御嶽宿から北東,つまり,江戸に向かうと,12キロメートル宿場がなく,険しい山道の峠越えになります。ここは今でも自動車道路がありません。その先が細久手宿,そして,大湫宿です。
大湫宿から先は歩いたことがありますが,私の感覚ではJR中央線の沿線なので,まったく別の場所のような気がします。つまり,御嶽宿と細久手宿の間がタイムトンネルのような感じで,このふたつの宿場はまったく別の場所なのです。旧中山道沿いのこの間には有名な大黒屋という今も営業している宿屋があって,外国人にも人気です。私もいつか泊まってみたいものだと思っています。
さて,私は,今回はその反対方向,西に向かって御嶽宿から伏見宿をめざして歩きはじめました。
御嶽宿は願興寺の門前町として栄えました。28軒の旅籠があり人口は600人ほど,東に向かう険しい山道を控えて多くの旅人が逗留しました。
御嵩町の立派な図書館の2階にこれもまた立派な郷土館がありました。なかなか充実した展示でした。こうしたものを見ると,その町の文化水準がわかりますし,御嵩町が旧中山道の宿場町としてのプライドをもっていることを実感しました。
さて,ここからは県道341号線が国道21号線を取り巻くようにして並走したり吸収したりしていて,その道が旧中山道となります。その南には私が乗ってきた名鉄の線路も並走しています。
旧街道沿いには,鬼の首塚とか一里塚とか願戸城跡とかいったもの以外,ほかに特に何があるというわけでもないのですが,のどかな道路に沿って歩きます。
ずっと平坦なので,江戸時代はまわりに田畑が広がり,さぞ気持ちのよい歩きだったことでしょう。
そのうちにやがて町が見えてきました。そこが伏見宿でした。伏見宿というのは明智町。しかし,明智宿とはいわず伏見宿でした。伏見宿は本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠29軒。もともとは間宿だったのですが,木曽川の渡しの場が移動して土田宿が廃宿となったために1694年(元禄7年)に新設されたものだそうです。新設された宿場は大きく発展することはなく,1848年(嘉永元年)に本陣をはじめ26戸を焼失する大火が発生しましたが本陣は再建されることなく明治維新を迎えました。
伏見宿はペルシャ産のラクダが伏見宿内の旅籠「松屋」に滞在したという記録で有名な宿場です。オランダ商人が幕府にラクダを献上しますが,幕府は受け取りを拒否。ラクダは興業師にわたり,1824年(文政7年),興業師が病気になったために3日間伏見に滞在。このとき2,000人がラクダを見に集まったとかいうお話です。
伏見宿は特になにもなく,旧街道の面影もそれほどなく,当時の宿場の中心あたりに中山道ゆったり伏見宿という休憩所があるだけでした。休憩所の中にはいると,初老の女性が番をしていました。お菓子をいただきコーヒーをご馳走になり,しばし休憩しました。
もともとは,中山道ゆったり伏見宿からさらに西に8キロメートルほど歩いて太田宿に向かい,太田宿のある美濃太田駅からのJRの高山線に乗って岐阜を経由して帰るつもりでしたが,今回は明智へ寄り道するために変更して,南の方向に歩くことにしました。




