試験の「問題」っていのもの自体の考え方が,教科によって違うことって知っていますか。
私は,このことを最近認識してびっくりしたわ。もっとはやく気づいていたら,大天才だったのに,と思うわね。きっと,テストでいい点を取る人って,頭がいい悪いじゃなくて,こういうことをはじめから知っている人なのよ。
どういうことがというと,たとえばね,算数や数学の場合は,問題っていうのは,たとえば,「2×3=」っていうようなもので,答えの選択肢として,「ア.4,イ.5,ウ.6」とあれば。正解はもちろん「ウ」になるわけね。
それが,国語の場合だと,「次の文章を読んで,正しいものを答えよ。」と書いてあって,文章が「きょう花子さんが1+1の答えは2だと言った。」であったとき,答えの選択肢として,「ア.1+1の答えは2,イ.1+1の答えは3,ウ.2+3の答えは5」と書いてあれば,正解は「ア」ということになるわけね。「イ」は計算として正しくないというよりも書いていないから間違っていて,「ウ」は計算としては正しいけれど,そんなことは書いていないから間違っている,というわけなの。だから,もし,文章が,「きょう太郎君が1+1の答えは3だと言った。」だったなら,正解は「イ」ということになるわけなのよ。
何が言いたいかというと,国語という教科で問題というのは,「次の文章を読んで」というところが大切なのね。これは,本当は「文章を読んで」じゃなくて,「文章に従って」なの。だから,そこに自分の感情やら意見やら考えを含めてはいけないのね。だから,国語が苦手っていうのは,本当に読解力がない場合もあるけれど,そうじゃなくて,国語っていう教科の問題とその答え方のルールがわかっていない,ということもあるのね。
国語の試験では,文章を読んで,そこから,何かを感じたりして自分で考えたり解釈しちゃいけないわけなの。
小説を読んで,自分が主人公の気持ちになったり同化して,こういうときには悲しいわね,と自分が思っても,その作品に主人公は「笑った」とか「笑顔を見せた」と書いてあったら,それがすべてなの。主人公は楽しかったとか面白かったということになるわけ。
こういうことがわかっている子は国語の試験で点数が取れるのだけど,それがわかっていないと,国語力がない,って言われちゃうの。
でも,算数や数学だと,例題をを元にどれだけ自分でその考えが応用ができるか,っていうのが一番大切な力なの。だから,「1+1=2」っていう仕組みを習えば,「1+2=3」だって,「2×3=6」だって,自分で応用してできるようになるか,っていうことが大切だから,そういう力がある人を優れているというわけ。
これが教科による問題というものの認識の根本的な違いなんだけど,非常に重大で,見過ごされていることなのね。
でも,本当は,文章を読むという行為だけでも,国語の問題のように,書いてあることに従えばいいということではないわけね。
私は,文章の解読というのは,書いてあることをありのまま理解できる力と,その内容を解釈して応用できる力と,そこから自分が感情を輸入して同化することができる力があって,その三つを分けて考えないといけないと思っているわけ。
そして,この三つの力はすべて大切だと思うのだけれども,小説を読んで楽しむためには,この三つの力の中で三つ目の力が一番必要で,これは,解読力というよりも,むしろ芸術の鑑賞力に近いから,一般の人が求めている「国語を正確に解読する能力」とは全く別物なのね。
よく,国語の受験問題に出題された小説の実際の作者がその問題が解けなかったということが書いてあるけれど,それは,こういうことが理由なのね。
小説を国語という教科の中で勉強するっていうこと自体が,問題なのかもね。