しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場・47都道府県を制覇し,南天・皆既日食・オーロラ,空の3大願望を達成した「不良老人」の日記

December 2025

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【Summary】
After visiting Izumi Shikibu’s grave in Kameoka, I returned toward Kyoto, stopping in Uzumasa. Walking through Uzumasa Izumi Shikibu Town, linked by legend to the poet, I visited Toei Uzumasa Eigamura, a historic film theme park now undergoing major renewal, enjoying shows and tasting the distinctive “Mito Komon ramen.”

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 亀岡市稱名寺の和泉式部の墓へ行くことができました。さらに亀岡市の見どころをまわろうと思っていたのですが,亀岡市は京都市のベッドタウンとしての位置づけで,特に行ってみたいというところもなく,私の主観ですが,明智光秀は「敗軍の兵」となってしまいその後の町の歴史に明るさを感じない空気があって,京都市内に戻ることにしました。
 トロッコ嵯峨駅とトロッコ亀岡駅間は,保津川渓谷沿いの旧線跡を「嵯峨野トロッコ列車」が走っていて,私も,一度,紅葉の時期に乗ったことがあります。紅葉の時期だけの運行だと思っていたのですが,通年運行しているようで,亀岡駅に戻ったとき,隣接するトロッコ亀岡駅に乗客が列を作っているのを見かけました。
 そんな場所なので,行きに京都駅から亀岡駅に来るとき,風光明媚な景色を眺めていたのですが,花園駅から太秦(うずまさ)駅の間に東映太秦映画村があるのを見つけました。亀岡駅から京都市内に戻るとき,これからどこへ行こうかな,と考えて,そのことを思い出しました。東映太秦映画村も以前行ったことがあるような気がするのですが,まったく記憶がないので,行ってみようと思いました。さらに,太秦といえば,太秦和泉式部町というのがあることも思い出したので,単なる町の名だけで何もないとは思ったけれど,和泉式部こだわりで,そこにも寄ってみることにしました。太秦映画村だけなら最寄り駅は太秦駅ですが,太秦和泉式部町を通るとなると,その次の花園駅なので,花園駅で降りて,太秦和泉式部町を通り,太秦映画村に行くことにしました。

 花園駅で降りて,線路沿いに歩いていくと,太秦和泉式部町らしきところに着きました。とはいえ,京都の町は,電柱に地名表示なるものがなく,よくわかりません。和泉式部町と地名のかかれたものがないものかと探しまわると,いろいろと見つかったので,写真に収めました。
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 この地は,かつては字和泉式部(あざいずみしきぶちょう)といいました。伝説によると,和泉式部は晩年この太秦のあたりで過ごしたともいわれています。
 また,13世紀,円覚がこの付近に法妙寺を開き,法妙寺の円覚上人の塔旧跡に槲(かしわ)の木があり,和泉式部の塚がその傍らにあったと「山州名跡志」に記されていますが,現在は,塚は失われてしまいました。
 1931年,字和泉式部より和泉式部町に町名が改められました。
 ちなみに,太秦とは,古代に渡来人の秦氏(はたうじ)が拠点を置いた場所でした。
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 東映太秦映画村は映画のテーマパークで,日本のテーマパークの先駆けともいわれます。
 1975年11月1日に開村した敷地2万9,000平方メートルの東映太秦映画村は,当時,ずいぶん話題になりました。
 今年はちょうど50周年を迎え,幾分老朽化しているのはやむを得ないとはいえ,さびれてはいませんでした。現在は,開業50周年を期して,リニューアル工事がはじまっていて,施設の半分は工事中でした。リニューアルは2028年完成予定で,全面刷新をして,従来の家族連れに加えて訪日外国人観光客によるインバウンド需要を見込み,日本の伝統文化を体験できるようにし,新たなオープンセットの建設,温浴施設の開業,新アトラクションの導入,京都の食を楽しめるフードエリアの開設,芝居小屋や町中のショーの刷新を行うそうです。
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 テレビの普及で斜陽となりつつあった映画。
 1965年に松竹京都撮影所が閉鎖するなど,1960年代に入り,日本映画界を取り巻く状況が厳しくなりました。広大な撮影所のスタジオやオープンセットは遊休施設と化し,映画村が合理化の大きな布石となりました。そこで,京都撮影所のオープンセットの維持を画し,映画のテーマパークとして具体的な建設計画がスタートしたのは1972年ごろでした。とりあえず1日だけやってみるということで実行すると観客が押し寄せる大盛況で,その結果,東映太秦映画村がオープンしたといいます。
 開村1年で目標の2倍以上の200万人を動員し,京都の観光名所になり,1990年ごろまでは年間動員230万人前後をキープしましたが,その後は漸減傾向となっているということです。 
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 あまり期待していなかったのですが,忍者ショーや映画村ツアーなど,けっこう楽しめました。
 お昼は「ラーメン喜らく」というレストランで「水戸黄門ラーメン」を食べました。
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 「水戸黄門ラーメン」は,水戸黄門とよばれる水戸藩2代藩主の徳川光圀が日本ではじめてラーメンを食べたという説にちなみ,当時のレシピを再現したご当地ラーメンで,蓮根を練り込んだ麺と火腿(ハム)だし,ニラ・ニンニク・ショウガ・ネギ・ラッキョウの五辛薬味が特徴です。
 明から来た儒学者・朱舜水(しゅしゅんすい)が水戸藩に滞在していたとき,中国風の麺料理を徳川光圀にふるまったという記録があり,これが「水戸黄門ラーメン」のルーツとされています。
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【Summary】
In December, I made four trips to Kyoto for Kyoto Symphony Orchestra events and used the mornings to visit nearby historical sites. These included ancient tombs in Asuka, sites linked to Izumi Shikibu, Kameoka’s Shomyo-ji Temple, and Nara temples, reflecting travel, history, and literary memory.

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 12月は,4度,京都市交響楽団関連で京都へ行きましたが,午前中は予定がなかったので,京都近郊へ出かけました。短い期間にさまざまなところに行き,すでに記憶がごごちゃごちゃになってしまいましたので,これまでにブログに書いたことも含めて,まず,ここにまとめます。
 1度目の12月13日は,奈良県の飛鳥地方にある牽牛子塚古墳,高松塚古墳,キトラ古墳,そして,橿原神宮へ行きました。2度目の12月23日は,伊丹市にある和泉式部の墓,恵解山(いげのやま)古墳へ行きました。ここまではすでに書きました。
 3度目の12月26日は,亀岡市の稱名寺(しょうみょうじ),そして,東映太秦映画村へ行きました。さらに,二条城にも寄りました。そして,4度目12月27日は,奈良県西の京の唐招提寺と薬師寺へ行きました。これらのことをこれから順に書いていきます。

 稱名寺の和泉式部の墓は,12月23日に伊丹市に行ったときこれで5か所目の和泉式部の墓と書きましたが,そのわずか3日後に6か所目の和泉式部の墓となるものでした。
 亀岡駅は京都駅からJR嵯峨野線で20分程度で到着します。
 ここで少しだけ余談です。
 このことはすでに書いたことがありますが,関西地方では,JRは嵯峨野線,琵琶湖線,京都線,奈良線,宝塚線などとよばれますが,これが地元の人でないとさっぱりわかりません。地元民でない私には,奈良線はそれでいのですが,琵琶湖線と京都線は東海道線の上りと下り,嵯峨野線は山陰線,宝塚線は福知山線と明記してもらわないと何が何だかわからず,とまどいます。
 閑話休題。
 さて,その嵯峨野線。観光シーズンだと,嵯峨野へ行く観光客でごった返していますが,この日はそんなこともなく,安心しました。というより,だからこそ,この時期に行こうと思ったわけです。
 ずいぶん前,亀岡駅には1度行ったことがあります。亀岡の地は,戦国時代末期に明智光秀が丹波亀山城と城下町を築いた場所ですが,現在は亀岡城と名を変えた丹波亀山城址へ行ってみようというのが理由でした。しかし,行ってみて驚きました。そして,がっかりしました。それは,亀岡城は観光地ではなく,「大本」(おほもと)という宗教団体の本部になっていたからです。

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 亀岡市は,明治時代の初めごろまでは丹波亀山藩でした。
 丹波亀山藩は親藩ですが,江戸時代の初期には岡部家,松平家と藩主が変わり,1649年以降は久世家が治めていました。明治時代の廃藩置県のあと,三重県にも亀山市があるということで混乱が生じ,亀岡市と改められたようです。
 丹波亀山城は,1873年(明治7年)の廃城令で石垣や建物の多くが取り壊されてしまいました。そして,明治時代の終わりごろ,出口なお という女性が神がかり的な啓示を受けて,亀岡で「大本」(おおもと)を創始しました。のちに娘婿の出口王仁三郎(おにさぶろう)が教団を発展させ,「大本」は亀岡城を霊的に重要な場所と見なしてその地に本部を構えました。
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 亀岡城の石垣や堀の一部は今も残り,外から眺めることはできますが,本丸跡が宗教施設に占められていて自由に入れないという声があり,歴史的な丹波亀山城址が一般公開されていないことに対し課題視する声があるそうです。なお,丹波亀山城址は大本神苑内にあって,神苑参観料を払えば,見学はできるようです。

 今回は,私が目的としたのは,丹波亀山城址ではなく,亀岡駅から歩いて15分ほどのところの稱名寺(しょうみょうじ)にあるという和泉式部の墓でした。目的地に向かって歩いていくと,城下町の面影がのこる静かな街並みの一角に稱名寺がありました。そして,山門を入った右側に,和泉式部の墓と伝えられる五輪塔がありました。
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 稱名寺は,浄土宗の寺院で山号は荒塚山(こうづかさん)。 創建は鎌倉時代末期(14世紀ごろ)とされます。稱名とは阿弥陀仏の名を称えること,つまり,念仏を唱えることを意味します。
 和泉式部の墓と伝えられる五輪塔ですが,一説によると,和泉式部は晩年に出家し亀岡の地で隠棲したと伝えられていて,稱名寺の近くに庵を結びそこで亡くなったという話が残っていることによります。稱名寺の墓は供養塔としての意味合いが強いものだそうです。
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 稱名寺に伝わる話では,和泉式部がこの地に隠棲していたとき亀山の風景や心の内を詠んだ歌があったとされているのですが,それがどの歌かはわからないようです。
 一説では次のものといわれます。
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 世の中をいとふまでこそかたからめ かたくもありけり人のなさけは
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 この世を捨てたいと思うほどに人の情けが身にしみる その情けがこんなにも重くつらいものとは
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 人の情けに傷つきこころが疲れ果てて出家を考えるほどになった和泉式部の愛と苦悩のはざまで揺れる心境を映し出している歌です。人の情けはただ優しいだけでなく,ときに重く苦しく逃れたくなるほどのものでもあると詠みます。

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【Summary】
Ige-no-yama Kofun is the largest keyhole-shaped burial mound in the Otokuni area of southern Kyoto, built in the early 5th century. Later linked to Akechi Mitsuhide’s camp at the Battle of Yamazaki, it is now preserved as a park with reconstructed haniwa rows.

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 JRで京都駅から伊丹駅に向かう途中,車内から埴輪の並んだ古墳が見られたので,興味をもちました。そして,伊丹駅からの帰りに寄ってみることにしました。調べてみると,それは,恵解山古墳(いげのやまこふん)というところでした。
 最寄りの駅は長岡京駅ということで,ここは,2025年6月20日に勝竜寺城へ行こうと降りた駅でした。ならば,そのときに行けばよかったのですが,その時点では,恵解山古墳など全く知りませんでした。いつもこんなことばかりです。まあ,こういう無駄足はわるくありません。と強がるのですが…。

 長岡京駅から南に歩いていくと前回行った勝竜寺城があり,その先に,勝竜寺城の名前のもととなった勝竜寺があり,さらに歩いていくと,長岡京市立長岡第三中学校。恵解山古墳はその先でした。
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 恵解山古墳は, 京都盆地から大阪平野に通じる狭隘部で,桂川,宇治川,木津川の合流点東北の平野部に位置する長岡京市勝竜寺久貝にある京都府南部の乙訓地域最大前方後円墳で,全長約128メートル,後円部直径約79メートル,高さ約10メートル,前方部幅約79メートル,高さ10メートル。幅30メートルの周濠をもちます。5世紀の前半の築造と推定されています。
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 小高い丘で,後円部には墓がありました。後世,この部分を墓地にしてしまったようです。
 今の時代,さまざまなところにある古墳は調査が進んでいますが,おそらく,以前は,単なる小山のようなものだと思われていたのでしょう。
 恵解山古墳で有名なのは,本能寺の変の後,豊臣秀吉と明智光秀が戦った山崎の戦いにおいて明智光秀の本陣が置かれた可能性がある,ということでしょう。古墳から西には天王山を見ることができます。明智光秀が,山崎の戦いに敗れ,琵琶湖畔の坂本城へ落ち延びる途中に通過したとされる場所です。明智光秀はこの先の小栗栖で名もなき男の槍に刺されて落命しますが,恵解山古墳ではいかなる心境であったのでしょうか。歴史の悲哀を感じます。

 恵解山古墳が築かれた当時,斜面全体に石がふかれ,平らなところには埴輪が立て並べられていたということです。また,古墳に葬られた人物の名前は記録に残っていませんが,古墳の大きさなどから,少なくとも乙訓地域の全域を支配した実力者の墓であったと考えられます。
 1980年(昭和55年)に,鉄製の武器など約700点を納めた武器埋納施設が発見されましたが,京都府内でもこのように大量に出土した例はなく,全国的にも珍しく貴重な古墳ということです。2003年(平成15年)から2013年(平成25年)まで調査及び保存整備が行われ,2014年(平成26年)に恵解山古墳公園となりました。現在は,開園する際に復元された埴輪列を間近で見ることができます。

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【Summary】
On December 27, 2025, inspired by an excellent rehearsal, I attended Beethoven’s Ninth Symphony. The fast yet clear opening movements, a serene and sacred third movement, and a powerful finale under Nodoka Okisawa’s lucid direction created an unforgettable performance—deeply moving, and the finest Ninth I have ever heard.

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 2025年12月27日。
 リハーサルがすばらしかったので,大いに期待して本番の「第9」を聴きに行きました。前日のリハーサルでは第1楽章と第2楽章しか聴くことができなかったので,果たしてどんな第3楽章と第4楽章になるのだろう,ととても楽しみでした。
 開演前,京都コンサートホールの1階にある「前田珈琲 京都コンサートホール店」で野菜たっぷりカレーという昼食をとりましたが,いつも以上に混み合っていました。このように,「第9」の演奏会では,さまざまなことが,普段のコンサートとは違った雰囲気になります。それは,「第9」に限って聴きに来る観客も多いからでしょう。芸妓さんの姿があったのも京都らしいというか。

 やがて開演。ステージ上に現れた団員さんも「晴れの日」のムードが醸し出されているようで,身に着けていた衣装も一段とゴージャスだったように感じました。
 曲がはじまりました。
 第1楽章と第2楽章は,リハーサルどおり,いい意味で今どきの「第9」で,テンポが速く,とはいえ,速すぎることもなく,しかも,メリハリがあってすばらしいものでした。もう,今は,昔の「第9」,つまり,ゆっくり目のテンポで,重々しく,威厳のあるような演奏は,私には古臭く,受けつけません。
 前半のふたつの楽章が終わり,独唱者も出そろって第3楽章がはじまりました。
 私が思っていたよりもゆったりとした,かつ,神々しいものでした。それがまた,美しかったこと。第3楽章も,第1楽章,第2楽章と同じようにしてものすごいスピードで駆け抜ける演奏もあるのですが,それでは救いがありません。この交響曲は,まさにベートーヴェンの描きたかった「苦悩を乗り越えて歓喜へ」至らなければならないのです。そして,第4楽章で歓喜に到達するには,そのまえに澄みわたるような祈りの音楽が必要なのです。
 今回のコンサートマスターは会田莉凡さんでしたが,第3楽章では,会田莉凡さんのヴァイオリンの音色が引きたって聴こえました。これは,以前聞いた「英雄の生涯」のソロに共通するすてきなものでした。

 第3楽章が終わり,そのままアタッカーのようにして第4楽章に入りました。こうでなければなりません。第3楽章の祈りのあと,奈落に落ちるような,雷を打つような,そんなはじまりが必要なのです。また,この部分のテンポがよかった。
 それにしても,この曲を指揮するのはたいへんだなあ,と思いました。オーケストラは制御できても,ソリストや合唱の人たちはそう簡単にはいかないからです。しかし,沖澤のどかさんの指揮は,聴いている私でも,何を表現したいのかが明確にわかるから,演奏している人たちは,もっとよく理解できると思いました。そうした積み重ねが最後まで持続して,すばらしい演奏になりました。このような「第9」なら,演奏していてとても楽しいだろうな,と嫉妬しました。とりわけ,各楽章の最後の終わり方がよかった。 
 今回,改めて,ベートーヴェンは,何とすごい交響曲をつくったものか,と思いました。こうしたものが存在し,今も演奏が聴けるということに感謝しました。
 私がこれまで聴いた中でも,最高の「第9」でした。
 泣けました。

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【Summary】
In 2025, I became a subscription member of the Kyoto Symphony Orchestra and eagerly anticipated Beethoven’s Ninth Symphony conducted by Nodoka Okisawa. Attending the open rehearsal, I was deeply impressed by how her expressive intentions were shaped through repeated refinement, heightening expectations for the concert.

