しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場・47都道府県を制覇し,南天・皆既日食・オーロラ,空の3大願望を達成した「不良老人」の日記

April 2026

DSC_5530DSC_5534DSC_5537

【Summary】
On April 3, 2026, I took a day trip to the Shima Peninsula as a preliminary survey for future hiking by train. Driving to Kihoku, I visited Shiobama Sanmura Square, expecting scenic coastal views, but found only a fishing port, realizing my misunderstanding before heading home.

######
 先に,2026年4月22日に行った松坂市のことを書きましたが,その少し前の4月3日,ドライブを兼ねて,日帰りで志摩半島へ行きました。遠いところにはずいぶん行っているのですが,むしろ,近場を知らず,特に,三重県は通り過ぎることはあれど,これまで,桑名市や四日市市の旧東海道を歩いたり,ずっと気になっていた尾鷲市に行ったくらいで,それ以外のところは,子供のころに父親に連れられて毎年行っていた伊勢神宮や二見浦のほかには知りませんでした。
 そんなわけで,この先,気候のよいときを選んで,近鉄電車で,気の向くところで降りて,ひと駅かふた駅くらいをハイキングしようと思っているのですが,その予備調査,ということでもありました。

 まずは,高速道路で紀北町まで行くことにしました。 どうして紀北まで行こと思ったのかというと,塩浜山村広場というところが,いつか見たネットに紹介してあって,ずっと,気になっていたからでした。自宅から約3時間です。
 蟹江インターチェンジから東名阪自動車道に乗って関ジャンクションまで行き,そこから伊勢自動車道で勢和多気ジャンクションまで,そこで近畿自動車道紀勢線に乗り換えて,紀伊長島インターチェンジで降りました。 途中,桜が満開で,美しい風景が続いていました。伊勢自動車道から南はとても空いていました。紀伊長島インターで降りてから,そのまま一般道を少し進んで,JRの紀伊長島駅に着きました。紀伊長島駅はさびれた無人駅でした。
 以前,列車で紀伊半島を1周しようと特急「南紀」でこの辺りを通ったことがありました。列車の窓から見える海岸の景色はすばらしいもので,いったい,どんなところなのだろう,とずっと思っていました。とはいえ,実際,車で走ってみると,道路は狭く,また,海岸に沿って道路があるわけでもないから,このごろは,こうした風景は,列車の窓から見るのが一番だと思うようになりました。
 
 塩浜山村広場は,紀伊長島駅からは数キロメートルほど戻ったところでした。しかし,行ってみて驚きました。
 私は,とんだ勘違いをしていたのでした。塩浜山村広場からは,志摩半島のリアス式海岸が美しく眺められると思い込んでいたのです。しかし,単なる漁港でした。どこかに車を停めて,30分ほど山に登ると高台に行くことができるようでしたが,車をどこに停めればよいのか,皆目わかりませんでした。
 まあ,どんなところなのかわかってよかったわい,と納得することにして,そのまま,さまざまなところに寄りながら,自宅をめざして戻ることにしました。


◇◇◇


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

◆◆◆
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_5917DSC_5976DSC_6064DSC_6048DSC_6007

【Summary】
In Matsusaka,I visited historic sites including Gojoban Yashiki, Harada Jiro Former Residence, and Former Ozu Seizaemon House. These reflect samurai and merchant life. The area, also linked to Mitsui Takatoshi, prospered as a merchant town due to few resident samurai and active commerce.

######
 松阪城跡を出て,「旧長谷川治郎兵衛家に響く弦の調べ・歴史を紡ぐ音~ヴァイオリンとヴィオラの共演~」が行われる旧長谷川治郎兵衛家まで行く間に,松阪市の見どころを巡ることにしました。
 はじめに行ったのが,御城番屋敷(ごじょうばんやしき)でした。
  ・・・・・・
 現在の松阪市は,江戸初期には紀州藩領となり,支城として維持された松阪城の警備を担当するため,紀州藩士10家族が派遣され,1853年(嘉永6年),そのために建てられたのが御城番屋敷でした。
  ・・・・・・
 御城番屋敷には,明治以降も子孫が住み続け,町並みが破壊されずに残っています。1戸のみ内部公開していて,武士の生活空間が見学できました。

 次に訪れたのが原田二郎旧宅(はらだじろうきゅうたく)でした。
  ・・・・・・
 原田二郎旧宅は,松阪の豪商・原田二郎の邸宅で,明治期に建てられ,松阪の豪商文化を象徴する,静かで気品ある近代和風邸宅です。御城番屋敷とは対照的に,明治以降の松阪商人の財力・美意識・生活文化を体感できる場所となっています。
  ・・・・・・
 武家屋敷でも町家でもない豪商の近代和風邸宅という点が魅力で,書院造を基調とした上質な和風建築です。
 その次に訪れたのが,旧小津清左衛門家(きゅう・おづ せいざえもんけ)でしたが,その途中で昼食をとりました。
 松阪といえば松阪牛。「牛銀」という店が有名ですが,私はひとりだったので,近くにあった「牛銀」が経営する「肉うどん青柳」という店に入りました。後で聞くところでは,「牛銀」に隣接する「洋食屋牛銀」はひとり旅でも昼食がたのしめるということだったので,次回行くときは利用しようと思いました。

 さて,旧小津清左衛門家です。
 小津家は,伊勢商人の代表格で,江戸で紙問屋として成功し,現在の小津和紙へと家系は続いています。
  ・・・・・・
 旧小津清左衛門家は,江戸時代に伊勢商人として活躍した小津家の本宅で,17世紀後半に建てられたとされる町家です。
  ・・・・・・
 江戸期の町家建築がほぼ完全な形で残る点が最大の魅力です。旧長谷川治郎兵衛家が豪商の大規模町家なら,旧小津清左衛門家は江戸進出を果たした伊勢商人の原点を感じる町家です。
 松阪市は,また,三井家発祥の地です。
 旧長谷川治郎兵衛家,旧小津清左衛門家,原田二郎旧宅と並べると,三井家発祥の地は松阪商人のはじまりそのものとして位置づけられます。
 三井家発祥の地は,江戸時代初期の三井高利を生んだ三井家の本宅跡で,現在は記念碑と説明板が整備された史跡です。三井高利は三井財閥の祖で,江戸で「越後屋」を開き現金掛値なしの画期的商法を導入し,のちの三越・三井財閥へとつながる巨大経済圏を築いた人物です。

 松阪の地が商人の町になったのは,武士が少なく商人が多い町だったことから,藩主が常駐せず,城代支配で武士人口が少なかったため,商業活動が活発になったことが理由といわれます。

DSC_5907DSC_5919DSC_5931DSC_5954DSC_5959DSC_5967DSC_5975DSC_5986DSC_5990DSC_5992DSC_6061DSC_6062DSC_5803DSC_5805DSC_5824img20260417_13073848


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

◆◆◆
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_5848DSC_5840DSC_5890

【Summary】
Motoori Norinaga, an Edo-period scholar from Matsusaka, transformed the study of the Kojiki, previously unread due to its archaic language and low status. Through his 44-volume Kojiki-den, he revived it as a central Japanese classic. His study, “Suzunoya,” symbolized purity, Shinto spirit, and his unified scholarly identity.

######
  天守台の周りには,松阪市立歴史民俗資料館と本居宣長記念館,そして,本居宣長が実際に暮らしていた邸宅を移築した「鈴屋」(すずのや)がありました。 
 松阪市立歴史民俗資料館は,1978年(昭和53年)に開館した,松阪市の歴史,民俗,商人文化を紹介する博物館です。建物は,1912年(大正元年)に建築された旧飯南郡図書館です。
 1階は,松阪商人の歴史資料が展示され,2階は小津安二郎記念館となっています。
  ・・・・・・
 小津安二郎は,1903年に生まれ1963年に亡くなった日本映画を代表する映画監督です。「晩春」「麦秋」「東京物語」など,家族の姿を静かに深く描いた作品で知られ,サイレント映画から戦後まで約35年にわたり54本を監督しました。
  ・・・・・・
 小津家はもともと 伊勢商人の名家・小津新七家の分家で,小津安二郎自身も,1913年に松阪へ移住し,少年期を松阪で過ごし,松阪は小津安二郎の原風景と言える土地です。

  ・・・・・・
 本居宣長は,1730年に生まれ,1801年に亡くなった,江戸時代中期から後期の国学者で,「古事記伝」を著して日本古典研究を決定的に変えた人物です。現在の松阪市出身で,町医者として生涯を送りながら,国学を体系化しました。
  ・・・・・・
 荷田春満・賀茂真淵・平田篤胤と並ぶ国学の四大人のひとりで,「古事記伝」44巻を35年かけて完成 しました。33歳のとき,松阪を訪れた賀茂真淵と出会い,これが「古事記」研究への決定的な転機となりました。
 書斎「鈴屋」(すずのや)は,移築されて現在も松阪城跡に残り,見学することができます。本居宣長が実際に暮らし,研究した書斎で,中二階の四畳半で,階段が取り外し式という独特の構造をもっています。「鈴屋」というのは,鈴が本居宣長の学問,精神の象徴だったからで,本居宣長自身が深い意味を込めて名づけました。鈴は,①「すずし=清らかで澄んだこころ」とし,本居宣長は「古典を読むには心を澄ませることが大切」と考えました。②「神前の鈴=神道的な清浄の象徴」とし,本居宣長は,古代の神道を重んじ「古事記」や「日本書紀」に宿る古のこころを探ろうとしました。本居宣長にとって,鈴は 古代のこころへ通じる清めの象徴でした。③「鈴屋大人」(すずのやのうし)という号を自ら名乗った本居宣長は,自分の雅号として「鈴屋大人」(すずのやのうし) を用いました。そこで,「書斎の名=自分の学問の名=自分自身の名」という一体化した世界観を持っていました。

 本居宣長が「古事記伝」を書く18世紀まで,「古事記」はまともに読める人がほとんどいなかったというのが実態でした。存在は知られていましたが,内容は理解されていませんでした。本居宣長は,そこを根本から変えた人物です。
 「古事記」が読まれなくなっていたのは,言語が古すぎて読めなかったというのが理由のひとつでした。特に問題だったのは万葉仮名の表記と文法の古さでした。
 ふたつめは,「日本書紀」の方が権威があったので,学問の中心は「日本書紀」で「古事記」は周縁に追いやられていたことがあげられます。そのため,本居宣長以前に「古事記」を本気で読んだ人はほぼおらず,本居宣長は 「「古事記」は久しく読まれず荒れたる書なり」と書いています。
 本居宣長によって,はじめて「古事記」が読める形になりました。その結果,「古事記」は「忘れられた書」から「日本古典の中心」へ復活しました。私が今,「古事記」を楽しめるのも本居宣長のおかげなのです。

DSC_5820DSC_5838DSC_5844DSC_5863DSC_5865DSC_5867DSC_5869DSC_5873DSC_5876DSC_5887DSC_5892DSC_5896DSC_6001


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

◆◆◆
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_6163DSC_5807

【Summary】
I climbed the tenshu base of Matsusaka Castle and looked out over the city. From there, I could see the layout of the former castle town and imagine its history. The view gave me a clear sense of how the town developed around the castle and its enduring historical atmosphere.

