弘前城を出て,そのあとは,観光案内所でもらった地図に従って,弘前城下を歩くことにしました。曇っていても,雨は降っておらず助かりました。
弘前城の北門(亀甲門)を出たところにあるのが石場家住宅でした。ここは江戸時代中期の建物で津軽地方の数少ない商家の遺構です。
さらに進むと弘前市仲町(なかちょう)伝統的建造物群保存地区となります。かつて武家屋敷が並んでいたところで,武家住宅や表門が点在し,サワラ生垣や板塀などがつくる江戸時代の敷地割りを今に伝えています。西側を閉鎖的に東側を開放的に作られているのは,岩木山からの西風や西日を避ける工夫です。4軒の住居が公開されていて,その中で,私は旧岩田家住宅を見学しました。
弘前城の東の端まで戻ってくると,そこにあったのが「津軽藩ねぷた村」でした。この観光施設では,弘前の夏の夜を彩る弘前ねぷたまつりや,津軽の民芸品,津軽三味線の生演奏,庭園などを見学することができます。私が入った時間は,ちょうど津軽三味線の生演奏がはじまった時間で,その迫力に感動しました。何事も生演奏はすごいものです。
建物を出たところにある広い庭は「揚亀園」といいます。明治時代の後期に小幡亭樹によって作庭された「大石武学流」の庭園だそうです。
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「大石武学流」と称される作庭流派の発祥は全く不明で,この地方の伝統的作庭の唯一の古典的手法となるものだそうです。 津軽地方における作庭の遺構で最も古いものは弘前城の三之丸のものとされています。この庭は,藩の「庭園守護職」であった山鹿八郎左衛門が関与したものと考えられていて,山鹿家が兵学の家でもあったことから「武学」の名がついたのでは,といわれています。ただし,大石武学という人物が実在したかどうは根拠が薄弱だそうです。
また,弘前市の瑞楽園に大石武学流と作庭者が明記したものが残されているということです。
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小堀遠州作の庭がブランド化されているのとおなじようなものでしょう。
私は,弘前城に入ったときに3施設共通券というものを購入しました。3施設というのは,弘前城,弘前城植物園,藤田記念庭園です。そこで,「津軽藩ねぷた村」を見た次に,私は,これらの施設で,すでに弘前城は見学したので,それ以外の2つの施設を見にいくことにしました。
弘前城植物園は弘前城の中にあるので,再び弘前城に向かって堀に沿って歩いていくと,サギの置物が松の枝に停まっているのが見えました。人の気配を感じると飛び立つのに,びくともしないから,置物かと思ったのです。しかし,観察していると,首が動くので,どうやら生きているようでした。
これほど警戒心のないサギ,私の家の近くにはいません。何かとても愉快になりました。
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「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは