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 JR会津若松駅に着きました。念願の,一度は来たかった会津若松市です。思ったよりも大きな都市で,しかも,とてもきれいな町でした。まず,今晩の宿泊先である駅前の東横インに行ってカバンを預けました。さすがにこの町の東横イン付近には風俗街はありませんでした。そして,駅に戻って,歓呼案内所に入りました。「1日観光をしたいのですが」と言うと,とても親切に説明をしてもらえて,地図やパンフレットをくれました。
 会津若松観光は,「まちなか周遊バス」という1時間ごとに観光スポットを循環運行している右回りの「あかべぇ」と左回りの「ハイカラさん」があるので,これを利用するといい,ということでした。
また,主な見どころは,七日町,鶴ケ城,御薬園(おやくえん),会津武家屋敷,飯盛山だといわれました。 
 ちょうど10時発の「ハイカラさん」が3分後にあるというので,早速,1日乗り放題のチケットを購入してこれに乗りましたが,バスを利用しなくとも,レンタル自転車もあるとあとで知りました。会津若松市は平地なので,このほうがよかったかもしれませんが,今回,利用しなかったことが吉と出ました。その理由はあとでわかります。
 ちなみに,会津若松で「あかべぇ」はわかりますが,「ハイカラさん」は何? と思いました。1982年のNHK朝の連続テレビ小説に「ハイカラさん」がありましたが,このドラマの舞台は静岡県でした。また,「はいからさんが通る」というアニメもあるのですが,会津若松市とは無関係のようです。調べてみると,会津には「「はいからさん語り部」育成プロジェクト実行委員会」というのがあって「はいからさんに逢えるまち」というイベントを秋に行っているということです。主催するアネッサクラブでは「はいからさんというのは常に時代をリードし改革していく人と捉え」ているそうです。
 「ハイカラさん」は,七日町という歴史的建造物が並ぶ繁華街を通って,鶴ヶ城に向かいました。いい町だなあ,というのが第一印象でした。七日町は駅に近いので,最後に観光をすることにして,まず,有名な鶴ヶ城に行くことにして,最寄りのバス停で降りました。

 現在の福島県は江戸時代,会津藩の他に多くの藩がありました。そのうち,会津藩は,陸奥(後の岩代)会津郡を中心に現在の福島県西部と新潟県および栃木県の一部を治めた藩で,居城が,現在,鶴ヶ城とよばれる若松城でした。
 蒲生氏郷が入るまでは「黒川」とよばれていましたが,蒲生氏郷が故郷の近江にあった「若松の杜」にちなんで町名を「若松」と改め,会津にあることから会津若松ともよばれるようになりました。
 鶴ヶ城の天守に入る前,ボランティアガイドさんの説明が聞けるというので,参加しました。ガイドさんの説明を聞いたのは,私と,説明がはじまったころに参加した横浜から来たという女性のふたりでした。
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 1934年(昭和9年)国の史跡に「若松城跡」として指定されたので,正式には若松城ですが,約400年前,藩主蒲生氏郷が幼名・鶴千代であったことと蒲生家の家紋に鶴が入っていたことで鶴ヶ城と名づけ,一般にはこの名前で知られています。
 豊臣秀吉が天下統一を達成すると,東北の地に信頼が厚く,かつ武勇に優れた武将を置く必要があったことで,旗下の武将・蒲生氏郷に異動を命じました。蒲生氏郷は,1592年(文禄元年),室町時代に蘆名氏が築いた黒川城を改修し,鶴ヶ城と名づけました。その翌年には,金箔を貼った鬼瓦を使用した七重の天守を築きました。
 1598年(慶長3年)に蒲生氏郷の子・蒲生秀行が家中騒動で宇都宮に移封となり,上杉景勝が入封しましたが,関ヶ原の戦いで西軍に荷担したため出羽30万石に移封され,1601年(慶長6年)に再び蒲生秀行が入封し,初代藩主となります。2代藩主は蒲生秀行の子・蒲生忠郷(たださと)には,嫡子がなかったため,本来なら蒲生氏は断絶するところでしたが,母が家康の娘であるということで,出羽の上山藩を領していた弟の蒲生忠知を後嗣として伊予の松山藩が与えられ,存続を許されました。そして,1627年(寛永4年)会津には加藤嘉明が40万石で入封します。しかし,重臣とのいさかいが原因で会津を去ると,1643年(寛永20年)徳川秀忠の子・保科正之が出羽から入部しました。
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 このように,私は,会津藩と先日行ったばかりの松山藩,そして,2022年に行った上山藩に藩主のつながりがあるのが,奇遇というか不思議な気がしました。日本は狭いです。

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 こうして,会津藩は,結局・保科家となりました。
 1696年(元禄9年)3代藩主・保科正容(まさかた)の時代に松平姓と葵紋が許され,御三家に続く御家門の地位を確立し,以降,保科は松平と改め,松平家が藩主となりました。

 1868年(慶応4年)松平容保(かたもり)が9代藩主となったあとに戊申戦争が勃発します。会津藩は、徳川家に忠誠を誓い鶴ヶ城に籠城し,新政府軍に徹底抗戦します。新政府軍の猛攻を耐え抜きますが,ついに開城します。ここで起きたのが会津の悲劇です。
 戊辰戦争後,鶴ヶ城は取り壊されましたが,1965年(昭和40年)に天守が復元されました。
 現在では,赤瓦が葺かれた五重五階の天守閣,干飯櫓,走長屋,鉄門が再建,郭を構成する高石垣などが残されています。
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 鉄門は本丸東側の入口の門で,名前通り門扉や柱が全て鉄で覆われています。
 鶴ヶ城で目につくのは石垣です。石垣の加工は時代の流れとともに進化しました。鎌倉後期の自然石をそのまま積み上げる野面積みはじまりました。関ケ原の合戦以降盛んに用いられたのは表面に出る石の角や面をたたき平たくする打込み接ぎ,江戸時代初期から多用された方形に整形した切込み接ぎです。鶴ヶ城は,それぞれの時代の石垣の変遷をみることができます。
 太鼓門近くの石垣に直径2メートル、奥行3メートルにもおよぶ大きな石があります。 大きな石を魔除けとしてあえて入れたのだそうですが, あまりの重さに石の運搬に遊女が石の上で踊って人足を励ましたとの言い伝えから「遊女石」とよばれているそうです。
 また,石垣の中に,ハート形をした石がふたつあります。大きなハートと小さなハート,2個見つけると願い事が倍かなうそうです。
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Wolf Moon 2024.

明け方西空の満月です。
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「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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