######
 多くの人がそうであるように,私も,三重県というと,伊勢志摩,というイメージが強く,ほかの場所のことはあまりよく知りません。家から近いこともあり,桑名市は行ってみたことがあるし,四日市あたりの旧東海道は歩いてみましたが,それ以外の場所は通り過ぎることはあっても,観光をしたことがありませんでした。それでも,松阪市は,松阪牛と本居宣長生誕の地,ということで,どんなところなのかなあと,ずっと気になっていました。
 昨年2025年4月に放送されたNHK「ブラタモリ」で松阪市がテーマで取り上げられました。そこで知ったのは,松阪市は,かつて松阪商人の町だったということで,立派な商家の建ち並ぶ魅力的なところでした。そこで,ぜひ,機会があれば行ってみたいと思うようになりました。そうした折り,2026年4月12日に,松阪市の旧長谷川治郎兵衛家で「旧長谷川治郎兵衛家に響く弦の調べ・歴史を紡ぐ音~ヴァイオリンとヴィオラの共演~」が行われたので,それを機会に,朝から松阪市に行って,街を巡ることにしました。
 ところで,松阪か松坂か? 疑問に思っていたので,まず,松阪か松坂か,について書きます。
  ・・・・・・
 江戸時代の文献や古地図では松坂と書かれているものが多く,江戸期の表記は松坂が一般的でした。 明治以降,地名表記の整理が進む中で,大阪・阪神など阪の字が使われたこともあり,松阪となりました。現在の正式表記は松阪が正しい地名で,1945年(昭和20年)の市制施行時に松阪市と表記が統一され,現在に至ります。
 いずれにしても,読み方は,ともに,まつさか,です。
  ・・・・・・

 名古屋駅から松阪駅までは,近鉄電車の特急を利用しましたが,1時間6分,特急料金込みで2,870円でした。私はさらにひとり席のデラックス車両に乗ったので,320円が追加されました。到着した松阪駅はJR関西本線と共有でした。もともとは,近鉄電車が独占のような形でしたが,近ごろは,近鉄電車の特急と時間がほぼ同じで普通料金だけで行けるJRの快速「みえ」が1時間8分,1,690円で運行しているので,多くの乗客がJRを利用しているようです。私は近鉄電車を利用したのですが,ぜいたくしなければJRのほうがずっとお得です。
 松阪駅で降りて,まず,松阪城跡へ行ってみようと思いました。はじめて来た地はよくわからないので,とりあえず見つけた「豪商のまち松阪観光交流センター」で説明を聞いて,街歩きの地図をもらいました。
 松阪城跡は歩いて20分ほどでした。松阪城跡までの街並みは美しく,歩いていて快適でした。
  ・・・・・・
 梯郭式の平山城・松阪城は,1588年(天正16年)に蒲生氏郷が築いた「石垣の名城」で,蒲生氏郷が会津へ移封後,服部一忠,古田重勝・重治と続きましたが,1619年(元和5年)以降は紀州藩領となりました。
 本丸西隅に三重五階の天守がありましたが,1644年(寛永21年)の大風で倒壊し,その後再建されず,さらに,明治期の失火・破却で建物はほぼ失われてしまいました。
 現在は,天守台,本丸・二の丸・三の丸跡,御城番屋敷,本居宣長旧宅が隠居丸跡に移築されています。
  ・・・・・・
 私は,まず,天守台に登って,松阪市街を眺めました。
 ほとんど観光客もおらず,私好みの静かなところでした。2022年11月に行った高知県檮原町(ゆすはらちょう),先日行った白河市など,日本にはこうした落ち着いた美しい,そして,意外と知られていない小都市があります。住みたいと思える街でした。

img20260416_20235217DSC_5809DSC_5814DSC_5815DSC_5897DSC_5906DSC_5830DSC_5832


◇◇◇


◇◇◇


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

◆◆◆
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

C_2025R3_PanSTARRS_20260417sDSC_2322

【Summary】
In April 2026, two comets approached Earth. The bright MAPS comet disintegrated before perihelion, but PANSTARRS remained visible. Despite light pollution, I observed and photographed it at dawn. Unexpectedly, the ISS and a train of Starlink satellites passed through my field of view, creating a memorable and surprising experience.

######
 2026年4月,明るい彗星がふたつ相次いで地球に接近するという話題がありました。

●マップ彗星 (C/2026 A1 MAPS)
  ・・・・・・
 Alain Maury (San Pedro de Atacama,チリ)の通報によると,2026年1月13日,Florian SignoretはGeorges Attardとともに,チリ・アタカマ砂漠の遠隔操作望遠鏡を使うMAPSサーベイで,0.28m f/2.2 Schmidtアストログラフで得たCCD画像から,拡散した12" のコマのある彗星を発見した。
 小惑星センターのPCCP webpageに公表後,S. Deen(Simi Valley,カリフォルニア州)は,2025年12月18日に遡り,発見前の彗星を明らかに小惑星と認識した画像を,小惑星地球衝突最終警報システム Asteroid Terrestrial impact Last Alert System(=ATLAS)捜索プログラムの0.5-m f/2 Schmidt望遠鏡で得たCCD画像から見つけた。(中略)多くの位置観測者によって彗星状と観測された。
  ・・・・・・
 マップ彗星は,歴史上最も遠くで発見されたクロイツ群の彗星(Kreutz Sungrazers)でした。クロイツ群の彗星とは,太陽に極端に近づく,サングレーザーといわれるもので,軌道の特徴が非常によく似ていることから,かつて存在した巨大彗星が分裂して生まれた破片だと考えられています。有名なクロイツ群の彗星のひとつに,池谷・関彗星(C/1965S1)があります。
 明るくなって,昼間でも見られるかも,といわれたのですが,近日点通過の4月4日前後に消滅してしまい,私は見ることができませんでした。
 なお,この彗星の名前MAPSは,発見者であるアマチュア天文学者Maury,Attard,Parrott,Signoretの4人の頭文字です。

●パンスターズ彗星(C/2025R3 PANSTARRS)
  ・・・・・・
 Yudish Ramanjooloo(ハワイ大学天文学研究所)の通報によると,2025年9月8日UT,HaleakalaのPan-STARRS2 1.8m Ritchey-Chretien反射望遠鏡で得た画像から彗星を発見した。
 1".2から1".3のシーイングでは,非常に拡散した2".1から2".4(半値全幅: FWHM)の頭部が見えるが尾はない。
 R. Weryk(西オンタリオ大学,物理および天文学科)は,9月17.5日UT,R. WainscoatがMaunakeaにある3.6m Canada-France-Hawaii望遠鏡で得た3枚の60秒griバンド画像から,これが明らかに彗星であることを確認したと記した。
  ・・・・・・
 こちらは4等星程度ということだったのであまり期待していなかったのですが,4月中旬から下旬にかけて明け方4時ごろの東の空に見えるということだったので,早起きして写真を撮ることにしました。5年ほど前なら,1時間も郊外に車で走っていって写真を撮るのですが,今や,わざわざ彗星の写真を撮るだけのためにそんな気力もなくなってしまいました。しかし,今どきのカメラは優秀なので,私の住む場所は東側は名古屋市街の明かりでダメなのですが,それでも,まあ,このくらいの彗星なら,経験上,赤道儀で追尾しなくても,1秒程度の露出で何とか写るので,それで満足することにしました。

 2026年4月15日は,彗星の右側に月齢26.8の細い月があって,それを手掛かりにすると探しやすい位置にあり,ピント合わせも容易だったので期待したのですが,曇っていてダメでした。翌4月16日は,昨晩から降りはじめた雨が止むということだったので,午前3時30分ごろに三脚にカメラをつけて,双眼鏡を持って,近くの田んぼのあぜ道に行ってみました。
 予想以上の好天で透明度もよく,南の空にはさそり座,天頂にははくちょう座,など,美しく輝いていました。
 彗星は,東の空低くペガスス座の四角形の真ん中あたりにいるはずなのですが,東の空は街の光で明るいのでまったく星が見えませんでした。しかし,双眼鏡で見ると,容易にぺガスス座のβ星「シェアト」(Scheat)が視野に入ったので,そこから彗星の位置をたどっていって,カメラを向けました。はじめのうちは光度が低く苦戦しましたが,次第に高度が高くなっていくと,あたりの星々がカメラの液晶画面にも見えるようになってきました。彗星でピント合わせもできました。
 と,そのころ,異常に明るい星が移動していきました。国際宇宙ステーションでした。そして,その次に,何と,スターリンク(Starlink)衛星が列をなして動いていくではありませんか。これには驚きました。これまで,見ようと試みては失敗し,写真を撮ろうとしては失敗しを繰り返していたスターリンク衛星が,ちょうど彗星を撮ろうとカメラを向けていた位置を通っていったので,写真に収めることができました。衛星は非常に明るく,肉眼でも美しく見ることができました。
  ・・・・・・
 スターリンク衛星は,SpaceX が運用する地球低軌道(LEO)に配置された小型通信衛星の巨大コンステレーションで,世界中に高速・低遅延のインターネットを提供するために設計されたものです。
 高度約550キロメートルの低軌道を周回する多数の小型衛星で,2026年時点で1万基以上が運用中で,将来的には12,000基から34,400基まで拡大する計画です。しかし,天文学敵には,衛星が明るく観測に影響する懸念もあり,SpaceX は反射を抑えるコーティングなどの改良を進めています。
   ・・・・・・
 その後,次第に空が白みはじめたのですが,彗星の高度も高くなってきて,カメラの液晶画面にも尾を引いた姿が見えるようになりました。

 ということで,写真を撮ることができたのですが,予想以上に明るく,満足しました。空の暗いところだったら,長い尾を引いたあざやかな姿を収めることができたことでしょう。
 それにしても,後で調べてみると,彗星を写した写真には,異常なくらいの人工衛星が写っているのにはあきれました。地球の上空にはどれほどいろいろな人工物が回っているのでしょう!
 その後,空が明るくなってくると,月齢27.8の細い月が東の空に美しく輝いていました。

DSC_2419DSC_2450DSC_2447

◇◇◇
スクリーンショット 2026-04-18 201603


◇◇◇


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

◆◆◆
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

IMG_0348DSC_6101

【Summary】
After seeing it on NHK’s “Buratamori,” I visited the Former Hasegawa Jirobei Residence in Matsusaka, a well-preserved merchant house with historic buildings, archives, and gardens. I attended a violin and viola concert there, enjoying beautiful music while viewing the garden—an unforgettable and deeply satisfying cultural experience.

