観光案内所で教えてもらったように,松山城へ上るロープウェイの乗り場近くには多くのコイン駐車場があったので,そのひとつに車を停めました。
公営の駐車場には大型バスが停まっていたので嫌な予感がしましたが,もう見学を終えた学生さんたちが乗り込むところだったので助かりました。先日行った山形県の立石寺もそうでしたが,観光地は団体ツアー客のいなくなる午後に行くに限ります。
さっそくロープウエイの乗り場に行ってチケットを購入しました。ロープウェイはかなり頻繁に出るのでホトンと待ち時間がありませんでした。
ロープウエイを降りると,そこには,予想以上にすばらしい景色が広がっていました。予備知識のまったくなかった私は松山城のすばらしさに驚きました。この日の私の目的は,次回書くことになりますが,伊予下灘駅で夕日を見ることだったので,ここで多くの時間を費やすことができず,急いで松山城に行って帰らなければならなかったのが残念でした。
現存12天守というのがあって,それらは,弘前城(青森県),松本城(長野県),丸岡城(福井県),犬山城(愛知県),彦根城(滋賀県),姫路城(兵庫県),松江城(島根県),備中松山城(岡山県),丸亀城(香川県),伊予松山城(愛媛県),宇和島城(愛媛県),高知城(高知県)ですが,その中で4つも四国にあります。また,私は,今回の松山城をもって,それらすべてに行くことができたことになります。
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松山城を築いたのは「賤ケ岳の七本槍」に数えられる加藤嘉明でした。
20万石の大名となって,1601年(慶長6年)年に松山平野内の独立丘陵に城の築城をし,一帯を松山と名づけました。1627年(寛永4年)会津藩主の蒲生忠郷が早生し,無嗣断絶となるところを,母親が徳川家康の娘・振姫であったため,幕府の差配で,蒲生忠郷の実弟・蒲生忠知が減封の上,松山藩を与えられ,その代わり,加藤嘉明は会津藩に国替えとなりました。
しかし,1634年(寛永11年)蒲生忠知が急死したことで,結局蒲生家は無嗣断絶となり,翌年,松平定勝の次男・松平定行が桑名藩から15万石で入り,以降幕末まで続きました。
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そんなわけで,松山藩は松平家。親藩大名で,将軍家の親戚筋ということになります。
親藩大名とは徳川家の男系の一族をいい,女系は譜代大名です。しかし,松山藩と桑名藩は特別に親藩扱いだったということです。なお,前々回書いた今治藩は,松平定勝の5男・松平定房が入りましたが,譜代大名扱いでした。
1784年(天明4年),落雷を原因とする火事で天守をはじめとする天守曲輪の建物の多くが焼失してしまいました。松山藩は幕府に再建を働きかけ,ペリー来航の翌年である1854年(安政元年),焼失前の建物をできるだけ再現し,天守曲輪が再建されました。
したがって,松山城は現存12天守の中で最も新しいものです。私はそうした説明を聞いて,江戸幕府の武家諸法度は,将軍家の居城であった江戸城や大坂城の天守ですら再建されることがなかったように,天守の新築はもとより増改築も厳しく取り締まっていたのに,松山城が,落雷で焼失した天守を幕末に再建できたのがとても不思議に思えました。しかも,松山藩の財政は火の車だったというではないですか。
質問してみると「徳川の親戚筋だったから」という回答だったのですが,私はそれだけでは納得ができませんでした。
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「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは
















