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京都の龍安寺のつくばいに「吾唯足知」(吾れ唯だ足るを知る)と刻まれています。
「吾唯足知」は「仏遺教経」に書かれた「知足の者は賎しとも雖も富めり」「不知足の者は富めりと雖も賎し」からとったものだそうです。つまり,こころが満ちたりていれば貧しくも豊かであり,こころが満ち足りていなければ豊であろうと実は貧しい,ということでしょう。
また,孔子は「足ること知るものは心安らかなり」と書いています。
こういう言葉をすぐに説教くさく「贅沢を考えずに不平不満を持たずに今あるもので十分ということを知りなさい」と説く人がいますが,そうした人ほど煩悩に満ち満ちていたりします。
それよりも,あるブログに「自分が満ち足りていることを知っている人」こそ, 実は贅沢ができる余裕もあるし, 「必要なものがすべてすでにある」という状態こそが 爽快で,私はこんなふうに宇宙と一緒に生きたい,と書かれてあったのですが,まあ,そんな気楽な状態だと捉えればいいのかもしれません。
「吾唯足知」は,私が以前
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朝起きたときに「何もすることがない」という生活が理想だと憧れていたのですが,そんな理想の生活ができるようになってきました。さらにには「何も欲しいものがない」という状態こそがもっとも幸せだとも思っていたのですが,これもまさに実現しつつあります。
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と書いたことと通じる言葉であると気づきました。
「何もすることがない」と「何もしたいことがない」とではまったく意味が違い,「何もすることがない」とは「何もしなければならないことがない」ということであり,朝起きて,その日に「やりたいと思ったことが何の束縛もなく自由にできる」ことが最も幸福だということです。
また,「何も欲しいものがない」というのは「何も持っていない」ということとは違い,「何も欲しいものがない」というのは「自分に必要なものを手に入れた上での状態」です。ここで,「自分に必要なものを手に入れた上での状態」こそが,「吾唯足知」です。
何かを手に入れると,それ以上のものが欲しくなり,そうした欲望は際限がないのです。しかし,自分の大きさも与えられた時間も限りがあるから,その中で何が必要かがわかるというものです。つまり,何事も「必要十分」な状態を知るという,きわめて当たり前のことをいうのです。
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「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは
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