######
 「旧長谷川治郎兵衛家に響く弦の調べ・歴史を紡ぐ音~ヴァイオリンとヴィオラの共演~」を聴いた旧長谷川治郎兵衛家は,2025年4月に放送されたNHK「ブラタモリ」で取り上げられたところでした。
 長谷川家は,三井家,小津家などとともに松阪を代表する豪商のひとつで,木綿問屋「丹波屋」を営んでいました。 長谷川家には建物群のみならず、商業資料や古文書などの膨大な資料が良好な状態で保存されており、商人の繁栄の証を今に伝える貴重な文化遺産です。
 旧長谷川治郎兵衛家は,長谷川家の本宅で,江戸店持ち商人の繁栄を今に伝える大規模な商家建築群です。歌川広重の「東都大伝馬街繁栄之図」にもその店が描かれています。
  ・・・・・・
 旧長谷川治郎兵衛家は,近世から近代にかけての商家建築の変遷を一望できる貴重な屋敷構成をもちます。
 正面は低い建ちの2階建てで,袖壁の上に立派なうだつが上がる典型的な豪商の構えです。敷地奥には,最古の大蔵,米蔵,新蔵,西蔵など計5棟の蔵が並びます。
 1914年(大正3年)に増築された大正座敷は書院造で,内庭を額縁のように眺められる美しい空間となっています。また,離れは1895年(明治28年)の建築で,書院,茶室,四阿から成ります。敷地奥には池を中心とした回遊式庭園が広がりますが,これは,勢州奉行所跡地を購入して整備されたものです。
 池泉庭園には中島があり,沢飛石が連続して打たれる独特の意匠が見られます。茶庭には,胴体に穴が開いた珍しい手裏剣形の手水鉢や,キリスト像が刻まれた織部灯籠(キリシタン灯籠)も残っています。
  ・・・・・・
 というところでした。

 「ブラタモリ」を見て,こんなすてきなところがあるんだ,と驚くとともに,ぜひ行ってみたいと思うようになっていたのですが,期せずして,それが実現しました。
 コンサートが行われたのは,奥の間で,美しい庭園をみながら音楽を聴く,ということが,この上ない幸せなことだと実感しました。
 コンサートは午後2時からだったので,私は,朝松坂市に着いて,午前中,松阪市を観光しました。このことは,また,次回から。

The_Prosperity_of_ŌdenmachōDSC_6110DSC_6120DSC_6137DSC_6152DSC_6145


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

◆◆◆
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_6148DSC_6123DSC_6130DSC_6126

【Summary】
The day after attending a Kyoto Symphony concert, I enjoyed a violin and viola duo at a historic house in Matsusaka. Hearing professional musicians up close was powerful and moving. The intimate setting, gentle weather, and diverse program created a peaceful, enriching experience I deeply appreciated.

######
 2026年4月11日に京都市交響楽団の定期演奏会を聴いたその翌日,松阪市の旧長谷川治郎兵衛家で,京都市交響楽団のヴァイオリン奏者・木下知子さんとヴィオラ奏者・五十嵐美果さんのデュオコンサートがあるということで,聴きにいきました。プロの演奏家の演奏を身近に聴くことができるというのが喜びですが,それに加えて,「ブラタモリ」で放送された旧長谷川治郎兵衛家で行われるというのも魅力でした。
 題して,「旧長谷川治郎兵衛家に響く弦の調べ・歴史を紡ぐ音~ヴァイオリンとヴィオラの共演~」。

 音楽は,CDやインターネットで聴くのもひとつの楽しみですが,生演奏を聴く,というのは,それとは異なるとりわけすてきな体験です。しかも,広い会場で聴くのと,小さい会場で聴くのとは,また,趣が異なります。なかなか身近に弦楽器の音を楽しむ機会はありませんが,ましてや,それがプロの奏者となると,これほど貴重なものはありません。実際,身近に聴いてみると,こんなに美しく大きな音がするのか,というのが,私の第一印象です。
 以前,ヴァイオリンを演奏することを趣味で行っている人の演奏を聴いたことがあるのですが,やはりアマチュア,高音で音が乱れたり,かなり苦労をしていました。そういうことを知っていると,単に演奏する,といっても,その難しさがよくわかりますし,それを難なく弾きこなしているように見えるのがすごいことだといつも感心します。

 今回は,クラシックの曲や海外の曲,そして,身近な日本の曲と,多彩なプログラムでした。聴いている人もさまざまで,こうした機会が少ない人もいました。音楽の楽しみは様々ですが,その根本は,自分のこころの中に,安らぎや癒しや郷愁,そういったものが音楽によって満たされることだと思います。だから,こうした機会はとても貴重だし,私には,楽しみでもあります。
 また,このような民家の中で,それは,コンサートホールのような音響ではありませんが,自然の中で味わうというもの,すばらしいことでした。さらに,この日はとてもいい気候で,ここちよい風が音楽のすばらしさをさらに増しました。
 楽器が弾けない私は,こんなふうに演奏することが楽しめたらいいなあ,としみじみ思いました。豊かな時間を共有することができて,とても幸せでした。ありがとうございました。

IMG_0342d7417788b278a30c96c01b6cfaede801_page-0001img20260413_16135974img20260413_16164029

◇◇◇


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

◆◆◆
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

IMG_0327IMG_0325IMG_0322

【Summary】
Last year, I became a subscriber to the Kyoto Symphony Orchestra and found great joy. Unlike my long experience with the NHK Symphony Orchestra, I connected with musicians and audience members. The concert, especially Symphonia Domestica, became enjoyable through explanation, revealing Strauss’s pride in his family.

######
 私は,昨年度にはじめて京都市交響楽団の定期会員になったばかりなのですが,この1年,実に楽しい思いをたくさんしました。20年以上NHK交響楽団の定期会員なのにも関わらず,そんな経験はしたことがありません。まず,京都市交響楽団の団員さんと親しくなれました。また,私の席の周りの人たちと仲よくなれました。今や,京都市交響楽団の演奏会に行くのが私の最大の楽しみです。感謝です。
 音楽は音「楽」であり,音「学」でない。ましてや音「苦」ではない。だから,楽しくなくっちゃ。

 今回の定期演奏会。コンサートマスターが豊嶋泰嗣特別名誉友情コンサートマスター,ビオラ首席が店村眞積ソロ首席奏者,これだけでもすばらしいじゃないですか。
 まず1曲目は,R・シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」。一言で感想を言えば,よく音が鳴るなあ,ということでした。こういう曲は,沖澤のどかさんが最も得意とするものです。オーケストラは,音楽という海を指揮棒という波に乗って,気持ちよく泳いでいるようでした。
  ・・
 2曲目の矢代秋雄のチェロ協奏曲。これこそ,今回の演奏会最大の目玉でした。
 堤剛さんは1942年7月28日生まれ,ということですから,83歳になられました。ステージに登場したところからすでにオーラがありました。優れた音楽家は,歳を重ねると,神が宿るのです。18歳のときに初演した,そのときの楽譜を使用している,ということでした。実際見ていると,黄いちゃけた楽譜でした。
 西洋音楽を日本人が作曲すると,日本の文化とどう向き合うか,どういったアイデンティティを与えるか,というのが最大の問題となるのですが,この曲は,あるときはチェロがまるで琴の音のように奏でるので,これが魅力的でした。とはいえ,この演奏は,それさえ凌駕して,曲がどうの,という次元を超えてしまい,すばらしい,の一言でした。これを生演奏で聴くことができた,というだけで十分に満足できました。隣の人は感動して泣いているし,私も泣けました。
 アンコールはバッハの無伴奏チェロ組曲第3番よりV.BourreeⅠ-Ⅱでした。いつまでもいつまでも聴いていたいと思ったアンコールでした。
  ・・
 さて,問題の3曲目R・シュトラウスの「家庭交響曲」(Symphonia Domestica)。
 京都市交響楽団の定期演奏会では,開演前にプレトークがあります。これが貴重な機会なのです。今回は,沖澤のどかさんがが自らテーマを歌いながら,この曲の詳しい解説をしました。これがとてもよかった。そこで,この曲のもつ工夫や聴きどころがとてもよくわかりました。そのおかげで,この珍しい「家庭交響曲」のよさがよく理解できました。
 これまで,NHK交響楽団の定期公演でずいぶん多くのR・シュトラウスを聴きましたが,はじめのインパクトある主題のあとは,だらだらと音楽が続くだけで,まったく楽しめませんでした。しかし,今回は違いました。私の苦手だったR・シュトラウスも,こうして聴くことができれば,苦手から得意に変貌するというものです。
 で,わかったのは,巨大な編成のオーケストラで音の洪水を作り出し,R・シュトラウスは,「英雄の生涯」で自らを自慢し,「家庭交響曲」で家族を自慢した,ということでした。何というナルシスト(Narcissist),自意識過剰男。そう思ったら,すべてが解決。曲を聴き終わったときは,R・シュトラウスを身近に感じて,何かとても愉快な気持ちになりました。

IMG_0337IMG_0336

◇◇◇


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

◆◆◆
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

IMG_9521

【Summary】
At the Kyoto Symphony Orchestra’s 710th concert (April 11, 2026), Nodoka Okisawa conducted works by Richard Strauss and Akio Yashiro, featuring cellist Tsuyoshi Tsutsumi. The program contrasted the energetic Don Juan, Yashiro’s structurally intricate Cello Concerto, and the richly detailed, autobiographical Symphonia Domestica.

