しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場・47都道府県を制覇し,南天・皆既日食・オーロラ,空の3大願望を達成した「不良老人」の日記

February 2025

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【Summary】
The Tanegashima Red Rice Museum in Minamitane Town introduces red rice, an ancient rice variety once widely grown but later replaced by white rice. Minamitane preserves red rice traditions through rituals, such as planting sacred red rice at the Otanomori shrine. Today, red rice is promoted as a nutritious "ancient grain." Only three regions in Japan—Soja (Okayama), Minamitane (Kagoshima), and Tsushima (Nagasaki)—still cultivate it. During my stay in Minamitane, the inn I stayed at served red rice for dinner.

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種子島宇宙センターは,種子島の南東の先端,竹崎というところにあります。種子島の最南端は,そこから海岸線にそって県道75号線を西南西に12キロメートルほど行った門倉岬(かどくらみさき)で,私は,そこに向かって進んでいます。
その途中に,たねがしま赤米館という建物があったので,寄ってみました。
  ・・・・・・
たねがしま赤米館は,遙か昔に南方よりこの地に伝わった赤米の資料館で,赤米にまつわる民俗行事や地域の稲作などについて紹介しています。
南種子町の見所や芸能,行事などを見ることのできる「南種子町浪漫紀行」を放映しているほか,館内で赤米や民具を販売しています。
  ・・・・・・

私はまったく知らなかったのですが,赤米(あかごめ,あかまい)というのは,イネの栽培品種のうち,玄米の種皮または果皮の少なくとも一方にタンニン系の赤色素を含む品種を指すもので,野生のイネのほとんどは赤米だったそうです。
  ・・・・・・
紀元前に日本に米が伝来した際は白米と赤米がありましたが,赤米は白米によって次第に淘汰されていったと考えられています。赤米は,厳しい気候条件に強く,排水不良の土地でも良く育つことから,低湿地や高冷地で盛んに栽培され,新田開発にも重宝されていたと考えられますが,赤米は下等米とみなされ下級階層の人々の食べるものとされていたので,次第に作らなくなり,雑草化してしまいました。
しかし,平成に入ると,多様な形質の米に関する消費者の興味が高まり,赤米も品種改良が進み「古代米」という名称を冠して「古代人が食べていた栄養豊富な米」という宣伝がなされるに至り,赤米は注目を浴びるようになってきました。
  ・・
古来より,種子島では黒潮がもたらした南洋文化が赤米の伝統行事と混じり,神の力を得た赤米を媒体として神人が共存する自然信仰が受け継がれてきました。
種子島にはガローとよばれる自然信仰の森が点在し,その森には神が宿るとされ,立ち入り禁止の聖地です。種子島には,まるで古墳のようなガローとよばれる森があって,それは立入禁止の聖地だそうです。もし禁を犯してガローに侵入したら神の怒りを買い,バチカブリ(罰被り)に遭うといわれています。そうしたときは,神酒をあげ,モノシリ(物知り)とよばれる民間巫術者によって祈祷をあげてもらうのだそうです。ガローという言葉は「伽藍」から来ているとか。
そういえば,以前行った石垣島にも、御嶽という神聖な場所は立ち入りが禁止されていました。同じような文化です。
特に南種子町は18ガローとよばれるほど多くの聖域の森が鎮座し,その中でも御田の森(おたのもり)は,宝満神社(ほうまんじんじゃ)の御田植祭で赤米の苗に神を降ろす神事が行われる重要な場所で,森の木陰にある神田で四季折々の祭礼が行われています。春の御田植祭では,海水と海砂で清められた神田に神の力を宿した赤米が植えられ,秋には願成就祭(がんじょうじゅさい)と奉納踊りで収穫した赤米の俵を宝満神社に奉納します。
  ・・・・・・
ということでした。

たねがしま赤米館から道を隔てて,その宝満神社がありました。成立年代は定かでありませんが,祭神は玉依姫命で,赤米の神事が行われている場所だそうです。深い森の参道を通ると社殿がありました。さらにその向こうにあったのが宝満の池でした。宝満の池は周囲1,230メートル,深さ6メートルの海跡湖で,古来からの鴨猟や伝説が伝えられているということです。
とても神秘的な場所でした。
日本で古来の赤米が残るのは,岡山県総社市,鹿児島県南種子町,長崎県対馬市の3地域だけということで,南種子町では,赤米の栽培が残存していたことを売り文句としているようです。
私が2泊した旅館では,夕食のご飯は赤米でした。

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JR東海のディズニー新幹線


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【Summary】
Arriving at Tanegashima, I rented a car and headed to the Tanegashima Space Center. The island was larger than expected, taking about 30 minutes to reach. I passed Kounan Elementary School, known for its "space exchange students." At the center, I had "Rocket Curry" for lunch, enjoyed the scenic rocket launch site, and explored the exhibits. I later learned about a guided bus tour, but missed it due to lunch. The space center truly lived up to its title as "the world's most beautiful rocket launch site."

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ハワイ・モロカイ島みたいだったと思った種子島ですが,モロカイ島は,南北約15キロメートル,東西約60キロメートルと横に長く,面積は673.4平方キロメートルで,人口は約7,400人です。一方,種子島は,東西約12キロメートル,南北58キロメートルと縦に長く,面積は445.1平方キロメートルで,人口は約27,000人です。ともに素朴な島で,観光客も少なく,のんびりできます。

午前11時50分,モロカイ島,いや,種子島に到着しました。
これもまた,モロカイ島と同じような小さな空港は,到着客出口を出ると,レンタカー会社のカウンタがありました。さっそく手続きをして,レンタカーを借りました。レンタカーの駐車場は,空港のすぐ横でした。
旅行をして思うのは,人が居心地のよいのは,このくらいの規模だということです。
空港は,種子島のほぼ中央にあって,北に走ると,島で一番大きな町西之表市に向かいそこには鉄砲館という博物館があり,南に走ると,種子島宇宙センターがある,とレンタカーの係の人が教えて地図をくれました。
私は,何はともあれ,第一の目的である種子島宇宙センターに向かうことにしました。

種子島は思ったよりも広く,種子島宇宙センターまでは30分ほどかかりました。
やがて,道路の左側に南種子町立茎南小学校が見えてきました。これがうわさの宇宙留学生が通う小学校か,と思いました。この小学校は,生徒の半数が宇宙留学生だそうです。
さらに進むと,種子島宇宙センターに到着しました。センター内に食堂があるということで,まず,そこで昼食をとることにしました。メニューはいろいろあったのですが,ロケットカレーというものにしました。ご飯がロケットの形をしているのでした。次に,ロケットの丘というところに行きました。ここから,ロケットの発射場を遠望できました。そして,最後に,宇宙科学技術館に行きました。さまざまな展示がありましたが,ほとんど見学者はいませんでした。
「世界一美しいロケット発射場」というだけあって,種子島宇宙センターはすばらしい景色でした。
と,ここで知ったのが,バスツアーがあった,ということでした。バスツアーは予約制で,1日2回行われていて,1回目が10時30分から,2回目が13時からでした。先に食堂に行かなければ,2回目に間に合ったわけです。毎度のこと,出たとこ勝負の私らしい話です。残念なことをしました。
なお,バスツアーは3日目に参加しました。このことはまた後日。

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以下の写真はモロカイ島です。
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【Summary】
On February 18, 2025, the user flew from Chubu Centrair Airport to Kagoshima via Solaseed Air, then transferred to a Japan Air Commuter (JAC) flight to Tanegashima. They found Centrair inconvenient compared to Nagoya Airport. Solaseed Air left a good impression, unlike some LCCs. The ATR 42-600 aircraft offered clear views of Tanegashima, which appeared long and narrow. The island’s atmosphere and airport reminded them of Molokai, Hawaii, which they visited in March 2020.

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2025年2月18日火曜日。
鹿児島行きのソラシドエアは午前8時10分発でした。コロナ禍以前は,頻繁に利用していたセントレア・中部国際空港でしたが,このごろはご無沙汰です。私がこのごろ愛用するFDAは県営名古屋空港。それに比べて,セントレア・中部国際空港不便です。これもまたたびたび書いていますが,唯一の公共交通機関である名鉄は事故や架線故障で不通になることが少なくなく,信用なりません。私も一度,ひどい目に遭いました。
もうひとつ,別の鉄道路線があれば,という意見もあるのですが,不要だという反対意見も根強く,実現しません。しかし,不要だという人は,名鉄が不通になったときのことをまったく考慮していないのです。そもそも,海に浮かぶセントレア・中部国際空港へ渡るには有料道路しかなく,歩いていくことができないということが最大の問題だと思います。せめて,緊急時だけでも歩いて渡れる歩道を作るべきです。

今回は,朝が早いという理由もあり,セントレア・中部国際空港まで自家用車で行きました。これもまた,有料道路を走り,さらに,駐車場の高い料金を払う必要があるので,ひょっとしたら,鹿児島空港までの運賃よりもこちらのほうが高くなってしまいます。
ともかく,出発の1時間ほど前にセントレア・中部国際空港に到着しました。
ソラシドエア(Solaseed Air Inc)ははじめて利用しました。機材はボーイング737‐800でした。
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ソラシドエアは,宮崎県宮崎市に本社を置く航空会社で,リージョナルプラスウイングス(RegionalPlus Wings Corp.)の子会社です。リージョナルプラスウイングスは,北海道を拠点とするAIRDO(エア・ドゥ)と,九州・沖縄を中心とするソラシドエアによる共同持株会社です。
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ということですが,ソラシドエアの「ソラシド」という名前は,「空から笑顔の種を届けたい」という願いからつけられたそうです。また,音階の「ソラシド」より,上昇するイメージや弾むような楽しさ,親しみやすさといったイメージも表現されているということです。
私は,LCCのいくつかの会社の運航便は,お金をもらっても乗りたくないのですが,先日,秋田空港まで行ったときに乗ったオリエンタルエアブリッジ同様,ソラシドエアにも悪いイメージはもちませんでした。

外を眺めていると,阿蘇山らしきものが見えてきましたが,桜島は見ることができませんでした。
やがて,定刻よりも10分ほど早い午前9時30分に鹿児島空港に到着しました。
次は,日本エアコミューター(JAC=JAPAN AIR COMMUTER CO.,LTD.)午前11時10分発の種子島空港行きに乗り換えます。
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日本エアコミューターは,日本航空(JAL)グループのコミューター航空会社。
鹿児島空港をベースにプロペラ機を使用して鹿児島県内離島路線を中心とした路線を運航していて,運送の共同引受により全便JAL便として運航されています。
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機材はATR(Avions de Transport Régional )の42‐600でした。
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ATRはフランスのアエロスパシアル(Aérospatiale)とイタリアのアエリタリア(Aeritalia )が1982年に興した共同事業体で,定員が50人前後の小型機「ATR 42-200」から「ATR 42-600」の6機種を製造しています。
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私は,以前,ニュージーランドでクライストチャーチからクイーンズランドまで行ったときと,ハワイでオアフ島ホノルルからモロカイ島まで行ったときに乗ったことがあります。

飛行時間はわずか40分で,鹿児島空港を離陸したと思ったら,まもなく,種子島が見えてきました。飛行機は種子島からはるか西まで飛んで旋回して,高度を下げました。おかげで,種子島全体がよく見えました。知っていたこととはいえ,えらく長ぼそい島だなあ,と思いました。
種子島の第一印象は,乗ってきた機体といい,空港の雰囲気といい,2020年の3月に行ったハワイ・モロカイ島に似ているなあ,と感じました。

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【Summary】
I traveled to Tanegashima from February 18 to 20, 2025, a place I had long wanted to visit. Getting there was challenging, requiring a flight transfer via Kagoshima. The island often has strong winds, causing transport disruptions. With few buses, a rental car was essential. I booked flights, accommodation, and a car without much prior planning, wondering what I would find.

