仁徳天皇陵,履中天皇陵,反正天皇陵に行ったので,ここで,この時代の天皇について書きます。
古代史がおもしろいのは,わからないことが多いからですが,そこで,調べれば調べるほど興味が増してきます。権力者の系譜というのは,それがどこまでが真実であるかということよりも,そうした権威をいかに神聖化するかということが組織を束ねるためのひとつの目的となっていくので,それと史実を同等にはできませんし,それは政治であり学問ではありません。
初代神武天皇以来,2代綏靖天皇から9代開化天皇までの「欠史八代」ののちの10代崇神天皇からが実在した可能性のある天皇なのですが,その後の15代応神天皇までもその実在性は定かでありません。15代応神天皇の子が16代仁徳天皇,その子どもが17代履中天皇,18代反正天皇であり,このころからほぼ実在していたと思われます。また,今に伝わる天皇家の系図をみると,その後,25代武烈天皇と26代継体天皇に大きな隔たりがあり,26代継体天皇はその5世代前の15代応神天皇までさかのぼったその5世孫の傍系で越前国からやって来たとなっています。
そこで,学問としての歴史は,王朝交代説を唱えるわけです。私は歴史学者でないので,それ以上のことは知りませんが,ともかく,紀元300年ごろまでになんらかの形で今の奈良県にあたる地方に有力者が生まれヤマト政権を成していて,紀元400年ころに今の大阪府にあたる河内出身の15代応神天皇あるいは16代仁徳天皇とされる有力者がそれに代わり,その正当性を主張するためにそれ以前のヤマト政権と系譜を同一にして25代まで続き,紀元500年ころにまた別の系統の今の福井県あたりからやってきた有力者がとって代わって26代継体天皇の系譜となってそれが今に続くような感じに私はみえます。
また,後世,50代桓武天皇の母は百済系渡来人氏族和氏の出身である高野新笠です。
当時の日本のことを伝える中国の文献は,卑弥呼で有名な「魏志」の倭人伝以降「晋書」の四夷伝に266年倭国から朝貢があった,という記述があるのち,「晋書」の安帝紀に413年倭国から安帝に貢物を献ずる,とあるまで,約150年間記述がありません。その時代を伝えるのが後世に作られた古事記と日本書紀だけであることから,この時代は「空白の4世紀」とよばれています。
この時代の日本は古墳時代で各地に大きな古墳が大量に作られていることから,多くの有力者がその覇権を争っていたことが想像できます。そして,その覇者としての政権が誕生し,「宗書」の倭国伝にみられる「倭の五王」の時代を迎えるわけです。これが百舌鳥古墳群に葬られた天皇の時代です。
「倭の五王」である讃,珍,済,興,武のうち,済,興,武はそれぞれ19代允恭天皇,20代安康天皇,21代雄略天皇を指しているのですが,讃は15代応神天皇か16代仁徳天皇か17代履中天皇,また,珍は16代仁徳天皇か18代反正天皇のいずれを指しているのか諸説があります。
いずれにしても,巨大古墳が存在してるのは事実であり,そこに誰かが葬られたことも事実なので,そこにどういった史実があったのかは定かでないにしても,実際に百舌鳥古墳群を見ていると,どうしてこんな巨大なものが必要だったのか,また,そんなものが作れる権力があったのか,あるいは,作る必要があったのかなど,いろんな想像が膨らんできて,おもしろいものです。
それにしても,その日を生きるのも大変だったのに,よくもまあ,こんな巨大なものを作ったものです。