######
 2026年4月11日,京都市交響楽団第710回定期演奏会を聴きました。いよいよ2026年度,70周年を迎える京都市交響楽団の新シーズンのはじまりです。今回の指揮は沖澤のどかさん,チェロの独奏は堤剛さん,曲目は,R・シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」,矢代秋雄のチェロ協奏曲,R・シュトラウスの家庭交響曲でした。

 曲目順でなく,まずは,矢代秋雄のチェロ協奏曲について。
●矢代秋雄のチェロ協奏曲
 矢代秋雄のチェロ協奏曲は,NHK交響楽団の委嘱で1960年に作曲されました。初演は独奏を今回と同じく堤剛さん,当時18歳。岩城宏之さんが指揮をしました。
 矢代秋雄の作品では,交響曲(1958),ピアノ協奏曲(1967)と並ぶ協奏曲3部作の中心で,作曲家の語法が最も凝縮された作品であり,日本の戦後音楽の中でも,特に,構築性の高さと内面的な緊張感で知られる代表作ということです。単一楽章の中にソナタ形式・3部形式・カデンツァを折り重ねた,極めて緻密な構築物 でありながら静謐な抒情が作品全体に人間的な温度を与える稀有な協奏曲,だそうですが,聴いたことがないので,予習をしました。
  ・・・・・・
 単一楽章ですが,次のような4つの明確な部分をもち,冒頭と終盤に置かれた長大なカデンツァが作品全体を円環的に結びます。
 第1部は,3分以上に及ぶ長大な独奏カデンツァで開始し,ここで提示される複数のモチーフが全曲を支配するというように,ソナタ形式の提示部に相当する役割を果たします。
 第2部は,独奏チェロが,語りのような自由なパッセージを演奏し,そこにオーケストラが加わり,動機が対位法的に展開し,緊張感の高い陰影の深い音響が支配します。
 第3部は,ABAの3部形式で,アルトフルートとチェロの対話が印象的で,日本的な静けさ,文楽的とも評される間の美を表す,弦の和声が非常に繊細です。
 第4部は,最長の部分で,自由なソナタ形式 に12音的素材も登場し,緊張が極限まで高まり,終盤に再び長大なカデンツァが奏されて,冒頭の主題を回想しつつ静かに閉じます。
 冒頭で提示される小さな動機が全曲を貫き,明るさよりも緊張と影が支配しつつ,一転して透明な抒情が現れて,チェロのための交響詩に近く,カデンツァが提示部と再現部を兼ねるという独創的構造をしています。
  ・・・・・・
 静寂に包まれて,こころが清められる曲だなあ,と思いました。こういう曲を味わえるには,長く人間をやっていることが必要なのかもしれません。さて,実際の演奏では…。

 次に,R・シュトラウスのふたつの作品について。
●R・シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」
 今年度のはじまりを飾るにふさわしいこの曲は,1888年,24歳の若きシュトラウスが一気に時代の寵児へと躍り出た突破作で,19世紀末のモダニズムの象徴と評される作品です。
 ニコラウス・レーナウの未完の戯曲「ドン・ジュアン」は,モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」とは異なり,理想の女性を求め続けるが,ついに見つからず倦怠に沈み,自ら死を選ぶという,より内面的・心理的なドン・ファン像が描かれています。冒頭の爆発的なエネルギー,官能と倦怠の交錯,そして,突然訪れる虚無的な終結。この振幅が「ドン・ファン」の核心です。
 冒頭の飛びかかるようなテーマは,よく耳にする馴染み深いものです。19世紀末モダニズムの象徴と音楽学者ダールハウスが評したほどで,一瞬で聴き手を疾走する快楽の世界へ投げ込みます。
 ソロ・ヴァイオリンによる甘美な恋愛テーマ から,オーボエの静かな夜想的場面と続き,これが,理想の女性を求めるドンの幻想を象徴します。
 「ドン・ファン」は 理想を見いだせぬ倦怠(Disgust) によって死を選ぶ人物で,勝利を思わせる華やかな展開が突然停止し,不協和なトランペットが死の気配を告げ,3つのピアニッシモの和音で静かに終わるという,虚無的な終結を迎えます。私が苦手なR・シュトラウスですが,この曲は馴染み深く,楽しめそうだなあ,と思いました。
  ・・
●R・シュトラウスの「家庭交響曲」(Symphonia Domestica)
 R・シュトラウスの作品の中で最も個人的で,自分の生活を音楽化した交響詩,だそうです。
 家庭交響曲」は,1904年,40歳のときに完成した1楽章の巨大な交響詩で,具体的にシュトラウス一家の1日をそのまま音楽にした作品で,次のように,登場人物がはっきり設定されています。
 堂々とした主題で表現されるのは時に皮肉っぽい自信家で仕事熱心な夫・作曲者自身。 優雅で気まぐれな旋律で表される気分屋で魅力的な妻・パウリーネ(Pauline)。小さく跳ねるような動機が表す無邪気で落ち着きがない息子・フランツ(Franz)。
 内容は
  ・・・・・・
①家族の朝 
 父の主題,母の主題が順に登場し,家庭の温かさと少しの緊張感が混ざります。
②日中の活動
 父は仕事である作曲に励み,母は気まぐれに動き回るというように,ふたりの性格の違いが音楽的に衝突します。
③子どもの登場
 フランツの主題が跳ね回り,夫婦の主題と絡み合い,家庭の騒がしさが増します。
④夜
 子どもの寝かしつけ,子守歌風の音楽で,家族の安らぎが戻ります。
⑤夫婦の愛の二重奏
 まるでオペラのような濃密な愛情表現で,R・シュトラウスらしい官能的な和声が炸裂します。
⑥フィナーレ
 家族全員の主題が重なり合い,壮大に締めくくられ,「これが我が家だ!」という誇らしさが全開します。
  ・・・・・・
 「マーラーの交響曲が宇宙を描くのに対してR・シュトラウスは自宅のリビングを描く」と揶揄され,自意識過剰,家庭の自慢話と批判されることもある「家庭交響曲」。構造の巧妙さ,音響の豊かさこそR・シュトラウス,ということなのですが,こういう大げさで過剰なところこそ,いかにも私が苦手なR・シュトラウスの特徴です。昨年のすばらしかった「英雄の生涯」に続く,R・シュトラウス作品を,さて沖澤のどかさんがいかに聴かせるか,です。私としては,ちょっと心配??? だったのですが…。

get-resimg


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

◆◆◆
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_4062DSC_3957DSC_4052DSC_3964IMG_0289

【Summary】
At Kyoto Sangyo University’s Koyama Astronomical Observatory, an exhibition explored Kansai Optical Industry. It revealed how pioneers advanced reflecting telescopes and photographic optics, and how the company rose before World War II, declined after labor disputes, yet embodied a passionate era of amateur astronomy and craftsmanship.

######
 昨年2025年5月,京都産業大学神山(こうやま)天文台の本館で,企画展「西村製作所と中村要~反射望遠鏡にかけた夢~」が開催されたので,見てきました。そのとき,今年2026年は,関西光学に関する企画展をやるという予告があったので,楽しみしていたところ,2026年3月21日から6月19日に,企画展「星を観る鏡 日々を写す鏡~京都で産まれた反射望遠寫眞機~」が行われると予告があったので,3月21日の開催初日に行ってきました。
  ・・・・・・・
 第1次世界大戦後の戦後補償による好景気と大正デモクラシーの時代背景のもと,関西の天文学はかつてない高揚期を迎えていた。この「よき時代」に,ここ京都でも国産反射望遠鏡の発展を支えた多くの先人たちが活躍していた。
 独学で天文学を学び,日本で初めてガラス製反射鏡の研磨法を伝えた山崎正光。その技術を進化させ,国産反射鏡の品質を世界水準にまで高め,定着させた中村要。中村要と協働し,望遠鏡製作を支えて事業化を果たした西村製作所。そして西村製作所,藤波重次と共にミヤニ式反射望遠写真機を開発した宮澤堂(たかし)。宮澤堂はその後,花山天文台の有志とともに関西光学研究所を設立し,反射光学系の研究とその工業化に取り組んだ。
 こうして築かれた国産反射望遠鏡の技術は,第2次世界大戦という未曾有の困難な時代をどう乗り越え,どのように発展し続けたのか。天体望遠鏡とは異なるもうひとつの「反射光学系」の姿に焦点を当て,反射望遠写真機の発展とともに,関西光学工業株式会社(通称:カンコー)の所長を務めた宮澤堂が遺した記録と資料を中心に,その軌跡を紹介する。
  ・・・・・・

 私が関西光学に惹かれて,この企画展を楽しみにしていたのには理由があります。
 1970年から1990年ごろまで,現在のようにスマホがあるわけでもなし,インターネットがあるわけでもなし,ゲームアプリがあるわけでもない,私のような1950年代に生まれた少年たちが夢中になったのは,ラジオ作りや天体観測(もどき)でした。そして,1965年に創刊された「月刊天文ガイド」に載っていたさまざまな望遠鏡に憧れました。今から思えば,その多くはおもちゃに過ぎなかったのですが,その一方で,町工場で職人が造っていたような武骨な製品があったのです。今となっては,それらは,会社というよりも,ひとりから数人の作業場での仕事だったと知るのですが,少年にはそんなことは知る由もありませんでした。
 それらは,足立光学レンズ製作所,旭精光研究所,西村製作所といったところで,当然,高価で,少年には高値の華。でありながら,不思議な魅力を備えていました。とはいえ,会社の実態も知らず,実物の製品を見たこともありませんでした。そのなかで,西村製作所は今も大型の天体望遠鏡を製作する大会社として存在していますが(とはいえ社員はせいぜい20人程度),その多くは,創業者が亡き後,消えていきました。そうした会社の中で,謎に包まれていたのが,関西光学というところでした。何せ,「月刊天文ガイド」に広告がない。現在調べても,インターネット上にもまったく情報がない。ということで,どんな会社だったのか,皆目わからなかったのです。私がずっとこだわっていたのは,座ったまま観測できる反射望遠鏡とか,斜鏡の代わりにプリズムを使用して,両側から覗ける反射望遠鏡など,他の会社にはないユニークな製品の写真を何かのときに見たからでした。いったいどんな会社だったのだろう? とずっと思っていました。

 今回,この企画展を見て,そうした謎がすべて解明できました。そして,関西光学の製品という反射望遠鏡の実物を見ることもできました。
 結局,反射望遠鏡をカメラの望遠レンズとして活用しようと試みて,それを製品化していたのが1941年に設立された関西光学研究所で,第2次世界大戦終了のころには関西光学工業株式会社と名前が変わって,数々の製品を送り出したのですが,1960年ごろに各地で起きた労働争議のあおりを受けて解散,その後は,宮沢堂さんがひとりで細々と関西光学研究所という名で,会社を継続していた,ということでした。ならば,足立光学レンズ製作所,旭精光研究所などより少しだけ年代が古く,また,1965年創刊の「月刊天文ガイド」に大きな広告を出していたおこちゃま向け天体望遠鏡とは一線を画していたのもの無理ない話です。
 現在は,このような武骨な望遠鏡はその役割を終えました。手持ちのカメラでアンドロメダ銀河が写せる時代に,もしこんなものが手元にあったとしても,じゃまなだけでまったく使い道がありません。
 歴史的な価値として,その昔はこうした製品を作るのに情熱を傾けた人たちがいたということです。ある意味,夢多き時代だったのでしょう。その事実がこのようにして世に残ることにこの企画展の意義を感じます。

DSC_3975DSC_3977DSC_3989DSC_3966DSC_3968DSC_3971DSC_3991DSC_3993DSC_3997DSC_4009DSC_4011DSC_4015DSC_4033002fbcb11a1359d016c3b9cdc8b8f32c40892f4b_page-0001002fbcb11a1359d016c3b9cdc8b8f32c40892f4b_page-0002


◇◇◇


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

◆◆◆
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_2598

【Summary】
After returning a rental car, I changed to an earlier train and happened to ride an older E2 Series Shinkansen, known for its large windows. The trip, though unplanned, fulfilled long-held dreams and brought unexpected discoveries, quiet hot springs, and peaceful meals, showing that Japan still offers endless unique travel experiences.

######
午後5時にレンタカーを返却,新白河駅午後5時50分発の「なすの」280号に乗って,東京駅午後7時16分着,午後7時30分発の「ひかり」661号に乗り換えて,名古屋駅9時14分着で帰宅する予定でしたが,午後4時ごろに新白河駅に着いたので,レンタカーを返却して,新白河駅午後4時50分発の「やまびこ」216号で,東京駅午後6時16分着,午後6時33発の「ひかり」657号に乗り換えて,名古屋駅午後8時19分着に変更しました。
やってきた「やまびこ」216号は,行きに乗ったE5系とは違い,E2系という古いものでした。現在の新幹線車両は飛行機のように窓が小さいのですが,E2系のみ,大きな窓になっているのが特徴です。
  ・・・・・・
現在,数両のみ残るE2系ですが,定期運用がされているのは東北新幹線だけで,主に,東京駅から仙台駅・郡山駅・那須塩原駅を結ぶ「やまびこ」と「なすの」として,朝や夕方以降の通勤・通学時間帯や,日中の比較的利用者が落ち着く時間帯に運用されています。
  ・・・・・・
ということで,引退が間近に迫るE2系にわざわざ乗ってみたいという鉄道ファンがいるようですが,私は,期せずして,こういう,鉄道ファンには乗りたくてもなかなか乗れないという列車に巡り会うのです。

東北新幹線の車内からは夕日がきれいに見えました。夕日が沈んでも,まだ空は明るく,大宮駅を過ぎると,遠くに富士山が見えるようになってきました。どうして東北新幹線の車窓から富士山が? と思ったのですが,富士山は東京駅からでも見えるから,大宮駅からでも見えて当然ですが,何か不思議な気がしました。
東京駅で東海道新幹線に乗り換えるとき,勝手知る東京駅の東海道新幹線のホームの売店で駅弁を買いました。
  ・・
こうして,今回の旅は終わりました。
2泊3日,行き当たりばったりでしたが,長年の夢が実現したり,奇しくも思いがけないところを知ったりと,楽しい旅になりました。また,何といっても,インバウンドとは無縁,そして,おいしい食事に他に誰もいない温泉というように,私の理想の旅が実現できました。
また,このごろは,どこへ行っても同じような気持ちになれます。日本国内を旅していて,そういえば,同じような気持ちを海外でも感じたことがあるなあ,と思うことも少なくありません。ならば,わざわざ遠い海外に出かける必要もないわけです。
旅というのはこうしたもので,ガイドブックを眺めながら,有名どころに出かけるような「愚」さえしなければ,日本でも,まだまだ,無限におもしろい経験ができるのです。

DSC_2587DSC_2589DSC_2605DSC_2614DSC_2619IMG_0079IMG_0080


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

◆◆◆
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_2576DSC_2584

【Summary】
At Komine Castle, I visited Ninonmaru Teahouse and enjoyed a rich cream anmitsu. I then saw the former Taiko Turret, a rare surviving structure relocated and restored multiple times. Although its interior was closed that day, its historical significance and exterior appearance were satisfying.

######
白河市で最後に行こうと思ったのが旧小峰城太鼓櫓でした。
その前に,二の丸茶屋に寄ってみました。
  ・・・・・・
二の丸茶屋は,白河小峰城が望める城山公園内にある小峰城をイメージしたお休み処です。昨年2025年4月1日にリニューアルオープンしました。
小峰城オリジナルグッズや地元銘菓を取り揃えるほか,白河産の米粉を使用したふっくら・もちもち食感の白河だるまバーガーやクリームあんみつも提供しています。
その他、甲冑の着付け体験も行っています。
  ・・・・・・
私はおやつとして,「当店自家製寒天と市内の和菓子屋さんのつぶあんを使用し,白玉・ぎゅうひ・赤えんどう豆・バニラアイスがのりボリューム満点」のクリームあんみつをいただきました。

さて,最後に旧小峰城太鼓櫓へ行きました。
  ・・・・・・
もとは小峰城二之丸の南側入り口にあたる太鼓門西側に所在したとされ,一部の小峰城絵図に描かれています。1874年(明治7年)から行われた小峰城内の土地・建物の民間への払い下げに際して,白河の城下で商家(山城屋)を営んでいた荒井家が譲り受け,当初は,現在は消失した三之丸の紅葉土手に移築されました。その後,1930年(昭和5年)に現敷地北側に移築され,茶室に改装後利用されました。2015年(平成27年),荒井家より市へ寄贈され,その後,老朽化や東日本大震災による影響により倒壊の恐れがあったことから建物を解体し,2022年(令和4年)に敷地の南側へ移築修復工事を行いました。これまでの移築で,建物そのものは原型と変わっていますが,大正年間の写真や骨組みなどから,建物の原型は重層で,四方に転び(柱などの材を傾ける作り方)をもつ2間四方の寄棟造りであったと推定できます。小峰城に関わる建造物が江戸時代末から明治初期に全て焼失・破却等により失われた中で,唯一現存する貴重な建造物です。
  ・・・・・・
ところが,内部の公開は,日にちが限られていて,この日はだめでした。外観だけを見て満足することにしました。

DSC_2565DSC_2568DSC_2573DSC_2582DSC_2580DSC_2577


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

◆◆◆
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_2564

【Summary】
I visit daimyo graves to understand local respect for history. At the former Enmeiji site near Shirakawa, I found poorly maintained graves of early lords like Niwa Nagashige and Matsudaira rulers. Other lords, including reformer Matsudaira Sadanobu, are buried in Reiganji Temple in Tokyo.

######
私は,全国を旅すると,江戸時代にその地を治めた藩主のことを知りたいということで,城とともに,藩主の墓所を訪ねることを楽しみにしています。それは,藩主の墓所を見ると,藩主がリスペクトされていたかどうかがよくわかるからです。そして,そうした歴史を今も大切にしているところは,概して,文化が栄えていているのです。
白河藩主の墓所は,白河藩大名家墓所として,白河駅より南へ約1.5キロメートルのところに位置する「小南湖」とよばれる場所にあるというので,行ってみました。

広い駐車場があったのですが,車はまったく停まっていませんでした。こじんまりとした庭園があって,その向こうの小高い山に墓所が点在していました。そこは,円明寺という,江戸時代に白河藩歴代藩主の菩提寺であった場所でした。
ところが,整備されているとは言い難く,墓所に至る道は,折れた木の枝で塞がれていて,行く手を阻みました。仕方がないので,道なき道を登っていくことにしました。
そこには,初代藩主・丹羽長重の宝篋印塔や,松平清照,松平直矩,松平基知といった藩主の五輪塔が点在していました。
丹羽長重は,織田信長の重臣丹羽長秀の嫡子で,関ヶ原合戦の際に徳川方の前田家と争ったために改易されましたが,のちに大名として再興し,1627年(寛永4年)に白河藩10万石余を与えられ初代白河藩主となり,白河小峰城の改築・城下町の整備を行い,1637年(寛永14年)に江戸の屋敷で67歳で死去しました。墓は白河石で造られた宝篋印塔でした。
松平清照は,藩主松平忠弘の嫡子でしたが,病弱のため廃嫡され,1686年(貞享3年)に35歳で死去。子の松平忠雅が家督を相続しました。墓は白河石で作られた五輪塔です。
松平直矩は,徳川家康の次男結城秀康の孫で,7歳で姫路藩主となりましたが,幼少のため越後村上藩に移され,その後,姫路藩,豊後日田藩,山形藩と転封を重ねたのち,1692年(元禄5年)に山形藩から白河藩に移り,1695年(元禄8年)54歳で江戸で没しました。遺骸は荼毘に付されて白河に送られ,現在地に葬られました。墓は白河石で作られた五輪塔です。
松平基知は,父・松平直矩の後を継いで1695年(元禄8年)に藩主となり,1729年(享保14年)に51歳で江戸で没しました。遺骸は備前の大甕に納められて白河に運ばれ,現在地に葬られました。墓は白河石で作られた五輪塔です。

それ以外の藩主の墓所は,東京都江東区深川江戸資料館の隣にある霊巌寺にあるということでした。特に,寛政の改革で知られる3代藩主・松平定信の墓は,国指定史跡として霊巌寺に保存されているそうです。私は,深川江戸資料館には行ったことがあるのですが,霊巌寺に行ったかどうか,記憶にありません。

DSC_2517DSC_2519DSC_2521DSC_2524DSC_2533DSC_2536DSC_2540DSC_2545DSC_2548DSC_2549DSC_2552DSC_2556


◇◇◇


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

◆◆◆
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_2472DSC_2475DSC_2482DSC_2487DSC_2493

【Summary】
On March 8, 2026, I visited Bandai-Atami Onsen and Lake Inawashiro before going to Koriyama. The weather suddenly worsened with hail and strong winds, ruining my plan to relax by the lake. Disappointed, I returned to Koriyama, bought sweets, and went back, forgetting even where I had lunch.

