時折出版されるその道の偉大な人が書いたエッセイほどおもしろいものはありません。とにかく,経験に基づく優れた慧眼に思わずハッとさせられ,また,賢くなった気がするからです。
そんな本が朝日新聞の書評にあったので,久しぶりに本を購入して読んでみました。題名はエッセイ集「物理村の風景」。著者は亀淵進,筑波大学の名誉教授,専攻は物理学ということです。
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坂田昌一に師事し,朝永振一郎に傾倒した物理学者のエッセイ選。湯川秀樹,ボーアのみならずさまざまな人との邂逅を洒脱なタッチで描き出す。
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というのが,本の紹介で,朝日新聞の書評には,東京大学教授で宇宙物理学を専攻する須藤靖さんが次のように書いていましたので,抜粋して引用します。
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第2次世界大戦下にあっても,日本の素粒子理論物理学者は独創的な研究を継続していた。その薫陶を受けた世代は,その後,欧米に渡り世界的に活躍できた。そのひとりが93歳になられる著者で,東京教育大学で朝永振一郎とともに素粒子理論研究室を主宰した。
本書は,物理学の巨人たちと著者との個人的な交流を縦糸,趣味の音楽を通じて知り合った人々との出会いと別れを横糸として綴られた色とりどりの織物のような珠玉のエッセイ集だ。
古きよき時代に研究人生を心から楽しまれた様子が「物理村」というタイトルに凝縮されている。私にとっては教科書でしか知らない歴史的物理学者たちが、等身大の「村民」として登場することに驚かされた。
それにしても,ゆったりと流れる時間の下で生活を楽しみながら研究できていた,半世紀以上前の物理学者たちが心底羨ましい。
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話は飛躍しますが,このような立派な人は,こうした書物からだけで知っているほうがいいなあ,と私はこのごろ思うわけです。それは,もしお会いしたとしても,実際はものすごく怖い人だったりするかもしれないし,私のような底の浅い人間では,お話するような話題もないからです。私の尊敬する吉田秀和という音楽評論家の大先生も,実際はとても厳しい人だったと聞きます。
というのは余談としても,何かに秀でた人は生きること自体が真剣で深みあるから,専門のことだけでなく幅広い教養があるので,そうした人の書いたものがつまらないわけがありません。
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この本に書かれたものの中で,「ウィンストン・チャーチルが私の存在を認識したこと」という一文がありました。ある日,著者がロンドンで歩いていて黒塗りの車にぶつかりそうになって,車の中を覗き込んだらウィンストン・チャーチルが乗っていた,というお話です。すると彼は「「これはどうも失礼」と言わんばかりに,私に向かって軽く会釈したのである」とあって,最後に「ロンドンでは,こういう偉い人に偶然出会うことがしばしばだったが,東京では皆無である。どうしてなのか」と結ばれていました。これを読んで,私はあることを思い出しました。
昔,学習院大学で開催されたある会議に出席したとき,講堂を出ると,ガードマンに止めるめられて,今から宮様が通られるからそれまで待つように,と言われたのです。それは,当時の皇太子,現在の天皇陛下が,ビオラの練習で大学を訪れたということでした。そして,車を降りた皇太子は,私が立ち止まっているのをご覧になって,まさに,「「これはどうも失礼」と言わんばかりに,私に向かって軽く会釈したのである」ということがあったのです。
つまり,必ずしも,「東京では皆無である。どうしてなのか」というわけでもないのです。
自分の経験を一般論に広げてはいけませんよ,先生(笑)。というのは冗談として,私にもよく似た出来事があったということだけで,先生と何かお近づきになれたような気がして,とてもうれしい文章でした。