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鶴ヶ城の見学を終えたころ,ちょうどお昼になったので,どこかで食事を,と思いながら歩いていると,城の北の丸のあたりに「本丸茶屋」という店があったので入りました。
会津若松市の名物は「会津ソースカツ丼」ということなので,これを注文しました。
「会津ソースカツ丼」は,どんぶりの飯の上にキャベツを敷き,その上にとんかつを載せ,ウスターソースをかけたものでした。
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①大正年間に早稲田大学向かい鶴巻町にあった洋食店「ヨーロッパ軒」が1913年(大正2年)東京の料理発表会で「ソースカツ丼」を披露し,その数年後には店で提供していた。
②1921年(大正10年)早稲田高等学院生の中西敬二郎が「ソースカツ丼」を考案した。
③1920年(大正9年)岩手県一関市の「和風レストラン松竹」にて誕生した。
④東京の「ヨーロッパ軒」が1923年(大正12年)の関東大震災で再建不能となって福井へ移り,翌年福井市の「ヨーロッパ軒」にて誕生した。
⑤大正の末,群馬県桐生市「志多美屋本店」にて誕生した。
⑥1930年(昭和5年)会津若松市の「若松食堂」にて誕生した。
⑦ 昭和年間に前橋市の「西洋亭」にて誕生した。
➇昭和初期,長野県駒ケ根市,恵那市にて誕生した。
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といった数々の発祥説があるそうですが,会津若松市は「「ソースカツ丼」に最初にキャベツを入れた町 」だそうです。
「ソースカツ丼」,私は長野県駒ケ根市のものしか知らなかったのですが,ほかにも,群馬県桐生市だの,新潟市古町だの,福井名物だのと,全国にわたって,「ソースカツ丼」なるものは存在しているようです。要するに,カツ定食を一緒にしただけのものですからだれでも考えつきます。我こそは元祖,と言ったものが勝ちです。
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今回は食べませんでしたが,「ソースカツ丼」以外の会津若松市のグルメは,馬刺しとかラーメンとかです。
会津馬刺しは, 熊本,長野と並ぶ「日本三大馬刺し」のひとつに数えられているそうです。会津では,みそに唐辛子やニンニクなどを混ぜた「 辛みそ」をしょうゆに溶かして食べるのが一般的ということです。
また,福島県で有名なのは「喜多方ラーメン」ですが,「会津ラーメン」というのもあって,「 喜多方ラーメン」との違いは,味が全体的に濃いめで,具はシンプルそのものでチャーシュー,ねぎ,メンマが一般的であり,この黄金比こそが「会津ラーメン」の真髄だそうです。ちなみに,会津では味噌ラーメンも少し変わっていて,野菜,もやし,肉をふんだんに入れた味噌タンメンを指すということです。ところで,「日本三大ラーメン」というのがあって,それは,一般的に,北海道の「札幌ラーメン」,福岡県の「博多ラーメン」,福島県の「喜多方ラーメン」を指すそうです。
昼食を終えて,鶴ヶ城付近の見どころを探すと,会津藩の藩校であった「日新館」の跡地というのが見つかりました。私は,日本各地,様々なところに行くと,城跡に加えて,藩主の菩提寺と藩校を探すのですが,それは,江戸時代,その地を治めた殿様の治世がよくわかるからです。
「日新館」は,1868年(慶応4年)戊辰戦争により校舎は焼失してしまい,現存するのは会津若松城趾西側に残る天文台跡のみです。調べてみると,現在,「会津藩校日新館」というものが別の場所にありますが,それは,藩校に関する資料が残っていたため,総工費34億円を費やして1987年(昭和62年)に会津若松市河東町に復元して開館した観光施設です。
1782年(天明2年)から数年間続いた天明の大飢饉をはさんで,会津藩内でも様々な問題が出てきました。その諸問題を解決すべく,5代藩主・松平容頌(たかのぶ)のとき,家老・田中玄宰(はるなか)は藩政の改革をするよう進言し,その中心に「教育の振興」をあげました。それが「日新館」創設のきっかけとなりました。
江戸時代,全国各地に天文台が建設されましたが,現存しているのは日新館の天文台跡のみなので,全国的にも貴重な史跡であり,天文学的にも貴重なものであることから,日本天文遺産認定となりました。日本天文遺産とは,歴史的に貴重な天文学・暦学関連の史跡・建造物や物品,文献などの遺産を大切に保存し,文化的遺産として次世代に伝えるために,日本天文学会により創設された制度です。
こうして,会津若松市街地を歩いていると,はじめて来た地なのに,どこか似たところを歩いたことがあるなあ,と思いましたが,それがどこだったのか,なかなか思い出せませんでした。このごろいろいろなところに行っているので,記憶がごちゃごちゃになってしまっているようです。家に帰ってから調べてみると,それは,山形県米沢市でした。ということなのですが,偶然,私が,天文台跡まで歩いている途中に目にしたのが,直江兼続邸跡・山鹿素行誕生地でした。
直江兼続は上杉景勝の家臣で,米沢のひとです。それがどうして?
豊臣政権時代,会津藩を統治していたのが上杉景勝でした。しかし,関ヶ原の戦いののち,上杉家は米沢に移されたことで,直江兼続もまた,会津から米沢に移ったわけです。
山鹿素行が生まれたのは,そののちのことになります。山鹿素行の誕生地を記念した碑石は地元の自然石で「山鹿素行誕生地 大正15年春 元帥伯爵東郷平八郎書」と刻まれています。山鹿素行という名は高等学校の日本史の教科書にもありません。それがどうして私が山鹿素行を知っているのだろう?
それは,赤穂義士が討ち入りをしたときに「山鹿流陣太鼓」を鳴らしたという物語(創作)からです。山鹿素行は,江戸前期,赤穂藩士の教育などを行った儒学者です。3代将軍・徳川家光の師範でしたが,徳川家光の死後,赤穂藩から学問師範として迎えられ,軍学や儒学を教えました。その後江戸に出て民間の学者となりましたが,反政府的なことを説いて,赤穂藩に流刑を言い渡されました。
浅野内匠頭は山鹿素行の「教え」をイデオロギーとしていたといいます。
そこで,討ち入りのときに,大石内蔵助が陣太鼓をたたき,それを聞いた吉良上野介の家臣たちは「一打ち二打ち,三流れ… アレは山鹿流の陣太鼓か」と言って,刀もって飛び出して行く,という創作が生まれたとか。
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「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは