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●ワンアリイ・ビーチパーク●
 夕食までまだ時間があったので,コンドミニアムから東の海岸を走って,ワンアリイ・ビーチパーク(One Alii Beach Park)まで行ってみた。
 とても天気のよい日で,というか,私が滞在した3日間すべて天気がよかったので,私のモロカイ島での印象は最高であった。これが,毎日天気の悪かったカウアイ島との違いである。

 ワンアリイ・ビーチパークは広々としていたが,私以外にはだれもいなかった。車を停めて海岸まで歩いて行くと,向こうにラナイ島がきれいに見えた。
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 ハワイ8島のうち,一般に観光客が行くことができるのは,ホノルルのあるオアフ島をはじめとして,ハワイ島,マウイ島,カウアイ島,モロカイ島,そしてラナイ島の6島である。ツアーで行くことができるのは,そのなかで,オアフ島,ハワイ島,マウイ島,カウアイ島の6島で,モロカイ島とラナイ島は個人旅行でしか行くことができない。私は,このときモロカイ島を旅しているが,残念ながら,これまでラナイ島に行く機会がなかった。コロナ禍が起きなければ,今ごろ行っていたかもしれないが,その動機は単に6島制覇がしたいということにすぎず,海外旅行という熱病から醒めてしまった今となっては,もうどうでもいいような気がする。
 率直にいって,私は,ハワイに行っても,もう,やりたいこともなければ見たいものもない。ただしそれでも,ハワイには,夜は満天の星空を見てお昼間は何も考えず海をボーッと見ているだけでも行く価値があるから,そう考えると,モロカイ島こそが私の理想のハワイともいえる。なにせ,うざったい観光客は皆無であり,日本にはない自然がいっぱいある。

 ここで未だ行っていないラナイ島について少し紹介する。
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 ラナイ島はハワイ諸島の中心部に位置する火山島で、面積は364平方キロメートルというから,モロカイ島の半部くらいか。島の愛称はパイナップル・アイランドだが,これは,かつて世界のパイナップル生産高の20パーセントを占めるほどのパイナップル産出島であったことからついたニックネームである。
 2012年に,現在世界第2位のソフトウェア会社であるオラクル・コーポレーション(Oracle Corporation)の創業者ラリー・エリソン(Lawrence Joseph Ellison)がラナイ島の土地をすべて購入し,島の土地の98パーセントがラリー・エリソンの持ち分で,残る2パーセントが国有地となった。  
 島のほぼ中央に位置するラナイ・シティに住民のほとんどが居住していて, 島の大部分は未開発のままである。
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 そこで,私には,現在のラナイ島は,大金持ちが所有してリゾートホテルを経営しているというイメージがするから,あまり魅力を感じない。

 ワンアリイ・ビーチパークには日系移民の碑があった。
 ハワイにおける日系移民の歴史は次のとおりである。
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 1806年(文化3年),ベルセベランス号の船長がオワフ島で8人の日本人を発見した。この8人は太平洋の中で立ち往生していた帆船 から他の外国船に助けられオワフ島に置き去りにされたものだというが,彼らはその後故郷に戻された。さらに,同じ年,別の難破船がハワイに到着したが,他の船に乗って日本に戻された。当時,他の国から戻ることは罪人だったので,こうして祖国に戻された不幸な日本人たちは,拷問に耐えられず自殺したり,仏教の道に入り生涯をすごしたという記録がある。
 1860年(万延元年),カメハメハ4世は,日本の幕府にハワイへの日本人労働者募集養成の書簡を送ったが,将軍は多くの問題を抱えていたので,その要請に即答できなかった。
 1865年(慶応元年)には,ハワイの外務大臣R・C・ワイリー(R.C.Willey)が,翌年日には,その後の継者であるチャーズル・ド・パリグニーが,日本人労働者の導入を急いで行うように書簡を送った。そこで,1868年(明治元年)に,149名の日本人がハワイに渡った。これがはじめての官約移民で「元年もの」とよばれた。しかし,彼らのハワイへの定着度は低かった。
 やがて,1885年(明治18年)に,日本からの移民が再開された。サトウキビ畑の労働力不足に悩むハワイと,失業者対策と外貨の獲得を望む日本政府の利害が一致したからだ。その後,移住の斡旋は1894年(明治27年)からは民間会社に委託され,労働者は農場主と契約を結び,渡航などに伴う諸経費を負担してもらう代わりに,3年間はその農場主に拘束されることになった。
 1900年(明治33年)に,この「契約移民」制度は廃止され,「自由移民」の時代になり,約15万人が海を渡った。その結果,サトウキビ労働者のうち日本人の数は70パーセントに達したという。
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 だれもいないワンアリイ・ビーチパークを歩いていると,馬に乗った人が海岸を散策していたのに出会った。ここは本当にハワイなのだろうか? と思った。


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