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 前日の夜は雷まで光る雨で星が見られなかったのは残念でしたが,朝目覚めたときはすでに晴れていました。起床したのがまだ午前5時まえだったというのに,空がもう明るかったのにはびっくりしました。しかし,考えてみれば今は6月なのです。私は冬の南半球オーストラリアで星を見たばかりなので季節を錯覚していたようです。
 二度寝をしたあと,午前8時,ゆっくりと朝食をとってチェックアウト,予定通りに木曽福島の町に出ました。梅雨の合間,この日だけが晴天ということでツイていました。

 福島宿は旧中山道37番目の宿場で,現在の地名は木曽郡木曽町福島です。天保14年(1843年)の「中山道宿村大概帳」によれば,福島宿の宿内家数は158軒で,うち本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠14軒で,宿内人口は972人ということでした。
 この宿には関所がありました。歌川広重の描いた福島宿もこの関所が描かれています。
 江戸時代,幕府は江戸防衛のために五街道の各所には50にのぼる関所を設けたのですが,この福島の関所は東海道箱根や新居,中山道碓氷と並ぶ「天下の四大関所」のひとつでした。
 福島の関所は宿場の北入口にあって,断崖絶壁の木曽川に面しているので立地としては理にかなっています。関所は明治2年に取り壊されましたが,昭和50年に復元されて関所資料館になっています。
 私はこの関所跡を見学する人のための駐車場に車を停めて町のほうから歩いてきたので,高台にある関所あとまでかなりの坂を上る必要がありました。北から来れば道路沿いにそのまま関所にたどり着くことができたようです。

 現在は川に沿って道路ができているので,知らないと高台にある関所跡を見逃してしまいます。私はこれまで箱根の関所跡も新居の関所跡も行ったことがあるのですが,ここの関所跡もそれと同様に,あるいはそれ以上にきちんと管理されていました。そして,充実した資料の展示がされていました。
 残念だったのは,到着したときはほかにはほどんと見学者がいかなかったので落ち着いた時間が過ごせたのに,突然,50人もの騒がしい団体のおじさんやおばさんたちがやってきて静寂は破られ,そうした雰囲気が台なしになってしまったことでした。

 関所跡には太田瑞穂の歌碑がありました。
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 山蒼く暮れて夜霧に灯をともす
  木曽福島は谷底の町
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 歌人・太田瑞穂は1876年(明治9年)長野県東筑摩郡広丘村(現・塩尻市)に生まれた人です。長野県師範学校(現・信州大学教育学部)に進学し,在学中に詩歌に興味を持ち,文芸雑誌「文学界」に新体詩の投稿を始め,信濃毎日新聞に「和歌日抄」を掲載。卒業後は松本高等女学校(現・長野県松本蟻ヶ崎高等学校)の教師となったそうです。
 確かに,この関所跡から木曽福島の町を眺めるとこの町が谷底にあるように感じられました。

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東海道を歩く-石畳の箱根峠を越える①
東海道を歩く-晩秋の浜名湖沿いの街道を行く③