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駐車場を出て国道8号線を東に進んでいくと,やがて道の駅に着きました。このあたりが子不知だそうです。
ここで難所も終わり,先には平地が見えてきました。昔の旅人はほっとしたことでしょう。さらに行くと姫川があって,橋を越えると糸魚川市です。糸魚川市といえば,東北日本と西南日本の境目となる中央地溝帯・フォッサマグナです。小学校で習いました。
本来なら,私は列車に乗ってこの糸魚川市に着いて,ここから西に親不知海岸に列車で目指す1泊2日の旅をするはずでした。
車で走っていると,乗るはずだった1両編成の列車が走っているのが見えました。しかし,こうして車であっという間に来てみると,これでは旅情もへったくれももなく,ただ来たというだけのことでした。
目的は親不知海岸を見てみたいということだけだったので,ここらあたりで引き返すことにしました。目的を達成できて,これはこれで満足しました。
帰りの途中,市振の集落に差し掛かったので,一旦国道8号線を降りて集落の細い道に入りました。
松尾芭蕉は「奥の細道」で,次のように書いています。
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今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返しなど云北国一の難所を越て,つかれ侍れば,枕引よせて寐たるに,一間隔て面の方に,若き女の声二人計ときこゆ。
年老たるおのこの声も交て物語するをきけば,越後の国新潟と云所の遊女成し。伊勢参宮するとて,此関までおのこの送りて,あすは古郷にかへす文したゝめて,はかなき言伝などしやる也。
白浪のよする汀に身をはふらかし,あまのこの世をあさましう下りて,定めなき契,日々の業因,いかにつたなしと,物云をきくきく寐入て,あした旅立に,我々にむかひて,「行衛しらぬ旅路のうさ,あまり覚束なう悲しく侍れば,見えがくれにも御跡をしたひ侍ん。
衣の上の御情に大慈のめぐみをたれて結縁せさせ給へ」と,泪を落す。不便の事には侍れども,「我々は所々にてとヾまる方おほし。只人の行にまかせて行べし。神明の加護,かならず恙なかるべし」と,云捨て出つゝ,哀さしばらくやまざりけらし 。
一家に遊女もねたり萩と月
曾良にかたれば,書とヾめ侍る。
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このときに松尾芭蕉が泊ったという宿の跡が残されていました。
ここはまた,市振の関所があった場所です。市振の関所は1614年(慶長19年)に設けられたものといわれ,加賀藩最大の関所でした。越後に通じる親不知の難所を控え,交通の要所を押さえるように国境に設置されたものです。
加賀藩はこの地を直轄地とし国境警備に重点をおいたので,ここは全国でも最大級の規模をもつ関所でした。関所には,海辺や海上渡航改めをする浜関所,街道通行改めの関所,海上や山中を不法越境するものを見張る御亭,藩主が宿泊した御旅屋,射撃場,牢屋,役人の長屋などがありました。
現在は,静かな漁港となっています。
さて,これで帰宅です。
せっかく来たので,立山やら黒部やらまで足を延ばしてもいいのですが,特に行くための準備もしていなかったので,立山の姿だけを遠くから見て,行きと同じ東海北陸自動車道で引き返すことにしました。
立山は雪を被った姿がよく見えました。若いころは,妙高,赤倉,栂池,白馬,八方尾根など,数多くのスキー場に通ったものです。改めて地図を見ると,今回私が来たところは,そうしたスキー場からとても近い場所であることに驚きました。しかし,当時は,こんなことにはまったく興味もなく,朝から晩までスキーをしていただけでした。思えばもったいないことをしたものです。