024年10月5日,午前は機関車トーマス号に乗車し,午後はまず登呂遺跡に行き,次に久能山東照宮へ行ったあと,藤枝駅前へ向かう途中で,きれいでおいしそうなおそば屋さんがあったのでそこで夕食をとったあと,東横インに宿泊しました。
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 さて,次の日。これまで行ったことがない御前崎を通りながら帰宅することにしました。
 静岡県。私は東海道線に沿った場所は多く行ったのですが,それ以外のところはなかなか行く機会がありませんでした。そのうち,天竜川や大井川に沿った山側は,このごろ行く機会があったのですが,南側,御前崎のあたりは,まったく行ったことがなく,どういうところなのだろうと気になっていました。そこで,今回行ってみることにしたのです。
 ちなみに,伊豆半島は,まだほとんどの場所を知らないので,そのうち行ってみようと思っています。

 藤枝市からずっと南に走っていくと御前崎に着きました。この日はとても天気がよく,すばらしい景色でした。遠くに富士山も見えたし,御前崎には灯台があって,そこからの太平洋を眺めると,地球の丸さを実感できました。
 その後,海岸に沿って走っていくと,浜岡原子力発電所があります。その途中に,桜ヶ池という場所があったので,寄ってみました。突然,すばらしい風景が現れました。
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 30代敏達天皇13年(584年)に瀬織津比詳命が出現し,池宮神社が創建されました。
 平安時代はじめに衰退しましたが,一条天皇の1001年(長保3年)に源朝臣信栄が再興し,やがて徳川家の崇敬を受けました。
 池宮神社のある 桜ヶ池は,約2万年前にできた砂丘堰止湖で,面積はおよそ2万平方メートルあります。平安末期の1169年6月13日,比叡山の皇円阿闍利が,56億7,000万年後に現れるという弥勒菩薩に教えを乞うと言い残して,桜ヶ池に入水し,竜神となりました。それ以降,秋の彼岸の中日に赤飯を詰めたお櫃を池に沈めて竜神に供える奇祭「お櫃納め」(おひつおさめ)が行われています。
 「お櫃納め」が行われた数日後,空になったお櫃が浮いてくるといわれ,これが遠州七不思議のひとつになっているそうです。また, 桜ヶ池に沈めたお櫃が諏訪湖に浮いたことがあるとされ,諏訪湖と地底でつながっているといういい伝えもあります。
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 このような不思議な場所を知るのも,予定を立てずに旅をしている楽しみです。

 そこから少し行くと,中部電力の浜岡原子力発電所がありました。名前は以前から知っていて,地図だけで見ると,人里離れたところのように思えたのですが,実際はまったく異なっていて,街中で驚きました。  
 2024年7月4日から7月7日まで3泊4日で行った青森県の下北半島に東通(ひがしどおり)原子力発電所とPR施設「トントゥビレッジ」がありましたが,浜岡原子力発電所にも,同じように浜岡原子力館があったので,見学しました。
 浜岡原子力発電所は中部電力唯一の原子力発電所で,1号機から5号機まで発電設備がありますが,1号機と2号機は,2009年に運転を終了しました。
 東海地震の予想震源域である御前崎にあり,活断層が直下にあるという仮説まで発表されていることで,耐震性の不足が懸念されています。2011年の東北地方太平洋沖地震以降,運転再開が見送られています。

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【Summary】
I visited Kunozan Toshogu, where Tokugawa Ieyasu was buried after his death in 1616. Unlike Nikko Toshogu, it is located on the southern slope of Mount Kuno, requiring a steep 1,159-step climb. The main attraction was the sacred pagoda, which felt more imposing than the one in Nikko. I sensed a spiritual presence, believing Ieyasu’s remains were truly here.

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 2024年5月14日に日光東照宮へ行きました。
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 徳川家康の遺言によって,1周忌に2代将軍徳川秀忠によって造営されたのが日光東照宮の奥宮にある宝塔です。徳川家康の遺骸はこの中に葬られているとされます。
 通説では,久能山から運ばれてきた家康の霊柩が日光に到着したとあり,徳川家康の遺体はこの地にあるとされます。しかし,それ以前,久能山に葬られた徳川家康の遺体は今も久能山にあり,日光には神霊だけが遷し祀られたはず,という説があります。
 ならば,私は,まだ行ったことがない久能山東照宮にも行ってみたい,と思ったことでした。
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と書いたように,久能山東照宮へやって来ました。

 私は,どんなところか想像もできなかったのですが,おそらく,静岡市に近くの山の中だと思っていました。しかし,違いました。駿河湾沿いに走る国道150号線に,久能山東照宮の参道はありました。
有料駐車場に車を停めました。駿河湾に面した久能山の南斜面に設けられた1,159段の曲がりくねった石段を登った上に神社があるので,海抜0メートルから216メートルも上ることになるのでした。日光東照宮よりたいへんだなあ,と思いました。
 やっと目的の久能山東照宮に着きました。
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 久能山は,推古天皇のころ,秦氏の末柄にあたる秦久能忠仁が久能寺を建立しました。
 1568年(永禄11年)駿河侵攻で駿府を制した武田信玄は,この要害の地に久能城を築きましたが,武田氏滅亡とともに久能城は徳川家康のその支配下に入りました。晩年を駿府で過ごした徳川家康は1616年(元和2年)に死去し,久能山東照宮に埋葬されました。 江戸時代には20年に1度,明治時代以降は50年に1度,社殿など諸建造物の漆塗り替えが行われています。
  ・・・・・・
 私が見たかったのは,ここにある宝塔でした。宝塔は,久能山東照宮の裏手にありました。
 久能山東照宮にある徳川家康の宝塔は,日光東照宮の徳川家康の宝塔より威厳が感じられました。私は,ここに徳川家康の遺体はここにあるのだろうという,何か,霊気を感じました。

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【Summary】
The Toro Site, discovered during WWII near Shizuoka, is a significant Yayoi-era archaeological site, known for being the first to reveal ancient rice paddies in Japan. Unlike other Yayoi sites like Yoshinogari, Toro shows no signs of conflict, suggesting it was a peaceful village. A museum there offers exhibits and hands-on experiences of Yayoi life, with restored dwellings and rice fields. Though home to only 30-40 people and buried by flooding, the site is well-preserved today.

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 私が子供のころ,小学校でに習った古代史は,縄文時代の遺跡はほとんど残っておらず,弥生時代は登呂遺跡一択でした。そこで,「弥生時代=登呂遺跡」という知識が刻まれました。
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 登呂遺跡は,第2次世界大戦中に発見された弥生時代の遺跡です,当時,日本ではじめて弥生時代の水田跡が見つかったことで,日本の稲作文化を証明させた遺跡として評価されました。
 しかし,その後,弥生時代最大の遺跡である吉野ケ里遺跡が発掘されて研究が進んだことで,登呂遺跡が教科書に載ることのほどんどなくなり,現在の子供たちは,登呂遺跡という名前すら知らないことが多くなりました。
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 そんな登呂遺跡,これまで行ったことがなかったことと,現在どうなっているのかな,という興味とで,機関車トーマス号に乗ったあと,行ってみることにしました。

 場所は,静岡市の近くでした。 
 広い有料の駐車場がありました。単なる公園なのかな,と思っていたのですが,さにあらず。整備された場所は,現在もきちんと保存されていて,博物館もありました。また,ちょうど,秋祭りが行わていて,とても多くの人でにぎわっていました。
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 登呂博物館は登呂遺跡の中にある遺跡と一体化した博物館で,登呂遺跡から出土した遺物の展示だけでなく,弥生時代の生活が感じられる体験学習も行っています。
 登呂遺跡は弥生時代を代表する遺跡のひとつで,跡内には博物館の外に住居などの建物と水田が復元されているので,博物館での展示,体験と遺跡の3つの方向から弥生時代を存分に体験することができます。
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 ということでした。

 はじめに登呂博物館に行きました。学芸員の人から詳しい説明を聞きました。
 登呂遺跡はわずか30人から40人程度が住んでいたところで,生活を営む最小単位だったようです。また,ここに住居していた期間はそれほど長いものではなく,大井川の洪水で埋まってしまったそうです。逆に,埋まってしまったからこそ,当時使われていたものがそのままの形で現存できたともいえます。
 私は,今から10年ほど前,吉野ケ里遺跡に行ったことがあります。そのときに思ったのは,階級社会とともに,戦うムラでした。平和だった縄文時代がすぎ,貧富の格差ができて,戦いの繰り返しだった弥生時代。こんなところに住みたいとは思いませんでした。
 そこで聞いてみました。私がとても興味深く思ったのは,登呂遺跡には,戦いの跡がまったくない,ということでした。平和なムラだったようです。ただし,登呂遺跡には,墓が見つかっていない,ということでした。
 また,当時の住居を再現したところには,古代米を植えた田んぼもありました。こうした住居を維持するのはたいへんだろうな,と思いました。

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Supermoon, Hunter's Moon 2024.

写真は,秋田県,乳頭山の麓に沈む2024年10月17日の満月です。
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【Summary】
Due to damage from Typhoon No. 15 in September 2022, the Oigawa Railway line between Kawane Onsen-Sasamado and Senzu Stations remains closed. The Thomas the Tank Engine train now runs from Shin-Kanaya to Kawane Onsen-Sasamado, returning with the engine at the rear. Scenic views include tea fields and Kawane Onsen. After a stop at the station and some sightseeing, the train returns to Shin-Kanaya, where visitors can enjoy the Thomas Fair, including a turntable show.

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 大井川鐡道は,2022年9月の台風15号による被害で,大井川本線の川根温泉笹間渡駅と千頭駅の間が現在も不通となっています。そこで,機関車トーマス号も,以前は千頭駅まで走っていたものが,行くことができなくなったので,現在は,新金谷駅から川根温泉笹間渡駅まで行って,そこで新金谷駅まで引き返すようになっています。機関車を回転させることができないために,復路は最後尾だったところに機関車を接続して走り,機関車トーマス号は後ろ向きに引っ張られるというお間抜けな状態です。
 川根温泉笹間渡駅への途中の景色は,茶畑でした。ここは川根茶として有名なところです。
 家山駅を過ぎると,窓から川根温泉が見えてきました。川根温泉の露天風呂から機関車トーマス号やSL列車が走っている姿を見ることができるということで知られているのですが,反対に,列車の中からも露天風呂が丸見え,ということになります。
 やがて,川根温泉笹間渡駅に着きました。ここで列車は逆向きに走ることになるので,その準備のためにしばらく停車します。乗客はホームに降りることができないのですが,駅のホームでは,売り子が「SL黒アイス」の販売をしていました。私も買って食べました。

 しばらくすると列車が出発して,家山駅に到着しました。ここで降りることもできるのですが,降りて寸又峡温泉にでも行くのならともかく,そうでなければ,降りてもすることがなくて困るので,ほとんどの人はそのまま乗っていました。この駅から乗り込む人もいましたが,どこから来たのだろう?
 家山駅を出発しました。あとは,戻るだけ。今度は機関車が引っ張るので,行きよりもはやい速度で走りました。そして,午前11時9分,新金谷駅に到着しました。
 新金谷駅の構内では,きかんしゃトーマスフェアというものをやっていて,子供用の乗り物などが走っていました。ここのウリは転車台で,今走って来た機関車トーマス号が客車を切り離し,午前11時25分から転車台に乗って1周します。180度向きを変えるわけではなく,360度回るから,これは単なるアトラクションなのですが,見ていて楽しいものでした。そもそも,転車台が現役であることもほとんどありません。

 機関車トーマス号が転車台を1周するのを見たあとは,新金谷駅の駅舎の中にあった売店で昼食を買って,ベンチに座って食べました。こうして,この日の午前中,童心に帰って,楽しい時間を過ごしました。
 なお,機関車トーマス号の走っている姿を撮影したいなら,私のように機関車トーマス号に乗車しなくても,大井川鐡道沿線で動画を写すほうがいいのかな,と思ったりもしましたが,それでは,大井川鐡道はもうかりません。私は子供たちに,いや,大人にも夢を与えてくれる大井川鐡道を応援したいです。そして,全線の復旧を待ち焦がれています。

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【Summary】
I took the 9:30 Thomas the Tank Engine train from Shin-Kanaya Station and returned there after the ride. The first train, 9:30, had plenty of empty seats, but the second one, 12:34,  was fully booked, requiring reservations. The train had Thomas-themed decorations, adding to the charm. During the ride, I enjoyed nostalgic steam engine sounds and spotted Bertie the Bus running alongside. I bought "Thomas dorayaki" on board, and the large portion of red bean paste made me full after just one piece.

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 機関車トーマス号は,主に週末に運行されます。運転時間は
  ・・・・・・
 【1便目】新金谷駅9:30発→川根温泉笹間渡駅→家山駅10:36着/10:41発→新金谷駅11:09着
 【2便目】新金谷駅12:34発→川根温泉笹間渡駅→家山駅13:29着/13:34発→新金谷駅14:02着
  ・・・・・・
となっていて,家山駅で下車することも,家山駅から乗車することも,そのまま乗り続けることもできます。
 私は,新金谷駅9:30発に乗車して,そのまま,新金谷駅まで戻ってくることにしました。
 また,前回私が乗ったSL列車も週末に運行していて,こちらは,新金谷駅10:05発→家山駅10:33着や,家山駅11:10発→新金谷駅11:37着などがあります。つまり,機関車トーマス号から少し遅れて出発するので,そちら目当ての人も駅に多くいて,その結果,機関車トーマス号のお見送りが盛大になっていたのです。

 機関車トーマス号が車庫から出てきて,客車と連結して,ホームに入りました。私も乗り込みました。さすがに【1便目】は朝が早いので,空席がけっこうあったので,予約なしでも当日乗ることができようでしたが,さすがに【2便目】は満席だったので,事前の予約が必須でした。客車に乗り込んでしまえば,機関車がなんであれ同じなのですが,座席に機関車「トーマス」のカバーがかけられていたり,天井には飾りがあったりで,なかなかのものでした。
 やがて,機関車トーマス号が出発しました。走っているときの汽笛やら動作音やらが,旅情を増してくれます。子供のころ,実際に運行していたSLに乗ったことがあるのですが,それを思い出して,懐かしくなりました。新幹線もいいですが,こういうのもまたすてきです。

 窓から外を見ると,バスのバーティが並走して走っていました。これに乗るには,行きが機関車トーマス号,帰りがバスのバーティというお弁当つきのツアーがあって,それを利用する必要があります。
 やがて,車内限定のグッズを売りにやってきたので,トーマスどら焼きなるものを購入しました。中には3個のどら焼きが入っていたのですが,そのあんこの巨大なことといったら! 私は1個食べて,おなかが一杯になってしまいました。

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【Summary】
I observed the Comet Tsuchinshan-ATLAS (C/2023A3) on October 14, 2024, capturing its long tail with a 70mm lens. Despite some clouds, the comet was visible near Venus and Arcturus. They reflected on the difficulty of spotting comets, particularly for young people, due to the rarity of clear skies during significant comet events like Comet NEOWISE (C/2020F3)in 2020. I writer also noted the traditional beauty of the Thirteenth Night (October 15) Moon, though its brightness may make the Comet harder to see in coming days.

☆☆☆☆☆☆
 それにしても,紫金山・アトラス彗星(C/2023A3 Tsuchinshan-ATLAS)はいい時期に現れたものです。いくらすばらしい彗星といえども,天気が悪くては見ることができません。
 2024年10月14日。西の空低く雲があって,さすがに今日は,と思っていたのですが, 夕方になって,雲が切れてきました。昨日よりも高度が高くなるので,晴れていさえすれば,肉眼でも容易に見ることができるだろうと思いました。私のiPhone14手持ちでも簡単に写る大彗星なので,視野の広いものはiPhone14にお任せして,この日は,昨日よりも焦点距離を短く70ミリで写して,長~い尾を収めることにしました。

 10月14日に彗星の見える場所は,金星とうしかい座の1等星アークトゥルスの真ん中なので,見つけることはとても容易でした。昨日よりは少し空の状態が悪かったのですが,それでも,午後5時50分ごろには肉眼でも見えるようになり,思った通り,写真では長く尾を引いた姿を捉えることができました。
 とはいえ,慣れていないとなかなか難しいものです。流星群もそうですが,報道では「〇〇が見られる」と簡単に見ることができるかのように書いていますが,太陽や月が「見られる」のとは次元が違います。
 若い人の中には,はじめて肉眼で彗星を見た,という人も少なくはないようです。というのは,2020年7月に現れたネオワイズ彗星 (C/2020F3 NEOWISE)は,とても明るかったのですが,1週間ほどしか見ることができず,しかも,日本列島は沖縄と北海道を除いて連日天気も悪く,さらには,コロナ禍だったということもあって,見た人は非常に少なかったのです。
 そこで,彗星がどのように見えるか,という経験がないので,せっかく視野に入っていてもわからなかったり探せなかったりします。やはり,指導者が必要なのでしょう。せっかく天文ファンを増やすいい機会だというのに…。流星群もそうですが,一般のマスコミは自分で見てもいないのに記事を書くものだから,とてもいい加減なのです。
 とはいえ,今回の紫金山・アトラス彗星,肉眼では確認できなくても,スマートフォンを向けると,液晶画面で確認ができるのには驚きました。
 この日もまた,私は,彗星が地平線に隠れるまで見送りました。

 ところで,今日10月15日は十三夜。
 十三夜は,旧暦の13日の夜,主に旧暦9月13日の夜を指し,月見をする風習があります。
 中秋の名月である十五夜の後に巡ってくるので「後の月」, 栗や豆の収穫祝いを兼ねているので「豆名月」「栗名月」,また,中秋の名月とあわせて「二夜の月」(ふたよのつき)ともいいます。
 満月より少し欠けた十三夜の月が美しいというのは,極めて日本的な美意識だと思います。
 平安時代に書かれた「躬恒集」(みつねしゅう)の,旧暦・919年(延喜19年)9月13日に醍醐天皇が月見の宴を催し詩歌を楽しんだというのが十三夜の月見のはじまりといわれています。
 十五夜と十三夜のどちらか一方しか月見をしないことを「片見月」「方月見」といい,縁起が悪いとされています。さらに,旧暦の10月10日の十日夜(とおかんや)とあわせ,3日間月見ができると縁起がよいともいわれています。
  ・・
 十三夜の月は風流ですが,この先,月は満月に向けて明るくなっていくので,月明かりのために,彗星は見づらくなっていくかもしれません。

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「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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【Summary】
On October 13, 2024, I successfully photographed the Comet Tsuchinshan-ATLAS(C/2023A3). At first, it wasn’t visible to the naked eye, but later, it became clear through binoculars and even visible to the naked eye, exciting me. This reminded me of the Comet Hale-Bopp(C/1995O1) in 1997, which was similarly impressive. The sky sometimes gives us incredible gifts.

☆☆☆☆☆☆
 昨日2024年10月12日,何とか写った紫金山・アトラス彗星(C/2023A3 Tsuchinshan-ATLAS)でした。翌10月13日は,昨日より高度が高くなり,昨日の撮影でどこに見えるのかという位置もはっきりとわかったので,ちょっと期待をもって,撮影に向かいました。
 とはいえ,どのくらいのものが見られるのかは見てみないことにはわかりませんでした。
 午後5時40分過ぎ,まだ双眼鏡でも見ることができない薄明のころに,すでに写真には捕えることができました。そして,午後6時過ぎ,次第に空が暗くなると,双眼鏡でも見えるようになり,カメラの液晶画面にもはっきりと彗星の像を見ることができるようになったので,撮影は楽でした。
 そして,彗星のいる位置を眺めていたら…。ついに,肉眼でもはっきりと見ることができるようになりました。これには興奮しました。おそらく,もっと条件のよい場所なら,よりすばらしい姿を見ることができたことでしょう。
 おふざけでスマホを取り出して,金星とうしかい座の1等星アークトゥルスが入るように手持ちで写してみると,それがまあ,ちゃんと写っているではないですか。すごい時代になったものです。

 午後6時20分を過ると,彗星は次第に高度を下げていったのですが,その核が沈むまで,肉眼ではっきりと見ることができました。さらに,核が沈んで見えなくなっても,尾だけが見られるという,とんでもない状態となりました。
  ・・
 ここで思い出したのが,今から27年ほど前の1997年春のことでした。
 明け方の東の空にヘール・ボップ彗星(C/1995O1 Comet Hale-Bopp)が見られるということで,空の暗い山に向かいました。そして目撃したのが,まだ核が昇っていないのにもかかわらず,尾だけが地平線からたなびくように見られた彗星の姿でした。やがて核が姿を現すと,何と,空がわずかに明るくなったのです。これには驚き,また,感動しました。
  ・・・・・・
 ヘール・ボップ彗星は1997年ごろに明るくなった大彗星です。
 近日点通過後には見かけの等級は-1等星にもなって,地球との位置関係がよかったために,肉眼で18か月も見ることができました。これは「1811年の大彗星」(The Great Comet of 1811= C/1811F1)の8か月を大幅に上回ったので,ヘール・ボップ彗星は「1997年の大彗星」(The Great Comet of 1997)といわれます。私が見た彗星の中でも最大のものでした。
  ・・・・・・
 ときどき,空は,予想もできないすばらしい贈り物をくれるようです。

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【Summary】
From October 11, Comet Tsuchinshan-ATLAS (C/2023 A3) became visible in the evening sky after sunset. While it was initially too close to the horizon and the sun to observe, it gradually rose higher. On October 12, after photographing near Venus as a guide, I successfully captured the comet with its tail. I now plan to take more photos in the coming days, hoping for clear skies.

☆☆☆☆☆☆
 以前,紫金山・アトラス彗星(C/2023A3 Tsuchinshan-ATLAS)について
  ・・・・・・
●10月11日ごろから
 彗星は日没後の夕方の西の空に,非常に明るい状態で見えるようになります。はじめは地平線ぎりぎり,次第に高度を上げてかみのけ座からうしかい座へ動いていき,ずっと見ることができるようになりますが,光度は下がり,暗くなっていきます。
  ・・・・・・
と書いたように,夕方の西の空に昇ってくるようになりました。
 どのくらい明るくなっているか,とても楽しみでした。10月11日ごろはまだ太陽に近いので,空が明るいうちに沈んでしまいます。いつから見ることができるのか,それもまた,楽しみでした。
 空の暗い北海道などへ遠征すれば,もっとすばらしい写真が写せるのでしょうが,今の私にはそんな気力もなくなってしまったので,できるだけ家の近くで,西の空が開け,かつ,暗い場所を探しました。で,何とかそんな場所を見つけたので,そこで写真を撮ることにしました。

 このところ,これまでの天気がウソのような晴れ渡った秋の空になりました。
 10月11日は写りませんでした。
 そして,10月12日。
 この日もまた,金星を手掛かりに彗星がいると思われる場所を狙って,写真を撮ることにしました。まだ双眼鏡でも確認できるような空の暗さでないので,彗星の位置もわかりません。そこで,金星と地上の風景を手掛かりにどの位置にいるかを,焦点距離35ミリのレンズで写して確かめてみました。それが今日の2番目の写真です。写真の左端に金星が写っていますが,APS-Cサイズの場合,焦点距離35ミリレンズの画角では,こうして金星を入れると右下の位置に彗星がいるのです。
 ただし,この空の明るさだと,彗星は,広角レンズでは写りません。
 おおよその位置がわかったので,焦点距離100ミリのレンズに変えて,位置を特定した場所に向けて,写しました。そして,立派な尾がある彗星を写すことができました。
  ・・
 これで,彗星がどこにいるか,どのくらいで写るかがわかりました。
 今日10月13日は,金星と同じ高度まで上がってきます。おそらく,この日よりも明確になると思うので,今度は,もう少し工夫して写真を写したいと思います。これからも晴れの日が続くといいのですが…。

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【Summary】
Arriving at Shin-Kanaya Station to ride the Thomas the Tank Engine train, I had time before the ticket office opened, so I wandered around and realized I had visited the area eight years ago. In 2016, after attending a concert in Tokyo, I walked from Shimada Station to Kanaya Station. Now, I find the peaceful atmosphere of this place truly relaxing, despite once thinking there was nothing here. This October has been unusually hot, and the spider lilies are just blooming, offering beautiful scenery that leaves me feeling fulfilled even before boarding the train.

######
 機関車トーマス号に乗ろうと,新金谷駅に着きましたが,予約したチケットを受け取る新金谷駅前のPLAZA LOCOが開く午前8時30分には,まだ1時間以上時間があったので,付近を散策することにしました。
 歩いてみると,このあたり,一度来たことがある,と思い当たりました。それは,もう8年前のことになります。
  ・・・・・・
 2016年12月25日,「N響第九」のチケットを買ったので行くことになった東京でした。演奏会のあと,私はJRの東海道在来線に乗って,沼津駅で降りました。そして,その翌日は,富士山がきれいに見られるよい天気であり,寒くなく絶好の散歩日和だったので,島田駅で降りて,大井川を渡り,次の金谷駅まで歩いたのです。
  ・・・・・・
 そのときの場所でした。

 それにしても,当時は,金谷宿付近には何もないなあ,ということしか思わなかったのですが,その後,大井川鐡道に乗るためにこの地に何度も足を運ぶことになるとは,夢にも思いませんでした。
 大井川鐡道の新金谷駅は,私が歩いた旧東海道の,ほんの近くだったのですが,当時は,そんな場所だとはまったく知りませんでした。
  ・・・・・・
 金谷宿は,東海道五十三次の24番目の宿場でした。
 大井川の右岸(右岸は上流から下流を見たときの方向でこの場合は京都側にあたります)にあり,牧之原台地が迫る狭隘な場所ですが,増水で川止めとなって,大井川の川越が禁止されると,江戸へ下る旅客が足止めされ,次の島田宿と同様,江戸のような賑わいをみせました。
  ・・・・・・
 あれから,ずいぶんいろいろな場所に旅をして,その結果,こうしたのどかなところが,最もこころ休まる場所だ,ということを実感するようになりました。
 2024年の今年は異常に暑く,もう10月も中旬になろうというころに,やっと曼殊沙華が咲くようになりました。美しい景色でした。これから今回の目的である機関車トーマス号に乗ろうというのに,すでに,すっかり満足してしまいました。

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【Summary】
On October 5, 2024, I finally fulfilled my dream of riding the Thomas the Tank Engine train on the Oigawa Railway. I had previously ridden the SL train from Shin-Kanaya to Ieyama in May, but due to rain, I couldn’t visit Oku-Oi Kojo Station as planned. This time, I drove to Shin-Kanaya, boarded the Thomas train to Kawane Onsen, and stayed in Fujieda overnight for sightseeing in Shizuoka.

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 2024年10月5日,ついに念願だった大井川鐡道の機関車トーマス号に乗ることができました。
  ・・ 
 大井川鐡道のSL列車に乗りたいとずっと思っていました。そこで,2024年5月27日から5月28日に1泊2日で,1日目は大井川鐡道・大井川本線の新金谷駅から家山駅までSL列車に乗り,家山駅から千頭駅までは現在不通になっているので,町営バスで行き,寸又峡温泉で1泊して,2日目は大井川鐡道・井川線の千頭駅から奥大井湖上駅まで,途中,アプト式ラックレール対応補機にひかれた列車に乗って,これもまた,念願だった奥大井湖上駅を眺めようと計画しました。
 1日目はさほど天気も悪くなく,予定通りにSL列車に乗ることができました。また,寸又峡温泉にも宿泊できたのですが,2日目は,あいにくの豪雨で予定を変更して,早々に帰ることにしたので,奥大井湖上駅には行くことができませんでした。
 そこで,1週間後の6月3日,天気が回復したので,今度は,奥大井湖上駅を目指して,千頭駅まで車で行き,アプト式ラックレール対応補機を連結した列車に乗り,奥大井湖上駅を眺めるとができました。
 これらのことはすでに書きました。
 私はこれで大井川鐡道は卒業するつもりだったのですが,なぜかそのあと,SL列車とともに新金谷駅から走る機関車トーマス号に乗りたくなってしまったのです。
 現在もまだ,大井川鐡道は,家山駅の次の川根温泉駅以降が不通です。そこで,機関車トーマス号は新金谷駅と川根温泉駅間を往復運転をしています。運行日は主に週末の土曜日と日曜日です。
 しかし,どのくらい混雑しているのかがわからず,おそらく混雑していないだろう,ということと,この時期なら暑くないだろう,というふたつの理由から10月5日に行くことにしました。そして,せっかく行くのだから,機関車トーマス号に乗った後は,静岡市あたりで1泊して,これまで行ったことがなかった久能山東照宮,登呂遺跡,御前崎あたりも観光することにしました。
 機関車トーマス号は往復運転なので,新金谷駅に車を停めれば大丈夫だから,自宅から新金谷駅までは車で行くことにしました。次に宿泊先を探したのですが,混雑する静岡市よりも少し離れたところのほうがよいだろうと,藤枝市の駅前にあった東横インを予約しました。

 さて,当日10月5日です。
 自宅から新金谷駅までは,新東名高速道路経由で約2時間なので,午前5時30分すぎに家を出ました。私は,午前9時30分発の機関車トーマス号を予約したので,十分に時間がありますが,新金谷駅前の駐車場がどうなっているのかわからなかったし,早く到着しても,付近を散策すればいいと思ったので,早めに出ることにしたのです。
 道路は混雑することもなく,順調に新金谷駅に到着しました。
 駐車場は,駅前にコインパーキングがありました。また,駅前のコインパーキングが満車のときは,新金谷駅構内のきかんしゃトーマスフェアが行われている会場に広い駐車場があったので,車を停めるスペースには問題はありませんでした。私が着いたときはまだ誰もいなかったので,コインパーキングに容易に車を停めることができました。駐車料金は上限1,000円でした。また,実は,少し離れたところに,1日300円という民間の駐車場も存在しました。
 予約したチケットは,新金谷駅前のPLAZA LOCOで入手するということで,これは,前回SLに乗ったときと同じです。PLAZA LOCOは午前8時30分に開館するということだったので,それまで,付近を散策することにしました。このことは,また,次回書きます。
 やがて,午前8時30分になったので,チケットを入手することができました。いよいよ機関車トーマス号に乗車です。

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【Summary】
After crossing the Uji River, I visited Byodoin Temple and was surprised by its newly renovated appearance, contrasting with their previous visit. They were also struck by the large number of foreign tourists. Reflecting on the temple's historical background, they contemplated the Amitabha Buddha and the depiction of the Western Pure Land inside the Phoenix Hall. For lunch, they ate regular soba at a restaurant called "Kangetsu," although they had expected to have green tea soba. On the way home, they enjoyed soft-serve ice cream at the Konan parking area.

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 宇治川を渡り終えたところに平等院がありました。拝観料を払って中に入りました。
 この日,これまでに行った,「光る君へ」大河ドラマ展,宇治市源氏物語ミュージアム,宇治上神社,宇治神社といった宇治の場所とはまったく違い,多くの観光客が外国人で,すごく混み合っていました。
  ・・・・・・
 国宝の鳳凰堂で世界に広く知られている平等院は,単立の寺院で,山号は朝日山,本尊は阿弥陀如来。開基は藤原頼通,開山は明尊です。
 宗派は17世紀以来天台宗と浄土宗を兼ね,現在は特定の宗派に属しておらず,塔頭である本山修験宗聖護院末寺の最勝院と浄土宗の浄土院が年交代制で共同管理しています。
  ・・・・・・
 私は,以前,平等院は来たことがあります。そのときは古びて,威厳のある佇まいに感動しましたが,その後改修工事が行われたらしく,新しくて,驚き,また,少しがっかりしましtた。また,思ったより小さくて狭いところだと思ったのは,様々なところに行ったからでしょう。
 宇治は,平安時代初期から貴族の別荘が営まれていたところで,平等院もまた,9世紀末ごろに52代嵯峨天皇の第12皇子源融(みなもとのとおる)が営んだ別荘だったものが,57代陽成天皇,59代宇多天皇と渡り,61代朱雀天皇の離宮「宇治院」となり,それが宇多天皇の孫である源重信を経て,998年(長徳4年)に藤原道長の別荘「宇治殿」となったものです。

 1027年(万寿4年)に藤原道長が没すると,その子・藤原頼通は1052年(永承7年)に「宇治殿」を寺院に改めようと考え,小野道風の孫で天台宗寺門派で園城寺長吏を務めて京都岡崎の平等院の住持となっていた明尊大僧正によって開山しました。
 本堂は,元は「宇治殿」の寝殿で,それを仏堂に改造したものです。
 平等院は,南北朝時代の争乱以降,鳳凰堂のみが焼け残りました。そして,室町時代になると,平等院は次第に荒廃していきました。戦国時代の明応年間(1500年ごろ),浄土宗の栄久が,廃れていた平等院を修復するために,塔頭・浄土院を創建しました。以降,浄土院が平等院を管轄し1654年(承応3年),住心院の天台宗寺門派の僧が,塔頭・最勝院を創建し,1662年(寛文元年)からは最勝院住持が平等院の住持を兼ねるようになったことで,平等院は,浄土宗と天台宗寺門派の共同管理となりました。
 江戸時代の末期には荒廃が進みましたが,1902年(明治35年)から1907年(明治40年)にかけての明治修理で半解体修理が行われ,1950年(昭和25年)から1957年(昭和32年)にかけて解体修理が行われました。
 2001年(平成13年)には「宝物館」に代わり「平等院ミュージアム鳳翔館」がオープン,また,2012年(平成24年)から2014年(平成26年)まで,屋根の葺き替え・柱などの塗り直し修理が行われました。

 鳳凰堂の堂内に入りました。堂内は,以前来たときと変わっていませんでした。ここには,阿弥陀仏,壁扉画壁画や供養菩薩像があって,浄土真宗の根本経典である「浄土三部経」のひとつで,どんなに罪深い凡夫でも南無阿弥陀仏のお念仏を称えることで救われ極楽に往生できることを説く「観無量寿経」(かんむりょうじゅきょう)の所説に基づいた西方極楽浄土を観想するという説明がありました。
 今とは異なり,医学も発達していなかった時代。こうして仏に祈るしか生きるすべもない当時の人たちは,苦悩を越えた極楽浄土への夢を思い描きました。
  ・・
 これで,この日の目的は終わりです。
 最後に昼食をとることにして,平等院近くにあった「観月」という店でそばを食べました。宇治の茶そばを食べたかったのですが,この店のそばは茶そばではありませんでした。どうして平等院近くに店を開いていて茶そばでないのか腑に落ちませんでしたが,どうりで空いていたはずでした。まあ,私は特にこだわりはないし,茶そばを食べたければまた来ればいいと思いました。
 帰りも,新名神高速道路を走りました。途中の甲南パーキングエリアでソフトクリームを食べました。

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【Summary】
After leaving the Uji Genji Museum, I visited Ujigami Shrine, Uji Shrine, and crosses the Asagiri Bridge. I passed through an island with a thirteen-story stone pagoda before crossing Kisen Bridge, ending at Byodo-in Temple. The narrative highlights historical details, such as Ujigami Shrine's ancient origins and the significance of the monuments related to "The Tale of Genji".