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 2025年は,私が京都市交響楽団の定期会員になった年。そして,最大の楽しみは,「沖澤のどかさんの指揮する第9」でした。年末恒例となったベートーヴェンの交響曲第9番。京都市交響楽団の演奏会は20205年12月27日と28日ですが,その前日の公開リハーサルにも行くことができました。
 これまでにも何度もブログに書いているように,私は,「第9」の演奏会にはそれほど多く行ったことがありません。近年では,2015年のパーヴォ・ヤルヴィ指揮とその翌年2016年のブロムシュテッド指揮の,ともにNHK交響楽団のものに行ったきりです。しかし,NHKではFMで生放送があって,大みそかにはEテレでも放送されるので,毎年聴いています。というか,唯一,2024年のファビオ・ルイージ指揮のものは,聴くに堪えず,途中でやめてしまいましたが…。

 これだけ多く聴いていると,素人の私にもその演奏の違いがよくわかります。指揮者によって最も異なるのはテンポです。そして,勝負所,というか何というか,つまり,聴かせどころでの味つけ。これらは,私にはこういうものがいい,という一定の基準ができてしまっているので,そこから外れる演奏だと,それもありかな,と肯定的に思うことがあったり,こりゃ受けつけないなあ,と否定的に感じることもあります。だから,あまり知らない指揮者の「第9」演奏会は行くのが怖い。
 近年で,私がよかったと思ったのは,生演奏は聴かなかったのですが,放送で聴いたた2023年の下野竜也指揮・NHK交響楽団のもの。それと,2024年のフランチェスコ・アンジェリコ(Francesco Angelico)指揮・読売日本交響楽団のもの。ともに,ソプラノの中村恵理さんがすばらしかった。ほかにも気に入る演奏はあるのでしょうが,放送されなければ,私には知る由もありません。ちなみに,今年は中村恵理さんが急病で,いくつかのオーケストラの「第9」をキャンセルしたということです。
 はたして,今年,私が生演奏を聴く沖澤のどか指揮の我が愛する京都交響楽団の「第9」は,いかなるものか。絶対に期待をうらぎらないという確信があったので,こころときめかせながら,まずはリハーサルに行きました。

 このごろ,公開リハーサルがさまざまなところで行われているので,私もこれまで何度かさまざまなオーケストラの公開リハーサルを聴いたことがありますが,京都市交響楽団の公開リハーサルははじめてでした。また,「第9」のリハーサルももちろんはじめてでした。プロの演奏家の人たちだから,そして,とりわけ京響が上手だから,技術的にどうの,ということではなくて,リハーサルを通じて,指揮者の描くテンポや表現の仕方がオーケストラにどのように伝わっていくのか,が聴きどころなのでしょう。
 今回聴くことができたのは,第1楽章と第2楽章だけでしたが,聴かせどころで何度も繰り返し,そのポイントを押さえるのが上手というか,私がこうであってほしい,と思っているものになっていくので,とてもうれしかったです。例えていえば,2アウト2,3塁で,ここで打ってほしいと期待した左打者が期待に応えてライトにあざやかなクリーンヒットを放ったときの爽快感。リハーサルなのに感動しました。
 本番の演奏がより楽しみになりました。
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 今回の「第9」ではないのですが,私も2025年3月16日に沖澤のどか指揮・京都市交響楽団の演奏会に行ったときに聴いた「英雄の生涯」のリハーサル風景を YouTube で見ることができます。それを見るだけでも,今回の公開リハーサルのすばらしさがわかるというものです。


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【Summary】
I  traces a growing fascination with the poet Izumi Shikibu, sparked by a TV drama, through visits to multiple sites across Japan said to be her grave. These journeys reflect admiration for her emotional poetry and a personal, almost spiritual connection beyond historical certainty.

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 2025年5月17日,木津川市に和泉式部の墓があると知って,京都駅からJR奈良線に乗って木津川駅で降り,そこから歩いていってみました。和泉式部が晩年を過ごしたとされる場所に小さな墓がさびしそうにありました。と,このころは,和泉式部の墓はここだと思っていたから,それで満足するつもりだったのですが…。
 何と,和泉式部の墓といわれるところが,全国に数多くあるということをこのとき知ってしまった私でした。その日,京都市中京区の誠心院の境内にも,和泉式部の墓とされる宝篋印塔があるということだったので,その帰りに寄ってみました。
 その後,8月26日には,岐阜県可児郡御嵩町の廟所に行きました。そして,10月18日,目的は和泉式部の墓ではなかったのですが,東北旅行の折りに,その近くにあるということを思い出して,北上市和賀町竪川目にある「和泉式部旧墓」にも行くことができました。
 そして,今回,12月23日は,京都へ行った折りに,伊丹市にあるという和泉式部の墓へ行ってきました。京都から伊丹市へはJRで1時間以上かかるのにもかかわらず,わざわざ行くなんて,自分でもその行動がよくわかりませんが,まあ,これもまた一興。JRの伊丹駅から北に,徒歩20分もかかりました。予想以上の距離でした。このあたりは旧西国街道の伊丹坂のという小高い丘で,今は住宅地が広がっていました。その一角に小さな墓がありました。
 この地で和泉式部が詠んだとされる歌は次の一首だけだそうです。
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 津の国のこやとも人を言ふべきに ひまこそなけれ葦の八重葺き(あしのやえぶき)
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 津の国(摂津)の昆陽ではないが「来や=おいでなさい」というべきなのですが 幾重にも葦を重ねた小屋のようにその隙がありません。
   「後拾遺集」 恋2・691
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 さて,私が和泉式部に興味をもったのは,大河ドラマ「光る君へ」でした。主人公の紫式部の書いた「紫式部日記」にはこうあります。
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 和泉式部といふ人こそ,おもしろう書き交はしける。
 されど和泉はけしからぬかたこそあれ,うちとけて文はしり書きたるに,そのかたの才ある人,はかない言葉のにほひも見えはべるめり。
 歌はいとをかしきこと。
 ものおぼえ,歌のことわりまことの歌詠みざまにこそはべらざめれ,口にまかせたることどもに,かならずをかしき一ふしの、目にとまる詠み添へはべり。
 それだに,人の詠みたらむ歌,難じことわりゐたらむは,いでやさまで心は得じ,口にいと歌の詠まるるなめりとぞ,見えたるすぢにはべるかし。
 恥づかしげの歌詠みやとはおぼえはべらず。
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 和泉式部という人は,興趣深い手紙のやり取りをした人です。
 けれど和泉は感心しない面もありましたが,気を許して手紙をさらさらと書いた時に,その方面の才能のある人は,ちょっとした言葉遣いに色つやが見えるようです。
 和歌はとても趣きがあります。
 古歌の知識や和歌の理論などは本格的な歌人とはいえないようですが,口にまかせて詠んだ歌などには,かならず趣きのある一点が目にとまるものとして詠み込まれています。
 それほどの人でさえ,他人が詠んだ和歌を非難したり批評したりしていますのは,さあ,そこまでは分かっていないで,口をついて自然に詠んでいるようだと思える方面の人です。
 見ているこちらが恥ずかしくなるような歌人だとは思われません。
   「紫式部日記」
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 和泉式部の和歌は素直な詠みぶりで実にいいというのですが,体系だった学問としての和歌に詳しいわけではないので,おそらく人に教えるような役には向いてはいなかっただろう,といわれているように,感性の人。だからこそ,多くの男性を虜にしたのかもしれません。

 墓に限らず,和泉式部にまつわる場所としては,次のものがあります。
 堺市西区平岡町にある居宅跡「和泉式部宮」と,岸和田市の阪和線下松駅周辺の和泉式部にまつわる池や塚。また,京都市右京区太秦には,太秦和泉式部町という地名があり,亀岡市の稱名寺(しょうみょうじ)にも和泉式部の墓所があります。
 このあたりは簡単に行くことができそうです。
 さらには,福島県石川町。この地方を治めた豪族・安田兵衛国康の子・玉世姫(たまよひめ)が和泉式部であるといういい伝えが残り,和泉式部が産湯を浴びた湧水を小和清水(こわしみず),13歳でこの地を離れた和泉式部との別れを悲しんだ飼猫「そめ」が啼きながら浸かり病を治したといわれる霊泉が猫啼温泉として現存します。
 長野県諏訪市の温泉寺にもあるという和泉式部の墓。そして,山口県山陽小野田市小埴生にも和泉式部の墓所があります。そしてまた,和泉式部は,佐賀県嬉野市白石町の福泉禅寺で生誕し大黒丸夫婦に育てられたとされるいい伝えがあり,福泉禅寺には故郷を偲んで詠んだとされる和歌の掛け軸が伝わっていて,境内には歌碑と供養塔が建立されているといいますが,ここまで遠いと,行くことがかなうかどうか?
 百人一首には
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 あらざらむこの世のほかの思ひ出に 今ひとたびの逢ふこともがな
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とありますが,むしろ,私には,この世の思い出ではなく,ここまでの熱意があれば,あちらの世界に行ったときに,和泉式部さんに出会えるかもれません。

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【Summary】
I attended a members-only concert by the Kyoto Symphony Orchestra on December 23, 2025. In an intimate hall, musicians gave friendly talks, followed by a lottery and Mozart’s Symphony No. 25 conducted by Nodoka Okisawa. The warm atmosphere and festive encore made it a perfect Christmas gift.

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 私の生きがいのひとつ京都市交響楽団で,2025年12月23日に友の会コンサートが開催されたので,行ってきました。京都市交響楽団は,定期会員になると,友の会の会員になれます。その友の会の会員限定のお楽しみ会があったのです。
 開演は午後7時で,午後6時30分開場でした。私は午後6時ころに京都コンサートホールに到着したのですが,会場前の広場が,クリスマスの飾りでとてもきれいでした。見とれて写真を撮っていると,ひとりの女性が同じように写真を撮っていたので,お願いして,私の写真を写してもらいました。私はてっきり,私と同じ観客だともっていたのですが,話をすると,何と,出演者,つまり,京都市交響楽団の団員さんでした。いろいろなお話ができて,とても楽しい時間になりました。

 この日の演奏会は,いつもの大ホールとは違い,ムラタホールという名前の小ホールでした。開場時間まではまだ15分ほどあったのですが,会場の入り口まで行くと,すでに,20人ほどが並んでいました。やがて開場の時間になったので,中に入りました。
 私は,演奏会はできれば最前列,と決めています。それは,CDなどでは聴くのが難しい音が聴けたり,指揮者や団員さんの表情がわかるからです。今回もまた,最前列に座ることができました。
 この日の内容は,はじめに,4人の団員さんのトーク,次が抽選会,そして,最後が,常任指揮者の沖澤のどかさんと京響メンバーによるモーツァルトの交響曲第25番ということでした。

 団員さんのトークは,好きな食べ物とか,好きな作曲家とか,京都でお気に入りの場所とかが話題でした。京都市交響楽団は,団員さんとの精神的な距離が近いと感じるのがとてもいいと私は思っているのですが,まさに,そんな印象を抱くものでした。残念ながら,抽選は当たりませんでした。商品は,「ボレロ」を聴かせたお酒,でした。
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 京都市交響楽団が演奏を聴かせたお酒は,佐々木酒造 とオンキヨーのコラボによる「聚楽第 京乃響」(きょうのひびき)シリーズの日本酒で,2025年の第2弾では,第685回京響定期演奏会の沖澤のどか指揮ラヴェル「ボレロ」の演奏を聴かせて醸造されました。
 これは音楽の振動を日本酒の味に活かす「音楽振動熟成」という特別な製法で,京都の文化と酒造りが融合した限定品です。
  ・・・・・・
だそうです。

 そして,最後がモーツァルトの交響曲第25番。こうした小編成のオーケストラ曲は,京都市交響楽団の定期演奏会ではあまり聴く機会がなく,かつ,沖澤のどかさんの指揮するモーツアルトもはじめてだったので,とても興味がありましたが,さすが,という感じでした。
 最後に,クリスマスメドレーのアンコールがありました。聴きなれた曲も優れた指揮者とオーケストラの手にかかると,こうも魅力的になるのか,と思いました。
 最高のクリスマスプレゼントになりました。

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◇◇◇
Happy Holodays 2025.

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「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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【Summary】
Sekigahara is famous for the decisive 1600 battle. Visiting the modern Gifu Sekigahara Battlefield Memorial Museum, I learned especially about the dramatic “Shimazu no nokiguchi,” a daring enemy breakthrough retreat that saved the Shimazu clan from destruction and shaped later Japanese history.

