梅雨に入ったばかりのころは,まだ雨も少なく気持ちがよいので,町歩きをするのに最高の季節です。そして,梅雨が深まると,今度は落ち着いて部屋で好きな音楽を聴いたり本を読むことができます。
だれしも,どこかへ行ったり音楽を聴いたりしたときに,それが素晴らしいものであるとその世界に埋没して我を忘れ,あたかも自分がその世界にタイムワープして感じ入るという経験をするものです。そんなすてきな瞬間を,小林秀雄は,そうした経験はさも自分だけが感じ入ることができるんだとでもいうように「わかりにくい言葉」で語ってみせ,それを「評論」と称しているのだという意見を読んだことがあります。
たとえば,「無常という事」という作品があります。
難解なこの作品でも,歳をとった私が読むとよくわかるのです。しかし,若くして「無常観」なんてわかるわけがありません。そんな作品が高校の教科書に載っていても高校生が読んで到底わかるとは思えません。きっと,若い先生が授業でその作品の解釈をしても,教える本人だってよくわからないのだから,習う生徒はわかるわけがないに違いないと,私は思います。
こうした作品は,ある種の経験を重ねてこそ初めて同化できのです。歳を重ねた後で読むと,それは自分の気持ちを理解してもらえた友人に出会ったようなそんな錯覚をするので,作品を味わうことができたような気になるのです。
そんなものが高校の教科書に載っているから,学生は大変なのです。しかし,テストに出るからそんなことをいってはいられないという人は,今ではネット上に優れた解説が山ほどあるので,それをたくさん読んでわかった気になるのが一番効率的でしょう。30年前とは時代が違うのです。それが,私が中等教育は意味がないという理由のひとつです。
「無常という事」では,小林秀雄は比叡山を散策しているときにタイムトリップ状態に入るのです。
-あの時,私は無常を感じる女性の姿に鎌倉時代を思い出していた。
「蘇我馬子の墓」では,飛鳥を歩きつつタイムトリップ状態に入ります。
-山が美しいと思ったとき,私はそこに健全な古代人を見つけた。
「モオツァルト」では,大阪の道頓堀をぶらついている最中にタイムトリップ状態に入ります。
-モオツァルトの音楽は「思い出す」というようなことは出来ない。それはいつもそのままの姿で私の中に存在している。
小林秀雄は,そうして自分がそれを思う瞬間,瞬間をいとおしんでるというだけなのです。それを「無常という事」では「美学の萌芽とも呼ぶべき状態」と名づけ,「蘇我馬子の墓」では「芸術の始原とでもいうべきものに立ち会った」といい,「モオツァルト」では「音楽が絶対的な新鮮さとでもいうべきもので僕を驚かした」と表現するわけです。そのつど難解な言葉を並べ立てて英雄気取りで自慢するのです。俗物の君にはわからないだろうと。
吉田秀和は言葉によって見えない音楽を見えるものにしましたが,小林秀雄は見える景色を言葉で見えなくするのです。だから,丸谷才一は吉田秀和を絶賛しても小林秀雄は嫌いだったのです。
私は思うのです。
私が好きな瞬間,たとえば,カントリーミュージックを聞きながらアメリカのインターステイツを走っているとき,ブラームスの第4番交響曲のパッサカリアを聴きながら吉田秀和の「音楽展望」を読んでいるとき…,など,そうした瞬間は,自分にとっては純粋にそれだけでいいのです。それを言葉で表現する手段を,実は,私はもち合わせていないし,もつ必要もないのです。
しかし,それを小林秀雄は評論という鎧を着せて言葉で表現してみたいのでしょう。自分なら書けると。しかし,小林秀雄が「無常という事」でいいたかったことは,そんな難解な言葉を使わずとも,かつて芭蕉が,
夏草や兵どもが夢の跡
という17文字で表現してしまっている,それだけのことなのです。
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紫陽花を見つつ偲はむ-北鎌倉・明月院
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