Happy New Year 2021
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2021年になりました。
何の予定も計画もない珍しい年明けです。今年は「自由人」と「不良老人」の道を究めるためにひた走ろうと思います。目標はめざせ「高等遊民」です。
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何もない真空がゆらいで空間が宇宙となり,その中で何らかの化学反応が起きて生物なるものが出現し,それが創造主も予想しなかったほど複雑怪奇に進化して人間が誕生しました。とはいえ,そんな宇宙も,自分が生まれたことでその存在が認識できるというだけのことで,自分がいなければ,宇宙があろうがなかろうがわかりません。しかし,宇宙自体も単なる偶然の産物であって,それ以上のものでもそれ以下のものでもありません。だから,たとえ人類と人間たちがよぶこの不可思議な生物が滅びようとどうなろうと,そんなことは宇宙からみればどうでもいいことであって,人間のこしらえた社会のさまざまな仕組みも,そのすべては傲慢な人間が考えた価値観にすぎないわけです。
名を残そうと人を負かそうと功をとげようと,そんな人間の欲望のすべては究極的には意味をなさないわけで,人がそうしたいのは,自分が生きているその時間を自分が納得するためにすぎないのです。しかし,人は「生きている」のではなく「生かされている」のです。そして,宇宙からみればほんの一瞬にすぎない「生かされている」時間だけがすべてです。
などということを,私は昔からずっと思ってきたのですが,先日,ふと「般若心経」を読んでいたら,先人はそんなことはとっくにお見通しだったことを知って驚きました。
私は宗教家ではありませんから詳しくは知りませんが,おそらく,どんな宗教であろうと,それはそうした人の在り方を納得できるようにと考えられた思想なのでしょう。「摩訶般若波羅蜜多心経」(まかはんにゃはらみったしんぎょう)いわゆる「般若心経」もまた,自分が存在することの意味を説いています。
曰く,
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観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 (かんじざいぼさつ ぎょうじんはんにゃはらみったじ)
照見五蘊皆空 度一切苦厄 (しょうけんごおんかいくう どいっさいくやく)
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私(=観音菩薩)は「自分が存在するとはどういうことなのか」という問いについてとことん向き合った末に,ひとつの真実にたどり着いた。
私たち人間という存在は,身と心によって成り立っている。だから,私は,自分とは何かを知るために,この身と心のどこに自分が存在しているのかを確かめようとした。しかし,物質的な肉体も,視覚・聴覚といった感覚作用も,それを受けとる知覚も,あるいは,意思や認識といったあらゆる精神作用も,すべて,どれを詳細にみても「これこそが自分だ」というようなものを見つけることはできなかった。確固たる自分は,どこにも存在しなかったのだ。
つまり,「自分」という実体は,実はこの世界のどこにも存在しなかったのである。
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そのあと,身と心についての解釈が延々と続き,最後にこう説きます。
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能除一切苦 真実不虚 (のうじょいっさいく しんじつふこ)
故説般若波羅蜜多咒 即説咒曰 (こせつはんにゃはらみったしゅ そくせつしゅわく)
羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 (ぎゃていぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼじそわか)
般若心経 (はんにゃしんぎょう)
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あらゆるものは「空」である。
この真実を本当に知る者は,どんな苦しみも,それが概念でしかないという,自分が築き上げた概念であることに気づくだろう。だから,苦しみから逃れようとして苦しむことなどない。
この真実を見抜く般若の智慧を,次の呪文で讃えたい。言葉の細かな意味は知らなくてもいい。「尊ぶ」という心でもって唱えるだけでいい。
「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」
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しかし,「般若心経」と同じようなことを考えていても,私は,すべて所詮は「空」だから苦しむことなどないと割り切る強さはありませんし,難しいことなど考えずに呪文を唱えてひたすら祈ればいいという宗教的な結論にも至れません。
人にこころというやっかいなものがある以上,こころがやすらかでない限り,生きていても辛いだけです。人は肉体が病むことより精神が病むことのほうがずっと重いのです。だから,人を不安にし生きる希望を奪うことが最も愚かな行為なのです。人がこころやすらかに生きるためには,希望こそがその力となるのです。そこで,人に希望を与えることこそが最も尊いし,また,希望をもつことが生きる力となるのです。
たとえ明日世界が滅びようと,それを不安がって時間が過ぎるのを待つよりも,滅びるまで希望をもって楽しく生きたほうがいいではないですか。
人生,所詮は死ぬまでの暇つぶし。今年も楽しく生きよう。
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