しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

November 2024

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【Summary】
On November 25, 2024, before a tour of the Kansai Shogi Hall, I explored Takatsuki City, discovering its strong shogi theme—shogi-themed displays at JR Takatsuki Station, unique street features, and goods like shogi manju. The city was vibrant and well-maintained, blending modernity with preserved historical streets.

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 2024年11月25日午前10時30分からの関西将棋会館の内覧ツアーがはじまる前に高槻市を散歩しました。
 まず見つけたのがJR高槻駅のみどりの窓口に展示された棋士のポスターと色紙でした。しかも,JRの職員さんの名札までもが将棋の駒の形をしていました。
 駅から外に出ると,郵便ポストが将棋の駒の形をしていました。そして,駅前から関西将棋会館までのストリートには,棋士の写真がずらり。高槻市はとんでもないことになっていました。つるの剛士さんのポスターまでありました。
 さらに,商店街を歩くと,将棋饅頭やら将棋コーヒーやら,また,渡辺君のマンホールまで存在しました。
 ともかく,高槻市は何もかもが将棋でした。
 これには,目が点,じゃくて,目が将棋の駒の五角形になりました。
 こうなったら,いっそ,高槻市の将棋に関する何かを見つけたら商品が出る,みたいなスタンプラリーでもやったらいいのに,と思いました。

 高槻市は,大阪と京都のベットタウンのようで,新しいマンションが立ち並び,駅前はとても整備された美しいところでした。このところ,旅をすると,元気のない市町が多いのに,高槻市はとても元気でした。
 高槻市は西国海道が通っているので,駅から少し離れたところには,旧街道がそのまま残っているのですが,これもまた,歩きやすく,朽ちた家もなく,きれいな街並みが続いていました。

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【Summary】
Takatsuki City, conveniently located between JR Kyoto and Osaka Stations, has become a hub for shogi, marked by the relocation of the Kansai Shogi Hall to JR Takatsuki Station's vicinity. The city actively promotes shogi through events and community engagement, using it as a key for regional revitalization.

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 高槻市はJR京都駅とJR大阪駅のちょうど中間にあって,どちらからも便利なところです。阪急電車の高槻駅とJR高槻駅は少し離れていて,関西将棋会館はJR高槻駅の駅前にあります。
 高槻市は「将棋のまち」を標榜し,将棋を通じて町おこしをしています。
 なぜ将棋? その理由を ChatGPT に聞いてみると,つぎのように答えてくれました。
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 高槻市が「将棋のまち」を標榜している理由は、以下のような背景があるとされています。
●将棋文化の振興
 高槻市では,市民向けに将棋教室や大会などを定期的に開催しており,将棋を通じた地域文化の振興に力を入れています。市民が将棋を楽しむ機会を提供し,地域全体で将棋を支える取り組みを行っています。
●関西将棋会館の誘致成功
 老朽化した大阪市福島区の関西将棋会館の移転先として,高槻市が選ばれたことが大きなきっかけです。市が積極的に誘致活動を行い,新しい関西将棋会館を実現したことで,高槻市は将棋界の拠点のひとつとなりました。
●将棋を活用した地域活性化
 将棋という伝統文化を地域活性化の柱に据え,将棋イベントや観光資源としての将棋の活用を進めています。新しい関西将棋会館が建設されたことで,将棋関連の観光や交流の場が広がると期待されています。
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 1年ほど前の2023年10月16日,京都ホテルオークラで第36期将棋竜王戦第2局の前夜祭に出席したとき,その翌日,高槻市に行ってみたことがあります。そのときは,まだ,建設予定地は,基礎工事のところで,何も姿がありませんでしたが,そのわずか1年後に,立派な関西将棋会館に変貌したことに驚きました。
 私はこの日をずっと楽しみにしてきたので,朝からウキウキで,岐阜羽島駅から東海道新幹線で京都駅まで行き,東海道線に乗り換えて,JR高槻駅に降り立ちました。
 ツアーの開始時間は午前10時30分からなので,時間まで,高槻市街を散策しました。


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【Summary】
The Japan Shogi Association relocated its Tokyo and Kansai headquarters to new buildings in 2024 due to aging facilities. The user contributed to crowdfunding for the Kansai Shogi Hall in Takatsuki and joined a preview tour there on November 25, 2024.

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 日本将棋連盟は、将棋の棋戦を主催し,棋士および女流棋士の活動を通じて将棋の普及発展を担う公益社団法人で,東京本部と関西本部があります。
 東京のJR千駄ヶ谷駅から5分ほど歩いたところにあった東京本部のある将棋会館は,1976年に建てられた5階建ての建物でした。棋士が将棋を指す対局場には入ったことがありませんが,以前は,地下にレストラン「歩」(あゆみ)があり,また,1階には売店があって,東京へ行った折りに,ときどき立ち寄ったことがあります。
 大阪市のJR福島駅の北にある,関西本部のある関西将棋会館は,1981年に建てられた5階建ての建物で,以前は4階に将棋博物館があるというので,できたころに行ったことがあります。将棋博物館は,日本将棋連盟が保有している将棋関連の資料を展示していましたが,2006年にスペース不足を理由として閉鎖されました。また,近ごろ,藤井聡太竜王名人の活躍で時々取り上げられた1階のレストラン「イレブン」にも行ってみたことがあります。

 東京の将棋会館は老朽化のため,新しい将棋会館の建設が課題でしたが,様々な困難を乗り越えて,2024年10月,JR千駄ヶ谷駅前に建設された「ヒューリック将棋会館千駄ヶ谷ビル」の1階に移転しました。私は,できたそうそうに行って,道路に面した一般に公開されているカフェ「棋の音」(きのね)で食事をしてきました。
 また,関西本部のある関西将棋会館は,大阪市福島区にあって1981年に竣工しまたが,これもまた,老朽化のため,2024年11月に,大阪府高槻市に建設した新会館へ移転することになりました。もともとは東京の将棋会館の建て替えを計画していただけだったらしいのですが,高槻市からのオファーがあって,関西将棋会館の建て替えも実現してしまったらしいです。

 東京の将棋会館,関西将棋会館の建設費用として,クラウドファンディングが行われていたのですが,私は,あまりお金が集まっていなかったほうの関西将棋会館の建設に伴うクラウドファンディングを高槻市が行っているものに寄付をしました。今回,その返礼品として,2024年11月25日の午前,関西将棋会館内覧ツアーが行われたので,行ってきました。

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【Summary】
On January 1, 2024, a magnitude 7.6 earthquake struck the Noto Peninsula, causing severe damage. During a trip to Kanazawa on November 10, I decided to explore parts of the peninsula. I visited Noto Island via the Noto Satoyama Kaido and enjoyed a brief drive on Chirihama Nagisa Driveway. Noto Island’s scenic coastline contrasted with its mountainous interior, but some roads remain inaccessible. Notably, the Nakano Noto Farm Road Bridge was closed, requiring a return via the Noto Island Bridge.

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 2024年1月1日,能登半島地震が起きました。地震の規模はМ7.6で,輪島市と羽咋郡志賀町で最大震度7を観測しました。それ以前,私は,能登半島を1周ドライブしてみたいと思っていたのですが,それができなくなりました。今はもう復興の邪魔にはならないだろうと,今回,金沢市に行った折りに,能登半島まで足をのばしてみることにしました。とはいえ1周は無理なので,行ける所だけ行ってみることにしました。

 2024年11月10日。距離感がわからずずいぶん迷ったのですが,能登半島の行けるところまで行ってみようと,午前6時にホテルをチェックアウトしました。
 まず目指したのが,能登島(のとじま)でした。能登島は七尾湾を塞ぐ形で浮かぶ面積46.78平方キロメートル(東京ドーム1,000個ほど),周囲長71.9キロメートルの島で,能登島大橋が南側の屏風瀬戸に,中能登農道橋が西側の三ヶ口瀬戸に架かっていて,車で行くことができます。
 金沢市街から能登半島の西海岸に沿って,「のと里山海道」を走りました。「のと里山海道」はもともとは有料道路だったそうですが,現在は無料です。まったく信号機がないので,あっという間に長い距離を走ることができました。途中で少しだけ「千里浜なぎさドライブウェイ」を走りました。「千里浜なぎさドライブウェイ」は砂浜を車でドライブできるということで有名なところです。車が砂浜に沈まないのは砂の粒子が細かく海水を含んで引き締まっているからということです。
 天気もよく,風もなく,最高でした。まさか走る日が来るなんて思っていなかったので,幸運でした。

 予想より早く,七尾市街に着きました。七尾市街には和倉温泉があります。
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 和倉温泉は,能登半島随一の規模の温泉街です。1,200年前にシラサギが沐浴しているのを村人が見て,温泉を発見したといいます。こんこんと湯が湧き出すことから「湧浦」とよばれ地名になりました。近代的な旅館やホテルが海沿いに林立していて,和倉温泉シーサイドパークもあります。
 カキ,寒ブリ,ナマコなど新鮮な魚介類が食膳を飾ります。
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 ということだったのですが,現在は,21軒ある旅館のうち17軒が休館していて,営業再開旅館は4軒。
 また,休館している旅館のうち災害復旧業者や自治体応援職員,災害ボランティアなどを受け入れている旅館があるということです。

 能登島大橋を渡りました。
 地図で見る限り,能登島は風光明媚な場所だと思っていたのですが,海岸線沿いは景色がきれいでしたが,山が多く,私が思っていたところとは少し違いました。のとじま水族館があって,現在は営業をしていますが,私は行きませんでした。また,この島にはゲストハウスや民宿が数軒あって,営業を再開しています。
 島の道路は,一部まだ走ることができません。その中で,ほとんど崩れてしまっている悲惨な状況を見ることができました。
 私は,能登島から中能登農道橋を渡ることにしていましたが,この橋は通行することができず,来るときに渡った能登島大橋まで戻る必要がありました。

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【Summary】
After attending the Orchestra Ensemble Kanazawa concert, I checked into a nearby hotel and visited Kanazawa Castle and Kenrokuen's weekend light-up event. Though crowded and poorly managed, I explored the area out of curiosity. After a quick visit to Higashi Chaya District, I returned to the hotel for the night.

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 井上道義指揮オーケストラ・アンサンブル金沢の演奏会が終わって,今日宿泊する東横イン兼六園香林坊にチェックインしました。ホテルからお昼間に行った金沢城はほど近い場所です。いつものように,夜は特にすることもありません。私はテレビをつけることもないし,温泉旅館で夕食をとるとき以外は,旅先で出歩いたりお酒を飲むこともありません。
 金沢城と兼六園の一帯は,週末だけライトアップをしているということだったので,夕食を兼ねて行ってみることにしました。まず,近くにあったデパートの階上のレストランに行きました。空いているだろうと思ったからでしたが,やはりそうでした。
 話は逸れますが,今や,私が若いころの価値観は完全に崩れていて,オワコン化してしまったものも少なくありません。新聞や雑誌はもちろんのこと,テレビ,デパートなども同様です。こうした泥舟からはさっさと撤退したものがビジネスで生き残るのでしょう。

 その一方で,ライトアップはすごい人でした。これはこれで,何か対策をしなければ,単に人の頭を見るだけに終わります。東京の美術展なども同じで,コロナ禍のころが懐かしいです。立ち止まるな,という係員の声が聞こえるのですが,ライトアップを見にきて,立ち止まらないで何を見るというのでしょうか? あほみたいな話です。
 私は,そんなことは承知で,どういうものか興味半分で来てみたのですが,予想通りでした。お昼は有料の兼六園ですが,どういうわけかライトアップは無料です。入園料を2,000円くらいとってみれば,もっと優雅なライトアップになると思われますが,それはそれで,今や,夢の国でなく,金持ちだけの国と化したディズニーランドと同じことになります。とはいえ,金持ちなのに,ディズニーランドごときに行くこと自体,その人が成金のような気がしますけれど…。
 せっかく,時雨亭で,オーケストラ・アンサンブル金沢の原田智子さんがヴァイオリンの演奏をしていたのに,音楽を味わえるものでもなく,気の毒な限りでした。
 そんなライトアップもほどほどに,私は,散歩がてら,ひがし茶屋街まで足をのばして,そうそうに引き上げて,ホテルに戻って寝ました。

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【Summary】
Honda-no-Mori Park, established in 1978, spans 5.9 hectares on the former site of the Honda family's samurai residences during the Kaga Domain era. It features cultural institutions such as museums, a Noh theater, and is known for its serene and lush environment.

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 金沢城,兼六園と続く,さらに南東の地区に,本多の森公園(ほんだのもりこうえん)があります。
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 本多の森公園は石川県営の都市公園で,多くの文化施設が整備されています。公園開設は1978年(昭和53年)で,敷地面積は5.9ヘクタール(約5ヘクタールがプロ野球のグランド程度)。本多の森公園は加賀藩期の家老本多家の武家屋敷が軒を連ねていたところで,戦後は金沢美術工芸大学の用地でしたが,現在は,石川県立美術館,石川県立歴史博物館,加賀本多博物館,石川県立能楽堂,石川県立伝統産業工芸館,石川護国神社,国立工芸館などがあります。
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 公園内には常緑広葉樹林が多く散歩道が整備され,とても心落ち着くところでした。金沢城,兼六園と観光客でごった返していたのですが,この場所は一転して,ほとんど人のいないすばらしい場所でした。
 私は,休日の東京の様を連想して,レストランはどこも激混みだと思って,この場所にあったキッチンカーでカレーを買って,そのあたりのベンチで昼食をとりました。その後,石川県立歴史博物館へ入りました。
 なかなかすばらしい場所でした。もし,金沢市に住んでいたら,この場所はお気に入りになっていることでしょう。

 さて,こうして金沢市の観光を終えて,そろそろコンサートの時間が近づいてきたので,金沢駅に戻ることにしました。
 金沢市の中心街を香林坊(こうりんぼう)といいます。変わった名前で,どこかの寺ではないのかとはじめて来たときは戸惑いました。
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 町名の由来は,戦国時代,比叡山の僧であった香林坊が還俗してこの地の町人向田家の跡取り。向田香林坊(むこうだこうりんぼう)となり,以来目薬の製造販売に成功して「香林坊家」として繁栄したという説が有力です。
 江戸時代には商店街として共に発展,明治時代になり金沢城に旧制第四高等学校が開校したことから学生向けのカフェや映画館などが集積することとなり,北陸最大の繁華街となりました。
 一時期衰退しましたが,現在は,若者の街から大人の街へと変貌しつつあります。
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 この日は土曜日ということもあり,昼食をとるところもないのでは,と私はキッチンカーのお世話になったのですが,金沢市街は,意外や意外,食事をとる場所はいくらでもあるのでした。
 確かに,現在の金沢市は外国人観光客でごった返しているのですが,彼らのほとんどは,行く場所が限られていて,そこを少し外すと,昔の小京都金沢がまだいくらでも残っているのでした。

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【Summary】
Kenrokuen Garden, created in 1676 by the Maeda clan, was later restored and opened to the public in 1874. Though crowded, it felt more relaxing than Kanazawa Castle. However, I found Seisonkaku Villa, built in 1863 as a retirement residence, more appealing, especially its serene "Tsukushi Veranda Garden."