######
2026年3月8日,この旅の最終日です。
この日は,郡山市に行くことしか予定がなかったので,それ以外に何をしようかと考えました。そして決めたのが,磐梯熱海温泉がどういうところか見てみたい,ということでした。
2024年の,何と1月15日に私は只見線に乗りました。今思えば,雪深い只見線,こんな真冬に行こうというのが無謀なことなのですが,知らぬが仏でした。そのときは,東北新幹線で郡山駅で降りて,すぐに磐越西線に乗り換えて,会津若松駅に行ったので,郡山市は駅しか知りません。磐越西線は猪苗代湖畔を通ったので,その時点で,位置関係が把握できました。今から40年ほど前に,私は,車でこの辺りを通ったことがあるのです。懐かしい気持ちがしました。
その後,この付近に磐梯熱海温泉があるということを知って,今回,磐梯熱海温泉に宿泊しようとも考えたのですが,適当な旅館が見つからず断念したのでした。そんなわけで,磐梯熱海温泉を通り,猪苗代湖畔を途中までドライブして,そのあとで郡山市に行くことにしました。

朝食後,「式部のやかた井筒屋」をチェックアウトして,北に進みました。白河市から郡山市まで国道4号線を走って,郡山市から西に国道49号線で猪苗代湖まで来ました。磐梯熱海温泉はその途中にあります。おもったよりさびれたところでした。旅館が数件の小さな温泉街ならそれはそれでよし,また,私には縁がないけれど,大きな旅館がたくさんある温泉街ならそれはそれで名が知られているのでしょうが,磐梯熱海温泉はそのどちらでもない中途半端な感じでした。
それを過ぎ,やがて,猪苗代湖に着いたころ,気候が一転しました。霰(あられ)が横殴りに車に降り,とんでもない状況になりました。
ちなみに,雹(ひょう)と霰(あられ)の違いは,氷の粒の直径で,直径5ミリメートル以上を雹,5ミリメートル未満を霰とよぶのだそうです。どちらも積乱雲の中で発生し,激しい上昇気流によって成長します。

猪苗代湖畔で優雅に食事でも,という夢は潰えました。猪苗代湖畔,どこが観光の拠点なのかもさっぱりわかりませんでした。どうやら,北側の猪苗代町あたりのようでしたが,こんな天候ではテンション下がりっぱなしで,そこまで行って引き返すことにしました。猪苗代湖畔は,一面真っ白で,雹が止まず,強風で,最果て感満載でした。これはこれで,こんな天候に出会うのもまた,旅の醍醐味なのでしょう。
郡山市まで戻るとよい天気でした。当初は猪苗代湖あたりをのんびりと観光しようというあてもはずれ,また,何もない,という郡山市は,はやり何もなく,すでに書いたように,駅前の駐車場に車を停めて,「柏屋」さんで念願の薄皮饅頭を買っただけで白河市に戻ることになりました。
なお,どこかで昼食を,と思いながら国道4号線を走っていたことは記憶にあって,その途中で昼食をとったように思うのですが,いったい,どこで何を食べたのか,まったく覚えていません。また,写真もありません。私は,テンションが下がると,時折,こういうことがあります。と書いているうちに,コンビニに入ってパンをいくつか買ったことを思い出しました。


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

◆◆◆
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_2384IMG_0077

【Summary】
After visiting Shirakawa Komine Castle, Nanko, and Shirakawa Barrier, I drove toward Nasu Highlands. The place I had imagined since childhood felt less mysterious in reality. Later, I stayed at a quiet hot spring inn, rich in Izumi Shikibu legends, and enjoyed peaceful bathing at night.

######
白河小峰城,南湖,白河の関と観光をしたので,そのあとは今日の宿泊先である「式部のやかた井筒屋」へ行くばかりでしたが,まだ時間が早かったので,那須高原のあたりまでドライブすることにしました。
何度も書いているように,この辺りの場所は,私には,子供のころから藤井旭さんが「月刊天文ガイド」のさまざま記事に書かれていた場所ということで,謎に包まれていました。だからこそ,ずっと憧れのところでしたが,今回行ってみて,その謎が解けました。
那須高原,那須連峰というところは,私には,ヒマラヤのようなところでした。遠くに雪を被った山並みが見えて,そこに銀色のドームが輝いている… ,そして,夜になると満天の星。いったいどういうところなのだろうと思っていました。
歳をとって,いろんなことを知ると,そうしたときめきは虚像だということもわかりましたが,それはそれで残念な気持ちがしました。

さて,白河の関あたりは,まだ,雪が残っていましたが,那須高原に近づくにつれて,軽井沢や木曽駒高原のような別荘地になりました。おそらく,東京で仕事をしていて,一戸建てに憧れるような裕福な若い人にとって,那須高原は理想の住処なのかもしれません。数年前,東京でJRに乗ると,那須塩原と書かれた分譲住宅のポスターをずいぶんと目にしました。
とはいえ,遊びに行くのならともかく,実際に住むとなると,ずいぶんと不便なところだろうと,今は思いました。私は,夢が覚めたような気持ちになりました。
引き返して,「式部のやかた井筒屋」を目指しました。その途中で,和泉式部の庵跡地にある化粧井を訪れたことはすでに書きました。

やがて,「式部のやかた井筒屋」に到着しました。おもったより大きな旅館でしたが,老朽化否めず,古びていました。ここは猫啼温泉(ねこなきおんせん)というところでした。
  ・・・・・・
猫啼温泉は,福島県石川郡石川町にある歴史ある温泉地で,私の泊まった「式部のやかた井筒屋」と小さな「西田屋」という2軒の旅館があります。
平安時代の歌人・和泉式部にまつわる伝説が残る,静かな湯治場として知られています。日本でも珍しい放射能泉(ラジウム温泉・ラドン温泉)で,微量の放射線が免疫力を高める「ホルミシス効果」が期待できるとされています。
猫啼温泉がある石川町は和泉式部の生誕地と伝えられていて,周辺には彼女が髪を整えたとされる「櫛上げの石」などの史跡が点在します。また,京へ上った和泉式部を慕って鳴き続けた愛猫が,この地の霊泉に浸かって病を治したという伝説から猫啼と名づけられました。
  ・・・・・・

昨年行った山口県の湯野温泉,先日行った九十九里浜の白子温泉など,規模が小さく,2,3軒ほどの旅館しかないところがけっこうある,ということを旅をしていて知りました。規模が大きく巨大な旅館が何軒もあって,しかも,その多くが廃墟と化している温泉郷が話題となりますが,こうした規模が小さな温泉はどこも魅力的です。私は,こうした小さな温泉のほうを好みますが,探し出すのに苦労をします。
猫啼温泉は,私には「西田屋」さんのほうが私の趣向にあうように思うのですが,今回は「式部のやかた井筒屋」さんに宿泊したからこそ,和泉式部ゆかりの場所だということを知ったわけです。
食事も温泉も申し分なく,温泉は一晩中入ることができるということだったので,だれもいない深夜にのんびりと味わうことができました。

DSC_2378DSC_2381DSC_2385DSC_2469DSC_2426DSC_2465DSC_2466DSC_2462IMG_0075IMG_0052IMG_0046IMG_0044img20260329_14503324


◇◇◇


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

◆◆◆
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_2321DSC_2323

【Summary】
Near Shirakawa-no-Seki, celebrated in Oku no Hosomichi by Matsuo Basho, this ancient barrier marked the frontier to Mutsu. Once a strategic military checkpoint against the Emishi, it later became a poetic symbol. Its site was identified by Matsudaira Sadanobu and confirmed archaeologically in the 20th century.

######
白河市といえば,白河小峰城,南湖,そして,白河の関。ということで,最後に白河の関に行ってみました。
  ・・・・・・
心許(こころもと)なき日かず重(かさな)るまゝに,白川(しらかは)の關(せき)にかゝりて旅心定りぬ。「いかで都へと便(たより)求しも斷(ことわり)也。中にも此關(このせき)は三關の一にして,風騒(ふうさう)の人心をとゞむ。秋風を耳に殘し,紅葉を俤(おもかげ)にして,青葉の梢猶(なほ)あはれ也。卯の花の白妙(しろたへ)に,茨(いばら)の花の咲そひて,雪にもこゆる心地ぞする。古人(こじん)冠を正し衣裝を改し事など,清輔(きよすけ)の筆にもとゞめ置れしとぞ。
 卯の花をかざしに關の晴着かな  曾良
  「奥の細道」
   ・・・・・・
東北地方を旅すると,どこに行っても松尾芭蕉の遺構に出会います。ここまで私を追っかけてくるの! とある意味わずらわしさを感じるのですが,それは反対で,私が松尾芭蕉さんを追っかけているようなものです。

白河の関は,設置された時期は不明ですが,古代の日本における関所のひとつで,奈良時代から平安時代にかけて都から陸奥国に通じる東山道の要衝に設けられた関門でした。こういうことは,実際に行ってみると実感できます。おそらくは,奈良時代,この地方には,別の人々(蝦夷)が支配していて,それを奥州征伐,蝦夷征討として,東北地方の支配権を確立するために軍事行動を起こしたその衝突地点だったのでしょう。724年(神亀元年)には現在の宮城県多賀城市に多賀城が築かれ,これを奥州支配の最前線拠点として大軍を派遣,蝦夷側も団結して抵抗し一進一退の攻防ののち,坂上田村麻呂が蝦夷征討を最終的な終焉に向かわせることになりました。
白河の関より北に位置するのが東北地方とされ,山形県鶴岡市の鼠ヶ関(ねずがせき),福島県いわき市の勿来関(なこそのせき)とともに奥州3関のひとつに数えられます。

平安時代以降は,律令制度の衰退とともに軍事的要衝としての白河関の機能は解消し,「みちのくの象徴」として和歌の歌枕に起用され文学的感傷をもたらす存在となりました。
  ・・・・・・
 たよりあらばいかで都へ告げやらむ 今日白河の関は越えぬと
  「拾遺和歌集」平兼盛
  ・・・・・・
白河の関は,下野国と陸奥国(現在の栃木県と福島県)の国境で,長く,場所が特定されていませんでしたが,1800年(寛政12年),白河藩主・松平定信は文献による考証を行い,白河神社の建つ場所をもって白河の関跡であると論じました。さらに,1960年代の発掘調査の結果,土塁や空堀を設け,それに柵木(さくぼく)をめぐらせた古代の防禦施設を検出し,1966年(昭和41年)に「白河関跡」(しらかわのせきあと)として国の史跡に指定されました。
なお,藤井旭さんとその仲間の人たちが建設した白河天文台は,白河の関ほど近くの西側の山の中にあったようです。

DSC_2317DSC_2319DSC_2325DSC_2331DSC_2333DSC_2335DSC_2337DSC_2341DSC_2344DSC_2358DSC_2370DSC_2371スクリーンショット 2026-03-29 100606


◇◇◇


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

◆◆◆
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_2218DSC_2233DSC_2251DSC_2277

【Summary】
Nanko, created in 1801 by Matsudaira Sadanobu, is considered Japan’s earliest public park, open to all classes. Its scenic landscape blends beauty and practical use. Nearby, Suirakuen offers a quiet Japanese garden experience. I enjoyed matcha and “Nanko dango,” a simple, nostalgic local specialty.

######
白河小峰城から4キロメートルほど南に行くと,名勝・南湖(なんこ)があるというので,行ってみました。
  ・・・・・・
南湖は,1801年(享和元年)に白河藩主・松平定信が築いた日本最古の公園思想をもつ湖です。
もともと大沼とよばれた湿地帯に堤を築いて水を貯め,庭園的な景観を整えたのが南湖のはじまりです。南湖の面積は約18ヘクタール(約5ヘクタールがプロ野球のグランド程度),周囲は約2キロメートルで,那須連峰を借景に,松・桜・楓が四季を彩ります。
  ・・・・・・
南湖は 「武士も庶民も身分を超えて楽しめる場所にする」 という思想で造られました。当時の大名庭園は,藩主や武士階級だけの空間でしたが,南湖にはその垣根がなく,誰でも自由に出入りできました。また,南湖は単なる景勝地ではなく,灌漑用水,水練・操船訓練の場,領民救済のための土木事業といった実用的な目的も兼ねていたそうです。
名称の由来は,唐の詩人・李白の詩「南湖秋水夜無煙」と小峰城の南に位置することから名づけられたと伝わります。そして,南湖の周囲には,17の景勝地を選び,公家・大名・儒者に和歌や漢詩を依頼して石碑に刻ませました。
南湖は思った以上に広く,美しいところでした。

南湖の東側のほとりには,茶店と有料の庭園がありました。
庭園は「翠楽苑」(すいらくえん)といいました。「翠楽苑」は江戸時代のものではなく,松平定信が築いた南湖の精神を現代に受け継ぐために整備された本格的な日本庭園ということです。南湖が公園の原点なら,翠楽苑はその思想を日本庭園として可視化した場所,だそうです。園内は池泉回遊式で,池・滝・茶室・四季の植栽が配置され,歩くたびに景色が変わるように作られていて,南湖の広々とした風景とは対照的に,静かで繊細な和の空間が広がります。驚くことに,観光客どころか,ほとんど人もおらず,すばらしいところでした。南湖を歩いたあとに翠楽苑へ入ると,まるで外界の喧騒から一段深い静けさへ降りていくような感覚がありました。
庭園内には茶室「翠楽亭」があって,抹茶と和菓子をいただけるというので,入ってみました。落ち着いた室内で庭園を眺めながら一服するのは最高のぜいたくでした。

「翠楽亭」を出て,近くあった茶店に入って,昼食をとることにしました。山菜そばを注文しましたが,どの店にも「南湖だんご」とありました。そこで,「南湖だんご」も併せて注文しました。
南湖といえば「南湖だんご」,これは南湖のほとりで長く親しまれてきた食べ物で,誰でも気軽に楽しめるという松平定信の思想と響き合う名物だそうです。「南湖だんご」は,醤油を塗って炙った香ばしい味で,もちもちしすぎず,軽く食べられる食感があり,甘さ控えめでどこか懐かしい風味がしました。

DSC_2215DSC_2220DSC_2222DSC_2223DSC_2237DSC_2241DSC_2245DSC_2248DSC_2253DSC_2255DSC_2257DSC_2266DSC_2287DSC_2303DSC_2304


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

◆◆◆
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_2168DSC_2165

【Summary】
Shirakawa Domain, centered at Komine Castle, was a strategic gateway to northern Japan. Ruled by several daimyo families, it prospered under Matsudaira Sadanobu, who managed famine and reformed finances. Later governed by the Abe clan, it was destroyed during the Boshin War.

######
白河小峰城の一角に小峰城歴史館があったので入ってみました。さまざまな土地を旅していると,その土地の歴史がきちんとわかる資料館があるところとないところがあって,その土地に住む人が歴史を大切にしているかどうかがよくわかります。
今回は,白河藩の歴史について書くことにします。

白河藩は,江戸時代に現在の福島県白河市にあたる陸奥国白河郡白河周辺を知行した藩で,藩庁は白河城に置かれました。
白河の地は,古代においては白河の関が設けられ,奥羽地方への出入り口として要衝の地となっていました。江戸時代には,奥羽地方の外様大名の抑えという位置づけで,初代の丹羽氏を除いては有力な親藩・譜代大名が頻繁に入れ替わり治めました。その地で江戸時代を治めた多くの外様大名がのに対して,親藩・譜代大名の治めた地の多くは,頻繁に国替えがありました。縁もゆかりない地を突然押しつけられるわけで,これでは領民がリスペクトするわけもありません。今の公務員のお偉いさまの人事異動のような感じです。
  ・・・・・・
●丹羽家/榊原家の時代
まず,江戸時代初頭の1627年(寛永4年)に丹羽長秀の長男丹羽長重が10万石余で入り白河藩が成立しました。1643年(寛永20年)に2代藩主・丹羽光重が陸奥国二本松藩に転封となり,上野国館林藩より母が徳川家康の姪にあたる榊原忠次が14万石で入部しましたが,1649年(慶安2年)に播磨国姫路藩に転封となりました。
●本多家/奥平松平家の時代
替わって本多忠義が12万石で入部しました。2代藩主・本多忠平が,1681年(天和元年)に下野国宇都宮藩へ転封となり,松平忠弘が15万石で入部しましたが,松平忠弘は家老・奥平金弥と黒屋数馬の対立を治めきれず,1692年(元禄5年)にお家騒動のため藩主閉門の上出羽国山形藩に転封となりました。山形藩は左遷藩と揶揄されるように,何事かで不祥事を起こすと送られた大名が多いのです。
●結城松平家/久松松平家の時代
入れ替わりに,映画「引っ越し大名」のモデルにもなった松平直矩が15万石で入部,財政改革を断行しましたが,増税が大規模な農民一揆を引き起こしました。3代藩主・松平義知は藩政改革に努めましたが,1741年(寛保元年)に姫路藩へ転封となり,替わって松平定賢が入部,2代藩主・松平定邦の養子として跡に入ったのが,御三卿のひとつ田安徳川家初代・徳川宗武の7男・松平定信です。このあたりのことは,昨年2025年の大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」に詳しいです。
1783年(天明3年)1787年(天明7年)にかけて天明の大飢饉で,東北地方は甚大な被害に襲われましたが,松平定信は被害を最小限に食い止めるように分領の越後から白河へ米を輸送させ,同時に会津藩に米を売ってもらうように談判,この裁量により,白河藩の被害は拡大せずに済みました。この功績や藩主就任後の白河藩の財政建て直しの実績が認められ,松平定信は11代将軍・徳川家斉の元で老中に任ぜられました。松平定信の行った寛政の改革は結局6年ほどでとん挫し,松平定信は72歳で亡くなりました。
●阿部家の時代
1823年(文政6年)4代藩主・松平定永は伊勢国桑名藩に転封となり, 替わって阿部正権が入部,以降,幕末まで阿部家が8代44年間在封しました。
7代藩主・阿部正外は勝海舟とも面会し,幕府へ勝海舟の政治思想の危険性を報告,罷免されたきっかけを作ったといわれる人物です。その一方で,京都の攘夷派公家・浪士らの牽制や朝廷との交渉役も務めるというように,一貫して徳川家茂のサポート役を勤め,奥羽越列藩同盟軍を結成し,戊辰戦争では新政府軍と戦いましたが大敗。白河小峰城が焼失しました。
1866年(慶応2年)8代藩主・阿部正静のとき棚倉藩に転封され,白河藩領は二本松藩の預かりとなり戊辰戦争時は藩主不在で係争の地となりました。その後,さまざまな経緯を経て,以後天領となり,明治維新を迎えることになりました。
  ・・・・・・

DSC_2169DSC_2174DSC_2175DSC_2184DSC_2188DSC_2190DSC_2197DSC_2200DSC_2201


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

◆◆◆
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_2160DSC_2158

【Summary】
Shirakawa Komine Castle, largely destroyed in the Boshin War, was authentically reconstructed in wood in 1991. Its stone walls collapsed in the 2011 earthquake but were restored by 2015. Ongoing projects include rebuilding Shimizu Gate. Unlike earlier concrete reconstructions, it represents Japan’s modern movement toward historically accurate wooden castle restoration.

