試合が終了して,いつのもように,スタジアムに「ニューヨーク・ニューヨーク」が流れはじめた。
ヤンキースタジアムでは,試合終了と同時に,この「ニューヨーク・ニューヨーク」が流れる。ほとんどはフランク・シナトラの歌うものであるが,時として,ライザ・ミネリのことがある。
ライザ・ミネリのものがかかるときは何か,特別理由があるのかもしれないが,私は知らない。
試合が終了したときに決まった曲が流れるスタジアムは,他に,サンフランシスコ・ジャイアンツのAT&Tパークがある。そこでは,トニー・ベネットの歌う「霧のサンフランシスコ」が流されている。
このような演出は,ご存知ボストン・レッドソックスのフェンウェイ・パーク8回表終了時の「スウィート・キャロライン」同様,すばらしいものだ。私は,この曲聴きたさに,ヤンキースタジアムに憧れたころもあった。
この「ニューヨーク・ニューヨーク」は試合に勝ったときだけ流れると書いてあったものがあるが,それは間違いである。
私は,この曲を背に,ヤンキースタジアムを後にした。
ヤンキースタジアムを出たところに,地上に駅がある地下鉄4番ラインの161ストリート駅がそびえていて,鉄でできた階段を上ると駅の改札に出た。試合終了時なので,さすがに混雑していたが,日本のような身動きできないような状況ではなかった。
地下鉄4番ラインの161ストリート駅のホームから眺めたヤンキースタジアムは壮観であった。
スタジアムの南は広い公園となっていた。昔のヤンキースタジアムのあった場所だということであった。
さらに南はハーレムリバーで,その向こうに,マンハッタンのビル群が見えた。
今にして思えば,まだ,時間も早かったので,そんなに帰りを急がなくても,ブロンクスを少し散策すればよかった。
32年前にこの地に来たときは,このあたりは薄暗く,スタジアムの外で営業をしていた民間の駐車場すらやばい雰囲気がありありで,管理をしていた男は,駐車代金のおつりを請求しても,帰りに払うと言ったし(絶対に帰りに彼はいない),駐車場からスタジアムにつながるわずかな距離を歩くだけでも,ずいぶんと気を使う必要があった。
そのころは,ヤンキースタジアムのあるサウスブロンクスは,かなり,とんでもないところのようであった。
それが,なんという変化であろうか。ここは,まったくお台場と変わらないではないか。
現在,ブロンクスがどのようなところかは,知らない。現地に住んでいる日本人に聞いても,あまりよく知らないという。日本人はほとんど住んでいないようなのだ。ただし,まだ日が暮れる前なので,少しだけなら付近を散策してもどおってことはないような感じであった。
しかし,このときは,私も家路を急ぐ満員の乗客とともに地下鉄4番ラインに乗って,ともかく,マンハッタンの59ストリートまで戻った。
これからの今日の予定は,午後8時30分からアンバサダー劇場でミュージカル「シカゴ」を見ることだったので,それまで,まだ3時間くらいあった。
ゆっくり食事をするか,それとも,どこかへ行こうかと考えていた。
59ストリートは,マンハッタンの中央に位置する広いセントラルパークの南に面した道路である。私は,地下鉄4番ラインの通るレキシントンアベニューの59ストリートを地上に出た。昔来た時のように,観光馬車やら,街頭の物売りやらがいて,昔と変わらぬ景色が広がっていた。