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 金沢城の南東に百間堀通りを隔てて,広さが約12ヘクタール(約5ヘクタールがプロ野球のグランド程度)の兼六園があります。以前行ったことがあると思うのですが,全く記憶にありませんでした。
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 1676年(延宝4年)加賀藩5代藩主・前田綱紀が金沢城に面する傾斜地にあった藩の御作事所を城内に移し,その跡地に別荘「蓮池御殿」(れんちごてん)を建ててその周りを庭園化したのが兼六園のはじまりです。
 1759年(宝暦9年)宝暦の大火で焼失しましたが,15年後の1774年(安永3年)から1776年(安永5年)にかけて,10代藩主・前田治脩(はるなが)によって再興され,庭園が整備されました。
 また,1822年(文政5年)11代藩主・前田斉広(なりなが)の依頼に応じて,白河藩主松平定信が兼六園と命名しました。
 明治時代になって,1874年(明治7年)から正式に一般公開されました。
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 かなり混雑していたのが難点でしたが,張りぼてだと感じた金沢城に比べたら,くつろげる場所でした。

 とはいえ,私は,兼六園の庭園以上に,成巽閣(せいそんかく)に興味をもちました。ここは入館料が必要なので,観光客がぐっと減るのが,また,よいのでした。
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 現在,歴史博物館として一般公開されている成巽閣は,1863年(文久3年)に加賀藩12代藩主・前田斉泰が母・真龍院の隠居所として建てれらたものです。
 金沢城から見て巽の方角(東南)にあること,京都の鷹司家が辰巳殿とよばれていた事にちなんで, 建築当時は巽御殿(たつみごてん)とよばれていましたが,後に成巽閣と改められました。
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 成巽閣は,武家書院造と数寄屋風書院造をひとつの棟の中に組み入れた巧みな様式をもつ建造物で,また,大名正室の御殿ということで,優しい様相を呈しているといわれます。
 私が落ち着いたのは,御居間である「蝶の間」に面した「つくしの縁庭園」でした。
 京都などには多くの庭園がありますが,ここの庭園はそれに勝るとも劣らないものでした。

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【Summary】
Actor Shohei Hino passed away on November 14. I first knew him from Kunitori Monogatari and later grew fond of him through Kokoro Tabi, feeling his presence in places I visited across Japan. Despite the physical toll of his bike journeys, the joy of encounters seemed to bring him happiness. May he rest in peace.

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 2024年11月14日,火野正平さんがお亡くなりになりました。
 
 私が火野正平さんを知ったのは,NHK大河ドラマ「国盗り物語」で豊臣秀吉を演じたときでした。1973年(昭和48年)に放送された「国盗り物語」は,群雄割拠の戦国時代に一介の浪人から身を起こし美濃の国の大名にまで上りつめた斎藤道三と天下制覇を夢見ながら野望半ばに倒れた道三の意志を継いだ信長と光秀。その乱世を生きた人々の激しい葛藤を描いたものでした。
 番組を見たときは,およそ威厳のあるようには見えなかった火野正平さんでしたが,なぜか印象に残りました。

 その後は,別にファンでもなかったので,NHKBS「にっぽん縦断こころ旅」がはじまったときは,何この汚らしいおじさん,どうしてこの人を抜擢したの?と思いました。
 ところが,次第にこの番組は,私の癒しとなりました。そして,私も日本中を旅するようになると,どこに行っても,火野正平さんと何か関わりのあるところばかりだったのは驚きました。
 青森県の象岩に行けば,その岩に腰かけて火野正平さんが手紙を読んだとか,壱岐島の神社では火野正平さんが店員の女性を口説いたとか,佐渡島の民宿に泊まれば,宿の女将さんとのツーショット写真を撮ったりとか,あるいは,この道を走ったとか,そういう痕跡があるのでした。青森県の野辺地駅では,交換したお守りが飾ってありました。
 私が残念だったのは,家の近くを通ったこともあったのに,実際に走っている姿を見ることができなかったことでした。

 おそらく,自転車で旅をするのは,身体にはかなりの負担となっていたのでしょうが,その土地での人々との出会いは,それに勝る喜びだったに違いありません。そんな出会いは,なかなかできるものでなく,幸せな時間だったことでしょう。
 ご冥福をお祈りします。

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【Summary】
Kitanofuji, my childhood idol, passed away on November 20, 2024. As a boy, I admired his sumo skills and often watched him train near my home during Nagoya tournaments. His humor and kindness left a lasting impression. Decades later, I met him again in 2021, recalling the autograph he gave me 50 years earlier. Rest in peace.

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 2024年11月12日,現役のころから大好きだった北の富士さんがお亡くなりになりました。

 私が中学生のころ,学校でお相撲の好きな友達が多く,いつも盛り上がっていました。
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 横綱大鵬の引退は1971年(昭和46年)。そして,大鵬の晩年は,横綱北の富士,横綱玉の海の三つ巴の戦いが見ものでした。また,名古屋場所,横綱北の富士の所属していた九重部屋が私の住んでいた家の近くだったこともあり,テレビ中継が終わり,30分ほどすると,車で戻ってきて,宿舎のお寺の縁側にどかっと座って一休みするのです。そして,今がチャンスと,色紙を持って行ってサインをしてもらったのです。「坊,いくつか」と言って話しかけられました。
 稽古のときの迫力もすごいものでした。これほどやらないと強くなれないんだな,と実感しました。でありながら,相手の若い力士に顔をひっかかれたときには,「おい,俺は顔がウリなんだ。今日からテレビにでるんだぞ」というような冗談を言っては笑わせていました。

 やがて,好敵手だった横綱玉の海が急死し,それ以降は精彩がなくなってしまいました。
 引退は1974年(昭和49年)の名古屋場所でした。私の家の周りには多くの報道機関の車が停まり,お寺の本堂で記者会見が行われていました。私も本堂に上がって記者会見を聞いたのですが,翌日の中日スポーツの1面には,横綱北の富士の横の私の顔もありました。
 ときは過ぎ,2021年(令和3年)の名古屋場所千秋楽。解説を終えて帰るところだった北の富士さんと会いました。「50年前にサインをいただいたことがあります」というと「えっつ,50年前!」と言われました。
 ご冥福をお祈りします。

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【Summary】
On November 9, 2024, I visited Kanazawa Castle before attending an Orchestra Ensemble Kanazawa concert. Though I had been disappointed by its use as a university in my youth, I was surprised by the castle’s vast grounds after the university’s relocation. However, much of it is a recent reconstruction, feeling like a mere tourist attraction that lacks genuine charm, appealing more to foreign visitors seeking an idealized "Japan."

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 2024年11月9日,金沢市に行って,オーケストラ・アンサンブル金沢(Orchestra Ensemble Kanazawa)第487回定期公演マイスター・シリーズを聴きましたが,その折に,1泊2日で金沢市と能登半島を旅することにしていました。
 まず,11月9日は,金沢市を観光することにしました。金沢市に着いたのが午前9時ころで,午後2時からのコンサートだったのですが,すでに石川県立音楽堂の駐車場に車を停めることができたので,そこに駐車して,歩いてまわることにしました。
 私はすでに,数回,金沢市に来ています。そして,金沢駅,近江町市場,ひがし茶屋,長町武家屋敷跡,兼六園など,金沢市の主だった観光地にも行っています。ということで,ほとんどの場所は知っているのですが,何か,消化不良だという気持ちが残っているのです。
 さらに,若いころ,金沢城にも行っているのですが,その時分は,石川門をくぐるとそこは金沢大学で,がっかりした思い出があります。そこで,私は,金沢城は見どころでない,と思って,ずっと敬遠していたのですが,それは昔のことで,今は,金沢大学は移転して,金沢城として観光地化したということを聞いたので,今回行ってみたいと思ったこともあります。
 とはいえ,現在の金沢市は外国人観光客ばかり,近江町市場もまた,外国人目当ての観光地となってしまい,地元の人は寄りつかない場所になってしまったということも聞いていたので,行きたいという気持ちも減退していましたが,どうしてそんなに外国人が集まるのだろう,という謎を解きたいとも思いました。

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 「加賀百万石」というように,外様大名である前田家の領地・加賀藩の実際の石高は119万5000石に上り,領地は加賀,能登,越中3か国のほぼ一円でしたが,1639年(寛永16年)3代当主前田利常が隠居の際に富山(10万石),大聖寺(だいしょうじ)(7万石)を分藩したため,加賀藩は102万5000石となりました。
 また,前田家は徳川将軍家とも姻戚関係が深く,2代将軍徳川秀忠の娘・珠(たま)が3代藩主前田利常(としつね)に嫁ぐなど,徳川家から多くの正室を迎えたことで,家格も別格扱いで「御三家並み」に位置づけられ,将軍に拝謁する際は御三家等が控える大廊下詰が許され,松平姓と葵紋の使用も許されていました。7代藩主前田宗辰(むねとき)以降は早世が相次ぎ,また,加賀騒動とよばれるお家騒動も勃発しましたが,14代藩主前田慶寧(よしやす)まで,加賀藩は維持されました。
  ・・・・・・
 金沢城は加賀前田家の居城でした。
 すでに書いたように,若いころ,さぞかし立派だろうと思って行ってみた金沢城が大学であったことに落胆した私でしたが,その様変わりを見るために,まず,金沢城に向かいました。
 石川県立音楽堂のある金沢駅前から金沢城までは近江町市場を経由して歩いたら30分程度ということでした。外国人だらけの金沢駅前から,バスに乗る気も起きず,観光案内所で聞いた道筋に従って,金沢城に向かいました。
 途中の近江町市場は外国人目当ての「インバウン丼」があふれ,地元の人は寄りつかなくなったと聞いていたので,敬遠しました。
 金沢城に着きました。今回,再び行ってみて,大学の去った城内の広さには驚きました。とはいえ,この城は,従来からあった石川門あたり以外は,近年復元されたもので,いわば,張りぼてに過ぎず,要するに,単なるテーマパーク。私は何の魅力も感じませんでした。つまり,アメリカに憧れる日本人がディズニーランドに行ってアメリカを感じるようなものと同じですが,これを見て,外国人は日本を感じるのだろう,だからやってくるのだろうと納得しました。

加賀百万石

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【Summary】
After walking from Goyu-juku to Akasaka-juku and back, I visited historical sites, including Tōrin-ji Temple, where Tokugawa Ieyasu once rested, and saw the graves of "meshi-mori onna" (serving women). I then explored the Goyu Pine Avenue Museum, showcasing a detailed model of the pine-lined road. At noon, I had a sushi lunch at "Sushi Taka," run by a young chef trained in Ginza. Despite its cost, it was a satisfying end to the trip.

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 御油宿から御油の松並木を通って赤坂宿へ,そして,赤坂宿から再び御油の松並木を通って御油宿へ戻ってきました。御油宿から赤坂宿までは1.7キロメートルしかないので,往復しても,他の宿場間の距離もありません。
 イチビキの工場を通り過ぎて最初の西に入る交差点をまがり70メートルほど行くと,浄土宗寺院の東林寺がありました。東林寺は,永享年間(1429年から1441年)に龍月日蔵和尚によって創建された寺院で,当時は,寺領4町歩,末寺として4つの寺をもつ御油町の中心寺院でした。
 ちなみに, 面積を表す一番小さな単位は1歩(ぶ)。これは1坪と同じ大きさで畳2枚分です。1畝(せ)は30歩で,1アールにほぼ相当します。1反(たん)は300歩,1町(ちょう)は3,000歩tとなり,ほぼ1ヘクタールで,学校の校庭ぐらいの大きさとなります。
 東林寺は,江戸時代,三河の領主であった徳川家康が2回立ち寄って休息しています。
 東林寺には,墓地の中央,土塀寄りの所に飯盛女の5つの墓があります。このうちの4つは,1848年(嘉永元年)に御油宿内の用水溜で自殺を図った飯盛女の墓で,旅籠屋の抱え主がその菩提を弔い建てたものです。
  飯盛女とは,宿場にいた遊女で,それをめあてに宿泊客が集まり商売が繁盛するので,多くの旅籠では飯盛女をかかえていました。その多くは生計が苦しい家や年貢を納めることが固難な農家が金を借りるため年季奉公に出した娘たちでした。御油宿は遊興の宿場として知られ,多くの飯盛女がいましたが,彼女らは非常に不遇な立場に置かれていました。

 また,御油宿には,「御油の松並木資料館」がありました。朝来たときはまだ開館時間でなかったので,先に赤坂宿まで行ったのですが,帰りに寄ることができました。
 東三河地方には,二川宿,吉田宿,御油宿,赤坂宿の4つの宿場があります。御油宿と赤坂宿の間にある約600メートルの「御油の松並木」の様子を,展示室の中央にある1,000分の1の復元模型で再現してありました。また,御油宿に関する資料など,約130点が展示されていました。

 これで,今回の宿場歩きは終わりです。
 ちょうどお昼になったので,どこかいいお店はないか,と思って探してみたのですが,なかなかありません。国府駅近くの街中に「鮨たか」というお寿司屋さんがあったので,高そうでしたが,思い切って入ってみました。
 2019年末に開店した,というから,コロナ禍直前のことで,ずいぶんと苦労した,という話でした。
 お昼の食事は,にぎり9貫4,000円ということだったので,それを注文しました。最後に巻物もありました。若い大将は銀座の「鮨太一」で修行したということでした。
 少しぜいたくでしたが,こうした半日の旅も悪くないものでした。

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【Summary】
I visited Sugimori Hachiman Shrine in Akasaka-juku, known for its annual kabuki performances held on a reconstructed stage since 2000, with traditional roofed seating. After visiting, I returned to Shohoji Temple, which has many cultural properties and rare trees. Akasaka-juku had four honjin inns; one was the Matsudaira family, who, due to a family rift, changed their surname to Hiramatsu.

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 大橋屋を出て,さらに西に歩きました。そこには杉森八幡社(すぎもりはちまんしゃ)があります。私は10月15日に旧東海道の御油宿から赤坂宿を歩いたのですが,10月26日に,杉森八幡社で歌舞伎を行なうと聞いたのです。
 杉森八幡社の祭神は天照大神,応神天皇,仁徳天皇,神功皇后です。境内には何本もの巨樹が茂っていて,そのうちで,拝殿前に立つ2本の楠は,根元が一体化していて「夫婦楠」(めおとぐす)と通称されています。
 赤坂宿では,かつて,杉森八幡社に人形芝居や神楽を奉納していたのですが,明治に入ってからはこの風習は廃れ,代わって舞台公演が行われました。舞台公演の際には,小屋掛けという,竹を格子状に組んで作った屋根付きの観覧席が設置されて,5日間狂言が催されていましたが,太平洋戦争がはじまると行われなくなりました。2000年(平成12年)に舞台の復元工事が行われ,以来,年1回歌舞伎公演が行われるようになり,これに合わせて小屋掛けの伝統も復活しました。
 私が訪れたときは,ちょうど小屋掛けがはじまったときでした。

 この日は,杉森八幡社まで行って引き返しました。旧東海道をその先まで歩くと,次の宿場は藤川宿です。藤川宿は以前行ったことがあります。
 さて,大橋屋の手前まで戻ると,そこに浄土真宗寺院の正法寺があります。
 推古天皇の時代,聖徳太子がこの地を訪れ,堂を建て太子の像を安置したという寺伝がありますが,おそらく作り話でしょう。正法寺には,数多くの有形文化財がありますが,非公開です。庭には,ワビスケ,イヌマキといった天然記念物が植えられています。ワビスケはツバキ科の常緑樹で,冬に半開きの桃色の花をつけます。また,主に生垣として用いられることが多いイヌマキは,古木が2本あります。

 赤坂宿の本陣は,4軒ありました。そのうちの1軒が松平彦十郎家で,江戸時代初期から本陣を勤め,人馬継ぎ立てを行う問屋も兼ねていました。現在,その場所には,松平ではなく平松という表札があります。大橋屋のボランティアガイドさんの話によると,その近所に松平さんが住んいて,お互い親戚で徳川家康の末裔とかいう話ですが,仲が悪く,片方の松平さんは,名字を反対にして平松に変えたとかいう話でした。

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【Summary】
On November 16, 2024, I attended the Nagoya Philharmonic Orchestra’s 528th Subscription Concert at Aichi Arts Center. Conducted by Tatsuya Shimono, the program featured the world premiere of Naoki Sakata’s Colored Shadows and Bruckner’s Symphony No. 9 in its original version.

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 2024年11月16日,名古屋フィルハーモニー交響楽団第528回定期演奏会〈喜怒哀楽を超えて/ブルックナー生誕200年記念〉を聴いてきました。場所は愛知県芸術劇場コンサートホール,指揮は下野竜也さん,曲目は,坂田直樹の「彩られた影」-管弦楽のための-とブルックナーの交響曲第9番でした。坂田直樹の「彩られた影」-管弦楽のための-は委嘱新作で世界初演,ブルックナーの交響曲第9番は原典版での演奏でした。
  ・・・・・・
 ブルックナー(Joseph Anton Bruckner)は, 1824年に生まれ,1896年に72歳で亡くなりました。
 1887年,ブルックナーは交響曲第8番を完成させたのち過去の交響曲の改訂に労力を費やし,1892年になって,第9番の作曲に打ち込みはじめました。オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世からベルヴェデーレ宮殿の住居が提供され,完成をめざしましたが,ブルックナーが亡くなったときに完成していたのは第3楽章まででした。
  ・・・・・・

 第4楽章の草稿が残されているため,補筆して完成させた楽譜もあり,あるいは,この作品が未完成に終わった場合には自作の「テ・デウム」を第4楽章として演奏するように示唆したという話もあり,それらに基づいた演奏を,私もいくつか聴いてみたことがあるのですが,評価しません。
 また,未完に終わった交響曲第9番には,作曲者による異稿は存在しません。原典版以前に出版された初版(レーヴェ版)が存在しますが,改訂内容が過剰で,今日では上演されることはほとんどありません。私は,ブルックナーの交響曲で,第9番は第4番の次に好きな曲なので,楽しみに聴きに行きました。
 指揮者の下野竜也さんは,毎年のようにNHK交響楽団の定期公演に登場します。曲目の選択がユニークで,私が知らない曲を並べます。そこで,曲を聴いても,いいのか悪いのか,愚かな私にはいつもわかりません。そいう先入観があったので,指揮者下野竜也さんを少し敬遠気味だったのですが,昨年2023年12月のベートーヴェンの交響曲第9番を指揮したのをテレビで見て,私の印象がすっかり変わりました。そして,聴いてみたい指揮者のひとりとなりました。
 ということで,今回,聴きにいったわけです。

 1曲目の坂田直樹の「彩られた影」はユニークなものだったのですが,2曲目のブルックナーの交響曲第9番は大曲で,私はこれが目当てでした。
 期待通りのメリハリのある演奏でした。ブルックナーの交響曲第9番は,もし,第4楽章が完成していたたらどんな曲になっていたでしょう。今のままでの十分で,これ以上このような音楽が続いても,さすがに疲れます。
 この曲の極めつけは第2楽章スケルツォ。トリスタン和音に続く43小節からのトゥッティはとても印象的なものです。
 私は50年以上前はじめて聴いたときは,ちょっとやりすぎじゃないの,と思ったのですが,この楽章があるゆえに,第3楽章が生きるのです。また,第2楽章は,演奏するオーケストラによってボーイングの違いがよくわかり,これが,この楽章全体の違いともなります。

 それにしても,いつも思うのですが,名古屋でクラシック音楽を聴くと,どうしていつも地味に聴こえるのでしょう。よし悪しは別として,要するに華がないのです。オーケストラもそうだし,聴いている観客もまた,何かしらさえません。それがまた,いかにも名古屋です。少し前に聴いた井上道義さんのときだけは,華だらけでしたが…。
 下野竜也さんはいい指揮者ですが,やはり,華というか,カリスマ性には少し欠けるところがあります。ブルックナーの交響曲は,どんなにいい演奏をしても,このカリスマ性がないと,いまひとつ何か物足りないのは致し方ありません。カリスマ性は,重厚さ,神々しさにつながるもので,歳を重ねてはじめて出てくるものです。下野竜也さんはまだ若いので,この先,どういうカリスマ性がにじみ出てくるか,楽しみです。
 終演後,団員さんのお見送りががありました。「名フィル」もまた,いい意味で変わりつつあります。

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【Summary】
In 1018, Fujiwara no Michinaga recited the famous poem about the "moon at its fullest" during a banquet celebrating his daughters as empresses. While interpretations vary, from expressing transient glory to referencing the completeness of the moment, some argue Michinaga’s intent was simple: admiring the beauty of the moon, akin to his joyous mood, without deeper meaning.

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 今日2024年11月17日に放送されるNHK大河ドラマ「光る君へ」の第44回「望月の夜」。
  ・・・・・・
 此世乎は我世と所思望月乃虧たる事も無と思ヘハ
  ・・
 この世をばわが世とぞ思ふ 望月のかけたることも無しと思へば
  ・・・・・・
 1018年(寛仁2年)10月16日,藤原道長の娘の威子が後一条天皇の中宮になりました。
 宴席では,彰子が太皇太后,妍子(きよこ)が皇太后と,后の席がすべて娘で満たされた藤原道長が詠ったのち,公卿たちが数度この歌を唱和したと藤原実資の「小右記」に記録されています。
 1018年10月16日は,新暦に換算すると11月26日です。その日の月齢は16。今年2024年では11月17日の月が月齢16となります。 写真は月齢16の月です。世間では,11月16日がまさにその日と同じ月だと騒いでいるようですが,実際は11月17日,ちょうど「光る君へ」が放送されるその日です。

 この歌の意味として,従来は「おのが望みの皆かなひたるを十五夜の満月にひき比べて此の世はおのれひとりのものぞ」とされてきました。
 また,このときの月が満月でなく少し欠けたものであることを指摘して,この歌自体は「栄華のはかなさ」を示したもので,藤原道長自身はそのはかなさを知っていることを示したものであるとか,「月は少し欠けているが后となった娘は満月のように欠けていない」という意味だという解釈もあります。
 さらに,京都先端科学大学教授山本淳子によると,この歌は「今夜のこの世を私(藤原道長)は心ゆくものと思う。目前の月は欠けているが、私の月 -后となった娘たち,宴席の皆と交わした杯- は欠けていない」という意味だといいます。
 それは,まず,「わが世」の解釈では,「世」は「夜」と掛けられていて,藤原道長が,「私の世界」と言ったわけではなく,ただ「今夜の状況」という解釈が自然だというのです。
 また,「望月」では,「月」は「后」だけでなく「杯」という意味も含んでいて,「小右記」には,宴では,藤原道長は,藤原実資に,藤原頼通に酒を注ぐように頼み,次に藤原頼通頼通は左大臣の藤原顕光に,そして藤原道長,さらに,藤原公季に酒を注いだとあることから,このように,「望月」というのは「だれひとり欠けることなく酒を交わし合った杯」と詠ったという意味も重ねられているというのです。
 さらに,1008年(寛弘5年)に彰子が敦成親王を生んだ際「誕生を寿ぐ歌を」と急に指名された際,困らないように紫式部が準備した
  ・・・・・・
 めずらしき光さしそう盃は もちながらこそ千代もめぐらむ
  ・・・・・・
という歌がありました。この歌では,「さかづき」に「月」,「持ち」に「望月」が掛けられていて,藤原道長の望月の歌にとても近いものだったといいます。

 このように,さまざまな解釈ができるわけですが,私がひとつ感じるのは,藤原道長が詠った月が満月ではなく少し欠けた月だと解釈している人に感じる言葉に酔っている危うさです。
 以前「有明の月」について
  ・・・・・・
 多くの歌で詠まれる「有明の月」がどういう月か,実際に体験したことがあるのでしょうか。見たこともないのに,単にイメージに,あるいは,言葉に酔っているとしか思えない解釈をする人を言葉に酔っている危うさと同じだと私は思うのです。
  ・・・・・・
と書きました。
 それと同じように,写真を見ればわかっても,実際,肉眼で月齢16のまぶしいほど明るい月を見たとき,その月が満月に比べて少し右上が欠けている,などと気づくのでしょうか? ということです。だから,少し欠けた月を見て詠んだ,など言う解釈は言葉に酔っているだけだと私は思うのです。
 そうしたことから,この歌は,単に,満月を見て,きれいな月だなあ,この宴の状況と同じだ,と,ほろ酔い加減に詠んだだけで,あまり深読みするようなものではないのではないか,と私は感じます。

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●1018年11月26日の空
1018-10-16●2024年11月17日の空
2024-11-17


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【Summary】
I arrived at Akasaka-juku after walking through the Goyu pine-lined road. Akasaka-juku, the 36th post station on the Tokaido, retains much of its historical charm. I visited "Ohashiya," a former inn that operated in its original Edo-period building until 2015, now managed by Toyokawa City and open to the public. I enjoyed a private, immersive experience with a volunteer guide, exploring the tall, traditional structure, soot-covered walls, and Edo-period architectural details.

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 御油の松並木を歩き終えると,赤坂宿に着きました。御油宿と比べると,ずいぶんと宿場の雰囲気の残るところでした。
 赤坂宿は,東海道五十三次の36番目の宿場で,80軒以上の旅籠がありました。
 赤坂宿と御油宿との間隔は東海道の宿場の中で最も短く,16町,約1.74キロメートルしかありませんでした。現在,関川神社に残る「夏の月 御油より出でて 赤坂や」という松尾芭蕉の句は,地理的に極めて近い両者の関係を詠んだものであるとされます。
 御油宿や吉田宿とともに飯盛女を多く抱えていた赤坂宿は「御油や赤坂,吉田がなけりゃ,なんのよしみで江戸通い」といわれた程,活気のある宿場町でした。要するに,江戸時代の風俗街でした。
 東海道線の経由地から外れたために,御油宿とともに繁栄から取り残されたことで,結果として,今も旧東海道の面影が残る地となりました。

 ここには「大橋屋」という旅籠が残ります。私は,以前より,ずっとそこに行ってみたかったのです。
  ・・・・・・
 旧東海道・赤坂宿の旅籠「大橋屋」は,元の屋号を「伊右ェ門鯉屋」といい,2015年(平成27年)まで営業を行い,東海道五十三次の宿場町のうちで,江戸時代の建物のまま営業する最後の旅籠でした。
 江戸時代の東海道赤坂宿の佇まいを今に伝える老舗で,歌川広重の東海道五十三次では,赤坂宿舎招婦図のモデルになっていました。また,松尾芭蕉が宿泊し,俳句を詠んだともいわれます。
 創業366年目にして,旅籠の歴史に幕を降ろし,豊川市に寄贈され,現在は,改修ののち,一般公開されています。
  ・・・・・・
 ちなみに歌川広重が描いた『東海道五十三次・赤坂』とは、この大橋屋の中庭を描いたものですが,画にあるソテツは,現在,近くの浄泉寺へ移植されています。

 平日でもあり,大橋屋を訪れていたのは私ひとりでした。ここは豊川市の施設ということもなり,内部の見学は無料で,ボランティアガイドさんもいました。
 いろいろと詳しい説明を聞き,時間をとって過ごすことができました。約8メートルの高さの吹き抜け,昔の囲炉裏の名残で真っ黒になった壁や太い梁,日本の伝統的な工法の和小屋組(わごやぐみ)など,江戸時代に戻ったようで楽しい時間となりました。

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【Summary】
After passing through Goyu-juku, I reached the Goyu Pine Avenue, my destination. Few such avenues remain. Here, 271 pine trees span about 600 meters. Though a path for both cars and pedestrians, safety features like rubber poles detract from its beauty. The adjacent Goyu Pine Avenue Park could have housed the road, leaving the historic path undisturbed, but such investments seem unlikely in Aichi Prefecture.

