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ビリー・ジョエル,ウィリアム・マーティン・ジョエル(William Martin “Billy” Joel)は1949年ニューヨーク州のサウスブロンクス出身のシンガーソングライターです。1970年代後半から1990年代前半にかけてヒットを連発しました。
私が英語を勉強したり,アメリカに興味を抱いた1960年代末から1970年代は夢のような時代でした。アメリカはあこがれであり,アポロ11号の月着陸や大阪で行われた万国博覧会で最も魅力的だったアメリカ館など,日本とはかけ離れた巨大で豊かな大国に一度は行ってみたいと思ったことでした。その一方で,危険な香りが一杯の国でもありました。
そのころ私が耳にしたのがビリー・ジョエルの音楽でした。
中でも,「ストレンジャー」(The Stranger)。この曲の冒頭と最後は,私の頭の中に暗くすさんだニューヨークの姿を想像させるのに十分でした。ビルとビルの谷間の暗くゴミだらけの路地に靴音だけが不気味に響く…。
「ストレンジャー」は日本ではCMソングとして起用されたことで大人気となったのだそうです。
そして,「ニューヨークの想い」(New York State of Mind)。ビリー・ジョエルがソロデビューして以来活動の拠点としていたロサンゼルスから生まれ故郷のニューヨークに戻るときの想いを歌った楽曲で,曲の歌詞が私に大陸横断の夢を与えました。西海岸から長距離バス・グレイハウンドに乗ってニューヨークに向かうとき,遠くに摩天楼が見えてくるときめき。それを一度は味わってみたいものだとずっと思ってきました。
それ以外にも「ピアノマン」(Piano Man),「素顔のままで」(Just the Way You Are),「オネスティ」(Honesty)と,今聴いても切なくなってきます。
そして,そうした私の想いがすべて実現した今となって,憧れだったアメリカは,あのころの自分の懐かしさに変わりました。
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なお,ビリー・ジョエルは1985年にクリスティ(Christie Brinkley)と結婚し,娘のアレクサ・レイ・ジョエル(Alexa Ray Joel)が誕生しましたが,娘のミドルネーム「レイ」は,ビリー・ジョエルの憧れの存在だったレイ・チャールズ(Ray Charles Robinson)にあやかってつけたものだったということです。朝の連続テレビ小説「カムカムエブリバディ」にも似たような話が…。
NetFlix や ABEMA や AmazonPrime など,いくらでもそれに代わる有料放送が存在する現在,ほぼ強制的に高額な受信料を徴収するなどという時代錯誤を未だにやっている NHK は,その高額な料金にも関わらずチャンネルばかりたくさんあっても大したコンテンツもなく,再放送ばかりでお茶を濁していることが腹立たしいのですが,1月27日の早朝は,NHKBSP でビリージョエルのヤンキースタジアムライブを放送していたので,録画して見ました。しかし,ここで放送されたのは1990年のコンサートだったのに,私の期待していたものとは違って好きな曲目もほとんど演奏されず,がっかりしました。
それよりも,私が別の意味で懐かしくなったのは,ヤンキースタジアムでした。
そのころのヤンキースタジアムは,現在の新しいヤンキースタジアムの隣に建っていたものです。
私がはじめてニューヨークに行ったのは1981年のことだったのですが,ハドソン川の対岸にそびえる巨大な建物は,私が感動するに値する建物の姿でした。しかし,1997年,2度目のニューヨークで実際にヤンキースのゲームを見にいったとき,スタジアムの建物は老朽化し壁が落下したとかでごった返し,また,ボールパークの周りの治安の悪さと不気味さにも度肝を抜かれました。
なにせ,ヤンキースタジアムのあるサウスブロンクスは悪名高きところで,ゲームの途中に何が起きようと想定内のことでした。私が見にいったゲームでも,その途中で,ストリーキングが出没し素っ裸の男がグランドを駆け回りました。また,ヤンキースタジアムの近くの有料駐車場は,停めるのはいいけれど,何があっても知らないよ,状態だったし,車で行けば通らざるをえないハーレムは麻薬を売買する住民がたむろしていました。また,マンハッタンからハーレムの地下を抜けてハドソン川を越えてサウスブロンクスで地上に出た地下鉄は,落書きだらけでした。
しかし,今となっては,そんなすさんだニューヨークならまた行ってその姿を見て味わってみたいものだと思うのは,私が「ストレンジャー」を聴いて感じるその哀愁からなのでしょうか。
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「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは