この国には住みたいところがありません。街を歩いていて,ここなら住んでもいいなあ,とか,この家は住みたいなあ,というところは皆無です。どこも狭い土地に無理やり建て売り住宅を作って分譲しているだけです。それでも結構な値段です。そうしたことを延々と続けて来た結果,どの町も景観に対する配慮もなく,不便極まりない状態になっています。また,そうした家は大概2階建てですが,将来,子供が独立したら初老の夫婦が住むには全く適さないものとなります。しかも,やっと住宅ローンを払い終わったころに,今度はリフォームが必要となります。そしてまた,その家の主が亡くなって相続しても,今度は売れないので単に負債となります。そして駐車場ばかりが増えていきます。
 マンションの場合,今度は,子供が2人いると住むことのできないような間取りになっているので,これがまた少子化に輪をかけています。そもそもマンションなど,毎月の共益費とか維持のための積み立てを考えると,賃貸アパートと差がありません。しかも,マンションを売るとなると,その資産価値は賃貸アパートを借りて賃貸料を払っていたのとほとんど差がないほど目減りしています。
 生きるのにもっとも大切な「住」がこんなことでは,いくら「食」に関しては世界で最も快適であっても,この国はどうにもなりません。…と,私はずっと思っていて,海外旅行をして,海外の住宅を見るたびに,ますますその確信を強くしているのですが,そんな現実を知らず,未だ持ち家信仰が深く年収の数倍のお金を出して家を買い人生をローン漬けにしている人たちをとても哀れに思います。
 そもそも,持ち家というのはそこに「根」をはるということなので,人の目指す最高の幸せである「自由」とは真逆のものです。

 芸術家や勝負師,あるいは,起業家のような,自分の能力で生きている人は別として,既成の組織のなかで偉くなる(高い地位を占める)とか,名誉を手に入れるというのは,最も愚かな生き方です。
 仕事というものは自分の限られた人生の貴重な時間を売って生きるためのお金を手に入れるという作業です。だからこそ,売った時間はきちんとそれに打ち込むことが大切なので,仕事はきちんとこなさなければなりませんが,そうした時間は少なければ少ないほどよいわけで,50歳をすぎ,残り時間が少なくなってきたころにさらに自分の多くの時間を仕事に費やさなければならない地位に就くなどというのもまた,人の目指す最高の幸せである「自由」とは真逆のものです。
 理事長になりたいから力士になるわけではないでしょう。将棋連盟の会長になるために棋士になるわけではないでしょう。あるいは,学長になるために研究をしているわけではないでしょう。そうなっている人のほとんどはだれかがそうした立場にならなければならないのでそうした地位にさせられれてしまった気の毒な人です。
 私のまわりにもそうなって(あるいはさせられて)から退職した人たちがたくさんいますが,彼らを見ていると,貴重な50代を単に仕事で追いまくられて貴重な時間を無にし,しかも,単に組織を管理することに多忙であっただけで何も残せなかったという,そういう現実を目の当たりにして,私はとても同情します。
 しかし,人というのは何かを勘違いする生き物で,組織の中にいるとそういう地位に就くことを「出世」と勘違いしはじめたり,あるは,不幸にもそうなってしまった後に退職してやっと自由を手に入れても,何を考えているのか未だに地位にこだわっている哀れな人や自分を偉いと勘違いしている人さえいます。

 …などということをなんとなく思っていたら,人の最高の生き方というのは,まさに「寅さん」だったということに思い当たりました。「寅さん」は的屋という仕事をしているので無職ではありませんが,自由気ままという感じが私には無職のように思われます。端的にいえば「住所不定・無職」,そして偉ぶらず「人にやさしい」ということこそが,最高の幸せの姿であるわけなのです。それこそが,実は多くの人が望んでいるにもかかわらず,最も得ることが困難な生き方なのです。

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