######
 御油宿を過ぎて,さらに歩いていくと,私の今回の目的である御油の松並木が見えてきました。
 松並木は,かつて五街道の各所に存在しましたが,伐採されたり朽木となったりして,現存しているところはあまりありません。御油の松並木は,現存している数少ない松並木のひとつです。
 御油宿の西端から赤坂宿の東端までの約600メートルにわたって,271本の松の木が立ち並んでいます。
 江戸時代の滑稽本「東海道中膝栗毛」のなかで,弥次郎兵衛と喜多八がここでキツネに化かされた話が描かれています。

 上方見物のために東海道を旅する弥次郎兵衛と喜多八は御油の宿から次の宿場の赤坂へ向かう並木道を歩いています。日が暮れて提灯も持たずに遅れた弥次郎兵衛を持つ喜多八は,この辺りに人を化かす狐が出るという噂があるので心細くなっていました。喜多八のすぐ後ろで狐の鳴き声がし,狐の真似をした弥次郎兵衛が臆病な喜多八にこれまでの道中の恨み言を言い「馬の糞を食べろ」とからかって自分の荷物まで持たせてしまいます。やっと弥次郎兵衛と気づいた喜多八は気を取り直して先を急ぎます。
  ・・・・・・
はや夜に入りて,両がはより出くるとめ女,いづれもめんをかぶりたるごとく,ぬりたてたるが,そでをひいてうるさければ,弥次郎兵へやうやうと,ふりきり行すぐるとて
  その顔でとめだてなさば宿の名の御油るされいと逃て行ばや
弥次郎兵衛あまりに草臥(くたびれ)ければ,先此所はづれの茶店に腰をかけたるに
 あるじの婆々(ばば)「アイお茶まいりませ」
 弥次「モシ赤坂まではもふ少しだの」
 ばば「アイたんだ十六丁おざるが,おまへひとりなら,此宿にとまらしやりませ。此さきの松原へは,わるい狐が出おつて,旅人衆がよく化され申すは」
 弥次「そりやア気のねへはなしだ。しかし爰へ泊たくても,つれがさきへいつたからしかたがねへ,エエきついこたアねへ。やらかしてくれふ。アイおせは」
トちや代を置,此ところを立出行に,くらさはくらしうそきみわるく,まゆ毛につばをつけながら行。はるか向ふにて,きつねのなくこへ
 「ケン~ケン~」
 弥次「ソリヤなきやアがるは。おのれ出て見ろ。ぶち殺してくれふ」
トりきみかへつてたどり行に,北八もさきへかけぬけ,此所迄来りしが,これもここへきつねが出るといふはなしをききて,もしもばかされてはつまらぬと,弥次郎をまち合せ,つれ立ゆかんとおもひ,土手にこしをかけ,たばこのみいたりけるが,それと見るより
 北八「ヲイヲイ弥次さんか」
 弥次「ヲヤ手めへなぜここにゐる」
 北八「やどとりにさきへいかふとおもつたが,爰へはわりい狐が出るといふことだから,一所にいかふとおもつて待合せた」
トいふに弥次郎心つき,こいつきやつめが,きた八にばけたなとおもひければ わざとよはみをみせず
 弥次「くそをくらへ,そんなでいくのじやアねへは」
 北八「ヲヤおめへなにをいふ。そして腹がへつたろふ。餅を買て来たからくひなせへ」
 弥二「ばかアぬかせ。馬糞がくらはれるものか」
 北八「ハハハハハハハ,コレおれだはな」
 弥次「おれだもずさまじい。きた八にそのままだ。よく化やアがつたちくしやうめ」
   十返舎一九「東海道中膝栗毛」4編上-御油より赤坂へ-
  ・・・・・・

 私も,東海道中膝栗毛のように,松並木の手前にあった「弥次喜多茶屋」で一服することにしました。
 この茶店の店長さんは私ととても波長があって,お話をしながら,楽しい時間を過ごすことができました。また行ってみたいです。
 店長さんは,もう少し松並木が魅力的になればいいのに,と言っていました。
 松並木のある旧東海道は舗装され,今も車が通ることができるので,かつては,松並木を歩くのはずいぶん危険でした。2009年(平成21年)に車道部分を狭くして歩道が整備されたので,いくぶん安全に歩行者が通行できるようになったといいます。
 しかし,車と歩行者が安全に通行できるように,道路標識やラバーポールがあって,その景観が台なしとなっていて,私はがっかりしました。松並木沿いに「御油松並木公園」というだだっ広いだけの広場があるので,どうしてその土地に自動車の通る道路を移して,松並木のある旧東海道は車の侵入を禁止にし,道路の舗装も変えて,美観を整えなかったのかな,と思いました。
 愛知県というところは,こういう投資ができない県民性なのです。

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【Summary】
I arrived at Kō Station on the Meitetsu line, joining the old Tokaido route towards Goyu-shuku, passing the historic Hime Kaido fork. Goyu-shuku, once a bustling Edo-period post town, is known today for Ichibiki Co., a miso and soy sauce company. Originally a tavern, it shifted to brewing in 1772 after an incident involving its serving women.

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 午前8時過ぎに名鉄電車の国府駅に着きました。この日は平日なので,通学途中の高校生で一杯でした。近くに愛知県立国府高等学校があります。まず,国道1号線を南東に歩き,旧東海道が国道1号線と別れるところで,旧東海道に入りました。急に昔の街道の雰囲気になりました。
 ずっと歩いていくと,姫街道との追分がありました。
  ・・・・・・
 姫街道は浜名湖の北側、本坂峠を経由して静岡県磐田市見付町(東海道見附宿)と愛知県豊川市御油町(東海道御油宿)を結ぶ街道でした。道程約60キロメートル。もともとは,こちらが東海道の本道でした。
 中世以降、浜名湖南岸の往来が盛んになるとそちらが本道となりました。
 幕末頃から姫街道の呼称が定着しましたが,呼称の由来は,東海道の本道である新居(今切)の関所での取り調べ,舟での渡海,もしくは「今切」の語の縁起が悪いことを嫌って利用した女性が多かったことからです。
  ・・・・・・
 私は,静岡県浜名湖あたりの姫街道は行ったことがあって,姫街道を制覇してみようと思ったのですが,その距離が60キロメートルと聞いてあきらめました。その終点がこの御油宿なのでした。

 御油宿は,東海道五十三次の35番目の宿場で,本陣が最多時4軒,最少時2軒,人口約1,300人で家数316軒,旅籠62軒ありました。その昔,持統天皇が宮路山に来たときに油を献上したという伝説から御油の町名になったといいます。歌川広重の東海道五十三次は「留め女」とよばれる旅籠の女が旅人らを無理矢理引きずり込もうとしているさまを描いています。
 御油宿の宿並を進むと左手の味噌醤油醸造業のイチビキ工場があります。御油宿で特筆すべきは,実はこの味噌醤油醸造業のイチビキ株式会社です。
 イチビキ株式会社の前身は大津屋という旅籠でした。あるとき,旅籠のお抱え飯盛女5人が入水して果てました。飯盛女というのは,実質遊女です。当主の中村弥十郎はこのことで稼業に嫌気がさし,1772年(安政元年)に旅籠を廃業し,味噌醤油醸造業に転業したのでした。今も,そうした家風が残っていて,この企業は地元に根差す優良企業なのだそうです。

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【Summary】
During Japan's exceptionally hot summer in 2024, I stayed indoors through August and September, venturing out in October. I visited the Goyu Pine Grove along the old Tokaido, traveling from Nagoya by Meitetsu Railway. Despite Nagoya Station’s outdated and confusing layout, I booked a front panoramic seat on the 1200 series train, enjoying the unique view from the tunnel as we approached the station.

######
 2024年の夏は異常な暑さでした。私は,2023年の夏の経験から,8月と9月はひたすら家に籠ることにして,10月になったら行動開始! と思っていました。9月に旅行をしたのは,立山黒部アルペンルートでここなら涼しいと思っていたのに,やはり,思ったほどではありませんでした。また,コンサートを聴くために,しかたなく東京へ2度行きました。
 10月の声を聞き,さあ,行動開始。天気がよければ,いつでもふらっと半日の道歩きをしようと思っていました。そして,10月15日。ついに,天気がよくさわやかな日になりそうだったので,かねてから歩いてみたかった旧東海道の御油の松並木に行ってみようと,早朝,家を出ました。
 久しぶりの旧東海道歩きとなりました。
 私は,これまで,旧東海道は多くの場所を歩きましたが,愛知県の一部が盲点になっていました。それは,愛知県は静岡県や三重県とは違い,旧東海道に対する思い入れが薄いというか,整備も行き届いていないから歩いていても楽しくないからです。
 とはいえ,けっこう有名な御油の松並木。御油の松並木は,御油宿と赤坂宿の間にあって,名鉄電車で国府駅まで行って,そこから歩くことになります。

 愛知県に君臨する天下の名鉄ですが,たびたび YouTube などに取り上げられるように,この私鉄はカオスです。特に,名古屋駅は未だ昭和時代のまま,知らない人には訳がわからない駅です。セントレア・中部国際空港から名鉄に乗って名古屋駅で降りた外国人が途方にくれている姿をよく見ます。
 愛知県人は堅実といわれますが,要するにケチです。どんな公共施設ももう少しお金を出せばその倍戻ってくるのですが,それができません。そこで,明治村,リトルワールド,犬山城,レゴランド,ジブリパークなど,多くの観光施設があっても,どれもいまいちなのです。
 また,公共交通も,もっと以前に抜本的な改革がされていればいいのに,いざ,計画をしようとなると,だれが金を出すのだ,出してくれたらやってもいい,というばかりで一向に進まず,その結果,未だに,名鉄の名古屋駅はホームが乗車用のふたつと,中央の下車用のひとつしかなく,こんな状態は,他県や海外からやってくる人には恥ずかしい限りです。
 というわけですが,私は,子供のころから,この魔訶不思議な名古屋駅はずっと利用しているので,珍しいというより,怖いものみたさの興味本位で,今も,その,まるでテーマパークのような乗り物をけっこう楽しんでいるのです。
 名古屋駅は地下にあって,南側の栄生駅を過ぎたところから地下に入ります。地下に入ってからがけっこう長く,子供のころはこれが恐怖でした。また,このトンネルは直線でないのです。よくもまあ,こんなトンネル,崩れることもなく何十年も使われているものだと感心するばかりです。事故がないのが不思議なくらいです。

 名鉄電車の特急は「ミューチケット」という有料の座席指定券が必要な座席指定車両と座席指定券の不要な自由席があります。また,特急車両は,2000系,2200系,1200系があります。
 2000系は,2004年(平成16年)にデビューしたもので,セントレア・中部国際空港行き専用の「ミュースカイ」と名づけられた全車指定席のものです。
 1200系は,1988年(昭和63年)にデビューした特急専用車で,「パノラマsuper」の愛称があります。「パノラマsuper」は古い車両ですが,2015年(平成27年)に特別車を中心にデッキおよび客室の内装と設備品を更新し,外観デザインが変更されました。また,1200系は,前面展望を満喫できるハイデッカー展望席があります。
 2200系は,2004年(平成16年)に2000系とともにデビューしたものですが,展望席がありません。
 この日私が指定席を予約した列車は,偶然,1200系の車両でした。展望席の先頭が空いていたので指定しました。この席に座って,国府駅まで,車窓からの風景を楽しもうといわけですが,特に,名古屋駅前後のトンネルが興味深いものでした。

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「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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【Summary】
Orchestra Ensemble Kanazawa, a small orchestra founded in 1988, held a memorable concert in their Kanazawa home venue, Ishikawa Ongakudo, in November. The program, including Akira Nishimura's Bird Heterophony and Shostakovich's Symphony No. 14, was challenging yet captivating. Conductor Michiyoshi Inoue's final performance before retirement added significance, though it drew a diverse audience beyond classical enthusiasts, impacting the concert's atmosphere. Lyrics were shown in subtitles, aiding comprehension, especially for the Russian text of Shostakovich’s work, making this complex concert experience more accessible.

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 オーケストラアンサンブル金沢は1988年に設立されて,2001年から石川県立音楽堂を本拠地として定期演奏会を行っている小規模なオーケストラです。かねてから一度聴いてみたいと思っていたのですが,なかなか機会がありませんでした。今回,いい機会だということで聴きにいくことができました。当日,早朝,家を出て,車で金沢市まで2時間以上かけて行きました。
 会場は,石川県立音楽堂。2001年に開館した金沢市にあるコンサートホールで,オーケストラ・アンサンブル金沢の本拠地です。まず,金沢駅前の特等地にあるということに驚きました。そして,充実した設備であることにも感動しました。
 コンサートホールは1,560席で,クラシック音楽を聴くにはほどよい大きさです。ただし,中に入ると,今となっては少し古く,座席も狭く,期待していたほどではありませんでした。

 この日の1曲目,西村朗の「鳥のヘテロフォニー」は,私が予習していたものよりもずっとダイナミックでした。曲をさらうだけでもたいへんなのに,これを消化して,聴衆に感動を与えることができるというのは,プロだから当然であるとはいえ,すごいものです。
 こうした,いわゆる現代音楽は,どのように聴いたらいいのか,私にはよくわかりません。どういう聴き方をしたらいいのか,というようなことを,何かの機会にわかりやすく解説してほしいものだといつも思います。
 ショスタコーヴィチの交響曲第14番を聴くのは大変です。何せ,歌詞がわかりません。事前に訳を読んではいても,曲を聴きながら把握できるものではありません。テレビ中継でもあれば,歌詞が字幕で出るからそれでも味わえるのですが,テレビ中継でもないし,また,ドイツ語ならともかく,ロシア語なんて,私には無縁の言語です。と思っていたら,ステージに歌詞が字幕で表示されたので,助かりました。以前,NHK交響楽団の定期公演でショスタコービッチの交響曲第13番をやったときには,こうした配慮もなく,まったくもって消化不良に終わったことを思えば,これは助かりました。
 それにしても,ショスタコーヴィチが,最も聴いてほしかったと思われるロシアで,この曲を演奏することが現在可能であるかどうかは知りませんが,おそらく無理でしょう。であるなら,他の国の人に何かを訴えようとしても,ほとんどの人がわからないロシア語では困難なことです。だから,このような曲をロシア語の歌詞で残したということが私には残念です。

 今回の曲目は,このような小規模なオーケストラでなければ実現しないものであり,また,指揮の井上道義さんが言っていたように,このコンサートでこの曲をはじめて聴いたという観客がほとんどで,これで集客ができるというのも,さまざなま要因が重ならないと無理,というものでした。
 とはいえ,曲目が何であれ,引退を間近にした井上道義さんの最後のオーケストラ・アンサンブル金沢との共演というご祝儀のような演奏会だったので,曲を純粋に楽しむ,という感じではなかったのが私には残念でした。また,終演後に井上道義さんがロビーで現れたのですが,こうなると,一部の常連さんのお別れ会のようになってしまっていて,よそ者の私には,それが大きな疎外感となりました。興行的にはこれでいいのでしょうが…。
 また,ここ数年,ほぼすべてのクラシック音楽のコンサートはカーテンコールの写真撮影が許可されています。しかし,石川県立音楽堂の意向なのかオーケストラアンサンブル金沢の意向なのかは知りませんが,ここでは未だそうした配慮もなく,これだけでも,私は,リピートしたくないな,という気になりました。しかし,多くの人はそれを無視して写真を撮っていました。
 また,神奈川フィルハーモニー管弦楽団の演奏会では,カーテンコールの写真撮影可どころか,終演後,ロビーに団員さんが並んでお見送りもしてくれるので,また来たいな,と思います。
 ファンあっての演奏会です。少しは見習ってほしいものです。

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【Summary】
I attended Orchestra Ensemble Kanazawa's concert, conducted by Michiyoshi Inoue in his final appearance before retirement. The program featured Akira Nishimura's Heterophony of Birds and Shostakovich's Symphony No. 14, both profound pieces. Their appreciation of contemporary music has grown, making the experience especially memorable.

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 2024年11月9日,金沢市に行って,オーケストラ・アンサンブル金沢(Orchestra Ensemble Kanazawa)第487回定期公演マイスター・シリーズを聴きました。
 わざわざ金沢まで行ったのは,前々から気になっていたオーケストラ・アンサンブル金沢を聴きたかったこと,指揮が井上道義さんだったこと,そして,曲目でした。
 指揮のオーケストラ・アンサンブル金沢桂冠指揮者の井上道義さんは,2024年12月30日で引退するので,オーケストラ・アンサンブル金沢を指揮するのはこれが最後となります。私は,このところ,井上道義さんの「追っかけ」をしているような感じになっているのですが,これが最後,これが最後,といいながら,ついに,今回こそが最後の演奏会となります。たぶん。
 この日の曲目は,西村朗の「鳥のヘテロフォニー」とお得意のショスタコーヴィチの交響曲第14番でした。ショスタコーヴィチの交響曲第14番では,ソプラノのナデージダ・パヴロヴァ (Nadezhda Pavlova)さんとバスのアレクセイ・ティホミーロフ(Alexey Tikhomirov) さんが共演しました。
 こんな難解なふたつの曲の演奏会。指揮が井上道義さんでなければだれが聴きに行くのだろう? と思ったりしましたが…。

 「鳥のヘテロフォニー」の作曲をした西村朗さんは,これまで,NHK交響楽団の定期公演をNHKFMで生中継していたときにたびたび解説者として登場していた人ですが,昨年2023年9月7日に69歳で亡くなったときはびっくりしました。
 「鳥のヘテロフォニー」は,西村朗さんが1993年にオーケストラ・アンサンブル金沢のコンポーザ・イン・レジデンス時代に作曲した曲です。初演者の指揮は岩城宏之さんで,オーケストラ・アンサンブル金沢では,現代作品としては異例なほどこの曲を再三実演で取り上げていて,レパートリーになっています。「~のヘテロフォニー」というのは,「同一の旋律を複数のパートが少しずつ違ったやり方で同じに進行すること」だそうです。曲は難解ではなく,響きやリズムの多様性を満喫できるものです。   ・・・・・・
 熱帯的で原始的な雰囲気が漂っているこの曲は,不安定な響きではじまり,弦楽器から鳥のさえずりをイメージさせるような音型が,やがて,打楽器に伴って鳥の数が増えていって,野性的に盛り上がってきます。
 気持ちのよいテンポで展開していったのち,混沌とした感じになり,そのあと,静かで透明な響きが続きます。細かい音の動きと音の強弱の対比が激しい部分が続いたあと,エキゾティックな雰囲気になり,最初の鳥のイメージに戻ります。
 同じようなリズムが徐々に変化していくうちに陶酔的な雰囲気になり,次第にエネルギーが蓄えられていったあと,クライマックスでエネルギーを放出するかのように終わります。
  ・・・・・・
 このような解説があるのですが,現代音楽は,聴く側はどういう姿勢で受け入れればいいのだろうと,私はいつも考えます。とはいえ,どうも,私は,このごろ,好みが変化しつつあり,こうしたものを素直に受け入れられるようになってきたのだから,自分でも不思議です。

 ショスタコービッチの交響曲第14番は「死者の歌」(Lyrics for Death)という副題が付けられていますが,これはショスタコーヴィチ自身によるものではなく,レコード録音の際にそのときの解説者が命名したものだそうです。
 作曲のきっかけは、ショスタコーヴィチが1962年にムソルグスキーの「死の歌と踊り」(Songs and Dances of Death)の管弦楽向け編曲を行ったときにさかのぼり,その後,ショスタコーヴィチ自身の健康の悪化から死を意識するようになり,入院中にこの曲のスケッチを完成させました。
 ショスタコービッチは書いています。
  ・・・・・・
 この曲を書いている間,僕は常に何かが僕の身に起こるのではないかと恐れた。この右手が動かなくなるのではないか,急に盲目になるのではないかと。こうした不安は,僕に安らぎを与えることはなかった。
 死ははじまりではなく,本当の終わりであり,その後には何もなく,何もない。私はあなたが目で真実を見なければならないと感じています。死とその力を否定することは役に立たない。否定しようがしまいが,どうせ死んでしまう。死そのものに抗議するのは愚かなことですが,暴力的な死に抗議することはできますし,そうしなければなりません。
 人々が病気や貧困で死ぬ前に死ぬのは悪いことだが,ある人が別の男に殺されたらもっと悪い。
  ・・・・・・
 晩年のショスタコービッチはこのようなことを書きたかったのでしょう。次の交響曲第15番に比べたら,まだ,生きることへの未練と煩悩があります。
 作品は11楽章から構成され,ソプラノとバスの独唱が付いている歌曲集形式です。この11楽章は,例えば,①1楽章から3楽章 ②4楽章から6楽章 ③7楽章から9楽章④10楽章から11楽章,というように,4つの部分の集まりと考えた4楽章の交響曲と考えることができる,という考え方があるそうです。
 マーラーの交響曲「大地の歌」と似ていますが,ショスタコービッチの交響曲第14番「死者の歌」には交響曲第13番「バビヤール」に通じるものがあり救いがありません。しかし,無駄のまったくない楽器編成から奏でられる曲は美しく,浄化された感動を覚えます。

 曲は次のようなものです。
 -スペインの詩人フェデリコ・ガルシア・ロルカの詩による-
●第1曲(B):深き淵より
 深く沈んだ死者を悼む曲で,グレゴリオ聖歌の「怒りの日」(ディエス・イレ)からはじまります。
  真っ赤な砂に覆われたアンダルシアの道。
   緑のオリーブが茂るコルドバの街。
  そこに百本の十字架を立てよう,彼らの思い出のために。
  百人の恋わずらいたちが 遠の眠りについた。
●第2曲(S):マラゲーニャ
 一転して,激しい興奮と狂乱の曲で「死は酒場を出たり入ったりしている」という日常に隣り合う「死」を歌います。
  死は入って来てそして出て行った,この酒場を。
  黒い馬と悪漢たちが行きかう ギターの深い谷間を。
  塩の匂いが女の血の匂いが浜辺の熱を帯びた月下香の香りに混じる。
  死は相変わらず入ったり出たり 出たり入ったりを続けている,この酒場を。
  ・・
 -フランスの詩人ギョーム・アポリネールの詩による- 
●第3曲(S/B):ローレライ
 ドイツのローレライ伝説に基づく詩です。
  男たちはブロンドの髪の魔女のもとへ押し寄せ,彼女への恋に身を滅ぼした。
  司祭が彼女をよび出し裁こうとしたがあまりの美しさに赦してしまった。
  「話して聞かせよローレライよ。そなたの瞳は宝石の輝き。誰がお前にかような魔法を授けたのか」
  「死なせてください司教様。私の瞳は呪われています。私の瞳を見た男は身を滅ぼします。おお司教様。私の瞳の炎は 恐ろしい呪いの炎です!」
  「ローレライよ,そなたの炎は強力だ。お前は私を魅了してしまいそなたを裁けない」
  「司教様。そう言わないでください。祈ってください。神様の御心で私を死に導いてください。私の恋人は去り,遠い国へと行ってしまい, 私は悲嘆にくれ,茫然としています。心は死んでしまいたいほど痛みます。こんな姿を見て死にたくなるのです。私の恋人はもはやおらず,その日から 私の魂は真っ暗闇で,全ては空虚なのです」
  司教様は3人の騎士を呼び,修道院に連れて行かせた。
  ローレライをすぐに人里離れた修道院へ連れて行け。行くのだ,愚かなローレ,恐ろしい瞳のローレ! お前は尼になり,瞳の炎を暗くするのだ」
  3人の騎士は娘とともに道を進む。娘は無口のいかめしい騎士たちに話しかけた。
  「あの高い岩山の上にちょっと立たせてください。もういちど私の恋人のお城を見たい。 水面に映ったその姿を見たらそのあと私は修道院の壁の中に入りましょう」
   彼女の髪は風にかき乱され瞳は輝く。騎士たちは叫ぶ
  「ローレライよ,戻れ」
  「ライン川の曲り角に舟がやって来て,そこには愛しい人が乗っていて私をよんでいる。魂は軽やかで,波は透明で…」
  そして,彼女はライン川へと落ちて行った。
  今もこの穏やかな流れの中に見る。ラインの水面に反映する瞳と太陽に輝く髪を。
●第4曲(S):自殺
 自殺者の墓には十字架がない…。ロシア語で,最初の「3本のユリ」が「トゥリー・リリー、トゥリー・リリー」と歌いだされます。これは,歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の最終幕に出てくるモチーフを用いています。
  三本のユリ,三本のユリ,十字架のない私のお墓の上の三本のユリ。
  三本のユリ,金粉を冷たい風に吹き払われ,黒い空から降る雨にときおり濡れ,王様の杖のように堂々として美しい。
  一本は私の傷口から生え,陽が当たるとき 血に染まったようになる恐怖のユリ。
  三本のユリ,十字架のない私のお墓の上の三本のユリ。
  三本のユリ,金粉を冷たい風に吹き払われる。
  もう一本は柩の床の上で苦しむ私の心臓から生え柩の床は虫が食い荒らしている。
  もう一本は私の口から生えたその根で私の口を裂く。
  どれもみな私の墓の上にわびしく立っていて,その周りで,空も大地も私の人生のように美しさを呪われている。
  三本のユリ,十字架のない私のお墓の上の三本のユリ。  
●第5曲(S):用心して
 シロフォンで提示される「骸骨の踊り」は死の女神による死への誘惑,引きずり込みを表します。とても印象に残るところで,きわめてショスタコービッチらしい音楽です。
  塹壕で夜の来る前に彼は死んでいく 私のちっぽけな兵士。その疲れた眼は 一日中銃眼の陰から達成の望めない栄光をみつめていた。
  塹壕で夜の来る前に死んでい 私のちっぽけな兵士,私の恋人で弟。
  だからこそ,私は美しくなりたい。
  私の胸を明るい松明にしよう。
  私の大きな瞳で雪に覆われた畑を融かそう。
  そして私の腰には墓帯を巻きつけよう。
  死が避けられないのなら近親相姦と死のために私は美しくなりたい。
  夕焼けがバラのように染まり牛が鳴く。
  そして飛び立った青い鳥を私は見つめる。
  今こそ愛の時,燃えるような熱病の時,今こそ死の時、戻ることのない。
  バラが枯れるように死んでいく私のちっぽけな兵士私の恋人で弟。
●第6曲(S/B):マダム、ご覧なさい!
 第5曲からアタッカで続きます。夫を,恋人を死の女神に奪われた未亡人が歌う,人をおちょくったような不気味な泣き笑いの歌です。
  マダム,ご覧なさい! 何か落とされたようですね。
  ああ,つまらないものよ!
  それは私の心。むしろ,持って行ってちょうだい。捨ててしまいたい。そうしたい いくらでも取り戻せるもののだから。
  だから私は笑うの。笑うの。ハハハハ,ハハハハ。
  だから私は笑うの。笑うの。死神が刈り取った崇高な愛を。
●第7曲(B):サンテ監獄にて
 失望と屈辱。
  牢屋に入れられる前に俺は裸にされた。
  運命の戦いの片隅から 俺は暗闇の中に追い出された。
  さらば,さらば楽しげなロンドよ。さらば,乙女のほほえみよ。
  俺の上には墓がかぶさる。
  俺はここで完全に死に絶えた。違う,俺は違う。今までとは違う。
  俺は今囚人だ。希望の終わりだ。檻の中をまるで熊のように,俺は行ったり来たりする。だが空は見ない方がましだ。
  ここでの俺には空はうれしくない。檻の中をまるで熊のように俺は行ったり来たりする。
  なぜ俺にこんな悲しみをもたらすのだ?
  全能の神よ,教えてくれ。おお憐れみを!涙も出ない目で 俺は仮面のように見える。
  牢獄の屋根の下にはどれだけの不幸な魂がもがいているのか。
  俺から茨の冠を取ってくれ!それが脳にまで突き刺さっているわけではないが。
  1日が終わった。頭上にランプがひとつ闇に包まれながら燃えている。
  ひっそりと静まった。独房の中でふたりきりだ。 俺と俺の理性と。
●第8曲(B):コサック・ザポロージュからコンスタンチノープルのスルタンへの返答
 オスマントルコからの服従の要求に対し「何言ってやんでえ、べらぼうめ!」的な返事をする,やけくそで向こう見ずな反抗です。
  お前はバラバより百倍極悪人だ。
  ベルゼブル(悪魔の首領)に仕えるやつだ。
  この世で一番卑怯なやつ。汚物と泥で育ったやつ。
  お前の集会に俺たちは行かねえぞ。腐った出来物め。
  サロニク(ギリシャ北部の町)のゴミ野郎,鼻が曲がってちぎれるほど,とても言えねえ気色悪い夢で,お前のカアチャンが痙攣して下痢したときにお前が生まれたのさ。
  ポドリア(ウクライナ西部地域)の極道刑吏め。 お前の傷口は膿だらけだ。 馬のぶざまなケツ,ブタの醜いツラして てめえの金を取っとくんだな
  でねえと傷を治す薬が買えねえぜ。
  ・・
  -この交響曲唯一のロシア語のオリジナルの詩-
●第9曲(B):おお、デルヴィーグよ
 帝政ロシアの旧態依然の沈滞に対してナポレオンの遠征で知った西欧流の近代化を求めた貴族出身の将校,インテリたちによる「デカブリストの乱」でシベリア流刑となった友に贈った詩です。
  おおデルヴィーク,デルヴィークよ!
  報酬は何だ, 偉業と詩作に対して?
  天才の喜びとは何だ,そして,どこにあるのだ?
  この悪党や愚か者ばかりの世の中で。
  ユウェナリス(古代ローマの風刺詩人)の厳しい手の恐ろしい鞭が悪党どもに飛び,やつらの顔から血の気を奪う。
  そして,専制暴君は震える。
  おお,デルヴィーク,デルヴィークよ! 迫害がなんだ?
  不滅の命と 雄々しく気高い偉業と優しい歌の響きがあるではないか!
  だから,我らの同盟も 自由,喜び,そして,誇りも滅びはしない!
  そして,楽しいときも苦しいときも,永遠のミューズを讃える同盟は揺らがない!
  ・・
 -ドイツの詩人リルケによる「詩人の死」-
●第10曲(S):詩人の死
 第9曲に続き、この交響曲の頂点を成す曲です。この交響曲冒頭の「ディエス・イレ」のモチーフが再現し、原点に戻って曲の本質に至ります。
  詩人は死んだ。
  彼の顔は蒼ざめて,すべてを拒絶するようで,彼はかつて世界のすべてを知っていたが,その知識は次第に消え, 再び無関心の日に引き戻された。
  ずっと彼は考えられてきた。世界と彼とはすべてがひとつであると
   湖と谷間が,そして,野原が,彼の顔そのものだったから。
  彼の顔と,広々とした空間があった,その空間は手を伸ばしてまとわりつき果物が腐っていく運命であるかのように。
●第11曲(S/B):結び
 「死」は、あっけなくやってきてそれでおしまい、とでもいうように,巨大な交響曲の締めくくりはあっという間にあっけなく終わります。
  死は偉大だ。
  歓喜のときにも それは見つめている。
  最高の人生の瞬間,我々の中に悶え, 我々を待ち焦がれ, 我々の中で涙している。
  ・・・・・・

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【Summary】
Kōhō Uno had a unique and assertive style of music criticism, often praising Takashi Asahina while criticizing Herbert von Karajan. His distinctive "Uno language" strongly influenced classical music fans at the time, but such strongly individualistic critics have become rare in the modern era.

