しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ:アメリカ合衆国50州 > ニューヨーク州

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 アメリカ野球殿堂博物館(National Baseball Hall of Fame and Museum)がニューヨーク州郊外のクーパーズタウン(Cooperstown)という町にあります。MLBなどで顕著な活躍をした選手や監督・コーチ・審判員,また野球の発展に大きく寄与した人物に対してその功績を称える野球の殿堂で,アメリカを含む世界中の野球の歴史研究や,歴史的・記録的意味を持つ資料の収集・展示を,「歴史を伝え,偉業を称え,世代を繋ぐ」(Preserving History, Honoring Excellence, Connecting Generations)というスローガンのもとに行っています。
 かつてMLBに夢中だった私は,ここに行きたくて仕方がありませんでした。今となっては,この場所もまた本当に行っておいてよかったと思うのですが,よほどのMLB好きか旅慣れていないと,ここに行くのはかなり大変です。
 場所はニューヨークのダウンタウンからははるかに遠く,しかも,アクセスするインターステイツがありません。私は,地方の一般道を延々と走って往復しました。

 そういった不便な場所にあるにもかかわらず,クーパーズタウンもまた,とても美しいところでした。ボストン郊外のタングルウッド,そう,今思い出したのがオーストリアのハルシュタットやニュージーラドのマウントクックなども同じですが,こうした都会から離れた場所は,どこも本当にきれいです。行ったことはないのですが,イギリスの田舎も同様かな,と思います。
 こうした緑美しい景色は日本にはほとんどありません。しいて言えば信州や北海道にその雰囲気を見ることはありますが,道路は狭く,土地もせまく,遠く及びません。
 私が今思い出すのは,野球殿堂ではなく,そこへ往復したときに走った道路から見た風景なのです。
 インターステイツは便利ですが,インターステイツを走ってアメリカ大陸を横断したところで,こうした風景を見ることはできません。実際に走っていた時には,時間もかかり,インターステイツがあればいいのに,と思ったものですが,今考えると,ここはとてもすばらしいところでした。
 こんな町に生まれ育った人は,いったいどういう気持ちで日々生きているのかな,と思うことでした。


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 ニューヨークに憧れた人のほとんどは,「自由の女神」を見たいと思うでしょう。「自由の女神」の姿なら,ニューヨークに行けば,特に意識しなくても,簡単に見ることができます。
 「自由の女神」は,また,リバティ島というマンハッタンからさほど遠くない島にあって,簡単に上陸することができます。というか,できました。
 私がはじめてニューヨークに行った今から43年ほど前は,市内観光バスのコースに組み込まれていて,対岸のバッテリーパークに観光バスが停まって,さあ,いってらっしゃい! ということで,思い思いフェリーに乗って島に上陸,「自由の女神」の中まで入ることができました。
 その30年後に私が行ったときは,フェリーに乗る前にまるで飛行機に乗るようなセキュリティチェックがあり,また,フェリーもものすごく混雑していて,上陸しても「自由の女神」の内部に入るにはさらに事前の予約が必要になっていました。
 43年前のアメリカの大都会のダウンタウンはどこも荒み治安も悪かったのですが,いまほどテロを心配することもない自由な国でした。戻れるものならその時代のアメリカを旅したいものです。

 「自由の女神」は正式名称を「世界を照らす自由」(Liberty Enlightening the World)といいます。アメリカ合衆国の独立100周年を記念して,独立運動を支援したフランス人の募金によって贈られたもので,1886年に完成しました。
 銅製で,像の頭の部分までの高さは33.86メートル(111.1フィート),台座からトーチまでの高さは46.05メートル(151.1フィート),台座の高さは47メートル(153フィート),台座部分も含めると93メートル(305.1フィート),総重量は225トンです。 右手には純金で形作られた炎を擁するトーチを空高く掲げ,左手にはアメリカ合衆国が独立した「1776年7月4日」とローマ数字で刻印された銘板を持っています。
 足元には引きちぎられた鎖と足かせがあり,全ての弾圧,抑圧からの解放と,人類は皆自由で平等であることを象徴しています。また,女神がかぶっている冠には7つの大陸と7つの海に自由が広がるという意味の7つの突起があります。
 内部は,エレベータが設置されていて,エレベータの10階にあたる最上階から像の中のらせん階段を上って王冠部分の展望台に登ることができます。私は43年前に登ったことがあります。台座部分の内部はアメリカの移民の歴史について展示する博物館になっていて,エマ・ラザラス(Emma Lazarus)が書いた「新しい巨像」(The New Colossus)という題の14行詩を浮き彫りにしたブロンズ製銘板が設置されています。もともとは灯台として作られたので,ニューヨーク港を向いています。

 「新しい巨像」というのは次のものです。最後の8行を載せます。
  ・・・・・・
"Give me your tired,
your poor,
Your huddled masses yearning to breathe free,
The wretched refuse of your teeming shore.
Send these,
the homeless,
tempest-tossed to me,
I lift my lamp beside the golden door!”
  ・・
疲れ果て貧しさにあえぎ自由の息吹を求める群衆を私に与えたまえ。
人生の高波に揉まれ拒まれ続ける哀れな人々を。
戻る祖国なく動乱に弄ばれた人々を私のもとに送りたまえ。
私は希望の灯を掲げて照らそう自由の国はここなのだと。
  ・・・・・・

 また,台座の記念盤には以下の文言が刻まれています。
  ・・・・・・
 AT THIS SITE ON AUGUST 5TH, 1884, THE CORNERSTONE OF THE PEDESTAL OF THE STATUE OF "LIBERTY ENLIGHTENING THE WORLD" WAS LAID WITH CEREMONY BY WILLIAM A. BRODIE, GRAND MASTER OF MASONS IN THE STATE OF NEW YORK.
 GRAND LODGE MEMBERS, REPRESENTATIVES OF THE UNITED STATES AND FRENCH GOVERNMENTS, ARMY AND NAVY OFFICERS, MEMBERS OF FOREIGN LEGATIONS, AND DISTINGUISHED CITIZENS WERE PRESENT.
 THIS PLAQUE IS DEDICATED BY THE MASONS OF NEW YORK IN COMMEMORATION OF THE 100TH ANNIVERSARY OF THAT HISTORIC EVENT.
  ・・
 1884年8月5日,「世界を照らす自由の女神」の像の台座の礎石はニューヨーク州メイソン団のグランド・マスター,ウィリアム・A・ブロディーによる式典とともに設置された。
 グランド・ロッジの構成員ら,合衆国およびフランスの政府の代表ら,陸軍および海軍の将校ら,諸外国の使節団の構成員ら,ならびに名高い市民らが参列した。
 この銘盤はかの歴史的事件の第100周年を記念してニューヨークのメイソン団により捧げられる。
  ・・・・・・

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 はじめてMLBを見たのは,今から44年ほど前,生まれてはじめてアメリカに行ったときでした。ロサンゼルス・ドジャースのホームゲームで,対戦相手はシンシナチ・レッズ。知っていたプレイヤーはピート・ローズだけでした。このときの印象はものすごいもので,アメリカは本当にすごい国だと思いました。
 当時のドジャースタジアムにはまったく広告もなく,広い駐車場はすべて無料でした。ピーナッツ売りが遠くの客にピーナッツの袋をコントロールよく投げたり,セブンスイニングストレッチ,そして,子気味よいオルガンの応援メロディーなど,すべてがあか抜けていました。今でもその頃のMLBが私にはとても懐かしいものです。今はボールパークはどこも広告だらけで派手だし,駐車場はすごく高いし,その頃の素朴さはありません。また,当時のボールパークは,現在も残っているシカゴ・カブスのリグレーフィールドやボストン・レッドソックスのフェンウェイパークのような古い,そして,ユニークなところも多く,その多くはすさんだアメリカを思い起こすようなすごみがあって,行くのが楽しみでした。

 その次に見たのが,30年ほど前,ニューヨークのヤンキースタジアムでした。今のヤンキースタジアムとは違って,古く,周りの治安も悪く,とても怪しげでした。私が見た年はデレック・ジーターがルーキーだった年で,周りの観客がみな「ジーター,ジーター」と応援していて,そのときはじめてその選手をしったものです。
 こうして書いているだけでも,その時代に戻りたいものです。
 それから,私は,アメリカ各地でずいぶん多くのゲームを見たのですが,今は,どこも同じようなボールパークになってしまい,また,チケットも高く,かつ,駐車場も高く,あまり魅力を感じなくなりました。
 その後,何十年もして,私は,再びニューヨークでMLBを見ました。チケットをダフ屋から買ったこともありますが,何の問題もありませんでした。

 今は,MLBよりも私はマイナーリーグの方にずっと魅力を感じます。アメリカはやはり少しすさんだ感じの方がずっとアメリカらしいです。そして,田舎のぼろいボールパークでのんびりと時間を忘れて楽しみたいものです。


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 はじめてニューヨークにひとり旅をしたのは,今から43年ほど前,2度目のアメリカ旅行のときでした。
 行きの飛行機でとなりに座ったは,東京で幼稚園の先生をしているという,私と同じくらいの歳の女性でした。彼女は,ニューヨークにいる友人に会いに行くということでしたが,ミュージカルが好きで,機内では,私にずっとミュージカルのレクチャーをしてくれました。そして,ニューヨークでミュージカルを見ませんか,と誘われました。
 私はそれまでまったくミュージカルなど知らず,興味もなかったのですが,その誘いに応じました。
 私はニューヨーク到着後は,ワシントンDC,ボストンとまわり,ニューヨークに戻ってきました。
 そして,約束した場所で落ち合って,一緒に夕食を食べ,そして,ミュージカルを見ました。ミュージカルは「コーラスライン」でした。

 今から思えば,旅先で出会って,一緒に食事をしてミュージカルを見たのに,名前も知らず,連絡先もきかず,それっきり,というのは,私の精神年齢が若すぎたからなのでしょうか。当時の私は,この女性はミュージカルオタクの好かない女性だ,程度でしか思わなかったのです。
 そのときの女性のことは忘れましたが,日本に帰国して,私は,すっかりミュージカルのとりこになりました。しかし,日本で上演されるミュージカルは本場ブロードウェイのものに比べて,物足りないものでした。
 そして,それから35年ほどして,私はブロードウェイで再びミュージカルを見ました。見たのは「シカゴ」でした。
 当然ながら,そのときは,行きの機内で女性に誘われることもなく,ひとり,ミュージカルを見ました。そして,忘れていた40年前のことを思い出しました。あのときの彼女はいったい今ごろ何をしているのかな,と思ったことでした。


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 ニューヨークで有名なのは,この夜景です。当時の私は,この景色に最も憧れていました。
 この夜景を見るには,ブルックリンブリッジを渡り,ハドソン川を越え,ブルックリンに行かななくてはなりません。ということで,はじめてニューヨークに行ったときは,ここもまた,私には縁が遠い場所でした。何せ,夜のニューヨーク。ブルックリンもやはり治安があまりよくなかったので,この対岸の夜景は有名であったのですが,行く勇気がありませんでした。

 そんな場所でしたが,その後,私は,この夜景も見たし,ブルックリンブリッジも歩いて渡りました。そんなわけで,今では,ニューヨークでやりたかったことは,このように,そのすべてをやり遂げることができたわけです。
 ニューヨークに限らず,どの場所も,知らないうちは,行ってみたいと思うのものです。だから,勇気を出して,徹底的に行ってみることのほうがよいのです。でないと,いつまでも,そうした願望を抱いたまま歳をとることになります。そしてまた,齢をとった今になってしみじみ思うのは,若いうちにこうしたことはやっておかないと,次第にやる気力が萎えてくるのです。そして,後悔するのです。

 今は,ブルックリンもまた,再開発が進み,高級住宅街となっているようなので,治安も悪くないようです。しかし,ブルックリン全体がそうだとも言い切れないという話を聞いたことがあります。
 この夜景を見たころ,私はブルックリンで道に迷ったことがあるのですが,私が道に迷ったあたりはスペイン語の看板ばかりで,英語も通じず,また,どこを歩いているのかさえ不明になって,そのときは生きたここちがしませんでした。今とは違って,スマホが普及する前のことでした。
 それもまた,今では懐かしい思い出です。


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 コロナ禍以前,あれだけ身近に感じていたアメリカでしたが,今は,精神的には宇宙の果てより遠くなってしまいました。
 物価も非常に高くなってしまい,また,行きたいという気持ちも萎えてしまったので,当分アメリカに行けそうにありません。というか,行く気が起きません。
 そこで,自分を元気づけるために,これまで出かけたアメリカの思い出を書いていきたいと思います。
  