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 宇治市源氏物語ミュージアムを出ました。
 このあとは,宇治上神社(うじかみじんじゃ),宇治神社を経て,宇治川にかかる朝霧橋(あさぎりばし)を渡り,中洲の浮島を通り,再び宇治川にかかる喜撰橋(きせんばし)を渡り,最後の目的地は平等院です。このあたりは旅番組などで宇治がテーマとなるときに必ず出てくるところですが,私は行ったことがなかったので,一度は訪れてみたいと思っていました。
 宇治市源氏物語ミュージアムの裏手の小道を歩いていくと,宇治上神社の古びた建物が見えてきました。私はこうした場所を散策するのが好きですが,それにしても,この日は暑すぎました。
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 宇治上神社は式内社で,隣接する宇治神社とは対をなします。祭神は,大鷦鷯尊(おおささぎのみこと=後の仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと) ,15代応神天皇,16代仁徳天皇です。創建年代などの起源は明らかではありませんが,第15代応神天皇の離宮「桐原日桁宮」の旧跡で,菟道稚郎子命の宮居跡と伝えられていて,菟道稚郎子命の薨御後に御神霊を祀ったのがはじまりとされます。2004年(平成16年)の調査で,本殿は1060年頃のものとされて「現存最古の神社建築」であることが裏付けられました。
  ・・・・・・

 宇治上神社に行ってから,その次の宇治神社に向かいました。
  ・・・・・・
 宇治神社(うじじんじゃ)も式内社で,隣接する宇治上神社とは対をなします。祭神は菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)で,本殿に菟道稚郎子像と伝える神像が祀られています。創建年代などの起源は明らかではありません。
 1052年(永承7年)に平等院ができると,宇治上神社と宇治神社はその鎮守社とされ,明治以前は宇治上神社は「上社」「本宮」,宇治神社は「下社」「若宮」,両社を合わせて「宇治離宮明神」「宇治離宮八幡宮」と総称されていましたが,明治に入って分離しました。
  ・・・・・・
 宇治神社を出て,宇治川に向かうと,朝霧橋のたもとに「源氏物語」の「宇治十帖」で,浮舟と匂宮が小舟で宇治川に漕ぎ出す情景をモチーフとするモニュメントがありました。

  ・・・・・・
 いとはかなげなるものと,明け暮れ見出だす小さき舟に乗りたまひて,さし渡りたまふほど,遥かならむ岸にしも漕ぎ離れたらむやうに心細くおぼえて,つとつきて抱かれたるも,いとらうたしと思す。
 有明の月澄み昇りて,水の面も曇りなきに「これなむ、橘の小島」 と申して,御舟しばしさしとどめたるを見たまへば,大きやかなる岩のさまして,されたる常磐木の蔭茂れり。 「かれ見たまへ。いとはかなけれど,千年も経べき緑の深さを」 とのたまひて
  年経とも変はらむものか橘の 小島の崎に契る心は
 女も,めづらしからむ道のやうにおぼえて
  橘の小島の色は変はらじを この浮舟ぞ行方知られぬ
 折から,人のさまに,をかしくのみ何事も思しなす。
  「源氏物語」 51帖「浮舟」
  ・・・・・・
 朝霧橋は1972年に宇治川に架けられた長さ74メートルの橋です。朝霧橋を渡ると浮島があって,そこに十三重石塔(じゅうさんじゅうせきとう)がそびえています。
  ・・・・・・
 十三重石塔は,現存する石塔としては日本最大である15.2メートルの供養塔です。
 鎌倉時代後期にあたる1284年(弘安7年(1284年),僧・叡尊が,宇治橋の大掛かりな修造を手がけた折り,宇治川に舟を模した形の人工島を築き,島の中央に大塔婆を造立しましたが,氾濫の被害をたびたび受けて,川底の泥砂に深く埋もれてしまいました。1905年(明治38年)に復興が発願され,1908年(明治41年)に再建されました。
  ・・・・・・

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【Summary】
After visiting the "Hikaru Kimi e" Taiga Drama exhibition, I walked to the Uji City Tale of Genji Museum, which was about a 10-minute walk. The museum is located in Uji because the last ten chapters (45-54) of the Tale of Genji are set there. The exhibits provided detailed explanations of the "Uji Jujo" and offered a calm atmosphere, though it was later disrupted by a large tour group.

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 「光る君へ」大河ドラマ展の次に,宇治市源氏物語ミュージアムまで歩いていきました。歩いて10分ほどでした。
 どうして宇治市に源氏物語ミュージアムがあるのかというと,紫式部の書いた「源氏物語」54帖のうち,45帖「橋姫」から54帖「夢浮橋」までが「源氏物語」第3部「宇治十帖」(うじじゅうじょう)といって,宇治を主要な舞台としていることからです。

 「源氏物語」第1部の1帖「桐壺」から41帖「幻」(まぼろし)までの主人公は光源氏ですが,「幻」と「匂宮」の間にあるとされ,巻名だけが伝えられ内容は伝存しない「雲隠」(くもがくれ)で光源氏の死が暗示された後は,光源氏(実は柏木)と女三宮の子である薫と今上帝と明石中宮の子である匂宮(におうのみや)が主人公となります。
 「宇治十帖」は,光源氏亡き後の子孫とその縁者の後日談を書く42帖「匂宮」から44帖「竹河」の「源氏物語」第2部「匂宮三帖」の次にあたります。
  ・・・・・・
●45帖「橋姫」
 光源氏の弟・八宮(はちのみや)は宇治に隠棲し仏道三昧の生活を送っています。
 自らの出生に悩む薫は,八宮の生き方を理想として邸を訪れるうちに,八宮の長女・大君(おおいぎみ)に心を引かれるようになります。薫が宇治の有様を語ると匂宮もこれに興味をそそられます。
●46帖「椎本」 (しいがもと)
 匂宮は宇治に立寄り,八宮の次女・中君(なかのきみ)と歌の贈答をします。
 八宮が薨去(こうきょ)し,ふたりの姫君たちは薫に托されました。薫は中君と匂宮の結婚を計画し,自らはを大君に思いを告げるのですが,返答はつれないものでした。
●47帖「総角」(あげまき)
 薫は大君から受け入れられず,むしろ,大君は中君と薫の結婚を望みます。
 やがて,薫の計画通りに,匂宮と中君は結婚を果たしますが,心労が重なった大君は病に臥し,亡くなってしまいます。
●48帖「早蕨」(さわらび)
 大君の喪が明け,中君は匂宮の元に引き取られます。薫は後見として中君のために尽くしますが,かえって匂宮に疑われます。
●49帖「宿木」(やどりぎ)
 匂宮と夕霧の娘・六君が結婚し,懐妊中の中君は行末を不安に思います。
 中君は無事男子を出産して安定した地位を得ます。
 一方,薫は今上帝の皇女・女二宮と結婚しますが傷心は癒されません。しかし,初瀬詣の折,故大君に生き写しである中君の異母妹(八宮と中将君の子)・浮舟を垣間見て,心を動かされます。
●50帖「東屋」
 浮舟の母・中将君は,浮舟が高貴の男性と婚姻することを望んで,浮舟を中君のもとに預けます。ある夜,匂宮が浮舟と強引に契りを結ぼうとしたため,薫はあわてて浮舟を引き取り,宇治の山荘に移します。
●51帖「浮舟」
 浮舟への執心やまぬ匂宮は彼女の居所を察し,薫を装って宇治に赴き強引に浮舟との関係を結びます。浮舟も匂宮を思うようになりますが,何も知らない薫は彼女を京に移そうとし,匂宮もこれに対抗して自らのもとに彼女を連れ去る計画を立てます。
 匂宮とのことは薫の知るところとなり,浮舟はふたりの男のあいだで懊悩します。
●52帖「蜻蛉」(かげろう)
 浮舟は行方不明になり,入水自殺を図ったと,遺骸のないまま急遽葬儀を行います。
 薫は,新たに,匂宮の姉・女一宮に心惹かれるものを感じます。
●53帖「手習」
 浮舟は,横川の僧都によって入水自殺後に助けられていました。
 健康が回復した彼女は,入道の志を僧都に告げて髪を下ろします。やがて,このことが薫の知るところとなります。
●54帖「夢浮橋」
 薫は横川に赴き,浮舟との対面を求めるのですが僧都に断られ,還俗を求める手紙を浮舟の弟・小君に託します。しかし,浮舟は一切を拒んで仏道への専心を願い返事さえしません。
 浮舟に心を残しつつ薫は横川を去るのでした。
  ・・・・・・

 宇治市源氏物語ミュージアムは,私がずいぶん前に来たときの印象とはだいぶ違っていましたが,「宇治十帖」に関して,詳しい説明や展示があって,落ち着いたところでした。
 「源氏物語」の世界にこころを移していたころ,ここにも団体旅行ツアーの人たちがどっとやってきて,せっかくの雰囲気が一変してしまいました。

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【Summary】
While visiting the Taiga Drama exhibition, I also stopped by the Uji City Tale of Genji Museum and Byodoin Temple. After parking near Byodoin, I walked across Uji Bridge, one of Japan's three oldest bridges. I then visited the Taiga Drama exhibition and explored the Uji River embankment (Taikō-dote), a major engineering project initiated by Toyotomi Hideyoshi to alter the river's course. Despite his negative reputation, Hideyoshi's political foresight and execution of large-scale projects continue to impress me.

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 話題は,2024年9月3日,京都・宇治の「光る君へ」大河ドラマ展に行ったときに戻ります。
  ・・
 大河ドラマ展に行くついでに,長らく行っていなかった宇治市源氏物語ミュージアムと宇治の平等院にも寄ることにしていました。このときもまた,いつものように,何も調べずに車でやって来ました。
 案内標示に従って走って,平等院に着きました。
 大河ドラマ展,宇治市源氏物語ミュージアム,最後に平等院へ歩いて行くことにしていたので,最終目的の平等院の近くに車を停めるのが便利だろうと,平等院近くに駐車場を見つけたのでそこに車を停めました。歩いてまわることができるほどの距離なのですが,蒸し暑い日だったので,少し躊躇しました。

 まずは,「光る君へ」大河ドラマ展が開催されているという,お茶と宇治のまち歴史公園交流館「茶づな」へ向かいます。平等院の駐車場からは,歩いて宇治橋を北に向かって渡ることになります。
  ・・・・・・
 大化2年(646年)建造といわれる宇治橋は,200年ごろに神功皇后が建造したとされる瀬田の唐橋,行基が725年(神亀2年)に架けたとされる山崎橋とならび,日本三古橋にひとつに数えられます。
 宇治橋は奈良元興寺の僧・道登によって架けられたと伝えられます。現在の橋は1996年(平成8年)に架け替えられたもので,長さは155.4メートル,幅25メートル。桧造りの高欄,青銅製の擬宝珠を冠した伝統的な形状をしています。
 また,上流側に張り出した「三ノ間」は,守護神「橋姫」を祀った名残りとか,豊臣秀吉が茶の湯に使う水を汲ませたところともいわれ,宇治の茶まつり「名水汲み上げの儀」が行われます。
  ・・・・・・

 宇治橋を渡ると,京阪電車宇治駅に到着しました。ここから宇治川に沿って歩いていくとお茶と宇治のまち歴史公園交流館「茶づな」に到着します。ここを会場とする「光る君へ」大河ドラマ展についてはすでに書いたので,きょうは太閤堤について紹介します。
 このあたりの宇治川の堤防が宇治川太閤堤といわれるものです。
  ・・・・・・
 宇治川太閤堤跡は,宇治川の右岸,宇治橋下流,現在の京阪宇治駅付近から北へ400メートルほどの長さにわたって発掘された護岸遺構で,秀吉時代の堤防(太閤堤)工事関連遺構と考えられています。
 近世以前の宇治川は,宇治橋より下流ではいくつもの流れに分かれ,広大な遊水池・巨椋池(おぐらいけ)に流入していました。なお,現在,巨椋池は干拓されて農地に変わっています。
 豊臣秀吉は,1594年(文禄3年)の伏見城築城を機に,伏見城の南方を流れる宇治川の流路変更をともなう大規模な築堤工事を諸大名に命じて実施しました。太閤堤によって宇治川の流路を一本化し,川が宇治橋から北流して伏見へ向かって流れるようにするとともに,宇治川と巨椋池の分離を図りました。
 従来,太閤堤はこの付近では左岸側のみに築堤されたとされていましたが,右岸護岸跡にも発見されました。右岸護岸跡には,「石積み護岸」「石出し」「杭出し」などが南北400メートルに渉って点在します。太閤堤の多くは,現在は失われましたが,右岸の護岸は,砂州に埋もれていたため地中に保存されたものです。
  ・・・・・・・
 豊臣秀吉といえば,晩年は悲惨だし,成金趣味だし,異常な女好きだし,いったいこの男のどこがいいのだろうと,私はまず思うのですが,こうした施策の数々を知ると,立派な政治家です。大した教育も受けていないのに,どうしてこういう発想が浮かぶのだろうか,この実行力はどこからくるのだろうか,など,単なる独裁者とは違う姿に,私はいつも戸惑うのです。

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【Summary】
I visited Fugan Canal Kansui Park in Toyama. A famous "world's most beautiful Starbucks" for its beautiful scenery in it. I took a cruise on the Fugan Suijo Line, passing through Nakajima Lock, a historical structure. After reflecting on past memories near Toyama Station, they boarded the limited express "Hida", a train popular among foreign tourists, and enjoyed the ride back to Gifu, concluding their trip along the Tateyama Kurobe Alpine Route.

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  ・・・・・・
富岩(ふがん)運河環水公園は「とやま都市MIRAI計画」のシンボルゾーンとして富岩運河の牛島町(うしじまちょう)側の船溜まりを整備した公園で,面積は9.7ヘクタール(約5ヘクタールがプロ野球のグランド程度)あります。
1988年に工事がはじまり,1997年に船溜まり最上部のフロントデッキやプロムナードなどが完成しました。また,1999年には天門橋(てんもんきょう)が完成し,2007年には富岩運河環水公園内に小運河と人工島「あいの島」が完成しました。また,富岩運河環水公園から中島閘門間の両岸には遊歩道や休憩所が整備され,かつてのゴミ捨て場から市民の憩いの場所へと変わりました。
  ・・・・・・
公園内には「スターバックス富山環水公園店」がありました。かつて,スターバックスの社内コンテスト「ストアデザインアワード」で最優秀賞を受賞したことから「世界一美しいスタバ」といわれるほどの店ということでした。満員でした。
家の近くにこんな公園があったら最高だと思いました。

私の目的は,富岩水上ラインでした。
富岩運河を船で遊覧する富岩水上ラインは,3月下旬から11月下旬に定期運行されています。使用される船は,環境に考慮し太陽光を利用する定員55人のソーラー船「sora」(そら),「fugan」(ふがん),「kansui」(かんすい),それに,バッテリーとモーターで動く定員11人の電気ボート「もみじ」2019年3月23日に就航したソーラー船(定員55人)の4隻です。

また,運行コースも何種類かあり,閘門操作室の見学と乗船したまま水位2.5メートルの水上エレベーターといわれる高低差を実際に体験できる中島閘門を通過するコース,片道に富山ライトレールを併用し還水公園と岩瀬地区を往復するコースなどがありました。
私は,中島閘門を通過するコースに乗船しました。
  ・・・・・・
中島閘門は,総延長約5.1キロメートルの富岩運河河口側より約3.1キロメートル上流にあり,上流側標高が約2.7メートル,下流側標高約0.2メートルで,その水位差が約2.5メートルあるので,長さ86メートルのパナマ運河方式の複扉室(ふくひしつ)閘門をつくって,それを調節するために,1934年(昭和9年)に,富岩運河の掘削と同時に竣工しました。

建設後は,運河上流部沿岸の工場などへ原材料や資材・製品の運搬をする船を通すことで富山の工業発展に寄与しましたが,輸送手段が陸上運輸に変わり,近燐に住宅地が増え環境への配慮が必要になったり,水質の悪化などにより周辺の工場の縮小や撤退が進み運河交通自体が衰退したため,使われなくなりました。
1979年(昭和54年)に,富岩運河を埋め立て道路を建設する計画がありましたが,1984年(昭和59年)に方向転換し,水辺を生かした街づくりを目指し整備することになりました。
老朽化した中島閘門は,1997年(平成9年)より扉体等の原形復元修理を行い,1998年(平成10年)に復元修理工事が完了し,「富岩運河水閘施設」として国の重要文化財に指定されました。
  ・・・・・・
このように,現在,中島閘門は富岩水上ラインによる観光用のものとなっています。そこで,私の乗ったコースは,風景を堪能するというより,中島閘門を体験するというものでした。
私は25年ほど前,シカゴのミシガン湖クルーズで同じような,しかも,ずっと規模が大きいものを体験したことがあるので,珍しいものではありませんでしたが,これはこれでおもしろかったです。

JR富山駅に戻ってきました。駅の近くに「インテック」という会社がありました。ここは,私が大学4年生のときに内定をもらったことがある会社です。結局縁はなかったのですが,懐かしさを感じました。ひょっとしたら,私は富山市に住むことになっていたのかもしれないなあ,と思うと,不思議が気がしました。これもまた,私の伏線回収でした。
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私がJR富山駅から乗るのは午後5時17分発の特急「ひだ」20号でした。
  ・・・・・・ 
特急「ひだ」は,名古屋駅 - 高山駅,あるいは,富山駅間,および,大阪駅 - 高山駅間を運行します。
1958年に名古屋駅 - 富山駅間を運転する準急列車として運転を開始し,高岡駅まで運転区間が延長され,1966年には急行列車に格上げされました。さらに,1968年から特急列車に変更され金沢駅まで運転区間を延長しましたが,1985年3月14日に飛騨古川駅 - 金沢駅が廃止されました。そして,JR発足後は,一部列車が富山駅まで運転されるようになりました。
  ・・・・・・
特急「ひだ」なんて誰が乗るのだろう,がらがらだろうと思っていたのですが,実際は,2010年代以降,インバウンドの急増で利用客も増えているということでした。今回も,乗客のほとんどは外国人でした。聞いてみると,イタリアから来た,とか,スペインから来た,とかで,ヨーロッパ人ばかりでした。彼らは,特急「ひだ」に乗って,高山をめざしているということでした。つまり,東京から北陸新幹線で金沢に行き,金沢から高山,そして,京都,広島に行くらしいのです。
列車は先日私が紀伊半島1周したときに乗ったのとおなじハイブリッド式の新型車HC85系でした。
私の座席は7号車の指定席でした。編成が7両もないのにどうして7号車かと乗務員の人に聞くと,高山で1号車から4号車までを接続するということでした。そんなに乗るか,と思ったのですが,実際,高山駅で多くの人が乗車してきました。
私はいつもの楽しみで車内で駅弁を食べようと思っていたのですが,JR富山駅には駅弁というものがなく,というか,駅弁という概念がないらしく,みやげ物売り場にあったお持ち帰り弁当を買いました。値段は,東京で駅弁を買うよりもずっと安くてびっくりしました。
特急「ひだ」で楽しく列車に揺られるうちに,岐阜駅に到着して,私は下車しました。
はじめての立山黒部アルペンルートの旅も,こうして終えることができました。

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【Summary】
I was recommended several tourist spots in Toyama, and for lunch, I found a sushi restaurant called "Naniwa Sushi" on the 7th floor of the Daiwa Department Store. Afterward, I walked to Fugan Canal Kansui Park to take a sightseeing boat but took a break due to the heat, discovering the Taki Rentarō Memorial. After cooling off, I continued walking and arrived at the park.