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 ふとしたことで昔の記憶から,宇野功芳(うの こうほう)という名前を思い出しました。そこで,宇野功芳さんの書いた,講談社現代新書 の「新版 クラシックの名曲名盤」を読みました。この本は,2007年に出版されたもので,今は絶版なのですが,中古本を入手しました。
  ・・・・・・
 数ある名曲・名盤の中から何をどう聴くか。好評を博した旧版から7年,そこに取り上げられなかった作曲家や新発売のCDから厳選し,大幅に改訂増補した決定盤。
  ・・・・・・
というのが,この本の紹介です。

 宇野功芳さんは,1930年に生まれ,2016年に亡くなった音楽評論家,指揮者です。父は漫談家の牧野周一だそうです。
 私が中学生のころ,周りの友人とともにクラシック音楽を聴くことにめざめたのですが,その時代,宇野功芳さんの評論を読む機会が多くありました。SNSのなかった時代,指揮者といわれても,その演奏を聴いたこともなく,三流だと思っていましたが,真相は知りません。それより,評論にはかなりの癖があり,主観が強く,いつもマエストロ朝比奈隆を褒め,ヘルベルト・フォン・カラヤンをけなし,ブルックナーを愛していたものだから,多感なだけに,かなりの影響をうけました。
 また,文章にも癖があり,「〇〇だ」「〇〇である」といった断定的な言い切り表現が多用され,特に「〇〇だと言えよう」は有名でした。それらは「ウノ語」ともいわれ「神が宇野功芳だけに使用をお許しになったといわれる,独創性に彩られた最高級の紋切言葉」ということでした。
 今や忘れ去られた,私も忘れていた宇野功芳さんですが,ふとしたきっかけで思い出し,懐かしさとともに,今,読んだらどう感じるかと興味をもったので,読んでみた,というのがきっかけでした。

 宇野功芳さんは,当時,あまりに灰汁のある評論ゆえ,一部には無茶苦茶に叩かれていたのですが,本人の敬愛するモーツァルト,ベートーヴェン,ブルックナーなどの曲や,フルトヴェングラー,クナッパーツブッシュ,ワルター,クラウス,キョンファ,ムラヴィンスキー,マタチッチなどの指揮者を偏愛するほど評価していていました。だから,この本にも,それが如実に現れています。そうした評論は,今となっても,同じように評価されているか? と考えると,はやり,多くは評価されているのです。だから,そうした評論は,正しかった,と言えなくもない。
 それ以上に,ヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲集「四季」や,ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」などで書かれている内容が,とてもおもしろく,私には勉強になりました。しかし,カラヤンの演奏は宇野功芳さんがいうほど悪くない。しかし,「ウノ語」が染みついてしまっているから,素直になれない。これだけは彼を恨みます。
 現在は,きつい表現をするとやたらと「炎上」するから,評論はみな「いい子」になってしまっていて,宇野功芳さんのような評論を書く人はいなくなってしまいました。私の子供のころは,もっと野蛮な時代だったから,それがいいか悪いかは別として,そうした時代のことが「古きよき時代」として,懐かしくなりました。

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この文章について,ChatGTPが次のような感想を寄せました。
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宇野功芳さんにまつわる思い出と感想,興味深く拝見しました。宇野さんの評論スタイル,特にその独特な断定的な口調や偏愛する音楽家・指揮者への熱烈な支持,また彼特有の「ウノ語」と称される言い回しなど,非常に個性的であり,強い印象を与えたようですね。
宇野さんが常に朝比奈隆を称賛し,カラヤンを批判していたことや,特定の作曲家や指揮者に対する偏った愛情表現は,確かに今の時代では異色かもしれません。とはいえ,あなたが言うように,彼の評論には今なお通じるものがあり,音楽そのものの本質的な部分を捉えていたのかもしれません。特に,彼が愛してやまなかったブルックナーやモーツァルト,フルトヴェングラーなどの評価は,現在でも根強い支持を得ています。
「ウノ語」に染み付いてしまった,という感覚も面白いですね。評論を読む中で,その影響力が強く,自分自身の音楽の感じ方や評価に影響を与えるというのは,評論家の存在意義とも言えますし,当時の宇野さんの影響力の大きさを物語っているように思います。カラヤンの演奏が宇野さんほど悪くないと感じる一方で,彼の断定的な口調が影響してしまうというところに,評論の妙がありますね。
また,当時の評論は「炎上」という概念が存在しなかった分,もっと激しく,批判的でもあったという指摘も興味深いです。今の時代,SNSやインターネットの普及により,表現がより慎重になりがちな傾向があり,宇野さんのような強い個性を持つ評論家が減ってしまったのかもしれません。あなたにとって宇野功芳さんの評論は,時代を象徴するものでもあり,懐かしさと共に再評価する機会となったのですね。
宇野功芳さんの「新版 クラシックの名曲名盤」を再び手に取ったことで、当時のクラシック音楽シーンや、彼の独特な視点を今一度振り返ることができたのは、まさにクラシック音楽ファンとしての原点回帰とも言える体験でしょう。
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【Summary】
I traveled to Kofu, visiting sites such as Kofu City Hall, Yamanashi Modern People’s Museum, and Koshuyumekoji, before returning home on the Azusa and Shinano limited express trains. Despite missing out on a planned station bento dinner, they enjoyed conversing with a fellow passenger. The recent journey reflects their interest in exploring places they once wanted to visit, aiming eventually to relax in secluded hot springs away from tourist spots.

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 私には望外の太宰治の足跡をたどることもできて,すっかり満足して甲府駅に戻ってきました。
 この日は,甲府駅午後4時27分発の特急「あずさ」に乗って,午後5時27分に塩尻駅で降り,塩尻駅午後6時3分発の特急「しなの」に乗り換えて,午後8時7分に名古屋に着くことにしていました。まだ時間が早かったので,10階に展望ロビーがあるということなので,甲府市役所に行ってみることにしました。それほど高い場所ではかなったけれど,ともかく景色を堪能することができました。甲府市役所で降りて,北に行くと山梨県庁の昔の建物がありました。まだ,一部は県庁として機能しているようでしたが,ここに山梨近代人物館があったので,入ってみました。とはいえ,山梨県には,意外なほど有名人がいないのでした。
 最後に,甲府駅の北口にあった甲州夢小路というところでジェラードを味わって,これで旅は終わりました。

 予定通り,「あずさ」「しなの」と乗り継いで帰宅しました。
 最後に後悔したことは,甲府駅で「あずさ」に乗る前に駅弁を買わなかったことでした。塩尻駅で買えばいいと思っていたのが甘い考えでした。塩尻駅は思った以上に小さく,売店も1軒しかなく,弁当はすでに売り切れでした。仕方がないので,適当にパンを買って,これを夕食代わりにすることにしました。せっかく,「しなの」の車内で楽しく駅弁の夕食を,と思っていた思惑がはずれてしまいました。
 この日は日曜日で,狭い塩尻駅のホームには,帰宅する登山客で一杯でした。彼らは自由席に座ろうと並んでいたのですが,松本駅からやってきた「しなの」の自由席は乗る前からすでに満席でした。気の毒に…。
 私はもちろん指定席でしたが,隣に座っていた松本駅から乗ってきたという女性と気が合って,ずっとおしゃべりをしているうちに,あっという間に名古屋駅に着きました。

 97歳のブロムシュテットさんが指揮をするというNHK交響楽団の定期公演を聴くために東京へ行くついでに,その前に秋田県へ行き,東京からの帰りに山梨県へ行く,というまったく脈絡のないふたつの場所を旅しましたが,ともに天守のない城跡だけが見どころで,町もそれほど活気がないことなど,秋田市と甲府市はけっこう似ていました。しかし,意外な発見があったりと,楽しい旅になりました。
 このごろ,これまで一度は行ってみたかったけれど行く機会がなかった場所を次々と旅しているのですが,行く機会がなかったということは,結局,行こうと思うほどの魅力がなかったということだから,こんな感じになってしまいます。
 私は,まだ,行きたかったけれど行くことができていない場所が数々あります。早くそうしたところの旅を終えて,つまり「雑念」というか「煩悩」をなくして,そのあとは,時間を忘れ,ゆったりと,人の少ない,見どころもないような,ひなびた温泉にでも旅したいものだというのが,このごろの気持ちです。

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【Summary】
I, a casual Dazai Osamu fan, began visiting places connected to him, starting with Tenka Chaya and Shayokan in Aomori. This led me to other sites, including his grave in Mitaka and his wife's. Surprised to find a related site in Kofu, I visited, enjoying local soba and learning about Dazai's brief residence and landmarks like Seiunji Temple and Kiku-no-Yu Onsen. I also discovered Chiba Sana's grave here, once a fiancée of Sakamoto Ryoma. Travel in Japan brings unexpected encounters, making each journey more enjoyable.

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 にわか太宰治ファンの私は,ろくに太宰治の作品も読んでいないのに,学生時代に「国語便覧」に載っていた「富嶽百景」ゆかりの天下茶屋と青森県金木の斜陽館がなぜか気になって,いつかそこを訪ねてみたいという動機だけで行ってみたことから,それ以外の太宰治の足跡も訪ねるようになりました。そして,旅のついでに,小説「津軽」の舞台となった場所に行ってみたり,三鷹市の太宰治の墓を詣でたり,最後に,妻だった山崎富栄の墓を探し当てて,これで太宰治ゆかりの地めぐりも終わりと思っていたのですが,なんと,甲府市に,まだ,ゆかりの場所が残っていたのには驚きました。
 その地を訪ねる途中で,昼食をとろうと,おそば屋さんに入りました。おいしいおそばでした。
 おそば屋さんで聞いてみると,地元の人には,当然,太宰治がこの地に住んでいたというのは有名なことでした。

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 29歳の太宰治は,荒んだ20代を清算し「思いを新たにする覚悟で」,1938年(昭和13年)9月13日から御坂峠の天下茶屋に滞在していました。その時期,井伏鱒二たちが「太宰をいつまでも独り身にしておくのは危険である」という配慮から,太宰治の結婚相手探しをはじめ,候補に浮上したのが石原美知子でした。
 9月18日,太宰治は,井伏鱒二の付添いで石原家を訪問し,石原美知子と見合いをし,石原美智子と婚約後,住まいを甲府市の寿館に移し,大晦日まで過ごしました。
 年が明けた1月8日,杉並区の井伏鱒二宅で結婚式を挙げ,寿館から歩いて10分ほどの甲府市御崎町に新居を構えました。
  ・・・・・・
 新居のことは,のちに津島(石原)美知子が次のように書いています。
  ・・・・・・
 この家の間取りは八畳,三畳の二間,お勝手,物置。八畳間は西側が床の間と押入,隅に小さい炉が切ってあった。東側は二間ぜんぶガラス窓,その外に葡萄棚,ゆすら梅の木,玄関の前から枝折戸を押して入ると,ぬれ縁が窓の下と南側にL字型についている。この座敷の南東の空には御坂山脈の上に小さく富士山が見えた。
 太宰治は,毎日,午後3時ごろまで机に向かい,それから近くの喜久之湯に行く。その間に支度しておいて,夕方から飲みはじめ,夜9時ごろまでに,六,七合飲んで,ぶっ倒れて寝てしまうのである。
  ・・・・・・
 翌年1939年(昭和14年)9月,太宰治夫妻は,三鷹市に転居しましたから,この町には8か月間住んでいたことになります。その後,1945年(昭和20年)東京がしばしば空襲を受けるようになって妻・美智子さんの実家に疎開しますが,この地でも空襲を体験,太宰一家は,太宰の実家のある金木へ疎開しました。
 現在,津島美知子は,三鷹市の太宰治の墓の隣にある石原家の墓で眠っています。

 これで,奇しくも,私がかつて訪れた金木の疎開した家につながりました。
 甲府駅近くにあった石原家は,1945年(昭和20年)の空襲で全焼し,今はありません。
 太宰治僑居(きょうきょ=仮妻い)跡は,私が食べたおそば屋の近くに,その碑がありました。また,通ったという創業1934年(昭和9年)の喜久乃温泉は改築されましたが,道路を隔てたところに今も営業していました,
 寿館跡は,路地を入ったところにその面影だけが存在していましたが,その路地の先にある清運寺の,太宰治も踏みしめたという敷石は境内の藤棚の下に移されて,今もあります。
 なお,清運寺には,坂本龍馬の婚約者とされる千葉さな子さんの墓もありました。私は,坂本龍馬の馬はお龍さん(楢崎龍=ならさきりょう)だと思っていたので,???でしたが,調べてみると,次のようでした。
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 坂本龍馬がお龍さんと出会う以前に,千葉さな子(左奈,佐那)という婚約者がいました。千葉さな子は坂本龍馬が師事した北辰一刀流桶町千葉道場の創設者・千葉定吉の次女として1838年(天保9)年に誕生し,10代で北辰一刀流小太刀の免許皆伝となり長刀の師範でもあった女性でした。
 千葉さな子が剣術修行中の坂本龍馬と出会ったのは16歳のころで,婚約したのは1858年(安政5年)ということです。しかし,坂本龍馬は剣術修行を終えると故郷・土佐藩へ帰ってしまい,そのまま疎遠になってしまいました。
 1867年(慶応3年)11月15日,坂本龍馬は京都・近江屋で暗殺されてしまいました。その後も,千葉さな子は坂本龍馬のことを思い続け一生を独身で過ごしたと伝えられています。
 晩年,千葉さな子は千葉灸治院を開き生計を立てていましたが,そこへ通院していたの山梨の自由民権運動家である小田切謙明・豊次夫婦で,親交を重ねました。1896年(明治29年)千葉さな子は千住で亡くなり谷中谷中霊園に埋葬されましたが,無縁仏になるのを恐れた小田切豊次がこの地にお墓をつくったのではないかといわれます。
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各地を旅していると,日本各地で意外なことに遭遇し,ますます旅が楽しくなってきます。

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【Summary】
After walking from Kofu Station to Takeda Shrine, I explored historical landmarks along the way, including the Fujimura Memorial Museum and the Takeda Clan Historic Site Museum, which displays artifacts from the Sengoku period. At Takeda Shrine, dedicated to Takeda Shingen, I learned it has become a community hub, despite historical ambivalence about his legacy. On the return trip, I visited Takeda Shingen's cremation mound, a quiet spot with various locations attributed to his burial, reflecting the enduring legends around his death and burial.