 吉田ルイ子さんの写真集「ハーレム」。ビリージョエルの「ニューヨークの想い」。八神純子さんの「パープルタウン」。これが私のアメリカの原点です。というか,とりわけ,ニューヨークへの憧れでした。
 今とは違って,私が想っていたアメリカという国は,暗くすさんだもの。それは,ニューヨークの薄暗い路地裏でどこからともなく聞こえてくる不気味な靴の音。そんな想像が,ビリージョエルの「ニューヨークの想い」と同化して,憧れに転じていってのです。
 私がはじめてアメリカに行ったのは23歳のときですが,それはサンフランシスコとロサンゼルスへのツアー旅行でした。それが生まれてはじめての海外旅行でした。
 そのときに思ったのは,地球儀や地図帳で見ると,あまりにちっぽけな日本。将来,どんなにお金もちになろうとも,偉くなろうとも,高級車でぶっ飛ばそうと,こんな狭いところでしかチマチマと生きられないというなら,なさけないだけだということでした。しかし,そのころの私は,英語も満足にできなかったし,車も持っていませんでした。お金もちでなく,偉くもなく,高級な車に乗ったことがないのは,今も同じですが…。
 そこで,当時考えたのが,ニューヨークへのひとり旅だったのです。
 23歳のころに行った旅行については,今になってみれば,記憶にあることもないこともあるのですが,きわめて幼稚なものでした。それでも,5番街のカフェでひとり朝食を食べながら,どんなもんだい! と勢に浸っていたのを今も思い出します。

 私がニューヨークで最も行きたかったのはハーレムでした。しかし,治安の悪いというハーレムにひとり行く自信もはじめはなく,2度目に行ったとき,現地ツアーに参加して,なんとかハーレムに到達しました。そして,3度目に行ったとき,そのころは,吉田ルイ子さんが暮らしたころの物騒なハーレムではなく,治安も悪くありませんでしたが,ついに,ハーレムでゴスペルを聴くまでになりました。
 若き日に抱いたアメリカへの想いがすべてかなったのは,それから30年以上経ってから,ということだったのですが,ともかく実現しました。今は,そのころの自分に戻って,また行ってみたいものだなあ,とふと思ったりします。


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 今日は9月11日。アメリカでは2001年にアメリカ同時多発テロ事件(September 11 attacks)が起きて20年となる日です。
  ・・・・・・
 アメリカ同時多発テロ事件は,2001年9月11日の朝,イスラーム過激派アルカイダによって行われたアメリカ合衆国に対するテロ攻撃でした。標的となったのはワールドトレードセンターの北棟と南棟,アメリカ国防総省本部庁舎ペンタゴン,そして,もうひとつの標的は不明ですが,アルカイダは合衆国議事堂だと主張しています。この攻撃によって2,977人が死亡し,25,000人以上が負傷し,アメリカ史上最悪のテロ事件となりました。
  ・・・・・・
 私は,この日,事件をCNNでずっと見ていました。ワールドトレードセンターに旅客機が飛び込んでいく様は,何かの映画を見ているようで,現実とは思えませんでした。遠くから映し出されていたその映像には人の姿はまったく見えず,こんな大事件が起きているのに,人々は静観しているのか,と思ったほどでした。しかし,実際は,地獄だったのです。
 この事件を契機として勃発したのがアフガニスタン紛争です。

  ・・・・・・
 アメリカは,同時多発テロ事件が起きた2001年10月に国際テロ組織アルカイダを保護していたアフガニスタンのタリバン政権に対して攻撃を開始し,タリバン政権を打倒し,民主政権の樹立を支援しました。
 アメリカ軍は,タリバン政権打倒後もアフガニスタンに駐留し続け,対テロ組織掃討作戦などを続けていたのですが,アメリカ国内では長引く戦争に撤退を求める声が次第に高まってきました。
 バイデン大統領は4月,同時多発テロ事件から20年の節目となる2021年9月11日までにアメリカ軍をアフガニスタンから撤退させ,アメリカ史上最長の戦争を終わらせると表明し,8月31日までにアメリカ軍を撤退する方針を打ち出していました。そのようなアメリカ軍撤退の動きを受けて,8月中旬にタリバンがアフガニスタンの首都カブールを制圧してしまいました。
 こうして,アメリカが支援していたアフガニスタン政府はあっけなく崩壊してしまいましたが,バイデン政権は8月末までの撤退方針を変えることはありませんでした。
 しかし,8月26日にはカブールの空港周辺で過激派組織「イスラム国」系組織によるテロ攻撃があり,米軍兵士13人ら多数が死傷するという事件おきました。
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 アメリカが20年にわたったアフガニスタンとの戦争で,結局,アフガニスタンは元に戻ってしまったようです。今後の情勢が懸念されています。

 ところで私は,これまで1981年,1997年,2013年の3回,ニューヨークに行きました。故意ではないのですが,後で考えると,奇しくもニューヨークに行ったのは16年ごとだったのです。ということで,次回は2029年 …なのでしょうか?
 それはともかく,1981年に行ったとき,私はワールドトレードセンターに登りました。そして,1997年には,ワールドトレードセンターに行きましたが,このときは登りませんでした。まさかその4年後に,あの巨大なふたつのビルが崩壊するとは思わなかったので,かなりのショックを受けました。
 そして,2013年,崩壊したワールドトレードセンターの跡地に行きました。痛ましい惨状を後世に残す取り組みがいろいろされていました。ワールドトレードセンターのツインタワーが崩壊して以降,その場所は「グラウンドゼロ」とよばれ,追悼の場所となっていました。
 犠牲者の名前が刻まれた滝が流れるモニュメントや「フリーダムタワー」と名づけられた高さ1,776フィートの塔が作られている途中でした。
 現在は,この場所は再開発され,アメリカで最も高い建物となった新しいワンワールドトレードセンターが金融街にそびえ立っています。
 こうして思い出してみると,アメリカという国の直面する複雑な世界情勢のみならず,相変わらず,紛争ばかりに明け暮れる人間の姿についていろいろと考えさせられます。

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☆ミミミ
9月9日,久しぶりに晴れました。夕方の西の空には月齢2.5の月と金星と水星,そして,スピカが美しく見えました。
おまけに新幹線が通りました。

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 これまでに書いたようにして,私は,2013年夏のアメリカ旅行を楽しんできた。
 久しぶりに行った東海岸は,アメリカののどかな中西部とはまた違った刺激があったし,これまでの自分の人生を振り返ることもできた。
 この旅から帰って, 
  ・・・・・・
 また,メイン州の片田舎で,のんびりと大西洋と真っ青な空を眺めていたい。
 ボストンからモントリオール・オタワまで,初秋の紅葉を眺めながら,ドライブがしたい。
 今度こそ,ホワイトマウンテンズでコモ鉄道に乗ってみたい。
 フェンウェイパークで上原浩治投手の勇姿を見てみたい。
 年に一度は,ニューヨークに行って,世界で一番新しくて,そして,一番刺激的な大都会の空気に触れていたい。
  ・・・・・・
 そう思うようになった。
 
 私は,20代のころは,毎年のように北海道を旅して,まっすぐに続く道をドライブしては感動していた。海辺の小さな町で,潮風に吹かれていた。しかし,アメリカを知ってしまってからは,残念ながら,北海道の雄大さには,魅力を感じなくなってしまった。
 30代のころは,毎月,京都や奈良に出かけては,四季折々の景色や,日本の深い歴史に心を打たれ,自分の未熟さを感じたものだった。
 そして,40代は,東京へ出かけては,クラシック音楽のコンサートや,世界各地からやってくる美術展に足を運び,多くの名演奏に接し,名画を見た。
  ・・
 そして,今。
 私の心には,京都や奈良の文化や伝統の偉大さは,今も枯れずに大切に残っている。
 これは,日本が世界に誇る財産である。しかし,大都市東京には,魅力を感じなくなった。確かに,東京には,世界中のなにもかもがあるかもしれないが,渋谷や池袋の雑踏とけたたましい騒音,そして,あまりに多すぎる,他人を押しのけて壁を登るような人の群れと,アクロバティカルな車の洪水。
 それに比べれば,ニューヨークの人を引き付ける圧倒的な迫力と陽気さって,なんなんだろう。そして,ボストンの郊外,タングルウッドの夢の世界。

 私は,途方もなく素晴らしい世界を知ってしまったようだ。
 この後の人生は,1年でも長く健康でいて,自分の足で,何度も何度も,そんな世界に触れてみたい。どうやら,私のこころの中には,また,新しい夢が生まれてきたようだ。

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 やがて,搭乗する時間になった。デトロイト便は,通路を歩いて地上から乗り込むようになっていて,ニューヨークとは思えないほどであった。まるで,日本の田舎の電車の駅のようであった。
 滑走路に飛行機が停まっていて,タラップがあった。通路を出て,タラップに向かうとき,夏の日差しがまぶしかった。
 やがて,タラップから乗り込んだ。

 私は,2004年の夏,モンタナ州で交通事故に会い,足を骨折した。その2年後完治して,私は再びモンタナ州の小さな町ビュートを訪れた。そのビュートの飛行場からシアトルに向かったときも,こんな感じだったなあと,その時思い出した。ビュートの飛行場から見たモンタナ州の大地が美しかったことを昨日のことのように覚えている。
 今回もそのときと同様に,小さな飛行機だった。

 ニューヨークからわざわざデトロイトに行くなんて,デトロイトがデルタのハブ空港だからなのであって,それほど利用客があるとも思えなかった。
 飛行機が離陸して,空から見たニューヨークの景色は,とても美しかった。
 ニューヨークは大都会だが,少し郊外に出れば,森と湖に囲まれていて,自然が一杯のところである。32年前にはじめてこの景色を空から見たときは,その緑の多さにびっくりした。日本では摩天楼と犯罪ばかりのニューヨーク,と思っていたのに,空から見たのは,そんな人間社会をあざ笑うかのような大自然の雄大さだった。
 この旅では,これまで空から見ただけだった,そんな風景さえもドライブすることができんたんだなあ,としみじみと思った。

 やがて,飛行機はデトロイトに到着した。
 降りたのは,いつものコンコースAではなく,コンコースCだった。ここからずいぶんと長い地下通路を歩いてコンコースAに行った。通路は,虹色の照明が次々に変化して,とても美しかった。
 デトロイトの空港では,日本食レストラン「空」でちらし寿司を食べた。
 日本の味であった。
 そうこうするうちに,デトロイトからの帰国便に乗り込む時間になった。

 デトロイトから名古屋に行く帰国便は,さらに,名古屋からフィリピンのマニラまで行くことから,東京・成田へ行く便とは違い,いつものように,乗客の多くはフィリピン人で,日本人はほとんどいなかった。
 今回は,めずらしく,空席が少なからずあった。
 通路を隔てた中央の4席には,単身赴任の旦那さんに会って帰国するところであった女性と2人のかわいい子供が座っていた。
 1年前のノースダコタ州からの帰国のとき,この帰国便に乗るときは,非常に憂鬱であった。
 しかし,今回の帰国便は,座席がリニューアルされていたこともあって,また,比較的空席があったこともあって,とても新しく,気持ちがよかったので,憂鬱な気持ちは全くなかった。
 それよりも,きっと,夢がかなったという満足感が強かったこともあるのだろう。

 今回の旅は,こうして,無事,終わりを告げた。
 32年,私の半生が,こうしてつながったのだった。
 ほんとうに幸せな旅であった。
 日本時間の午後6時少し前,飛行機は日本に到着した。中部国際空港のバッゲジクレイムにいた係の女性は,日本人らしくなく,心から愛想がよかった。話をしていたら,私の書いているブログの話題になった。私は,ぜひ,見てくださいね,と言った。
 最後まで,気持ちのよい旅であった。

◇◇◇
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☆11日目 7月30日(火)
 ついに,帰国の日が来た。
 10泊12日の旅では,実質,観光に使えるのは9日しかない。つまり,実際の日にちより3日も少ないことになる。
 帰国便の出発は,朝7時45分であったから,午前5時30分にはホテルを出発しなくてはならない。
 心配していた朝は,何の問題もなく起床できた。
 時間が早かったが,さすがに,空港に近いホテルだったので,朝食は朝の5時からとることができた。アメリカでも,これくらいの心配りはできるみたいだ。
 このホテルは,ことのほか豪華で,食堂はフロントを眼下に見渡せる2階にあった。しかも,ひろく,清潔で,素敵なことろだった。
 食堂のテレビではCNNをやっていた。私が日本で毎晩見ているのと同じ番組であった。ただし,当然,時間だけは日本で見るときは夜の7時だから,11時間も違ったけれど。
 それは,「NEW DAY」という番組だった。「NEW DAY」,いい言葉だ。私の大好きな言葉だ。
 アメリカ人は,何か辛いことがあっても,新しい日が来ると,昨日は昨日,「NEW DAY」だというそうだ。どこの国に生まれても,それが日常の生活になるとストレスがある。

