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 今日からは「一度は行きたかったでもわざわざ行かなくては行かれない場所に行ってみよう」という計画の続編で,3月9日に日帰りで日本海の「親不知子不知」に行ったときのお話です。
 行ってからすでにひと月あまりの時間が過ぎました。その間,世界の情勢はさらに悪化し,いつ終わるともわからない不安が増幅してしまいました。わずか数か月前の人が行き交っていた世界が夢のようです。
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 3月6日の金曜日に余部鉄橋の行ったことはすでに書きました。人混みがきらいで週末はあまり出歩きたくないので自宅で過ごし,週明けの3月9日の月曜日,今度は新潟県の「親不知子不知」海岸に車で行くことにしました。雪が心配だったのですが,ぽかぽか陽気で,その心配もなさそうでした。

 私は,長年,ずっと「親不知子不知」海岸に行ってみたいと思っていました。
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 誰もいない(中略)聞えるものは波音だけ。泌み入るようなさみしさである」
  深田久弥「親不知・子不知」より
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というように,北アルプスが日本海に鋭く落ち込み作り出した断崖絶壁に面したわずかな渚である高尾の場所は,明治のはじめまで,そこは越後と越中を結ぶ最短路であり,かつ,旅人が命がけで歩いた道でした。

 また,この場所は,参勤交代をする加賀藩にとっても,最大の難所でした。
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 金沢から江戸に参勤交代するコースは,金沢から北陸道の越後高田を通り,北国街道の信濃追分から中山道を通り江戸へというコースでした。 このコースでは,江戸までの距離は百十九里(約480キロメートル),所要日数は12泊13日なので,1日あたり十里(40キロメートル)を歩いたわけです。旧街道歩きを楽しむ私には実感がわきます。加賀藩の参勤交代行列の人数は最大で4,000人程度,通常は2,500人から3,500人で,日本一大規模なものでした。かかった費用は現在のお金に換算すると5億円とも7億円ともいわれます。
  日本海の荒波が断崖下の道に迫っている親不知は参勤交代道中の中で最大の難所でした。500人から700人の「波除け人足」が麻縄を持ち,人垣を造って藩主を護り,馬は荷物を付けたまま通ることができないので人間が馬に代わって荷を担ぎ,馬は空荷で通しました。そして, 渡り終えると江戸と加賀に注進の特使を飛ばし,難所を無事に通過したことを知らせたそうです。
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 私が「親不知子不知」海岸のことを知ったのは,こうしたものからですが,古より,これだけの困難を強いた場所があれば,そこがどんなところかと一度は見ておきたいと思っていたのでした。