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 関ヶ原というところは,関ケ原の戦いであまりにも有名です。そんな場所なので,昔から,関ケ原ウォーランドや関ヶ原鍾乳洞など,古きよき昭和時代の観光施設がありました。子供のころ行ったことがあります。そして,これらの施設は今も健在らしいです。
 とはいえ,日本各地,地方自治体が主体となった,立派な博物館や,史跡の整備が進んでいる今の時代なので,ここもまた,民間の観光施設だけでなく,史跡には案内板が設置され,県が運営する岐阜関ヶ原古戦場記念館が造られ,今まで以上に楽しみが増しました。
 このところ,自宅から近いがゆえにこれまで行ったことがなかった場所を巡りはじめているのですが,そのひとつとして,2025年10月28日には,伊吹山に登りました。その折り,関ヶ原古戦場を通りましたが,そこで見つけたのが関ヶ原古戦場記念館でした。このときは時間がなく行くことができなかったので,別の機会に行ってみたいと思っていたのが,12月18日に実現することができました。
 関ヶ原の戦いに関する史跡は,これまで,山中の大谷吉継の陣跡,松尾山の小早川秀秋の陣跡,笹尾山の石田三成の陣跡などにはすでに行ったので,これが総まとめ,という感じでした。

  ・・・・・・
 関ヶ原の戦いをテーマにした歴史ミュージアムである岐阜関ケ原古戦場記念館は,2020年,関ヶ原の戦いからちょうど420年の節目に合わせてオープンしました。岐阜県の直営施設で,「歴史を活かした地域づくり」の一環として整備したものです。
 関ヶ原の戦いの背景,戦況,その後の日本の歴史への影響を映像や展示で体感できる施設です。特に人気なのは,まるで戦場のど真ん中にいるような臨場感が味わえる巨大スクリーンで再現される「戦いのシアター」です。また,東軍,西軍の布陣図や武将たちの甲冑,戦略の解説など,充実した展示があります。
 さらに,屋上の展望台からは実際の古戦場を一望できます。
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 初冬の平日,ということもあって,とても空いていて,私には好都合でした。というか,空いているときを狙ってやってきたのですが…。この日は天気もよく,最高のコンディションでした。
 併設してレストランとみやげ物コーナーもあっったので,まず,そこで昼食をとりました。食事後,「戦いのシアター」をみてから,展示コーナー,そして,最後に展望台に行きました。
 新しい施設なので,とてもきれいで,気持ちよく過ごすことができました。
 資料は,本物は少ないのですが,さすがに県の施設だけあって,詳しくわかりやすい説明でためになりました。また,とかく,歴史というのは権力者側から語られることが多く,それに泣いていた人々の姿が語られることが少ないことに,私は,子供のころから疑問でしたが,ここでは,庶民から見た関ヶ原の戦いというビデオを見ることができたのがよかったです。
 
 今回,私の無知でこれまで知らなかった,いまも語り草となっているという「島津の退き口」(しまづののきぐち)というものを知ったのが収穫でした。
  ・・・・・・
 「島津の退き口」は,関ヶ原の戦いにおいて島津義弘率いる島津勢が,退却時にとった敵中突破,前進退却のことです。
 1600年(慶長5年)9月15日午後,関ヶ原の戦いで西軍が総崩れになったのち,北国脇往還に布陣していた1,500人の島津勢でした。島津義弘は,死を覚悟して徳川家康本陣に突入して討死しようとしました,副将格だった島津豊久らの進言を受けて帰国を決断,追っ手に対して小部隊を残しながら本隊を退却させる捨て奸(すてがまり)あるいは座禅陣と称される戦術が用いられ,膨大な犠牲を出しながら,島津義弘の矜持を守り,無事,薩摩に帰りついたというものです。薩摩に帰還できた将兵は80人ほどでだったそうです。
 島津勢は,福島正則勢を突破したのち,徳川家康本陣をかすめながら南下。その際,島津義弘は川上忠兄を口上の使者として徳川家康の下に遣わし,薩摩に帰国することと,帰国後に謝罪することを告げさせたとされます。
  ・・・・・・
 こういう話は,教科書にもなく,なかかな歴史ドラマでも取り上げられません。
 薩摩への帰還は諸説ありますが,保月-多賀-水口-関-拓殖-上野-信楽宿-奈良-平野-住吉- 堺と進んで,海路で日向細島を経て帰還したとされます。今考えてもすごい距離です。現在,鹿児島県日置市では,小中学生が島津勢の退陣退路を2日間かけて踏破する「関ケ原戦跡踏破隊」が実施されていて,2024年(令和7年)で65回目となるそうです。

 「島津の退き口」は,島津家を滅亡のふちから救った奇跡の撤退戦でした。
 関ヶ原で西軍が敗れたあと,多くの大名は改易や切腹に追い込まれましたが,島津家だけは本領安堵されました。島津家が救われた理由は島津義弘が生きて帰ったことと,徳川家康が,九州の強大な勢力である島津を無理に潰すより懐柔して味方につけた方が得策だと考えたことによると考えらます。島津軍の戦いぶりは,敵ながらあっぱれと徳川家康もその武勇を認めていたといわれます。
 「島津の退き口」により,島津家は江戸時代を通して薩摩藩として生き残り,明治維新では西郷隆盛や大久保利通を輩出したと考えると,歴史の偶然と幸運を思わずにはいられません。

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【Summary】
Nagoya’s Hideyoshi and Kiyomasa Memorial Museum stands quietly beside Nakamura Park, Hideyoshi’s reputed birthplace. Opened in 1959, it presents Sengoku-era history through permanent and special exhibitions. Usually uncrowded, the area features modest historical sites and sculptures, though crowds are expected with the upcoming Taiga drama.

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 確か名古屋市秀吉清正記念館があるはずだ,と思っていたのですが,見当たりません。改めて調べてみると,中村公園文化プラザという建物が中村公園の西側にあって,その建物には,中村図書館,中村文化小劇場とともに,名古屋市秀吉清正記念館がありました。
 豊臣秀吉の生誕地とされる中村公園は,すでに豊國神社が建立されていたこともあり,歴史的な意味合いの強い場所でした。名古屋市が戦後の復興を進める中で,地元ゆかりの歴史的人物である豊臣秀吉と加藤清正の功績を顕彰し,市民に郷土の歴史を伝える目的で,この場所に,1959年(昭和34年)名古屋市秀吉清正記念館が開館されました。
 常設展は,織田信長が天下統一へ向かったころから,秀吉の天下統一,そして大坂の陣で豊臣氏が滅亡するころまでを5つのテーマに分けて紹介しています。また、毎年秋には、特別陳列を開催します。このほか、館蔵資料を中心とした特集展示、写真パネル展を随時開催しています。
 そもそも,観光で名古屋に来ても中村公園に足を運ぶ人はほとんどいないだろうから,名古屋市秀吉清正記念館の存在を知っている人はもっと少ないのかもしれません。私が行ったのは,平日だったこともあり,見学者は私ひとりでした。

 今回,わざわざやってきた中村公園周辺には,豊臣秀吉・加藤清正の生誕地碑,豊国神社,妙行寺(みょうぎょうじ),常泉寺(じょうせんじ)などの多くの史跡がありますが,どれも地味な存在です。私には,人が少ないというのは好ましいことで,こうした場所を散歩するのはとても楽しいものでした。  
 とはいえ,来年は大河ドラマ館を訪れる人たちが多くやってくることになるでしょう。
 私が行ったときは,大河ドラマ館の準備で大忙しの状態でしたが,その建物のそばにあったのが「日吉丸となかまたち」と題された,日吉丸,のちの豊臣秀吉を中心とした5人の子どもたちの群像でした。これは,1983年(昭和58年)に設置されたもので,豊臣秀吉のわんぱく盛りのころをイメージして,石黒鏘二(しょうじ)、品川譲ら当地で活躍した造形作家により制作されたものだそうです。

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【Summary】
Nakamura Park features ponds, monuments, and historic buildings linked to Toyotomi Hideyoshi and local figures. Highlights include the statue of Kabuki actor Nakamura Kanzaburō I, the Meiji-era Nakamura Park Memorial Hall, Toyokuni Shrine, birthsite markers, and sites related to Koide Hidemasa, Kinoshita Chōshōshi, and Kato Kiyomasa.

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 中村公園はそれほど広い公園ではありませんが,これまで,隅々まで歩いたことはありませんでした。 池がふたつあって,中央の池をひょうたん池,その西側の池を太閤池というそうです。ちょうど紅葉真っ盛りで,池の周りは,写真写りのよいところでした。
 太閤山常泉寺を出て,池の周りを歩いていくと,銅像がありました。これは,歌舞伎の初代中村勘三郎生誕記念碑だそうで,初代中村勘三郎は中村の出身といわれていることから,公園内に生誕記念碑の像を建設しようと,中村区夢づくり実行委員会を母体とする住民団体が寄付金を募り建立したものということで,2017年(平成29年)除幕式が行われました。銅像の高さは2.8メートルで,うち台座部分が1.2メートル,猿若舞を舞う姿が表現されています。
 さらに歩くと,中村公園記念館がありました。これは,明治時代に建築された公共木造建築物では最古で,1910年(明治43年)に加藤清正没後300年を記念して愛知県が地元住民の寄付を受け建築した迎賓館で,名古屋に行幸した当時の皇太子(後の大正天皇)が休憩所として使用しました。
 1954年(昭和29年)から徳川園市民結婚式場の姉妹会場として使用され,1963年(昭和38年)には建物の老朽化などもあり全面改修,さらに,2015年(平成27年)より耐震工事が行われ,2016年(平成28年)にリニューアルオープンしました。木造瓦葺き平屋建てでの書院造で玄関の唐破風が特徴的ということです。

 中村公園の中心にあるのが豊国神社で,これは,豊臣秀吉を祭神とする神社です。中村区の有志が発案し,当時の県令・国貞廉平(くにさだれんぺい)の尽力を得て,1885年(明治18年)に創祀されました。また,近くには,豊公誕生地之碑(ほうこうたんじょうちのひ)があって,これは,1883年(明治16年)に国貞廉平が木製の標柱を建て,1911年(明治44年)に県知事・深野一三(いちぞう)が石で立て直したものです。
 また,1540年にこの地で生まれ豊臣秀吉の家臣となり,妻は大政所の妹で,和泉岸和田3万石の城主となり,豊臣秀吉の死後は豊臣秀頼(秀吉の二男)の補佐役を務めた小出秀政宅跡や,1569年に生まれ, 豊臣秀吉に仕え,若狭小浜城主となりましたが,関ヶ原の戦いで失脚し,その後は京都・東山に隠棲(いんせい)し,当代一の歌人として名を残した高台院の甥に当たる木下長嘯子(きのしたちょうし)宅跡もありました。
 加藤清正は,1562年(永禄5年)に豊臣秀吉生地の近隣で生まれたとされ,豊臣秀吉に仕えて武功をあげ,各所に八幡社を勧請しました。中村公園にも八幡社があり,ここは,加藤清正必勝祈願の社と伝えられます。

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【summary】
I visited Nakamura Park in Nagoya, known as Toyotomi Hideyoshi’s birthplace. Although I rarely went there as a child, I explored it again and also visited the Hideyoshi–Kiyomasa Museum. The park, founded in 1885, includes Toyokuni Shrine and Jokōji Temple with Hideyoshi’s birth well. Preparations for the 2026 Taiga Drama are underway.

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 2025年11月29日,豊臣秀長ゆかりの大和郡山市に行ったことを書きましたが,今回は,豊臣秀吉の生まれたところ,として有名な名古屋市の中村公園です。
 身近なところは,むしろ行ったことがない,という人も少なくないと思うのですが,私も,子供のころに育った場所からさほど遠くないところにある名古屋市の中村公園など,ほとんど行ったことがありません。子供には単なる公園であり,この公園には売店があって,親に連れられて行ったときに,そこでおやつを食べたような記憶があるだけです。
 この辺りは,名古屋市の中でも,以前はあまり風紀のよいところでなかったので,それ以後,近寄る気がしませんでした。中村公園の北側には競輪場があったり,以前は,暴力団の事務所があったり,また,少し東に行くと,昔,中村遊郭のあった場所です。そんなところですが,このごろ,一度,きちんと行ってみようと思うようになりました。中村公園には,豊臣秀吉に関する博物館くらいあるのだろう? でも,記憶にないなあ,と思って調べたら,秀吉清正記念館があることがわかったので,そこへも寄ってみることにしていました。
 12月9日,近くに行ったときにそれを思い出しました。そこで,近くの駐車場に車を停めて,公園に入りました。公園や公園周辺は相変わらずのところでしたが,来年の大河ドラマ「豊臣兄弟!」にちなんで大河ドラマ館がオープンするということで,整備が進んでいました。名古屋駅からは遠くなく,地下鉄でも便利なところなので,オープン後は多くの人が訪れることでしょう。

  ・・・・・・
 中村公園が造られたきっかけは,豊臣秀吉の生誕地を記念する,ということでした。
 豊臣秀吉は,1537年(天文6年)に中村で生まれたとされていて,明治時代に,その偉業をたたえ,地元の人たちが「この地に記念の場所を作ろう」という動きが出て,1885年(明治18年)に中村公園が開園しました。また,公園の中心には,1909年(明治42年),京都にあった豊国神社の分霊を勧請して,豊国神社が創建されました。
  ・・・・・・
  一般的には,この場所が豊臣秀吉の生誕地とされています。
  江戸時代の地誌や記録にも「中村郷にて出生」と書かれているものが多く,地元の人々も長くそう信じてきました。
 異説もあり,一部の研究者は「秀吉の出自には謎が多く,実際の出生地は別の場所かもしれない」ともいわれ,たとえば,尾張中村ではなく,三河や近江にルーツがあるのではという説もあるようです。「豊臣兄弟!」ではどう描かれるのでしょうか。
 まず,目についたのが太閤山常泉寺という寺でした。「太閤山」という山号は,豊臣秀吉の尊称「太閤」にちなんでいます。
 常泉寺は,臨済宗妙心寺派の寺で,創建は1533年(天文2年)。豊臣秀吉の父・木下弥右衛門が建立したと伝えられていて,豊臣秀吉が天下人になったあと,手厚く保護したともいわれているそうです。境内には産湯を使ったという伝説がある「秀吉誕生の井戸」があったり,豊臣秀吉の大きな像がありました。

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【Summary】
Returning to Asuka Station, I enjoyed a hearty lunch at a former factory cafeteria, visited the Saruishi stone figures and imperial tombs, then went to Kashihara Shrine. Though modern, the shrine’s vast, serene grounds conveyed solemn grandeur tied to Japan’s mythic origins.

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 飛鳥駅に戻ってきました。
 ちょうどお昼どきになったので,どこかで昼食を,と思ったら,目の前に「とんかつ喫茶豚とエスプレッソと明日香村工場」という店を見つけました。何でも,奈良市にある人気店「ブタとエスプレッソ」の工場内食堂だそうで,当初は「ブタとエスプレッソ」の工場だったのを,2025年1月に工場内食堂として店内で飲食ができるようにしたものです。思った以上にすごいボリュームで,お得感がありました。
 食事のあとは,まだ,時間があったので,別の日に行こうと思っていた橿原神宮に寄ることにしました。橿原神宮は,飛鳥駅から2駅です。しかし,電車が来るまで30分ほど時間があったので,飛鳥駅から北に少し行ったところにある猿石を見にいくことにしました。
 猿石は,思っていたものとは違い,吉備姫王(きびつひめのひめみこ)墓古墳として柵に囲われた中に置かれた4体の石像でした。4体はそれぞれ男像,女像,山王権現像,僧形像などとよばれているそうです。現在,猿石は吉備姫王墓の南側の一角に並べられていますが,もともとはこの場所にあったわけではなく,江戸時代の記録では,「鬼の雪隠」のあたりにあって,明治時代になって現在の場所に移されたとされています。

 今回私がまわっただけでも,吉備姫王の墓と称される古墳がすでに3か所ありました。吉備姫王は欽明天皇の孫で,斉明天皇(皇極天皇),孝徳天皇の母,天智天皇,天武天皇の祖母にあたるといわれます。また,現在の岡山県あたりである吉備地方と大和政権とのつながりを示す人物かといわれていたり,天智天皇の皇女や天武天皇の妃のひとりとする説さえあるようです。
  ・・・・・・
 天豊財重日足姬天皇 渟中倉太珠敷天皇曾孫 押坂彥人大兄皇子孫 茅渟王女也
 母曰吉備姬王
 天皇順考古道 而爲政也。
  ・・
 天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかひたらしひめのすめらみこと=斉明天皇)は,渟中倉太珠敷天皇(ぬなくらたましきのすめらみこと=敏達天皇)の曽孫(ひひこ),押坂彦人大兄(おしさかのひこひとおほえ)の皇子(みこ)の孫(ひこ),茅渟王(ちぬのみこ)の女(むすめ)也。
 母(みはは)は吉備姫王(きびつひめのひめみこ)と曰ひたまふ。
 天皇(すめらみこと)古(いにしへ)の道の順考(まにまにかむが)而(へて)政(まつりごと)を為したまふ。
   「日本書記」巻24
  ・・・・・・

 その近くにあったのが,檜隈坂合陵(ひのくまのさかあいのみささぎ)29代欽明天皇陵とされる巨大な前方後円墳でした。欽明天皇は仏教が伝来したとき,つまり,552年ごろの天皇ですが,江戸時代の地誌や「延喜式」などの古記録をもとに,明治時代に宮内省がこの地を欽明天皇陵と判断して決めたもので,確かでなく,実際の欽明天皇陵は,700メートルほど北にある見瀬丸山古墳だという学者もいます。
  ・・・・・・
 是月 天皇遂崩于內寢
 時年若干
 五月 殯于河內古市
 秋八月丙子朔 新羅遣弔使未叱號失消等 奉哀於殯
 是月 未叱號失消等罷
 九月 葬于檜隈坂合陵
  ・・
 是の月 天皇遂に于内寝(ねどの)に崩(ほうず)。
 時に年(よはひ)若干(そこばく)。
 五月(さつき) 于河内(かふち)の古市(ふるいち)に殯(もがり)しまつる。
 秋八月(はつき)丙子(ひのえね)を朔(つきたち)とし 新羅弔(とぶらひ)の使(つかひ)未叱号失消(みしこしせう)等(ら)を遣(まだ)して 於殯(もがり)に奉哀(かなしびまつらしむ)。
 是の月 未叱子失消等(ら)罷(まか)る。
 九月(ながつき) 于檜隈坂合陵に葬(はぶ)りまつる。
   「日本書紀」巻19
  ・・・・・・