 朝食を終えて,部屋に戻り,カバンをもって,ホテルのチェックアウトをした。
 シャトルバスは5時過ぎにはすでに空港に行く宿泊客を待っていて,ホテルの玄関に停まっていた。
 あわただしく,私を含めて数人が乗り込んだ。
 私は,これからジョン・F・ケネディ国際空港へ行って,デトロイト行の便に乗り,デトロイトで乗り換えて,日本に帰国することになる。
 ジョン・F・ケネディ国際空港は,さらに拡張工事をしていたので,デルタ航空のターミナルが変更になっているかもしれないから注意しろと書かれてあったが,特に変更になっているわけでもなかったので,通常のデルタ航空のターミナルで降ろしてもらった。
 ターミナルは,早朝だというのに,すでに,多くの客でごった返していた。
 こんなとき,閑散としたノースダコタ州のビスマルクの空港が懐かしい。
 空港で,自動チェックインを済ませ,カバンを預けて,セキュリティを通り,待合室に入った。

 デトロイト行の搭乗ゲートに通じる待合室は新しく,また,コンパクトであった。
 ファーストフード店や土産物店も,小さなものがいくつかあるだけで,日本の空港のようであった。
 待合室の座席には,iPad がたくさん並んでいて,自由に利用することができた。私は,自分のブログを見たり,ブルックリンのホテルを探してさまよった場所をグーグルアースで調べたりと,この旅のことをいろいろと思い出しながら,iPad を使って搭乗時間までの時間をつぶしていた。
 もう,カバンを預けてしまったので,あとは,日本に帰国するだけになってしまったことが,さみしかった。でも,今回は,帰国する憂鬱さよりも,この夢がいっぱい詰まった旅をなし終えた充実感で一杯であった。
 これを書いている今にして思うのだか,この旅は,私がアメリカという国に夢をもち,あこがれを抱き,そしてそのすべてがかなった最高の旅になった。そして,自分の人生を思い出すのに十分な旅になった。今でも,また,アメリカ旅行にはもちろん行きたいが,この旅で,私がアメリカに私が抱いていた長年の夢はほとんどすべて実現したことで,夢からは覚めてしまった。
 このことだけがとても寂しい。
 夢がかなった旅の終わりであった。

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 地下鉄を降りて,ジャマイカセンターにあるカフェテリアで夕食をとってから,さらに,エア・トレインに乗り換えて,ホテルへのシャトルバスの出ているターミナルへ戻り,ホテルに電話をしてシャトルバスをよんだ。
 ニューヨークの夕日がきれいであった。
 シャトルバスが来るまでしばらく待ったが,やがて,シャトルバスが到着して,ホテルに帰った。
 先にも書いたことであるが,こうして,空港に近いホテルを予約しても,そこからマンハッタンに出かけるのは,このように結構不便なことだから,地下鉄沿線のホテルを予約するべきなのである。

 さて,最後の夜である。
 明日の朝,ぜったいに寝坊をしないために、目覚ましを三つ用意した。
 ひとつは,携帯電話(ガラ携)の目覚し機能である。もうひとつは,現地でネットに繋ぐために持っているiPod-touchの目覚し機能である。そして,最後に,携帯した小さな時計の目覚ましであった。
 さらに、それに加えて,ホテルの部屋にあった時計もめずらしくちゃんと機能したので,目覚ましを設定した。
 アメリカのホテルにはどこにもよく似た目覚まし時計がある。設定した時刻になるとラジオが起動するものである。しかし,それらは,あるときは壊れ,また,時間が合っていないなど,うまく機能しないのは,私の泊まるような安価なホテルでは,日常茶飯事なのである。
 また,今回は問題はないのだが,アメリカには時差があって,旅先で現在の正しい時間がなかなかわからないこともあるので注意が必要なのだ。テレビを見ていても,四つの標準時が表示されるだけなのだから,日本のように,今いる場所の正しい時刻がわからない。もし,たとえ1時間であっても勘違いしていたら,飛行機に乗り遅れてしまう。
 そんなわけだから,それに夏時間との切り替え日なども重なると,現地に住んでいる人でも大変であろう。現在,こうしたとき、もっとも役立つのは,GPSを利用して自動的に切り替わるiPod-touchの時刻表示なのである。

 モーニングコールを頼んでもよいのだが,これも曲者で,頼んでおいても電話がかかってこないことすら,これまでに経験したことがある。
 私は,どう考えても,朝,寝過ごすなどということは考えられないのであるけれども,人生でたった一度だけ,アリゾナ州のフェニックスで,それも,アメリカに着いたばかりで時差ぼけがひどいときならともかくも,もう帰国するという日の2日前に,ぐっすりと眠ってしまって,目覚めたらその日が半分終わってしまっていたという経験をしたことがあるものだから,それが,いつまでもトラウマになっているのだった。
 さて,あすの朝の準備も終わったので,あとは,時間通りに起きるばかりになった。そして,朝が来れば,この旅も終わりである。

◇◇◇
余談だが,この春に行った別のアメリカ旅行では,サンアントニオからの帰国便の出発時刻は,早朝の午前7時10分であったから,空港には午前5時には到着しなくてはならなかった。
このときは,この旅以上に苦しかった。今回と同様に,多くの目覚ましを用意したのだけれども,それとは別に,テレビの下に目覚ましとは関係のない時計があって,その時計が2時間も時間が違っていたものだから,夜中に目覚めた私は,真っ先にその時計を見て、もう起きる時間だと勘違いをしてしまったのだった。
一旦起きてしまったら,それ以後,寝るに寝られず,大変な思いをしたのであった。実際は,まだ午前2時であったのに…。

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 そうこうしているうちに,トイレに行きたくなった。車で旅行をしていれば,ガソリンスタンドを探せばいい。アメリカでは,ガソリンスタンドにコンビニが併設されている。
 しかし,徒歩の場合、どうしたらいいのであろうか。
 実は、昨日の夜景ツアーで集合したグランドセントラルステーションのホテルで,宿泊者以外にトイレが利用できなくて困ったことがあった。大都会ニューヨークでは,いくら治安が良くなったからといって,トイレにさえ困ってしまうことがあるのだ。
 困りながら歩いていると,公園があって、トイレがあった。しかし,あいにく使用中であった。
 うんざりしつつさらに歩いていくと,どうやら、そうしてたどり着いた場所はブルックリンハイツの辺りであった。 
 ここは,昨晩、マンハッタンの夜景ツアーで来た場所であった。この一角に公衆トイレがあったのを思い出した。
 夜景ツアーも,昔は,このブルックリンハイツのあたりは治安の悪いところで,ツアーでなければ,この有名な摩天楼の夜景を見ることは困難だったのだけれど,今や,ブルックリンハイツ自体高級住宅地だし,こうしてブルックリンブリッジを歩いてくれば,ツアーに参加しなくても夜景を見ることもできるのだということを,このとき知った。

 私は,ブルックリンハイツをさらに少し歩いて,やっと地下鉄を見つけた。
 というよりも,実際は,乗りたいと思っていた地下鉄,それが何ラインなのかは覚えていないけれど,その地下鉄が走っている線路を見つけたのだ。しかし,そのラインの乗り場を見つけることができなかった。そこで,さらにしばらく歩いて,やっと別のラインの駅の入口を見つけたのだった。
 そうして,そのラインの地下鉄に乗って,途中で乗り換えて,どうにかジャマイカセンターまで帰ることができたのであった。
 今,そのときに写した写真を見ると,このあたりを高架で走るNラインの地下鉄が写っているが,私が乗った地下鉄は絶対にこれではない。Nラインではジャマイカセンターには帰れないのだ。
 こうして地下鉄の駅を探している途中に消防署があったり,公園があったりと,さまよいながら歩いていたことは,それはそれでおもしろかった。思い出してみると,こうしたことのほうが,とてもなつかしく記憶に残っているのは不思議なことである。

 このようにして,今回の夢のような旅の実質的な最終日は,無事に終わりを迎えたのだった。
 ニューヨークといっても,これまではマンハッタンしか知らなかった。わずか数日の滞在であったけれど,こうして,ニューヨーカーのような気分になって,マンハッタンだけではなくて,ブルックリンも歩きまわることができたことは,本当に楽しかった。
 江戸っ子が東京の浅草や三軒茶屋のようなところを気ままに歩くような,そんな気持ちになることができた。今これを書きながら,そのことを思い出すと胸が一杯になってくる。若いころにあこがれたアメリカがやっと手に入ったような気がするのだ。

 さあ,これで,この旅も終わりである。
 あとは,明日早朝の帰国便に,絶対に乗り遅れないようにしなくてばならない。実は,これが今回の旅の最大の懸念事項なのだった。

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 人生には意外性がある。
 思えば,私が生まれてはじめてニューヨークにひとり旅をした32年前の若さを,今の自分が嫉妬する。
 今よりも英語もできず,しかも,治安の悪いニューヨークだったのに,どうしてあのように多くの思い出を残して旅ができたのか,今考えても不思議なことであった。
 そして,それから,あっという間の32年が過ぎた。
 その間,仕事で楽しかった思い出など,ほとんどない。おまけに,私には「悪夢の2007年」があった。この年,一生分の不幸が自分の身に降りかかった。
 結果的に,私は,そのときに仕事を辞め,「社会的な通念である人生」からは落伍した。ある人には見捨てられ,そして,別のある人には救われ,なんとか生き延びることができた。そして,その結果,価値観も変わり,「社会的な通念である人生」というのもには,なんの未練も価値観も持たなくなった。
 だからこそ,こうして,旅をすることもできたし,その結果,夢が実現したともいえる。

 いったい,人は何のために生きているのだろうか。何を目指して生きているのだろうか。
 「社会的な通念である人生」を精一杯生きている人を見ると,私はそんな気持ちになってくる。気の毒な限りだ。
 私に不幸が襲ったとき,私を見捨てたある人たちは,彼らの人生の中で,その後に私の得た体験のうちのどれだけのものを手に入れることができたのであろうか。
 彼らの人生に比べたら,私のほうが,ずっと幸せである。これだけは断言できる。

 ともかく,私は,夢がかなって,ブルックリンブリッジを渡りはじめた。32年間のはるかな時間を渡るかのように。こうなれば,渡り切るしかない。渡り終わったその先がどうなっているのかは知らない。だけれども,引き返すことだけはしまいと誓った。
 ブルックリンブリッジは,思ったよりも長く,結局1時間近く橋を渡っていたであろうか,それでも多くの人が私と同じように橋を渡っていた。
 遠くには自由の女神も見えて,そうして,やがて,マンハッタンの摩天楼がだんだんと小さくなってくるころ,ようやく橋の終わりになった。

 橋を渡り終わって,私は途方にくれた。
 橋を渡り終えると,そこまでは徒歩で渡っていた人が大勢いたのに,どこへ行ってしまったのか,急に人が少なくなった。いったいこの後,私はどうしたらいいのであろうか。
 MLBを見終わったときも同じことを思うのだが,あれだけの人はいったいどこへ行ってしまうのであろうか。
 しかし,私には,もう一度ブルックリンブリッジを逆に歩いてマンハッタンに戻るような元気は,もう残っていなかった。
 今晩宿泊するホテルは,ジョン・F・ケネディ国際空港の近くだ。ここブルックリンでも,どこか近くには地下鉄の駅があるだろう。そして,そこまで行くことさえできれば,ホテルに帰ることができるだろうと思った。そこで,ここから一番近い地下鉄の駅を探した。持っていた地図によれば,それほど遠くないところに地下鉄の駅がありそうだった。

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 ニューヨーク観光も,いよいよクライマックスであった。
 暑さでずいぶんと疲れていたが,そのまま私は,ウォール街まで歩いて行った。
 実は,この旅で最大の失敗は,履いて行ったスニーカーがほほ新品であったにものかかわらず,すでにボストンで中敷きがダメになってしまったことであった。私は,それ以来,サンダルを履いていたのだが,足に合わず痛くて,しかも,ずいぶんと歩いたおかげで,サンダルも底がすり減って,崩壊間近であった。
 家に帰ってから気がついたのだが,私の両足の中指のツメが内出血をしていて,爪が真っ黒になっていた。
 帰国後,これが治るのに5か月も要したほどであった。
 そんなこともあって,ニューヨーク観光など,もうどうでもよくなってきていたのだけれど,ウォール街まで来てみると,目の前にブルックリンブリッジがあるのを見て,最後の闘志がわいてきた。

 昨日,夜景ツアーでこの橋を車で渡ったときに,橋の外側が工事の塀で覆われていたので,また今回も渡ることができないんだなあ,と残念に思ったことだった。しかし,それは私の早合点であった。
 このことも,すでに,このブログに書いたが,32年前に来たときは,八神純子さんがJALPAKのコマーシャルで,「パープルタウン」の流れる中,ブルックリンブリッジを自転車で駆け抜けるシーンにあこがれてニューヨークに来たようなものであった。そして,その時は,なんという不運か,前日ブルックリンブリッジのワイヤが1本切れたとかで,通行禁止になってしまっていたのであった。
 私は,そのときの旅で,ブルックリンブリッジまで歩いてきて,橋を目の前にして,雨が降りはじめたことを昨日のことのように思い出す…。

 多くの観光客がブルックリンブリッジを目指して歩いて行くところであった。
 ブルックリンブリッジの徒歩での上り口までの距離は,私のいるところからはずいぶんと遠く思われたが,きっとこの機会を逃したら,一生,もうブルックリンブリッジを徒歩で渡る機会など訪れないだろうと思った。いくらブルックリンブリッジがここから遠いからといって,日本までの距離とは比べ物にならないであろう。当たり前の話だけれど。
 そんなわけで,私は疲れた体に鞭を打ち,崩壊寸前のサンダルを励ましながら,ブルックリンブリッジをめざずことになったのだった。

 ブルックリンブリッジに登ってみると,思ったよりも多くの観光客が対岸のブルックリンを目指して歩いていた。ある人は写真を撮り,また,ある人は自転車で駆け抜けていた。私は,歩きながら時折マンハッタンの方向を振り返るのだが,マンハッタンは摩天楼がまもなく夕方を迎える太陽で美しく輝いていた。
 私は,このようにして,ほとんどめげてはいたけれども,どうにか,やっと,ブルックリンブリッジを歩いて渡る,という,ここに来るまでほとんど忘れかけていた32年前の青春の夢が,きょうやっとかなったことに,涙が出てきて止まらなくなった。
 本当に,今回の旅では,多くの,これまでやりたくてやりたくてしかたがなかった夢がほとんどかなったのであった。

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 バッテリーパークまで歩いて行くと「STATUE OF LIBERTY IS OPEN」と書かれた横断幕があった。
 そういえば,自由の女神は,しばらく補修で観覧ができなかったが,近ごろオープンしたということを思い出した。私は,生まれてはじめてアメリカをひとり旅したときにGRAYLINEのニューヨーク市内観光ツアーに参加した。それは,今となっては懐かしい思い出で,当時の情熱を,とてもうらやましく思うが,そのとき,バッテリーパークでバスを降りて,ある一定の時間が与えられて,ツアー客のそれぞれが勝手にリバティ島までフェリーで渡り,自由の女神に昇り,そしてバスに戻った。どうして,そんなことができたのか,今となっては不思議な気がする。
 現在のように,これほど混雑してしまっては,それは到底無理なスケジュールであろう。しかも,そのとき,私は,自由の女神の王冠のところにある展望台まで登ることも容易にできたのだった。
 今から32年も前のアメリカは,今よりも行くのが大変だったけれども,今ほど観光地も混雑しておらず,よい思い出が一杯できた。確かに,今よりも都市の治安ははるかに悪かったけれども,テロのような別の心配はほとんどなかった。

 そんなわけで,私は,自由の女神もエンパイアステートビルも,今回の旅行でぜひ行ってみようというほどの気持ちはなかったが,ふと「STATUE OF LIBERTY IS OPEN」の横断幕を目にしたことから,リバティ島まで渡る気持ちになった。
 チケット売り場は,思ったほど混雑しておらず,フェリーも多くの人が並んではいたが,少し待てば容易に乗ることができそうだったので,リバティ島に上陸するだけのチケットを購入した。
 ただし,このチケットでは,自由の女神には昇れない。
 多くの人でごったがえす桟橋に並んで,船に乗り込んだ。船から眺めたマンハッタンは,絶品であったし,32年前の記憶が昨日のように蘇ってきた。やがて,目の前に自由の女神が見えてきた。
 リバティ島の外周を歩いて行くと,どんどんと自由の女神が近づいてきた。
 一番近くまで来ると,道は,外周コースト自由の女神見学コースに分かれていた。私は,外周コースを1周して,再び,マンハッタンに戻る桟橋に出た。行きよりもずいぶんと多い人でごった返していてうんざりしたが,ずいぶんと並んで,どうにか船に乗ることができたのだった。

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 グランドセロは,新たなビルを建設しているところの向こう側に,「National September 11 Memorial」という広場があって,そこの中が公園になっていた。現地でもらった日本語のパンフレットには「9/11記念碑」と記されていた。
 記念碑に入るには,かなり厳しいセキュリテイチェックがあった。入場料とでもいったものはなかったが,募金箱があって,それぞれが,自分の気持ちでお金を入れていた。私もお金を入れたと思うのだけれど,いくらいれたのかは覚えていない。
 この中の様子は,すでに,昨年の9月11日にこのブログで書いたが,以前貿易センタービルが建っていた場所には,ふたつのプールが作られていた。「深さ30フィート」とパンフレットに書いてあった。そのプールの中央の深さ22フィートの滝に流れ落ちるようになっていた。また,そのプールの外壁には,同時多発テロで犠牲になった人たちの名前が刻まれていて,ところどころに,白いバラが挿してあった。
 敷地内には,多くのスワンプ・ホワイトオークの木が植えられていた。すべてが完成すると400本以上が植えられることになるということだった。
 これもすでに書いたことだが,その中に,1本だけ9/11で生き残った「サイバーツリー(生還の木)」というものがあって,それだけはマメナシの木だということであった。こうして,生き残った木は,人々の心の支えになることであろう。

 この記念碑を出た所には,9/11博物館があった。
 この博物館は,9/11当日の出来事や,背景,事件後の国内外の反応が記憶されていて,追悼展示が設けられているということであった。また,博物館のアトリウムには2本の鋼鉄製のトライデントが立っているのだという。その鋼鉄は今は亡きノースタワーの外観に使われていたものだそうだ。
 この博物館は,入口の前に列ができていたことと,この日とても暑くてへばっていたこと,さらに,そんな疲れからこうした惨事までも見世物のように扱っていること,また,金儲けにしていること(けっこうな入場料であった)に腹を立てて中に入らなかったのであるが,今は,中に入らなかったことが悔やまれる。
 新たな貿易センタービルは,このときすでに,ほぼ外観は完成していて,下の部分の完成を急いでいた。遠くからでもずっとそのビルを見ることができていた。完成すれば,新たなニューヨークの名所になることであろう。口の悪いアメリカ人は,「ANOTHER TARGET」だと言っているという物騒な話を聞いたことがある。
 
 この日,ぜひ行きたかったところは,これで終わりだったが,それでもまだ,お昼前であったので,私は,そのまま,マンハッタン島の先端バッテリーパークまで歩いていくことにした。はじめてニューヨークに来た24歳のころを振り返っているかのようであった。

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 グラウンド・ゼロ(ground zero)とは,英語で「爆心地」を意味する語である。強大な爆弾,特に核兵器である原子爆弾や水素爆弾の爆心地を指す例が多い。
 従来は広島と長崎への原爆投下爆心地や,ネバダ砂漠での世界初の核兵器実験場跡地,また核保有国で行われた地上核実験での爆心地を「グラウンド・ゼロ」とよぶのが一般的であった。しかし,アメリカ同時多発テロ事件の報道の過程で,テロの標的となったニューヨークのワールドトレードセンター(WTC)が倒壊した跡地が,広島の原爆爆心地を連想させるとして,WTCの跡地を「グラウンド・ゼロ」とアメリカのマスコミでよばれ,これが定着した。

  ・・・・・・
 ワールドトレードセンター(世界貿易センター)は,ニューヨーク市マンハッタン区のローワー・マンハッタン(マンハッタンの南端)に位置していた商業センターであった。建設および経営にはニューヨーク・ニュージャージー港湾公社があたった。ここは「ワールドトレードセンター・コンプレックス」という5万人の勤務者と1日20万人の来館者のあるニューヨーク最大のオフィス兼商業センターであった。
 コンプレックスは7つのビルによって構成されていたが,特にその中心であったツインタワーは,完成時には世界一の高さを誇り,2棟の巨大な直方体が並び立つ姿は,ニューヨーク市やマンハッタンのシンボルとなっていた。
  ・・・・・・
 私は,これまで,2度,ここに来たことがあって,1度目は1981年,2度目は2000年であった。
 1981年の時は,エレベーターで展望台まで上った。そして,2000年の時は混雑していて上るのをあきらめたが,まさか,その翌年に惨事が起こるなどとは想像もできなかった。
 そして,2001年9月11日。9/11テロ(アメリカ同時多発テロ事件)によって崩壊した。
 それ以降,この地は,「グラウンド・ゼロ」又は「ワールドトレードセンターサイト(跡地)」という呼び名が定着している。

 私は,42ストリート駅から地下鉄Eラインに乗って,終点のワールドトレードセンター駅まで行った。そのときは,ワールドトレードセンターは倒壊したのに,どうして駅名だけ同じなのか,と不思議な気がした。考えてみれば,駅名を変える必要はないわけだから,別に不思議でもないのだけれど。
 この日はすごく暑い日で,駅を出たときの日差しがきつかった。地上に出れば,すぐに目的地がわかるものだと思っていたが,例のごとく,アメリカは広すぎてどこがどうなのかよくわからなかった。ともかく,歩いていた人にグラウンド・ゼロはどちらかと聞いたら,ココがそうじゃないかという怪訝な顔をして,こっちだと方向を教えてくれた。八重洲ブックセンターあたりで東京駅はどっちだと聞いたようなものであった。
 ところが,たしかに,その場所は,新しいビルを建設している場所ではあったけれど,逆方法を歩いたようで,目的地からはどんどん遠ざかってしまった。なにせ,建設現場なので,道が遮断されていたりして,思う方向に行けなかったのだった。しかたなく再び元の場所に戻って,どうにか,目指す方向を見つけた。
 実際に行くまで,この場所がそのときどうなっているのか,私は知らなかった。

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 イントレピッド海上航空宇宙博物館をあとにして,次は,グランドゼロである。
 特に急ぐこともないので,私は,ブロードウェイまで歩いて行った。
 途中には,日本料理店やらベトナム料理店やらがあって,ランチ$11.99といった看板が出ていた。
 ブロードウェイまではさほど遠くなく,まもなくミュージカル街が見えてきた。お昼間のブロードウェイのミュージカルホール街は閑散としていたが,私は,有名なミュージカルをやっているいろんな劇場を外から見て回ることにした。
 なんといっても,この年の話題は,「マチルダ」と「キンキーブーツ」であったので,ぜひ,それを上演している劇場を見ようと思った。昨日見た「シカゴ」とか「オペラ座の怪人」とかを上演している劇場はすぐにみつかるのに,「キンキーブーツ」をやっている劇場が見つからない。ブロードウェイのミュージカルに関するグッズを売っているショップを見つけたので,中に入って,その劇場の場所を聞いた。こんなことを聞く人がいるのかしら,と思ったが,気持ちよく教えてくれたので,念願かなって,その劇場を見ることができた。

 それにしても,ミュージカル大好き人間がニューヨークに来たら大変なことになると思った。これだけのミュージカルを毎晩上演しているのだ。それも,チケットは半端な金額ではない。
 景気が悪いだとか,アメリカには往年の勢いがないだとか,世間はいろいろいうけれども,MLBにせよ,クラシック音楽にせよ,ミュージカルにせよ,これだけのものを毎晩楽しめる国が他にあるだろうか。
 それに,一歩外に出れば,大平原や,奇想天外な風景やらが延々と続いている。
 やはり,すごい国だ。ただし,よく考えてみると,アメリカに生まれたからといって,それほど国内の旅行ができるわけでもなく,ミュージカルが見られるわけでもないから,旅人の特権なのであろう。
 しかし,私のまわりにも,ほとんど行ったことがないのに,アメリカへ行かず嫌いが少なからずいる。これだけのエンターテイメントとワイドビューを味わえる国は他にはない。私は,ヨーロッパにもオーストラリアにもロシアにも行ったことがあるけれど,アメリカのこのダイナミックな魅力を知らずしてアメリカ嫌いを自認する人を哀れに思ってしまう。
 どうか,団体ツアーでの観光旅行でなく,一度,その足で,アメリカを味わってみてください!