######
私は城マニアではないのですが,日本各地を旅するとどこも代表的な見どころが城,ということもあって,ほとんどの城郭は訪れています。
多くの城は,1873年(明治6年)の廃城令によって,廃城となってしまい,また,あるいは,第2次世界大戦で焼失してしまい,現在,江戸時代のままの姿で現存しているのは,現存12天守というようにわずか12。うち,特に歴史的価値が高いとして国宝指定されたのが,姫路城,彦根城,松本城,松江城,犬山城の5つ,また,重要文化財であるのは,弘前城,丸岡城,備中松山城,松山城,宇和島城,高知城,丸亀城の残りの7つで,私は,そのすべてに行ったことがあります。
  ・・
戦後,廃城,あるいは,焼失してしまった天守を再建する動きがあって,それに伴って,多くの城が姿を現しました。それらのうち,比較的早く再建したものは,鉄筋コンクリート造りで,単なる展望台と化しています。また,戦国時代の城など,当時の姿とは全く異なる,単なる観光施設であるまがいものの天守もあります。これらは,城の姿をしただけの客寄せパンダです。
それとは一線を画して,1990年以降,木造で当時の姿で復元される城が現れました。江戸時代以前の文献や古写真を基に,当時の工法や木材を用いて忠実に再現されたもので,白石城,白河小峰城,新発田城,掛川城,大洲城の5つあります。それらは,コンクリート製とは異なる本物の質感や木の香りが特徴です。私は,期せずして,掛川城,大洲城に行きましたが,今回,それらに加えて,白河小峰城に来ることができました。
また,本格復元志向に伴い,木造復元へ転換しようと計画されているのが,名古屋城や広島城ですが,さまざまな困難があって,なかなか実現に至りません。

白河小峰城は,戊辰戦争でほとんどの建物が焼失し,城址には石垣が残るのみとなっていましたが,1991年に本丸御三階櫓が木造により復元されました。また,2011年3月11日に発生した東日本大震災により石垣等が崩壊しましたが,2015年に復興されました。また,現在も引き続き復元が進んでいて,本丸正面にあった清水門を復元工事中でした。

DSC_2193DSC_2139DSC_2141DSC_2148DSC_2150DSC_2155DSC_2164


◇◇◇


◇◇◇
Pink Moon 2026.

2026年4月2日の月の出です。
ちょうど飛行機が月の表面を通りました。
DSC_2000


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

◆◆◆
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_2116DSC_2127

【Summary】
I often ride the Tohoku Shinkansen, but the area between Utsunomiya and Koriyama long felt unfamiliar yet fascinating. This trip, I rented a car in Shirakawa, discovered its spacious skies and views of the Nasu Mountains, walked from Shirakawa Station to Komine Castle, and enjoyed stunning scenery from the castle tower.

######
東北新幹線は,近ごろ,利用することが少なくないのですが,宇都宮駅から郡山駅あたりまでが,私には未知の世界であり,あこがれれの地でもありました。尾瀬ケ原へ行ったり,奥日光へ行ったり,只見線に乗ったり,大内宿へ行ったりしましたが,どれもが点であって,結びつかないでいたのです。しかし,調べてみると,どこもつながっている,これが不思議なことでした。
また,那須連峰,那須塩原,という言葉になぜか惹かれました。新幹線の窓から那須連峰が美しく見られ,そのふもとには,優雅な住宅が広がっています。とはいえ,それらを巡るにはどうしていいのか皆目見当がつきませんでした。
私は,今回,もともとは郡山市に行くというのが目的だったのですが,ならば,白河市でレンタカーを借りればいいじゃないか,と思い立ちました。白河市というところも,藤井旭さんの白河天文台という言葉に酔っていただけで,何があるのか知りませんでした。ところが,昨年の大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」で登場した松平定信の治めた地ということで,関心をもちました。

最終の東北新幹線を新白河駅で降りて,夜遅く,予約してあった駅前の「東横イン」にチェックインしました。
  ・・
翌日2026年3月7日の朝,ホテルで朝食を済ませ,チェックアウトをして,レンタカーを借りました。「東横イン」は壁が薄く,隣の人のうるさいびきで眠れないというデメリットに加え,朝食が激混みなのが嫌いなのですが,今回はそんなこともなく助かりました。
東北新幹線は新白河駅ですが,白河小峰城のあるのは,白河駅の近くということで,まず,白河駅を目指しました。新白河駅と白河駅は在来線で1駅区間です。
少し走っただけで,白河市というところは,何とすてきな街なのか,と実感しました。何といっても,空が広い。そして,遠くに見える那須連峰が美しい。ほどなくして到着した白河駅前は,以前行ったことがある会津若松駅前を思い出しました。ロータリーが広く,また,無料の広い駐車場ありました。
車を停めて,白河小峰城まで歩きました。車を停めたのは,駅の南側で,さらに,その南に市街地が広がっているのですが,白河小峰城のある城山公園は駅の北側でした。駅の東側には「こみねふれあい通り」という連絡通路があったので,線路を越すのに遠回りをすることもありませんでした。連絡通路を出たところに,立派な白河小峰城の天守が見えました。
まず,天守台に登りました。そこから見えた那須連峰と白河市の街並み,そして,山形新幹線や秋田新幹線を接続した東北新幹線,とてもすばらしい景色でした。

DSC_2025 DSC_2024DSC_2017 DSC_2031 DSC_2029DSC_2035DSC_2041DSC_2045DSC_2061DSC_2055


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

◆◆◆
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_1985DSC_2008

【Summary】
After attending an NHK Symphony Orchestra concert in Omiya, I took the Yamabiko 223 Shinkansen to Shin-Shirakawa. It had a rare combined formation that once allowed non-reserved seating on Komachi cars. With time before departure, I watched many crowded evening trains leave. My reserved seat was nearly full, and friendly conversation made the trip feel short.

######
NHK交響楽団の大宮公演を聴き終えて,大宮駅に行きました。大宮駅午後10時9分発の「やまびこ」223号に乗って,新白河駅に向かうのです。
「やまびこ」223号は仙台駅行きで,新白河駅に行く最終列車でした。
「やまびこ」223号は「やまびこ」車両に「こまち」車両が接続されていました。私は鉄道マニアでないので,さっぱりわからないのですが,これは,東京駅着午後8時4分着の「はやぶさ」+「こまち」32号の折り返しなのだそうで,列車は,通常「やまびこ」として使われるE5系10両と「こまち」として使われるE6系の7両の17両編成です。この列車はE5系のグリーン車と指定席4両を除いた他の車両がすべて自由席ということで,通常は全席指定席の「こまち」に自由席で乗れるというレアな列車なのでした。
  ・・
ところで,3月14日にダイヤ改正が行われ,「やまびこ」223号は,大宮駅発が午後9時49分に変更となりました。「はやぶさ」43号全車指定席の仙台行きは時間が変わらず,大宮駅発午後9時59分なので,こちらが仙台駅に行く最終列車となりました。車内では,3月14日のダイヤ改正で最終列車の時刻が変更されるという放送がされていました。
さらに,私が乗った「やまびこ」223号はE5系の10両編成のみに変更となり,「はやぶさ」43号のほうが全車指定席のE5系10両にE6系の7両が接続された17両編成となりました。つまり,「やまびこ」223号と「はやぶさ」43号に使われる車両が入れ替えされたわけです。そこで,「こまち」に自由席で乗れるというものがなくなってしまったのです。そんなこと知っていたらレアな体験ができたのに,と惜しいことをしました。 …と,こういうことに鉄道マニアはこだわるのでしょう。

さて,私が,NHK交響楽団の大宮公演を聴き終えて大宮駅に着いたのが予想よりずっと早く,午後9時すぎだったので,待ち時間が1時間以上ありました。そこで,もう1列車早くならないか,と緑の窓口で聞いてみたのですが,ない,と即決で言われました。これもまた,後日,家で調べると,新白河駅に停車する大宮駅午後9時21分発の「やまびこ」221号がありました。これは自由席もあるので,切符を変更しなくても乗ろうと思えばそのまま乗れたのでした。しかし,そのときはそんなことを知らなかったので窓口で聞いてみたのですが,どうやら,切符を変更するのがめんどうだったのか,時間がかかるからなのか,嘘をつかれたみたいでした。あるいは,「やまびこ」221号の指定席は完売で,自由席は激混みなので,それを考慮した話だったのかもしれません。ともあれ,もう少し親切に説明してもいいのにと思いました。駅員さんにもいろいろな人がいます。
ともかく,時間があったので,ホームに出てみました。大宮駅は,ここを起点として,北陸新幹線,上越新幹線,東北新幹線,それに付随して,秋田新幹線,山形新幹線が出発するので,壮観なのです。
ところが,とんでもない風景が広がっていました。
大宮駅からは,東北新幹線では9時21分発の「やまびこ」221号,9時49分発の「なすの」275号,9時59分発の「はやぶさ」43号,上越・北陸新幹線では9時29分発の「かがやき」219号,9時45分発の「とき」347号,9時53分発の「あさま」631号,10時5分発の「たにがわ」475号というように,次々に新幹線が出発していったのですが,「とき」347号や「あさま」631号の自由席は通勤列車並みの激混みで,扉が閉まらないくらい。私には信じられない姿でした。金曜日の夜は帰省客などでいつもこんな感じなのでしょうか。ちなみに,実際,大宮駅と高崎駅間は新幹線通勤であふれているみたいです。首都圏には住みたくないものだと,しみじみ思いました。

さて,私の乗る「やまびこ」223号がホームにやってきました。私は指定席券をもっているので,激混みは気にならないのですが,指定席はほぼ満員でした。私の席は窓際でしたが,どういうわけか隣の通路側に座っていた人と波長が合って,おしゃべりをしていたら,あっという間に新白河駅に到着しました。

DSC_1967DSC_1968DSC_1982DSC_1988DSC_1995DSC_1999DSC_2004DSC_2013


◇◇◇


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

◆◆◆
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

このページのトップヘ