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一度は行ってみたかったけれど,これまでその機会がなかった,という場所を旅しているのですが,今回は種子島です。
これまで行った離島の数々。佐渡島,隠岐諸島,壱岐島,石垣島。どこも,行くのに苦労しましたが,種子島もまた,それと同じでした。調べてみると,交通手段は,高速船またはフェリーで鹿児島港から行くか,鹿児島空港から飛行機で行くか,でした。いずれにしても,鹿児島まで行かなければなりませんが,名古屋からは,列車では時間がかかるので,飛行機となります。しかし,鹿児島空港は,鹿児島港からかなり遠いので,接続が悪く,鹿児島空港から鹿児島港まで行って,そこから高速船またはフェリーというのは大変です。飛行機の場合は,名古屋から種子島までの直行便はないので,まず,セントレア・中部国際空港から鹿児島空港まで行って,そこで乗り換えることになるのですが,中部国際空港から鹿児島空港まではいくらでも格安航空があれど,鹿児島空港から種子島空港までは,日本エアコミューター(JAC)一択となって,むしろ,鹿児島空港から種子島空港までの運賃のほうが高いのです。
ということですが,しかたがないので,飛行機を乗り継いで行くことにしました。

行ってみてわかったのが,種子島は風が強い日が多く,海路は,かなり欠航が多いということでした。空路もまた,プロペラ機なので,予定通りに旅行ができないかもしれないけれど,海路よりはまし,ということでした。今回の旅でも,風の強い日がありましたが,幸い,何とか予定通りに行ってくることができました。
また,島内の観光は,路線バスもあるけれど,本数が少ないので,レンタカー一択ということでした。
宿泊するところも,さほど多くなかったのですが,条件のよいところを見つけることができました。
とはいえ,毎度のことながら,予習もせず,何も考えず,出たとこ勝負の旅でしたが,何もかも,順調に旅をすることができました。

旅をしたのは,2025年2月18日から2月20日までの2泊3日。航空券とレンタカーと宿泊先の予約をして,その日を楽しみに待ちました。
それにしても,種子島って,一体何があるのだろう,と行くまでは思っていましたが…。


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【summary】
I traveled to Tanegashima from February 18 to 20, 2025. The island is known for the arrival of firearms in Japan in 1543 and as a rocket launch site today. Though I had visited Kennedy Space Center twice, I had never been to Tanegashima. Wanting to see the space center, I finally made the trip.

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今日から書くのは,2025年2月18日から2月20日まで,2泊3日で出かけた種子島の旅行記です。

山川出版社の発行する高等学校の教科書「詳説日本史」の1973年版には次のようにあります。
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1543年(天文12年),中国の寧波(にんぽう)に向かうポルトガル人が,九州の種子島に漂流した。このとき島主種子島時堯(ときたか)は,ポルトガル人からはじめて鉄砲を手に入れ,その操作と製法とを家臣に学ばせた。
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また,その40年後の「詳説日本史B」の2013年版には次のようにあります。
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1543年(天文12年)にポルトガル人を乗せた中国人倭寇の船が,九州地方の種子島に漂着した。これが日本にきた最初のヨーロッパ人である。島主の種子島時尭は,彼らのもっていた鉄砲を買い求め,家臣にその使用法と製造法を学ばせた。
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40年で若干学説が変わったようですが,いずれにせよ,多くの人が思っているような,鉄砲を伝えたのは,ポルトガルから直接やって来たポルトガル人ではないのです。
また,私は,ポルトガル人が鉄砲という武器を持っていたとしても,その製造法まで知っているとは思えないので,この文章には疑問があるのでは,と思っていました。
ともかく,多くの人が知る種子島は,鉄砲伝来の島です。

さらに,近年は,種子島はロケットの打ち上げ基地としても,脚光を浴びています。
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種子島にある種子島宇宙センター(TNSC= Tanegashima Space Center)は,日本の宇宙開発の中心的な施設で,JAXA(宇宙航空研究開発機構)が運営しています。
日本最大のロケット発射場で,世界的にも美しい発射場のひとつとして知られています。
宇宙科学技術館は,宇宙開発の歴史やロケット技術を学べる展示施設で,観光客向けに開放されています。発射の際には種子島の美しい自然とロケットの壮大な打ち上げシーンが見られます。
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ということです。
私は,フロリダ州のケネディ宇宙センターは2度も行ったことがありますが,種子島はこれまで行ったことがありませんでした。
ロケットの打ち上げは,一度は見てみたいものだとは思っていたのですが,すごい混雑だろうし,延期されることも多いそうなので,今はあきらめていて,施設を見るだけでもいいなあ,と思っていました。果たして,どういうところで,日本のロケットは打ち上げられているのでしょう。

私には,そんな種子島の印象でしたが,百聞は一見にしかず。鉄砲もロケットも,実際はどうなのか,一度は行ってみようと思い続けていて,今回,やっと実現することができました。


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【summary】
I decided to buy a compact digital camera for my MLB trip since DSLR cameras are now restricted. Finding one was difficult, but I discovered Panasonic's new LUMIX TZ99 and pre-ordered it. It features a 30x zoom Leica lens, 20.3MP sensor, and 4K video. It arrived on February 21. Though high-spec, I mainly value its portability and zoom. This might reduce my use of the Nikon Z50 II, which I’ve been studying.

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 久しぶりにアメリカへ行ってMLBを見てこようと思っているのですが,うわさでは,現在は,レンズ交換式の一眼レフカメラ,ミラーレス一眼カメラなどを持ち込むことができなくなったとか。それでは大谷翔平選手のドアップ写真が撮れません。いくら性能がよくなったといっても,スマホでは超望遠は無理です。
 という理由で,コンパクトデジタルカメラを買おうと考えて調べてみたのですが,それがそれが,まったくとっていいほど存在しないのです。以前は選ぶのに困るほどだったのに,どうしたことでしょう。
 少し前,大手量販店で,カメラコーナーにいたニコンの人に,海外旅行でスポーツなどを写すために特化したコンパクトデジタルカメラを作れば売れるのに,と話したら,メーカーは需要がないと思い込んでいるらしいことがわかりました。とはいえ,近ごろは,クラシック音楽の演奏会もカーテンコールはコンパクトカメラで写真撮影可能だったりするし,私のように,MLBを見に海外に出かけたり,あるいは,大自然を写したい,そのために旅行をしたいという人は少なからずいるのに,プロでもないのに大きなカメラを持っていくことはできないし,レンズ交換式カメラは持ち込み禁止だとか,スマホでは満足できない,ということが少なくないと私は思います。動画撮影用のアクションカメラも静止画はちょっとねえ,という感じだし。

 よほど中古品を買おうかな,と思っていたところ,ちょうど,パナソニックが「LUMIX・TZ99」というコンパクトデジタルカメラを発売すると知って,値段も手ごろだったので予約をしてしまいました。私は,これまで,パナソニックの製品には全く興味がなかったので知らなかったのですが,このカメラは,それまであった「LUMIX・TZ95」のインターフェイスをUSB Type-Cに変えたもので,それ以外の性能はほぼ同じというか,ファインダーがなくなったという改悪があったくらいのもので,レンズは,何と,35ミリ換算で24ミリから720ミリ相当の30倍ズームLEICA DC VARIO-ELMAR 24-720mm/F3.5-6.4を搭載し,有効約2,030万画素の1/2.3型MOSセンサー。しかも,動画機能ではMP4での録画に対応していて,最大4Kでの記録が行えるということです。何てったってレンズはライカ。ついに私もライカユーザー,だったりして!
 大きさは横112ミリメートル,縦67.8ミリメートル,厚さ43.1ミリメートルと,私の持っているiPhone14より一回り小さく厚みだけが2倍程度で,質量はわずか322グラムです。よくぞ,発売してくれました,という感じで,現在は,コンパクトデジタルカメラはこれ一択です。

 巷の写真好き,というか,カメラ好きの人たちは,スペックに関していろいろと御託を並べますが,500ミリ以上の望遠まで撮影できるズームレンズがついていて,できる限り小さく軽ければそれでいいので,私には完璧なカメラで,性能は十二分です。とはいえ,「LUMIX・TZ99」はハイスペックすぎて,私は,きっと,その90パーセント以上は使わない,いや,使えないことでしょう。
 …ということだったのですが,発売前に予約を入れたら,2月20日の発売日に自宅に発送され,翌日2月21日に届きました。
 それにしても,こんなカメラを買ってしまったら,これで十分なので,せっかく手に入れてあの分厚いマニュアル本であれこれとお勉強を楽しんでいる最中の「ニコンZ50Ⅱ」の出番がますます少なくなりそうです。


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【Summary】
The Nirayama Reverberatory Furnaces were built in the late Edo period to cast cannons. Originally planned in Shimoda, construction moved to Nirayama in 1854. They operated from 1857 to 1864 and were preserved despite weathering, becoming a UNESCO World Heritage Site in 2015.

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 思ったよりも楽しかった,念願だった伊豆半島1周の旅もいよいよ最終段階になりました。
 最後に,来るときに知った韮山反射炉(にらやまはんしゃろ)に寄ることにしました。
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 韮山反射炉(Nirayama Reverberatory Furnaces)は,築造当時の形で現存する反射炉の遺跡で,高さ15.6メートルの連双2基,合計4炉で構成されています。 日本に現存する近世の反射炉は,韮山反射炉と萩反射炉のみということですが,萩反射炉は試験炉で,実用炉は築造されなかったといわれ,実際に鋳鉄の溶解が行われた反射炉としては世界で唯一現存する遺構とされていて,2015年,「明治日本の産業革命遺産・製鉄,製鋼,造船,石炭産業」として登録されました。
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 施設自体は,それほど大きなものではないのですが,さすが世界遺産というだけのことはあって,充実した資料館もあり,きちんと整備されていました。幕末から明治のころの日本は,こうした,今考えても途方もないようなことが行われていたことに,私は,感動しました。

 1840年(天保11年)のアヘン戦争に危機感を覚えた韮山代官の江川英龍は,海防政策のひとつとして,鉄砲を鋳造するために必要な反射炉の建設を建議,1853年(嘉永6年)の黒船来航を受けて,江戸幕府直営の反射炉として築造が決定されました。
 1853年(嘉永6年)に下田で築造開始し,翌1854年(安政元年)に下田に入港したペリー艦隊の水兵が敷地内に侵入したため,築造場所が現在の場所に変更されました。
 1855年(安政2年)江川英龍が死去すると跡を継いだ息子の江川英敏が築造を進め,1857年(安政4年)に完成しました。
  1857年から1864年まで稼働し,1864年に閉鎖されたのち,風化が進みましたが,1908年(明治41年)に韮山村有志が反射炉敷地を買い陸軍省に献納したことにより,韮山反射炉保勝会が維持・管理を行ってきました。
 よくも残ったものだ,と思いました。

 こうして,予想以上に楽しかった伊豆半島の旅を終えて,三島駅まで戻ってきました。レンタカーを返して,駅弁を買い,新幹線に乗って帰宅しました。

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【Summary】
After leaving Cape Irozaki, I drove north along Route 136, passing scenic spots like Kumomi Beach, Dogashima, Koganezaki, and Lover’s Cape, each offering stunning views of Mt. Fuji and Suruga Bay. I also passed Toi Gold Mine, once a major gold producer in Japan.

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 石廊崎を出て,その先は,伊豆半島の西海岸沿いに国道136号線を北上します。
 国道136号線は,雲見海岸までは交通量も少なく,道路もカーブが多いところでした。遠回りなので,観光目的でなければ走ることもないところなのでしょう。そこで,私には,素朴ないい感じのところでした。
 雲見海岸まで来ました。雲見海岸は 海水も透明感があり美しい海岸で,富士山が美しく見られることで人気な場所でした。幸い,ずっと天気がよく,この先,ずっと富士山を眺めながら走ることができました。

 やがて,堂ヶ島に着きました。
 伊豆半島の中でも,景勝地として知られる堂ヶ島です。そういえば,「堂ヶ島の雨」という有名な歌があります。この辺りまで来ると,かなりの観光客で,旅館もたくさんありました。奇岩や景勝地が多彩に並ぶ堂ヶ島には,天窓洞や三四郎島,トンボロなど目を見張るスポットが多く,また,海に目を向けると不思議な形をした島や岩があって,その間を遊覧する船で小さな船旅を楽しむことができるということです。また,駿河湾に沈む夕陽は言葉を失うほどの美しさ,ということですが,私は,ここで楽しむ時間がなく,また次回,ということにしました。

 さらに進むと,黄金崎。ここもまた,駿河湾と富士山の眺望のすばらしさ,夕陽を浴びて黄金色に輝く美しい岩肌で知られる景勝地で,岬全体が公園になっていて,「富士見の丘」,三島由紀夫の文学碑などがあります。
 そして,その先にあったのが「恋人岬」でした。
 車を停めて,岬まで歩きましたが,思ったより距離がありました。岬の先端にある展望デッキは180度以上のパノラマが拡がって,富士山や駿河湾を一望できました。また,展望デッキにある愛の鐘「ラブコールベル」を3回鳴らしながら愛しい人の名をよぶと愛が実るといわれていることから伊豆の恋愛パワースポットとなっています。

 「恋人岬」を出発して,さらに北上すると,土肥(とい)金山に着きました。
 天正年間に発見され,幕府直轄の金鉱として佐渡金山と並び採掘された金銀は慶長大判小判の地金となり幕府を支えました。17世紀のはじめの慶長年間に繁栄を極め,幕府公許の妓楼が連なり,土肥港は金鉱石を運ぶ葵定紋の千石船で賑わったといいます。土肥金山は1965年(昭和40年)に閉山し,現在は,一部を整備して当時の採掘の様子を電動人形で再現するなど,坑道出口に土肥金山の歴史と金山に関する資料を展示する「黄金の館」があるということです。かなり観光客でにぎわっていましたが,私は佐渡金山にいったこともあり,通過しました。

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【Summary】
Irozaki, once a major honeymoon destination, saw visitor decline, leading to the 2003 closure of its botanical garden. Redeveloped as Irozaki Ocean Park in 2019, it features a scenic walkway to the lighthouse and shrines. The coast showcases volcanic rock formations and Tafoni. A sightseeing boat operates routes based on wind conditions.

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 石廊崎(いろうざき)に着きました。広い駐車場があったので車を停めました。ここは,石廊崎オーシャンパークという場所で,ここから先端までは遊歩道がありました。
 1950年代から1960年代にかけて,石廊崎は「新婚旅行のメッカ」とよばれ,1994年には年間100万人の来客があったということです。ところが,2019年には観光客数は10分の1以下に下落してしまい,1969年に開園した石廊崎ジャングルパークという熱帯植物園は,入園者数が減少し,2003年に閉園してしまいました。南伊豆町が再開発を行って,2019年に石廊崎オーシャンパークとして再オープンさせ,奥石廊崎の愛逢岬にあったジオパーク・ビジターセンターをオーシャンパーク内の休憩棟に移転したのが現在のものです。
 時刻はちょうどお昼だったので,食事ができたらいいなあ,と思っていたら,絶好のレストランがありました。ほとんど観光客もおらず,最高でした。ここで肉チャーハンを食べました。

 食事を終えて,石廊崎の先端まで歩くことにしました。
 石廊崎に一面にひろがる岩は海底に噴出した溶岩流で,溶岩が水中に噴出すると急激に冷やされて砕けた岩片の集合になります。また,蜂の巣のようにたくさんの窪み「タフォニ」(Tafoni)があって,これは,水に溶けていた塩が水分の蒸発にともなって結晶になり,その結晶の成長によって岩石が壊されてできると考えられています。
 石廊崎には灯台と,その先に崖に面して石室(いろう)神社があって,最突端には熊野神社の祠がありました。1871年(明治4年)にできた石廊埼灯台は高さ11.38メートル,7月と11月のうち1日だけ一般公開されるということです。なお,灯台の名称は石廊「埼」灯台です。
 石廊崎の沖は古くは難所で,昔,江戸へ向かう商船が沖合で大波にあい,石廊権現に「帆柱を捧げるので波をおさめてください」と頼み,無事に江戸に到着できたという言い伝えがあるそうです。 この帆柱は断崖に建つ石室神社の社殿に今も使われています。

 石廊崎港から遊覧船が出ているということですが,それは,石廊崎の東方にある石廊崎港が発着地点ということで,気づきませんでした。気づいたとしても乗らなかったことでしょうが,遊覧船「伊豆クルーズ」は,風向きによって西方の奥石廊崎を周るコースと,石廊崎港より東方にある蓑掛島を周るコースのどちらかを運行するということです。

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【Summary】
Mahler’s Symphony No. 5 is a dramatic and grand work, especially known for its fourth movement, "Adagietto." This performance allowed me to rediscover its brilliance and moved me deeply. Having visited Mahler’s grave twice, this experience completely changed my perception of his music.

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 マーラーの交響曲第5番は1901年から1902年にかけて作曲され1904年に初演された作品です。全5楽章で構成され,演奏時間は約70分を要します。
  ・・・・・・
 第1楽章はマーラ-の多くの交響曲同様,トランペットのファンファーレではじまる葬送行進曲で,重厚で悲劇的な雰囲気が漂います。第2楽章は激しい感情のうねりを表現した劇的なものです。この陰鬱な雰囲気を一転させるのが,ホルンの印象的な旋律が特徴的な軽快で舞踏的な第3楽章のスケルツォで,マーラーの交響曲の中でも特に技巧的なオーケストレーションが光ります。
 そして,有名な第4楽章アダージェット。弦楽器とハープによる静かで美しい曲は,マーラーが妻アルマへの愛を込めて書いたともいわれ,映画「ベニスに死す」に使用されました。
 最後の第5楽章は軽快で生き生きとした音楽で,ポリフォニックな書法が駆使され,壮大なクライマックスへと向かいます。
  ・・・・・・

 マーラーの交響曲で特に演奏機会が多く、劇的で壮大な音楽体験を提供する名作として愛されていて,私もこれまでに何度も生演奏に接しました。しかし,第4楽章の印象が強すぎて,それほど好むものではありませんでした。しかし,今回の演奏を聴いて,というか,これほど入れ込んで聴いたのははじめてで,それは,客席が極めてオーケストラに近かったことも大きな要因でしたが,さらにまた,オーケストラの演奏がとてもよかったことと,指揮者のテンポの指示が私の感性にあったことにあります。そして,こりゃ,すばらしい曲だと思いました。ものすごくよく考えられている曲でした。
 今回の演奏会は,諏訪内晶子さんを身近に聴きたいという目的だけだったのですが,いやいや,それに勝るとも劣らない感動を,マーラーの交響曲第5番で味わうことができました。
 これまで何度も書いてきましたが,私は,これまでにウィーンに2度出かけて,2度ともマーラーの墓に詣でました。そして,私のそれまでのマーラーへの想いが完全に覆りました。
 マーラーはすばらしいです。


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【Summary】
On February 16, 2025, at Aichi Prefectural Arts Theater, the user attended the Nagoya Philharmonic Orchestra's Premium Concert. Conducted by Ken Takaseki, with cellist Rei Tsujimoto, the program featured Iwashiro’s Tōfū Jion no Shō, Dvořák’s Cello Concerto, and Respighi’s Roman Trilogy. Moved by Tsujimoto’s expressive performance, especially in Dvořák’s concerto, the user was deeply touched. The encore was Casals’ Song of the Birds, evoking memories of the late Kenichiro Tokunaga.

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 2025年2月16日,愛知県芸術劇場 コンサートホールで,名古屋フィルハーモニー交響楽団プレミアム・コンサートを聴いてきました。連日のコンサート通いです。この日は前から2列目,チェリストの真ん前でした。
 京都市の半導体・電子部品メーカーであるローム株式会社というところが中心となって1991年に設立された,若手音楽家の育成やコンサート支援などの活動を行っているロームミュージック ファンデーションが設立30周年を記念して開催しているコンサートのひとつということでした。
 曲目は,ローム ミュージック ファンデーション設立30周年記念委嘱作品である岩代太郎の「東風慈音ノ章」,ドヴォルザークのチェロ協奏曲,レスピーギの交響詩「ローマの噴水」「ローマの松」で,指揮は高関健さん,そして,チェロはNHK交響楽団首席チェロ奏者の辻本玲さんでした。

 岩代太郎さんは,映画「キネマの神様」,大河ドラマ「義経」,天皇即位20周年奉祝曲などを作曲したそうです。「東風慈音ノ章」は,大河ドラマのオープニングのような聴きやすい曲でした。
 私は,後半のレスピーギの交響詩「ローマの噴水」「ローマの松」には興味がないのですが,この日のメインであるドヴォルザークのチェロ協奏曲は大好きな曲だし,指揮者が高崎健さんでチェロが辻本玲さんということが気に入って,チケットを買いました。
 今回の指揮者・高関健さんは
  ・・・・・・
 日本を代表する指揮者のひとりで,精密かつ知的なアプローチと作品の構造を明晰に示す解釈が特徴です。スコアの細部まで緻密に読み込むことで知られ,オーケストラの響きをバランスよく整理し,構造的に明快な演奏を実現します。
  ・・・・・・
 私は,これまでは名前を知っていたくらいでしたが,2023年10月のNHK交響楽団定期公演Cプログラムで,来日できなかったヘルベルト・ブロムシュテットさんの代役として登場し,すばらしい演奏をしたことで,注目するようになりました。
 また,NHK交響楽団首席チェロ奏者である辻本玲さんは
  ・・・・・・
 日本を代表するチェリストのひとりで,豊かな音色,圧倒的な表現力,安定した技術が特徴です。深みのある低音と歌うようなフレージングが魅力で,かつ,どの音域でも美しく響く安定感があり,ドヴォルザークのチェロ協奏曲,サン・サーンスの「白鳥」といった旋律美を活かす作品で高い評価を得ています。
  ・・・・・・
ということです。

 何度も耳にするドヴォルザークのチェロ協奏曲ですが,考えてみると,私は,この曲を生演奏で聴いたことないように思います。大傑作ですが,この曲を,辻本玲さんの演奏は,深みのある低音に加え,高音もまた,すばらしいと思いました。そんな演奏もさることながら,この曲は,ドヴォルザークがアメリカで自分のふるさとチェコを思って作曲した,ということで,第1楽章と第2楽章では,その郷愁の念がいたるところで感じられ,そして,それを振り切るかのような決意の第3楽章と続くのですが,それでも,ふるさとの想いを断ち切れず,だから,曲が終われず,いつまでもいつまでも,フィナーレを引きずって,そして,最後に高らかに決別の音を鳴らす…。これはまた,若き日に恋したヨゼフィーナの死を悼み,彼女の魂の昇天をも表している,というのがこころに迫まるのです。
 泣けました。
 曲の余韻が忘れられず,帰宅して,ロストロポーヴィチさんが演奏したものを聴きました。これがまた,すごかった。辻本玲さんと何が違うかというと,それは円熟からくる「間」です。それが演奏の神々しさとつながっているのでしょう。
 この日の辻本玲さんのアンコールは,定番パブロ・カザルスの「鳥の歌」でした。この曲,私には切なすぎます。聴くたびに,若くして亡くなったNHK交響楽団の首席チェロ奏者・徳永兼一郎さんがホスピスで弾いた最後の「鳥の歌」を思い出してしまいます。

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【Summary】
Akiko Suwanai's performance of Bruch’s Violin Concerto showcased her precision and refined tone. The depth of the lower register stood out, possibly influenced by her switch from a Stradivarius to a Guarneri. Every note was captivating and deeply moving.

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 ヴァイオリンの諏訪内晶子さんは,日本を代表するヴァイオリニストのひとりです。
  ・・・・・・
 精緻な技巧,緊張感のある表現,そして,端正で洗練された音色が特徴です。感情を抑制しつつも内に秘めた強い情熱を感じさせる演奏スタイルが魅力です。無駄な力を入れない自然な演奏スタイルであり,感情を過度に誇張せず,洗練された表現を重視するのですが,内面に秘めた熱量があって,深みのある表現を聴かせます。
  ・・・・・・
とあります。
 私は,これまでにも数回,生演奏を聴いたことがあったのです。特に,デビューしたてのころに聴いたものは衝撃的でした。しかし,私が最も驚いたのは,これは,生演奏ではなくNHKFM放送で聴いただけなのが残念なのですが,2020年12月に行われたNHK交響楽団の公演,諏訪内晶子さんがヴァイオリンを弾いたベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲をでした。そのとき,何と美しいのだろう,これほどの音色は聴いたことがない,と思いました。
 そんな諏訪内晶子さんをまた生演奏で聴いてみたいと思っていたので,今回それが実現しました。また,曲目が,諏訪内晶子さんが得意とするブルッフのヴァイオリン協奏曲だったので,とても楽しみにしていました。あるきっかけで知って,何となく購入したチケットですが,座席は最前列,しかも,諏訪内晶子さんの真正面でした。

  ・・・・・・
 ケルンに生まれたブルッフ(Max Bruch)は,ドイツ・ロマン派の作曲家・指揮者で,幼少期から音楽の才能を発揮し,14歳で最初の交響曲を作曲しました。作風は,ブラームスやメンデルスゾーンのような伝統的な形式美を重視するものです。生涯にわたって多くの作品を残しましたが,ヴァイオリン協奏曲第1番が圧倒的に有名です。というか,多くの人が知るのは,この1曲です。
 ヴァイオリン協奏曲第1番は1866年に完成し,1868年にヨーゼフ・ヨアヒムによって初演されました。ロマン派を代表する協奏曲です。ちなみに,この協奏曲には明確なカデンツァがありません。
  ・・・・・・
 曲の中心となるのは第2楽章で,甘美で歌うような旋律が続くのが特徴ですが,これこそが,これぞ諏訪内晶子,という見せ場でもあります。
 諏訪内晶子さんの若いころの演奏がYouTubeにあったので,帰ってから聴き比べてみたのですが,今回の演奏では,高音部は当然のこと,低音部の重厚さがより引き立っていて,震えました。これは,経験を積んだからか,もしくは,使用するヴァイオリンが,ストラディバリウス「ドルフィン」(Stradivarius「Dolphin」)からグァルネリ・デル・ジェズ「チャールズ・リード」 (Guarneri del Gesù「Charles Read」)に変わったからなのか? いずれにせよ,1音1音すべての音色がすばらしく,霞がなく,魅了されました。

 アンコールはバッハの無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番から第2楽章「ルール」(Loure)でした。
 「日向を歩く猫」,冬の昼下がり,やわらかな日差しの中で優雅にゆらりと尻尾を揺らして歩く猫と表現した人がいるように,決して急ぐことはなく,かといってその歩みのペースを止めることもない,というこの曲がアンコールとは,ずいぶんと通好みのものでした。


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【Summary】
On February 15, 2025, I attended the Gürzenich Orchestra Cologne’s concert in Toyota, conducted by Sakari Oramo. The program featured Bruch’s Violin Concerto No. 1 with Akiko Suwanai and Mahler’s Symphony No. 5. The orchestra, renowned for premiering Mahler’s works, delivered a memorable performance.

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 2025年2月15日,豊田市コンサートホールで,ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団(Gürzenich-Orchester Köln)の演奏会を聴きました。指揮はサカリ・オラモ(Sakari Markus Oramo)さんで,曲目は諏訪内晶子さんがヴァイオリンを弾くブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番とマーラーの交響曲第5番でした。
  ・・・・・・
 -「生ける伝説」がよび起こすロマン派の輝き-
 ドイツの古都ケルンの音楽文化を発展的に継承する名門オーケストラが満を持して登場。日本が誇る円熟の奏者・諏訪内晶子をソリストに迎えブルッフの代表作を,また,同楽団初演という栄光と共にあるマーラーの名曲を届ける。
 あの「アダージェット」の余韻を,今,このホールでわかち合いたい。
  ・・・・・・
だそうです。
 
 ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団はドイツ連邦共和国ケルンに本拠を置くオーケストラで,ケルン歌劇場専属のオーケストラとしても活動しています。
  ・・・・・・
 1827年,ケルン市内の音楽家が集まってオーケストラコンサートを開始し,本拠地をギュルツェニヒ邸跡地の演奏会場に定めたためこの名称となり,1888年,ケルン市公認のオーケストラとなりました。
 これまでに,ブラームスのヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲,マーラーの交響曲第3番,交響曲第5番,リヒャルト・シュトラウスの「ドン・キホーテ」「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」などが,作曲者自身の指揮で初演されました。
  ・・・・・・
 ということだったのですが,料金がとても安価で,しかも入手しやすく,かつ,ヴァイオリンが諏訪内晶子さん,ということで,早速購入して,この日を楽しみにしていました。

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【Summary】
Ryugu Cave is a large sea cave with a collapsed ceiling, creating a striking skylight. Visitors can explore it from below or view its heart-shaped formation from above. Nearby is the Tōji Sand Ski Area, a natural sand dune formed by strong winds, maintaining a constant slope for sand skiing.

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 下田を出た私は,伊豆半島の西海岸沿いに北上して,帰ることにしました。下田は伊豆半島の最南端ではありません。最南端は石廊崎というところです。そこで,まず,石廊崎を目指すことにしました。その途中のあったのが竜宮窟でした。
  ・・・・・・
 波が海岸に打ちつけると崖の柔らかい地層や断層などが削られていって洞窟ができます。これを海食洞(かいしょくどう)とよびます。田牛(とうじ)の龍宮窟(りゅうぐうくつ)は,海食洞の天井が一部崩れて,直径40メートルから50メートルほどの天窓が開いたものです。
 龍宮窟の天窓は伊豆の各地にあるものの中で最大級です。
  ・・・・・・

 駐車場があったので,車を停めました。そこから竜宮窟へ歩いていくようでした。
 コースはふたつあって,ひとつは,竜宮窟に下っていくもの,そして,もうひとつは,竜宮窟を上からひと回りするものでした。
 私は,まず,下っていきました。これは,道路沿いの入口から洞窟を通って天窓の下まで行くものです。竜宮窟の天窓は海食洞の天井の落盤でできたもので,その後何度も起こった落石によって広がってきていて, 現在,落石等の危険があるため竜宮窟内の奥深くまでは入ることができませんでした。それでも,圧倒的な迫力で,洞窟の壁に海底火山から噴出した黄褐色の火山れきが美しく層をなし,天窓の底を満たす青い海水とのコントラストが神秘的な場所でした。
 次に,元いた場所にもどって,竜宮窟の周りを歩きました。遊歩道が整備されていて,上からの神秘的な海食洞をみることができました。竜宮窟は,上から見るとハート型の地形となって出現するので,ハートスポットととしても注目を集めているそうです。
 また,木々の間からは遠く伊豆諸島を見ることもできました。

 竜宮窟の西側には,田牛サンドスキー場があります。これは,強い風によって吹き寄せられた砂が積みあがってできた天然のもので,風の強い冬場には海岸から丘に向かって砂が吹き上げられていく様子も見られるといいます。
 吹き上げられた砂は斜面の途中にたまったり,背後の崖に吹きつけられて落ちてきたりします。 やがて,砂の丘が高くなってくると砂つぶは斜面にとどまっていることができなくなり,転がって落ちてきます。こうしてできる砂の丘は,約30度よりも急角度になることはできないので,サンドスキー場はいつも同じような角度の滑り台になります。

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【Summary】
Perry Road in Shimoda is a historic cobblestone path where Perry’s entourage marched to Ryosenji for treaty negotiations. Nearby, the Ketsubōjo supplied essentials to foreign ships under restricted trade. Yoshida Shōin, after his failed stowaway attempt, was detained at Chōmei-ji before being moved to Hirarame Prison.

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 おそらく下田市といって,最も有名な景色はペリーロードでしょう。
 今日の1番目の写真はペリーロードで,伊豆半島の観光案内でよく目にします。とはいえ,私は,この場所は,修善寺温泉の温泉街だとばかり思い込んでいました。それは大間違いでした。
  ・・・・・・
 幕末,黒船で来航したペリー一行が了仙寺で日米和親条約付録下田条約締結のために行進したのが,「出船入船三千隻」とうたわれた下田の花柳界の面影を残している,平滑川(ひらなめがわ)沿いの石畳の道でした。 ペリー艦隊と幕府側との最初の会見の日,ペリー一行は,祝砲を響かせバッテーラを連ねて上陸し,大砲4門を先頭に曳き,軍楽隊の高らかな奏楽の下,剣付鉄砲の水兵の列を率いてペリーロードを行進し,了仙寺へ乗り込んだといわれています。 
  ・・・・・・
 了仙寺から狭い道を歩いていくと,この風景に出会うことができました。
 ペリーロードでは,総延長約500メートル石畳,石欄干とガス灯が周囲の古い建物との調和のとれた風情を創出しています。夕刻になると,ガス灯の独特の明かりによって幻想的な光景を楽しむことができるようですが。

 再び了仙寺まで戻って,西に向かって歩くと,まず,欠乏所跡という案内板がありました。
 下田が開港され,下田条約が締結されても,幕府は貿易を拒否し,航海上必要な薪,炭,水,食料などの欠乏品のみの供給を認めていました。しかし,実質上の貿易が欠乏品の名目の下で行われていたというのが,いかにも建前だけの日本の姿でした。
 欠乏所は,最初,浦方御用所を拡張しておかれていましたが,安政東海地震による大津波で,同心町に新しく建設されました。現在,欠乏所跡には「平野屋」が古民家で営業されていて,開港当時の下田の雰囲気を味わいつつ,ステーキやコーヒーを味わうことができるそうです。
 さらに進むと,吉田松陰拘禁之跡という案内板がありました。現在は下田市立中央公民館のある場所ですが,当時は長命寺でした。ペリー艦隊に便乗して海外渡航の企てに失敗した吉田松陰と金子重輔は,柿崎村名主の平右衛門に自首し,この長命寺に一時拘禁されて取り調べを受け,平滑の獄に移されました。

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【summary】
I boarded the Shimoda Port cruise ship "Susquehanna" alone and used the special observation room. The cruise showcased historical sites like Misago Island, Inubashi Island, and Ujima Castle. At Benten Island, I visited the site where Yoshida Shōin and Kaneko Jūshisuke attempted to stow away.

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 私は「サスケハナ」(USS Susquehanna)という名前の船を知っていました。アメリカ海軍のフリゲートで,黒船来航時,旗艦としてペリー提督が搭乗していました。
 下田の観光案内所で下田港黒船遊覧船「サスケハナ」が運行していることを知って,乗ってみたいと思いましたが,その時間があるかな,と思いました。
 出航時間は 午前9時10分,午前9時40分,午前10時10分というように,30分間隔で,クルーズは20分ということでした。
 爪木崎の水仙まつりを見,玉泉寺に寄り,吉田松陰と金子重輔の銅像に感動したあと,黒船乗船受付処と書かれた建物に着いたのが,午前9時20分ごろだったので,9時40分出航の船に間に合いあいました。乗船券を購入して,待っていると,まもなく,午前9時10分出航の船が戻ってきました。乗っていたのは15人ほどでした。入れ替わり私が乗り込んだのですが,何と,乗船したのは私ひとり,貸し切りでした。

 下田港黒船遊覧船は伊豆クルーズという会社が運行しているものでした。
  ・・・・・・
 伊豆の魅力をたっぷり味わいたいなら, 伊豆の透き通った海で遊覧船を運営する 伊豆クルーズ。 伊豆クルーズには下田港発着の「下田港内めぐり」と石廊崎港発着の「石廊崎岬めぐり」のふたつの航路があります。
 「下田港内めぐり」では,黒船に乗って楽しむ下田港の歴史的な風景と海上から眺める石廊崎の雄大な自然美。 自然と歴史が織りなす贅沢な旅をお届けします。
  ・・・・・・
とあります。

 観光遊覧船「サスケハナ」は,ペリー提督の黒船来航をモチーフとして復活させたもので,船内は,2階特別展望室を含め240人乗ることができます。特別展望室は500円の別途料金が必要でしたが,せっかくなので,そちらにしました。
 青く美しい下田の海を出航してまず見えてくる朱色の鳥居のある島はみさご島と 洞窟が神秘的な犬走島(いぬばしじま)でした。黒船7隻は,みさご島と犬走島の間に次々と来航し,錨をおろしました。 そして,総勢1,265人の外国人が下田に上陸しました。
 イルカと遊べる下田海中水族館のすぐそばを過ぎると,こんもりとした緑に覆われている下田公園と鵜島城(うじまじょう)跡が見えました。鵜島城は,安土桃山時代に北条氏が築いた城で,アジサイの名所としても有名です。
 最後に,弁天島が見えてきました。ここに吉田松陰と金子重輔が黒船に密航しようと潜んでいたのです。吉田松陰と金子重之助の像「踏海の朝」において,吉田松陰が指さすその先に,今乗っている「サスケハナ」が運航しているのでした 。

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Snow Moon 2025.

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【Summary】
In 1854, Yoshida Shōin and Kaneko Shigenosuke attempted to stow away on Perry’s fleet in Shimoda but failed. They surrendered and were imprisoned in Edo. Later sent to Hagi, Shōin was confined in Noyama Prison, while Shigenosuke, in poor conditions, died the next year.

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 司馬遼太郎の歴史小説「世に棲む日々」は,幕末初期の長州藩士の思想家吉田松陰と門下生で奇兵隊を結成し,馬関戦争や長州征伐において活躍した倒幕の志士高杉晋作を描いたものです。
 この小説は,1977年のNHK大河ドラマ「花神」でドラマ化されました。
 このドラマで,私が最も印象に残っているのが,下田の港からペリーの乗る黒船に乗りこんで密航を企てた吉田松陰と金子重輔でした。それ以来,長年下田に行ってみたいと思っていたので,この旅で,吉田松陰と金子重輔が密航を企てたその地と,今,その地にある像を見て,感激しました。

  ・・・・・・
 1854年(嘉永7年3月27日)下田で,吉田松陰が金子重輔とともにペリー艦隊への密航を試みて失敗しました。これが「下田踏海」(とうかい)です。
 1830年(天保元年)に長州藩の萩城下で生まれた吉田松陰は,叔父で山鹿流兵学師範の吉田大助の養子となり,兵学者として育ちました。西洋列強の東洋進出とアヘン戦争における清国の敗北で,「兵学者として日本を守らなければならない」という志を抱いた吉田松陰は,1853年(嘉永6年)ペリー来航を知り,「敵を知り己を知れば百戦危うからず」の教えに基づき,「西洋列強に学ぶべし」とする師・佐久間象山の言葉を受け止め,西洋見聞を志します。
 金子重輔(しげのすけ)は,1831年に生まれました。 1853年,家業を嫌って江戸に出,金子家の養子となり,長州藩士・久芳内記の組下の足軽となりました。2歳年上の吉田松陰と出会うと人柄に惚れ,藩邸を出て,吉田松陰と生活するようになりました。
  ・・
 翌1854年(嘉永7年),ペリー艦隊が再び来航し,横浜で日米和親条約を結ぶと,艦隊は下田に移動。吉田松陰は,江戸藩邸で雑役をしていた金子重輔とともに,国禁を犯して黒船に密航することを決意します。
 ふたりは,姉崎海岸で小舟を盗んで沖に停泊する艦隊に向かいますが波が強く断念し,弁天島の祠の中で休みます。そして,たまたま浜を歩いていた米書記官に出会い,乗船を望む趣旨を書いた「投夷書」を手渡し,深夜,小舟で旗艦ポーハタン号に乗りつけることに成功します。
 「投夷書」のおかげでペリーに面会できましたが,密航を拒否。やむなく浜に戻り,自首して我らの気概を日本中の志士たちに知らしめようと,打ち首覚悟で下田奉行所に出頭し,ふたりは江戸小伝馬町の獄に送られました。
  ・・
 伝馬町の獄では別々に収容され,金子重輔は身分の低い者を収容する無宿牢に入れられ,その後,環境が悪い百姓牢に入れられると皮膚病で化膿し,さらに肺炎も併発してしまいました。
 やがて,吉田松陰と金子重輔は,萩へ送還されました。
 萩に到着すると,吉田松陰は士分の者が入る野山獄へ,金子重輔は士分以下の者が入る劣悪な環境の岩倉獄へ収容され,衰弱した金子重輔は,1855年病没しました。享年24でした。
  かくすればかくなるものと知りながら 已(や)むに已まれぬ大和魂
    吉田松陰
  ・・・・・・

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【Summary】
After visiting the Narcissus Festival at Tsumekizaki, I stopped by Gyokusenji Temple, which served as the first U.S. consulate in Japan. Townsend Harris and his secretary, Heusken, negotiated treaties here. The temple also houses memorials for foreign sailors. Nearby, Benten Island and Mishima Shrine feature statues of Yoshida Shōin, who attempted to stow away on a black ship.

######
 爪木崎の水仙まつりを見たあと,玉泉寺(ぎょくせんじ)に寄りました。
 玉泉寺は曹洞宗の寺院で,山号は瑞龍山。幕末期にアメリカの総領事館として使用された寺として知られます。
 整備された駐車場があったので,そこに車を停めました。
 アメリカの初代の総領事はハリス(Townsend Harris)でした。玉泉寺の境内には,渋沢栄一が建立した「ハリス顕彰記念碑」や,ハリス記念館が建てられていたので,見学することができました。
  ・・・・・・
 ハリスは,1804年に生まれ1878年に亡くなりました。
 通訳兼書記官として,オランダ語に通じたヒュースケン(Henry Conrad Joannes Heusken)を雇い,1856年,ヨーロッパからインド経由で日本へ到着し,伊豆の下田へ入港し,玉泉寺に領事館を構えました。そして,和親条約改訂のための交渉が行われ,1857年(安政4年)に下田協定が調印されました。  ハリスは江戸出府を要請し許可され,1857年12月に登城し,13代将軍・徳川家定に謁見し,親書を読み上げました。
 1858年(安政5年)には日米修好通商条約が締結され,これによりハリスは初代駐日公使となり,下田の領事館を閉鎖して,江戸の元麻布善福寺に公使館を置きました。  1862年(文久2年)に病気を理由に辞任の意向を示し,5年9か月の滞在を終えて帰国しました。  
 ・・・・・・
 玉泉寺には,1854年の黒船来航時に病死したアメリカ人乗組員の埋葬をきっかけに,1850年代に計4人のアメリカ人の墓が造られました。また、ロシアのプチャーチン提督率いるディアナ号(1854年)、アスコルド号(1858年)の水兵計4人も埋葬されていました。

 玉泉寺の駐車場の近くにあったのが弁天島でした。弁天島は,黒船来航時,海外渡航を企てた吉田松陰と金子重輔が隠れていた島で,ここに「踏海の朝」と題したふたりの銅像がありました。また,玉泉寺の北側には三島神社があって,ここにも吉田松陰の像がありました。

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【Summary】
On January 20, 2025, I visited Tsumekizaki in Shimoda for the Narcissus Festival. The cape is home to a lighthouse and wild narcissus, but I was surprised to see vibrant aloe flowers as well. The weather was perfect, with stunning ocean views. Though I wanted to visit Tsumekizaki Lighthouse, I had to move on to my next destination.

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 2025年1月20日。
 民宿をチェックアウトして,今日は,午前中下田の観光をします。
 まず,昨日,観光案内所で勧められた爪木崎の水仙まつりを見にいくことにしました。
 爪木崎(つめきざき)は下田市の東側にある岬で,須崎半島ともよばれます。岬には爪木崎灯台が置かれ,水仙の群生地があり,12月下旬から2月上旬にかけて水仙まつりが催されます。また,爪木崎のある須崎地区には,1971年(昭和46年)から須崎御用邸が置かれています。
  ・・・・・・
 須崎御用邸は,沼津御用邸が沼津市に譲渡されたのち,宮内庁によって取得されました。この御用邸には,昭和天皇が管理する海洋生物学研究所が併設されていました。昭和天皇は,春,夏,冬にそれぞれ約10日間滞在し,併せて研究を行い,数多くの学術論文が発表されました。
 1971年(昭和46年)に建設された御用邸の建物は西洋建築様式の平屋建てで,隣接するプライベートビーチは「天皇ビーチ」または「エンペラービーチ」ともよばれる。
  ・・・・・・

 御用邸の横の道路を走っていくと,駐車場に着きました。ここに,水仙の群生地があり,今がピーク時,ということで期待しました。
  ・・・・・・
 爪木崎は野水仙の群生地としても有名で,最盛期の1月に咲く水仙の数は300万本! 公園全体が甘い花の香りに包まれます。
  ・・・・・・
…だったのですが,まず目に入ったのが紅色の奇妙な花の群れ。まさかこれが水仙ではないだろう,と思ったのですが,腑に落ちません。さらに歩いていくと,その向こうに,かわいらしい,まさに水仙の花が広がっていました。
 紅色の奇妙な花はアロエの花でした。帰ってから調べると
  ・・・・・・
 キダチアロエは,朱色の円錐のような形をしたエキゾチックな花を咲かせます。キダチアロエは本来寒さは苦手で,温暖な環境でないとなかなか花を咲かせてくれないため,花を見たことがない人もいるかもしれません。また,開花する目安として,高さが50センチメートル,茎の太さが2.5センチメートル以上にまで生長することが挙げられます。
  ・・・・・・
ということなので,アロエの花自体も珍しいものだったのでしょう。ただし,この場所では,水仙よりもアロエのほうが生命力が強いらしく,セイタカアワダチソウとススキのような関係になってしまっているのかもしれません。

 朝早かったので,来ている人もほとんどなく,天気もよく,遠くまで続く吸い込まれそうなほどの青い海に空の青のグラデーショという癒される風景が展開されていました。
 下田は伊豆でも特に水質がよいのだそうですが, 爪木崎は海水浴場ではなく自然公園です。
 私の今日の目的地はほかに多くあるので,この地に長居はできませんでした。そこで,ビーチを後にして遊歩道を歩いていくと,日本有数の美しい灯台である爪木崎灯台まで行くことができるのですが,断念しました。
 爪木崎灯台は,高さ17メートル,灯りの高さ38メートルで,1937年に建立された洋式石造り灯台ということで,灯台周辺は絶景を楽しめる場所だそうです。また,爪木崎灯から南10キロのところには,開国間もない明治3年に英国人によって建設された日本最古の灯台である神子元島灯台があるということです。

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【Summary】
I stayed at a guesthouse in Minamiizu Town, located in a hillside villa area. The cozy inn provided private hot springs, delicious meals, and a peaceful atmosphere, meeting my preference for small, quiet accommodations over large hotels or resorts. Japan's inns vary widely, adding to the charm of travel.

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 この日宿泊するのは,南伊豆町の民宿でした。
 下田市街地から近いところだと思っていたのですが,意外と距離がありました。場所は,高台で,周りは別荘地でした。おそらく,温泉つき別荘地の類だと思われました。
 今回とは違って温泉ではなかったのですが,私は,2019年の春,ハワイのオアフ島で,こんなようなところに泊まったことがあります。いわゆる民泊,というようなものでしたが,そこは高台にある一軒家貸し切りでした。オーナーが朝食だけ作りにきてくれました。それ以外は,どこもご自由にお使いください,ということでした。それを思い出しました。
 ここは,一軒家貸し切りではありませんでしたが,宿泊客は私ひとりでした。食べきれないほどの夕食と朝食がついていて,しかも,温泉が室内とさらに露天風呂までありましたが,残念ながら,あまりに寒くて,露天風呂には入ることはできませんでした。それに,宿泊代がものすごく安かった…。

 私は,いくら豪華でも,団体ツアー客御用達のような大きなホテルや旅館には泊まりたくないと思っています。また,大人数での食事も嫌です。できれば,朝食もバイキングは避けたいです。理想は,小さな宿で2食つき。ほかに宿泊客がいなければ最高です。ということで,豪華で有名な大旅館やリゾートホテルははじめから選択肢にありません。
 ここは,その条件すべてが当てはまりました。
 以前,「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」という番組で,蛭子能収さんが日本の旅館は当たり外れが大きい,と言っていましたが,まさにそのとおりで,日本国内を旅すると,そう感じます。
 アメリカでは,豪華なホテルは別として,全国チェーンのモーテルなら,新しいか古いかくらいの違いだけで,どこも同じ,寝るだけの用途しかありませんが,日本は本当に千差万別です。
 とはいえ,どこに泊まったときも,不快になったという経験はありません。それよりも,行ってみるまでわからない,どんな意外なサービスがあるか,ということのほうが旅の醍醐味です。
 いずれにしても,私のような客ばかりだと経営が成り立つのかしらん,と考えてしまいますけれど…。

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【Summary】
In 1854, the Treaty of Shimoda between Japan and Russia was signed at Chorakuji, and the following year, the ratification documents of the Japan-U.S. Treaty of Peace and Amity were exchanged. Negotiations with Perry took place at Ryosenji, leading to the signing of the Treaty of Shimoda. At the museum, I learned that the Japan-U.S. Treaty of Peace and Amity was finalized in Shimoda, securing a favorable exchange rate for Japan.

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 下田に到着したのが午後3時30分過ぎでした。予約した宿泊地の連絡してあったチェックイン時間が午後5時で,下田から15分くらいかかるということだったので,この日の下田の観光は1時間ほどで,行くことができないところは明日の午前中ということにしました。
 まず,観光案内所に行って,町の地図をもらい,おもな観光地を聞きました。
 下田で私が行きたかったのは,ペリー来港からはじまる歴史上の舞台でしたが,それらは,下田の西側と東側にありました。そこで,この日は,西側の場所だけに絞っていくことにして,翌日,東側にいくことにしました。

 西側にあるのは,長楽寺と了仙寺ということだったので,まず,長楽寺に行きましたが,車を停めるのに苦労しました。
  ・・・・・・
 1854年(安政元年),長楽寺で,日本の交渉全権代表となった筒井政憲(つついまさのり)・川路聖謨(かわじとしあきら)とロシア使節・プチャーチン海軍中将(Jevfimij Vasil'jevich Putjatin)との交渉の結果,日露和親条約(日露通好条約)が締結され,択捉島と得撫島の間に境界を置き,択捉,国後,歯舞,色丹は日本領に,得撫島以北の千鳥列鳥はロシアに属することが決まりました。
 また,1855年(安政2年)1月,米国使節・アダムズ中佐と日本側応接掛・井戸覚弘(いどさとひろ)対島守などの間で,すでに締結されていた日米和親条約の批准書が交換されました。
  ・・・・・・

 次に向かったのがでした。ここで知ったのが,長楽寺に行くのにも,了仙寺の駐車場に車を停めるほうが楽だった,ということでした。そのため,この日は,ペリーロードへ行くことができませんでした。
  ・・・・・・
 1854年3月31日(嘉永7年),横浜で日米和親条約が締結され,下田と函館の開港が決まりました。開港された下田に,ペリー艦隊の船が続々と入港してきました。
 日米下田条約と異民族交流横浜で締結した日米和親条約では細かい点がほとんど決められていなかったため、下田に上陸したペリーは早速日本側と交渉に入りました。その場所となったのが了仙寺です。 10日間にわたる協議の結果、1854年6月17日(嘉永7年5月22日)、日米下田条約(日米和親条約付則13ヶ条)が結ばれ,アメリカ人が下田の街中を自由に歩く権利「遊歩権」が与えられました。
 黒船のアメリカ人と下田の町民たちはそこここで異文化の交流を体験しました。
  ・・・・・・
  了仙寺の敷地は広く,ここには博物館もありました。博物館は,かなり興味のあるものでした。そこで知ったのは,次のことでした。
  ・・・・・・
 「日米和親条約」は横浜で成立したことになっていますが、実は最終的に下田で成立しています。横浜では、日本語・英語・漢文で条約文がつくられましたが、日本側が英語の条約文に署名を拒否しました。そこで、下田で再度交渉し、日本語・英語・オランダ語の条約文がつくられ、そこで初めて日本側も署名しています。
 下田では、条約の本文の他に細かいことを決めています。例えば、銀を使った日米の為替レートは、圧倒的に日本側に有利でした。よく日米和親条約は「不平等条約」と言われますが、これは明治政府が徳川幕府の交渉を否定するために作られたイメージで、ペリーとの交渉で日本は一歩もアメリカに譲っていませんでした。このような下田での日米交渉の場所が了仙寺です。
  ・・・・・・

 これで時間になったので,あとは,翌日にして,宿泊先に向かいました。

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【Summary】
On February 5, 2025, I visited the "Paul Klee Exhibition" at the Aichi Prefectural Art Museum and was particularly impressed by the work "Elevation," created in 1925. Paul Klee was known for his unique sense of color and played an important role as a teacher at the Bauhaus school. He faced persecution under the Nazi regime and fled to Switzerland but later gained recognition in the United States. His later works reflect his emotions and struggles, with "Insula dulcamara" being especially striking. Klee's art is something that warms my heart, and it resonates with the changes in his era.