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 夏休みということもあって,そろいのTシャツを着た小学生やら,観光客やらで,ゲート付近は結構な賑わいであった。しかし,チケット売り場の列が掃けるにはそれほど時間がかからず,館内に入ることができた。
 まず,イントレピッドの最上階のフライトデッキまでエレベーターで上がった。
 フライトデッキの一番奥に,7月10日にオープンしたばかりのスペースシャトルパビリオンという体育館を巨大にした建物があって,その中に,スペースシャトルが鎮座していた。私はもっと混雑を予想していたが,拍子抜けであった。それでも,機体に書かれたさまざまな表示やら,緊急脱出用の機器やらが妙に生々しかった。

 スペースシャトル(Space Shuttle)は,当初は通常のロケットより1回あたりの飛行コストを安くできるという見込みでこの計画がスタートし製造されたのだが,実際の運用でチャレンジャーが爆発事故を起こしたり,コロンビアが帰還途中で空中崩壊したりと,発生した事故に対する安全対策が必要になって,当初の予想より保守費用が大きくなっていって,使い捨てロケットよりもかえって高くつくものになっってしまったので,2011年7月の飛行をもって退役した。
 私は,第1回目の飛行のとき,ほんとうに宇宙船がグライダーのように着陸することが信じられず,深夜にテレビで着陸の中継を見て感動したことを覚えている。
 一度は打ち上げを自分の目で見たかったが,それはかなわなかった。

 スペースシャトルは確かにでかかったが,この国のスケールでは,何の驚きもなかった。なにか,おもちゃのようであった。確かに,このニューヨークに展示されているスペースシャトルも実際のスペースシャトルには違いがないのだが,地球を周回したものではないので,その分,リアルさに欠けた。
 私は,できれば,将来,ワシントンかフロリダで,実際に地球を周回した本物を見たいと思った。特に,フロリダにあるアトランティスは,テレビのある番組で見たところ,飛んでいるような状態で展示がされているようで,ぜひ一度は見てみたいと思っている。

 空いていたこともあって,このパビリオンで,スペースシャトルを前から後ろから横から,と,思う存分眺めることができた。小さそうではあるが,写真を写すと,広角のレンズで画角が一杯であった。私は,スペースシャトルと「セルフィー」しようと,スタッフに写真を撮ってくれるように頼んで,シャトルの前に立っていたら,ちょうど子供が通りかかったので,私は,その子供も招き入れて,一緒に写真を写した。
 このパビリオンには,そのほかにも,ソユーズ宇宙船やら,スペースシャトルの説明やらといった展示品があって,このままもってくれば,なにかの国際博覧会の展示そのものにできそうであった。
 そんなふうにして,のんびりとスペースシャトルを堪能して,パビリオンから外に出た。

 フライトデッキからはナビゲーションブリッジにも狭い階段で上がることができた。そこは,イントレピッドの操縦室であった。これまでいろいろと見た船の操縦室と同じようなものであった。
 それ以外にも,フライトデッキには,いろいろな戦闘機が展示してあった。私は,さほど,飛行機には興味がないのでよくわからないけれど,マニアにはたまらない展示に違いないであろう。
 そのあと,階下のギャラリーデッキ,ハンガーデッキ,そして,一番下のサードデッキと見学した。ハンガーデッキにも,数多くの飛行機や,マーキュリー宇宙船(これはレプリカ)などが展示してあった。
 それにしても,この国の博物館というのは,どこもスケールが違うし,展示してあるものの量が違う。これで,私は,ますます,日本の博物館にはいかなくなってしまうのであろう。

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 地下鉄に乗って,マンハッタンに向かった。
 この日,特に見たいところは,スペースシャトルとグランドゼロであった。それ以外は,特に決めていなかった。
  ・・・・・・
 スペースシャトル(Space Shuttle)は,アメリカ航空宇宙局(NASA)が1981年から2011年にかけて135回打ち上げた再使用をコンセプトに含んだ有人宇宙船である。飛行可能な機体は最終的には6機製造された。
 初号機の「エンタープライズ」は,宇宙に行けるようには作られてはおらず,もっぱら滑空試験のためのみに使用されたので,実用化されたのは,「コロンビア」「チャレンジャー」「ディスカバリー」「アトランティス」「エンデバー」の5機である。
 当初は,「エンタープライズ」も進入着陸試験が終了した後に実用機として改造される予定だったが,構造試験のために製造されたSTA-099を「チャレンジャー」に改造したほうが安上がりだと判断された。その「チャレンジャー」は1986年,発射から73秒後に爆発事故を起こして機体が失われてしまったために,機体構造の予備品として残っていたものを集めて,新たに「エンデバー」が製作された。また,「コロンビア」も,2003年に空中分解事故を起こして消滅してしまった。
 退役後は,現在,「ディスカバリー」はワシントンのスミソニアン博物館の国立航空宇宙博物館別館,「アトランティス」はフロリダ州のケネディ宇宙センターの見学者用施設,「エンデバー」はロサンゼルスのカリフォルニア科学センターに展示されている。
 「エンタープライズ」は,長年ワシントンの国立航空宇宙博物館別館に展示されていたが,すべてのスペースシャトルが退役したことで,「ディスカバリー」がこれに変わって展示されたために,現在,ここニューヨークのイントレピッド海上航空宇宙博物館に展示されたというわけである。
  ・・・・・・

 1982年に開館したイントレピッド海上航空宇宙博物館(Intrepid Sea-Air-Space Museum)は,アメリカ海軍で使用されていた航空母艦「イントレピッド」を利用したもので,ここでは,艦船や航空機の展示を行っている。
 ニューヨークのマンハッタン西岸・86番桟橋にあって,イントレピッド財団が運営を行っている。
 空母「イントレピッド」は博物館の本館で,飛行甲板上には各種航空機が展示されている。
  ・・・・・・
 退役後の空母「イントレピッド」を博物館として再利用されることが1982年8月に決定されると,船体はニューヨーク市マンハッタン中心部西46番通りの西端でハドソン川に張り出している86番桟橋に係留されて,イントレピッド海上航空宇宙博物館として生まれ変わり,多くの観光客を集めるマンハッタンの名所のひとつとなった。
 しかし,築80年以上になるこの桟橋は老朽化が著しくて,構造強度の劣化から崩壊の可能性が指摘されると,2006年に,この桟橋を近代的なものに改築するのと同時に,イントレピッドにも補修改修工事を施すために,ハドソン川を約8キロメートル下ったニュージャージー州ベイヨンのドライドックへ一時移動させることになった。
 ところが,24年間に堆積していた土砂にスクリューがとられて,離岸直後に座礁してしまった。
 詳細な調査を行ったところ,もう少し堆積土砂を撤去すれば次の大潮満潮時に離礁させることが可能という結論に至って,ともかく,12月5日に離礁に成功した。
 こうして,「イントレピッド」は,飛行甲板の修理,未公開エリアの整備,外装の再塗装などの補修改修工事が施されて,2008年秋に,新築成った86番桟橋に無事戻されて,博物館として再オープンした。
 そして,2012年,スペースシャトル1号機「エンタープライズ」がイントレピッド海上航空宇宙博物館で展示された。
  ・・・・・・
 イントレピッド海上航空宇宙博物館は最寄の地下鉄の駅がない。私は,50ストリート駅で降りて,そこから,のんびりと西に4ブロック歩いていった。
 マンハッタンも,この辺りは観光地でないので,東京の錦糸町を歩いているようなものであった。
 考えてみれば,この辺りは,あの,かの有名な「WEST SIDE」である。ここも,昔は,決して治安の良いところではなかった。それがなんという変わり方であろうか。
 やがて,イントレピッド海上航空宇宙博物館が見えてきた。

☆ミミミ
日本はゴールデンウィーク。私も,若い頃はいろいろな所へ出かけたものですが,どこも混んでいて,結局,行く所はない,という結論になりました。あえて言うなら,海外,それも,日本人の行かない所なら。
というわけで,私の休日は天体写真撮影三昧です。満天の星を見て,夜明けのドライブ。自宅に帰ってコーヒーを味わうのは,最高の贅沢です。でも,今の季節は,午前4時にはもう東の空は明るくなります。
現在,北西の空,北斗七星のあたりに,パンスターズ彗星(C/2012K1 PanSTARRS)が見えています。これは,昨年明るくなったパンスターズ彗星とは別物で,この夏に5等星くらいに明るくなるといわれています。現在は9等星くらいですが,今日の朝は,M51・子持ち星雲に接近しました。写真を写しましたので,ご覧ください。左上がM51,右下がパンスターズ彗星です。

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 こんな朝早く,ホテルのシャトルバスに乗ったのは,私しかいなかった。すぐにホテルに到着した。すぐに,といっても,歩いていけるような距離ではない。ホテルのフロントで,予約をしてあることを告げた。予約してあったホテル,ベスト・ウェスタン・ケネディ・エアポートは,普通の全国チェーンのホテルで,別に高級ホテルでもないのだが,ブルックリンのひなびたホテルにいた私には,天国に思えた。フロントには,過剰警戒のガラスの覆いなどないし,高級感が満ち溢れていた。むしろ,マンハッタンの中心にあるペンシルベニアホテルのほうが,ずっとおんぼろに見えた。
 ホテルでは,別段,チェックインはまだだとか言われず,フロントの係は首をかしげながらコンピュータの画面とにらめっとをしていたが,なんとか部屋が確保できて,私は,カバンの置き場所と今晩の寝場所を確保するのに成功した。フロントの係は,日本から来たのか? おれも居たことがある,と言った。私は「アーミーか」と聞いたら,彼は,「ネイビー」だと答えた。

 部屋は広く,デラックスであった。心置きなくネットも使えそうであった。専用のパスワードがあって,チェックインのときにそれを教えてくれた。部屋に荷物を置き,いよいよきょうのニューヨーク観光である。特に,細かな予定は立てていなかったが,ぜひ行きたかったのは,スペースシャトルの本物を見ることであった。そのあとで,グランドゼロへ行こうと思った。

 再び,ホテルからシャトルバスに乗り込んだ。朝早かったので,ホテルをチェックアウトしてそのまま空港に向かう人で,そこそこにバスは混んでいた。私は,このバスで空港のターミナルまで行って,そこからエアトレインでジャマイカ・センターまで行って,地下鉄に乗り換える必要があった。ここはアメリカだ。私は,地下鉄に乗るのだが,と言ってバスに乗り込んだが,バスの運転手は,このバスはターミナルまでしか行かないがそれでいいか,と聞いた。もちろん私は承知で乗り込んだが,おそらく日本でこういう状況であれば,シャトルバスはジャマイカ・センターまでのサービスがあることだろう。

 すでに書いたように,このように,空港に近いホテルというのは,便利なようで便利でない。
 バスは,それぞれの客の乗る航空会社のターミナルをめぐっていった。
 アメリカでは,航空会社によってターミナルが違うし,それぞれがものすごく離れているので,こうしたときに,どの会社の飛行機に乗るかと聞かれるから,アメリカを個人旅行する人は戸惑わないようにしてください。
 私は,シャトルバスに乗った私以外のすべての客を降ろした最後になった。
 やがて,私の降りる一番ジャマイカセンターに近いエアトレインのターミナルに着いた。なんだか,私のために余分に走ってもらったような悪い気になったので,降りるときに運転手にチップをあげた。本当はあげる必要はない。シャトルバスの運転手にチップをあげるのは,重い荷物を運んでもらったときである。だから,運転手は,ちょっとびっくりしていた。
 ともあれ,このターミナルでエア・トレインに乗って,地下鉄の乗換駅であるジャマイカ・センターに着いた。
 この駅にカフェテリアがあるのは知っていたので,そこで朝食をとった。

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☆10日目 7月29日(月)
 ついに,最終日になった。
 実際は,あと2日あるのだが,あすは,早朝,帰国便に乗るだけである。そして,機内で日付変更線を越えるので,あっという間に1日が過ぎてしまう…。
 ということで,あすの早朝に空港に到着するために,今晩は,空港の近くのホテルに泊まることにした。
 今回の旅行で行ったボストンやニューヨークは,ホテルの宿泊代が異常に高い。私は,ずっとアメリカの田舎を旅行していたものだから,アメリカのホテルの宿泊代がこれほど高価だとは思っていなかった。それで,ニューヨークでも,ブルックリンにホテルを予約したのだけれども,その結果,これまでに書いたように,かなりスリルのある事件が起きた。しかし,慣れてみると,この方がずっとおもしろかった。