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私が富山市街の見どころとして観光案内所で紹介されたところはこれですべてでした。
ちょうどお昼になったので,富山といえばお寿司でしょう,ということで,どこかないかと探していたのですが,あいにくの土曜日,どこも混雑しているようで,なかなか見つかりませんでした。やっと見つけたのが富山市ガラス美術館の近くにあった大和百貨店7階の飲食店フロアにあるお寿司屋さんでした。名前を「浪花鮨」といいました。開放的な店舗内の中の真ん中にカウンター,そしてテーブル席が沢山囲んでいました。職人さんが寿司を握っていました。握りのコースをいただきました。

私は午後5時14分発の特急「ひだ」で帰るので,まだ時間がありました。
さて,この後どうしよう? と地図を見ると,JR富山駅の反対側(北側)に富岩(ふがん)運河環水公園があって,そこで,富岩水ラインという遊覧船に乗ることができることがわかりました。松川遊覧船に乗れなかったこともあって,ここで遊覧船に乗ることにしました。
ということだったのですが,富岩運河環水公園へ行く交通機関がありません。仕方がなく歩くことにしたのですが,あまりの暑さに,小休止することにしました。歩いていると,富山城の東端,松川遊覧船乗り場に喫茶のできる店を見つけたので,中に入って,かき氷を食べました。
このお店の中に滝廉太郎記念館がありました。
旅をしていると,意外なものに遭遇します。ここでもまた,なぜここに滝廉太郎? と思いました。
  ・・・・・・
23歳10か月という短い人生だった滝廉太郎は,小学校1年生の途中から3年生の途中までの約2年間を富山で過ごしたのです。
富山県尋常師範学校附属小学校は,富山城内の富山藩の藩校・広徳館の跡にあり,滝廉太郎の父・滝吉弘が富山県の書記官(今の副知事)に任ぜられ,非職になって富山の地を離れるまで,滝廉太郎は、この学校に通っていました。
  ・・・・・・
ということでした。

さて,少しだけ体が涼しくなって,気力が回復したので,私は歩きはじめました。
歩くこと約30分,鉄道の高架を越えました。JR富山駅の北側は再開発中のようで,広い道路や新しいビルが立ち並んでいました。さらに歩いていくと,スポーツ施設のあるコンプレックスがあり,それを過ぎると,やっと,富岩運河環水公園が見えてきました。

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【Summary】
I visited Toyama, starting at JR Toyama Station and touring the city. They explored Toyama Castle, learning its history as the residence of the Maeda family. Afterward, I visited a city observation tower and the Toyama Glass Art Museum, which showcases the city's glassmaking heritage. Lastly, I visited Ikedaya Yasubei Shoten, a traditional medicine shop, and saw a demonstration of Toyama’s famous medicine-peddling business, which started in the Edo period.

######
富山地方鉄道の電鉄富山駅とJR富山駅は隣接していました。
JR富山駅もまた,それ以前の姿は知りませんが,北陸新幹線の開通に従ってリニューアルしたようで,立派な駅でした。
まず,コインロッカーに荷物を預けてから,いつものように観光案内所に行って,夕方までの見学コースを聞いて,地図をもらいました。私はまず富山城に行くことにしました。歩いても行くことができる距離でしたが,この日も暑かったので,観光案内所でのアルバイスによって,路面電車に乗りました。
おもしろかったのは,路面電車の乗り場が富山駅から吹き抜けでつながっていたことでした。つまり,電車が駅に突入するような感じです。
電車はアメリカの地方都市の路面電車のようでした。現在,再び,こうした路面電車が見直されているようで,階段で地下に降りたり地上にのぼったりする労力を考えると,地下鉄よりも路面電車のほうがずっと楽です。景色を楽しむこともできますし。
路面電車はけっこう混雑していました。国際会議場前駅が富山城の最寄りの駅ということだったので,そこで下車しました。

私は,富山藩のことも富山城のことも全く知りませんでした。富山城は単なる鉄筋コンクリートの建物で,実際は,郷土博物館でした。
  ・・・・・・・
富山城は,神通川(現在の松川)の流れを城の防御に利用し,水に浮いたように見えたことから浮城といわれました。江戸時代は加賀前田家の分家であった越中前田家の居城でした。
時代をさかのぼって,戦国時代,富山城に拠点を構えた佐々成政は,本能寺の変ののち,羽柴秀吉と敵対し,1585年(天正13年)大軍に城を囲まれ降伏し,恩賞で越中三郡を得た前田家は,前田利長にこの地を任せました。関ケ原で東軍についた前田利長は,関ヶ原の戦い以後,富山城を再建し隠居城としました。
1639年(寛永16年)加賀藩の3代藩主・前田利常が次男の前田利次に10万石を与えて分家させ,富山藩が成立しました。そして,1661年(万治4年)に富山城を本格的に修復し,城下町を整え,それ以後,富山前田家13代の居城として明治維新まで続きましたが,1858年(安政5年)の飛越地震で富山城は被災しました。
明治維新後,富山城のあった場所は,様々に活用されていましたが,1933年(昭和8年)に富山城址が都市計画風致地区に指定され,1940年に富山公園として開園しました。そして,1954年(昭和29年)に富山城跡の敷地一帯で富山産業大博覧会が開催されたのに際して,鉄筋コンクリート構造による模擬天守が記念に建てられることとなり,1953年(昭和28年)に着工,翌1954年(昭和29年)に完成し,富山市郷土博物館として運営がはじまりました。
また,1961年(昭和36年)に城跡敷地内に佐藤美術館(のちの佐藤記念美術館)が開館しました。
  ・・・・・・・
ということで,富山藩の歴史がよくわかりました。また,佐藤記念美術館にも行きました。
富山城の外堀に松川遊覧船があるとガイドブックにはあったので,楽しみにしていたのですが,堀の石垣が崩れていて,遊覧船は運休していました。

次に行ったのが富山市役所の展望塔でした。地上70メートルで,ここから富山市が一望できました。
確か,奈良県庁や静岡市役所,豊橋市役所にも展望台があって,上ったことがあります。アメリカでも,こうした展望台はいろいろなところにあって,街全体が見渡せるので,なかなかいいものです。
ただし,富山市街には特に見るべきものはありませんでした。おそらく,立山が雪を被った時期であれば,美しい景色をみることができたことでしょう。
富山市街で,このほかに人気の観光施設として,富山市ガラス美術館を勧められたので,興味がなかったのですが,とにかく行って見ることにしました。
  ・・・・・・
富山の売薬で知られる富山市は,明治以降,薬のガラス瓶工場が相次ぎ操業しました。
太平洋戦争後に廃れたガラス産業を再興しようと,富山市民大学ガラス工芸コースや富山市立富山ガラス造形研究所を開設したり,富山ガラス工房を整備したりしました。
2001年(平成13年)に策定したガラス美術館基本構想によって,2005年(平成17年)3月に富山市民プラザにトヤマグラスアートギャラリーを開設,さらに,松川べりや市内中心部の道路脇などに県内外のガラス作家の作品を展示してきました。
そして,「ガラスの街とやま」を目指したまちづくりの集大成として,2015年(平成27年)にTOYAMAキラリ内に富山市ガラス美術館が開館しました。
  ・・・・・・
TOYAMAキラリにはすばらしい図書館もありました。

最後に,これもまた,観光案内所で勧められた池田屋安兵衛商店に行きました。池田屋安兵衛商店は,昔ながらの座売りを行っている薬種問屋で,2階は薬膳料理を出す食堂もありました。
薬を丸める実演をしてもらいました。
  ・・・・・・
富山の売薬は,富山藩2代藩主・前田正甫が江戸城で急病になった大名を薬で救ったことをきっかけにはじまり,江戸時代中期以降に全国的に広まった商法です。
まず薬を消費者の家庭に預け置き,次回の訪問時に使われた分の薬代を集金し,さらに薬を補充するという「先用後利」(せんようこうり)という販売システムです。
  ・・・・・・
私の子供のころ,母親の実家には,富山の薬売りがやってきました。おまけに紙のふうせんをもらいました。こうした薬売りは今もほそぼそと存在しているようです。

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【Summary】
On September 7, 2024, I traveled the Tateyama Kurobe Alpine Route, a trip I had long been curious about. Despite concerns over typhoon-related delays, I was able to secure a reservation, discovering that early September is a good time to go if weather forecasts are favorable. Although it wasn't peak season, it was still unexpectedly crowded. I traveled from Tateyama Station to Toyama and planned to return via the express train "Hida." The Toyama Chihou Railway, while quiet early in the morning, became busy as the day progressed.