 飛鳥に戻り,自転車を返却して,ホームに急ぎました。やがて,橿原神宮駅行きの電車が来たので乗り込みました。
 私はこれまで,橿原神宮には行ったことがありません。多くの見どころがある飛鳥地方で,あえて,橿原神宮に行くよりも,行ってみたいところがたくさんあったのが理由なのですが,一度は,ということで,今回,寄ってみることにしました。
 橿原神宮の創建は1890年(明治23年)で,古いものではありません。祭神は神武天皇とその皇后である媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)です。神武天皇は「日本書紀」や「古事記」に登場する初代天皇ですが,橿原の宮で即位したと伝えられ,近くには畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのみささぎ)初代神武天皇陵とされる陵墓があることから造られたもののようです。
 思った以上に巨大な神社でした。また,境内は驚くほども広く,静謐で荘厳な雰囲気に満ちていました。本殿は伊勢神宮の外宮に似た神明造(しんめいづくり)で,正月の準備真っ盛りでした。橿原神宮は,まさに,明治期に近代国家としての日本が国力を内外に示す役割を果たしたものなのでしょう。

 本殿からさらに奥に進んでいくと,神武天皇陵がありました。ここは「日本書紀」に記された「畝傍山の東北」にあたるところとされています。
  ・・・・・・
 七十有六年 春三月甲午朔甲辰 天皇崩于橿原宮 時年一百廿七歲
 明年 秋九月乙卯朔丙寅 葬畝傍山東北陵
  ・・
 七十有六年(ななそとせあまりむとせ) 春三月(うづき)甲午(きのえうま)を朔(つきたち)とし甲辰(きのえたつ=十一日) 天皇橿原の宮に崩す 時に年(よはひ)一百二十七歳(ももとせあまりはたとせあまりななとせ)。
 明年(くるつとし) 秋九月(ながつき)乙卯(きのとう)を朔(つきたち)とし丙寅(ひのえとら=三日) 葬畝傍山東北陵に葬(はぶ)りまつる。
   「日本書記」巻3
  ・・・・・・
 神武天皇は,天照大神の子孫とされ,日向から東征して大和の地に都を開いたと伝えられている人物です。即位が紀元前660年,崩御が127歳とされ,実在の人物というよりは神話的,象徴的な存在と考えられています。また,神武天皇陵とされているのは,円墳状の墳丘で周囲には濠もありますが,この時代に古墳があるとは考えられないので,実際には後世のだれが埋葬されているかは不明です。

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【Summary】
While visiting Asuka, I reflected on how this quiet, non-touristy area suits deep, reflective travel. I revisited the Takamatsuzuka Tomb, famous for its wall paintings and preservation challenges, then cycled to the nearby Kitora Tomb, another late seventh-century mural tomb, appreciating both the history and the tranquil landscape.

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 私は,若いころから古代史が好きだったので,飛鳥地方にはずいぶん行きました。
 そのころのある日。高松塚古墳に行こうと歩いていると,定年退職をして,さあ,旅行をするぞ,という感じの初老の人が,そんな私を見て「専門家の人ですか? いいですね,ここは」。と話しかけてきました。今でもそれをよく覚えています。そのころは,奈良といっても,飛鳥の地は,マニア向けのところらしく,一般の観光客はあまりいませんでした。だから,さも慣れた様子で歩いていた私をそう思ったのでしょう。そしてまた,初老の人も,この地を旅するのをずっとこころ待ちにしていたのでしょう。
 今の私は,そのとき話しかけてきた人よりもずっと年上になってしまいましたが,国内外,行きたいと思っていたところはほぼ行きつくしてしまったその果てに,こころは,再び,飛鳥の地に戻って来たようです。この先は,のどかなこの地を深く,静かに,何度も巡りたいものだと改めて思ったことでした。ここは,インバウンドもほとんどおらず,観光客も多くなく,最高です。

 高松塚古墳は
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 7世紀末から8世紀初頭にかけて築造された終末期古墳で,直径23メートル,高さ5メートルほどの円墳です。石室の壁画,特に,色彩鮮やかな西壁の女子群像は歴史の教科書などにも紹介されているので有名です。被葬者は特定されていません。
 1972年(昭和47年)に極彩色の壁画が発見されたことで注目されるようになりました。
 1962年(昭和37)年ごろ,明日香村檜前の村人がショウガを貯蔵しようと直径約60センチメートルの穴を墳丘南側に掘ったところ,穴の奥で擬灰岩の四角い切石が見つかりました。1972年(昭和47年),関西大学と龍谷大学の研究者と学生グループによって高松塚古墳の発掘調査がはじまり,3月21日には極彩色の壁画が発見されました。
 極彩色壁画の出現は考古学史上まれにみる大発見として報じられました。
  ・・・・・・
というものですが,発見当時の報道を,私はよく覚えています。
 とはいえ,当然,壁画は非公開だったので,壁画そのものを見ることはできなかったのですが,このときの私は,高松塚古墳の外観を見にいってみたところだったのです。

 それから50年以上が経過したわけですが,その間に,壁画の保存には,さまざまな困難が起きました。
  ・・・・・・
 古墳の壁画は現状のまま現地保存することになり,文化庁が石室内の温度や湿度の調整,防カビ処理などの保存管理,そして,1981(昭和56)年以降年1回の定期点検を行ってきました。
 しかし,2002年(平成14年)から2003年(平成15年)にかけて撮影された写真を調べた結果,雨水の浸入やカビの発生などにより,壁画の退色,変色が顕著になっていることが,2004年(平成16年)に明らかになりました。 
 壁画の劣化防止策や保存方法について種々の検討が続けられ,壁画の描かれている石室をいったん解体,移動して修復し,修復完了後に元に戻すという方式が採用されました。
  ・・・・・・
 その方針に従って,壁画は歴史公園内に完成した修理施設に移され,修復されたのですが,現在も,修理施設で保存管理されていて,年に数回行われる一般公開で,それを見ることができるそうです。
 それとは別に,高松塚古墳の横に壁画館ができ,そこで,模写が展示されていたので,見てきました。これだけで私は十分に満足しましたが,機会があれば,一般公開のときにまた来てみたいと思いました。

 そんな高松塚古墳の1キロメートルほど南にあるのがキトラ古墳です。
 ここもまた,壁画古墳として有名なのですが,私は,これまで行ったことがなかったので,今回行ってみることにしました。高松塚古墳からキトラ古墳まではずっと上り坂で,自転車では大変でした。むしろ,自転車なしで歩いたほうが楽だったと後悔しました。
  ・・・・・・
 キトラ古墳もまた,7世紀末から8世紀初頭にかけて築造された終末期古墳で,直径14メートル,高さ4メートルほどの円墳です。高松塚古墳に続き日本で2番目に発見された大陸風の壁画古墳です。
 中を覗くと亀と虎の壁画が見えたため「亀虎古墳」とよばれたという説,古墳の南側の地名である小字北浦(こあざきたうら)がなまってキトラになったという説,キトラ古墳が明日香村阿部山集落の北西方向にあるため四神のうち北をつかさどる亀(玄武)と西をつかさどる虎(白虎) から亀虎とよばれていたという説などがあるそうです。
 被葬者は天武天皇の皇子・高市皇子,高官であった百済王昌成,右大臣・阿部御主人などが想像されています。
  ・・ 
 高松塚古墳壁画発見の直後,付近の住民から,近くに似たような古墳があると知らされたことで,1983年(昭和58年)にファイバースコープによる探査が行われ,石槨の奥壁に玄武と思われる壁画を発見,15年後の1998年(平成10年)には,青龍,白虎,天文図が発見されました。さらに,2001年(平成13年)の調査で,南壁の朱雀を確認し,獣頭人身十二支像の存在も確認しました。
  ・・・・・・

 キトラ古墳で壁画が発見されたのは高松塚古墳とさほど違わないころだったのですが,キトラ古墳の調査は,高松塚古墳の調査よりもかなり後で行われたので,すでに社会人だった私はあまり印象がありません。
 キトラ古墳の壁画は,そのままではやがて崩れてしまう極端なもろさであることがわかったため,2004年(平成16年)に本格的な取り外しを行い,取り外した壁画は修理,強化処理を行い保存管理しているので,非公開となっています。ただし,こちらも,年に数回,一般公開が行われているそうです。
 現在,キトラ古墳のとなりにキトラ古墳壁画体験館「四神の館」があって,ここで,さまざまな展示がされていました。充実した展示で,楽しむことができました。
 この建物の一部に,キトラ古墳壁画保存管理施設があります。

 キトラ古墳のある場所は,高松塚古墳のあるところ以上にどのかな,山深き場所ですが,このようなところに,1,300年以上も昔から,人々が活動していたのが不思議な気がしました。また,いい意味であまり開発されていないので,その時代のままの姿が想像できる印象を受けました。
 私は,何度も訪れたいところ,というより,むしろ,住んでみたいところだなあと思いました,

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◇◇◇
Moon and Marcury.

早朝の東空
月齢27.6の月と水星です。
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「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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【Summary】
After visiting the Kengoshizuka Tomb, I returned toward Asuka Station and explored several late-period kofun by rental bicycle. Along the way, I visited Iwayayama Kofun, Oni-no-Manaita and Oni-no-Setsuin, and the confirmed tomb of Emperors Tenmu and Jitō, before heading on to Takamatsuzuka Kofun.

######
 この日私が行きたかったのは牽牛子塚古墳でした。その目的を果たして,さて,このあとどうしようかと思いました。とりあえず,近鉄電車の飛鳥駅まで戻ることにしました。
 その途中で見つけたのが岩屋山古墳でした。
 岩屋山古墳は終末期古墳です。ここは,石室に入ることができます。
 墳丘は1辺約40メートル,高さ約12メートルの2段築成の方墳で石英閃緑岩の切石を用いた南に開口する両袖式の横穴式石室があります。被葬者は吉備姫王(きびつひめのひめみこ)などが候補として挙げられているそうです。

 飛鳥駅まで戻ってきました。
 一般に,京都,奈良とひとくくりにされますが,私が一番好きなのは,奈良に中でも,今回来た飛鳥地方なのです。この地には古代天皇の古墳やら都やらの跡が多くあって,もっとも興味が湧くところで,学生時代によく来ました。広い場所なので,レンタサイクルを借りて走り回るのでした。今回やって来たのはかれこれ30年ぶりくらいなのですが,雰囲気がほとんど変わっていなかったのに驚きました。そして,再び興味が湧いてきました。そこで,今回も,レンタサイクルを借りて,走り回ることにしました。
 なお,明日香と飛鳥,ふたつの書き方があります。どちらも「アスカ」ですが,明日香は明日香村を指し,飛鳥は歴史的な時代や文化を表すときによく使われるそうです。つまり,場所としての村なら明日香,時代や文化の名前なら飛鳥ということです。 
 駅前に多くのレンタサイクル店があったので,そのうちの1軒で借りたのですが,この時点で間違えました。学生時代なら十分だったのでしょうが,飛鳥という地は坂が多く,今の年齢を考えれば,電動自転車を選ぶ必要があったのでした。

 さて,まず高松塚古墳に行こうと思い,飛鳥駅から西に向かって走っていくと,国営飛鳥歴史公園館があったので,一旦,そこに自転車を停めて,中に入りました。
 国営飛鳥歴史公園館は明日香村にある歴史公園の中核施設で,飛鳥時代の文化や暮らしを体感できる場所,この地を観光するときの案内所のようなところでした。
 ここで思い出しのですが,これまで何度も来ているとはいえ,見逃しているところが少なからずあるので,そうしたところに行ってみようと思いました。「鬼の爼」(まないた),「鬼の雪隠」もそのうちのひとつでした。そこで,高松塚古墳に行く前に,「鬼の爼」「鬼の雪隠」に行ってみることにしました。場所は国営飛鳥歴史公園館からさほど遠くはかなったのですが,けっこうな坂を上ることになって,この時点で,すでに,電動自転車を借りなかったことを後悔しました。
  ・・・・・・
 「鬼の爼」「鬼の雪隠」というのは,もともと古墳の石棺式石室の1組の石材であったものが何らかの原因でわかれ,底石が残り,蓋が転げ落ちたものと考えられていて,29代欽明天皇陵の石室の底石と蓋ではないかと説明されています。鬼が旅人を霧で迷わせ捕らえて爼で料理し,満腹になったあとに雪隠で用を足したという伝説があるそうです。なお,欽明天皇陵とされている巨大な前方後円墳が,飛鳥駅の北にあります。
  ・・・・・・

 「鬼の爼」「鬼の雪隠」の近くに,檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)40代天武・41代持統天皇陵があったので,寄ってみました。ここは以前来たことがあります。この地にある多くの天皇陵は,実際は,それが正しく治定されているのか不明なものが多く,というか,むしろ,そのほとんどが信ぴょう性に欠けているのですが,1235年(文暦2年)に盗掘され,このときの実検記「阿不幾乃山陵記」(あふきのさんりょうき)に記された記事と「日本書紀」「続日本紀」の記述が一致したことから,天武・持統天皇陵は,正真正銘,天武天皇と持統天皇が葬られた古墳であることがわかっています。
 東西38メートル,南北45メートル。まさに,この時代の天皇陵らしく八角墳で,天武天皇のために築かれ,のちに持統天皇が火葬され合葬されました。
  ・・・・・・
 冬十月辛卯朔壬子
 皇太子 率公卿百寮人等幷諸國司國造
 及百姓男女 始築大內陵
 十二月辛卯朔庚子
 以直廣參路眞人迹見 爲饗新羅勅使
 是年也 大歲丁亥
  ・・
 冬十月(かむづき)辛卯(かのとう)を朔(つきたち)として壬子(みづのえね=二十二日)
 皇太子(ひつぎのみこ) 公卿(まへつきみ)百寮人(もものつかさびと)等(たち)
 及びに百姓(おほむたから)の男女(をのこをみな)を率(ゐ)て 始めて大内陵(おほちのみささぎ)を築(つ)きたまふ。
 十二月(しはす)辛卯(かのとう)を朔(つきたち)として庚子(かのえね=十日)
 直広参(ぢきくわうさむ)路真人(みちのまひと)迹見(とみ)を以ちて 新羅(しらき)を饗(みあへ)する勅使(みかどつかひ)と為(し)たまふ。
 是年(このとし)は 大歲(おほとし)丁亥(ひのとゐ)。
  「日本書紀」 巻30 持統紀
  ・・・・・・
 從四位上當麻眞人智徳
 率諸王諸臣
 奉誄太上天皇
 謚曰大倭根子天之廣野日女尊
 是日
 火葬於飛鳥岡
 合葬於大内山陵
  ・・
 癸酉(みずのととり=12月17日)
 従四位上当麻真人智徳(たいまのまひとちとこ)が
 諸王諸臣を率いて
 太上天皇に誄しのびごと(貴人の死を悼んで読み上げる弔辞)を奉った。
 大倭根子天之広野日女尊(おおやまとねこあめのひろのひめのみこと)と諡おくりなを奉った。
 この日
 飛鳥岡において太上天皇を火葬し奉った。
 壬午(みずのえうま=12月26日)大内山陵に合葬し奉った。
  「続日本紀」 文武紀
  ・・・・・・
 盗人乱入事文暦二年三月廿日癸  
 件陵形八角石檀一迊一町許歟五重也是五重ノ峯有森十余株南面有石門々前ニ有石橋此石門ヲ盗人等纔人一身通許切開御陵ノ内ニ有内外陣先外陣方丈間許歟皆馬脳也天井高七尺許此モ馬脳無継目一枚ヲ打覆云内陣ノ広南北一丈四五尺東西一丈許内陣有金銅ノ妻戸広左右ノ扉各三尺五寸七分扉厚一寸五分高六尺五寸左右ノ腋柱広四寸五分厚四寸フクサ三寸鼡走三寸冠木広四寸五分厚四寸
 已上金銅扉ノ金物六内小四三寸五許分大二四寸許皆金已上形如蓮花返花古不ノ形師子也内陣三方上下皆馬脳歟朱漆也御棺張物也以布張之入角也朱塗長七尺広二尺五寸許深二尺五寸許也御棺蓋ハ木也朱塗御棺ノ床ノ金銅厚五分互上ヲ彫透左右ニ八尻頭ニ四クリタカ歟四尻二頭二御骨首ハ普通ヨリスコシ大也其色赤黒也御脛骨長一尺六寸肘長一尺四寸御棺内ニ紅御衣ノ汚タル少々在之
  ・・
 盗人乱入の事【文暦二年(1235年)三月二十日】
 件(くだん)の陵形は一巡り約1町 五重である。五重の峰に森十株余りがある。南側に石門があり,門前に石橋があり,その石門を盗人は僅かに人一人が通れる分だけ切り開いた。 御陵の中には内外陣がある。まず外陣は一辺約一丈で,皆瑪瑙である。天井高約7尺,これも瑪瑙で継ぎ目のない一枚板で覆うという。
 内陣の広さは南北約1丈4~5尺,東西約1丈,内陣には金銅の妻戸があり,広さは左右の扉は各3尺5寸7分,扉厚1寸5分,高さ6尺5寸。左右の腋柱の幅は4寸5分, 厚さ4寸,袱紗(ふくさ)3寸,鼠走り3寸,冠木は幅4寸5分,厚さ四寸【以上金銅製】, 扉の金物6点のうち小4点【約3寸5分】,大2点【約4寸】,形は蓮花返花の如くで,古くて形をなさないが獅子である。
   「阿不幾乃山陵記」
  ・・・・・・

 国営飛鳥歴史公園館に戻る途中,カナヅカ古墳がありました。墳形は方形で1辺約35メートル。被葬者は明らかでなく,吉備姫王の真墓とする説が挙げられているそうです。
 坂を上って来た,というから,帰りは降ることになるわけで,今度は快適でした。国営飛鳥歴史公園館に戻り,次に,高松塚古墳をめざしました。

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【Summary】
After seeing an NHK BS program, I finally visited the Kengoshizuka Tumulus in Asuka in December 2025. This rare octagonal 7th-century tomb is now thought to be the grave of Empress Saimei and was carefully excavated, restored, and opened to the public in 2022.

######
 NHKBS「英雄たちの選択」の2025年3月10日に放送された「シリーズ古墳の時代(2)八角墳に眠る女帝~斉明天皇の石の王都~」で牽牛子塚(けんごしづか)古墳が紹介されました。それ以来,ずっと行ってみたかったのですが,2025年12月13日,実現することができました。
  ・・
 牽牛子塚古墳があるのは,近鉄電車の飛鳥駅から西に歩いて10分ほど行ったところです。
 午前7時19分に京都駅に着いた私は,意気揚々と午前7時35分発橿原神宮駅行き特急の指定席券をネットで購入して乗り込みました。橿原神宮駅着が午前8時30分。ここで,午前8時46分発吉野駅行きの特急に接続し飛鳥駅着が8時49分になるので,飛鳥駅までの指定席券を購入すべきだったのですが,私は間違えて,橿原神宮駅までの特急券を購入してしまったのでした。こうなると,再び,橿原神宮から飛鳥駅までの特急券を購入する気にはなりません。ならば,次の午前8時ちょうど発の吉野駅行きの急行に乗ればいいのですが,待ち時間が30分もあり,こんなくらいなら,午前7時36分発の橿原神宮行きの急行に乗っても,同じだったのです。
 ということもあって,橿原神宮駅で下車した私は,橿原神宮駅から牽牛子塚古墳まで約40分,歩くことにしました。狭い田んぼのあぜ道,それもまた,けっこうな坂道でしたが,不幸中の幸い,なかなか楽しい散策で,ついに,待望の牽牛子塚古墳に到着しました。

 思ったより巨大でなかった,というより,あたりが広々としてるので,思ったより小さく見えた,というほうが適切でしょう。見学者が2人から3人ほど来ていました。ガイドさんがふたりいて,予約制だったようですが,そうでなくても詳しい説明を聞くことができました。
  ・・・・・・
 牽牛子塚古墳は,飛鳥時代の終わりごろの7世紀後半に築かれたとされる八角墳です。八角形の古墳は珍しく,この時代の天皇やそれに準ずる高貴な人物の墓と考えられています。
 牽牛子塚古墳は,長らく,誰の墓なのか謎に包まれていました。発掘調査の結果,今は37代斉明天皇の墓である可能性が高いとされています。斉明天皇は,のちの天智天皇である中大兄皇子の母です。
 ちなみに牽牛子は朝顔の古いよび名です。
  ・・・・・・
 2000年代に入り,牽牛子塚古墳は,石室の崩落の危険性や風化による劣化が進んでいたことから,文化財としての保護と学術的な解明のために本格的な発掘調査がはじまりました。
 調査が進むにつれて,古墳の八角形の形状が明らかになり,石室がふたつ並ぶ「両袖式横穴式石室」が判明しました。また,石材の産地や築造技術から7世紀後半の築造と推定されました。
 また,牽牛子塚の手前には,越塚御門(こしづかみかど)古墳も存在します。
 発掘調査の結果,「日本書紀」の天智天皇称制六年(667年)二月二十七日の条より,牽牛子塚古墳が斉明天皇の陵墓で,間人皇女(はしひとのひめみこ)との合葬である可能性が極めて高いとされました。さらに,越塚御門古墳は,大田皇女(おほたのひめみこ)の墓である可能性が高いということです。

  ・・・・・・
 六年 春二月壬辰朔戊午 合葬天豐財重日足姬天皇與間人皇女 於小市岡上陵
 是日 以皇孫大田皇女葬於陵前之墓
  ・・
 六年(むつとせ),春二月(きさらぎ)壬辰(みずのえたつ)朔(ついたち)とし戊午(つちのえうま=六日),天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)と間人皇女を,小市岡上陵(をちのおかのえのみささぎ)に合葬(あはせはかむ)りき。
 是の日,皇孫(すめらみま)大田皇女を以て,陵の前の墓。
  ・・
 天智天皇6年(667年),2月27日天豊財重日足姫天皇=斉明天皇と間人皇女を,小市岡上陵に一緒に葬りました。
 この日,皇孫である大田皇女も,その陵の前の墓に葬られました。
   「日本書記」巻27
  ・・・・・・

 文化庁や地元自治体が,この貴重な遺跡を後世に伝えたいという目的で,発掘で得られたデータをもとに,築造当時の姿を忠実に再現する形で整備されることになりました。そして,2022年,整備が完了して一般公開がはじまりました。復元に使われた石材も,当時と同じ二上山の凝灰岩を使っています。
 古墳のある高台から見まわすと,稲刈りの終わった田んぼでは,野焼きをしていました。いま,都会では野焼きは禁止です。まだそれが行われているほど,開発されていないというのが,今もなお,どのかな飛鳥を示しているようでした。まさに,私の好きな万葉集の
  ・・・・・・
 山常庭 村山有等 取與呂布
 天乃香具山 騰立 國見乎為者
 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都
 怜𪫧國曽 蜻嶋 八間跡能國者
  ・・
 大和には 群山あれど とりよろふ
 天の香具山 登り立ち 国見をすれば
 国原は 煙立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ
 うまし国そ 蜻蛉島 大和の国は
  ・・
 大和には 多くの山があるが とりわけて
 りっぱに装っている天の香具山 その頂に登り立って 国見をすると
 国土には 炊煙がさかんに立ち 海上には 鴎がしきりに飛び立っている
 美しい国よ 蜻蛉島 大和の国は
   巻1・2 舒明天皇
  ・・・・・・
を思い起こす,そんなところでした。

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【Summary】
The workshop “Sound and Calligraphy” was held at Kōshōji Temple in Nishijin, usually closed to the public. Opened specially for autumn, it is known as the “Oribe Temple,” linked to Furuta Oribe. Though the maple leaves had mostly fallen, the quiet atmosphere revealed a refined and memorable beauty.

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 ワークショップ「音と書」が行われたのは,西陣の興聖寺(こうしょうじ)という寺院でした。
 普段一般公開はされておらず,2025年11月15日から12月14日まで,~「織部寺」のもみじ特別公開~として
  ・・・・・・
 茶道織部流の祖でもある武将・古田織部(ふるたおりべ)との関わりから「織部寺」(おりべでら)ともよばれる非公開寺院では,この秋,本堂前や方丈庭園の美しい紅葉の特別公開が行われます。
 本堂天井画「雲龍図」(うんりゅうず)や,青が印象的な「青波の襖」が奉納された方丈(ほうじょう),「降り蹲踞」(つくばい)などがみどころです。
  ・・・・・・
ということです。

 私は,地下鉄烏丸線に乗って,鞍馬口で降り,興聖寺を目指して,西に向かって歩きました。その途中で見つけたのが,京都大学室町寮でした。吉田寮は有名ですが,ここにももうひとつ,昔のままの寮があったんだ,と驚きました。
  ・・・・・・
 室町寮は京都大学の歴史ある男子寮で,設立は戦後間もない1946年。当初は戦災で住む場所を失った学生たちのための仮設住宅としてはじまりました。
 特徴は,何といっても自治と自由の精神で,寮生たちが自分たちで運営し,寮のルールやイベントも自分たちで決めるという,小さな共同体になっています。
 建物自体はかなり年季が入っている「ボロ寮」としても知られていて,それが味わい深いものとなっている「生きた歴史博物館」です。
  ・・・・・・

 次に見つけたのが妙覚寺でした。
  ・・・・・・
 妙覚寺は,1378年(永和4年)に四条大宮に創建し,幾度かの移転ののち,豊臣秀吉の都市計画により現在地へ移ったものです。北竜華具足山と号し,妙顕寺・立本寺とともに「京都日蓮宗名刹三具山」に数えられ,京都16本山のひとつです。
 戦国時代には二条衣棚にあり,斎藤道三の息子が住職を務めたことから織田信長の京都での定宿となり,本能寺の変の際には信長の長男・織田信忠が宿泊していました。大門は、秀吉が建てた聚楽第の裏門で,本堂前の「法姿園」(ほうしえん)は紅葉美しき所として有名です。
  ・・・・・・
 通常は庭園は非公開ですが,この時期だけ特別公開が行われるのですが,今年は紅葉が早く散り,すでに公開は終了していました。

 やがて,堀河通りの向こうに興聖寺が見えてきました。
  ・・・・・・
 興聖寺は臨済宗興聖寺派の本山の寺院で,山号は円通山。本尊は釈迦如来です。
 1603年(慶長8年)に,妙満寺・日重上人の弟子である虚応円耳が,法華宗の教えを広めるために,東隣の大応寺から移って創建したもので,創建時は興正寺といいました。
  ・・・・・・
 茶人・古田織部部の妻センが隠棲した北野天満宮隣りの青霄院が,センの死後移転して同寺の塔頭となり,その後,豊後国岡藩の家老・古田家が織部と子らの墓を建てた関係で,昭和になってから織部寺とよばれるようになったということです。
 ワークショップがはじまる前,時間があったので,境内を散歩しました。
 この寺院もまた,今年は紅葉が早く,すでにほとんど散り紅葉となっていましたが,それはそれで趣がありました。
 京都の寺院は,つねに公開していて観光客いっぱいのところも数多くあるのですが,そうでなく,ひっそりとしたところもまた,すばらしい紅葉を見ることができます。何かの縁で,そうした場所を訪れれる機会があったのは,とても幸運なことでした。

 ワークショップの帰り,再び,鞍馬口まで歩いたのですが,その途中にあった料亭から出てきた舞妓さんと芸妓さんを見ました。観光客の知らない世界。ああ,京都というのは,誠に奥が深いところだと思いました。

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【Summary】
After a Kyoto Symphony Orchestra concert, I joined a workshop titled Sound and Calligraphy at a quiet Nishijin temple. Violinist Tomoko Kinoshita’s intimate performance, combined with live calligraphy inspired by The Tale of Genji and a hands-on writing experience, offered a deeply calming and enriching encounter with Japanese culture.

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 2025年11月29日に行われた京都市交響楽団第706回定期演奏会のあと,「音楽と珈琲と語らいのひととき」という企画があって参加したのですが,このとき,ヴァイオリンの木下知子さんから,12月13日午後5時30分からワークショップを行うという案内があったので,参加してきました。場所は,西陣の興聖寺というところでした。
 チラシによると,感覚・感性を磨く 臨む!ワークショップ「音と書」ということでした。何をするのか,あまりよくわかっておらず,何事も経験だと思って行ってみたのですが,とても楽しい時間となりました。

 まず,木下知子さんのヴァイオリンを楽しみました。曲目は,こころに問いかけるようなものばかりで,静かな寺の空間にとてもふさわしく,すばらしかったです。大音響のオーケストラや,有名な曲もよいですが,それとはうって変わって,こうしたものもまた,すてきです。何よりも,プロのヴァイオリンの音を近くで味わうというのは,何というぜいたくなことなのでしょうか。
 次に,玉雪さんという書道家の描く作品をヴァイオリンの即興演奏とともに鑑賞しました。私は,書道はよくわからないのですが,それでも,何を表現したいのかはわかったような気がします。書かれた作品にある文章は,「源氏物語」の若菜の第五章光る源氏の物語・玉鬘,源氏の四十の賀を祝う から
  ・・・・・・
よろづの物の音調へられたるは妙におもしろくあやしきまで響く
  ・・
すべての楽器の音色がひとつになっていくのは見事に素晴らしく不思議なまでに響き合う
  ・・・・・・
というところだそうです。

 薄茶と菓子をいただいて,最後は,書道を体験しました。私は,書道は50年以上やったことがありません。子供のころ,書道教室に行って,というか,行かされて,墨をするのが嫌でやめたトラウマしかないのです。それが,この歳になると,こころが落ち着く時間となるのが,不思議なことでした。もっと早くこういうことを知っていたら,ずいぶんと違ったかもしれません。
 紅葉も終わりに近づいたこの時期,静かな寺院の方丈で,こうした時間を過ごすことができたのは,とても有意義な時間でした。それにしても,人間の作ってきた文化というのは,何と奥が深いことか,とこのごろつくづく思います。

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【Summary】
This loosely planned trip brought many unexpected experiences. On the way from Ginzan Onsen to Yamagata Airport, I visited Higashine, saw the ancient Great Zelkova tree, and passed a declining hot spring town. A quiet flight returned me early to Nagoya, ending a satisfying journey.