 ともあれ,少し高価であったが,最終日は,ホテルを変わることになった。ここで少し不安だったのが,早朝,今晩泊るホテルに行っても,そんなに早くチェックインできるかということであった。チェックインできなければ,カバンを預けなければ,きょう一日身動きができない。そういえは,日本の観光地で,アジア人と思しき観光客が,大きなトランクを引きながら観光をしているに出会う。トランクなど預ければいいのに,と思うのだが,きっと,朝,ホテルをチェックアウトして,その日の夕刻帰途に着くのであろう。そして,その間の荷物の処遇に困っているのであろう。
 まあ,どうにでもなるわい,と思い,早朝,異常に早い時間に,ブルックリンのホテルをチェックアウトした。時間は覚えていないが,おそらく,6時前であったろう。何度も書くが,東京で,ホテルに泊まって早朝にチェックアウトをして地下鉄やJRに乗るのと,ほとんど違いはない。昨晩,夜景ツアーに参加した時に,他の参加者に,ニューヨークをひとりで旅しているのにかなり驚かれたが,別段,それほどのことでもない。

 地下鉄Lラインのホージー・ストリート駅から早朝のほとんど人がいない地下鉄に乗り込んで3駅。地下鉄は地上に出て,ブロードウェイ・ジャンクションという駅に着いた。ここで,JラインかZラインに乗り換えるのである。写真でわかるように,品川あたりの京阪急行のような駅である。
ニューヨークに着いた初めの日にわけがわからなくなった因縁のラインである。ホームからの夜明けが美しかった。時刻は朝の6時19分であった。Jラインの電車が来たので乗り込んで,ブルックリンの景色を眺めながら9駅くらいであろうか,ジャマイカ・センターの駅に到着した。ここから,エア・トレインに乗り換えて,とりあえず,ジョン・F・ケネディ国際空港へ行く。そして,ホテルのシャトルバスの停まるターミナルまで行かなくてはならなかった。

 以前書いたように,これは,非常にばかげたことだったのである。ジャマイカ・センターの駅近くの徒歩圏内にもいくつかホテルがあって,そこに予約してあれば,ホテルのシャトルバスなど使わなくともエア・トレインで空港にも行けるし,地下鉄でマンハッタンにも行けたのである。それを,わざわざ,エア・トレインに乗り,空港に行って,そこからホテルのシャトルバスに乗り,ホテルに行って,チェックインをして,ふたたび,ホテルのシャトルバスでエア・トレインの駅まで行って,さらに,エア・トレインでジャマイカ・センターの駅まで行かなければ,地下鉄に乗れないのであった。
 このときは,すでに,ホテルの予約をしてあったので,やむをえず,このような不便なアクセスをとるしかなかった。
 これから旅行をする人は,ぜひ,このことを参考にして,ジャマイカセンターにホテルを予約してください。

 ともかく,空港のシャトルバスのターミナル駅についた。案内に,ホテルの名前を行って,場所を尋ねたら,エスカレータを降りろと言われた。そこは,ホテルのシャトルバスをよぶ電話のある場所であった。
 ホテルに電話をして,シャトルバスをよんだ。ターミナルで待っていると,バスが来たので乗り込んだ。運転席の横には,もらったチップであろう小銭が山と積まれていて,こうしたシャトルバスは,降りるときにチップがいるのかしらん,と,私はわけがわからなくなったのだった。

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 夜のマンハッタンをツアーのバンで移動しながら,そうした昔のことをたくさん聞くことができた。そうするうちに,バンは,ブルックリンビレッジを通り過ぎて,イーストリバーを渡り,対岸のブルックリンハイツについた。この夜景ツアーは,ブルックリンハイツからとエンパイヤ・ファルトン・フェリー・ステイツ・パークからのマンハッタンの夜景を眺めるものであった。
 以前来たときには,けっこう治安の悪いところだったようで,夜景を眺めて,すぐに促されてその場所を後にしたけれど,今は,たいへん治安がよく,多くの観光客が夜景を見にきていた。

 ブルックリンハイツは,エンパイヤ・ファルトン・フェリー・ステイツ・パークの東側の高台で,高級住宅地である。また,エンパイヤ・ファルトン・フェリー・ステイツ・パークからのブルックリンビレッジとマンハッタンの夜景は,映画「マンハッタン」で有名な場所である。
 私は,ここに来る途中で,自分にはブルックリンビレッジを歩いて渡るという夢が残っていたことを思い出した。果たして,今回もこの夢が実現できるかしら,とこのときは思った。

 話が飛ぶが,次の日,つまり,この旅の実質上の最終日,私は,ついに,念願のブルックリンブリッジを歩いて渡ることができた。そして,再び,このブルックリンハイツからエンパイヤ・ファルトン・フェリー・ステイツ・パークへ歩いてみた。このとき,ここの夜景は,今や,ツアーでなくとも,ひとりで橋を渡って見にくることができるのだと,そう思った。

 この日のマンハッタンは,雨上がりで少し霧がかかっていた。それが,また,幻想的であった。
 貿易センタービルの建物は,悲惨な9・11で崩壊してしまったので,前回来たときとは違う。また,それ以外にも数多くの高層ビルが建ち,景観も変わった。この町は生きている,と思った。
 多くの観光客がそれぞれが思い思いに写真を撮っていた。
 私の参加したツアーは,この夜景を見るだけのものであった。私は,今回の旅でニューヨークのほとんどの夢は実現したのだが,ひとつだけやり残してしまたことがある。それは,ヘリコブターで,空からマンハッタンの夜景をみることだ。この夢はいつか実現できるのだろうか…。

 ツアーが終わり,私は,地下鉄Lラインに乗ることができる駅まで送ってもらった。ブルックリンで道に迷ったのは昨日のことだが,もう,ずいぶんと昔のように感じた。
 Lラインの車内は込み合っていて,私は,カメラを肩にかけて座席の前に立っていた。座っている男が「そのカメラは,レンズ交換の出来るやつだろう」と言って,私のニコン1J3を見て話しかけてきた。そして,その男は隣にいた女性(きっと奥さん)にカメラのことを話しているようであった。望遠ズームを付けていたので,私は,きょうヤンキースを見てきた帰りだと答えた。そうしたら,彼は「そういえば今日は日本人のなんとかいうボーイが4-4を打ったんだろう」と言った。イチローも,ニューヨークでは,ボーイなんだと,なにかおかしくなった。
 そして,なぜか,ずっと,この町に住んでいるような気がした。
 この日は,昨日のように地下鉄の中は大道芸人もなく,静かなものであった。

 ホテルに戻った。この旅で,もっとも楽しみにしていて,もっとも多忙だと思っていた1日が楽しく終わった。すべてが順調な1日であった。この日のことは生涯忘れないであろう。
 いよいよ明日は,実質上の最終日である。ホテルの移動をどのようにするかということだけが,少し心配であった。

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 日本のラーメン屋のような店であった。私は,カウンタに座ってカツ定食なるものを注文した。どんなものが出てくるのか興味があった。
 昔,パリに行ったときに,シャンゼリゼ通りで「どさん子」というラーメンチェーンを見つけて,塩バターラーメンを食べたのを思い出した。そのときの店員の「シオバタらーメン」と言った発音が忘れられない。
 難しいものを注文したせいか,なかなか出てこなかったが,のんびりと店内を観察することができた。非常ににぎわっていた。あとで知ったことには,このところ,ニューヨークでは,非常にラーメンが人気であるらしい。ニューヨーカーは食事にかける時間が長く,日本人の2倍,3倍も麺を救い上げたままおしゃべりに夢中になっていたりするので,麺がのびないように通常よりも水分を多くしたりと,企業努力をしている店が人気なのだそうだ。

 これを書きながら思い出したが,いくらラーメンブームとはいっても,ニューヨーカーにはやはりピザだそうだ。
 けっこう大きめのピザを4分の1切って買い,これを弧の真ん中と中心を折り目にして二つ折りにして,手ですくうようにして口に入れるのだそうだ。フォークで食べるなどは論外で,ピザをフォークで食する写真が掲載されたことで,ニューヨーク市長はスキャンダルにまで発展した。
  ・・
 やがて,私の前に食事が運ばれた。日本とまったく同じ,というか,日本よりも美味なカツ定食が出てきた。しっかりと赤味噌の味噌汁まで付いていた。何度も書くが,ここは東京と変わらない。東京よりも店内は広く,食事もおいしいことが違うくらいだ。
 食事が終了して,私は,そのまま5番街を南に歩いて,朝と同じ集合場所に向かった。まだ時間が早かったので,これも朝と同じマクドナルドに行って,ブログを書いた。朝と同じ店とは思えない賑わいであった。

 時間になったので,集合場所に行った。少し雨が降ったので,ガスっぽくなっていたが,夜景は見られそうであった。10人くらいの参加者がいて,朝とは違った男性のツアコンが,これも朝とは違って,自分でバンを運転して現れた。
 今回参加したツアーは,大都市ニューヨークで日本人観光客を相手にしているだけあって,そつがないというか,ビジネスライクというか,質問してもちゃんと答えてくれるし,案内もしてくれるので問題はないのだけれども,まったく無理が利かないというか,個人的に親しくなれるという感じがなかった。
 アメリカを旅行すると,そうした人にこれまでもたくさん出会ってきたが,それにしても,日本人として生まれて,アメリカに憧れてこの地に来て生きていくということは,それなりに大変なことであり,また,ここでしか味わえない楽しいこともたくさんあるだろう。私も含めて,日本からの旅行者を相手に毎日仕事をするというのは,たとえそれが仕事とはいえ,当然,わけのわからぬ人もいるだろうし,そこに,さらに,異文化という要素が加わるから,苦労も多いことであろう。

 ツアコンは,私とさほど年が違わない人で,ニューヨークにずっと住んでいるということで,ニューヨークの変遷を聞くことができた。私が感じていたように,この街は,近年,ものすごく治安がよくなって,それは,ジュリアーニ前市長の功績であるということだった。以前は,本当に,死体が川に浮いていたり,投げ捨てられていたり,麻薬の売買をやっていたりしたそうだ。
 私にとってのニューヨークは,ビリージョエルの口笛の音,マンハッタンの暗闇に浮かぶ足音,そして,遠く南に霞む摩天楼を見上げて生きる荒んだハーレム,そして,エンパイアステイトビルの展望台からゴーッという風の音とともに見下ろす碁盤状の町並み…,である。
 しかし,時代は変わり,ニューヨークは,今や,東京と同じになっ(てしまっ)た。

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 試合終了後の地下鉄乗り場は,昨日同様,多くの人でごった返していた。地上2階の乗り場まで鉄の階段を上って,改札口に到着した。
 私の前の人がメトロカードを自動改札に通したが,改札が開かなかった。私は,にわか知識で料金が不足しているんだ,と言った。すでに,私のこころはニューヨーカーであった。ところが,次に私が自動改札を通したときに,同じことが起こった。そういえば,今日来るときに帰りの料金が不足していると思ったことを思い出した。人に言っておきながら自分も同じとはバカげたことだ。これも,アメリカ人のようだった。
 自動改札の横には,係員のいるブースがあって,ここでお金を払えばチャージしてくれる。機械化しても,結局は,人間のほうが要領がよいのである。私は。20ドル紙幣を出して,メトロカードにチャージをしてもらい,今度は何なく自動改札を通ってホームに出た。

 ホームには地下鉄が停まっていて,ほどほどの混雑であったが,その列車に乗り込んだ。列車の中には,1組の日本人家族がいた。私は,未だ,興奮さめやらなかったので,その家族に「すばらしい試合でしたね」と話しかけた。
 聞くところによれば,観光でニューヨークに来て,こちらで松井選手の引退セレモニーがあると知って試合を見にきたのだそうだ。彼らは,松井とイチローは知っていても,それ以外のことは皆無であった。だから,ジーター選手もリベラ選手も知らなかった。
 見たくて仕方がないのに見る機会がない人もたくさんいるのに,それほどの想い入れがなくても,偶然こういう試合を見てしまう人がいる…。世の中はそんなもんだ。
 出発調整でしばらくホームに停車していたが,列車は出発して,一路,マンハッタンを南下していった。その家族は途中で下車した。

 今日のこのあとの予定は,ニューヨークの夜景をブルックリンハイツから眺めることであった。
 私は,前回に来たときにも夜景ツアーというのに参加して,そのときは,ブルックッリンビレッジの対岸からのマンハッタンの夜景も見たし,エンパイヤステートビルの最上段から深夜のマンハッタンの夜景も見たので,別に,今回見られても見られなくてもよかったのだけれど,この日は試合後の予定がなかったので,現地の日本人観光客相手のツアーに参加したのであった。偶然,朝,ゴスペルツアーに参加した若者も私と同じ日程であった。
 試合終了後,夜景ツアーには,まだずいぶんと時間があったので,ブロードウェイを散歩して,日本料理を食べることにした。
 思えば,わずか1日前,ブルックリンでさまよっていたのがずいぶんと前のことのように感じた。この日の私は,東京ドームでプロ野球をみて,渋谷で夕食を食べようと道玄坂を歩いているのとさほどの違いはなかった。違いといえば,人の多さ(なんたって,東京のほうが人は圧倒的に多い)と風紀の悪さ(東京のほうが不気味である),そして,観光客相手のパフォーマンス(ニューヨークのほうがはるかに楽しい)であった。

 5番街は,いつ来ても華やかである。観光名所の周りは,観光客でごった返している。セントラルパークには観光用の馬車が人待ちをしている。路上の物売りがいろんなものを売っている。何年も前から変わらぬ風景であったが,来るたびに,この街はきれいになっていく。
 ただし,ティファニーの前は,ずっと昔から同じであった。
 かつて,好景気のころは,5番街は,星条旗が自信満々にあらゆるビルにはためいていた。
 そして,今回,アメリカはリーマンショックの不況から脱して,再び加速をはじめたように見えた。
 目についたのは,ユニクロの店舗であった。
 私は,52丁目を通り過ぎ,ブロードウェイまで南下して,そのまま,日本食が食べられる店を探した。ブロードウェイに,日本食の食べられる店を見つけた。ラーメンやらカツ定食やらの懐かしいにおいがした。客の多くはコリアンとチャイニーズとそれに白人で,ほとんど日本人はいなかった。店に入ると,なまりのあるアクセントで「いらっしゃいませ~」と言われた。厨房には,多くの日本人が働いていた。

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 試合は,だらだらと後半戦に入った。依然として,この日6番を打っているイチローだけが,好き勝手にヒットを打っていた。
 今年は,こんな試合ばかりなのだろう。私は,マリアノ・リベラ投手の姿を見たかったが,それも期待できなかった。隣の男性も,リベラ? きょうは出てこないでしょう,と言った。
 日本からわざわざMLBを見に行っても,なかなかお目当ての選手を見ることは難しいのである。それでも,先発投手なら,連続して5試合くらい見れば,その夢はかなうし,往年のイチローなら,ほぼ毎日出場していた。しかし,押さえの投手を見るのは,運だけなのだ。私は,これを書きながら,なんとか上原投手を見たいものだと思っているのだが,はたしてこの夢はかなうのだろうか。
 そして,8回に,彼らは帰っていった。彼らは,松井の引退セレモニーが見られれば,それで,この日の目的は達成できたのであろう。

 ところが,この日の試合は,このままでは終わらなかったのだった。
 なんと,5対5の同点にもかかわらず,9回の表に,マリアノ・リベラ投手が出てきた。私は,興奮した。
 以前,クリーブランドでヤンキースの試合を見たとき,彼は結局登板したのだが,私は,あまりに一方的な試合で,途中で帰ってしまい,見損ねた。それ以来のトラウマであった。しかも,彼は,今年で引退を表明していたので,このころは,出る試合出る試合,さよなら興行化していた。観客の熱狂は最高潮に達した。この国に住んでいたって,ほとんどの観客は私と同じで,そうそう,リベラ投手を見る機会などないのであろう。
 このMLB史上最後の背番号42を背にしたリベラ投手は,いつものテーマで現れ,いつものようにカッターを投げ,三者凡退でマウンドを後にした。そして,9回裏,7月26日にトレードでヤンキースに復帰したばかりのかつて日本の広島カープに所属していたアルフォンソ・ソリアーニ選手がサヨナラ・ホームランを打って,ヤンキースは劇的な勝利を得た。

 ヤンキースタジアムでは,試合が終わった瞬間から,球場全体に,フランク・シナトラが歌う「ニューヨーク・ニューヨーク」がかかる。私は,小説に書いても出来過ぎなこの試合の余韻に浸りながら,ずっと,スタンドからグランドを見ていた。
 大型のビジョンには,松井選手のセレモニーからこの試合のハイライトが放映されていたが,やがて,アルフォンソ・ソリアーニ選手のヒーローインタビューが始まった。そして,恒例の,スポーツ飲料の入った大きなバケツがソリアーニ選手めがけてぶっかけられて,ずぶぬれになったところで,インタビューは終了した。
 名残惜しくスタジアムを後に,外に出ると,日本のテレビ朝日がインタビューをしていたのに遭遇した。インタビュアーが私にマイクを向けた。このインタビューは,松井選手が,ここニューヨークでどのように見られているかということを聞きたかったのであるが,私は,この劇的な試合を見たあとで興奮しきっていて,試合のコメントを大声で話していた。
 ヤンキースタジアムの周辺は,昔のくすんだ状態とはまったく違って,きれいに整備されていて,旧のヤンキースタジアムのあった場所は,広いグランドに整備されていた。その向こうには,フェリーの乗り場があるので,多くの人がそちらに向かって歩いていった。私は,地下鉄で帰るので,それとは反対側の地下鉄の乗り場に向かって歩いて行った。

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 やがて試合がはじまった。
 はじめは,ニューヨークの新しいヤンキースタジアムで試合が見られればそれでいいと思っていた。それが,偶然,松井選手の引退セレモニーと重なった。うれしさ半分,これで多くの日本人が押しかけるだろうという懸念が半分であった。しかし,私が思っていたほどの日本人はいなかった。特に,旅行者はほとんどいなくて,その多くは,現地在住の日本人であった。

 ところが,この試合は,この年のヤンキースの試合の中でも,十指に入る好ゲームとなった。これほどの試合を見ることは今後もできないであろう。
 まず,イチロー選手が4打数4安打であった。そして,昨日まで故障者リストに入っていたジーター選手がこの試合から復帰した。それだけでなく,いきなり最初の打席でホームランを打った。
 これで,もし,黒田投手が投げていれば,申し分なかったが,これは,次の機会にとっておこう。
  ・・
 私は,この年の旅行で,ほとんど思い残すことはなくなったが,しいてあげれば,上原投手を見損ねたことと,黒田投手が見られなかったことであろうか。
 将来,私は,ダルビッシュ投手と青木選手は,ぜひ,アメリカで見てみたいと思っている。

 さて,試合は,せっかくジーター選手がホームランを打って,ムードを引き寄せ,初回に3点を取ったのに,フィル・フューズという先発投手がだらしなく,5回の表に1点を取られて同点になってしまった。
 言い忘れていたが,相手は,昨日と同じタンパベイ・レイズであった。ボストンで試合を見たときもレッドソックスの相手はタンパベイ・レイズであった。私は,この旅で,レイズとともに行動をしているようだった。
 試合は,中だるみになって,この年の,弱いヤンキースそのものになった。見ていて,ヤンキースは,これほど打てないのかと思った。なにせ,ジーター選手とこの日絶好調のイチロー選手,それ以外には,カノー選手くらいしか,期待の持てる選手が打線にはいない。これでは勝てない。

 隣に座った日本人の男性と話が弾んだ。
 アメリカ人は,子供のまま大きくなったようなものだ,と彼は言った。この表現は当たっていると私は思った。そう考えると,アメリカ人のすべての行動が理解できる。
 アメリカ人は,人を仕切りたがり,腹が立てば顔に出し,欲しいものは,我慢できずに手に入れる。ようするに単純なのだ。わかりやすい。だから,前にも書いたが,野球場に集まった5万人近い観衆は,小学生そのものなのである。しかし,先生が引率していないだけたちが悪い。売り子が来て,たいしたものでなくても,彼らは買う。売店にある,しょうもない品物でも喜んで買う。それも,かれらの収入に比べれば途方もなく高い。私は,この,ヤンキースタジアムなんて,特に,何物もやたらと高いのに,どうして,彼らがこうも散在できるのか不思議であった。
 アメリカには想像つかない大金持ちがたくさんいるが,彼らは,このスタジアムでも年間予約席の革張りのシートに陣取って,彼らしか使えないレストランで食事をし,野球を楽しんでいるから,一般席をうろついているアメリカ人は,標準的な日本人よりも収入が低いはずだ。
 どうやら,彼らは明日のことなんて考えていないらしい。
 私は,こんなことで,彼らの老後とか医療はどうなるのであろうか,と心配になったが,そのあたりのことは,よくわからない。とにかく言える事は,ジャンクフードをよく食べ,よく飲み,騒ぐ。この国には,やたらと楽しいことがあるから,よほどの自己管理ができなければ,仕事をする時間などないし,体だけは,どんどんと太っていく。しかも,ここは東海岸だからまだマシで,西海岸に住んでいたら,時差の関係で,夕方の4時から夜中までどこかでずっと野球をやっているから,こんなものを好きになると,毎日が大変なことになる。
  ・・
 この国とつき合うということは,たとえれば,アメリカがドラえもんのジャイアみたいなもので日本はのびたくんみたいなものだと思えばよい。違うのは,ドラえもんがいないということである。ところが,日本人は,アメリカをドラえもんだと思っているから,話がややこしくなるのである。

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 この日の試合は,事前にチケットを予約しておいたので,昨日よりも1階下の見やすい席であった。日本の球場にたとえれば,1塁側の外野近くの3階席である。それでも,ここでは10,000円位する。これ以上の席は年間予約席で,正規の入手は困難であろう。
 隣の席は,私より少し若い日本人であった。奥さんと息子さんが2人の家族4人連れであった。話をしてみると,アメリカ在住の日本の人であった。いろんな話を聞くことができてとても楽しかった。
 彼は,アメリカから見ると日本は存在感が薄れ,元気がないと言っていた。日本製品は品質がいいのだからもっと自信を持つといい,と言っていた。息子さんたちは,日本で就職するかどうかという時期であるらしく,それなりに大変そうであった。

 私も若いころは海外に住むことに憧れたけれども,好むと好まざるとにかかわらず,日本人として生まれてしまえば,他国に住むということは,それなりに大変なこともあるし,歳をとった私は,これだけ便利になってしまうと,別に,アメリカに住まなくても,ときどき旅行すればそれで十分だと安易に思うようになってきた。ニューヨークなど,行こうと思えば,毎週でも行ける。

 まだ,試合開始にはずいぶんと時間があったので,モニュメントパークと博物館に行ってきたら,と言われて,そこへ行くことにした。モニュメントパークのほうは,長蛇の列ができていて,とても試合開始に間にあいそうになかった。なにせ,きょうは,松井選手のスペシャルデーで,なんらかのセレモニーがあるから,それを見逃す手はない。モニュメントパークは,次回来たときにも行くことができる。このモニュメントパークは,試合がはじまってしまえば閉鎖されるので,もし,行きたければ,開門と同時にそこを目指すべきである。
 博物館のほうは,問題なく入ることができた。私は,すでに,クーパーズタウンの野球殿堂と博物館に行った後だったので,大して広くもなこの博物館は,期待以下であった。天下のヤンキースタジアムなのだから,もっとすごいのを作ってもいいではないかと思った。

 やがて,試合開始前のセレモニーがはじまった。
 大きなビジョンに現役時代の松井選手のビデオが放映されはじめた。ホームプレート付近には,松井選手のご両親が姿を見せていた。やがて,本物の松井選手が,手を振りながら,オープンカーで登場した。ホームプレート付近で,なになら表彰がはじまった。私が思っていたよりも,観客席は沸きあがって,松井という選手がヤンキースで非常に愛されていたということがわかった。
 このチームは,勝利優先で,活躍ができなくなると,ベーブルースであってもトレードされてしまう。松井選手も,ワールドシリーズでMVPを取った翌年にトレードされてしまったので,これほどの声援があるというのは,私には驚きであった。

 伊良部投手もそうであったが,今年メジャーリーグに挑戦する田中投手は,以前にも書いたが,ヤンキースにだけは行かないほうがいいと,私は思っていた。彼は,ドジャースに行くべきであった。
 シアトルで長くプレイをして,晩年にトレードされたイチロー選手は,引退後,このチームでどういった待遇をされるのかが気になる。なんとなく,どっちつかずのよう感じであるし,シアトルは,ケングリフィーJr.の引退や,ダイヤモンドバックスにトレードされたランディージョンソンのように,引退後にそのチームに貢献した選手を冷遇するようなところがあるので,ひょっとしたら,51を永久欠番することすら期待できないかもしれない。イチローはヤンキースでは松井のように活躍したわけでもないし,シアトルで優勝に貢献したわけでもない。

