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 私は50年来の念願がかなって,和歌山城に行ってきました。もっと壮大なお城だと思っていただけに,かなり拍子抜けしましたが,行けてよかったです。それとともに,それまでは思っていなかった,どうして陸の孤島のような和歌山市に徳川御三家のひとつがあったのかという疑問がふつふつとわいてきました。いつもそうですが,その地に行ってみないとわからないことがたくさんあるものです。
 あとで調べてみると,私が寂れたところだなあと思った和歌山市は,実際,人口も減っていて,活気のないところのようでした。そもそも,JRの和歌山駅と南海電車の和歌山市駅がずいぶんと離れていて,しかも,その中間にある和歌山城のあたりが市の中心部であるということからして,都市の発展を妨げていますし,これといって産業の目玉もありません。これでは人が流出します。そしてまた,和歌山市から南にいったところで,さらに何もないから,通過点ともなれません。

 もともとこの地にあったのは,JR和歌山駅近くの太田城でした。そのころ,根来寺は寺領72万石,3万兵の僧兵を養い,ここを中心として「紀州惣国一揆」が起きていました。これが紀州征伐の原因となって,豊臣秀吉の水攻めにより太田城は落城しました。その後,1585年,豊臣秀吉が当時若山とよばれていた地に城を築き,豊臣秀吉の弟羽柴秀長にこの地を与え,城が完成すると地名を和歌山と改めました。
 豊臣秀長は城代として家老の桑山重晴にこの城を任せましたが,関ヶ原の戦いで徳川家康に従った桑山重晴の子桑山一晴は大和新庄へ移封となり,代わりに浅野幸長が入りました。1619年,福島正則の改易で浅野幸長が広島へ移り,和歌山城に入ったのが徳川家康の10男徳川頼宜で,これにより紀州徳川家が成立しました。
 徳川家康は,天下を統一したのち,伊達藩など東北への監視として水戸徳川家,関西方面への監視として名古屋に尾張徳川家を置きました。
 ポルトガル船が種子島に鉄砲を伝えたように,種子島や琉球は諸外国との接点でしたが,種子島や琉球には和歌山港から紀伊水道を南下して黒潮に乗って帆船で行き来しました。陸路では広島の毛利家や九州の島津家などの領地を通らねばならず,直接自由に行き来できるものではなかったのです。また,鉄砲の一大製造地であった根来寺は当時砂金も採れ刀など鍛冶職人が多く住み僧兵も根来寺を中心に1万人くらい住みんでいましたし,高野山などの僧兵にも目を配る必要がありました。このように,武器製造地を押さえ,僧兵を監視し,琉球などの海外との接点を独自に管理するための重要拠点として,和歌山の地は重要だったのです。

 幕末。13代の紀州藩主であった徳川慶福が徳川家茂と改名して14代将軍となると,藩主が空席となり,幕命によって,伊予西条藩の9代藩主松平賢吉が紀州徳川家の養子となり徳川茂承と名を改めて14代藩主となりました。徳川茂承は長州征伐に参戦しましたが,戊辰戦争では新政府に恭順,明治維新を迎え,版籍奉還によって和歌山藩知事となりました。