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大まかな計画だけでやって来た今回の旅でしたが,思った以上にいろいろな経験をすることができました。あとは,おいしい山形空港午後3時50分発の帰りのFDAに乗るだけでした。
銀山温泉からおいしい山形空港までの間に「東根の大ケヤキ」というものがあるということだったので,寄り道をすることにしました。私がこの存在を知ったのは,NHKBSで放送されている「にっぽん縦断こころ旅」です。
おいしい山形空港があるのは東根(ひがしね)市というところです。
夏暑く,梅雨期も雨が少なく風も強くないため,さくらんぼ栽培に適した山形県は全国の約7割のさくらんぼを生産していて,その中でも東根市は約2割を担う最大の産地です。人気品種「佐藤錦」は東根市で誕生したもので,現在も代表的なブランドとして国内外に知られています。初夏に来ると,サクランボの実がなっていて,それは見事です。

そんな東根市には東根温泉があります。しかし,東根温泉街はまさにゴーストタウンの様相を呈していておどろきました。
  ・・・・・・
開湯は1910年(明治43年)。農業用水の井戸掘削中に偶然発見された温泉が始はじまりで,それまでの水田地帯が温泉の湧出をきっかけに旅館や商店が立ち並び,急速に温泉街が形成されました。
戦後から昭和期にかけて宿泊客や観光客で賑わい,20軒以上の旅館と共同浴場が存在しました。
  ・・・・・・
しかし,山形新幹線開通後,さくらんぼ東根駅は温泉街から離れていて,アクセス面で不利であったこと,銀山温泉や蔵王温泉など観光資源が豊富で景観も魅力的な温泉地に観光客が集中したこと,老舗旅館「常盤屋」などが2009年に閉鎖するなど,施設更新が進まず衰退し,昭和期の団体旅行ブームが終わり個人旅行や高付加価値志向が主流になった変化に対応が遅れたことなどが原因ということです。
観光客が少ないというのは私には好都合ですが,ここまで廃墟ばかりでは宿泊する気にはなりません。

そんな東根温泉を抜けると東根小学校の校庭内に「東根の大ケヤキ」がありました。群馬県の「原町の大ケヤキ」,山梨県の「三恵の大ケヤキ」と並ぶ日本3大ケヤキのひとつということです。
樹齢は推定1,500年以上で,高さ約28メートル,根回り24メートル,幹周16メートル,直径約5メートルです。南北朝時代の1347年,小田島長義が築いた東根城の本丸跡に植えられていたと伝えられ,江戸時代末期の絵図には,大ケヤキのほかに雄ケヤキ,雌ケヤキとよばれる2本の巨木や,周囲に22本のケヤキが確認されているそうですが,1885年(明治18年)に雄ケヤキが枯れ,現在残る雌ケヤキがこの「東根の大ケヤキ」です。

おいしい山形空港の到着しました。おいしい山形空港は小さい空港で,ラウンジすらありません。それはそれでいいのですが,この空港の最大の欠点はアクセスの悪さです。レンタカーを利用すれはいいのですが,公共交通機関頼りだととても不便です。以前,何も調べずにここから天童市へ行こうとして,タクシー以外に手段がないのに驚きました。
利用者が少ないので発着便も少なく,今回,私が乗ったFDAは,県営名古屋空港との往復ではなく,北海道の丘珠空港からやって来たものでした。乗員はそのまま次のフライトの担当だそうです。また,オレンジ色の機体でしたが,塗装が剥げ,ボロボロだったのには驚きました。どうすればこんなになるのかな,と思いました。あとでCopilotのアクアちゃんに聞いてみると
  ・・・・・・
飛行機の塗装が剥がれるのは,紫外線や風雨による劣化,素材との相性,整備周期の影響などが主な原因です。見た目は悪くても安全性には直ちに影響しない場合が多いです。
  ・・・・・・
とのことでした。
県営名古屋空港着が午後5時でした。こんなに早く県営名古屋空港に戻って来たのはこれまで記憶にありません。そこで,県営名古屋空港内の食堂ではじめて夕食をとることにしました。
今回もいい旅でした。

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【Summary】
I visited Ginzan Onsen after only knowing its famous snowy scenery. Reaching it by car and walking from the distant parking area, I found the historic hot-spring town beautiful but overcrowded with inbound tourists. Learning its mining history was interesting, but the commercialization left me disappointed and no longer wishing to stay overnight.

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銀山温泉といっても,私は,美しい雪景色のなかに大正時代のような温泉街がある姿で知ってるだけでした。冬は雪深く,どうやったらたどりつけるのだろうと思っていたけれど,この時期なら,雪景色は見えねども,車で行くことができるに違いない,と考えました。
そもそも,銀山温泉が山形県にあるということはわかっていたけれど,山形県のどこにあるのかさえ,知りませんでした。
GoogleMaps の地図を頼りに走っていくと,尾花沢市にたどり着きました。そして,そのあたりから,銀山温泉の案内標示が見られるようになりました。その案内標示に従って走っていくと,山間の村があって,そこに無料の駐車場がいくつかありました。車がたくさん停まっていましたが,幸い,まだ,数台の空きスペースがありました。私が到着した時間が午前中で,宿泊客が帰ったころだったからのようで,私が帰るころには,駐車場は空きスペースを探す車でごった返していました。

車を停めても,銀山温泉はそのはるか先でした。宿泊客は,ここから送迎バスがあるようでしたが,私は,歩くほかありません。けっこうな距離で,しかも,坂道を登っていく必要がありました。
やがて,川に沿って,写真で見た景色が見られるようになってきました。ああ,これが銀山温泉か,と思いました。思っていたイメージとは少し違いました。
案内所があったので,そこで地図をもらいました。ちょうどお昼時だったので尋ねると,食べるところはある,という話だったので,それを期待して歩いていくと,「伊豆の華」(いずのはな)というそば屋さんが見つかったので,昼食をとることができました。
  ・・・・・
「伊豆の華」は,1952年(昭和27年),銀山温泉の入り口で町の食堂として誕生いたしました。
温泉街の中に移転した後も,カフェ兼食事処として, 地域の方や観光の方に親しまれております。
140年の歴史を誇る古民家を改築した店内で,銀山温泉の街並みを眺めながら ゆっくりとお過ごしいただければ幸いです。
  ・・・・・
というところで,ここは,外国人団体客を受けつけていないという店でした。

食事を終え,これからどこへ行こうか,と地図を眺めていて,銀山,というからには,ここは銀山のあった場所に違いないと,やっと気づきました。
  ・・・・・・
実際,この場所は,江戸時代初期に栄えた「延沢銀山」(のべさわぎんざん)の鉱山町としてはじまり,銀の採掘が衰えた後に温泉地として発展しました。温泉の泉質はナトリウム-塩化物・硫酸塩泉で,切り傷や火傷,神経痛などに効くとされています。
現在の町並みは大正から昭和初期にかけて整えられたもので,木造の多層旅館が銀山川の両岸にずらりと並び,夜になるとガス灯が灯って幻想的な雰囲気に包まれます。
  ・・・・・・
温泉街を過ぎ,銀山川に沿って上流に向かって結構な山道を歩いていくと,昔の鉱山跡にたどり着きました。この辺りまで来ると,さすがに観光客はほとんどいなくなりました。

結局,銀山温泉は,その風景の美しさとともに,「おしん」の舞台となったことや「千と千尋の神隠し」の世界観に似ている場所,さらには,「鬼滅の刃」の「刀鍛冶の里編」にそっくりということで,有名になりすぎ,世界中から人が押し寄せるようになったところのようです。そこで,多くの観光地同様,インバウンドだらけで静けさのかけらもありませんでした。これでは原宿と変わらないなあ,と思いました。
確かにインスタ映えするところだけれど,私は幻滅しました。私の思い描く,愛してやまない日本の温泉は,こことは違う,人の少ない静かな場所だからです。
一度でいいから,いくら出してもいいから銀山温泉に泊まりたい,という気持ちは跡形もなく消え去りました。そんな意味も含めて,来てよかったと思いました。

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【Summary】
My final day lacked plans, leading to a visit to Ginzan Onsen after changing the schedule. Ginzan Onsen’s Taishō-era charm and nearby sites impressed them. I also discovered the old Izumi Shikibu grave in rural Kitakami, linked to local legends, continuing my growing interest in visiting her many supposed burial places.

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最終日。この旅もまた,いつものようにいい加減で,予定がありませんでした。はじめは,山形県の日本海側に行こうと思っていただけだったのに,この機を逃したら行く機会がないだろうと「えさし藤原の郷」まで足をのばしたことから,おいしい山形空港まで戻るのが大変になってしまったのです。しかも,午後3時50分発というように飛行機の時間が早く,おいしい山形空港までは,約3時間もかかるのです。
当初は,この日の午前中「えさし藤原の郷」へ行くことにしていたのですが,そんな条件もあって,2日目に行くことになりました。そこで,3日目に行く場所がなくなりました。
いろいろと考えた結果,銀山温泉に行くことにしました。

  ・・・・・・
銀山温泉は,山形県尾花沢市にある大正ロマン漂う温泉街です。
銀山川の両岸に,昭和初期の木造旅館がずらりとならび,夜になるとガス灯が灯り,幻想的な光景に包まれ,まるで「千と千尋の神隠し」の世界のようだと評判です。
また,NHK朝の連続テレビ小説「おしん」の舞台としても有名で,全国的にその名が知られるようになりました。また,「鬼滅の刃」の「刀鍛冶の里編」にそっくりということで,ファンの間ではモデル地のひとつでは?と噂され,聖地巡礼に訪れる人も増えています。
泉質はナトリウム-塩化物・硫酸塩泉で,神経痛や皮膚病,婦人病などに効能があるとされています。さらに,「はいからさんのカリーパン」や「立ち食い豆腐」など,温泉街ならではのグルメも充実し,とりわけ,白銀の滝や洗心峡など,四季折々の自然が楽しめるスポットも多く,特に雪景色は息をのむ美しさです。
  ・・・・・・
ここ数年,東北地方を旅行するようになる前,私は,この有名な銀山温泉の名前すら知りませんでしたが,その後,意識するようになって,一度は泊まってみたいものだと思うようになったのですが,まったく予約がとれません。そこで,とにかく,どんなところな見てこようと思ったのです。

その前,そういえば,この近くに和泉式部の墓があるのでは,と思い出しました。これは偶然のことで,来る前には,まさか,この地の和泉式部の墓に行けるとは思っていませんでした。調べてみると,本当に近くだと知って驚きました。
これまでに書いたように,私は,大河ドラマ「光る君へ」の中で出てきた和泉式部が気になって,それ以来興味をもったのですが,和泉式部という恋多き女性の墓が日本全国に多くあって,これもまた,なぜだか,そうした多くの墓を訪ね歩くことになったのです。
  ・・・・・・
北上市和賀町竪川目にある「和泉式部旧墓」には,多くの伝説があります。
和泉式部の墓所としては日本最北端とされ,地元では「旧墓」とよばれています。和賀川の北西,静かな集落の中にあって,説明板がなければ通り過ぎてしまいそうなほどひっそりしています。
墓所には,明治期に奉納された五輪塔と幕末の安政期に建てられた石碑が残っています。
  ・・・・・・
実際は,平安時代に京都からここまで来た可能性は低いのですが,和泉式部が詠んだ歌の中に,陸奥の「衣の関」に触れたものがあり,それが,夫・橘道貞の赴任地との別れを詠んだともいわれています。この「衣」が,北上市の「泉」や「衣川」と結びついて,この地に根づいたのかもしれません。

  ・・・・・・
夢よりもはかなき世の中を
歎きわびつつ明かし暮らすほどに
四月十余日にもなりぬれば
木の下暗がりもてゆく
築地の上の草青やかなるも
人はことに目もとどめぬを
あはれとながむるほどに
近き透垣のもとに
人のけはひすれば
たれならむと思ふほどに
故宮に候ひし小舎人童なりけり
  ・・
夢よりもはかない男女の仲を
嘆きながら昼も夜も過ごしているうちに
四月も十日を過ぎたころになった
木々の葉が茂って木の下はだんだん暗くなっていく
築地の上の草が青々としているのも
他の人は特に気にも留めないけれど
私はしみじみと眺めていた
すると近くの透垣のあたりに
人の気配がしたので 誰だろう?と思って見てみると
亡き宮様に仕えていた小舎人童だった
  「和泉式部日記」
  ・・・・・・

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【Summary】
I stayed at Yakushido Onsen in Mizusawa, expecting a quiet rural inn but finding it in a busy town with many visitors. Despite my initial disappointment, the meals with local products were excellent, and the hot spring became private for guests later, letting me enjoy a spacious bath alone before departing on October 18, 2025.

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この日予約したのは薬師堂温泉というところでした。
  ・・・・・・
岩手県奥州市水沢にある薬師堂温泉は,近くにある病気平癒を祈る薬師が祀られている薬師堂から名づけられたもので,まさに「霊泉」。「珠玉の湯」とよばれています。
ナトリウム塩化物泉で,塩分濃度が岩手県内でもトップクラスということで,からだを芯から温め,冷え性や関節痛,皮膚の乾燥などに効果があるそうです。また,天然岩に囲まれた庭園露天風呂が名物だそうです。
地元の食材を使った料理も絶品で,前沢牛や三陸の海の幸が味わえます。
  ・・・・・・
ということで,かなり期待しました。しかし,日本の旅館は,ともかく,行ってみないことにはわかりません。

到着して,まず,驚いたのは,町中にあった,ということでした。私は,ひなびた場所のほうがすきです。また,広い駐車場には,停めるところがないほどの車がありました。これにもがっかりしました。 日本の多くの温泉旅館がそうであるように,温泉は宿泊者だけのものではなく,地域住民の憩いの場として提供されているからです。それは当たり前のことで,そうしなければ,経営が成り立ちません。
何とか空きスペースを見つけて車を停め,チェックインしました。
しかし,第一印象とは全く違い,ここは,最高の旅館でした。
まず,食事が期待以上でした。いつものように,地酒を呑みながら,味わいました。
また,温泉は,午後9時を過ぎると,宿泊者専用となり,宿泊者が少なかったこともあって,まさに,独占状態となりました。
こうして,今回も,広い温泉に私ひとり,という,まさに理想的な状況となりました。

2025年10月18日,3日目になりました。
ボリュームたっぷりの朝食をとって,さっそく出発しました。

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【Summary】
After visiting Esashi-Fujiwara Heritage Park, I stayed at Yakushido Onsen nearby. On the way, I explored filming sites of Kirin ga Kuru, the medieval Toyoda Castle ruins, and Isawa Castle built by Sakanoue no Tamuramaro. At sunset, I photographed the Lemmon Comet by chance.

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「えさし藤原の郷」を出て,今日宿泊する薬師堂温泉に向かいました。
適当に選んだ旅館だったのですが,「えさし藤原の郷」からとても近いのに驚きました。
その途中,大河ドラマ「麒麟が来る」のロケ現場があるというので,寄り道してみました。場所は,「えさし藤原の郷」の近くの奥州市江刺区岩谷堂(いわやどう)周辺の農地でした。
朝もやがかかる幻想的な風景が「麒麟がくる」の美濃の里の雰囲気にぴったりだったということです。ドラマを見たとき,てっきり合成映像化と思ったのですが,こんな場所が今も残っているのにおどろきました。

さらに進んでいくと,次に見つけたのが豊田館(とよだのたち)でした。
豊田館は,奥州市江刺区岩谷堂下苗代沢にあった中世の居館で,別名「豊田城」ともよばれていました。築かれたのは,「源氏物語」が描かれた1030年ごろの長元年間で,城主は藤原経清(ふじわらのつねきよ)でした。藤原経清は安倍頼時の娘を妻に迎えて,この地に居を構えました。その後,前九年の役で藤原経清は戦死し,息子の藤原清衡(きよひら)が後三年の役を経て奥州藤原氏の祖となり,豊田館に戻って奥六郷を治めました。
  ・・・・・・
前九年の役は,1051年から1062年に東北地方の陸奥で起こった戦いです。
陸奥の豪族安倍氏が朝廷に反抗したのを,源頼義・義家親子が出羽の清原氏と手を組んで討伐しました。この戦いで安倍氏は滅亡し,清原氏が勢力を拡大。源氏は東国武士との絆を深め,後の武家政権の土台ができました。前九年の役で藤原経清が戦死し,母が清原武貞と再婚したことで,藤原清衡は清原清衡と名乗りました。
後三年の役は,1083年から1087年に起こった,清原氏の内紛がきっかけの戦いです。
清原真衡の死後,清原清衡と清原家衡が対立し,源義家が清原清衡を支援して勝利し,この戦いの結果,清原清衡は奥州を統一し,再び,藤原清衡と名乗り,奥州藤原氏として平泉文化の礎を築きました。
  ・・・・・・

ほどなく,薬師堂温泉に着きましたが,その近くにあったのが,胆沢(いざわ)城跡でした。
胆沢城は,奥州市水沢佐倉河にあった古代の城柵で,802年(延暦21年)に坂上田村麻呂が築きました。蝦夷征討の拠点として造られたもので,後に鎮守府が多賀城から移されて,東北経営の中心地になりました。城の構造は,一辺約670メートルの方形で,土塁(築地)と堀で囲まれていて,内部には政庁や官衙(役所),食料を管理する施設などがありました。
このように,この地には,さまざまな時代の遺構が多くあって,驚きました。奥が深いものです。
胆沢城跡を歩いていたら,日が暮れてきました。
この日は快晴。西の空に話題となっているレモン彗星が見られるらしいのですが,私は,三脚すら持ってきませんでした。適当にミラーレス一眼をこの場所だろうと適当に向けて手持ちで写したら,ちゃんと彗星状が写っていました。こりゃ,この先,期待できるなあ,と思いました。

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【Summary】
Esashi-Fujiwara Heritage Park in Oshu, Iwate, was built in 1993 for the NHK drama Homura Tatsu. I finally visited after years of interest. Though fascinating, it was quiet and hard to maintain. Despite its beauty, it feels artificial and struggles to attract visitors.