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 2025年2月5日,愛知県美術館で開催されている「パウル・クレー展」を見てきました。
 このごろの美術展は平日であってもけっこう混雑していて,人の頭を見にいくようなものとなっているので気が進まないことが多く,コロナ禍のころの人数制限が懐かしく思えるのですが,「パウル・クレー展」は空いていて,落ちついて鑑賞することができました。
  ・・・・・・
 パウル・クレー(Paul Klee)は,19世紀末に生まれたドイツ人画家で,ヨーロッパ近現代美術の歴史のなかで重要な役割を果たしました。40歳を迎えるころに注目を浴び,前衛美術の騎手と目されるようになり,ドイツに設立された総合工芸学校「バウハウス」Bauhausの教員に迎えられました。
 パウル・クレーの独特の色彩感覚と作画は現在でも色褪せることなく後世に大きな影響を及ぼしています。
  ・・・・・・
とあります。

 さまざまな解説にあるほとんどの作品が集められていて,興味深く見ることができましたが,その中で,私が気に入ったのが,そうした解説には取り上げられていない,1925年に描かれた「上昇」という作品でした。
  ・・・・・・
 衝動にかられた挙動が地上から立ち昇ってゆくのは,遠心力に絶対的な命令による。遠心力は重力に打ち勝つのだ。
  ・・・・・・
とパウル・クレー自身が語ったという作品です。
 もし,この作品が部屋に飾ってあったら,そのさりげない描写と色彩がわたしのこころを落ち着けるような,そんな気がしました。

 私はミロの作品が好きですが,どこか共通するところがあるなあ,と思いました。
 私は,歳をとるにつけて,現実を描いた作品には興味がなくなって,見ていると自分のこころが温かくなる,そんな絵画が気に入るようになってきました。 
 パウル・クレーが,金銭的にも落ち着き,ドイツで作品を量産していた順風満帆のころ,ヒトラーが現れ,「画家に対するジェラシーのために」前衛的表現をしていた画家を迫害し,作品を「退廃芸術」とよんで燃やし,パウル・クレーも,また,退廃芸術生産工場だとみなされ,スイスに家族で逃げることになってしまいました。1933年末、ナチ政権の迫害を受けてベルンに移住。以後、アメリカでの評価を確立するも1940年に没する,そんな時期の作品,特に,1938年の作「ドゥルカマウラ島」(Insula dulcamara)は,痛々しいほど醜いと感じました。
 1940年,パウル・クレーは60歳で亡くなりました。墓碑にはこうあります。
  ・・・・・・
  I cannot be grasped in the here and now, for my dwelling place is as much among the dead as the yet unborn. Slightly closer to the heart of creation than usual, but still not close enough.
  ・・
 この世では,私を理解することなど決してできない。なぜなら,私は死者たちだけでなく,未だ生まれざる者たちとも一緒に住んでいるのだから。
    パウル・クレー
  ・・・・・・

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【Summary】
Commodore Matthew Perry, born in 1794 in Newport, Rhode Island, led the U.S. East India Squadron to Japan in 1853, initiating negotiations with the Tokugawa Shogunate. This resulted in the 1854 Treaty of Kanagawa, opening Shimoda and Hakodate to U.S. ships, marking the start of U.S.-Japan relations.

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 城ケ崎に行ってから国道135号線を戻り,下田市をめざしました。
 熱川の手前,向山高架橋で「サフィール踊り子」が下田駅に向かって走るのを見ました。伊東駅と伊豆急下田駅の45.7キロメートルは私鉄伊豆急行の路線ですが,JR東日本が乗り入れています。特急「サフィール踊り子」(Safir Odoriko)は東京駅と伊豆急下田駅を結ぶ全車グリーン車のデラックス列車です。私が見たのは,「サフィール踊り子」3号のようでした。

 午後3時30分ごろ,下田市街に着きました。思ったより大きな町でした。
 私が,この伊豆半島の旅で,ぜひ行ってみたかったのが,天城峠とともに下田でした。
 下田といえば,黒船です。黒船といえば,ペリーです。
  ・・・・・・
 ペリー(Commodore Matthew Calbraith Perry)は,1794年にロードアイランド州ニューポートで生まれました。14歳で士官候補生として海軍に入り,英米戦争での活躍などで頭角を現したペリーは,アメリカではじめての蒸気推進艦建造に携わりました。
 1846年からはじまった米墨戦争(ぼく=メキシコ)での勝利に貢献し,1852年に東インド艦隊司令官に任ぜられ,13代フィルモア(Millard Fillmore)大統領から日本遠征の命が下されました。
 ペリーは,1852年ミシシッピー号単独でバージニア州ノフォーク港からアフリカ最南端のケープタウン経由で日本を目指して出航し,旗艦の蒸気外輪フリゲート・サスケハナ(USS Susquehanna=インディアンの言葉で「広く深い川」の意味),ミシ シッピ,帆船のサラトガ (USS Saratoga=アメリカ独立戦争のサラトガの戦いにちなむ),プリマス(USS Plymouth=地名)の4隻からなるいわゆる「黒船」の艦隊を編成して,1853年(嘉永6年)年7月8日,浦賀沖に姿を現しました。  
 幕府は,外国との交渉地である長崎への回航を求めましたが,拒否されます。老中首座・阿部伊勢守の決断で,7月14日,浦賀近くの久里浜で親書等書簡類を受理。7月17日,艦隊は浦賀沖を退去しました。
 翌年1854年(嘉永7年)年2月13日,艦隊は,旗艦の蒸気推外輪フリゲート・ポーハタン(USS Powhatan=アメリカ・インディアンのポウハタン酋長に由来),サスケハナ,ミシシッピ,帆船のマセドニアン(USS Macedonian=フランス語で「さいの目切り」の意味),ヴァンデーリア (USS Vandalia=地名) ,レキシントン(USS Lexington=地名) ,サザンプトン(USS Southampton=地名)の7隻で再び来航 し,浦賀を経て武蔵小柴沖に投錨。さらに,帆船サプライ(USS Supply)とサラトガ合流しました。
 江戸を交渉場所に主張するペリーと鎌倉・浦賀付近を提案する幕府との折衝で,応接所を横浜と決定し,3月31日に下田,函館の2港の開港を含む日米和親条約(神奈川条約)を締結,さらに,下田で日米和親条約付則13か条(下田条約)を締結しました。
 帰国後の1858年,ペリーは心臓発作のため63歳で死去しました。
  ・・
 1858年(安政5年),初代アメリカ合衆国総領事となったハリス(Townsend Harris)が幕府と交渉し,日米通商条約が締結されました。そして,1860年(万延元年)には,咸臨丸を随伴艦とする新見豊前守ら日米通商条約批准のための遣米使節団がポーハタン号で訪米し,15代ブキャ ナン(James Buchanan)大統領やアメリカ国民から大歓迎を受けました。

  ・・・・・・

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【Summary】
I visited Jogasaki Coast after Omuroyama. I parked at "Shiki no Hana Park," unaware that a closer parking lot existed. This led me to take a steep trail, but the unexpected views made it worthwhile. The coast, formed by Omuroyama’s lava, features dramatic cliffs, sea caves, and the 48-meter-long Kadowaki Suspension Bridge. Though beautiful, I found it less striking compared to Iceland’s rugged coasts and scarier bridges I've crossed before.

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 このあたりの見どころは,大室山とともに,城ケ崎海岸ということだったので,大室山へ行った後,城ケ崎海岸に行ってみました。
 城ケ崎海岸の標識にそって,海岸方面に進み,道なりに行くと「四季の花公園」の駐車場があったので,車を停めて,そこから歩きはじめました。いつもの通り,適当な私はここに車を停めたのですが,後で知ったのは,この駐車場を通過してもっと先へ進むと,つり橋駐車場があるのでした。
 ということで,城ケ崎海岸のめあてのつり橋まで,結構険しい山道を歩くことになってしまいました。だたし,ここを歩いたことでしか見られない景色を見ることができたので,それはそれで,塞翁が馬でした。

  ・・・・・・
 約4000年前,大室山が噴火したときに流れ出した溶岩によってできたのが城ヶ崎海岸です。全長48メートル,高さ約23メートルの「門脇つり橋」が絶景スポットです。また,360度のパノラマ風景が楽しめる「門脇埼灯台」の展望台からは伊豆七島や天城連山を望むことができます。
  ・・・・・・
 「四季の花公園」から「門脇つり橋」までは,複雑な地形を活かした1,200メートル,所要時間約20分の散策コースと比較的平坦で歩きやすい800メートル,所要時間10分の林間コースがありました。せっかく来たからと,散策コースをとりましたが,けっこう険しく,上り下りも多く,思ったよりも大変でした。
 しかし,林の中の小径を抜けると絶景が広がっていました。これは,大室山の溶岩流が海まで到達し, 波の浸食作用によって入り江と岬が入り組んだ壮大な断崖の海岸線を作りだしたものです。また,その先には,荒波に削られた海蝕洞の間にかけられた「門脇つり橋」が架かっていたので,渡ってみました。これまで,数々のサスペンスドラマや特撮ヒーローの撮影地にもなったそうです。
 高台には白亜の「門脇灯台」があったので,上ってみました。「門脇灯台」は,1960年に作られ,地上17メートルの地点に第1展望台,地上4メートルの地点に第2展望台があって,天城連山の峰々を望むことができました。

 確かに美しくすばらしいところだったのですが,私は,これまでに,もっと恐ろしげなつり橋を渡ったこともあるし,こうした断崖絶壁の続く海岸線は,アイスランドでたくさん見てきたので,まあ,こういうところか,と思っただけでした。
 気の毒な私です。

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【Summary】
Ōmuroyama, a 580-meter-high scoria cone volcano formed about 4,000 years ago, features a crater with a 250-meter diameter and a 40-meter depth. Visitors can enjoy a crater rim walk, archery range, and sights like the Ōmuroyama Sengen Shrine and historical Jizō statues. Its grassland is maintained by an annual controlled burn held every February.

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 今回,伊豆半島に来るまで,大室山(おおむろやま)を知りませんでした。
 大室山を知ったとき,何だこりゃ,と思いました。写真で見ると,まるでクレーター。この現実離れした姿の実態をぜひ見たいものだと思いました。
 国道135号線を北東に走っていくと,伊豆高原という別荘地がありました。別荘地に向かって左折して走っていくと,やがて,大室山の駐車場に到着しました。そこにあったのがリフトだったので,乗りこみました。
  ・・・・・・
 標高580メートルの大室山は伊豆東部火山群の活動のひとつとして約4,000年前に噴火した単成火山のスコリア丘ということです。
 スコリア丘(scoria cone)というのは,玄武岩質から安山岩質のマグマによる噴火活動により地表面にスコリア(岩滓=マグマが吹き上げられて飛散冷却してできる岩塊で多孔質で黒っぽいもの)が放出され,火口の周りに積もって崖錐斜面をつくり,円錐台形の山を成した小規模な火山の1種で,大室山は,底径1キロメートルで,その中心に直径250メートル,深さ40メートルのスリバチ状の火口を持っています。
 噴火したとき,西の麓から最初の溶岩流が湧き出して2方向へ流れ出し,南に流れたものは深い峡谷をせき止め,湖をつくり出しました。この湖は明治時代に排水トンネルを掘り,水田へと変わりました。また,南東へ流れた溶岩は相模灘を埋め立て,城ヶ崎海岸をつくり出しました。
  ・・・・・・

 リフトで6分ほどで山頂に着きました。
 火口縁には遊歩道が整備されいて,お鉢周りすることができたので,歩いてみました。お鉢には,何とアーチェリー場がありました。
 私は,2019年に行った,アメリカ・テキサス州のバリンジャー隕石孔みたいだなあ,と思いました。
 また,大室山浅間神社が火口内の東側中腹にありました。この神社は磐長姫命(いわながひめのみこと)を唯一の祭神とし,安産と縁結びの神として信仰されているそうです。
 浅間神社は,浅間大神(あさまのおおかみ)と木花之佐久夜毘売(このはなさくやびめ)を主祭神としていて,磐長姫命を祀るのは稀ということです。姉の磐長姫命と妹の木花之佐久夜毘売は、瓊々杵(ににぎ)に同時に嫁いだが、醜い姉神は送り返されたといいます。
 また,五智如来地蔵尊がありました。これは,火口縁西側にある江戸時代に建てられた5体の仏像で,1663年(寛文3年)に相模国岩村の網元・朝倉清兵衛が大室山浅間神社に9歳の娘の安産を祈願し,無事出産のお礼として建てたものとされます。
 ,火口縁南側には,8体の八ケ岳地蔵尊がありました。これは,大室山を目印としていた漁師たちが海上安全と豊漁を祈願して建てたもので,新旧あり,手前の新しいものは,1984年(昭和59年)に池区民の寄付によりつくられたものです。
 歩いていると,かわいい鳥がいました。調べてみると,おそらくハギマシコという鳥だと思いました。
 大室山に背の低い草しかないのは,山焼きによるものです。もともとは,700年以上継承されてきた良質のカヤを育てるための行事でしたが,現在は,毎年2月第2日曜日行われる観光用のものです。

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大室山


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【Summary】
While traveling around the Izu Peninsula on January 19, 2025, I stopped at Kawazu Town, where I discovered the birthplace of Kawazu-zakura, a cherry blossom variety. Originating in 1955, it’s a natural hybrid of Oshima and Kanhi-zakura, blooming from February to March. Some flowers had already started to bloom.

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 今回,伊豆半島を旅しようと思ったとき困ったのは,どのくらいの時間がかかるか,ということと,どこを走るか,ということでした。半島の周りを1周,ならば簡単ですが,中央部を縦断する必要もあり,そうすると,半島の周りを1周できるかどうかわかりませんでした。
 ともかく,これまでに書いたように,2025年1月19日の午前8時に三島駅から伊豆半島の中央部,国道414号線を南に走り,天城峠では旧道に迂回し,さらに,河津七滝を巡ったのですが,伊豆半島の南側に着いたのがまだ午前11時過ぎと,お昼前で,予想より時間がかかりませんでした。そこで,下田市まで行く前に,伊豆半島の東海岸を北上して,行ってみたかった大室山と城ケ崎海岸まで行って,戻ってくることにして,下田市へ続く国道414号線と別れを告げ左折して南東へ進み,河津町をめざしました。

 海岸に出たので左折して,国道135号線を海岸線に沿って走っていくと,「伊豆オレンジセンター」という道の駅があったので,ここで昼食をとることにして車を停めました。
 道の駅にはレストランがあったのですが,けっこう人がいたので嫌になって,道の駅に着く前に気になった「伊豆さくら亭」というそば屋に行くことにしました。中に入ったときは他に客がおらず,私には好都合でした。そこで,天丼を注文しました。
 店内に大きなカワヅザクラのポスターがありました。こここそがカワヅザクラ発祥の場所でした。
  ・・・・・・
 カワヅザクラ(河津桜)は、1955年に河津町田中の飯田勝美さんが河津川沿いの雑草の中で1メートルほどの原木を偶然発見し,庭先に植えたことが由来です。
 日本固有種のオオシマザクラとカンヒザクラの自然交雑から生まれた日本原産の栽培品種のサクラで,一重咲きで4センチメートルから5センチメートルの大輪の花を咲かせ,花弁の色は紫紅です。花期は通常は2月から3月上旬で,12月に開花することもあります。
 原木のある静岡県河津町での花期は2月ごろで,花期は1か月あります。
  ・・・・・・
 すでに,少しだけ,花が咲いていました。

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【Summary】
I crossed Amagi Pass via the old road and returned to National Route 414. My next destination was Kawazu Nanadaru, known for its seven waterfalls. I was surprised to see a large loop bridge, the Nanadaru Viaduct, built after a 1978 earthquake. The area was quiet with few tourists. Due to distance, I visited only four waterfalls: Shokei-daru, Kani-daru, Deai-daru, and Odaru. At Shokei-daru, I saw the Izu no Odoriko statue.

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 天城峠の旧道を走り,再び,国道414号線に戻りました。
 この旅で最も行きたかった天城峠を越えました。次の目的地は河津七滝(かわづななだる)でした。
 GoogoMaps を見ると道路が円を描いています。そして,その麓に河津七滝とありましたが,一体どういうことか,と思いました。実際に走っていくと,国道414号線は巨大なループ橋となっていました。
 ループ橋の正式名称は,七滝高架橋(ななだるこうかきょう)で,全長1,064メートル,高低差45メートル,直径80メートルの二重ループ橋です。6基の橋脚によりループ橋を支えていて,ループ橋部分は3径間連続曲線箱桁4連で構成されているということです。下田市方面からは反時計回りの上り坂,伊豆市面からは時計回りの下り坂で,片側1車線の対面通行です。
 かつては山に沿って静岡県道13号線がつづら折れになっていましたが,1978年の伊豆大島近海の地震で崩落し,山腹の道路が寸断したことで,1981年(昭和56年)にループ橋が生まれ,1982年に国道414号に昇格したということです。

 河津には数々の滝が存在していて,その中でも特に有名な次の7つの滝を「河津七滝」(かわづななだる)といいます。河津では滝のことを「水が垂れる」 という意味で垂水(たるみ)とよんでいたため,「ななたき」ではなく「ななだる」となるそうです。
 「河津七滝」は
  ・・・・・・
  釜滝(落差22メートル,幅2メートル)
  エビ滝 蛇滝(落差3メートル,幅2メートル)
  蛇滝(落差3メートル,幅2メートル)
  初景滝(落差10メートル,幅7メートル)
  カニ滝(落差2メートル,,幅1メートル)
  出合滝(落差2メートル,幅2メートル)
  大滝(落差30メートル,幅7メートル)
  ・・・・・・
です。

 私は,「河津七滝」という観光名所がある,ということでやってきただけで,それがどういうものか知りませんでした。狭い道路を戸惑いながら走って行って,何とか町営駐車場を見つけて,車を停めました。観光客はほどんどおらずさびれていて,店もほとんど開いていませんでしたが,シーズンオフだからだったのでしょうか。
 7つの滝は思ったより離れていました。特に,釜滝,エビ滝,蛇滝は離れていたので行くのをあきらめ,それ以外の初景滝,カニ滝,出合滝,大滝を巡りました。初景滝には,伊豆の踊り子像がありました。

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「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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【Summary】
The narrator, unfamiliar with literary works, visits places associated with them, becoming captivated by the stories afterward. This time, inspired by the phrase "Amagi Pass," they journey through Izu Peninsula, visiting Jōren Falls, known for its basaltic cliffs and wasabi fields, and the old Amagi Tunnel, a key setting in Kawabata's The Dancing Girl of Izu.

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 宮沢賢治の小説を読んだこともないのに,花巻に行って,それから私は宮沢賢治の「銀河鉄道」に夢中になりました。
 太宰治のこともほとんど知らないのに,津軽半島へ行って,その後,太宰治の「津軽」を何度も読み返すことになりました。
 そんなわけで,私は,まったく小説など読んだこともないのに,題名と,そして,ほのかな内容を薄々知っているだけで,その地を訪れる愚をいつも繰り返すのです。

 そして,今回は,川端康成の「伊豆の踊子」です。この小説も読んだことがないのに,長年,天城峠という言葉に妙な魅力を感じていました。それはいったいどこなのだろう? とずっと思っていました。
 そこで,今回,三島駅前を出発した私がまず目指したのが天城峠。国道414号線を南下していくと,伊豆半島の中央を縦断して,天城峠に至るはずでした。
 国道414号線は,伊豆の国市,修善寺,伊豆市と過ぎました。私は,伊豆半島には有料道路などないと思い込んでいたのに,伊豆縦貫自動車道が建設中で,ところどころが開通していました。この国は,こうした建設中の有料道路がいくらもあるのに,そのどの部分が完成しているのか,いないのか,有料なのか無料なのか,ホームページにはぐちゃぐちゃこまかなことが書かれているのにもかかわらず,簡単にわかる情報がないのです。こうしたとき,カーナビや GoogleMaps はあてになりません。有料道路に誘導するからです。そこで私は,道路標示を見ながら,一般道を走っていくことにしました。このほうがその土地のことがよくわかるからです。

 やがて,湯ヶ島というところに着きました。このあたり,わさびが名物のようでした。さらにしばらく走っていくと,浄連の滝(じょうれんのたき)と書かれた看板と広い駐車場があったので,車を停めました。そこに伊豆の踊子の像が存在しました。
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 浄蓮の滝は狩野川の上流部・天城山の北西麓を流れる本谷川にあり,1万7,000年前に伊豆東部火山群の鉢窪山スコリア丘が噴火した際に流出した玄武岩溶岩流を流れ落ちる直瀑です。落差は25メートル,幅は7メートル,滝壺の深さは15メートルで岩盤には柱状節理が見られます。かつて,滝の左岸付近に浄蓮寺という寺院があったことから浄蓮の滝という名称がついたと伝わります。
  ・・・・・・
 明治時代に篤志家が滝に降りる道を開くまで,断崖と峡谷に阻まれて人が容易には近づけない神秘的な滝とされていたそうです。今は無料の駐車場が完備されていて,滝壺の近くには土産物店が並び,、沢に沿ってワサビ田が広がっていました。
 滝の脇に,石川さゆりの歌った,歌詞に浄蓮の滝が登場する「天城越え」の歌碑がありました。
 
 浄蓮の滝を出て,さらに走ると,天城峠のトンネルがある旧道がありました。未舗装だったので迷いましたが,そちらに進路を変えて,しばらく進むと,私がイメージしていた天城峠のトンネルがありました。
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 暗いトンネルに入ると,冷たい雫がぽたぽた落ちていた。南伊豆への出口が前方に小さく明るんでいた。
 トンネルの出口から白塗りの柵に片側を縫われた峠道が稲妻のように流れていた。この模型のような展望の裾の方に芸人達の姿が見えた。六町と行かないうちに私は彼らの一行に追いついた。しかし急に歩調を緩ゆる めることもできないので,私は冷淡なふうに女たちを追い越してしまった。十間ほど先に一人歩いていた男が私を見ると立ち止まった。
    川端康成「伊豆の踊子」
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