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3日目。2024年9月7日土曜日。
今日は,立山駅から富山地方鉄道で電鉄富山駅に行き,富山で観光して,夕方の特急「ひだ」に乗って帰ります。2日目に帰宅することもできたのでしょうが,ゆとりがあったほうがいいし,富山に行ったこともなかったし,特急「ひだ」に乗ってみたかったので,こうした日程にしました。
今回は,ずっと気になっていた立山黒部アルペンルートが,どこにあって,どのようにしてまわるのか,そして,どのくらい混雑しているのか,といったことを知りたくて,試行錯誤をしながら旅に出ました。台風が来たので直前まで日程の調整がたいへんでしたが,とてもよい旅をすることができました。台風のおかげで日程を変更したりといった結果,9月のはじめのころなら,天気予報で晴れということが予想されるときになって,直前に旅館を予約しても空きがある,ということもわかったので,次に来るときは,慌てず,まず,天気予報から晴れる可能性の高い日に行くことを決めればいいということを知りました。ただし,9月のはじめであっても,立山黒部アルペンルートは,ハイシーズンのように,予想以上に混雑していました。


私の宿泊した旅館「千寿荘」にはおいしい朝食がついていました。立山駅から電鉄富山駅まで行く富山地方鉄道は,1時間に1本程度,ということだったので,午前7時21分発に乗ることにして,朝食後,早々にチェックアウトしました。
  ・・・・・・
富山電気鉄道は,富山県東部を基盤とする中規模私鉄で,1943年に,富山県内のすべての私営,公営の鉄軌道,バス会社を合併して発足しました。富山市内を走る電車やバスも含まれますが,巨額の赤字をかかえているようです。
なお,立山黒部アルペンルートは,立山黒部貫光という会社が行っています。
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こんな早い時間に立山駅から電鉄富山駅に行く人はほとんどいないと思いましたが,私が思った通りでした。電車を待っていたのはわずか3人でした。

立山駅に電車がやってきました。
電車は,この日に立山黒部アルペンルートを縦断する人で満員でした。そうした人たちが東京のラッシュアワーのように,続々と電車から降りてホームを出て行ったのですが,駅には駅員のひとりもおらず,電車の運転手さんひとりで,すべてをさばいていました。切符を買わずに途中の無人駅から乗った人たちは降りる時点で運賃を払うのですが,お釣りの必要な人がけっこういて,運転手さんは大忙しでした。私は,事前に運賃がいくらかははわかるから,手間のかからないように,どうしてお釣りのないように準備しておかないのかな,と思いました。
やっとすべての乗客が降りると,運転手さんは,今度は,出発の準備に大忙しでした。
やっと乗車できるようになりました。私は,あらかじめネットで予約した立山黒部アルペンルート通しチケットとして,長野県側の扇平駅から電鉄富山駅までの通し切符をもっていたので,それだけですべての交通機関に乗ることができたので,とても便利でした。すでに書きましたが,事前にネットで予約してあったので,扇平駅で切符を購入するためにで長い列に並ぶ必要もありませんでした。

富山電気鉄道は大井川鐡道とよく似ていました。多くの種類の車両が運用されていて,中には,京阪電鉄や西武鉄道から払い下げもあるようでした。鉄道好きにはたまらないことでしょう。また,車窓からの風景も大井川鐡道のそれと似ていました。
途中の寺田駅で,宇奈月温泉駅へ向かうダブルデッカーエキスプレスとすれ違いました。この日は土曜日,ということもあってか,車内は満員でした。おそらく,乗客のほとんどは,宇奈月温泉駅からトロッコ列車に乗る観光客なのでしょう。私は,黒部渓谷のトロッコ列車には乗ったことはないのですが,黒部の様子はよくわかったので,来年には空いている時期を選んで乗ってみようと思いました。
やがて,電車は富山市内に入り,乗客も増えてきました。そして,電鉄富山駅に到着しました。

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【Summary】
On October 1, after several cloudy days, I finally managed to capture the Tsuchinshan-ATLAS comet (C/2023 A3). Despite challenges with its low altitude and increasing daylight, I successfully photographed the comet alongside the moon. Capturing low-altitude comets is difficult without automated telescopes, and this may be my last chance to photograph it before it sets.

☆☆☆☆☆☆
 2024年9月26日に何とか写すことができた紫金山・アトラス彗星(C/2023A3_Tsuchinshan-ATLAS)。その後も毎朝,写そうと早起きをしては空を見上げていたのですが,毎日,同じように,厚い雲に覆われていて,星のひとつも見えない日々が続きました。それでも,10月1日は晴れそう… という天気予報だったので,期待して,この日も早起きをしました。
 午前4時ごろに起床して,今日は晴れているかな,とベランダに出て空を見上げると,雲がなく,ひさしぶりに北極星が輝いていました。すると,偶然,ものすごい火球が飛ぶのを目撃しました。あんなに明るい火球を見たのははじめてでした。写真を写せなかったことだけが残念でした。

 こうして,晴れていることを確認して,カメラと三脚をもって外に出ました。雲ひとつありませんでした。東の空低く月齢28.0の月が輝いていました。
 紫金山・アトラス彗星の位置は9月26日に確認済みなので,画角を135ミリにすれば,正確な位置がわからなくても容易に写せるものだと思っていたのですすが,写りません。あとで確認すると,午前4時52分に写した写真から写っていたのですが,その時点では確認できませんでした。彗星は,午前4時35分ごろに地平線から上ってきているのですが,あまりに高度が低く,写らなかったようです。つまり,淡い彗星は,午前4時50分過ぎ,空が少し白みはじめたころに,ISO1600では,1秒以上の露出をかけないと,彗星は写らなかったのです。
 どうして写らないのかな? と思いつつ,あきらめムードで,こうなったらズームレンズの焦点距離を300ミリにしようと思って,適当な場所を狙って写すと,何とはっきりと彗星状の天体が写っているではないですか。これには興奮しました。その後,位置を調節して,やっと,思い通りの彗星の姿をとらえることができました。
 最後に,焦点距離を70ミリにして,彗星と月を1枚の写真に収めることができました。
 名古屋市の明かりが煌々と空を照らす灰色の東の空でこれだけ写れば十分です。

 据付の望遠鏡があって,自動で彗星を捉えることできるならともかく,こうした高度が低い彗星のような天体を写真に収めるのは,簡単なことではないな,と思いました。
 この後の数日,紫金山・アトラス彗星は高度を下げていき,また,天気も悪いようなので,明け方の空で写真に収めることができるのは,おそらくこれで終わりだと思われます。果たして,10月11日すぎ,夕方の西の空に現れるときはどのようになっていることでしょうか?

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「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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【Summary】
After exploring Bijodaira and enjoying the rooftop view at the station, I took a crowded cable car down. The Tateyama Kurobe Alpine Route, developed over 20 years from 1952, offers various transport modes like electric buses and cable cars. After arriving at Tateyama Station, I checked into Senjusou Inn, where the onsen and meals were exceptional, making me want to stay even without visiting the Alpine Route.

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美女平の散策コースを楽しんで,美女平駅に戻ってきました。駅の屋上に展望台があったので,そこでしばらく景色を楽しみました。眼下に立山の町が見えました。
あとはケーブルカーに乗るだけでしたが,このケーブルカーが混雑していましたが,わずか7分で標高475メートルまで下ります。それにしても,立山黒部アルペンルートは,電気バス,ケーブルカー,ロープウェイ,トロリーバス,高原バス,ケーブルカーという様々な乗り物で横断するわけですが,これらがどういった経緯でできてきたのかが私には興味がありました。
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●立山駅-美女平
1952年12月にケーブルカーの建設がはじまり,1954年8月に開通しました。同時に,富山市内から立山駅まで電車の延伸工事が行われました。
●美女平-室堂
山岳道路の建設は,1953年に着工し,まず,弘法まで。そして,弥陀ヶ原,天狗平と伸び,1964年6月に室堂まで開通しました。
●扇沢-黒部湖
黒部ダムを建設するため1958年2月に完成した関電トンネルを利用して,1964年にトロリーバスが営業を開始しました。
●黒部湖-室堂
当初,全線自動車道路とする計画でしたが,不可能とされ,最終的に,現在の形となりました。
〇黒部湖-黒部平
1966年3月にケーブルカーの建設が開始され,1969年7月に開通しました。
〇黒部平-大観峰
1970年7月にロープウェイの営業が開始されました。
〇大観峰-室堂
1966年にはじまった立山トンネルの掘削工事は1969年12月に貫通,1971年4月に立山トンネルバスが営業を開始しました。
   ・・・・・・・
こうして,1971年6月に立山高原バス道路の除雪完了で,1952年に立山ケーブルカーの工事開始から20年,立山黒部アルペンルートが全線開通しました。
立山黒部アルペンルートは4月15日から11月30日までの間,運行されます。最も空いているのは,紅葉シーズンの終わった11月の下旬だそうですが,それにしても,現在は混雑しすぎ。将来は入山制限が行われるように感じます。

午後5時前,立山駅に着きました。ほとんどの人は,ここから富山地方鉄道に乗り継ぐか,観光バス,あるいは,マイカーで,家路を急ぎます。私は,立山駅前の旅館「千寿荘」に泊まるので,チェックインをしました。
迷走台風のおかげで,予約を変更したりキャンセルしたりを繰り返しましたが,ついにやってくることができました。温泉も気持ちがよく,食事もすばらしく,立山黒部アルペンルートぬきに,この旅館でゆっくりしたいものだと思ったほどでした。

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