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 南光坊天海は,1643年(寛永20年)に亡くなった天台宗の大僧正ですが,徳川家康の側近として,江戸幕府初期の政策に深く関与しました。生まれは,将軍足利義澄落胤説やら,姿を変えて生き残った明智光秀やらという説があり,また,生年もはっきりしていませんが,100歳以上の長命であったそうです。
 前半生についてはわからず,福島県会津美里町の龍興寺にて出家した後,天台宗を学び,比叡山延暦寺や園城寺,興福寺などで学を深めたといいます。1588年(天正16年)に現在の川越市にあった無量寿寺北院に移り,天海を名乗ったあたりから,足跡が明瞭となっています。
 北条攻めの際,南光坊天海は徳川家康の陣幕にいたとし,その後,家康の参謀として朝廷との交渉等の役割を担いました。1616年(元和2年),危篤となった家康は遺言を天海託し,2代将軍・徳川秀忠の諮問によって,徳川家康の神号を「東照大権現」と決定し遺体を久能山から日光山に改葬,3代将軍・徳川家光に仕え,1624年(寛永元年)に寛永寺を創建しました。
 前回書いたように,寛永寺は,比叡山延暦寺が京都御所の鬼門に位置し,朝廷の安穏を祈る鎮護国家の道場であったことにならい,山号を東の比叡山という意味で東叡山とし,清水寺に習った清水観音堂,琵琶湖を模した不忍池辯天堂, 五重塔,開山堂,大仏殿などの伽藍を作りました。
 と聞いたので,寛永寺の見学を終えたあと,私は,それらの史跡を訪ねました。

 まず,ほとんどの人は,この存在を意識していませんが,上野の森美術館の前に,天海僧正毛髪があります。南光坊天海が亡くなったのち,諡号(しごう)を慈眼大師とし,墓所は日光山輪王寺に造られ,1643年(寛永20年)に弟子の晃海(こうかい)によって本覚院伝来の毛髪を納めた塔が建てられ,毛髪塔とよばれるようになりました。お坊さんの毛髪…?
 次に,清水観音堂にのぼり,不忍の池を見下ろしました。清水観音堂は京都の清水寺を模した舞台造りのお堂で,1631年(寛永8年)に南光坊天海により建立されました。また,本尊も清水寺より恵心僧都(えしんそうず)作の千手観音像を迎えて秘仏としてお祀りしました。はじめは上野公園内の擂鉢山に建てられ,元禄初期,今の噴水広場の地に寛永寺総本堂の根本中堂建設が決まると,その工事に伴って1694年(元禄7年に現在地に移築されたもので,上野に現存する創建年時の明確な最古の建造物です。
 最後に上野大仏に行きました。1631年(寛永8年)に初建された上野大仏は,度々罹災し,その都度復興されましたが,関東大震災で首が落ち,第2次大戦で軍の供出令によって胴体が徴用され,顔のみが残されました。現在,大仏殿の跡地にはパゴダが建立され,本尊として旧薬師堂本尊の薬師三尊像が祀られています。
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 大仏を埋めて白し花の雲
    子規
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  胴体を失った顔面は「これ以上落ちない」という意味に変化し,2000年代前半ごろから受験生が祈願するようになり「合格大仏」とよばれています。


 上野はよく行くのですが,これまで,こうした場所を歩いたことはなかったので,とても興味深く感じました。

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「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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