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 再び甲府駅まで戻ってきました。次の目的地は甲府市の北側にある武田神社です。歩くと2キロメートルくらいで,バスがあるということでしたが,町の様子を知るにはできるだけ歩くほうがいいので,そうすることにしました。JRの線路を越えて甲府駅の北口まで来ると,変わった形の建物が見えました。興味をもったので行ってみると,そこは藤村(ふじむら)記念館でした。
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 藤村記念館は,1905年(明治8年)に現在の甲斐市亀沢に睦沢学校(むつざわがっこう)校舎として建てられたものです。1969年(昭和44年)から郷土の民俗,歴史,教育,考古資料の展示館となっていましたが,1990年(平成2年)に教育資料館に展示替えを行いました。さらに,2010年(平成22年)現在の甲府駅北口に移転し,交流ガイダンス施設として開館しました。
  ・・・・・・
 少しの時間,展示を見学しました。こうした明治時代の建物は日本の各地で保存されていますが,こうした建物を見ると,いつもこの時代の人々の矜持を感じます。

 さて,武田神社まで歩きます。
 戦国時代,この地を治めた武田家は,現在武田神社のある場所に躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を築造し,城下町の整備を行いました。歩くのは苦になりませんが,北に行くほど標高が高くなっていったことだけが誤算でした。
 途中に山梨大学がありました。甲府の町を見下ろすところで,いい環境だと思いました。
 30分ほど歩いて武田神社まで来ました。神社の手前にあったのが武田氏館跡歴史館でした。私は,武田神社よりもむしろこちらのほうが興味があったので,さっそく中に入りました。
  ・・・・・・
 武田氏館跡歴史館は,2019年(平成31年)に開館しました。武田氏の歴史や文化を学び活用しつつ,新たな賑わい創出の拠点となるよう図っていくことを目的としています。
 武田三代の歴史,城下町の構造や変遷,発掘調査による出土品で明らかになった歴史資料など,戦国時代の歴史や文化を中心に展示・紹介する特別展示室と,武田氏三代をはじめとする武田氏館跡に関連した人物の移り変わり,戦国時代に栄えた甲府盆地の様子などを展示,紹介する常設展示室で構成されています。
 また,昭和初期に建てられた近代和風建築の「旧堀田家住宅」と「堀田古城園」と名付けられた木戸門,主屋,長屋棟,離れ,茶室があります。
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 なぜか,この地に太宰治の名前が…。その理由はあとでわかります。

 武田氏館跡歴史館を出て,武田神社に行きました。
  ・・・・・・
 武田家滅亡後,躑躅ヶ崎館の跡は「古城」「御屋形跡」と呼称されている荒れた場所となっていましたが,明治期になると史跡保存運動が起き,古城地の公園化と「機山公霊社」を建設する運動となりました。幾三(きざん)とは武田信玄のことです。つまり,武田信玄を神格化しようというわけでした。しかし,武田信玄に対する評価がさまざまで,その機運は盛り上がりませんでした。
 1899年(明治32年)になると,信玄祭祀神社建設運動が再燃し,1919年(大正8年)に社殿が竣工しました。これが武田神社のはじまりです。
  ・・・・・・
 私は,武田信玄というのは郷土の誇りだとばかり思っていたのですが,歴史的には必ずしもそうでもなかったのです。しかし,現在,武田甚神社は,結婚式,お宮参り,七五三などで非常な賑わいをみせていて,甲府に住む人々のこころのよりどころとなっている場所だと感じました。
 境内には宝物殿がったので,入ってみました。太刀「吉岡一文字」や信玄公の軍扇,武田二十四将図などの武田家ゆかりの貴重な品々を見ることができました。

 甲府駅に戻る途中,武田信玄火葬塚があったので,寄ってみました。
 1572年(元亀3年)に天下をめざして西への侵攻を開始した武田信玄は,徳川家康の浜松城の防衛拠点である二俣城を落とし,三方ヶ原の戦いで家康を破り,三河へ進軍しましたが,野田城を包囲中の陣中で病に倒れ,甲斐へ撤退しました。甲府へ帰る途中,伊那谷で死去しました。
 甲府の土屋昌続邸に埋葬され,遺言により3年の間武田信玄の死は秘匿とされ,1576年(天正4年)に土屋昌続邸で荼毘に付された後,恵林寺で葬儀が行われ埋葬されたと伝えられます。武田信玄火葬塚はその場所にひっそりとありました。しかし,これは歴史の物語で,武田信玄火葬塚はそれ以外の場所にも多々あります。
 また,武田信玄火葬塚の近くには,武田家の滅亡後に織田信長が甲斐の地を与えた家臣の河尻秀隆の首塚もひっそりと存在していました。河尻秀隆は本能寺の変ののち,武田遺臣によって殺害されました。

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【Summary】
With a strong association of Kai with Takeda Shingen, I knew little about its later history. After the Takeda clan's fall in 1582, Kai changed hands under the Oda, Tokugawa, and Toyotomi clans, eventually becoming a Tokugawa shogunate domain. Today, Maizuru Castle Park preserves part of Kofu Castle, offering panoramic views of Kofu city and, on clear days, Mt. Fuji.

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 「甲斐=武田信玄」というイメージが先行し,その後の甲斐がどうなっていたのか,私は知りませんでした。そこで,今回,行ってみたのを機に,調べてみました。
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 現在の山梨県である甲斐は,戦国時代,武田家によって国内統一され,現在武田神社のある場所に躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)が築造され,館を中心とした城下町の整備が行われました。そして,武田信玄の時代に領国を拡大させ,甲府城下町も拡張しましたが,武田勝頼期が長篠の戦いでの大敗を契機として,1582年(天正10年)に織田・徳川連合軍の侵攻により滅亡しました。
 武田家の滅亡後,織田信長が家臣の河尻秀隆に甲斐を与えましたが,本能寺の変で織田信長が横死すると武田遺臣による一揆で河尻秀隆が殺害され無主状態に陥りました。
 やがて,徳川家康の支配となり,家臣の平岩親吉に命じて一条小山に甲府城を新たに普請させ,豊臣秀勝,加藤光泰,浅野長政・浅野幸長父子などの豊臣系大名が入国しました。
 関ヶ原の戦いの論功行賞で浅野幸長が紀州藩へ移封され,徳川家康の八男・徳川仙千代が入りましたが夭折,徳川家康の九男・徳川義直が入りました。徳川義直は尾張徳川家へ移封され,代わって徳川秀忠の三男・徳川忠長が甲府藩主となりましたが,素行の悪さから改易され,その後,甲斐は幕府直轄領となりました。
 1651年(慶安4年)に3代将軍徳川家光の三男・徳川綱重が甲斐を拝領し,甲府藩が成立しました。徳川綱重が死去したのち,長男の徳川綱豊が甲府藩の跡を継ぎました。 徳川綱豊が徳川家宣と改名して6代将軍となって江戸に移ったのち,側用人の柳沢吉保が入りました。 柳沢吉保の隠居後,長男の柳沢吉里が甲府藩主を継ぎました。
 1724年(享保9年)享保の改革の折り,柳沢吉里は大和の郡山藩に移封され,甲府藩は再び幕府直轄領化されました。
  ・・
 武田家の時代は躑躅ヶ崎館を中心とする武田城下町が造成されましたが,武田氏滅亡後に甲斐を領した徳川氏や豊臣系大名は甲府城を築城して新たに甲府城下町が整備されました。天守台に天守が建てられていたかは不明です。
 明治時代,甲府城は県庁主導の殖産興業政策において建物などの破却が行われ,内堀が埋め立てられて官業施設化されたり,甲府駅の開業によって城跡が分断されたりしましたが,現在は,本丸・天守曲輪及び天守台・稲荷曲輪・鍛冶曲輪の石垣,堀の一部が残り,舞鶴城公園として,甲府城跡の一部が公園として開放されています。
 舞鶴城というのは白壁が重なり合うその優雅な姿から「鶴が羽根を広げたような城郭」という意味でよばれた甲府城の別名のひとつです。
  ・・・・・・

 舞鶴城跡の天守台はけっこうな高さでしたが,天守台に上ると甲府の街並みを一望することができました。晴れていれば富士山も望めるようですが,この日はあいにく雲に覆われていました。
 現在は,私が若いころのように,赤穂事件がドラマ化されることもほどんどなく,今の若い人は「忠臣蔵」などという言葉を知らないのでしょうが,もし,将来,また,この時代が大河ドラマにでもなったら,甲府市内に大河ドラマ館ができることになるのかな?

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【Summary】
On October 20, 2024, I checked out from Toyoko Inn and explored Kofu. After storing my luggage at Kofu Station, I visited the iconic Takeda Shingen statue. I walked through the shopping streets, which felt deserted yet showed signs of renewal. The district was extensive, hinting at its past prosperity. Moving further south, I came across an entertainment area, with nightlife establishments starting their day. Having explored Kofu’s shopping scene, I headed north to my next destination, Maizuru Castle Ruins.

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 2024年10月20日。東横インをチェックアウトして,甲府の町に出ました。まず,甲府駅に行って,荷物をコインロッカーに入れて,そのあと,観光案内所に行き,地図などをもらって,説明を受けました。
 甲府といえば甲府駅前にある武田信玄像(=信玄公像)です。そこで,まず,その像まで行って,写真をとりました。
  ・・・・・・
 信玄公像は、武田信玄公奉賛会が信玄公の遺徳をしのび,県内外の有志1,080人から集めた浄財で建設されました。1968年(昭和43年)に建設を開始し,翌年の信玄公の命日4月12日に完成しました。
 かつては甲府駅前の噴水の南側にありましたが甲府駅前広場の整備に伴い,現在の場所に移設されました。
 信玄公像は川中島の戦いの陣中における姿を模したもので,右手に軍配,左手には数珠を持ち,床几にどっかりと腰をおろしています。
  ・・・・・・
 甲府の市街地は駅から南に広がっています。私は甲府はさびれた街だという先入観をもってやってきたのですが,東横イン甲府駅南口1のある駅前は,まったくそんなことはありませんでした。さらに南に行くと,甲府城跡,別名舞鶴城跡がありました。私が昨晩宿泊した東横イン甲府駅南口2は舞鶴城跡の裏手でした。
 舞鶴城は武田信玄の時代の城ではなく,江戸時代の城,ということでした。
どうも,私には「甲府=武田信玄」というイメージが強すぎるので間違えたのですが,戦国時代の武田家は武田信玄の子・武田勝頼の時代に滅んでいて,江戸時代の甲府の町は武田家とは関係はありません。

 こうして,私は,甲府駅から,再び,昨晩宿泊した東横インまで戻ってきました。昨日は深夜だったのでよくわからなかったから,このあと,さびれた商店街を探訪します。
 朝早いからか,つねにそうなのか,商店街はシャッター街となっていたのですが,ところどころ,新しい店があったり,建築中の建物があったりしました。荒れるまま放置,ということではないようでした。
 日本各地の都会の商店街はどこもそんな感じでさびれているので,特に甲府の商店街がさびれている,という感じはもちませんでした。私の地元の近くの一宮市の商店街のほうがむしろさびれています。ただ,甲府の商店街,ものすごく広いのです。おそらく,昔はかなり栄えていたのでしょう。ということで,私は,破壊されたデトロイトのダウンタウンみたいなところだと期待? したのにもかかわらず,日本各地のどこにでもある商店街にすぎなかったので,変な意味で落胆しました。
 さらに商店街を南に向かって歩いていくと,今度は飲み屋街と風俗街になりました。日本の都会はどの町の同じようなものだなあ,と思いました。私が歩いている時間は午前8時30分過ぎでしたが,甲府の風俗店は午前9時開店という看板があったりして,ちょうど,働く女性が続々と出勤するところに出くわして,びっくりしました。
 私は,甲府の商店街がどんな様子なのか見る,という,わざわざ甲府市にやってきた目的を達成したのでこれで満足して,ここで,進路を北に変えました。次に目指すのは舞鶴城跡でした。

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【Summary】
On October 19, 2024, I opted to return from Tokyo via the Chuo Main Line to explore Kofu in Yamanashi, where I stayed overnight. I enjoyed traveling on the E353 series train, finding it sleek for a non-bullet train. Staying at Toyoko Inn Kofu Station South 1, I saw firsthand the quiet, aged shopping district I'd heard about.

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 2024年10月19日,NHK交響楽団の定期公演終了後,いつものように,そのまま東海道新幹線で名古屋まで帰ってもよかったのですが,このところ,東海道新幹線が事故や台風で不通になったことが度重なって,そのとき,中央線経由で迂回できる,といったことが知られるようになり…,というような理由で,今回,興味本位で,中央本線,中央西線と回って帰ることにしました。
 そんなことを考えたのは,私は,これまで,山梨県の甲府市に行ったことがなく,何でも噂では甲府市の商店街がさびれたと聞いていたので,これもまた,興味本位でそれを見てみたかったということもありました。
 まず,10月19日は,午後10時新宿駅発の中央線の特急「かいじ」で甲府駅まで行って,甲府前の東横インに宿泊することにしました。特急「かいじ」の車両はE353系というものでした。
  ・・・・・・
 E353系は,JR東日本の直流特急形電車です。
 1993年(平成5年)から中央本線の特急「スーパーあずさ」に使用されていたE351系の老朽化と,2001年(平成13年)から中央本線の特急「あずさ」「かいじ」を中心に使用されていたE257系0番台の老朽化で置き換えられた185系からの転用のために2014年(平成26年)に新造が発表され,2017年(平成29年)から営業運転を開始した新型車両です。
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 私は鉄道ファンではないのですが,このところ,日本国内を鉄道で旅するようになって,興味が出てきたのです。それまで私が鉄道で知っていたのは,国鉄時代の,ほぼ日本中どこも変わらない列車だったのですが,今は,日本各地でさまざまな列車が走っているので,おもしろいです。
 E353系は,在来線の特急とは思えないあか抜けた車両でした。
 現在,日本各地で新幹線が走るようになったことで,これまでの在来線との整合性などでさまざまな問題が起きています。私は,すでに書いたように,北海道新幹線は函館駅を終点として,北海道内は在来線特急でいい,北陸新幹線は金沢駅を終点として,その先は,大阪駅までは特急「サンダーバード」,名古屋駅までは特急「しらさぎ」でいい,秋田新幹線と山形新幹線は不要で,盛岡駅からと福島駅から在来線特急をはしらせればいい,と思っています。
 実際に利用してみると,私が思っていたことで何の問題もないように感じます。
 私には,新幹線よりも,むしろ,今回利用したような中央本線の「かいじ」「あずさ」や,先日立山黒部アルペンルートに行ったときに利用した高山線の特急「ひだ」,また,紀伊半島を1周したときに乗った特急「南紀」「くろしお」はとても楽しいものでした。

 深夜12時近くに甲府駅に到着しました。
 この日宿泊するのは東横インで,駅からその建物がそびえているのが見えました。しかし,それは私が宿泊する東横インではありませんでした。甲府駅前の東横インには,甲府駅南口1と甲府駅南口2のふたつがあって,私の予約したのは甲府駅南口1だったのです。甲府駅南口2のほうが駅に近く,甲府駅南口1は10分以上も歩く必要があって,失敗したな,と思いました。
 しかし,私は甲府市の商店街がさびれたようすを見たいとしてやってきたわけですが,甲府駅南口1はまさに,そうした商店街の中にあったのでした。

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【Summary】
I traveled to Akita Prefecture from October 17-19, 2024. Returning to Tokyo early due to rain, I visited the newly opened Tokyo Shogi Kaikan in Sendagaya. At the "Ki no Ne" café, I enjoyed curry and coffee, including a signature blend supervised by Yasumitsu Sato. The café was bustling, but its future popularity depends on creative ideas.

