カレリア――。
それはフィンランド民族の魂の土地,民族詩カレワラが歌われた伝説の地。
シベリウスの音楽はカレリアへの愛からうまれた。
霧と沼,白樺と岩肌,冷たく暗い北の国。でも,そこが本当の私たちの故郷。
私たちは二千年も前からカレリアに生きてきた。
第二次世界大戦の時フィンランドはドイツと組んでソ連と戦いそして敗けた。
沢山の若者が死に,敗戦の後に残ったのは三億ドルの賠償金の支払いと,国土の割譲だった。
フィンランド人は戦後八年かかって必死でそれを払った。
国民は歯を食いしばってそれに耐え,最後の賠償船がヘルシンキ港からソ連へ出ていった時――
それを見送って或る人は泣いた。
でも,それだけじゃなかった。
ソ連とフィンランドの国境地帯,カレリアという土地は戦争に敗けたために,ソ連側に割譲された。
カレリア地方には沢山のフィンランド人が住んでいた。
彼らは,自分の国を選ぶことと迫られ,カレリアの人々は一人残らず祖国を選んだ。
彼らは全てを捨て,裸でフィンランドへ引揚げてきた。
(五木寛之「霧のカレリア」より)
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私はこれまで「フィンランド」という国について興味もなかったし,ほとんど何も知りませんでした。知っていたことといえば,サウナに入ってそのあとに極寒の湖に飛び込む人たち…くらいのイメージでした。
いやそれだけではなくて,子供のころに読んだ本で,この国は隣国ロシア(当時のソビエト連邦)とうまく関係を気づかないとつぶれてしまうと書かれていたことが強く印象に残っていました。その時代の大統領は「ウルホ・カレヴァ・ケッコネン」(Urho Kaleva Kekkonen)で,この大統領がそれをきわめてうまくやっているとも書かれてありました。それ以外には作曲家シベリウスの音楽でした。シベリウスの音楽は暗く,精神的に深く,欧米ではあまり人気がなく,日本に愛好家が多いそうです。このシベリウスの音楽については,また別の機会に書きたいと思います。
私は2018年2月,フィンランドにはじめて出かけて,この国のすばらしさに魅了されてしまいました。そこで,再び訪れる日のために,これまでほとんど知らなかったこの国について調べてみました。
フィンランド共和国(Suomen tasavalta=Republiken Finland)は北欧諸国のひとつであり,西はスウェーデン,北はノルウェー,東はロシアと隣接し,南はフィンランド湾を挟んでエストニアが位置しています。首都のヘルシンキはロシアの主要都市・サンクトペテルブルクへ西側諸国が投資や往来をするための前線基地となっています。このように,フィンランドは,ロシアとヨーロッパ諸国の両方からの地政学的重要性から,歴史上何度も勢力争いの舞台や戦場になってきました。
現在は,豊かで自由な民主主義国として知られていて,「世界で最も競争的であり,かつ市民は人生に満足している国のひとつである」とされています。フィンランドは,収入,雇用,所得,住居,保健,教育,技能などすべての面でOECD加盟国の平均を上回っています。
では,このフィランドの歴史についてまとめておきましょう。
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フィンランドの歴史は,先史時代(〜1155年),スウェーデン時代(1155年〜1809年),ロシアによる大公国時代(1809年〜1917年),独立後の時代(1917年〜)の四つの区分に分かれます。
*先史時代*
フィンランドには旧石器時代から,南には農業や航海を生業とするフィン人が,北にはトナカイの放牧をするサーミ人が居住していました。400年代になると,ノルマン人のスヴェーア人がフィンランド沿岸に移住を開始し,次第に居住域を拡大していきました。
*スウェーデン時代*
1155年,スウェーデン王エーリク9世が北方十字軍の名のもとフィンランドを征服し,キリスト教(カトリック)を広めました。1323年までにスウェーデンによる支配が完了しスウェーデン領になりました。1581年,フィンランドの独立が模索された結果,ヨハン3世が「フィンランドおよびカレリア大公」となり,フィンランド公国建国が宣言されましたが,フィンランドに植民したスウェーデン人が中心の国家で,長くは続きませんでした。
1700年からはじまった大北方戦争の結果,1721年のニスタット条約でフィンランドの一部であるカレリアがロシア帝国に割譲され,ナポレオン戦争の最中にスウェーデンが敗北すると,1809年にアレクサンドル1世はフィンランド大公国を建国しました。その後スウェーデンは戦勝国となったのですが,フィンランドはスウェーデンには戻らずロシアに留め置かれました。
*ロシアによる大公国時代*
19世紀のナショナリズムの高まりはフィンランドにも波及し,ロシア帝国によるロシア語の強制などでフィンランド人の不満は高まりました。1899年,ニコライ2世が署名した二月詔書に,高揚するロシア・ナショナリズムに配慮してフィンランドの自治権廃止宣言が含まれていることがフィンランド人に発覚したため,フィンランドで暴動が発生。1904年にはフィンランド民族主義者オイゲン・シャウマンによるロシア総督ニコライ・ボブリコフ暗殺の惨事にいたり,ついに1905年には「自治権廃止」は撤回されました。
*独立後の時代*
1917年,ロシア革命の混乱に乗じてフィンランド領邦議会は独立を宣言,1918年に共産化し,オットー・クーシネンらを首班としたフィンランド社会主義労働者共和国が成立しました。その後,ドイツ軍など外国の介入もあり,フィンランド南部で優勢だった赤軍は白軍のマンネルヘイムにより鎮圧され,1919年,フィンランド共和国憲法が制定されました。しかし,独立後のフィンランドの政情や国際情勢は不安定で,1921年にスウェーデンとオーランド諸島の領土問題で争い,さらに1939年から1940年のソ連との冬戦争では国土の10分の1を失いました。
第二次世界大戦(継続戦争)では,ソ連と対抗するために枢軸国側について戦い,一時は冬戦争前の領土を回復しましたが,ソ連軍の反攻によって押し戻され,1944年にソ連と休戦,休戦の条件として国内駐留ドイツ軍を駆逐するために戦うこととなりました。
敗戦国になったものの,フィンランド軍はソ連軍に大損害を与えて進撃を遅らせ,ナチス・ドイツ降伏前に休戦へ漕ぎ着けたので,フィンランドはソ連へ併合されたり,ソ連に占領された東ヨーロッパ諸国のように完全な衛星国化や社会主義化をされたりすることがなく現在に至っています。
戦後はソ連の影響下に置かれ,ソ連の意向によりマーシャル・プランを受けられず,北大西洋条約機構(NATO)にもECにも加盟しませんでした。このように,自由民主政体を維持し資本主義経済圏に属するかたわらで,外交・国防の面では共産圏に近かったのですが,ワルシャワ条約機構には加盟しませんでした。これらをフィンランド化といいます。この微妙な舵取りのもと,現在に至るまで独立と平和を維持することができました。
ソ連崩壊後は西側陣営に接近し,1994年にはEUに加盟,2000年には欧州共通通貨ユーロを導入し,現在の繁栄に至っています。
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