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NHK大河ドラマのロケ地として知られる「えさし藤原の郷」。一度行ってみたかったのですが,なかなかその機会がありませんでした。
以前,国立天文台水沢と宮沢賢治のふるさと花巻市に行きたくて,2019年10月に行ってみたことがあります。このとき「えさし藤原の郷」へも行けばよかったのですが,気に留めていませんでした。というか,そのころは「えさし藤原の郷」の存在すらまったく知りませんでした。
  ・・・・・・
「えさし藤原の郷」は,岩手県奥州市江刺にある平安時代をテーマにした歴史公園です。
1993年(平成5年),大河ドラマ「炎立つ」の撮影用に造られたオープンセットがもとになって,撮影後もそのまま残して整備されたものです。園内には奥州藤原氏の政庁や貴族の邸宅「伽羅御所」,金色堂などが再現され,平安時代にタイムスリップしたようになっています。
現在は,衣装体験や弓矢,貝合わせなどのアクティビティがあって,見て遊んで学べるテーマパークとなっています。
  ・・・・・・
一ノ関や平泉,花巻などに観光で行く機会があれば,その機会に寄ることもできるのでしょうが,私は,すでに行っているから,この先も行く予定がありません。そこで,今回,この機会を逃すとこの先も行くこともないだろうと,わざわざ,山形県の酒田市から3時間かけて行ってみることにしたのです。

広い駐車場に車を停めて,中に入りました。もっと賑わっているのかと思っていましたが,閑散としていました。私にはこのほうが望ましいのですが,これでは維持するのが大変だろうと思いました。
私はまったく関心がなかったのですが,今年行われた大阪の万国博覧会でも,終了後は壊すはずだった大屋根リングが,壊すのはもったいないという声が上がって保存されるように方針転換されたようです。こうしたことをいう人がいつも一定数います。しかし,声をあげるのは簡単ですが,維持するのがとてつもなく大変なのです。多くの人は,どうしてそういうことがわからないのかな,と思います。何事も,はじめるのは容易ですが,それを維持するのはその何倍も困難なのです。
「えさし藤原の郷」もまた,せっかく造ったのだからということで,その後も維持されているのでしょう。経営は江刺開発振興株式会社という第3セクター方式の会社によって行われていて,代表取締役社長は奥州市長が務めているのだそうです。しかし,約36億円かけて建設され,広さが約20ヘクタールにもなる施設であり,その多くが木造,となれば,その維持はかなり大変に思えます。
来園者数は,年間でおよそ10万人前後で推移しているのですが,コロナ禍で大きく減少し,5万人台まで落ち込んだこともあるそうです。
実際,2025年の来園者数も低調なまま推移していて,平日はかなり閑散としているようです。

私には,あこがれだった場所だったので,それなりに楽しむことができましたが,やはり,ディズニーランドがアメリカの張りぼてであるように,ここもまた,奈良や京都の建物の張りぼてに過ぎないわけで,もっと,ドラマや映画に活用したりなどして,話題をよばないと大変そうに思いました。
何せ,日本の建物は木造なので,痛みがはやいのです。それに,けっこう不便なところにあるからアクセスが簡単でないし。

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【Summary】
Originally planning to visit only Tsuruoka and Sakata, I decided to detour to “Esashi Fujiwara Heritage Park.” To reach it, I had to cross Akita Prefecture via Yurihonjo, where I stopped for lunch at a roadside station.

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この旅で,当初は,山形県の西部地方,つまり,鶴岡市と酒田市だけを観光するつもりでした。しかし,以前から「えさし藤原の郷」に行ってみたかった私は,この機を逃したら行くことができないかもしれない,ということで,多少遠くても,「えさし藤原の郷」まで遠回りすることにしました。
とはいえ,どのくらいかかるかわかりませんでした。調べてみると,酒田市から「えさし藤原の郷」までが約3時間,そして,「えさし藤原の郷」からおいしい山形空港までも約3時間でした。おまけに,おいしい山形空港から県営名古屋空港までの航空便の最終が午後3時50分と早いので,3日目,最終日に「えさし藤原の郷」へ行くことにすれば,午前中に出る必要があるというように,かなりあわただしいのでした。そこで,2日目は,午前中,酒田市を急いで観光し,お昼に「えさし藤原の郷」に向かい,午後3時までに到着して,2日目に「えさし藤原の郷」を観光することにしました。
そんなわけで,酒田市の観光は,山居倉庫,土門拳記念館,本間家旧本邸の3か所のみとなりました。

酒田市から「えさし藤原の郷」まで行くには,出羽山地,奥羽山脈を横切る必要がありますが,標高1,626メートルの栗駒山がそびえるなど,東に向かって走る道路がないのです。そこで,一旦,日本海側を由利本荘市まで北上して,そこから,横手市を経由して北上市へ行くことになるのです。つまり,山形県から県境をまたぎ,秋田県に入ることになります。
私は,東北地方で,これまで最もなじみのなかった秋田県に行こうと,昨年2024年10月17日から10月19日にかけて,旅をしました。このとき,男鹿半島,角館,田沢湖,大仙市,秋田市とまわったので,秋田県の主だったところへは行きました。だから,ほとんどの場所は知っているはずなに,なぜか,今でも秋田県が身近なものに思えないのです。その理由は,由利本荘市に行っていないからです。
テレビの「路線バス乗り継ぎの旅」のような旅番組で,よく出てくるのが由利本荘,という地名です。そこで,私には,由利本荘こそが秋田,なのです。しかし,このときの旅では,私は由利本荘市には行けませんでした。

今回は,何とか由利本荘市を通ったのですが,通ったとはいえ,かすっただけでした。とはいえ,私がこれだけこだわる由利本荘市で何かを見たいというわけでもありませんし,由利本荘市のどこかに行きたいというわけでもありません。なぜか気になるのです。
途中,「ふれあいプラザ・ぷれっそ」という道の駅で,昼食をとりましたが,実は,ここも由利本荘市なのでした。といっても,今の私には,まだ,由利本荘市に行ったという実感がありません。私にとって,由利本荘市というのは何なのでしょうか?
ちなみにこのエキゾチックな地名の由来は
  ・・・・・・
「由利」は,古代の地名に「由理郷」があり,これが後に「由利郡」となったとされます。古書には「百合」「油理」「油里」「由理」など様々な表記が見られ,その語源については諸説あり,特に,百合の花に由来する説が有力です。由利原一帯は山百合が群生する地域で「百合原」とよばれるほどでした,鎌倉時代に「由利氏」という豪族が存在し,郡名を姓にしたことからも地名の古さがうかがえます。
「本荘」という地名は,古代の荘園に由来するとされます。江戸時代には本荘藩が立藩し,その藩名が地名として定着しました。本庄藩は本荘城を中心に栄え,藩政の拠点として地域の呼称が広まりました。
そして,2005年(平成17年)に本荘市と由利郡の矢島町,岩城町,由利町,西目町,鳥海町,東由利町,大内町が合併したとき,新市名を,旧市名「本荘」と郡名「由利」を組み合わせて「由利本荘市」としたのです。
  ・・・・・・

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【Summary】
I attended the Mayuko Kamio & Mami Hagiwara Duo Recital at Nagoya’s Munetsugu Hall on December 6, 2025. Their program ranged from Sinding and Grieg to Elgar, Rachmaninoff, and a stunning “Zigeunerweisen.” Kamio’s powerful, resonant Stradivarius tone and exceptional technique stood out. Encores were Gluck/Kreisler’s “Melody” and Bazzini’s “Dance of the Goblins.”

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 2025年12月6日,名古屋の宗次ホールで, 神尾真由子&萩原麻未 デュオ・リサイタルを聴きました。
 曲目は,前半がシンディングのヴァイオリンとピアノの組曲「古い様式で」,グリーグのヴァイオリン・ソナタ第3番という技巧的な曲,後半がエルガーの「愛のあいさつ」,クライスラーの「愛の悲しみ/中国の太鼓」,ラフマニノフのヴォカリーズ,リムスキー・コルサコフの「熊蜂の飛行」,マスネのタイスの瞑想曲,そして,最後が特筆すべきすばらしい演奏のサラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」でした。
  ・・・・・・
 ヴァイオリンの神尾真由子さんは,2007年の第13回チャイコフスキー国際コンクール第1位,ニューヨークタイムズ紙で「聴く者を魅了する若手演奏家」「輝くばかりの才能」と絶賛されました。使用楽器は宗次コレクションより貸与された1731年製ストラディヴァリウス「ルビノフ」(Rubinoff)ということです。
 ピアノの萩原麻未さんは,2010年の第65回ジュネーブ国際コンクール第1位だそうです。
 私は,たびたびーケストラの演奏会によく行きますが,こうした小規模の演奏会も好きで,聴きたいものがあるときに出かけます。音楽は,こころを豊かにするので,大好きです。
  ・・・・・・

 これまで,多くのヴァイオリニストの演奏を聴きましたが,気になる存在でありながら,なかなかその機会がなかったのが神尾真由子さんでした。それがやっとかなったのが,2025年1月11日。広上淳一指揮のセントラル愛知交響楽団の定期演奏会で,曲目はチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲でした。今回は,狭い会場での室内楽,ということで,また,別の楽しみでした。
 私は,神尾真由子さんのヴァイオリンの特徴は,技巧の冴えと音の存在感にあると思っています。音が太く伸びがすごいのです。
  音の太さと伸びは,神尾真由子さんが1735年製のグァルネリ・デル・ジェス( Giuseppe Guarneri del Gesù)を弾いていたころ,「地響きのようなパワーがある」「太くよく鳴る」と語っていたということで,自覚があるようです。その後は,先に書いたように,「ルビノフ」を使用していて,これもまた,深みのある音色で知られているのだそうです。また, 技巧面では,ザハール・ブロンやドロシー・ディレイといった名教師に学んで身につけた圧倒的なテクニックと情熱的な表現力という裏づけがあり,まさに「火と水を操るヴァイオリン」です。
 なお,アンコールは,グルック作曲クライスラー編曲の「メロディ」とバッツィーニ(Antonio Bazzini)の「妖精の踊り」(La Ronde des Lutins)2曲でした。これがまたよかった。
 楽しい土曜日の午後をすごすことができました。

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Cold Moon 2025.

早朝の伊吹山と「コールドムーン」と新幹線です。
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【Summary】
Meiji-mura in Inuyama preserves over sixty Meiji-era buildings, including the Imperial Hotel entrance and historic residences. Founded in 1965 to save disappearing architecture, it now offers cultural experiences like beef hotpot. Despite snow, the visit was enjoyable, and the museum continues costly preservation efforts on its vast grounds.

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 博物館明治村は,犬山市にある日本最大級の野外博物館で,明治時代の建築や文化を体感できる場所です。
 建築家の谷口吉郎さんは,1940年(昭和15年),「鹿鳴館」が老朽化で取り壊されるのを目の当たりにし「このままでは明治の記憶が消えてしまう」と感じ,その想いに共鳴した名古屋鉄道の副社長だった土川元夫さんと,戦後の高度経済成長で次々と姿を消していく明治建築を救うため,保存と公開の構想を立ち上げました。]。1965年(昭和40年),入鹿池のほとりの自然豊かな丘陵地に,札幌電話交換局,京都聖ヨハネ教会堂,森鷗外・夏目漱石の旧居など15件の建物から明治村はスタートしました。
 現在は,フランク・ロイド・ライト設計の帝国ホテル中央玄関など,全国から移築・復原された60棟以上の歴史的建造物が並んでいます。また,牛鍋やコロッケなど,明治の味を楽しむこともできます。また,ロケ地としても有名で,「花子とアン」「ごちそうさん」などNHK朝の連続テレビ小説や映画の撮影にも使われています。
 ということで,敷地も広く1日楽しめるところなのですが,近いが故,私は,できたころに行っただけで,その後は訪れることもありませんでした。

 入園料の割引券をもらったこともあり,せっかくだからと,2025年12月4日に行ってみました。この日は,突然やって来た寒波で寒く,こんな日に訪れる人もいないだろうと,人混みの嫌いな私には好都合だなあ,と思いました。近づくにつれて雪が降りだしたのには驚きました。しかし,お昼間は天気も回復し,紅葉に雪景色が混じり,むしろとても美しい風景となりました。ただし,予想に反して,けっこう多くの入園者がいました。
 若いころとは違って,いろいろな知恵が増しているので,とても楽しめました。明治村だけでないのですが,日本中を旅していて思うのは,明治時代の建物はどれも美しく,手が込んでいて,すばらしいということです。世界に追いつき追い越せと一生懸命だったころの人々の矜持を感じます。

 一番の楽しみは,牛鍋を食したことでした。以前来たときは,ぜいたくだなあと思って断念したのですが,一度は食べてみたいと思っていたことが実現できました。
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 明治村の「大井牛肉店」は,神戸にあった建物を移築した店内で,文明開化の香り漂う本格牛鍋を楽しめます。牛鍋は,今のすき焼きの原型とも言える料理で,鉄鍋にまず砂糖を敷いて牛肉を焼き,そこに割り下をかけて味を染み込ませるという甘めの味付けが特徴です。飛騨牛に野菜,玉子,ご飯,漬物,デザートと味わうことができます。
  ・・・・・・
 江戸時代まで,日本では仏教の影響もあって肉食がタブーとされていましたが,幕末から明治にかけて外国人居留地を中心に牛肉の需要が高まりはじめました。そして,明治政府は1871年(明治4年)に肉食を奨励しはじめ,牛鍋は一気に文明開化の象徴として広まりました。
 「大井牛肉店」は,もともとは神戸・元町にあった牛肉屋兼牛鍋屋で,1887年(明治20年)ごろに建てられたものです。創業者の岸田伊之助は,神戸の外国人相手に牛肉を売るためにこの店を開きました。建物は洋風の意匠が特徴で、コリント式の柱や半円アーチの窓など、当時の神戸の外国商館を思わせるデザインですが,玄関には「むくり破風」の和風意匠もあり,和洋折衷の時代の空気を感じさせる造りとなっています。

 開園後随分と経っているのですが,古さは感じませんでした。しかし,これだけ多くの古い建物は,おそらく維持がたいへんだろうなあ,と思いました。
 公益財団法人 明治村が運営し,文化財の保存と公開を目的に活動しているそうです。
 明治村の敷地は約100万平方メートルもあり,建物は60件以上の建物で,学芸員や建築職員など,専門知識を持ったスタッフが日々,建物の修復や資料の保存に取り組んでいるそうですが,建物の老朽化や気候変動の影響で,修復や保全のコストは年々増えているようです。

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Cold Moon 2025.

今年最後の満月です。
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【Summary】
Before Tokugawa-era Battle of Okehazama has several proposed sites, including Toyoake’s “Legendary Battlefield,” believed to be Imagawa Yoshimoto’s final camp. Visiting on December 1, I found a solemn atmosphere. Nearby Kōtoku-in Temple, relocated from Mt. Kōya in 1894, preserves Yoshimoto’s grave. Its autumn scenery and quiet setting were deeply calming.

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 2025年11月11日に,現在の名古屋市緑区にある桶狭間古戦場公園に行ったことはすでに書きました。
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 有名な桶狭間の戦いは,1560年(永禄3年)に起きた,戦国時代を代表する大逆転劇。
 この戦いで,尾張の若き武将・織田信長が,2万5千人ともいわれる大軍を率いて攻めてきた駿河の大名・今川義元を,わずか数千の兵で迎え撃ち,奇襲によって討ち取った戦いで,この勝利で,織田信長は天下統一への第一歩を踏み出すことになりました。
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 この桶狭間の戦いの古戦場は,複数の候補地があって,定まっていません。
 このうちで,もっとも有力だとされているのが,前回私が行った桶狭間古戦場公園で,「信長公記」の記述や地形的な考察から,こちらを本戦場とする研究者も多くいます。もうひとつが,豊明市の桶狭間古戦場伝説地です。ここは,今川義元の本陣跡とされる場所です。1938年(昭和13年)に国の史跡に指定され,地元では今川義元終焉の地として大切にされています。
 そこで,今回,12月1日に,こちらの場所に行ってみました。桶狭間古戦場公園と違って,厳かな雰囲気がただよっていました。

 有名な桶狭間の戦いがあったところということならば,立派な博物館でも作れば観光資源になるのに,そうなっていないところが,愛知県らしいというか。その理由のひとつは,桶狭間古戦場公園は名古屋市で,桶狭間古戦場伝説地は豊明市,ということもあるのでしょう。いずれにしても,公共交通機関で行くとすると,この辺りは,狭間という名にふさわしく,土地の起伏がかなり激しくて坂ばかり。ということで,歩くのが大変だし,車で行くとなると,今度は,まったく駐車場が整備されていません。来れるものなら来てみろ,という感じがします。
 まあ,この素朴さがいいともいえます。私は,歴史学者でもなければ,研究者でもなく,単に,暇な不良老人が1日を愉快にすごせる人の少ない場所を探しているにすぎません。

 桶狭間古戦場伝説地から道路をへだてて,高徳院という立派な寺がありました。
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 高徳院は,高野山真言宗に属する由緒ある寺です。
 もともとは,高野山上にあった寺院で,高貴徳王菩薩を本尊として創建されたのがはじまりです。弟子の智泉大徳に与えられたと伝わっています。明治時代,高野山の寺院整理の流れの中で廃寺の危機なり,東京・遍照院の諦念和尚(ていねんおしょう)が法縁をもって現在の豊明市に本尊や仏具を移し再興,1894年(明治27年)に現在の地へ移転したものです。
 この場所は桶狭間の戦いで今川義元が本陣を構えたとされる地ということで,境内には今川義元の仏式墓所や重臣・松井宗信の墓碑もあります。 竹林と紫陽花の名所として人気ということで,この時期は,紅葉がとても美しく,こころが和みました。

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【Summary】
I visited Koriyama Castle’s historic sites, including the retro Joushi Kaikan and the goldfish-themed shopping street. Despite limited time, I enjoyed the nostalgic townscape and explored the Machiya Monogatari Museum, a former 1924 geisha house. Koriyama’s compact, walkable castle town was charming, and I hope to return for a longer visit.

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 大和郡山城の最後は,追手門から入ったところにある城址会館でした。
 城址会館は,1908年(明治41年)に奈良公園内に建てられた奈良県初の県立図書館を,1970年(昭和45年)に現在の郡山城跡に移築されたものです。
 図書館の役割を終えた後は,さままざまな用途に使われていましたが,耐震などの問題があって,現在は保存されているだけのようです。建物自体が和洋折衷のレトロで荘厳な雰囲気をまとっていて,土日のみ見学可能ということだったので,中に入ることができました。
 館内に案内をする人がいて,ていねいな説明をしてもられました。

 大和郡山の城下町は,近鉄の郡山駅とJRの郡山駅に挟まれたところに集中しています。
 この日,あまり時間がなかったので,このあと,大和郡山の城下町をゆっくり散策することができなかったのが残念でしたが,せっかくなので,近鉄の郡山駅まで行く途中で,金魚ストリートと名づけられたやまぎまち商店街を歩きました。
 金魚ストリートは,金魚づくしのユニークな観光スポットで,実際に金魚が泳ぐ水槽が商店街のあちこちに設置されていて,改札型の水槽や自販機型の水槽,金魚カフェなど,「生きた金魚図鑑」のような空間になっています。
 大和郡山市の市街地は,昭和の時代に舞い戻ったようなところで,道も狭く,車社会では不便を感じるところですが,歩くには楽しいところでした。

 最後に,「町屋物語館」というところに寄ってみました。
 「町家物語館」は,旧川本家住宅を活用した歴史的建築です。ここは,かつての遊郭建築を今に伝える貴重な場所として,保存公開されています。
 1924年(大正13年)に建てられた木造3階建てで,当時は「川本楼」という名の遊郭でした。1959年(昭和33年)の売春防止法施行で廃業した後は下宿として使われていました。
 2018年(平成30年)に「町家物語館」として一般公開がはじまりました。内部には,意匠を凝らした欄間や数寄屋造りの小部屋,そして,遊郭建築ならではの造形美が残されています。
 大和郡山の城下町は半日程度,きままに散策するにはとてもすてきなところなので,また,次回,今度は,もう少し時間をとって来てみたいと思いました。

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【Summary】
The visit to Yamatokoriyama Castle covered its origins from the medieval Ganjin-no-shiro, major expansions under Toyotomi Hidetsugu and Hidenaga, and the reuse of stones such as the “upside-down Jizō.” The tour included the Bishamon Bailey’s Yanagisawa Library and the restored tenshudai with clear views toward Heijō Palace and Nara’s mountains.

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 大和郡山城に着きました。
 大和郡山城は,もともとは平安時代末期に郡山衆が築いた雁陣之城(がんじんのしろ)が前身です。名前の由来は,鎌倉時代後期ごろに郡山の地にいた土豪たちが雁行(がんこう)状,つまり,雁が飛ぶ形のなV字形の隊列で居館を構えていた(=雁陣)ことにあるそうです。やがて,その地に築かれた城が雁陣之城とよばれるようになりました。
 戦国時代に,筒井順慶が織田信長の命で大規模な改修を行い,1580年(天正8年)に本格的な城郭として整備がはじまり,そののち,1585年(天正13年)に豊臣秀吉の弟・豊臣秀長が入城し,大和,紀伊,和泉の3国100万石を治める大名として,郡山城をその拠点に選びました。
 豊臣秀長は城をさらに拡張し,春日大社の水谷川から大石を切り出したり,寺院の石仏や墓石を石垣に転用したりして,威容を整えました。このように,天守台の石垣には転用石がたくさん使われていて,特に有名なのが「逆さ地蔵」という,地蔵だった石が上下逆に石垣に組み込まれているもので,現在も見ることができます。ほかにも,平城京羅城門跡の礎石が使われているそうですが,これは,堀の下の部分にあって,船を浮かべてそこから見るしかないということでした。

 大和郡山城の一角,毘沙門曲輪(びしゃもんくるわ)に,柳沢文庫(やなぎさわぶんこ)があったので,入ってみました。
 柳沢文庫は,地方史専門の図書館・資料館で,もともとは郡山藩主だった柳沢家から寄贈された古文書や典籍をもとに,1960年(昭和35年)に設立された施設です。、
 建物自体は,旧柳沢邸を活用した近代和風建築で,庭園も美しく整備されていました。小さな施設でしたが,貴重なものが多く展示されていました。
 その次に,天守台に上ってみました。
 大和郡山城の天守台は城の中心に位置する高台で,かつて天守が建っていた場所です。
 昔の天守は,筒井順慶の時代に望楼型3重の天守があったとされていて,その後,豊臣秀保によって5重6階の巨大天守が築かれたという説もあるそうですが,実際はよくわからないということです。
 豊臣秀保(とよとみひでやす)は,豊臣秀吉の姉・瑞龍院日秀(ずいりゅういんにっしゅう)の子,つまり,豊臣秀吉の甥にあたる人物で,幼名は辰千代や御虎(おとら)ともよばれていました。豊臣秀長の養子となり,豊臣秀長の死後にその遺領を継いで大和・紀伊・和泉の3国100万石の大名となり,官位が中納言ということで,権大納言(ごんだいなごん)に任じられ大和大納言(やまとだいなごん)という尊称でよばれた豊臣秀長に対して,大和中納言ともよばれていました。しかし,1595年(文禄4年)に17歳で急死してしまいました。
 現在の天守台は,2013年から4年間かけて石垣の修復と展望施設の整備が行われ,2017年に完成したものです。天気がよく,透明度が高かったので,この日は,展望施設からは,平城京の大極殿,薬師寺,若草山まで見渡すことができました。

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【Summary】
In October 2025, I stopped at Koriyama in Nara, inspired by the 2026 Taiga drama on Toyotomi Hidenaga. I visited Hidenaga’s grave, the “Dainagon-zuka,” then walked to Yamatokoriyama Castle. On the way, I explored Eikeiji Temple, the Yanagisawa clan’s former bodaiji with historic gates and statues.

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 2025年11月29日大和郡山市へ行きました。
 10月11日に京都駅から近鉄電車で八木西口駅まで行きましたが,途中で,郡山駅を通ったとき,そういえば,大和郡山市には行ったことがないなあ,と気づきました。2026年のNHK大河ドラマは「豊臣兄弟!」。ということもあり,主人公の豊臣秀長の居城が大和郡山城ということで,ぜび,今度は,郡山駅で降りてみようと思いました。
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 「豊臣兄弟!」は,豊臣秀吉とその弟で「天下一の補佐役」と称された豊臣秀長の兄弟愛と絆を描く物語です。豊臣秀長の視点から,戦国の荒波をどう乗り越え,兄を支え続けたのかが描かれます。
 豊臣秀吉の暴走を抑え,政権を支えた豊臣秀長の冷静な知略と人間力,兄弟の絆と葛藤,そして,天下統一への道のりを,高取城や大和郡山城など,奈良ゆかりの地を舞台に描きます。
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 豊臣秀長はあまりなじみのない名前ですが
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 豊臣秀長は,戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将で,豊臣秀吉の実弟(異父弟,または同父弟とする説もあります)です。豊臣秀吉の天下統一を陰で支えた名参謀で,政治・軍事の両面で大きな功績を残しました。
 温厚で誠実な性格で知られ,豊臣秀吉からの信頼も厚く「大和大納言」として知られるほどの高位にまで昇進。大和,紀伊,和泉の三国と河内の一部を領有し,約110万石の大名となりました。
 また,千利休とともに政権の要として機能し,内政,外交の調整役としても活躍。また,徳川家康や伊達政宗といった外様大名との関係構築にも貢献しましたが,1591年(天正19年),52歳で病没しました。
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 豊臣秀長の死後,豊臣政権のバランスが崩れ,豊臣秀吉の晩年の暴走を止める者がいなくなったともいわれ,「あと10年生きていれば…」と惜しまれる存在です。

 はじめて来たので,郡山駅を降りて,どこへ行けばよいのかわかりませんでした。駅前にあった地図をみて,ともかく,豊臣秀長の町ならば,はじめに,豊臣秀長の墓に行ってみようと思いました。殿様の墓がきちんと保存されていれば,その町で,その時代も今も,そこを治めていた殿様が慕われていたかがわかる,というのが私の持論です。
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 豊臣秀長の墓は,「大納言塚」(だいなごんづか)」といい,近鉄電車の郡山駅から徒歩約15分ほど西南に行ったところにあります。高さ約2メートルの五輪塔で,地輪には秀長の戒名「大光院殿前亜相春岳紹栄大居士」が刻まれています。
 1591年(天正19年),豊臣秀長は郡山城内で病没し,ここに葬られました。
 墓は,もともとは豊臣秀吉が建立した大光院という菩提寺が管理をしていました。しかし,豊臣家滅亡後に京都へ移転してしまい,墓所は荒廃してしまいましたが,1777年(安永6年)に地元の僧や町民の手で再建されました。
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 次に,大和郡山城へ行こうと思いました。その途中に永慶寺(えいけいじ)という立派な寺がありました。
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 豊臣秀長の死後,養子の豊臣秀保が継ぎましたが早世し,増田長盛に代わりましたが,関ヶ原の戦いで改易され,幕府直轄領になりました。
 1615年(慶長20年),水野勝成が6万石で入封し,大和郡山藩が立藩しました。その後,松平忠明,本多政勝などを経て,1724年(享保9年)に柳沢吉里が甲府から15万石で入封し,以後,明治維新まで柳沢家が6代にわたって治めました。
 その柳沢家の菩提寺が永慶寺です。
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 黄檗宗の寺院である龍華山永慶寺は,本尊が釈迦三尊。1705年(宝永2年),柳沢吉保が甲府に創建し1724年(享保9年)に大和郡山へ移転しました。以後,柳沢家の菩提寺として代々の藩主の供養を担ってきました。
 山門は,豊臣秀長時代の郡山城の南御門を移築したものです。
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 立派な境内には,柳沢吉保とその正室・定子の木造坐像が安置された「香厳殿」,さらに,俳人・高浜虚子が詠んだ句碑などがありました。

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【Summary】
The 706th Kyoto Symphony Orchestra concert featured lively works by Rossini and Haydn, with Haydn’s “Bear” Symphony humorously shaped by Spinosi’s playful ending. A well-timed “bear” sound from the audience added surprise. Afterward, a JR Tokai–Kyokyo collaboration event with orchestra members offered enjoyable behind-the-scenes stories.

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 京都市交響楽団第706回定期演奏会。前半のロッシーニの歌劇「アルジェのイタリア女」(L'italiana in Algeri)序曲とハイドンの交響曲第82番「熊」(L'Ours)は似た雰囲気の曲です。ロッシーニの歌劇「アルジェのイタリア女」序曲は頻繁に演奏される曲です。ハイドンの交響曲第82番「熊」も,ときどき耳にします。楽しい曲です。
 ハイドンの交響曲第82番「熊」は,1786年に作曲された「パリ交響曲」6曲のうちの1曲です。当時のパリにコンセール・ド・ラ・ロージュ・オランピック(Le Concert de la Loge Olympique)という大編成のオーケストラがあって,このオーケストラの依頼で作曲されました。タイトルの「熊」はハイドン自身がつけたものではなく,第4楽章の冒頭に登場する低音のうなり声のようなモチーフがまるで熊使いの音楽のように聞こえることから自然とそうよばれるようになったそうです。
 私は,ウィーンに行ったとき,ハイドンに関する史跡をずいぶん見て,さらに,ウィーン楽友協会で,パーヴォ・ヤルヴィさんが指揮をしたドイツ・カンマーフィルハーモニー管弦楽団でハイドンの交響曲を聴いて以来,ハイドンの交響曲を聴くたびにウィーンにいるような気持ちになって,満ち足ります。

 この曲もまた,指揮者ジャン・クリストフ・スピノジさんの味つけで,普段聴いているものとは違いました。特に,曲の最後,わざわざお客さんの拍手のフライングを誘発するような,そんな演出でした。これは,通常の演奏会で不快なるフライングとは全く異なるものでした。一体,いつ終わるのか,そう思うような繰り返しが何度も続き,とても愉快になりました。このときの様子は,探してみると,YouTubeにhr交響楽団(hr-Sinfonieorchester)を演奏したものがありました。まさに同じ感じだったので,これは,指揮者が意図したものでしょう。でも,今回は,それよりも最後の繰り返しが多かった。
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 「熊」の終楽章は,終わりそうで終わらない感じがします。この第4楽章「フィナーレ・ヴィヴァーチェ」は,ソナタ形式で書かれていて,前打音を伴う低音のモチーフがずっと続きます。まるで熊がのっしのっしと踊ってるみたいなリズムで,聴いてると「もう終わるかな?」と思った瞬間に,また元気よく再開します。ハイドンは,ユーモアの達人でもあって,聴き手の予想を裏切るのが得意でした。だから,「終わるぞ〜と思ったらまだだよ〜!」という音楽のいたずらを仕込んでるのかもしれません。
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と,当時のサロンで,貴族が,食事を楽しみながら音楽を適当に聴いていて,エッーと驚くさまが想像できます。だから,これはこれでいいのです。

 それにしても,曲が終わったところで,観客の誰かがクマの鳴き声を,それもまた,いいタイミングで発したのは,これはハプニングだったようです。日本中がクマの出没で慄いているときに,コンサート会場にまでクマが出没するとは…。この叫びはブーイングだったという噂も。

 この演奏会のあと,「音楽と珈琲と語らいのひととき」というJR東海×京都市交響楽団コラボ企画があって,参加しました。これは,前田珈琲京都コンサートホール店で行われたのですが,演奏を終えたばかりの団員さん,宅間斉さん,木下知子さん,黒川冬貴さん,藤本茉奈美さんの4人が出演されました。
 いろいろな裏話を聞くことができて,とても楽しい時間となりました。
 「京響」は最高です。大満足の演奏会でした。

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