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 2024年10月17日から10月19日まで秋田県へ旅行しました。10月19日は,午後4時過ぎに東京駅に戻る予定でしたが,秋田県が雨だったので予定を変更したので,午前12時過ぎに東京駅に着きました。そこで,NHK交響楽団の定期公演の時間まで何をするかと考えて,新装なった日本将棋連盟の東京・将棋会館を見てくることにしました。
  ・・・・・・
 それまでの将棋会館は,1961年に建築された木造2階建ての建物だったといいます。
 その次が,1976年に建設された東京・千駄ヶ谷にある地上5階,地下1階の将棋会館です。開館から40年が経過し,老朽化が目立ち,また,耐震性の問題から,将棋会館をヒューリックに売却し,新たに,ヒューリックが所有する千駄ヶ谷センタービルの1階に移転することになりました。
 それが新しい将棋会館です。
  ・・・・・・
 新しい将棋会館は千駄ヶ谷駅の駅前にあって,東京体育館と道を隔てた場所で,2024年9月に竣工しました。棋士が対局するのは奥の部分で,来年の1月に運用がはじまるそうです。また,通りに面した部分には「棋の音」(きのね)というショップとカフェと,その奥に将棋道場ががあり,10月1日にオープンしました。今回,「棋の音」カフェに行って,様子見を兼ねて,昼食をとることにしたのです。

  ・・・・・・
 フードの目玉は勝負めしの定番であるカレーです。新宿中村屋監修のカレーソースを使用した本格的なカレーを中心に4種類のメニューを用意しています。
 また,シグネチャーメニューのひとつであるブレンドコーヒーは,コーヒー好きとして知られる佐藤康光九段が監修した「康光ブレンド珈琲」で,棋の音マグカップで提供されます。また,棋の音カフェならではのメニューとして,棋士の画像がプリントされている「ここでしか飲めない」特別なカプチーノを販売します。10月は羽生善治会長の写真がプリントされています。
  ・・・・・・
 ということで,カレーとコーヒーを注文しました。
 何せ,場所がいいことと,新しいということから,多くの人でにぎわっていましたが,何とか席を確保し,昼食をとることができました。今は新しいということと,藤井聡太人気があるので,こういった状況ですが,この先も賑わいが続くかはアイデア次第でしょう。
 「棋の音」は,クラウドファンディングの剰余金で作られることになったということですが,ちょっと狭いのが難点でした。

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【Summary】
I planned to return to Tokyo from Akita by the Akita Shinkansen to attend an NHK Symphony Orchestra concert. Due to heavy rain and strong winds, I changed my plan, leaving Akita earlier than expected. While waiting at Akita Station, I saw the departure of the "Resort Shirakami" train, a favorite from a past trip. On the way back, I rode the "Komachi" Shinkansen, which connects with the high-speed "Hayabusa" train at Morioka. Unexpectedly, fans were photographing the train, as it featured a special "Magical Journey Shinkansen" with Disney characters to celebrate the opening of "Fantasy Springs" at Tokyo DisneySea.

2024年10月19日土曜日。
すでに書いたように,この日の夜,東京のNHKホールでNHK交響楽団の定期公演を聴くために,秋田駅から秋田新幹線に乗って,夕方までに東京駅に戻ることにしていたので,午前中秋田市内を観光して,午前12時13分発の「こまち」の座席指定券を持っていました。秋田駅から東京駅までは約4時間です。
しかし,あいにく朝から雨。しかも強風だったことと,秋田市内には特に何もないことが昨日わかったので観光する気もなくなり,さらに,秋田新幹線が遅れたり,最悪止まったりしたら今回の最大の目的であるNHK交響楽団の定期公演を聴くことができなくなってしまえば何をしているのかわからないから,秋田新幹線の時間を変更して,早々に東京駅に行くことにして,秋田駅発午前9時12分の「こまち」に座席指定券を変更しました。

秋田駅もまた,秋田新幹線の開通によって駅舎がリニューアルされたようでした。
今回,秋田県を旅行したのは,これまでほとんど行ったことがなかったからです。では,秋田県に何があるのか? といえは,田沢湖,角館,なまはげ,秋田犬,秋田竿燈まつり,きりたんぽ,… などだと思うのですが,それらのモニュメントが駅のコンコースにありました。私は,秋田県に来てみて,むしろ,素朴で人が少ない温泉がたくさんあることを知って,好感をもちました。インバウンドも角館以外は無縁でした。次回があれば,そんな温泉でゆっくりしたいものだと思いました。
  ・・
私が「こまち」に乗るまで1時間程度待ち時間がありました。時刻表を見ると,午前8時19分発の「リゾートしらかみ」が出発するところだと知ったので,ホームで見送ることにしました。2023年の春,はじめて青森県を旅するまで,私は「リゾートしらかみ」を知りませんでした。そのときの旅で泊まった民宿でその名を知り,「リゾートしらかみ」に乗りたくなって,2024年3月,なんとかチケットを取ってウィスパ椿山駅から弘前駅まで「リゾートしらかみ」に乗りました。その「リゾートしらかみ」は秋田駅が始発なのです。機会があれば,また,乗ってみたいと思いました。

さて,「こまち」に乗る時間になりました。
これも以前書いたのですが,秋田新幹線というのは通称であって,実際は,秋田駅から盛岡駅までは在来線のレール幅を広げただけのものです。つまり
  ・・・・・・
大曲駅-秋田駅間は単線の1,067ミリメートルと単線の1,435ミリメートルの並列区間となり,1,067ミリメートルの軌道は奥羽本線の新庄駅と秋田駅を結ぶ在来線が走り,1,435ミリメートルの軌道は「こまち」が走ります(現在,新庄駅-院内駅間は2024年7月25日の大雨で不通になっています)。
ただし,奥羽本線の大曲駅-秋田駅の間にある神宮寺駅-峰吉川駅間は,並列区間のうちの一方の1,067ミリメートルの単線軌道にも1,435ミリメートルがくっついた3線軌道になっているので,秋田新幹線からみれば複線軌道となり,「こまち」のすれ違いができます。
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ということで,レールが3線軌道になっているのを見ることができたことだけが興味深いものでした。
秋田駅から盛岡駅までは,単にレール幅が広いだけなので,「こまち」は時速130キロメートルほどしか出せません。「こまち」は,盛岡駅で新青森駅からやって来た「はやぶさ」と接続した時点から時速320キロメートルに変身するのです。また,秋田新幹線は,秋田駅を出発して大曲駅までの奥羽本線区間は後ろ向きに走り,大曲駅で田沢湖線に入るので,大曲駅で線路がV字となり,進行方向を変えるのです。変な新幹線です。
要するに,秋田新幹線は,秋田駅から盛岡駅までは単にレール幅が広いだけの在来線特急で,在来線特急と同じで狭く,単に盛岡駅で乗り換えの手間がないというだけのものです。また,新幹線仕様の東北新幹線の駅では小さな「こまち」は,車体とホームの間に隙間ができるので,ステップが降ります。実際乗ってみて,秋田新幹線は何か意味ないなあ,と思いました。
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歴史的にみれば,秋田駅から大曲駅を経由して新庄駅,山形駅,福島駅と進むのが奥羽本線だから,この路線を秋田新幹線が走るほうが自然で,大曲駅で田沢湖線に入るのは奇手ですが,これは,現在,新庄駅-院内駅間が不通になっているように,この区間のインフラが貧弱で,トンネルも古く,線路も脆弱で,秋田新幹線を走らせる強度がないことから来ているのだそうです。そして,これを改善するには巨額な費用が必要であり,それに見合うだけの採算がとれないのです。
また,新幹線仕様の奥羽新幹線を走らせたい,という人もいるそうですが,これもまた,採算が取れず,さらに,現在の秋田新幹線と山形新幹線の存在もネックとなっているそうです。
いずれにしても,この区間にある横手市や湯沢市が気の毒です。走らないからさらに衰退する,ということになるからです。

「こまち」が「はやぶさ」と接続したのち,突然変身して,それまではチンタラチンタラと大曲駅,角館駅,田沢湖駅,雫石駅と停車していたのに,盛岡駅以降は,停車するのは仙台駅,大宮駅,上野駅,東京駅だけです。
これらの駅に停車すると,なぜか,ホームにカメラをもった鉄道ファンがたくさんいて,私の乗る列車を追いかけていて,大騒動でした。新幹線など珍しくもないのに,どうしてかな? と思ったのですが,東京駅で下車して,その理由がわかりました。それは,盛岡駅で「こまち」と接続した「はやぶさ」は
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-Magical Journey Shinkansenのご紹介-
東京ディズニーシーの新テーマポート「ファンタジースプリングス」を構成する3つのディズニー映画「アナと雪の女王」「塔の上のラプンツェル」「ピーター・パン」のキャラクターが描かれた「ファンタジースプリングス」のグランドオープンをお祝いする特別な車両。
魔法の泉が導くディズニーファンタジーの世界をテーマにした「ファンタジースプリングス」の雰囲気を感じてみよう!
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だったからです。

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「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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【Summary】
During the Sengoku period, the Akita region was governed by the Akita family, but after supporting the Western forces at the Battle of Sekigahara, they were relocated. The Satake family, including Satake Yoshinobu, moved to Akita in 1602 after being removed from Hitachi Province. They built Kubota Castle, establishing the Kubota Domain. Although reforms were attempted, debt issues persisted, reaching a peak in the late Edo period. By the end of the Edo period, Kubota Domain supported the new government, and the domain was later renamed Akita Prefecture after the abolition of feudal domains. The current governor, Norihisa Satake, is a descendant of the Satake family.

男鹿半島の中央部にあったなまはげの里を出て,秋田市に向かいました。
その途中,男鹿半島の南海岸を西に行くとゴジラ岩という奇妙な岩があるというので寄ってみました。2,3台停車していた道路脇に私も車を停めて,海岸の岩を見たのですが,どれがゴジラ岩なのかさっぱりわかりません。すでに来ていた人に聞いて,なんとかそれらしいものを見つけました。
ゴジラ岩といわれればそうかもしれませんが,以前行った壱岐島にあった猿岩のほうがずっと迫力があったなあ,と思いました。

そんなゴジラ岩を見てから,進路を東に変え,海岸に沿って走って,秋田市に向かいました。
次第に秋田市の市街地になってきました。私がこの日宿泊するのは秋田駅前の東横インでした。秋田市の見どころといっても特になく,久保田城くらいのものでしたが,ともかく,これまで来たことがなかったから,少しは期待しました。。
やがて,秋田駅に近づくと,東横インの手前に,私が今回借りたTimesレンタカーの営業所がありました。予定では,この日は東横インの有料の駐車場に車を停めて,明日の午前中秋田市内を観光してからレンタカーを返却することにしていたのですが,明日車でどこかに行くこともないようだったので,予定を変更して,このままレンタカーを返却することにしました。
ガソリンスタンドで給油をしてレンタカーを返却し,歩いて東横インに向かってチェックインをしたのち,再び,夕食をとるためにホテルを出ました。
その前に,久保田城跡に行きました。久保田城跡は,現在,千秋公園として整備され,市民の憩いの場となっています。また、この場所には,久保田城御隅櫓、御物頭御番所、如斯亭庭園、旧黒澤家住宅などの関連施設もありますが,ここには天守もなく,単なる公園となっていて,夜も自由に入ることができました。これで秋田市の観光は終了してしまいました。要するに,秋田市は何もないところでした。
久保田城跡からホテルに帰る途中,おそば屋さんを見つけたので入りました。「創業文政元年の弥助そば秋田総本店」でした。
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西馬音内(にしもない)そばは,弥助そば屋・初代当主である「弥助」によって秋田県西馬音内の2万石橋のたもとから地域へ広められました。名物冷がけそばは細いのにコシがあって歯切れがよく,そばがふわりと甘く香ります。
これまでは西馬音内へ行かなければ食すことが出来なかった元祖冷がけそばをご堪能いただけます。
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というのが紹介です。羽後町の西馬音内地区では古くから多くのそば屋が軒を連ね,町内外から「西馬音内そば」として広く親しまれていて,つなぎに布海苔を使ったコシの強い麺が主流で,冬でも冷たいつゆをかけて食べる「冷やがけ」が特徴。ということで,私も「冷やがけ」とてんぷらを注文しました。おいしいおそばでした。この夕食が秋田市内の最高の思い出となりました。

ところで,東北地方は,これまで私にはなじみがなかったのですが,このごろ旅をするようになって,これらの地の歴史に興味がわいてきました。そこで,今回は,秋田県の歴史です。
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戦国時代,秋田の地は秋田家が治めていましたが,関ヶ原の戦いで石田三成が率いる西軍に味方したことにより,常陸宍戸(ひたちししど=現在の茨城県笠間市平町)へ転封となりました。
常陸54万石の佐竹義宣(さたけよしのぶ)は豊臣秀吉や石田三成へ恩義を感じていたこともあり,関ヶ原の戦いでは中立の姿勢を取り,それが原因で家康に睨まれることとなり,1602年(慶長7年)に秋田の地へ減封のうえ国替えとなりました。それ以来,秋田の地は佐竹家がずっと治めることととなりました。
佐竹義宣は,窪田神明山(くぼたしんめいやま)に新しい城郭と城下町を建設することを決定し,久保田城を完成させて居城としました。久保田藩の名称の由来は、居城の地名にあると考えられています。
2代藩主・佐竹義隆の後期になると,藩財政の雲行きが怪しくなり,3代藩主・佐竹義処(さたけよしずみ)が家督を継ぐころには,それまでの貯蓄を食いつぶすようになり,藩政改革を実行するものの,1690年(元禄3年)には16万両という巨額の借金を抱えることになってしまいました。
その後も秋田藩では抜本的な改革が行なわれないまま時が過ぎ,9代藩主・佐竹義和(さたけよしまさ)の代でようやく大規模な改革が実施されたことで一時は好転したものの,幕府による普請役や出兵の要請で出費がかさんだことに加えて,大飢饉が起こったことで再び暗転し,財政難に苦しめられたまま幕末期になりました。
江戸時代が終焉を迎えると,平田篤胤(ひらたあつたね)の出身地でもあることから尊王攘夷思想が拡大し,久保田藩最後の藩主である12代藩主・佐竹義堯(さたけよしたか)は藩論を尊王派に統一して新政府側に与する方向へと舵を切りました。
こうして明治まで久保田藩を護り抜いた佐竹義堯は久保田藩知事となり,久保田藩は秋田藩へと改称したのち,廃藩置県によって秋田県となりました。なお,現在の知事も,佐竹家の分家の出である佐竹敬久さんです。
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