 セレモニーは,あっという間に終わったが,多くのヤンキースの有名選手に囲まれて,松井選手はベンチに姿を消した。その中には,イチロー選手はいなかった。その気持ちはわかる。だって,松井選手が活躍したときにはイチロー選手はいなかったわけだし…。しかし,無邪気に出てきて祝福しても悪くはない,と私は思うのだが,彼の矜持では,そういうことは絶対にできない。
 やがて,試合がはじまり,始球式(ファーストピッチ)で,再び,松井選手が姿を現した。
 このファーストピッチをやるだろうとは思っていたが,現地で見ていたときには,情報がなく,実際に姿を見せるまで私は半信半疑であった。
  ・・
 ところで,このメジャーリーグのファーストピッチをマウンドで行うようになったのは,近年のことである。もともと,こういった始球式は,日本で行われていた。アメリカでは,ベンチの上からフィールドにボールを投げ入れる形であった。きっと,若い人は知らないと思うが,この現在の形の始球式は,日本から逆輸入したものなのである。

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 さあ,ゴスペルも予定通り終了して,次は,ヤンキースタジアムである。
 なにせ,松井秀喜選手のバブルヘッドは先着15,000人である。ヤンキースはケチである。このあとロサンゼルス・ドジャースが野茂のバブルヘッドを配ったが,それは50,000人であった。
 私はヤンキースに移籍したイチロー選手に何とかしてワールドチャンピオンになってほしいので,にわかヤンキースファンになっていたが,やはり,ヤンキースは,好かない。球場の入場料は高く,金持ちと一般人の待遇が目に見えて違う。
 私は,この夏の旅行で,ボストンのフェンウェイパークとニューヨークのヤンキースタジアムに行ったけれども,やはり,庶民にはレッドソックスである。
  ・・
 とはいえ,そんなことを言っていても,今はバブルヘッドを手に入れるために,急いで並ばなくてはならない。
 私は,参加していたゴスペルのツアーのコンダクタにお願いして,地下鉄4番ラインの86ストリート近くで降ろしてもらった。メトロポリタン美術館を横目に,私は,急いで地下鉄に乗った。

 地下鉄は,ヤンキースタジアムを目指す人たちで満員であった。
 昨日,きょう雨だといけないので急遽ヤンキースタジアムで試合を見たのだが,幸い今のところ雨の気配はなかった。天気予報では,次第に雨模様ということであったが,この調子なら試合はできる。昨日の車内とは雰囲気が全く違っていた。
 私は,昨日にヤンキースタジアムに来る予習が済んでいるので,余裕で地下鉄に乗っていた。
 思ったほど,というか,ほとんど日本人は見当たらなかった。きっと,ツアーでは,地下鉄なんて利用しないのであろう。こうして,旅行者が個人で来ることも,あまりないのであろうと思った。

 161ストリート駅を降りた。すでに,どのゲートも長蛇の列であった。
 私も,すぐにその列に並びたかったのだが,まず,WillCallでチケットを引き換えなくてはならなかった。
 ボストン・レッドソックスは,インターネットでチケットを購入すると,家庭のプリンタで印刷してそれで入場できる。しかし,ヤンキースタジアムでは,現地のWillCallでチケットに引き換えなくてはならないので,そのままでは入場ゲートに並ぶことができなかった。
 だから,昨日,野球を見た帰りに,明日のチケットをWillCallで手に入れようと思って,昨日の試合の終了時に聞いたのだが,試合がはじまると,WillCallは店じまいなのだという。これもアメリカらしいじゃあないか! しかも,WillCallが開くのは開門の時間だという。

 すでにWillCallにも長陀の列ができていた。もしこれでチケットを引き換えている間に15,000人が過ぎてしまったら,困ったことではないか。本当に,ヤンキースが嫌いになった。これがわざわざ日本から来た客に対する態度か,と感じた。くたばれヤンキースだ,とそのとき思った。
 そうこうしているうちに,予定よりも早くWillCallが開いた。どんどんと列がさばけていって,すぐに私の番になった。WillCallの窓口は,チケットを予約したときに登録したクレジットカードを出すだけで,機械がそれを読み取って,あっけなくチケットを発券した。それはそれですごい話だった。
 そんなふうにして,予想よりも早くチケットを手に入れた私は,ヤンキースタジアムの4番ゲートに並んだ。

 4番ゲートはヤンキースタジアムの正面ゲートである。通称,ルーゲーリック・ゲートという。ここから入場するのがツウというものである。
 ここも当然長い列ができていたが,私は前にいた夫婦づれに,このあたりで15,000人は大丈夫なのかと聞いた。正面玄関に並んでいて手に入らないはずはないではないか,という答えが返ってきた。さすがにアメリカ人,楽観的であった。
 そのあともどんどんと客は増えてきて,日本人らきし人々もちらほら見えるようにはなったが,予想したほどの数ではなかった。
 私の後ろに日本人の若い女性がいた。
 彼女はこちらに住む留学生だと言った。以前書いた「私,人とは違うわよ」といったタイプの女性であった。いわゆるプライドが服を着た生意気女だ。私が日本人だと知っていながら英語で話しかけてくる。どうして,私が日本人相手に英語を話さなくてはならないのだと,少しムッとした。今日の私はなぜか機嫌が悪い…。いまどき,英語が話せるくらいでは自慢にもならない。あの女がどんな身分なのかは知らないが,生意気なやつであることは疑いのないことであった。本当に能力の高い人物はもっと謙虚である。
 しばらく並んでいたら,列が動き出し,やがて,球場の入口に来た。セキュリティチェックで,彼女が持っていたソフトドリンクのペットボトルが没収された。いい気味だ,と思った。
  ・・
 入口で,簡単なセキュリティチェックを通って,難なくバブルヘッド人形をもらって,中に入ることができた。スタジアムのコンコースを通って,別の入口にまわって,もらい忘れたと言ってもう一個手に入れようと画策したが,失敗した。アメリカも,思ったほどいい加減ではない。今日の私は,なぜか悪人である…。
 続々と入場して,やがて,15,000人に迫ろうとしたときには,バブルヘッド人形を取り合っていたというかいう話を,後で聞いた。
 私は,無事に人形もゲットして,自分の座席に着くことができた。

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 次に,グラント将軍の墓で下車した。このあたりは,非常に交通量の多いところで,交通整理のおじさんも忙しそうであった。われわれは時間を決めて一時駐車をして見学した。
 グラント将軍は,アメリカ真の英雄である。
 南北戦争では北軍の将軍として勝利し,その後は大統領を2期つとめた。その後,奥さんと2年あまりの世界周遊の旅に出て長崎に訪日し,参内して天皇にも挨拶した。ニューヨークに戻るとウォール街の金融業で財を成した。
 多くの州から墓地の勧誘を受けたそうだが,奥さんと一緒のお墓に入ることを約束したニューヨークからの墓を貰うことに決めたという愛妻家であった。ふたつ棺が並んでいる。
 その後,コロンビア大学やその近くにあるセント・ジョン・デバイン大聖堂,イチロー選手の住んでいるというマンションをバスで見てツアーは終了した。 

 コロンビア大学は,あまりにも有名なマンハッタンにある私立総合大学。アメリカで5番目に古い大学で,アイビー・リーグの一校である。
 実務大学としては経済,法科,医学は世界トップクラス。また,研究大学としても有名で,海外から多くの研究者や留学生が集まっている。
 セント・ジョン・デバイン大聖堂は世界最大級のゴシック建築で有名な教会。
 ゴシック建築とは,中世ヨーロッパの建築様式のことで尖った屋根とアーチ状が特徴。この教会はとても大きく,自由の女神もすぽっと入るほどである。
 この教会は、1892年に建設がはじまって,すでに100年以上が経つのだが,1941年に建設が中断し,再び建設をはじめたのが1978年であり,未だに未完成である。
 観光客が少なく,穴場的観光地である。
 イチロー選手の住むマンション「THE LAUREL」(400 East 67th Street New York, NY 10065)(1番下の写真)は,家賃が月320万円で,引っ越したときには,ニューヨークで話題になったそうである。イチロー選手の住んでいるマンションの近くでは,イチロー選手の奥さんが犬を連れて散歩しているのを見かけることがあるという話であった。

 このツアーでゴスペルの後に見学した場所は,以前来た時と同じコースで,とても懐かしかった。というか,ハーレムの見学コースというのはこれくらいのものなのであろう。
 ハーレムは,本当に安全なところになったなあ,というのが実感であった。
 案内の女性は,イーストハーレムに住んでいるという。イーストハーレムなんて,昔は立ち入るなと言われたところだが,このツアーを案内した女性は,このイーストハーレムに住んでいるのだ。
  ・・
 今回は,時間もなかったので,このツアーは有意義であった。
 私の読んだ別のブログに「ハーレムの移動は交通の便があまりよくはなく,また,この地域の情報は情報誌などでも非常に乏しいことから,危険を避けるという意味合いにおいても,ツアー参加がお勧めだと思う」と書いてあったが,私はそうは思わなかった。
 私には,昔のぶっそうなハーレムを思い出して,ここまで安全な観光地に変貌したことが驚きであった。ハーレムは地下鉄を使えばどこへも徒歩で行けるくらいの広さなのだから,ゴスペルも,観光も,別にツアーでなくても個人で気軽に来るくることができるようになったんだなあと思った。それに,自分で歩いて見なければ,結局は,ガイドブックを読んでいるのとさほど変わらない。今度来るときは,1日のんびりとハーレムを散策してみよう。

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 ゴスペルをやっていた教会を出て,バスに乗って,さらに北の125丁目のアポロ・シアターへ行った。
 ハーレムの125丁目は一番の繁華街である。アポロ・シアターは,1913年に設立されたアメリカで最も著名な,アフリカ系アメリカ人のミュージシャンと深いかかわりのある劇場である。毎年130万人が訪れるニューヨークの観光名所となっている。
 ここの劇場からマイケル・ジャクソン,ジャクソン5がデビューし,デューク・エリントン,ビリー・ホリデー,ジェームス・ブラウンなどが活躍した。
 毎週水曜日には「アマチュアナイト」というものが行われていて,観客の拍手で優勝者が決まり,勝ち抜いていくと全米に放映されるテレビに出演できるのだそうだ。反対にブーイングを浴びると箒で舞台からスィープされ,強制退場させられるということである。

 アポロ・シアターも,以前来た時に行ったことがあって,その時は,中に入ってアポロ・シアターの支配人と話をする機会があった。今回も,アポロ・シアターの前で写真を撮った。再びここにいるということが,なんだかとても不思議であった。
 その向かい側の建物には,ハーレムのピカソといわれるフランコさんという人が店舗のシャッターに描いた絵がたくさんあった。
 フランコさんは,ハーレムが退廃していたときに,こうして絵を描くことで,ハーレムの再興に一役買った有名な人物である。日曜日には,ここでフランコさんに会うこともあるということだが,残念ながら,私は会うことができなかった。

 そのあとは,バスの中からアレクサンダー・ハミルトン邸,ニューヨーク州立大学を通り,モリス・ジュメール邸で下車した。
 アレクサンダー・ハミルトンは,アメリカ独立時の英雄で,独立戦争時にはワシントン下の総司令官の副官を務め,独立後は,合衆国憲法の基準となるザ・フェデラリストを執筆した。
 ニューヨークのウォール街は世界金融の中心だが,それは,アメリカ独立後にウォール街が金融街に変貌したのがきっかけである。初代の財務長官に就任したのはこのアレグザンダー・ハミルトンで,彼は現在の連邦準備銀行の基礎を作った。また,ハミルトンは,ニューヨーク銀行も設立し成功を収めた。こうして,ウォール街はアメリカ金融の中心地となった。
 ハミルトンは,アーロン・バーと決闘して撃たれて死去,という豪快な人生だった。

 ニューヨーク州立大学の創設者は初代駐日公使として日米修好通商条約を締結したアメリカ外交官タウンゼント・ハリスである。歴史ある大学で,昼間にウォール街などで働いていて資格をとり,夜間のクラスを取る就労者が多いため,夜間のハーバードともいわれる。
 建物は、地下鉄を掘った際に採掘された石灰岩など作られた大変重層な建造物である。
 モリス・ジュメール邸は,1765年,英国陸軍中佐ロジャー・モリスの別荘としてワシントン・ハイツの高台に建てられた,ジョージア様式の建築物である。
 当時の面影を色濃く残す市のランドマークとして知られていて,独立戦争中にはワシントン陸軍大将の司令部として機能していた。その後,フランス移民のステファン・ジュメルが買い上げ,現在は,非営利団体によって博物館として運営されている。
 この建物のある高台からは,マンハッタンの景色が眺められ,昔は,ハーレムが高級住宅地であったことがしのばれた。この付近には,古い集合住宅があった。
 そういえば,前回来たときも,ここで写真を撮ったことを思い出した。
 しかしまあ,ここに来たのは2度目のことであるが,いずれもツアーで連れてきてもらったので,その場所がよくわからない。またここに行け,といわれても自分ひとりでは無理である。やはり,旅は,自分の力で歩きまわらなければいけないと強く思う。

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