旅の3日目は,下北半島の北東端の尻屋崎へ行って,そこからずっと下北半島の東岸を南下して八戸市まで行くことにしました。広範囲な地図では尻屋崎へ行く道路がないように見えますが,むつ市から尻屋崎までは県道6号線がつながっています。
ホテルをチェックアウトして少し行くと斗南ケ丘市街地跡がありました。車を停めて降りて,説明書きを読んでみると
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戊辰戦争に敗れた会津藩が,1869年(明治2年),藩主・松平容保(たかもり)の嫡男・松平容大(たかはる)による家名存続が許され,新領地として斗南の地(現在の三戸、上北、下北の 3 郡と岩手県の一部)に斗南藩が成立しました。この地は,移住してきた藩士達の屋敷が造られた跡です。
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ということでした。
そういえば,今年の1月,会津若松市へ行ったとき,会津藩の歴史について興味をもったので,帰宅後調べていて,斗南なる名前を見た記憶があるのですが,それがむつ市であったとは…。また,昨晩泊った「むつグランドホテル」に保科正之(ほしなまさゆき)の資料や会津松平家の系図が展示してあったのですが,どうしてここに? と思ったのでした。
私がこれまでに旅で行ったところは,いつも何かしら不思議な縁で結ばれています。
保科正之は,2代将軍徳川秀忠と下級女中との子です。母親の身分が低かったのでその存在が隠され,旧武田家臣の高遠藩主・保科正光が預かりました。のち,保科正光の後を継いで藩主となり,山形藩藩主を経て,会津藩初代藩主となりました。
家老・友松氏興が建言し,保科正之と朱子学者・山崎闇斎が共同で作成したといわれる「会津藩家訓15ヶ条」は,200年にわたり会津藩の精神的支柱として存在しました。これが幕末,会津藩の悲劇につながってしまうのです。
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第1条
大君の儀,一心大切に忠勤を存すべく,列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば, 則ち我が子孫に非ず,面々決して従うべからず。
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2代藩主・保科正経(ほしな まさつね)には男子がなく,保科正之の子・正容(まさたか)が3代藩主となると,幕府から松平姓と葵の紋を与えられ,会津藩は徳川親藩になりました。
9代藩主・松平容保(たかもり)は,越前の松平春嶽や一橋慶喜らに京都守護職への就任を要請されます。この「会津藩家訓15ヶ条」第1条の内容を引き出された松平容保は要請を承諾するしかなく,これが戊辰戦争での悲惨な白虎隊の最期を引き起こす要因となりました。
斗南の名の由来は,中国の詩文の中にある「北斗以南皆帝州」(=北のこの地も天皇の国と変わりはなく,ともに北斗七星を仰ぐ民である)から来たもので,望郷への想いとともに,いつかは南に帰りたいという願いが込められているといわれます。また,憎むべき南(=長州・薩摩)と斗(=戦)うという解釈もあります。
しかし,ここは最北の僻地でした。入植した藩士たちの生活は困窮を極め,開墾に夢を託した藩士たちは,志半ばにして命を失い,あるいは,この地を去るものが続出しました。そのわずか1年後,政府は廃藩置県を断行し,斗南藩は消滅しました。
しばらく進んでいくと,旧斗南藩士の墓がありました。 当時,入植者が亡くなっても生活が苦しかったことから墓石が置くことができませんでした。そこで,これらは,1976年に斗南会津会が整備したものだそうです。
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「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは
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